巻号 P数 行数 内容 西暦年 月日 元号 出典 干支 0 108 9 史跡黒木御所。隠岐の行在所。後醍醐天皇の御在島は、元弘二年(1332)四月から正慶2年(1333)二月まで、一ケ年足らずの間であった。その間の行在所については衆知の如く、島後(国分寺)説、島前(黒木御所)説の2つがある。この両説をあげて詳細に論及批判する 1332 400 元弘2年 黒木村誌 壬申 0 108 12 ことは本誌の目的ではなく、本誌では、もっぱら黒木御所に関する先學の業績を紹介し、詳しくは後考をまちたいと思うが、はじめに、その沿革については概要を述べておきたいと思う。後醍醐天皇の隠岐国における行在所については、近世を通じて島前の黒木御所が一般に信じられ 0 0 黒木村誌 0 108 15 て来た。後で触れるように、近世資料にすべてに黒木御所に関する伝説が採録されており、また明治三四年春、吉田東伍博士が当時の隠岐島庁に質問書を差し出した時、島庁から、「(前略)国分寺には元弘帝の遺跡なし。因云、元弘の昔、西狩の駕篭を駐めさせ給へる地は知夫郡別 1901 0 明治34年 黒木村誌 辛丑 0 109 1 府村にして、黒木御所是也云々」(「隠岐島誌」より)と答えているように、明治末期までは黒木御所在所を疑う者はいなかったのである。吉田東伍「元弘帝隠岐島の行在」ところが明治三五年五月、吉田博士の一文が「歴史的地理」(四ノ五)に投ぜられるにおよんで波乱を呼ぶ端 1902 500 明治35年 黒木村誌 壬寅 0 109 4 緒となった。それは「元弘帝隠岐島の行在」と題するもので、全文は「隠岐島誌」にも転載してある。その内容を見ると、直接行在所についての考察は簡単であって、ただ国分寺と明記せる増鏡の記載を尊重すべきこと、および太平記にいう「府の島」は国府のある島即ち島後を指す 0 0 黒木村誌 0 109 7 ものであることを主張しているに過ぎない。その大半は前年、博士が入手された隠岐島庁の回答書に対する反駁に費やされている。(1)[増鏡」第一九久米のさら山。「出雲の国やすきの津という所より、御船にたてまつる。大船二四艘、小舟どもは、数も知らずつづきたり。遥に 0 0 黒木村誌 0 109 20 おしいだすほど、今一かすみ、心ぼそうあわれにて、誠に「二千里の外」の心ちするも、今さらめきたり。かの島におはしましつきぬ。昔の御跡は(筆者註、後鳥羽上皇行在所跡叙景)、それとばかりのしるしだになく、人のすみかもまれに、おのづから、蜒の塩焼く里ばかりはるか 0 0 黒木村誌 0 109 22 にて、いとあわれなるをご覧ずるにも、御身のうへはさしおかれて、まずかの古への事思しいづ。かかる所に世をつくし給ひけむ御心のうち、いかばかりなむけむと、哀れに辱くおぼさるるにも、今はた、さらにかくさすらへぬるも、何より思ひたちし事ぞ。かの御心のすゑやはたし 0 0 黒木村誌 0 109 24 遂ぐると、思ひしゆゑなり。苔の下にも、あわれと思さるらむかしと、よろづにかき集めつきせずなむ。海づらよりは少し入りたる、国分寺という寺を、よろしきさまにとり払いて、おはしまし所に定む。今はさは、かくてあるべき御身ぞかしと、おぼししづまるほど。猶夢の心ちし 0 0 黒木村誌 0 109 27 て、いはむ方なし。そこら参りしつはものどももまかんづればかいしめりのどやかになりぬる、いとど心ぼそし」(2)「太平記」巻第四、備後三朗高徳が事附呉越軍の事。「さる程に先帝は、出雲の三尾の湊に十日余御逗留あって、順風になりにければ、船人纜解いて御艤して、兵 0 0 黒木村誌 0 109 30 船三匹余艘、前後左右に漕ぎ並べて、萬里の雲にさかのぼる。浪路に日数を重ぬれば、都を御出であって後二六日と申すに、御船隠岐国に着きにけり。佐々木隠岐判官貞清、府島という所に、黒木の御所を作りて皇居とす。」ただ吉田博士が、その反駁の中において「別府」の意味を 0 0 黒木村誌 0 110 2 明らかにされたことは有益であった。「別府」は、吉田博士の説かれる如く、明らかに中古の田制に由来するものである。本来の成立は、太政官より発せられた別官符によって、荘園内の山野を拡張開墾したものである。後世になると、領主が自己の権限で荘内の空き地に開墾を許す 0 0 黒木村誌 0 110 3 場合でも、やはり別符(府)といっている。近世の枝郷というに当たることになる。したがって「別府」は、隠岐にもまだ外にあったが、現在その地名伝承を失っているに過ぎない。例えば、島後に中村別府(吾妻鏡)、山田別府(島根県史所収、隠岐国雑掌春増申山田別府年貢事重 0 0 黒木村誌 0 110 6 訴状)、島前豊田村に「本郷を志気、別府を野田と云」(「隠州記」)などの例がある。喜田貞吉「隠岐日記」。つづいて明治38年、喜田貞吉博士の一文が、同じく「歴史地理」(7の4)に載せられた。その前年、官命を帯びて来島した時の紀行文で、「隠岐日記」と題する 1905 0 明治38年 黒木村誌 乙巳 0 110 8 ものである。その主要部分は「隠岐島誌」に収めてある。喜田貞吉博士の文章は紀行文の中の一節であり、これも行在所に関する部分は簡単な叙述である。要するに島前黒木御所説は、太平記にいう「府ノ島と云ふ所に黒木の御所を作りて皇居とす」に付会したもので、府ノ島は 0 0 黒木村誌 0 110 11 国府のある島のことであり、黒木とは薪のことで地名の黒木御所と結びつくものではない、という主旨である。頼源送進文書。以上のように両博士の所論は、積極的に史証をあげて後醍醐天皇行在所を論じたものであるθいうより、ただ消極的に、島前黒木御所説を反駁することに 0 0 黒木村誌 0 110 14 重点が置かれたかに見えるが、やがて明治40年の「島根県史要」「島根県内務部編」、つづいて「島根県史」の編纂における野津左馬之助氏によって重大な史証が提起せられた。いわゆる鰐淵寺僧頼源の「送進文書」といわれるものであった。貞治5年(1366)鰐淵寺の僧頼源 1907 0 明治40年 黒木村誌 丁未 0 110 17 は、すでに「老体之上、露命測り難きに依って」、寺中の重書たる19通の文書を、後住の浄達上人に下進したのである。その「送進鰐淵寺文書等目録事」のはじめに、後酉西皇帝。一通、先朝御願書元弘二年八月十九日於隠岐国国分寺御所被下之上卿千種宰相中将忠顕卿、干時六条 1332 819 元弘2年 黒木村誌 壬申 0 111 3 少将ニ候。一通(略)。一通(略)。己上三通御、宸筆也、頼源賜之。(鰐淵寺文書)。とある。右の送進文書によると頼源は、元弘二年八月十九日宸筆の御願書を隠岐国国分寺御所において賜ったものであった。この宸筆願文は後醍醐天皇が、鰐淵寺南院の根本薬師堂に心中祈願の 1332 819 元弘2年 黒木村誌 壬申 0 111 9 速疾成就を祈られた有名な重文指定の文書である。上卿(しょうけい)というのは、公事を奉行する上席の公卿で、時の上卿が六条忠顕であったと明記していることは、宸筆願文を頼源に伝達する儀式を経たことを意味するであろう。貞治五年(1366)といえば、後醍醐天皇 1366 0 正平21年 黒木村誌 丙午 0 111 13 黒木村史蹟調査会の発足 このような事態の推移に対応して、地元である黒木村においても、ようやく島前黒木御所の顕揚の必要を痛感しつつあったところ、たまたま大正6年7月7日、時の皇太子の黒木御所参拝があった。これを契機に地元有志によって、 1917 707 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 111 15 「黒木村史蹟調査会」が設けられることになり、同年8月22日大1回の会合が黒木村役場において開かれた。集まったのは村内の神職、学校職員、村会議員、各組長などである。この会合の結果、正式に「黒木村史蹟調査会」が発足し、委員を 1917 822 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 111 17 選んで各方面の調査研究に当らせることになり、委員には学校長、神職および別府において特に二名を増して安藤猪太郎、近藤倍夫の両氏を加えた。神職側委員は宇野幸彦、松浦静麿、学校側委員は安藤剛、岩佐義男、それに村長佐倉鶴松氏などであった。 1917 822 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 112 3 この調査会において、実際の調査研究に挺身したのは松浦静麿氏であった。氏は若くして考古学に興味を持ち、隠岐考古学の開拓者として業績を残し、さらに柳田国男氏の値遇を得て民俗学方面の労作も少なくない。が、もっとも力を注いだのは 1917 822 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 112 5 黒木御所研究であって、その後多年にわたり、博覧到らざるはなく、省察及ばざるはなかった。したがって多くの論考が残されており、現在その遺稿は「黒木御所輯録」としてまとめられている。また島外にあって最も強硬に黒木御所説を主張したのは、 1917 822 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 112 7 当時島根県史蹟調査委員として活躍せる後藤蔵四郎氏であった。氏もまた「黒木村史蹟調査会」と提携して黒木御所説の顕揚につとめ、「後醍醐天皇隠岐行在所考」(昭和10年6月「史蹟名勝天然記念物」)等の論考がある。 1917 822 大正6年 黒木村誌 丁巳 0 112 10 史蹟に指定 さて、このような対立のさ中に、文部省においては昭和9年3月建武中興六百年記念事業として関係史蹟を顕彰することになり、島根県は島後の国分寺と島前の黒木御所の両方を史蹟(行在所址)として指定するように申請した。 1934 300 昭和9年 黒木村誌 甲戌 0 112 12 ところが文部省は、事態の粉糾をおそれて直接後醍醐天皇行在所址として指定することを避け、国分寺址を「史蹟隠岐国分寺境内」として指定し、同時に黒木御所址を「史蹟黒木御所」として仮指定した。その後戦後になって文化財保護法が制定され、 1934 300 昭和9年 黒木村誌 甲戌 0 112 14 それまでの指定は一旦自然解除となったが、昭和33年7月、新しく島根県教育委員会より史蹟として指定されたのである。以上が、明治末期より両説の対立するようになった経過の概要である。 1958 700 昭和33年 黒木村誌 戊戌 0 112 17 隠州視聴合紀の記載 はじめに述べた如く、近世を通じて後醍醐天皇行在所に関する伝承を保持して来たのは島前黒木御所であった。この伝承を採録したものとして最も古いのは、寛文7年(1667)「隠州視聴合紀」の記載であろう。 1667 0 寛文7年 黒木村誌 丁未 0 113 2 同書は寛文7年8月、隠岐郡代として赴任せる斎藤甚助が、全島を隅なく廻り「窮郷遠井を巡見し、その暇日に老農より遺跡の所伝」を聞いて書き留めたものであるが、その別府の項に−府(筆者註。代官所のこと。)より北の山崎を黒木と云う。 1667 800 寛文7年 黒木村誌 丁未 0 113 4 伝に日く、昔後醍醐天皇姑く狩りし玉へる所なり。故に今に至りて黒木皇居と云ふ−さらに知夫湊の項には、−赤灘の左に小島あり。棹し回れば二十余町にして宇類見と云ふ民村あり。山南の絶頂を卯辰に行く道あり。二十二町を経て二部里をいふ山の跡に巨石多いし。 0 0 黒木村誌 0 113 8 みな牙のごとし。村老告げて白く、昔此に蘭舎あり、即ち卯類美坊といふ。又南に在るおば二部里坊といふ。此両寺昔は殊に美尽くせり。後醍醐天皇の皇居なりといふ。其他の躰も然らんと見ゆ。按別府黒木謂之皇居、此地又号天皇行在、蓋先在黒木後遷干此歟、 0 0 黒木村誌 0 113 10 不然則経営黒木之間、姑在於此、終不果而潜幸歟、彼鶏人眠而出於寝所、半夜歩而到于知夫浦(筆者註。「太平記」記載を指す。)可交見也、若在黒木則何得歩行渡形崎赤灘乎、是其一按也。とある。行在所に関する所伝は、すべて故老の所伝をそのままに採録 0 0 黒木村誌 0 113 14 したもので、べつに著者自身の創作附会を加えているわけではない。が、按ズルニ以下は斎藤勘助自身の見解を述べたものである。著者の見解を要約すれば、「別府の黒木を皇居という訳は、はじめ天皇は黒木におられ、後に知夫里(宇類見、二部里坊) 0 0 黒木村誌 0 113 17 居られたが、ついに黒木御所に迂ることを果たさぬうちに隠岐を脱せられたのであろうか−いずれにしても天皇が脱島直前には知夫里(宇類見坊二部里坊)に居られない筈はなかろう−かの伝説に、半夜に歩いて知夫浦に到ったというが、もし黒木御所に 0 0 黒木村誌 0 113 19 居られたのであれば、どうして珍崎赤灘を歩行して渡ることが出来ようか」というのである。按ズルニ以下は単に著者自身の思い付を述べたに過ぎないものであるが、ただ重要な点は、黒木御所に関する「遺跡の所伝」が古くから土地の故老によって語りつがれていた 0 0 黒木村誌 0 114 2 ことがはっきりすることである。なお参考までに附け加えて置くと、焼火山松浦家所蔵の伝写本に「美田村神社之縁起集」というのがある。この中にも、正八幡大神宮(美田尻)の神が翁となって現れ、天皇を案内して御脱出を助け奉ったので、その後、 0 0 黒木村誌 0 114 5 正大八幡大神宮と拝し奉る旨御論旨をくだされたという故伝を記している。内容の実否はともかくとして、この伝写本には次のような奥書きがある。正聴二年酉3月寛延四辛未歳霜月写之参沢喜三右衛門忠義右の奥書きによると参沢喜三右謁門忠義が、 0 0 黒木村誌 0 114 13 中には明かに喜三右衛門の加筆敷衍と思われる箇所も多いのであるから、正長2年(1428)原本が失われている現在、何とも判断することの出来ないのは遺憾である。 0 0 黒木村誌 0 114 16 一宮巡啓記の記載 肥前国平戸の橘三喜が、廷宝3年より元禄10年までの20数年間にわたって、全国の一宮を参詣して廻った時の紀行「一宮巡啓記」にも、−後醍醐天皇黒木御所は別府村の内なりといっている。 1697 0 元禄10年 黒木村誌 丁丑 0 115 2 隠州記の記載 貞享4年「増補隠州記」は、隠岐国を松江藩預ケ地より大森代官の直接支配に移すべく、事務引継ぎのために行政総点検を行った時の郷帳を集成したものと思われるが、その別府村の項には、1、黒木の御所と云て、札の辻より東の方へ三町去りて、 1687 0 貞享4年 黒木村誌 丁卯 0 115 4 高サ三十間周り四町の山あり。三方は海にして北は山続きなり。南の方に松生す。竹生す。頂上、東西七間、南北六間、石壁古く残れり。元弘二年後醍醐天皇、鎌倉北条高時の為に被捕、当国へ左迂御在所に郭公有りて啼事なし。故を如何と所の者に 1332 0 元弘2年 黒木村誌 壬申 0 115 7 御勅問ありければ、其勅答に曰く、後鳥羽院此所へ御幸ありしに、郭公しきりに音信あり奉りければ、上皇御製に、なけは聞くきけは昔の恋しきに此里出よ山郭公、と遊はされたる故に、其後郭公終に啼事なしと申上る。此時、御醍醐天皇、聞く人も今はなき世に 0 0 黒木村誌 0 115 11 郭公誰に恐れて啼かぬ此の里、と御製とありけれは、夫よりまた啼くよし也。ある時、とのゐの者怠りける折節御忍び出、知夫里湊より御船に被召、伯州船上へ臨幸被遊しとや。但し知夫湊と云ふは、今の美田の湊たるべし。美田は則知夫里の内なれはなり。とある。 0 0 黒木村誌 0 115 16 その後の伝写本、例えば元禄年代の郷帳集成である「隠州視聴記」、「隠岐記」、または「隠岐古記集」(文政6年、大西教保著)「隠州風土記」(天保年間)、其の他殆どが、右の「増補隠州記」の引用である。右のように、御醍醐天皇の行在所について隠岐の 1823 0 文政6年 黒木村誌 癸未 0 115 18 近世資料は、すべて故伝による島前黒木御所説を採っており、したがって現地に残る伝承は豊富である。以下、松浦静麿氏の諸発表やその他によって、現地の伝承を具体的に紹介することにしよう。 0 0 黒木村誌 0 116 1 黒木御所遺址 黒木村(現西ノ島町)大字別府字黒木にある。「黒木」は別府湾に突出する小さな丘陵一帯で、隠岐に現存するもっとも古い検地帳(原本)である慶長4年別府村検地帳にも見えるのであるから、中世以前の古い地名であることは明かである。 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 116 5 慶長4年(1599)の吉川(毛利)検地の屋敷請では、字「黒木」に「上屋敷七畝建興寺分孫右衛門、上屋敷七畝建興寺分民部兵衛、上屋敷7畝孫右衛門」の三軒の民家があり、そのうち二軒の屋敷は建興寺分である。 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 116 7 孫右衛門が二人見えるが同名異人かどうか不明である。孫右衛門は高請の方で孫右衛門名(田方四反二畝十五歩、畠方三町九反)を保有し、民部兵衛は建興寺領の田方六反一畝の「作人」として登録されている。この建興寺は高請において、田方6反一畝、 0 0 黒木村誌 0 116 11 畠方三町三反四畝を請けながら、屋敷請はなく、慶長四年には寺そのものは別府村にはないのである。丘陵の頂上一円を黒木御所と云え、老松が枝を交える高爽の地に、比田井天来氏の筆に成る石標が立ち、前面に御醍醐天皇を祭神とする黒木神社がある。 0 0 黒木村誌 0 116 15 黒木神社の起源はまだよくわからない。貞享四年(1687)郷帳を集成した増補隠州記には「六社大明神、伊勢宮、山神社」の三社をあげているにとどまるが、焼火山所蔵の「護国仁王経裏書神名記」(元禄十六年)には、「黒木社祭神御醍醐天皇尊治皇帝」 1703 0 元禄16年 黒木村誌 癸未 0 116 17 とあり、正徳三年八月再建の棟札も現存するのであるから、かなり古くから此所に小祠の祀られていたことは事実である。その後の指出類にも、六社大明神、伊勢宮とならんで黒木御所祠壱社があげられ、「隠州風土記」(天保四年)には 1713 800 正徳3年 黒木村誌 癸巳 0 117 1 「一黒木御所後醍醐天皇旧跡御社、祭礼年中一度、神主宇野石見重寛」と見えている。絶えず修復が続けられ、海神社(六社大明神)の神主宇野氏によって祭祀が行われていたのである。明治三十年頃から黒木御所、黒木神社の保存改造が積極的に企図せられ、 0 0 黒木村誌 0 117 6 三十六年には隠岐全島の有志が発起人となり、県知事、隠岐島司を賛助員とし、内務大臣の許可を得て寄付金募集がはじめられた。島前有志がすべて発起人となったことはいうまでもないが、島後においても吉岡倭文麿、船田二郎、大西佐源太、高橋秋津、日野文三郎、 1903 0 明治36年 黒木村誌 癸卯 0 117 10 長谷川貫一郎、池田武太、松浦寛信、佐藤郁太郎、斎藤広一、億岐久麿等各方面の主要人物を網羅した。しかし三十七年には日露開戦となり、財界の打撃によって事業は中止のやむなきに至った。明治四十年六月、大正六年七月の両度にわたって、時の皇太子の参拝が 1907 600 明治40年 黒木村誌 丁未 0 117 15 があり、記念としてそれぞれ羅漢柏、桧の御手植があった。以来、ますます黒木御所、黒木神社、遺蹟の保存に力を注ぎ、現在に至っている。 0 0 黒木村誌 0 118 1 千福寺御座所跡 荒堀山千福寺は黒木山の東北山麓にあっって、後醍醐天皇の御座所であったと云えられ、天皇の御守本尊毘沙門天絵像を奉安して、御冥福を祈ったという。字名は「道場ノ前」である。千福寺というのは古名ではない。慶長4年(1599)、 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 118 3 同じく18年(1613)検地帳に「道場」とあるのがそれで、貞享4年増補隠州記では「千福寺」に変わっている。慶長18年検地の高請において、道場は、田方米合五石一斗四升、畠方米合一石八斗を請けている。千福寺は、貞享以降の資料についてみると、 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 118 6 田方米合五石一斗四升、畠方米合一石七斗九升五合の高請である。畠方において、僅かに五合の違いはあるが、この両寺の高請は全く同一であるといってよい。したがって千福寺は道場の後身であると判断することができる。慶長検地以降、この寺領はそのまま継続しており、 0 0 黒木村誌 0 118 8 ただ名前だけが、慶長年間の「道場」から、貞享以前のある時期に「千福寺」に変わったのである。その間の事情は不明である。なお貞享4年増補隠州記には長尾山飯田寺浄土宗、荒堀山千福寺真言宗の二寺があげらけている。千福寺は真言宗に属し、京都の 1687 0 貞享4年 黒木村誌 丁卯 0 118 11 東寺金勝末寺であった。明治二年廃仏毀釈の厄に遭って廃滅したが、境内には大きな五輪石、宝筐印塔が一隅に積まれていて、往時の盛行を暗示している。千福寺には、もう一つ問題がある。寛文7年隠州視聴合紀には巻末に国中仏寺を列挙し、その知夫郡の条に、 1869 0 明治2年 黒木村誌 己巳 0 118 14 真言性徳寺、真言長福寺、浄土専念寺、真言足利寺、真言飯田寺、真言香鴨寺、とあるが、道場、千福寺ともに無い。またそれから後の資料には千福寺はあるが足利寺は無い。松浦静麿氏は、合紀記載の地理的位置から判断して、足利寺を千福寺に比定している。 0 0 黒木村誌 0 118 16 そうであるかも知れないが、今は何らの原拠も無いので、今後の問題として保留しておく外はない。 0 0 黒木村誌 0 119 1 三位局(さんみのつぼね)屋形跡 道場ノ前(どうじょうのまえ)に隣接する字「坪ノ内(つぼのうち)にあって、三位局の屋形跡といわれている。この字地は、慶長四年検地帳にも見え、当時此所に三郎左衛門なる者が、上屋敷七畝を屋敷請しているが 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 119 4 (三郎左ヱ門には高請はない。)、屋敷の下に「代官分」と註記している。慶長4年(1599)当時の堀尾領国時代には、ここに代官屋敷があったのであろう。三位局は、天皇に従って「御介錯」として来島せる内侍ノ三位、即ち藤原廉子である。 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 119 7 公季流右中将藤原公廉の女で、成良、義良親王等の母、後に新待賢門院と呼ばれた(「尊卑分脉」)。「女院小伝」によれば、元徳3年(1331)2月18日従三位に叙せられ、天皇が隠岐より還幸の直後、建武2年(1335)4月26日準三宮に昇っている。 1335 426 建武2年 黒木村誌 乙亥 0 119 12 後醍醐天皇に供奉した人々については、梅松論、増鏡、太平記には若干の相違があるが、そのなかで、三位局藤原廉子が隠岐に随従したことは三書ともに一致しているのであるから、確実な史実とみてよかろう。梅松論には「准后三位局、其外狩せうぞくの女房、 0 0 黒木村誌 0 119 14 馬上にて両三人。殿上人には六条少将忠顕、後には千種殿と号しける、一人閑道を供奉す」増鏡には「御供には内侍の三位殿、大納言ノ君、小宰相など、男には行房の中将、忠顕の少将ばかりつかまつる」とあるが、太平記には「供奉の人としては、 0 0 黒木村誌 0 119 17 一条頭ノ大夫行房、六条少将忠顕、御介錯は三位局ばかりなり」としている。しかし「花園天皇宸記」には京都御出発の情景を「先帝御冠直衣下結云々、於鳥羽棧敷殿供御破子之後、有数刻出御、今度御輿四方歟、被巻三方簾云々、女房3人、無歟、、、」 0 0 黒木村誌 0 120 1 と描写してあり、女房三人が歟を用いず従っているのは、おそらく馬上であろうと思われるのであるから、この点については梅松論および増鏡の説を採るべきであろう。なお太平記に、後醍醐天皇が行在を脱出せられた際、−主上且くは義綱を御待ちありけるが、 0 0 黒木村誌 0 120 4 余りに事滞りければ、唯運に任せて御出あらんと思召して、或夜の宵之紛れに、三位殿の御局のこと近づきたりとて、御所を御出あるよしにて、主上其の御輿にめされ、六条少将忠顕朝臣ばかりを召具して、潜に御所をぞ御出ありける−と、三位局の 0 0 黒木村誌 0 120 7 御産が近付いたので御所を出るのだと言って警固の武士を欺き、その輿の中には、三局位ならぬ天皇御自身が隠れておいでになったのだと、劇的に表現していることは衆知の通りである。 0 0 黒木村誌 0 224 6 初期の小物成 本途物成即ち田畠作毛を対象とする貢租(本年貢)に対して、それ以外の雑税を総称して小物成(小年貢)といい、地域差もあり、したがって種類名称も雑多である。宝暦十一年編「隠州往古以来諸色年代略記」(焼火山所蔵)によると、 1761 0 宝暦11年 黒木村誌 辛巳 0 224 10 慶長四年亥十一月雲州隠州両国、堀尾帯刀様御拝領被成、十九日ニ三保関納屋藤左衛門船ニテ浦之郷迄竹林弥三左衛門様、上原甚左衛門様、村田甚六左衛門様御着船被成候テ当国御請取、串海鼠、串鮑、鯛、切鮑、鰯、鮫油、和布、海苔、漆、柄油、山椒、椎茸、 1599 1119 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 224 12 栢実、茶御運上、同五年迄被仰付、其後同十二年村尾越中様、落合助左衛門様御着船被成、弥三左衛門様、甚左衛門様、勘六左衛門様御立会ニ而御検地、同十三年迄被成、串物御米納ニ比成、切鮑、鯛、鯣、鰤、鯖、鰯、鮫油、和布、海苔、柄油、漆、山椒、椎茸、栢実、茶、 1607 0 慶長12年 黒木村誌 丁未 0 224 14 銀上納ニ被仰付云々。といっている。この記載を信ずるとすれば、慶長初年堀尾支配の頭初より各種品目の運上があり、海産物を主な対象としていることがわかる。この中、串鮑、串海鼠については同書寛永十五年の項に−−串鮑一連ニ付一斗六升宛、 1596 0 慶長元年 黒木村誌 丙申 0 224 18 串海鼠一連ニ付6升ツツニ而御座候処、鮑一連ニ付代米6升2合御増被成、串海鼠一連ニ付代米7合増ニ被仰付候。と見えこれは後世の資料と一致している。その外の諸品目も、次にあげる中期の小物成と一致するものが多い。 0 0 黒木村誌 0 226 3 中期の小物成 元禄年代の郷帳集成である「隠岐記」(成立年代は明かでないが増補「隠州記」とは違う。)記載の小物成を整理したのが第3〜14表である。前にもふれたように近世の小物成は、山林、原野、河海に課せられた雑税であるが、主にその土地の 0 0 黒木村誌 0 226 5 物産を対象としたものであって、大慨は近世初期に品目が固定したまま後世に踏襲されている。したがって第3〜14表によって、逆に初期の小物成品目及び地域的生産の一班を判断することの出来る場合も多いのである。 0 0 黒木村誌 0 226 8 米納の小物成 串鮑、串海鼠は、鮑、海鼠の乾物で、串物と総称されたものである。中世資料である「島前御くしの物当日記」(村上祐九郎家所伝、「島根県史」所収。)に、島前各村への割り当て数量がのせてあるが、その中に、1)くしこ拾運、別府村。 0 0 黒木村誌 0 226 11 2)あわひ五連、くしこ十連、宇賀村。とあり、古くからの運上であったことが知られる。近世の初期より米納となっているが、銀納とせず、米納とした理由は分からない。この両役は、ともに島前が主たる対象となっているもので、島後では僅かに 0 0 黒木村誌 0 226 14 那久村の串鮑二連役、南方村の一、六連役、久見村の三連役があるのみで、串海鼠役は島後には全く無い。島前について言えば、両役ともに浦郷村には無く、その外の各村においても一連役のものであるに過ぎず、美田村のみ圧倒的に多いことが目立っている。 0 0 黒木村誌 0 226 17 なお、この両役以外はすべて銀納である。 0 0 黒木村誌 0 227 1 各村共通の小物成、竃役銀、核苧役、漁請銀、牛皮役。(1)竃役銀(かまどやく)。竃役銀は、御役目屋敷に対して課せられた小物成で、一軒に対し面判銀一匁の割りである。初期本百姓の成立の際にみたように、慶長18年検地において美田村の御役目屋敷は 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 227 3 60軒であったから、美田村の竃役銀は60匁である。宇賀村の御役目屋敷が50軒であったのに竃役銀が51匁であるのは、慶長18年検地の後、さらに1軒の御役目屋敷請があったことを示している。ところが、別府村には竃役銀の負課は無い。 0 0 黒木村誌 0 227 6 一、別府村ハ屋敷役ハ御公儀様カラ御免、御役所御入用割賦物モ嶋中請割賦除キ、此外毎年嶋中カラ銭壱〆文指出シ来候(天保9年写「隠岐国御支配之起」加茂、井上家所蔵)という屋敷役が竃役銀のことで、おそらく島前代官所所在地なる故を以て、この小物請負課の 0 0 黒木村誌 0 227 8 際に免除されたのであろう。(2)核苧役(こそき)。核苧役は、御役目屋敷一軒に対し核苧30匁である(島後は、これより少し多い)。核苧は、苧にした麻であるから、御役目屋敷の空地に植えた麻に対する運上であろう。以上の二役は、ともに御役目屋敷に 0 0 黒木村誌 0 227 12 かかる小物成で、他の小物成とは異なった経緯を経たものではないかと思われる。御役目屋敷に対する負課は、元来夫役負担体系のものであって、本百姓(初期)が実際の賦役に出る代わりに、米または銀を以て代納する臨時的性格のものであった。 0 0 黒木村誌 0 227 14 ところが幕藩体制の整備につれて、これが経常費的性格を帯びるようになった。それとともに、後節に述べるように本百姓身分の編成替えが行われ、身分を決定する基準が、従来の御役目屋敷請(本役負担)を離れて高請へと移り、高請農民を本百姓、 0 0 黒木村誌 0 227 16 無高を水呑とする本百姓水呑百姓体制へと変わって来て、農民亥に対する負課が高請を主体とするようになった為に、それまで御役目屋敷にかかっていた諸負担が、おのずから小物成定納化するようになった。 0 0 黒木村誌 0 228 1 (3)漁請銀(りょううけ)。美田(170匁)別府(16匁)宇賀(37匁)浦郷(200匁)知夫(46匁)是ハ古来ヨリ浦ヲ抱候村々ニテ漁請役納来候、所ニヨリ役銀多少御座候、則郷帳ニ一村限記載有リ(西郷町、高梨武雄氏所蔵記録。) 0 0 黒木村誌 0 228 6 というように、浦を抱え漁業に従事する村々に対して課せられた小物成であって、海を持たない村には、この運上はない。右にいうように、一村限り即ち村単位に記載してあるので、実際に何を基準にして算出したものか明かでないが、おそらく漁業従事の農民 0 0 黒木村誌 0 228 9 (農業専業の家は除き)に課したものであろう。島前では浦郷村が最も多く200匁(戸数206)、その次が美田村の170匁(戸数202)である。 0 0 黒木村誌 0 228 10 牛皮役 美田(24匁)別府(4)宇賀(14)浦郷(48)「隠岐記による」これは小物成である。1)慶長十五年未秋、和泉国堺ヨリ田中新兵衛、儀兵衛、仁兵衛、堀尾山城守ヘ御願申上、御運上ヲ請、当国ヘ罷渡リ、牛ノ皮ヲハギ候云々「諸色年代略記」 1610 0 慶長15年 黒木村誌 庚戌 0 228 17 という如く、和泉国堺の三人が隠岐へ渡り、運上を納めて牛の皮を剥いだのであった。かかる特殊な職業に従事する人々が、何時頃まで在島したものか不明であるが、「往古ハ穢多居候テ皮ヲハギ候由、百年モ穢多居不申、然トモ役銀其侭納来候」 0 0 黒木村誌 0 229 2 (前掲、高梨武雄氏所蔵記録。)というように、このような特殊生産の廃絶後も、これら職業人の負担した運上だけは、如何なる理由によるものか村方に転嫁され、小物成として近世を通じて定納されたのである。この小物成も島前が主な対象であって、 0 0 黒木村誌 0 229 4 島後の各村は、1〜4枚役まであるのに比べると、島前の負担が、はるかに大きいことが知られる。 0 0 黒木村誌 0 229 6 海産物に対する小物成(大鯛役、カラ役、鯣役、鰯役、海苔役、和布役、山手塩役) 串物の外に、海産物に対する諸役がある。これらの海産物が、当時(元禄時代)その地域において大量に生産されたかどうか、にわかに断定することは危険であるが、大鯛役、カラ役、 0 0 黒木村誌 0 229 11 鯣役、鰯役、山手塩役など、地域的に特徴のある品目については大いに注目を要する。(1)大鯛役。美田(1、2匁)別府(1、4匁)宇賀(0)浦郷(15匁)知夫(1匁)大鯛役は島前には一般的であるが、島後には一地域(蛸木、加茂、箕浦岸浜)のみである。 0 0 黒木村誌 0 229 16 島前では浦郷村が最も多く特徴的、美田、別府は平均なみという所であろう。宇賀村には無い。(2)カラ役。美田(110匁)別府(4匁)宇賀(4匁)浦郷(150匁)知夫(0)カラ役のあるのは、全島を通じて西ノ島のみで、他にはみられない。 0 0 黒木村誌 0 230 2 中でも浦郷村、美田村が圧倒的に多い。(3)鯣役。鯣役は美田村(1、5匁)のみで、別府村、宇賀村にはない。島前でも他村では、崎村(20匁)、太井村(10匁)の両村が圧倒的に多いが、他村には見られない。(4)鰯役。鰯役何俵というのは 0 0 黒木村誌 0 230 11 宇賀村である。(6)和布役(わかめ)。美田(0、6匁)、別府(0)、宇賀(0、2匁)、浦郷(1匁)、知夫(0、5匁)海苔役とともに、一般的であるが、少額の小物成である。(7)山手塩役。これは主に島後を対象とした小物成である。 0 0 黒木村誌 0 230 17 塩・薪 是ハ知夫里郡ニハ六分ヅツ、周吉郡穏地郡寄セニハ七分ヅツ古来ヨリ如斯不同御座候、但一俵ニ一斗ツ入申候、古来四季トモニ塩焼申由ニ候得共、近来薪伐出シ候場所モ遠ク成、塩竃拵ニ大分手間入申儀ニ候故、二季焼キ申所御座候、或ハ冬斗焼、 0 0 黒木村誌 0 231 4 或又塩竃浪ニ打損シ惣而竃座ツフレタル所数多御座候、然レトモ役銀ハ前々ノ通リ上納仕候事(前出、高梨武雄氏所蔵記録。)とあるように、事実上の製塩とは別に役銀は従前通り取り立てられたものである。島前では美田村のみであるが、大山入会問題と 0 0 黒木村誌 0 231 10 陸産物に対する小物成(椎実役、柄油役) (1)椎実役。全島を通じて美田村の一匁のみである。(2)柄油役(からあぶら)。柄油というのは椿の実である。美田村が最も多く、次いで別府村であるが、この美田村の19、2匁は、隠岐全島を通じての最高である。 0 0 黒木村誌 0 231 15 中期以降の小物成 以上、元禄年代の郷帳集成である「隠岐記」所載の美田、別府、宇賀三村小物成について、島前全体の中において見て来た。これらの小物成は定納化されて、そのまま近世末まで継続したが、後になって若干追加された品目がある。 0 0 黒木村誌 0 231 18 (1)御林下草銀(延享3年)延享2年丑9月、永否、新田畑、御林御改ニ、松江田辺惣左衛門様、勝部彦三郎様御着船被成、新田畑御改書、御林ニハ下草銀被仰付、御上納始カラ同年(筆者註。宝暦11年)迄17年ニ成ルとあるように、翌延享3年(1746) 1745 900 延享2年 黒木村誌 乙丑 0 232 2 よりの上納である。下草銀というのは、刈敷とするために雑木林の下草を刈取る小物成である。この御林は反別7反歩であって見付嶋のことである。見附嶋木之事一、御林松之木二十二本延享二丑十月御改、松苗木十二本宝暦三酉十二月御改、〆三十四本内一本宝暦二申十二月枯申ニ 0 0 黒木村誌 0 232 8 付御改、受伐申候、残三十三本。覚、一銀、十五匁、御林下草銀、七匁寅年上納(延享三年)、五匁卯年上納、三匁辰年上納。右者御林下草、江戸御表カラ為請候様ニ御役所江申来候ニ付、田辺惣左衛門様、勝部彦三郎様、土屋武太夫様、大庄屋助九郎殿三ヶ年上納仕筈之書付、 1746 0 延享3年 黒木村誌 丙寅 0 232 15 大庄屋殿当テニ仕、差上ケ置申候。延享二年丑十月、年寄、喜三右衛門、庄屋、新兵衛(笠置伝写本)。右のように、はじめは年々不同の上納であった模様であるが、天明年間の下札には銀三匁四分、それから後の下札にも同類であるから、何時頃からか定納となったもののようであ 1745 1000 延享2年 黒木村誌 乙丑 0 233 1 る。(2)山手役銀(安永二年)、前記の下草銀の対象となったのは公儀直轄の山林であったが、山手役銀の対象は、地下立山などとも呼ばれる農民入会山であった。右之通(筆者註。明和九年四月改)御吟味有之候而、平均拾三分通御引 1773 0 安永2年 黒木村誌 癸巳 0 233 4 起、其外、林役、屋敷役、酒屋冥加銀、其外役目相加リ、都合両嶋ニ而翌年御上納二十貫匁程相増申候事(高梨武雄氏所蔵記録)。右の「林役」が山手役のことで、明和九年(1772)の吟味の結果、翌安永二年より上納となったものである。その内容は、農民が 1772 0 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 233 7 薪 牧垣の杭、棹、竃の薪などを伐取ることに対する負課である。美田村資料では、安永三年、銀、十二匁、百姓林二ヶ所山手役銀。が見え、それ以降散見する資料においても同類であるから、はじめから定納となっていたのであろう。百姓林二ヶ所は、 1774 0 安永3年 黒木村誌 甲午 0 233 11 明和元年指出の「地下立山二ケ所」のことである。場所が何所であるか、よく分からないが、大山入会の場所でないことは明かである。別府村では天明3年下札に、銀、三分、百姓林一ケ所手役銀があり、美田村と同じく定納化している。この百姓林 1783 0 天明3年 黒木村誌 癸卯 0 233 15 は、地下立山たる白嶋のことである。宝永6年別府村諸色明細帳によると、一白嶋御立山、長一町、横二十五間。但シ松木二十本、目廻三尺五六寸、。。。木御用木三御座候小松立申候、海辺荒磯、九月カラ二月迄舟着不申候、在所カラ北方二十四五町程御座候 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 234 1 と載っており、当時の詳細が知られる。(3)酒屋冥加銀。前記の資料によると、山手役銀と同じく、これも安永2年からの上納ということになるが、当時の資料は美田村にも別府村にも無い。しかし、それまでに酒屋が無かったのではなく、別府村 0 0 黒木村誌 0 234 4 には宝永6年(1709)、一酒屋一軒、米屋杢右衛門。是ハ御運上銀上ケ来申候、当丑ノ年カラ御運上銀御免被成候。(宝永6年、別府村諸色明細帳。)と見え、宝永5年までは運上銀を上納したが、同6年から免除になった。たぶん浮役の一つであったのであろう。 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 234 8 小物成の中には、郷帳に記載して毎年一定の上納させるもの(定納)と、品目、額、期間などが不定のため郷帳に記載することのできない、浮動的な雑税があり、これを浮役と呼んでいる。別府村のその後の資料を列挙しておこう。天明3年下札。 1783 0 天明3年 黒木村誌 癸卯 0 234 12 銀、八匁二分五厘、酒屋一軒冥加銀。当卯年凶作ニ付酒造停止ニ申付除之。天明4年、酒造停止。寛政5年下札。銀、二匁七分五厘、酒屋一軒冥加銀。是ハ天明七末年酒造高三分一造被仰出候付冥加銀三分(筆者註。三分ノ一の意。)上納如斯。 1793 0 寛政5年 黒木村誌 癸丑 0 234 18 寛政6年下札。銀、六二匁八分一厘、小物成銀(筆者註。小物成全額。)内二匁七分五厘、当寅酒造三分二造被仰渡候ニ付冥加銀ニ而増。寛政7年、同前。寛政8年。覚。一銀、五七匁三分一厘。外八匁二分五厘、酒屋冥加銀ニ而減。右の寛政8年覚に、 1794 0 寛政6年 黒木村誌 甲寅 0 235 6 「酒屋冥加銀ニ而減」とあるのは、冥加銀を免除したというのではなく、この酒屋の権利が、寛政8年から美田村へ移ったのである。明和九年別府村指出帳に、一、酒屋一軒、「此分今ハ美田村へ。寛政8年卯ニ(辰ノ誤リ)美田被受」とある。 1772 0 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 235 9 「」の中は、勿論後年の書入れである。以上のように、別府村には、明かな資料では宝永年間から酒屋が一軒(米屋)あったが、寛政8年に、この権利は美田村へ移った。美田村の資料では、享和2年皆済目録に、一、八匁二分五厘、酒場運上銀。と見え、 1802 0 享和2年 黒木村誌 壬戌 0 235 13 酒場運上銀と名称は変わっているが、安政年間までの資料では同額の運上がある。美田村にも寛政8年以降、近世末まで酒屋が一軒続いていたのである。酒造経営者は明かでないが、次の天保年間の資料によると、寛政8年に別府村から権利を獲得したのは 0 0 黒木村誌 0 235 15 「みそや」であろうと思われる。天保年間には、西ノ島に三軒の酒屋があった。これは当時、「他国酒入候由付埓之儀ニ付」、その対策として、島前を西ノ島、海士、知夫里の三地区に分け、それぞれに酒造業者及販売を指定したのであるが(松浦康麿氏所蔵 0 0 黒木村誌 0 235 17 「触書写抄」。)、西ノ島一円において「勝手ニ売出可申」と許されているのは、「みそや」「大宮や」「西や」の三軒である。したがって天保年間には美田村に「みそや」、別府に「西や」が酒造販売を行っていたことは明かで、寛政8年に酒造経営を 0 0 黒木村誌 0 236 1 美田村にゆずった別府村でも、その後間もなく復活したのであろう。なお「代宮や」は、浦郷旧酒造業の「東代宮屋」であろうと思われるが(横山弥四郎「知夫村誌」による。)、詳細は「知夫村誌」を参照されたい。(4)廻船入津役銀。天明6年美田村下札によると、 0 0 黒木村誌 0 236 6 一、銀七百七十匁八分三厘、小物成銀。内五匁五分、廻船入津役銀ニ而増。是ハ去巳年御吟味之上、廻船入津役銀被仰付、当午カラ年々上納可仕。とあり、この小物成は天明6年はじめての上納であることが知られる。廻船入津役を、美田村では帆前役と 1786 0 天明6年 黒木村誌 丙午 0 236 10 呼んでいるが、その理由は、西郷三町における次のような経緯から推察することができる。この小物成については非常な物議を生じた。この運上の発端は、湊へ入津する諸国廻船に対し、帆一反ニ付十五文宛徴収する、そうすれば西郷三町は、全島の 0 0 黒木村誌 0 236 13 応援を得て猛烈な抵抗を試みた。種々交渉の結果、そけでは廻船より帆役は取不申、その代わりに、それに見合う六〇匁の運上額を西郷三町で負担せよ、ということになった。しかし、それはあまりにも高額であるというので交渉は継続され、結局西郷三町 0 0 黒木村誌 0 236 15 において三三匁(一一匁づつ)の小物成運上と決定して落着した(西郷町森家所蔵「文化2年森家一切留覚」。)。以上のように、帆一反に対する小物成であるところから帆前役ともいったが、美田村は五匁五分、その割賦内容は、大山明(下り間) 0 0 黒木村誌 0 236 18 二匁五分、舟越五分、橋(波止)(登り間)二匁五分であった。別府村には、この運上は無く、宇賀村は資料不足で明らかで無い。(5)牛馬冥加銀。これは牛馬を売り、他国へ積み出す際の運上である。一、文政6年、公御役人前原八三郎様御渡海御吟味之上、 1823 0 文政6年 黒木村誌 癸未 0 237 4 牛馬他国出し冥加銀上納被仰付。とあるように、文政6年はじめての上納である。たぶん浮役であったと思われるが、残存資料によると、美田村では、十二匁一分三厘、牛馬冥加銀、文政十年。十二匁三厘、牛馬冥加銀、文政十二年。十二匁三厘、牛馬他国出冥加銀、安政六年。 1823 0 文政6年 黒木村誌 癸未 0 237 10 別府村では二匁一分5厘、牛馬他国出冥加銀、萬廷元年。の諸例があり、厳密に売買牛馬一頭宛に負課したのではなさそうである。なお従来も他国へ商売に売出す時には、買主は売主より売手形を取り、それをまとめて代官所に提示して積出しの許可を 1860 0 万延元年 黒木村誌 庚申 0 237 14 得たのであるが、その際に支払った「駄別銀」は別のものである。 0 0 黒木村誌 0 267 6 村役人の性格 実際に村運営の衝にあったのは、いうまっでもなく村役人である。村役人は村の代表機関であるとともに、支配機構の末端組織たる機能を持ち、半官半民とまではいえなくとも、かなり複雑な性格を備えている。近世の初期においては、 0 0 黒木村誌 0 267 9 公文の下に数名の「役人」がいて、村行政を助けていたものらしいが、戸口の増加、自治組織の整備につれ、数人の「年寄」が選ばれて村行政に携わることになってからは、「村役人」といえば公文(後の庄屋)と年寄をいうようになり、従来の 0 0 黒木村誌 0 267 11 「役人」は彼等の命を請けて村行政の末端事務に使役されるようになった模様である。このような村役人の性格および変質過望について、以下具体的にみていくことにする。 0 0 黒木村誌 0 267 13 公文(元禄4、庄屋と改称) 公文という名称は、もちろん中世からの遺制である。近世に入ってからの公文は、一口に公文とはいっても大別して二つの系統に分けられる。一つは、中世からの出自系譜を持つ旧公文とでもいうべき系統と、他は、中世末 0 0 黒木村誌 0 267 15 または近世のはじめに村切りによって新しく生まれた村の公文となった新公文の系列である。旧公文についていえることは、近世初期の検地において、その保有反別が他に比較して強大であるが、このような観点から、三村の公文について簡単に触れておこう。 0 0 黒木村誌 0 268 1 美田村の公文は笠置氏である。笠置氏は、すでに中世の章において詳細に述べた通り、中世の美多庄公文として、その出自は中世を相当に遡る時点に求められた。その後、代々世襲して近世に及び、近世美田村の成立とともに公文になり、そのまま近世を 0 0 黒木村誌 0 268 3 経過した旧公文系統の代表的存在である。前にも述べたが、美田村には慶長十八年検地帳が残っておらず、近世初期の公文の田畑保有状況を詳細に知ることが出来ない。そこで三十年後の寛永二十一年美田村田方帳によって、当時の公文の水田保有状況を 0 0 黒木村誌 0 268 5 見ると、村全体の水田反別十八町余の中、公文庄左ヱ門(笠置氏)は約四町歩を請け、その次に位するものは長福寺の九反余、弥右ヱ門(大津)の八反に過ぎない。先に村高の動向(一、検地3村高の動向)に見たように、慶長十八年より寛永二十一年 1644 0 正保元年 黒木村誌 甲申 0 268 7 までの約三十年の間に美田村の水田増加は僅かに四畝歩に過ぎないのであるから、その間に、農民の水田保有状況に大きな異動があったとは考えられない。したがって、これによって近世初期における美田村公文の経済的強盛の片鱗をうかがうことが出来よう。 0 0 黒木村誌 0 268 10 宇賀村公文は宇野氏である。先に慶長十八年宇賀村検地において見たように、当時の宇賀村公文は備後であった。宇賀村には水田僅かに三反五畝余ある内、三反は備後が請け、畑方においても全部で二九六町余の内、三十数町歩を保有しているのは備後であり、 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 268 12 その次は一ノ宮と五右ヱ門(知当)の約十一町歩に過ぎない。故松浦静麿氏の研究にしたがえば、この公文筋は物井の宇野氏(家名緒方)である。中世末に宇野備後掾があり、「雲州富田城主吉川氏江年頭之礼渡海仕節、富田御城二丸ニ而吉川殿ヨリ 0 0 黒木村誌 0 268 14 備後名ヲ給ル」という。この備後掾の二男六良左衛門が後に備後と号したということであるから、年代の上からいえば、この人が慶長十八年当時の宇賀村公文に比定されるものと思われる。宇野氏のもた庄園制下に出目を持つ旧公文の系列に在る家であろう。 0 0 黒木村誌 0 268 17 次の別府村の公文であるが、慶長4年検地帳の公文近藤十郎左衛門の家(家名緒方)である。慶長18年当時は、その子藤左衛門が公文であった。別府村の公文は、慶長4年検地では、村の水田約六町歩の内、公文給として約七反を請けている。 1599 0 慶長4年 黒木村誌 己亥 0 269 1 慶長十八年検地においても、村全体の水田約四町歩の内、公文の請けているのは約七反であるが、畠方では両検地ともに公文の保有が断然多かった。後醍醐天皇の黒木御所脱出に一役奉仕した伝承保有の家筋でもあり、やはり中世に出自をもつ旧公文系統の家であった。 0 0 黒木村誌 0 269 4 公文の待遇 慶長十八年の初期検地において、右の各公文が請けている田畑は、当時の保有状態を、そのまま認められたもので、村役人としての役儀に対する待遇には、外に次の三つがある。1御免除屋敷(一反位)。2?文給。3百姓の夫役提供。 0 0 黒木村誌 0 269 9 御免除屋敷については既に述べたので、ここでは説明を省略するが、近世を通じて異動はない。公文給としてじは田方において「寛衛十五寅年より元祿三午迄、村高百歩(分)一ずつ田方ニ而御免除地に被下置」れたもので(前出、「御証文写」)、 0 0 黒木村誌 0 269 13 百姓役ニ可仕、右勘六左衛門殿御証文有之、国中一統左様之儀相心得」(同上)たというのであるが、公文は普通三〜五日の夫を村の百姓に課したのであった。 0 0 黒木村誌 0 269 15 公文から庄屋へ ところが元祿四年、公文は庄屋と改められた。「田方ニ而村高百歩(分)一御免地之分、元祿三午年石州御代官後藤覚右衛門様御在番之節、御引起毛付物成地ニ罷成、、、、、勿論庄屋之儀も右午年迄は公文ト申候処、右給料御引起ニ相成候ニ付、 1691 0 元禄4年 黒木村誌 辛未 0 269 17 翌末年より庄屋ト改号被仰付」(同上)れたのである。公文を庄屋と改めたのは、公文という役名を廃止することによって、公文についていた公文給を取り上げるのが、最大の眼目であったわけである。先にも触れたように、当時幕府の直轄地における農政改革の 0 0 黒木村誌 0 270 2 態度は漸次厳しくなりつつあり、この年には公文給のみならず、従来二隻あった観音丸(島前)、日吉丸(島後)の中、日吉丸は廃されて船頭、船大工も召放され、ほかに鍛冶給大工給等も召し上げられるなど、その余波は隠岐のような辺境にも苛責なく及んだのである。 0 0 黒木村誌 0 270 5 大庄屋制 庄屋の役儀については、今更書き上げる必要もないが、大庄屋制については簡単に触れて置かなければならない。隠岐のはじめて大庄屋制が採用されたのは享保六年である。島後に二名、島前に一名の大庄屋が設けられたが、島前大庄屋の 1721 0 享保6年 黒木村誌 辛丑 0 270 8 初代は、当時の美田村庄屋笠置八郎左衛門であった。これより数年前、幕府は直轄地において大庄屋制を廃止している(正徳三年四月「条々」)。そけは地方行政を粛正して年貢の収納を強化する為であって、地方支配機構の末端層と結託して行政腐敗を 1711 400 正徳元年 黒木村誌 辛卯 0 270 10 温醸しやすい地位にある大庄屋の役職を廃止したのであった。ところが同じ天領である隠岐国においては、このような方針に逆行し、今まで無かった大庄屋を新しく設けたのは何故であろうか。明和九年、諸事吟味のために渡島した吟味役から、当時の 1772 0 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 270 13 大庄屋三人に仰せ渡された書付の中に次のように述べている。−大庄屋と申事は諸国に近年迄も有之候処、村々に而尊敬せられ候故、自分の身上を忘れ、公儀役人同然に心得違ひ、亦は身分の奢侈にまかせ私曲をいたし、村方を掠め候故、一統御差止め成候、、、、、 0 0 黒木村誌 0 270 16 当国之儀は辺鄙にて、両嶋之諸相弁候為、御預にて申付置れ候よし、当時は諸国御差止め之役柄、如何之事に候得共、嶋国別段之事故相立候儀と相聞候−(前出、高梨武雄氏所蔵記録。)右の内容を要約すれば、大庄屋は近年、天領諸国においては廃止 0 0 黒木村誌 0 270 19 になったが、隠岐国は辺鄙の地であるので両嶋の諸用を相弁ずる為、御預(松江藩)にて申付け置かれたとのこと、諸国においては御差止めになっている役柄故、いかがなものがと思われるのであるが、島国別段の事故相立てられたと承わっている、というのである。 0 0 黒木村誌 0 271 3 思うに同年、隠岐でも定免制の採用を中心とする農政の大改革が断行だれたのであるから、交通不便の故に事務連絡の渋滞摩擦を生ずることをおそれ、代官所と村役人との間に緩衝機関を設ける方が何かと便宜であると判断したからであろう。また遠見番役の 0 0 黒木村誌 0 271 5 新設にもうかがわれるように、海防対策を重視した為もあったかも知れない。 0 0 黒木村誌 0 271 6 大庄屋の待遇 文化年代の「覚」(島後五ケ村、代文書)によると、大庄屋の待遇について、次のように挙げている。一、野扶持三人扶持。是は就御用、郷方江罷出、及一宿候節、相詰候日数一ケ切、仕出手形を以可被下。一、階具御免。就御用、 0 0 黒木村誌 0 271 10 郷方江罷出候節、自分馬令所持乗候儀、可為勝手次第、勿論上役人罷出令案内時は、馬に乗候儀可有用捨候。ここには野扶持と階具御免とがあげてある。野扶持は、在郷の村々へ出向き宿泊した時の出張旅費である。一日につき三人扶持、一人扶持は 0 0 黒木村誌 0 271 12 米五合が標準である。階具御免というには、出張の時、乗馬を許されることである。この外に、まだ切米と扶持米の支給があった。切米は年棒に当るもの、扶持米は、在勤手当で、一日につき二人扶持程度であった。切米は、武士の比較的上級者、 0 0 黒木村誌 0 271 14 扶持米は下級者に対する棒祿であったが、大庄屋が切米を受けていることは、皆具御免の待遇とともに、武士に准ずる身分であったことを示している。 0 0 黒木村誌 0 271 16 大庄屋の勤方 次に前の資料によって、大庄屋の勤方を見よう。一、御納所請払。一、宗門改之詰開。一、諸運上之詰合。一、諸願之事、下より申出次第、逸ニ詰合、道理至極之上取次、奥書判形可仕。一、諸注進取次。一、諸色触流し下江通達。 0 0 黒木村誌 0 272 5 一、流人等に可心附。一、公事出入之取次。訴状返答共ニ見合、訳筋能令了簡、御上之御苦労に不相成様廉直に可相捌、何れも難及了簡儀者、此方江相訴可申候、一、御用串物、御関札板并ニ諸材木等買出し、雲州江之運送之詰合。 0 0 黒木村誌 0 272 12 至時令差図儀茂可有之候間、万端無油断、上下之費を厭、諸事猥之儀無之様心遺肝要之事、勿論誓紙を茂申付候。列挙してある諸項目をはじめから見ると、御納所請払(代官所の会計収支)、宗門改、諸運上の処理、諸願、諸注進の進達、触書の下達、 0 0 黒木村誌 0 272 15 公事出入(訴訟)の処理、雲州運送物、村役人監督、村小繋(村入用費)、百姓指導など、内容は地方行政の全般に関与している。ほとんどすべての文書に大庄屋の奥書判形を必要とするようになり、中でも公事出入の取次においては、「訴状返答共に 0 0 黒木村誌 0 272 17 見合、訳筋能く了簡せられ、御上の御苦労に相成かざる様廉直に相捌く可し」と申渡し、さらに「何れ(原告被告)も了簡に及び難き儀は此方(代官)へ相訴え申すべく候」といっているが、ここから看取されるのは、面倒な公事出入はなるべく大庄屋の 0 0 黒木村誌 0 272 19 処で処理させようという支配者側の意向が示されていることである。以上のような役儀内容から見ると、ただ単に門閥財力を背景とするぐらいでは勤まりそうも無く、相当の人徳才腕を具備することが必要であったと思われる。 0 0 黒木村誌 0 273 2 島前初代大庄屋笠置八郎左衛門 島前の初代大庄屋は、はじめにも触れたが美田村の笠置八郎左衛門である。八郎左衛門が、父庄左衛門の病死によって美田村庄屋の跡目を継いだのは、元祿二年彼が二十才の時であるから、享保六年初代大庄屋に就任した時には 1721 0 享保6年 黒木村誌 辛丑 0 273 4 五十を二、三越え、人物としても円熟の境に入っていたのであろう。しかもその間、大村たる美田村の庄屋として三十年の経験を経ていたのであるが、それはあたかも隠岐が天領として直接に大森代官の支配下に置かれた全期間に相当している。 0 0 黒木村誌 0 273 6 また一面において当時の経済力を見ると、慶長〜元祿年間までの田方保有が三町四反八畝であったものが、享保年間には五町三反六畝と50%以上の上昇を示しているのである。八郎左衛門は病気によるものか、間もなく依願役儀御免となり、島前 0 0 黒木村誌 0 273 8 大庄屋職は、一旦は別府村近藤氏に移ったが、数年後海士村村上氏に渡り、以後は海士村村上、崎村渡辺、宇受賀村村尾、美田村笠置の四家に固定した。 0 0 黒木村誌 0 278 1 公文所 村役人が、実際に村行政の事務を執り行ったのは公文(庄屋)の家である。今でも公文所という家が各地にある。公文所は村の政治的中心であって、公文所のある里が村の本郷である。各種の下達事項を公示する御高札場の設けられたのも、 0 0 黒木村誌 0 278 3 公文所の前であった。 0 0 黒木村誌 0 278 4 検地帳と土地売買 村役人の仕事の中で、最も重要なものは年貢収納に関する一切の事務であった。年貢収納に関する事務処理については前述したが、本年貢に関しては、慶長十八年検地を基礎とし、それ以後の新田畑検地の分を加算して決定された 0 0 黒木村誌 0 278 6 村高が基準とされるのであるから、それら検地帳類は重要な常備書類である。しかし、そけらの検地帳上に名請けしている農民は、すでに死亡しているのであるから、その跡が、如何に継がれて現在に至っているかを、具体的に明確に把握して置かなければならない。 0 0 黒木村誌 0 278 9 殊に中期を過ぎる頃になると、土地の売買が頻繁に行われるようになるが、その実体を明瞭にし、的確に処理して置かなければ、後日になって年貢の割賦、其他の事項に関連して、どんな紛争が生じないとも限らない。であるから、「五人組手形条々」においても、 0 0 黒木村誌 0 278 13 一、田畑永代売買之儀、御法度之通り堅く相守り、質物に入れ候年季拾ケ年限り申す可く候、其の節、庄屋頭百姓五人組へ申し聞かせ、吟味之上、各加判を以て後日に申分これ無き様に証文相究める可く候、但し居村之外他村に田畑所持仕候者は、 0 0 黒木村誌 0 278 14 其村の庄屋頭百姓へ相断り、右同前に加判取り申す可く候、勿論、二重質に入れ、又は質に取りしもの年季の内余人へ書入等にも仕る間舗事と定め、年季質入(事実の売買)の場合には庄屋以下の加判を必要とする旨を明かにしている。 0 0 黒木村誌 0 281 4 国配当 年貢上納の外に、村には各種の出費が課せらけてくる。その一つに、隠岐国全体または島前全体において負担すべきものの割賦があって、国入用、国役とか国配当などと呼ばれるものである。一例を挙げると巡見来島の場合の公儀御用の船、 0 0 黒木村誌 0 281 6 水夫等に関する費用で、このような隠岐国全体において負担すべき費用の割賦は、古く寛永年間より島後六、島前四の割合とする慣例になっており、島前ではさらに夏は海士郡、暮(年末)は知夫郡において「国配当寄合」が開かれ、各村の庄屋が 0 0 黒木村誌 0 281 8 集まって割賦について協議した。宝永六年隠岐国知夫里郡別府村諸色明細帳には、宝永六年(1709)別府村の支出が全部計上されているが、その中で国配当に関するものは次の三つである。一、丁銀六匁七分、石州小原屋歩銀。但シ御物成銀上納仕、 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 281 12 石州ヘ渡シ、小原屋ニ而悪銀吟味仕、歩銀包紙萬入用、百匁ニ付一匁一分宛出之。一、丁銀四匁五厘、御銀宰領入用。是ハ米穀代銀石州ヘ運送御節、庄屋一人者一人遣。一、丁銀二十九匁一分七厘、国配当。但シ御蔵方給其外嶋入用、割符帳御蔵方ニ有。 0 0 黒木村誌 0 281 17 石州小原歩銀は、石州小原屋での銀秤量手数料、御銀宰領入用は、米穀代銀を持参した時の入費である。御蔵方給の御蔵は、当時島前中の年貢雑穀を納めた蔵であって別府の御在番屋敷の中にあった。ここには蔵方と、蔵番とが勤番した。 0 0 黒木村誌 0 281 19 蔵方は、蔵に常勤して保管出納の任に当り、島後の場合には庄屋の中から一名選ばれており、島前においてもそうであろうと推察する。蔵方給は、蔵方に対する一年の俸給である。 0 0 黒木村誌 0 282 2 村配当 その外に、村自身の経常臨時の出費があること勿論である。村入用、小繋などと呼び、それを割賦したものを地下配当という。宝永六年(1709)別府村の例を挙げると、一、丁銀四十匁、牧士二人給。但シ田畑作毛牛馬喰荒不申様ニ吟味仕、 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 282 5 古来より有来。一、丁銀七十匁、小使二人給。但シ村々ニ御用小夫仕候ニ付入用。一、丁銀四匁九分、御蔵番給。但シ嶋中御蔵一ケ所別府村御在番屋舗之内有之、米穀納候ニ付昼夜蔵番一人給銀、日数石高ニ□如此、年中七日仕候。一、丁銀十匁、仲船入用。 0 0 黒木村誌 0 282 11 但シ御用向ニ乗申船一艘修復仕候。一、丁銀二十匁、流人三人養。但シ放捨流人年中少宛養、又ハ裸ニ而居有志ニ一重宛着物入用。牧士一人給は、牧場の管理に当る牧士の給料、小使二人は村継ぎの公用などの為に馳り使する小使二人の給料、御蔵番給は、 0 0 黒木村誌 0 282 15 前述の年貢米雑穀収納の蔵番として各村に夫役が割当てられ、その蔵番勤務に対する手当である。仲船入用の「仲船」の意味はよく分からないが、公用に使用される船であり、その修繕に要した費用で、村の臨時費である。最後は流人三人に対する養料、衣服料である。 0 0 黒木村誌 0 282 18 国配当、村配当の割賦 年貢以外に、以上のような国入用、村入用費を村民に割賦しなければならない。宝暦十一年編「隠州住古以来諸色年代畧記」(焼火山、松浦氏所蔵)によれば、その割当方法は、「貞享二年八月十六日、歩割帳面、嶋中公文相談ヲ以て、 1685 816 貞享2年 黒木村誌 乙丑 0 282 20 高ニ三歩二、屋敷ニ三歩一ニ定」めたのである。具体的にいえば、所要の金額が集計されると、その三分の二は農民の持高に按分して割当て、三分の一は屋敷(御役目屋敷)に対して割賦したのである。 0 0 黒木村誌 0 283 3 五人組前書 右のような諸年貢の皆済、村の行政財政事務を完全に遂行するためには、農民を確実に把握しなければならない。そのための一つの側面は支配機構による統制であり、他の面は、村自体の決議即ち村極めによる規制である。前者の一例としては、 0 0 黒木村誌 0 283 6 「五人組前書」がある。諸色年代畧記によると、享保元申冬、石州隠州御代官ニ作(竹)田喜左衛門様御着被成、同二年ニ当国五人組御仕置帳面被仰付候ニ付、御公儀様ヘ両嶋ヨリ書上申候云々。とある。五人組は、近隣五軒の百姓で組織し、連帯責任をもって 1717 0 享保2年 黒木村誌 丁酉 0 283 10 諸負担、救済、検察などに当らせたものである。五人組御仕置帳というのは五人組前書のことで、五人組に関する幕府の法令を列挙し、年頭とか、惣百姓寄合の時などに読み聞かせ、違背しないよう誓わせたのであった。五人組前書は、村役人以下惣百姓連判の 0 0 黒木村誌 0 283 12 請書を添えて提出してが、諸色年代畧記の記載を信ずるとすれば、隠岐国で五人組が制度的に確立したのは、享保二年(1717)ということになるかも知れない。すこし長いけれども左に全文を挙げよう。 1717 0 享保2年 黒木村誌 丁酉 0 283 15 五人組前書 差上申五人組手形之条々。一、従前之被仰付候御条目之趣、弥以堅相守、自今以後御法度之儀、被仰出次第、違背仕間敷事。一、主人に忠をはげまし、父母を到孝行、夫婦兄弟諸親類にむつましく、召仕え者に憐感をくわへ可申旨、御掟之通奉畏候、 0 0 黒木村誌 0 283 18 若不儀之者御座候はば無隠急度可申上事。附り、牛馬は不及申、犬猫鶏迄も疎抹に仕間敷事。一、切支丹宗門之儀、毎年人別に御改、宗旨寺請判形差上申候通り、召仕等に至迄無断絶吟味仕、うろん成宗門之者一人も無御座候、自然不審成者有之を不申上隠置候はば、 0 0 黒木村誌 0 284 3 当人並五人組は勿論庄屋頭百姓迄曲事に可被仰付事。一、召仕え男女相抱候儀、慥成所人主請人入念吟味いたし、請状並宗仕旦那寺之証文取置可申候、請人無之者相抱申間敷候事。一、宗門帳書上申候以後、人数増減之訳、其時々庄屋方に而改、帳面に記置可申事。 0 0 黒木村誌 0 284 6 一、人売買御停止之上は、疑敷もの御座候はば早々御注進可申上事。一、田畑詠代売買之儀、御法度之通堅相守、質物に入候年季十ケ年限可申候、其節庄屋頭百姓五人組へ申聞、吟味之上各加判を以、後日に申分無之様に証文可相究候、但居村之外、 0 0 黒木村誌 0 284 10 他村に田畑所持仕候者は、其村之庄屋頭百姓へ相断、右同前に加判取可申候、勿論二重質に入、又は質に取りしもの年季之内余人へ書入等にも仕間敷事。附り、地主より年貢出し、質物に取候者は、無年貢に作申間敷事。一、耕作之儀、常々心懸、 0 0 黒木村誌 0 284 11 食事 念を入作可申候、若不精にて荒置候可歟、仕付遅く成実入悪敷候はは、御詮議之上何分にも可被仰付候、独身之百姓長煩仕候はは、村中として助合耕作いたし、聊疎抹に仕間敷候、惣而百姓食物雑穀を用、米猥に費し申間敷候、農業之間には男女共に 0 0 黒木村誌 0 284 13 相応之稼可仕候事。一、村中之者、従党かましき儀企、神水を呑、到誓詞、一味同心仕候儀、無隠可申上候、若隠置他所より顕候はは、庄屋五人組ともに如何様之御仕置にも可被仰付事。一、田畑預作も不仕、其外商売ものの品不相知、いとなみの業無覚束もの、 0 0 黒木村誌 0 284 16 又は我侭斗申、公事訴訟之方人仕、村中之妨に罷成候者。有之は可申上候、致遠慮凶事出来候はは、庄屋五人組越度可被仰付候事。一、村中出入有之候者は、庄屋頭百姓能々遂吟味、内証にて可相済儀は、無依怙贔負取扱、双方得心之上、其わけ念を入、 0 0 黒木村誌 0 284 18 証文取かわし埓可明可申事。一、百姓衣類の儀、庄屋は妻子共絹紬布木綿着し、脇百姓は布木綿を用、絹布之類襟帯等にも仕間敷事。附り、有徳成脇百姓は御支配人へ相可申事。一、御年貢御割付御度被成候はは、惣百姓并入作之者迄不残立合致拝見、 0 0 黒木村誌 0 284 22 其旨別紙ニ記、連判仕、其上免割無高下相究、帳面にも銘々印形調之、庄屋に取置、極月十日以前急度皆済可仕候、尤初秋より五人組切無滞様に致吟味、御年貢皆済無之内は、石(穀)物他国へ一切出し申間敷候、若御年貢不致上納、欠落仕百姓御座候はは、 0 0 黒木村誌 0 285 1 五人組として弁済可申事。一、御年貢米銀納仕候度々、納入に印形いたさせ、庄屋請取手形押切仕、銘々度置、皆済之時分、一紙手形に引替仕、詰勘定相究可由事。一、村中諸入用多不懸様に常々心付致吟味、其時々委細帳面に書載、庄屋頭百姓其場へ 0 0 黒木村誌 0 285 4 立合候者致印形置、極月勘定之時分、惣百姓并入作之者迄寄合、明鏡に致、割高一石に何程懸と書付、此外村中入目無之趣奥書印形仕、一冊は御役所へ指上、一冊者庄屋方に差置、後日に至、疑無之様に可仕事。一、御年貢米あらぬか、くだけ、死米無之様に 0 0 黒木村誌 0 285 7 吟味致取立、米拵俵拵共、入念納置可申事。一、御蔵番人昼夜附置、用心無油断相守可申事、若火事盗人に逢、御米不足仕候はは、村中に而急度弁納可申候、尤当番之者御詮議之上、如何様にも可被仰付候事。一、村中火之元随分念を入相慎、最寄能所へ 0 0 黒木村誌 0 285 10 番屋を建、郷内番入打廻り、用心呼わり、疎に相見へ候家々は相断、申捨に不仕、亭主善承候而可罷通候、然上にも出火有之は、先御米蔵大切に囲、火元へ早速かけ付、精を出し消可申候、且又盗人さわり声を立候はは、聞付次第出合、取逃不申候様に 0 0 黒木村誌 0 285 12 可仕候、右之節、遅罷出候類、不精之者御座候はは、其様子委細致吟味、無遠慮可申上事。附り、町方在々共、水手桶はしご水ぼうき拵置、火事場へ持参可申候并棒とびくち用心のため所持可仕候事。一、用事有之候而、他所へ参泊候はは、其所庄屋 0 0 黒木村誌 0 285 14 五人組へ申聞、罷帰り候時分も早速可相届候、無断他出申候は吟味可仕候事。一、新田畑并切添等之外、帳はづれの田畑御座候はは、無隠申上御改請可申事。一、堤、川除、御普請人足御扶持方、何に而も御公儀様被下もの早速立合、割渡手形取置可申候、 0 0 黒木村誌 0 285 16 惣而次勘定一切仕間敷候、御普請所之儀常々心懸ケ、不及大破様に加修理、洪水之節危候はは、惣葉百姓不限昼夜罷出、随分精を出、囲可申候、若押切申においては、御注進申上、水留可仕候、疎成儀御座候はは、如何様にも可被仰付候事。一、田地用水につき 0 0 黒木村誌 0 285 19 争論之儀有之は、不及渇水内、可奉得御下知候、我侭に水引取申間敷候并領境村境野山等之出入、先規之定法能々致吟味、先之村へ相断、不埓明儀は早速御注進可申上候、先より理不尽申懸候共かさつがましき儀一切仕間敷候こと。一、田畑仕出し候とて、 0 0 黒木村誌 0 285 21 かけ堀、落堀并道すじせばめ申者御座候破は尾注進可仕候、常々道牛馬之通、不留様作可進候事。一、御公儀様御用之触状、何方より参候共、昼夜風雨をいとわず先々へ急度相送、日付時付無相違様に請取手形取置可申候、左様之節、年寄わらへに持せ為越申間申敷候事。 0 0 黒木村誌 0 286 1 附り、御手代衆御役人衆より被遣候とて御触状似書の様に心付候はば、印形等能々見届、疑敷於有之は、其者留置、早々御注進可仕候事。一、御朱印御伝馬人足被仰付候はは、少も無遅滞急度相勤可申候、且又御奉公人衆御通りかかり、人馬入用之由御申候はは、 0 0 黒木村誌 0 286 3 御主人之御仮名、其仁之名、何方へ御通り候訳承届、御定の賃銭道法にしたかひ取之、人馬相立可申候、御伝馬継に無之とて、疎略に仕間敷候事。一、野火付候もの有之候はは、致吟味、無隠注進可申上候、左様之節、村中早速罷出消可申候事。 0 0 黒木村誌 0 286 7 一、百姓子供に田地譲候儀、特候十石内に而は、わけとらせ申間敷旨、被仰付通奉畏候事。一、実子無之養子仕候者、糺筋目、五人組へ申聞、庄屋頭百姓へ断り、双方申合候趣、至後日相違無之様に証文取替究可申候、且又病身のもの在命之内、遺言書認、 0 0 黒木村誌 0 286 9 五人組庄屋頭百姓に為致加判差置可申候事。一、見物類の役者遊女野郎、村中留置申間敷候、若違背之者御座候はは、無遠慮御注進可申上候事。一、質物取候者有之は、其品々念を入致吟味、うろん成儀無御座候はは、証人を立、取置可申候、何方より 0 0 黒木村誌 0 286 11 下直成売物参候共、むさと求申間敷候事。一、有来候寺社住職代り之時分、御断可申上候、前々より被仰候通、新規之寺社建立仕間敷候事。一、行衛不知ものに宿かし申間敷候、縦見知たる者にても、あやしき躰に候はは、暫時も差置申間敷候、野山堂宮にかかまり、 0 0 黒木村誌 0 286 14 不審なる者有之候はは、早速追払可申候事。一、旅人通懸り煩候者有之は、庄屋頭百姓立合、其者之名、国所、親類等承り届、致介抱、御注進申上、彼者所持品々改之、封印を付置、若相果候はは猶又言上仕、可任御差図候事。一、他所より当村へ 0 0 黒木村誌 0 286 18 有付度と申もの御座候はは、増慥成所吟味之上、其村之名主へ相断、障儀も無之におゐては得御下知、請人宗旨旦那寺之証文取之、居住致させ可申候事。附り、借家并地借之者も右同前吟味可仕候、請人証人不取、親類たりとも相対にてさしおき申間敷候事。 0 0 黒木村誌 0 286 21 一、手負え者又は欠落人抱置申間敷事。一、従御公儀様御追放之者は勿論、親兄弟旧里(久離)を切候者、在所へ寄せ申間敷候、若蜜々囲置申者御座候はは、急度御注進可申上候事。一、在々所々庄屋頭百姓男女乗物乗鞍、前々より御停止無断絶相慎可申候、 0 0 黒木村誌 0 287 1 行歩負叶、駕篭にて往来仕度者は、可奉得御下知候事。一、家作之儀、縦身を持たる者にても、過麗かましき儀仕間敷候、其時之御支配人迄うったひ可申候、新規之屋敷取、猶以可得御下知事。惣而百姓に不似合風俗不仕、長脇差、伊達拵并衣類伊達 0 0 黒木村誌 0 287 4 染等用申間敷候事。一、仏事祭礼、信心を専らとして、結構成儀仕間敷候事。一、嫁取、聟入、其外振舞等かるくいたし、酒不可及乱酔事。附り、婚礼仕候者に水あびせ申間敷事。一、喧嘩口論仕候者御座候はは、罷出取さ(お脱力)へ可申候、若人を討、 0 0 黒木村誌 0 287 8 立退き申においては、大勢寄合とらへ可申候、不及手時は跡をしたい落着見届、其所へ預置、御注進可仕候事。一、当村之者、市町へ出、むさと酒給申間敷候、酒狂いたし候はは、何分にも可被仰付事。一、鉄炮御改之外、所持仕候者無御座候、隠候 0 0 黒木村誌 0 287 11 而鉄炮相調候者、承出次第、知吟味早々可申上候事。一、庄屋代り目之時分、役儀に付入候諸帳面、先役之者より改候而請取置可申候事。一、印判紛失、又は替候はで不叶儀御座候事。一、忠孝をはげまし、いとなみに精を出し、正路成もの御座候はば 0 0 黒木村誌 0 287 15 可申上候旨被仰渡、奉得其意候事。一、御組之衆中、御手代衆、御家来衆、金銀米銭衣類諸道具は勿論、其外不依何、音物に御馳走かましき儀、一切仕間敷旨、立毛御改御蔵〆之節共、堅御停止被仰付通奉畏候、押売押買被成候歟、御非分之儀候はは 0 0 黒木村誌 0 287 17 当座可申上候、右之面々へ貸借并頼母子懸仕間敷候、違背之者御座候はは、急度可被仰付候事。一、新銭鋳候者御停止之上は、左様のもの村中に無御座候、若他所より似金銀又は新銭鋳候もの参候はは、無隠可申上候事。一、前々有来候酒屋造石御定之員数、 0 0 黒木村誌 0 287 20 急度相守可申候、新規之酒屋一人も無御座候事。一、於村々迷惑成儀有之、表立難申上子細御座候はは、書付に記、封印仕、御手代衆へ指出可申旨被仰渡、奉承知候事。一、流人之内御扶持方被下候衆、其外放捨の者迄も、如何様に被頼候共、船渡し仕間敷候、 0 0 黒木村誌 0 287 22 若致油断、渡海有之におゐには、当村者共御詮議之上、曲事に可被仰付候、右之面々非分不申懸、無礼かましき儀仕間敷候事。一、流人へ他国よりの書状等一切取次申間敷候、乍然いとなみに成候儀歟、又は無拠子細におゐては、其品御役人中指図を受可申候、 0 0 黒木村誌 0 288 1 惣して何事によらす疑敷御座候はは、早速御注進可申上候事。一、他国船入津之節、往来手形相改、御手代衆へ遂御断、揚可申候、往来手形無之候はは、揚げ申間敷候、若不審成儀御座候はは、御手代衆へ御注進可仕候事。一、他国船当嶋心懸、商売物持参、 0 0 黒木村誌 0 288 4 往来手形有之候はは、揚候而、前々之通り札を以商売いたさせ可申候、往来之船当嶋に懸り、積荷物之内売申度由申候共、少しも売せ申間敷候、自然逢難風粮米無之、何にても売払、粮米求度由申候はは、粮米調候程は売せ可申候事。一、他国船逢難風、 0 0 黒木村誌 0 288 7 危き躰に候はば、随分精を出し介抱可仕候、寄船寄荷物当御制札之通相守、聊以不作法仕間敷候、自然嶋へ寄懸り候船、日和能候得共致逗留候はは、早く出船候様に申渡、逗留いたさせ間敷候事。一、出船之砌、乗人并船頭水主かしき等に至迄致吟味、 0 0 黒木村誌 0 288 9 慥成請人を取可申候事。一、嶋中之物他国へ参候時は、往来之御手形申請、出船可仕事。一、御立山へ一切入申間敷候、たとへ地下山并自分の四壁たりとも、竹木むさと伐り申間敷、造作又は商売として伐候儀は遂御断、御裏判可申請候事。一、材木 0 0 黒木村誌 0 288 13 牛馬、其外商売荷物、他国へ出し候時分、可受御検使、無左候而出船仕間敷候事。右御ケ条之趣、惣百姓不残寄合奉拝見候、常々堅相守、妻子召仕等に至迄念を入可申付候、五人組之儀、中能もの斗不撰、最寄順に組合、地借店借水呑に至迄組はつれのもの 0 0 黒木村誌 0 288 15 一人も無御座候、尤前書御条目落写無之様に写之、庄屋方に差置、御用に付、惣百姓集り候度々読聞せ、無油断吟味可仕候、若相背候者御座候はは、当人は不及申上、庄屋五人組共急度曲事に可被仰付候、為後日連判手形差上申所仍如件。 0 0 黒木村誌 0 288 18 右の五人組前書は、全文六十一箇条におよび、その内容は当時の農民生活万般に亘っている。いわば一種の法令集のような観を呈している。しかし最後に庄屋をはじめ惣百姓連判の請書を提出させられているからには、やはり実際にも強力な農民統制の 0 0 黒木村誌 0 288 20 規範となって、農民生活の上に覆いかぶさって来たのであろう。以上のような支配者側から押しつけた統制規則に対して、村の内部において取決めた村方取締規則即ち村方法度がある。が、その前に当時の決議機関であった「寄合」について簡単に見ておこう。 0 0 黒木村誌 0 289 1 寄合(よりあい) 美田村は七里を含む大村であるから、惣百姓全員の惣寄合ということは無かったとおもわれる。次に惣百姓を代表する頭百姓寄合、年寄寄合、村役人、百姓代表寄合の例を挙げよう。山ケ入口之事。一四引長尾大石前、是ハ七分上ハ市部分。 0 0 黒木村誌 0 289 5 一宮谷おく、是ハ七八分下ハ大津分。□□□(破損)、向山神ろくろ谷、是ハ八合上迄小向分。一仁具のおく、是ハ舟こし(越)分。一はし(波止)のおく、是ハ八分下はし(波止)分。□□□(破損)神けいせい、美田尻分。一大山明、是ハ八合下大山明分。 0 0 黒木村誌 0 289 11 一才神立記日余口共ニ。一秋ノ谷ハ入こみ。右之通、年寄、頭百姓寄合、相定申所如件。元和二年辰三月。勝左衛門様。源蔵様。(笠置伝写本)後述するように美田村の大山には、島前一円の入会慣行が古くからあったが、それ以外の美田村領分の山野について、 1616 300 元和2年 黒木村誌 丙辰 0 289 19 美田村七里(市部、大津、小向、船越、波止、美田尻、大山明)の入会、占有関係を定めたのが右の文書である。このような内容の決議は、村内においては、おそらく最も重要な事項に属する性格のものであったと思われるのであるが、その決議が、年寄、頭百姓寄合い 0 0 黒木村誌 0 289 21 によって行われている。この場合、村内七里の入会、占有関係を定めるのであるら、この寄り合いを構成する年寄り、頭百姓が、各里の推薦を経ていることは明かである。という事は、当時の美田村においては、年寄り、頭百姓寄り合いが最高の決議機関であったこと 0 0 黒木村誌 0 290 2 を示しているといえよう。前にも触れたように、この時の「年寄り」が村役人であったかどうかは疑問である。たぶん各里を代表するような有力農民であって、各里農民の階層構成は、年寄り−頭百姓−百姓(初期本百姓)の序列であったと思われる。 0 0 黒木村誌 0 292 17 美田村村方法度 次に挙げるのは宝暦二年の美田村村方法度である。これによると、はじめ寛文二年に定められたのであるが、近年になって段々猥りがましくなったので、宝暦二年、頭百姓、役人、年寄りの寄り合い相談において細かく再吟味の上決定したものであるという。 1752 0 宝暦2年 黒木村誌 壬申 0 292 19 つまり原型は寛文二年(1662)に出来ていたのである。このようにまとまった、時代の古い村方法度の残っているのは、隠岐では、この一例のみかと思われるのであるが、その初の部分を失なっているのは誠に残念である。(前欠)一、瀬戸山、大山明、 1662 0 寛文2年 黒木村誌 壬寅 0 293 4 赤坂山江入、つばきの木きり取申か、又は木之実の時分から入、盗取候者有之候はは、過料として油一斗つつ差出可申事。(1)(註)一、牧之垣、田垣等之杭、棹、かきやつ一本に而もきり取申者有之候はは、見付次第に過料として、其垣三年宛可仕候、 0 0 黒木村誌 0 293 6 并廻り之垣、こめ垣杭、棹を取候はは、過料銭として二百文つつ差出、地下等へも右之訳可申付事。(2)一、秋山をおこし候とて、栗畑江牛つなぎ置候はは、綱道具随分念を入れつなぎ可申候、否(もし)綱道具悪敷、牛はなし申においては、 0 0 黒木村誌 0 293 8 過料銭として牛馬一疋に付二貫文つ、差出過申候、渡り田之はた、大小豆畑茂右同断之事。(3)一、麦畑之内江十月末方迄、牛馬はなし置申間敷候、否(もし)はなし申におゐては、過料銭として一貫五百文つつ差出過申候、否(もし)右之銭不調に候はは、 0 0 黒木村誌 0 293 11 右はなし候牛馬、地下江受取支配可申事。(4)一、田畑作り申者、道之儀、畑主から作り可申候、否(もし)道作り不申候はは、右畑三年地下江受取、作物出来実は地下から支配可申候、并道、橋せばめ申者於者之は、過料として地三尺つつ差出可申事。(5) 0 0 黒木村誌 0 293 15 一、御公儀様から被仰出置田畑作り申者、道、橋せばめ不申様に作り可申事。(6)一、御公儀様から被仰付候諸人足は不及申、村方に而申付候人足とても、御公儀様御事に候間、正直相勤可申候、否(もし)不義之者於有之は、過料銭として銭二百文つつ 0 0 黒木村誌 0 293 17 差出可申候、且又役人から不義成人足にても遣被申候はは、地下から御公儀様江断可申上事。(7)一、番手之儀、御公儀様から御定之通、本番、添番相勤申筈之処、此度了簡を以、一人宛に相定申候へば、少茂無遅滞相勤可申候、否(もし)一日にても 0 0 黒木村誌 0 293 19 不参之儀於有之は、過料として三日宛相勤可申候事。(8)一、御公儀様から被仰出候とて、役人中我侭被成候はは、地下中申合、御公儀様江御断可申上事。(9)一、近年、旅人住宅いたし候に付、地下をさわがせ、下々迄致迷惑候に付、地下中寄合、 0 0 黒木村誌 0 293 21 致吟味、自今以後、旅人村中に差置申間敷候、否(もし)無拠子細に而旅人住宅いたし候は、吟味之上、慥成る請人を被差置可申事。(10)一、田畑、境等を入れ申者有之候はは、其処御見分之上、一間に七間宛地下江取、如何様共支配可申事。(11) 0 0 黒木村誌 0 294 2 一、牧之駄追等、牧士相ふれ候を疎略にいたし、不参之者於有之は、過料銭として二百文つつ差出可申事。(12)一、惣而何事によらず、地下をさわがせ、我侭いたし、村中之さまたげに相成申者有之候はは、過料銭として五貫文宛差出可申事。(13) 0 0 黒木村誌 0 294 4 一、於村中、何事によかす、徒党仕候者相聞候はは、如何様に被仰付候共、少も異議申者御座有間敷候事。(14)一、土手普請之儀は、川の方江一寸に而も出し申間敷候、否(もし)出し申者於有之は、過料として、其地下江受取、支配可致事。(15) 0 0 黒木村誌 0 294 6 一、嶋後からこひ買に参候共、一切売申間敷候、否(もし)我侭に売申者有之候はは、見付次第過料として、こひ一荷に付銭百文つつ、売之者から差出可申事。(16)一、駄立之時分、牛馬、よの牛馬にすくれ、垣等をあらし、飛越などいたし候はは、 0 0 黒木村誌 0 294 8 其牛馬主唐急度つなぎ可申候、否(もし)其儀も無之、田畑荒し候はは、為過料銭、二貫文つつ差出可申候、否(もし)銭出し不申候はは、右荒し候牛馬、地下江受取、如何様とも支配可致事。(17)一、於村方、他所之者かこひ置、縁者縁引と名付、山海江入、 0 0 黒木村誌 0 294 10 薪 薪をきらせ申間敷候、否(もし)一荷に而も伐荒し申におゐては、為過料銭、一荷に三百文つつ差出可申事。(18)一、浦方に而漁仕候もの有之候はは、手安舟一艘に付銀二匁宛、艫戸舟一艘に付銀一匁宛、此度相改候間、小物成上納之節、右之銀一所に 0 0 黒木村誌 0 294 13 差出可申事。(19)一、村方に、さかな御用に付入用之儀於有之、役人から申参候はは、漁師共随分精を出し取揚可申候、否(もし)泙日和能候而も我侭仕、海出不仕候を相聞候はは、為過料、銭二百文つつ差出可申事。(20) 0 0 黒木村誌 0 294 16 一、御巡見様御渡海之節は不及申、其外御役人様方御廻嶋之節共、舟入用之儀有之、役人から申付候はは、少しも無遅滞差出可申候、否(もし)左様之節、族ケ間敷儀申、不参於有之は、舟持之者へ為過料銭一度に五貫文つつ為差出可申事。(21) 0 0 黒木村誌 0 294 18 一、名月と名付、田のはた大小豆、いも山江出、立毛いたづらにぬすみ取申間敷候、否(もし)いたづらに盗み取申もの於有之は、遂吟味、御公儀様江御訴申上、他国江払可申事。(22)一、道のはたの小麦、いたづらに刈取申間敷候、否(もし) 0 0 黒木村誌 0 294 20 いたづらに刈取申におゐては、後日に相聞候共、是又御公儀様江御訴申上、他国江払可申事。(23)一、大小豆畑江出、あぢまめ刈取申間敷候、否(もし)かり取候か、又は刈置杯仕候者於有之は、為過料、銭五百文宛差出可申こと。(24) 0 0 黒木村誌 0 294 23 一、田畑立毛かり取候節、茶酒一切売に罷出申間敷候、罷(もし)罷出候を見付候は、為過料銭売手から一貫文、買人からも一貫文差出し可申事。(25)右者、村方法度、寛文二年相定候所、近年段々猥に相成候儀、此度双方寄合、猶又細吟味仕、 1662 0 寛文2年 黒木村誌 壬寅 0 295 2 如此相定申処少茂相違無御座候、為後日、連判相添一札仍如件。宝暦二年壬申五月十一日。橋頭百姓、伴右ヱ門。八兵衛。美田尻同断、千吉。九右ヱ門。大山明同断、十右ヱ門。六郎兵衛。舟越同断、平左ヱ門。五右ヱ門。小向同断、大覚。清七。喜左ヱ門。 1752 511 宝暦2年 黒木村誌 壬申 0 295 21 大津同断、十左ヱ門。六兵衛。惣兵衛。勘太夫。市部同断、茂左ヱ門。同所役人、佐野や。同所同断、武右ヱ門。同所同断、七三郎。はし年寄、喜兵衛。美田尻年寄、助三郎。大山明年寄、六兵衛。小向年寄、長兵衛。舟越年寄、武左ヱ門。大津年寄、八兵衛。 0 0 黒木村誌 0 296 11 依怙贔負無く取扱って埓を明けよ、といっていたが、そのような事態が惹起すると、その里では出来得る限り内済ですませようと努める。一例をあげよう。一札之事。一当村私共友達之内、口論仕、依之村方頭分衆、段々御取持を以、内証ニ而御済し 0 0 黒木村誌 0 296 14 被下、千万難有仕合に奉存候、誠に御役儀へ対し、不調法至極、不届仕、奉誤り(謝)候、於向後、何事によらず不宜儀企て、喧嘩口論仕候はは、此以後、私共一同に如何様之越度にも可被仰付候、此度之候、内証ニ而御聞済被下、千万難有仕合に奉存候、 0 0 黒木村誌 0 296 21 庄屋、利左衛門殿。年寄、喜三右衛門殿。註、箇条の下の算用数字番号は、便宜上筆者が加えたものである。(舟越、問屋所蔵文書。)寛文二年の村方法度を、近年になって猥になったという理由で、約90年後の宝暦二年に改訂したものである。 0 0 黒木村誌 0 296 24 これだけでは、どの程度に原型を留めているのか不明で、改訂したことが明かにわかるものは(8)の「番手之儀」のみで、これは享保五年隠岐国が再び松江藩の預ケ地となって以来のことである。また先の五人組前書と文言、内容がほぼ一致するものは 1720 0 享保5年 黒木村誌 庚子 0 297 1 (例えば(9)、(10)、(13)、(14)など。)、改訂または添加した公算が強いと見られよう。前欠部分が不明であるが、現在残っているのは二五項である。これを次のように分類して、内容を吟味しよう。(一)全体として村内の平穏を 0 0 黒木村誌 0 297 3 維持するもの。この中には、(9)、(10)(13)(14)の各項が含まれよう。(9)=ここにいう役人は、村役人のことである。村役人の不法行為に対しては、地下中申合せ、これを公儀に訴えることを定めている。先の五人組前書においても、 0 0 黒木村誌 0 297 6 公儀下役人に対しては饗応、進物を停止し、非分の儀を生じたる場合には当座に訴え、このような向に対しては貸借并頼母子(講)懸けを仕らざることを定めているが、村方法度では、村役人の不法に対し地下中の申合即ち村全体の結束を強調している。 0 0 黒木村誌 0 297 9 (13)=すべて何事によらず、地下(村)を騒がせ、我侭を致し、村中の妨になる者に対しては、過料銭として五貫文を徴収するというのである。五人組前書の中でも、村中の妨となる者があれば届けよと指示し、もし出入となった時、内済ですむものは、 0 0 黒木村誌 0 297 16 依之、頭分衆請印一札を以、奉誤り(謝)候、為以来、私共誤り(謝)一札差上申処如件。一(略)享和二年戌四月。当村若物(者)人別。常十郎外二二名。頭百姓請印、半蔵外九名。年寄、甚太夫殿。(舟越、問屋所蔵文書)右の文書は、舟越里の 1802 400 享和2年 黒木村誌 壬戌 0 298 8 若者連中の喧嘩を解決処理した時の一札で、当事者たる若者連中二十三名が連判、頭百姓十名が請印し、年寄甚太夫が、その責任において内済として処理したのであった。(14)=村中において徒党を組んで行動したものに対しては、どの様に仰付けられても 0 0 黒木村誌 0 298 11 異議を申立てないと、その処置を全幅的に庄屋に一任している。これは、村内の治安統制を維持するために最も重視された禁制であって、五人組前書にも厳しい一条が設けられてあった。(10)=村内の平穏を維持するためには、以上のように内部的に 0 0 黒木村誌 0 298 13 統制を享かするだけでなく、外部より入り来る即ち他所者(よそもの)に対して、厳しく附ス的でなければならなかった。したがって旅人が、村内に住居を構えて生活することは、原則としては認めず、例外として己むを得ざる場合には、確実な請人(保証人) 0 0 黒木村誌 0 298 15 を置かなければならなかった。五人組前書でも、ほぼ同様であった。(二)農事に関するもの。現在残っている二五項の中、その大半は、次に述べる農事および入会採取など生産生活に関するもので、それだけに極めて具体的、特徴的性格を持つ規定である。 0 0 黒木村誌 0 299 1 (イ)牧畑に関する事項。直接、牧畑に関するものは、次の(2)、(3)、(4)、(12)、(17)等である。(2)=牧畑については後述するが、近世の初めから、四牧の画定による輪転式の畠方農業経営が行われていた。比重は畜産本位というよりも、 0 0 黒木村誌 0 299 4 むしろ耕種本位にかかっていた(三橋時雄「農業経営方式より見た隠岐の牧畑」。)したがって、牧畑の垣、牧畑の内部または周辺にある水田の垣が破れ、放牧中の牛馬が其所から出て農作物を食荒すことは、牧畑の農産物収穫を生計の基盤とする多くの 0 0 黒木村誌 0 299 6 零細農民にとっては、大きな生活の脅威となった。そこでこれらの垣は常に完備していなければならず、四牧の管理に当る牧司の仕事の重要な一面であった。その牧の垣、田の垣の杭、棹、かきやつ(生えている松垣の杭、棹の代用に使うもの。) 