はつまいり

黒木村の大津では正月十日から十七・八日までの内に初参りをする。まづ島前の各部落から焼火神社に詣で、それがすむと各村内の神々を巡拝する。この初参りには部落全体から必ず一人参加する。各里に奉願と呼ぶ役のもの二人づつあり、これが初参りの世話役となる。初参りの日が決定する、まずその事を奉願が焼火山に知らせに行く。すると焼火神社ではその奉願の到着順に各部落参詣人の昼飯を用意する。皆は参拝して後、この昼飯を御馳走になり、帰りに御供物語餞米を頂戴して帰る。奉願の役は廻り持ちで、この役に当たった人はその年の参詣費用を出さぬが、他の人々は一円くらい出している。奉願という役はこの初参りの時だけの役目である(大津の人)。知夫村古海では新春の焼火山初参りの途中にはオシクレゴとて船漕競争をする。その時小年寄りと若い者とが競争するので、この目印に浜辺に幟を立てる。なお、この日は各自の家では昔は白い麦酒を造り祝い、年寄、小年寄、若者の年齢別に船に乗って、焼火神社に赴いたものであった。『島前漁村採訪記』より


社務所全景


客殿南面



直会(なおらい)風景


巡見使と焼火神社



旧幕時代の隠岐にも、巡見使は渡った。将軍の代替り毎に、幕府から諸国へ派
遣され、土地の政情を査察する公儀役人のことである。はじめに土地の役人た
ちが、この中央から派遣される役人のために、いかに心をつかって、その送迎
にあたったものであったかを和巻岩守手記によってうかがってみたい。−御巡
見其他役人の巡回−旧幕時代に、高位高官の役人は勿論、下役のものでも、各
村へ巡回する時は、先触れとて、何々役、何日、巡回につき送迎申、宿割人足
割等、其メメ待方を通達する。各村に於ては二三日前より其準備に忙殺され、多
くの費用を費やしたものである。御巡見とて、徳川幕府より、今の巡閲使を派
遣し、諸国の状況を視察せしめたものだが、其御巡見使の入国するときは、数
十日、前に前触を為し、上を下への大騒ぎで送迎の準備に手の尽くさるる限り
を尽くしたもので、今から之を思えば、昔如何に役人が傲慢を極めたかが想像
せられる。当家に正徳2年6年、享保2年、延享3年、享保元年、寛政元年、
天保9年に巡見使が入国された時の書類がある。其最近の天保9年の巡見振り
を紹介してみる。巡見、諏訪縫殿助、知行三千石、上下付添三十五人。同、竹
中彦八郎、同二千石、同三十人。同、石川大膳、同一千五百石、同二十七人。
勘定方、高橋繁之丞。支配勘定八木岡大蔵。御徒目付、山本庄右衛門。雲州御
馳走方上下十三人。御医師上下十二人。御船方奉行、上下五人。御朱邦預、上
下二人。御茶道、上下六人。御台所役人、上下十人。御料理人、十人。外ニ両
島役所の役人二十五人。郡代、上下六人。代官、上下六人。御目付、上下二
人。合計百八十一人。本巡見の巡見せられる区域は、山陰、山陽の両道であ
る。一行を崎村庄屋新八郎松江表へ出迎し、一行は四月十日知夫村泊、十一日
焼火山にて休憩別府泊、十二日海士村を巡見直に都万村へ渡海、矢尾村泊り、
夫より美保関へ渡海之先触あり。一行前記の通り二百人近い多人数で、之を送
迎して相当の礼遇を尽くさんとするのであるから、島前一帯は上を下への大騒
ぎにて、その準備に苦心惨胆したものである。賄方では、フトン百二十枚、味
噌八十五貫匁、醤油二石、干瓢四百匁、鰹魚五連、煙草三貫匁、烟管三十本、
酢四斗、砂糖十斤、箸千膳、油六斗、半紙十束、下駄百足、草履百五十足、草
靴二百足、唐紙三千枚、蝋燭八百匁、半切紙三百枚、杓子百丁、薪五百〆、其
他数十点にして、布団は各村より借集めた。船と人夫は御召船の漕ぎ船四人乗
八十四艘船人夫を百三十九人外に夘事人多数あり、乗馬二十四頭、巡見入国の
前日より、各村から多人数出張り遠見番所より、船見ゆの相図あるや忽ち漕船
出て漕寄せ、直ち上陸宿所へ案内し、島前の共同賄とする。翌十一日は別府村
泊りにして夜具その他一切の物を持運びて知夫の如くに歓待し、翌日は海士村
