縁起
神代の昔、天鈿女命を従えた天照大神は三度の「鯛の鼻」の北にある「大神 (おおがみ)」という海の「立島(たてじま)」に降臨された。この島は細く 天を突くような岩があたかも亀の背に乗っているような島である。ここにはこ の時の「お腰掛けの石」もあるが、やがて天照大神は三度湾に船を入れて南の 「長尾鼻(ながおばな)」にある「生石島(おいしじま)」に上陸された。最 初この場所から少し東の海岸に目をやると、人影が見えた。神は「人のいそう もない海岸に、不思議なことだ」と言って、そこへ行ってみたが、誰も居な かった。そこで「生石島」に引き返して振り返るとやはり人影が見えた。もう 一度返って捜したが誰も居なかった。・・三度目には意を決してその先の集落 まで行ったので、ここを「三度」というようになった。人影と見えたのは、実 はこの場所に何回かお迎えに出ていた猿田彦命の姿であった。常に人影が見え たので、ここには「常人(じょうひと)」という地名がついた。またこの湾の 「生石島」にも天照大神が腰を掛けたところから、地区の人は「お石様」と名 付けて崇敬している。それに途中では水のある処を越したのでそこには「越水 (こしみず)」という地名がついた。三度の集落に入ってからは、中谷正宅の 裏にある石の上で休息された。それでこれを「お腰掛けの岩」と言っている が、近年までこの石に注連縄を張って祭っていた。ところで、天鈿女命は近く の山に登って「天照大神の鎮まります地はどこがよいか」と辺りの峯々を見回 した。そこでこの山を「峯見山(みねみやま)」と呼ぶようになった。峯見山 から南東に見えたひときわ高い山に天照大神をお連れして、しばらく鎮まって いただいた。この山は珍崎の南にあって、あくまでも仮の場所なので「仮床 (かりどこ)」という地名をつけた。一説に、この山で狩りををしたので「狩 床」になったともいう。さて、天照大神はここで七谷七尾根ある場所を捜し た。その時「この山には谷が一つ足りない」と言って持っていた筆に硯の水を ひたして一滴落とした。するとたちまち小さな谷が一つできて、これを「硯 水」といった。また、その筆で手紙を書いて大空に投げ上げたところ、この山 の頂から二羽の烏が飛んできて口にくわえた。そしてはるか東方に見える焼火 山を目指して飛んでいった。烏の飛びだした場所には「烏床」という地名がつ いた。焼火山の神様は、この手紙を受け取って神勅とおぼしめし、早速聖なる 大宮所を選定して報告した。それを受けて猿田彦命と天鈿女命は天照大神を焼 火山の大宮所にお連れした。こうして焼火神社は天照大神をまつることになっ た。それに手紙をくわえて飛んだ二羽の烏は後に焼火山内に棲みつき、いつも この神社の境内に来て遊んだ。参拝者があると、境内の木の上から鳴き、神殿 の上から騒いで神社の人に知らせた。子供が生まれると、その役目を譲って親 烏二羽はいなくなるという。その後、猿田彦命と天鈿女命は三度の海岸の「奈 那」という所で雌雄二つの石を産み、神光を発しながら亡くなった。村人はこ の二つの石を亡くなられた二柱の神の霊魂の寄代として崇め神社を建てて祭っ た。その場所は猿田彦命が天照大神を待っていた所であったので「待場(まち ば)」と命名し社名も「待場神社」とした。一方、焼火山の神様は別名を「千 箭(せんや)の神」といった。これは神功皇后が三韓に出兵するとき、弓矢を 携えて出現なされ、待場・峯美の二柱の神を引率して従軍されたからである。 千の矢を放った場所は三度崎の「追矢床(おいやどこ)」であり、その矢が韓 の国まで走っていったので「矢走(やばしり)」という地名もついた。軍馬を 出された所は「御馬谷(みまだに)」といった。 『隠岐島の伝説』より
