文献資料

●伊未自由来記
●隠州視聴合記(巻四ー島前)
●増補隠州記
●忠敬先生日記

伊未自由来記


伊未自由来記
一、木の葉比等。隠岐の国に初めて住み着いた人間は木の葉比等であった。後の
世に木の葉爺・木の葉婆・箕爺・箕婆などといった人も、この木の葉比等の族で
あった。この人は下に獣皮の着物を着て、上に木の葉を塩水に漬けたものを乾か
して着て、木や川柳の皮で綴ったものを着ていたから出来た名前である。髪を切
らないし、髪も延びたままで、目だけくるくるして恐ろしい姿でったが人柄は良
かった。一番初めに来たのは、伊後の西の浦へ着いて、海岸沿いに重栖の松野・
後・北潟(分の北方)に来て定住した男女二人で、火を作る道具や、釣をする道
具を持っていた。次に来たのは男女二組で、長尾田についたので、重栖の煙を見
て来住したが、今一隻が男一人・女二人南の島へ着いたというので、晴天の日、
南の島へ渡って探したが、わからないので、一番高い山の上で火を焚いたとこ
ろ、火がなくなって困っていた男女三人が登ってきた。当時、火は一番大切で
あったし、目標になるので、この山頂の火は、男女二人が絶やさぬようにして子
孫に伝えた。この山が焚火山で、この三人が着いたのは、今の船越であった。そ
の後年々島の各地に同種の人間が漂着して定住したが、先に来たものが生活が楽
であったために、重栖と船越に集合したが、後には全島に分散居住した。この
人々は甘い団子を作ったが、この団子は後々まで、役道の邑にて作られ、杵取
歌・餅まき歌・子守歌とて伝えられるも杵取・餅まき歌は歌意難解、邑長家のみ
伝わる。子守歌は難解のまま一般に今も歌わる。
「島のモクノシセイボン熟れた、ハイベンタイベンソウベン拾うた(牟羅にては
ハイベンタイペイソウペイは拾うたという)、ハレパメこめてのもみプリホク
に、ムリトントガヂャドすべも焼いた(牟羅はトガトンという)、モリクシソメ
をサンにして、クドのシリキがヨンギあげりゃ(牟羅にてはシキリをセイロとい
いヨンキはモヤという)杵翁やっとこ臼婆は、やっとこはいや やっとこはい、
たらいしとぎのつきはじめ、あーらめでたやめでたやな。餅まき歌 臼婆は杵爺
にこづかれだんつくだん、だんつくだんだん子が出来た、出来たその子がそれだ
んご、サンヤク苺タイマママイ苺、椎栗団子にたらいぞえ、トキカリひろげてキ
ダリショウ。子守歌 アチメ露分けて枝折になり暮れりゃ、ネエリチョンナリタ
アトさん、木の葉団子を貰うて、チャーシャーアドリに負うはして枝折のサンコ
クケンチヤーナねんねの子よ団子の子、ほえりや杵翁がひげの中、ドングリズニ
を光らせて、白い歯出して笑うぞえ、ダンマテねんねせいよ、この子はよい子だ
ねんねせ」
これら木の葉比等は、西方千里加羅斯呂 から来たというが、また韓之除羅国か
ら来たともいう。
二、海人(阿麻と云う)。顔から全身入れ墨した物凄い風体で、この人間が、木
の葉比等に次いで来た時、木の葉比等は大いに驚き恐れて、部落人が集合して彼
らに立ち向かったが、海人も甚だ温和で、漁が上手であったので、遂に雑居する
ようになったが、年月と共に出雲から相次いで来住し、後には木の葉比等とは海
人がつけた名称だという。海人の於佐神は於母島の東後、奈岐の浦にいた。この
頃隠岐は小之凝呂島と称えた。それは小さな島の集まりであったからである。こ
の大島を於母の島、南の小島三島を三つ子の島、東の島を奈賀の島、南の島を知
夫里島、西の島、船越の南を麗又の名宇留、北を比奈又の名を火地と称えた。海
人が来航して間もない頃になって出雲の大山祇の神様の一族が来航したが、数は
少なかった。その後海人の於佐の神が海賊に殺された。
三、山祇。海神の於佐之神が死して、出雲の鞍山祇之大神の御子沖津久斯山祇神
が小之凝呂島の神として来航、於母の島の東の大津の宮居して長い年月平穏で
あったが、出雲の国が於漏知に奪われてから、此島へも於漏知が来航して財主を
奪い、乱暴するので、三つ子の島の民は於母の島へ逃げ、於母の島の東大津も又
於漏知に襲われるようになったので、宇都須山祇山祇神の代に至り、神は於母島
の西の大津松野という地、後の主栖津、北潟に移して、海防に努めたが、後三つ
子の島は全く於漏知に奪われ、民は於母の島に避難し、神は於母の島民を結集
し、老若男女すべてに武事を教えて対抗、於母の島と三つ子の島は長い間闘争し
たが、三つ子の島の力は年月と共に強力になった。於漏知は踏鞴を踏んで金を作
り、鎧・兜・盾・剣を作るので、それを用いたので、人数は少なくても戦いは強
かった。然して於母の島も於漏知の度重なる来襲に耐え難くなり、流宮の加須屋
の大神祇大神の援助を受けるため使いをやった。小之凝呂島に米を作った。始ま
りはこの山祇神の代であったので、後の世まで島の各地の護神として山祇神が祀
られた。又流宮の大海祇神もこの島の海人共によって各地に祀られた。沖津久須
山祇其女神比奈真乳姫神其御子比奈真岐神は共に三つ子の島比奈の地に祀る。
四、大人様。流宮加須屋大海祇大神は宇都須山祇神の願により、軍兵を小之凝呂
島へ遣す準備を整、御子奈賀の大人様に多数の兵戦に多くの軍兵を乗せ武器・衣
料・農工具・種子類まで持たせて流宮を出発せしめ、大人様は於母の島の松野に
着船、全島征服の準備をされた「(以下阿部老の昔話)大人様は一足先に出雲に
来り、大山祇神の姫をめとり、脇板(?)んで、只一足で小之凝呂島の於母の島
にわたり、松野につき、右足を主栖に左足を都万に大満寺に腰掛け焚火の火で一
服された。その時、吸殻を落すために煙管で知夫里島をゴツンと打ったところ三
つ子島の於漏知共が驚いて、十尺許り飛び上がった。その時に西の島と知夫里島
の間が雁首の跡で瀬戸になって、吸殻が海へ落ちてチンと言ったので、珍崎とい
う名が生じたという昔話がある由」大人様は、とりあえず、於母島の於漏知を討
伐したが、於漏知は相次いで渡来するので、油断ができず、その上於漏知は強力
で、遂にその子孫五代にわたり空しく松野に相継ぎ、年月が流れていった。六代
