狭山市に入り、智光山公園のところで鎌倉街道が二つに分かれます。
その一つBルートは、下図の赤くマーキングしているように進み、柏原に向かいます。
赤が鎌倉街道。緑のマーキングしてあるところが、訪ねたところ。
柏原を通って入間川にぶつかりますが、そのちょっと手前に「城山砦跡」があります。
この地図ではルートから離れて見えますが、現地の感じでは「城山砦跡」の横を通っていくくらいの感じです。
城山砦跡
ここは、畠山重忠に従った「柏原太郎」の館跡が最初だとみられます。柏原太郎は奥州藤原氏征伐の際に重忠従軍五騎のうちの一人。
次いで、足利基氏が文和2年(1353)から康安2年(1362)にかけて入間川に10年間滞陣(入間川御所)したときの出城の役目をした。
このころ、柏原には刀鍛冶、槍鍛冶が多く、その保護の役目もあった。
そして、このペーシ後述の「三ツ木原合戦」で北条に河越城を奪われた上杉朝定と、上野国平井城を本拠とする上杉憲政が今川義元、武田信玄と同盟を結んだ上で、
捲土重来河越城を奪還するため河越城を囲みます。そのとき天文14年(1545)9月から半年ちかくにわたり、上杉憲政がここに陣を敷きました。
結局、「河越夜戦」で北条が勝ち、関東は北条の支配するところとなった訳です。
それ以降、北条氏の砦となったため、発掘された遺構は、北条氏の城郭の特徴が確認されています。
「城山砦跡」の遺構図
柏原側の入り口(図でA地点)
手前の農道とか畑は、今は平地になっているが、発掘で「障子堀」であったことが確認されている。
これは北条の城郭に特有のもの。 入っていくと左手に空堀の後が確認できる。
本郭から二の郭を見たところ。 本郭
砦の下(B地点)から見たところ。 ここから上る道は険しく、こっちから攻めるのは大変。
九頭竜大権現の石碑
鎌倉街道に戻って、入間川に向かいます。対岸にある「九頭竜大権現の石碑」のあたりで、入間川を渡ったようです。
その位置で、入間川の川辺に立ってみました。正面中央の道端に「九頭竜大権現の石碑」があります。
下流の眺め。見えている白い橋は、かっては木橋で増水でよく流されていました。
川を渡って探します。 右手の暗がりに「九頭竜大権現の石碑」があります。この道が鎌倉街道と考えられます。この道を、民家があるところを辿っていくと、「新狭山駅」の横に出ます。
この場所は現在まったく利用されていないため、「九頭竜大権現の石碑」を見つけるのに苦労しました(汗) 横に辛うじて「馬頭観音」とわかる石碑もあった。
三ツ木原古戦場跡
新狭山駅」の横を通り過ぎてすぐの公園に三ツ木原古戦場跡の碑があります。
ここは天文6年(1537)に北条氏綱と上杉朝定が戦ったところです。
北条氏は氏綱の父北条早雲が小田原を制圧してから台頭し、相模国(神奈川県)を手中に収めると武蔵国への侵出を図るようになりました。それまで支配していた関東管領の上杉氏と激突することになったわけです。
大永4年(1524)に江戸城攻防戦で北条氏綱は上杉朝興に勝ち、岩付城(さいたま市)も攻略、上杉朝興が逃れた河越城に狙いを定めます。
上杉朝興の家督を継いだ朝定が北条氏打倒を誓い、ここで戦ったわけです。
「鎌倉九代後記」、「北条記」や「河越記」といった軍記物によると、双方の軍勢は北条方が数千、上杉形は二千騎とあります。
結果は北条方の勝利となり、河越城も北条氏のものとなります。
その後、上杉朝定と上杉憲政が捲土重来河越城を奪還するため、天文14年(1545)9月から半年ちかくにわたり、河越城を包囲しますが、結局「河越夜戦」で北条が勝ち、関東は北条の支配するところとなった訳です。
道路をはさんで三ツ木原古戦場跡碑の反対側は、ホンダの大きな工場です。自動車の国内生産を一手に引き受けている工場(軽は鈴鹿ですが)です。
鎌倉街道旧道
三ツ木原古戦場跡の横を進んでいき、鎌倉街道は東三ツ木交差点で河越城からの道と合流して、堀兼のほうに向かいます。
その途中、ほんのちょっとですが鎌倉街道の旧道が残っています。
坂を上るのに、普通の生活から自然に生まれた道は坂に対して斜めに出来るのですが、ここは切通しで真っ直ぐ坂を上がれるようにしています。馬を早く駆けさせることができるようにしたわけです。
坂を上がったところで、今の道は左に折れて畑に入っていきますが、鎌倉街道は直進していました。
その位置にあたる林に入ってみました。発掘調査で、この腐葉土の下に踏み固められた地面があることが確認されています。
この林の先は、民家、畑などがありしばらくは鎌倉街道は埋もれてしまっています。
権現橋・堀兼新田
街道は権現橋で不老川(としとらずがわ)を渡ります。
橋の名前の由来は、橋のたもとに子の権現が祀られているからです。飯能市の子の権現と関わりを持つもので、足の病に霊験あらたかであると伝えられている。
ここには、月待供養塔、馬頭観音、地蔵菩薩も一緒に祀られています。
この石仏群の基礎や囲いに使用している石は、現在のコンクリートの権現橋の前身、石橋に使用されていた石材であり、記念に残しているものです。
月待供養塔 馬頭観音 子の権現 地蔵菩薩
月待とは、十三夜、十五夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に信者が集まり、月の出を待ってこれを拝む行事で、ここにあるのは勢至菩薩を主尊としています。