一条天皇の昔、西ノ島の海上に、夜になると明々と燃え盛る火があった。それ は数日続いた後に、飛行して西ノ島町の最高峰焼火山上に入った。驚いた村人 がこれを追って登ってみると、山頂近くに高さ数十メートルの岩壁がそそり立 ち、それがあたかも仏像のように見えた。そこで村人はこれを拝み、その場所 に一宇の堂を建てて祀ったのが「焼火山雲上寺」の始まりである。この寺は別 に大山権現・焼火権現などといわれた。また、明治五年には焼火神社と改称さ れたが、この神社のある焼火山には、今でも大晦日(旧暦)の夜になると、南 の海から火の玉が昇って行く。それは、知夫村古海の俵島を通過して、山頂近 くの「灯明杉」にかかり、やがて本殿内の常夜燈に移って燃え盛る。里の人は これを海神が焼火神社の神様に神燈を捧げるからだといってこの夜参拝する が、漁師や船乗りはこの火をことのほか篤く崇敬している。そしてこの神燈が 盛んに燃えた次の年は必ず豊漁であると信じられている。一説に、俵島を通過 した火の玉は、一つは焼火山上に上がり、もう一つは島後の大満寺山に昇り、 最後の一つは出雲の国の枕木山華蔵寺に入るともいう。また、焼火神社の神様 は、暗夜に漂流する船を救助するという。時化に遭って、海上で万策尽きたと き、焼火の神様に祈願すると、三筋の光が現れてくれる。その中央の光に船を 向けると必ず安全な港に入ることが出来ると伝えたれている。 『隠岐島の伝説』より
むかし一条天皇の御宇、このあたりの海中に光り輝くものが現れた。住民がふ しぎがっていると、やがてある晩、その光が飛んでこの山に入った。住民が 登って見ると、そのに薩陀のような石が立っていた。人々は恐れつつしんでそ こに一宇の御堂を建てた。時代は下がって承久年のこととなった。倒幕の企て に失敗された後鳥羽上皇は、都からはるばるこの隠岐島に流されて来られた。 ところが日暮れて波高く、御座船は今にも沈みそうになった。上皇は一心に念 じ、一首の歌を詠まれた。「われこそは新島守よ沖の海の荒き波風心して吹 け」。すると波はおだやかになった。しかし暗夜のこととて方向がさっぱりわ からない。そのうち風雨がまた起こり、御船はまたゆれ出した。上皇は必死に なって祈念された。するとはるか彼方の空に一点の光が現れ、それが海上を照 らした。そこで上皇は、「灘ならば藻塩焼くやと思うべし何を焼く藻の煙なる べし」と詠まれた。こうして上皇はとある港に着かれた。するとそこに一人の 老翁がうずくまっていた。上皇が、ここはどこかとたずねられると、老翁は、 隠州知夫の波止というところでございます、と答えた。そしてまた、今夜海上 で歌をお詠みになりましたが、なぜあのようにお詠みになりましたか、と問 う。上皇が何のことかと聞き返されると、あの「何を焼く藻の」というところ が少しおかしいと思います。「何を焼く火の」といえばよいではございませぬ か、という。上皇が驚いて、お前は何者か、と問われたが、老翁はただこのあ たりのものでございます、というだけで、深くは答えない。そして誓って海船 をお守りいたしましょうといったと思うと、急に姿が見えなくなってしまっ た。上皇はのちにこの山上に祠を建て、弘法大師が刻むところの薬師仏を安置 し、焼火山雲上寺とされた。これが焼火山の起こりである。この山上に一つの 壷があり、そこから神銭がわき出す。これが水難よけのお守りになるとして、 方々から受けに来るものが多いが、そのときには必ず二銭を投じて一銭を受け るというふうにするので、その数はふえる一方である。山中に二羽のカラスが いる。常に二羽いてそれ以上にはふえない。参拝者があるとこれがさわいで社 人に知らせると・・ 『出雲隠岐の伝説』「隠州視聴合紀」より
「焼火山雲上寺・真言宗・寺領十石・神主吉田岩見 当山は本郷より巳ほ方へ壱里三町也、端村よりは一四町鳥居よりは九町、大山 明よりは五〇町在、其路何れも険難九折を経ていたる、嶺に巨岩在り、其半腹 に穴あり、是に宮殿を作れり、拝殿より長廊を造り続けり、鐘楼在り、宝蔵 有、山上へ行道在て到れば神銭涌出る一壷在り、人壱銭を得る時は水難をまぬ がれ疫病をさける、一銭を受けて二銭をなしける故に、日々数十倍に及、しか れどもあえてあふるる事なし、西の方に僧房在、昼夜参拝の客無絶、貴賎を不 分饗応をなす、古樹立並て茂れり、山中に双鴉在り、常に堂前に遊ぶ、山樹に 巣ふ、客来とする時者庭樹噪ぎ屋上に啼く、是によって社僧祠人は之を知る、 神前に出て以待之、子が産れた時は反哺して去る。