目の出雲大山祇神の姫をめとり、その援助を得て、於母の島全体を征服し、今度
は三子の島の征服の計を立てたが、三子の島では尚於漏知の数も多く容易でない
ので、先ず本拠を松野から於母の島の東の大津に移して宮居を作りこの宮地を公
処(くむだ)と称えた。これが後の宮田である。公処のある地を大人様の祖先の
発祥地名を取って奄可と称した。又大人様の土地の長職の意味から地公の命・又
の名奈岐の命と称え、この津一帯を奈岐の浦と称え、命は又奈岐の浦命とも称し
た。この命は津戸を三子の島征服の拠点として密かに渡船の機を待ち、奈賀の島
の豊田に上陸した。この地方は於母の島から最も早く着く里であったので、地方
名を早着里、又は佐作と呼んだ。而して三子島全島を服し、比奈の船越し美処・
又の名美田に三子の島の公として、主栖の山祇の神を駐し、奈賀の島の南の瀬戸
を左道と呼び左道守の神を屯せしむ。この神を左路彦命という。又奈賀島の北の
瀬戸を右道と呼び、その守神として海人比等邦公を充てたのであるが、この子孫
は天平の頃まで栄えたという。後奈岐の浦命の子孫は全島海部大神として栄え
た。
五、美豆別之主之命。又の名小之凝呂別命・水別酢命・瑞別主命、これの命天津
神の御子にて数多の久米部・綾部・工部・玉造部の民を率いて来島、小之凝呂島
を奈岐命より譲りうけ、その娘をめとりて宮居を奈岐の浦中の鼻に立て、城を築
き、目の城と称し、浦に注ぐ大川に添える地を開きて農耕をすすむ。この地を新
野という。この川は八谷り尾の合流なれば八尾川という。於母の島西岸の防衛を
前線とし、島の南北を貫ける山を境として後線とし、これに城を作り、久米部を
もって城邑をなさしめて防備の傍ら開墾に従事せしむ。この城のありし地、今も
その地の名に城を附して残る。宇津城・阿羅城・江津城・増城・阿武城・宇陀
城・焚泊城(今歌木)これなり。城の東を周城と称す。西は民少なく、主として
久米部の駐屯せるによりて役道又の名を伊未自という。周吉は加茂・新野・奄賀
三郷なり。役道は布施・飯尾・元屋・中村・湊・西村の大浦・今は牟羅という。
主栖は昔、主の住みけるによる。役道の南端を津麻という。端の意なり。これ役
道三郷なり。比等那公を以て治せしむ。三子の島にありては、主栖の沖津久期山
祇神を小期凝呂山祇首として比奈・麗・知夫里を兼治せしむ。那賀の地は奈岐浦
命を小之凝呂島海部首として兼治せしむ。この後、阿曇首という。かくて全島平
穏に帰し、於漏知も温和となり、高志・丹波・竹野・出雲との交通もひらけ、重
栖はこれらの地と韓との交通上、往航最後の待機港、復航最初の給食給水の穏息
港となったので、後に穏息または穏座と記して於母須と訓した事もあった。主栖
の地は三子の島から於漏知に追われて来住した山祇人が栄えたので、その遺跡が
特に多くあるが、海人のもある。斯くして小之凝呂別命に依って治められたこの
島も、その後出雲に大きな戦いが起こって因縁の深かった大山祇大神の勢力が落
ちてきたために、新たに出雲から奈賀の命が来航、この島の治神となり、小之凝
呂別命は免じられて、全島の久米の首として久米部の主力を率いて主栖に移住さ
れる事となった。その本拠は後の国府路の垣の内という地であった。別之主命の
祖神は別の祖の神として久米部の祖神としてこの地に祇られた。
六、奈賀命(后中言命という)。阿遅鍬高彦根命の御子にて丹波の須津姫をめと
り、来島。新野川辺に宮居を建てて住みたまうという。後この地を蔵見という。
この神大いに農耕をすすめ各地に開墾・溜池を作り道路を新設し、漁船の建造を
すすめたまえるによりて島民の生活は大いに向上してきた。又妻神須都姫命は丹
波の長自羽麻緒姫と共に織女を迎えて各邑に織布を教え、丹波の須津より薬師を
招きて薬草の栽培をすすめ、医師を迎えて病者の治療に努めた。その後主栖に珠
城宮天皇の皇子誉津部、又の名保地部という御名代部を定め給う。この後の名代
田、又の名苗代田植之内にて、その田は後の保地なり。更に日代宮天皇の御代に
いたり、新野と主栖に田部屯倉を定められ、そこを田部垣の内という。奈賀命は
田部首を兼ねたまう。この時美豆別主命は別の酢の神を奉じて久米部を率いて久
味に移駐し返防の事にあたり、開墾・農耕をはげました。息長足姫皇後、三韓を
討ちたまうみぎり、皇后は多遅摩出石にいたり、美豆別主命又の名伴の首に兵船
の事を命じたまう。命は小之凝呂の久米部を数多く率いて皇后の軍に従いたれ
ば、韓国より得たる数多くの財宝をば皇后より賜る。この時の剣は後美豆別酢神
社に残った。竹内宿弥は都万の地に祖神紀之健名草三神を祀りて武運長久を祈り
神地神戸に定む。更に神功皇后の兵船が役道の主栖に来れる時久米首の祖伊未自
姫は十挨命の妻となり十男子あり、後に姫死して男子は大和美和の父命の許に送
られしという。美豆別主命の後は大伴部首という。その後若桜宮の朝に至りて久
味の地に伊勢部を定められ、この命は美豆別主命の神璽を奉じ、伴部の民をつれ
て役郷に移住し、各地の久米部を持ち、奈賀命についで力があり。役郷は久米部
の郷の意なり。伊勢国造の御子健伊曾戸命は、その祖天日別命又の名大伊勢命の
神璽を奉じ、伊勢部の民を率いて久味に来住した。宇津志奈賀命は後国造の来島
により於母の島の田部首となりて一族を具して、その祖奈賀命の神璽を奉じ主栖
に移住し、役道を兼治したが、後に三子の島の田部をも領した。徳が高く、その
子孫阿曇首は後出雲大阿曇造に属し長白羽姫の子孫、服部首家と共に栄えた。
七、国造。誉田天皇御間都比古伊呂止命五世の孫十挨族命を隠岐国造に定め給え
るに及び大津部伊勢部海部山部服部の五首は国造に協力し功あり。この頃異国人
の来襲盛んなり。国造は沿岸の防備を益々堅固にし田部名代部を督して開墾を励
め道路を開き、島民に衣を与え、医師・薬師を各邑に見舞わしめ、兵船を数多く
作り、民心を和し、賞罰を明かにし、各部の氏神に領地を配し、敬神の志を厚ら
かしめ、孕婦の労力を禁じ、幼少老人病人に食衣を給し、密察使を置いて民情を
糺し、漂着者に(以下略)。