0 0 黒木村誌 0 299 8 を一本でも伐り取る者があたならば、その者に、罰として、三年間其の箇所の補修をさせる、また屋敷廻りの垣、篭め垣の杭、棹を伐り取った者には二百分ずつの過料銭を出させる、ということにしている。篭め垣というのは、牛馬を入れるために作った 0 0 黒木村誌 0 299 10 小さな個人用の垣であろう。(3)=秋(空)山は、前年から牛馬を放牧して置き、十月中旬までにこの牛馬を粟山へ移し、そのあとを起こして麦を植付ける牧畑である。その秋山起こしの時、粟畑へ牛馬を繋ぎ置く場合(休憩のときなどか。)には、 0 0 黒木村誌 0 299 12 綱、道具を十分吟味して置かなければならない。もし綱、道具が悪く、牛馬が放れた場合には過料銭五百文である。粟山は、前年より牛馬が放牧してあり、五月になると、その牛馬を空山へ移して、そのあとへ粟稗を作付し、九月収穫が終?と再び空山より 0 0 黒木村誌 0 299 15 移し入れる牧畑である。ところが当村では、冬季の短期間牛馬を舎飼いする乾草を作るために、ここでその草を刈らなければならない。この草刈の終らない中に、粟山へ牛馬を放した者には、一疋につき二貫文という過料である。この罰則は、渡り田のはた(縁) 0 0 黒木村誌 0 299 17 、大小豆畑においても同様に適用される。(4)=麦畑之内へ、十月末迄放牧してはならない。麦畑は麦山のことで、前年より麦が植付けられ、六月収穫が終ると続いて大小豆の作付、その収穫が十月中にすむと牛馬を入れる牧畑である。もし違犯の 0 0 黒木村誌 0 300 1 場合には過料銭として一貫五百文、納入不能の時は、牛馬を地下へ引取り処置する、というのである。(17)=駄立(駄追いの誤写かも知れない。)の時分、特別に乱暴な牛馬に対するしょちである。このような牛馬は、所有主において必ずつながなければならない。 0 0 黒木村誌 0 300 4 もし繋がずして田畑を荒して場合には、過料銭として二貫文、納入不能の場合には前例と同様の処置をとる。(12)=牧士(まきし)は、四牧の管理に当る村役人的性格の職責をもっているが、その触を訴畧にして不参の場合には、二百文の過料である。 0 0 黒木村誌 0 300 7 以上が、直接に牧畑に関係する項目である。(ロ)作道、土手普請。この中には、(5)、(6)、(15)が含まれる。(5)(6)=田畑に通ずる作道は、所有主の責任であることを明かにしている。もし違犯すれば、その田畑を三年間、地下へ 0 0 黒木村誌 0 300 12 没収し、収穫物も地下で処分する。また道、橋を狭めた者は過料として土地三尺を差出すというのであって、罰則としては相当に厳しいものである。これを裏から見ると、自分の耕作する田畑を、寸尺でも拡げようとする下層農民の切なる意欲を知ることが出来よう。 0 0 黒木村誌 0 300 15 (15)=土手普請に関する事項であるが、川の方へ一寸でも出してはならぬ、もし、違犯すれば過料として、その土地を地下へ引取り、地下において支配する、という。(ハ)農作物に関する事項。これには、(22)、(23)、(24)がある。 0 0 黒木村誌 0 301 1 (22)=旧暦八月十五日夜を当村では「ネンゲツ」と呼んでいる。その夜、特に若者衆などが大小豆、甘露等を盗取る風習があった。もしいたずらに盗み取る者があれば、所払いにするといっている。なお、この項の「いも山」が、甘露のことであれば、 0 0 黒木村誌 0 301 3 当村には既に宝暦以前より甘露が伝わっていることになり、古い、貴重な資料といえるだろう。(23)(24)=いずれも農作物に対する不法行為を禁止し、それをニした場合の制裁を規定した。(ニ)田畑境界に関するもの。(11)=境界を越えて 0 0 黒木村誌 0 301 6 自己の持分の田畑を拡げた場合には、其所をよく検分の上、過料として一間につき七間の土地を地下へ差出させ、地下において支配するというもの。(5)、(6)、(15)と併せ見るべきである。(ホ)其の他。(25)=農繁期に除しての村方 0 0 黒木村誌 0 301 9 食事 取締の一つを示している。田畑農作物を刈取る最も多忙な時分、茶酒を売る為に村を徘徊してはならぬ、もし違犯した者を見つけると、売手買手の両方から一貫ずつを徴集するというのである。茶酒は茶は酒ではなく、茶は「間食」の意味で、労働の 0 0 黒木村誌 0 301 11 相間や苅祝に一杯ひっかける酒の意味であろうが、このような風習が、当時の美田村にあったというのは面白く興味のある問題であろう。以上が、直接農事に関する事項。この中に含まれるものには、(1)、(18)、(19)がある。 0 0 黒木村誌 0 301 16 (1)=瀬戸山、大山明、赤坂山の椿は、古くから村中仲間立であり、その椿の実採取には美田村七里の入会慣行があった。例えば瀬戸山は、瀬戸山之事。一瀬戸山、市部入口ニて御座候得共、此度、村中仲間立ニいたし、椿ノ木立申ニ付、雑木之儀者、 0 0 黒木村誌 0 302 1 市部之者伐申共、地下から一言為申間敷候、如件。元和四年午二月十三日。年寄頭百姓。勝左衛門様。源蔵様。(笠置伝写本。)というように、椿に関する限り、元和四年(1618)以来、美田村共有のものとなっていた。前にも述べたように、 1618 213 元和4年 黒木村誌 戊午 0 302 9 この椿の実は、柄油として小物成の対象とされ、その採取には「洲(す)」の慣行があった。そこで、これらの山から椿の木を伐り取った者、洲の立つ前に椿の実を採った者は、過料として油一升を差出すことを定めたのである。(18)=村外の者に 0 0 黒木村誌 0 302 12 薪 対する入会の制約である。他所の者を、自分の家に囲置き、縁者という名義で入会の山海へ入り、薪を伐らせてはならない。犯した場合には、過料銭一荷につき三百文である。(19)=浦方での漁に関する規定であるが、内容に不明な点があって解釈が 0 0 黒木村誌 0 302 14 難しい。漁藻採取の場合の洲の慣行に関するのか、または漁請銀(小物成)を専業漁民が負担し、その代りに浦方漁業の専有権でも持っていて、他の者が、それを犯した場合のことでもいうにか、いずれにしても、どちらかの規制を破っ?時には、 0 0 黒木村誌 0 302 16 手安舟一艘につき銀二匁、トモド一艘に付銀一匁の過料である。(四)公用、村方入用に関する事項。該当するのは、(7)、(8)、(20)、(21)の各項である。(7)=公儀および村方から人足を命ぜられた時の規定で、怠けた者には 0 0 黒木村誌 0 303 1 過料銭二百文である。(8)=番手に関する規定である。番手というのは、すこし説明を要するが、詳細は後章にゆずり、ここではただ番手が外国船の見張番勤務のことであることをいっておこう。この見張番に、本番と添番とあったが、此度了簡を 0 0 黒木村誌 0 303 3 以て一人ずつに定められたのであるから精勤するよう、もし勤番不参の者があれば、過料として三日の勤務をせよ、というのである。(20)=村方において魚入用につき村役人より申出を受けた場合、怠けた漁師に対しては過料銭として二百文を 0 0 黒木村誌 0 303 5 課するという規定である。(21)=公用の為に船入用の際、村役人の申付に背いた船持に対しては、過料銭として五貫文という罰則である。以上の四項目は、公儀または村方の夫役に関する制裁であるが、このような夫役が全く無賃で使役されたわけではない。 0 0 黒木村誌 0 303 9 公儀に対する夫役には島中の費用から、村方夫役には村費から支払われたが、それにもかかわらず農民は、このような夫役から逃れようとしたのである。(五)其の他。(16)=島後から肥買に来ても一切売らないという申合わせであり、違犯した 0 0 黒木村誌 0 303 12 場合には肥一荷につき銭百文の過料である。まことに風変りな規定であるが、なぜこのような一項を設けなければならなかったのか、詳しいことはわからない。以上、二五項目を五つに分類して見てきた。数ケ条は、前の五人組前書にも挙げてあったが、 0 0 黒木村誌 0 303 14 外の大部分は、直接美田村の具体的事項について村方取締を強めるものであり、最も強い罰則として、所払いさえも決議しているのは注目を要するところである。 0 0 黒木村誌 0 371 8 甘薯の移入 以上のような不安定な畑方経営の中にあって、甘薯の移入は非常に重要な意味をもつものであったと考えられる。山陰地方に甘薯をひろめることに努力した人は、いうまでもなく芋代官井戸平左衛門であった。彼は大森代官として在任一ケ年半、 0 0 黒木村誌 0 371 11 たまたま享保十七年(1732)の大飢饉にあたって農民の悲惨な有様を坐視するに忍びず、独断で陣屋の蔵をあけ、米銀を引出して救済にあてた為に罷免され、享保十八年五月備中国笠岡で切腹したといわれている。彼が、幕府の力を籍りて薩摩から 1732 0 享保17年 黒木村誌 壬子 0 371 13 芋種子を寄寄せ、管内(大森銀山)に試作させたのが享保十七年であり、その普及には、なお数年を要しているのであるから、享保年代にB岐にも移入されたかどうかは速断するわけにいかない。甘薯自体は貢租の対象とならなかった。おそらく救荒作物と 1732 0 享保17年 黒木村誌 壬子 0 371 15 見られたからであろう。そのためか正確な資料が`伝わらず、隠岐移入の経路もはっきりとしない。あるいは宮本常一氏の指摘されるように、日本海の諸港と大坂の間を往来した北前船によってもたらされたものであるかも知れない。(「甘薯の歴史」)。 0 0 黒木村誌 0 371 18 「明和九年、隠岐国四郡村々植立物申渡請書」(大久、斎藤文書。)は、明和九年江戸から勘定方が渡島してきびしい吟味を行った時の申渡の内容をあげているが、その中において、「薩摩芋等之益者年数も不相掛、益有之候間、能能申教候様」 1772 0 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 372 2 にと指示し、栽培法については、まず適地をあげ、種は秋になって爐の側を堀り灰や籾がらを敷いて囲置き、翌年二、三月頃取出して砂地へ植えておくと蔓が出るから、節を二つ付けて蔓を切取り、畠に植える、そうすると根にたくさんのイモが付き、 0 0 黒木村誌 0 372 4 食事 それが食料になるのだ、と具体的に教えている。これによると、島後では明和年代(1764〜1771)にはまだあまり普及しているようには思われない。だが島前では、前掲「宝暦二年美田村法度」に、「一名月と名付、田のはた大豆、いも山江出、 0 0 黒木村誌 0 372 6 立毛いたづらにぬすみ取申間敷候、、、、」という「いも山」が甘薯のことであるならば、重要な示唆を与えるものであるといわなければならない。それが事実であれば、島前には宝暦五年(1755)の大飢饉以前に甘薯が移入されていたことになる。 1755 0 宝暦5年 黒木村誌 乙亥 0 372 8 食事 あるいは享保十七年(1732)の大飢饉のあと間もなく入っていたのかも知れない。これから甘薯は大いに普及し、島前では、麦とともに重要な食糧源となったことは衆知の通りである。現在でも、別府、美田の各地に芋代官の石碑があるが、おそらく 1732 0 享保17年 黒木村誌 壬子 0 372 11 凶作の度毎に芋代官井戸平左衛門の功績を思い起し、彰徳碑として各地に建立したものであろう。 0 0 黒木村誌 0 372 14 戸口の増加の動向 以上述べてきたようなすいでん、畑方経営の概観の上に立って、農民の階層構成がどのように変化したかを次に見ることにする。まずはじめに戸口の動態を、僅かに残された資料によって探ってみよう。美田村においては、慶長十八年の 0 0 黒木村誌 0 372 16 家数は全部で八九軒であった(「検地」の項参照。)。しかし、その中の四軒は寺、五軒は堂、二軒は塩畠となっていたのであるから、これを除くと純粋に農民の家数は七八軒となる。また別府村では慶長十八年の家数が二二軒であったが、その中、 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 373 2 二軒が寺、一軒が御蔵であったから、農民戸数は十九軒となる。いま、この慶長十八年(1613)の農民戸数をもとにして増加の動向をみると美田村は第三−二八表、別府村は第三−二九表のようになる。家数の動向を見ると、両村とも、慶長年代より 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 373 10 元祿年代に至るまでに相当の増加を示している。特に美田村では、増加指数が大きく、二、五倍以上の増加である。ところが、その家数増加は元祿年代をピ−クとして、それから近世末まで強い停滞性をみせている。美田村では、元祿以降一度減少し、 0 0 黒木村誌 0 373 15 明和年間より徐々に増加しては来るものの、元祿のピ−クを越えるのは化政期以降である。いっぽう人口の方は、元祿年代を基準としてみると、別府村では寛政期まで減少の傾向を見せ、美田村でも上昇率はあまり大きいとはいえない。以上のように 0 0 黒木村誌 0 374 1 家数の増加において元祿以降に見られる強い停滞性は、何らかの理由によって、戸口膨張を許容する一応の限界に達していたことを示すものでなければならない。もっとも、この現象は隠岐一般にみられることで、必ずしも当地のみに限る現象ではないが、 0 0 黒木村誌 0 374 3 その原因を解明するために、まず田畑保有の上において農民の階層構成がどのように変化するかを見よう。 0 0 黒木村誌 0 392 17 牛馬の減少 ここでもう一度、牧畑耕作について考えておきたい。それは第三−四一表のように元祿以降急速に牛馬の頭数が減少していくという現象である。元祿年代以前の資料は無いが、元祿当時別府村では一戸平均四、五頭、美田村であH平均一、六頭を 0 0 黒木村誌 0 393 3 保有した。「牧」にもかなりの比重がかかっていたと考えられる。ところが別府村では宝永六年に一戸平均一、五頭に減り、その後両村とも急速に一戸平均の保有頭数が減って来た。それは相対的に家数が増加したからというのではなく、牛馬頭数 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 393 8 そのものの著るしい減少の結果である。(これは隠岐一般に見られる現象である)。この現象は、耕牧輪転式の方式において「牧」より「耕」の方へ急激にウエイトがかかって来たことを示しているのではなかろうか。消極的理由としては、元祿以降の 0 0 黒木村誌 0 393 13 食事 農村疲弊、凶作による脅迫などいろいろと考えられるであろうが、積極的な意味においては、農民特に下級階層の農民が食糧増産の為に牧畑の年々畑化につとめ、あるいは甘薯栽培拡大(貢租面には表われない。)のために放牧区域が現象するような 0 0 黒木村誌 0 393 15 事情があったのではなかろうか。しかし、村の下札、指出の上では四枚区分、畑高に大きな変化はなく、たとえ実際に放牧区域が減少していても、実態を説明する材料の発見は困難である。 0 0 黒木村誌 0 394 1 小物成における漁業品目 農間余業といっても別に特別な生業があるわけでもないが、農業経営以外の生産としては、まず漁業である。近世の小物成をみても、漁業に関するものは、美田村の十五品目中の十品目、別府村は九品目中の六品目、宇賀村は 0 0 黒木村誌 0 394 3 十品目中の六品目と圧倒的に多い。小物成は近世の初期には既に銀納となり、以後その金額は定納化して現実の生産とは遊離してしまっている点もあるが、すくなくとも近世の初期において、このような運上の決定した当時には該当品目の生産がみられた 0 0 黒木村誌 0 394 6 筈である。そこでいま一度、その品目をあげると、漁請銀は別として、大鯛、メメ、鯣、鰯、海苔、和布、塩、串鮑、串海鼠の諸役がある。中でも串鮑、串海鼠の諸役は美田村において特徴的である。 0 0 黒木村誌 0 394 9 美田村の漁業 寛文七年、時の隠岐郡代斎藤勘助の著である「隠州視聴合紀」巻四嶋前記、美田郷の条に、<前略>其船越といふ村より外海に出づること甚だ近し。東西の山勢尽きて、陸地十八九間ばかり、海に出づる径亦此の如し。往年多力の賎夫あり、 1667 0 寛文7年 黒木村誌 丁未 0 394 11 入海の岸より船を負ひて外海に出でて終日釣漁し、又負うて入海に帰る。故に此村を船越と号す<後略>といい、元祿初期の郷帳を集成した「隠岐記」には、<前略>此所に舟引と言て、内海より外海にトモド舟を牛にひかせ越間三町斗り、故に此所を 0 0 黒木村誌 0 394 13 舟越と申哉。<後略>ともいうように、舟越が外海漁撈に従事する基点ともいうべき地の利を得、おそらくは中世から近世初期にかけて既に漁業の中心となっていたであろう事は、慶長十八年検地の屋敷請の中に、特別に浦役人が一人舟越にいた事実からも 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 394 15 想像せられる所である。また漁獲物については、同じく「隠岐記」に、一、漁、烏賊、鯖、メメ、鰯、鮑、生海鼠、鯛、和布、荒和布、其外雑魚、鯖網多し。とあり、鯖網が相当に普及していたが、これは鰯網とともに当時隠岐一般に見られる重要な 0 0 黒木村誌 0 395 3 漁撈であった。当時の漁業形態については資料を欠くのでよく分からないが、舟越の安達家(屋号、味噌屋)家譜によると初代仁太夫の父仁兵衛の代越前国より舟越へ鯖網に来たるとあり、これが隠岐における四ツ張漁業の嚆矢であろうと伝えられている 0 0 黒木村誌 0 395 6 (小泉憲貞「隠岐誌」による。)。仁兵衛は宝永三年に死亡しているから、おそらく元祿年代よりはるばると隠岐へ漁業に来ていたのであろう。初代仁太夫が正式に舟越に定着したのは享保二十年であるが、彼はそれより前、享保十八年の大凶年に 1735 0 享保20年 黒木村誌 乙卯 0 395 8 大量の大豆を放出し、特別の褒賞をうけている。大豆、三石二斗、越前国海浦、船頭、仁太夫。此仁太夫儀年々両嶋商売ニ罷渡リ渡世仕、国恩ヲ蒙リ候処ニ、此度凶年ニ付、飢人救合之儀、御高札趣一々奉承知、寸志之施シ仕度旨申遣候ニ付、任其意 1733 0 享保18年 黒木村誌 癸丑 0 395 11 如是ニ御座候。×。銀、十枚、松平兵部大輔領分越前国海浦、船頭、仁太夫。但此者儀年々隠州へ罷越渡世仕候処、去秋虫付損毛ニ付、救仕渡旨相願、松平幸千代御預リ処飢人救候。右之通被下候間、別紙書付之通申渡、項戴候様可致旨可被申渡候。 1733 0 享保18年 黒木村誌 癸丑 0 395 15 尤銀子之儀之者大坂於御金蔵可被相渡候。十一月。(島後、犬来、佐藤文書。)このように、元祿年代より父仁兵衛が舟越においてはじめて鯖網(四ツ張網)漁業をひらいたと伝え、その子仁太夫は年々商売のために隠岐へ渡海し、相当の資力蓄えていたと思われる点からすると、 0 0 黒木村誌 0 395 19 ここには既に漁業資本の萠芽を見ることが出来ると考えられるであろう。 0 0 黒木村誌 0 396 1 別府村の漁業 隠州視聴合紀によると、<前略>此を白島といふ。釣魚の宜地なりとぞ。<後略>とあるが、これは外海である。元祿年間の郷帳類には、<前略>別府の浜、東西八町、前は内海なり。生海鼠有。<後略>と内海の生海鼠をあげ、続いて、 0 0 黒木村誌 0 396 6 <前略>耳浦、北の方十六町、山峯を越えて外浦なり。鯛、烏賊、鯖、鮑、栄螺、和布、海苔等有。、、、、亀島とて塩面より五尺底にあり。是を美田、別府の境と云なり。鮑、栄螺、海苔、和布、此所に有。<後略>と外海(耳浦)の漁撈をあげている。 0 0 黒木村誌 0 396 8 また宝永六年の諸色明細帳によると、<前略>村之内、耕作又ハ夏之間、鯖漁之外、定たる稼無御座候。<後略>と夏鯖漁をあげている。 1709 0 宝永6年 黒木村誌 己丑 0 396 11 宇賀村の漁業 次に宇賀村については、隠州視聴合紀に、<前略>耳が浦とうふあり、皆人家なくて、岩間にて漁釣をなす。<後略>というのは外海であり、郷帳類は、<前略>一、漁、鯛、烏賊、鰤、鯖、メメ、和布、荒和布、海苔、鮑、栄螺、生海鼠、 0 0 黒木村誌 0 396 14 此外雑魚多し。鯖網有。<後略>とあるのは、主に内海方面の漁撈を指さすであろう。さて、以上のような漁業品目の中でも、鮑と生海鼠の二品は重要であった。特に美田村においては、先に小物成について見たように串鮑、串海鼠の二役負担が、 0 0 黒木村誌 0 396 17 隠岐全島の中でも特に多かった。ということは、すくなくともこの小物成の決定当時には、美田村における鮑、生海鼠の生産が他村よりも、はるかに多かったことを示している。 0 0 黒木村誌 0 397 1 長崎俵物 ところが、鮑、生海鼠の乾物である串鮑、串海鼠は、後に長崎俵物として脚光を浴び、全島において生産を奨励されるようになった。俵物というのは、長崎における輸出の中、煎海鼠、乾鮑、鱶鰭の総称で、俵詰にされたものである。 0 0 黒木村誌 0 397 3 幕府は長崎にいける貿易の決済に主として銅を当てて来たが、日本の銅輸出の最盛期である元祿十一年ごろには、年間八九〇万二千斤に及ぶ銅を輸出するようになり、一方において国内の銅産はようやく限度に達して来たので、決済の一部に、若干の 0 0 黒木村誌 0 397 5 海産物を代替物としてあてなければならなくなった(田谷伝吉「長崎の銀座」日本歴史第一六一号。)その後も日本の銅産は漸次減少し、その結果、長崎における貿易額を縮少するか、さもなければ銅の代替物である俵物、諸色(昆布、鯣、天草、鰹節、 0 0 黒木村誌 0 397 7 乾海老、寒天、椎茸など。)の量産集荷につとめて輸出入の均衡をはからなければならない状態になった。 0 0 黒木村誌 0 397 9 問屋 俵物一手請負方 そこで延享元年(1744)には俵物集荷の実をあげるために、幕府は八人の長崎商人からなる集荷請負機関として「俵物一手請負方」を長崎に置き、これを中心に指定問屋を定め、一定の高を請負わせて組織的に買い集めることにした。 1744 0 延享元年 黒木村誌 甲子 0 397 11 当時の資料に次のような覚書がある。覚。一御用串物被仰付候御積高程不相調之内、下ニテ一切売買仕間敷事、若達背モ有之候ハハ、売候モノハ勿論、買候者モ可為越度事、御吟味之上、品ニヨリ急度可被仰付候。一右串物上納不相調内、他国ハ不及申、 0 0 黒木村誌 0 397 15 其島ニテモ買ニ参候者有之トモ、右御用不相済内ハ売買一切致間敷候。一串物差出候ハハ、其時々月日、何村誰ヨリ差出候段、串物夫々ニ付紙ニ而相記可差出事。一串物上中下夫々ニ不同有之、仕立様麁抹ニテ見苦敷分ノ有之候。扨ハ暖ニ相成出来候分ハ、 0 0 黒木村誌 0 397 17 此度運送之内ニ腐リ、串ヨリ落、或ハ切放レ、御用難相立分モ有之候。此後ハ、冬中取揚候而可差出候。若相残候分少々有之候共、正月二月迄ニ取揚仕立候分可差上候。一当夏差上候串鮑之内、山之所無之、切取候様ニ相見有之候ニ付而、御台所ニテ 0 0 黒木村誌 0 397 20 令湯煮、見分之処、惣躰ハフクレ有之、山之所ハフクレ無之、切取候様ニ相見候。尤於御用所、惣方一覧有之処、右之通相違無之候。此段如何様之訣ニ而哉、 0 0 黒木村誌 0 398 1 麁抹之致方不届ニ候。此以後、右様成儀有之候而ハ、以之外之事ニ候間、何レモ兼々其心得可有(以下虫損)八月(以下虫損)(笠置伝写本。)右の覚書を見ると、御積高即ち予定数量がはじめから定められていることがわかる。第一、二項は、予定数量に 0 0 黒木村誌 0 398 4 達しない中は一切売買することを禁じ、もし違背すれば、売った者も買った者も、情状に応じてきっと処罰するというのである。第三項では、集荷に際し、時日、村名、提供者を明記した付紙を串物に貼布して差出すべきことを命じているが、これは 0 0 黒木村誌 0 398 7 請負者側の責任を明かにする為の処置であろう。第四項では、水揚げの時期を指示している。暖かくなってから製造したものは腐り易く壊れやすいので、正月、二月中に取揚げ加工したものを提出せよというのである。第五項は加工過程に関する 0 0 黒木村誌 0 398 9 指示であって、「山」のところを切取ることを禁じている。以上のように請負高を明かにして組織的に集荷に努力させ、幕府は側面から鞭撻した。たとえば明和九年(1772)江戸勘定奉行から吟味役人が渡島した時、俵物についても調査し、 1772 0 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 398 11 長崎廻煎海鼠、千鮑之儀は、同所俵物方の下請として大根浦(大根島を指すか。)の喜伝治という者が隠岐国を引請けているが、喜伝治が廻って来て買入れた事実があるか、地元の漁師が御触の趣旨を守って協力しているかどうかを吟味している(犬来、佐藤文書。)。 0 0 黒木村誌 0 398 14 俵者方役所(長崎会所) だが、このような方法では期待通りの効果をあげることは困難であった。一方において国内の銅産は益々減少し、長崎において対支貿易を維持するためには、俵者生産の必要性がいよいよ加わって来た。そこで幕府は四〇年後の 0 0 黒木村誌 0 398 16 天明五年になると、直接権力を以て直買入する方途を考え、「俵物方役所」を設けて、もっぱら俵物生産集荷行政に当らせることにした。大目附江。長崎におゐて唐船江相渡候煎海鼠、干鮑、鱶鰭之儀、天明五巳年相触候通り、長崎会所直買入ニ相成候。 1785 0 天明5年 黒木村誌 乙巳 0 398 19 以来為出増、国々之内、追々請負之者取極、右請負人方江買集、長崎会所江為差出場所有之候処、近来諸国共出方相劣り目立、請負人共方ヘハ不差出、外々相対密売致シ候稼人モ有之趣相聞候。不埓之事故、以来出方相増候様精出相稼候。密売等堅致 0 0 黒木村誌 0 399 2 間敷候。若右躰密売致シ候者於有之、御吟味急度可申付候。右之段、浦方有之国々、御料者御代官所、私領者地頭ヨリ可相触候。四月五日、神谷源五郎。大野舎人。今村修理。朝日丹波。三谷嶋太夫。(焼火慮書) 0 0 黒木村誌 0 399 10 右は松江藩からの回状で天明五年後のものであるが、これによると、国々の内に追々請負人を定めて買集めさせ、さらに俵物方役所の営業所たる長崎会所へ送るという組織であった。 0 0 黒木村誌 0 399 12 島前請負人と美田村世話人 天明五年七月、隠岐島の関係村庄屋、漁師の代表が出雲へ召集され、生産、販売、管理などについて指示を受けた上、連判の請書を提出しているが(新修島根県史、史料篇2。)この時、島前一円の下請を命ぜられたのが 1785 700 天明5年 黒木村誌 乙巳 0 399 14 別府村酒屋伴左衛門であった。伴左衛門は安永七年より文政十一年まで別府村庄屋を勤めた近藤伴左衛門であろう。ところで、美田村年貢未進帳の中に、次のような記載がある。一米、一石七斗三升二合、串物代。市右ヱ門納。(寛政二年未進算用帳) 1790 0 寛政2年 黒木村誌 庚戌 0 399 18 此銀六一匁五分一厘。此銭六貫三九七文。外五六文、常包。一米、一石七斗三升二合、串物代。市右ヱ門。(寛政四年未進算用帳)。代七四匁三分九厘。此銭七貫八一一文。外五九文、常是包。合銭七貫八七〇文。一米、一石七斗三升二合、串物代。 1792 0 寛政4年 黒木村誌 壬子 0 400 5 市右ヱ門。(寛政五年未進算用帳)。代九〇目九分。此銭九巻五四五文。外八九文、常包。これらの未進帳の内容は部落(里)別になっており、右の記載は舟越の末尾に書かれているものである。したがって市右衛門は舟越の農民であって、後に挙げる 1793 0 寛政5年 黒木村誌 癸丑 0 400 10 天明八年の一札には舟越の組頭の一人として加判している。串物代としての米一石七斗三升二合は、美田村の串鮑、串海鼠役(小物成)の合計額である。その串鮑、串海鼠の小物成を舟越の市右衛門が一括して金納しているのである。という事実は、、 1788 0 天明8年 黒木村誌 戊申 0 400 12 次のように解釈される。即ち当時島前一円の俵物下請人伴左衛門は、各村々に世話人を置き、各村の集荷に当らせた。美田村で、この仕事を担当したのが舟越の市右衛門であった。そこで市右衛門は美田村の串鮑、串海鼠を一手に集荷したが、その中、 0 0 黒木村誌 0 400 14 古来の小物成に相当する金額は差引き、これを美田村庄屋に納めたのであろう。 0 0 黒木村誌 0 400 16 集荷の強化 さて以上のように鋭意集荷に努力を重ねたが、先にあげた松江藩の回状のように生産は減り、密売買の商人が介在して、請負人への集荷は意の如く進まなかった。一札之事。一御用串鮑けたこ並きんこ之儀、年々御割符之内御用物不納仕、 0 0 黒木村誌 0 400 19 並きんこ等不足いたし候ニ付、漁師共不精ニ而取揚不申候哉。尤内々御役所表江相聞候ハ、くし物きんこ共ニ他国船江かくし売仕、或ハ当地ニ而中買等を拵江かくし売仕候由、兼而及御聞被遊候ニ付、此度厳敷御吟味御座候。右かくし売等仕候もの共ハ、 0 0 黒木村誌 0 401 1 内々ニ而一々承届、急度吟味いたし可申上旨被仰渡候間、漁師仲間ニ而相互に承合、無遠慮可申上候。左様之ことの急度曲事ニ可仰付旨被仰渡候間、此以後ハ随分出精いたし、取揚次第指出可申旨被仰聞奉畏候。若かくし売等仕候ハハ、如何様之曲事ニも 0 0 黒木村誌 0 401 3 可被仰付候。為後日、連判一札差上候処、依如件。天明八年申十二月。美田村舟越。組頭、平吉。同、文蔵。同、武平。同、喜兵衛。同、市右ヱ門。同、治太夫。同、権次郎。同、太市。漁師、仁太夫。(外に三七名の漁師連判)年寄、甚太夫殿。 1788 1200 天明8年 黒木村誌 戊申 0 401 17 問屋 (舟越、問屋所蔵文書。)右の一札を見ると、年々割賦高ほどの集荷がないこと、その原因が他国船への密売によることをあげているが、特に当地に仲買人が介在し、ひそかに現物がその方へ流されていることを指摘している点は注目される。 0 0 黒木村誌 0 401 20 現地の漁師に対しては、右のような連判請書を提出させて強圧を加えるとともに、機会ある毎に各地へ役人を派遣して督励することも忘れなかった。享和元年六月、吟味役人として羽倉権九郎渡島の際、督に俵物方より木原甚三郎、俵屋藤四郎の両名が 1801 600 享和元年 黒木村誌 辛酉 0 401 22 一行に加わっており、文化六年高木作右衛門渡島の節にも同じく俵物方木原甚三郎が同行しているのは(焼火文書)、役人渡島の目的が奈辺にあったかを思わせるものがある。 1809 0 文化6年 黒木村誌 己巳 0 402 3 割賦高 それでは当時の割賦高が一体どの位であったものか。次の第三−四二表は文政八年の島前各村の割賦高である(津川正幸「隠岐島前における俵物生産」、史泉七、八号。)。右の表によれば近世末に美田村は、知夫里、知々井、浦之郷、崎村につぐ 1825 0 文政8年 黒木村誌 乙酉 0 402 10 第五位の割賦高であり、別府、宇賀両村は、ともにはるかに下位である。 0 0 黒木村誌 0 402 11 俵物生産の影響 ただここで注目したいのは、津川氏も論ぜられたように、余剰労働の吸収、または褒美銀、前貸銀などを含めての現金収得の途が開かれたことである。特に天明八年の一札に加判する仁太夫は、先に述べたように宝永年中越前国より 0 0 黒木村誌 0 402 13 焼火 移住し、四ツ張網の嚆矢者と伝えられている仁兵衛の子孫であるが、当時巡見使、役人の焼火社参に当っては接待総目付を勤めるほどの有志となっており、この後裔が明治に入ってからも、当地の漁業経営を一手に掌握した安達家である点からすれば、 0 0 黒木村誌 0 402 15 当時俵物生産の中から漁業資本が吸収蓄積されたのではないかということも見逃してはならない。天明八年の一札に仲買人の介在を指弾されたのも、あながち根拠のないこととも思われない。また先にあげた戸口増加の動向において、美田村の家数が、 1788 0 天明8年 黒木村誌 戊申 0 402 18 天明年間より化政期にかけて急速に増加する傾向を見せはじめるのも、当時の俵物生産に関係する漁業と無縁ではなかろうと思われる。 0 0 黒木村誌 0 403 2 焼火 焼火山の植樹 水産以外には、これと言って特別の生産は見当らず、年貢の項において述べたように若干の椿の実の採取はあったようであるが、具体的な資料は外にない。ただ焼火山立山における植樹については触れておかなければならない。 0 0 黒木村誌 0 403 5 薪・焼火 焼火神社には、次のような制札が残っている。定。焼火山立山是より東西山上まて入こみ材木薪きりとり申ましく候若於相背ハ可為越度者也。寛文拾弐年。子五月二十二日。奉行所。これは松江藩二代の藩主綱隆の代、神領たる故を以て建てられた 1672 522 寛文12年 黒木村誌 壬子 0 403 11 焼火 奉行所の御制札であるが、焼火文書によると、これより先、寛永十八年社辺に杉木を植えたことが見え、元祿八年にも伊勢山に杉の植樹をした由が見えるけれども、詳細は分からない。 1641 0 寛永18年 黒木村誌 辛巳 0 403 14 焼火 寛廷、明和期の計画的植樹 ところが降って寛廷、明和年間になると、大規模な計画的植樹が行われているのである。その資料は「杉苗植付意趣書置」(焼火文書。)であるが、長文であるので次に要点をあげて説明しておこう。この計画をはじめたのは 0 0 黒木村誌 0 403 16 植林 雲上寺別当快栄上人である。快栄上人は、寛延三年より明和六年に至る約二〇年の間に、五万五〇〇〇本の杉苗を植樹したのである。その意趣について快栄上人は、次のように述べている。杉苗植付候意趣は、後代に至て御宮并寺院蔵等修造便りの遠計にも 1750 0 寛延3年 黒木村誌 庚午 0 403 18 相成と存じ、昼夜心を尽し苗扱いたし植付候上は、たとへ一枝一木たりとも私用に切取申間敷候。長木に相成候はばそぎ、又は修造等之砌能ほど見合切用可申候。其跡ヘハ亦過分に植付可申候、、、、。というのであるが、さらにつづいて、 0 0 黒木村誌 0 404 2 植付之内、びやみつくり海辺一千本余植付有之候分、山神様御修造之心当に植置申候。今度幸御宮再建立仕、銅瓦にいたし置候。後代に至候者修理も及怠慢可申哉と右之訳等記置候事。と述べて、この一千本は山神様御修造の為であること、また植付之内、 0 0 黒木村誌 0 404 4 廻りの渓谷三ケ所に一万八〇〇〇本余植付置候分は、是は一切経建立之念願に而植置申候。長木に及候はば、後代に至り売代となし、一切経建立有之度候。とその目的を明かにしている。植樹については、「此度御鎮守へ御断申上、土地能風蔭を見立、 0 0 黒木村誌 0 404 7 雑木切払、地下人共へ遣、心を尽し植置く」いたのであったが、さらに今後も、「此段猶又杉植付度者、第一先苗扱沢山仕懸け、其後少々宛風蔭之谷合土地を見立、雑木を地下人共へ遣、則杉苗を其人へ植付候様下知可仕候」と、苗を多く仕立てること、 0 0 黒木村誌 0 404 9 適地を選ぶこと、必要な労働力は雑木を地下(里)人に与え、その代りに植付けの手間を出してもらうことなどを指示し、「植杉折々は下切仕次第杉せり合候はば、悪木をまひき、無油断守護可仕事」と、下刈間伐に至るまで心を尽して書き留めてある。 0 0 黒木村誌 0 404 11 植林 この「杉苗植付意趣書置」を書いたのは明和六年三月のことで、当時快栄は隠居しており、証人として近藤文太夫(別府村庄屋。)をはじめ米屋平右衛門、岩佐助三郎、安立武太夫、宇野七十郎など、別府村美田村有志の面々が連署し、宛名は当住職圭快御房、 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 14 植林 後々住職連となっている。ところが快栄上人は、その後、文化のはじめまで存命であって、この書置には安永六年の筆で、「今安永六丁酉迄次第に植付候所、十万余有之候」と書き加えている。島前で杉の美林といえば、此所を措いて他に見ることは 1777 0 安永6年 黒木村誌 丁酉 0 404 17 出来ないが、その蔭には、このような先覚の努力が積み重ねられていたのである。 0 0 黒木村誌 0 405 1 御用船観音丸 中世の末期、吉川元春の隠岐国支配に当って、御用船として日吉丸、観音丸の新造が行われ、慶長十八年検地においては、島前配船の観音丸船頭として美田尻の久右衛門(屋号重屋)に切米四石三斗四升、二人扶持の外に一反の御免除屋敷、 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 405 3 また舟大工として甚左衛門(市部)、助三(不詳)の両名にそれぞれ切米四石三斗四升、一人扶持の外に八畝の御免除屋敷が給せられたことは既に述べた通りである。寛永十五年、松江藩の預ケ地となって同藩仕置役人の渡島の際にも、松江迄御迎ニハ 0 0 黒木村誌 0 405 6 船頭九左ヱ門、宇賀村新八、知夫里村三郎兵衛、浦之郷村七兵衛、右之者共、殿様ヘ御目見仕、御三人之御供仕罷帰候(中村、横地文書。)とあるが、この船頭九左門は慶長年度の久右衛門の子と思われる人物であって、この家はひきつづき寛音丸の 0 0 黒木村誌 0 405 8 船頭を勤めていたのである。このように天領時代に入ってからも、この船は承けつがれ、一、御船観音丸。御当国御私領之時分は勿論、寛永十五寅より元祿元辰まで、御物成雲州御蔵まで江戸大公儀様御手船を以て御運送被遊、島前ニ而観音丸、 0 0 黒木村誌 0 405 13 島後ニ而日吉丸二艘有来(同上)というように、年貢や官物の輸送、あるいは公役人の交代巡見使、吟味役人の渡海など、公用一切の用務に使役されたのであった。船体構造、修復造立の状況は詳からではないが、廷宝九年巡見使一行渡海の時、観音丸は 1681 0 天和元年 黒木村誌 辛酉 0 405 16 巡見使服部久右衛門の荷物船として運行し、その際の記録によると、四十六挺立、八人乗となっている。造立年代のはっきりしているものを挙げると、貞享二年(1685)、銀九一六匁二分八厘、米三八石六斗九升九合をもって新造立を終えたが 1685 0 貞享2年 黒木村誌 乙丑 0 406 2 (加茂井上文書)、それから四〇年後の享保九年(1724)にも、橋舟(はしけのこと)とともに新造している(天明二年「隠州御用定式大慨書」。)この時は、観音丸御船一艘、長三丈四尺。横一丈四尺。深四尺一寸。但一八〇石積位。であるという。 1724 0 享保9年 黒木村誌 甲辰 0 406 6 当時、島後に配船の日吉丸は廃止され、観音丸一艘であったあので、入用の材木は島前御林の松材を用いた。手続きの順序は、まず観音丸船頭、船大工が目論見帳(見積書。)を郡代に提出し、郡代は奥書をつけてヱ殿松江藩御留守居番へ送り、 0 0 黒木村誌 0 406 6 当時、島後に配船の日吉丸は廃止され、観音丸一艘であったあので、入用の材木は島前御林の松材を用いた。手続きの順序は、まず観音丸船頭、船大工が目論見帳(見積書。)を郡代に提出し、郡代は奥書をつけてヱ殿松江藩御留守居番へ送り、 0 0 黒木村誌 0 406 8 御留守居番と江戸勤番の郡代両名がさらに奥書を添えて勘定奉行に願出たのであった。勘定奉行の認可証印をもらい、米は隠岐の年貢の内から、銀は大坂金蔵から渡されることになった。ところが、それから十三年後、享保二十一年にも前回と同様の 0 0 黒木村誌 0 406 10 手続きを経て新しく造立している。なお観音丸の帆は御座帆で損じ易かったので、少し高価についても木綿帆を使用すれば耐久力に勝っているから結局その方が利益であろうということで、享保六年はじめて木綿帆になったという(全上) 1721 0 享保6年 黒木村誌 辛丑 0 406 13 船種 船種、船数について多少ともまとまった資料の見えて来るのは、貞享、元祿年間の郷帳類からである。まず当時の郷帳類に記載されている船種について見ると、貞享四年の「増補隠州記」には、島後では大船、手安舟、トモドの三種、島前では 0 0 黒木村誌 0 406 15 渡海船、手安舟、トモドの三種をあげ、元祿初年の「隠岐記」には、島後でやはり大船、手安舟、トモドの三種、島前では大船、小渡海船、手安舟、トモドの四種をあげていて、島後島前の間に若干記載型式の不統一があるが、要するに大船と渡海船 0 0 黒木村誌 0 406 17 とは同一であると考えてよかろう。これから後の指出類には、以上の船種のほかにカンコ、ひらた舟、橋舟が加わる。ひらた舟は底の平たい板舟、橋舟というのは、「橋舟は乗遣候儀格別余計故、早ク損申ニ付、御船(筆者註。観音丸のこと。)新造 0 0 黒木村誌 0 407 6 立年数之間ニ而一度宛新ニ造替来候由」とういように大船につけるハシケのことである。以上の船種分類につき諸説をあげると上の通りである。 0 0 黒木村誌 0 407 11 船数の動向 以上の分類に従って三村の諸資料をまとめると、第三−四三表のようになる。第三−四三表を観察すると、次のような諸点が明かになろう。(1)近世を通じて最も一般的な船種は、トモドと手安舟であった。(2)トモドは貞享元祿期が 0 0 黒木村誌 0 408 1 最も多く、時代の経過とともに次第に減少する傾向が明かに見られる。また手安舟は貞享、元祿期の船数が後代にくらべるとかなり少ないが、それから後は近世末期まで、あまり大きな変化がない。(3)トモドの減少と反対に、カンコが増して来ることが、 0 0 黒木村誌 0 408 3 美田村の例においてはっきりとわかる。十分な資料は無いが、カンコが現われて来るのは近世の中期を降ってからではなかろうか。存在する資料では、別府村の宝暦年間に見られるカンコの例が最も古いようである。(4)時代が降るにつれて、 0 0 黒木村誌 0 409 5 当然のことながら小渡海船以上の比較的大型船が数を増して来る。と同時に、橋舟も増加する。トモド、カンコの消長は、漁業形態の変迂と関係があるだろう。トモドとカンコには、それぞれの長所がある。横山弥四郎「隠岐島前爐戸船断片」によって、 0 0 黒木村誌 0 409 12 その要点をあげると、トモドには、1、船型が箱形をしていて平たいので波揺れが少なく、鈍重であるから風にも廻されにくい。そこで浅瀬、岩礁の間に舟を入れて、刈鎌、突ヤス(魚ヤス天ヤス)、鮑鈎、海鼠落しなどの操作に便利、モバ採りの 0 0 黒木村誌 0 409 16 捩り竹を使うにも舟が傾きにくい。2、舷側に胴木が出ていないから狭い所に舟を入れ易く、岩間、切落、沈石の狭間にひそむ魚貝や、天草、荒布、和布、つのまた類の採取に便利、また胴木の邪魔がないので立て綱、引き綱のくり上げに便である。 0 0 黒木村誌 0 410 2 3、船体の割合に積載量が大きい。そこでモバ類の運搬、肥料にする人糞尿を遠方へ漕ぎ廻すに便利である。4、船体が堅牢、機材は海水に対する耐久力が強い。カンコには1、軽快に波を切り、帆走が自由である(相当の沖合いにも舟を出すことができる。) 0 0 黒木村誌 0 410 7 2、トモ櫓だけでなく、オモテ櫓も使われる。3、板造りであるからD価が安い。などの諸点がある。以上のような諸点から見ると、カナギ漁、海藻採取にはトモドが優り、釣漁、網漁にはカンコがすぐれているといえるようである。そこで釣漁、網漁が 0 0 黒木村誌 0 410 12 盛んになるにつれて軽快なカンコが多く使用されるようになり、またトモドの方は、船材である樅の大木が減少して製作費が高くつくという悪条件も重なり、五枚板のカンコ、手安舟の製造に押されて近世末から近代初期にかけて急速に減り、現在は 0 0 黒木村誌 0 410 15 焼火 焼火神社所有の一隻(重要民俗資料に指定。)を残すのみである。いっぽう手安舟は、トモドやカンコに比べて、中期以降あまり大きな変動がない。これはトモド、カンコに比較して手安舟はやや大きく、帆走も出来るところから、漁業、運輸兼用に 0 0 黒木村誌 0 411 1 使用し得る意味において、それなりの需要を持った為であろう。 0 0 黒木村誌 0 411 2 北前船(きたまえ) 日本海の海運と瀬戸内海の海運とが結びつき、西廻海運としてひらかれたのは寛文年間からである。寛文十二年(1672)、河村瑞賢の努力によって西廻航路が安全になると、それまでは敦賀、小浜まで海路により、其所から 1672 0 寛文12年 黒木村誌 壬子 0 411 4 先は湖水、陸路によって京都、大坂に輸送した方法に代って、海路だけによって北国、東北方面の物資を直接に上方に送るようになった。特に享保期以降に至って飛躍的に盛んになったといわれている(古田良一「海運の歴史」。) 0 0 黒木村誌 0 411 7 この北国、東北方面から来る船が「北前船」である。北前船は隠岐を風待港として利用した。次のようにである。まず北前船は、旧正月明けに大坂で「囲い」を解き、縄、砂糖、蓆、菓子其他の物資を積んで出発し、尾の道、馬関海峡を経て旧六、七月頃 0 0 黒木村誌 0 411 9 隠岐に寄港する。これは下りの船である。隠岐に寄港してのは、主に二百十日ごろの荒日を避け、風を待つ為である。普通一ケ月程碇泊、ハエの風を待って出帆、十日前後して松前に達する。鰊、搾粕、昆布其他の水産物を積んで、此度はアヲキタの 0 0 黒木村誌 0 411 11 風に送られて八、九月頃には再び隠岐に寄港する。それが上りの船である。十日−一ケ月位休んで出帆、十一月頃までに大坂へ着く。旧十二月から翌年の正月までは船を囲って休む(前掲「漁村探訪記」による。)。 0 0 黒木村誌 0 411 13 大山明と波止 島前で下り船が風待港(下り間という。)としてのが大山であり、上がり船が寄港(上り間という。)したのが波止であった。元祿初期之郷帳集成である「隠岐記」には、波止、、、、本郷より南へ二十八町去る。焼火山の西坂本也。 0 0 黒木村誌 0 411 15 焼火 登り廻船の湊なり。、、、大山明、本郷より東へ三十五町去る。下り廻船の湊也。と記載している。波止と大山明が北前船に利用されたのは、もちろん出入津に便宜な風との関係であるが、一面において焼火信仰との関係も見逃す事は出来ない。 0 0 黒木村誌 0 412 1 焼火 焼火権現が航海守護神として早くから重んぜられた例は、先に中世末期の寄進状において述べた通りであるが、焼火信仰の及ぶ地域はまことに広汎であって、西廻航路が整備され、隠岐がその航程に入ってからは、航海業者と焼火信仰とは円々密度を加えるに至った。 0 0 黒木村誌 0 412 4 問屋 問屋 以上のように帆船時代の要津を持った美田村には四軒の問屋があって、出入する他国船の取締にあたった。相定申他国船宿並商売人宿之事。一、美田村問屋四軒、喜兵衛。八兵衛。六兵衛。武左ヱ門。一、他国船入津之砌、往来手形相改、 0 0 黒木村誌 0 412 11 問屋 宿手形相添差上可申候。否湊之内参候舟船頭方より往来差出不申候共見逃ニ不仕、問屋、庄屋、年寄、立会遂吟味、其品御断可申上候。尤御当地ニ而商売仕候他国者ハ、例年之通、往行御札可申請候。一、他国船、地舟共、諸事積出シ申品々少も不隠置、 0 0 黒木村誌 0 412 13 御点検之砌御断可申上候。且又御点検以後、何ニ而茂為積申間敷候。地舟之儀ハ前方被仰付候通、奉畏候。他国船往来手形之外、一人ニ而も乗参候ハハ、其趣早速御注進可申上候。御当地よりハ猶以壱人も乗せ渡シ不申候様ニ手堅遂吟味、出船之時分 0 0 黒木村誌 0 412 15 相改可申候。右之通、少も違背仕間敷候。否問屋油断候か、又ハ我他出候ハハ、庄屋、年寄、五人組之者共急度遂詮議、諸事抜目無之様ニ可仕候。宝暦三年酉正月。美田村、年寄。庄屋。堀彦右衛門様。(舟越、問屋所蔵文書。) 1753 100 宝暦3年 黒木村誌 癸酉 0 412 22 問屋 右の書は、美田村庄屋、年寄が島前代官に提出した請書である。宝暦三年(1753)美田村では、他国船の船頭及び他国商人宿として問屋四軒を指定した。喜兵衛は波止、八兵衛は大津、六兵衛は大山明、武左衛門は舟越の年寄役である。 1753 100 宝暦3年 黒木村誌 癸酉 0 413 2 問屋 これらの問屋の職能を要約すると、1、他国船が入津して時、まず往来手形(旅券)を改め、怪しい節がなければ宿手形(宿泊人届)を添えて、別府駐在の代官所に届ける。他国商人が便乗している場合には、その往行御札(商売許可証)の下附を申請する。 0 0 黒木村誌 0 413 5 問屋 2、積出荷物の監督をする。が主要なものである。右のように問屋を勤める家柄は、その村の年寄役(小村の場合には庄屋。)であった。それは近世末の天保十三年八月、各村庄屋年寄の連判、大庄屋の奥書加判をもって御役所へ差出した願書の中で、 1842 800 天保13年 黒木村誌 壬寅 0 413 8 問屋 次のようにいっていることからも明かである。一問屋之儀ハ古来から年寄役相勤候もの取引仕来候処、他国出入之品々商いたし候節、出入の品もの、且年号、月日等帳面留置、何等不依、後日御尋御座候共御答相成候様為致、出入之世話代ニハ問屋ヘ 0 0 黒木村誌 0 413 11 問屋 遣シ、品物ヲ商人ニ相渡、問屋手前ニテ少シモ売買不致候ヘバ、是迄之通り、問屋被差置候方、御締し合可宜奉存候。(松浦康麿氏所蔵「渡辺家所蔵触書写抄」。)村役人である年寄が問屋(船宿を兼ねる。)を兼ねたのは、「問屋手前ニテ少シモ売買 0 0 黒木村誌 0 413 13 問屋 不致」とあるように、自己資本で商売をする廻船問屋のようなものではなく、その職能が前述の如く村役人としての性格が強かった為である。また港からの積出荷物に対しては、これを点検し、点検銀(駄別銀)を課徴して帳面に書留めなければならなかった。 0 0 黒木村誌 0 413 16 この点検帳は、はじめの間は「江戸ヘハ不被遺候処、御勘定御改之節御見合相成候間、以来小前帳(点検帳)共可差出旨、宝暦十二年午被仰渡、其後年々右書付取立小前帳共江戸表へ被遣」れることになった。(隠州御用定式大概書」。) 1762 0 宝暦12年 黒木村誌 壬午 0 413 17 問屋 文政十二年の書式例でいうと次の通りである。何月何日。一、銀、何匁何分何厘、何某船、直乗沖船頭、何人誰何人乗、百何拾石積。但此積荷、何々。以上のように問屋は自己資本で商売しないので、「世話代ニハ問屋ヘ遣シ」という手数料を 1829 0 文政12年 黒木村誌 己丑 0 414 4 問屋 与えたのであるが、近世末の例では、積出荷物に対し三分の口銭を課し、その三分の二を問屋に、三分の一を村(里)へ納めさせている。現在、舟越の問屋をはじめ、各地に「問屋」という屋号の家があるのは、この系統の古い家であろう。 0 0 黒木村誌 0 414 7 問屋 大山明 前述のように大山明は下り廻船の風待港(下り間)であったが、ここに元問屋という屋号(姓は木村)の家があり、「御船客控帳」二冊が残っている。おそらく、先の宝暦年間において大山明の年寄兼問屋であった六兵衛の系譜を継ぐ家であろう。 0 0 黒木村誌 0 414 10 右の二冊の船客控帳の内、一冊は無表紙の分厚い横帳、一冊は表に「御船客控帳」とある薄手の横帳でらる。内容の記載は船籍地、帆印、船名、入津年月日、船主、船頭名などである。二帳合わせて約三七〇〇隻の船数が登載されているが、大部分は 0 0 黒木村誌 0 414 10 明治以後のものであって、近世末までのものは約一一七〇隻が数えられる。時代の上限は文化年代が最も古く、下限は大正末期までを含んでいる。同家には、もう一冊、もっと古い時代の記載を含むものがあった筈であるが、現在散佚してしまっているのは 0 0 黒木村誌 0 414 14 残念である。船籍地は、北は松前(北海道)から日本海、瀬戸内海沿岸の港、九州、四国、さらに江戸(東京)と全国的に見られるが、圧倒的にスいのは羽州(秋田、山形県)、加州(石川県)、越前(福井県)、越後(新潟県)など日本海沿岸の 0 0 黒木村誌 0 414 16 諸国である。入津船数も、文化年代以降時代の下るにつれて急激に増加している。しかし、ここに記載する入津船数が事実と一致、またはそれに近いと判断するのは早計である。理由を次に述べよう。この二帳は、大山明に入津した各地の船を地域別に 0 0 黒木村誌 0 414 19 分類して記載する(分類は不完全である。)。加賀国の例について地域別に見ると、橋立浦、小塩浦、安宅、加州湊、本吉、伏木、粟ケ崎、宮腰と分類し、それぞれの地域において、さらに船主別に船名を挙げている。たとえば、加州湊における船主は 0 0 黒木村誌 0 415 2 小川屋(六隻)、熊田屋(二七隻)、魚屋(九隻)、鹿嶋屋(六隻)、橋本屋(九隻)、鵙屋(一二隻)、小杉屋(三隻)、浜屋(一隻)、伏見屋(三隻)などである。その中の魚屋持船を見ると、加刀湊、魚屋。徳寿丸、惣三郎。同、幸寧丸、仁左ヱ門。 0 0 黒木村誌 0 415 8 同、大寿丸、喜左ヱ門。弘化三午九月三日入。同、永寿丸、間右ヱ門。天帆十四卯九月八日。同、福寿丸、与四郎。安政六未六月六日入。同、吉寿丸、吉次郎。文久酉六月二三日入。同、明寿丸、仁左ヱ門。同安政四巳六月二九日。同、大寿丸、六三郎。 0 0 黒木村誌 0 415 18 慶応二子二月二二日。同、永寿丸、弥三郎。という記載順である。入津年月日を見ると弘化、天保、安政、文久、安政、慶応と年序不整である。何故このような結果になっているかと想像するに、この二帳は或る時期(明治十年代かと推定される。) 1866 222 慶応2年 黒木村誌 丙寅 0 415 21 における整理帳であろうと思われる。外に元帳があって、その中から地域別、船主別に抽出して書きでしたもので、その操作中に年序を誤ったのではなかろうか。その整理の際、地域別に相当の余白が残されていたのであって、明治十年代以降入津の記載は、 0 0 黒木村誌 0 416 1 地域別にそれぞれの余白に、一筆毎に異なる筆跡で書き継がれている。多分整理が終ってから後は、入津の船頭たちの手によって書き加えられていったのであろう。以上の事から、この二帳は元帳を整理するに際し、その中から地域別、船主別に 0 0 黒木村誌 0 416 4 採録することに主眼を置いたのであって(前例の魚屋持船のように、同じ持主の同じ船名の船が、重ねて入津している例は少ない。)、入津度数については厳密な考慮が払われていないのではないかと思われるのである。 0 0 黒木村誌 0 416 8 幕政改革 幕藩体制は、その中期から貨幣経済が浸透するに及んで、ようやく社会的経済的な不安動揺が内部的に醸成されつつあった。八代将軍吉宗は、新田の開発、殖産興業を奨励、税制を改革して定免制を採用し、質素倹約による生活の規制、 0 0 黒木村誌 0 416 10 官僚機構を整備して人材を戸用するなど、強力な復古政策を実施して、一旦は幕府財政の破綻を防いだかにみえたが、つづく田沼時代の失政によって幕政はまたもや危殆に瀕するに至った。こそで松平定信による寛政の改革、およびこれにならう 0 0 黒木村誌 0 416 13 水野忠邦の天保の改革が試みられたが、この両改革において第一に企図したのは農村行政の強化であった。たとえば農民を土地に緊縛するために、帰農令を出して離村した農民を還住させたり、または出稼を制限して農村における生産人口の維持に努めたりした。 0 0 黒木村誌 0 417 1 島前の「人返し」 文化四年、島前中の頭百姓、年寄、庄屋の連名を以て大庄屋に提出した次の「口上之覚」は、右のような事情を説明するものである。差上申口上之覚。島前村々より男女共夥敷先年より島後江稼として渡海仕罷在候に付、其頃島中庄屋 0 0 黒木村誌 0 417 4 共相談之上、一躰島中より大勢他出仕候ては、田畑手入等も自然に不手廻しに相成、畢竟島前之不益に相当り候間、島中厳敷吟味仕、不残呼戻し、以来一人も差渡不申旨一統議定仕、大庄屋所へ書付等迄差出置候処、其後引続年並悪敷、間には一人宛 0 0 黒木村誌 0 417 6 奉公稼に渡海仕候儀御座候得共其侭差置候処、追々右締合も等閑に相成、近頃思召之程恐入申上候得共、何分困窮より事起り候儀故打捨罷在候処、去今年抔就中村々より渡海仕候旨にて、又々此度島中一統相談之上、当暮より不残呼戻し、以来村々より 0 0 黒木村誌 0 417 8 一人も渡海不仕様吟味可仕候得共、若哉一人にても渡海仕候はば、本人には銭二貫文、隣家之者共より一人前一貫文宛、並組頭之者よりも五百文過料として島中江為差出可申議定、尤隣家のものにても早速訴出候はば、右過料銭宥免可仕候。然上にも 0 0 黒木村誌 0 417 10 不埓之儀御座候はば、銘々共如何様にも可被仰付候。何分此度一統御願申上候間、以来締合之儀幾重にも奉御差図請度、偏に奉願候。以上。文化四年卯九月。島中、頭百姓。年寄。庄屋。大庄屋宛。(松浦康麿氏所蔵「渡辺家所蔵触書写抄」。) 0 0 黒木村誌 0 417 17 右の文書によると、先年来島前の村々より島後へ出稼に行く者おびただしく、島前中の庄屋相談の上きびしく吟味して残らず呼戻し、以後一人も出稼に出さないように議定した事があったという。この議定は、おそらく寛政改革当時の事であろうが、 0 0 黒木村誌 0 417 19 その理由を「田畑手入等も自然に不手廻しに相成、畢竟島前の不益に相当」るからであるとしているのは、寛政の改革に当って幕府の採った農村行政強化策がこのような離島の隅々にまで徹底したことを示すものである。ところがこの申合わせは近年 0 0 黒木村誌 0 417 21 になって有名無実となり、なかんずく去年から今年にかけて出稼者の数が増すようであるから、再び島中一統相談之上、残らず呼び戻し、今後この議定を破って渡海する場合には、本人は勿論隣家の者、五人組の組頭まで過料を課することにしたのである。 0 0 黒木村誌 0 418 3 他出制限 また翌文化五年と推定される御役所よりの申渡にも、具体的に条項をあげて厳しい制限を加えている。申渡。一他国諸参詣、村高百石ニ付二人宛。但遠国ハ百日、近国ハ五十日限リ。一(略)一王造入湯諸養生往来ハ、村方ニ而能々吟味ヲ 0 0 黒木村誌 0 418 8 詰、弥相違無之モノハ願出可申候。是又日数五十日限リ。一他国用事往来ハ、何国誰江用事有之ト申儀、願出可申候。一島後ニ而諸職人弟子ニ罷成居、逗留仕度旨、願出候モノモ有之哉之処、以来願出候共不相成事。一同所江下女下男ニ引越度旨、 0 0 黒木村誌 0 418 13 今年ハ不相成事。一同所ニ而是迄、手代奉公仕居候モノハ、用意(容易)ニ渡海仕候事不相成候。尤無拠用事有之罷渡旨願致シテ渡海申付、若長逗留ニ及候ハバ、過料可申聞候。右九ケ条之趣、堅可相守候。若違乱有之ニ於テハ、村役人之者急度咎〆 0 0 黒木村誌 0 418 17 可申付候条、能々相心得可申候。以上。辰三月。御役所。右の文書は、代官所より直接示達された条々の写しであるが、参詣、養生等の他出に至るまできびしく制限を加え、先の文化四年議定のように島後への出稼に対しても強硬な態度を示している。 1807 0 文化4年 黒木村誌 丁卯 0 419 1 質素倹約令 或はまた商品経済を抑制するために質素倹約をきびしく要求したが、それも封建経済の基盤を農業の上に確保する為の努力であった。次のものは、文政元年隠岐島郡代、代官より島前大庄屋へ達せられた覚書である。覚。両島ハ難渋之所柄、 1818 0 文政元年 黒木村誌 戊寅 0 419 5 依申立、御取箇向其外共、格別御憐愍之御取扱ニ候得ハ、諸事奢ケ間敷儀ハ勿論、且衣服之儀モ是迄度々申渡置候処、年月モ相立、就中去今者、年並等宜敷ニ而ハ、自然人気相弛候儀モ有之候而ハ以外之事ニ候条、猶無懈怠村役人カラ急度心ヲ付、 0 0 黒木村誌 0 419 7 心得違無之様、精々可申聞候。以上。文政元牛十一月二十日。西郷喜左衛門。米村恵蔵。大庄屋官蔵殿。(前記「渡辺家所蔵触書写抄」。) 0 0 黒木村誌 0 420 1 八月朔日より翌日にかけて、隠岐に甚雨洪水。島後大損稲。牛馬多く溺死。 1736 820 元文元年 黒木村誌 丙辰 0 420 2 十月五日より翌日にかけて大風雨。波の立つこと山の如し。顛家一六。毀船大小一五六。死者五。行方不明六。いわゆる海嘯である。 1736 1005 元文元年 黒木村誌 丙辰 0 420 4 七月、隠岐大風甚雨。潰家四七。流家七。船破れ且つ漂うもの大小四九。牛馬溺死二〇。損稲七三三石六斗。 1739 700 元文4年 黒木村誌 己未 0 420 6 八月十、十一日烈風甚雨。倒家四二。破船三六。損稲一二〇〇余石。 1744 810 延享元年 黒木村誌 甲子 0 420 7 国中炎旱。惣社にて雨乞祈祷。 1748 0 寛延元年 黒木村誌 戊辰 0 420 8 五月二四日、二五日、隠州大雨洪水。 1748 524 寛延元年 黒木村誌 戊辰 0 420 9 八月二四日、二五日、隠州大風。倒家九二。破船三九。損稲称之。 1751 824 宝暦元年 黒木村誌 辛未 0 420 10 大凶年。二月より五月迄旱天。麦作不熟。田方植付不能。五月末より八月迄霖雨。晴天無之。虫付腐り。菜園樹果に至るまで不熟。八月二四日、二五日、大暴風作毛不残。 1755 0 宝暦5年 黒木村誌 乙亥 0 420 14 八月二十日、二一日、大風雨。 1772 820 安永元年 黒木村誌 壬辰 0 420 15 国中大旱魃、惣社にて雨乞祈祷。 1774 0 安永3年 黒木村誌 甲午 0 420 16 大凶年。五月入梅より九月迄霖雨晴れやらず。虫付腐り。十月十日大風。諸作不残。米価一二〇文にあがる。 1783 0 天明3年 黒木村誌 癸卯 0 420 19 夏より雨降りつづき田方凶作。国中志儀止む。米価一三〇文にあがる。 1786 0 天明6年 隠岐 黒木村誌 丙午 0 420 20 凶作。島中志儀止む。 1791 0 寛政3年 隠岐 黒木村誌 辛亥 0 421 1 八月十八日夜大水。波止、三度、珍崎、古海、知夫里大破。 1796 818 寛政8年 西ノ島 黒木村誌 丙辰 0 421 2 旱魃。惣社にて祈祷。 1798 0 寛政10年 隠岐 黒木村誌 戊午 0 421 3 美田村にて三六〇人病死。 1802 0 享和2年 西ノ島 黒木村誌 壬戌 0 421 4 (別府村離村に付須田定市定詰)。 1806 0 文化3年 黒木村誌 丙寅 0 421 5 痘瘡大流行。 1813 0 文化10年 隠岐 黒木村誌 癸酉 0 421 6 八月十五日大風。廻船数百破船。舟人多く海死。 1821 815 文政4年 隠岐 黒木村誌 辛巳 0 421 7 二月二十三日、未申の風激。小向宮崎より出火。舟越村中焼失。 1826 223 文政9年 黒木村誌 丙戌 0 421 9 旱魃。惣社にて祈祷。 1827 0 文政10年 隠岐 黒木村誌 丁亥 0 421 10 八月十日大風。諸作無。去冬より痘瘡流行。 1828 810 文政11年 黒木村誌 戊子 0 421 11 北国不作にて八月より米一二〇文に及ぶ。十月二六日夜、洪波。舟越辺満潮八尺。 1833 1026 天保4年 黒木村誌 癸巳 0 421 13 大飢饉。米価三五〇文。 1836 0 天保7年 隠岐 黒木村誌 丙申 0 421 14 米価三〇〇文 1837 0 天保8年 隠岐 黒木村誌 丁酉 0 421 15 六月より九月まで痢病流行。老幼多死。 1841 0 天保12年 黒木村誌 辛丑 0 421 16 二月、西方夜々、白気立中天。虹に似たり。三月止む。痘瘡流行。 1843 0 天保14年 黒木村誌 癸卯 0 422 7 文政の大火 近世末期に、美田村は二度の大火に遭っている。文政九年(1826)、小向の宮崎より出火し、火は舟越に廷焼して、この時、舟越はほとんど全焼したと伝えられている。それから二十三年目の嘉永元年(1848)、此度は舟越より 1826 0 文政9年 黒木村誌 丙戌 0 422 12 出火し、前度とは逆に宮崎小向に燃え移った。現在、舟越区に「文政九戌二月、美田村之内小向舟越火難一件ニ付諸方より心付物請取并渡口覚帳」(横帳)が保管されているが、その表紙に「其以後、嘉永元年申十月二十七日大火御座候。小向舟越不残。 1848 1027 嘉永元年 黒木村誌 戊申 0 423 1 二十三年目」とあるところから見ると、この時も小向、舟越は全焼に近い状態であったかも知れないが、資料を欠くのでよく分からない。前記、火難一件資料によると、文政九年大火の際の村外からの儀損金品は、前表のように大麦五石、籾二石五斗、 1826 0 文政9年 黒木村誌 丙戌 0 423 3 稗二石、銭一貫文、その外に縄一五〇〇尋がある。この年の舟越の総人数は二七九人であるが、その内一〇五人を除き、残り一七四人に対し、大麦は一人前として二升八合当り、籾は一升四合、稗は一升一合当りをもって配給した。この儀損物資を 0 0 黒木村誌 0 424 1 受けた人々、および配給を除かれた人々は前の第三〜四五表の通りであるが、後者の場合は、火難をまぬがれたか、または家計が豊であって配給を辞退した人々であろう。 0 0 黒木村誌 0 424 4 国際情勢の影響 さて、このような社会的動揺の中にあって、東洋における国際情勢の影響が波及し、島民は、その負担にも苦しまなければならなかった。すでに先進国においては、封建体制が破られて近代社会が出現し、産業革命によって近代資本 0 0 黒木村誌 0 424 6 主義が目覚ましく生長しつつあった。その結果、資本主義生産のために必要な原料と、生産品販売の市場を東洋に求めて来た。 0 0 黒木村誌 0 424 8 山陰沖に外国船現わる 外国船が山陰沖に現れたのは享保年間からであって、享保2年四月から八月の間に数回にも及んでいる。−享保二年四月二十四日夷船来って美保関の海中に来泊し、二十九日去り、五月二日又来り、既にして去り、二十二日又 1717 424 享保2年 黒木村誌 丁酉 0 424 10 来り、三日にして去る。公(筆者註。松江藩主五代、宣維。)状を具して官に達す。官、命じて日く「来舶朝鮮人に非るよりは、縦令請ふ所ありとも之を与ふること勿れ。若し陸に上らば之を捕へ、以て長崎官吏に聴けよ。」と。七月二十九日又来って 0 0 黒木村誌 0 424 12 指海村(神門郡)に泊し、八月三日、十六島浦(楯縫郡)に移り、十三日去り、十九日又美保関に赴き、二十一日去る。、、、、三年二月二十六日、夷舶又十六島浦に来る。公(前註に同じ)、其の異心あるを察し、郡奉行を戒めて之に備へしむ。 0 0 黒木村誌 0 424 14 三月朔去り、九日又美保関に来る。兵士を遣して之を守らしむ。十三日、船弩を発して陸に近づく。急に兵士を勤し、往きて之に備へしむ。十八日去り、二十日又来り明日去る。官命じて日く「夷舶屡々来る。其の意悪むべし。宜く砲を発して其船を 0 0 黒木村誌 0 424 16 摧破し、上陸する者は乃ち之を捕ふべし」と。−(「出雲私史」)という状況である。 0 0 黒木村誌 0 424 18 番船被仰付 以上のような情勢が隠岐に反映しない筈はない。当時、隠岐は大森代官の直轄支配時代であるが、島前在番は直ちに対策として、享保二年取り十一月、唐船着船仕候ニ付、御公儀様ヨリ番船島中ヘ被仰付、来ル三月迄島中難儀仕候云々 1717 1100 享保2年 黒木村誌 丁酉 0 425 2 (宝暦十一年「隠州往古以来諸色年代略記」。松浦康麿氏所蔵。)というように、島前島約として番船を出すことを命じたのであった。番船の数、勤務状況、島前村々の負担については詳しいことは不明であるが、翌享保三年三月まで警備をゆるめず、 1718 300 享保3年 黒木村誌 戊戌 0 425 4 そのために「島中難儀」を蒙ったのである。 0 0 黒木村誌 0 425 5 遠見番役 このような情勢に対応するために、幕府は享保五年に至り、それまで大森代官の支配下に置いた隠岐を、ふたたび松江藩預け地とした。松江藩であH元のように、郡代一名、代官二名(島前島後)を派遣して隠岐の行政にあたらせたが、 1719 0 享保4年 黒木村誌 己亥 0 425 7 代官所職制において前と違っている点は、元方、吟味、点検、御徒目附などの諸役の外に、今回はじめて「遠見番」役が設けられたことである。いうまでもなく海岸警備の専任であって、島前、島後にそれぞれ二名ずつが配置された。 0 0 黒木村誌 0 425 10 警備番人を命ぜらる ところが寛延三年に、またもや朝鮮人四人が別府村へ漂着するという事件があった。寛延三年十月、別府村へ唐人船四人乗一艘流レ寄候ニ付、両島御役人様方御詣(参)被成、御見分之上、番人島中ヘ厳敷被仰付、難儀仕候云々 1750 1000 寛延3年 黒木村誌 庚午 0 425 12 (前掲「諸色年代略記」。)郡代間瀬万右衛門は松江へ飛船を差出すとともに、島後代官所を帯同して別府へ渡り、島後遠見番役山本良助、森本忠太を島前に留め、島に対しては外国船警備の為の番人を設置することを厳しく命じた。当時、しばしば 0 0 黒木村誌 0 425 15 災害を蒙って疲弊していた島前では、この負担に窮し、島前中の庄屋年寄連判をもって、次のような願書を差出した。奉願一札之事。今度唐人船四人乗一艘、当島江流寄候ニ付、両島御役人様方御詰被遊、御検分之上、番人等厳敷被仰付、其上御介抱 0 0 黒木村誌 0 425 18 大切ニ被仰付候付、島中トシテ賄等随分大切ニ相勤申候。然処ニ、今年ハ悪風故、田畑共ニ差方損亡仕、島中百姓共当前之粮米ニモ行当り、悉及難儀罷有候。然上ニ、右唐船御用ニ付、莫大之物入等有之、扨々迷惑至極ニ奉存候。ケ様之儀ハ、前代未聞 0 0 黒木村誌 0 426 2 之事ニ御座候得者、此度之諸入用、御公儀様ヨリ被下置儀ニ御座候哉、乍恐此段奉窺候。若左様之儀ニモ無御座、島百姓共江被仰付儀ニ御座候ハバ、何トソ両島割賦ニ被仰付候様ニ奉願候御事(中略)寛延三年後十一月。島中庄屋年寄連判ニテ。 1750 1000 寛延3年 黒木村誌 庚午 0 426 8 大庄屋殿江差上ル(笠置伝写本。)右の文書は、島前一統から大庄屋を通じて代官所へ提出した願書であるが、その要点は、1此度の唐船番人に関する所要経費は、公儀負担であるかどうか。2もしそうでないとすれば、島前島後の割賦にしてもらいたい。 0 0 黒木村誌 0 426 13 という二点である。島前島後の割賦というのは、寛永十九年の覚書に、従公儀御用之水夫御国役之諸役、先年ヨリ十之物六ツ島後、四ツ島前之割合、違論無之由、可為其例事。とあるように、島後六、島前四の割賦とする慣例になっていた。 1642 0 寛永19年 黒木村誌 壬午 0 426 16 この願書の始末がどうなったかについてはわからないが、六年後に当たる宝暦二年の美田村方法度の一条に、番手(人)の儀においては、本番添番を勤める筈のところ、此度了簡を以て一人定めたといっているのは(前述)、この島民の意向を汲んで 1752 0 宝暦2年 黒木村誌 壬申 0 426 18 負担軽減をはかるために採られた措置であったかと思われる。 0 0 黒木村誌 0 426 19 「唐船番」組織 やがて寛政年間に入ると、松江藩では「唐船番」を組織して、根本的に警備体制を整備した。当時の松江藩主は八代の治郷、いわゆる不味公であるが、その配備の大要は「島根県史」によると、次の如くである。−隠岐には島役(後カ)、 0 0 黒木村誌 0 427 1 台場、砲術方、初手者(物)頭、鉄砲受、棒目附等五十六人、外に小人下人凡そ二百三十人、島前亦之れと同じ。以上を初手とす。次に重手一百六十二人、島前も亦之と同じければ、総勢三百二十四人(筆者註。数字の上に不審なる点あり。)なり。 0 0 黒木村誌 0 427 4 警備兵士渡島 当時、寛政年間にはすでにロシヤの使節は根室に来て通商を要求しており、世情騒然として来たが、文化六年二月には再び隠岐に夷舶の警あり(「出雲私史」)、物頭松林弥左衛門が「唐船為御手当」三十数名を率いて渡島したが、 1809 200 文化6年 黒木村誌 己巳 0 427 6 留まること二年にして帰任した(「新修島根県史」近世上。)。さらに嘉永二年には、−二月十八日隠岐島前知夫里郡(浦之郷村三度。)に一大艦の来るあり。硝船を発し、上陸する者六人なり。己にして還る。二十三日又二艦あり、越智郡に来り 1849 218 嘉永2年 黒木村誌 己酉 0 427 9 須叟にして去る。二十四日物頭堀尾弥祝、早田彦兵衛及び砲士をして隠岐両島戌らしむ。三月七日、一艦又越智郡に来る。二十三日、越智郡又三大艦を見る。陸を距る率ね七八里なり。四月八日、一艦又知夫里郡に来り、将に岸に近づかんとせしが、 0 0 黒木村誌 0 427 11 戌兵備を厳にせるを以て終に近づかずして去る(「出雲私史」。)という事態を生じ、島前へ物頭早田彦兵衛外三十数名、島後へは物頭堀尾弥祝外三十数名が渡島して警備に当った。 0 0 黒木村誌 0 427 13 外国船打払令 これより先、文政八年には、幕府は外国打払令を発しているが、松江藩からは島前大庄屋へ、次のように申渡している。覚。異国船渡来之節取扱之儀、此度従公儀別紙之通御触達有之候間、常々遠見番のもの江無油断心を付候様可被申 1825 0 文政8年 黒木村誌 乙酉 0 427 16 付候。若隠州浦々之内、沖合に異国船相見候はば、早速在島の御郡代御代官並御役人共、其所江罷出、一浦の内にて健成者共駆催し、有合得道具、棒、槍、鳶口、斧、鋤、鍬之類携出、海辺を堅、防禦の手配第一の事に候。為其、兼而御道具の御手当 0 0 黒木村誌 0 427 18 も有之儀に候条、大筒等をも相備立、弥賊船と相見候者、打払可申候。其上にも自然上陸致し候はば搦捕、時宜に応じ打留候ても不苦候。尤此度、阿蘭陀人より公儀江依頼、日本通商の御印被相渡候に付、右御印建居候船は不及打払旨、被仰出候由に候。 0 0 黒木村誌 0 427 20 即御印之図一枚相渡置候間、右之趣、常々無油断可被相心得候。格別抽相仂候者には、追而御恩賞之御沙汰も可有之候条、右之趣、平日無油断相心得、松江表より御手当の御人数着船致候迄浦辺を持、堅乱暴に不及様之取扱肝要之事に候。此段惣而浦 0 0 黒木村誌 0 428 2 辺之者へも堅可被申渡候。以上。右御書付之趣奉得其意、村々小前の者に至迄不洩様此旨得と相心得、無油断心付候様可申渡候。以上。九月五日、篠塚丹右衛門。岩佐唯右衛門。大庄屋、官蔵殿。(前記「渡辺家所蔵触書写抄」。)この覚書の内容は、 0 0 黒木村誌 0 428 8 いうまでもなく直ぐに大庄屋より島前十三ケ村庄屋へ順達されたが、その時のオランダ船の舟印というのは上のようなものである。覚書を見ると、常々遠見番の者へ油断なく見張を続けるよう申付ける事を命じ、もし隠岐の浦々において異国船発見の 0 0 黒木村誌 0 428 18 上図は嘉永以前と思われる年次不明の「隠岐国島前海岸測量図」より採ったものであるが、当時の「大筒等をも相備立」てた配備状況を示しているのではないかと思われる。 0 0 黒木村誌 0 429 1 警備体制強化 嘉永六年二月、代官所より時の島前大庄屋(笠置八郎左衛門)へ発せられた通達によると、やや具体的な様相がうかがわれる。この時は、二十六日島後の大久村沖合に異国船一艘が見えたというので、にわかに警備態勢は色めきたった。 1853 226 嘉永6年 黒木村誌 癸丑 0 429 3 まず第一に、雲州表より御手当の人数が渡海するかも知れないというので、迎接に関する諸事項を指示している。一御人数渡海之節、船印目当、風相ニ寄、漕船差出候様手配之事。一壱番手御人数宿陣、別府村、美田尻、十景にて手配可申事。 0 0 黒木村誌 0 429 8 一御物頭乗馬一疋手合置、着船之場所へ差出可申事。一御人数渡海之節、風相ニ寄、何レノ村方ヘ着船可有之モ難計候間、村々ニ至リ、其村方ニ而焼出(タキダシ)等致シ候儀可有之候間、大概人数五六十人斗之手当ヲ致置候事。但、一汁一菜之事、 0 0 黒木村誌 0 429 12 小皿香物、めし。一着船之節、夜ニ入候ハバ、明松手合置可申事。一人足五十人斗手合置、御人数着船之場所江可差出候事。尤右人数之内、十人斗ハ御貸人代りニ可相成候間つづれ等着不致様可申付候事。一御人数着船候はば、村役人、宿亭主罷出可 0 0 黒木村誌 0 429 16 致案内事。一兵粮米、塩入所、宿陣最寄ニ相極置可申事。等であるが、右の指示内容に見られるように別府、美田尻、十景の各里は、宿陣の手配や宿陣の近くに兵粮米、塩の倉庫を容易するなど、他村とは比較にならぬ苦労を払わなければならなかった。 0 0 黒木村誌 0 429 20 第二には警備体制に関する指示である。一昨二十七日相触候通、村々ニ而昼夜遠見之者、弥無油断令遠見、若異国船見懸候ハバ、早々御役所江可及注進候。一中尾謙助、山本林蔵、鶴原豊蔵毎ニ為遠見候間、其節村々遠見之者共ヨリ委細可申出候。 0 0 黒木村誌 0 430 1 一知夫里村之内、仁夫里浦年寄権十、浦之郷年寄三左衛門両人江、遠見番頭取申付候事。一浦之郷村、崎村大筒台場、並村々御用地遠見番所共、道筋致掃除、歩行不自由無之様致可置事。一異国船相見候場所ヨリ、昼ハ煙ヲ立、夜ハ火焼、追々外村遠 0 0 黒木村誌 0 430 3 見場所ヨリ請、勿論早ク御役所江可及注進事。一異国船見懸候テ、其村ヨリ相図之煙立候得共、若風雨其日ノ模様ニヨリ、相図見兼可申モ難斗候間、其村ヨリ両隣ノ村江為知可申事。一美田、宇賀、別府村ニ而ハ、手安舟四艘手合置、健成水主モ申付 0 0 黒木村誌 0 430 6 置候事。一異国船島近ニメメ寄候ハバ、御陣屋出張可申モ難斗候処、其節ハ八幡、弘法堂ニ而早鐘撞候間、兼而左之村々ニ而人足手合置、早々御陣屋江馳集可申候。尤得(柄)道具等モ可令持参候。附り、夜分ニ候得者明松持参之事。宇賀、別府、美田尻、 0 0 黒木村誌 0 430 10 十景。一明松、草鞋、竹槍、得(柄)道具類、村々手合置可申事。一異国船何レノ浦方江相見候トモ、早速雲州江飛船差立候間、物井、大山明両所之内ニテ手安船一艘六人乗水主ニ而兼而手配置候事。一異国船島近メメ寄候ハバ、方角村々人別共、 0 0 黒木村誌 0 430 16 さらに仁夫里年寄役の県十、浦之郷年寄役三左衛門の両名を遠見番頭取に任命した。また浦之郷村と崎村とには大筒台場が設けられており、各村々には遠見番所があり、その道筋を掃除して歩行不自由のないように指示することも忘れてはいない。 0 0 黒木村誌 0 430 19 其の外、警報伝達の具体的方法、万一異国船より上陸した場合の処置に関する指示等が見られるが、美田、別府、宇賀の三村は特に具体的指示を受けている箇条がある。1三村で手安舟四艘、頑健なる水主ともに手配する事。2異国船が島に近寄り、 0 0 黒木村誌 0 431 1 火急の場合には、八幡社、弘法堂の早鐘を撞かせる。其の際は、あらかじめ宇賀、別府、美田尻、十景の各里において手配せる人足は直ちに陣屋(代官所)へ集合する。3物井、大山の二里においては、雲州へ差立てる飛船として手安舟一艘(六人乗。) 0 0 黒木村誌 0 431 3 を用意しておく事。などである。以上は、嘉永六年二月二十七、八の両日にわたって代官所より大庄屋笠置八郎左衛門へ達せられた指示の内容であるが、先に挙げたように嘉永六年は、五月より八月迄雨降らず、島前田畑皆無といわれた年であったことと 1853 227 嘉永6年 黒木村誌 癸丑 0 431 6 併せ考える時、当時この三村がいかに大きな社会不安に動揺していたかを想像することが出来るであろう。 0 0 黒木村誌 0 431 8 梵鐘供出 やがて安政三年になると、寺院の梵鐘を供出するよう命ぜられて来た。「諸宗触頭共江論書」(安藤猪太郎氏所蔵。)によると、諸国寺院ニ有之候梵鐘之儀、本寺之分並古来之名器、時鐘ニ相用候分相除、其余ハ大炮小銃ニ鋳換候儀ニ付、 1856 0 安政3年 黒木村誌 丙辰 0 431 10 今般再応被仰出候通、梵鐘之儀者仏門之重器ニ付、尋常之訳を以て可被及御沙汰御筋ニハ無之候得共、近来異国船度々渡来イタシ不容易御時節ニ付、格別之叡慮モ有之、万一心得違之輩モ有之候ハバ、於奉行所吟味之上、厳重之御沙汰等モ可被及候条、 0 0 黒木村誌 0 431 13 御触之趣厚相弁、心得違無之様末々寺院ニ至迄不洩様早々可申達候事。というのである。かくて安政三年七月二十九日、幣頭代駒月対馬を代官所に呼出し、浦之郷村山王大権現及び美田八幡大神宮両社の梵鐘を供出するよう手配すべく申渡した。 1856 729 安政3年 黒木村誌 丙辰 0 431 17 幣頭代駒月と浦之郷村との間には感情的な対立も加わって、それから幾多の曲折を経なければならなかったが、結局次のような請書が提出されている。 0 0 黒木村誌 0 433 10 同志の脱島 慶応三年十二月には王政復古の令が発せられ、翌四年一月には徳川追討の令が下されていた。島後の有志十一名は京師の大勢を探るべく、ひそかに四年二月三日重栖港を出航、夕暮に島前蔵の谷(宇賀村)に船を着けて和北(脇田)友平 1868 203 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 433 12 宅に投じた。蔵の谷を出航したのは十一日の暮であるが、その間、島前において策動した形跡は無く、島前代官所が眼前に在ることでもあり、おそらくは逼息していたのであろう。この一行は、はじめ長州に向わんとしたが天候に妨げられて浜田に 0 0 黒木村誌 0 433 14 上陸し、当時ここを占拠していた長州藩吏と折衝した。その結果、いま上京して画策することの不可なること、すでに大政は奉還されて徳川は朝敵となっていることを知り、徳川の親藩たる松江藩吏を逐って挙島王事に挺身する態勢を確立することが 0 0 黒木村誌 0 433 16 先決であると決意して、三月九日福浦に帰港した。 0 0 黒木村誌 0 434 8 島前庄屋中の態度 先に二月二十六日付を以て鎮撫使より公文(庄屋)両名の出頭を求められていたが、右の酔うな紛擾が惹起した為に、その出頭は延引していた。かくて隠岐国郡代を放逐した島後は、この際島前代官をも追放し、挙島一致の上、 0 0 黒木村誌 0 434 13 (そのころ鎮撫使西園寺公望はすでに京都へ帰っていた。)この時の島前の状況を豊田村和巻氏の手記(「隠岐島誌」所載。)には、次の如く記している。−夫より(筆者註。島後代表が帰島してから)別府、屋敷(屋号)へ参り候処、同村地下中不 0 0 黒木村誌 0 434 15 不残、島後より役所へ参候(押寄せて来る意。)と申て、家道具不残、他村親類方へ預け、山奥江ほり立小屋いたし、左様騒動には不及と色々論し候得共、不構宅をしまひ、御役所江も此地引取被下候様、大庄屋殿以申遣候処、御役所より被申候は、 0 0 黒木村誌 0 434 17 私共陣屋に罷居り、其方共の為に悪敷事ならば、何時にても引取可申候得共、何分御国江帰り殿様へ申訳無之ニ付、ケ条書を差出呉候様被申渡候。何分、其ケ条無之村ニ付、甚だ困入、ケ条不差出、物井親方宇野一郎宅に参り、一切雲藩役所へ不構、 0 0 黒木村誌 0 434 19 諸商人往来、公文往来ニ而商売いたし候。扨役所追払不申候はば、一旦島後へ同意致居候ニ付相済、役所も引取不申、又相談替に相成、公文不残、介九郎殿(海士村、村上助九郎。)も因幡様江参、相談ニ相成、雲州役所江鳥渡立寄呉候様被申、愈々 0 0 黒木村誌 0 435 2 出国の相談ニ相成、三(四)月一日物井浜より乗船、雲津へ入津仕、夫より陸上ニ而本庄へ参一宿、夫より松江へ罷越、直ぐ隠州方役所へ参り、右そうどう儀相咄し候処、他国へはやり不申、当国へ逗留可致旨、役所より被申候。−右の和巻氏手記に 0 0 黒木村誌 0 435 5 よると、当時別府辺における人心動揺の状態がよくうかがわれる。不測の事態が発生することを懼れ、大庄屋を通じて代官所役人の松江引揚を頼んでみたが、代官所より其の理由を具体的に箇条書にして出すように要求され、物井の宇野一郎(屋号、 0 0 黒木村誌 0 435 7 緒方(おかた)。宇賀村庄屋の家。)宅に集まって相談の結果、島前代官に関しては不問に附する事に決し、やがて島前十三ケ村の庄屋は、島前郷帳を携え、四月一日松江へ向ったのであった。 0 0 黒木村誌 0 436 1 監察使来島 五月十日、松江藩武力行使の報は、早くも二十日太政官に達し、すぐに監察使を派遣することとなり、一行な二十八日西郷に入って糺問を開始した。監察使下向の結果は、事毎に松江藩にとって不利となり、六月十四日監察使は副使を残して帰京した。 0 0 黒木村誌 0 436 4 島前島後協調成立 島前島後の協調が成立したのは此の時であった。島後側は、この機を捉えてふたたび強硬に挙島一致の態勢確立を島前に迫った。その上、監察使の内意もそこにあったので、八月二十八日島前の公文(この頃から庄屋の呼称を改めて 0 0 黒木村誌 0 436 6 公文というようになっている。)十三名は西郷へ渡り、ここにはじめて隠岐一円の結束が実現したのであった。かくて島前においても惣会所を設け、改船局を別府に置いた。はじめて壮士の組織もできて安達武太夫(舟越)、村上新十郎を隊長として 0 0 黒木村誌 0 436 9 指揮に当らせた。ここにおいて松江藩は、全く隠岐の実権を失ってしまったといってよい。 0 0 黒木村誌 0 436 11 焼火 監察使調伏事件 九月に入って、いわゆる監察使調伏事件が惹起した。松江藩の依頼により、島前各社において監察使調伏の祈祷が行われたというのである。前記和巻氏の手記によれば、雲藩取締島後御役所追払候後、焼火山、別府八幡、宇受賀大明神、 0 0 黒木村誌 0 436 13 神楽 又知夫里にて、社家中、御神楽御祈祷被成候。島後始め監察使御耳にも、調伏奉祈様専ら評判ニ付、島後にても下役所より公文中へ御尋有之候得共、調伏少しも存不申、然処監察使御渡海後、社家中御呼出しに相成、右祈祷御吟味下役所にて有り、 0 0 黒木村誌 0 436 15 備前(筆者註。知夫里の社家石塚備前)はたたかれ、其上しばられ、其外も不残番人付置、度々御吟味有之、追々雲人に被頼調伏祈候と申出候。一人別に口書認相成、監察使様へ差出しに相成。という。右のように監察使の取調は峻烈を極めた。 0 0 黒木村誌 0 436 17 その実は、松江藩より天下泰平の祈祷を依頼されたに過ぎなかったようであるが、ただ其の取調に際し無実の口供をしたとの理由で、当時島前二郡の社家幣頭であった宇野石見は、後日次のような所罰を受けている。六社明神幣頭、宇野市正。 0 0 黒木村誌 0 437 3 其方儀、隠岐国島後変動之後、人気伏穏ニ就而ハ、鎮静之祈祷、松江藩元預所役場より申請、其節右藩広野秀太郎より、島後変動之事件ニ付而ハ松江藩勝利を得度候間、右ヲモ差含施行候様頼談有之候得共、右ハ呪咀之筋ニ相当候間、天下泰平之祈祷 0 0 黒木村誌 0 437 4 可然旨、知夫村一宮明神主石塚備前外三人迄モ相談之上致施行、追々右次第監察使ヨリ糺問請候ハバ、事実有体可申立処、彼是其身之難渋ヲ差厭ヒ、右役々調伏之祈祷、秀太郎ヨリ頼請候抔、無跡形儀ヲ申立候始末不埓ニ付、急度モ可申付処、騒擾中、 0 0 黒木村誌 0 437 6 且赦前之儀ニ付、格別之寛典ヲ以、閉門七十日申付ル。なお石塚備前については、すでに横山弥四郎著「知夫村誌」に詳細が載っている。 0 0 黒木村誌 0 437 9 隠岐県設置 慶応四年九月、改元の大詔あって明治となった。十一月、隠岐の管理は正式に鳥取藩に移されることになり、明治二年に入って、島後は正月、島前は二月に、鳥取藩と松江藩との間に事務引継ぎが完了した。その後まもなく隠岐県設置が 1868 908 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 437 11 定まり、四月には知県事が赴任したので、ここに惣会所は幕を閉じた。 0 0 黒木村誌 0 437 12 神仏習合の否定から排仏へ 隠岐騒動が漸く鎮静したと思ったのも束の間のこと、引続き排仏毀釈の火の手が揚がった。元来、明治維新推進の原動力は、近世に至って勃興した国学に源流を発する。その中から輩出した多くの国学者、神道学者によって 0 0 黒木村誌 0 437 14 惟神の道が究められ、神武の創業に則って天皇の親政に還るという復古の精神によって政治運動が展開された。したがって古代以来結びついて来た神仏習合が否定されたのも当然であった。維新政府は明治元年早くも神仏の分離を令し、二年には神祇 1868 0 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 437 16 官を設けて神社制度の確立に着手したのであった。この神道国教政策の行政的措置として、今まで仏寺の持っていた封建的特権が剥奪される事になったが、ひいては他の政治運動とも関連して、ここに極端な排仏運動が起り、寺院仏具の廃毀にまで 0 0 黒木村誌 0 437 18 発展してしまったのである。 0 0 黒木村誌 0 438 1 僧侶の堕落 神道又は儒教の中から排仏論の生まれるのは自然であったが、排仏運動の激化した遠因の一つには、近世末における僧侶自身の堕落ということも数えられなければならない。近世末期になると、度々僧侶の堕落に関する触書が廻っている。 0 0 黒木村誌 0 438 3 例えば文化十二年の触書には、次のように述べている。僧徒之不律不如法之儀ニ付テハ、先年従公儀被仰出趣者、諸宗本山等ヨリ触達モ有之趣ニ而一統承知之事ニ候。然処諸寺院之内、間ニハ心得違、内江女ヲ差置不如法有之、且身持不行跡ヨリシテ 1815 0 文化12年 黒木村誌 乙亥 0 438 5 寺高請ニ相成寺付之田畑等売払、又ハ山林之木杯伐荒シ、其上不筋之儀ヲ申立、檀中江無心申懸候出家モ有之哉ニ相聞、僧侶不似合之儀、甚以不埓至極之事ニ候。全ク出家之正意ヲ失ヒ、伽藍ヲ汚シ、檀家之不信ト相成、歎ケ敷事ニ候。右様之族、 0 0 黒木村誌 0 438 7 自今急度相改、諸事相慎、是迄之汚名ヲ雪ギ仏祖之本意ニ叶ヘ候様可被心懸、不如法之儀ニ付而ハ、兼而従公儀被仰出儀有之、御書付写左ニ相記シ差廻候間、与得承知可有之候。諸寺院之輩江天明八年御沙汰之趣有之候而以来、諸家等慎之程別而堅固 1788 0 天明8年 黒木村誌 戊申 0 438 9 可有之儀ニ候処、其後モ不如法之次第共相顕、夫々ニ重キ御仕置ニ被取候儀、既ニ数度ニ及歎ケ敷事共ニ候。尤本寺触頭ハ勿論之儀、惣而所化僧ニ至迄、其法之師兄弟又ハ法類或ハ寮主等悉ク銘々其因ハ有之儀ニ候得共、破戒不如法之事等ハ其敬慕之 0 0 黒木村誌 0 438 11 不行届所モ又不軽事ニ候間、以来ハ其筋々ヲ以、本寺法類師敬等敬戒之不及沙汰ニモ等閑之儀モ候ニオイテハ、是又其科ハ不及沙汰儀ニ候条、其趣相心得、法類一同風俗弥堅固成様、精々厚ク申合可相聞候。右之趣、天明八申年御沙汰之趣ヲ以申渡候 1788 0 天明8年 黒木村誌 戊申 0 438 14 処、其後不如法成物(者)モ不少候間、此度御老中伺之上、猶又申達候間、夫々行届不取締無之様可致候。七月。右者寺院不洩様ニ廻達有之承知之上、寺院号之下江被致印形、無住ハ兼帯ヨリ代判可有之、見届ヨリ御役所江可被差戻候。以上。亥八月。 0 0 黒木村誌 0 438 18 長井太右衛門。追啓、本文之趣ハ大庄屋ヨリ村々庄屋ヘ為知置、此上不埓之儀有之出家ハ、其村々役人并旦頭ヨリ可申出旨申渡置候間、両島寺院之内、間ニハ不律如法之出家モ有之哉ニ相聞、依之、本文写之趣、此度寺院一統江相触候。此上ニモ心得 0 0 黒木村誌 0 438 20 違之族有之候ハバ、村役人旦頭ヨリ大庄屋迄可申候。右之通、村々庄屋年寄并旦頭令承知候様可取計候。以上。