縁起有、神徳を記して説く にいとまあらず、神火を施して闇夜の漂船を助け給う、凡そ秋津州は言うに及 ばず、高麗に到っても神火を請う時は出ずと云事なし、承久の昔し後鳥羽上皇 御来島の時波瀾暴風強く、御船中御製在て神火の出事は海士村勝田山に記す、 其時より焼火山雲上寺と号すとかや、是上皇の賜所の号なり、晴に望時は雲州 伯州の山を見る、曇る時は墓島、赤灘、葛島等も雲霧に阻てらる、気景に勝れ たる地なり、他国にも有かねる山なり、所々より多宝物を捧奉る也、宝蔵、た だ神徳の致す処にあらず、寛永之始、水無瀬中納言、勅に依て勝田の御廟へ来 りし時、上皇の御取立被成山なれば、昔の跡を慕い御参詣在て、所々巡礼せら れしに、彼御寄進の薬師仏も僧房に在とかや、其時之詠歌とて・・千早振神の 光を今も世にけたて焼火のしるしみすらん・・短冊に書て在り氏成卿自筆と見 へけり」 『新修島根県史ー資料編ー近世(上)』「増補隠州記」一八八頁より <書跡>紙本墨書、焼火山縁起書一巻。 所在地、隠岐郡西ノ島町焼火神社。所有者、焼火神社(宮司、松浦康麿)。指 定事由、焼火山縁起の近世に於ける集大成であり、奥書は万治二年秋八月とあ り。作者は松江藩士で寛文年間隠岐郡代を勤め「隠州視聴合紀」を著した斎藤 勘助豊宣で斎藤家の二代目である。この仁は隠州視聴合紀を著わすほどの人で あるので、郡代勤務中たまたま焼火山へ登拝し、当時の別当より色々と縁起に つて聞き、それをまとめたのが本縁起であろう。豊宣は「焼火山縁起」のみで なく、「文覚論」も書いており、そのいずれも視聴合紀の巻末に載せている。 また、この外に「焼火山由緒記」もあり、この中には当時の龍灯祭の事に就い て記している。奥書、干時萬治二年秋八月。雲陽散儀生藤、弗纈緩子誌。とあ るが弗緩子は豊宣の号である。現存のものは、「延宝九年」松江藩士静宇木子 の筆になるもの。これは前期豊宣書のものが相当破損したので上書して巻子に 仕立てたものである。島内にも縁起書の残った神社も数社あるが、半紙綴のも のが多く、これらの代表として本縁起を指定した。(松浦記) 『隠岐(島前)の文化財一五号』
神仏に心願成就を祈念する時、その礼物をあらかじめ神仏に約束してから立願 する方法がある。その御礼奉賽に参ることを「願開き」というその献納物はい ろいろであるが、焼火神社に於けるものは、 千本幟の願 これは島前どこの神社でもある方法である。五寸位の長さ の割竹をけづり、それに巾一寸五分位の紙を幟形に巻いたもの千本。鳥居から 拝殿までの参道の両側に立てる。これは戦後も続いていたが、現在は殆ど見ら れなくなった。 金(かね)の鳥居の願 金の鳥居というと聞こえはよいが、鉄板又はブ リキで高さ巾共五・六寸位の鳥居を献納する。神をあざむくもはなはだしいと 思うが、ただし当人は初めから右様の物を考えているから神をだましたという 意志はないはず。これは今でも時々ある。 ジンメの願 「ジンメ」は恐らく神馬であったと思うが、その方法は馬 と関係ないのではっきりは言えぬ。おれは心中にジンメの願を掛け、願成就の 時には参詣してその旨を申出て最小一日から長い者は一週間位神社の雑役奉仕 を願出た。今流にいえば勤労奉仕、天理教でいう「ヒノキシン」と同じ考え方 である。仕事の内容は境内の掃除、祭礼時の荷上げ、春詣りの賄手伝等々が主 であったという。変わった処では裁縫をさせてくれと申出た者もあった。これ は大正の中頃まであった。 流し木の願 これは岡山県和気地方で行われている方法である。この地 方では「隠岐の焼火の権現は一生に一度は必ず命を助けて頂く事の出来る神 様」といわれており小願は一週間、大願は二十一日間自宅に於て祈念をする。 そして満願の時は奉賽の為に「流し木」をする。木の大きさは人それぞれに異 なるが、一間から三間位までの丸太を近くの吉井川に流すとそれが焼火権現に 届くと伝えられている。(岡山県和気郡佐伯町用賀藤原栄氏開願の為に参拝、 談) 木を植える願 これは開願の時神社に参って境内に献木植樹するもの。 鳥取県八頭郡智頭町方面で行われているもの。この地方には別に人の目につか ぬ奥山に入って「焼火権現の方に向かって人火を焚く」という方法もあるとい う。最近あったのは昨年三月智頭町戸板定雄氏が檜苗五本を持って参拝した。 蚊帳に入らぬ願 私の少年の頃まで、夏になると蚊帳に入らぬ願をして いたからといって、夕方に参拝して客殿でお篭りをして帰ったものである。蚊 の多い処で蚊帳に入らぬというならわかるが、私の山の家はあまり蚊がいない ので、蚊帳は一帖もない。この開願などはユーモラスがあって面白い。以上が 焼火神社に対する「開願」の方法である。庶民信仰として面白いと思い記して みた。 『隠岐(島前)の文化財六号』