【田中註】
本書は五月二十七日、池田国分寺にて開かれた第六会隠岐郷土研究会の席上、北
方金坂亮氏の発表せる伊未自由来記を筆写せるものである。伊未自由来記につい
て金坂氏は次の如き説明をした。「この原本は六十枚程あり、表紙には伊未自由
来記、永享三年持福寺一閑、古木所有と記されていた。この他に隠座抜記・隠岐
国風土記といったものもあった。」
明治四十三年ごろ、金坂氏が北方郵便局に在職の時、那久の阿部廉一翁が上記の
ものを持参し、金坂氏に口約しつつ説明したので、金坂氏が四三・一〇・三〇の
消印のある電報受信紙の裏に筆記したものである。隠座抜記や隠岐国風土記は今
どこにあるか不明だが、伊未自由来記の内容から見て、その原本とも思われるの
で、その発見が望まれている現状である。

隠州視聴合記


「日本庶民生活史料集成」第二十巻
隠州視聴合紀 巻四
嶋前記
知夫郡・同別府
島前は地脈三つに断たれて三島たり。海部郡一つ、知夫郡二つ、皆峻高にして原野あらず、故
に嘉蔬少なくして、菽麦多し、其草は惟れ短く其木は惟稀なり、其山は峻にして其村落は皆山
を後にし海を前にす、此故に網引漁釣を事とし、此を山税海租とす。海部は坤より艮に長く、
知夫は其西南より北方に曲りてケンサンたるカイ山なり、其半面東の内浜に向ふ所、則ち別府
なり。古島後より一小吏を遣わし、島前の事を知らしむ、故に此を別府という、北の小岡に昔
の館所あり、今の駅亭は其下なり、代官の家此にあり。民家左右に分かれ、猶地勢高くして遠
きを見る。河の南に見付島と云うあり。蓋崎邑より入来る船の、先ず此島を見るによりて名づ
く。其南の山崎に松樹多く生出す此より美田郷の境なり、即ち美田尻といふ、上に八幡宮あ
り、別府の古吏の氏神といふ。府より西は山にして半腹に飯田寺といふあり、越えて西に下れ
ば高崎といふ、高岸千丈雑樹多し。海に立島といふあり、此を白島といふ、釣魚の宜地なりと
ぞ。府より北の山崎を黒木と云ふ。伝に曰く、昔後醍醐天皇姑く狩し玉へる所なり、故に今に
到りて黒木皇居と云ふ、北の方海に随ひて東が崎と云ふ所を過ぐれば、北の山を香鴨といふ、
寺ありて香鴨寺と号す、其崎を廻り行けば、十四町ばかりにして宇賀村に至る。
宇賀村
宇賀村は内海の岸辺、地形別府に似て狭し、後の山間に田園ありて往来崎嶇を経、十町ばかり
を西北に越ゆれば外海に出ず、此処を鹿浦と云ふ。是より南別府山に次ぎて、耳が浦といふあ
り、皆人家なくて岩間にて漁釣をなす。村より左は倉谷といふ。海岸を北へ回りて山下を行く
こと十九町にして、大宇賀小宇賀といふ蜒家あり、十町ばかり丑寅に廻り行きて海に冠島二股
島あり、北へ行く事三十町にして、沖の方に星神といふ嶼あり、雨を祈り風を祈る、高さ五十
間廻り百六十間此より北は海漫々として天を窮む。別府に帰りて八幡の前より西の方小坂を越
えて美田に行く、左右は皆翠微にして或は少しく田園あり。
美田郷
(或は美田院と云ふ)
美田郷に東より入り小坂を下れば又田園あり、左に古き神祠あり、西に向かふ高平の地に旧石
塔の大なるあり、一国の中物の是に似たるなし、想ふ故あらん、然れども銘摩滅して證す可ら
ず。此より下れば入海の渚に出づ、南に去る事三十町ばかりにして海に出ちる小島あり、此を
小山と云ふ、松根波に濯はれ、岸高き上に旧坊あり、此より右に行く山の腰に長福寺あり、岩
径斜にして松竹柴門を蓋へり。其麓は田圃ありて、温居市部大津小迎船越なんど云ふ村店あ
り、皆入海の岸に臨み、山に随つて住居せり。其船越といふ村より外海に出づること甚だ近
し、東西の山勢尽きて、陸地十八九間ばかり海に出づる径亦此の如し。往年多力の賊夫あり、
入海の岸より船を負ひて外海に出でて終日釣漁し、又負うて入海に帰る、故に此村を船越と号
す。 克く船を遣ることあり、況んや近き海辺をや、萬言にあらざるべし。此辺の小村は皆美
田の境内にして、税賦も亦同じ。彼小山より寺前を左へ行けば、美田本郷に至る。三方は山に
して、未申に向かいては入海の岸上なり、茂樹繁竹の間山路縦横なり、板屋茅屋軒を接へ、田
俊船叟群居す、此も亦昔は院の御料とて美田院といふ訝し、何故かあらん。或人曰く造蔵院の
ある所を院といふとぞ。南に松山あり海の西へ指出たり、越ゆれば遠く波止村につづけり、其
間樵路多くして近隣の者薪柴を探り、背の山の東麓より内海を伝行けば美田までは三十一町、
其間を大山脇と云ふ。
 「按神名帳知夫郡有大山神社此山焼火之神歟、謂之脇則斯山可為大山者可知牟、脇者其麓根
之義歟、」
大山脇より南に去る事海路十六町にして、山南に大巌の峨々たるあり、高き事五尋あまり、上
に穴二つあり、一口は未申に向ひ、一口は巳に向ふ、内の広さ丈余ばかり、此を文覚が岩窟と
云ふ、昔文覚投荒せらるる時、此に居て修練す、小松側に生じ苔蘚石を彩れり、岩下浪翻り怒
潮音誼し、遡回して従はんと欲すれば、崖岨て且つ高し、船中より見るのみなり、一島の出た
る処の右に廻れば鉢が浦と云ふ。是より西方直に北に行く其山址を波止といふ、先の美田の松
山につづけり、此は彼の後鳥羽院の官船を寄せ給ひし処とぞ。谷際に小堂あり、茅屋が軒端の
月も見しと製吟ありし堂なり波止村より焼火山に登る村の間、谷水流れ傍ら椿多し。此より山
上に至る其路二十町許り、険難九折にしてまた赤土あり、強半を過ぎて少しく平かなる尾上あ
