西暦

月日

元号

出来事

出典

1659

万治2年

この年に焼火山縁起(漢文体)が書かれている

島前の文化財

1659

万治2年

「出雲枕木山縁起書」に「当山草創ハ智元上人ナリ。初メ美田ノ源太ト号ス。王氏ヨリ遠カラズ。曽テ故有ツテ隠岐国ニ放逐セラレ云々(略)枕木山ニ安置ノ三尊ノ内薬師仏ノ左膝ガ折レテ安定シナイノデ源太ガ童児ノ時カラ老ニ至ルマデ肌身離サズ持ツテイタ枕ヲ当テテオイタ処、コノ枕化シテ膝トナル」

出雲枕木山縁起書

1659

縁起書萬治貳年秋八月

【焼火神社縁起書桐箱入】

1661

寛文元年

京都智積院住職出入につき罪を得たる僧存識、ジン盛、尊与隠岐に配流、島後周吉郡護国寺に到着す、存識は寛文二年、ジン盛は同六年、尊与は同九年夫々卒

新修島根県史(年表篇)

1661

607

寛文元年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1663

寛文3年

隠岐国に六尺給米(付加課税の一種)を課す(隠岐の歴史)

新修島根県史(年表篇)

1665

寛文5年

江戸浅草御手代二十二名隠岐に配流、島後周吉郡上東村に到着す。内一人寛文八年歿、他は同九年赦免帰国す

新修島根県史(年表篇)

1665

奉寄進大権現御□尊波□木□本船中安全如意満足□

【焼火神社棟札】

1667

寛文7年

大巡見。稲葉清左衛門・市橋三四郎・徳永頼母

島前の文化財

1667

寛文7年

『隠州視聴合紀』によると、「国中寺院」知夫郡として左の寺院があげられている。性徳寺、長福寺、専念寺、足利寺、飯田寺、香鴨寺

隠州視聴合紀

1667

700

寛文7年

6月より7月に亘り巡検使市橋三四郎長常、稲葉清左衛門正定、徳永瀬母昌崇、隠岐、出雲、石見巡視

新修島根県史(年表篇)

1667

800

寛文7年

8月松平綱隆、藩士を隠岐に遣し、新令を公布す

新修島根県史(年表篇)

1667

1000

寛文7年

隠岐派遣郡代斉藤勘助、『隠州視聴合紀』を編纂す

新修島根県史(年表篇)

1669

1000

寛文9年

宮崎仁左衛門、同藤左衛門隠岐に配流、島後周吉郡有木村に到着(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1670

1005

寛文10年

金剛院信証、密厳院由愚隠岐に配流。この日島前知夫郡美田村に到着。信証は元禄十四年、由愚は十五年夫々歿(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1671

奉再建立地蔵堂棟上一宇成就

【焼火神社棟札】

1672

600

寛文12年

本田瀬兵衛、本田治郎右衛門、奥平源四郎、奥平弥一郎隠岐に配流、島後周吉郡原田村に到着、治郎右衛門は延宝五年病死(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1673

延宝元年

焼火神社現拝殿遷宮

調査データ

1673

奉再建立焼火山大権現御本社宮殿□拝殿成就

【焼火神社棟札桧】

1674

延宝2年

松江藩は小野尊俊を隠岐に配流、尊俊島前海士郡海士村に居住(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1676

515

延宝4年

長崎代官末次平蔵並子息平兵衛密貿易の事発覚し隠岐に配流、島前黒木村宇賀に居住、翌年五月別府村近藤某に殺害さる(徳川実紀)(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1676

1000

延宝4年

松江藩、湯本源右衛門、中村忠兵衛、鷲野吉兵衛、太田吉左衛門を隠岐に遣わし、郡代、代官立会いの下に隠岐新田畑改をなす(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1678

800

延宝6年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1680

220

延宝8年

幕府、隠岐御成稼米穀大阪御蔵廻を命ず、隠岐国公文等代表二名を派遣し松江藩をへて幕府に免除方を愁訴し許さる(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1681