亥八月十九日。別所群右衛門。長井太右衛門。(前記、「渡辺家所蔵触書抄写」)さらに文政六年、大庄屋官蔵は島前村々の庄屋へ次の 0 0 黒木村誌 0 439 4 触状を廻している。態々触置候。(中略)一去秋御触流シ有之候村々諸寺院方不如法之儀、未タ我侭ニ被成候方々モ有之趣、如何思召違ニ候哉、村役人、頭旦那ヨリ不申聞候共、身分御慎之儀ハ可有之筈之処、不相止趣相聞ヘ、追々四国遍路抔名付、 0 0 黒木村誌 0 439 7 如何様ノモノ相廻リ可申モ計難ク御座候ヘハ、聞付次第此方ヨリハ御注進申上候間、此段申達シ置候条、能々御心得可有之候。此状早々御順達、見届宇賀村ヨリ早速御返シ可有之候。以上。二月十七日、大庄屋官蔵。別府、美田、浦之郷、知夫里、崎村、 0 0 黒木村誌 0 439 11 布施、太井、知々井、豊田、宇つか、海士、福井、宇賀。右村々庄屋中。追啓、村役人始メ拙者共、後難之儀、如何恐敷御座候得ハ、手前身分第一ニ御座候間、少モ不包御愁訴申上覚悟ニ御座候間、村方物入ニ罷成候段ハ兼而御承知可有之、此段申達 0 0 黒木村誌 0 439 14 シ置候。(全上)右の文書によると、前年の文政五年にも寺院不如法の儀に関する触書が廻っている事がわかる。特に今回は、村役人はじめ自分共、後難を受ける事が恐ろしく、手前身分第一と考えているので、もし村方寺院において不如法の儀あらば、 1822 0 文政5年 黒木村誌 壬午 0 439 17 少しも包み隠しせず御愁訴申上げる覚悟である、と附け加えているが、これは必ずしも脅かしのみではなく、僧侶不行跡の事実が、ある程度大庄屋の耳に入っていたからの事であろう。なお別府→宇賀の順路は普通島前代官所より触書が村継をもって 0 0 黒木村誌 0 439 20 順達される径路である。約二十年経って天保十三年には、また次の触状がある。 0 0 黒木村誌 0 441 13 排仏毀釈 明治四十年、かって隠岐騒動の首謀者の一人であった横地官三郎が、時の隠岐島司へ報告した「隠岐排仏顛末書」に中に、次のような記載がある。−明治元年春一月、朝敵討幕ノ詔勅下賜ハリテヨリ人心恟々容易ナラザル形勢ニ付、同年三 1868 100 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 441 15 月十九日非常防備ノ為同志集合ノ際、不幸ニシテ故松江藩ト隙ヲ生ジ、同年五月一日彼謂ハレ無ク藩兵凡ソ一千ヲ挙テ我同志ヲ討伐セントス。此時仏徒ノ輩私力ニ藩兵ニ与シ同志ニ敵対スルノミナラズ、或ハ藩兵ヲ指導シテ同志ノ不在托ニ乱入シ、戎 0 0 黒木村誌 0 441 17 器斧等ヲ以テ恣ニ家作ヲ破壊シ、衣類金銭器具等ヲ掠奪シ去ルコト既ニ十数戸ニ及べり。是皆仏徒ノ指導ニ出タル事ハ当時監察使ノ取調ニヨリ明ラカナリ。−また明治四十年、隠岐島司東文輔が、前記の横地官三郎および松浦荷前諸氏の意見を徴して 1907 0 明治40年 黒木村誌 丁未 0 442 1 編纂した「隠岐国維新変動并廃仏概要誌」には、−正義党ハ此同志ノ称ニシテ当時皆隠岐島後ニ在テ正義ヲ唱ヘ以テ此挙ニ出テシナリ。又私ニ松江藩ニ内応スル出雲党アリ、一ニ之ヲ因循派ト称ス。是レ松江藩ニ阿附スルノ僧侶蔭ニ其宗教ニ因テ之ヲ 0 0 黒木村誌 0 442 4 誘惑連衡スルモノナリ。−と述べている。つまり隠岐騒動の渦中にあって、急進派が松江藩の武力と対決した時、温和派は暗に松江藩と脉絡を通じ、これを支援したのである。前者を代表するものが神官であったのに対し、後者の背後には仏寺僧侶の 0 0 黒木村誌 0 442 9 隠然たる勢力があった。やがて松江藩が、隠岐において実権を喪失すると、当然仏寺僧侶に対する圧迫が加えられ、排仏の名の下に寺院の経済基盤は瓦解した。明治二年三月頃より島後に起った排仏毀釈騒動は、五、六月に至って島前に波及した。 1869 300 明治2年 黒木村誌 己巳 0 442 13 美田、別府、宇賀の三村とも、その災厄に曝されたのであった。美田尻神社神主宇野常一郎の手記「維新ノ際改称ノ事由ニ就テ」の中に、(前略)一当社ハ島前一般ノ崇敬厚カリシ事。維新ノ頃迄ハ両部ノ内ニテモ当社ハ特ニ仏家ノ勢力盛ナリシコト、 0 0 黒木村誌 0 442 18 他ノ一般神社ニハ厳禁ナリシ忌中ノ者ト雖モ当社ヘハ参詣自由ニユルサレシ事。二、維新当時、当国ハ特ニ勤王神道復興ノ気勢揚リ、永ク仏家ノ勢力下ニ雌伏シタル神道家並ニ壮士ノ間ニ極端ナル廃仏論起リ、暴動的行動トナリ、寺院並ニ路ノ石地蔵 0 0 黒木村誌 0 443 2 ヲ破壊シ、苟モ仏道趣味深キ神社ハ廃滅セズンバ己マザル如キ形勢アリ、其ノ鋭鋒ハ避ケ難キモノアリシ事。三、当社ハ、(一)ニ記シタル如ク仏家ノ勢力盛ナリシ為メ廃仏論者ノ暴動的鋭鋒ノ焦点トナリ、之ヲ避ケテ当社ヲ維持スル為メニ地名ヲ 0 0 黒木村誌 0 443 5 捧ケテ改称(現在、美田尻神社)シ奉ルニ至リシモノト推測スル識者少ナカラズ。(後略)(安藤猪太郎氏所蔵。)と述べている。改称した事由の当否は別として、当社が両部神道を奉じていたために毀釈の対象となった経緯は右の記載からも想像 0 0 黒木村誌 0 443 8 することができる。現在でも当地の山畑叢林には多くの五輪石が落葉の下に埋もれ、或は路傍に高く積まれているのが見られるが、この時三村の寺院はことごとく廃寺となったのである。 0 0 黒木村誌 0 443 11 神宗門 排仏運動のたかまりつつある最中の明治二年五月、島前島後の公文総代は次のような願書を提出している。奉歎願一札之事。人別宗門御改之儀者、旧例之通、是迄国民一同堅相守居申候。然ニ愚昧之私共奉申上候者誠ニ恐縮之至ニ奉存候ヘ共 1869 500 明治2年 黒木村誌 己巳 0 443 13 、皇国之民タルモノ神道之外ニ可尊信道ハ無御座、国神之外ニ可崇敬神ハ無御座筈ニ而、群胡(ママ)神本尊抔ト相称候儀、何共残念至極ニ奉存候間、今般王政復古大政御一新之御場合ニ御座候ヘバ、何卒当国之儀者、人別宗門御改僧徒ニ被任候旧法 0 0 黒木村誌 0 443 15 御廃止被為下候様奉状願候。元来、切支丹邪宗門之儀ハ、悪而茂可悪事ハ兼而一同奉承知罷在候間、村々役人共ニ而毎年一人別厳敷吟味仕、一人茂違背之者無之候様堅相改可申候間、願之通御許容相成候様御執成之程奉願候。以上。明治二年巳四月。 1869 400 明治2年 黒木村誌 己巳 0 443 19 島後惣代、公文、弥次郎印。公文、政一郎印。島前惣代、公文、一郎右衛門印。御役所。(美田村高田神社神主宇野民部「王政御一新ニ付当明治二年五月、御改革之宗門帳写」。)この前年、慶応四年三月十五日の太政官高札(第三札。)には、 1868 315 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 444 3 第三札。定。一切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事。慶応四年三月。太政官。とあって、切支丹宗門に対する新政府の態度を明かにし、従前の通り引続き禁制たるべき旨を公示している。明治新 1868 315 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 444 7 政府が諸外国の要求に屈してキリシタン禁制の高札を撤去したのは明治六年のことであった。近世においては切支丹禁制の為、幕府は寺院と人民との関係を檀家制度化し、宗門人別改を寺院の役目とした。この特権によって、寺院は人民に対し強盛な 1873 0 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 444 10 力をもったのである。ところが右の歎願一札によると、宗門人別改に関するチ権を仏寺僧侶の手から剥奪し、村々役人共の手によって行いたいというのである。が、この「村々役人共」という文言には、村役人ばかりではなく氏神祠官も含まれていた 0 0 黒木村誌 0 444 12 のである。それは次の差戻しの付紙を見れば明かである。右の歎願一札に対し隠岐県役所からは、願書之通リ聞届候。猶宗門之儀、氏紙祠官、公文、年寄申合可遂吟味事。との付紙を貼布して差戻して来た。また島後両公文からも島前公文惣代に対し、 0 0 黒木村誌 0 444 16 別紙願書御付紙之通、御聞届ニ相成候間、此段於其島茂村々触達可有之候。以上。島後、安部弥次郎。大西政一郎。島前、宇野市郎右衛門殿。と申送って来た。宇野市郎右衛門は当時の宇賀村公文である。これがいわゆる「神宗門」と呼ばれたものであって 0 0 黒木村誌 0 445 4 、宇野民部は、右者明治二己巳年京都より当国へ眞木直人と申知県事様御渡海被為有候節、右願書之名前三人を惣代として右知県事様へ及歎願候に付、御許容有之、是則神宗門と申始也。と説明している。なおこの頃から、元祿四年以降用いて来た「 1869 0 明治2年 黒木村誌 己巳 0 445 8 庄屋」を改め、元祿以前(中世も含めて。)の「公文」の呼称に復したが、これも復古精神の表れの一つである。 0 0 黒木村誌 0 449 1 隠岐県設置 間もなく明治二年二月隠岐県が設けられることになり、知県事に眞木直人が任命された。池田中納言。今般徴士眞木直人江隠岐知県事被仰付候ニ付、同人罷下候上是迄其藩ニ而取扱来候御用向引渡可申旨御沙汰候事。巳二月。眞木直人は 1868 200 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 449 5 久留米藩士眞木和泉守の弟、久留米水天宮の社家出身であるという。四月眞木知県事が赴任して来て西郷に隠岐県の役所を開いた。ここを隠岐県裁判所とよび、聴詔、租税、社寺、営繕、庶務、書記の各役を任命して行政事務に当らせた。聴詔役は 0 0 黒木村誌 0 449 7 下より諸願事取引、罪科等判断の役、租税役は年貢運上物取調、諸勘定元締役、書記役は諸願書その外すべての文書作成、一切の触達、兵隊に関する事務をとる役であった。島前別府の旧陣屋には裁判所の出張所が置かれた。維新騒動以来、半自治機関 0 0 黒木村誌 0 449 10 として有志の掌握下にあった会議所、惣会所はここに廃止され、壮士は新しく県兵と改称し、隊(五〇人)、旅(二隊)から成る「隠岐団」を編成して各種警衛の任についた。 0 0 黒木村誌 0 449 12 その直後、排仏騒動がおこって隠岐の行政はふたたび混乱したが、明治二年八月隠岐県は廃止されて大森県に合併されることになり、大森県出張所が置かれた。今般当県裁判所被廃、大森県出張所と被相改候、偖残詰員は山根春造以下也、右に付諸願 1868 800 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 449 15 諸伺諸届等は是迄之通当出張所へ(註。是迄隠岐県裁判所と唱候得共今般隠岐県出張所と被改候)可差出候者也。九月十八日。裁判所。両嶋村々公文中。(井上文書)太政官は旧浜田藩と大森代官の管轄下にあった旧天領に隠岐を併せて、明治二年八 1869 800 明治2年 黒木村誌 己巳 0 449 18 月三日大森県を設置し、元隠岐県権知事(七月知県事を改称)眞木直人は大森県権知事に任命され、十月二十七日大森町に大森県庁を開設した。この前、六月以来眞木直人は上京中であり、九月境港まで下ったまま隠岐へは渡らず、大森県へ直行した。先月三日当県被廃、大森県。 0 0 黒木村誌 0 450 2 (註。大森県権知事に同月同日宣下候事)管轄相成候間、権知事様伯州境迄御下向、夫から直に右県へ御渡海被遊候、大参事様並諸役員の境津迄罷越、夫から御一同直に県へ御下り相成候、此段為心得相達候者也。右之通無洩小前之者に迄可相触者也。九月十八日。裁判所。 0 0 黒木村誌 0 450 9 両嶋村同里長中。(全上 この間、県兵は廃されたが、この改廃によって旧県兵の中に大きな不満が醸成されたらしい。明治二年十二月大森県出張所は、村々公文へ、(前略)今般府県兵被廃候ニ付島中同志並県兵深く望を失ひ力を落し可申候得共、全く天下一般之御制度無拠 1868 200 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 450 11 次第ニ付、何れも御趣意を奉戴し、速に兵器を解、本業に復し、稼穡可相勤勿論之事ニ候(中略)(「隠岐島誌」)と申渡しながら、つづいて尚以余力文武練習致し候義ハ来かる間敷候、尤知事、大参事ニ於ても御含之儀も有之、猶拙者共ニ於も是余 0 0 黒木村誌 0 450 14 島方之為筋精々尽力可致候間、萬端心得違無之(後略)と、意味深重な言葉をのべているのは、旧県兵の不満をおさえるためであったと思われる。「知事、大参事においても御含の儀これ有り」というのは、県兵に代って捕亡を設けることであった。 0 0 黒木村誌 0 450 17 同年同月出張所が、元県兵隊長へあてた達しによると、先般知事上京之節、県兵御廃止之処被蒙朝命候得共、猶被申立置候処モ有之ニ付、先守衛人数と相唱候様高梨東太を以被申越置候所、此度更ニ捕亡百人被差置候(後略)といい、同時に出張所の 0 0 黒木村誌 0 450 21 大属(首席)は公文へ内意として、捕亡方人員撰挙之儀ハ知事様始深御考之程も有之、、、、当時壮健或ハ文武相励御用可相立もの撰挙致し候得共、未タ官給之配当も無之候ヘハ当時無給勤之事ニ付、畢竟廃止ニ相成候兵隊之引残と相心得、於村々も 0 0 黒木村誌 0 451 2 元兵隊同様成丈捕亡人員ニ助致から致し御用為相勤候心得に有之度、此旨別ニ公文中ヘ内意相論置候也。と申送っている。このような経緯によって、県兵の代りに捕亡が置かれることになった。 0 0 黒木村誌 0 451 5 浜田県所管 明治三年一月、大森県庁が浜田へ移され浜田県と改称されたので、隠岐はそのまま浜田県所管となり、西郷に浜田県出張所が設けられた。今般大森県庁浜田表得相移シ改テ浜田県ト可称事。正月。右之通御達有之候間此旨可相心得者也。 1870 100 明治3年 黒木村誌 庚午 0 451 5 浜田県所管 明治三年一月、大森県庁が浜田へ移され浜田県と改称されたので、隠岐はそのまま浜田県所管となり、西郷に浜田県出張所が設けられた。今般大森県庁浜田表得相移シ改テ浜田県ト可称事。正月。太政官。右之通御達有之候間此旨可相心 1869 300 明治2年 黒木村誌 己巳 0 451 9 得者也。二月十五日。浜田県、出張所(「井上文書」) 0 0 黒木村誌 0 451 13 島根県所管 明治四年七月、廃藩置県の詔書が発せられ、出雲には松江、広瀬、母里の三県が置かれた。十一月には県の統合が進められて新しく出雲、隠岐を併せて島根県とすることになり、隠岐は浜田県を離れることに定まったが、はしなくもこの 1871 700 明治4年 黒木村誌 辛未 0 451 15 措置には大反対が起った。 0 0 黒木村誌 0 451 16 鳥取県所管 隠岐騒動を通じて松江藩と戦った隠岐国が、島根県所管になることに大きな危惧を感じたのも無理からぬことであった。島の内外に猛烈な反対運動燃え上り、太政官もその趨勢を察知して、翌十二月隠岐の所管を島根県から鳥取県へ移す 0 0 黒木村誌 0 451 18 ことにした。しかし島根県は県庁の開設がおくれ、まだ旧浜田県から隠岐国事務の引継も終っていなかったので、鳥取県は直接浜田県より引継ぐことになり、完了したのは明治五年四月であった。西郷には鳥取県隠岐国支庁が設置された。 1872 400 明治5年 黒木村誌 壬申 0 452 1 島根県所管 明治九年四月浜田県を島根県に合併、さらに八月には鳥取県もまた島根県に合併された。いままで鳥取県の所管であった隠岐も当然島根県に編入されたわけである。島根県はここに雲、隠、石、因、伯の五ケ国を含む山陰一円の大県となった。 1876 400 明治9年 黒木村誌 丙子 0 452 3 爾来隠岐の行政所管は現在に至るまで変らず、明治十四年九月、因伯二国を所管をする鳥取県が分離したが、隠岐は引続いて島根県に残ったのである。 1881 900 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 455 20 初期の公文 初期の公文は、明治五年戸長制が布かれるまでであるが、それを述べる前に明治初年各村の公文をあげておこう。新しく生まれた美田村東組の公文は、はじめ岩佐久左ヱ門であるが間もなく岩佐久一郎に代った。また西組では新しく安達 1872 0 明治5年 黒木村誌 壬申 0 456 2 武雄が公文となった。中組公文は前文書にあった笠置台次郎で、中世以降近世を通じての美田村公文(庄屋)筋の家である。次に別府村では、はじめ近藤仙右ヱ門、のち近藤与次郎に代わり、宇賀村は隠岐騒動のころは宇野守信、間なくその後を宇野 0 0 黒木村誌 0 456 5 操がついでいる。 0 0 黒木村誌 0 456 6 区制実施 明治五年になると庶政一新に伴なう地方行政制度の改革が行われ、その最初にあらわれたのが区制の実施であった。これは明治四年四月の太政官布告によるもので、数ケ町村を併せて行政単位としての「区」とする大行政区制の採用であった。 1871 400 明治4年 黒木村誌 辛未 0 456 8 しかし各村が解消したのではなく、村は元のままで区に齣ョしたのであって、要するに「区」は数村の連合体を構成したに過ぎない。各区には区長、副区長が任命され、各村に新しく設けられた戸長を通じて区一円の行政に当った。明治五年四月隠岐 1872 400 明治5年 黒木村誌 壬申 0 456 11 は鳥取県第百八区より第百十二区までに入り、美田村ほか二村は鳥取県第百八区美田村、、、、別府村、、、、宇賀村となった。さらに明治七年には大行政区制が改正されて、大小区制が採用された。隠岐は鳥取県第十七大区となり、美田村ほか二村 1874 0 明治7年 黒木村誌 甲戌 0 456 14 は鳥取県第十七大区小一区美田村、、、、別府村、、、、宇賀村となった。大区、小区にはそれぞれ大区長、小区長が置かれ、各村戸長の上司となった。この区制は明治十二年、郡制の布かれるまでつづく。 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 456 16 戸長制 明治五年四月、区制の実施と同時に各村においては、それまでの公文、年寄という近世村役人が廃止され、その代わりに新しく戸長が任命され、戸長は戸長役場で村の行政事務をとった。戸長は、はじめ元の公文、年寄の中から選ばれることが 1872 400 明治5年 黒木村誌 壬申 0 456 18 多かったが、形式的には官選であった。もちろん従来の通り村の代表機関としての昨日も持っていたが、官選の結果、国政事務の負担が次第に多くなり、おのずから中央集権国家組織の末端に位する行政責任者としての性格が加わって来た。美田村は、 0 0 黒木村誌 0 457 3 前述のように明治のはじめ東、中、西の三組に分かれそれぞれに新しく公文が誕生したが、明治五年の改正とともに、三人の公文に代わって一名の戸長が任命され、美田村行政組織の三分割はここに終止符をうった。なお戸長制は明治三十七年五月一 1904 500 明治37年 黒木村誌 甲辰 0 457 5 日町村制施行によって村長にかわるまでつづく。区制実施期間の戸長には、美田村に安達武雄、別府村に尾関権七、宇賀村に宇野節雄がある。 0 0 黒木村誌 0 457 7 壬申戸籍(じんしんこせき) 明治五年四月の区制実施が、明治四年四月の太政官布告(一七〇号)に準拠するものであることは前に触れた。この布告によると、各地方を区に分け、区内の戸数、人員、生死、出入などを調査させることになっており、 1872 400 明治5年 黒木村誌 壬申 0 457 9 地方行政改革の最初にあらわれた区制実施の眼目の一つは、全国総体の戸籍作成にあったわけである。隠岐では、近世の寺院僧侶による宗門人別改帳に代わって明治二年神宗門改が実施されたが、その実績は直接この戸籍作成作業につながった。 1869 0 明治2年 黒木村誌 己巳 0 457 16 重要な点は、家を単位としたことであって、すべての家に戸主を定め、戸主の責任において家族成員の名、性別、戸主との続柄、職業、宗教等を申告させ、さらに戸長が集計整理したのであった。以上の集計整理は明治五年中に完了し、その年の干支 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 458 2 因んで壬申戸籍と呼ばれ、現在の戸籍の基盤になった。美田、別府、宇賀三村の壬申戸籍は、現在も保管されているが、当時の戸口状況は第三〜四六表の通りであった。 0 0 黒木村誌 0 458 4 封建的身分制の撤廃 封建社会の身分制といえば、もちろん士農工商であり、農民階層の中には本百姓水呑百姓体制が存在した。一面においては、このような社会制度の改革も進められた。従来の封建的身分制を解いて華族、士族、平民の三つとし、 0 0 黒木村誌 0 458 6 身分と職業を分離して自由に職業を選ぶことを許した。あるいは庶民の姓を称することを認め、賎民制(穢多非人など)廃止、人身売買の禁止など、不完全ながら封建的身分制の束縛から解放して四民平等を謳った。ここでは一例として、美田村における 0 0 黒木村誌 0 458 8 称姓についてのべよう。 0 0 黒木村誌 0 458 9 称姓の一例(美田村) 庶民の姓を称することを許したのは明治三年であったが(八年には平民も必ず姓を称することにした)、先に美田ように明治四年六月当時、美田村西組において公に姓を称したのは、まだ公文、年寄だけであった。美田村小向 1870 0 明治3年 黒木村誌 庚午 0 458 12 の神主宇野幸彦は、幼年より別府に私塾を開いた実父忍古彦の膝下にあって修学し、文筆に長じていたので、二十一、二才で美田村壬申戸籍作成の下調査を担当したが、後年丹念に誌した日記の中で次のようにのべている。(前略)維新トナリテハ 0 0 黒木村誌 0 458 14 一般苗字ヲ附スル事トナリ、明治五年戸籍ヲ始メテ編成セラレ、幸彦等モ該編成ノ下調ニ与リシニ、各里ニ苗字ヲ存シ居ルモノハ僅カニ、二三ニ過ギズ、其他ハズベテ、屋号ヲ以テスルアリ、又ハ其人ノ風采或ハ異名等ヲ以テシ、下調ヲ為スモノヘ出 1872 129 明治5年 黒木村誌 壬申 0 458 16 放題ヲ以テ冠ラセ(当時ハ大概無筆者ニテ、自家ハ何レノ別レニシテ、何ノ苗字ヲ名乗等ノ事ヲ不知が故ナリ)編成ヲ了リタリ、当時小向里モ同様ナリシヲ、拙者戸長奉職中(筆者註。明治12年より同16年まで)分リ得ル分ダケハ訂正ヲ為サシメタリ。 1872 129 明治5年 黒木村誌 壬申 0 458 18 右の記述によると、明治五年壬申戸籍作成に当っては、すべての戸主に姓を称えさせたらしく、しかも一般には相当の混乱をみせたようであった。屋号をそのまま姓としたり、風体の特徴とか仇名をいい加減に姓をして届けたりした。したがって当時 1872 129 明治5年 黒木村誌 壬申 0 459 1 は、かならずしも同族同姓を称したのではなく、後に改姓したものもかなりいるらしいのである。なお参考までに、同氏の調査による「古来ヨリ有リタル苗字」を次に紹介しよう。一舟越里。安達(モト足立ト書キタルモ、後世ニ至リ之ヲ書ス。此姓 0 0 黒木村誌 0 459 3 ノ本家ハ同里問屋ナランカ)、塚本(此ノ本家ハ上ノ北ナラン)、八幡(此里ノ本家ハ小路ナルモ、小路ハ大津面屋ヨリ分レタリト云フ)、以上三姓アリ。一小向里。木村(宗家ハ面屋ナリ)、松浦(宗家ハ大小向ナリ。同家ハ住古ハ勢力家ニシテ旧 0 0 黒木村誌 0 459 5 家ナリト云フ)、宇野(当里ノ宗家ハ代宮屋ニシテ、舟越、小向ノ宇野ハ代宮屋ノ分家ナリ。而シテ代宮屋ハ別府ナル宇野ノ宗家龍麿が家(飯田)ヨリ出タリ)、野津(宗家ハ徳田屋ナリ)、以上四姓。一大津里。八幡(宗家ハ面屋ナリ。)渡部(宗 0 0 黒木村誌 0 459 7 家ハ杉本ナリ。此苗字モ確乎タル根拠ナシ。聞ク所ニヨレバ、同家が海士村崎村ナル中良ヨリ土地ノ株ヲ買入レタルヨリ、同家ノ苗字ヲ名乗リシモノト云フ。シカシ中良ノ苗字ハ渡辺ニテ文字相違セリ。文字知ラヌ者が書キ誤リタルナラン。)、月阪 0 0 黒木村誌 0 459 8 宗家ハ代宮屋ナリ。モト美田尻神社ノ神主家ナリ。)石塚(宗家ハ宮本ナラン。同家ハモト大山神社ノ宮守ニシテ旧家ナリ。シカレドモ戸籍編ノ当時無筆ナリシヨリ、是等ノ事ヲ知リタルモノナキヨリ屋号ノ宮本ヲ以テ苗字トナリシタリ。宮本ニ次ク 0 0 黒木村誌 0 459 9 モノハ石塚禎二郎方ナリ。此家ハ正徳ノ頃ハ高田神社ノ神主ニアリシナリ。)、外ニ勝部ト云フ姓アレ共、是ハ或人が物好ニ付ケタルナリ。姓四アリ。一市部里。笠置(宗家ハ即チ大江ナリ。)、三沢(宗家ハ中ナリ)。此里ニ石塚保丸ト申アリ、此 0 0 黒木村誌 0 459 11 家ハマサシク笠置ノ分家ナリシニ、此家ノ二代目ニ大護と申者アリ、初代周司(即チ大江ヨリ別レタルモノ)ガ大山神社ノ神主名ヲ大江ヨリ譲ラレタルヨリ大山神社ノ神主タリ、大護ハ知夫村ノ仁夫里ナル代宮屋ヨリ養子ニ参リ、当時維新ノ際ニテ神 0 0 黒木村誌 0 459 13 職ノ盛ナラントスル傾向アリシガ故ニ、大山神社ノ棟札ニ住古ヨリ石塚ト云フ(即チ大津ノ宮本ナリ)神主ノアルヨリ、、、、本姓ノ笠置ヲ捨テテ石塚ヲ名乗リシナリ。以上姓二ナリ。一波止里。松浦(宗家ハ上ナリ)ノ外ナシ。一大山里。萬田(赤 0 0 黒木村誌 0 459 18 一美田尻里。近藤(宗家ハ面屋ナリ)、岩佐(宗家ハ上ナリ)、村尾(宗家ハ下ナリ)其外ニ安藤、渡部二姓アレドモ住古ヨリノモノニハアラザルベシ。以上三姓ナリ。 0 0 黒木村誌 0 460 1 徴兵制 壬申戸籍の作成は、直ちに徴兵制の実施に結ばれた。徴兵令の布告および告論の発せられたのは明治五年十一月二十八日、実に富国強兵政策強行の出発であったが、これより前、徴兵規則の発布(明治三年)によって明治四年には、隠岐でも 1872 129 明治5年 黒木村誌 壬申 0 460 3 島後では六名(島前は不明)の者が、「徴兵人撰御定相成」り、下調査をはじめているらしい。徴兵制の強行は、はじめ大きな不安動揺を与え、当地でも徴兵を忌避し消極的な抵抗が試みられた。徴兵令は、家制度を保護するために、一家の戸主または 0 0 黒木村誌 0 460 6 嗣子などの免役を許したので、親親類故関係をたどって養子となり、養子縁組を行い、または廃家を興すなど、種々の方策を考えて兵役をまぬがけようとした。 0 0 黒木村誌 0 462 9 郵便事務の開始 郵便事務のはじめらけたのは明治五年七月一日、知夫、菱浦、崎とともに別府郵便取扱所の設けられてからである。その任に当ったのは、それまで別府公文をつとめていた近藤与二郎であった。当時創業の状況は極めて頼りないもので、 1872 701 明治5年 黒木村誌 壬申 0 462 11 隠岐と本土との郵便運送も幸便を待って此に托送する状況であったから、東京と当国間の信書の往復には二十日、または三十日、甚しきに至っては二三ケ月を要することも珍しくなかったという(「隠岐誌」)。別紙ノ通御達ニ相成候条此段相達候間、 0 0 黒木村誌 0 462 14 本文御承知ノ上御順達、見留方ヨリ早々御返却可有之事。別府四等郵便役所。別府、美田、浦郷船改所御中。(「隠岐誌」)右の文書は、次に示す(別紙本文)ように明治六年のもので、すでに別府郵便取扱所は、別府四等郵便役所と改称されていた。 1873 0 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 462 19 船改所というのは、この数年前から各浦々に設けられていた役所で、入津、出港の船を改め、船頭、積荷等を検し、これを点検帳に記載する事務を執っていた。右の通達は別府四等郵便役所から、別府、美田、浦郷の船改所へあてたもので、内容は 0 0 黒木村誌 0 463 2 別紙(次に示す)の通り御達しがあったので本文をよく読み、別府、美田、浦郷はと順送りの上、最後の見留方(浦郷)から早々返却されたい、というのである。そこで別紙(本文)というのは次のようなものである。別府郵便取扱所。隠岐国各郵便 0 0 黒木村誌 0 463 6 取扱所ヨリ伯耆国境同取扱所迄ノ郵便御用物便船ニテ差立候規則ニ付、出帆ノ節ハ其都度最寄取扱所へ船頭罷越シ、御用ノ有無承候上出帆様、兼テ相違置候得共、無其儀御用向差支甚ダ不都合ノ事ニ候、自今出帆免状受取候節、左ノ雛形通り切符船改所ニ 0 0 黒木村誌 0 463 8 於テ相渡候、尤モ風波ノ模様ニヨリ幾分カ相立候トモ揚錨ノ前取扱所へ差出候ニ付、御用物並ニ切符有無トモ相記シ、直ニ可相渡事。但本月十五日ヨリ切符相渡候事。酉年(筆者註。明治六年)十二月五日。鳥取県隠岐支庁(「隠岐誌」)雛形は美濃 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 14 紙八ツ折丈のもので、何月何日。船改所印。一何丸。隠岐国何郡何村。船頭誰。御用物相渡候、或ハ無之候也。という形式である。本文記載の内容をみると、隠岐と境の間の郵便物運送は、隠岐の浦々を出航する便船の船頭が、出帆前かならずその度 0 0 黒木村誌 0 463 21 毎に一番近い郵便取扱所へ行って、運送すべき郵便の有無を聞き、郵便物のある場合にはそれを受取ってから出帆しなければならないことになっていたのである。しかし、そけは言うべくぢて行われ難いことであった。そこで考えられたのが雛形の 0 0 黒木村誌 0 464 2 ような切符である。船頭が出帆許可を得るために船改所へ行くと、船改所では出帆免状とともに切符を船頭に渡す。船頭は錨をあげる前に、その切符を持って、もよりの郵便取扱所へ行かなければならない。郵便取扱所では、その切符に郵便の有無を 0 0 黒木村誌 0 464 4 記入して船頭に渡す、という仕組みである。だがこのような苦肉の策がどれほどの効果をあげ得たか疑問であろう。隠岐と本土間の郵便物運送が定期的になったのはこの後、隠岐汽船株式会社の誕生を待たなければならなかった。島内における通信 0 0 黒木村誌 0 464 8 運送の不便も同様であった。そこで明治十二年、四郡郡役所が西郷に設置されるに至って、郡役所と各戸長役場間を毎月七回飛脚を巡回させ、信書速達の便を計ったという。以上のほか万般にわたって庶政一新の途についたが、教育制度の樹立と地租 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 464 10 改正については、次に項をあらためて概観することにしよう。 0 0 黒木村誌 0 464 13 宇野忍古彦の私塾 はじめて日本に学制の頒布されたのは明治五年八月である。それまでの子弟教育は、いわゆる寺子屋(私塾)教育と呼ばれるものであった。いま一例として宇野幸彦手記(安藤猪太郎氏所蔵)によって別府村の私塾時代の様子を紹介 1872 800 明治5年 黒木村誌 壬申 0 464 15 しよう。それは宇野忍古彦の私塾であるが、別に寺子屋(私塾)としての名称があったわけではなく、宇野幸彦はそれを「仮に飯田隠居と申すべきか」といっている。飯田は宇野家の屋号で、別府村の社家であった。宇野幸彦は忍古彦の三男として嘉永 0 0 黒木村誌 0 465 1 三年に生れ、長ずるまで父の家塾にあって教育を受けたのである。宇野忍古彦は、若くして京都に遊学し北田留正の門に入って国学を修め、田中維貞について漢学を学んだ篤学高潔の人であって(別府小学校編「郷土誌」)、家業を譲り隠居の身となると、 0 0 黒木村誌 0 465 3 子弟を集めて教育することを老後の楽しみとしたのであった。したがって私塾の経営によって生計を樹てようとしたのではない。忍古彦が私塾を経営した時期は安政末年から明治初年までといわれ、九才から十八才位までの男子二十人位が常に在塾し 1868 0 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 465 7 たらしい。教授内容をみると習字、作文、修身等で、算術は師匠にその素養なく欠科としている。まず習字であるが、平仮名から始めて行書に進み、国名、姓名、百官名、消息文、千字文等を教材とした。師匠の宇野忍古彦は山中流を学んだもので相 0 0 黒木村誌 0 465 9 当にB筆であったらしく、自分で「いろは」の手本を書き与え、行書の練習からは子弟の好みに応じて他の肉筆、または石摺等を随意に手本とした。この塾では習字に最も多くの時間を割いたものと見えて、一日のうち朝、昼、夕の三回あり、一回に 0 0 黒木村誌 0 465 11 草紙およそ二十枚位ずつに書き習わせ、三日毎に清書し、かなりに文字の形を備えるようになるまでは、師匠が手を取って教えた。清書は評語で区分し、「上」が「うるわしう候美事に候」、「中」が「宜敷候」、「下」が「可成に候」で、さらに劣る 0 0 黒木村誌 0 465 13 ものには直しを入れて評語は書かなかった。「読む」方では、家業を斟酌し、実語経、童子経、商売往来、庭訓往来、五人組前書、四書五経、唐詩選、古文真宝、文選などを教え、主に素読および講義であったが、子弟各自の進度優劣に応じて各々別 0 0 黒木村誌 0 465 15 々に教授した。「読む」方は年次が進につれて、相当に程度の高いものであったことがわかる。修身においては、主に総員に対し歴史の事実を以てし、其の他論語及格言などを挙げて教授したという。教授は毎日巳の上刻(午前十時)から酉の上刻( 0 0 黒木村誌 0 465 18 午後六時)まで行われ、休日は正月の元日から十六日まで、毎月氏神の祭日、同じく大中祭日、五節句、七夕、盆の十三日から十六日まで、冬至、年末の二十五日から大晦日までで、其の他地方崇敬社の祭日など師匠の命によって早仕舞することもあった。 0 0 黒木村誌 0 466 3 塾内には別に定まった掟書はない。出退の時は師匠夫妻の前に出て丁寧に挨拶をし、同志の間においても長を敬まい幼を愛するという修身の訓戒を守って其の秩序は整然と保たれ、時に師匠に病気等の事があっても、頭弟子が手習及素読を続けたという。 0 0 黒木村誌 0 466 6 はじめにも述べたように、この塾は師匠が生計を営むために開いたのではなかったから、子弟入塾に当って束脩等の定りはなかった。ただ入塾者の随意で、魚類か或は大小豆などを一、二升持参する位のことであり、其の外、盆前と歳末の二期に魚 0 0 黒木村誌 0 466 8 または穀物に金二朱乃至二分位の謝儀を贈るのが普通であったらしい。例年冬至の日には、師匠のために慰労会を催した。大きな鰤を購入して程々に料理し、師匠宅で大宴会を開き、師とともに楽しむことを以て年中無二の慰安とした。此の日に限り、 0 0 黒木村誌 0 466 10 子弟はそれぞれ得意の歌舞音曲の芸を、師の面前にはばからず披露するのであった。其の費用負担は一律ではなく、長幼貧富によって各々差があった。以上は宇野幸彦手記によって、宇野忍古彦私塾の概要を紹介したが、教育機関の無い当時にあって 0 0 黒木村誌 0 466 12 は、郷党の教化に尽くすところ大なるものがあったと思われる。 0 0 黒木村誌 0 466 14 学制頒布 教育制度として「学制」が頒布されたのは明治五年八月で、これが劃期的な意味を、持つ制度であったことはいうまでもない。しかし学制頒布と同時にすべての学校が実現したわけではなく、いわば草創揺籃期であった。したがって学制頒 1872 828 明治5年 黒木村誌 壬申 0 466 16 布当時の資料は乏しく、三村の状況を具体的に述べることができないので、ここでは当時の制度について一般的に触れ、後日資料の発見されることを期待して置きたい。明治二年、新政府は早くも各藩に対し小学校を設けるよう指令しているが、その 1869 205 明治2年 黒木村誌 己巳 0 467 1 「小学校ヲ設クル事」の条を見ると、「専ラ書学、素読、算術ヲ習ハシメ、願書、書翰、算勘等其用ヲ闕サラシムバシ。又時々講談ヲ以国体時勢ヲ弁へ忠孝ノ道ヲ知ルベキ様教諭シ風俗ヲ敦クスルヲ要ス」とあって、その内容はまだ寺子屋時代と殆ど 0 0 黒木村誌 0 467 3 変るところはない。しかし一方では、早くから山内容堂を中心に森有礼、加藤弘之らを取調係として学制の調査を進めていたので、明治三年二月には「大学規則竝中小学規則」を定めた。さらに明治四年七月には文部省を設けて学制の制定を急ぎ、遂に 1870 200 明治3年 黒木村誌 庚午 0 467 5 明治五年八月になって「学制」一〇九章(六年追加して二一三章となる)を頒布した。ここに国民教育制度の基礎がはじめて樹立されたのであった。この「学制」によると、全国を八大学区(六年、六大学区に改正)に分けて各大学区に大学を一カ所、 1872 800 明治5年 黒木村誌 壬申 0 467 8 各大学区はさらに三三十二中学区に分けて各中学区に中学校を一カ所、各中学区はさらに二一〇小学区に分けて各小学区に小学校を一カ所ずつ設けるというもので、全国画一的な学校体系を企図したのであった。だが、このような大規模な机上計画をすぐに 0 0 黒木村誌 0 467 11 実現するという事は極めて困難であった。そこで政府は、その実施に当っては第一に、「厚ク力ヲ小学校ニ可用事」としたのである。小学校は「教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」という所であって、尋常小学校と其の 0 0 黒木村誌 0 467 13 外五種が挙げられている。尋常小学校は下等小学、上等小学に分かれ、下等小学は6〜9才、上等小学は10〜13才、各四年間で修了することになっていた。 0 0 黒木村誌 0 467 16 小学校開設 隠岐は当時鳥取県所管であったが、明治五年学制頒布とともに小学校開設各般の準備が進められたらしい。たとえば明治六年、第百十一区戸長松浦繁太郎(西郷)が第三中学区取締兼務を申付けられているのはその一例であろう。翌七年 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 467 18 頃から小学校設立の資料がみられるようになる。西郷では明治七年、中町善立寺跡に目貫学校、西町光恩寺跡に八尾学校、宇屋に宇屋学校を設立し(以上「西郷町誌」)、また知夫村でも明治7年二月、旧庄薬寺本堂に知夫村小学校を創立し、十二月 1874 200 明治7年 黒木村誌 甲戌 0 468 3 古海、仁夫里、多沢の各里に支校を置くこととし、堂を以て校舎にあてている(「知夫村誌」)。「隠岐島誌」にも、「明治六年末に於て既に島内に小学校の設置を見、翌七年には各村に小学校の設置を見るに至れり」とあるように、美田、別府、宇賀 1874 0 明治7年 黒木村誌 甲戌 0 468 8 の各村でも、たぶん右の例と同様に旧寺、堂などを校舎に当てて、ほぼ同時に小学校を開設したことであろうが、当時の資料が乏しくて明かにならない。ただ、数年後の資料であるが明治十一年隠岐国町村誌の中にあるものを表にまとめると第三〜四七 0 0 黒木村誌 0 468 11 表の通りである。右の表の中で宇賀村の大宇賀校は、明治十年「故願成寺観音寺所持地一廉限取調帳」の中に、大宇賀。一屋敷、五畝拾三歩、故境内当時宇賀小学校支校。とあり、これによると明治十年宇賀村には宇賀小学校が一校あり(物井にあった 1877 0 明治10年 黒木村誌 丁丑 0 468 15 のであろう)、大宇賀にその支校(分校)があったのであって、その校舎に旧寺院を代用した例の多いのは、いうまでもなく排仏騒動の時、焼却を免かれた寺院でも僧侶は帰俗してしまって建物が空屋になっていたからであるが、その上に旧寺院跡は 0 0 黒木村誌 0 468 18 当時政府の所有でその管理が各村に委せられていたという実況によるものであろう(明治十二年四郡共有となる)。 1891 0 明治24年 黒木村誌 辛卯 0 469 3 初期の税制 明治初期には、村行政を担当したのが、もとのままの村役人であったように、税制もまた其の大要は幕藩体制下と殆んど変るところなく、慣習的に引き継がれて来た。いま文政九年別府村下札と明治四年別府村租税上納皆済帳とを対比し 1871 0 明治4年 黒木村誌 辛未 0 469 5 てみよう。右の文政九年下札と明治四年皆済帳とを較べ、明治四年の上納が従前と違っている点をあげれば、小物成(明治四年には定納物)で酒造二軒の冥加が加わっていることである。次の口米、口雑穀は一種の附加税であるが、従前もあったけれども 1871 0 明治4年 黒木村誌 辛未 0 470 3 下札面に載せなかっただけの事である。その外、高掛物では夫米が六尺給米に復活し、その賦課額が減ったが、その代わり御蔵前銀の方が増加している。また銀高が永高に代っているなど、部分的には若干の相違も見られるが、税制大概においては近 0 0 黒木村誌 0 471 1 世封建時代の遺制をそのまま踏襲しているといってよい。 0 0 黒木村誌 0 471 2 土地制度改正 このような近世来の税制旧慣を根本的に改めたのが地租改正であったが、その為には、まずはじめに封建制下の土地制度を基本的に改めなければならなかった。明治新政府は、早くも明治元年十二月十八日の太政官布告で、「拝領地並 1868 1218 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 471 4 社寺地等除地之外、村々ノ地面ハ素ヨリ都テ百姓持之地タルヘシ」と、初めて農民の土地所有を認めたが、領主対農民の関係にある領主的土地保有が完全に消滅したのは、明治四年の廃藩置県であった。廃藩置県の直後、政府は耕作物の制限を解いて 1871 0 明治4年 黒木村誌 辛未 0 471 7 「田畑勝手作」の自由を与え、明治五年には太政官布告を以て、「地所永代売買ノ儀従来禁制ノ処、自今四民共売買致所持候儀被差許候事」と永代売買の禁止を解いた。こうして新しく地主的土地保有が認められることになり、地主に対し其の土地私有の 1872 215 明治5年 黒木村誌 壬申 0 471 9 権利を保証する為に地券が発行された。 0 0 黒木村誌 0 471 10 地券交付 明治六年三月、従来の人民所有の土地を「私有地」と定め、検地帳記載の石高制を反別制に改めて地券を交付することとした。当地でも明治五年後半には各郡に地券取調係が置かれて準備作業を進めたが、前記美田村の宇野幸彦は明治六年 1873 300 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 471 12 九月から地券発行の仕事に携わっている。同氏の手記「伺願届控」によると、一、地券大(台)帳認中雇入筆工申付候事。明治六年九月五日、鳥取県出張所。一、地券雇入筆工差免候事。明治六年十二月十五日。鳥取県支庁。一、地券掛筆工申付候事 1873 1215 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 471 19 明治七年四月五日、鳥取県支庁。一地租改正上等筆算工申付候事。明治九年五月十九日、区長、渡辺弥三郎。とある。同氏は明治四年ごろは浜田県出張隠岐会計局、別府出張所詰の権少属であったが、六年九月地券台帳作成中の筆工として雇われ、三 1876 519 明治9年 黒木村誌 丙子 0 472 4 ケ月後一旦辞職したが翌七年四月ふたたび地券掛筆工となり、続いて九年五月には地租改正上等筆算工となっている。当地の地券発行がほぼ完了したのは明治十年で、次に一例をあげよう。地券。隠岐国知夫郡美田村弐千拾壱番字十家、持主、岩佐久一郎。 1877 0 明治10年 黒木村誌 丁丑 0 472 10 一耕地、五畝二八歩。地価弐円五拾弐銭。此百分ノ三、金七銭六厘、地租。明治十年ヨリ、此百分ノ弐半、金六銭三厘、地租。右検査之上授与之。明治十年十二月二十五日。島根県印。 1877 1225 明治10年 黒木村誌 丁丑 0 472 18 地租改正 地券交付は、それによって土地の私有権を保証するとともに、地券所有者を登録した地券台帳によって、地主に地租を賦課するためであった。明治六年七月二十八日には太政官布告を以て「地租改正布告条例」を公布し、「今般地租改正ニ 1873 728 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 472 20 旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆相廃シ更ニ地券調査相済次第土地ノ代価ニ随ヒ百分ノ三ヲ以テ地租ト可相定」を布告した。地租改正によって明治新政府ははじめて財政的基盤を確立したが、幕藩体制下の貢租体系と違う主な点は、近世の貢租が土地の収穫物 0 0 黒木村誌 0 473 5 近代化の基盤 地租改正の完了によって、近世封建制下の土地所有制度、貢租体系は完全に一新し、ここに近代化への基盤が一応出来上がった。そこで、この時点における三村の村勢概況を簡単に記して置きたい。現在、島根県庁に明治十一年編の 0 0 黒木村誌 0 473 7 隠岐国各町村誌が所蔵されているが、これは地租改正を完了した直後の村勢概況を、各村を通じ、一定の形式にもとずいてまとめたものである。その内容は、村名、幅員、管轄沿革、里程、地勢地味、税地、飛地、字地、貢租、戸数、人数、牛馬、舟車、 0 0 黒木村誌 0 473 10 山川、森林、原野、牧場、鉱山、湖沼、道路、堤塘、港、出崎、嶋、暗礁、灯明台、滝、温泉、冷泉、公園、陵墓、社寺、学校、村会所、病院、電線、郵便局、製糸場、大工作場、造船場、古跡、名勝、物産、民業、埋葬地となっている。このうち、 0 0 黒木村誌 0 473 14 主な項目につき三村の概況をあげることにする。 0 0 黒木村誌 0 473 16 税地貢租 第三〜四八表の税地についてであるが、税地というのは新たに地租の対象となった土地である。薮地、稲干場、船置場までも含まれている点に注目しなければならない。美田村が最も広く、宇賀村はその半分、別府村はさらに宇賀村の半分 0 0 黒木村誌 0 474 3 に過ぎない。税地の中で最も主要な地目である水田についてみれば、別府村の水田は美田村の二割、宇賀村の水田は僅かに一町にも足りない。それでも近世末に比べると、三村ともに二倍又はそれ以上になっている。貢租(第三〜四九表)もまた税地 0 0 黒木村誌 0 474 9 に比例して美田村が最も多くて宇賀村の二倍強、宇賀村は別府村の二倍弱である。 0 0 黒木村誌 0 474 12 戸口 明治十一年現在の三村の戸口は第三〜五〇表の通りである。宇賀村は美田村の1/2、別府村は宇賀村の1/3見当である。まず美田村についていうと、近世末の資料である文政六年の戸数(二五一)、人口(一六二六)に比べると、戸数にお 1823 0 文政6年 黒木村誌 癸未 0 474 16 いて約一、七倍、人口が約一、三倍の増加である。このような戸数増加の中には、明治初年における分家創出の急増(分地制限令の撤廃、徴兵忌避のための擬装分家)が含まれている。別府村においては、近世末の資料である寛政九年の戸数(三三) 1797 0 寛政9年 黒木村誌 丁巳 0 475 2 人口(二〇六)に比べて、それぞれ約二、二倍、約一、五倍の増加であるが、明治五年の壬申戸籍からみると、若干ながら減少の傾向を見せはじめている。宇賀村には近世末の資料がないので割愛するが、壬申戸籍からみると、三村の中でもっとも大 1872 0 明治5年 黒木村誌 壬申 0 475 6 きな増加の傾向を見せている。 0 0 黒木村誌 0 475 7 牛馬数 第三〜五一表は牛馬の保有頭数である。牛馬の保有については先に示したように(近世の章)、美田村では元祿年代に一戸平均一、六頭の保有であっちものが、その後急速に減り、化政期には0、二頭に、別府村でも元祿年代一戸平均四、五 0 0 黒木村誌 0 475 11 頭の保有が寛政期には0、三頭に減じていた。宇賀村は元祿以降の資料に乏しいが、元祿年代に一戸平均三、九頭であったものが明和年間には0、五頭に減じていた。ところが明治十一年現在の牛馬数(一−六表)をみると、別府村を除き、美田村は 1878 0 明治11年 黒木村誌 戊寅 0 475 13 一戸平均の保有一、五頭、宇賀村は同じく一、四頭と増加している。この近世末から明治初期にかけての増加傾向は、牛馬の保有が単に耕作使役または牧畑における肥培管理の為のみではなく、島外搬出に向っていたことを示すものであって、次章に 0 0 黒木村誌 0 475 15 述べるように、明治十四年会社企業による「牧牛社」の設立をみるようになるのも、決して唐突の獅ンではなかったのである。 1881 0 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 475 17 物産と移出 第三〜五二表は物産及びその移出先である。移出される物産では、大豆のほか十品目が挙げられているが、その中の八品目が海産物である。下欄には参考のために、島前各村の数量もあげて置いた。この表を見ると、美田村と浦郷村とが、 0 0 黒木村誌 0 477 1 生産品目においても移出数量においても、ごく類似していることが判る。これは両村が、基盤において相似た生産構造を具備していたことを示すものであろう。島前他村に較べて、その特徴的な点を拾ってみると、1畑作物として大小豆の移出が、両 0 0 黒木村誌 0 477 4 薪・移出 村ともに最も多い。2干鮑、煎海鼠の移出においても両村が最も多い。3鯖の移出数量が、両村共にとび抜けて多い。4干メメ、干鰯の移出は両村のみである。5薪の移出は美田村のみである。等があげられよう。干鮑、煎海鼠というのは近世の俵物即ち 0 0 黒木村誌 0 477 10 串鮑、串海鼠であろう。近世の小物成の中で串鮑、串海鼠の両役は島前が主な対象であり、島前の中でも美田村が圧倒的に多かったことは前に述べたが、明治十年代においても美田村は浦郷村とともに、最も多く生産移出している。またメメ、鰯の両役 0 0 黒木村誌 0 477 13 も隠岐全島を通じて西ノ島のみ、特に美田村、浦郷村の課役が最も大きかったが、明治十年代においてもやはり干メメ、干鰯の生産は美田、浦郷の両村が特徴的である。とすると、以上の海産物については、美田村は近世を通じて近代にかけて、隠岐に 0 0 黒木村誌 0 477 15 薪・移出 おける主産地であったとみることが出来よう。移出先は雲伯地方(大豆、小豆、海苔、和布、薪)、長崎地方(干鮑、煎海鼠、鯣)、若狭方面(鯖、干メメ)である。隠岐と本土との間に定期航路の開かれたのは明治十八年であって、それまでは鮮魚の 1885 0 明治18年 黒木村誌 乙酉 0 477 18 ままで移出することは困難であった。したがって島外に輸送される海産物は、直接生産者の手から一旦加工業者の手に渡って加工されなければならなかった。 0 0 黒木村誌 0 478 3 水産加工の一例 当地区漁業の中心は、近世以来美田村舟越であった。したがって水産加工もまた、ここを中心として行われたが、すでに昭和十年に民俗学者桜田勝憲、山口和雄両氏によって報告されているものがある(「隠岐島前漁村採訪記」)。 1935 0 昭和10年 黒木村誌 乙亥 0 478 5 この中に採録されている水産加工方法は明治初期以来、あまり大きな変化もなくうけつがれているものであるから、この報告をもとに一、二例を紹介しよう。鯖は背割りにし、塩を入れて桶の中に囲って塩鯖にする。メメは腹を割り、塩を入れ、日乾しにする。 0 0 黒木村誌 0 478 7 これが「割り干し」であった。干鮑の加工過程は次のようであった。1生貝の殻をはぐ。2肉をよく水洗し、桶の中に入れて塩を加え、重石(五貫)を載せて塩漬(二昼夜)にする。3塩漬の肉を水洗。4沸騰湯の中で煮る(ザルに入れて30〜40 0 0 黒木村誌 0 478 13 分)。5微温湯でよく洗う。6蒸篭に入れて日乾し(6時間)−昼。7屋内で焙爐に載せ、炎の上で乾燥させる−夜。86〜7の過程をくりかえす(1〜2週間)。これらの水産加工は家内労働のみでは無理で、数名乃至十数名の雇人を必要とし、労働 0 0 黒木村誌 0 478 18 過程も或程度分化しているので、マニュファクチャア−の初歩的形態がみられる。 0 0 黒木村誌 0 479 1 を為した基礎はここにzかれたのであった。@@ 0 0 黒木村誌 0 479 2 舟数 加工された商品は、廻船業者によって島外へ輸送されることになるが、加工業者の多くは自分で船を持ち、廻船業者を兼ねていた。そこで次に、明治十一年現在の舟数をまとめてみると、第三〜五三表のようになる。近世の公式資料では船種を 1878 0 明治11年 黒木村誌 戊寅 0 479 6 大船、小渡海船、手安舟、トモド、カンコ、ひらた舟、橋舟に分げてあったが、上表では大まかに、五〇〇〜二〇〇石積荷船、二〇〇石未満荷船、漁船の三つに分類してある。上の表にいう漁船は、近世の手安、gモド、カンコ以下の船を含めた総称 0 0 黒木村誌 0 479 9 であろう。とすると、二〇〇石未満荷船は前の小渡海船に、五〇〇〜二〇〇石積荷船は大船に相当するのではないかと思われる。もしそれに間違なければ、荷船についていえば、美田村では天保七年に大船、小渡海船合せて五隻であったが、明治十一 1836 0 天保7年 黒木村誌 丙申 0 479 11 年には三八隻と飛躍的に増加し、宇賀村でも七隻から一三隻に増加している。また総数でいえば、美田村では天保七年に八四隻、宇賀村でも同じく四四隻であったから、明治十一年には約三倍に増加し、別府村は同年に九隻であったから五倍増となって 1836 0 天保7年 黒木村誌 丙申 0 479 14 いる。これらの船の持主の中には、自身で水産加工業を兼ねる者、或は商品を仕入れ、輸送先で売買する商人兼廻船業者が多かった。たとえば舟越の安達、市部の竹田両家はスルメ商人であると同時に廻舟業者であった。後に明治期寄生地主として大 0 0 黒木村誌 0 479 17 を為した基礎はここに築かれたのであった。 0 0 黒木村誌 0 480 1 職業構成 最後にもう一つ民業の項目がある。その前に壬申戸籍にも職業が記載されているので参考までに、その方を先に挙げよう。第三〜五四表によると九〇%が農業であって、其の他の職業は全体の構成からみると、合せて僅かに一〇%に過ぎない。 0 0 黒木村誌 0 481 1 その中で大山の全戸数五七のところ商業に従事する者一二を数えるのは奇異の感を抱かせるが、前にも述べたように、大山は近世から明治初期にかけて北前船の風待港であり、下り廻船の寄港によって賑わったのであるから、船員を相手とする商業と 0 0 黒木村誌 0 481 3 みることができよう。この表において九〇%を占めるのは農業であるが、しかし、これは農業専業の意味ではなく、農漁を含めた第一次産業の意味であることは、明治十一年の民業構成をみれば、すぐにわかる。第三〜五五表は明治十一年の三村の民 1878 0 明治11年 黒木村誌 戊寅 0 481 5 業構成を示すものである。右の表によると、専農と農漁兼業が全体の九二%を占め、これが第三〜五四表の農業戸数の比率に該当するわけである。これを概括していえば、当時の産業構成は農漁を主体とする未分化の第一次産業の段階であった。 0 0 黒木村誌 0 481 11 郡町村制 明治十一年、地方三新法が公布され、地方自治制の基礎が樹てられた。その一つである「郡区町村編成法」によって、それまでの大小区制は廃止され、郡を地方行政区画とする郡町村制が復活した。町村は郡の中の行政区画であると同時に、 1878 722 明治11年 黒木村誌 戊寅 0 481 13 はじめて地方自治団体として認められ、戸長はその理事者とされ、村民の総代として公選されることになった。この結果、明治十二年には知夫、海士、周吉、穏地の四郡総合郡役所が西郷に設けられ、高島士駿が初代郡長になった。三村はそれぞれ島 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 482 1 根県(これより先、明治九年八月隠岐は島根県所管にうつった)知夫郡美田村、同別府村、同宇賀村となった。 1876 800 明治9年 黒木村誌 丙子 0 482 2 公選戸長 公選戸長の第一号は、美田村では宇野幸彦であった。公選とはいっても現在のような完全な公選制ではない。次の戸長辞令に、「申付候事」とあることからも明らかなように、戸長は町村理事者として地方長官の行政権、直接的には郡長の 0 0 黒木村誌 0 482 4 権限に事実上従属させられていた。宇野幸彦。一知夫郡美田村戸長申付候事。明治十二年十二月十七日。島根県。右は宇野幸彦が明治十二年公選されて美田村戸長になった時の島根県辞令写である。知夫郡美田村戸長、宇野幸彦。一職務抜群勉励候ニ 1879 1217 明治12年 黒木村誌 己卯 0 482 11 付金三円七拾五銭賞賜候事。明治十四年十二月十三日。島根県。これは年末賞与であろうが、当時の戸長が町村理事者として県行政官の性格を具えていたことを物語っている。ついでに当時の旅費支給の一例をあげよう。旅費請求書。幸彦儀客月中本 1881 1213 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 482 16 県より御用召に付出県候処転任に付事務引継として同月十八日県地出発同二十二日迄伯州境港雲州三保関に風待滞在同二十三日出帆翌二十四日帰村候に付片道里程三十七里分旅費御渡有之度候也。明治十六年十月十一日。知夫郡美田村戸長、宇野幸彦 1883 1011 明治16年 黒木村誌 癸未 0 483 1 美田村役場御中。(戸長代理、用係岩佐林太郎)右は美田村戸長宇野幸彦が明治十六年九月十三日、島根県十等属を拝命し、事務引継の為に帰村した時の片道旅費を美田村へ請求したものである。この請求に対して美田村は、証。一金二円四十銭、里 1883 913 明治16年 黒木村誌 癸未 0 483 6 程三十七里ニ付四日分日当。一金九十銭、滞在日当三日分。計三円参拾銭。右正ニ受取候也。(日付次)知夫郡美田村旧戸長、宇野幸彦。美田村役場御中。とあるように、松江−美田村間片道旅費(三十七里分)三円三十銭を支払っている。この時美田 0 0 黒木村誌 0 483 14 村は、宇野幸彦の辞任直後でまだ戸長の選任がなく、戸長代理は用係岩佐林太郎であった(この後すぐに戸長となる)。この「用係」は、戸長の次で、各村戸長の下に配置され、税務財務を主管した。さて、ここまでは美田村、別府村、宇賀村単独 0 0 黒木村誌 0 483 16 戸長であるが、明治十七年に郡区改正によって連合戸長制にうつる。その間の美田村戸長は前述のように宇野幸彦、宇賀村は宇野節雄、別府戸長は前田邦一である。 1884 507 明治17年 黒木村誌 甲申 0 483 18 美田村外三村連合戸長 明治十七年、さきの「郡区町村編成法」(明治十一年公布)の一部が改正されて、ふたたび大行政区主義をとることになり、数村を併せて組合立戸長役場を置いたが、其の区域は前の大小区制の小区に同じい。その結果、隠岐 1884 0 明治17年 黒木村誌 甲申 0 483 20 でも郡区改正が行われ、明治十七年美田、別府、宇賀の三村に浦郷村が連合して西ノ島一円を行政区域(現在の西ノ島町に相当する。)とする美田村外三村戸長役場が美田村に解説された。いうまでもなく美田村および外三村が村を解体したのではないのであって、 1884 0 明治17年 黒木村誌 甲申 0 484 2 行政単位として組合連合組織を構成したに過ぎない。この期間は明治二十四ねんまでの七年間であるが、その間明治二十一年には、行政単位としての四郡郡役所が廃止され、それに代わって隠岐島庁が西郷に置かれ、島司が任命された。郡区改正とともに 1888 0 明治21年 黒木村誌 戊子 0 484 5 戸長もまた官選に復したが初代連合戸長は、当時の美田村戸長岩佐林太郎で、それ以降には前田邦一(明治17)渡辺矢次郎(明治19)安藤才吉(明治21)岩佐久一郎(明治22)等がいる。 0 0 黒木村誌 0 484 7 別府村外二村連合戸長 明治二十四年になって浦郷むらは分離独立し、美田、別府、宇賀の三村は連合して別府外二村戸長役場を別府村に開設した。三村とも村を解体したのではないことは前の通りであるが、明治三十七年までの十三年間、三村が 1891 0 明治24年 黒木村誌 辛卯 0 484 9 連合組織を持続したこの期間は、後に黒木村として成立する沿革時代とみることができる。初代戸長に就任したのは岩佐久一郎であるが、その際の土地人民引継書は次の通りである。土地人民引継書。一宇賀村、戸数、二四四戸。人員、一一五五人 0 0 黒木村誌 0 484 14 内男五九一人。女五六四人。一別府村、戸数、八七戸。人員四〇六人。内男二一三人。女一九三人。一美田村、戸数、四七五戸。人員二四二七人。内男一一九七人。女一二三〇人。一宇賀村土地反別、五九五町三反三畝一八歩。田、反別、六反三畝二五歩。 0 0 黒木村誌 0 485 2 畑、反別、七四町五反八畝一五歩。牧畑、反別、四七四町一反九畝八歩。内、宅地、反別、七町五反三畝九歩。山林、反別、二八町二反三畝一一歩。山、反別、六町八反四畝一五歩。薮地、反別、二町八反八畝八歩。船置場反別、三反九畝一一歩。 0 0 黒木村誌 0 485 10 物置場反別、二畝一六歩。一別府村土地反別、二五七町五反五畝。田、反別、八町一反七畝一六歩。畑、反別、二五町二反〇畝二四歩。牧畑、反別、一六〇町八反二畝一六歩。内、宅地、反別、二町七反一畝二〇歩。井戸、反別、七歩。山林、反別、 0 0 黒木村誌 0 485 18 五九町一反二畝一〇歩。薮地、反別、一町四反二畝九歩。船置場反別、五畝二三歩。稲干場反別、一畝二四歩。一美田村土地反別、一三一五町五反六畝一七歩。田、反別、五三町九反一畝九歩。畑、反別、一二〇町九反四畝一八歩。牧畑、反別、三九五 0 0 黒木村誌 0 485 25 町五反五畝一二歩。宅地、反別、一三町二反〇畝九歩。内、井戸、反別、二畝五歩。山林、反別、七二五町七反九畝五歩。薮地、反別、四町四反六畝九歩。船置場反別、一町三反四畝一〇歩。稲干場反別、二反八畝二九歩。網干場反別、四畝一歩。 0 0 黒木村誌 0 486 9 右明治二十五年一月一日現在土地人民及御引継候也。明治二十五年一月一日。元美田外三村戸長、岩佐久一郎。別府外二村戸長代理。用係、村尾佐市殿。 1892 101 明治25年 黒木村誌 壬辰 0 501 12 牧牛社 当時、殖産興業の面において早くも「牧牛社」の設立をみたのは注目すべき所で、すでに昭和十六年寺尾宏二氏によって学界に報告された(「明治前期隠岐に於ける社会企業」経済史研究二六ノ三)。その「牧牛社則例言」を見ると、我隠岐 1883 0 明治16年 黒木村誌 癸未 0 501 15 国ノ内、島前ハ土地牧業ニ適シ、年々産牛ノ員数モ亦尠カラスト雖モ、従来牧畜ノ術ニ拙ナク、為ニ牛種ノ劣レル茲ニ年アリ。曩ニ本県勧業課雇小川正雄ナル者ヲ派遣セラレ、各村ニ就キ交尾媒助ノ法ヲ行ヒ、親シク其技術ヲ村民ニ指示シ、且言フ事 0 0 黒木村誌 0 502 1 牛種ノ改良ハ他邦ノ良種ヲ要スルニ非レバ到底其目的ヲ達スル能ハズト。然レトモ今日ニ至ル迄未其勧導ニ応スルモノアルヲ聴カス。是満島ノ人民種牛ヲ他ニ求ムルノ良策タルヲ知ラサルニ非サルモ、資本ノ乏シキヲ奈ンセン。抑耕牛ノ強弱ハ農業ノ 0 0 黒木村誌 0 502 3 食事 盛衰ニ関シ係ル処既ニ大ナリ。而シテ方今肉食ノ道大ニ開ケ、牛価且日ニヨリ騰昂セリ。今ニシテ産牛ノ繁殖種牛ノ改良ヲ謀ラサレハ将ニ何レノ日ニ期セントス。茲ニ於テ今牧牛之一社ヲ設立セン事ヲ欲シ、其規則ヲ定ムル左ノ如シ。(規則十七ケ条略) 0 0 黒木村誌 0 502 7 右之条件協議之上取究タル証拠トシテ各自記名調印致スモノ也。明治十四年一月十八日。隠岐国知夫郡別府村平民、宇野龍麿。外二十九名略。という。この社則に謳っているように牧牛社設立の目的は、「産牛ノ繁殖種牛ノ改良」を図ることであった。 1881 118 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 502 13 前にも述べたように近世末から明治十年代にかけて、本村の牛馬頭数は大いに増加する傾向にあったが、それは単に数量の増かにとどまって品種の改良我伴わなかった。品種の改良は優秀な種牛の導入にあったが、それは個人の力では困難であった。 0 0 黒木村誌 0 502 15 そこで資本を集めて一社を設立し「産牛ノ繁殖種牛ノ改良」を図ろうというのである。当時、隠岐四郡役所の郡長は高島士駿であったが、数多くの功績を残した其の一つに、牛馬改良に尽力したことが挙げられている。「隠岐誌」(小泉憲貞著)によると、 0 0 黒木村誌 0 502 18 隠岐産の牛は種類を選ばず、ただ蕃殖することだけを目的としていたために「黒牛ニシテ体格ノ十分ナルモノ少ク、白牛又ハ斑毛牛ニシテ劣等ナル種類多キニヨリ価位モ従テ上ラ」なかった。そこで「氏ハ之ヲ憂ヒ、説クニ種類ノ改良ヲ以テ」したのである。 0 0 黒木村誌 0 502 20 この結果、島民も悟る所あり「改良ノ法ヲ立テ大ニ牛馬ノ面目ヲ改ムルニ至」ったが、さらに氏は「牛馬種類ノ改良ハ会社ニアラザレバ偉功ヲ奉スル少ナキ以テ知夫郡有志者ニ勧誘シ、数千金員ヲ四郡共有金ヨリ低利ヲ以テ貸付シ大ニ奨励」したという。 0 0 黒木村誌 0 503 3 四郡共有金というのは周吉、穏地、海士、知夫四郡の共有財産のことで、明治二年排仏の後、各寺院の所属財産を四郡に払下げてもらい、教育勧業の基金としたものである。「牧牛社」が四郡共有金の融資を受けたかどうか、以上の資料だけでは確実 1869 0 明治2年 黒木村誌 己巳 0 503 5 でないが、牛馬種類の改良は会社の力に依らなければ偉功をあげることが少ないので知夫郡有志に会社設立を勧誘したというのであれば、牧牛社設立の蔭に高島郡長の尽力が秘められていたと考えてよかろう。さて牧牛社経営の方法はどうかというと、 0 0 黒木村誌 0 503 8 牛を預かってその牧養飼育に当り、生長の後、所有主が売却すれば、売価の四分の一を封酬として会社が受領するのである。また交尾の媒助を図り、品種の改良によって隠岐産牛の品質向上に努めるとともに、その売価を高め、それにつれて会社の利益 0 0 黒木村誌 0 503 10 をも攝Bさせようというのである。もちろん飼養の大部分は放牧によるのであるから、その間に紛失斃死等の事故を生ずることは己むを得ないが、その場合、会社側に重大なミスのあった場合を除いては賠償に応じないことを定款にうたうことも忘れては 0 0 黒木村誌 0 503 12 いない。以上のように会社経営によって放牧牛馬の管理を行うという方法が、当時、牧畑管理を運営した村共同体の規制力に対し何のまさつも生じなかったのかどうか、また実際の運営に際し具体的には種々の困難な問題を担ったと考えられるのであるが、 0 0 黒木村誌 0 503 15 牧牛社経営の具体的記録は残念ながら調査資料を欠いている。牧牛社設立に参画したのは宇野龍麿(別府)の外二九名、総株数三〇〇、一株六〇円、予備金として一株につき一〇円、計二万一千円を基本金とした。代表者宇野龍麿は明治七年大小区制 1874 0 明治7年 黒木村誌 甲戌 0 503 17 が採られてから鳥取県第十七大区(隠岐一円)小一区(西ノ島)の副区長を勤めた人物で、前述の宇野幸彦の長兄である。三年経って明治十七年になると、次のような株式減少の届が出ている。本社株式減少ニ付御届。本社株金之儀ハ一株ニ付七十円、 1884 0 明治17年 黒木村誌 甲申 0 504 3 惣株数三百株ニテ金額二萬千円ト定メ御届仕置候処、都合ニヨリ左之通減少候間、此段戸長奥印ヲ以御届仕候也。明治十七年六月一日。知夫郡別府村、牧牛社。社長、岩佐久一郎。郡長、高島士駿代理、郡書記、野口貞美殿。一、株数、二百八十七株。 1884 601 明治17年 黒木村誌 甲申 0 504 11 此金額六千二十七円、但一株ニ付二十一円。前書之通相違無御座候也。戸長、前田邦一。株数においては殆んど変らないが、資本金は三分の一以下に減少した。これは明らかに牧牛社経営規模の縮少であるとみなければならない。しかし、その原因が 0 0 黒木村誌 0 504 15 経営の不振にあったかどうかについてはよくわからない。明治十四年設立の際には六ケ年の期限をつけて認可を得たが、十九年十一月社長宇野龍麿からの届によると、社則の改正を行って期限を十二年に延長し、社長俸給を年六円から一挙に二四円に 1886 1100 明治19年 黒木村誌 丙戌 0 504 17 引上げ、副社長以下これに準じて増額している。いずれにしても「牧牛社」の実態に関しては、もう少し具体的な資料の現れるのを俟たなければならないが、明治十年代に、早くもこのような殖産興業の機運が生まれていたことは注目しなければならない。 0 0 黒木村誌 0 504 20 なお明治二十四年四月には、浦郷、美田、海士の有志によって、資本金五二七円の「牧業社」が設立されているが(内藤正中「島根の農業百年史」および「島根県農業協同組合史」)、具体的な資料を持ち合わせていない。 1891 400 明治24年 黒木村誌 辛卯 0 505 2 牧牛馬同業組合 「牧牛社」設立によってその経営は、広大は牧畑をもつ島前において注目され、やがて同業組合の必要が認識されてきた。明治十九年八月、海士、知夫両郡有志者相謀り海士、知夫郡牧牛馬同業組合(事務所は海士村)を組織し、次いで 1886 800 明治19年 黒木村誌 丙戌 0 505 4 周吉、穏地両郡においても組合を結成したので、明治二十九年両組合は合併して隠岐畜産同業組合を設け、畜産の発展に寄与するところが大きかった。(前掲「隠岐誌」)。 1896 0 明治29年 黒木村誌 丙申 0 505 6 牧場取締規則 その間、明治二十四年には各村に牧場取締規則が設定された。これは明治二十三年十二月の第三回四郡公立勧業会(後述)に、島庁の牧場取締規則基準が提示され、各村において適当にきそくを作成させたものである。全部で三十数条 1890 1200 明治23年 黒木村誌 庚寅 0 505 9 から成るが、主な点をあげると、毎年輪転法を以て牛馬を放牧し、旧来の各種慣行を尊重すること、牧牛馬の放牧は検査合格のものに限ること、他村の放牧を禁止、役員として取締人、牧士を選ぶこと及び職責などである。その他獣医の養成、種牛補助費、 0 0 黒木村誌 0 505 11 牛馬共進会などについては調査資料を欠いているので、当地の状況が明かでない。 0 0 黒木村誌 0 505 12 海産社 牧牛社より八ケ月後れて明治十四年九月、「海産社」が設立された。前記寺尾氏の論文を参酌し、他の資料と合せて概要を述べよう。まず海産社結社願を見ると、我隠岐国ノ儀ハ周四海ヲ帯ヒ、海産品最第一ノ土地柄ニシテ、従来島民過半該 1881 900 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 505 15 業ニ従事セサルモノナシ。故ニ其産額モ又少ナシトセス。然リト雖モ捕魚採貝ノ術ニ於テ未タ其良法ナラサルモノアルカ如シ。依テ今回同志相謀リ資本ヲ募リ、捕魚採貝ノ良法ヲ試ミ、一層盛大ナラシメントス。茲ニ於テ今海産ノ一社ヲ設立セン事ヲ 0 0 黒木村誌 0 505 17 欲シ、其規則ヲ定ムル左ノ如シ。(規則二十二条略)とある。これによれば、海産社を設立する目的は、同志相謀って資本を集め、新しい器械技術を導入して「捕魚採貝ノ良法ヲ試ミル」ことによって生産を上げることであった。株主は宇野節雄(宇賀村) 0 0 黒木村誌 0 506 3 外十五名。宇野節雄は明治初年、長期間にわたって宇賀村戸長をつとめた人である。株主の居住地は宇賀、別府、美田の三村と海士郡の崎村であった。株は全部で二十一株、一株につき百五十円、合計三千百五十円の資本金である。経理の方法は益金 1868 0 明治元年 黒木村誌 戊辰 0 506 6 の一分を貯蓄し、四分を事業資金、残り五分を利益分配する(第十一条)。事業内容は結社願にある如く捕魚と採貝であるが、まず前者からみて行こう。捕魚というのは要するに網漁であって、「本社ハ社名ニ背カズ専ラ事業ヲ盛大ニセン為メ、長崎 0 0 黒木村誌 0 506 8 県肥前国ニ於テ諸網ヲ購入シ就業スルモノトス」(第2条)という事であり、諸網とは「八手網、大敷網、鰤網、鰯網」である(第三条)。「海産社」の資料はこれで途絶え、認可を得たものかどうか、認可を得たとしても企業として成功したものか 0 0 黒木村誌 0 506 10 どうか不明であるが、八手網については美田村に次の例があるので、両者併わせ考えてみる必要がある。 0 0 黒木村誌 0 508 1 潜水漁法を導入 海産社のもう一つの事業は鮑採取業であった。寺尾氏によると「採鮑は知夫、海士両郡へ場区を設定し、潜水器械と海入とによって多収穫を目算している」という。鮑を採るために、当時初めて潜水夫を雇入れたことは「隠岐誌」( 0 0 黒木村誌 0 508 3 小泉憲貞著)にも記載している。これもまた高島士駿の郡長在任時代における殖産興業功績の一つとして挙げたものである。一、潜水器ヲ使用シ採鮑業ヲ創メタル事。鮑ハ隠岐ノ名産ナリ。然ルニ之ヲ捕フルノ漁具ハ迂遠ニシテ一月ノ獲高少シト、如 0 0 黒木村誌 0 508 6 フルニ麁製ニシテ価格上ラス、品質善良ト雖モ之ヲ如何セン。茲ニ長崎県肥前国漁夫御手洗時太郎ナル者来リ、説クニ潜水器ノ功(効)用ヲ以テス。氏大ニ喜ヒ、四郡ノ漁村ニ説諭シテ、該業ヲ特約シテ御手洗時太郎ニ興サシム。果シテ大ニ利益ヲ得タリ。 0 0 黒木村誌 0 508 8 此利益ヤ御手洗一人止マラス、漁村ノ得ル処隠岐全国ノ得ル処少々ニアラス。一ケ年ノ漁獲金高三万円以上四万円ニ垂ントス。而フシテ其製造ハ、改良ノ明鮑製ニシテ、旧慣製造ニ比シテ三割以上ノ利益ヲ得タリ。是レヲ隠岐漁業上ノ大沿革トス。如 0 0 黒木村誌 0 508 10 此漁獲スルコト三、四年間ニシテ漁民ト御手洗トノ間ニ於テ葛藤ヲ生シ、遂ニ該漁ヲ中断シタルモ、方今更ニ該器ヲ使用シ、名品ヲ販ルノ遺賜アリ。高島士駿が郡長として在任したのは明治十二年一月から明治十八年八月までである。彼は御手洗時太郎 1879 100 明治12年 黒木村誌 己卯 0 508 12 の勧奨によって、隠岐に潜水漁法を導入しようと決意し、「四郡ノ漁村ニ説諭シテ、該業ヲ特約シテ御手洗時太郎ニ興サシメ」た。これは場区を設定し、一定の期限をつけて業者に売ったことを意味するのであって、前述の明治十六年美田村会第三号 1883 0 明治16年 黒木村誌 癸未 0 508 14 議案の中で「本年分鮑採海面貸渡料」といったのは、このような金であった。沿海各町村所属の海面に対する漁業専用権は、明治七年の太政官布告によって解かれ 1874 0 明治7年 黒木村誌 甲戌 0 508 16 ていたが、実際にはまだ近世来の旧慣が守られていたのである。ただ御手洗時太郎一人がこのような特権を獲得したかどうかは疑問であって、おそらく次々と同業者が渡島し、各個に契約を結んで潜水採鮑に従事したであろうと思われる。さて、知夫、 0 0 黒木村誌 0 508 19 海士両郡に場区を設定し、潜水器械と海人を雇入れて生産高を上げようと云う「海産社」の設立は、ちょうどこの時期に相当する。「隠岐誌」に、「如此漁獲スルコト三、四年ニシテ漁民ト御手洗トノ間ニ於テ葛藤ヲ生ジ」たという情勢の中にあって 0 0 黒木村誌 0 509 2 企図されたのもで、あるいは島外資本の同業社に対する反目から生まれたのかもしれない。それは、次の資料からのうかがえることである。採貝採藻場区拝借之儀ニ付願。当隠岐国之儀者絶海之小島ニシテ、人口相当之耕地無之故ヲ以テ、沿海町村之 0 0 黒木村誌 0 509 5 細民漁業採藻ヲ以テ生活トナシ、其場区ノ儀モ往古ヨリ町村各一定之区域有之、互ニ其境界ヲ侵サス。嚮キニ海面所用之権ヲ解カレシ後モ猶相与ニ旧慣ヲ守リ、安穏ニ営業罷在候処、本年五月中、松江住室谷恒太郎外数名之者、他国海人業之者数百名 0 0 黒木村誌 0 509 7 引連、数十艘之漁船ニ乗組渡来、毎船官許ト表記シタル旗章ヲ相樹テ、沿海町村之稼キ場ニ入込ミ、擅ニ鮑ヲ撈取シ、漁民等カ従来因テ以テ生活之資ト致候貝類ハ一朝ニ尽スヘキ勢ヒ、漁民等之懇艱謂フ斗リナキ情况ニ付、各役場ヨリ夫々人ヲ遣シ難 0 0 黒木村誌 0 509 9 渋之情実ヲ縷述シ精々相断候得共、威ヲ官許ニ藉リ更ニ承引不仕、依而知夫、海士両郡ニ於テハ同僚集会、彼是心配中、漁民共憤激之余竟ニ知夫郡宇賀村ニ於テ、其村人民、彼海人業之者ト一大争闘ヲ譲起シ、夫から海人業之者ハ一応当国ヲ引去候共、 0 0 黒木村誌 0 509 11 宇賀村関係之者共二十余名ハ即今拘留ノ身ト相成、何共慨嘆ニ堪ヘサル次第ニ有之候。元来、採貝採藻ノ如キハ、現今御成規ニ於テハ、場区ヲ立拝借可奉願営業ニ無之ハ勿論ニ候得共、当国之儀者、上文ニ具陳仕候通リ、沿海之細民ハ専ラ漁業ニ依テ 0 0 黒木村誌 0 509 13 生活仕候土地ソ、殊ニ其捕獲ノ方法ニテモ僅カニ竿頭ニ鉄鈎ヲ附着シタル器具ヲ用ヒ、迂拙ヲ極メ候処、此余将来ニ於テ上文ノ如キ海人業之者数百結隊、数尋之海底ニ□入撈索致シ、或ハ舶来器械ヲ用ヒ海底ヲ掃蕩セラレ候テハ、沿海之細民今後何ニ 0 0 黒木村誌 0 509 15 依テ生活可仕哉ト、一同悲嘆心痛罷在候。依而這回沿海町村ハ各区定之場区ヲ以テ分界トナシ、仍ホ固有捕獲法之至ラサル得サル所ヨリ沖ノ方ヘ向ヒ四十尋之処ハ貝類養成之地トシテ、更ニ場区拝借之儀願出サセ候様仕度奉存候。各村細民之栄枯浮沈 0 0 黒木村誌 0 509 17 ニ関スル事件ニ付、深ク情実ヲ亮察被成下、願旨特別之御許可相成候様仕度、此段偏ニ奉梱願候也。全島戸長連印。(舟越、安達文書。横山弥四郎氏写)右の文書が年代を欠いているのは残念であるが、文面の要旨は次のようである。室谷恒太郎(松江) 0 0 黒木村誌 0 509 20 外数名の者が、他国潜水夫数百名を引連れ、数十艘の漁船に乗組んで渡島し、毎船官許と表記した旗を立ててほしいままに漁場に入り、数尋の海底に潜り、舶来器械を使って海底を掃蕩する有様である。これでは今後沿海の漁民は何によって生活すべきかと 0 0 黒木村誌 0 510 1 心痛し、知夫、海士両郡の有志が集まって対策を協議中、宇賀村において暴発事故を生じた。そこで今後は以前(近世)のように町村の場区を定め、隠岐の零細漁民を保護してもらいたい、というのであろう。このような島外潜水漁業資本の隠岐漁民 0 0 黒木村誌 0 510 4 圧迫下において、「海産社」が果して所期のような成績をあげることができたかどうか、もう少し具体的資料の現われるのを俟たなければならない。 0 0 黒木村誌 0 516 1 教育令発布 明治五年、「学制」が領布されてから小学校は年々増かしていった。しかし、それは国家権力による強行の所産であり、このような理想的、画一的教育制度プランは初めから当時の民情や地方の実情との間にズレを生じていたのであって、 1872 0 明治5年 黒木村誌 壬申 0 516 3 教師の不足、施設の不備、過重な負担は次第に国民大衆の中に強い不信と不満を醸成していった。そこで政府もやむなく教育制度の改革に着手し、明治十二年九月には新しく「教育令」を布き、「学制」を廃止した。「教育令」の要点は大、中、小学 1879 900 明治12年 黒木村誌 己卯 0 516 6 区制を廃して町村に小学校を設立せしめること、学区取締の代りに学務委員をンけること、小学校は初等三年、中等三年、高等二年の修業年限八年(義務年限一年半)、但し土地の状況によっては四年とする、通学しないでも普通教育をうけられるものは 0 0 黒木村誌 0 516 8 就学とみなす、学校設置の負担が過重である地方へは巡回教授の方法をとるなど、府知事県令が地方の実情に照して編成し文部省の認可を受けて施行できるように旧学制の規定を軽減簡素化したのであった。しかし、このように地方の実情によってかなりの 0 0 黒木村誌 0 516 11 自由を許した結果、ややもすると教育施設の後退を招来する危険を生じたので、翌明治十三年には教育令の改正を行い、勧学の精神を振作し、義務教育を三年に延長してその徹底を期した。当時の詳細な資料は不足しているが、明治十三年三月現在の 1880 300 明治13年 黒木村誌 庚辰 0 516 15 状況は第三〜五六表の通りである。前表(第三〜四七表)とくらべると若干の相違がみられる。美田村では大山明校が無くなって、その代りに船越校が設けられている。別府校の生徒数が増加しているところをみると、大山明の生徒はたぶん別府校へ 0 0 黒木村誌 0 517 2 通学することになったのであろう。また宇賀村では物井校一校となっているが、生徒数の激減した理由については不審な点が多い。 0 0 黒木村誌 0 517 4 小学校令公布 国内の教育行政が進とともに当時の国情をも反映して明治十九年四月には根本的に教育制度の改正が行われた。即ち帝国大学令、師範学校令、中学校令とともに小学校令が公布されて、昭和期に至るまで長く教育制度の根幹となった。 1881 400 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 517 8 小学校、中学校、師範学校はそれぞれ尋常、高等の二等に分かれ、進学系統を尋常小学→高等小学−→尋常中学→高等中学→帝国大学。尋常小学→高等小学−→尋常師範→高等師範。とした。小学校は尋常、高等それぞれ修業年限を四年とし、この期間を 0 0 黒木村誌 0 517 11 義務制としたが、土地の状況によっては小学簡易科(修業年限三年、授業料免除)を設けて科目を簡易化し尋常小学に代用することができることとしたので、当時隠岐には多くの簡易小学校が設けられた。当地域の状況は第三−五七表のようである。 0 0 黒木村誌 0 517 15 その後、明治二十四年には別府簡易小学校は別府尋常小学校に、美田簡易小学校(波止)も美田尋常小学校(分教場か)になり、宇賀簡易小学校は廃されて別府尋常小学校の分教場となったが、明治二十八年には、さらに独立して宇賀尋常小学校となった。 1891 0 明治24年 黒木村誌 辛卯 0 518 2 高等科設置 明治二十八年、美田尋常小学校に高等科が設置さらた。はじめ隠岐に高等科の置かれたのは、明治二十一年西郷町に周吉外三郡高等小学校が設立されただけであった。が、その設置が指定され前年の明治二十年に早くも当地域人民総代は 1895 0 明治28年 黒木村誌 乙未 0 518 5 連署して次のような上申書を提出している。高等小学校設置之儀ニ付上申。曩キニ県令第二十二号ヲ以テ小学校高等科位置指定相成候ニ付テハ、全国四郡中西郷西町小学校ヲ除クノ外悉ク尋常簡易ノ二科ニ止マリ候処、他学区ニ於テハ其状況如何ヲ察 0 0 黒木村誌 0 518 10 シ難ク候得共、当区内ノ如キハ己ニ尋常小学ノ課程ヲ了シテ高等小学生徒ノ資格ヲ有スル者殆ンド将ニ五十名ナラントス。然レドモ唯高等小学校ノ遠隔地ニ在ルヲ以テ一朝挙テ其学ヲ廃セントス。此ノ如キハ大ハ以テ国家ノ為メ小ハ以テ一身ノ為メ実 0 0 黒木村誌 0 518 13 ニ嘆息ノ至リニ堪ヘザル所ナリ。故ニ望ムラクハ、区内ノ中央タル美田尋常小学校ノ規模ヲ大ニシテ高等小学校トナシ。是等ノ弟子ヲシテ完全普通ノ教育ヲ受ケシメバ、従来相継デi歩スル生徒ニ於テモ亦中途廃学ノ患ナク駸々乎トシテ学事ノ日ニ旺盛 0 0 黒木村誌 0 518 15 ニ趣クハ期シテ俟ツ可シ。其経費増加ノ点ニ至テハ部内人民ノ其責ニ任シテ敢テ辞セザル所ナリ。願クハ貴官ニ於テ右設置ノ途ヲ計画シ人民ノ希望ヲ満足セシメラレンコトヲ。此段部内議員等連署ヲ以テ上申仕候也。明治二十年七月。美田浦郷別府宇賀 1887 700 明治20年 黒木村誌 丁亥 0 518 20 人民総代連署。美田外三ケ村戸長、渡辺矢次郎殿。このような要望の結果、明治二十五年四月から、西郷町に設けられていた高等科の分教場を美田尋常小学校内に設置することになった。さらに二十八年四月には分教場を廃し、正式に修業年限四年の 1892 400 明治25年 黒木村誌 壬辰 0 519 2 高等科が併置され、美田尋常高等小学校となった。以上の小学校は多小の変迂をたどりながら、昭和十六年国民学校令の公布まで続いたが、黒木村成立前後の情況は前表の通りである。なお明治三十七年隠岐に町村制が実施せられた時、美田、別府、 1904 0 明治37年 黒木村誌 甲辰 0 519 5 宇賀の三村は合併して黒木村が誕生し、明治四十年には小学校令が改正されて義務教育たる尋常小学校は六年となった。註(1)明治三十七年美田尋常小学校(波止)は廃止せられ美田尋常小学校に合併されたが、尋常科第四学年までの仮教室を残した。 1904 0 明治37年 黒木村誌 甲辰 0 519 9 問屋 定期航路開設の急務 隠岐と本土間に定期航路を開設することは隠岐の近代化を進める上に、もっとも緊急に要する施策の一つであった。近世の小型帆船時代には各地の廻船問屋の手を通じ、適宜の便船に同乗して隠岐、本土間を往来したが、順風を 0 0 黒木村誌 0 519 11 得るまでには風待に数日を費さなければならなかった。前にも触れたように明治五年、各地に郵便取扱所が開設されてからも、隠岐国各郵便取扱所から伯耆国境郵便取扱所へ送る郵便御用物は適宜に便船をもって差立てることになり、これらの船頭は 1872 0 明治5年 黒木村誌 壬申 0 519 13 出帆の都度かならず最寄の郵便取扱所へ出頭し、郵便御用物の有無を問合わせた上で出帆しなければならなかったが、当時東京と当国間の信書の往復には二十日または三十日を要すのるが普通であった(「隠岐誌」)。または美田村戸長宇野幸彦が明治 0 0 黒木村誌 0 519 16 十六年九月、島根県十等を拝命して出県した時にも、九月八日美田村出発、十一日まで知夫村薄毛で風待ち、十一日出帆十二日松江着、帰路には十月十八日松江発、二十二日まで境と美保関で風待ち、二十三日出帆二十四日帰村と、往路に五日帰路に 0 0 黒木村誌 0 520 1 七日を要したのであった。このような状況の中に、隠岐本土間の定期航路を開設しようとする試みも二、三あった。たとえば明治十四年境港の植田文平は大阪薩摩堀の名越愛助を勧誘して同家の新造小型汽船航輪丸を就航せしめた(「隠岐誌」)。また 1881 0 明治14年 黒木村誌 辛巳 0 520 3 明治十五年には海士村の渡辺新太郎が、小型汽船玉津丸を借入れて隠岐と本土間の航路を開いた(横山弥四郎「隠岐航路史」)。明治十六年には兵庫県東河崎町有田喜一郎が小型汽船兵庫丸を就航させた。が、これらの試みはいずれも収支償わず、玉 1882 0 明治15年 黒木村誌 壬午 0 520 5 津丸の如きは一年も経たないうちに手を引かなければならなかった。 0 0 黒木村誌 0 520 6 隠岐航路近代化の機運 以上のように、当時の状況において隠岐本土間の定期航路を個人企業として経営することは極めて困難であった。あたかも明治十七年、藤川為親が島根県令として就任するにあたり、「島根県三大線路ノ改修着手ト共ニ汽船ヲ 1884 0 明治17年 黒木村誌 甲申 0 520 9 焼火 隠岐ニ航通セシメル」計画が起った(「隠岐誌」)。また隠岐でも早くから四郡々長高島士駿が同様の構想を腹蔵し、島前焼火神社の神主松浦斌もかねてから航路改善の急務を痛感して高島郡長に提議する所があった。ここから隠岐航路の近代化はようやく 0 0 黒木村誌 0 520 11 その緒につくことになるが、詳細はすでに横山弥四郎氏の「隠岐航路史」が公刊(昭和三十三年刊)されているのでそれに譲ることにし、本稿においては、かって隠岐汽船KKの六代社長であった美田村舟越の故安達和太郎手記「隠岐航路経営五十年 0 0 黒木村誌 0 520 13 回想録」(昭和二十一年刊)によって該事業発足の経緯について畧叙しておきたいと思う。 0 0 黒木村誌 0 520 15 四郡町村聯合会に提案 高島士駿は鳥取県士族であった。明治二年四月、八等官出仕として隠岐県に奉職し、その後一度は閑地にあったが、明治十年五月、四等警部として再び島根県に任官、隠岐支庁在勤を命ぜられてから同十八年退職するまで鋭意 1877 500 明治10年 黒木村誌 丁丑 0 520 17 隠岐行政の改革に挺身した。明治十年着任すると、排仏毀尺の結果政府へ返上した故寺院所属地の払下げを政府に申請し、明治十二年隠岐四郡々長に就任後ついにその運動は奏効してこれを隠岐国四郡の共有財産とすることができた。この四郡共有財産は、 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 0 521 2 その後の物価上昇によって一時は概算十五、六万円の巨額に見積もられていた(「隠岐誌」)。高島郡長は隠岐航路の公益性を考え、その共有財産をもって汽船を購入し、隠岐国四郡町村連合会において隠岐航路を経営する計画をたてた。そこで明治 0 0 黒木村誌 0 521 5 十七年四月、四郡町村連合会を召集して汽船購入の件を第一号議案として附議した。ところが当時の漁民は汽船の航海が烏賊漁業の妨害をするものであるとし、廻船業者の該事業を圧迫するものであると主張して猛烈に反対した。その上に近年の汽船 1884 400 明治17年 黒木村誌 甲申 0 521 7 就航の試みがすべて失敗していたので四郡町村連合会の議員の多数は、このような世論を無視した、しかも冒険的な事業に、四郡共有金を投入することは不可であると反対し、理事者である高島郡長の提案は否決寸前の運命であった。 0 0 黒木村誌 0 521 10 焼火 先覚、松浦斌 この時、弧軍奮斗した先覚が焼火神社の神主松浦斌であった。焼火神社は、前にも述べたように、海上鎮護の霊神として全国にその名を知られていた。したがって氏は早くから隠岐航路の近代化に意を注いでいた。ところがその為の最大の 0 0 黒木村誌 0 521 15 議案がいま目前において葬り去られようとするのを見て、氏は痛憤やる方なく、意を決して大胆にも、四郡町村連合会と共同で汽船を購入しようと提案した。この熱意に打たれてようやく議場の空気も一転して両者の間に妥協案が成立し、この結果両者の 0 0 黒木村誌 0 522 1 共同出資で大阪商船会社から速凌丸(隠岐丸に改名)を購入することになった。速凌丸の購入は幾多の曲折を経たが、その時両者の間に結ばれた契約(隠岐国、有汽船条約書)の骨子は、一、明治十八年一月より同二十七年十二月めでの十ケ年は松浦 1885 100 明治18年 黒木村誌 乙酉 0 522 4 斌が実除に運営する。一、速凌丸起業資本金と営業上の損益は、双方均一の金額を負担する。というものであった。この約定によって松浦斌は、船価並に創業費総計の半額に相当する抵当を郡役所へ預け置くことになり、約九千円に相当する分として 0 0 黒木村誌 0 522 7 焼火 焼火山の山林十三町歩に及ぶ立木松・杉九八五本を提供した。このようにして発足した隠岐航路の経営は不振であった。そのために氏が抵当として提供した焼火山の美林はことごとく損害の補填にあてられた。そかも氏は、この苦難の中にあって 0 0 黒木村誌 0 522 9 明治二十三年、三十八才の壮令をもって病歿した。隠岐航路の経営はその後幾多の変迂を重ねて今日に至るのであるが、いまここに紹介した創業時における氏の先見は高く評価されるべきであろう。 