り、遠望絶景なり、門前に至る処又谷深く径窄にして石肩高く出でたり、波止村より船に乗じ
美田に帰ること三十四町、入海を斜に渡りて西に行けば浦郷に至る、其船路二十町あまり。
浦郷
浦郷は東南に向ひ入海の浜なり、西に神祠あり、山の半に城福寺といふあり。里の左の岸に臨
み、松老いて風興ある処に専念寺といふあり。人家多く連なり、北の方山に次いで小径あり、
越えて下れば外海なり、北山長く列なり、彼船越村を極む。郷の右につづきて薄子浦あり、其
山の出でたる処に、由良明神と号する小社あり、極めて小さく古りはてて亡きが如し、里人も
知る者なし。「按神明帳知夫郡有由良比女神、乃可為斯社也、恨土人知城福寺之為仏、不知斯
社之為神、神在而如亡、呼哀哉。」出たる山崎を右に行くこと遥かにして、荒生城奈尺居形崎
なんど云ふ小村、入海の岸に連なり、処々に住居せり。形崎の南の山端より、郷に帰る道一里
十二町、山より西の外海に廻り、美田居の崖鯛か崎国が浦賊が崎と云ふ処あり、其間に美田郡
と云ふ蜒家あり、餘は皆岩間の釣漁の地なり、又彼形崎山指出て、知夫山の北赤灘山に対し
立って海門となり。又東に出て葛島あり、五町ばかりを行渡れば、乃ち知夫山なり。漁翁の曰
く斯間勢不恒、或其形如岳嶽、其奮如雷電、膨騰奔激使人見之、則雖丈夫凋顔牟。其湍怒何以
到之乎、南有赤灘山、北有形崎山、崖爽勢迫湧而溝高、逆西風当東山沸、湧キョウ無可退消之
地如彼浙浙江海門、故数十間島中第一之急灘也、或風微潮平則有。一葦者渡。
知夫湊
並山
赤灘より知夫の本郷なり。故に惣て知夫山と云ふ。赤灘の左に小島あり。棹し囘れば二十餘町
にして宇類見と云ふ民村あり。山南の絶頂を卯辰に行く道あり。二十二町を経て二部里とい
ふ。山の趾に巨石多し。みな牙の如し。村老告げて日く。昔此に蘭舎あり。即ち宇類美坊とい
ふ。又南に在るをば二部里坊といふ。此両寺昔は殊に美盡せり。後醍醐天皇の皇居なりとい
ふ。其地の躰も然らんと見ゆ。
 按、別府黒木謂之皇居。此地又號天皇行在。蓋先在黒木。後遷于此歟。不然則経営黒木之間
姑在於此、終不果而潜幸歟。彼鶏人眠而出於寝所、半夜歩而到干知夫浦。可交見也。若在黒木
則何得歩行渡珍崎・赤灘乎。是其一一按也。
二部里より山崎を廻る事三町にして、沖に雁島あり。高きこと三十間。此を廻れば二町四十
間。東に去つて麻島あり。高きこと八間。此を廻れば四町三十間。又、二部里より山路の曲折
なるも次げり。南より海の入りける所即ち知夫津口なり。左を大居といひ、右を郡といふ。人
家分れ、岸に随ひ、津を挾んで列なり、田俊両所にあり。山路を宇類美の菖跡に行けば、山上
に願成寺あり。郡の北に松養寺あり。一宮又此に祭れり。凡そ此津は隠州の南岸、雲州に近き
浦なれぱ、往來の船多く泊れり。又、東西の旅舟も晴を量り、風を占ふ時は、多く此に集まる
とぞ。津を出づれば西の方に多澤村あり。棹し出づれば左に渡島あり。長きこと六町二十間。
横は三町ばかり石田あり。西の崎に渡明紳と號する社あり。或人疑ひて日く。此紳は和太酒の
社なるべしと云ふ。然れども其よる所を知らず。惟だ言の近きのみなり。南の島崎を大頭と云
ふ。此より郡・大居までは十九町。渡島と山岸との間を舟にて行けば、又、海の入りたるあ
り。西の岸に宇菅といふ小村あり。先の多澤より山を傳ひて來る道あり。六町三十間ばかり。
宇菅より二町ばかりにして崎野といふ人家あり。其南の山下を東に廻り西に廻る處、皆嵬※た
る岩壁にして、大舶を宿らしむることなし。岸を離れて五町ばかり南の沖に墓島あり。廻り十
町ばかり、其上に竹を産す。故に竹島ともいふ。西風激しく潮煙常に潅ぎかかる。此故に竹の
色班々として節高からず、葉もまた短し。好事の者此を求むる事多し。然れども四面絶壁にし
て、而も林中蛇多し。若し此島に至らんと欲する者は、風浪の穏かなるを窺ひ、孤舟に乗りて
岸に至り、乃ち舟を岸間に引き上げ、杖を以て地を撃ち、蛇をして蟄居せしめて、而る後竹を
伐り、舟を下し、相喚んで帰る。凡そ此知夫山は東西一里二十八町。南北二十一町。山傀儡と
して木少なく。谷深窄にして田園分る。小径多くわかれ、人家隔て住めり。麦・黍惟税、釣漁
惟業なり。東北の海中に小竹島あり。此より海部の崎村に渡ること海路一里五町。
海部郡
崎村
海部郡の西南に指出たる山崎を木槽崎と云ふ。岸聳え山蒼々たり。此より南に廻り、三町餘を
渡り行けば、山間三十間ばかり、海の入ること五十間にして崎村に至る。村は岸上の山腹三面
に人家あり。松老いて偃する間に神社あり。此を崎村の氏神と號す。其故あるべき處なり。後
ろの山に建興寺といふあり。當國の山伏先達の居所なり。海岸を左に行けば大井といふ小村あ
り。専ら釣網の蜑家なり。又、山を越え、戌亥に下れば、文畳が岩窟に向ひて塘と云ふ海岸あ
り。村老傳に曰く。此は彼鼠嵩と號する名区なり。俗訓鼓を塘と云ふ。又随ひて字を作ると云
ふ。山径を一里ばかりにして布施村に至る。
布施村
布施村は東海西山にして、廣さ十五町ばかり。田園少しく左右にあり。右の山を越えて今浦と
云ふあり。左の岸を北に傳ひ行けば、四町ばかりにして臺浦に至る。
臺浦
臺浦は布施に似たる境地にして、海の濱山の下なり。西に廻れば日須賀といふ小村あり。又、
内海の西岸にして、殊に陋しき處なり。左に松山あり。此より別府に渡る内海の船路二十町、
又、臺より山頭より傳ひ行く事十三町にして知々井浦に至る。其山間に櫻本と云ふ小寺あり。