天和元年

大巡見。高木忠右衛門・服部久右衛門・佐橋甚兵衛

島前の文化財

1681

奉新建立焼火山雲上寺鐘楼一宇成就

【焼火神社棟札】

1681

700

天和元年

七月より八月にわたり巡見使高木忠右衛門定清、服部久右衛門貞治、佐橋甚兵衛佳成、石見、出雲、隠岐巡視

新修島根県史(年表篇)

1682

奉再建立御山上社□一宇成就

【焼火神社棟札】

1683

421

天和3年

相楽治部大輔隠岐に配流、島後周吉郡東郷村に居住、後赦免帰国す(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1684

貞享元年

「公事方御定書」の制定があって、遠流(おんる)でなく、「遠島処分にすべき罪」であるとなり、扶持米をつけない、所謂、放捨の流人が大量に来るようになった。

隠岐の文化財

1687

1223

貞享4年

松江藩主3代松平綱近は老中の秘密命令により隠岐を幕府に返還。隠岐は幕府直轄となる(幕府直轄 石州大森代官所管)

1688

元禄元年

筑前金ケ崎海士が島前中之島の宇受賀、北分地先海面に入漁する

隠岐

1688

元禄元年

『増補隠州記』成る

島前の文化財

1688

元禄元年

『増補隠州記』によると次のとおり城福寺、有光寺、専念寺、長福寺、円蔵寺、小山寺、道場寺、飯田寺、千福寺、願成寺、観音寺

増補隠州記

1688

500

元禄元年

隠岐両島鉄砲改

新修島根県史(年表篇)

1688

600

元禄元年

隠岐両島公文立会い、引継資料として『隠州記』を作成す、郡代、代官の点検をうけ大森代官に引き継ぐ(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1688

612

元禄元年

代官由比長兵衛、神門郡宇龍港より隠岐に渡航、知夫里を経て是日島後着、19日隠岐国引継を終る(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1689

1000

元禄2年

幕府隠岐国に御蔵前銀(高百石につき十五文)を課す(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1690

元禄3年

隠岐国に御伝馬宿米(高百石に付六升)を課す

新修島根県史(年表篇)

1690

元禄3年

浦之郷村人口。年代(元禄3−4頃)。総数(1068人)男女別(男、492人、女、560人)内訳(坊主4人、尼1人、道心11人)原拠文献(隠州視聴記「元禄3−4」)

浦郷町誌

1690

元禄3年

浦之郷牛馬数。総数(317疋)内訳(馬149疋、牛168疋)原拠文献(隠州視聴記)

浦郷町誌

1690

元禄3年

浦之郷船数。年代(元禄3−4)総数(64艘)内訳(渡海船1艘、手安船8艘、トモド船55艘)原拠文献(隠州視聴記)

浦郷町誌

1690

100

元禄3年

隠岐国、幕府に対し小物成銀を年々の銀相場による様願い出づ、幕府百匁につき九匁増とす。又両島惣百姓中、年寄、公文連印幕府に六尺給米御免方願い出づ(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1691

元禄4年

この夏、隠岐六尺給米免除

新修島根県史(年表篇)

1691

元禄4年

御料巡見。秋田三郎左衛門・宝七郎左衛門・鈴木弥市郎

島前の文化財

1691

900

元禄4年

隠岐国各村公文の呼称を庄屋と改め、公文給を取上ぐ(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1693

元禄6年

隠岐国卯時米(ボウジマイ)を夫米とす

新修島根県史(年表篇)

1694

400

元禄7年

隠岐両島宮改、各神社より祭神名を書出さしむ

新修島根県史(年表篇)

1695

元禄8年

焼火山の伊勢山に杉を植林する

黒木村誌

1696

228

元禄9年

幕府、邦人の竹島(鬱陵島)に至り漁するを禁ず

新修島根県史(年表篇)