巡視村上助九郎邸に休息せられ、御召船以下八十余艘を従ひて都万村へ渡海せ
らる。その巡村の行列は実に盛んなるもので諏訪巡見使一人の夫を記してみれ
ば陸行には直先に旗を押し立て、具足箱二人、長持二棹十二人、御用人足六
人、御乗物一挺八人、御供篭二挺八人、御供馬七匹口取七人、夜具持四人、下
駄草靴草履持二人、其他十一人計七十人にして、内二十三人宛小頭を付けら
る。船行には御召船一隻、御供船一隻、漕船四人乗四艘(島後請)御用達船四
人乗四艘、以上一巡見使の行列であるが、他の二巡見の夫れも多少の相違は
あっても略之と同一である。其他郡代、代官、之に属する諸役人に要する人
足、御用船夥しきものである。この惣人足三百三十九人、船数八十四隻舟夫三
百三十六人、其料理人卯事人、給人、小使等多人数を徴発、各村の庄屋、年寄
は勿論当時頭分惣出にて本陣(宿所)一切の世話から、荷物の取扱、賄方及人
夫船の世話又夜具諸具の持廻り等落度なくしたものだ。今日から思えばその混
雑の状想像も及ばぬ程である。以上、和巻岩守氏の手記によって、当時の隠岐
の在地役人と、巡見使入国のすがたを想像していただきたいのであるが、焼火
神社に記録された巡見使御社参記の完全記録を筆写させていただいて感じた、
所見をのべて、巡見使のことを考えてみたい。隠岐に渡海し、その任務を遂行
して去った何回かの巡見使は、例外無く焼火神社に参拝した。どの理由のすべ
ては、はるかに渡る海上安全
その制度の初期から享保ごろまでは政治視察の上で幕府にとっても効果をあげ
たといわれているが、寛文ごろからは殊に海辺浦々の巡見が重視されたとい
う。焼火神社の御社参記録には、寛永十年の巡見以来の記録がその都度認めら
れ、和巻手記にある先触れから知夫一泊翌日社参、一泊のこともあり、休息の
後出発の場合もあった。ここには、その一つをあげて大体のことを知っていた
だく事にしたい。
淳信院様御代替え翌年。延享三年寅六月御巡見御参詣之記。大巡見。小幡又十
郎様、御知行千五百石。板橋民部様、同千七百石。伊奈兵庫様、同千石。延享
三年寅四月二十八日雲州三保関より知夫里湊江夜五ツ時に御着船翌二十九日四
ツ時橋浦より御登山、御迎住持宥賢伴僧清水寺、有光寺恵光、精進川土橋之前
に而御待受申上、小幡又十郎様御用人関仲右衛門殿三張常助殿御先へ登山、直
に神前へ御参詣済、寺へ御入り候而、又十郎様より住待へ御口上之趣並御初穂
白木台ニ而御持参取次、同宿春山、次に又重郎様御乗物五丁程跡より参、伴僧
壱人ツ、御案内路次門迄参り夫より御座敷江之御案内春山。次板橋民部様右同
断、次伊奈兵庫様右同断。御座敷江御着座巳後、住持御目見御挨拶申上、次御
引渡三宝、次御盃御吸物次御酒次御肴等。一、御行水之支度仕候得共、御行水
は不被遊候。神前へ御参詣御案内春山、祖寛、拝殿に御待請ハ清水寺恵光、住
持御殿之高蘭之内ニ着座、御三殿之膝付迄御登り御排相済、拝殿へ御帰座之
上、御神酒御洗米差上寺へ御着座。一、御用人衆御家老衆六人屋舗、御家老衆
四人上ケ炬燵ノ間、士衆二十四人客殿ニ而是迄御吸物本膳御上候同断、但客殿
光之間へは二之膳出し不申候。一、家来衆七於余人是亦こたつ之間、囲爐裏間
ニ而三しきりに膳部差出相済候。外ニ雲州より渡海之御船手等大勢入込杯之外
膳部余計出し候、殊ニ御船手等勝手迄入込大混雑ニ御座候。一、雲州より御馳
走方三人御料理方御茶道、是ハ新六畳之間。一、医師衆三人、是ハいろり之間
上ニ着座此外、御供人数十人斗は隠居ニ客着座、是も二しきりに膳相済。一、
雲州より之御船頭衆三人此外、中間等拾四五人は座敷無之ニ付直に橋へ下山。
一、当島御郡代御代官目付元吟味方、是ハ朝五ツ半時知夫里より登山膳相済夫
より西之蔵ニ着座、其外下役人衆勝手廻りニ被居候。一、当山ヲ九ツ半時御、
下向橋浦へ、御下山夫より美田へ御通り御船ニ而、別府泊り御見送り住持、伴
僧若党ニ而精進川土橋罷出候。一、先達而、雲州より両度之御巡見御渡海海上