1890 0 明治23年 黒木村誌 庚寅 0 540 7 黒木村政の基盤 初代村長岩佐久一郎(美田尻)は、美田村三村連合時代より戸長として政治的才腕をふるい、引続き黒木村長の初代に公選されて、黒木村に近代的地方行政のレ−ルをしいたが、すでに老令のことでもあり、在任一期を終えずして他界 0 0 黒木村誌 0 540 9 された。明治末期から大正初期へかけて、二期村長に公選されたのは二代中西松次郎(大山)であった。単一村として発足した黒木村がようやく村政の基盤を据えた時期であろう。黒木村決算額を見ても、発足当時の二倍を越えており、産業経済面での 0 0 黒木村誌 0 540 12 各種計画と実施、教育面では腐朽校舎の建築、社会教育面での組織化と、各方面にわたって努力したが、特に大字宇賀より船越村境に至る第二種浦郷道改修工事をはじめ土木工事を推進した功績は大きい。 0 0 黒木村誌 0 540 15 第二種浦郷道改修工事(自大字宇賀、至舟越村境) この工事計画は十年も前から立案されており、かなり難かしい問題を含んでいたようである。次に明治三十一年、元別府外二村戸長久山義英が退職に当って特に残した引継演説書をあげよう。 1898 0 明治31年 黒木村誌 戊戌 0 541 1 改修道路引継演説書。宇賀村ヨリ浦郷村ニ至ル道路改修工事之儀ハ、過ル明治二十九年中、其筋ヘ請願ノ処、同三十年四月許可相成候ニ付テハ、同年九月一日ヨリ工事着手之見込ヲ以テ県庁ヘ及上申候得共、其元設計ハ一万二千八百円ナルモ、物価騰 1897 400 明治30年 黒木村誌 丁酉 0 541 3 貴ノ為メ其費額ニテ到底成工之見込相立ザルノミナラス、該設計ハ非常之高額ナルヲ以テ、議員、組長及九位以上ノ頭分ヲ召集シ協議之結果、可成費用ヲ節減セン事ヲ計リ、其筋ヘ打合セノ上大変更ニ着手セシモ、中途ニシテ取扱ノ行違ニヨリ非常之 0 0 黒木村誌 0 541 5 紛議ヲ起シ、遂ニ中止スルノ止ヲ得ザルニ至レリ(後畧)。明治三十一年二月十三日。元別府外二村戸長、久山義英。別府外二村戸長代理、用係、丹羽鶴彦殿。右の本文によると、この工事は、はじめは大字宇賀より浦郷村に至る長区間の計画であった。 1898 213 明治31年 黒木村誌 戊戌 0 541 11 明治二十九年、県へ請願し三十年四月には許可が下りたので九月より着工の予定であった。ところが物価騰貴のために設計費が不足することになり、地元でも負担の過大をおそれて経費の節減を上申するなど、とかくの間に紛議を生じて中止となった 1901 900 明治34年 黒木村誌 辛丑 0 541 13 のである。本文の中にいう「九位以上ノ頭分」は、県税負担の等級で、明治三十四年の例でいうと九位以上は美田村に四名、別府村に一名、宇賀村にいない。紛議の原因が対外的に浦郷側にあったか、または対内的に別府外二村連合側にあったか、よ 1901 0 明治34年 黒木村誌 辛丑 0 541 16 くわからないが、明治三十四年別府外二村連合では、三村連合土木費負担規定を設定した。 1901 0 明治34年 黒木村誌 辛丑 0 543 14 船引運河の竣工 船引運河の竣工は大正四年のことであるが、その開鑿の目的を、計画書には、継ぎのように述べている。(前略)美田内湾、又は浦郷港より裏灘に至る航路は、赤灘又は中井口を迂回せざるべからざるを以て、距離非常に遠隔なるに 1915 0 大正4年 黒木村誌 乙卯 0 543 15 加えて、途中風波の為め、内外海の漁業を意の如くなす能わず。然るに、組合両村生活の大部分は漁業を以て生計を営みつつあるも、近来両村の東方面は魚族の群来稀少となりしに拘らず、西海岸は常に能く群集の状況にあり。(中略)為め両村の漁民 0 0 黒木村誌 0 543 17 は主として西海岸に於て漁業を営まんとするも、西海岸は港湾として認むべきものなき為め、安全に出漁するを得ず。殊に冬期の如き、殆ど出漁の期を失する事甚だしく、今や両村民の生活問題に多大の影響を見んとするに至れり。是れが救済に付ては 0 0 黒木村誌 0 543 19 一日も忽せにすべからざるを以て、両村の中央部に当れる地峡を掘鑿する時は、西海岸の出漁者は、一朝風波険悪なる時は此開鑿部を通過して、安全なる内湾に容易に非難し得らるるのみならず、漁獲物も直ちに売買市場へ運搬し得らるるの便あり。 0 0 黒木村誌 0 544 1 且つ農産物の運搬等にも至大の便益を得て、其公益莫大なるを信ず。是れ本業を企画せし所以なり。(後略)右の計画書によると、船引運河開鑿の目的は、外海における漁場の開拓と操業の安全、および内海と外海を通ずる運輸交通の利便を鯨る為で 0 0 黒木村誌 0 544 4 あった。この案件が、はじめて村会に提起されたのは大正二年であった。同年七月二十八日、村長中西松次郎は次のような議題を村会に上程し、可決された。第三号。字船引地峡開鑿之件。1大正三年度及大正四年度継続事業トシテ本村内大字美田船 1913 728 大正2年 黒木村誌 癸丑 0 544 9 引地峡ヲ開鑿スルモノトス。一工費ハ、本村及浦郷村ノ村組合ヲ設置シ、組合ニ於テ負担ス。其負担額ハ、組合設立協議会ニ於テ之ヲ定ム。但組合成立セザルトキハ、本村単独ノ経営トス。一工費ハ、本村其本財産ノ内ヨリ一時繰入ヲナス。其積戻年 0 0 黒木村誌 0 544 12 限ハ更ニ決定スルモノトス。本工事は、隣村の浦郷村もまた利害を共有する立場にあるところから、基本的には両村組合を設立し協力をして事に当ろうと考えたのであるが、もしも浦郷村が同意せず、両村組合成立せざる場合は、黒木村単独事業としてでも 0 0 黒木村誌 0 544 14 初志を貫徹しようという強い決意を表明している。だが、浦郷村も賛同し、組合設立協議会を持って計画を進めた結果、村組合設置の件が正式に黒木村会において可決されたのは、大正二年九月十二日であった。そうして、次のような「村組合規程」 1913 912 大正2年 黒木村誌 癸丑 0 544 17 が承認されたのでる。村組合規程。第1条、本組合ハ、浦郷村黒木村組合ト称ス。第2条、本組合ハ、浦郷村黒木村ノ二村を以テ組織ス。第三条、本組合ハ、知夫郡黒木村大字美田字船引運河掘鑿ニ関スル事業ヲ共同処弁スルモノトス。第四条、本組合ハ、 0 0 黒木村誌 0 545 2 黒木村役場内ニ設ク。第五条、本組合会議員ノ定数ハ六人トシ、各村会ニ於テ其議員中ヨリ三名ツツヲ互選ス。(註)第六条、本組合会議員ノ任期ハ、村会議員ノ任期ニ従フ。第七条、本組合会議員ノ選挙ハ、組合事務管理者ノ告示ニヨリ、之ヲ行フ。 0 0 黒木村誌 0 545 6 第八条、本組合ハ、組合事務管理者ヲ以テ議長トス。若シ故障アルトキハ、年長議員ヲ以テ、之ニ充ツ。第九条、本組合ノ議決スベキ事項、左ノ如シ。一歳入出予算ヲ定ムルコト。二決算報告ニ関スルコト。三其他、必要ナル事項。第十条、本組合ノ 0 0 黒木村誌 0 545 10 事務管理ハ、本組合ノ存在中、之ヲ黒木村長ニ嘱託ス。第十一条、本組合事務管理者ノ職務権限左ノ如シ、一組合会ノ議決ヲ経ベキ事項ニツキ、其議案ヲ発シ、及其議決ヲ執行スルコト。二組合会ノ議決ニヨリ組合費ヲ微集シ、及会計事務ヲ掌ルコト。 0 0 黒木村誌 0 545 15 三其他、必要ナル事項。第十二条、本組合経費ハ、前年十二月末日ノ現在戸数ヲ標準トシ、各村ニ分賦スルモノトス。(註)第五条は、十二月二十六日次の如く更正された。「本組合会議員ノ定数ハ六名トシ、内二名ハ黒木、浦郷両村長ヲ以テ之ニ充 0 0 黒木村誌 0 545 18 テ、四名ハ各村会ニ於テ、其議員中ヨリ二名ヅツヲ互選ス。」右の規程によれば、本組合の事務管理には黒木村長が当り、組合経費は前年末の戸数によって、両村へ按分することになっている。また、この事業に対し大正三年、県費補助もあった。第 1914 0 大正3年 黒木村誌 甲寅 0 545 22 三〇号。県費補助移付之件。本年三月三日付ヲ以テ指令アリシ本村内大字美田字船引運河開鑿事業ニ対スル補助金五千九百円ハ、本日限リ黒木村浦郷村組合ニ移付スルモノトス。(大正三年四月二十三日提出、黒木村長中西松次郎)大正三年六月二十二日、 1914 622 大正3年 黒木村誌 甲寅 0 546 5 「船引ニテ同所切抜事業開始ニ付、午前十時地鎮祭執行」(宇野幸彦日記)の後、工事に着手した。約九ケ月の後、大正四年三月末に延長三四〇メ−トル、底幅五、五メ−トル、平水深一、六五メ−トルの規模をもって船引運河は完成した。大正四年 1915 300 大正4年 黒木村誌 乙卯 0 546 9 五月二十四日には県知事列席の上、晴の開通式が挙行され、両村をあげての祝賀行事が催された。宇野幸彦日記によれば、二十四日、北風、晴。一船引開通式ニ出席ス。、、、、余興ノ為、両村各小学尋常三年以上ノ生徒ノ旗フ操アリ(其ノ人員凡五百人。) 0 0 黒木村誌 0 546 13 次ニ闘牛一番アリ。勝負セズ、分ケタリ。牛ハ美田ノ種牛ヲ以テス。次ニ、トモド舟六十艘ヲ以テ、各国旗ヲ立テ、運河ヲ内ヨリ外ヘ往復シ、次ニ西郷叶屋芸伎六人ニテ手踊数番アリ。来賓ニハ折詰ヲ出ス。午後五時解散ス。(後略)と書かれている。 0 0 黒木村誌 0 546 17 簡畧な記述であはるが、その盛況ぶりを偲ぶことができよう。組合は運河竣工後も、引続き存置されて、その管理に当ったが、「船引運河費県費支弁トナリシタメ存置ノ必要ナキヲ以テ」、解散の議題が村会ニ上程可決されたのは大正十二年十二月二十七日 1923 1227 大正12年 黒木村誌 癸亥 0 547 1 であった。大正二年九月設置以来、十年の歴史を閉じたのである。一部資料の欠如分があるが、その間に要した費用の概要は第三〜五九表の通りである。 1913 900 大正2年 黒木村誌 癸丑 0 565 3 思われる甘薯の生産が昭和期に入って急激に減産するのは、それだけに米の消費が増大しているこを意味するのであろう。養蚕は明治以来奨励されて来た。西郷町外十一村組合事業として経営されて来た桑苗園が各町村事業に移されることになり、黒木村 0 0 黒木村誌 0 565 14 農業生産物概況 それでは、ここで大正初期から昭和初期に至るころの農業生産物の概況を見ることにする。当時、一般的には第一次世界大戦ブ−ムの影警下に前半を送ったが、黒木村ではこの間に前述の如く資本主義経済に直結して地主制(寄生地主制) 0 0 黒木村誌 0 565 16 が進展し、中産以下の農民層の農家経済も貨幣経済化して、直接に景気変動の波をうけて浮沈する段階に達していたので、後半の大正の大正九年農業恐慌(米価、糸価の暴落)以降にはその影警をうけ、後述するように過剰人口の圧力も作用して、これから 1920 0 大正9年 黒木村誌 庚申 0 565 18 食事 慢性的に農家経済は後退した。まず田、畑の制産物を概観すると、米の生産は伸びている。水田の増加、生産技術の改良進歩の賜である。が、畑作物は、一般に生産減の傾向をたどっている。中でも近世から明治初期にかけて最大の食糧源であったと 0 0 黒木村誌 0 566 7 でも発足の翌年、これを村で経営することにした。その後、明治末期には蚕業講習生が募集され、養蚕教師を雇入れて村内の巡回指導に当らせたが、大正十年代になると常設蚕業技術員が置かれ、養蚕は農家の主要な副業となった。これは昭和二年はじめの 0 0 黒木村誌 0 566 11 村会において村当局が、「養蚕業は農家の副業として、現在における農家並に耕地の関係上発展の余地少なからざるを以て、蚕糸業同業組合支組合と協力し、飼育技術の向上に、飼育法の改善に、養蚕戸数の普及に桑園の改良拡張に、鋭意之れが指導 0 0 黒木村誌 0 567 1 奨励に努め、産業経済の向上を期しつつあり」と報告していることからも知られる。しかし村当局の努力にもかかわらず、すでに糸価は低落の一途をたどっていたのであって、同報告はまた「一年を通して生糸相場の低落のため、繭価安く、養蚕収入 0 0 黒木村誌 0 567 4 減収を来したるは、頗る遺憾とする所なり」と述べなければならなかった。表の上にも明かなように、昭和六年ごろには、大正末期にくらべて生産高は二倍近くに達しようとしながら、生産額は遂に半減に近くなっている事実に注目しなければならない。 0 0 黒木村誌 0 567 8 しかし、この間にも桑園反別は大正十四年の四四町五反から、昭和七年には七七町歩を越え、生産高も同年には三九三二〇貫と上昇しているのであって、黒木村における最盛期は、なお二、三年続いている。近世以来、耕牧輪転式経営を続けて来た本 1925 0 大正14年 黒木村誌 乙丑 0 567 11 村にとっては、畜産もまた農家にとって大切な副業であった。昭和初期と大正初期をくらべてみると、牛馬頭数において二倍以上に増加している。また昭和二年の飼育戸数についてみると、2〜3頭所有の農家が大部分である。昭和初期に入ると馬の 1927 0 昭和2年 黒木村誌 丁卯 0 567 15 頭数がふえ、昭和六年には、本村産馬の振興を図るために牧野改良施設が設けられた。危険防止用隔障柵、牧場と耕地との境界柵、牧場区画柵が十キロメ−トルにわたって設けられ、牧場内の荊棘、障害雑木を除去するなど放牧馬の保護が図られたが、 1931 0 昭和6年 黒木村誌 辛未 0 567 17 これは耕耘、運輸用に移出しる馬の需用が増したからであろう。本村の牛馬は、一年中の大部分を放牧し、舎飼するのは冬期間僅かの日数である。しかし、僅かの日数とはいってもその期間に多数の牛馬を舎飼するには飼料、労力の上から、かなりの 0 0 黒木村誌 0 568 2 負担を要する。そこで4〜5頭ネ上の牛を所有する者は、その中の数頭を「預け牛」に出す。この慣行では、預かった牛が子を生み、それが四頭であると牛主が三頭を取り、飼う者が一頭を取る。これが預かった人の報酬となるわけである。あるいは、 0 0 黒木村誌 0 568 6 預かった牛を売却すると、足一本に相当する金(四分の一)を預かり主が得ることになる。毎年定期的に牛寄せをして価格評価をし、そこで売買交換をした。林産物が全生産額の中に占める比率は、先に見たように大正初期には5〜6%で、まだ大きな 0 0 黒木村誌 0 568 10 位置を占めるものであはなかったが、昭和初期になると20%内外の比率を占めるようになっていた。その内容について見ると、大正初期には杉材のほかに、椎茸のしめる比率が50%以上を示して目立つ存在であったが、昭和初期になると、椎茸に 0 0 黒木村誌 0 568 13 代わって木炭の生産が伸びていることがわかる。 0 0 黒木村誌 0 568 15 水産物 前にみたように黒木村の第一次産業の中において、水産業に従事する世帯の占める比率は、戦前まで10%内外に過ぎなかった。美田小学校資料について見ると、昭和二年の戸数八〇九のうち、水産業を本業とするものは九〇(一一%)、副業 1927 0 昭和2年 黒木村誌 丁卯 0 568 17 とするもの一二〇(一五%)になっているが、ここにいう本業は、かならずしも全部が水産業一本によって生計を立てているのではなく、多かれ少なかれ農業を兼ねるものが多く、大部分は農業兼業形態であるとみて間違いはない。その結果、資本が 0 0 黒木村誌 0 569 2 分散して、近代化に必要な生産手段も確保されず、技術化も遅れて積極的な態度を示すことができない。ここに挙げた表の「A沿岸漁獲物」には、昭和九年の計数の中に、「B水産製造物」の原料分をも含んでいるのではないかと思われるので簡単に 1934 0 昭和9年 黒木村誌 甲戌 0 569 8 比較することは出来ないようであるが、大体の傾向として、魚では飛魚、あわび、さざえの魚貝類、和布、のり、てんぐさの海藻類が重要な品目であることがうあかがわれよう。ここで特に注目しなければならないのは、「イカ」の減産が目立っている 0 0 黒木村誌 0 569 14 ことであって、大正初年迄主として行われていた二番柔魚の釣魚が、大正三、四年頃から海流の変化によって著しく不漁となり、スルメ製造も激減したのは(西川栄一「隠岐列島人口の地理学的考察」)、他の要素と一緒になって、出稼の一因となった。 0 0 黒木村誌 0 570 2 主要移出入品 大正末期と昭和九年の主要移出入品を比較してみると、両年ともに移入額がはるかに大きい。 0 0 黒木村誌 0 570 3 出稼増加 以上のように昭和初期までの黒木村の産業は、まだ未分化の状態にあって、その基調は第一次産業、つまり農業、漁業にあった。第一次産業の中で80%を占める農家についてみると、前述のように経営規模においても、また所有規模においても、 0 0 黒木村誌 0 570 5 五反以下の階層が大部分であった。これでは十分の生計を立てることは出来ないので、他に現金収入の途を講じなければならない。そこで牧畑の小作とか、養蚕、漁業に従事することになる。この間における戸口の動向は第三〜六八表(A、B)の通り 0 0 黒木村誌 0 571 4 である。戸数(A)と人口(B)の動向表を比較すると、戦前においては、いずれも大正初期がピ−クである。しかもそれまでは、割合に増加傾向が並行的であるのに、ピ−クの時期を過ぎて下向現象を見せはじめる時には、戸数の減少傾向にくらべて 0 0 黒木村誌 0 572 1 人口の減少傾向が急激に大きくなっていることがわかる。この人口減少は、いうまでもなく出稼による結果であって、当時の黒木村の産業経済の抱擁力からみて過剰人口となったものである。先に述べたような半農半漁に誓い農家経済において、牧畑 0 0 黒木村誌 0 572 3 の畑作経営は多労力の割合に多収穫は望まれず、大正の初期からは蚕繭の下落がつづき、同じころからスルメイカの不漁現象を中心をする沿海漁業の不振は、大きな打撃となった。あたかも当時は第一次世界大戦ブ−ムの影響で都会では急激に雇用力 0 0 黒木村誌 0 572 5 が増大し、産業都市の労働力吸収が大きかったので、過剰人口の大部分は出稼のために土地を離れたのである。 0 0 黒木村誌 0 591 14 産業構造の分化 前にも述べたように黒木村の産業は、第一次産業に依存する度合いが大きく、未分化の状態で明治以降を経過して来たが、この傾向は大体において第二次世界大戦まで続いた。ようやく分化傾向が現れくるのは、戦後数年を経てから 0 0 黒木村誌 0 591 16 ことである。次に業態別世帯数の動向を第三−七〇表によってさぐってみよう。まず第一に、第一次産業の占める比率が大きく下降の傾向を見せるのは、昭和二十五年以降である。昭和二十五年以降、第一次産業世帯数の比率が下降傾向を示すのは、 0 0 黒木村誌 0 592 3 農業世帯数が減少するからである。その内訳を右表についてみると、次のようなことがわかる。戦後数年を経過すると、専業農家が次第に減少する。と同時に、第一種兼業農家数は割合に安定しているのに第二種兼業農家数が増加する。これは前に見た 0 0 黒木村誌 0 593 1 ように、戦後一度は増大した黒木村の戸口が数年後にはふたたび減少していく傾向とマッチしている。その頃から戦後の農村景気は凋落し、そのために零細な農家経済の困難から脱農化傾向を促進するとともに、都市では朝鮮動乱ブ−ムが生まれて出 0 0 黒木村誌 0 593 8 稼現象を再現したからであろうと思われる。しかし、それだけではなく、相対的な理由としては他産業に従事する世帯の増加していることをあげなければならない。第二次産業では建設業、製造業に従事する世帯が漸増する傾向にあり、第三次産業では 0 0 黒木村誌 0 593 15 運輸、サ−ビス業に従事する世帯が、戦後数年間にして急激に増加している。次に地区別、産業別に概観してみよう。 0 0 黒木村誌 0 594 2 別府、美田尻地区を除くと(後述)、大体において農業を中心とする第一次産業に依存する傾向が強い。そこで次に戦後の第一次産業の推移を概観することにしよう。米の作付面積とカ産高を、戦時経済の初期である昭和九年に比較してみると、いずれも 0 0 黒木村誌 0 594 8 戦前の七、八割にしかならない。やはり戦時中の荒廃が尾を引いているのであろう。麦は敗戦直後の昭和二十一年の作付面積と生産高を戦前の昭和九年に比較すると、いずれもその半ばに過ぎない。ところが、作付面積はその後も戦前の半ばにも及ばないが、 0 0 黒木村誌 0 594 13 生産高は次第に増加して戦前の水準を上廻るようになっている。栽培技術、肥培管理の向上によるものであろう。耕作の機械稼も遅れている。原動機、動力作業機についてみると、昭和二十二年の調査ではまだ一台も導入されておらず、二十三年になって 1947 0 昭和22年 黒木村誌 丁亥 0 594 18 石油 石油発動機(冷水)二台、脱穀機(動力)二台が入っている。畜力カルチベ−タ−が二十八年に一台、三十年の資料には石油発動機(冷水)二台、fィゼルエンジン七台、畜力カルチベ−タ−一台動力脱穀機五台、自動送込型五台が載せられている。 0 0 黒木村誌 0 595 6 養蚕の凋落はおおうべくもない。最も盛んであった戦前に比べると、収繭高、桑畑面積ともに、その一割内外に過ぎないのである。特に食糧事情の窮迫した敗戦直後のころは、最低の状態である。牛馬、その他の畜産においても、はるかに戦前を下廻って 0 0 黒木村誌 0 595 11 いる。殊に馬の場合はにどい。戦後の一時期養豚熱が盛んになったこともあるが、それも程なく下火になっている。ただ鶏だけは、むしろ普及する傾向にあるように見受けられる。昭和二十四年の林野面積は上表のように全部で二八〇三町歩であるが、 1949 0 昭和24年 黒木村誌 己丑 0 595 16 木炭 その九七%以上が個人所有である。また林産物について見ると、用材の産出には消長が見られるが、木炭は次第に産出量を増している。第三〜七〇表(業態別世帯数の動向)の第一次産業において、昭和二十五年以降林業世帯が急激に増加しているのは、 0 0 黒木村誌 0 596 4 木炭 二十五年より三十年ごろまでの用材価格の高騰による山林ブ−ムの影響であろうし、また三十五年に林業世帯が激減しているのは、反対にブ−ムが三十年以降下火になったからであろう。昭和二十二年十月の資料によると、森林業一四、木炭製造業五一、 0 0 黒木村誌 0 596 9 木炭 其他の林業二とあり、炭釜のもっとも多いのが大山地区、ついで美田地区(大津か)であるから、林業の消長は、この二地区に顕著に現れているのであろうと思われる。前に見たように、第一次産業の中にいける漁業世帯の比率は、戦前戦後を通じて 0 0 黒木村誌 0 596 14 あまり大きな変動はない。これを昭和二十二年と三十五年の両年について比較してみると、専業が若干増し、第二種兼業が減少する傾向にあることがわかる。専業で増加したのは船越(7)、大津(2)、波止(2)が主である。第一種兼業では、漁業 0 0 黒木村誌 0 596 16 を主とし兼業に第一次産業に従事する世帯が大部分であるが、この兼業は多分農業であろう。第二種兼業でも、第一次産業(やはり農業であろう。)を主とし漁業を兼業とする世帯が多く、わずかに美田尻、別府地区では第三次産業を主とし漁業を兼業 0 0 黒木村誌 0 596 18 とする世帯の比率が大きいが、この二地区では後で見るように小売業、運輸業、サ−ビス業を主にしているのである。漁船保有の動向についてみると、戦後の数年を経過すると動力船が急激に増加して来る。これは当時イカの豊漁に伴い漁船(動力) 0 0 黒木村誌 0 597 4 を新造する者が多くなったためで、大部分は五トン以下の小規模の船である。このことは漁獲高の上からもわかる。昭和二十五年ごろの漁獲高の五〇〜七〇%はイカが占めているのである。その結果、その頃は水産加工の面においてもスルメの生産が 0 0 黒木村誌 0 597 10 大きいが(後述)、イカの漁獲は二十八年以降、ふたたび不振になってしまった。 0 0 黒木村誌 0 597 12 第二次産業 第二次産業の就業人口に対する構成比は、わずかに七〜八%に過ぎない。その中では、建設業と製造業が主で、地区では物井、大津地区の比率が比較的高い。建設業は土木事業なでの大規模業者が増加したためであろう。製造業は食糧品 0 0 黒木村誌 0 597 18 品業者が大部分で、ほかに木材及木製品、家具及建具、金属品製造業者などがある。昭和三十年の工業調査によると、上表の事業所が載っているが、この外に各種の水産加工業が含まれるわけてある。水産加工ではスルメとワカメが多い。その中でスルメ 0 0 黒木村誌 0 599 4 製造について見ると、昭和三十年ごろまでは多いが、それ以降は激減している。 0 0 黒木村誌 0 599 6 第三次産業 第三次産業の就業人口に対する構成比は、次第に上昇しつつある。その中でも、別府、美田尻地区が最も多きい。その原因は、この地区に小売業者、サ−ビス業、公務に従事する人々が断然多いからである。商店数は右表のようであるが、 0 0 黒木村誌 0 599 8 別府、美田尻地区に集中的である。しかし商店数と就業人口を対比してみればわかるように、一商店当り平均従業者は一、五人に過ぎず、大部分が小規模兼業経営である。前にも見たように、この兼業は多分漁業であろう。またこの地区は、海士では 0 0 黒木村誌 0 599 10 観光 隠岐航路の寄港地、菱浦その他内海各港と結ぶ拠点に当り、陸上ではもっとも交通量の多く、最重要路線である別府−本郷線の起点に位し、集配局もここにあるので運輸通信業従事者も多い。さらに観光事業開発の気運に乗じて旅館、料理飲食業その他 0 0 黒木村誌 0 599 13 のサ−ビス業もここに集中した。要するに本村の産業において第三次産業への分化は、別府美田尻地区から始まったといってよい。 0 0 黒木村誌 0 403 5 植林 焼火神社には次のような制札が残っている。「定。焼火山立山是より東西山上まて入こみ材木薪きりとり申ましく候若於相背は可為越度者也。寛文拾弐年子五月廿二日。奉行所。」これは松江藩二代の藩主綱隆の代、神領たる故を以て建てられた奉行所の御制札であるが 1672 522 寛文12年 黒木村誌 壬子 0 403 11 植林 、焼火文書によると、これより先、寛永十八年社辺に杉木を植えたことが見え、元禄八年にも伊勢山に杉の植樹をした由が見えるけれども、詳細は分からない。ところが降って寛延、明和年間になると、大規模な計画的植樹が行なわれているのである。その資料 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 403 15 植林 は、「杉苗植付意趣書置」(焼火文書)であるが、長文であるので次に要点をあげて説明しておこう。この計画をはじめたのは雲上寺別当快栄上人である。快栄上人は、寛延三年より明和六年に至る約二十年間の間に、五万五千本の杉苗を植樹したのである。そ 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 403 17 植林 の意趣について快栄上人は、次のように述べている。「杉苗植付候意趣は、後代に至て御宮並寺院蔵等修造便りの遠計にも相成と存じ、昼夜心を尽し苗扱いたし植付候上は、たとへ一枝一木たりとも私用に切取申間敷候。長木に相成候はばそぎ、又は修造等之砌能ほど見合切用可申 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 403 19 植林 候。其跡へは亦過分に植付可申候・・。」というのであるが、さらにつづいて、「植付之内、びやみつくり海辺壱千本余植付有之候分、山神様御修造之心当に植置申候。今度幸御宮再建立仕、銅瓦にいたし置候。後代に至候者修理も及怠慢可 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 4 植林 申哉と右の訳等記置候事。」と述べて、この壱千本は山神様御修造の為であること、また植付之内、廻りの渓谷三箇所に一万八千本余植付置候分は、「是は一切経建立之念願に而植置申候。長木に及候はば、後代に至り売代となし、一切経建立有之度候。」とそ 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 6 植林 の目的を明らかにしている。植樹については、「此度御鎮守へ御断申上、土地能風蔭を見立、雑木切払、地下人共へ遣、心を尽し植置」いたのであったが、さらに今後も「此段猶又杉植付度候者、第一先苗扱沢山仕懸け、其後少々宛風蔭之谷合土地を見立、雑木 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 9 植林 を地下人共へ遣、則杉苗を其人へ植付候様下知可仕候」と、苗を多く仕立てること、適地を選ぶこと、必要な労働力は雑木を地下(里)人に与え、その代わりに植付けの手間を出してもらうことなどを指示し、「植杉折々は下切仕次第杉せり合候はば、悪木をま 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 11 植林 ひき、無油断守護可仕事」と、下刈間伐に至まで心を尽くして書き留めてある。この「杉苗植付意趣書置」を書いたのは明和六年三月のことで、当時快栄は隠居しており、証人として近藤文太夫(別府村庄屋)をはじめ米屋平右衛門、岩佐助三郎、安立武太夫、 1769 300 明和6年 黒木村誌 己丑 0 404 13 植林 宇野七十郎など、別府村美田村有志の面々が連署し、宛名は当住職圭快御房、後々住職連となっている。ところが快栄上人は、その後、文化のはじめまで存命であって、この書置には安永六年の筆で、「今安永六丁酉迄次第に植付候所、十万余有之候」と書き加 1777 0 安永6年 黒木村誌 丁酉 0 404 17 植林 えている。島前の美林といえば、此所を措いて他に見ることは出来ないが、その蔭には、このような先覚の努力が積み重ねられていたのである。 0 0 黒木村誌 0 405 1 中世の末期、吉川元春の隠岐国支配に当たって、御用船として日吉丸・観音丸の新造が行なわれ、慶長十八年検地においては、島前配船の観音丸船頭として美田尻の久右衛門(屋号重屋)に切米四石三斗四升、二人扶持の外に一反の御免除屋敷、また船大工とし 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 405 3 て甚左衛門(市部)、助三(不祥)の両名にそれぞれ切米四石三斗四升、一人扶持の外に八畝の御免除屋敷が給せられたことは既に述べた通りである。寛永十五年、松江藩の領地となって同藩仕置役人の渡島の際にも、「松江迄御迎には船頭九左衛門、宇賀村新 1613 0 慶長18年 黒木村誌 癸丑 0 405 6 八、知夫里村三郎兵衛、浦之郷村七兵衛、右之者共、殿様へ御見仕、御三人之御供仕罷帰候」(中村、横地文書)とあるが、この船頭九左衛門は慶長年度の久右衛門の子と思われる人物であって、この家は引き続き観音丸の船頭を勤めていたのである。このよう 1638 0 寛永15年 黒木村誌 戊寅 0 405 10 に天領時代に入ってからも、この船は受継がれ「一、御船観音丸。御当国御私領の時分は勿論、寛永十五年寅より元禄元辰まで、御物成雲州御蔵まで江戸大公儀様御手船を以て御運送被遊、島前に而観音丸、島後に而日吉丸二艘有来」(同上)というように、年 1638 0 寛永15年 黒木村誌 戊寅 0 405 14 貢や官物の輸送、あるいは公役人の交代巡見使・吟味役人の渡海など、公用一切の用務に使役されたのであった。船体構造、修復造立の状況は詳らかではないが、延宝九年巡見使一行渡海の時、観音丸は巡見使服部久右衛門の荷物船として運航し、その際の記録 1681 0 天和元年 黒木村誌 辛酉 0 405 17 によると、四十六挺立、八人乗りとなっている。造立年代のはっきりしているものを挙げると貞享二年(1685)、銀九一六匁二分八厘、米三八石六斗九升九合をもらって新造立を終えたが(加茂井上文書)、それから四〇年後の享保九年(1724)にも、 1681 0 天和元年 黒木村誌 辛酉 0 406 2 橋舟(はしけのこと)とともに新造している(天明二年「隠州御用定式大概書」)この時は、「観音丸御船一艘 長三丈四尺・横一丈四尺・深四尺一寸、但一八〇石積位」であるという。当時、島後に配船の日吉丸は廃止され、観音丸一艘であったので、入用の 1782 0 天明2年 黒木村誌 壬寅 0 406 7 材木は島前御林の松材を用いた。手続きの順序は、まず観音丸船頭・船大工が目論見帳(見積書)を郡代に提出し、郡代は奥書をつけて江戸の松江藩御留守居番へ送り、御留守居番と江戸勤番の郡代両名がさらに奥書を添えて勘定奉行に願出たのであった。勘定 1782 0 天明2年 黒木村誌 壬寅 0 406 10 奉行の認可証印をもらい、米は隠岐の年貢の内から、銀は大阪金蔵から渡されることになった。ところがそれから十三年後、享保二十一年にも前回と同様の手続きを経て新しく造立している。なお、観音丸の帆は御座帆で損じ易かったので、少し高価についても 1782 0 天明2年 黒木村誌 壬寅 0 406 12 木綿帆を使用すれば耐久力に勝っているから結局その方が利益であろうということで、享保六年にはじめて木綿帆になったという(同上) 1721 0 享保6年 黒木村誌 辛丑 0 462 9 郵便局 郵便事務の開始郵便事務のはじめられたのは明治5年7月1日、知夫・菱浦・崎とともに別府郵便取扱所の設けられてからである。その任に当ったのは、それまで別府公文をつとめていた近藤与二郎であった。当時創業の状況は極めて頼りないもので、 1872 701 明治5年 黒木村誌 壬申 0 462 11 郵便局 隠岐と本土の郵便運送も幸便を待ってこれに託送する状況であったから、東京と当国間の信書の往復には二十日、または三十日、甚だしきに至っては2・3カ月を要することも珍しくはなかったという(隠岐誌) 1872 701 明治5年 黒木村誌 壬申 0 462 14 郵便局 別紙ノ通御達ニ相成候条此段相達候間、本文御承知ノ上御順達、見留方ヨリ早々御返却可有之事。別府四等郵便役所・印 別府・美田・浦郷船改所 御中。「隠岐誌」右の文書は、次に示すように明治6年のもので、すでに別府郵便取扱所は、 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 462 17 郵便局 別府四等郵便役所と改称されていた。船改というのは、この数年前から各浦々に設けられていた役所で、入津・出港の船を改め、船頭・積荷を検し、これを点検帳に記載する事務を執っていた。右の通達は別府四等郵便役所から、別府・美田・浦郷の 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 2 郵便局 船改所へあてたもので、内容は別紙の通り御達しがあったので本文をよく読み、別府・美田・浦郷へと順送りの上、最後の見留方(浦郷)から早々返却されたい、というのである。そこで別紙というのは次のようなものである。 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 5 郵便局 別府郵便取扱所 隠岐国各郵便取扱所ヨリ伯耆国境同取扱所迄ノ郵便御用物便船ニテ差立候御規則ニ付、出帆ノ説ハ其都度最寄取扱所ヘ船頭罷越シ、御用ノ有無承候上出帆候様、兼テ相達置候得共、無其儀御用向差支甚ダ不都合ノ事ニ候、自今出帆免状 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 6 郵便局 受取候節、左ノ雛型通リ切符船改所ニ於テ相渡候、尤モ風波ノ模様ニヨリ幾分カ相立候トモ揚錨ノ前取扱所ヘ差出候ニ付、御用物並ニ切符有無トモ相記シ、直ニ可相渡事。但本付十五日ヨリ切符相渡候事。酉年十二月五日。島根県隠岐支庁「隠岐誌」 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 13 郵便局 雛型は美濃八ツ折丈のもので、何月何日 船改所 印 一何丸 隠岐国何郡何村 船頭誰 御用物相渡候、或ハ無之候也。という形式である。本文記載の内容をみると、隠岐と境の間の郵便物運送は、隠岐の浦々を出港する便船の船頭が、出帆前かならず 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 463 19 郵便局 その度毎に一番近い郵便取扱所へ行って、運送すべき郵便物の有無を聞き、郵便物のある場合にはそれを受け取ってから出帆しなければならないことになっていたのである。しかし、それは言うべくして行われ難いことであった。そこで考えられたのが 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 464 2 郵便局 雛型のような切符である。船頭が出帆許可を得るために船改所へ行くと、船改所では出帆免状とともに切符を船頭に渡す。船頭は錨をあげる前に、その切符を持って、最寄りの郵便取扱所へ行かなければならない。郵便取扱所では、その切符に郵便の有無 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 464 4 郵便局 を記入して船頭に渡す、という仕組みである。だが、このような苦肉の策が、どれほどの効果をあげ得たか疑問であろう。隠岐と本土間の郵便物運送が定期的になったのはこの後、隠岐汽船株式会社の誕生を待たなければならなかった。 1873 1205 明治6年 黒木村誌 癸酉 0 464 8 郵便局 島内における通信運送の不便も同様であった。そこで明治12年、四郡郡役所が西郷に設置されるに至って、郡役所と各戸長役場間を毎月七回飛脚を巡回させ、信書速達の便を計ったという。 1879 0 明治12年 黒木村誌 己卯 1 20 3 隠岐国、霖雨大風、使を遣わして賑恤す(続紀) 708 714 和銅元年 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 20 4 隠岐国飢、これを賑恤す(続紀) 709 304 和銅2年 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 23 1 隠岐国は出雲按察使に隷す(続紀) 721 819 養老5年 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 23 3 配流の遠近の程を定め隠岐を遠国とす(続紀) 724 301 神亀元年 新修島根県史(年表篇) 甲子 1 25 1 詔して諸国の田租を免ず、隠岐等の国は国租並びに天平元年以来の公私未納稲はみな免除す(続紀) 731 825 天平3年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 25 5 隠岐国天平3.4年正税帳を差し出す(正税帳) 733 219 天平5年 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 27 2 名草直高根の女を隠岐国へ配流す(続紀) 742 1017 天平13年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 27 7 制して諸国公廨、大国四十万束、上国三十万束、中国二十万束、下国十万束とす、但し、隠岐国は三万束とす(続紀) 745 904 天平17年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 29 2 京師の巫覡十七人を伊豆.隠岐.土佐等遠国へ配流す(続紀) 752 817 天平勝宝4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 30 9 出雲.石見等六国に飛駅鈴一口を頒つ(続紀) 758 928 天平宝字2年 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 31 3 外従五位下下道朝臣黒麻呂を隠岐守となす(続紀) 762 401 天平宝字6年 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 31 6 さきに渤海国より帰朝中隠岐国へ漂着せる左兵衛正七位下板振鎌下獄す(続紀) 763 1006 天平宝字7年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 31 7 造東大寺判官正六位葛井連根道ことに座して隠岐国に配流さる(続紀) 763 1229 天平宝字7年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 31 9 恵美押勝の六子刷雄、隠岐国へ配流さる(続紀) 764 918 天平宝字8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 31 10 船親王、隠岐へ配流さる、従五位下坂本朝臣男足を隠岐守となす(続紀) 764 1009 天平宝字8年 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 31 12 隠岐等国飢(続紀) 765 215 天平神護元年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 31 13 従三位和気王の叛に座し、従五位下石川朝臣永年を隠岐員外介となす、任地に至り数年にして自縊して死す(続紀) 765 801 天平神護元年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 34 3 隠岐国飢、これを賑給す(続紀) 777 623 宝亀8年 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 35 3 氷上川継の謀反に座せる正五位上山上朝臣船主を隠岐介に降ろす(続紀) 782 118 延暦元年 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 35 3 船主を隠岐国に配流す(続紀) 782 326 延暦元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 35 5 田麻呂は広嗣のことに座して天平十二−十四年隠岐に配流さる(続紀) 783 319 延暦2年 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 35 9 従五位下土師宿禰公足を隠岐守となす(続紀) 785 823 延暦4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙丑 1 35 10 藤原種継暗殺のことに座して大伴家持の子右京亮大伴永主、隠岐国へ配流さる(紀略) 785 924 延暦4年 新修島根県史(年表篇) 乙丑 1 36 2 従五位丈部大麻呂を隠岐守となす(続紀) 787 526 延暦6年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁卯 1 37 2 諸国に健児を置く、出雲国百人、石見国三十人、隠岐国三十人(三代格) 792 614 延暦11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 37 5 四世王深草、父を殴り隠岐国に配流さる(類聚史) 795 1006 延暦14年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 38 8 前遣渤海使内蔵宿禰賀茂麻呂ら隠岐国知夫郡比奈麻治比売神へ幣することを乞い許さる(後記) 799 513 延暦18年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 38 9 豊前国宇佐郡人酒井勝小常、悪行により隠岐国に配流さる(後紀) 799 815 延暦18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 39 4 山城国人若湯座五月麻呂.右京人内蔵氏人三国島成.安曇継人らを隠岐国へ配流す、強盗を犯せしによる(類聚史) 802 902 延暦21年 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 39 10 隠岐国人外従八位上服部松守.釆女外従五位下服部美船女ら三人に臣姓を賜う(後紀) 805 1107 延暦24年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 40 7 佐渡、隠岐両国に掾一員を置く(後紀)(三代格0219) 809 224 大同4年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 40 8 隠岐国大同元年以来の未納三万二千束を免ず(類聚史) 810 113 弘仁元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 43 2 渤海国使高承祖ら百三人隠岐国に到来す(類聚史) 825 1203 天長2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 44 4 隠岐等十一国に博士医師を置く(三代格) 830 1115 天長7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 45 2 弘仁年中隠岐国に配流せられたる西大寺泰山ら入京を許さる(続後紀) 833 701 天長10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 46 4 隠岐国無位比奈麻治比売神に従五位を授く(続後紀) 838 1010 承和5年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 戊午 1 46 4 小野篁、隠岐国へ配流さる(続後紀) 838 1203 承和5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊午 1 46 6 流人小野篁を赦す(続後紀) 840 214 承和7年 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 47 3 春宮坊帯刀判健岑を隠岐国へ配流す(続後紀) 842 728 承和9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 47 3 隠岐国知夫郡由良比売命神.海部郡宇受加命神.穏地郡水若酢命神を官社となす(続後紀) 842 914 承和9年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 48 3 隠岐国天佐自比古命神に従五位下を授く(続後紀) 848 219 嘉祥元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 48 3 隠岐国伊勢命神を明神の例に加う(続後紀) 848 1116 嘉祥元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 49 5 五月隠岐等九国、甘露降ると言す(文徳) 852 500 仁寿2年 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 51 1 1月、渤海国使李居正ら百五十人、隠岐国より島根郡に来着す(三代) 861 100 貞観3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 51 11 隠岐国司誤って配流中の判健岑今般赦に会いしと思い放免し健岑入京す、勅して配所を出雲にかえここに移す(三代) 865 513 貞観7年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 52 2 応天門を焼くことに座し判宿禰中庸を隠岐国へ配流す(三代) 866 923 貞観8年 新修島根県史(年表篇) 丙戌 1 52 3 新羅侵冦の情勢にかんがみ出雲、石見、隠岐等諸国に令して邑境の諸神に幣して鎮護を祈らしむ(三代) 866 1117 貞観8年 新修島根県史(年表篇) 丙戌 1 52 7 是日八幅四天王像五舗をつくり各一鋪を伯耆、出雲、石見、隠岐等国に下し国毎に四天王寺を創り春秋二季各一七日間法により薫修せしめ新羅の賊心調伏につとめしむ(三代) 867 526 貞観9年 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 52 13 隠岐国、史生一員を廃し弩師一員を置く(三代、三代格) 869 307 貞観11年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 52 14 隠岐国浪人安曇福雄、前隠岐守越智宿禰新羅人と共謀し反逆をはかれりと誣告し遠流に処せられる(三代) 869 1026 貞観11年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 52 15 隠岐国言、雌鶏化して雄となると(三代) 869 1113 貞観11年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 52 17 出雲、石見、隠岐等国に令して新羅に備え警固を慎ましむ(三代) 870 212 貞観12年 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 52 18 隠岐国貞観七、八両年に疫死せる百姓三千百八十九人の役を免ず(三代) 870 805 貞観12年 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 52 19 隠岐国調庸未進にして、本年中に完納不能の者は明年十二月三十日以前に必ず完納すべきことを命ず(三代) 870 1225 貞観12年 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 53 7 出雲、石見、隠岐等諸国に令して兵卒を戒厳して不虞に備えしむ(三代) 873 319 貞観15年 新修島根県史(年表篇) 癸巳 1 54 1 隠岐国配流の伴中庸の子禅師麿を父の配所へ遣し、元孫.叔孫の二人を京師へ召還す(三代) 876 608 貞観18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙申 1 54 6 隠岐国正五位下比奈麻治比売神を正五位上に叙す(三代) 878 517 元慶2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 54 7 因幡、伯耆、出雲、隠岐、長門等国に勅して辺防を固くし広く神仏に祈願し又四天王像前に調伏の法を修すべきことを命ず(三代) 878 623 元慶2年 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 54 12 隠岐国の兵庫震動し、三日の後庫中の鼓自鳴す、仍て、太政官を因幡、伯耆、出雲、隠岐国に下して辺防を警しむ(三代) 880 228 元慶4年 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 54 13 但馬国に怪船出没するにより但馬、因幡、伯耆、出雲、隠岐国等に特に候望を慎み不虞に備えしむ(三代) 880 617 元慶4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 55 2 大膳史生矢田部氏永氏の私奸に座して主計史生従八位上置始連縄継を隠岐国史生に降任す(三代) 881 428 元慶5年 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 55 6 隠岐国正六位上健須佐雄神を従五位下に叙す(三代) 884 327 元慶8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 55 11 隠岐国従四位下天健金草明神を従四位上に叙す(三代) 885 310 仁和元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 56 9 新羅国人三十五人隠岐国に漂着す(紀略) 888 1003 仁和4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 56 10 隠岐国漂着の新羅人に米塩等を賜う(紀略) 889 226 寛平元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 56 10 隠岐国従四位上健金草神を正四位下に、正六位上比奈麻治比売神を従四位下に叙す(紀略) 889 411 寛平元年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 57 3 出雲、隠岐両国延暦以来停廃の烽候を旧のごとく設けしむ(三代格) 894 919 寛平6年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 60 1 隠岐国、天健金草命神大風を吹かしめ、新羅の賊船を追退くと託宣ありと報告す(紀略) 906 713 延喜6年 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 66 4 隠岐国正四位上天健金草神を従三位に叙す(紀略) 940 904 天慶3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 67 3 出雲国、新羅船七艘、隠岐国へ来着の由を奏す(紀略) 942 1115 天慶5年 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 67 5 隠岐国、検非違使職を置くことを請う(別聚符宣抄) 943 1014 天慶6年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 68 1 大初位下伊我部安国を隠岐国検非違使に補す(別聚符宣抄) 946 313 天慶9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 72 1 前相模介藤原千晴、隠岐国へ配流さる(紀略) 969 401 康保2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 78 6 伊勢国にて闘争せるにより従五位下平致頼、藤原宗忠ら位記を去って隠岐、佐渡国へ配流す(紀略、小石記、権記、百錬抄、今昔物語) 999 1227 長保元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 80 1 隠岐守藤原朝臣親通を解任し、藤原朝臣実雅を隠岐守に任ず(朝野群載) 1010 100 寛弘7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 81 2 隠岐守藤原朝臣実雅を解任し(朝野群載)遠晴(姓闕)を隠岐守に任ず(大日本史) 1014 100 長和3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 86 4 典薬允源致親を隠岐国へ配流(世紀) 1038 219 長暦2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 88 1 興福寺のことにより前加賀守源頼房を隠岐へ配流す(扶桑) 1050 115 永承5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 91 4 興福寺僧静範を伊豆国へ配流し、縁座するもの僧俗十六人を安房、常陸、佐度、隠岐、土佐等の国へ配流す(扶桑) 1063 1017 康平6年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 99 2 前対馬源義親を隠岐国へ配流す(百錬抄) 1102 1228 康和4年 隠期 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 100 1 是年、延行(姓闕)を隠岐守に任ず(大日本史) 1106 0 嘉承元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙戌 1 100 3 因幡守平正盛、流人源義親を出雲に誅す 1108 106 天仁元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 102 1 実盛(姓闕)を隠岐守に任す(大日本史) 1118 100 元永元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 104 2 藤原資定を隠岐守となす(大日本史) 1126 1200 大治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 104 6 中原希遠を隠岐守となす(大日本史) 1130 100 大治5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 105 1 隠岐守大江行重、見任(大日本史) 1132 1000 長承元年 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 106 2 右近衛少将藤原光忠、是日隠岐権介を兼ねぬ(公卿補任) 1139 124 保延2年 新修島根県史(年表篇) 己未 1 107 3 藤原為貞、隠岐国へ配流さる(世紀) 1143 725 康治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 108 3 鳥羽法王、白河御所にて源氏、平氏の武士らを御覧になる、中に隠岐守平繁賢見ゆ(世紀) 1147 718 久安3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁卯 1 109 2 隠岐守藤原家輔、見任(世紀) 1152 200 仁平2年 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 109 4 隠岐守宗輔(姓闕)見任(大日本史) 1154 100 久寿元年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 110 6 藤原脩範を隠岐に配流す(翌年本位に辺復し還任す)(公卿補任) 1159 1225 平治元年 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 112 3 隠岐守家宗(姓闕)見任(大日本史) 1169 200 嘉応元年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 112 6 隠岐守源仲綱、見任(大日本史) 1170 1000 嘉応2年 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 112 7 是年七月ごろ隠岐島に鬼形の童出生す(百錬抄) 1170 700 嘉応2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 113 2 藤原家通を出雲権守とし(公卿補任)中原尚家を隠岐守となす(大日本史) 1172 423 承安2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 113 2 伊賀守源仲綱言上、去々年七月ころ隠岐島に鬼形の童子出生すと(百錬抄) 1172 708 承安2年 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 114 4 隠岐守惟頼(姓闕)見任(大日本史) 1179 1000 治承3年 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 115 2 隠岐守藤原能頼、見任(大日本史) 1182 800 寿永元年 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 116 4 隠岐守仲国、中村別府地頭の別府領、国務沙汰を訴う、頼朝、院旨により藤原重頼の非違を停む(吾妻鏡) 1188 713 文治4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 116 5 隠岐国犬来牧、宇賀牧以外を藤原重頼の濫防するを頼朝、停止す(吾妻鏡) 1188 1123 文治4年 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 117 1 延暦寺の訴により、佐々木定綱、隠岐国に流さる(吾妻鏡) 1192 430 建久2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 117 4 近江守護兼石見、長門守護職佐々木定綱、隠岐国地頭職に補さる(吾妻鏡) 1193 1220 建久4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 117 5 藤原重季、隠岐守に復任す(除書部類) 1194 130 建久5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 118 1 参議藤原公時の家人橘兼仲、隠岐国へ流さる(吾妻鏡) 1197 300 建久8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 123 2 後鳥羽法王、隠岐に配流され、是日、海士郡苅田郷源福寺に入らる(吾妻鏡) 1221 805 承久3年 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 126 1 後鳥羽法王、隠岐苅田郷の行在所にて崩御(百錬抄) 1239 222 延応元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 132 4 隠岐国、祈請のため宇須賀社に祭田を寄進す(村尾) 1270 500 文永7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 134 2 隠岐守護佐々木泰清、僧慈蓮に美多荘大山社禰宜職を安堵す(笠置) 1276 905 建治2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 144 1 隠岐守護佐々木貞清、蓮浄に美多荘大山社禰宜職を安堵す(笠置) 1326 407 嘉歴元年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 145 1 後醍醐天皇、鰐淵寺をして天長地久の祈願をなさしむ(鰐淵寺) 1331 114 元弘元年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 145 5 後醍醐天皇、隠岐に流され給う(増鏡) 1332 307 元弘2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 145 5 後醍醐天皇、出雲八杉津より三尾湊に赴き、ついで隠岐に航せらる(増鏡) 1332 401 元弘2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 145 8 後醍醐天皇、隠岐の行在所を出て出雲に赴かる(太平記) 1333 224 元弘3年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 160 3 隠岐美多荘公文円助、同国美多荘内の木畠、にしち畠を与えらる(笠置) 1379 601 天授5年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己未 1 164 3 隠岐守護代富田義時、国分寺に原田郷四天王寺を安堵す(国代考証) 1391 410 元中8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 164 4 足利義満、後円融上皇御領出雲横田庄を出雲、隠岐、伯耆、丹波守護山名満幸の濫防するを停む(明徳記) 1391 1108 元中8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 165 1 源満重、隠岐宇須賀社に神田を寄進す(村尾) 1393 130 明徳4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 165 11 京極高詮、山名満幸を京都に殺す功により出雲、隠岐守護職、闕所分を宛行わる(佐々木) 1395 320 応永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 165 12 桃井詮信、隠岐那具村地頭職を二百五十貫文にて佐々木治部少輔入道浄泰に売る、是日、足利義満、同村地頭職を浄泰に安堵す(佐々木) 1395 923 応永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 165 12 隠岐守護代佐々木清泰、隠岐総社大明神に灯油田を寄進す(億伎) 1395 1013 応永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 167 7 京極高詮、出雲、隠岐、飛騨三国守護職、所領、総領分を嫡子高光に譲る(佐々木) 1401 825 応永8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 171 2 隠岐村上左衛門五郎、海部公文職を安堵さる(村上) 1411 1003 応永18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 171 9 飛騨、隠岐、出雲守護京極高光、卒す(満済准后日記) 1413 819 応永20年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸巳 1 171 10 足利義持、京極吉童子丸(持光)に父高光の所領を安堵し、出雲、隠岐、飛騨三国の守護職に補す(佐々木) 1413 1022 応永20年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸巳 1 173 1 足利義持、京極吉童子丸(持光)に出雲、隠岐両国闕所分、出雲多禰郷を安堵す(佐々木) 1417 521 応永24年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 176 3 良円、隠岐美多荘二分方公文職に補せられる(笠置) 1427 416 応永34年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 177 1 隠岐久清、伊勢命社に社領を安堵す(中西) 1429 720 永享元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 180 4 出雲、隠岐、飛騨、近江半国守護京極持高、卒し、叔父高数、嗣ぐ(薩戎記) 1439 113 永享11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己未 1 181 3 出雲守護京極高数、京都赤松邸にて闘死し、是日、幕府、京極持清を出雲、隠岐、飛騨、三国守護職に補し、その所領を安堵す(佐々木) 1441 1220 嘉吉元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 181 5 源某、隠岐宇須賀社に社領を寄進し、諸役を免じ守護使不入とす(村尾) 1442 200 嘉吉2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 184 6 隠岐村上与四郎、段所納内、森屋敷分を宛行わる(村上) 1452 400 享徳元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 186 7 隠岐守護京極持清、隠岐国分寺領十分一段銭を免除す(国代考証) 1457 618 長禄元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 186 10 足利義政、弟義永の罪を赦し隠岐より召還す 1458 419 長禄2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 186 11 隠岐玉若酢社、大風により破損す、京極持清、守護代隠岐清秀、小守護代重栖清重をして同国内に棟別銭を課し修理せしむ(玉若酢神社) 1458 824 長禄2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 187 3 近江、飛騨、出雲、隠岐守護京極持清、出家す(碧山日禄) 1460 624 寛正元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 189 6 出雲、隠岐守護京極持清、東軍細川勝元に、石見守護山名政清、西軍山名宗全に味方す(応仁記) 1467 520 応仁元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 190 7 足利義政、出雲、隠岐、飛騨守護京極持清に近江守護職を加う(佐々木) 1469 507 文明元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 190 9 是年、出雲、隠岐の将士、朝鮮と交易す(海東諸国記) 1469 0 文明元年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 190 10 京極持清、尼子清定に命じ、隠岐の船の美保関の船役を免ぜしむ(佐々木) 1470 425 文明2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 190 12 京極持清、卒し、京極孫童子丸、出雲、隠岐、飛騨、近江守護職に補さる(佐々木) 1470 804 文明2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 191 3 幕府、出雲、隠岐の国人らの直訴を禁じ京極孫童子丸をして国内の政務を裁決せしむ(佐々木) 1471 516 文明3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 191 4 孫童子丸の死去により京極政高、出雲、隠岐、飛騨守護職に補さる(佐々木) 1471 821 文明3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 191 6 隠岐佐々木栄煕、朝鮮に通行す(李朝実録) 1471 903 文明3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 192 5 佐々木清綱、隠岐西郷の地を甲尾八幡宮に寄進す(億伎) 1475 915 文明7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 194 10 幕府、京極政経、尼子経久をして出雲、隠岐に段銭を課せしむ(佐々木) 1482 1219 文明14年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 195 4 出雲三沢為清、隠岐笠置宗右衛門の忠節を賞し田二段を宛行う(笠置) 1484 815 文明16年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 200 3 寺本清真、隠岐総社八幡宮に神田を寄進す(億伎) 1499 524 明応8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己未 1 203 7 京極政経、吉童子丸に総領職、出雲、隠岐、飛騨守護職、諸国所領を譲る(佐々木) 1508 1025 永正5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 204 10 隠岐守護代隠岐宗清、海士郡公文職の田畠、八幡田新屋を村上右京助に安堵す(村上) 1512 1008 永正9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 214 11 出雲、伯耆、隠岐守護職、伊予守尼子経久、卒す(陰徳記) 1541 1113 天文10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 215 12 隠岐豊清、亡父隠岐守護代宗清菩提ξため寺領を出雲清安寺に寄進す(清安寺) 1544 911 天文13年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 221 18 焼火 隠岐幸清、焼火社に尼子義久の戦勝を祈願す(焼火神社) 1563 900 永禄6年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 222 9 尼子義久、笠木与三右衛門の出雲十神山、白鹿の戦功を賞し隠岐にて地を宛行う(笠置) 1565 506 永禄8年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 乙丑 1 222 16 但馬の海賊、隠岐豊田、海士森城を攻め撃退さる(村上) 1566 702 永禄9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 223 12 山中幸盛、尼子勝久を擁して隠岐より出雲に入る(陰徳記) 1569 623 永禄12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 224 4 丹波、但馬の海賊、勝久に応じ出雲、隠岐の海岸を荒し7月に及ぶ(清水寺、村上) 1570 500 元亀元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 224 6 勝久、出雲、隠岐の兵船にて満願寺城を攻め湯原春綱に破らる(萩閥115) 1570 1129 元亀元年 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 224 10 出雲湯原春綱、隠岐に渡り、尼子方隠岐弾正らを降す(萩閥115) 1571 604 元亀2年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 225 11 出雲三沢為清、隠岐笠置三郎左衛門尉を弥陀荘公文職に補す 1574 1002 天正2年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 226 6 隠岐清家、村上神次郎に隠岐島前三ヶ村公文職給として六段の地を宛行う(村上) 1577 130 天正5年 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 227 7 吉川元春、隠岐賀茂の地を隠岐大和守に宛行う(吉川) 1580 1020 天正8年 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 228 5 隠岐経清、隠岐における米、麦、大豆等の値段を定む(村上) 1583 123 天正11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 228 8 簾吉政、隠岐笠置宗右衛門の所領を安堵す(笠置) 1583 1201 天正11年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 229 3 焼火 簾忠昌、隠岐焼火権現に社田を寄進す(焼火神社) 1585 707 天正13年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 229 12 簾吉章、笠置宗右衛門に隠岐道蓮名屋敷を安堵す(笠置) 1587 817 天正15年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 230 10 豊臣秀吉、吉川広永をしてその分国、出雲、、石見、隠岐の刀狩りを行わしむ(吉川) 1590 818 天正18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 230 13 隠岐笠置善左衛門尉、広島に赴き毛利輝元に謁し、美多荘公文職を安堵さる(笠置) 1590 1215 天正18年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 231 1 豊臣秀吉、諸国を検地し、諸大名に朱印状を与う、毛利輝元、安芸、備後、周防、長門、伯耆三郡、備中半国、出雲、石見、隠岐百十二万石の朱印状を与えらる(毛利) 1591 314 天正19年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 232 6 是年、毛利輝元、出雲、石見、隠岐の検地を行う(萩閥) 1595 0 文禄4年 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 232 8 豊臣秀吉、隠岐鉛山採掘を吉川広家に許す(吉川) 1596 313 慶長元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙申 1 233 12 毛利輝元、隠岐知夫郡別府に検地を行う(別府検地帳) 1599 700 慶長4年 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 233 13 吉川広家、隠岐一宮大明神に社領を寄進す(忌部) 1599 821 慶長4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 238 2 飛鳥井雅賢、配流され隠岐島海士村に着島、寛永二年逝去 1608 0 慶長13年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 239 1 是年、堀尾忠晴、村上九郎右衛門尉に隠岐国海士郡三ヶ村、寺分共公文職を命ず(村上文書) 1610 0 慶長15年 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 242 4 隠岐国百姓三郎左衛門、善兵衛両人連署目安を上がる、代官竹林弥惣左衛門自決を命ぜられ、穏地郡百姓年貢全額免除、周吉郡同半額免除、翌四年御仕置村(堀尾古記、国代考証) 1617 703 元和3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 242 5 尾越中召放たれ、堀尾河内等隠岐支配を命ぜらる(堀尾古記、国代考証) 1617 703 元和3年 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 250 1 是夏後水尾法王、隠岐後鳥羽院旧蹟御吊の為、勅使水無瀬中納言氏成を隠岐に下向せしめらる、氏成和歌一巻を源福寺に納む(隠州往古以来諸式年代略記) 1632 124 寛永9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 251 2 京極若狭守、若狭並敦賀より雲、隠両国(二十六万四千二百石余)に移封さる、幕府、上使として板倉内膳正重昌を遣す(徳川実紀) 1634 706 寛永11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 253 2 松平直政の家臣、乙部可正、塩見宅成等出雲に入り松江城を請とり、団弥一右衛門等隠岐に渡り京極家家臣坂井庄左衛門より隠岐をひきつぐ 1638 322 寛永15年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 263 1 松平直政、隠岐国海士郡海士村後鳥羽天皇山陵を修理し、社殿を新造し、祭典を興す(藩祖御事蹟) 1658 1000 万治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 264 4 是年京都智積院住職出入につき罪を得たる僧存識、ジン盛、尊与隠岐に配流、島後周吉郡護国寺に到着す、存識は寛文二年、ジン盛は同六年、尊与は同九年夫々卒 1661 0 寛文元年 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 265 9 是年隠岐国に六尺給米を課す(隠岐の歴史) 1663 0 寛文3年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 266 9 江戸浅草御手代二十二名隠岐に配流、島後周吉郡上東村に到着す。内一人寛文八年歿、他は同九年赦免帰国す 1665 0 寛文5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 267 12 6月より7月に亘り巡検使市橋三四郎長常、稲葉清左衛門正定、徳永瀬母昌崇、隠岐、出雲、石見巡視 1667 700 寛文7年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 267 13 8月松平綱隆、藩士を隠岐に遣し、新令を公布す 1667 800 寛文7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 267 14 10月隠岐派遣郡代斉藤勘助、隠州視聴合紀を編纂す 1667 1000 寛文7年 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 268 5 宮崎仁左衛門、同藤左衛門隠岐に配流、島後周吉郡有木村に到着(隠岐往古以来諸色年代略記) 1669 1000 寛文9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 269 3 金剛院信証、密厳院由愚隠岐に配流、是日島前知夫郡美田村に到着、信証は元禄十四年、由愚は十五年夫々歿(隠岐往古以来諸色年代略記) 1670 1005 寛文10年 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 270 1 本田瀬兵衛、本田治郎右衛門、奥平源四郎、奥平弥一郎隠岐に配流、島後周吉郡原田村に到着、治郎右衛門は延宝五年病死(隠岐往古以来諸色年代略記) 1672 600 寛文12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 271 7 是年松江藩、小野尊俊を隠岐に配流、尊俊島前海士郡海士村に居住(隠岐往古以来諸色年代略記) 1674 0 延宝2年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 272 1 長崎代官末次平蔵並子息平兵衛密貿易の事発覚し隠岐に配流、島前黒木村宇賀に居住、翌年五月別府村近藤某に殺害さる(徳川実紀)(隠岐往古以来諸色年代略記) 1676 515 延宝4年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙辰 1 272 4 松江藩、湯本源右衛門、中村忠兵衛、鷲野吉兵衛、太田吉左衛門を隠岐に遣わし、郡代、代官立会いの下に隠岐新田畑改をなす(隠岐往古以来諸色年代略記) 1676 1000 延宝4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙辰 1 274 1 幕府、隠岐御成稼米穀大阪御蔵廻を命ず、隠岐国公文等代表二名を派遣し松江藩をへて幕府に免除方を愁訴し許さる(隠岐往古以来諸色年代略記) 1680 220 延宝8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 274 8 七月より八月にわたり巡見使高木忠右衛門定清、服部久右衛門貞治、佐橋甚兵衛佳成、石見、出雲、隠岐巡視 1681 700 天和元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 275 6 相楽治部大輔隠岐に配流、島後周吉郡東郷村に居住、後赦免帰国す(隠岐往古以来諸色年代略記) 1683 421 天和3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 278 1 隠岐両島鉄砲改 1688 500 元禄元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 278 2 代官由比長兵衛、神門郡宇龍港より隠岐に渡航、知夫里を経て是日島後着、19日隠岐国引継を終る(隠岐往古以来諸色年代略記) 1688 612 元禄元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 278 3 是月隠岐両島公文立会い、引継資料として隠州記を作成す、郡代、代官の点検をうけ大森代官に引き継ぐ(隠岐往古以来諸色年代略記) 1688 600 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 278 11 是月幕府隠岐国に御蔵前銀(高百石につき十五文)を課す(隠岐往古以来諸色年代略記) 1689 1000 元禄2年 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 279 1 隠岐国、幕府に対し小物成銀を年々の銀相場による様願い出づ、幕府百匁につき九匁増とす、又両島惣百姓中、年寄、公文連印幕府に六尺給米御免方願い出づ(隠岐往古以来諸色年代略記) 1690 100 元禄3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 279 3 隠岐国に御伝馬宿米(高百石に付六升)を課す 1690 0 元禄3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 279 5 是夏隠岐六尺給米免除 1691 0 元禄4年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 279 7 是月隠岐国各村公文の呼称を庄屋と改め、公文給を取上ぐ(隠岐往古以来諸色年代略記) 1691 900 元禄4年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 280 4 是年隠岐国卯時米を夫米とす 1693 0 元禄6年 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 281 1 隠岐両島宮改、各神社より祭神名を書出さしむ 1694 400 元禄7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 282 2 幕府、邦人の竹島(鬱陵島)に至り漁するを禁ず 1696 228 元禄9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 288 9 隠岐国郷蔵(郡、都万、中村)を止め西郷に集めて寄蔵とす 1709 0 宝永6年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 290 3 幕領巡見使森山勘四郎、三橋勘左衛門、港九左衛門、大森銀山領並に隠岐を巡視 1712 1100 正徳2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 292 3 是月より翌月にわたり幕領巡見使石川浅右衛門、小池勘右衛門、鈴木藤助、隠岐、大森銀山領巡視 1716 600 享保元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙申 1 292 12 是月より六月にわたり巡見使松平与左衛門忠一、落合源右衛門道富、遠藤源五郎常英、隠岐、出雲、石見を巡視 1717 600 享保2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 292 14 隠岐両島より当国五人組御仕置帳を提出せしむ(隠岐往古以来諸色年代略記) 1717 0 享保2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 292 14 十一月外船渡来につき幕府隠岐島に番船申つく 1717 1100 享保2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 293 5 11月より翌年3月迄幕府隠岐国に命じ番船を出さしめ海岸を警備せしむ 1718 1100 享保3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 293 10 是年隠岐国大凶作(隠岐の歴史) 1719 0 享保4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 293 10 隠岐国周吉郡布施村藤野孫一、杉の育苗試作を始め、同志と共に布施村に植林を続く(隠岐の歴史) 1719 0 享保4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 297 4 是年夏出雲、石見、隠岐共に旱魃 1727 0 享保12年 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 300 1 松江藩、出雲人別帳を大目付に、隠岐人別帳を勘定所に提出 1732 700 享保17年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 300 1 是夏蝗害、雲、石、隠大飢饉、...