1697

元禄10年

『一宮巡啓記』に黒木御所は別府村の内也と記載あり

黒木村誌

1702

元禄15年

隠岐の牛も次第に島外へ商品として販売されるようになる。

隠岐牧畑の歴史的研究

1702

元禄15年

浦郷村人口。総数(1033人)男女別(男473人、女548人)内訳(坊主4人、神主1人、道心7人)原拠文献(隠岐記「元禄15位の記事」)

浦郷町誌

1702

元禄15年

浦郷村牛馬総数(438疋)内訳(馬260疋、牛178疋)原拠文献(隠岐誌)

浦郷町誌

1702

元禄15年

浦郷村船総数(82艘)内訳(手安船12艘、トモド船70艘)原拠文献(隠岐誌)

浦郷町誌

1703

元禄16年

「護国仁王裏書神名記」に黒木社の記述あり

黒木村誌

1703

元禄16年

「島前神社名記」に黒木社の名称が初見

島前の文化財

1704

奉再建立焼火山大権現祝詞祭□一宇成就

【焼火神社棟札桧】

1707

宝永4年

長州豊浦郡小串浦から延縄技術が導入される

隠岐

1709

宝永6年

隠岐国郷蔵(郡、都万、中村)を止め西郷に集めて寄蔵とす

新修島根県史(年表篇)

1710

605

宝永7年

大巡見。黒川与兵衛・岩瀬吉左衛門・森川六左衛門

島前の文化財

1712

1021

正徳2年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1712

1100

正徳2年

幕領巡見使森山勘四郎、三橋勘左衛門、港九左衛門、大森銀山領並に隠岐を巡視

新修島根県史(年表篇)

1716

600

享保元年

是月より翌月にわたり幕領巡見使石川浅右衛門、小池勘右衛門、鈴木藤助、隠岐、大森銀山領巡視

新修島根県史(年表篇)

1717

享保2年

隠岐両島より当国五人組御仕置帳を提出せしむ(隠岐往古以来諸色年代略記)

新修島根県史(年表篇)

1717

享保2年

外国船が頻繁に出没する事により、島前に「番船」役を設置。

黒木村誌

1717

424

享保2年

美保関沖に外国船出没。

黒木村誌

1717

502

享保2年

美保関沖に外国船出没。

黒木村誌

1717

505

享保2年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1717

522

享保2年

美保関沖に外国船出没。

黒木村誌

1717

600

享保2年

是月より六月にわたり巡見使松平与左衛門忠一、落合源右衛門道富、遠藤源五郎常英、隠岐、出雲、石見を巡視

新修島根県史(年表篇)

1717

1100

享保2年

十一月外船渡来につき幕府隠岐島に番船申つく

新修島根県史(年表篇)

1718

1100

享保3年

11月より翌年3月迄幕府隠岐国に命じ番船を出さしめ海岸を警備せしむ

新修島根県史(年表篇)

1719

享保4年

是年隠岐国大凶作(隠岐の歴史)

新修島根県史(年表篇)

1719

享保4年

隠岐国周吉郡布施村藤野孫一、杉の育苗試作を始め、同志と共に布施村に植林を続く(隠岐の歴史)

新修島根県史(年表篇)

1720

享保5年

隠岐国は大森代官支配から松江藩支配に変更される。新たに「遠見番」役が設置される。

黒木村誌

1720

613

享保5年

隠岐は再び松江藩の預かりとなり、明治に至る。(松江藩預かり、5代 松平宣維)

1721

享保6年

大庄屋制が設けられ、島後2名・島前1名が大庄屋に任命される

黒木村誌

1721

享保6年

隠岐は秋の天候不順 大凶作、島後で゙3000人の餓人

1724

享保9年

御用船観音丸を新たに新造する

黒木村誌

1727

享保12年

この年夏出雲、石見、隠岐共に旱魃

新修島根県史(年表篇)