安全御祈祷被迎遣候、御初尾白銀一枚神献御座候。則前方を護摩キ行御巡見御登
山之節座敷ニ而右雲州より御祈祷御頼ミ被露仕御礼差上申候。
一、翌晦日別府御本陣迄御影神銭等持参、昨日御社参之御礼ニ住持罷出候、伴
僧長福寺春山、若党伊八、外ニ二人召連。一、同日海士村へ御渡海御泊。一、
五月朔日島後都万村へ御渡海、同日西郷へ御越し二夜泊同月三日島後御出船三
保関へ御着船。
夘月晦日之献立。御引渡、三宝、御吸物、御酒、御肴、三種。御本膳。生盛。
夏大根、すまし、志ゃうが。御酢和会。きくらげ、御汁、小志いたけ、めうが
竹、ふき、ゆず、山椒。御煮物。むかこ、水こんにゃく、御飯、路くぢやう、
引而、香之物。二之膳。平皿。ちくわとうふ、くわい、竹の子、かんぴょう、
つけ松たけ、御汁。とろろ、あおのり、包こしょう、猪口。こまとうがらし、
うこぎ、すりわさび煮。御麩皿。麩。いり酒、生こんにゃく、指末、海そうめ
ん、けん青梅、かんてん、れんこん、河たけ。
御地紙折。山のいもちりめん焼、あけこんぶ、やきしいたけ山枡みそ付。御
酒、御肴。ふりけし、ひたし物。御肴御吸物。みそ、御吸もの、御肴。此方見
合。後段。御茶、御菓子、御餅。すまし御吸物、へきいも、しいたけ、しほ
で。御酒御肴いろいろ。
御次之献立。皿、すあへ、夏大根、こんにゃく、青みちさ。汁、あられとう
ふ、ふき。煮物、香之物、おわり大根、むかご、氷こんにゃく。飯。平皿、引
而、山いも、わらび、かんぴょう、あげとうふ、こんふ。指味、からしかけ
酢、とさか、かんてん、ちさ。あへもの、ひじき、白あへ。酒、肴、いろい
ろ。
後段、茶。料理人、水野善兵衛。手伝、崎村観音寺。美田重左衛門。別府次郎
左衛門。座敷給仕等配役覚。知々井春源、同宿恵光。同宿、春山。一、御座
敷、規寛、小座敷、美田新九郎。同、伝之進。先炬燵之間、海士村建興寺。美
田甚兵衛。客殿、有光寺。美田甚助。度した炬燵之間、大山教運。美田次郎右
衛門。同儀右衛門。囲爐裏間、美田儀右ヱ門。同八之丞。はし伴助。新座敷、
別府千福寺。同松之助。座敷惣見役、美田長福寺。勝手見繕、浦之郷。七兵
衛。勝手繕場見繕、知夫里伊八郎。酒方、文太夫。四郎兵衛。行水場役、二
人。勝手働、男女二十三人。料理方、四人。〆五拾四人。一、橋村より御登山
之節床御小休所迄御茶持参役。新九郎、千太郎。松之助、作左衛門。此節毎度
ニ遣候人足四拾参人、是ハ西鳥居より内道橋掃除等ニ遣候御社参当日人足遣
候。右何レも橋村之者共。一、御札守役、宇野大和。是ハ護摩堂ニ而出ス御影
六百枚程用意仕置、是ハ沢山也。神銭三千程拵置候得共七百、程不足ニ付翌日
相成別府へ持参仕候、
壱枚縁起等余程入用也。一、当寺之寺号山号並住持之名同宿之名迄書出候様被
仰候ニ付則左之通書出候。覚。一、焼火山雲上寺住、兵部郷法邦宥賢。同宿、
春山。恵光。視寛。一、当山境内並寺内間数書出候様。被仰出左之通書出候。
覚。一、隠岐国嶋前知夫里郡美田村焼火山雲上寺。寺内間数梁行五間半桁行十
五間。境内麓寄り絶頂迄拾丁余東西拾二三町。右当山之儀断崖絶壁樹木深欝故
巨細ニ難斗候故大既書上申候。延享三年寅年四月二十九日別当兵部卿法印。宥
賢印。如此三通相認別府(翌日御礼ニ罷出候節差出申候。御初穂之覚。一、金
弐百匹、小幡又十郎様より。青銅三百文、銅御用人衆中より。一、同弐百匹、
板橋民部様より。青銅三百文、同御用人衆中より。一、同弐百匹、伊奈兵庫様
より。青銅三百文、同御用人衆中より。以上である
一回の御社参記は終っているが、大方の場合、この大一行は焼火山の苦心も大
変なものであったことであったにちがいない。和巻手記の方では、島前村方の
方の苦労がわかるが、焼火山が中心になって、当時の島前各寺々の僧を集め
て、その応接にあたっていることがわかる。こんな大仕かけな仕事を仰遣わさ
れ、それをみごろに果たしてきた当時の焼火山雲上寺の実力は想像以上であっ