知々井浦
知々井浦は海の入ること遙にして、山崎に松林あり。左殊に指出たり。此を知々井御崎と云
ふ。克く東北の風を防ぐ故に旅泊の輻輳する所なり。老人の曰く。昔より傳ひて此地を中の湊
と云ふ。此も亦名場なり。島前東南の諸津の半に在るによれりとぞ。山を西北に下れば、又、
海濱を保々美と云ふ。浦人の小村あり。其田嶋を西に行く山の尾上に雑樹あり。門の前に巨石
出で、活水湧いて冷々たり。石菖蒲茂生ひて岸上は滑かなり。門に入れぱ一堂あり。観音を安
置し、清水寺と題す。堂の左に坊あり。樹蓋ひ、苔生じて自ら塵無し。又、山に登り下れば、
東分と云ふ小村あり。森郷の内なり。
森郷
海部部の地故国人皆海部と云ふ
森郷は東分より行く。経山を越えて半腹に安國寺あり。岩径斜に登れば遠望懐を伸べ、山容粛
條として佛壇高く、窓前松老いて象緯迫れり。人跡稀にして烏雀階除に馴れ、藤蘿木々に掛れ
ども、西渓は晴れたり。願念の便無きにしもあらず。西の山下に西と云ふ小村あり。十八町を
過行けば本郷に至る。後は小岡にして松竹陰繁く、人家南に列りて尾上長く指出たり。昔賊徒
乱入の時、近隣の諸民此地を要害とし、柵を設けて防き戦ふ。賊軍常に敗続して一人を虜とせ
ず、一處を犯さず、終に奔り帰る。其捷を島後に献ず。時の國守佐々木氏、此事を功として手
から書を賜ふ。共状今に至つて此郷の長某が所にあり。郷に入る左の丘に一宇の草堂あり。桑
門多く集まり居て、念佛不断の行を修す。其麓の渚に一社あり。諏訪明榊と號す。又、長某が
門前を直に行けば田園多し。畦路を分過ぐれば三町ばかりにして山下に源福寺あり。是を葛田
山といふ。後鳥羽上皇の御陵なり。門に二王門あり。側に華鯨を懸けたり。此二王は君手づか
ら刻み玉ふと言傳へたり。此より四十間ばかり石※を山に上る。半過きて左に入る。左右松竹
凄々として緑薙雛に蔓り、又一小門あり。鞠躬して入れば拝處の前に至る。御廟其後に高し。
欄干を設けて階上に登る。四方は皆喬木にして竹籍を引團む。其間は小石隣々たり。遊客も來
ること希に、落葉も勤めて掃はず。見るに涙落ち、感慨自ら生ず。小門の前より直に登れば堂
前に至る。前庭は廣くして背には樹多し。本堂は胡麻(護摩)を修する地とて五大尊を置けり。
煙に薫じて佛も黒し。阿※棚に菊楓折乱せり。堂の左に坊あり。※を隔て空庭あり。其内に方
池あり。嶼に孤松の※するあり。此を葛田の池といふ。老僧語りて日く。昔王御遊の夕べ、蛙
鳴いて松風吹く。折に遇へば是もさすかに哀なるにや。
 蛙鳴く葛田の池の夕疊み聞かましものは松風の音
と詠ぜさせ給へり。是より蛙鳴くことなく、今に到りて然り。門を出で、三五歩だも過きざる
に、其鳴くこと常の如し。
 元之大徳年中、仁宗在潜邸曰。駐※於懐孟。特苦群蛙亂喧。終夕無寝。翌旦太后傳旨諭之
曰。吾母子慣々、蛙忍悩人耶。自後母再鳴。其後雖有蛙而不作聲。後越四年。仁宗登大賓。古
人論曰。元后者天命※帰。行在之所雖未践詐、而山川鬼神以陰來相之。不然則蟲魚微物耳。又
能聴令者乎。仁宗後登祥。後鳥羽逐崩干茲矣。彼後爲天子。此初爲至尊。雖如有小異。命所以
行小蟲者一也。天王之令嚴矣哉。按其令如此。何以王師敗績遂狩遠境乎。夫天壌之内唯理而
已。王者継天而爲之子。得其理於心行之。故普天之下無不王土。四海之物不得逆其理。雖小蟲
所以聴命也。若行違其理、而王之不王則敗六軍之衆、棄萬乗之位。爲獨夫死邊地。然則天理豈
不大哉。戦※可持、王者如此。況其下者乎。
寛永年中に法皇より命ありて、群臣に歌奉らしめて、御舊跡を御弔あり。勅使は水無瀬中納言
氏家卿とぞ。其和歌の一巻併に氏家の記行あり。此を寺の賓物とす。寺前を帰りて、諏訪の鳥
居の前より田径小岡を経て六町許り、又轉じて西の山下に行く事二十町餘にして、北分を過き
て福井村に至る。
福井村
福居村は西山の下、左右に荒田あり。初め此村を福頼と云ふ。比屋貧骨に徹す。一老祝あり。
名を改めて福井と云ふ。是よりやゝ住付けり。後の山の一峯の高きを阿堂と云ふ。人常に登ら
ず。登る時は必ず怪ありと云ふ。山の麓を北に越ゆれば菱といふ小村あり。並ぴて菱野といへ
る處あり。此より内海を舟に乗じて別府に渡る。其間三十二町。字賀村に渡ること十五町。福
井より北に出たる山岡を二十町許り行盡せば、又森の郷の境なり。左は内海、右は入海、此口
は二町許にして宇津賀村に至る。
宇津賀村
宇津賀村は小山の間、人家分れて住めり。後ろに宇津賀明神の社あり。松山蒼々として風興あ
り。前に花表を立て瑞離長し。按神名帳、海部有宇受加命社。可爲斯神也。北の山崎を離れて
三島あり。三郎島といふ。其沖に小守島あり。島の後津戸の大守に対してしか云ふ。又北に二
胯島に併ぴて大岩の出たるあり。此を新島と云ふ。二胯は宇賀の海中なり。昔は此を一村とせ
しとぞ。村より岡邊を斜に下れば豊田湊に至る
豊田湊
豊田湊は海部の北境、島後に渡る津口なり。左右高く出て右を御崎と號す。沖に向ひて高岸の
立ちたるに佛像を刻付けたるあり。一里許り沖に出て松島あり。廻れぱ一里一町。制ありて妄
りに入られず。左の岸上に昔小野篁が住みし菖跡あり。潮勢來没※石。廻欄越入二柴扉。故に
崎崕の樹根は露れ出でゝ、芽※の前常に船を繋ぎ、天晴れて島後の遠山を見る。
島前
男 二千二百八十八人
女 二千二百九十一人
僧 五十人
合計四千六百二十九人