(隠岐)七月中旬より俄に稲腐り田作無しの大凶作、飢扶持米銀貸付漸く餓死千人に止まる(凶年土蔵穂) 1732 700 享保17年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 300 14 徳を偲ぶ、泰雲院殿義岳良忠居士の石碑石見地方の農村に多し。 1733 526 享保18年 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 300 14 井戸平左衛門正朋病歿、前年七月薩摩より甘薯の種芋百斤を入手、領内海辺の農村に石高百石につき八個の割に配布し試作せしむ、時期外れのためし大部分不成功に終りしも、迩摩郡福浦の老農試作に成功し、翌年の種芋を確保し爾来甘薯栽培次第に拡まり、領民永く芋代官と称し余 1733 526 享保18年 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 300 24 畿内以西疫病流行につき幕府銀山領並隠岐に罹病者救済のため、薬法を詳細に述べ頒布す(佐々木文書) 1733 1200 享保18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 301 5 隠岐国海士郡海士村後鳥羽院御陵社再造上棟式、正遷宮(後鳥羽院御陵社造立覚書) 1735 405 享保20年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙卯 1 302 5 夜半より翌日にかけて..隠岐、同日大風雨、転倒家屋十六戸殷船大小百五十六隻、死者五人、負傷一人、行方不明六人(出雲私史)(天降公年譜) 1736 1005 元文元年 新修島根県史(年表篇) 丙辰 1 303 4 ..同日隠岐大風雨、民家漬かるもの四十七戸、漂うもの七戸、破船又は漂流するもの大小四十九隻、溺馬八疋、溺牛十二頭、損稲七百三十三石六斗(出雲私史)(天降公年譜) 1739 705 元文4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己未 1 306 2 隠岐国同日、倒家四十二戸、漂神祠二所、破船三十六隻、損稲一万二千余石(出雲私史)(天降公年譜) 1744 810 延享元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲子 1 306 4 問屋 是年隠岐産串鮑、串海鼠を長崎俵物の対象とし指定問屋請負高集荷終る迄勝手に売買することを禁ず 1744 0 延享元年 新修島根県史(年表篇) 甲子 1 307 3 四月より五月にわたり巡見使小幡又十郎、板橋民部、伊奈兵庫、隠岐、出雲、石見巡視 1746 400 延享3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 307 5 是年隠岐国より御林下草銀を徴す 1746 0 延享3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 308 1 隠岐地方大雨洪水、田永廃者二反三畝二十四歩(出雲私史)(天降公年譜) 1748 524 寛延元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 309 7 隠岐国大風、倒屋九十二戸、破船三十九隻 1750 824 寛延3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 311 10 隠岐地方二月より五月迄雨らしき雨なく麦作不熟稲植付不能のところ五月末より霖雨八月迄殆ど晴天なし、田畑作物虫付腐を生じ菜園果樹に至る迄不熟のところ八月十五、(凶年土蔵穂) 1755 815 宝暦5年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 311 12 十六両日の大暴風により作毛残らず吹き潰す、飢人充満、矢尾村豊崎に飢人小屋掛け過半収容、餓死千五六百に及ぶ(凶年土蔵穂) 1755 815 宝暦5年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 320 2 是年隠岐国に囲籾制度を設く 1772 0 安永元年 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 325 9 隠岐地方亦同様損穀二千四百九十一石、米価騰貴一升の価百銭(天明覚書) 1783 0 天明3年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 326 10 是年幕府、長崎に俵物元役所を設け各地に請負人を定む、隠岐石漁師、庄屋代表を出雲に召喚し島前、島後一名宛の下請人は更に各浦に世話人を依頼して集荷することに決定す 1785 0 天明5年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 327 6 是年隠岐国、洪水蝗害により米穀損害大凶作 1786 0 天明6年 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 327 6 是年隠岐国に牛馬冥加銀を課す 1786 0 天明6年 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 328 4 是年隠岐国囲籾に貯麦の制を加う 1788 0 天明8年 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 334 7 是年葉倉権九郎一行隠岐国に渡海し鮑取極高一万二千斤を割当つ(村尾文書)(横地文書) 1801 0 享和元年 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 335 2 今年より明年にかけ長崎平戸の漁師多勢隠岐国に渡海入漁、鮑を採る 1802 0 享和2年 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 337 10 是年俵物方役人羽倉権九郎、高木作右衛門隠岐国に渡海し年の漁不漁にかかわりなく煎海鼠、干鮑年額四千七百斤の請負高を定む(村尾文書)(横地文書) 1807 0 文化4年 新修島根県史(年表篇) 丁卯 1 337 12 是年隠岐国、島後船手諸法度を取極む(横地文書) 1807 0 文化4年 新修島根県史(年表篇) 丁卯 1 338 5 是年俵物方役人高木作右衛門、隠岐国に渡海、鮑請負高千斤を追加す(横地文書)(村尾文書) 1809 0 文化6年 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 338 5 徳川実紀編纂開始(嘉永二年終る) 1809 1200 文化6年 島外 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 346 2 是年、会津屋八右衛門、竹島(鬱陵島)に渡る 1824 0 文政7年 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 348 5 隠岐国大風、諸作無し、去冬より島内痘瘡流行す 1828 810 文政11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 349 15 是年 隠岐国凶作、米価上昇 1831 0 天保2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 353 7 隠岐国穏地郡久見村大火、村内大半焼失す 1838 0 天保9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 354 5 是月より九月にわたり隠岐国内痢病大流行、老幼多く死す 1841 600 天保12年 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 355 13 是年隠岐国、痘瘡大流行す 1843 0 天保14年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 356 12 問屋 是年隠岐国産の鯣を長崎俵物に加え、問屋の手を経ず勝手に費買することを禁ず 1845 0 弘化2年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 358 3 是年隠岐国知夫郡美田村小向大火、殆ど全焼 1848 0 嘉永元年 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 358 5 異国大艦一隻隠岐国知夫郡三度浦に来航、兵士十六人上陸して帰艦す 1849 218 嘉永2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 5 異国艦二隻隠岐国穏地郡に来航、直ちに去る 1849 222 嘉永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 6 松江藩、物頭堀尾弥税、早田彦兵衛及砲士を隠岐に派し戌らしむ 1849 224 嘉永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 7 異国艦一隻隠岐国穏地郡に来航 1849 307 嘉永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 7 異国大艦三隻隠岐国穏地郡沖に現わる 1849 323 嘉永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 8 異国艦一隻隠岐知夫郡に来航、海岸に近づきしも戌兵厳なるを知り去る 1849 408 嘉永2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 358 12 秋松江藩、隠岐国派遣の戌兵を引きあぐ 1849 900 嘉永2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 368 11 鎮撫使守衛所、隠岐公聞役へ文書を発す 1868 226 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 12 神仏混淆を禁ず 1868 312 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 13 隠岐国島後池田村の国分寺で庄屋会議 1868 315 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 13 隠岐同志派(正義党)三千、松江藩郡代陣屋に迫り、郡代山郡宇右衛門より屈伏書をとる 1868 319 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 14 是月、隠岐同志組、総会所を設け、公聞役交代で公務をみる 1868 319 明治元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 15 松江藩、隠岐鎮撫のため乙部勘解由をして銃兵を率い渡島せしむ 1868 429 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 21 是月、隠岐島後の完全寺住職ら同志組の寺院圧迫を松江藩に告訴 1868 500 明治元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 22 松江藩、雨森謙三郎を上京せしめ、隠岐事件の周旋に当らしむ 1868 625 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 23 隠岐事件に関し平賀縫殿、乙部勘解由、志立範蔵ら太政官の召出を受く 1868 717 明治元年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 25 慶応4年を改めて明治元年とし、一世一元とす 1868 908 明治元年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 26 太政官、松江藩の隠岐国取締を免じ、知県事を置くまで当分、鳥取藩にその取締を命ず 1868 1105 明治元年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 368 27 是年、隠岐で徹底的排仏毀釈 1868 0 明治元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 369 1 藩札私製禁止 1869 112 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 3 隠岐国に隠岐県を置く(太政官達) 1869 225 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 3 真木益夫(直人)徴士、隠岐知県事仰付けらる 1869 227 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 5 松江藩役人、隠岐役場帳簿引継に際しメメ責を受け荷物と共に抑留さる 1869 329 明治2年 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 12 真木益夫、隠岐県権知事に任ぜらる 1869 717 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 14 隠岐県を廃し大森県管轄仰付けらる 1869 802 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 15 真木益夫、大森県権知事に任ぜらる 1869 802 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 21 隠岐国目貫村に支庁(裁判所)を置く 1869 1027 明治2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 369 26 是年、雲石隠とも享保十七年につぐ凶作 1869 0 明治2年 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 370 1 大森県を浜田に移し、浜田県と改称(2月4日県下布達) 1870 109 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 3 是月、浜田県、道路石仏を破壊頻発につき神仏区別の趣旨は廃仏にあらざるを論達 1870 120 明治3年 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 10 種痘を全国に施行 1870 424 明治3年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 14 浜田県、宗門改取調差出方布達 1870 820 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 15 浜田県、強盗徘徊、不穏につき、一時捕亡五十名を置く 1870 916 明治3年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 16 平民の苗字を称するを許す 1870 919 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 17 是月、真木浜田県権知事、免官 1870 900 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 17 浜田県、危急おき難く一時、捕亡百名増置 1870 913 明治3年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 18 是月、浜田県、聴訟鞫獄の両掛を併せて訟獄掛と改称 1870 1000 明治3年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 18 佐藤信寛、浜田県権知事に任ぜらる 1870 1024 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 19 是月、浜田県、聴訟鞫獄の両掛を併せて訟獄掛と改称 1870 1000 明治3年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 19 畑地地租金納 1870 1029 明治3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 22 是年、飢饉、物価高騰 1870 0 明治3年 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 370 24 是年、飢饉、物価高騰 1870 0 明治3年 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 371 1 寺社領を上地す 1871 105 明治4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 3 是月、浜田県、鞫獄規則 1871 100 明治4年 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 3 郵便規則制定 1871 124 明治4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 5 戸籍法 1871 404 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 6 水若酢神社(穏地郡郡村)、国幣中社に列せらる 1871 414 明治4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 10 三府三〇六県を置く 1871 714 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 10 廃藩置県の詔 1871 714 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 14 浜田県、津和野に支庁を置く 1871 903 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 14 田畑勝手作許可 1871 904 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 16 浜田県捕亡規則 1871 1009 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 16 浜田県、当分捕亡一〇〇名増置 1871 1013 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 17 新置の県知事を県令と改む 1871 1102 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 18 松江県、広瀬県、母里県を廃し出雲、隠岐両国を合わせ島根県を置かる 1871 1115 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 20 全国三府七二県とす 1871 1122 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 371 22 隠岐国、鳥取県管轄となる(五年4月15日浜田県より直接鳥取県へ引き継ぐ) 1871 1227 明治4年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 372 3 土地永代売買解禁 1872 215 明治5年 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 372 5 庄屋、名主、年寄等を廃し戸長、副戸長と改称 1872 409 明治5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 372 10 地券交付 1872 704 明治5年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 372 12 学制頒布 1872 803 明治5年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 372 19 太陽暦採用(五年12月3日を六年1月1日とす) 1872 1109 明治5年 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 372 20 国立銀行条例 1872 1115 明治5年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 373 1 徴兵令 1873 110 明治6年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 373 6 島根新聞第一号発刊 1873 312 明治6年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 373 7 郵便料金が遠近制から量目制に改めらる 1873 401 明治6年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 373 17 地租改正条例、地租改正施行規則、地方官心得書 1873 728 明治6年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 373 24 後鳥羽上皇神霊還遷の為奉迎使慈光有仲、輿を奉じて隠岐海士村を発船 1873 1111 明治6年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 374 4 食事 島根県、肉食普及により屠牛開業を許す 1874 218 明治7年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 374 5 区長、戸長を官吏に准ず 1874 304 明治7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 374 12 隠岐別府郵便役所を廃し取扱所を設置、目貫取扱所を郵便役所とす 1874 507 明治7年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 374 26 ガス 是月、松江の市街地にガス燈設置 1874 1200 明治7年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 375 2 国民に必ず苗字を称せしむ 1875 213 明治8年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 375 17 家禄、賞典を金禄に改定 1875 907 明治8年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 375 17 租税賦金を国税、府県税の二 に分つ 1875 908 明治8年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 376 8 帯刀禁止 1876 428 明治9年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 376 16 鳥取県を廃し島根県へ合併せらる 1876 821 明治9年 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 376 18 県、隠岐仮支庁を置く 1876 930 明治9年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 376 26 隠岐国改租事業終る 1876 1100 明治9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 377 7 隠岐国改租調了につき新税賦課の義を稟議 1877 328 明治10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 377 14 隠岐国に僧侶の布教を許可 1877 800 明治10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 377 15 県、町村浦小前総代を組長と改称し因伯隠三国に布達 1877 906 明治10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 377 25 雲石隠三国より服役の常備兵一五三名 1877 0 明治10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 378 10 隠岐国新地券授与を了る 1878 500 明治11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 379 5 隠岐国地籍を内務省に進達 1879 200 明治12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 379 10 隠岐支庁を廃し周吉穏地海士知夫郡役所設置 1879 300 明治12年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 379 14 社寺明細帳製式 1879 628 明治12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 380 1 監獄本署を松江に設置し松江、隠岐、米子、杵築等の獄署を監獄支署と改称 1880 104 明治13年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 380 24 農栽培に魚肥使用が逐次普及 1880 0 明治13年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 381 15 松江裁判所隠岐支庁を西郷港町に新築落成 1881 808 明治14年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 381 27 県下コレラ流行(患者三九九名、内死亡二五一名) 1881 0 明治14年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 382 10 県立隠岐中学校廃止の件の認可 1882 620 明治15年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 383 1 隠岐国製材、近来粗略に流れ挽尻多く従前の声価低落の傾向につき県諭達 1883 126 明治16年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 383 18 県、隠岐四郡各小学生徒競進会(集合試験)規則を文部卿に稟議 1883 1025 明治16年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 384 5 是月、隠岐四郡郡長高島士駿、聯合町村会において松浦斌の強い協力を得て本土連絡の汽船購入の件決定 1884 400 明治17年 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 384 12 是月、海軍大輔樺山資紀ら内国沿岸実地巡視として来県、隠岐浦郷湾に於て精査 1884 700 明治17年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 384 13 本年度より隠岐国航海補助費七ヶ年割支出の件告示 1884 710 明治17年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 384 22 周吉郡西郷に教員講習所開催 1884 1119 明治17年 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 384 23 会計年度改正(十九年度より従前の自7月至6月を自4月至3月に改む) 1884 1208 明治17年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 384 24 隠岐四郡郡長高島士駿、大阪商船会社所有の汽船速凌丸購入の契約を結ぶ 1884 1226 明治17年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 385 1 隠岐航路購入汽船速凌丸、境港に着船 1885 131 明治18年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 385 10 隠岐四郡郡長高島士駿、島民の疑惑を受け職を辞す 1885 815 明治18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 385 14 海軍大輔樺山資紀、各港軍備上の要地実視のため来県、参謀本部歩兵大尉中岡黙、隠岐国地理実査の為来県 1885 1005 明治18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 385 15 是月、宮内省より馬種改良のため隠岐西郷池田源治へ青森県五戸産嬉野号下賜、県庁へ南部産栗谷川号下賜 1885 1000 明治18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 385 20 是月、隠岐国本土間海底電線の国費架設方建議を県会から内務卿に提出 1885 1200 明治18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 385 22 隠岐国椎茸栽培始まる 1885 1200 明治18年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 386 2 小学校令、中学校令、師範学校令 1886 409 明治19年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙戌 1 386 22 海士知夫両郡牧牛馬同業組合設立(本県の嚆矢) 1886 1200 明治19年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙戌 1 387 8 松浦斌、四郡町村聯合会の疑惑を受け汽船共有権剥奪、一個営業請負人としての命を受く 1887 716 明治20年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 387 12 隠岐各郡で鯣、海参、乾鮑製造同業組合結成 1887 1000 明治20年 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 387 22 県、昨年コレラ猖獗地の共同飲料水試験 1887 0 明治20年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁亥 1 388 7 隠岐国に島司を置かる(四郡長事務は島司が管掌) 1888 410 明治21年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 8 町村制(注、自治体法認、町村長公選、二級選挙) 1888 425 明治21年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 10 隠岐島庁を西郷に置く 1888 507 明治21年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 13 隠岐島庁開庁 1888 612 明治21年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 14 市制を施行すべき地並びに町村制を施行せざる島嶼につき内申方(内務省訓令三五三) 1888 613 明治21年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 15 東京朝日新聞刊行 1888 710 明治21年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 18 大阪毎日新聞刊行 1888 1120 明治21年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 25 隠岐四郡水産物製造組合設立 1888 0 明治21年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 388 25 漁業組合設立(美濃郡、海士知夫郡) 1888 0 明治21年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 戊子 1 389 1 隠岐国、町村制を施行せざる島嶼に指定さる 1889 116 明治22年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 2 大日本帝国憲法発布 1889 211 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 3 松江並びに合併町村内旧町村共有財産処分方(県令二三) 1889 309 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 3 今般合併町村内の旧町村名は大字として存す(告示三八) 1889 313 明治22年 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 4 土地台帳規則(地券廃止) 1889 323 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 11 東海道本線全通 1889 701 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 16 地租代米納廃止 1889 927 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 389 23 県教育会、幻燈使用通俗講演会で各地巡回 1889 0 明治22年 島外 新修島根県史(年表篇) 己丑 1 390 1 松浦斌(隠岐航路開航の功労者)死す(38) 1890 114 明治23年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 390 6 長崎のコレラ蔓延の兆しあり、県、美保関、温泉津、浜田外の浦、西郷其の他主要港湾に船舶検疫所を設く 1890 600 明治23年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 390 18 教育勅語発布 1890 1030 明治23年 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 390 20 第一回帝国議会開く 1890 1129 明治23年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 390 24 コレラ患者一八四名(死亡一三八名)痘瘡患者一八名 1890 0 明治23年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚寅 1 391 6 海士郡海士村において犢牛の伝染病発生 1891 400 明治24年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 391 18 隠岐四郡聯合町村会、周吉郡八田村に公立実業園設置 1891 0 明治24年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 391 18 是年、知夫郡美田、別府、宇賀、浦郷四村一役場なりしを浦郷村を分割して一戸長役場を設置 1891 0 明治24年 新修島根県史(年表篇) 辛卯 1 392 10 鉄道敷設法 1892 621 明治25年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 392 14 隠岐国に町村制を施行せざる地方の小学教育規定を実施 1892 901 明治25年 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 392 20 神門郡鵜鷺村鷺浦、日御碕宇竜の有志、佐度に於て烏賊漁法を伝習し、漁具を購入して帰村 1892 0 明治25年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬辰 1 393 14 県下大風水害(出水台風は13日より15日までが中心。飢餓救助19694名。死者行方不明者78名。家屋流失破損7454棟。道路決壊453km。耕地流失荒蕪ha。山岳崩壊3200余) 1893 1013 明治26年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸巳 1 393 23 隠岐国産鯣の市場声価高まる 1893 0 明治26年 新修島根県史(年表篇) 癸巳 1 394 9 隠岐の一部落に突如赤痢患者二〇余名発生(爾後島内各地に伝染、総数二三〇〇余名となる) 1894 800 明治27年 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 10 是月、日清戦争はじまる 1894 800 明治27年 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 11 衆議院議員選挙に第六区渡辺新太郎当選 1894 901 明治27年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 18 穏地郡都万村に於て牛馬共進会開設(爾来五回) 1894 0 明治27年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 19 食事 軍用食肉の需要激増し、牛価高騰の傾向 1894 0 明治27年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 20 沖取網漁業伝習のため、県教師を招き4月より11月まで石見、出雲、隠岐各地沿海で実地指導 1894 0 明治27年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 394 25 赤痢猖獗(隠岐で発生後、出雲、石見、各地にも発生、患者総数4600余名) 1894 0 明治27年 新修島根県史(年表篇) 甲午 1 395 7 松江電燈株式会社、 殿町城山内に創立(県統計) 1895 410 明治28年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 395 8 市町村に設置すべき避病院設備標準(内務省訓令四) 1895 430 明治28年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 395 10 是月、隠岐四郡共有汽船第二隠岐丸が大阪で竣工 1895 600 明治28年 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 395 14 隠岐汽船株式会社設立、四郡聯合町村会共有の汽船を借受け開業 1895 1001 明治28年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙未 1 396 18 隠岐産牛馬組合設立 1896 826 明治29年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙申 1 396 26 浦郷村公立病院設立 1896 0 明治29年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙申 1 397 15 金本位制実施 1897 1001 明治30年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 397 18 隠岐二番鯣、第二回内国水産博覧会で名誉銀牌を受く 1897 0 明治30年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁酉 1 398 1 葉たばこ専売実施 1898 101 明治31年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 398 1 男児と女児と教室を区分すべき件(訓令一〇) 1898 127 明治31年 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 398 9 県会議員選挙隠岐は安達和太郎当選 1898 501 明治31年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 398 15 是月、隠岐国西郷に呉鎮守府所属海軍望楼台設置 1898 900 明治31年 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 398 20 県有林林種改良をはかるため本県より五〇年計画を以てスギ、ヒノキ、ケヤキの造林を開始 1898 0 明治31年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊戌 1 399 3 国有林野法 1899 323 明治32年 島外 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 399 7 島嶼に関する府県行政の特例に関する件 1899 606 明治32年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 399 15 県会議員選挙、隠岐は安達和太郎当選 1899 925 明治32年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 399 21 青森県南部地方より種馬五頭購入、仁多、飯石、簸川、美濃、知夫各郡へ一頭宛貸与 1899 0 明治32年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己亥 1 400 2 産牛馬組合法 1900 226 明治33年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 400 3 産業組合法 1900 307 明治33年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 400 4 電信法 1900 314 明治33年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚子 1 401 1 大阪商船、大阪、境線を毎月七回発航とす(10月以降久手臨時寄港) 1901 100 明治34年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 401 13 大阪商船、大阪、境線の外に大阪、安来線を開始(毎月八回両地発航) 1901 813 明治34年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 401 22 水産業組合聯合会による韓海出漁、従来南海に止まりしを本年は北上して江原、咸鏡道沿岸に漁場を探索 1901 0 明治34年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 401 22 県水産試験場、鱶延縄、鯖節製造、養鯉、養メメ、藻介養殖試験を始む 1901 0 明治34年 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 401 24 海外渡航者(主として清国、韓国、ハワイ)六七名 1901 0 明治34年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 401 24 乗合馬車、人力増加 1901 0 明治34年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛丑 1 402 1 実業補習学校規定改正 1902 115 明治35年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 402 21 県水産試験場、鰆流網試験、韓海出漁試験、塩鯖米国輸出試験、海苔加工試験及び日本型改良漁船試験を始む 1902 0 明治35年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 402 23 西郷町中井養三郎、はじめて竹島のあしか漁業に着手 1902 0 明治35年 新修島根県史(年表篇) 壬寅 1 403 3 隠岐国酒造組合を布施村に設立 1903 226 明治36年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 403 5 隠岐水産組合を西郷町に設立 1903 303 明治36年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 403 6 是月、第五回内国勧業博覧会で隠岐水産組合、名誉銀牌を受く 1903 300 明治36年 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 403 8 隠岐四郡町村、蚕業講習所を東郷村に設置、各郡市より入所者を募集 1903 401 明治36年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 403 9 日御碕燈台竣工(一等燈台、高さ基礎上四四m、光達約四0m) 1903 400 明治36年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸卯 1 404 1 隠岐国町村合併、戸長役場位置を定む(4月1日施行) 1904 109 明治37年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 404 4 是月、日露戦争勃発 1904 200 明治37年 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 404 10 隠岐国の町村に町村制を施行(内務省令六) 1904 501 明治37年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 404 13 煙草が全面的に政府の専売となる 1904 701 明治37年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲辰 1 405 1 竹島を自今本県所属隠岐島司の所轄とする件内務大臣より知事へ訓令(訓令八七) 1905 215 明治38年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 2 県、竹島を本県所属隠岐島司所管と定められたる旨告示(告示四〇) 1905 222 明治38年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 7 日本海海戦、我が聯合艦隊、露国バルチック艦隊を日本海に迎え撃ち、両日の戦闘で同艦隊を完全に壊滅、県下民衆、大地を揺るがす艦砲の連続轟音に驚く 1905 527 明治38年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 11 是月、竹島漁猟合資会社(海驢捕獲製造販売) 1905 600 明治38年 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 11 塩が政府の専売となる 1905 601 明治38年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 27 各地で小学校に高等科を併置又は補習学校を設置、青年夜学会開設さる 1905 0 明治38年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 405 27 文部省、青年団の設置奨励の件通達 1905 0 明治38年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙巳 1 406 3 是月、山陰線鉄道、米子より松江を経て出雲今市まで延長敷設と決定(香住以西を山陰西線と命名) 1906 300 明治39年 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 3 鉄道国有法(法一七) 1906 331 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 4 屠場法 1906 411 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 5 大阪商船会社、大阪、境線を松江へ延航、和江臨時寄港とす 1906 400 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 5 県、阪鶴鉄道株式会社に命じ馬潟、舞鶴間の定期航路を開始せしむ 1906 500 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 10 大阪商船、大阪、境線と大阪、安来線とを合併 1906 803 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 16 大豆粕輸入増大、魚肥を圧倒 1906 0 明治39年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 406 16 是年、神社廃社一六四、合祀三四六、境内神社に移転二五 1906 0 明治39年 新修島根県史(年表篇) 丙午 1 407 7 大阪商船会社、大阪、敦賀線を開航し浜田、温泉津、境に寄港 1907 415 明治40年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 407 10 松江市内電話開通(加入者二五七) 1907 501 明治40年 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 407 12 松江より安来、米子、境へ長距離電話通話開始 1907 516 明治40年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 407 13 5月21日皇太子嘉仁親王(大正天皇)本県に公式行啓、学事産業等奨励の御沙汰(〜〜4日浜田御発艦隠岐へ御立寄、5日御発艦還啓) 1907 604 明治40年 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 407 16 小学校令施行規則実施規定中改正(夏期休業を四〇日間とす) 1907 705 明治40年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 407 27 隠岐町村組合立甲種商船学校設立開校 1907 0 明治40年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁未 1 408 7 西郷町外11村組合立隠岐商船学校を県立に移管 1908 400 明治41年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 408 7 米子、安来間に鉄道開通 1908 405 明治41年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 408 14 石油・ガス 石油発動機、ガス発動機の使用者増加し県、蒸気機関取締規則の一部を改正し準用せしむ 1908 807 明治41年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 408 17 安来、松江間に鉄道開通(当時既に東海道、東北、山陽、奥羽各本線全通、鹿児島本線は全通近し) 1908 1108 明治41年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 408 19 木炭 隠岐布施村森田勝太郎、改良木炭製造伝習所開設 1908 1210 明治41年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 408 21 是年、神社廃社114、合祀260、境内神社に移転27 1908 0 明治41年 新修島根県史(年表篇) 戊申 1 409 3 隠岐島(竹島を含む)を島庁を置く島地に指定さる(勅令五四、4月1日施行) 1909 329 明治42年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 409 5 是月、阪鶴丸、馬潟、安来への寄港を廃止(舞鶴、境間となる) 1909 400 明治42年 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 409 5 種痘法 1909 400 明治42年 島外 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 409 6 新聞紙法 1909 506 明治42年 島外 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 409 13 電気 米子の山陰電気株式会社、安来町に送電開始(松江市まで電灯電力供給区域を拡張すべく出願) 1909 1016 明治42年 島外 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 409 16 是年、神社廃社二〇、合祀九三、境内神社に移転一三 1909 0 明治42年 新修島根県史(年表篇) 己酉 1 410 18 徳川、日野両大尉、日本で初の試験飛行(代々木練兵場) 1910 1219 明治43年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 410 19 是年、神社廃社18、合祀84、境内神社に移転16 1910 0 明治43年 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 410 23 県水産試験場、鮪延縄、鯖揚繰網、沖手繰網、鯖釣、海苔移植等試験 1910 0 明治43年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 410 24 水産組合聯合会、朝鮮移住者及び出稼者の便宜のため本県有又は組合有土地に家屋建設 1910 0 明治43年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚戌 1 411 2 松江郵便局取扱の年賀郵便は198752通 1911 100 明治44年 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 5 浜田線(出雲今市、浜田間)、杵築線、山口線、鉄道敷設法に追加さる 1911 315 明治44年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 6 県立隠岐商船学校廃止 1911 315 明治44年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 9 是月、大阪商船の大阪、山陰線、下関、境を連絡地として国有鉄道と旅客、貨物の船車連絡を開始 1911 400 明治44年 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 12 松江、元山(朝鮮)間に海底電信開通 1911 625 明治44年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 13 是月、隠岐電灯株式会社を西郷町に設立 1911 800 明治44年 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 19 県水産試験場、知夫郡浦郷村に水産実習所を設置 1911 0 明治44年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 411 20 隠岐町村組合教育会、図書館を設立 1911 0 明治44年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛亥 1 412 2 石油 県水産試験場、遠洋漁業試験漁業調査用石油発動機付西洋型漁船八千矛丸建造 1912 121 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 3 山陰西線浜坂、香住間開通、出雲今市、京都間全通 1912 301 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 4 大阪商船会社、下関、 境線を開発、浜田、温泉津、杵築に寄港開始 1912 402 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 4 一畑軽便鉄道株式会社創立 1912 406 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 8 出雲今市、大社間鉄道開通 1912 601 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 10 明治天皇崩御 1912 730 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 11 大正天皇踐祚、年号を大正と改めらる 1912 730 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 412 22 松江市の石橋鉄工所、船用重油焼玉機関の製作開始 1912 0 大正元年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬子 1 413 3 西郷町外十一村組合立隠岐女子技芸学校設立 1913 400 大正2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 413 3 是月、大阪商船会社、下関、境線を米子、安来、馬潟に延航(11月より隠岐浦郷、菱、西郷に変更) 1913 400 大正2年 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 413 7 西郷行第三隠岐丸、本土、隠岐の中間で境港行の第二隠岐丸と衝突して沈没 1913 920 大正2年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 413 12 水産試験場、鯖流網、底刺網、石花菜繁殖、竜蝦移植等の試験、漁礁調査を始む 1913 0 大正2年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸丑 1 414 9 隠岐汽船株式会社、大阪商船会社と協定し、下関、境間隔日航海開始 1914 601 大正3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 414 11 第一次世界大戦勃発 1914 700 大正3年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 414 12 ドイツに対し宣戦布告 1914 823 大正3年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 414 21 県水産試験場、試験船八十島丸借入、またメメ漁試験、二番柔魚漁基本調査 1914 0 大正3年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 414 21 隠岐島布施村で蒸気機関動力製材所設立 1914 0 大正3年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 414 23 隠岐黒木、浦郷両村組合を設け船越運河を開く 1914 0 大正3年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 1 415 2 衆議院議員選挙に隠岐選挙区渡辺新太郎当選 1915 325 大正4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙卯 1 415 8 大阪商船会社、下関、境、西郷線廃航 1915 600 大正4年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 乙卯 1 415 16 朝鮮米移入による県産米の販路圧迫の傾向現わる 1915 0 大正4年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙卯 1 416 17 イネクロカメムシ隠岐に大発生 1916 0 大正5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙辰 1 416 18 八束郡片江村渋谷兼八の発動機付鯖流網漁業成功、八束、簸川、那賀、美濃郡、隠岐で続々発動機付漁船建造、二〇余隻に達す 1916 0 大正5年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙辰 1 417 11 皇太子裕仁親王(今上天皇)行啓(軍艦香取で美保湾御着、出雲大社御参拝、松江市御立ち寄り、7日隠岐海士村黒木村に御立ち寄りの上御発艦) 1917 706 大正6年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 417 22 このころ足踏脱穀機、急速に普及 1917 0 大正6年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁巳 1 418 21 石橋鉄工所、隠岐丸、伯洋丸の船用三聯成四五〇馬力蒸気機関作製 1918 0 大正7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 戊午 1 419 4 史蹟名勝天然記念物保存法 1919 410 大正8年 新修島根県史(年表篇) 己未 1 419 10 ベルサイユ講和条約調印 1919 628 大正8年 島外 新修島根県史(年表篇) 己未 1 420 2 隠岐蚕糸業同業組合を西郷町に設立 1920 320 大正9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 420 13 暴風(隠岐出漁船遭難多し) 1920 821 大正9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 420 16 第一回国税調査 1920 1001 大正9年 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 420 24 隠岐国青年団成立 1920 0 大正9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 庚申 1 421 2 知夫郡黒木村地主会結成 1921 214 大正10年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 421 6 隠岐町村組合立女子技芸学校を実科高等女学校に組織変更 1921 400 大正10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 421 6 隠岐町村組合立商船学校(乙種)設立 1921 400 大正10年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 421 22 文部省、通俗教育を社会教育と改称 1921 0 大正10年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛酉 1 422 4 ワシントン軍縮条約調印 1922 206 大正11年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 422 4 県会議員選挙(隠岐は25日) 1922 225 大正11年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 422 8 県立隠岐商船水産学校を東郷村に設置(町村組合立商船学校と水産講習所を合同) 1922 401 大正11年 新修島根県史(年表篇) 壬戌 1 423 7 郡制廃止 1923 401 大正12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 423 10 是月、町村組合立隠岐実科高等女学校を高等女学校に組織変更 1923 401 大正12年 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 423 12 日本航空株式会社創立 1923 620 大正12年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 423 13 出水(江川増水12m那賀、隠岐で土砂崩れ) 1923 712 大正12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 423 23 沢谷、今市、黒木、出西、灘分、江南各村で小作組合結成 1923 0 大正12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸亥 1 424 11 是月、メートル法実施 1924 700 大正13年 新修島根県史(年表篇) 甲子 1 425 7 普通選挙法 1925 505 大正14年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙丑 1 426 7 おおみずなぎどり繁殖地(隠岐中村)天然記念物に仮指定 1926 500 大正15年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 426 11 隠岐支庁を置く 1926 701 大正15年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 426 11 郡役所、島庁、郡長、島司廃止 1926 701 大正15年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 426 14 日本放送協会設立 1926 820 大正15年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 426 19 今上天皇踐祚 1926 1225 大正15年 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 426 19 大正天皇崩御 1926 1225 大正15年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙寅 1 428 7 電気 一畑電気鉄道会社線、北松江駅まで開通 1928 405 昭和3年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊辰 1 429 9 日本航空輸送会社、旅客輸送開始(東京大阪福岡間) 1929 715 昭和4年 島外 新修島根県史(年表篇) 己巳 1 430 5 ガス 松江市営ガス事業開業 1930 401 昭和5年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚午 1 431 12 満州事変起こる 1931 918 昭和6年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 431 15 山陰線京都、下関間全通 1931 1115 昭和6年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛未 1 432 1 上海事変起こる 1932 128 昭和7年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 432 2 満州国成立 1932 301 昭和7年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 432 2 松江放送局(JOTK)開局 1932 307 昭和7年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 432 10 食事 文部省、農漁村で欠食児童20万と発表 1932 627 昭和7年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 432 20 養蚕業組合設立(隠岐) 1932 0 昭和7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 432 21 マツケムシ隠岐に大発生 1932 0 昭和7年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 壬申 1 433 1 大山国立公園に出雲、隠岐包含方を松江商工会議所が陳情 1933 100 昭和8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 433 6 隠岐汽船、航路を松江築港に延長 1933 400 昭和8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 433 21 [隠岐島誌]出版 1933 0 昭和8年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 癸酉 1 434 4 隠岐国分寺境内(中条村)を史蹟に指定、黒木御所(黒木村)を史蹟に仮指定さる 1934 313 昭和9年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲戌 1 435 6 紙本墨書後醍醐天皇メメ翰宝劔第綸旨一巻、同後醍醐天皇王道再興綸旨一巻、同宝治二年遷宮儀式注進状一巻(以上出雲大社)、銅印一顆、隠岐国駅鈴二口、附光格天皇御下賜唐櫃一合(隠岐磯村億伎有 1935 400 昭和10年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 435 7 寿)を国宝に指定さる 1935 400 昭和10年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 435 18 断魚渓(邑智郡井原村、中野村)竜頭ヶ滝(飯石郡松笠村)、隠岐布施海岸、隠岐知夫湾を名勝に指定、隠岐知夫赤壁、雲見の滝(飯石郡飯石村)を名勝及び天然記念物に指定さる 1935 1224 昭和10年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 435 19 是月、隠岐神社造営決定 1935 1200 昭和10年 新修島根県史(年表篇) 乙亥 1 436 7 県立隠岐商船水産学校を水産学校と改称(昭和八年4月航海科生徒募集中止) 1936 401 昭和11年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 436 16 松江、大阪間定期航空開業 1936 1001 昭和11年 島外 新修島根県史(年表篇) 丙子 1 437 5 母子保護法 1937 330 昭和12年 島外 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 437 23 観光 大水凪鳥繁殖地(隠岐黒木村)を天然記念物に指定、隠岐国賀海岸(黒木村、浦郷村)、隠岐白島海岸(中村)を名勝及び天然記念物に指定さる 1937 1121 昭和12年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 丁丑 1 438 23 木炭 木炭自動車出現 1938 0 昭和13年 島外 新修島根県史(年表篇) 戊寅 1 439 7 是月、隠岐神社創建、後鳥羽上皇七百年祭執行 1939 400 昭和14年 新修島根県史(年表篇) 己卯 1 440 7 米穀強制出荷命令発動 1940 400 昭和15年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 440 7 砂糖、マッチ切符制となる 1940 601 昭和15年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 440 13 日独伊三国同盟 1940 927 昭和15年 島外 新修島根県史(年表篇) 庚辰 1 441 6 国民学校発足 1941 401 昭和16年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 441 15 鮮魚介配給統制規則 1941 801 昭和16年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 441 15 米穀通帳制配給始まる 1941 801 昭和16年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 441 24 対米英宣戦布告 1941 1208 昭和16年 島外 新修島根県史(年表篇) 辛巳 1 442 1 松陽新報、山陰新聞両社統合、島根新聞社設立 1942 101 昭和17年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 2 学徒動員命令 1942 109 昭和17年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 4 衣服 衣料配給切符制実施 1942 201 昭和17年 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 4 食事 食糧管理法 1942 221 昭和17年 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 7 配電統制令実施 1942 401 昭和17年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 13 是月、県下各地で梵鐘供出始まる 1942 800 昭和17年 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 442 19 この年から終戦まで鉄道運賃、通信料金を三回、大幅引上げ 1942 0 昭和17年 島外 新修島根県史(年表篇) 壬午 1 443 12 隠岐保健所を黒木村に設置 1943 901 昭和18年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 443 19 都市疎開実施要綱発表 1943 1221 昭和18年 島外 新修島根県史(年表篇) 癸未 1 444 1 女子挺身隊結成、動員配置決定 1944 119 昭和19年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 444 3 国民登録を12才から60才まで拡張 1944 210 昭和19年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 444 11 サイパン島の日本軍全滅 1944 707 昭和19年 島外 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 444 14 大風水害(出雲は風害、石見は水害、隠岐は風水害、昨年大災害の復興中途の再来襲で被害を一層大にす 1944 917 昭和19年 隠岐 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 444 18 是年、大都市児童集団疎開始まる 1944 0 昭和19年 新修島根県史(年表篇) 甲申 1 445 2 国内学校の授業を停止、学徒を生産面へ動員 1945 218 昭和20年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 11 衣服・食事 県、松江、出雲、浜田、安来、江津、益田及び隠岐の戦時非常対策衣食住物資備蓄計画樹立 1945 618 昭和20年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 17 広島に原子爆弾投下さる 1945 806 昭和20年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 18 ソ連、対日宣戦布告 1945 808 昭和20年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 18 長崎に原子爆弾投下さる 1945 809 昭和20年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 18 ポツダム宣言受諾申入れ 1945 810 昭和20年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 18 戦争終結の詔勅 1945 815 昭和20年 島外 新修島根県史(年表篇) 乙酉 1 445 19 県庁焼打ち事件起こる 1945 824 昭和20年 新修島根県史(年表篇) 乙酉 2 186 1 浦之郷。(前略)一)当所別村。本郷・宇須子・珍崎・荒尾井・三田部・赤之江・生名・葛見。畑多事は一国に続所なし、田園僅にして漁猟を成、境内広、入江深し、山林無し、薪稀也。一)本郷より西へ十八町去て赤江在、生名、くつ見とて小名二つ有。一)珍崎 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 6 本郷より南へ壱里六町去る、美田浦郷入江の口西の方に在り。一)三田部、本郷より、西方へ壱里拾壱町去る外浦也。一)本郷より、北の方へ拾壱町山へ登り、城山と云高山の峰に松林有り、其所魔所之由申伝、古来より木枝不伐て木葉をも拾う事なし。一)本 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 12 郷より西南へ壱里廿町去て、桂尾の嵩と云高さ弐百尋の岩壁に、隼の巣の処在り、是を冬とをしとも云。一)本郷より西方へ壱里七町去て、襟か崎とて、高百七拾尋の岩壁に、隼の巣所在り。一)本郷の前に平島有、弁才天を奉す。一)国加浦、本郷より弐拾町西 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 17 方に在り、是より戌亥の出崎に兎島有高さ拾尋、周り八拾尋、頂上に木生す、同所に仏島在り、高さ六尋、周り拾間、此磯部に岩穴在、漁舟行通ふなり。一)赤灘瀬戸の南は知夫里、瀬戸の北は浦の郷也、瀬戸の内に、葛島、小葛島とて、島二つ有、本郷より赤 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 24 灘迄陸地三拾三町也。一)当所に小川六つ流れたり、其内に中川の水上は奥谷より出て、水南へ流れ、本郷の磯より海へ入由良川は水上城山の麓より出て、堤を通り、南へ流れ海へ入る、美田部里の川は、大津山より出る川と、月山より出る川と、樋下の川、三流 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 28 共に折坂と云処にて落合、西へ流、美田部の浜にて海へ入、大田川は松根谷より出て、向浜にて海へ入、珍崎川の水上は、宮の奥より出、北へ流れ、海へ入、生名川水上は、奥の谷二つより出て、清水と云処にて落合、生名の磯にて海へ入。一)北は美田村の本 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 186 33 郷迄三十町、船路は拾町余、巳の方知夫里村の内宇類美浦迄、舟路弐里半也。一)漁 鯛、烏賊、鰤、鯖、荒和布、飛魚、鮑、生海鼠、此外雑魚在り、鯖網多し。一)堤三つ 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 2 美田村。(前略)一)長福寺・真言宗・寺領壱石。一)圓蔵寺・真言宗。一)小山寺・真言宗。一)道場寺・真言宗。一)焼火山雲上寺・真言宗・寺領拾石、神主吉田石見。当山は本郷より巳の方へ壱里三町也、端村よりは拾四町鳥居よりは九町、大山明(オオ 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 8 ヤマアキ)よりは五拾町在、其路何れも嶮難九折を経ていたる、嶺(イタタキ)に巨岩在り、其半腹に穴あり、是に宮殿を作れり、拝殿より長廊を造り続けり、鐘楼在り、宝蔵有、山上へ行道在て到れは神銭湧出る一壷在り、人壱銭を得る時は水難をまぬかれ疫 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 12 病をさける、一銭を受けて二銭をなける故に、日々数十倍に及、雖然あへてあふるる事なし、西の方に僧房在、昼夜参詣の客無絶、貴賎を不分饗応をなす、古樹立並て茂れり、山中に双鴉在り、常に堂前に遊ふ、山樹に巣ふ、客来とする時者噪庭樹啼屋上於是社僧 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 17 祠人知之、神前に出て以待之、産子時は反哺して去る、縁起有、神徳を記て説に不遑(イトマアラ)神火を施して闇夜の漂船を助け給ふ、凡そ秋津州は不及言に高麗に到ても神火を請時は出すと云事なし、承久の昔し後鳥羽上皇御来島の時波乱暴風強く御船中 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 22 御製在て神火の出事は海士村勝田山に記す、其時より焼火山雲上寺と号すとかや、是上皇の賜所の号なり、晴に望時は雲州伯州の山を見る、曇る時は墓島、赤灘、葛島等も雲霧に阻てらる、気景に勝れたる地なり、他国にも有かねる山なり、所々より多宝物を棒 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 26 奉る也、宝蔵、豈神徳の致す処にあらす、寛永之始、水無瀬中納言、依勅勝田の御廟へ来りし時、上皇の御取立被成山なれは、昔の跡を慕い御参詣在て、所々巡礼せられしに、彼御寄進の薬師仏も僧房に在りとかや、其時之詠歌とて、「千早振る神の光を今も世に 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 33 けたて焼火のしるしみすらん」短冊に書て在り、氏成卿自筆と見へけり。一)八幡宮・社領壱石。大山大明神(十六社の内大山祇命)・高田大明神・三保大明神・地主権現・八王子権現。一)当所に小名多し、本郷を一部と云、大津と云も続也。一) 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 188 37 船越、小向・宮崎・本郷より亥の方へ拾壱町去る、端又波止とも書く、本郷より南へ廿八町去る、美田尻、本郷より弐拾八間去る、別府の人家を隣とす、大山明、本郷より東の方へ三拾五町去る、高崎山、本郷より壱里、北の方也、雑木有、此山之北の方に、高 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 4 弐百三拾尋の岩壁在り、是に隼の巣所在り。一)かけ、本郷より戌の方へ四拾弐町去る、此所隼の巣所有り。一)本郷より西へ七町去て、内海の入江有り、爰に大神の滝と云、松の古樹在り、其所より十壱町南へ去て、山の尾つつきてしけみに天狗住と云、又本郷 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 10 より東の方へ壱町去て、松之大木弐本有り、荒神を祭れり。一)本郷より五町北へ去て、高さ壱丈有余の石塔在、何人の物故を記せるやらん、知るものなし。一)文覚窟、本郷より辰の方へ壱里十弐町四拾間去て、焼火山の磯部に続て、高さ百尋計り岩壁に岩穴二 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 14 つ在り、此岩窟の内にて、文覚行ひすまし居諸(ツキヒ)を送れりと云伝ふ、右の方に鉢カ浦とて、舟懸り能湊在、浜の広さ八拾弐間、是に鉢の子と云ふ小島在り、船頭島舟島等有之、文覚聖人岩屋の内より出て、廻船へ鉢を乞て、身命をつなかれしに、或時、 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 19 心なき船頭、鉢の内へ穢たる物を入けれは、文覚憤怒を成し、忽に舟も船頭も化して島となり、鉢の子も島と成るこそ不思議なれ。一)此焼火山の東西南北の尾谷を隔て、皆山林也、美田の境内にして所々より入て、薪を取る、入口別れて有り。一)伊作泙(イ 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 24 ザナギ)浦、本郷より戌の方へ三十五町去る、西北を受けて荒磯なり、磯なり、此良島、黒島と云在り。一)外の浜、本郷より亥の方へ十三町去る此所北の沖に納戸島、井久利島在り、弁財天島、本郷より未の方弐町去て、松の古木生て在り。一)見付島、本郷よ 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 29 り寅の方へ廿九町去る、別府の坤の方に見えたり、周り四町、高十五間、松雑木生す、島と磯との間四拾間海の深さ三尋なり、立山也。一)当所に小川五つ流れたり、其内山神の川、宮谷川、江崎にて落合、西へ流て海へ入、鮎有り、雑喉在り、波止(ハシ)川 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 189 30 は波止村在、焼火山西の谷梶場より出る、仁具(ニグ)川、須守(スモリ)谷魚切谷より出て、木戸口に面落合、西へ流れ海へ入。一)伊佐那岐川、津目坂の出水、堤の出水、高谷の水上流宮原に面落合北へ流れ海に入。一)大山明の川、地獄谷の出水、奥谷より 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 190 1 出水、精進川に面落合、艮の方へ流海へ入。一)当所より別府へ廿八町余、浦之郷村へ陸地三拾町、舟路十町、知夫里村へ舟路三里。(中略)一)当所は田園、畠園、山林、漁猟、皆調て、殊に郡中に勝れたる境地也、舟懸吉。 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 7 別府村。一)黒木之御所と云て、札の辻より東の方へ三町去て、高三十間、周り四町の山有、三方は海にして、北は山続き也、南の方に松生す、篦竹生す、頂上に東西七間、南北六間、石壁古く残れり、元弘弐年、後醍醐天皇、北条高時が為に被捕当国江左遷在 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 10 (マシマシ)けるに、始は知夫里村の宇類美坊二夫里に姑(シバラク)御座在しか、後此黒木の御所に遷らせ奉ると云云也、当所に郭公在て鳴事なし、所のものに、御勅問いたしけれは、勅答に曰、後鳥羽院此所へ御幸有しに、郭公しきりに鳴けれは、上皇御製 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 15 に、なけは聞き聞てはむかしのこひしきに此里出よ山郭公。