1732

享保17年

焼火神社現本殿遷宮

隠岐の文化財

1732

享保17年

隠岐は虫害(ウンカ)、稲腐リ、田作無しの大凶作 餓死者1000人。西ノ島では領主ハは飢扶持を貸し与えて救済

近世隠岐島史の研究

1732

奉建立焼火山大権現社一宇成就

【焼火神社棟札桧】

1732

奉建立焼火山大権現宮一宇成就

【焼火神社棟札桧】

1732

奉新建立護摩堂一宇成就

【焼火神社棟札】

1732

700

享保17年

松江藩、出雲人別帳を大目付に、隠岐人別帳を勘定所に提出

新修島根県史(年表篇)

1732

700

享保17年

是夏蝗害、雲、石、隠大飢饉、...(隠岐)七月中旬より俄に稲腐り田作無しの大凶作、飢扶持米銀貸付漸く餓死千人に止まる(凶年土蔵穂)

新修島根県史(年表篇)

1733

享保18年

越前海浦の仁平によるサバ網経営定着(仁平は現在の船越味噌屋の祖先)

隠岐

1733

1200

享保18年

畿内以西疫病流行につき幕府銀山領並隠岐に罹病者救済のため、薬法を詳細に述べ頒布す(佐々木文書)

新修島根県史(年表篇)

1735

405

享保20年

隠岐国海士郡海士村後鳥羽院御陵社再造上棟式、正遷宮(後鳥羽院御陵社造立覚書)

新修島根県史(年表篇)

1736

1005

元文元年

隠岐島は、大風雨と津波にみまわれる。(潰家16戸・潰船156隻・死者5人・行方不明6人)

黒木村誌

1739

705

元文4年

同日隠岐大風雨、民家漬かるもの四十七戸、漂うもの七戸、破船又は漂流するもの大小四十九隻、溺馬八疋、溺牛十二頭、損稲七百三十三石六斗(出雲私史)(天降公年譜)

新修島根県史(年表篇)

1744

延享元年

是年隠岐産串鮑・串海鼠を長崎俵物の対象とし、指定問屋請負高集荷終るまで勝手に売買することを禁ず

新修島根県史(年表篇)

1744

延享元年

幕府は長崎に「俵物一手請負方」を置き、これを中心に各地に指定問屋を設けた

黒木村誌

1744

810

延享元年

隠岐国同日、倒家四十二戸、漂神祠二所、破船三十六隻、損稲一万二千余石(出雲私史)(天降公年譜)

新修島根県史(年表篇)

1746

延享3年

是年隠岐国より御林下草銀を徴す

新修島根県史(年表篇)

1746

延享3年

御料巡見。佐久間吉左衛門・野呂吉十郎・山田幸右衛門

島前の文化財

1746

400

延享3年

四月より五月にわたり巡見使小幡又十郎、板橋民部、伊奈兵庫、隠岐、出雲、石見巡視

新修島根県史(年表篇)

1746

429

延享3年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1746

610

延享3年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1748

524

寛延元年

隠岐地方大雨洪水、田永廃者二反三畝二十四歩(出雲私史)(天降公年譜)

新修島根県史(年表篇)

1750

寛延3年

焼火山雲上寺別当快栄が杉の植林を開始する。(安永6年までに10万本の植林を達成)

黒木村誌

1750

1000

寛延3年

別府村へ朝鮮人四人漂着

黒木村誌

1751

824

宝暦元年

隠岐国大風、倒屋九十二戸、破船三十九隻

新修島根県史(年表篇)

1752

宝暦2年

美田村の頭百姓・役人・年寄りの寄り合いにおいて「美田村村方法度」を決定

黒木村誌

1753

宝暦3年

美田村は代官所に問屋の許可申請を出す。(船越・大山明・大津・波止で四軒)