知夫郡焼火山縁起
神之在焼火山號雲上寺。隠州之南知夫郡之山枕美田縣。立海角秀諸峯。地脈相連数百里。高嶺幽澗幾千
仞。麓根曰波止村。自是入山中、松杉交柯、蔭九折之岩路。絶壁石峙、攀葛※之支蔓。具嘗其嶮難則僕
痛馬病。然而干春夏干秋冬。干陰晴風雨。有往者、有遊者。有來上而経宿者。其地往來無有虚日。惟神
之所有験也。於人事見焉。※有巨岩。其高八十尋。半腹有穴。低頭※瞰不能見底。古來傳云。窟斜去徹
山頂也。乃神之所在焼火之夫也。攀欄干到穴前。玉堂蓋美臨深谷。畫棟絆石根之雲。珠簾映海門之月。
横峯倒嶺蒼色連、古木奇石天籟島地之殊勝不可敢談矣。伏窺松栢之間則墓嶼・葛嶋・珍崎・赤灘皆目下之
壮観。遠眺海煙之上則雲州・伯州之山。或淡難見、或晴可指。朝之晩之時而変化。西方又無彊。海漫々何
爲大哉。其記曰。昔一條院之御宇、海中有光数夜。一夕飛而入此山。村人尾之蹐跼而登。忽見一岩濁立
其形如薩陀者。各拝稽首而退。仍営一宇以崇之。祷則有験云々。承久年中後鳥羽院狩干斯也。日既暮
矣。暴風起波瀾立。乃詠曰。「朕古曾波新島守與隠岐海荒幾浪風心志而吹」。於是風波漸収。然而夜間
月没。官船不知所之、漂-泊於中流。風波又欲起。王心念天時、遙火在雲間。其餘光照海。黄郎得便邑從
奉賀也。王奇之詠曰。「灘奈羅波藻鹽屋久野土思邊志何遠焼藻乃煙奈類覧」。而後到其津。有漁翁。蹲
磯上。勅曰。是何浦。翁封曰。隠州知夫波止村也。王有歌名。今夜海上之製何爲然乎。王勃然問其故。
翁曰。焼藻則又何疑。只言焼火則可也。王奇之問其姓名。翁封曰。臣在斯者尚矣。誓護海船言終不見。
王爲立祠祭之。以空海法師所刻之藥師佛按茲。號山於焼火。扁寺於雲上。蓋焼火在雲上之義也。上有一
壷。神銭湧出。人得其銭則免水難、避疾病。受其銭之例、投二銭受一銭。故日々覃数千倍。雖然無敢
溢。又雖祠人・社僧不得私一銭。有用則借以償之不得不納焉。山中有雙鴉。不見其外。常遊堂前。巣山
樹。欲客來則啼屋上。噪庭柯。於是社僧.祠人豫知之、出神前以待之。産兒則反哺而去又如恒。高楼有
鐘。其傳云。伯州米子里有鋳冶甚左衛門者。常有信心。一日昧爽闕戸。有老僧而立。容貌太嚴也。告
曰。隠州焼火山鯨音久断。今年新命雲州能義郡宇波善兵衛者鋳之。到則可以致隠州、其船五艘可在海
岸。就中新造船可也。所券之償等云々。而甚左衛門奇之、不妄発。黙以待之。到其日有一人。來日。焼
火山之洪鐘鋳成以迭之。問其名則善兵衛者也。曰。曾有僧、來約之。故致之。齋償而帰。甚左衛門走見
海濱、有五艘之解纜。中有新舸。問之則知夫郡之賈客也。乃載迭之。社僧驚曰。我自初春到勢州、遊若
州、未有此事。正知是神之所爲也。則一造樓、以懸筍虚。遠発宸霜之響、長破旅船之夢。清音無絶而到
今也。時元和四年春三月。又伯耆國之大賈村川民自宮賜朱印、致大舶於磯竹島。遇颶風、落高勾麗。日
暮不知津。船隻念焼火山。怱有漁火、得入其津。帰帆之後盆尊崇焉。聞者驚懼。此挙其一隅而已。凡如
此之類、司柁者、算潮者、運於市船者、爲常談。予亦聞之熟。或問曰。吾聞之、念斯神則必使挙火而識
其處、惟爲神歟。似怪請明辮之。答曰。惟神也。非怪矣。夫神之充塞於天地也、古來常理矣。念之必有
験也。一心之應者神之感也。村燈漁火自然出。而使之知其處者神之徳也。雖然有應與不應。此亦依一心
之誠非神之不爲神。彼胡越同舟倶恐其欲覆、而無有彼此之分也。於是知之。人當急迫之地不入譌於其
間。夫恐覆也急。故其念神也實、夫念神之實。故其應之忽。雖異域無不験者是也。其誰不思而敬乎。
按。明人称天妃神、而游海者崇信之。是又此神之類歟。可合思也。鳴呼吾曾遊焉。春日渡海黄※遷喬。
朝霞一抹、谷風習々。夏雲出則疑前峯。秋葉飛則憶紅錦。槽聲遙入漁村之煙。雪色却映夕日之春。翠眉
含雨則爲文君之顰。海面晴來則挙西施之粧。千変萬化非言之所及。惟山容之朝暮余之所眼見也。如其奇
談怪説社僧以傳焉。