とあそばされたる故に、其後郭公終に鳴事なしと申上る、此時、後醍醐天皇、聞人も今はなき世に郭公たれにおそれて鳴かぬ此里、如此御製有けれは、それより又鳴由也、ある時御番(トノイノ)もの 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 23 怠ける折節、御忍出、知夫里の湊より御船に被為召、伯州舟上へ御臨幸被遊しとなり、但知夫里の湊とは今の美田の湊たるべし、美田は則知夫里郡の内なれは也。一)別府御代官屋前に御制札場在、囲の内に御蔵在、島前二郡の府也。一)別府の浜東西八町、前 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 28 は内海也、生海鼠有、東の方宇賀の境迄七町、西の方美田の境目迄壱町、此境目の沖に見付島在、宇賀村の本郷迄拾四町、美田村公文本郷迄廿八町、焼火山雲上寺江六拾町也。一)耳島(浦カ)北の方拾六町、峰を越て外浦也、鯛、烏賊、鯖、 、鮑、栄螺、和布 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 191 34 海苔等有。一)白島、耳島(浦カ)より拾町東の方頂上に松生して、是より壱町北の方に殿島、周り六拾間、高さ五間、海苔生す、此内海は立海立山也。一)高島、耳島の浜より五町西方也、周り百間、高さ十三間、島の頂上に松三本見えたり。一)毘沙堂(門 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 192 2 脱カ)の出崎、岩壁の高さ百尋在り、其下に岩穴、長七間、横拾三間、東西へ行抜け船通る也、其所より壱町西の方に中毘沙堂(門脱カ)と云岩壁在り、是も右之通也岩穴五町、舟は不通、峯の高さ百尋、此出船より西の方に曽奈志の浜と云浜に石多し、岩壁の 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 192 6 高さ百五拾尋、此浜より二町沖に二子島、周り弐拾間、高三間、此島より西へ拾五町去て、箕(ミイ)が靹(トモ)出崎の頂上に、雑木生す、此谷より水流流れ出て、高拾尋計の滝と成、右出崎より七町西へ去て須浦と云、少き入江在り、其所より五丁沖に亀島 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 192 10 とて、海際より五尺底に在之、是を美田別府の境と云也、鮑、栄螺、和布、海苔在り。一)大谷山、在所より弐拾町去る柴木在り。 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 193 13 宇賀村。(前略)当所に小名在り、本郷は茂野井と云、本郷より西へ六町五拾間去て知藤(チトウ)、別府の境、本郷より八町東の方へ去て蔵ノ谷、本郷より東へ十八町四十間去て大宇賀、此続小宇賀と云。一)本郷より東へ拾町去て、馬篭と云山に松柏生す、 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 193 17 是は古へ島後津井村より出る池月の名馬海を渡り来て、此山へ登りたる由にて、磯辺に駒足跡有、是より此駒出雲の国へ渡り、加賀浦上り、後は鎌倉へ献すと云、此馬篭の出崎に瀬戸の岩とて、窓のことく明き通りたる岩間在、頂上に松壱本生す。一)冠島、高 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 193 23 さ八拾間、周り百三拾間、本郷より艮の方へ廿八町隔たる地山の磯より八間去る、頂上に隼の須所有。一)犬島、本郷より艮の方廿弐丁去る、小島也。一)鹿か浦、本郷より拾壱町廿間隔る、是より是より戌の方に当り、白島と云在、周り三百五拾間、此白島の 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 193 27 東の方横三間、長弐拾間、横弐間の岩穴在り、是も小舟通る也、鹿か浦南の方われの滝と云、高七拾間の岩壁、頂に小松生す。一)小白島、周り九拾間、高八間也、磯より拾七間去る、是より子の方に立島在り、周り三拾間、高三十八間、頂上に柴木生す。一) 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 193 34 鶚(ミサゴ)島、長弐拾間、横四間、高廿五尋、頂上に松生す、鶚の巣所在り。一)行離と云岩壁、高百三拾間、鹿か浦より丑の方へ拾町去る、隼の巣所在り。一)鼻津島、周り五拾間、高四拾間、頂上に柴木生す、磯より廿間隔る。一)星の神島、高さ四拾六 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 194 3 間、周り百六拾間、雨を祈り風を祈る神也、行離の磯より三十町北の方沖に在り、古来は此島に隼の巣所有、今は冠島に巣也、大森や二股島に冠(カフリ)きて阿らたにおかむ星の神島、所に云伝る歌也、大盛は津戸、二股は海士、冠島、星の神者宇賀也、読人 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 194 10 しらす。一)漁、鯛、海賊、鰤、鯖、 、和布、荒和布、海苔、鮑、栄螺、海鼠、此外雑魚多し、鯖網有。一)当所より道積西は別府迄拾四町、南は福井村菱の磯迄拾五町、海士村北分は廿五町、此両所は海を渡りて到る、島後目貫村、矢尾村江、舟路八里の積 1688 0 元禄元年 新修島根県史(年表篇) 戊辰 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1633 600 寛永10年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 癸酉 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1661 607 寛文元年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛丑 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1678 800 延宝6年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 戊午 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1691 500 元禄4年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛未 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1710 605 宝永7年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 庚寅 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1712 1021 正徳2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 壬辰 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1716 600 享保元年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙申 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1717 505 享保2年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丁酉 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1746 429 延享3年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙寅 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1746 610 延享3年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 丙寅 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1761 405 宝暦11年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛巳 2 324 1 巡遣使 巡遣使来島 1761 523 宝暦11年 西ノ島 新修島根県史(年表篇) 辛巳 3 203 19 のろし 次に危急の通報施設たる烽(とぶひ)であるが、これは賊が国境を侵したとき、昼は煙をあげ夜は火を燃やして通報するものであって、賊数の多少により烽数を異にして通報することになっていた。出雲に関しては風土記に次の烽が記されている。暑垣烽(意宇 734 316 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 204 5 のろし 郡)・布自枳美烽(ふじきみ)(島根郡)・馬見烽(出雲郡)・多夫志烽(出雲郡)・土椋烽(とくら)(神門郡)。天平六年の「出雲国計会帳」には、天平六年二月に「一六日符一道出雲国与隠岐国応置烽状以三月十六日到国」などとあり 734 316 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 204 11 のろし 、三月には「置烽期日辰放烽試互告隠岐相共試状」というのもあって、実際に設置されたのはこの頃かとも思われ、また実演して試すということも行なわれたありさまがしのばれるのである。 734 316 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 205 14 のろし ・・ついで天平六年二月六日の符として、「備辺式弐巻状」がみえる。天平六年二月五日の符では、要地六処に弩と幕料布をおくべきことが命ぜられる。同じく六日の符は、さきにも触れた出雲と隠岐とに弩をおくことを命じ、三月二十五日にはさらに日辰を期して 734 325 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 205 17 のろし 両国が烽を放ち相告知する試験をすることを命じている。四月六日符でも、出雲隠岐二国に烽を置くことを命じている。烽の設置や天平五年十二月六日の符の辺備式二巻の頒布などは海辺防備に関するものであるということはいうまでもない。 734 316 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 206 3 のろし 節度使は天平六年四月にいたって「諸道の節度使事既に訖ぬ」即ち軍備の整備が一応完了したというのであろう、国使主典以上をして「其事」をつかさどらせることを令している。このような軍備は内乱にあたっては早速動員され、 734 316 天平6年 新修島根県史(年表篇) 甲戌 3 206 11 のろし ・・・軍備については、八世紀の末になると律令の兵制はほとんど役立たなくなり、桓武天皇の延暦十一年(792)には辺要の地以外の兵士を廃止し、健児の制を定めた。その数は、出雲国−百人・石見国−三十人・隠岐国−三十人・但馬国−五十人・因幡国 792 600 延暦11年 新修島根県史(年表篇) 壬申 3 206 20 のろし −五十人・伯耆国−五十人であって、出雲は山陰では最も多く、山陽の備中五十人や、長門五十人などより多く、百人以上の国は近江・伊勢・美濃や北陸、東国のみであることと合わせて注意される。 792 600 延暦11年 新修島根県史(年表篇) 壬申 3 206 40 のろし なお『類聚三代格』に見える、寛平六年(894)の太政官符では、延暦年中にいたって内外無事であるため烽燧は永く停止されたけれども、このごろは寇賊がしばしばやって来て辺垂を侵掠する状況であり、隠岐は海中の孤島で非常の際に通告の方法がないの 894 0 寛平6年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 3 206 44 のろし で、烽で都までは通告はできなくても隠岐と出雲の両国の間にだけはもとの通り烽候を置いて欲しいという隠岐の国の上申を認可している。これは当時までも烽の制が出雲と隠岐ではまだ行なわれたことを示しているものの、軍備体制はもはや一般的には様相の変じてしまったありさ 894 0 寛平6年 新修島根県史(年表篇) 甲寅 0 265 9 ..ここは出雲とは県が同じだから、新任の島根県知事は就任後、かならずいちどはここを訪れることになっているし、県の警察部長なども、ときおりは視察旅行に出張する。また、松江その他の町の商人の中には、年にいちど、隠岐へ注文取りを派遣するものもある。そのほか、隠 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 265 9 岐とのあいだには、かなり大きな商品の取引があって、そういうものは大体みな、小さな帆船で輸送される。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 266 5 ..いまだに隠岐というと、よく東洋民族の空想文学のなかに出てくる例の女護ヶ島譚、おれによくにた奇談珍話がこんにちでも、西海岸地方の一般庶民のあいだには流布している。そうした昔からの言い伝えによると、隠岐の島の住民の道徳観念は普通とだいぶ変っていて、いった 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 266 5 んそこへ住つくと、どんな木仏金仏のような堅造の人間でも、遊蕩放埒にそっぽを向けていられない。あの島を訪れる他国の者は、着いたときにはどんな金持ちでも、やがてそこを去って故郷へ帰るときには、引く手あまたの女のために、丸裸のすってんてんになってしまうというの 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 266 5 である。.. 1892 716 明治25年 島外 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 6 船が進につれて、われわれの行く手の海面には、それまで見えなかった奇妙な小舟がーー美しい黄色の大きな四角い帆を上げた、軽々とした細長い漁り舟が、きゅうに点々とあらわれだしてきた。やあ、きれいな帆だねえと、思わずわたくしは友人に声をかけずにはいられなかった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 6 友人はあははと笑って、あれはね、古井畳でこしらえた帆だよ、とおしえてくれた。望遠鏡でのぞいて見ると、なるほど友人のいうとおり、藁で編んだ古い畳表の帆であった。それにしても、静かな青い水の上に、この隠岐の帆かけ舟の和やかな黄色い色をはじめて目にするのは、心 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 6 にのこる眺めであった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 13 焼火 焼火山には伝説がある。つれの友人から聞いた話だが、この山の頂上に、権現さまをまつった古い社がある。聞くところによると、毎年十二月三十一日の夜に、鬼火が三つ海からあらわれて、それがこの社殿にのぼり、社前にある石灯篭のなかへはいって、そのまま灯明のように燃え 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 13 つづけるのだそうな。三つの鬼火は、いちどに現れるのではなくて、べつべつに海から現れ、一つずつ山の頂上へのぼるのである。土地の人は、海からのぼるその火を見に、船にのって沖へ出る。ただし、その火は、ふだん心の清らかな者にだけ見えるのであって、心のよこしまな者 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 289 13 があらたかなその火を見たいと願っても、それは無駄だということである。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 297 7 るから、したがって町の通り、といっても路地に近いものだが、その道幅は船の舷門の幅ぐらいしかない。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 297 7 浦郷は、大きさはたぶん美保の関ぐらいの、美保の関と同じようにやはり半円形の険しい山の袖の、狭い崖ぷちにたっている奇妙な小さい町だが、美保の関なんぞよりはるかに未開だし、色彩にも乏しいところだ。人家も、ここの方がもっとぎしぎしに絶壁と海との間に詰込まれてい 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 297 11 ところで、船が錨をおろしたときに、突然妙な光景に注意をひかれた。ーー町の家並の上に、高く台地になってせり上がっている崖の横っ腹のところに墓地があって、その墓地のなかに、なんだか形のはっきりしない長いものが、ぎょうさん風にはためいている光景であった。墓地に 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 297 11 は灰色の募石と石仏がいっぱいあって、どの墓にも、細い竹の棒の先につけた、妙な白い旗が立ててあるのである。望遠鏡でのぞいてみると、どの旗にも、[南無妙法蓮華経]とか[南大慈大悲観世音菩薩]とかいう、仏教の文句が書いてある。聞いてみると、この浦郷では、毎年盆 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 297 11 前にはまる一カ月のあいだ、こうした旗をほかの飾りものや印のものといっしょに、墓の上に立てるのが習わしなのだそうだ。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 298 5 海はすっ裸で泳いでいる者でいっぱいだったが、その連中が大声で笑いながら、歓迎の歓声をあげた。軽い、そばしっこそうな小舟が何艘も、すっ裸の漁師達に漕がれて、船室と荷物をおろしにスイスイと出てきた。おとなも子どもも、見るからに元気あふれた、頑丈そうな骨格をし 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 298 5 ているので、大いに感心した。見たところ、おとなは出雲の浜あたりの連中よりも背も高いし、力量もずっとあるタイプのようである。船を漕いでいるときの、黒ぐろと日に焼けた背中や肩など、烈しい労働に選ばれた連中のなかでも、日本では比較的稀に見る、すばらしい筋肉の発 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 298 5 達を見せているものが少なくなかった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 298 13 食事 汽船は浦郷には一時間停泊なので、われわれはその間に浜へ上がって、町いちばんの宿屋で中食をとる時間があった。たいへん清潔な、こぎれいな宿屋で、食事も境の宿屋にくらべると、申し分なくうまかった。しかも、請求された食事代がたった七銭であった。年とった宿の主人が 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 298 13 、茶代もみんなはいらないといって、半分以下を納め、残りをそっとわたくしの浴衣の袂のなかへ返してくれた。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 304 12 食事 食事はびっくりするほどいいし、しかも珍しいくらい変化に富んでいて、そのうえお望みならば、西洋料理を−−フライドポテトつきのビフテキかロ−ストチキンを注文してもよいといわれた。わたくしは、旅中はなるべくよけいな手数をかけないように、純日本式の食事をとること 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 304 12 を建前にしているので、せっかくのその申し出は利用しなかったけれども、しかし人口五千のほかの日本の町だったら、どこへ行ってもとてもしてもらえそうもないことを、この西郷で先方から申し出られたのは、少なからぬ驚きであった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 305 9 ところが、そうした居心地のよさを味わう楽しさを邪魔する、重大な障害が一つあった。それはこの町じゅう、どこへ行っても匂っている、重苦しい、何にでも泌みとおる、ものすごい悪臭−−肥料につかう腐った魚のにおいであった。何噸というイカの腸ワタが、八尾川のむこうの畑 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 305 9 に撒かれる、その悪臭を、凪風がしきりなしに家のなかへ吹き込んでくるのである。暑中は、たいていどこの家でも線香を焚くけれども、とてもそんなものでは効き目はない。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 307 8 ..その人は、腰からたいそう美しい煙草入れと、銀ぎせるのはいっているきせる入れの筒をとりだして、煙草をすいだした。きせる入れは、なにか黒珊瑚のようなものでできていて、珍しい彫りがしてあり、透きとおった瑪瑙の玉に、三色の絹糸を組み合わせた太い紐を通して、そ 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 307 8 れでもって煙草入れの叺カマスにつないであった。わたくしがそれを褒めると、いきなりその人は袂から小刀を出して、こっちが止めるひまもないうちに、煙草入れからきせるの筒をプツリと切りはなすと、それを差し上げるといってわたくしにさしだした。みごとなその紐をプツリと切 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 307 8 ったときは、まるでその人が自分の神経をバッサリ切断でもしたように、こちらは感じた。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 307 15 しかし、いったんこうなった上からは、先方の志をむげに断るのはごく失礼にあたるだろう。その返礼として、わたくしは先方にもこちらの贈物を受けとってもらったが、とにかくこの経験をしてからは、もう隠岐にいる間は、どんなものにしろ持主の前では、二度とふたたび絶対に 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 307 15 物を褒めないように、自分で用心をした。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 308 4 ..西郷では出雲の方言が広く用いられている。町民の風習は、出雲の在郷の衆のそれによく似ている。じじつ、町民のなかには出雲人が大ぜいいるし、大きな商売はたいてい他国人の手で営まれている。女のひとは、出雲の女ほど人目をひくものはなかった。若い娘でずいぶんきれ 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 308 4 いな子も見たけれども、聞いてみると、そういうのはみんな他国の人たちであった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 308 12 じっさい、隠岐で生計を立てるのはたいへん楽なことで、よその浜の連中で暮らしの不如意なものは、働く機会さえつかめれば、少々前より収入は低くても、どんどん隠岐へ移入してきている。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 309 1 天気さえよければ、いつも日の入る二時間ほど前に漁船がずらりと並んで、いっせいに沖へ飛び出して行く。これは見ているとおもしろい眺めだ。軽い小舟を、筋骨隆々たる漕ぎ手−−大部分は女だ−−が押し出していくその驚くべき早さは、何代もの根気づよい経験によって初めて 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 309 1 得られた熟練を語るものである。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 311 1 日の御碕や美保関の漁業は、ほとんど世間に知られていないけれども、隠岐の漁業は、日本全国はいうまでもなく、遠く朝鮮、中国にまで知れわたっている。こんにち、この島がここまで繁栄し、耕地といってもごくわずかしかない海岸に、三万の住民が維持されてきたのは、もっぱ 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 311 1 らこの海上の漁労によってなのである。おびただしい数量の烏賊は、船で本州へ送られるが、聞くところによると、隠岐にとってこの産物の最上の顧客は、中国人だそうである。かりにこの供給が落ちるようなことでもあると、その結果は、およそ考えも及ばぬような不幸を招来する 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 311 1 ことになろうが.. 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 314 5 今から五百六十年の昔、流謫の帝後醍醐は、警備の者の目をようやくのがれて、西ノ島から知夫里へ脱出された。知夫里村の色の黒い船頭たちは、まさかのときには命を投げ出しても、君に仕えまつる旨を申し出た。おりから船頭たちは、干魚を船に積み込んでいたところで、その干 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 314 5 魚とは、おそらく今日かれらの子孫が出雲や伯耆へさかんに出荷している、あの干し烏賊であったろう。帝は、もしお前たちがわしを首尾よく伯耆か出雲へとどけてくれれば、その恩はきっと忘れまいぞといって誓われた。そこで船頭たちは、帝を一艘の小舟に乗せまいらせた。とこ 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 314 5 ろが、船を出してまだいくらも行かないうちに、追手の船が見えた。そこで船頭たちは、帝にそういって船の胴間へ横になっていただき、そしてその上に干魚を高く積み上げた。追手の勢は、船にのりこんできて、家さがしをはじめたが、 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 314 14 さすがに悪臭のはげしい烏賊には、手を触れることさえ考えなかった。知夫里の船頭たちは、追手方に問い詰められると、みんなしてうまく話をかまえ、まるで嘘の手がかりを朝敵どもにおしえてやった。そんなわけで、善良な帝は干し烏賊のおかげで、流謫の身をのがれ給うことが 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 314 14 できたのであった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 321 10 後醍醐帝の霊をまつった神社は、西ノ島の別府にある。別府は、半月形につらなる小山の裾に、入江を縁どって茅葺き屋根がずらりと並ぶ、一本の長い街路からなる、絵にかいたような美しい漁村だ。ここの風俗の醇朴と、飾りけのない健康な貧しさは、さすがの隠岐でもちょっと珍 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 321 10 食事 しい。よそから来た者を泊める宿屋ふうの家が一軒あるが、そこでは茶のかわりに客に素湯を出し、菓子のかわりに煎り豆を出し、米の飯のかわりに黍を食わせる。しかし考えてみると、茶がないということは、米がないということよりも、意味ははるかに深長である。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 322 12 後醍醐帝の神社は、入江の端の黒木山という山の頂上にある。黒木山は亭々たる松の木の生い茂った山で、道がひどく険しいので、わたくしは滑べらない用心に、草鞋をはくことにした。登ってみると、神社は高さ三尺たらずの木造の小さな宮で、年古りてまっ黒けになっていた。社 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 322 12 のわきの薮のなかに、さらに古い宮がのこっている。丸石のままの、文字も何も彫ってない大きな石が二つ、社前にすえてある。中をのぞいてみると、ぼろぼろになった御鏡と、竹串にさした煤けた御幣と、赤い素焼のお神酒徳利と、一厘銭が一つ上げてあった。大きな松の幹のあい 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 322 12 だから、小暗い神域にさしこむ暖かな青い光の海のなかに見える、浜辺と磯山のたのしい眺望以外に、べつに何も見るべきものはなかった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 323 7 隠岐へ行くだいぶ前から、わたくしはこういうことを聞いていた−−あの群島では、泥棒などという犯罪はかつてあった例がない。島では物に錠や鍵をかけるなんてことは、金輪際不要だ。天気さえよければ、島民はみな、夜はどこの家でも四方明けっぱなしで眠る、と。ところで、 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 323 7 注意して調べてみると、この驚くべき説は、十中八、九まで本当であることがわかった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 324 11 それでも、国法を犯すような犯罪は、その西郷ですら、こんにちでも驚くほど少ない。西郷には監獄署がある。わたくしが滞在中には、入監者はあったけれども、しかしいずれもそれは、賭博(日本の法律では、賭博はどんな形のものでも厳禁されている)、もしくはさらにそれより 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 324 11 軽い法規にふれた違反者たちだけであった。重罪を犯したばあいは、犯人は隠岐では処罰せずに、出雲、松江の大監獄に護送される。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 337 1 死の話が出たついでに、出雲にも隠岐にもある、原始的だが人の心を打つ風習について話しておこう。それは、人が死ぬと、すぐにその人の名前を呼ぶ風習である。なぜそんなことをするかというと、往々にしてその呼び声が飛び去っていく魂にきこえて、どうかすると死んだ者の魂 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 337 1 が声にひかされて戻ってくることがあるからなのだ。だから、かりに母親が死ぬと、まず子どもたちが最初に名を呼ぶ。子どもが大勢いれば、なかで一番年下の子がまっさきに呼ぶ。(これは母親が生前いちばん可愛がっていたからだ。)それから夫、続いて死者を愛していた人たち 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 337 1 、という順でかわるがわるに呼ぶのである。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 343 4 ..宿屋へはいるかはいらないうちに、表の通りはたちまち見物の野次馬で完全に人垣ができてしまった。あいにくと宿屋は角店がったものだから、さっそく両側から包囲された。二階の広い奥座敷にまず通されたが、畳の上に座りもあえぬうちに、早くも野次馬連は下駄をぬぎすて 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 343 4 たまま、梯子段を音も立てずに上がってくるという始末である。礼儀はわきまえている連中だから、部屋のなかへははいってこないが、四、五人いちどに入口から首を出し、ちょっと会釈をしてニヤニヤ眺めると、すぐに廊下に詰めかけている後連と入れかわる。女中が膳を運んでく 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 343 4 るのも容易なわざではなかった。とこうするうちに、往来を隔てた向かい側の家の二階座敷が、見物人で満員になったばかりではない、 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 344 4 こちらの部屋が眺められる北、東、南、三方の屋根という屋根が、おとなや子どもで黒山になった。少年達は、こちらの部屋の窓下の廊下の廂へ、どうやって登りついたかしらないが、鈴なりに登りついている。部屋の入口は、三方とも顔でいっぱいだ。屋根の瓦がずれて、子どもが 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 344 4 何人か落っこちたが、怪我はなかったらしい。ところで、なんとも不思議にたえないのは、こんな常軌を逸した体練の妙技を演じている間も、あたりは水を打ったようにしんと鳴りをしずめていたことである。あの群衆を目のあたりに見なかったら、おそらく表の通りには、人っ子ひ 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 344 4 とりいないと思ったかもしれない。宿屋の主人が叱りだしたが、叱ってもどうにもならないことがわかると、巡査を呼んだ。巡査はわたくしに、当地の人は外国人というものを一度も見たことがないのだから、許してやってくれと謝って、いかがですか 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 344 13 往来から追っ払いましょうかと尋ねた。巡査が指一本あげれば、それはできたろうが、こちらは見ていておもしろかったから、どうか追っ払ったりしないでくれ、ただ子どもがすでに廂を壊しているから、そこへは登らないように言ってくれと巡査に頼んだ。巡査はさっそく、大声は 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 344 13 立てずに、ごく低い声で淳々と言いきかせた。わたくしが浦郷にいた間、その後廂へ近よってきた者はひとりもなかった。日本の警官は、なにか新規なことを言い渡すときには、一回いうだけで、それ以上はけっして言わない。それでいて、いつもかならず目的を達している。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 345 3 しかし、公衆の好奇心は、それから三日間というもの、すこしも下火にならずに、そのまま続いた。こちらが逃げ出さずにいたら、もっと続いたろう。外出すると、渚の小石を波が鳴らすような下駄の音をたてて、かならずゾロゾロうしろからついてくる。でも、下駄の音以外には、 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 345 3 みんな黙りこくっている。ひとことも物を喋らない。見たい一心で、精神力が極度に緊張しているために、物がいえなくなるのかどうか知らないが、とにかくそうした烈しい好奇心がありながら、乱暴や無礼はぜんぜんないのである。許しものなく階下から座敷へのこのこ上がってく 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 345 3 る以外に、無礼に近いようなことは何一つないし、上がってくるといっても、ごくおとなしく上がってくるのだから、こちらとしてもそれをいちいち咎めたくはなかった。それにしても、三日にわたるそうした経験は、なかなかもって辛いものだった。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 345 12 暑中というのに、寝ているところを覗かれないように、雨戸も窓も締め切っておかなければならない。島には泥棒はいないのだから、所持品についてはちっとも心配はなかったが、しかしこうして四六時中、物をいわない群衆につきまとわれているのが、しまいには、迷惑以上のもの 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 345 12 になってきた。罪はないのだが、なんだか薄気味悪くなってきた。どうやら自分が亡霊にでもなったような−−冥途へ新入りをして、声なき亡者たちにとりかこまれてでもいるような心持ちがした。 1892 716 明治25年 日本瞥見記録(下) 壬辰 0 11 1 村の一銭渡し 一銭渡しといっても全くしらない世代がふえつつあるが、遠い昔を知るものにとっては何ともいえないなつかしい風物のひとつでないかと思う。自動車による交通が盛んになったのはごく新しく、浦郷〜別府間は徒歩で往来することが多かったが、その時歩く者にと 0 0 運河のある町 0 11 1 って欠くことのできない大きな役割を果たしたのが美田湾入口の四引と瀬戸を結ぶ一銭渡しであった。この渡しのおかげで奥深い美田湾を一周せずにすむことができたわけであるが、ギイッコギイッコと櫓をきしませながら静かな湾内をすべるようにいく小舟の姿は何とものどかな風 0 0 運河のある町 0 11 1 景であった。一銭渡しというからには渡し賃が一銭であったころになじんでつけられたと思うが、昭和三十五年ごろ新しい時代の波とともに利用者は少なくなりいつしかその姿を消してしまった。 写真提供 平木好一氏 1960 0 昭和35年 運河のある町 庚子 0 14 1 別府港界隈 写真(左)は今から約二十五年ほど前の別府港を汽船から撮影したものらしく、通い船(はしけ)が桟橋に着こうとしている。湯治の別府は菱浦とを結ぶ定期船がやっと発着できる程度の桟橋があり、現在の松野屋商店のあるところは、船据場となっていた。ふんどし一 1953 0 昭和28年 運河のある町 癸巳 0 14 1 丁で立っている男や、古い鏡谷バスなど実にのんびりとしている。 写真提供 岩波映画製作所 昭和28年ごろ撮影 1953 0 昭和28年 運河のある町 癸巳 0 16 1 美田港.船引運河 大正三年〜四年にかけてつくられた船引運河は西ノ島町の漁業振興に農産物の輸送に大きく貢献してきた。写真(左)は昭和三十五年ごろの運河風景で、わかめの解禁により漁場にむかう漁船の姿を写したものである。しかし、このころから漁船の大型化、近代化 1960 0 昭和35年 運河のある町 庚子 0 16 1 観光 がすすめられるようになり、昭和三十年、離島振興事業による拡張改修工事が開始され昭和五十年に完成した。現在は漁業面だけでなく国賀観光にも大きな役割を果たしている。 旧(昭和35年ごろ撮影)写真提供、平木茂氏 現、昭和51年の船引運河、写真 提供、西ノ島町 1960 0 昭和35年 運河のある町 庚子 0 18 1 赤之江漁港、浦郷漁港が第四種漁港に指定されたのは昭和二十六年八月のことで、昭和四十二年三月に赤之江地区もこの区域内に編入され、港が整備されることになった。近代漁業の発達とともに、地区民の漁業にかける期待は大きく、かつてのひなびた漁村は活気のある漁港に生ま 1977 0 昭和52年 運河のある町 丁巳 0 18 1 れ変わった。写真(下)は昭和十年ごろの赤之江港の全景であるが、今日と比較したとき隔世の感がある。 (現)昭和52年現在の赤之江(シャクノエ)港、写真提供、西ノ島町役場 (旧)昭和10年ごろの赤之江港。港には防波堤もなく、山の頂上近くまで耕されていた牧畑、農業に 1977 0 昭和52年 運河のある町 丁巳 0 18 1 生活の基盤があった 1977 0 昭和52年 運河のある町 丁巳 0 20 1 三度、「正月つぁん、正月つぁん、どこまでござった。三度のカドまでござった」古いわらべ唄に残る三度部落は西ノ島最西端の辺境として、昔はよほど用でもない限り、なかなか訪れることのない部落であった。写真(上)は昭和十二年ごろ撮影した三度の風景であるが、自然のま 1937 0 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 20 1 まの小川にかかる木橋と、かすりの着物を着た農婦から、かつての三度のたたずまいを見ることができる。昔はこの小川が大雨の度に氾濫して水浸しになり、護岸を整備したが、現在はこれも古くなって改修工事がのぞまれている。今日では島の観光開発とともに、磯釣りのメッカと 1937 0 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 20 1 して全国的に有名となり、かつての辺境としてのイメージはなくなったが、部落のたたずまいや静けさには変わりなく、遠いわらべ唄をしのばせてくれる。(昭和12年ごろ撮影)写真提供、村尾富夫氏 1937 0 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 21 1 珍崎、写真(下)は昭和初期の珍崎港、向原小路の写真である。海辺に並ぶトモド船と杉皮屋根の小屋から、昔の隠岐の漁村風景をしのぶことができる。今日でも、この海辺は船揚場として利用されているが、漁船の大型化とともに施設がせまくなり、昭和四十七年から秋来居に港に 1934 0 昭和9年 運河のある町 甲戌 0 21 1 港を新設中である。 (昭和初期撮影)写真提供、向原政光氏 昭和51年の珍崎港、写真提供、西ノ島町役場 1934 0 昭和9年 運河のある町 甲戌 0 22 1 美田尻(中田)一帯、過疎現象の進む中で、逆に人口がどんどん増加しつつある集落があるが、美田尻もその一つである。地形的な利便もあってか、官舎、社宅、一般住宅などがどんどん建設され、かつての田園地帯はほとんど住宅地にかわってしまった。昭和30年ごろの美田尻、 1976 0 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 22 1 中田付近、写真提供、前野忠教氏 昭和51年、写真(上)と同じ場所から撮影、写真提供、西ノ島町役場 1976 0 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 23 1 大山(オオヤマ)今昔、帆船時代の風待港、古くは大山明(アキ)といった。その昔、港せましと千石船がつながれ、威勢のよい船方さんたちでにぎわったものである。近年、過疎現象は著しく、新町発足当時八十一戸もあった個数も今日では五十七戸に減少、町では過疎対策の一環としと 1972 0 昭和47年 運河のある町 壬子 0 23 1 して集落内の環境整備に取り組み、面目を一新した。 昭和47年ごろの大山部落内、写真提供、西ノ島町役場 1972 0 昭和47年 運河のある町 壬子 0 24 1 波止、辺地を結ぶ波止線、道路網の整備は辺地を辺地でなくするための最大の要件であるが、波止地区の開発もまず道路の整備からはじまった。写真は昭和四十七年と現在とを比較したものであるが、著しい変貌ぶりを見ることができる。この道路が完成するまでに、実に七年ものも 1972 0 昭和47年 運河のある町 壬子 0 24 1 の歳月を要した。 昭和47年の波止入口付近。写真提供、西ノ島町役場 昭和51年、写真(上)と同じ場所から撮影 1972 0 昭和47年 運河のある町 壬子 0 25 1 宇賀、宇賀港に本格的な防波堤ができたのは昭和二十九年ごろである。町の漁船も、当時は無動力船がほとんどで、この石積みの防波堤も地区の漁業振興を目指して大きな役割を果たしてきた。宇賀港に決定的な打撃を与えたのは昭和四十六年一月五日未明の季節風で、風速四十メ十 1971 0 昭和46年 運河のある町 辛亥 0 25 1 メ−トルに及ぶ強風と数メ−トルの高波は湾内の漁船をひとのみにして大きな被害をもたらしたことは記憶に新しい。それ以来、宇賀港改修は緊急を要するところとなって、昭和四十八年より離島振興事業による局部改良事業がはじまった。昭和46年ごろの石積み防波堤のあった宇 1971 0 昭和46年 運河のある町 辛亥 0 25 1 賀港。写真提供、西ノ島町役場 昭和51年、写真(上)と同じ場所から撮影。写真提供、西ノ島町役場 1971 0 昭和46年 運河のある町 辛亥 0 26 1 小向、写真(上)は昭和十年ごろ、美田川の川尻で撮影したもので、美田小学校の子供たちが生物を採集している風景である。かつての美田川は農薬などの流出もなく、いろいろな生物が住み着いていた。現在この地点には美田ダム建設にともなう港湾施設がつくられ、建設資材が材 1935 0 昭和10年 運河のある町 乙亥 0 26 1 が山のように積まれているが、昔のたたずまいがまだ残っている美田地区とはいいながらも、時のうつりかわりをはっきりとみることができる。昭和10年ごろの美田川尻付近、写真提供、木村康信氏 昭和52年の美田川尻付近、写真提供、西ノ島町役場 1935 0 昭和10年 運河のある町 乙亥 0 27 1 浦郷本通り、昭和十年ごろ発行された絵葉書で、浦郷本通りと書いてある。前田屋商店、シマヤ書店の付近で走っているのは西ノ島唯一の鏡谷バスである。絵葉書になっているくらいだから、当時としては浦郷のメインストリ−トとして、ハイカラな風景であったに違いない。(昭和 1935 0 昭和10年 運河のある町 乙亥 0 27 1 10年ごろ撮影)絵葉書提供、村尾誠一郎氏 昭和52年現在の浦郷本通り、写真提供、西ノ島町役場 (昭和52年、西ノ島町商工会)写真提供、西ノ島町役場 経営改善に取り組む商工会、西ノ島町商工会は、昭和37年1月13日に会 1935 0 昭和10年 運河のある町 乙亥 0 27 1 60人、役員魚谷保治会長外21人、職員3人で発足し、昭和52年4月1日現在、290人、役員、魚谷操会長外21人、職員5人となっており、地区商工業の経営改善の指導を行っている。商工会館は昭和38年12月25日に総工費257万円で完成した。 1935 0 昭和10年 運河のある町 乙亥 0 38 1 西ノ島町は昭和32年二月十一日、旧浦郷村と旧黒木村の対等合併によって発足したが、この合併にあたって、もっとも町民の関心を集めたのは役場の庁舎をどこに置くかということであった。地形的にも帯状に各部落が点在し、しかも町の勢力が伯仲している両町村のこと、役場役 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 1 場の位置の決定は地域の利便や経済に影響を及ぼすということだけではなく、両町村にとって、地区の象徴を存続できるか失うかの問題でもあり、互いに相ゆずれぬ要因を多分にはらんでいた。結局、この問題は合併までに結論を出すことができず、勧奨にあたった県も当分の間の間 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 1 、両役場はそのまま置くことにして新町を誕生させたものの、これはちょうど婿に出すか、嫁にもらうかきめないで縁結びをしたようなものであり、後々まで尾を引くことになったのである。なにぶん一町に役場本庁が二つもあるのは山陰では類をみない異例のケ−ス。当時 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 11 時の新聞沙汰にもなったものであるが、旧浦郷庁舎を西庁舎、旧黒木村役場を東庁舎と呼び、町長以下三役は両庁舎を行ったり来たりして事務をとらなければ別居生活で電話で事務連絡をするのがほとんどだった。こんな状態で新しい町づくりをすすめていくことなどできようはずは 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 11 ずもない。町長に就任した村尾誠一郎氏はまず、二つの役場の統一をおしすすめる一方、新町建設計画に基づく町つくりの第一弾として学校統合問題に取り組むことになったのである。この二つの問題は行政上全く異質なものでありながら、両方とも統合が生む利害関係を有ししてい 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 11 る関係から、それぞれの地区での種々な思惑が絡み合い、庁舎、学校ともに話し合いはなかなか進展しなかった。昭和三十二年十一月、腹を決めた町長は西庁舎を本庁とする役場統一のための条例改正案を議会に提出したが、未だ期が熟していなかったのであろう。採決 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 25 によって否決されてしまった。時はながれて、昭和三十四年、永い間、硬着していたこの問題もやっと胎動の気配を見せ、二月の町議会では庁舎統一促進ならびに学校統合に関する決議がなされ、これに基づき七月十一日の町議会に再び庁舎統一のための条例改正案が提出されるにる 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 25 に至ったのである。梅雨明けのさ中、じっとりとした夏のけだるい暑さを覚えるころであったが、この日の町議会は開会直後から緊迫感につつまれ、各議員の熱のこもった議論が応酬され、この日も賛否両論なかなか結論がでなかったという。結局、再び採決に持ち込まれ、このこの 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 25 条例改正案は可決され、西庁舎が本庁、東庁舎は支所となったが、その後一部、黒木地区住民の了解を得ることができず、円満解決までには時間を要した。町村合併後二年半、やっと役場庁舎が統一され、正常の形となったわけであるが、町にとっても、町民にとっても新生 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 38 38 生の息吹の中で苦悩に明け暮れた時代であったといえるのではなかろうか。 1957 211 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 46 1 船引運河開さく、島の中央部わずか300メ−トルの幅しかない陸地によってつながる船引は内海側と外海側とを結ぶ海上交通の要衝であり,昔は陸の上を船を引いて渡ったことから船引という地名がつけられた。この船引を開さくして運河をつけようという計画が立てられたのはの 1914 600 大正3年 運河のある町 甲寅 0 46 1 は大正二年のこと。黒木村議会では船引地峡の開さくを可決、隣村の浦郷村にも協力を呼びかけ、両村一致協力して組合を設立、この事業を推進することとなった。総工費は一万七千円。村の予算が一万三千円程度であることを思うとき、村はじまって以来の大事業であったことこと 1914 600 大正3年 運河のある町 甲寅 0 46 1 はいうまでもない。島根県もこの事業を積極的に援助して約六千円の助成金を拠出した。工事は大正三年六月に着手、延長三百四十メ−トル、底幅五.五メ−トルの運河が完成したのは翌大正四年三月のことであった。この歴史的な大偉業を祝って大正四年五月二十四日、県 1914 600 大正3年 運河のある町 甲寅 0 46 28 県知事列席のもと、竣功式が盛大に 挙行され、トモド船約六十隻が参加して記念パレ−ドが行われた。大正3年から4年にかけて工事中の船引運河で、貴重な写真である。今日のように重機があるわけではなく、人力による作業であるが9ヶ月月間で完成した。今日、この運河の改修 1914 600 大正3年 運河のある町 甲寅 0 46 28 に10年間を要したことを思うと不思議な感さえ抱かせる。 写真提供、佐倉稔氏 1914 600 大正3年 運河のある町 甲寅 0 48 1 水道 水資源確保と美田ダム、西ノ島町の水不足が極端にあらわれはじめたのは、昭和四十年代に入ってからである。本町の水対策としては、これまで、水資源のある地区から簡易水道事業を実施し、黒木地区では宇賀地区を除いて、各部落共に全部水道が付けられてきたが、浦郷地区の区 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 1 水道 の方は水源が乏しいため、水道の普及が非常に遅れ、住民の日常生活はもとより、地元産業の振興にも多大な影響をを及ぼすようになった。昭和42年、町ではこの水問題を解決するため、町議会に水資源対策特別委員会を設け、これにとりくむことになったが、全町を通じて、て、 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 1 年々水の需要が増大しつつあるときだけに、今までのように、地下水にたよるには限度があり、ここに全町を通じて水資源の確保をはかるため、多目的ダムの建設が持ち上がったのである。地下水にしろ、ダムにしろ、山地の少ない浦郷には水源確保の適地はない。したがっ 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 16 って黒木地区の山地に水源を求めなければならなかったが、この候補地として、宮谷、大山の両地区があがったのであった。しかし、それは水を提供する側から考えたとき、非常にやっかいな話であった。町としては町全体の水資源の確保という総合的見地から、多目的ダムを打ち打 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 16 ち出しているものの、祖先から自然の恵みとして自由にこの水を利用し、土地を守ってきた地域住民にとっては町の発展のためとはいいながら本能的に不安を感じ、町の方針に協力するわけには行かなかった。紆余曲折のあった後、美田宮谷地区に多目的ダムの建設が決ったのはのは 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 16 水道 昭和四十五年のことで、この年の十二月、美田土地改良地区、小向区はダム建設に対して正式に反対を表明したのであった。反対の主な理由はダムを作っても水量がともなわず、結局は水道用水にとられてしまい、水利権を侵害するものであるということであるが、地元関係 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 30 水道 係者の了解を得て、ダムの建設に取り掛かるまで、実に六年間もの長い期間を要したのである。一方、昭和四十六年から美田〜浦郷簡易水道事業も実施したが、水源である美田ダム建設の了解が得られないため、これも、なかなか事業が進展せず、年々、苦しくなる水不足の中で、 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 30 、美田ダム建設問題の解決は町始まって以来の政治的問題と化し、事業主体である県も、町も、地元民も、それぞれの立場から苦しみ抜いた六年間であったといえる。昭和五十一年三月十五日、やっと、この問題にも終止符が打たれ県と地元関係者の間で調印が行われたが、ここの間 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 48 30 、この問題を政治的使命として手掛けた安達町長の死去などもあり、宮谷の奥深く、完成された美田ダムを見るたび、感慨を新たにせずにはおれない。 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 56 1 郵便業務にあたらせることは財政的にも困難。そこで地方には、その土地の有力者を官吏に起用して、わずかな禄を与えながら、なかば奉仕的に郵便業務にあたらせたという。これがいわゆる特定郵便局の制度で、島前地区には知夫、崎、別府の郵便取扱所が開設された。本町で町で 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 1 村の郵便局、島に郵便局が置かれたのは明治五年七月のことである。当時、維新政府は郵便業務を国で行うこととして、東京、大阪、京都に郵便役所を置く一方、県庁所在地にも郵便取扱所を置くなどして事業を拡張していった。しかし、全国津々浦々にまで国の職員を配置して郵て 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 1 最初に開局された別府局の前身は別府の庄屋近藤家(おかた)が初代であるが、明治十三年ごろに前田家に移管され今日に至っている。浦郷郵便局は明治十四年一月開設され、また明治四十三年六月には美田郵便局が開設されている。 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 22 島がよいの郵便船 写真は岩波書店が昭和二十八年ごろ撮影したもので、別府湾を航行中の小中武男さん所有の正得丸である。船尾の〒印の旗のマークでわかるように郵便船である。しかし、一方、島民側の目から見れば、島の地理的な不便さが浮かんでくる。昔、隠岐丸が直行直 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 22 行便、各航(カッコウ)便といった時代、島前の郵便物は寄港地の都合や陸上交通網の未整備もあって、おくれを余儀なくさせられていた。この迅速化を図るため、浦郷の小中武男氏は郵便船という独創的な方法を考案して、当時の広島逓信局に働きかけ、昭和三年八月、みずから郵便船の 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 22 業務を開始した。戦時中には採算面で苦しい時期があったが、氏は郵便の公共性を考え、ただ一人、これを続けた。現在では息子さんが仕事を受け継いでおり、個人の郵便専用船としては全国にただ一隻という珍しい存在である。 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 56 46 昭和7年ごろの別府郵便局。この局舎は昭和6年に新築、昭和46年まで黒木地区の郵便業務にあたった。 写真提供 前田恭一氏 (昭和28年ごろ撮影) 写真提供、岩波映画製作所 1880 0 明治13年 運河のある町 庚辰 0 57 1 浦郷郵便局、写真提供、NHK松江放送局 1911 0 明治44年 運河のある町 辛亥 0 57 1 浦郷郵便局 浦郷郵便局は真野弥三郎氏が初代郵便取扱役となって開設された。はじめは現在の万月堂のところにあったが、明治44年、電信業務の開業とともに局舎は新築された。写真下はそのころに撮影したものでないかといわれている。写真提供、真野慶福氏昭和41年ごろの 1911 0 明治44年 運河のある町 辛亥 0 57 9 美田郵便局 美田郵便局は明治43年6月、竹田才吉氏が局長となって開局された。写真上は昭和51年に撮影したものであるが、近くこの局舎も移転することになっている。 1976 0 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 58 1 島前行政の府.別府代官所 幕末まで黒木公民館付近一帯は陣屋といって島前の村々を統治する代官所があり、中世から近世にかけての行政の中心地であった。黒木村誌によると、隠岐に代官が派遣されたのは隠岐氏が滅びた天正年間のころで以来隠岐が所属したそれぞれの藩主か主 0 0 慶応 運河のある町 0 58 1 から代官が派遣されてきた。代官は村の最高の支配者であり、村の治安維持にあたえる一方、年貢を取り立て、これを領主に納めるのが大きな役目であった。しかし歴代の代官の在任期間をみると、ほとんどが一年〜三年であり、いくら権威者といっても、本土から来る役人の気質は 0 0 運河のある町 0 58 1 今も昔もかわりなく、島での勤めを早く終えて帰ることを期待したにちがいない。約三千数百平方メートルに及ぶ代官所は現在の状況からして想像する余地もないが、昭和の初めころには、かつての、いかめしい代官所跡をしのぶにふさわしく、入口の大松が天下をへいげい 0 0 運河のある町 0 58 24 げいし、この松の下で罪人のさらし首があったという話にも真実味があったといわれている。明治になってからはこの跡地に黒木村役場が置かれた。 0 0 運河のある町 0 58 33 安藤家所蔵の代官所絵図面 この図面は安藤猪太郎氏所蔵の代官所絵図面で、慶応年間に写しとられたものらしい。この絵図面によると代官所の広さは三反二畝二十四歩となっており、黒木公民館を中心として飯田小路一帯が邸内に入っていた。塀と垣によって囲まれた屋敷の前は前 0 0 運河のある町 0 58 33 はすぐ海で、大門の横に制札場があり、ここに代官所からの触れ書きが掲げられた。代官の下には御徒目付(カチメツケ)、元方、吟味役、点検役、遠見番役などの役人が配置されており、入口付近にこれらの役人の住む官宅があった。代官所跡に建てられた黒木村役場、写真提供 、村尾 0 0 慶応 運河のある町 0 58 33 誠一郎氏 0 0 慶応 運河のある町 0 66 1 旧宇賀小学校(沿革) 宇賀校開設される(物井初座の旧寺堂) 1874 0 明治7年 運河のある町 甲戌 0 66 4 宇賀小学校と称す 1876 0 明治9年 西ノ島 運河のある町 丙子 0 66 5 宇賀簡易小学校となる 1886 0 明治19年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 66 6 別府尋常小学校宇賀分教場となる 1892 0 明治25年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 66 8 独立して宇賀尋常小学校となる 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 66 10 校舎を大字宇賀1124番地(大宇賀)に移転改築す 1899 0 明治32年 運河のある町 己亥 0 66 12 実業補習学校を併置す(宇賀) 1902 0 明治35年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 66 13 黒木村宇賀尋常小学校と改称 1904 0 明治37年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 66 14 校舎を大字宇賀700番地(倉ノ谷)に移転改築す 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 66 16 実業補習学校を廃止す(宇賀) 1924 0 大正13年 西ノ島 運河のある町 甲子 0 66 17 高等科を置き宇賀尋常高等小学校となる 1928 0 昭和3年 西ノ島 運河のある町 戊辰 0 66 19 黒木村宇賀国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 66 20 黒木村別府国民学校宇賀分校となる 1944 0 昭和19年 西ノ島 運河のある町 甲申 0 66 22 黒木村別府小学校宇賀分校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 66 24 黒木村立宇賀小学校として独立校となる 1950 0 昭和25年 西ノ島 運河のある町 庚寅 0 66 26 西ノ島町立宇賀小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 66 27 別府小学校と統合して西ノ島町立黒木小学校となる(校舎は旧黒木中学校をあてる)(宇賀) 1971 0 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 66 31 宇賀小学校校区 宇賀、倉ノ谷、物井。卒業者数、尋常科、885名、高等科、208名。昭和22年以降、356名(明治27年以前不明) 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 67 1 旧別府小学校 別府校開設される(旧代官所使用) 1873 0 明治6年 運河のある町 癸酉 0 67 5 別府小学校と称す 1876 0 明治9年 西ノ島 運河のある町 丙子 0 67 6 別府簡易学校となる 1886 0 明治19年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 67 7 別府尋常小学校となる 1891 0 明治24年 西ノ島 運河のある町 辛卯 0 67 8 校舎増築(別府小学校) 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 67 9 実業補習学校を併置す(別府小学校) 1902 0 明治35年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 67 10 黒木村別府尋常小学校と改称 1904 0 明治37年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 67 11 高等科を置き別府尋常高等小学校と改称 1912 0 大正元年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 67 13 大字美田2068番地(字田原)に新築校舎落成移転(別府) 1916 0 大正5年 運河のある町 丙辰 0 67 15 実業補習学校を廃止す(別府) 1924 0 大正13年 西ノ島 運河のある町 甲子 0 67 16 黒木村青年訓練所を併置す(別府) 1927 0 昭和2年 西ノ島 運河のある町 丁卯 0 67 18 黒木村青年訓練所を廃止黒木村青年学校別府分教場を置く 1935 0 昭和10年 西ノ島 運河のある町 乙亥 0 67 19 黒木村別府国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 67 20 別府宇賀両校を統合し黒木村別府国民学校となる 1944 0 昭和19年 西ノ島 運河のある町 甲申 0 67 22 黒木村立別府小学校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 67 23 宇賀分校を分離す(別府小学校) 1950 0 昭和25年 西ノ島 運河のある町 庚寅 0 67 24 西ノ島町立別府小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 67 29 別府小学校校区 別府、美田尻、大山 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 67 30 別府小学校卒業者数 尋常科1361名、高等科615名、昭和22年以降593名(明治23年以前不明) 0 0 運河のある町 0 68 1 美田小学校沿革 美田小学校(大津小山寺)船越学校(万福寺)設立 1874 0 明治7年 運河のある町 甲戌 0 68 5 船越支校廃止美田学校に統合 1882 0 明治15年 西ノ島 運河のある町 壬午 0 68 6 美田尋常小学校となる。現在地へ校舎移転 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 68 8 隠岐国周吉外三郡高等小学校の分教場設置(美田) 1892 0 明治25年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 68 10 美田尋常高等小学校となる 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 68 11 黒木村尋常高等小学校と改称(美田) 1904 0 明治37年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 68 12 黒木村美田尋常高等小学校と改称(美田) 1912 0 大正元年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 68 14 実業補習学校併置(美田) 1917 0 大正6年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 68 15 屋内体操場竣工(美田) 1922 0 大正11年 西ノ島 運河のある町 壬戌 0 68 16 本校舎改築落成(美田) 1925 0 大正14年 西ノ島 運河のある町 乙丑 0 68 17 黒木村青年訓練所付設(美田小学校) 1930 0 昭和5年 西ノ島 運河のある町 庚午 0 68 18 実業補習学校は黒木村実業学校と改称(美田小学校) 1934 0 昭和9年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 68 20 黒木村美田国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 68 21 黒木村立美田小学校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 68 22 西ノ島町立美田小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 68 24 美田小学校校区 波止、市部、大津、小向、船越 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 70 1 旧波止分校 美田小学校波止支校開設 1874 0 明治7年 運河のある町 甲戌 0 70 3 美田簡易小学校となる(波止分校) 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 70 4 美田尋常小学校波止分校となる 1891 0 明治24年 西ノ島 運河のある町 辛卯 0 70 6 廃止、本校に統合(波止分校) 1904 0 明治37年 運河のある町 甲辰 0 70 7 波止仮教室開設 1906 0 明治39年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 70 8 波止仮教室廃止 1909 0 明治42年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 70 9 波止分教場設置 1917 0 大正6年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 70 10 波止分校校舎改築 1956 0 昭和31年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 70 11 波止分校は本校に統合される 1972 400 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 70 12 波止分校校区 波止 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 71 1 旧本郷小学校 浦郷学校創立 1874 0 明治7年 運河のある町 甲戌 0 71 2 海士小学校の分校となる(本郷) 1886 0 明治19年 運河のある町 丙戌 0 71 3 浦郷簡易小学校を設置する 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 71 4 浦郷尋常小学校増設される(簡易小学校は名称のみ) 1891 0 明治24年 西ノ島 運河のある町 辛卯 0 71 6 新築校舎落成し移転する(本郷) 1892 0 明治25年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 71 7 簡易小学校は廃止され、尋常小学校のみとなる(本郷) 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 71 9 本郷尋常小学校と改称 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 71 10 高等科を置き浦郷尋常高等小学校となる 1898 0 明治31年 西ノ島 運河のある町 戊戌 0 71 12 浦郷村尋常高等小学校と改称 1904 0 明治37年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 71 13 浦郷村本郷尋常高等小学校と改称、村立実業補習学校付設 1906 0 明治39年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 71 16 村立実業補習学校中止(本郷) 1910 0 明治43年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 71 17 浦郷村立本郷実業補習学校付設 1920 0 大正9年 西ノ島 運河のある町 庚申 0 71 19 校舎を大字浦郷553.554番地(西ノ上)より大字浦郷421番地(奥ノ谷)へ移転新築す(本郷) 1923 0 大正12年 西ノ島 運河のある町 癸亥 0 71 22 浦郷村本郷国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 71 23 浦郷村立青年学校と併設(本郷) 1944 0 昭和19年 西ノ島 運河のある町 甲申 0 71 24 浦郷町本郷国民学校と改称 1946 0 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 71 25 浦郷町立本郷小学校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 71 26 西ノ島町立本郷小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 71 27 赤之江小学校と統合し西ノ島町立浦郷小学校となる(校舎は旧浦郷中学校をあてる) 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 71 28 本郷小学校校区 本郷。卒業者数、簡易科82名、尋常科1837名、高等科1026名(国民学校特修科含む)。昭和22年以降1087名(明治19年3月以前は不明) 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 72 1 旧赤之江小学校創立 1874 0 明治7年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 72 2 海士小学校赤之江分校と改称 1882 0 明治15年 西ノ島 運河のある町 壬午 0 72 3 浦郷簡易小学校赤之江分教場と改称 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 72 5 浦郷尋常小学校赤之江分教場と改称 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 72 7 赤之江尋常小学校として独立校となる(校地はそのままに校舎新築す) 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 72 10 浦郷村尋常高等小学校仮教室となる(赤之江) 1904 0 明治37年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 72 12 浦郷村赤之江尋常小学校として独立校となる 1910 0 明治43年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 72 14 村立赤之江実業補習学校を付設 1919 0 大正8年 西ノ島 運河のある町 己未 0 72 16 高等科を置き赤之江尋常高等小学校と改称 1921 0 大正10年 西ノ島 運河のある町 辛酉 0 72 18 校舎を大字浦郷2119番地(字ソツミ)に移転新築す(赤之江) 1927 0 昭和2年 西ノ島 運河のある町 丁卯 0 72 20 浦郷村赤之江国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 72 21 三度、珍崎両校赤之江校の分教場となる 1943 0 昭和18年 西ノ島 運河のある町 癸未 0 72 23 浦郷町赤之江国民学校と改称 1946 0 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 72 24 浦郷町立赤之江小学校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 72 25 三度分教場独立す 1954 0 昭和29年 西ノ島 運河のある町 甲午 0 72 26 西ノ島町立赤之江小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 72 28 本郷小学校と統合し西ノ島町立浦郷小学校となる(校舎は旧浦郷中学校をあてる) 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 72 31 旧赤之江小学校校区 赤之江。卒業者数、尋常科581名、高等科547名、昭和22年以降633名(明治43年以前は不明) 1978 0 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 73 1 三度学校創立 1874 0 明治7年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 73 2 海士小学校三度分校と改称 1886 0 明治19年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 73 3 浦郷簡易小学校三度分教場と改称 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 73 5 浦郷尋常小学校三度分教場と改称 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 73 7 三度尋常小学校として独立校となる 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 73 9 村立三度実業補習学校付設 1920 0 大正9年 西ノ島 運河のある町 庚申 0 73 10 字月山より折坂(現在地)に校舎移転(三度) 1921 0 大正10年 西ノ島 運河のある町 辛酉 0 73 11 校舎半焼(三度) 1922 0 大正11年 運河のある町 壬戌 0 73 12 校舎再建(三度) 1923 0 大正12年 運河のある町 癸亥 0 73 13 浦郷村三度国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 73 14 浦郷村赤之江国民学校三度分校と改称 1943 0 昭和18年 西ノ島 運河のある町 癸未 0 73 15 浦郷町赤之江国民学校三度分校と改称 1946 0 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 73 16 浦郷町立赤之江国民学校三度分教場と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 73 17 浦郷町立三度小学校として独立校となる 1954 0 昭和29年 西ノ島 運河のある町 甲午 0 73 18 新校舎落成(三度) 1955 0 昭和30年 運河のある町 乙未 0 73 19 西ノ島町立三度小学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 73 20 三度小学校校区 三度 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 74 1 珍崎小学校沿革、三度小学校珍崎支校創立(三度学校の創立が明治7年で珍崎支校も同年と思われるが不明) 1873 0 明治6年 運河のある町 癸酉 0 74 6 海士小学校珍崎支校と改称 1882 0 明治15年 西ノ島 運河のある町 壬午 0 74 7 浦郷簡易小学校珍崎分教場と改称 1887 0 明治20年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 74 9 浦郷尋常小学校珍崎分教場と改称 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 74 11 珍崎尋常小学校として独立校となる 1895 0 明治28年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 74 13 現在地に校舎を移転新築(珍崎) 1901 0 明治34年 運河のある町 辛丑 0 74 14 実業補習学校併設(珍崎) 1919 0 大正8年 西ノ島 運河のある町 己未 0 74 15 実業補習学校廃止(青年夜学会を開く)(珍崎) 1924 0 大正13年 運河のある町 甲子 0 74 17 浦郷村珍崎国民学校と改称 1941 0 昭和16年 西ノ島 運河のある町 辛巳 0 74 18 浦郷村立赤之江国民学校珍崎分校となる 1943 0 昭和18年 西ノ島 運河のある町 癸未 0 74 20 浦郷町立赤之江小学校珍崎分校と改称 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 74 22 一教室増築(本郷小学校にあった元浦郷中学校の職員室移転)(珍崎) 1956 0 昭和31年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 74 24 西ノ島町立浦郷小学校珍崎分校となる 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 74 26 西ノ島町立珍崎小学校として独立校となる 1974 0 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 74 28 珍崎小学校校区 珍崎 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 75 1 黒木小学校 古い歴史と伝統を持つ別府小学校と宇賀小学校も児童数の減少により昭和46年に統合され、黒木小学校が誕生した。校舎は旧黒木中学校があてられた。 1971 0 昭和46年 運河のある町 辛亥 0 76 1 浦郷小学校は昭和45年、本郷小学校と赤之江小学校が統合され、旧浦郷中学校校舎があてられた。 1970 0 昭和45年 運河のある町 庚戌 0 77 1 旧黒木中学校 黒木村立黒木中学校設置される美田小学校に併設 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 77 3 美田尻に独立校舎を新築落成(黒木中学校) 1952 0 昭和27年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 77 4 雨天体操場兼講堂を新築落成(黒木中学校) 1954 0 昭和29年 西ノ島 運河のある町 甲午 0 77 5 西ノ島町立黒木中学校と改称 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 77 6 浦郷中学校と名目統合西ノ島中学校と改称東校舎となる(黒木中学校) 1968 0 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 77 8 大字美田3512番地に新校舎を完成実質統合する(黒木中学校) 1970 0 昭和45年 運河のある町 庚戌 0 77 10 黒木中学校校区 宇賀、倉ノ谷、物井、別府、美田尻、大山、波止、市部、大津、小向、船越 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 77 11 卒業者数、1640名(黒木中学校) 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 78 1 旧浦郷中学校 浦郷町立浦郷中学校設置され本郷小学校に併設 1947 0 昭和22年 運河のある町 丁亥 0 78 3 由良に独立校舎を新築落成移転(浦郷中学校) 1952 0 昭和27年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 78 5 西ノ島町立浦郷中学校と改称屋内体育館新築落成 1957 0 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 78 7 黒木中学校と名目統合、西ノ島中学校と改称西校舎となる(浦郷中学校) 1968 0 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 78 9 大字美田3512番地に新校舎を完成、実質統合する(浦郷中学校) 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 78 11 浦郷中学校校区 浦郷、赤之江、三度、珍崎 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 78 12 卒業者数、1587名(浦郷中学校) 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 79 1 美田に新校舎が完成 昭和45年9月1日、美田に新校舎が完成した。同年10月10日に開校式が行われ、それまでの浦郷中学校と黒木中学校は実質統合し、(西ノ島中学校)西ノ島町全域を校区とする西ノ島中学校が誕生した。 1970 0 昭和45年 運河のある町 庚戌 0 84 1 に応じるため何代にもわたって交配が続けられ、かつて牧畑を駆け巡っていた在来固有の隠岐馬は今は一頭もその姿を見ることができなくなった。写真の隠岐馬は昭和十五年、広島の大学教授が知夫に調査に来たとき撮影したものである。 1940 0 昭和15年 運河のある町 庚辰 0 84 1 幻の隠岐馬 隠岐馬は粗食に耐え、小柄な体型で成馬でも体高は1メートル程度であった。体は長い毛でおおわれ、ひづめが非常に硬く蹄鉄は必要なかった。また耳は厚く、短く、持久力に富み、その性質は温順であった。やがて明治初期から始まった品種改良という時代の要請に請 1940 0 昭和15年 運河のある町 庚辰 0 85 1 頭以上飼育され、牛を馬に乗りかえるという諺を地でいった時代があった。終戦と同時に激減し現在、全町で約六十頭が飼育されているにすぎない。 0 0 明治 運河のある町 0 85 1 明治末期に黒木村へ品種改良のため移入されたアラビア馬である。右側に和服姿で立っている人物は中西村長である。浦郷村においても県有種馬の借受けや、大正九年からは国立種馬所から毎年二頭の種馬が出張し、馬種の改良が行われた。戦前浦郷地区だけでも最盛期には三百頭百 1920 0 大正9年 運河のある町 庚申 0 85 14 浦郷小若の馬の調教場 昭和の初期には軍馬の需要が多かったが、隠岐の馬は牧畑での放牧期間が長いので相当調教しなければ使うことができなかった。このような欠点があったため、他にいろいろな長所をもっていたにもかかわらず、移出は思わしくなかった。そこで浦郷村はこは 1937 0 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 85 14 これを改善しようと昭和十二年、小若に二歳、三歳馬の育成場と四十ア−ルの運動場(写真)を設けて共同育成と調教を行ったので、以後、浦郷産の馬の評判は高まり移出は大幅に増えた。 1937 0 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 87 1 宇賀の牧畑 昭和三年当時、鳥取県の高校教諭であった久保土美氏が牧畑の論文(隠岐ノ牧畑式ノ研究)を書くために西ノ島を訪れた時に撮影したものである。これが隠岐の牧畑が広く中央に紹介された最初のものであった。芋が植えてあった写真の牧畑も、食糧事情の好転から現ら 1928 0 昭和3年 運河のある町 戊辰 0 87 1 現在では山林化してしまっている。 (昭和3年撮影)写真提供、村尾富夫氏 1928 0 昭和3年 運河のある町 戊辰 0 93 1 駄追い これは昭和の初めごろ、倉ノ谷の海岸での駄追いです。駄追い(ダオイ)というのは私達の牧移しのことで、部落の牛飼い全員が共同で行ったのです。こんなにいてはご主人はどれが自分の牛かわからなくなるのではと心配する方もいるでしょうが、そこはちゃんと名札やや 0 0 運河のある町 0 93 1 印をつけて区別できるようにしているのです。でも子牛の場合は慣れたご主人でも区別が難しく、子牛の耳をそれぞれの家に伝わる切り方で(形、箇所)切って、他の家の子牛と間違わないようにしていました。そして牧司(モクジ)(牧畑を管理する人)が耳台帳を持っていて、て、 0 0 昭和 運河のある町 0 93 1 これを管理していたのです。 