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遠くの日記

空想科学的放浪記。日々の「遠い」感じとの出会い。


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2007年11月17日(土) 

『電脳コイル』(アニメーション作品/NHK)について書く。

 まずタイトルからしてずいぶんトリッキーだ。電脳はコンピュータ、コイルは電気回路の部品と、のっけから観る者を勘違いさせる、ここから既に仕掛けが始まっている。絵柄も、おたく属性の人間に容易に摂取可能、了解可能な『攻殻機動隊』、『鋼の錬金術師』、NHKだしちょっと『未来少年コナン』っぽい所もあるかなという感じで、ここで若干違和感に気がつくとすれば、『学校の怪談』的なお化け屋敷っぽいホラー感覚あり、『新世紀エヴァンゲリオン』のような謎解き構造あり、あとは”おなじみ”の見慣れたアニメと受け流す事すら出来る。
 しかし表面上の”擬態”で安心させられてしまうのが作り手の罠となっているのが小憎らしい。実際、過去の映像作品で最も近いのは、たぶん実は『パラサイト・イブ』か『らせん』だろうし、数話ハマればすぐわかるが情報量が多く相当重い。物語の終了後も作り手の本当の想いが明らかになるまで、放送後の数年間は楽しめそうだ。

 現在放映中のラスト数話を見つつ、最初の頃の話を思い出せば、最初から分子生物学や生命科学の方面のネタが丁寧に仕込まれている。この点からも”コイル”は電線巻いたのじゃなくて『らせん』の方ので。
 クライマックスに向けて「ああ、今週もやられた!」感の強いコンボ(連続攻撃)が続いていて、「何故これをNHKで放送するの?」から次第に、「NHK以外ありえない!」へと、非常に強きの攻めで納得させられてしまうのも結構心地よい。確かに近未来に生きる人々へのメッセージを込めた「教育番組」になっている。するとNHK教育で放映する事すらも仕掛けの一部だったのですね。

 恐怖シーンがゲームの『バイオハザード』に似ている、というのも、生物汚染事故の発生後のラクーン・シティと、『電脳コイル』の舞台の大黒市の電脳事故(?)とを比較すれば、絵柄からの予感が的を射すぎる形になるのも大変面白い。その通りと当てはめるのには無理があるが、つまりヤサコがジル役でメガマスがアンブレラ製薬だったのである。
 『電脳コイル』の用語の謎解きページは既にネットのそこらじゅうに存在してるだろうが、今回の作り手の意図には、1つの用語が2つ以上の意味を持つ、言葉の魔法の「深さ」、非常に左脳に偏ったダブルミーニングいわゆる「ダジャレ」の面白さを伝えたい、という気持ちが豊富に含まれているように思う。作品中には出てこないが、例えば「プラズマ」という用語は、物理学なら大槻教授で有名な「電離気体」だが、生物学なら細胞の中の「原形質」、医学なら「血漿」の意味になる。これと同様に「コイル」や「ドメイン」が、コンピュータシステムと生物学の「はざま」で、それぞれどのような意味になっていたのか、本作品はこれを追いかけつつ観てみよう。
 余計な心配だが、将来的に英語圏にこの作品が放映されるならば、例えば「暗号」の英訳が「code」になるだろうし、また別の単語の意味から踏まえたシナリオを再構築せねばならない事が明らかで、イチ視聴者側としてはそれを想像すると気が遠くなる。たぶん例の「室長」のギャグさえ種明かしなので、他の国の言語では大変であろう。タモリ倶楽部(テレビ朝日)の「空耳アワー」ではないが、「日本人として生まれた喜びを感じるね(偶然日本語に聴こえる英語のギャグがわかるから)」という趣旨で楽しみたい。もちろん将来的には英語版も(ギャグはわからんだろうが)観たいですよ。

 細胞が減数分裂を起こす(二重にずれる)、その際のヒト染色体の数を思わせる「23」や「22」の数字(”対となるもののうちの半分”の象徴か)が繰り返される、ミスリードや想定外のフロシキの広げ方はあちこち楽しい。もちろんヤサコとイサコも、たくさん出てくる対を成す一要素であろう。(そうじゃなくて4423とかはカバラの数秘術の方面?)。神社の「参道」(通路)は「産道」を思わせ直球すぎて少々困るビジュアルになっている。「イリーガル」はこの文脈からは「半数体」属性であろうから、そりゃ奴らが「ちょうだい…ちょうだい…」と幽霊のように近づいてくるのは、おまいら「二倍体」になろうとしてんじゃねーか、というシーンで、なんとNHK的に寸止めエロ表現であることか。『バイオハザード』というよりは映画『デモン・シード』(1977年・米)だったのか。映画『マタンゴ』っぽいのも懐かしい。

 そして終盤、「うわさ」というキーワードから速攻で思い出されるあの物語、『ノーライフキング』(いとうせいこう著・1988年)に、とうとう合流し始めたようにも見える。死のテレビゲーム、ネットワークを行き交う”ウワサ”に翻弄される子供たち、と、その物語構造こそ、確かに誰かが二十一世紀にこそひっぱりだすべきものだったわけで、個人的にはやるやるとは予感していたが、まさかここまでと本当に驚いた。こうしてみると、『ノーライフキング』はネットや携帯電話の普及前の”早すぎた作品”だったのかもしれない。しかも当時の映画化作品(市川準監督)が、何故かオチが活字とまったく別(逆)で異界からの「家族への帰還」が描かれ、いとう氏が活字で描いた異形の「リアル」には及ばないものだった(映画はちょうど『電脳コイル』の「メガネを捨てる子供たち」の所でぶっつり終わっちまってる感じ)。もっとも、映画の中で子供たちが使っているパソコンがX68000だった事を思い出しても、これは技術的にも世代的にも、映画の観客のターゲット考えても、当時のオチの改変は仕方が無い事だったのだろう。しかし、あの当時の不満感やその後に続いたかもしれない物語を、二十年近く経って別の作品で突然丁寧に再現(解決?)されたりすると、もう私もうろうろとうろたえるしかない。いとう氏流のボディーブローのような80年代の「リアル」というキーワードではなく、「本当」とは「胸の痛み」とさらりと表現されるところには、正直ホロリとした。

 もうひとつ仕掛けとしか思えないのは、『電脳コイル』はテーマ曲の雰囲気やメロディがNHKが1972年に放映した『続・タイム・トラベラー』(『時をかける少女』のドラマ版)にちょいと似ている事だ。放送時間帯が夕方のSF作品、CM無し、というのも、昔を知ってる側の自分からみても、奇跡的にうまい所をねらわれた感がある。仮にこれが別のテーマ曲で朝に放送されていたら全然雰囲気が違ったものになっていただろう、大変有難い放送の舞台立てだった。これらは子供といっしょに観てしまった古いSF者や親の世代の随伴視聴率やハマり度にも大きく影響したであろう。

 『電脳コイル』という、今の十歳未満の子供たちが二十年後に確かに思い出せる作品を全国的に提供するという技は、確かにNHKらしいといえば、らしいのである。