問屋(とんや)

問屋前史
官制問屋の発生
民間問屋の隆盛
問屋制度の残存

問屋前史

 西ノ島でよく耳にする屋号にトンヤというのがあるが、これは隠岐島の近 世・近代において一世を風靡した、流通業の記念ともいえる名前である。  今でいう問屋とは一般的には卸売業のことであるが、近世においては必ずし もそれだけではなかった。特に幕府から指定された「問屋」は、卸売よりもそ れをチェックする検査官の意味あいが強かった。自分で卸売業をするせよ、検 査するにせよ、いずれにしても隠岐島の近世から近代にかけては、流通を抜き には語れない時代であった。その鍵を握るのが問屋である。  隠岐島で問屋が文献に度々出てくるようになるのは、北前船の入港が頻繁に なってからであるが、問屋を必要とする流通経済はそれ以前に十分に発達して いたと思われる節がある。  島後では寛文年間には既に江戸に木材を輸出し、美保関には薪・木材・魚・ 海藻などが頻繁に隠岐国から送られてきたと記録に残されている。また、寛文 元年頃には年貢を物納ではなく貨幣で納める方法も考慮され、後にはそれが慣 例化された程に貨幣経済は浸透していた。隠岐島では貨幣収入の道は、貿易を 基盤にして拡大されていった。  寛文一二年(一六七二)河村瑞賢によって西廻航路が開発され、これが一般 的には隠岐の流通経済の先掛になったと言われている。しかし隠岐の回船業 は、少なくとも江戸初期から行われていた可能性が強い。しかも、西廻航路が 開発されてから、すぐに隠岐島が風待港になったわけでもない。北前船の沖乗 り(港から港の距離が、沖を通るとこによって長距離になり、短時間になる) が可能になって初めて風待港として繁栄するのである。  北前船の時代になると隠岐国の貿易業者は、山林が尽きるほど薪や木材を輸 出したり、海産物である鯖・鯵・烏賊・鯛・鰤・アゴ・シイラなどを他国に 売った。  また、享保十年(一七二五)には鳥取藩は米子に自由市場方式をとったの で、米子・境港への集荷が多くなり、米子市場では隠岐からの入荷に関しては 木材・竹材は無税、海産物には問屋に五分を支払う以外は何も制限が無かった ので、隠岐以外に出雲浦の方面からも集荷されるほどであった。その頃、隠岐 国の海運業を支える大船は、島前で七隻、島後では百十隻を数え、当時の流通 経済の趨勢をうかがわせる。  この様な世情を反映してか、隠岐の代官所では小物成(鰯・アゴ・ワカメ・ 鯛・スルメ・海苔・串鮑・串海鼠に対する課税)と呼ばれる物品税の割合が年 貢の半分近くも占めていた。  地元での民間を中心とした海運業は次第に拡大し、それにつれて他国船の往 来手形を改めたり、駄別銀(だべつぎん)と称する荷物の点検手数料の徴収、 北前船の宿をするなど、「問屋」と言わなくともその役割を果たす仕事の形態 は既に整っていた。