黒木村誌

1753

100

宝暦3年

美田村では4軒の船宿を兼ねた問屋が指定された。4名は美田村の4部落すなわち、波止、大津、大山、船越の年寄役

隠岐

1755

宝暦5年

島前に甘薯が移入される

黒木村誌

1755

宝暦5年

大凶作(天候不順)「宝暦大飢饉」奥羽方面大飢饉

1755

800

宝暦5年

旱魃 田の植え付け不能、麦不熟 霖雨 菜園に至るまで不熟 台風と重なり大凶年となる

1755

815

宝暦5年

隠岐地方二月より五月迄雨らしき雨なく麦作不熟稲植付不能のところ五月末より霖雨八月迄殆ど晴天なし、不熟のところ八月十五、台風により作物壊滅。餓死千五、六百人に及ぶ(凶年土蔵穂)

新修島根県史(年表篇)

1759

宝暦9年

宝暦九(1759)年知夫里郡別府村指出帳に「一、人数百六拾三人、内出家壱人、神主壱人、百姓百六拾壱人」とあり

隠岐牧畑の歴史的研究

1760

奉建立焼火山二王尊像門一宇成就

【焼火神社棟札桧】

1760

607

宝暦10年

焼火神社に保管されている扁額は、持明院権中納言基輔卿の二男、京都東寺観智院僧正賢賀の筆になるもので、松平定信(楽翁)の編になる「集古十種」の扁額の部に掲載されており、同僧正の筆になるものが当社のものもふくめて三点入れられている。

隠岐の文化財

1761

宝暦11年

大巡見。阿部内記・弓気多源七郎・杉原七十郎

島前の文化財

1761

宝暦11年

御料巡見。永田藤七郎・高野与一左衛門・児島平右衛門

島前の文化財

1761

405

宝暦11年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1761

523

宝暦11年

巡遣使来島

新修島根県史(年表篇)

1764

明和元年

美田村指出帳に「人数千百壱人、内出家七人、山伏二人、医師壱人、禅門七人、神主壱人、百姓千八拾参人」とあり

隠岐牧畑の歴史的研究

1767

111

明和4年

焼火山雲上寺の快栄が先達となって伊勢参宮をする。往復に65日間

島前の文化財

1769

奉再建立御山神社□一宇成就

【焼火神社棟札杉】

1769

300

明和6年

焼火山に杉を植林する(寛延3年から明和6年までの20年間に杉苗を5万5千本植樹)

黒木村誌

1772

安永元年

隠岐国に囲籾(かこいもみ)制度を設く

新修島根県史(年表篇)

1772

820

安永元年

大風雨

黒木村誌

1774

安永3年

隠岐国中大旱魃、惣社にて雨乞祈祷。

黒木村誌

1774

奉□納一如蔵経金□當山□□倍増□光諸願成□三□施三大富専□子□□並□処

【焼火神社棟札桧】

1782

奉再新建立銅葺焼火山大権現拝殿一宇成就

【焼火神社棟札桐】

1783

天明3年

隠岐地方、損穀二千四百九十一石、米価騰貴一升の価百銭(天明覚書)

新修島根県史(年表篇)

1783

天明3年

五月入梅より九月迄霖雨晴れやらず。虫付腐り。十月十日大風。諸作不残。米価一二〇文にあがる。

黒木村誌

1783

天明3年

大凶作(天候不順)全国的飢饉。気候不順、洪水により大凶作、米価高騰、餓死者が出た。

1783

900

天明3年

県下は霖雨、台風と重なり大凶作

1784

800

天明4年

隠岐は旱魃 大凶作

1785

天明5年

幕府は「俵物方役所」を設けて、長崎商人の集荷によらず、直接各地から集荷する方法に切り換え、島前一円の下請け人として別府村庄屋の近藤伴左衛門が任命される

黒木村誌

1786

天明6年

隠岐国に牛馬冥加銀(みょうがぎん)を課す

新修島根県史(年表篇)

1786

天明6年

夏より雨降りつづき田方凶作。国中志儀止む。米価一三〇文にあがる。

黒木村誌

1788

天明8年

隠岐国囲籾に貯麦の制を加う

新修島根県史(年表篇)