昭和初期撮影、写真提供、安藤利男氏 0 0 運河のある町 0 104 1 韓国出漁と安達和太郎氏(写真)安達和太郎翁が韓国で漁業権の許可を得たのは韓国合併直後の明治四十四年のことであった。機を見るに敏なる氏はいち早く未開発の韓国での漁業に目を付け、以後数十年にわたって同地で各種の網漁業を営んだのである。また民間において、動力動 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 104 1 力付大型漁船を建造(明治四十五年)したのも県下においての初めであり、近代漁業の先駆をなした。この写真は大正初期のものと思われ、日の丸を出すなど、当時の外地での漁業の一端をうかがえて興味深い。写真提供、安達和良氏 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 119 11 でも最も貧しい村で、漁業といっても、一本釣りの零細漁民が多かったが、沢野氏は型定置網によって大量の漁獲を得るところとなり、地区漁民の漁業経営に対する認識をあらためさせたのであった。漁業近代化に対する氏の熱意は極めて高く、昭和のはじめには遠く朝鮮方面に面に 0 0 運河のある町 0 119 11 まで漁場を開拓していったが、たまたま、このとき朝鮮方面で行われていた一艘片手まわしによるあぐりまき網漁法に目をつけ、早速これをもちかえった。当時の隠岐のまき網は二艘船による両手まわしの漁法がとられていたが、この片手まわし漁法によって漁業の効率化は 0 0 運河のある町 0 119 11 漁業近代化のパイオニア、沢野岩太郎氏 沢野岩太郎氏は明治二十二年、浦郷村で生まれた。高等小学校を卒業すると家業の鮮魚商を手伝っていたが、兵役終了となった明治の末期、魚商時代に得た漁業の知識をもとに漁業に転業し、定置網漁業を導入した。このころ浦郷は県下で下 1889 0 明治22年 運河のある町 己丑 0 119 26 はもとより漁獲も増大するところとなり、今日におけるまき網の先覚者となったのである。また、和船まきあみを機械船にあらためたほか、戦後はいちはやく大型鋼船のまき網船を建造するなど常に漁法の近代化と改善にとりくみ、島の漁業発展に大いなる業績を残したのである。 0 0 運河のある町 0 123 0 観光 国賀観光の観光船の開始(重谷乙郎氏) 1949 0 昭和24年 西ノ島 運河のある町 己丑 0 134 0 観光 隠岐民謡観光キャラバン隊結成 1964 0 昭和39年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 136 1 、鬱陵島に在住されていた)によると「鬱陵島」に間違いないとのことである。鬱陵島は隠岐では近年まで「竹島」と呼び、多くの人が出かけて行った。隠岐の港にも一時期にはこのような風景がみられたものである。写真提供、宇野一氏 0 0 明治 運河のある町 0 136 1 帆船 大和船は極めて上質な乾燥材を使用し、釘はもとより合わせ目は上等の漆をもって接着した。この写真は本町に残る和船写真として最古のものと思われる。撮影時期等は不明であるが、船型からして帆船末期、すなわち明治ξ中ごろと思われる。場所は西野盛氏(若いころ、ろ 0 0 明治 運河のある町 0 136 16 風待港として栄えた帆船時代 隠岐は上古から、日本海海上交通の要衝として重要な地位を占めて来たが、江戸時代に入って、日本海と瀬戸内海とを結ぶ西廻海運が開発されると、東北から上方へ物資を運ぶ北前船の往来が盛んとなり、島の港はこれらの帆船の風待港として利用さ用 0 0 運河のある町 0 136 16 されるようになった。島前内湾の風待港で最たるものは浦郷と大山の両港であるが、出船、入船の多い旧6月ごろから8、9月ころにかけてはこれらの北前船が湾内にぎっしりとけい留され、村は威勢のよい船方さんたちでにぎわったといわれる。北前船は隠岐には別に貨物を集を集 0 0 運河のある町 0 136 16 散させなかったが、派手な帆船時代の船方さんのこと、一ヶ月にもわたる風待ちの期間中には多額の金を落していったようで港々の船宿は相当のにぎわいを呈したものである。今も昔も船方と女はつきもの。その相手をする女を総家(そうか)といい、三味もひけば、唄もう 0 0 運河のある町 0 136 32 うたう芸の好きな女にはもってこいの仕事であったろう。こうした風潮は地方の風俗に悪影響を及ぼしたことは否めないが、島の経済や文化の導入に好結果をもたらしたことも事実であった。一方、北前船の往来によって島の海運業も盛んになり、市部の若松屋や大山明の赤阪などな 0 0 運河のある町 0 136 32 しまった。 0 0 運河のある町 0 136 32 ど大船主の出現を見るなど、地元帆船も北は北海道から西は九州まで、日本海を股にかけて活躍したといわれている。風待港として栄えた帆船時代も北前船が往来した明治25年ごろまでで、その後、汽船の発達や本土における陸上交通網の開発とともに、その繁栄は過ぎ去ってって 0 0 運河のある町 0 186 1 恭一氏 1913 730 大正2年 運河のある町 癸丑 0 186 1 若者宿から青年団へ 写真裏面には大正2年7月30日撮影とある。この至誠館は現在の大国商店あたりにあったそうだ。[黒木村誌]によると、明治初期には各里に若者宿があって[若連中]に入った青年男子はみな若者宿に寝泊まりし、きびしい年齢序列の中で成長していったっ 1913 730 大正2年 運河のある町 癸丑 0 186 1 たとある。日露戦争が終ると、政府が[青年会]の組織化を提唱するようになり、明治45年には[黒木村青年会]が正式に発足した。各部落にはそれぞれ支会を置き、各支会は青年会館を設けて活動の本拠とした。この青年会が大正5年に青年団にかわっていった。写真提供、前田 1913 730 大正2年 運河のある町 癸丑 0 202 1 では他町村にさきがけてこれを実施し、昭和十六年には、この組合に病院の経営を移管した。昭和二十一年、敗戦の諸事情により日本医療団に経営を移管したが、昭和二十三年には再び国民健康保険事業として開始された。浦郷病院は創立以来十数名の医師の交代があったが、中でも 1896 1100 明治29年 運河のある町 丙申 0 202 1 浦郷村に病院ができたのは明治二十九年、森脇戸長時代に計画がなされ、当時、西郷の三好病院院長であった船山梅太郎氏を招聘し、同年十一月から開始したのが始まりであった。明治三十三年には伝染病隔離病舎が完成した。昭和十三年、国民健康保険法が制定されると、隠岐で岐 1896 1100 明治29年 運河のある町 丙申 0 202 1 特筆すべきは内藤勝一氏である。氏は明治三十六年に簸川郡から浦郷病院に医員(後に院長)として赴任して以来、約四十年の永きにわたって浦郷村の医療に貢献し、「東の勝部さん、西の内藤さん」と並び称せられ、住民の信望も篤かった。昭和三十一年に中井進医師を迎 1896 1100 明治29年 運河のある町 丙申 0 202 22 市氏が大津に開業し、昭和二十七年まで続いた。その後、山本英臣氏が当初勝部医院の出張所の形で同所に開業し、昭和四十七年、松江へ帰郷するまで続いた。昭和四十八年、町立美田診療所の施設が完成し、翌四十九年に河野通武医師を迎え現在に至っている。 1972 0 昭和47年 運河のある町 壬子 0 202 22 迎え、現在に至っている。一方、黒木村に本格的な西洋医学を身につけた勝部方策氏が物井に開業したのは明治四十五年のことであった。勝部氏は大正十二年ごろ別府に医院を移転し、現在子息の勝部玄氏が後を継ぎ、地域の医療に貢献している。美田地区では昭和六年、隠木長市長 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 214 12 電気 電気事業 大正の中ごろ、先取りの気性にもえる島の青年事業家安藤猪太郎氏は郷土の開発と発展のため電気導入の必要性を痛感し、村に自家発電所をつくることを提唱した。時の浦郷村長今崎半太郎氏は氏の発案に大いに共鳴して黒木村長中西松次郎氏と相談して村営による電気電 1920 800 大正9年 運河のある町 庚申 0 214 12 電気 気事業を考えたが、法律上できないため、民営事業で行うことになり、両村長の後援の下に地元有志である竹田才吉、安達和太郎の両氏をはじめ、電気事業に経験を持つ里見周三氏(境港市)の協力を得て島前電気株式会社が設立された。資本金六万円で発足したこの会社は大正大正 1920 800 大正9年 運河のある町 庚申 0 214 12 九年八月、美田尻に火力発電所を建設して配電設備を整え、大正十年五月から送電を開始した。出力は僅か二十キロワットであるが、本土より遅れること二十五年、やっと見ることのできた文明の灯に島民はおどろき、そのよろこびは想像以上であったという。昭和十八年、 1920 800 大正9年 運河のある町 庚申 0 215 3 電気 、政府の方針によって島前電気は中国配電(株)(現在の中国電力)に合併されたが、二十数年にわたって島の電力供給に尽くした功績は大きく、その蔭には安藤氏をはじめとする創始者の方々のなみなみならぬ努力があったことを見逃してはならない。戦後離島文化はまず電力の力 1943 0 昭和18年 運河のある町 癸未 0 215 3 の強化からという島民の強いねがいと、中国電力の深いご理解の下に施設はつぎつぎと増強されていったが、島民にとって、もっとも忘れることのできないのは昭和三十二年七月の昼夜送電の実現であろう。一家に一燈、ラジオすらまともにきくことのできなかった時代、昼間も間も 1943 0 昭和18年 運河のある町 癸未 0 215 3 電気 電気が利用できることになったことは当時として、まさに画期的なできごとであった。島に文化の灯がともって半世紀、電気事業のうつりかわりは島民の生活文化のバロメ−タ−であったような気がする。 1943 0 昭和18年 運河のある町 癸未 0 216 1 。昭和十二年十月十五日、交換施設が完備され、公衆電話も村に登場したが、当時、電話の加入者は浦郷村全部で八台、もちろん黒木村の方もその程度であり、大部分は役所とか団体等による加入であった。回線が少ないため、市外通話はなかなか通じず、島内間の通話でも三十分や 1898 0 明治31年 運河のある町 戊戌 0 216 1 一時間ぐらい待つことはざらにあった。電話に根本的な改革が加えられたのは新町発足後まもなく、昭和三十四年ごろである。当時、町内には別府、浦郷の二局があり、町内間の電話でも市外通話となる上に、加入にも制限があり、ことに美田地区は区域外ということで新 1898 0 明治31年 運河のある町 戊戌 0 216 1 電信、電話、今昔 西ノ島の電話あれこれ。隠岐島誌によると、島に電信電話施設として海底電線が敷設されたのは明治三十一年のことで、八束郡千酌の海岸から隠岐各島に敷設された。電話開設は明治四十四年で、まず西郷に架設され、浦郷には大正六年四月に架設されている。る 1898 0 明治31年 運河のある町 戊戌 0 216 13 で新しい電話の加入はほとんど認められなかった。このような不便を解消するため、電話局の統合が昭和三十四年ごろ持ち上がっているが昭和三十四年といえば、庁舎の統合をはじめ、小中学校の統合等、町を二分しての政治的問題で紛糾したころであり、電話局の統合もこうしたし 1959 0 昭和34年 運河のある町 己亥 0 216 13 た政治の渦中にまき込まれてなかなか進展しなかったといわれる。「とにかく支所と本庁を連絡するのも市外通話で、しかもすぐ呼び出せるという状態でなかったし、あのころは本当に不便でしたね」当時を知る役場の古参議員はこのように語っているが、町では昭和三十五年七年七 1960 707 昭和35年 運河のある町 庚子 0 216 13 月、電話局の統合推進を可決して、関係機関に働きかけ、これによって、やっと町内における電話の一本化は実現し、施設も大いに改善されるに至った。電話が最も近代化され庶民の生活必需品として普及されたのは何といっても昭和四十五年、海士電報電話局の開局による 1970 200 昭和45年 運河のある町 庚戌 0 216 27 る自動即時化である。離島においては通信施設の充実がことにのぞまれ、隠岐島の電話自動化については早々に手がかけられ、本町においても昭和四十五年二月から自動即時化が実施されている。これ以来電話の普及率は著しい上昇を示し、昭和五十一年現在で約九六%の普及率と率 1976 0 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 216 27 となり、中国五県はもとより、全国的にも非常に高い水準となった。 0 0 運河のある町 0 217 1 町にテレビが入ってきたのは昭和33年ごろである。東京でNHKTV放送が開始されたのが昭和28年2月のことであるから、本土より約5年ほど遅れて上陸したわけだ。しかし当時はテレビは高級品であるうえ、電力事情もわるく、一般家庭に普及しはじめたのは昭和35年を年 1960 0 昭和35年 運河のある町 庚子 0 217 1 焼火 をすぎてからであった。焼火山にテレビの中継局ができたのは昭和42年のこと。当時、島のほとんどは鳥取の放送しか受信できず、鳥取県知事の顔は知っていても島根県知事の顔は知らないというエピソードが生まれたのもこのころである。その後、山陰テレビ、山陰中央テレテレ 1967 0 昭和42年 運河のある町 丁未 0 217 1 ビの中継所も作られ、放送文化の恩恵もくまなく受けることができるようになり今日に至っている。 0 0 昭和 運河のある町 0 224 1 隠岐騒動が起こり郡代を追放し島民自治を行う 1868 300 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 1 五ヶ条御誓文を発布 1868 314 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 1 別府郵便局開局 1872 700 明治5年 運河のある町 壬申 0 224 2 神仏判然令布告 1868 328 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 2 松江藩の隠岐国取締りは免ぜられ隠岐は鳥取藩の管轄となる 1868 1100 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 2 別府小学校開校 1873 0 明治6年 運河のある町 癸酉 0 224 3 隠岐で徹底的な廃仏毀釈が行われる 1869 0 明治2年 運河のある町 己巳 0 224 3 宇賀、美田、波止(美田支校)本郷、赤之江、三度、珍崎(三度学校支校)の各小学校開校。しかし進学率がわるく、僅かに16% 1874 0 明治7年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 224 3 慶応四年九月、明治と改元、江戸城が皇居となる 1868 908 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 4 幕府軍、北海道五稜郭に立てこもる 1868 1000 明治元年 運河のある町 戊辰 0 224 4 隠岐県設置、真木益夫が隠岐県知事に任ぜられる 1869 200 明治2年 運河のある町 己巳 0 224 4 大行政区制の改正で島内の行政区域は別府村、美田村、宇賀村となり戸長がおかれる 1874 0 明治7年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 224 5 東京〜横浜間に電信開通 1869 0 明治2年 運河のある町 己巳 0 224 5 隠岐県廃止、隠岐は石見.大森県(のちに浜田県)の管轄となる 1869 800 明治2年 運河のある町 己巳 0 224 6 この年、出雲、石見、隠岐とともに大凶作、サイゴン米を輸入貧民一万六千数百人を救助する 1869 0 明治2年 隠岐 運河のある町 己巳 0 224 7 島内神社の御神体調査、神社より仏体を取り除く 1870 0 明治3年 西ノ島 運河のある町 庚午 0 224 7 平民に苗字を称することを許可 1870 0 明治3年 西ノ島 運河のある町 庚午 0 224 7 廃藩置県により隠岐は出雲各県と合併して島根県と定まったが大反対が起き鳥取県に移される 1871 1100 明治4年 西ノ島 運河のある町 辛未 0 224 8 散髪、廃刀の自由。華族、士族、平民の相互結婚の自由 1871 800 明治4年 島外 運河のある町 辛未 0 224 8 後鳥羽上皇神霊還遷のため奉迎使来島、神霊を水無瀬に還す 1873 1100 明治6年 運河のある町 癸酉 0 224 9 太陽暦を採用 1872 900 明治5年 運河のある町 壬申 0 224 9 排仏毀釈以来禁止の僧侶の布教が許可になる 1877 0 明治10年 隠岐 運河のある町 丁丑 0 224 10 新橋〜横浜間に鉄道開通 1872 900 明治5年 島外 運河のある町 壬申 0 224 11 徴兵令発布 1873 100 明治6年 運河のある町 癸酉 0 224 12 西郷隆盛、征韓論を大政大臣に提出する 1873 800 明治6年 島外 運河のある町 癸酉 0 224 13 地租改正 1873 1000 明治6年 隠岐 運河のある町 癸酉 0 224 14 浜田県を島根県に合併、鳥取県は島根県に合併 1876 400 明治9年 運河のある町 丙子 0 224 15 西南の役起こる 1877 200 明治10年 島外 運河のある町 丁丑 0 224 16 松江中学が開校(現松江北高等学校) 1877 400 明治10年 島外 運河のある町 丁丑 0 225 1 隠岐における初の企業会社、牧牛社結成される(畜産事業の会社であった) 1881 0 明治14年 運河のある町 辛巳 0 225 1 浦郷郵便局開設 1881 0 明治14年 運河のある町 辛巳 0 225 1 鳥取県が置かれ因幡、伯耆の両国が管轄となる 1881 900 明治14年 運河のある町 辛巳 0 225 2 美田村他三村戸長役場が美田村に置かれる(美田村、別府村、宇賀村、浦郷村) 1884 0 明治17年 運河のある町 甲申 0 225 2 隠岐四郡郡長高島士駿が総合町村会において松浦斌の強い協力を得て本土連絡の汽船購入を決定し大阪商船の汽船速凌丸を購入する 1884 1200 明治17年 運河のある町 甲申 0 225 2 深刻な農村不況で米価、牛価低落、鶏一羽と牛一頭と交換するものもあったという 1886 600 明治19年 島外 運河のある町 丙戌 0 225 3 浦郷警察署分署開設 1885 0 明治18年 西ノ島 運河のある町 乙酉 0 225 3 隠岐航路開設される 1885 200 明治18年 運河のある町 乙酉 0 225 3 衣服 松江で洋服や靴を買う人が激増?る 1887 0 明治20年 島外 運河のある町 丁亥 0 225 4 馬種改良のため宮内庁より西郷の池田源治へ青森五戸産の嬉野号が下賜される 1885 0 明治18年 運河のある町 乙酉 0 225 4 美田村で養蚕業の振興に取り掛かる 1888 0 明治21年 西ノ島 運河のある町 戊子 0 225 4 市制、町村制を公布する 1888 400 明治21年 運河のある町 戊子 0 225 5 隠岐〜本土間、海底電信施設の国費架設建議を県会から内務卿に提出 1885 1200 明治18年 運河のある町 乙酉 0 225 5 皇居を宮城と改める 1888 1000 明治21年 島外 運河のある町 戊子 0 225 5 コレラ騒動が浦郷で発生 1890 0 明治23年 西ノ島 運河のある町 庚寅 0 225 6 隠岐国に椎茸栽培はじまる 1885 0 明治18年 隠岐 運河のある町 乙酉 0 225 6 大日本帝国憲法発布 1889 200 明治22年 島外 運河のある町 己丑 0 225 6 美田村他三戸長役場から浦郷は分離し、浦郷村戸長役場を本郷に置く 1891 0 明治24年 運河のある町 辛卯 0 225 7 隠岐島庁を西郷に置く。島司が置かれ四郡郡長の事務を管掌する 1888 500 明治21年 運河のある町 戊子 0 225 7 東海道本線全通 1889 700 明治22年 島外 運河のある町 己丑 0 225 7 本郷小学校に使用していた専念寺焼失 1891 0 明治24年 西ノ島 運河のある町 辛卯 0 225 8 漁業組合設立(海士郡、知夫郡) 1888 0 明治21年 西ノ島 運河のある町 戊子 0 225 8 教育勅語発布、第一回帝国議会開く 1890 1100 明治23年 運河のある町 庚寅 0 225 8 ラフカディオハ−ン(小泉八雲)隠岐に旅行。浦郷で始めて見る外人に大変珍しがり見物人が屋根から落ちる 1892 716 明治25年 運河のある町 壬辰 0 225 9 隠岐四郡に水産加工同業者組合設立 1888 0 明治21年 西ノ島 運河のある町 戊子 0 225 9 本郷小学校新築落成(元小学校) 1892 0 明治25年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 225 10 浦郷村に赤痢大流行。羅病者五百十五人、死者八十人にのぼる 1893 0 明治26年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 225 10 渡辺新太郎(海士村)島前より始めて国会議員に当選する 1894 300 明治27年 運河のある町 甲午 0 225 10 日清戦争起こる 1894 700 明治27年 運河のある町 甲午 0 225 11 隠岐の赤痢患者二千三百余人に及ぶ 1894 600 明治27年 運河のある町 甲午 0 225 11 公立浦郷病院開設 1896 0 明治29年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 225 11 三陸地方大地震、死者一万七千人 1896 600 明治29年 島外 運河のある町 丙申 0 225 12 隠岐汽船株式会社創立、第二隠岐丸建造 1895 1000 明治28年 運河のある町 乙未 0 225 12 戸長の森脇平作により浦郷に義勇隊を組織、日清戦争後の三国干渉に義憤を盛り上げ志気を昂揚する 1896 0 明治29年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 225 13 国学者中沼了三没 1896 500 明治29年 隠岐 運河のある町 丙申 0 225 14 隠岐産牛馬組合設立 1896 0 明治29年 隠岐 運河のある町 丙申 0 226 1 金本位制施行。純金二分が一円となる 1897 0 明治30年 島外 運河のある町 丁酉 0 226 1 浦郷に憲兵屯所開設 1897 0 明治30年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 226 1 西郷町の中井養三郎竹島でアシカ漁業を始める 1902 0 明治35年 隠岐 運河のある町 壬寅 0 226 2 県下初の野球試合が松江中対師範の間で行われる 1898 0 明治31年 島外 運河のある町 戊戌 0 226 2 竹島を島根県の隠岐島司の所管とする旨内務大臣より知事へ訓令 1905 200 明治38年 運河のある町 乙巳 0 226 3 船越安達和太郎が県議会議員に当選 1898 0 明治31年 運河のある町 戊戌 0 226 3 家庭で六角時計を備えるようになる 1898 0 明治31年 島外 運河のある町 戊戌 0 226 3 隠岐町村組合立甲種商船学校設立(現在隠岐水産高等学校)翌年に県立に移管する 1907 0 明治40年 運河のある町 丁未 0 226 4 立憲政友会結成、伊藤博文総裁となる 1900 0 明治33年 運河のある町 庚子 0 226 4 海底電信線敷設により電信線開通 1900 0 明治33年 運河のある町 庚子 0 226 4 隠岐島に島庁を置く島地として勅令により指定される 1909 0 明治42年 運河のある町 己酉 0 226 5 第2種浦郷道改修工事(宇賀〜船越村境まで)はじまる 1901 0 明治34年 運河のある町 辛丑 0 226 5 日英同盟調印 1902 0 明治35年 島外 運河のある町 壬寅 0 226 5 隠岐電灯株式会社が西郷に設立される 1911 0 明治44年 運河のある町 辛亥 0 226 6 浦郷、美田に漁業組合創設 1902 0 明治35年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 226 6 二月八日、日本艦隊仁川沖で露艦と交戦。 1904 208 明治37年 運河のある町 甲辰 0 226 7 二月十日、ロシアに宣戦布告 1904 210 明治37年 運河のある町 甲辰 0 226 7 同じく浦郷村役場は廃止され浦郷村が誕生、村長に今崎半太郎就任する。 1904 500 明治37年 運河のある町 甲辰 0 226 7 町村制施行。美田村外二村戸長役場は廃止され、黒木村が誕生、村長に岩佐久一郎就任。 1904 500 明治37年 運河のある町 甲辰 0 226 7 五月二十七日.二十八日日本海海戦。 1905 527 明治38年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 226 8 日本海海戦により露人死体漂着、手厚く葬り墓をつくる(船越) 1905 0 明治38年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 226 8 九月ポ−ツマス条約調印により日露講和 1905 900 明治38年 運河のある町 乙巳 0 226 8 義務教育六年となる 1907 0 明治40年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 226 9 黒木村長に中西松次郎就任 1907 0 明治40年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 226 9 自動車始めて山陰道を走る 1908 0 明治41年 島外 運河のある町 戊申 0 226 10 六月五日、皇太子殿下嘉仁親王(後に大正天皇)黒木御所に行啓 1907 600 明治40年 運河のある町 丁未 0 226 10 松江〜米子間鉄道開通 1908 0 明治41年 島外 運河のある町 戊申 0 226 11 この秋三度部落の大火、大半を全焼する 1907 0 明治40年 運河のある町 丁未 0 226 11 伊藤博文、ハルピン駅頭で殺される 1909 0 明治42年 島外 運河のある町 己酉 0 226 12 黒木村境から珍崎までの村内道路工事始まる 1909 0 明治42年 運河のある町 己酉 0 226 12 徳川.日野両大尉により日本初の試験飛行 1910 0 明治43年 運河のある町 庚戌 0 226 13 県水産試験場の浦郷実習所設置 1910 0 明治43年 運河のある町 庚戌 0 226 13 松江大橋開通 1911 0 明治44年 島外 運河のある町 辛亥 0 226 14 美田郵便局開設 1910 0 明治43年 運河のある町 庚戌 0 226 14 出雲今市〜京都間鉄道開通 1911 0 明治44年 運河のある町 辛亥 0 226 15 旧四月十七日に大山部落大火 1910 417 明治43年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 226 15 七月三十日明治天皇崩御 1912 713 大正元年 運河のある町 壬子 0 226 16 第2種浦郷道改修工事完成 1910 0 明治43年 運河のある町 庚戌 0 226 16 県水産試験場、動力付西洋形大型漁船八千矛丸を建造 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 226 17 安達和太郎県下で初めて動力付大型漁船建造 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 227 1 宇賀小学校新築 1912 0 大正元年 運河のある町 壬子 0 227 1 元号を大正と改める 1912 700 大正元年 運河のある町 壬子 0 227 1 電気 西郷に電気点灯 1913 400 大正2年 運河のある町 癸丑 0 227 2 第五回オリンピックに日本初参加 1912 1200 大正元年 運河のある町 壬子 0 227 2 第三隠岐丸は第二隠岐丸と衝突沈没する。行方不明、乗客九名、船員一名 1913 900 大正2年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 227 2 公設の消防組設置 1914 0 大正3年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 227 3 隠岐女子技芸学校(隠岐高等女学校、現隠岐高等学校)開設 1913 0 大正2年 運河のある町 癸丑 0 227 3 浦郷村内道の改修工事完了 1914 0 大正3年 運河のある町 甲寅 0 227 3 世界大戦起きる。日本はドイツに宣戦 1914 800 大正3年 運河のある町 甲寅 0 227 4 婦人の縮髪はじまる 1915 0 大正4年 島外 運河のある町 乙卯 0 227 4 船引運河竣功 1915 0 大正4年 運河のある町 乙卯 0 227 4 隠岐国青年団が結成される 1920 0 大正9年 運河のある町 庚申 0 227 5 安達和太郎、動力付小型漁船かもめ丸建造 1915 0 大正4年 運河のある町 乙卯 0 227 5 朝鮮米の移入で県産米の販路圧迫傾向 1915 0 大正4年 運河のある町 乙卯 0 227 5 町村組合立商船学校は水産講習所と合同し、県立隠岐商船水産学校として東郷村に設置される(現隠岐水産高校) 1922 400 大正11年 運河のある町 壬戌 0 227 6 佐倉鶴松黒木村長に就任 1916 0 大正5年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 227 6 八束郡片江村の渋谷兼八発動機船でサバ流しあみ漁業に成功 1916 0 大正5年 運河のある町 丙辰 0 227 6 隠岐支庁設置される。郡長、島司は廃止される 1926 700 大正15年 運河のある町 丙寅 0 227 7 別府小学校新築 1916 0 大正5年 運河のある町 丙辰 0 227 7 県水産試験場試験船八十島丸建造、発動機付漁船普及しはじめる 1917 0 大正6年 運河のある町 丁巳 0 227 8 六月四日、皇太子殿下裕仁親王(のちに今上天皇)黒木御所に行啓 1917 604 大正6年 運河のある町 丁巳 0 227 8 米価暴騰、全国各地で米騒動起こる 1918 0 大正7年 運河のある町 戊午 0 227 9 魚谷虎太郎.運搬船、淀江賢次.漁船、小仲徳次郎.渡船、を建造、浦郷村における動力付船舶建造の始め 1918 0 大正7年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 227 9 第一次世界大戦終結 1918 1100 大正7年 運河のある町 戊午 0 227 10 スペイン風邪大流行 1919 0 大正8年 運河のある町 己未 0 227 10 黒木村の地主会結成 1921 200 大正10年 西ノ島 運河のある町 辛酉 0 227 11 米、まゆの価格、株式の大暴落 1920 0 大正9年 運河のある町 庚申 0 227 11 電気 島前電気による送電開始 1921 500 大正10年 運河のある町 辛酉 0 227 12 原首相、東京駅で暗殺される 1921 1100 大正10年 運河のある町 辛酉 0 227 12 竹田才吉(市部)が県会議員に当選 1922 200 大正11年 運河のある町 壬戌 0 227 13 松江で初めて乗合自動車開業される 1921 1000 大正10年 西ノ島 運河のある町 辛酉 0 227 13 渡辺信行の手により魚の共同販売所開かれる(浦郷) 1922 200 大正11年 西ノ島 運河のある町 壬戌 0 227 14 ワシントン条約調印 1922 200 大正11年 運河のある町 壬戌 0 227 14 くろきつた産地天然記念物に指定 1922 300 大正11年 運河のある町 壬戌 0 227 15 関東大震災、死者91802人、行方不明42257人、焼失家屋40万戸 1923 900 大正12年 島外 運河のある町 癸亥 0 227 15 不況により村内の人口流出 1925 0 大正14年 西ノ島 運河のある町 乙丑 0 227 16 山陰線、益田まで開通 1923 1200 大正12年 島外 運河のある町 癸亥 0 227 16 竹田才吉黒木村長に就任 1925 1000 大正14年 西ノ島 運河のある町 乙丑 0 227 17 メ−トル法実施 1924 700 大正13年 島外 運河のある町 甲子 0 227 17 政府補助を得て漁獲物販売所を浦郷に設置 1925 0 大正14年 西ノ島 運河のある町 乙丑 0 227 18 美田小学校新築 1925 0 大正14年 西ノ島 運河のある町 乙丑 0 227 18 東京でラジオ放送開始 1925 300 大正14年 運河のある町 乙丑 0 227 19 浦郷警察署分署が浦郷警察署として独立 1926 600 大正15年 西ノ島 運河のある町 丙寅 0 227 19 十二月二十五日、大正天皇崩御 1926 1225 大正15年 運河のある町 丙寅 0 228 1 今上天皇践ソ 昭和と改元 1926 1200 大正15年 運河のある町 丙寅 0 228 1 赤ノ江小学校新築 1927 0 昭和2年 運河のある町 丁卯 0 228 1 町村の財政整理緊縮始まる 1929 0 昭和4年 西ノ島 運河のある町 己巳 0 228 2 金融大恐慌起こる 1927 400 昭和2年 島外 運河のある町 丁卯 0 228 2 安藤剛黒木村長に就任改元 1929 900 昭和4年 西ノ島 運河のある町 己巳 0 228 2 隠岐丸はじめて松江に入港 1932 400 昭和7年 西ノ島 運河のある町 壬申 0 228 3 浦郷村信用販売購買組合設立 1929 0 昭和4年 西ノ島 運河のある町 己巳 0 228 3 世界大恐慌,ニュ−ヨ−ク株式市場大暴落 1929 1000 昭和4年 運河のある町 己巳 0 228 3 隠岐島誌を刊行 1932 1200 昭和7年 運河のある町 壬申 0 228 4 ロンドン軍縮会議始まる 1930 400 昭和5年 運河のある町 庚午 0 228 4 福脇一、鏡谷末次郎により島内に始めてバスが走る 1931 0 昭和6年 西ノ島 運河のある町 辛未 0 228 4 大山国立公園に出雲,隠岐を包含するよう松江商工会議所が国に陳情 1933 100 昭和8年 運河のある町 癸酉 0 228 5 米と生糸の大暴落,農業恐慌 1930 400 昭和5年 運河のある町 庚午 0 228 5 黒木村信用組合設立 1932 0 昭和7年 西ノ島 運河のある町 壬申 0 228 6 満州事変起きる 1931 900 昭和6年 運河のある町 辛未 0 228 6 耳浦道路建設 1932 0 昭和7年 西ノ島 運河のある町 壬申 0 228 6 隠岐国分寺境内を後醍醐天皇行在所として史蹟に指定,黒木御所は仮指定となる 1934 300 昭和9年 運河のある町 甲戌 0 228 7 山陰線全通(京都〜下関間) 1931 1100 昭和6年 運河のある町 辛未 0 228 7 東京白木屋火災以来,女性のズロ−ス着用が一般化 1932 0 昭和7年 島外 運河のある町 壬申 0 228 7 未曽有の大かんばつと暴風により農作物はほとんど全滅 1933 800 昭和8年 西ノ島 運河のある町 癸酉 0 228 7 隠岐神社創建,後鳥羽上皇七百年祭を執行 1939 400 昭和14年 運河のある町 己卯 0 228 8 五.一五事件,海軍青年将校ら犬養首相を射殺 1932 515 昭和7年 運河のある町 壬申 0 228 8 浦郷漁業組合新築落成 1933 0 昭和8年 西ノ島 運河のある町 癸酉 0 228 8 大かんばつに見まわれる 1939 700 昭和14年 運河のある町 己卯 0 228 9 浦郷警察署新築落成 1933 0 昭和8年 西ノ島 運河のある町 癸酉 0 228 10 ヨ−ヨ−ブ−ム 1933 0 昭和8年 島外 運河のある町 癸酉 0 228 10 三陸地方に大地震 1933 300 昭和8年 運河のある町 癸酉 0 228 10 建武の中興六百年祭が黒木御所で盛大に挙行される 1934 500 昭和9年 西ノ島 運河のある町 甲戌 0 228 11 浦郷小若に幼駒運動場完成 1934 0 昭和9年 運河のある町 甲戌 0 228 11 食事 東北凶作,娘の身売り欠食児童増大,社会問題となる 1934 0 昭和9年 島外 運河のある町 甲戌 0 228 12 経済更正計画樹立 1935 0 昭和10年 西ノ島 運河のある町 乙亥 0 228 12 二、二、六事件、皇道派将校が首相官邸などを襲撃 1936 226 昭和11年 島外 運河のある町 丙子 0 228 13 別府〜松江間に水上飛行機による空路開設 1935 600 昭和10年 西ノ島 運河のある町 乙亥 0 228 13 日中戦争はじまる 1937 700 昭和12年 運河のある町 丁丑 0 228 14 観光 国賀海岸が名勝天然記念物に指定される 1938 0 昭和13年 運河のある町 戊寅 0 228 14 ノモハン事件,価格統制令公布される 1939 500 昭和14年 運河のある町 己卯 0 228 15 四月二十六日,大山部落山林の大火,二十五日夜半から二十七日早朝までもえつづける.島前全消防出動 1939 426 昭和14年 西ノ島 運河のある町 己卯 0 228 15 紀元二千六百年祭 1940 100 昭和15年 島外 運河のある町 庚辰 0 228 15 砂糖、マッチ、切符制 1940 100 昭和15年 島外 運河のある町 庚辰 0 228 16 国民学校発足 1941 400 昭和16年 島外 運河のある町 辛巳 0 228 17 米穀通帳制配給始まる 1941 700 昭和16年 島外 運河のある町 辛巳 0 228 17 鮮魚介配給統制規則 1941 700 昭和16年 島外 運河のある町 辛巳 0 228 17 対米英に宣戦布告,真珠湾攻撃 1941 1200 昭和16年 運河のある町 辛巳 0 229 1 焼火 隠岐島最大の焼火山の梵鐘供出 1942 0 昭和17年 西ノ島 運河のある町 壬午 0 229 1 県下各地で梵鐘供出はじまる 1942 0 昭和17年 島外 運河のある町 壬午 0 229 1 黒木村農業会設立 1943 0 昭和18年 西ノ島 運河のある町 癸未 0 229 2 電気 島前電気(株)中国配電に合併 1943 0 昭和18年 運河のある町 癸未 0 229 2 県下未曽有の大風水害に見舞われる 1943 900 昭和18年 島外 運河のある町 癸未 0 229 2 女子挺身隊、動員配置決定。学童疎開神風特別攻撃隊出動 1944 0 昭和19年 島外 運河のある町 甲申 0 229 3 隠岐保健所を黒木村に設置 1943 900 昭和18年 西ノ島 運河のある町 癸未 0 229 3 隠岐は風水害に見舞われる 1944 900 昭和19年 隠岐 運河のある町 甲申 0 229 3 国内学校の授業を停止、学徒を生産面へ動員 1945 0 昭和20年 島外 運河のある町 乙酉 0 229 4 衣服・食事・住宅 戦時非常時対策、衣食住物資備蓄計画を樹立 1945 0 昭和20年 島外 運河のある町 乙酉 0 229 4 終戦。その直後、終戦を不満として県庁焼き打ち事件起こる 1945 800 昭和20年 島外 運河のある町 乙酉 0 229 4 黒木村長安藤剛辞任 1946 1000 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 229 5 各学校の奉安殿こわされる 1946 0 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 5 浦郷村に町制施行 1946 1100 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 229 6 闇米や芋の買いだしに必死の努力、たけのこ生活にあけくれる 1946 0 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 6 天皇人間宣言 1946 0 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 6 開村以来の村長今崎半太郎辞任 1946 1100 昭和21年 西ノ島 運河のある町 丙戌 0 229 7 預金封鎖 1946 0 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 7 軍国主義者の公職追放 1946 0 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 7 第一次吉田茂内閣成立 1946 500 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 7 農地改革により農地買収売渡しはじまる 1947 300 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 7 地方自治法の施行により新しい町村の自治行政がはじまる 1947 400 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 8 政府、国号を日本と声明 1946 700 昭和21年 運河のある町 丙戌 0 229 8 新選挙法による初の町村長選挙。浦郷町長に大浜一義、黒木村長に前野鶴若当選 1947 400 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 229 8 遅配決配五十日 1947 800 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 9 日本国憲法を公布 1946 1100 昭和21年 島外 運河のある町 丙戌 0 229 9 食事 食料不足により強制的な供米割り当てはじまる 1947 0 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 9 天皇陛下島根県下巡視、隠岐島町村代表松江までお出迎え 1947 1200 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 229 10 引揚者、復員者で町村の人口は急増 1947 0 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 229 10 隠岐高校開校 1948 400 昭和23年 隠岐 運河のある町 戊子 0 229 11 六 三制実施。 1947 400 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 11 浦郷、黒木両中学校開校 1947 400 昭和22年 運河のある町 丁亥 0 229 11 島根県知事に原夫次郎当選 1947 400 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 12 日本国憲法施行。 1947 500 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 12 三度、珍崎に電話開通 1947 1200 昭和22年 西ノ島 運河のある町 丁亥 0 229 13 片山哲社会党内閣成立 1947 500 昭和22年 島外 運河のある町 丁亥 0 229 13 浦郷、黒木農業協同組合創立 1948 500 昭和23年 西ノ島 運河のある町 戊子 0 229 14 教育委員会発足 1948 0 昭和23年 島外 運河のある町 戊子 0 229 14 第2次吉田内閣成立 1948 1000 昭和23年 島外 運河のある町 戊子 0 229 14 浦郷、美田、黒木漁業協同組合創立 1949 0 昭和24年 西ノ島 運河のある町 己丑 0 229 15 第三次吉田内閣成立 1949 200 昭和24年 島外 運河のある町 己丑 0 229 15 黒木中学校開設、位置問題で紛糾 1950 0 昭和25年 西ノ島 運河のある町 庚寅 0 229 16 下山事件 1949 700 昭和24年 運河のある町 己丑 0 229 16 三鷹事件 1949 700 昭和24年 運河のある町 己丑 0 229 16 浦郷町長に村尾誠一郎当選、黒木村長に前野鶴若当選 1951 400 昭和26年 西ノ島 運河のある町 辛卯 0 229 17 松川事件 1949 800 昭和24年 運河のある町 己丑 0 229 17 黒木中学校新築 1951 900 昭和26年 運河のある町 辛卯 0 229 18 島根大学開校 1949 1000 昭和24年 島外 運河のある町 己丑 0 229 18 黒木村森林組合設立 1952 100 昭和27年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 229 19 千円札発行 1950 100 昭和25年 島外 運河のある町 庚寅 0 229 19 三度ひかり保育所新築開設 1952 0 昭和27年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 229 19 浦郷中学校新築 1952 0 昭和27年 運河のある町 壬辰 0 229 20 食事 米を除く主食の自由販売許可される 1950 500 昭和25年 島外 運河のある町 庚寅 0 229 20 浦郷町史発行 1952 1000 昭和27年 西ノ島 運河のある町 壬辰 0 229 21 朝鮮戦争勃発 1950 600 昭和25年 島外 運河のある町 庚寅 0 229 22 島根県知事に恒松安夫当選 1951 400 昭和26年 島外 運河のある町 辛卯 0 229 23 サンフランシスコ条約調印 1951 900 昭和26年 島外 運河のある町 辛卯 0 229 23 日米安保障条約調印 1951 900 昭和26年 島外 運河のある町 辛卯 0 229 24 日米講和条約発効 1952 400 昭和27年 島外 運河のある町 壬辰 0 229 25 第四次吉田内閣が成立 1952 1000 昭和27年 島外 運河のある町 壬辰 0 230 1 浦郷漁協、巾着網操業はじまる 1953 0 昭和28年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 230 1 国内テレビ放送はじまる 1953 200 昭和28年 運河のある町 癸巳 0 230 1 韓国が竹島の領有を発表、竹島領有問題起きる 1953 200 昭和28年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 230 2 離島振興法の制定により浦郷漁協の修築はじまる 1953 0 昭和28年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 230 2 第五次吉田内閣成立 1953 500 昭和28年 島外 運河のある町 癸巳 0 230 2 隠岐高等学校島前分校開設(定時制) 1955 400 昭和30年 隠岐 運河のある町 乙未 0 230 3 義宮殿下ご来島、黒木御所をご見学 1953 0 昭和28年 西ノ島 運河のある町 癸巳 0 230 3 自衛隊発足 1954 700 昭和29年 島外 運河のある町 甲午 0 230 3 隠岐高等学校島前分校全日制となる 1956 500 昭和31年 隠岐 運河のある町 丙申 0 230 4 県畜産共進会を浦郷で開催、このとき台風15号に見舞われ被害続出 1954 900 昭和29年 西ノ島 運河のある町 甲午 0 230 4 鳩山内閣成立AKU 1954 1200 昭和29年 運河のある町 甲午 0 230 4 島内のテレビ普及ぼつぼつ 1959 0 昭和34年 運河のある町 己亥 0 230 5 水道 三度簡易水道新設 1954 1213 昭和29年 西ノ島 運河のある町 甲午 0 230 5 島根県知事に恒松安夫再選 1955 400 昭和30年 運河のある町 乙未 0 230 5 島前、島後間航路第五隠岐丸が就航 1959 0 昭和34年 西ノ島 運河のある町 己亥 0 230 5 ガス プロパンガスの普及により燃料革命起きる 1960 0 昭和35年 島外 運河のある町 庚子 0 230 6 プロレス、マンボ流行 1955 0 昭和30年 運河のある町 乙未 0 230 6 浦郷町長に村尾誠一郎再選、町議選挙。黒木村長に吾妻常男当選、村議選挙。 1955 400 昭和30年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 230 6 浦郷町長、黒木村長町村合併を県に申請 1956 900 昭和31年 運河のある町 丙申 0 230 7 美田保育所新築 1955 0 昭和30年 西ノ島 運河のある町 乙未 0 230 7 日、ソ共同宣言調印 1956 0 昭和31年 島外 運河のある町 丙申 0 230 8 石橋湛山内閣成立 1956 0 昭和31年 運河のある町 丙申 0 230 9 水道 船越簡易水道新設 1956 0 昭和31年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 230 9 島根県庁舎全焼 1956 1200 昭和31年 島外 運河のある町 丙申 0 230 10 三度小学校新設 1956 0 昭和31年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 230 10 神武景気といわれ家庭電化すすむ 1957 0 昭和32年 島外 運河のある町 丁酉 0 230 11 水道 波止簡易水道新設 1956 0 昭和31年 西ノ島 運河のある町 丙申 0 230 11 岸信介内閣成立 1957 200 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 230 12 南極観測はじまる 1957 0 昭和32年 島外 運河のある町 丁酉 0 230 12 2月11日、浦郷町黒木村の合併により西ノ島町発足。新町長に村尾誠一郎当選、町議選挙。新町建設計画を策定。 1957 221 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 13 水道 小向及び市部簡易水道竣工 1957 600 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 13 五千円札発行 1957 1000 昭和32年 島外 運河のある町 丁酉 0 230 14 浦郷中学校屋体完成 1957 700 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 14 島根県庁竣工 1958 100 昭和33年 島外 運河のある町 戊戌 0 230 15 昼夜送電開始される 1957 700 昭和32年 運河のある町 丁酉 0 230 15 メ−トル法実施 1959 100 昭和34年 島外 運河のある町 己亥 0 230 16 西ノ島町連合婦人会結成 1957 900 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 16 皇太子殿下ご結婚 1959 400 昭和34年 島外 運河のある町 己亥 0 230 17 浦郷漁協の小若倉庫焼失 1957 1000 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 17 島根県知事に田部長右衛門当選 1959 400 昭和34年 島外 運河のある町 己亥 0 230 18 全町に国民健康保険事業を開始 1957 1000 昭和32年 西ノ島 運河のある町 丁酉 0 230 18 岩戸景気 1959 0 昭和34年 運河のある町 己亥 0 230 19 水道 大津簡易水道竣工 1958 300 昭和33年 西ノ島 運河のある町 戊戌 0 230 19 伊勢湾台風で空前の被害 1959 900 昭和34年 島外 運河のある町 己亥 0 230 20 黒木村森林組合、西ノ島町森林組合と改称 1958 800 昭和33年 西ノ島 運河のある町 戊戌 0 230 20 安保闘争激化、全学連国会乱入 1960 600 昭和35年 島外 運河のある町 庚子 0 230 21 赤灘灯台点灯 1958 900 昭和33年 西ノ島 運河のある町 戊戌 0 230 22 一畑バス運航開始 1958 1200 昭和33年 西ノ島 運河のある町 戊戌 0 230 23 戦後はじめて島前地区より県議会議員に大浜一義当選 1959 400 昭和34年 西ノ島 運河のある町 己亥 0 230 24 浦郷診療所新築 1959 600 昭和34年 西ノ島 運河のある町 己亥 0 230 25 観光 町観光協会設立 1959 700 昭和34年 運河のある町 己亥 0 230 26 合併以来二ヶ所あった役場を統一し浦郷西庁舎を本庁とする。東部地区住民ならびに美田地区一部住民の反対が強まり約半年間、区嘱託事務の返還 1959 700 昭和34年 西ノ島 運河のある町 己亥 0 230 27 など町政への非協力続く 1959 700 昭和34年 運河のある町 己亥 0 230 28 国民年金事務開始 1959 0 昭和34年 島外 運河のある町 己亥 0 230 29 新町建設審議会を設置 1959 1200 昭和34年 西ノ島 運河のある町 己亥 0 230 30 新町建設審議会小中学校の統合答申 1960 600 昭和35年 西ノ島 運河のある町 庚子 0 230 31 浦郷診療所に歯科を設置 1960 0 昭和35年 西ノ島 運河のある町 庚子 0 231 1 池田内閣成立 1960 700 昭和35年 島外 運河のある町 庚子 0 231 1 電話局の統合決議 1960 700 昭和35年 運河のある町 庚子 0 231 1 隠岐、島根半島、三瓶山が大山隠岐国立公園に編入され、大山隠岐国立公園となる 1963 400 昭和38年 西ノ島 運河のある町 癸卯 0 231 2 水道 大山、美田尻、別府簡易水道竣工 1960 0 昭和35年 西ノ島 運河のある町 庚子 0 231 2 池田内閣所得倍増、高度成長施策を発表 1960 1200 昭和35年 島外 運河のある町 庚子 0 231 2 おきじ丸就航 1963 500 昭和38年 西ノ島 運河のある町 癸卯 0 231 3 町道三度〜赤之江線工事はじまる 1960 0 昭和35年 西ノ島 運河のある町 庚子 0 231 3 ソ連人間衛星船打ち上げ 1961 400 昭和36年 島外 運河のある町 辛丑 0 231 4 西ノ島町長に村尾誠一郎再選、町議選挙 1961 200 昭和36年 西ノ島 運河のある町 辛丑 0 231 4 島前内航船事業組合設立 1964 0 昭和39年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 231 5 観光 国賀ドント節レコ−ド発売 1961 0 昭和36年 西ノ島 運河のある町 辛丑 0 231 5 国産第一号原子炉の火ともる 1962 900 昭和37年 島外 運河のある町 壬寅 0 231 5 島前〜島後間航路休止 1964 500 昭和39年 西ノ島 運河のある町 甲辰 0 231 6 黒木飛行場を再開 1961 1000 昭和36年 西ノ島 運河のある町 辛丑 0 231 6 大豪雪 1963 100 昭和38年 島外 運河のある町 癸卯 0 231 6 隠岐高等学校島前分校は隠岐島前高等学校として独立 1965 400 昭和40年 隠岐 運河のある町 乙巳 0 231 7 美田港大津物揚場建設工事、赤之江漁港整備はじまる 1961 0 昭和36年 西ノ島 運河のある町 辛丑 0 231 7 島根県知事に田部長右衛門再選 1963 400 昭和38年 島外 運河のある町 癸卯 0 231 7 島前広域行政推進協議会発足 1965 0 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 8 大山に山火事、消防団全員出動 1962 0 昭和37年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 231 8 東海道新幹線開通 1964 1000 昭和39年 島外 運河のある町 甲辰 0 231 8 隠岐空港と米子空港との航路開始 1965 800 昭和40年 隠岐 運河のある町 乙巳 0 231 9 黒木発電所増設、電力制限緩和、定額制から従電制へ 1962 400 昭和37年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 231 9 東京オリンピック 1964 1000 昭和39年 島外 運河のある町 甲辰 0 231 9 観光 隠岐観光株式会社設立 1967 900 昭和42年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 231 10 電話局の統合により施設の増強成る 1962 600 昭和37年 運河のある町 壬寅 0 231 10 佐藤内閣発足 1965 0 昭和40年 島外 運河のある町 乙巳 0 231 10 島前三町村の教育委員会を統合し県下初の統合教委、隠岐島前教育委員会発足する 1967 900 昭和42年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 231 11 シオン保育所開設認可 1962 900 昭和37年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 231 11 島根県知事に田部長右衛門三選 1967 400 昭和42年 島外 運河のある町 丁未 0 231 12 県道西ノ島線、倉ノ谷〜宇賀間の改良成る 1962 1100 昭和37年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 231 12 ミニスカ−ト流行する 1967 0 昭和42年 運河のある町 丁未 0 231 13 身障者連絡協議会発足 1962 1200 昭和37年 西ノ島 運河のある町 壬寅 0 231 14 離島草地開発事業はじまる 1963 0 昭和38年 西ノ島 運河のある町 癸卯 0 231 16 三度漁港の改修はじまる 1963 0 昭和38年 西ノ島 運河のある町 癸卯 0 231 16 観光・道 国賀道路完成 1963 0 昭和38年 西ノ島 運河のある町 癸卯 0 231 17 観光 国民宿舎国賀荘竣工、営業開始 1964 500 昭和39年 運河のある町 甲辰 0 231 19 西ノ島町長に大浜一義当選、町議選挙。 1965 200 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 20 観光 国賀びらき行事はじまる 1965 300 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 21 浦郷水産会館竣功 1965 400 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 22 NHKテレビで隠岐がはじめて全国に紹介される(スタジオ102) 1965 800 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 23 焼火 焼火山にNHKテレビ中継所完成する 1965 1100 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 24 由良農道工事施工 1965 0 昭和40年 西ノ島 運河のある町 乙巳 0 231 25 観光 島根半島と浦郷を結ぶ国賀観光航路の開設を運輸大臣に申請 1966 300 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 26 本郷幼稚園開設 1966 400 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 27 浦郷中学校、県中学野球大会で優勝 1966 800 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 28 美田港(船引運河)改修工事始まる 1966 0 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 29 耳浦林道改修工事はじまる 1966 0 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 30 別府港改修工事始まる 1966 0 昭和41年 西ノ島 運河のある町 丙午 0 231 31 観光 西ノ島町を国賀町に町名変更の話題持ち上がり議会で検討 1967 300 昭和42年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 231 32 中学校の敷地造成に陸上自衛隊109施設大隊来町 1967 900 昭和42年 西ノ島 運河のある町 丁未 0 231 33 観光・皇室 皇太子殿下、同妃殿下行啓。国賀、黒木御所をご見学 1967 1000 昭和42年 運河のある町 丁未 0 232 1 中学校を名目統合,西ノ島中学校発足 1968 300 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 232 1 郵便番号制スタ−ト 1968 700 昭和43年 運河のある町 戊申 0 232 1 しまじ丸就航 1968 800 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 232 2 統合中学校の建設に着手 1968 700 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 232 2 GNP世界大二位、日本世界の経済大国となる 1969 0 昭和44年 島外 運河のある町 己酉 0 232 2 知夫、海士、周吉、穏地の四群が合体して隠岐郡となる 1969 400 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 3 水道 珍崎簡易水道工事竣功 1968 0 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 232 3 新船[しげさ]就航し島前〜島後間航路が隠岐島町村組合で再開される 1969 600 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 3 アポロ十一号で人類初の月面到着 1969 700 昭和44年 島外 運河のある町 己酉 0 232 4 黒木村史発行 1968 700 昭和43年 西ノ島 運河のある町 戊申 0 232 4 沖縄返還決る 1969 1100 昭和44年 島外 運河のある町 己酉 0 232 4 島根県知事に伊達慎一郎当選 1971 400 昭和46年 島外 運河のある町 辛亥 0 232 5 町長に安達武夫就任,町議選挙 1969 200 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 5 日本万国博覧会開催 1970 300 昭和45年 島外 運河のある町 庚戌 0 232 6 黒木御所碧風館開館 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 7 町道波止線工事はじまる 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 8 観光 国賀レストハウス竣功 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 9 観光 国賀港の改良工事始まる 1969 300 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 10 水道 物井簡易水道工事竣功 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 11 西ノ島町交通指導員設置 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 12 ホ−ムヘルパ−制度発足 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 13 島前老人ホ−ム竣功開設 1969 0 昭和44年 西ノ島 運河のある町 己酉 0 232 14 電話の自動化成る 1970 200 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 15 過疎法案が衆院可決 1970 300 昭和45年 島外 運河のある町 庚戌 0 232 15 本郷幼稚園を廃止 1970 300 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 16 赤之江小学校、本郷小学校を統合し浦郷小学校となる 1970 400 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 17 美田ダム建設計画成る 1970 400 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 18 浦郷保育所竣功、開設 1970 400 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 19 過疎地域振興計画の策定、西ノ島町総合整備計画の策定 1970 700 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 20 大山道路改良工事始まる 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 21 浦ノ谷に町営住宅を建設 1970 0 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 22 西ノ島中学校竣功 1970 900 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 23 西ノ島老人クラブ結成 1970 900 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 24 西ノ島中学校新校舎に移る 1970 1000 昭和45年 西ノ島 運河のある町 庚戌 0 232 25 美田ダム建設反対運動出はじめる 1971 200 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 26 尾越農道完成 1971 300 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 27 美田船越に教員住宅,由良に町営住宅を建設する 1971 300 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 28 町道三度〜赤之江線十ヶ年かかって完成 1971 300 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 29 観光 国賀港完成 1971 0 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 30 珍崎漁港改修工事始まる 1971 0 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 31 水道 美田〜浦郷簡易水道工事始まる 1971 0 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 32 老人医療制度実施 1971 0 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 33 宇賀小学校,別府小学校を統合して黒木小学校とする 1971 400 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 34 食事 西ノ島町給食センタ−開所 1971 400 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 35 戦没者慰霊碑を建立 1971 900 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 36 旧本郷小学校を改造して西ノ島町中央公民館とする 1971 1000 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 37 観光 別府港に観光センタ−完成 1971 1100 昭和46年 西ノ島 運河のある町 辛亥 0 232 38 美田小学校波止分校を廃止 1972 300 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 1 ゴミ焼却場完成 1972 300 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 1 隠岐汽船(株)春陽丸就航 1972 400 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 1 日本列島改造論、田中通産大臣構想を発表 1972 600 昭和47年 運河のある町 壬子 0 233 2 県営町営の漁民住宅建設 1972 300 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 2 フェリ−くにが就航 1972 400 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 2 田中内閣成立 1972 700 昭和47年 島外 運河のある町 壬子 0 233 3 ゴミ、し尿処理事業はじまる 1972 400 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 3 日中国交正常かの共同声明 1972 900 昭和47年 島外 運河のある町 壬子 0 233 3 島前内海架け橋期成同盟結成される 1973 600 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 4 一畑バスの路線廃止による町営バス運航 1972 500 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 4 砂糖、洗剤買占め騒動。地価急騰 1973 1000 昭和48年 島外 運河のある町 癸丑 0 233 4 島前内海フェリ−就航 1973 1000 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 5 観光・テレビ NHKふるさとの歌まつり国賀海岸で公開放送 1972 600 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 5 広域消防署設置、浦郷に分署ができる 1973 1000 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 5 石油 政府石油緊急事態を宣言 1973 1200 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 6 美田漁協浦郷漁協と合併 1972 600 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 6 視聴覚ライブラリ−設置 1974 0 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 6 狂乱物価となり前年度同月比20.4%の物価上昇 1974 100 昭和49年 島外 運河のある町 甲寅 0 233 7 歯科診療所開設 1972 1100 昭和47年 西ノ島 運河のある町 壬子 0 233 7 田中金脈問題で田中首相辞意表明 1974 1100 昭和49年 島外 運河のある町 甲寅 0 233 7 島前内航船事業組合、発足以来十一年目にして定期航路事業の免許下りる 1974 1200 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 8 町長に安達武夫再選、町議選挙 1973 200 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 8 三木内閣成立 1974 1200 昭和49年 島外 運河のある町 甲寅 0 233 9 福祉医療制度はじまる 1973 300 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 9 博多新幹線開通 1975 300 昭和50年 島外 運河のある町 乙卯 0 233 10 郷土芸能保存会発足 1973 400 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 10 島根県知事選挙に恒松制治当選 1975 400 昭和50年 島外 運河のある町 乙卯 0 233 11 はじめて夏の成人式を行う 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 12 観光 史上最高、十八万人の観光客来町 1973 800 昭和48年 運河のある町 癸丑 0 233 13 大旱魃のため町内各戸給水、農作物被害五千万円 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 14 宇賀港局部改良工事始まる 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 15 県道西ノ島線の舗装完了 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 16 倉ノ谷砂防ダム完成 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 17 民具の収集はじまる 1973 800 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 18 九月十六日未明、浦郷本通り大火 1973 916 昭和48年 運河のある町 癸丑 0 233 19 珍崎の向原タミさん(101才)県下一の長寿者となる 1973 900 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 20 乳児医療助成はじまる 1973 1000 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 21 児童手当の支給はじまる 1973 1000 昭和48年 西ノ島 運河のある町 癸丑 0 233 22 オイルショックにより消費者行政問題活発化、物価急騰する 1973 1200 昭和48年 島外 運河のある町 癸丑 0 233 23 部落の河川床板工事始まる 1973 1200 昭和48年 運河のある町 癸丑 0 233 24 総需要抑制時代に入る。町財政逼迫 1974 300 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 25 美田診療所開設 1974 400 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 26 観光 観光公害出はじめ問題となる 1974 700 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 27 波止川砂防工事始まる 1974 700 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 28 倉ノ谷物井港の局部改良工事始まる 1974 700 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 29 黒木公民館、老人福祉センタ−が完成 1974 1000 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 30 国土利用計画法の制定により土地規制はじまる 1974 1200 昭和49年 西ノ島 運河のある町 甲寅 0 233 31 安達武夫町長十二月二十五日未明に死去、町葬 1974 1225 昭和49年 運河のある町 甲寅 0 233 32 町長に大浜一義当選 1975 200 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 33 大山道路完成 1975 300 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 34 町道鬼舞線の改良工事始まる 1975 300 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 35 民具館の整備 1975 300 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 36 黒木公民館を開所 1975 400 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 37 昭和四十九年度決算で一般会計、特別会計会わせて約一億三千万円の赤字が出る。三年計画で赤字解消対策を打ち出す 1975 400 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 38 珍崎までバス路線の延長 1975 400 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 233 39 老人福祉センタ−開所 1975 400 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 234 1 小学校開校百年記念事業が各学校で行われる 1975 0 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 234 1 国連海洋方会議で領海12カイリ、経済水域200カイリ認知草案まとまる 1975 500 昭和50年 島外 運河のある町 乙卯 0 234 1 春陽丸を隠岐島町村組合で運航することになる 1976 400 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 2 広域基幹林道黒木線工事始まる 1975 900 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 234 2 ロッキ−ド事件 1976 200 昭和51年 島外 運河のある町 丙辰 0 234 2 隠岐航路最大の大形フェリ−[おき]就航 1976 600 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 3 海中公園に鬼ヶ城一帯指定 1975 1200 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 234 3 ロッキ−ド事件で初の逮捕者出る 1976 600 昭和51年 島外 運河のある町 丙辰 0 234 3 島前内海架橋を県に対し積極的陳情 1976 1100 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 4 十方拝礼 国選択(センテイ)の民俗芸能として保存措置を講ずるべき無形文化財としてみた八幡十方拝礼(シュウハイラ)が選択される 1975 1200 昭和50年 西ノ島 運河のある町 乙卯 0 234 4 福田内閣成立 1976 1200 昭和51年 島外 運河のある町 丙辰 0 234 4 西郷大橋完成 1977 1000 昭和52年 隠岐 運河のある町 丁巳 0 234 5 三月十五日、美田ダム保障基準調印式が行われる。計画以来七年目にして県と地元関係者との間に保障基準の調印が行われ用地問題の解決を見る 1976 315 昭和51年 運河のある町 丙辰 0 234 5 王貞治選手、七五六号ホ−ムランで世界記録樹立 1977 900 昭和52年 島外 運河のある町 丁巳 0 234 6 別府港の改修完成(別府地区) 1976 300 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 6 ドル安、円高、不況 1977 1200 昭和52年 島外 運河のある町 丁巳 0 234 7 三度保育所の廃止 1976 400 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 8 県栽培漁業センタ−開所 1976 400 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 9 各部落のお堂を改修して老人集会所とする 1976 400 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 10 写真で見る町史編纂はじまる 1976 500 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 11 美田ダム建設工事始まる 1976 900 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 12 黒木発電所の増設工事始まる 1976 1000 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 13 十一月二十九日夜半、浦郷平井小路大火災、六棟全半焼 1976 1129 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 14 国選択(センテイ)の民俗芸能として保存措置を講ずるべき無形文化財として、浦郷日吉神社の[庭の舞]が選択される 1976 1200 昭和51年 西ノ島 運河のある町 丙辰 0 234 15 町議選挙 1977 200 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 16 町営住宅十二戸建設、県営小若団地が落成 1977 200 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 17 町の赤字解消対策が計画どおりに進展 1977 300 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 18 高松宮殿下、同妃殿下、五月十四日に本町をご訪問 1977 514 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 19 八月八日、史上最大の豪雨禍。被害総額六億四千万円にのぼる 1977 808 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 20 町政二十周年記念行事が十一月五日〜六日の両日行われる 1977 1105 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 21 美田ダム完成、湛水はじめる 1977 1200 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 22 美田児童館落成 1977 1200 昭和52年 西ノ島 運河のある町 丁巳 0 234 23 隠岐西ノ島アルバム[運河のある町]発行 1978 331 昭和53年 西ノ島 運河のある町 戊午 0 49 1 衣服 <島前>梗概 島前の衣生活の推移過程は、島後のそれとさして変らない。衣料の材質が単調であった時代には、島前においても、日常生活にツヅリの持つ役割は大きく、厚くて丈夫であるという特質に着眼して、山着に仕立てたものを、そのまま雨具や寝具に兼用した。またツヅリ 0 0 隠岐島の民俗 0 49 1 の布地は、帯、前掛け、袖無しにも応用されており、いずれも裁断するとほつれるため、織るときと仕立てには工夫が見られる。ツヅリの利点を木綿糸で再現しようとの意図のうかがえるモメンツヅリは、クサのツヅリほどには利用されなかったようである。上記を含めて、ふだん着 0 0 隠岐島の民俗 0 49 1 および仕事着に、袵のない仕立ての目立つ点は、着物の仕立ての発展段階を考察する上で注意される。 0 0 隠岐島の民俗 0 49 10 衣服 麻の単衣を指す帷子の名称も、今や老人が知るだけであるから、いずれは帷子そのものも、語彙も、過去のものとなろう。既婚の女性が、衣類を実家に保管しておき、必要に応じて、取り出しては着用したという点は、婚姻圏や婚姻形態をも示唆するものとして興味深い。 0 0 隠岐島の民俗 0 49 26 袖無しは一幅ものと二幅ものとがあって、後者は年寄りなどがおもに着た綿入れの袖無しもあって、綿200匁くらいを入れた(崎)。羽織りはあまり着なかったが、後に外出するようなとき、羽織りも被布ヒフも着るようになった(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 49 29 平袖の着物を着て仕事をしていたときは、男はコシカラゲして肩ぬぎになり、女は襷をかけて、ふだんの腰巻は上に布が継いでいない短いものがあったが、これが見えない程度に着物を腰にからげ、半幅の帯をした。男女とも脚胖や手甲もつける。その後モジリ袖が流行しだして、男 0 0 隠岐島の民俗 0 49 29 女とも仕事着に取り入れたが、男のモジリは振りの所をあけず、女のそれは3寸ほどあけた。この頃から山着としての着物は3尺2寸くらいに短く仕立てられるようになり、男は下にメリヤスのズボンをはくようになった。昭和の初め頃、パッチといって、尻の所が二つに開き、足首 0 0 隠岐島の民俗 0 49 29 衣服 を紐で結ぶ仕立ての下衣を作ってはくようになり、前後して上衣にテクリジバンを着るようになった。これらは型を借りてテジマなどで縫った。 0 0 隠岐島の民俗 0 50 4 寒いときは、ノノコシャツといって綿入れのモジリ袖の仕事着を着た。家で着るのはワタゲ(膝)より少し長いものだが、海へ出たりするときのはこれより少し短くする。袖は付け幅7寸から9寸くらいで袖口5寸くらいにする(三度) 女の山着はダイナシで作ることが多かった。 0 0 隠岐島の民俗 0 50 4 これは白のボ−セキ糸を黒に染めて織った布で仕立てる。ツイタケにして家でも着た。奉公に出ても、このダイナシをもらうのが楽しみであった。(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 50 25 3、晴着 昔は盆に着物やはきものを新調した。これをボンコ、ボン下駄などと呼び、親や奉公していれば雇主が与えた。新調しないまでも、新しい着物は盆におろすことにしていて、13日の晩からよい着物を着た。正月ゴというのは前掛けとか半衿であった(物井)他所行きに、 0 0 隠岐島の民俗 0 50 25 絣織を着たこともあって、モ−カといって付け絣が1円で買えるとき、これは2円した。また真夏の他所行きには、カタビラを着た。苧を積んで、紡いでカタビラ用の布を織っても作るが、こまかく綺麗に仕上げなくてはならぬため面倒で、たいていは店で買った。自家製は縦横の縞 0 0 隠岐島の民俗 0 50 25 衣服 柄であったが、店のは染め柄が多かった。単衣の長着仕立てにし、夏の祭やお参り、外出などに着た(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 51 1 イ、祝儀着 家の事情によって小異があるが、嫁入りのときは、自分の手持ちの着物のうちの一番上等のものを着て行く者もあるし、新調する場合もあった。前者はスガ糸の混じった縞であったり、スガ糸ばかりの布を京へ出して染めさせた。こまい柄付きなどであった。後者は自家 0 0 隠岐島の民俗 0 51 1 製の布で作ることもあるが、行商人から嫁入り用の着物として買う。50年前に地下内で嫁入りした某女は、紫色の絹のこまい浮き模様のついた仕立て上がりの着物と、帯はアツイタといって、こまかい柄の黄色の丸帯、紫色がかったアイギ(下着)を揃いで行商人から求めた。これ 0 0 隠岐島の民俗 0 51 1 らに表づきの下駄をはいた。頭は何もかぶらなかった。聟は黒いスガ糸織りの長着に白のアイギを重ねて着た(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 51 12 ロ、不祝儀 昔は黒紋付などは着なかった。