て、後年の焼火信仰の普及と経営に大きく作用したと考えられる。いまは、島
民から忘れ去られているけれども、巡見使の来島と、焼火社参りの例外のな
かった史実について、もっと考えてみたいと思うのである。それにしても巡見
使が必ず最初に着岸し、そこで、一泊した知夫の地に、なぜその伝えがのこら
なかったか不思議思はれる。筆者が島後の古文書で調べたところではその当時
の知夫の宿割りの明記したものも残っているので、知夫には伝えだけでもの
こってよい筈である。何かわりきれない感じがする。
巡見使社参。
1、寛氷十年、大巡見、市橋伊豆守。村越七郎右衛門。拓植平右衛門。
2、寛文七年、大巡見、稲葉清左衛門。大巡見。市橋伊豆守・村越七郎右衛
門・拓殖平右衛門。大巡見。稲葉清左衛門・市橋三四郎・徳永頼母市橋三四
郎。徳永頼母。
3、延宝九年、大巡見、高木忠右衛門。服部久右衛門。佐橋甚兵衛。
4、元禄四年、御料巡見、秋田三郎左衛門。宝七郎左衛門。鈴木弥市郎。
5、宝氷7年、大巡見、黒川与兵衛。岩瀬吉左衛門。森川六左衛門。正徳二
年、御料巡見、大巡見。高木忠右衛門・服部久右衛門・佐橋甚兵衛
御料巡見。秋田三郎左衛門・宝七郎左衛門・鈴木弥市郎。大巡見。黒川与兵
衛・岩瀬吉左衛門・森川六左衛門。森山勘四郎。三橋勘左衛門。湊五右衛門。
7、正徳六年、大巡見、鈴木藤助。小池岡右衛門。石川浅右衛門。
8、享保二年、大巡見、松平与左衛門。落合源右衛門。近藤源五郎。
9、延享三年、大巡見、小幡又十郎。伊奈兵庫。板橋民部。
10、延享三年、御料巡見、佐久間吉左衛門。野呂吉十郎。山田幸右衛門。
11、宝暦十一年、大巡見、阿部内記。弓気多源七郎。杉原七十郎。
12、同年、御料巡見、永田藤七郎。高野与一左衛門。児島平右衛門。
13、寛政元年、大巡見、石尾七兵衛。
御料巡見。佐久間吉左衛門・野呂吉十郎・山田幸右衛門
大巡見。阿部内記・弓気多源七郎・杉原七十郎
御料巡見。永田藤七郎・高野与一左衛門・児島平右衛門
大巡見。石尾七兵衛・花房作五郎・小浜平太夫・花房作五郎。小浜平太夫。
14、同年、御料巡見、清水利兵衛。池田八郎左衛門。村尾源左衛門。
15、天保九年、大巡見、諏訪縫殿助。竹中彦八郎。石川大膳。
16、同年、御料巡見、高橋。八木岡。山本。天保九年の大巡見は、松江藩人
数を入れ
御料巡見。清水利兵衛・池田八郎左衛門・村尾源左衛門
御料巡見。高橋・八木岡・山本
て総渡海人数は四百十三人といった大がかりのものであった。近世の焼火信
仰。早くから航海安全の神として崇められていた焼火権現が、西廻航路の航程
のなかに隠岐が入ってから航海業者や船乗りの参詣が多くなったこととあわせ
て、この数度ににわたる巡見使の参詣が慣例になって、地元の篤い信仰ととも
に、焼火信仰は全国に拡がり普及していったことはまちがいない事実である。
補。知夫里村、大江、渡辺喜代一氏の所蔵古文書のなかに、(襖の下張にした
ものをはぎとったもの)巡見使の人馬先触の断片があったので、それをかかげ
て参考に供したい。前文紙切れてなし。宝暦十一年巳三月十。但馬宿中。○人
足弐人馬二疋従江戸播磨但馬備中備後美作石見丹後隠岐国迄上下並於彼御用中
幾度も可出之、是者右国為巡見御用御徒目附児島平左衛間罷越ニ付而相渡之者
也。宝暦十一年己三月、但馬宿中。○永田藤七郎、高野与一左衛門持参之巡見
御用書物長持壱棹。従江戸丹後但馬石見隠岐播磨美作備中備後国々迄御用中幾
度も急度可持候者也。巳三月、但馬宿中。覚。御朱印一、人足弐人。同断。
一、馬三疋。内弐疋ハ人足四人ニ代ル。御リ文。一、御用長持壱棹持人足。永田
藤七郎分。御証文。一、人足弐人。同断。一、馬三疋。沙汰文。一、人足弐
人。一、馬一疋。これは、筆者が現在までに知夫で見た唯一の巡見使関係古文
書である。
『隠岐(島前)の文化財一号』



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