1789

寛政元年

大巡見。石尾七兵衛・花房作五郎・小浜平太夫

島前の文化財

1789

寛政元年

御料巡見。清水利兵衛・池田八郎左衛門・村尾源左衛門

島前の文化財

1789

417

寛政元年

美田八幡に東照宮を勧請する

隠岐の文化財

1791

寛政3年

凶作。島中志儀止む。

黒木村誌

1793

焼火山銅瓦勧進趣記(寛政五年)

【焼火神社勧進帳】

1793

417

寛政5年

東照宮を美田八幡から焼火山に移転する

隠岐の文化財

1794

奉納任王般若経壹部

【焼火神社任王経】

1796

818

寛政8年

八月十八日夜大水。波止、三度、珍崎、古海、知夫里大破。

黒木村誌

1797

寛政9年

別府村の戸数(33)・人口(206)

黒木村誌

1798

寛政10年

旱魃。惣社にて祈祷。

黒木村誌

1798

奉屋根葺替二王門□宇□□□・・・

【焼火神社棟札】

1801

享和元年

葉倉権九郎一行隠岐国に渡海し鮑取極高一万二千斤を割当つ(村尾文書)(横地文書)

新修島根県史(年表篇)

1802

享和2年

今年より明年にかけ長崎平戸の漁師多勢隠岐国に渡海。入漁して、鮑を採る

新修島根県史(年表篇)

1802

享和2年

美田村にて三六〇人病死。

黒木村誌

1802

享和2年

島前の流人数は98人

隠岐

1807

文化4年

俵物方役人羽倉権九郎・高木作右衛門隠岐国に渡海し年の漁不漁にかかわりなく煎海鼠、干鮑年額四千七百斤の請負高を定む(村尾文書)(横地文書)

新修島根県史(年表篇)

1807

文化4年

隠岐国、島後船手諸法度を取極む(横地文書)

新修島根県史(年表篇)

1807

900

文化4年

「口上之覚」に島前の村々が島後へ出稼ぎに行くので、田畑が荒れてしまうから、出稼ぎはしない様にとの達しがあった

隠岐

1809

文化6年

俵物方役人高木作右衛門、隠岐国に渡海、鮑請負高千斤を追加す(横地文書)(村尾文書)

新修島根県史(年表篇)

1809

200

文化6年

隠岐島に度々外国船が出没するので、幕府から警備兵30名を配置する様になる(2年間滞在して帰る)

黒木村誌

1810

文化7年

痘瘡大流行。

黒木村誌

1811

文化8年

伯耆国の淀江漁民のサバ漁入漁する

隠岐

1814

文化11年

葛飾北斎の『諸国名所絵』隠岐国焚火ノ社が描かれる

隠岐の文化財

1815

文化12年

島前の流人数は68人

隠岐

1821

815

文政4年

八月十五日大風。廻船数百破船。舟人多く海死。

黒木村誌

1823

文政6年

美田村の戸数(251)・人口(1626)

黒木村誌

1823

文政6年

隠岐古記集によると城福寺・有光寺・専念寺(以上浦郷)。長福寺・円蔵寺・小山寺・道場寺(以上美田)。飯田寺・千福寺(以上別府)。香鴨寺・願成寺・観音寺(以上宇賀)

隠岐古記集

1826

223

文政9年

美田村小向、宮崎から出火し船越側に延焼。船越集落の住宅61軒、納屋8軒、土蔵1軒、堂1軒 諸道具残らず焼失した。罹災者数257名。船越で罹災しなかったのはわずか2軒であった。死傷者なし。牛馬被害なし

黒木村誌

1827

文政10年

旱魃。惣社にて祈祷。

黒木村誌

1827

奉葺替焼火山大権現御本社拝殿廊下成就

【焼火神社棟札杉】

1828

810

文政11年

隠岐国大風、諸作無し、去冬より島内痘瘡流行す

新修島根県史(年表篇)

1831

天保2年

是年 隠岐国凶作、米価上昇

新修島根県史(年表篇)