増補隠州記


増補隠州記
貞享五年(一六八八)
  小物成 
浦郷村
	竃役銀	銀八二匁
	漁請役	銀二○○目
	鰯七五俵役	銀一一二匁
	とび魚七五束役	銀一五○目
	大鯛七五枚役	銀一五匁
	和布一○束役	銀一匁
	核苧二貫四六○目役	銀六匁五分
	牛皮二四枚役	丁銀四八匁

舟数	八二隻	手安舟	一三隻
		艫戸舟	七○隻
美田村
	竃役銀	銀六○目
	漁請役	銀七○目
	鰯五五俵役	銀八二匁五分
	とび魚五五束役	銀一二○匁
	大鯛六枚役	銀一匁二分
	和布六束役	銀六分
	鯣六連役	銀一匁五分
	椎実五升役	銀一匁
	柄油九斗六升役	銀一九匁一分
削除	山手塩一二○俵役	銀七二匁
	核苧一貫八○○目役	銀四匁分
	牛皮一二枚役	丁銀二四匁
	海苔五升役	銀五分

舟数	五九隻	手安舟	八隻
		艫戸舟	五○隻
		小渡海舟	一隻
別府村
	漁請役	銀一六匁
	鰯五五俵役	銀八二匁五分
	とび魚二束役	銀四匁
	大鯛七枚役	銀一匁四分
	串海鼠八串役	米五升三合
	柄油四斗八升役	銀九匁六分
	串鮑八串役	米一斗七升八合
	核苧三三○目役	銀九分
	牛皮二枚役	丁銀四匁
	海苔八升役	銀八分

舟数	一七隻	手安舟	二隻
		艫戸舟	一三隻
		大舟	三隻
宇賀村
	竃役銀	銀五一匁
	漁請役	銀三七匁
	とび魚二束役	銀四匁
	和布二束役	銀三分
	串海鼠八串役	米五升三合
	柄油二升役	銀四分
	串鮑五串役	米一斗一升一合
	核苧一貫五○○目役
	銀三匁九分五厘
	牛皮七枚役	丁銀一四匁
	海苔一斗三升役	銀一匁五分

舟数	三八隻	手安舟	五隻
		艫戸舟	三一隻
		大舟	二隻

「焼火山雲上寺・真言宗・寺領十石・神主吉田岩見
知夫郡焼火山縁起
当山は本郷より巳ほ方へ壱里三町也、端村よりは一四町鳥居よりは九町、大山明
よりは五〇町在、其路何れも険難九折を経ていたる、嶺に巨岩在り、其半腹に穴
あり、是に宮殿を作れり、拝殿より長廊を造り続けり、鐘楼在り、宝蔵有、山上
へ行道在て到れば神銭涌出る一壷在り、人壱銭を得る時は水難をまぬがれ疫病を
さける、一銭を受けて二銭をなしける故に、日々数十倍に及、しかれどもあえて
あふるる事なし、西の方に僧房在、昼夜参拝の客無絶、貴賎を不分饗応をなす、
古樹立並て茂れり、山中に双鴉在り、常に堂前に遊ぶ、山樹に巣ふ、客来とする
時者庭樹噪ぎ屋上に啼く、是によって社僧祠人は之を知る、神前に出て以待之、
子が産れた時は反哺して去る。縁起有、神徳を記して説くにいとまあらず、神火
を施して闇夜の漂船を助け給う、凡そ秋津州は言うに及ばず、高麗に到っても神
火を請う時は出ずと云事なし、承久の昔し後鳥羽上皇御来島の時波瀾暴風強く、
御船中御製在て神火の出事は海士村勝田山に記す、其時より焼火山雲上寺と号す
とかや、是上皇の賜所の号なり、晴に望時は雲州伯州の山を見る、曇る時は墓
島、赤灘、葛島等も雲霧に阻てらる、気景に勝れたる地なり、他国にも有かねる
山なり、所々より多宝物を捧奉る也、宝蔵、ただ神徳の致す処にあらず、寛永之
始、水無瀬中納言、勅に依て勝田の御廟へ来りし時、上皇の御取立被成山なれ
ば、昔の跡を慕い御参詣在て、所々巡礼せられしに、彼御寄進の薬師仏も僧房に
在とかや、其時之詠歌とて・・千早振神の光を今も世にけたて焼火のしるしみす
らん・・短冊に書て在り氏成卿自筆と見へけり」
『新修島根県史ー資料編ー近世(上)』「増補隠州記」一八八頁より