官制問屋の発生
 官制問屋の役目は、他国船や他国商人のチェックと管理、俵物の集荷であっ た。具体的には、往来手形(旅券)・宿手形(宿泊人届)・往行御札(商売許 可書)などをチェックして、代官所に提出・申請する役目を負っていたので、 いきおい村役人の性格が強かった。積み荷の口銭(点検代金)として近世の場 合は三分(三〇%)を徴収し、その内一分は村もしくは里に納め、二分は問屋 に入る事になっていた。しかし、問屋は自分では売買せずに事務手続きのみと 決められていた。  延享元年(一七四四)俵物集荷の実をあげる為、幕府は長崎商人八人と、そ の下に俵物手請負方を定め、さらにその下に指定問屋を設けてこれにあたっ た。宝暦三年(一七五三)の美田村の指定問屋は、喜兵衛(波止)・八兵衛 (大津)・六兵衛(大山明)武左衛門(船越)であった。  隠岐の特産物である長崎俵物とは、天領地隠岐の代官所が長崎奉行管下の 「長崎俵物役所」に対して出荷した物を指す。海産物であるスルメ・干しアワ ビ・キンコ(乾燥ナマコ)を産地から買い入れて俵につめたことから俵物(た わらもの)と呼ばれていた。  この時点での問屋は官制の売買をしないものと、自己資金で売買をする民間 問屋の二種類が併存していた。  隠岐の長崎俵物は元来、幕府(松江)を通して長崎から中国向けに輸出され ていたが、松江には「隠岐宿」と称して隠岐の海産物を一手に取り扱う俵物責 任者が創設され、それが隠岐の御用問屋から海産物を集荷していた。しかし、 その手数料は元々の買取が安い上、更に手数料を上乗せされるので、次第にこ こには集荷が少なくなってきた。そこで幕府は何回も他国への密売を禁止する が効果は無く、隠岐宿は廃止されることになる。  天明五年(一七八五)には「長崎会所直買制度」が制定され、積荷はコスト 合理化のために長崎に直送されることとなった。旧来は、積荷責任者→俵物買 集世話人(島前別府村庄屋)→俵物取締世話人(島前大庄屋)→俵物請負人 (島前代官)→長崎俵物会所下関俵物方御買入所という流通経路をとっていた ものが、俵物買集世話人(島前別府村庄屋)→長崎俵物会所下関俵物方御買入 所となったのである。

民間問屋の隆盛
 官制の問屋は強制的に低く買い取り、競争を許されなかったので、次第に民 間問屋が経済の中心になり、特に需要の多いスルメなどは自由競争できるスル メ問屋として独自のネットワークを全国に拡大していった。天保・弘化時代に は浦郷では虎屋(山王丸)・尾張屋(日吉丸)・大前屋(金栄丸)・中原(明 神丸)・万屋(八幡丸)などが自分で船を持ちながら同時に回船問屋を営んで いた。 (表挿入)  島後では化政期にかけて廻船問屋・スルメ問屋・材木商人などが西郷周辺に 増大して次第に勢力をのばし、隠岐島の近世の商業資本はこれらの民間問屋に よってになわれていった。これら問屋は入銀と称して前以て金を貸し付け、海 産物を集荷・確保し、しかも低く買い取る様に計らった。民間の自由貿易問屋 は隠岐騒動の時には「出雲党」などと呼ばれて同志派・正義党と対立する事に なる。  まとめると、最初に民間レベルで流通経済が発展し、それを幕府が利用する 形で「問屋」制度として制定するが、産物の買い上げが民間問屋に比べてあま りにも低いので度々運営に支障をきたす結果になった。隠岐の特産品として人 気の出てきたスルメなどは、特にスルメ問屋と言われるように独立分離して精 力的に活動し、それが近世隠岐の流通経済を実質的にリードしてきたのであ る。

問屋制度の残存
 明治にいたり、幕府の制度としての問屋は廃止されたが、浦郷では漁師と魚 商人との間に立つ一種の販売仲介業者として、単に水産物の卸売りのみならず 農作物の卸売りにも介在した。問屋は選挙で選び、後には権利を入札で落とす 様になった。その権利は一五〇円くらいであったという。任期は三年、仲介料 金は三%であった。例えば漁師が釣った烏賊を各自で干して、これを商人に売 るのだが、その前に問屋が一々魚家を巡り、烏賊の干し加減をみてまわる。こ れをハガキトリと称した。時期をみて、何時何時烏賊を入札するという案内を 出す。すると商人はその時に集まってきて入札したり示談で値をきめて買う。 その他の漁業の場合においても問屋はいちいち浜にでかけて魚の水揚げに立合 い、商人の買い取った魚を帳面につけておいてその三分(三〇%)を口銭とし てもらったのである。しかし、この制度も共同販売所の創立によって大正十四 年に廃止された。宇賀では正月の二十日の総会で問屋を決め、この事を組合と 言った。そしてこの問屋を組長と呼んでいた。赤之江の問屋は昭和十一年には まだ、この問屋の風習が残っていたという。 参考文献 『隠岐』 「増補隠州記」 『隠岐島前漁村採訪記』「アチック・ミューゼアム・ノート第三号」 『近世隠岐島史の研究』 『黒木村誌』

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