1833

天保4年

夏期におけるシイラ漬漁業が石見地区(現在の浜田)より島後の南西海岸の油井、福浦、南方に行われる

隠岐

1833

1026

天保4年

隠 岐は山形沖地震(M.7.4)津波。海士村で浸水被害。西ノ島では船越 70戸のうち難を逃れたのも10軒位、洪波、満潮八尺とある。

隠岐の文化財

1835

奉新建立焼火山石築表壹基大権現□光自在國内静□諸人快楽□

【焼火神社棟札】

1836

天保7年

大飢饉。米価三五〇文。

黒木村誌

1836

天保7年

船総数。美田村(84隻)別府村(9隻)宇賀村(44隻)

黒木村誌

1836

天保7年

全 県は天候不順、春以来雨天続き大凶作 飢饉。隠岐は米価急騰、一升350文、(平年の約3.5倍)

1836

天保7年

「天保の大飢饉」大凶作(天候不順)全国的飢饉。天候不順、冷害、洪水、大風雨続発、米価高騰。大塩平八郎の乱をはじめ、一揆がおきる。

1837

天保8年

米価三〇〇文

黒木村誌

1838

天保9年

隠岐国穏地郡久見村大火、村内大半焼失す

新修島根県史(年表篇)

1838

天保9年

御料巡見。高橋・八木岡・山本

島前の文化財

1838

411

天保9年

大巡見あり。総勢413人にも及ぶ来島

島前の文化財

1839

天保10年

浦郷村船総数(67艘)内訳(小渡海船2艘、手安船22艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村船御改帳)

浦郷町誌

1841

600

天保12年

六月より九月にわたり隠岐国内痢病大流行、老幼多く死す

新修島根県史(年表篇)

1842

天保13年

浦郷村人口。総数(1565人)男女別(男732人、女833人)内訳(出家6人、社家1人、医者1人、百姓1557人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1842

天保13年

浦郷村船総数(71艘)内訳(小渡海船2艘、橋舟2艘、手安船22艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳

浦郷町誌

1843

天保14年

是年隠岐国、痘瘡大流行す

新修島根県史(年表篇)

1845

弘化2年

隠岐国産の鯣(スルメ)を長崎俵物に加え、問屋の手を経ず勝手に費買することを禁ず

新修島根県史(年表篇)

1846

弘化3年

島内の要所に砲台(大筒場)が設けられる。海士郡崎村・知夫郡別府・美田村市部・船引・浦郷村本郷

隠岐の文化財

1847

弘化4年

浦郷村人口。総数(1627人)男女別(男766人、女861人)内訳(出家6人、百姓1621人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1848

1027

嘉永元年

船越より出火。小向・船越がほぼ全焼。

黒木村誌

1849

嘉永2年

年代(嘉永2)総数(1686人)男女別(男805人、女881人)内訳(出家4人、百姓1682人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1849

嘉永2年

浦郷村船総数(80艘)内訳(小渡海船6艘、橋船3艘、手安船27艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1849

218

嘉永2年

異国大艦一隻隠岐国知夫郡三度浦に来航、兵士十六人上陸して帰艦す

新修島根県史(年表篇)

1849

222

嘉永2年

異国艦二隻隠岐国穏地郡に来航、直ちに去る

新修島根県史(年表篇)

1849

224

嘉永2年

松江藩、物頭堀尾弥税、早田彦兵衛及砲士を隠岐に派し戌らしむ

新修島根県史(年表篇)

1849

307

嘉永2年

異国艦一隻隠岐国穏地郡に来航

新修島根県史(年表篇)

1849

323

嘉永2年

異国大艦三隻隠岐国穏地郡沖に現わる

新修島根県史(年表篇)

1849

408

嘉永2年

異国艦一隻隠岐知夫郡に来航、海岸に近づきしも戌兵厳なるを知り去る

新修島根県史(年表篇)

1849

900

嘉永2年

秋松江藩、隠岐国派遣の戌兵を引きあぐ

新修島根県史(年表篇)