船越の奥に高崎山という山があり、そこには古い寺跡がある。昔、この寺の住 職良賢和尚は焼火山雲上寺をも掛け持ちで務めていた。生まれは九州薩摩の人 であり、愉快なのは魔法飯綱を駆使したことだ。たとえば焼火山に客が来ると 「高崎山に茶を忘れてきた」などとつぶやいて書院に入り天狗に命令してすぐ に持ってこさせたという。また、高崎山の弥山(みせん)という所には「白 滝」という場所があって、そばに一本周囲四メートルの大杉があった。これは 天狗集合の目印の杉であったという。寺跡から東に一キロばかり行くと「傾城 が床(けいせいがとこ)」という場所がある。この寺は女人禁制の霊場だった ので傾城が床には大きな家を建てて、そこに遊女を数人置いていた。そして、 寺に参詣人があると良賢和尚は寺内の男達と共に参詣人を連れて傾城が床に出 かけて酒を飲み遊興の限りを尽くした。それで「傾城が床」という地名がつい た。そこから南西に七〇〇メートルばかり下ると「魚切」という所がある。こ こは「傾城が床」で必要な料理を作った場所である。後に美田の長福寺の僧侶 で覚文坊という男が高崎山にこもって飯綱の法を修得しようとした。ところ が、どうしたわけか、この山の天狗に嫌われてうまくいかなかった。その上、 この山に七年いたが七年とも不思議に台風が吹いたので、ついに里人の願いに よって覚文坊は山を下ろされた。そのときから、高崎山の寺は次第に衰え、本 尊の薬師如来は別府の千福寺に移されてしまった。今はその千福寺も失われて しまった。 『隠岐島の伝説』より
焼火神社の特殊の御守に「銭守(ぜにまもり)」がある。これを江戸末期頃ま で、江戸に於て頒布していた記録がある。「御尋申上候一札之事。松平出羽守 様御屋舗深造院内不動尊脇へ焼火山之写ヲ拵へ御相殿ニ被為成、是江戸隠州方 ヨリ神銭御望ノ儀申来候節、其ヨリ仰聞候ニ付差出運送(中畧)同所ニ於テ御 取扱ナサレ候由ノ処、以来ハ右神銭深造院へ請込ミ諸方望ノ仁へ相伝候様ニ相 成候テモ差障ノ儀ハ無之ヤノ旨御尋ナサレ候処、右両様共差障ノ儀御座ナク候 此段御請申上候以上。隠州焼火山別当、雲上寺(印)弘化二年八月。御役 所。」また、弘化三年「御尋ニ付申上候演説之覚」の一札もある。この内容は 神銭の授与料についてであり、一二銅で授与しているが、その内六銅は今まで 通り深造院の方で取り六銅を当方に送る。また「神銭壱万銅位宛御望ノ儀申来 候ニモ差支ノ儀無之」云云とあるところからすると年間江戸で一万体以上の神 銭を授与していたようである。この神銭については当社の縁起書にも書かれて おり、それによると「山上ニ壱壷アリ神銭涌出ス」云々「二銭ヲ投シ一銭ヲ 得」とあるように二銭をあげて一銭を頂いて御守としたようである。霊験の方 は「水難ヲノガレ疾ヲ避ク」とあるが、江戸の翫銭好事家の記録「板児録」に は「火難、盗難除の守」となっている。当方に「天保三年、年中御札守員数」 という資料があり、年間の集計が個所をあげると、一神銭七九〇〇銅、御供一 二四〇、疱瘡守一七一六〇枚、牛壬一五〇〇余、大御影一六〇〇余、小御影三 九〇〇とある。右の神銭の数は江戸に送ったものも含まれているかどうかはわ からない。右によってその時代の振興の内容も伺われて興味深い。疱疱守一七 〇〇〇余は驚きである。今は殆どみなくなったが、旧字には正月に疱瘡神を祀 るヒモロギ様の小さい台があったのを覚えている。神銭守は今でも神社で出し ているが往昔のように受ける人は数える程しかいない。こちらでは、錠が海底 にかかって取れない時とか網が掛って取れない時、おもしろいのは猫にばかに された時神銭(一文銭)の穴からのぞくとよいなどといわれている。神銭が通 貨であるのも特徴である。(松浦記)。 『隠岐(島前)の文化財一七』