忠敬先生日記


『忠敬先生日記』文化三年(一八〇六)

(是より隠州測量を主とし我等雲州松江城下未次逗留療治ヲ加書す)

七月三日 晴天未明順風ニ相成候ニ付三穂関出帆、

翌四日 昼時隠岐國知夫里郡知夫里嶋江着、旅宿知夫里村枝郷字大江庄屋徳左衛
門、着後出候者元方岸八重八・点検役原田祖重・同見習須田定市・大庄屋官蔵・
同雇福井村庄屋十右衛門・海士村庄屋愛四郎、後刻(雲州候より)岸八重八ヲ以
左之通贈物有之、金百疋宛 高橋善助・坂部貞兵衛下河辺政五郎、銀三両宛 宛
内弟子六人、銀弐両宛 僕四人、右之通進物有之侯ニ付受納いたし置侯得共、先
預ケ置、追而江戸表江帰府之上伺済ニ而受取可申旨相断、右八重八江預ケ遣ス

七月五日 晴天、一番下河辺・佐藤・栄次 勘嶋 浅嶋神津嶋 波鹿嶋右四嶋各
一周、小波鹿嶋ヲゴケ嶋 遠測、二番高橋・稲生・門倉・惣兵衛知夫里村大江旅
宿下より右旋、同枝郷宮谷 郡 太澤 薄下 先野を過而字竹浜迄測ル、三番坂
部・小坂・吉平知夫里村大江旅宿下より左旋、同枝郷仁夫里ヲ過而字ハナレ迄測
ル、右終而各大江へ戻り再宿、尾形・、永澤・角次不快ニ付大江ニ逗留

七月六日 晴天、二番坂部・小坂・吉平知夫里嶋字竹濱より始メ右旋、来居 古
海ヲ過而字ハナレ〔埼〕ニ至り知夫里嶋一周ヲ結ブ、俵嶋 弁才嶋 腕嶋 離嶋
 各遠測、右畢而西之嶋 浦ノ郷村持大桂嶋江渡り一周、一番門倉佐藤・栄次西
ノ嶋江移り、知夫里郡浦ノ郷村之内字赤灘鼻より始メ左旋字国川迄測ル、高橋・
下河辺・稲生・尾形昨夜木星交食測量ニ付今日休ミ午中ヲ測ル、右畢而各浦ノ郷
村江移り泊ル、旅宿浦ノ郷村庄屋幸十郎、永澤瘧疾ト成ル

七月七日 晴天、一番下河辺・門倉・栄次浦ノ郷村字国川より始メ左旋、美田村
之内字ニグ迄測ル、ニ番坂辺・小坂・佐藤・吉平 字赤灘鼻より始メ右旋、浦之
郷枝郷赤之江 生名 荒生 臼子より浦ノ郷村泊り下ヲ過而美田村堺迄測ル、三
番高橋・稲生・惣兵衛浦ノ郷美田村境より始メ美田村枝郷 船越 小向 大津 
市部 ヲ過而橋浦人家下迄測ル、夫より焼火山江登り山々測量、旅宿美田村枝郷
市部庄屋栄次郎

七月八日 晴天、二番下河辺・門倉・栄次美田村枝郷橋浦人家下より始メ、焼火
山麓通り別府村堺迄測ル、一番高橋・佐藤・惣兵衛美田、別府村堺より始メ、宇
賀村枝郷蔵ノ谷大宇賀ヲ過而字済ノ浦ニ至り、三番手卜合測、三番坂部・稲生・
小坂・吉平実田村之内字二グより始メ左旋、別府村ヲ過而宇賀村之内字済ノ浦ニ
至り一番手卜合測、星神嶋遠測、右終而各宇賀村泊り、旅宿宇賀村之内物井庄屋
勘十郎

七月九日 朝曇天雨昼後晴天、一番下河辺・稲生・門倉・栄次海士郡中ノ嶋布施
 福井村堺より始メ右旋・布施村之内ヒスカヲ過而崎村松屋岬ニ至り打止メ、崎
村泊り、尾形痛ニ付物井より直ニ崎村江行、永澤瘧疾ニ付昨八日市部ニ逗留いた
し、今日市部より直ニ崎村江行、
旅宿海士郡崎村渡辺半次郎、ニ番高橋・佐藤・惣兵布施 福井村境より始メ左旋
福井村枝郷菱村ヲ過而・同村之内字ツラハゲニ至り三番手卜合測、三番坂部・小
坂・吉平海士郡海士村字ニタ子より始メ右旋、同村枝郷多田北分海士村本郷を過
而福井村字ツラ禿ニ至り二番手卜合測、右両手泊り、海士村庄屋愛四郎

七月十日 晴天、三番坂部・小坂・吉平海士村字二タ子より始メ、宇津賀村 豊田
村ヲ過而、又海士村地内ヲ通り知々井村枝郷保々美人家下迄測ル、二股嶋遠測、
一番下河辺・稲生・門倉・栄次崎村松尾岬より始メ、布施村 太井村ヲ過而知々
井村人家下迄測ル、二番高橋・佐藤・惣兵 豊田村持松崎 知々村持苜苜小嶋各
一周、右各測量畢而泊り、知々井村旅宿 百姓弁之助・入亭主年寄 忠次郎

七月十一日 薄曇、嶋前より嶋後江移ル、小坂・佐藤・吉平海士郡知々井村泊り
下より始メ、右旋御崎ヲ廻リ同村枝郷保々美迄測り、中之嶋一周ヲ結ブ、高橋・
坂部・下河辺・稻生・尾形・門倉昨夜太陰木星ニ近く、依而夜中測量ニ相掛り候
ニ付、今日知々井村より直ニ嶋後江行、

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