1851

嘉永4年

浦郷村人口。総数(1717人)男女別(男823人、女894人)内訳(出家7人、社家1人、百姓1703人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1852

嘉永5年

浦郷村人口。総数(1713人)男女別(男823人、女890人)内訳(出家9人、社家1人、百姓1703人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1853

嘉永6年

五月から八月まで雨が降らず、隠岐島の田畑は稔らず。

黒木村誌

1853

227

嘉永6年

代官所より、外国船に対し警備体制の強化を指示される。(別府・美田尻・十景は宿の手配食事の手配を担当)

黒木村誌

1853

228

嘉永6年

御役所より大庄屋笠置八郎左衛門に海防警備対制に対する指示が出されている。

隠岐の文化財

1853

800

嘉永6年

隠 岐は旱魃。田畑昨皆無

1854

安政元年

浦郷村牛馬総数(154疋)内訳(馬56疋、牛97疋)原拠文献(浦之郷村牛馬御改帳)

浦郷町誌

1854

安政元年

浦郷村船総数(85艘)内訳(小渡海船7艘、橋船7艘、手安船27艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1855

安政2年

浦郷村人口。総数(1774人)男女別(男858人、女916人)内訳(出家5人、社家1人、百姓1768人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1855

安政2年

浦郷村船総数(86艘)内訳(小渡海船7艘、橋船7艘、手安船28艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1856

安政3年

浦郷村人口。総数(1790人)男女別(男866人、女924人)内訳(出家5人、社家1人、百姓1784人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1856

安政3年

隠岐島に島根半島の漁村から相次いで入漁する(操業はイカ・ブリに限定されていた)

隠岐

1856

729

安政3年

大砲・小銃を作る為、島前の社寺は梵鐘を供出する

黒木村誌

1857

安政4年

浦郷村人口。総数(1814人)男女別(男879人、女935人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1809人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1858

安政5年

浦郷村人口。総数(1825人)男女別(男880人、女945人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1820人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1858

安政5年

海士村の素封家村上助九郎が私費を投じて、奥州南部より種馬を購入

隠岐

1858

奉再建東照宮御社一宇成就

【焼火神社棟札】

1858

400

安政5年

焼火山雲上寺が私札(神酒預券)を発行

島前の文化財

1859

安政6年

浦郷村牛馬総数(146疋)内訳(馬56疋、牛98疋)原拠文献(浦之郷村牛馬御改帳)

浦郷町誌

1859

安政6年

浦郷村船総数(90艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、橋船9艘、手安船28艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1860

万延元年

浦郷村人口。総数(1871人)男女別(男896人、女975人)原拠(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1861

文久元年

浦郷村人口。総数(1884人)男女別(男904人、女980人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1879人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1862

文久2年

諸国に麻疹大流行。当国死亡最も多し。

黒木村誌

1862

文久2年

浦郷村人口。総数(1906人)男女別(男917人、女989人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1901人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1862

文久2年

浦郷村船総数(98艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、橋船9艘、手安船36艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1864

元治元年

浦郷村船総数(99艘)内訳(大船2艘、小渡海船8艘、橋船10艘、手安船35艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌

1865

慶応元年

英・米・露の三国の自由貿易によって、隠岐の俵物流通は廃止される

隠岐

1865

奉□□般若理趣経一千部東照宮二百五十□御遠忌報恩謝徳如意満足祈□処

【焼火神社棟札桧】

1865

奉□□般若理趣経一千部東照宮二百五十□御遠忌報恩謝徳如意満足祈□処

【焼火神社棟札】

1866

慶応2年

浦郷村人口。総数(1860人)男女別(男923人、女938人)内訳(出家5にん、社家1人、百姓1854人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1867

慶応3年

浦郷村人口。総数(1873人)男女別(男921人、女952人)内訳(出家6人、社家1人、百姓1866人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳)

浦郷町誌

1867

慶応3年

浦郷村船総数(96艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、手安船34艘、トモド船44艘、橋船9艘)原拠文献(浦之郷村御改帳)

浦郷町誌