願主・施主16名の名前が刻まれているのは普通ですが、裏面に何の意味かわかりませんが、入間・高麗の両郡にまたがる120か村の名前が刻まれているのが珍しい。
ここにある馬頭観音は、銘文からして、道路沿いによくある馬の供養塔ではなくて、馬頭観音に現当二世安楽の願いを託す本来の信仰の姿を示すものです。
不老川は、水の少ないこの辺では貴重な水源ですが、湧き水を集めて流れる川のため、冬場は涸れて流れなくなります。正月には水が無くなってしまうため「としとらずがわ」と呼ばれた。
現在でも、いま11月の中旬ですが、このように水が少なくなっています。
堀兼の新田開発
権現橋のあたりから堀兼神社にかけては、江戸時代に行われた堀兼新田開発のところです。新田といっても畑ですが。
この辺は富士山の火山灰である関東ローム層が厚く堆積していて、飲料水でさえも確保が困難なため、広大な荒野でした。もちろん人も住んでいなかった。
ここを開発したのは川越藩主であり、老中であった「知恵伊豆」で有名な松平伊豆守信綱です。堀兼から川越の今福にかけて開発し、藩の財政を少しでも豊かにしようと取り組んだのです。
開発の責任者、引受人にふさわしい人材を発掘して組織的に進めた。当然入植したのは二男、三男です。
入植者に藩から与えられた土地は間口が36m、奥行きが830mの3町歩というから驚きです。現在の我々が聞くとのけぞってしまいますよね(笑)
西武新宿線沿線ですからね。
ただし、開拓は相当な苦労です。鋤、鍬くらいでろくな道具が無かった時代ですから。
短冊形に整然と区画されています。真ん中に農道を取って両側に17m幅の畑が600m~700mくらい家の前にあって、家の後ろには屋敷林をたっぷりと。
屋敷林には落葉樹を植えて、燃料に、落ち葉は堆肥にして、燃やした灰は土壌改良に。
いまでも、その形がそのまま残っています。
この辺の史跡めぐりの時に、驚きの説明がありました。
畑から出て来る石がみんな丸々としていて、川の石なんです。しかも入間川水系では見られない、多摩川水系特有の石が出てくるので、大昔は多摩川がこの辺を流れていたことが確かだと。
現在の多摩川は青梅から流れを変えて、東京を通って羽田で東京湾に流れ込んでいますが、大昔はこっちを流れていたんですね。
堀兼神社
堀兼神社の祭神は木花咲耶姫命で、古くは浅間(せんげん)神社と称していました。社伝によると日本武尊が東征のおり、水が無くて苦しむ住民を救うため富士山を拝んで井戸を掘り、ようやくのことで水を得ることができた際に祀ったとされている。
しかし、この地は江戸時代に新田として開発されるまでまったく人の住んだ形跡が無い事実と照らし合わせると、創建の時期は江戸時代まで下ると判断されている。
神社の形式は、富士吉田の浅間神社を模して造られています。
随身門
寺院の仁王門にあたり、神社を守護する門守神を安置した神門です。向かって右に「左大臣」、左に「矢大臣」を安置しています。
本殿
境内に見事な木が二本ありました。
堀兼の井
堀兼神社の境内に「堀兼の井」があります。武蔵野の枕詞に使われた「ほりかねの井」の一つ。
富士山の噴火灰により形成された厚い「関東ローム層」のため、堀りにくく、すり鉢状に掘った井戸である。
「ほりかねる井」、「掘るのが難しい井」から生まれた言葉。
文献や史料に出てくる「ほりかねの井」
・伊勢(9世紀末の人物)が詠んだ歌
「いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶そ深さまされる」
・清少納言の『枕草子』
「井はほりかねの井、玉の井、走り井は逢坂なるがをかしきなり、山の井、などさしも浅きためしになりはじめけん、
飛鳥井は“みもひもさむし”とほめたるこそをかしけれ、千貫の井、少将の井、桜井、后町(きさきまち)の井」
⇒全国に点在する名井の第1位に「ほりかねの井」を挙げています。
・藤原俊成が詠んだ歌
「武蔵野の堀かねの井もあるものを嬉しく水の近づきにけり」
⇒『千載和歌集』に所載。「ほりかねの井」が武蔵野に所在することを最初に詠んだ歌。
その他に、堀兼の井にあった説明版にはこの歌も紹介されていた。
源俊頼(俊頼集) 「あさからす思へはこそはほのめかせ 堀金の井のつつましき身を」
西行法師(山家集) 「くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを」
慈円(拾玉集) 「いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん」
当時、このあたりには人は住んでいなかったのに、何故井戸が掘られたかと言うと、
『延書式』(延長5年(927)に完成した律令の施行細則)の巻50・雑式に、「凡諸国駅路辺植果樹、令往還人得休息、若無水処、量便掘井」とある。
「駅路」には果樹を植え、人が休息できるようにし、水の無いところは井戸を掘りなさい、というわけです。
堀兼の井の由来を記した説明 川越藩が立てた堀兼の井の説明
堀兼の井
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