縞などの柄付でもよく、よい糸で織ってあるような上等の着物を着た。 0 0 隠岐島の民俗 0 51 23 下着 ツキヤクの用意は、親から教えてもらって、自分で縫った。越中フンドシの型をしたもので、布を何枚か重ねて刺し縫いした(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 51 25 衣服 5、子供の衣服 赤児が生まれてすぐは、一つ身のブギを着せる。人から祝いにものも多いが、昔は、着古して柔らかくなった、おとなの長着をよく洗って、ブギに仕立て直して着せた。冬は母親の肌に入れて寝た。シメシは長方形の布を2〜3枚重ねて刺子にしたもので、カバ−は 0 0 隠岐島の民俗 0 51 25 こまい蒲団のようなものを作って巻いた。小便でぬれたものはそのまますすがずに干して使った(物井)ネンネコは、冬は綿の入った広袖のもの。春は袖のない袷ものを着た。おぶい紐は男の帯を代用した(物井)。子供が少しおおきくなると三つ身、学校へ入るようになると四つ身 0 0 隠岐島の民俗 0 51 25 、おとなになって本仕立てという順にする。 0 0 隠岐島の民俗 0 52 1 幼児から4〜5才ころまでの女児の、着物の袖筒の口を襞を取ってしぼり、その上から細い布をリボンのように当てることが流行したことがあった(三度)。学童は、昭和10年ころは男女とも着物を着て、その上にスコキをしたなりで登校した。下着はジバンのみ。温度によって、 1935 0 昭和10年 隠岐島の民俗 乙亥 0 52 1 ノノコや袖無しを上に重ねて着た。足はほとんどの場合、素足に藁ぞうりをはいた。先生は着物に袴のなりであった(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 53 13 60年くらい前に地下足袋が流行してきて、アシナカに代ってはかれるようになり、また、以前、高等小学校へ通学するときは、距離があったので、足袋の底を、糸をフタコにして何回も刺し縫いしたものをはいていたが、以後は地下足袋に代った(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 53 22 掛け蒲団(表四つ幅、裏五つ幅のもの)やタンゼンは、嫁入りのときはもらって出ないで、子供をオヤモトで生んでからもらう。枕は明治末から大正初めころは茣座枕は売っていたが、木枕は少なかった。サシ枕といって、蕎麦殻入りの小枕を上に載せる木枕もあった。(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 54 1 赤児が生まれて7日目に、頭の毛を一度全部剃り落し、次に生えたときに、上を残してぐるりと剃り、残した毛髪をチョチョコといった。2〜3才までこのようにして、女児はそれからオカッパ、少し大きくなると後でたばねた。15〜16才からモモマゲも結った(崎、三度)。娘 0 0 隠岐島の民俗 0 54 1 になるとイチョウガエシも結った。フタツワゲともいって、嫁に行くときもこの髪型で行く者もあり、35〜36才まで結った。オ−マイガミとよぶ髪型が、大正時代に流行してきて、これは自分で結うことができた。これは頭の真上にネゴマを入れて根をしばり、後の部分には小さ 0 0 隠岐島の民俗 0 54 1 い毛タボを入れ、前には大きなタボを入れた髪型。この後二百三高地という髪型も流行した。昔は癖のある毛髪は、手拭をぬらして、癖もみをした(薄毛、三度)髪結いにはめったに行かなかったが、外出のときにはイチョウガエシに結ってもらいに行った。 0 0 隠岐島の民俗 0 54 10 50年前くらいで、高島田がかんざしの借り賃も含めて3円であった。3月の祝いには丸マゲを結うので、また結い賃が入用。このようにちゃんとする家はあまりなかった(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 54 17 ロ、化粧 「オハグロ」第二次大戦前までは、年寄りの間に見られた。水にカナクソを入れて、水が腐るのを待って煮立てさせ、小さいカラツの壷に移し入れ、フシの実を粉にしたものを混ぜたものへ筆をひたしては歯に塗る(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 54 21 風呂 ハ、入浴 ゴエモン、鉄砲風呂の種類があったが、どこの家にでもあるというわけではなく、また水を汲み込むのが大変であったので、風呂を沸かした家は、近隣を招くので、大勢の者が入るうえ手拭の端に糠を包み込んで、風呂桶の中でこするので、湯はひどく汚いものであった。 0 0 隠岐島の民俗 0 54 21 風呂 ムクゲの葉を手拭に包んでも洗ったが、これは泡がよく立った。洗髪にはメカブを使った(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 54 28 イ、紡績 「麻」春山に蒔いたのを、盆前に刈って来て、日に干して、葉をからからにして揉んで落し、麻の軸が黄色になったら、川や灘の潮に、2晩くらいつけておくと、皮が柔らかくなるので、引き上げて皮をはぐ。外の大クドに大釜をかけ、湯に灰を加えたところに苧を入れ、 0 0 隠岐島の民俗 0 54 28 その上に灰をふって再び苧を入れる、という風に重ねていく。灰は入れ過ぎると、苧が溶けてしまうので量に注意する。煮立ててから流れ川へ持って行ってさらし、それからコキ(細い竹管で作る)でこき、再びさらしたものを乾燥させて保存する。苧で牛をつなぐ縄なども作ったが 0 0 隠岐島の民俗 0 54 28 、こまい糸にして布に織った。 0 0 隠岐島の民俗 0 55 1 苧を口でくわえて績み、手に巻いていく。これを糸車の枠に移して綟る。これを郡の紺屋に出して藍に染めて仕事着に仕立てた。染め代は40年くらい前で、1貫目につき6銭という風に払った(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 55 4 0才くらいの娘が2人ずつ選ばれて受講した(豊田)「のべよしのまき、回れよ車、溜るつめの木楽しみな」という唄があり、綿をボ−セキにするときに唄う(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 55 4 「木綿」 玉綿を買い、これを手のひらで揉んで細くし、これに綟りをかけて糸にした。ダルマといって、ザグリは身の添で回すが、枠がソラ(上のほう)にあるという紡車を、明治44〜45年から使い始めたが、それに先立ち、西郷の方で講習会があり、崎と豊田と島前から、2 0 0 隠岐島の民俗 0 55 10 「絹」 蚕の種は浦郷の種屋に注文して買った。蚕篭に入れていた種を、筵の上に上を敷いて飼う。普通20枚くらいは飼った。春夏秋冬に飼い、繭のまま浦郷へ出した。出荷するさい、選別して、出来のよくない繭は家で使った。七輪に平鍋をかけて、湯で繭を煮て、黍の穂や卯木 0 0 隠岐島の民俗 0 55 10 の葉で口をたててザクリに取っていく。これをツムギの車を回して綟りをかける(三度)。金持ちは使用人を使って蚕を飼い、スガ糸を織って、ちょくちょく着ていたが、他の者はスガ糸の着物は一生に一度着るかどうかという程度であった(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 55 29 衣服 「柄」 昔は柄といえば縞ばかりで、フタハガイ、三ハガイといって2色を交互にした縞や、3色繰り返しの縞、ミトメ縞といって、黒を真中に、左右を違う色にした縞柄などがあった。葬式にも、嫁入りにも縞の着物を着た(薄毛)大正初めのシズカ織りという織り柄や、イチクラ 0 0 隠岐島の民俗 0 55 29 織りといって、糸が立体的に重なって、こまい絣の織り模様のできる織り方も流行した。後者は機の足を8本つけて織らねばならず、面倒で技術を要するものであった(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 56 4 「洗濯」 昔は、ほとんどの着物はすすぐだけで、よごれのひどい所は、布に糠を包み込んで、すり込んで洗ったり棕櫚のたわしをかけて洗った。味噌をたいたときのアメ(汁)で洗濯するとよくおちるといった。綿入れは仕付をして部分洗いをした。戦時中に洗濯板が出はじめるま 0 0 隠岐島の民俗 0 56 4 では、石鹸をつけて、石の上で足で踏んでいた(物井)三度ではこの足踏み式の洗濯法は、大正の初めに、境から覚えてきた者によって始められたという。 0 0 隠岐島の民俗 0 56 14 衣服 衣服俗信 縫物は地下に死人のあったときは避ける。また、亡者の出た2日後は洗濯をしない。亡者のものをこの日に洗うので。毎月2日も忌む。着物の仕立ては着る本人の干支の日.寅の日.月の8日はしない。裁縫も寅、巳、午の日、家族の干支に当る日は忌む。これらをどうし 0 0 隠岐島の民俗 0 56 14 てもしなくてはならぬときは、他所の家でやればよい。以上のことは、家によって厳しく守る家と、さほどでない家とがある(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 69 15 食事 食制 きつい仕事をする頃には、三度の食事の他にコジャといって軽食を取る。朝飯アサハンの前にひと仕事するので、仕事を始める前にチャノコをとり、朝飯と昼飯チュウハンの間に朝コジャ、昼飯と夕飯の間に晩こじゃと3回食べる。このほか仕事が夜遅くまで 0 0 隠岐島の民俗 0 69 18 食事 及ぶときはヤセク(夜食)を食べる。下記は昭和の初め頃の某家の献立である。(崎)「チャノコ」イモ、コジョウユ「朝飯」麦めし、大根などの野菜の入ったおつゆ(寒いときだけ)大根漬、コジョウユ。「アサコジャ」イモ、「昼飯」麦めし、コウコ、コジョウユ、野菜の煮しめ 0 0 隠岐島の民俗 0 69 24 食事 「バンコジャ」イモ、「夕飯」麦めし、(麦の粥)、野 菜の煮たもの(時おり魚の煮たもの)、コジョウユ。「ヤセク」イモ、(時折ヤキモチなど)。外で仕事をしているときは、太陽を見てその位置によって時間を判断した。また、家にあっては、家の中より見て、 0 0 隠岐島の民俗 0 69 28 食事 日が雨だれの所まで来たら昼とした。鶏の泣き声も参考にした。バンコジャは腹加減で決めた(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 69 29 水道・井戸 食料(水) 水道を引くまでは、飲料水は井戸から得た。井戸は各戸にあるわけではなく、地下に6ヶ所あるのみであったので、600mほど離れた所まで汲みに行ったり、大きなダンナさんの所へもらいに行った。菜洗いなどは海水を使った(崎)地下30軒余りの所に井戸が七つ 0 0 隠岐島の民俗 0 69 29 水・井戸 あって、共同のものであったので、近い所へ汲み歩いた。バケツに紐をつけ、竹棒を結わえつけたもので水を汲み、タゴ(水桶)2杯を満たして、このタゴをタガのバイの前と後ろにつけて肩に担いで運んだ。流し台の横の所にバンドウ(かめ)が、置いてあって、2往復するとちょ 0 0 隠岐島の民俗 0 69 29 井戸 うど一杯になった。かなりの労働なのでおもに嫁の仕事とされていた。朝のうちに汲み入れる。井戸の掃除は1年に1回、七日盆の朝のうちに、若い男が、中に入って行った。何の神様ということなく、塩と米を供えた(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 70 9 水田 穀類「米」 米はわずかしか作らず、しかも一部落にある田圃全部が某家1戸の所有田であったという所もあり、そのようなところでは、小作をするか、あるいは消費する米すべてを購入する必要があった。かつては半農半漁(現在では2農8漁)といわれた豊田でも、半年分は米が 0 0 隠岐島の民俗 0 70 9 食事 、あったが、あとは安来米を購入したという。従って、大ダンナと呼ばれるほどの家は別として、ほとんどの家が米皆無の麦めし、やや米に恵まれた家で、米1割入りの麦めしといった日常の食生活で、いわば米はハレ用の食料であった。 0 0 隠岐島の民俗 0 70 16 麦 「麦」 麦はたくさん作った。大麦と小麦とがあり、前者は麦めしに、後者は粉にしたり、麹に作ってエンソに仕立てるのに使う。他に小量ではあるが餅麦がある。これは外観は紫色で粉は白色。ひいてオロシでふるって、こねてゆがくと、餅のように粘りのある団子ができた(三度 0 0 隠岐島の民俗 0 70 16 麦 )。大麦は収穫してから、まずカラ竿で叩いて、オロシでおろしたものを、唐臼で搗く。3回搗かねばならぬなど、かなりの力仕事なので、おもに嫁が搗き、すわっていてイレボウでかき混ぜるのは年寄りの役であった(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 70 25 食事・イモ 栽培野菜「甘薯」 島で単にイモといえば、甘薯のことで、麦作の前にイモを作る。以前はどこの家でもたくさん作って一年中食べた。収穫後は生のまま貯蔵するほか、イモカンピョウに加工してたくわえた。生のイモを収納するイモグラは、昔はイロリの近くの床下に、スクモ(籾 0 0 隠岐島の民俗 0 70 25 食事・イモ 殻)を敷いて、そこに置く方法をとったが、その後、戸外に横穴(入口は40〜50cmくらいの角形にし、奥は広く掘る)を作り、中に藁を敷き、イモを置いてから籾殻でおおう。イモグラはすべて個人持ちであった(全域)イモカンピョウはイモカンペイとも、単にカンピョウと 0 0 隠岐島の民俗 0 70 25 イモ もいう。洗ってから薄い輪切りに切って、その一枚一枚をブリキで作った穴アカシで穴をあけ、紐を通して3〜4日干す。ゆでてから以上のようにすると、とりわけ甘味がでる(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 71 11 ノリ 魚介類「海藻」 昔は海苔は自由にとってよかった。今はスを立てるのでおのずととってよい場所が決ってくる。海苔はまずソウタテ(スを仕掛ける)をしておき、そこに付く海苔を、コサゲといって、海苔をこそげ取る道具で掻き取る。これを家に持ってきて、細かく切って海水で 0 0 隠岐島の民俗 0 71 11 ノリ 洗い、海苔ブネに水を張って、型に海苔簀を付けたものに海苔を薄く広げてつけ、干す。以前は今の市販のものよりは大きかった。これを10枚単位位にしてオヤカタに上げたりした(物井)別に玉海苔も作るが、これは塩っぱい。採取した海苔を丸めてから平たくし、真中に藁を通 0 0 隠岐島の民俗 0 71 11 ノリ して軒下に下に下げて干し、使うときは水に入れて柔らかくする。正月の雑煮には欠かせぬものとされている(全域) 0 0 隠岐島の民俗 0 71 29 食事・肉 肉 昔はなんの肉でも、肉のことをウシといった。牛が針をのんだり、崖から墜死したりしたのは、肉が新しくてよいといった。鶏や鴨もスキヤキにして食べた(崎、豊田) 0 0 隠岐島の民俗 0 71 32 食事 主食「米のめし」 米をわずかしか消費しなかった頃は、麦、イモをもっぱら常食していて、米を食べるのは正月、3、5、9の節句、二十三夜、大山さん、氏神祭のときぐらいであった。(仁夫)。米を病人に食べさせると、薬になるともいわれた(宇賀)いったいにイモで腹の下 0 0 隠岐島の民俗 0 71 32 食事 ごしらえをして、麦で押えるという主食の食べ方をしたのだが、村で唯一のダンナと呼ばれる家は、そのような時代でも全部米の飯であった(崎)。また、船に乗ったときは、3食とも米が多く入った御飯を食べた。仕事がえらいので、そうしないと力がでないという(多沢) 0 0 隠岐島の民俗 0 72 8 食事・麦 麦めし 大麦を一ぺん火にくぐらせて、ソウケに打ちあけて汁をとり、新しく再び水を入れて、1升の麦に米2合くらいを入れて煮る。ソウケに取った汁は、もったいないので畑仕事のときかぶる手拭いやユカタの糊に利用する(物井)。家によっては麦だけの家もあり、さらに麦だ 0 0 隠岐島の民俗 0 72 8 食事 けではもったいないといって稗を混ぜる家もあった(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 72 13 食事 粥 ふだん食べる粥は、麦めしの水分を多くしたていの麦の粥もあったが、たいていは他になにか混ぜ入れて作った。小麦の団子や蕎麦を切って入れたり(崎)、シイラをコゴメといって、これの粉の団子も入れた(物井)。イリコを水に入れて、煮立ったらイモや和布を入れて、お 0 0 隠岐島の民俗 0 72 13 食事 粥にしても食べた(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 72 18 食事 混ぜ飯 米を多く食べるようになってからも、いろいろのものを加えてたいた。自生するコゴネをとってきてたき込んだり、和布を刻んで、御飯の蒸し上がる前に入れ、塩を振ってからむらして掻き混ぜた、和布御飯もよく作った(豊田)。加える具グがよいものになると、御馳走と 0 0 隠岐島の民俗 0 72 18 しての混ぜ御飯となり、来客の折やモノビにセンタ、サザエ、鮑などを熱湯をかけてはがし、米と混ぜて炊き上げたり、人参、大根、野焼き、椎茸、昆布などを細かく刻んで、だし汁、醤油とともに入れてたくものもある(豊田、宇賀)加える具は他に干し大根、揚げ、カマボコなど 0 0 隠岐島の民俗 0 72 18 任意に入れる。 0 0 隠岐島の民俗 0 72 26 食事 「イモ」 丸のまま洗って、羽釜にコザキや板に穴をあけたものを伏せて、その上に甑を載せ、この中に入れて蒸すか、五升釜に水とイモを入れてゆでるかして食べる(全域)カンペイ団子も作る。ナマのイモを春のきつい光で干して、唐臼で粉にし、水でこねて沸騰した湯に投じて 0 0 隠岐島の民俗 0 72 26 食事 、引き上げたものを黄粉をまぶして食べる(物井)手間がかかるのでたまにしか作らなかったが、シェ−団子もあった。ブリキ板にプスプスと穴をあけた、大きなおろしようのものを自家製で用意し、これでイモをすって、水で洗い上げ、でん粉をこして取り、かわかして粉にしたも 0 0 隠岐島の民俗 0 72 26 食事 のを、蒸したイモと練り混ぜ、団子にしてウマガタリの葉を両面につけて蒸して食べる(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 73 4 食事 「蕎麦」 メイタとメン棒を作っておき、平生もよく打って食べた。ネギや胡麻、海苔などをかけて、ダシ汁で食べる。(崎)蕎麦粉を練ってのし、切って塩味で煮たのをニゴミといって、小麦粉でも作った。大根を千切りにして醤油味の汁にして、蕎麦を切って入れたものをデエコ 0 0 隠岐島の民俗 0 73 4 食事 、粟で作ったのが一番よいという(多沢)。「赤児の捕食」米の粉をいって、篩でふるって、沸騰した湯を入れて、砂糖で味付けしてさましたものを与えた(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 73 4 食事 ソバといった。蕎麦粉を熱湯で練った蕎麦のネリコもよく作った。(仁夫)。ネリコを形つくって、中に黒砂糖をアンに入れて、アブリコで焼くヤキモチは、夜食用にした(物井)。「焼餅」は明治、大正の頃から戦前まではよく焼餅を作ったが、粟、稗、麦、などで作るもののうち 0 0 隠岐島の民俗 0 73 13 食事 「携帯食」 山などに行くときには、コウリやミツに麦飯を入れて、味噌漬やコジョウユを添えて携帯した(仁夫)。ヤキメシといって、握り飯にコジョウユをつけて焼き、サンショウの葉や和布の芯をつけたものはおいしい携帯食として好まれた(豊田)。麦飯をツクネ(ムスビ) 0 0 隠岐島の民俗 0 73 13 食事 にして、手拭の端に包んで行くこともあった(薄毛)。学校の弁当には、親の使っている手拭に蒸したイモを入れて行ったり、昭和の時代に入って、米をいくらか多く食べるようになると、麦と混炊する米の、たき上がりを混ぜないで、米のところをすくって持って行った(薄毛、豊 0 0 隠岐島の民俗 0 73 13 田) 0 0 島外 隠岐島の民俗 0 73 21 食事 副食「汁」 味噌汁は寒いときのほかは、ふだんあんまり作らなかった。味噌汁はイリコを煮出した汁に、汁味噌をといて入れ、海藻や野菜をその時々に応じて入れる。12月頃に長くなったソゾを採って汁の実にする。火の止めぎわに入れて食べるが、おいしいので食べすぎぬよう 0 0 隠岐島の民俗 0 73 21 食事 にしないと、油が多くて頭が痛くなるという。保存があまりきかず、2日ともたない。水に浮かして置かぬとすぐ焼けてしまう(物井)ゴジルもちょっと御馳走を食べようか、というときに作るが、手間がかかるのであまり作らない。味噌汁の中に小麦粉を練ってちぎって入れた汁団 0 0 隠岐島の民俗 0 73 21 食事 子も、寒いときに捕食としてよく作った。山芋をカガツですって、ダシでのばすトロロもたまに作った。和布蕪のトロロもあって、これはかぶを細かく包丁で刻んで湯をかけ、醤油で味をつけて食べる。干したメカブを叩いても作る(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 74 16 食事 おかず「おひたし」 菜、野性の芹をゆでて醤油をつけて食べたり、イヌビユをヒの葉といって、お盆の仏前に供えるものとしていたし、平生もゆでておひたしに食べたが、最近は食べなくなった。(仁夫)なお、和布、岩海苔、カジメ、サザエ、ニナなどをたいて抜いたものの酢味 0 0 隠岐島の民俗 0 74 16 噌あえや、茗荷の茎を刻んで酢味噌であえ、シイラなどの魚と混ぜあえたものなどを作る(薄毛)「たきもの」野菜をイリコのだしでたき、味噌で味付けしたものは昔も今も変らず作る。例えば大根と昆布を煮たり、荒目の干したものを水に戻してたき、水に煮だして渋味を取り、刻 0 0 隠岐島の民俗 0 74 16 んで油でいためてからたく。夏には南瓜もたいた(物井)ハバといって、海苔のようにオカに生えているのを取って、ダシを入れてたいたり、焼もする(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 75 20 調味料 納屋のヨコセのエンソ(塩気のあるもの)小屋を作って、味噌、醤油、漬物などを貯蔵しておく(崎)「味噌」味噌にはなめ味噌と汁味噌とがあり、後者は辛味噌ともいう。汁味噌は前は三年味噌がおいしいといったが、この頃は白味噌がよいといって、半年ごとに作る家が 0 0 隠岐島の民俗 0 75 20 多くなった。麹も昔は麦だけであったが、今は米のみを使う。汁味噌はまず麦でハナ(麹)を作る一方、大豆をかしてたく。このとき煮汁が多い目になるようにし、豆を搗くときこの汁を差していく。ボロボロの味噌にならぬように。麹とたいた大豆と塩とを合わせて唐臼で搗く。こ 0 0 隠岐島の民俗 0 75 20 れを大きなバンドに入れて貯蔵する。バンドには1斗、3斗、4斗と各種あった。湯に味噌をとかして牛にも与えるので、大量必要であったため、4斗バンドを3本くらい作った(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 75 33 醤油 醤油を作るには、まずハナ(麹)をねかす。大豆をホ−ロクでいってひき割って、すでにいってあるからさっと蒸し、これを綺麗なむしろに広げて、その上を「雨降り」と呼ぶ木の葉(ネバの木)でおおっておく。ねる時期によい8月初旬ごろであると、一晩もすると真っ青に 0 0 隠岐島の民俗 0 75 33 なるので、ハナ1升に塩5合、水1升の割りに混ぜ合わせて、醤油桶に計って入れておく。翌年の同じ頃に簀を立て、ひしゃくで汲んでたき、ひと煮立ちさせたものを瓶に入れておいて使う。こし糟は灰をまぶして肥料にし、麦蒔きの下に敷く(薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 76 5 酢 大麦でハナを作り、ハナ3升に水3升、ハナと同種の麦5合とをハンドに入れてねかし、暑いときには1週間、他のときには2週間もすれば酢になるので、晒でしぼって容器にとって使う(崎)。橙を切って晒布に包んで手でしぼって作ったり(物井)、酢酸を買っても使った( 0 0 隠岐島の民俗 0 76 5 薄毛) 0 0 隠岐島の民俗 0 76 9 ダシ 鰹以外の魚を使っていても、ダシ用に加工するのをカツオにするという(崎)アゴ、鰺、鰯をさっとゆがいて、天日に当てて干したものをイリコといい、ダシに使う(全域)。 0 0 隠岐島の民俗 0 76 18 食事 ハレの食物「コワメシ」(赤飯) モノビにたくという。三度では氏神さんの祭りには、その年に生まれた子のいる家で、麦の甘酒と赤飯をたいて近隣や親戚に配る。他に盆、節句、トシイワイなどにたく。 0 0 隠岐島の民俗 0 76 22 「鮓」 押し鮓、鮓めしを型で抜き、モロブタに並べて、一つ一つの上に卵焼き、デンブ、ショウガなどを載せて飾る。昔は春菊の葉も載せた(仁夫、物井)「巻き鮓」芯に椎茸、卵焼き、デンブなどを入れて海苔で巻く。イカで巻くこともある(崎)「バラズシ」モロブタよりこま 0 0 隠岐島の民俗 0 76 22 い桶に、野菜や貝などを煮たものを混ぜた鮓飯を入れ、イサキ、鯵などの魚を三枚におろして酢に漬けたものを上に張った(豊田) 0 0 隠岐島の民俗 0 76 27 食事 「粥」 ふだんの麦の粥などと違って、ハレの機会には上等の(タダ米の混合率の高い)粥を御馳走の一つとして食べた。三度ではシモツキ粥といって、米に小豆を入れた粥に蕎麦を切って入れてニボミを作り、霜月の家の大将(戸主)の干支の日に、大きな鉢やハンボウに入れて親 0 0 隠岐島の民俗 0 76 27 食事 戚に配る。また、正月と5月16日には、トキガユといって、タダ米ばかりの粥を作って仏様に上げ、人々も食べる(仁夫、崎)。仁夫では男女が寄って粥を煮て会食した。亥の子の日にダイコ粥といって、大根を細かく切って入れた粥を作り、餅を入れて食べた(多沢) 0 0 隠岐島の民俗 0 77 0 「餅」 正月をはじめ、3月、9月、氏神祭、田植のとき、42才、61才、88才、のトシイワイのときなどに餅を搗く。ボタモチは刈り上げのときつくる(物井)。他に祝儀、不祝儀の機会にも餅を搗く。これらのうち、正月の準備のため、暮れに一番大量に搗く。糯米ばかりの 0 0 隠岐島の民俗 0 77 0 餅のほか、各種の餅を、2〜3斗は搗く。イレテと搗き手の2人で搗くが、米を蒸す者、餅を形づくる者など人手を要するので、親戚や近隣で仲間で搗くこともある(物井)。糯米にタダ米(粳米)を混ぜて搗くと、タダ米が粒のまざった餅ができ、これをアラカネ餅という。フキモ 0 0 隠岐島の民俗 0 77 0 チは糯米、粳米半々ずつを粉にしてから蒸して搗くので、リキがない。 0 0 隠岐島の民俗 0 77 10 大豆をひき割って混ぜるとこうばしいといった。また、大豆を粉にして、蒸すとき入れると柔らかな餅ができるという。ズイキ芋も搗き混ぜると柔らかくなってよいといった。甘味がでてよいといってイモも入れる。黍はひいて団子にもするが、臼で搗きもする。粟はモチアワイを使 0 0 隠岐島の民俗 0 77 10 う。バクモチといって、小麦粉、糯米の粉、蓮を混ぜて搗く餅もあり、これには蕎麦粉を入れることもある。これらの餅を全部で1俵くらい搗くとして、そのうち米のものは2斗、粟、稗、黍、バクモチの類のものが2斗の割りくらいに搗いた。正月の餅はイリコでダシを取り、餅を 0 0 隠岐島の民俗 0 77 10 入れた椀に注ぎ、上から丸海苔をかける(全域)。餅を小豆で煮たものをニナガシという(仁夫)。3月3日の節句には、米、粟、蓮を入れて搗き、のし餅にしてから四すみを切ってシノギ(菱形)に切る。これを屋内の神々や仏に供え、また3枚をオヤモト(嫁の実家)の神に供え 0 0 隠岐島の民俗 0 77 10 る(三度)。 0 0 隠岐島の民俗 0 77 21 食事 「団子およびマキ」 小麦を石臼でひいて、粉おろし(篩)でおろした(ふるった)粉で作る小麦団子は、日常補食として作るが、節句や盆などに作る団子類は米の粉も加えて作る。5月5日の節句にはマキを作る。糯米とタダ米を混ぜて粉にして、水でこねて団子にし、カタリの葉 0 0 隠岐島の民俗 0 77 21 に包んでから蒸す。葉の色が変色したら蒸れたと判断する。5月の節句の場合はオマキも萱の葉を何枚か合わせて包み、藺でぐるぐる巻いた萱マキにする(物井)。あるいはカタリの葉1枚で巻いてから、萱の葉2枚で包む(三度)。餡を入れるものも入れぬものもある。田植や盆に 0 0 隠岐島の民俗 0 77 21 食事 はカタリの葉2枚を団子の両面につけたオマキにする(物井)ホオカムリとよぶ(多沢)。盆にはネジリ団子も作った。昔は小麦粉で、現在は糯米4にタダ米6の割合の粉をコネバチに水を差してこね、ネジリの形にして鍋でゆでて、とり出して黄粉をつけて食す(物井)。20年く 0 0 隠岐島の民俗 0 77 21 らい前までは、モチ麦の粉でもマキを作った。萱に包んで5個、7個ぐらいづつにたばねてたく(仁 0 0 隠岐島の民俗 0 77 33 食事 「祝儀、不祝儀の食物」 地下に祝儀や不祝儀が生じると、地下の女達が集まって膳のしたくをする。普通は正月に一度使うくらいのカドの大クドも、このときは使って、豆腐を作ったり、餅搗きの用意をしたりする。豆腐はたくさん作って、袋に入れて井戸に吊しておく(薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 77 33 「本膳」これは高膳で、御祝儀や氏神講のときなどに用意される献立は、次のとおりである。膳の右手前はオツケ椀で、豆腐、ネギの入った味噌汁に上から岩海苔をかける。左手前は御飯を入れた椀、2合半くらいの量を高盛りにする。真ん中はツボでゴボウ、人参、カンピョウ、豆 0 0 隠岐島の民俗 0 77 33 腐、センタなどを采の目に切り、油でいためてから醤油で味付けをし、海苔や胡麻をふりかける。右奥はムコウツケ、漬物やナマスを盛る。左奥はフィラ(ヒラ−平皿)、ワラビ、大根、人参、ゴボウ、豆腐、コンニャク、昆布を大きく切って煮しめて、器に盛つけるときは、大きい 0 0 隠岐島の民俗 0 77 33 長方形の豆腐を上からおおうように載せる。 0 0 隠岐島の民俗 0 78 9 煮物の具の品数が多いほど豪華とみられ、また奇数になるようにした(全域)。膳のフィラには手をつけずに、添えてある竹皮に包んで各自持ち帰ることになっていた。現在はフィラには魚や果実を型どった砂糖や菓子を盛るので、紙に包んで持ち帰る(全域)。本膳が出る前に、餅 0 0 隠岐島の民俗 0 78 9 食事 入りの吸物、刺身、海の肴の盛り合わせがでるので、取り皿に取っては食べる。60年前に某女が嫁に入ったときは、行ったヨ−サに御飯、ニコミ、汁、ナマスが出て、翌朝は汁とコウコと残り御飯、昼飯もありあわせを食べ、夕飯にツボ、フラ、オツユ、酢のもの、刺身が出て、豆 0 0 隠岐島の民俗 0 78 9 腐を油で揚げて、その下に昆布を二つ盛り込んだものが出た(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 79 11 嗜好品「酒」 米の酒も少しは作ったが、米の少ないところなので、失敗を恐れてあまり作らなかった。米の酒はまず御飯を蒸し、買った麹と混ぜて、こまい壷に入れて1週間もすると沸いてくるので、その中へ蒸した米をさまして混ぜ、米と同量の割合の水を混ぜ、蓋をしてさらに 0 0 隠岐島の民俗 0 79 11 1週間たったらふたたび沸く。これを3回繰り返す。1回ではイジ(辛味)が出ない。そのうち上のほうが澄んでくるので、竹の輪の簀を入れて汲み出す(物井)ドブ酒は戦前は作ったが、戦後このかた作らなかった(多沢) 0 0 隠岐島の民俗 0 79 19 「甘酒(アマガユ)」 現在でも、正月に作る。正月にはヤク落しといって、家族に42、61才の者がいると、皆が祝って来るので、このときは2斗ぐらい作ってふるまう(薄毛、三度)。甘酒を作る機会が、ちょうど寒い時期なので、しろうとでは麹がうまくいかないので、麹は 0 0 隠岐島の民俗 0 79 19 麹屋から購入する。餅を柔らかく煮て麹と混ぜてモロブタに入れておくとすぐできるが、糯米、麹半々の割では甘すぎるので、麹と米と1:2くらいにする(豊田) 0 0 隠岐島の民俗 0 79 25 「焼酎」 麦、甘薯、南瓜などで作った。作り方は皆同じである。このうち南瓜の焼酎の作り方を示す。麦のハナ(麹)を作り、南瓜はおかずにする程度の大きさに切ってゆでる。水を多い目に入れ、ゆで汁ごと(ここが肝腎)ハナと混ぜて3日ほど置いておくと沸いてくる。これを 0 0 隠岐島の民俗 0 79 25 こして飲む。こしかすをオリという(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 79 29 「ビール酒、麦酒」 麦酒ともいう。ビール麦(大麦)を唐臼で2〜3度搗いて白くし、洗って蒸してモロブタに入れて、ほやほやするくらいの温度にしておくと、2〜3日から3〜5日くらいで白いもやがつくので、手返しをする。熱が強いと真っ黒になってしまう。これでハナが 0 0 隠岐島の民俗 0 79 29 でき上がり、麦を2升くらい蒸してこのハナと混ぜる。ハナが余分に入ったほうがおいしくできる。バンドにこれらと水を混ぜて入れ、時々かき回しておくと沸いてくる。できのよいのはさらっと澄んでくる。中へ簀を入れてかい出して飲む(豊田、三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 80 0 「茶」 自家製も少々は作ったが、ほとんどは丹後の茶売りが帆船で来るのを待って買った。藤の芽を摘んでお茶を作った人もいた(崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 94 15 4種類の畑を4年で一巡する輪転耕牧法であった。牛馬を放牧したあと麦.豆.などを作る方法である。島後では、ほとんど消滅していた牧畑も、島前では変形しながらも残存している。田畑は山田や段々畑が多いが、野菜を作るコメガキや年々畑もあった。一般的に畑をヤマという 0 0 隠岐島の民俗 0 94 15 隠岐島前の農耕は牧畑が中心であって、田地は少ない。明治から戦前までは地主と小作の関係が強く、田畑を自作している人は少なかった。小作は農業のほか漁業や林業や牧畜などの兼業であった。畑は牧畑が多く、空山アキヤマ.本牧ホンマキ.粟山アワヤマ(または稗山ヒエヤマ).空無山クナヤマの 0 0 隠岐島の民俗 0 94 15 食事 のに対して山は山林という。だからヤマと山林は性格が異なるものであるが、他面、島前の農耕や地勢をよくあらわしている言葉でもある。水田が少なかったので、明治から大正.昭和の戦前までは食料が不足しがちであった。 0 0 隠岐島の民俗 0 94 23 畜産のほか麦や豆や甘薯などを作り、豆を売って経済を補ったりしていた。水田の多い人でも1町くらいで、普通には2〜3反の小農が多かった。水利は部落によって多少の良し悪しがあるが、雨乞いという儀礼が多く残存していることからみても、全般的に水利はよくなかったこと 0 0 隠岐島の民俗 0 94 23 がわかる。明治40年頃から大正、そして昭和の初期にかけては、現金収入としての養蚕が増加したので桑畑がふえたが、粟は明治中期頃までで、大正ごろはいくらか作ったが、昭和に入ると作らなくなり、ついで黍、蕎麦も少なくなった。昭和10年代から桑畑を麦畑に切り替える 0 0 隠岐島の民俗 0 94 23 ようになり、戦時中から麦と甘薯を多く作った。明治以降は馬もかなり飼っていたが、戦時中に軍馬を育てたころがピークで、戦後は牛が中心になった。 0 0 隠岐島の民俗 0 95 0 養蚕は戦後少なくなり、麦は昭和20年代の後半から減りはじめ、10年前の昭和37年ごろから急に減少した。漁業が多くなり、部落によっては2対8くらいの割合で漁業中心となった。30年代から40年代にかけて出稼ぎが増したことと麦を作らなくなったことによって、長く 0 0 隠岐島の民俗 0 95 0 続いた輪転耕牧も4転式から3転式、2転式となり、ついには年中放牧する牧畑が増加した。畑には木が植えられて山林化が目立つようになり、いっぽうでは果樹も植えられた。主なる農産暦は次のとおりである。 0 0 隠岐島の民俗 0 95 8 食事 水田 米を作っていたのは5軒であったが、2年前(昭和45年)の減反によって作る人はいなくなった(多沢)、あるいは稗、粟、麦が主食の中心で、米だけ食べるようになったのは昭和40年ごろからであったから、水田は少なかった(仁夫)といわれるように、島前は水田が少 0 0 隠岐島の民俗 0 95 8 食事 ない。また、だいたいこの部落(宇賀)は昔から田に関心がなかった。この部落の奥は川が三つに分かれているから、ずいぶん深く、水も多いので関心があったら米を沢山作っていたはずだ。米を食べないで、麦、ワカメ、小魚、味噌、醤油を常食としているので長寿なのだ、といっ 0 0 隠岐島の民俗 0 95 8 たように伝統的に米作りは関心が薄い。大正時代から戦時中のころは、山の水の出る所は、どんな所でも米を作るため、ホリタをして山田を作ったが、今では山田はおおかたなくなったという(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 96 2 ヤマダ(山田)..ヤマの水の出るところをホリタをし、田になったところをヤマダという。ヤマダは水があったり、なかったりである(三度) フカダ(深田)..深い田のことをいう(三度) ヒゾエ..日の限られる田をいう(豊田) ナワシロ田..水の入口で日あたりのよ 0 0 隠岐島の民俗 0 96 2 い、土砂の所で、風よけのできる田をえらぶ(豊田) 0 0 隠岐島の民俗 0 96 8 畑 島前では一般に畑をヤマという。田は低いところにあり、畑は高い山腹にあるからヤマというのである。したがって本土でいう山は、島前では山林といい、ヤマ(山)と山林を区別している。またオオタヤマ(大田山)といった場合、畑と山林の両方を含んで使われていることも 0 0 隠岐島の民俗 0 96 8 ある(三度)。さらに田と同じように畑の場合も、ヒアテ(日当)は南向きの山で作物がよくできるし、ヒゾエ(日陰)は北向きの山のことで、作物のできは悪いという(三度)。畑にはコメガキ、ネンネンバタ、牧畑などの種類がある。コメガキ..家の近くの畑をコメガキという 0 0 隠岐島の民俗 0 96 8 (三度)ネンネンバタ..(年々畑)牧畑以外に家や部落の周辺にある畑を年々畑とか、ケイチュウという。ここでは麦、大豆、小豆を年がら年中耕作する(仁夫)。桑を年々畑に作るところもある(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 97 15 肥料 田には肥料を入れなかった時代もあったが(崎、宇受賀)、入れるとしてもわずかで、草(物井、宇受賀)やヤマゴエ(きゅう肥)(物井)が中心であった。また、モバ(藻葉)やアラメ(荒布)の海草類を田植の前に入れることもあった(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 101 16 「牧畑の変化」 牧畑の変化には作物そのものの変化と、輪転方法や期間の変化などがある。まず作物では粟山(三度)とか稗山(崎)という名称があることによって粟や稗が作られたことが知られるし、また、そのような呼び名が消えたところでも粟などが作られていた。しかし、 0 0 隠岐島の民俗 0 101 16 薯が多くなり、戦後は小麦を少々作って味噌を作ったが(物井)、それも昭和28年ごろ(三度)、あるいは36年ごろまでで(仁夫)、今は麦は作らない(宇受賀、崎、三度、仁夫、物井)という。 0 0 隠岐島の民俗 0 101 16 食事 粟や稗は次第に減少し、稗めしを食べたのは明治27〜28年ごろまでで、それから後は牛馬の飼料にしたといわれるように、明治の中ごろ以降は作られなくなった(崎)。明治.大正.昭和の初めごろまでは麦、豆、甘薯、などなんでも作っていたが(三度、崎)、戦時中は麦、甘 0 0 隠岐島の民俗 0 101 24 食事 それは牛馬が少なくなって土地がやせて、作物ができなくなったことや、麦が食用として利用されなくなったこと、あるいは労働力が不足してきたことなどによる(物井)。また、若い者が出稼ぎに出て老齢化したり、麦や豆を作っても経済的に採算がとれないからである(仁夫)。 0 0 隠岐島の民俗 0 101 24 こうして麦や豆を作らなくなった牧畑は、牧によって山林化するところ(宇受賀、崎、物井)と草地として放牧するところ(仁夫、物井)になった。 0 0 隠岐島の民俗 0 110 1 「畜産」 島前の畜産は牧畑とともに古く、中世から近世初頭すでに存在していた。民間伝承としては200年くらい前までで、知夫里島では「現在牛馬は350頭くらい放牧しているが、200年くらい前までは500頭くらいいた。500頭が放牧の限度だそうである」と伝えて 0 0 隠岐島の民俗 0 110 1 賀)。しかし反面では、最も盛んであったのは戦後であるとか(仁夫)、戦後も今も300頭前後であまり変っていない。変っているのは作付けをするかしないかだけであるといった地域もある(三度)。 0 0 隠岐島の民俗 0 110 1 いる。崎では明治40年代に渡辺という豪家があり、馬を30〜40頭、牛を200頭くらい飼っていたという。宇受賀では牛馬の飼養が盛んであったのは大正から昭和10年ごろであり、以来減少したが、戦前までは軍馬の養成ということもあって、たくさん飼われていた。(宇受 0 0 隠岐島の民俗 0 110 9 馬が減少したのは明かで、馬は馬車ひきの人が牧に放つくらいのものであり(物井)、馬は戦時中は牛より2割くらい高く売れたが、戦後は安くなり(牛の6割くらいになる)10年前に飼うのをやめた(三度)といった状況である。昭和40年ごろには肉類の値があがって一時多く 0 0 隠岐島の民俗 0 110 9 なったが、最近は出稼ぎで減りつつあるという(崎)。三度では2〜3年前がいちばん多くて190頭くらいいたという。今は牛が中心で子を産ませて子牛を売るのが目的であり(仁夫)、親牛はかつては役牛であったが、今は肉牛が中心になったという(崎)。家畜には山羊、緬羊 0 0 隠岐島の民俗 0 110 9 、乳牛、鶏、アヒルなどがわずかに飼育されている。これらの家畜は舎飼いもあるが、牛、馬、山羊などは主として放牧である。牛の市は盛んであり、畜産儀礼では、かつては牛荒神の信仰がさかんであった。 0 0 隠岐島の民俗 0 110 29 「飼育場所」 島前においては、牛馬の飼育場所は牧畑である。前項の麦作でふれたように、4年輪転耕牧法のもとでは、空山では、麦の種子を蒔くまで年中放牧(1〜3月は舎飼い)であり、本牧では麦の収穫のあと、大小豆の収穫の終る10月から12月まで放牧する。粟山では 0 0 隠岐島の民俗 0 110 29 5〜6月に放牧し、空無山では10月に放牧する(三度)。これは牧畑により、地域により必ずしも一定していないけれども、3年輪転から2年輪転に変化するにしたがい、放牧期間はさらに長くなり、次第に作物が作られなくなった戦後においては、現在4ヶ所の牧畑が放牧地と採 0 0 隠岐島の民俗 0 110 29 草地に分けられ、4〜5月は3ヶ所に、5月は1ヶ所に、6月〜9月20日までは2ヶ所に、9月20日〜12月初めまでは4ヶ所に放牧していることは前に述べたとおりである。 0 0 隠岐島の民俗 0 111 8 放牧する時は、自分の牛に名札を付けたり、ハサミで牛の胴の毛を名前の文字がわかるようにリったりした。磯部なら「イソ」という仮名文字になるようにハサミで毛を切る。昔は耳を切って部落の印をつけた(仁夫)。物井では12月20日まで放牧し暮れのオオトシまでには牛を連 0 0 隠岐島の民俗 0 111 8 れて帰った。しかし人によっては正月でも牧におく者もいた。最近では年中放牧し、島が雪でおおわれた場合のみ連れて帰る人もある。大雪は3〜5年に1度あるかないかくらいだからである(仁夫)。また牛を多く持っている人は雪が降るまで放牧し、3月には牧に入れる人もある 0 0 隠岐島の民俗 0 111 8 という(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 111 15 「放牧料」 10年前から放牧料として、1年間に600円ずつ農協に納めるようになった。牧畑を持っていない人でも、放牧する人は金を納める(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 111 17 「牛の水飲み場」 水が無い時は、飼い主が谷間まで牛を引いていくが、川のないところでは出水デミズをセメントで作った(物井)。水飲み場はタンクを水の出る所につくる。牛馬は1日に2回くらい飲みに来る。200〜300町歩の牧には13〜14ヶ所くらい作ってある。年々 0 0 隠岐島の民俗 0 111 17 修理する必要があり、1ヶ所で2〜3万円くらいかかることもある(三度)。 0 0 隠岐島の民俗 0 111 21 冬の12月から3月ごろまでは舎飼いする。家で牛を飼うともいう(物井)この間に干し草やごちそうを与えてサカス(発情させる)。そして3〜15才の牛に子牛を産ませる。発情すると目つきがかわり、鳴いたりケンケン(ツノで突くこと)したりするのですぐわかる(仁夫)。 0 0 隠岐島の民俗 0 111 21 飼料の草は昔は耕作の関係もあって、夏ごろからはじめ(三度)、盆すぎから9月20日ごろまでの間に刈りとる(仁夫)。しかし今では年中草刈りするところもある(三度)。牛の頭数にあわせて4カ月分くらいは刈りとり、牛小屋の上につめこむ。飼料は干し草のほか藁、麦、大 0 0 隠岐島の民俗 0 111 21 豆、ヌカ、配合飼料なども与える。1頭あたりの干し草は20ダン(1ダンは6把、1把は10束〜12束くらい)で、今は草刈り機で刈ってトラックで運んで舎に持って帰る(仁夫)。しかし干し草がなくκれば、春の彼岸のころに牧につれて行く(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 112 20 「市」 牛馬の売買は、昔は博労に、今は牛馬市でする。大正時代には個人で博労に売った。売ろうとするとき、博労に頼みに行った。島前博労、島後博労といった(三度)。博労は主として浦郷にいたが(物井)、この博労師が部落を回ってくることもあった(崎)。博労師をして 0 0 隠岐島の民俗 0 112 20 いた中畑常市さん(89才)は、つぎのように話している。牛馬の売買は戦前が盛んであった。主として島前から買って島後に運んで売った。年中買ったが、運搬船に15〜16頭積んだ。昭和15年頃は安かったので、1頭7〜10円くらいだった。15頭くらい積んで行くと、8 0 0 隠岐島の民俗 0 112 20 0〜100円くらいはもうかった。早く売らないと飼料がゥさんで大変だった。島前には30人くらいの博労師がいたが、自分は40〜80才までやった。戦時中はよい値段となり、公定価格であったが子牛は75円くらいで買って、備中高梁あたりにもって行った。 0 0 隠岐島の民俗 0 112 30 300円で買ったのが、1万円をこえる値段にもなった。大博労の買い子となり、西郷や都万目などに分かれて買いに行った。博労が組んで200〜300円の相場をきめて買い、3万円くらいで売ったので大儲けしたこともあった。1頭について100円とアタマビキ100円の計 0 0 隠岐島の民俗 0 112 30 200円の儲けとなった。西郷から船で境に運び、ここから貨物列車に積んで、高梁に持っていったが、高梁が安い時は、尾道あたりまで運ぶこともあったという。郡のシバショ(仁夫)、赤之江(三度)、旧黒木と浦郷(物井)などで市がたった。市は7月や10〜11月(物井) 0 0 隠岐島の民俗 0 112 30 、8月と10月(三度)、年に4〜5回(崎)、4月、7月、10月(仁夫)といったように地域によって異なっているが、浦郷や島後あるいは松江の博労が買った(仁夫)。しかし、今では農協を通じたり(三度、物井)、畜産組合を通じて売買する。 0 0 隠岐島の民俗 0 147 13 問屋 「問屋」 宇賀でも問屋を組合といい、これを担当する人を組長といった。海苔のスの項でも触れたが、正月20日の初会で決め、任期は3年。交替には帳面とゲンノウ(秤)を渡す。組長は海産物ばかりではなく、材木、農産物の荷造りの指導から出荷、売買を担当し、盆と12月 0 0 隠岐島の民俗 0 147 13 の年2回の収益計算では、各戸ごとの勘定をして金を支払う。売上高の二分を口銭として受け取る。そのうちの一分を手数料としてもらい他の一分は部落費として使う。例えば材木を売るとハマコウセン(浜口銭)として二分もらい、一分を部落費、一分を手数料として受け取ったの 0 0 隠岐島の民俗 0 147 13 である。昭和初期、米1俵が5円のときに組長は50円から60円の手当をもらっていたという。この頃、地区の中で組合から受け取る収益のうち、多い人が80円から100円であったといっている。 0 0 隠岐島の民俗 0 157 11 「船大工」 弟子のときは、朝6時に仕事場につき、夕方6時まで働くが、冬などは寒いのと、まだ暗いのとでつらかった。1年目は材木の運搬で親方の下働きをする人夫であった。2年目くらいからは、仕事によってはノコびきをさせてくれる。3〜4年目になると、夜、仕事が終 0 0 隠岐島の民俗 0 157 11 「船大工」 弟子のときは、朝6時に仕事場につき、夕方6時まで働くが、冬などは寒いのと、まだ暗いのとでつらかった。1年目は材木の運搬で親方の下働きをする人夫であった。2年目くらいからは、仕事によってはノコびきをさせてくれる。3〜4年目になると、夜、仕事が終 0 0 隠岐島の民俗 0 157 11 ってからあに弟子に設計図の書き方、見方を習う。6年目になると、カンコがつくれるようになる。この頃になると、木の見方、いわゆる 0 0 隠岐島の民俗 0 157 11 ってからあに弟子に設計図の書き方、見方を習う。6年目になると、カンコがつくれるようになる。この頃になると、木の見方、いわゆる木取りは親方の指示に従うけれども、船つくりに適した木がわかるようになる。第二次大戦前は船の注文があると山へ木を見に行き、曲った木は 0 0 隠岐島の民俗 0 157 11 絶対にだめで、船になりそうな木があると、持主と交渉して買い、自分で元切りをする。板に挽き分けることは木挽きにたのんで、1寸の厚さに挽いた。3カ月くらいは乾燥させてからつくらないと、水がはいるようになる。現在は製材所によい製品があるので、見て買う。 0 0 隠岐島の民俗 0 157 21 長さ21尺、幅1尺5寸の板6枚でカンコ船ができる。板と板とをとめるのには釘を用いるが、その間に漆をはさませる。釘は鍛冶屋(菱浦、別府)でつくらせる。長さ4寸のものを1隻の船に200本くらい打つ。木取りは木の中心をオモ板に、側をシキ板として利用する。特にカ 0 0 隠岐島の民俗 0 157 21 ジキを火で暖めながら曲げるときに、工夫がいる。板と板とをつなぐのがまずいと水がはいるので、鋸も歯の大きいものから小さいものまで、最低5丁は必要で、これを順々に使って板を合わせた。古い船の修理には、マキハダ(桧の皮)を使って水もれを防ぐ。棟梁は船が完成し船 0 0 隠岐島の民俗 0 157 21 おろしの前になると、午前2時頃に船に船玉(船魂、船霊)をいれる。特に目につきにくいところに10cm四方の穴を彫り、化粧した2体の人形をつくり、それに一文銭、五穀をいっしょに入れ、ふたをしてしまう。 0 0 隠岐島の民俗 0 157 29 船玉のある場所は船主と船長、棟梁しか知らない。弟子には教えないが、聞けばやり方などを教えた。船おろしは船を海に浮かべて、中央に帆柱を立て、松、竹を飾り、神酒、餅を供え、棟梁が拝む。後、船を3回湾内でまわす。その後、艫から餅をまく。これが終ると船主、棟梁を 0 0 隠岐島の民俗 0 157 29 船から海に落す。これは船が災難にあわないように先に落しておくのだという。飾りは3日間はそのままにしておく。3日間に恵比寿さまに飾りを供える。当日の大工の祝儀は1人役くらいが相場である。造船始め、船おろし日は吉日を選んできめたようである。大安が一番よい日で 0 0 隠岐島の民俗 0 157 29 、次が先勝。近所で葬儀があった日などはよい日といった。反対によくない日は、三隣亡、近所に婚礼のあったような日で、それは船玉さんが女神であるためだという。 0 0 隠岐島の民俗 0 158 5 ほとんどが仕事場で寝泊まりしてやったが、昭和27年頃から仕事場と住居が別になった。祭は太子講といって、神棚に墨壷と差し金を飾り、仕事を休む。契約はほとんど口契約で済ませていたが、現在は漁協から金を借用することがあるので文書でやる。船主からの支払いは船がで 1952 0 昭和27年 隠岐島の民俗 壬辰 0 158 5 きてからであった。仕事着は上はハッピにねじりはち巻き、下は黒のパッチときまっていた。それにイドハライ(前あて)をつけた。これも第二次大戦前までのことで、現在はしない。 0 0 隠岐島の民俗 0 166 20 「畜力運搬」 山からの木材出しは、牛に小鞍をつけて引かせた。木材の大きさが尺以上になると2頭に増したりして引かせた。畑に肥料を運ぶのに増したりして引かせた。畑に肥料を運ぶのは、牛に荷鞍をつけ、1回に15〜16貫ぐらい運ばせた(多沢)。薪、肥料、稲など全部 0 0 隠岐島の民俗 0 166 20 牛に背負わせた(仁夫、崎、三度)。大正の末頃から、田畑へ行くのに、長さ6尺くらいの木馬(キンマ)をつくり、これに肥料、稲などをのせて引かせ、行き帰りした(宇受賀) 0 0 隠岐島の民俗 0 166 26 は使用していない。昭和30年代になってから三度では使いだした。その他リヤカ−は昭和20年代に、ネコ車は10年くらい前につかいだした。これも鉄製のものであった。自転車は30年くらい前に入ってきたが、道が悪く、浦郷あたりで乗られていた。 0 0 隠岐島の民俗 0 166 26 「車類」 大八車(荷車)は明治の頃にはあったが、あまり利用せず(宇受賀)、大正の末期頃から使うようになってきた。この頃から道が良くなってきた。そこで牛に大八車を引かせた。しかしこれは違反でよく取締りにひっかかって注意された(宇受賀)。仁夫、多沢では大八車 0 0 隠岐島の民俗 0 166 33 「海上運輸」 昔はたいてい手船(持ち船)をもっていたので、隣の部落に行くのにもそれを利用した。それもほとんど漁船で、しかも手こぎであった。したがって、1軒に2〜3隻も持っている家もあった。帆を揚げたのは風にまかせて漁をするときであった。昭和20年後半にな 0 0 隠岐島の民俗 0 166 33 明神に参拝した。6人が乗り組み、櫓を5丁だてでこぎ、1人が交代要員だった。朝5時頃出発して夕方着いた。その間風がでると帆をかける。地方(ジカタ)の恵曇から佐陀川を登り小境に船を泊め、橋の下で休憩した。島後の西郷へは手安舟でよく行った。都万まで4時間、加茂ま 0 0 隠岐島の民俗 0 166 33 で5〜6時間で行った。トモドは美田方面に以前あったが、今はない。 0 0 隠岐島の民俗 0 166 33 食事 ると発動機(軽発、焼玉)をつけだした。三度便は三度にだけはあった。三度から浦郷まで浦郷まで毎日通っていた。明治の末頃までは、よく鬱陵島のほうまで漁に行った。磁石をたよりに、食料は米、野菜を煮て食べた(宇受賀)。昭和の初めに、手安舟で出雲大社、一畑、美保関 0 0 隠岐島の民俗 0 167 9 に出雲の大芦に行った。朝8時に出発し夜の11時に着いた。このときは1人で行った。準備したものは弁当と水2升、船にはメリケン帆をかけた。帆はカタ帆で、目標を多古鼻におき出かけ、帰りは米を買って帰った(多沢)。藻葉を専門に境、安来の方面に運搬する人がいた。沖 0 0 隠岐島の民俗 0 167 9 合い船のあがり(中古)を買い、大々的にやった。また松材を博多まで運搬する専門の人もいた。1年に3交代できれば上々であった。しかし、これも夏の凪のいいときで冬はできなかった。しかし隠岐丸が就航すると、これが運ぶようになった。 0 0 隠岐島の民俗 0 167 9 明治の末から大正の初期にかけて藻葉、モッカイを境方面へ売りに行った。これはレンゲ、綿の肥料として大変にほしがっていた。帰りは、米、麦を買って帰った。トケン(方位計)をたよりに船をこいだ。途中海が荒れ、遭難して、多くの人が死んだ(崎)。カンコ船で昭和23年 0 0 隠岐島の民俗 0 167 18 衣服・雑貨 「交易」 市はなく、店と名のつくものは、浦郷、別府、菱浦にあった。正月とか盆には、そこへ船で買いに行った。他にマッチのように毎日必要なものは、半年分くらい買いだめしておいた。行商人のことを風呂敷商人(フロシキアキンド)といって今も来る。主として蒲団、ゴザ、衣類、 0 0 隠岐島の民俗 0 167 18 金物(小間物)、傘、薬であった。店が出来たのは、第2次大戦後で、それまでは盆、正月の買物は郡に行った(多沢)。店と名のつくものは1軒ほどあるが、これは10年くらい前で、日用品は郡まで行き買いだめをしておく。今は車がはいるようになり、郡から車で売りにくる( 0 0 隠岐島の民俗 0 167 18 薄毛)。店は身体の不具合な人が出していた。主として日用品で、正月が近づくと正月用品を、たとえば年越し下駄を、盆には盆用品、ウドン、ソウメン、ロ−ソク、線香、提灯、その他酒類は島内の町から売りに来た。 0 0 隠岐島の民俗 0 167 27 決算も店と同じだった。嫁入り道具とか大きな買物は境、松江、米子に行った(崎)。店と名のつくものは昭和になってできた。よろず屋1軒しかない。米などは浦郷まで買いに行った(三度)。特にはじめてきた行商人は用心した。だまされてにせ物を買わされたこともあった。第 0 0 隠岐島の民俗 0 167 27 2次大戦中から戦後、よく出雲にスルメイカやイリコを持って行き、米と取り替えてもらった。スルメイカ10kgと米2斗と交換した。 0 0 隠岐島の民俗 0 167 27 衣服・雑貨 衣類は大阪、綿は浜(弓ヶ浜)、ゴザは備後、薬は富山が多かった(仁夫)。明治末頃店が3軒できたが日用品だけで、西ノ島から盆、正月には店が出張してきた(宇受賀)。店はずっと以前からあるし、ほとんどの品物はある。勘定は年末と盆の2回であった。行商人からの買物の 0 0 隠岐島の民俗 0 233 9 「婚姻」 島前は島後に比べて、早くから先進地であったから、中心部においては、本土の文化をいち早く受け入れ、文化の堆積にも厚みが感じられる。しかし一方では、大きく分けて3つの島に分散し、生活条件のきわめてきびしい浦々もあって、経済的にも文化的にも、不均衡が 0 0 隠岐島の民俗 0 233 9 いちじるしい。とくに婚姻様式に関しては、島前と島後では、きわだった対象を示している。島後の場合にも、祝儀を簡略にする抜け祝言はあったが、島前においては、抜け祝言的なもののほうが一般的なので、抜け祝言という言葉さえ、耳にすることが少ない。ヨバイも近年まで、 0 0 隠岐島の民俗 0 233 9 半ば公然と行われていたが、婚姻には、本人の意志を重んじた恋愛が多く、嫁取りは、ほとんど盗み取りと呼ばれる形をとってきた。 0 0 隠岐島の民俗 0 233 17 娘は親にも公然とは知らせず、風呂敷包み1つ持って、まず身柄を聟方に移す。その夜は、式ともいえぬほど簡単な挨拶を交わすだけである。翌日になって初めて、聟方から親戚の者を嫁方に派遣して、嫁にもらいたいと交渉する。このときになって、ようやく嫁方では、娘の行き先 0 0 隠岐島の民俗 0 233 17 、つまり聟が誰であるかを正式に知らされるわけである。この交渉がまとまれば、3日目に改めて嫁はいったん里に帰る。このとき聟方では餅などを用意して嫁方に届け、嫁は聟方に迎えられて三日の祝いと称する祝言をおこなう。露見(ところあらわし)、三日夜(みかよ)の餅な 0 0 隠岐島の民俗 0 233 17 どの古典的習俗が、そのまま生きているといってよい。島前では、この形式が支配的であったが、三日の祝いについては、こまかい部落差がある。また生活条件が好転し、三日の祝い(祝言)のときに、嫁入りの荷物をあれこれ整える者が多くなると、 0 0 隠岐島の民俗 0 233 28 嫁方では突然の縁談だから準備が間に合わない。したがってそのときは、行き初め(足入れ)だけをしておいて、嫁入り荷物がそろうまでは嫁を里に戻し、道具をそろえてから正式の式を挙げる者もでてきた。島前の行き初めは、このような理由で後に始まったものである。祝言のと 0 0 隠岐島の民俗 0 233 28 き、青年などが地蔵、石塔、舟などを担ぎこみ、酒をねだることも広く行われるが、その機会も、はじめ娘が身柄を移したとき(聟方)、三日の祝いの前(嫁方)、三日の祝いのとき(聟方)など区々である。 0 0 隠岐島の民俗 0 234 3 食事 「男女の交際」(交際の機会) 年中行事の折々に、若い男女が集団で遊ぶことがある。多沢では霜月粥のとき、若い男女が泊り宿に集まって飲食する。昔は思う男に酌をして、それが暗黙の意志表示になり、ヨバイに誘ったりした。のちには悪ふざけにもなり、女に無理に酒を飲ま 0 0 隠岐島の民俗 0 234 3 せ、飲むか、脱ぐか、などといって騒いだりした。宇受賀でも霜月か12月のころ、男女の若い者が集る。男は磯物を捕ってきて女に炊事をさせる。2月2日にも集って灸をすえる。崎では2月2日を二日焼きといって、灸をすえる。青年の宿で、それぞれ女の人を頼んで灸をすえて 0 0 隠岐島の民俗 0 234 3 食事 もらう。モグサも自分で作った。このときは正月の鏡餅を残しておおいて持ち寄り、焼いて食べたり酒を飲んだりする。一種の見合いのような雰囲気になる。 0 0 隠岐島の民俗 0 234 12 「よばい」 ヨバイは大正から昭和の初年まであった。部落によっては10年から15年くらい前まで行われていた。昭和初年に浦郷の警察署長がやかましく言って、それから少なくなったというが、巡査もヨバイに行ったという話もある。多くは遊び半分のもので、知ったニョウバ 1926 0 大正15年 隠岐島の民俗 丙寅 0 234 12 (女)の家に行く。子供ができたとかで、結婚に進むものもあったが、子があると嫁の売れ口が悪いというので、子供ができたらおろす者が多かった。気にいった相手なら、親もあまりとがめなかった。昔は電灯も無く、アカシをつけて寝る家はなかったので、夜の11時ごろヨバイ 0 0 隠岐島の民俗 0 234 12 に行った。娘だと思ってオバハンをつかまえ、叱られてとび出したこともある。盆踊りのとき、娘をつかまえて留守の家に引っ張りこんだこともある。 0 0 隠岐島の民俗 0 234 20 船乗りは山口県の萩や長崎県の五島でもヨバイをした。16〜17才から、20才で結婚するまでの間のことで、昼間に娘と話をつけておくことが多いが、音のしないように草履で行く。雨戸をあけるのに音がせぬように、1升びんに水を入れて持って行ったり、シッコ(小便)をか 0 0 隠岐島の民俗 0 234 20 けたりした。「都万の釜谷は女のよばい、男後生楽寝て待ちる」という唄がある。親のない子をヤマメ子という。 0 0 隠岐島の民俗 0 237 26 「離婚」 昔は離婚が多かった。「出てしまった」という(三度)。昔の嫁は、娘の親に相談無く、夜盗んでくるような状態だったので、別れる人が多かった。(仁夫)離婚は多かった。主として親つとめができんときに別れた。持ってきた荷物だけを持って帰る。子供の所属や養育 0 0 隠岐島の民俗 0 237 26 「ソ−カ」 ソ−カ(女郎)には、後家とか未婚の年とった者、宿屋や飲み屋にいた者がなった。地の者が多かったが、他所からも来た。冬は西風ばかりだから半年は船をおいとく。その間のなぐさみである。ソ−カは三味線は弾かぬ。三味を弾くのは盲とかチンバに限る(多沢)。 0 0 隠岐島の民俗 0 237 26 については、話し合いで種々の場合がある。娘は別れてもすぐ再婚できた(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 237 26 ソ−カは九州の博多、小倉、山口県の下関に多くいた。西郷にもいた。 0 0 隠岐島の民俗 0 243 27 出産 まず産の神については、近在または遠方に、安産の祈願を聞き届けて下さる神々が、これとは別に、産のときに寄り集まってくるという神々があり、箒の神、サエの神、タガノバ(水汲みの担い棒)などが立ち会ってくれるという。 0 0 隠岐島の民俗 0 243 30 産婆の前身である功者婆さん(こうしゃばあさん)という言葉は、村内の手慣れた人をいうものであるが、ここは特定の人々の意に固定し、半職業的な人を指さすようになっている。したがって免許のあるなしにかかわらず、助産の技術を持った人を言い、 0 0 隠岐島の民俗 0 244 1 そういう人々が明治末から大正にかけて現れ始めたので、現在の老婆たちが産み盛りの当時が、座り産から寝産に改まる転換期でもあった。後産の処置については、鮑殻や藁苞(かます)などに包んで、土間の入口のところに埋める例が多いが、 0 0 隠岐島の民俗 0 244 4 1週間くらい毎日、埋めた上から熱湯をかける例がある。墓へ埋めるのは新しい処置法と思われるが、山へ捨てるなどは、作法の新旧というよりバラエティ−のようにも考えられる。名付けは三日目のところと七日目のところがある。 0 0 隠岐島の民俗 0 244 7 名つけの膳に小石をそえる例がある。食い初めの膳その他の機会には、小石をそえる例は見つからなかった。産の忌は21日目に明け、21日目の歩き初めで外出できるようになるが、神詣りしてよくなるのは赤子の場合、33日目または32日目の 0 0 隠岐島の民俗 0 244 10 注連上げからである。このとき宮参りをさせる。しかし産婦の忌はもう少し厳重で51日目、61日目、または75日目に宮参りをする。月経の間はベッケまたはベツヤといって、土間の隅に別竃を設けて煮炊きを別にした。神信心する人の家では 0 0 隠岐島の民俗 0 244 13 別棟の小屋を建てており、そういう家では、かなり後まで別火を厳重に守っていた。親方取りは50年くらい前まで盛んに行われていた。男女とも平均には十五歳くらいで親をとるが、女の親方取りは13歳くらいのところもあり、初潮前ともいって時期が早く、 0 0 隠岐島の民俗 0 244 16 男は20歳、25歳などと女よりおそい場合が多い。男の親方とりに限ってカイメンダテと呼ぶ。島後の親方取りは、婚姻と関係する場合があるため「結婚」の項に記述したが、島前の場合は直接に婚姻と関係がないため、「産育」の成人儀礼の項に 0 0 隠岐島の民俗 0 244 19 収めた。厄年と年賀(年祝い)とは一連のものである。厄年の数えかたに関して、島後ほどの部落差はないが、女の19歳以外は、男女共通にしているところが多い。また33、44などの重ね年を厄とするほか、9の倍数に1を加えた数の年令を 0 0 隠岐島の民俗 0 244 22 厄年とする数え方もある。ここでも島後の場合と同様、年令別でなく、部落別に記述した。 0 0 隠岐島の民俗 0 245 14 「腹帯」 5ヶ月ごろに晒布を腹に巻き付けるが、以前は男の褌を腹帯にしよった。(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 245 15 「功者婆」 もとは産婆をコ−シャ、コ−シャババといった。少しは礼をした。(物井)功者婆さんは村にたいてい何人かはいた。陣痛が始まってから呼んできた(宇受賀)。とり上げ婆さんは、代々そういうのを専門でやっている人がいた(薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 245 18 功者婆は境に一人だけいた。こちらには昔はいなかった。主人がとり上げてくれて、実家の母が来て子供を洗ってくれた。(珍崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 245 21 食事 「口養生」 妊娠中は油ものは食べない。産後は青い魚を食べない。麦飯に味噌、煮しめ、白身の魚などを食べる。(多沢)産のあとは油ものを食べさせぬ。魚はイリコ(にぼし)も食わせぬ。味噌漬、わかめの味噌おつゆに飯を食べた。 0 0 隠岐島の民俗 0 245 23 食事 餅ははらわたになる(仁夫)。産後は2週間くらい、メバルを焼いて味噌をつけて食べたり、塩物をひかえたりして口養生をした。産のしたては、血の納まりの薬といって、リョウトウという粒薬に湯をかけ、振り出して飲んだ(宇受賀)。 0 0 隠岐島の民俗 0 245 26 出産 「初子のお産」初子は里で産む(物井、仁夫)。里が近ければ初子は里で産む(三度)。初子だけ親元で産む。里で産むと、婿から産の米といって米を1斗ほど持ってくる(崎)。初子と2人目は里で産み、3人目から婚家で産む(多沢)。 0 0 隠岐島の民俗 0 245 30 食事 「産宝」 お産は家の神さんの近くは避けて、いちばんシモ(下)の方、ヘヤ(納屋)のある家ではヘヤで産んだ(薄毛)。中の間の隅で出産し、そこを下座という。月経のときも、3日間はそこにいる。ニワの隅に石のクドをこしらえ、産婦の食事は別に炊いて食べた(仁夫) 0 0 隠岐島の民俗 0 245 33 食事 産婦は神さんだといって、ニワに石をならべて竃を作り、別に炊いたものを食べた(宇受賀)。男がそばにいると、産が手間がいる(暇がかかる)という(三度) 0 0 隠岐島の民俗 0 246 1 「座り産」 お産のときは、上から太い紐を下げて、それにつかまって産んだ。明治末から大正にかけての時期に、産婆にかかって寝て産むようになった(仁夫)。天井に三角に竿を渡し(部屋の隅を竿との空間が三角)、綱を垂らしてつかまって 0 0 隠岐島の民俗 0 246 4 座り産であった。(物井)。寝間で産する。産するときは綱にすがって産む(宇受賀)。産の綱にすがると力になる(多沢)。 0 0 隠岐島の民俗 0 246 5 「後産の処置」 後産はニワの隅の踏段の下、または大との入口と反対の隅、つまり人のあまり踏まぬところへ埋めた。藁の包に入れ、埋めた上に石をのせ、1週間くらい毎日熱湯をかけよった(物井)。後産は鮑殻に入れてニワの入口の内側、人の 0 0 隠岐島の民俗 0 246 7 踏むところへ埋めた。人に踏まするがよい。今は墓へ埋めている(仁夫)後産は紙に包んでボタ(古着)にくるみ、ニワの、人の出入りするところに埋める。人に踏まれるほうがよい(宇受賀)。後産はツギ(布)にでもくるんで、ニワの上がり段の 0 0 隠岐島の民俗 0 246 10 下(人の踏まぬところ)へ埋める(三度)。後産は紙に包んで、表の戸袋の手前の土間に穴を掘って埋め、土をかけた。功者婆の仕事であった(珍崎)。後産は家の入口の、敷居の内側に穴を掘って埋めた(宇賀)。後産はニワの隅か山の隅などに埋める(多沢)。あと産は自分の屋 0 0 隠岐島の民俗 0 246 10 敷の畑で、あまり人の踏まぬところへ埋める(薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 246 14 後産は山へ持って行って、木の音のところに埋める(崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 246 15 「臍の緒」 臍の緒は嫁に行くとき持って行かせる(物井)。臍の緒はとっておいて、その人が生きるか死ぬかというときに煎じて飲むとよい(薄毛)。臍の緒は薬になるといって、とっとく人もある(宇受賀)。胸の病気の薬になる。男は女の臍の 0 0 隠岐島の民俗 0 246 17 緒、女は男のがよい(仁夫)。臍の緒は、女の子のは男の男の子のは女の、ショウカチの薬になるといって、保存しておき、煎じて飲んだ(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 246 20 「二升袋」 出産の場合には限らないが、穀物などを入れて贈答に使う布袋がある。この袋は正月の縫い初めに作り、はじめは大豆を少し入れてヘヤ(納戸)の奥の神様に供える(宇受賀)。二升袋と言い、正月に福袋といって2つ作る。 0 0 隠岐島の民俗 0 246 22 袋は春作るものである。秋に袋を作るのを秋袋と言い、空き袋にかけて忌む。秋には作らぬものである。またカネ財布といって、正月には財布もたくさん作って子供らに配る(仁夫)。子供が生まれたら、親類の者は米1升を袋に入れ、それにイリボシ 0 0 隠岐島の民俗 0 246 25 食事 (煮干)2〜3尾をそえるか、昆布を結びつくて持って行く。これをサヤシマエといい、33日目までの間に1度は食わせるようにという。子供ができたときの祝いごとや法事のとき、重箱に物を入れて親類に持って行くが、祝いごとのときは 0 0 隠岐島の民俗 0 246 27 盆の上にノシをのせ、ツケソメ(お返し)には、よいことがマメにあるようにと、大豆粒を入れて返す。法事には何も入れずに返す(宇受賀) 0 0 隠岐島の民俗 0 248 26 衣服 「紐落し」 3歳(数え年)の11月15日が紐落しで、子供に衣裳して宮参りさせる。親戚を呼んで祝い、また餅をついて配る(多沢)。3歳の紐落しには餅をついて祝う(仁夫)。3歳の紐落しで帯をしめるようになる(薄毛)。3歳は紐落し。 0 0 隠岐島の民俗 0 248 28 初子のときは餅でもついて祝う(崎)。4つで紐落し宮参りするくらいで、たいした祝いはしない(三度)。紐落しも昔はなかった(宇受賀)。 0 0 隠岐島の民俗 0 248 30 「名替え」 体の弱い子があると、賽の河原の地蔵さんに詣って、名を貰ってつけかえる(多沢)。子供が生まれてもマンが弱い(体が弱い)ときや、今までに生まれた子がすぐに死んだようなときには、神官にナガシラ(名頭)をつとめてもらうことがあった。 0 0 隠岐島の民俗 0 248 32 菱浦に大社教文教会があり、そこの神官に名をつけてもらった(宇賀)。病気したり体の弱いとき、賽の神に詣って名を貰って、〜才、才〜などの名をつける。法華の人は寺で上人さんから名をつけてもらった(崎)。体の弱い子はお大師さんに上げて 0 0 隠岐島の民俗 0 249 1 西郷の東町の地蔵院の申し子にする。大社さんに上げることもあった。(宇受賀)。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 3 「髪形」 子供の髪は、「チョッポリ立てる」といって、4〜5才までは周囲を剃って真中だけ残した。しかしボンダ−ジ(ボンノクダとも言い盆の窪のこと)に力髪といって少し毛を残した(仁夫)。男女とも七つ坊主とか七つぼんさんといって、 0 0 隠岐島の民俗 0 249 5 七才までは坊主頭にしておいた(宇受賀、宇賀)。男の子は7〜8才から丸っぽに剃ったりザンギリをした。女の子は15〜6才で髪を結う(仁夫)。女の子は14〜5才でフタアゲにし、嫁に行くと30才くらいまで桃割れとあまり変わらぬ髪型。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 9 「子守り」 親戚の子を使った。正月から盆まで働いて着物1枚、というふうに与えた(仁夫)。学校を出たころから行った。半年に着物1〜2枚と半幅の帯をもらった(崎)。どの家でも子供を金持ちの家に子守奉公に出した。オナゴと呼ばれて 0 0 隠岐島の民俗 0 249 11 住み込みでお勤めをした。1年または半年の約束で、期限がくるとキルイ(着物)や帯をもらった(薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 13 食事 「月経」 初経の娘に、親はお米を炊いてお祝いをしてやった。月のものがあるときはカミに上がらず、クドを別にして別に食事を作って食べていた(薄毛)。月経のことを、ベツになるという。1週間くらい竃を別にする(多沢)。女が月経のとき 0 0 隠岐島の民俗 0 249 15 1週間くらいは、ベツヤまたはベッケに入るといって、土間の隅ですごした。別竃があり、おひつも鍋も小さいのがあった。村上政寛家では、ミサキさんや愛宕さんを祀って信心深かったので、かなり後まで別棟の別家が残っていた(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 18 ヨコヤ(神主)など神を祀る人はベツヤを建てていて、家族の月経中は3日間こもかせる(崎)。月経中の者は、ニワに石を積んで小さなクドを作り、それでご飯を炊いた。その女は家全体を歩いてはいけないし、とくに神さんの部屋は立ち入るのを 0 0 隠岐島の民俗 0 249 20 食事・風呂 避けなくてはならない。長屋の片隅にベツヤといって3〜4畳の部屋を作り、そこで寝たり食事をしたりした。1週間過ぎると風呂に入り、体に塩を振って清めた。夏分には産みに入って潮垢離をとった(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 23 「親方どり」 親分は18〜9才でとる。結婚前でも後でもよい。男の場合でも女の場合でも、親分には夫婦を頼む。つき合いの濃い人になってもらう。子分の方から親を頼むのが普通である。親分には相談に乗ってもらい、盆暮の挨拶は一生つづける。 0 0 隠岐島の民俗 0 249 25 親分のしごとの手伝いをし、親分が死ぬと棺をかつぐ。1人の親で古分を2〜3人持つ人もあった。今は親分子分関係も少なくなった(物井)。15才ぐらいで親方どりをする。その年令になると、部落中の誰もが親方どりをした。財産があり、 0 0 隠岐島の民俗 0 249 29 親類の多い人のところへ、子のほうから実の親が頼む。なるべく代々おなじ家から親方をとる。親方の家が貧乏すると、次の代から替えることもある。子供が何人もある場合は、あちこちの親方に分散する。親方は何人もの子を持つことがあるが、 0 0 隠岐島の民俗 0 249 31 子は1組の親方だけを持つ。親方から着物その他を貰ったり、親方が財産家なら牛を貰ったりすることもある。親方どりを機会に、名をつけてもらって名替えをしたりした。親方が死ぬと穴掘りを引き受け、葬式や法事にも行く(多沢)。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 1 衣服 親方どりは50年くらい前まで盛んだった。男女とも15才で取るが、男は15才、20才、21才、25才などの機会でもよい。娘は叔伯母にあたる人に親分になってもらう。本人に衣裳させて、親分でない叔伯母や兄弟につきそわれ、米、大豆、餅、酒を持って頼みにいく。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 3 親方どりをせぬ前に結婚して子ができると、神主を親分に頼んだ。親分になると、他人でもヤウチになるので、祝いでも何でも家族同様に呼ばれる。親分が死ぬと、シゴ(湯潅)したり、葬式の手伝いをする。形見をもらう(仁夫)。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 7 男の親方どりをカイメンダテとかカイメン取ったという。男のカイメンダテは25才、女の親方どりは13〜15才。兄弟などが付き添うて、豆と米を袋に入れ、扇子と酒を持って節分の晩に頼みに行く。親方の家では膳につく(崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 10 親方を先の世の親、あるいは仮の親ともいう。娘は13才で親分をとる。月経のない前にすませる。男は15才、17才、20才などの機会で、親方どりをカイメンダテという。兄弟が1人fつきそうて、酒、大豆、米、祝儀扇子を持って頼みに行く。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 12 兵隊のがれのために籍も入れる者があった。親分には濃い親類で財産のある家、また他人でもごく親しい人を頼む。親方は歳暮をくれる。親方のしごとを手伝い、いろいろと相談に乗ってもらう。親方が死ぬと葬式のお伴をする。子が3人あれば3人 0 0 隠岐島の民俗 0 250 15 の親方に分けてやり、兄弟が同じ親方につくことはない(宇受賀)。親方どりは明治の末ごろまで盛んだった。女は14〜5才、男は17〜8才から20才で親方をとった。親方には人がさのいい人(正直でていねいな人)を頼む。兄弟はばらばらに 0 0 隠岐島の民俗 0 250 17 親を取る。死後も、あの世で自分の実の親には会えんでも、親方には会えると言い、実の親子関係よりも、義理の関係のきずなの強さを重んじる気持ちがある(三度)。男女とも15才になると、実の親の兄弟(叔伯父)を頼んで親方親になって 0 0 隠岐島の民俗 0 250 20 もらい、このとき死出の山を越すための帯というのを買ってもらう。この帯は物を背に負うニカの緒にする。この日は本膳を出して祝う。親方親は縁組などにも世話を焼いてくれる(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 250 23 厄年「物井」 厄年は男女とも33才、42才、61才、88才、100才である。男の42才と女の33才を強調することはあるが、42才には女も厄払いをする。33才に生まれた子は助からんといって、産ませぬようにする。それでも厄年のときに生まれた子は、 0 0 隠岐島の民俗 0 250 27 拾ってくれる人をきめておいて捨子をする。42才の厄払いには、正月に豆をいって、年の数ほど半紙に包んで行き、橋を渡るとき落してきた。大きく祝うときは、丸餅9つを重箱に入れて親戚などに配る。またお春祭りといって、部落全体の人が詣って 0 0 隠岐島の民俗 0 250 30 部落の厄払いを受けるが、この機会に厄年の人もお宮でお払いをしてもらい、お札をいただく。このとき祝い返しといって、厄年の者が餅をついて配ったり、セットになったものをお返ししたりしていたが、今は神主さんにお礼をした残りの金で酒を買い、部落の人に 0 0 隠岐島の民俗 0 250 33 振舞う程度である。88才の祝いは87才のときに祝う。親戚を呼び、あるいは餅をついて配る。「八十八何某」という判を作って紙片に捺したお札に、餅を添えて配る。もらった人はそのお札を、米容れに貼った。あるいは亀の形に八十八と書いた印をつくり、 0 0 隠岐島の民俗 0 251 1 墨をつけて紙に捺してお札をつくり、餅にそえて配る。お札をもらった人は、別に保存しないともいう。百祝いは、95才以上になればいつでも祝ってよい。昔は厄年のどの祝いにも餅をつき、紅白の餅を配った。また親戚に集まってもらい、芸者を 0 0 隠岐島の民俗 0 251 4 呼んで騒いだ。 0 0 隠岐島の民俗 0 251 28 「三度」 9の倍数に1を加えた数の年令が厄年である。また男女とも42才、61才、88才、100才も厄年。女の厄年は19才。女の厄年には子を産め、子を産んで災難を払えという。厄年には宮参りをする。88の祝いには、紙に米寿と 0 0 隠岐島の民俗 0 251 30 書いて餅にそえて配る。百祝いには白い着物を着る。ここでは赤い着物を着るとは言わない。 0 0 隠岐島の民俗 0 251 32 「宇賀」 33才、42才は男女とも厄年。カサネドシといって、33、44など同じ数の列ぶ年令もよくない。61才には神詣りをしたり家中で祝い、また部落中から品物やお金をもらったりする。餅をついて部落中に配る。シャモジに鶴亀の絵を 0 0 隠岐島の民俗 0 251 34 かいて飾り、部落の者を呼んで酒を振舞って騒いだものだが、この節は神詣りにもいかなくなった。 0 0 隠岐島の民俗 0 311 9 「比奈麻治比売命神社」 西ノ島町大字宇賀字宇賀、蔵谷を氏子区域とし、字宇賀に鎮座。延喜式内社。旧村社。祭神は比奈麻治比売命。済大明神とも称する。境内に水神、天神の木祠、白龍王神の石碑を祭る。天神社には、赤布に「南無妙法蓮華経 0 0 隠岐島の民俗 0 311 11 願主田畑淳子」と墨書し、竹にくくりつけた幟が供えられている。篭り社を改造して、現在社務所とする。宇賀部落の民家から30町余り離れた海岸より、済の浦という地に鎮座していた。安政2年(1855)に馬込という地に遷し祭ったが(遷座 0 0 隠岐島の民俗 0 311 14 事由未詳)、明治13年に再びもとの済の旧社地に帰った。そして祭りのときなど、参詣に不便をきたすために、また、集落に近い土地に遷座することにした。はじめ、塚谷という地に遷座する予定で敷地整備を進めたが、その工事期間中に人夫の 1880 0 明治13年 隠岐島の民俗 庚辰 0 311 16 事故死者が出たため、昭和3年11月、現鎮座地のビヤという地に鎮祭して、今日に至っている。旧社地の済の浦には、本殿の下に埋められている石があり、上部が地上にあらわれている。そして、昭和45年そこに旧社地を示す石碑を建て、板囲い 1928 1100 昭和3年 隠岐島の民俗 戊辰 0 311 18 をほどこした。この神は六国史にも載り、「日本後紀」の延暦18年(799)5月13日条によってその大意を要約すると、次のごとくである。前遣渤海使内蔵宿祢賀茂麻呂が帰朝の途中、隠岐に漂着し、夜半海上が暗く、船の進路を見失ってしまった。ところがそのとき、 0 0 隠岐島の民俗 0 311 22 遠方に火光を認め、それを頼りに船を進めたところ、無事島浜に着くことができたという。しかし、このあたりは人家がなく、火光が出たのを不思議に思って、あとでよくただしてみると、ここに鎮座する比奈麻治比売命は霊験高い神で、船舶が海上に漂流すると、 0 0 隠岐島の民俗 0 311 25 必ず火光をあげられて船を救い、その恩恵に浴した者は数知れぬということであった。このことを知った賀茂麻呂は、帰朝の後、この社に幣帛を奉るべく朝廷に願い出、許されたのである。蔵ノ谷(くらのたに)という字名は、内蔵宿祢が漂着したのに 0 0 隠岐島の民俗 0 311 27 ちなんでつけられたものであるという。比奈麻治比売命は宇受賀命(海士町宇受賀鎮座)と夫婦神であると伝える。また社伝によると、昔、金色の小蛇が白波の中にあらわれ、字女使鹿(めじか)に上がられた。これは比奈麻治比売命の御使いであるとされ、 0 0 隠岐島の民俗 0 311 30 身の汚れある者が参拝しようとすると、必ず道先々にこの小蛇が出てきて、お参りをさまたげるという。祭日は7月28日である(旧暦使用当時は6月28日。昭和3年の遷座から新暦を使用)。済の浦鎮座のころは、行き来が不便で祭りにはヨコヤと氏子総代 1928 0 昭和3年 隠岐島の民俗 戊辰 0 311 33 神楽 のみが参拝した。海がないでいるときは船で行き、シケのときは山道を伝って参ったのである。昭和3年、現在のビヤの地に遷してからは知夫の神楽師を頼み、お神楽を奉納した。昭和40年ころまでは毎年、宵宮の晩に、宇賀と蔵ノ谷が1年交替で奉納した。 1928 0 昭和3年 隠岐島の民俗 戊辰 0 312 1 神楽 神楽奉納当番の年には、自村の浜に橋を渡して、舞台をつくり、十七座の神楽をあげたのである。例祭祭典終了後、氏子総代、区長、神主がナダヤ(屋号)に寄り、直会を行う。ナダヤをヤドとするよになたのは、昭和3年以後のことで、それ以前は未詳。 0 0 隠岐島の民俗 0 312 4 ただし、昭和44年から神社境内のコモオシャ(篭り社)で直会を行う。氏子たちの一般参拝者には神社で御神酒を戴かせる。ヨコヤは代々宇野氏が勤めていたが、跡とりが大阪へ出てしまったため、海士町豊田の藍田氏が神主を勤めて祭典を行っている。 1969 0 昭和44年 隠岐島の民俗 己酉 0 312 7 氏子総代は宇賀、蔵ノ谷各2名づつ出る。村内の話し合いによって決められ、希望すれば何年でも続けられるが、最近は1〜2年で交替する例が多い。神社費は、年末に経費を各戸割りで徴収する。明治40年に、ジゲの神である天満社、御崎社、八代龍王社 1907 0 明治40年 隠岐島の民俗 丁未 0 312 10 (「白龍王神」と記した石碑)の三社を済の浦の氏神社に合祀し、その後昭和3年氏神社遷座のとき、この三社は旧社地に残しておいたが、昭和45年に現氏神鎮座地の境内に迎えた。 1970 0 昭和45年 隠岐島の民俗 庚戌 0 312 13 「比志利神社」 西ノ島町大字浦郷字珍崎に鎮座。珍崎を氏子区域とし、聖神社とも呼ぶ。この神は漂着神であると伝える。フィドレの浜という所に上がられ、ハヤマの岩屋に仮の宿りをされて後、尾根伝いに歩かれ、珍崎部落の山奥にある椎の木 0 0 隠岐島の民俗 0 312 15 にまずお泊まりになった。そして現在の鎮座地にお降りになったというのである。境内に地主さまの祠(木祠)がある。これは離村した家の地主神を遷したものである。コモオシャ(篭り舎)があり、昭和10年7月24日、篭り舎に仮遷宮をおこなって、 1935 724 昭和10年 隠岐島の民俗 乙亥 0 312 18 本殿を新しく造営、拝殿修復を行う。隠岐国神名帳に載る豊加姫明神を合祀していると伝える。例祭は7月22日で宵宮を21日に行う。春祭りは3月、秋祭はりは11月で、いずれも通常祭典。ジゲウチにヨコヤはなく、由良比売神社宮司の真野氏 0 0 隠岐島の民俗 0 312 20 神楽 が宮司を勤めている。氏子戸主の選挙により定め、任期は3年である。以前は3名であったが、祭典のおりのドウ打ち人数の関係で、昭和45年から4名とした。昭和10年本殿新築の際の御遷宮には、古海の神楽師を頼み神楽を奉納、また氏子 1935 0 昭和10年 隠岐島の民俗 乙亥 0 312 23 たちはニワカを奉納した。大八車に作り物を飾り、若い衆が三味線をひき(鳥追い姿)、踊り子となって(手拭いを姉さんかぶり)、磯節、安来節などを踊って歩く。大正、昭和の御大典にもニワカを出して、近隣の村々まで練り歩く。 0 0 隠岐島の民俗 0 312 25 大正の御大典にはゴダイテングと称し、大きな天狗の作り物を飾り、昭和の御大典には、鯛、鶴亀の作り物や松竹を飾った。この作り物を引き、若い衆が長着姿で踊り歩くのである。 0 0 隠岐島の民俗 0 314 28 「御崎社」 西ノ島町大字宇賀字宇賀。もとヨコヤ(宇野氏)の屋敷近くにあったが、大正末年に氏神比奈麻治比売命神社へ合祀。ジゲ全体の神。 1926 0 大正15年 隠岐島の民俗 丙寅 0 314 30 「天神社」 西ノ島町大字宇賀字宇賀。もと天神屋敷と称する地にあったが、大正末年、氏神社境内に遷し祭る。ジゲ全体の神。多沢にはヨコアナと称する古墳の脇に、大篠津の和田から勧請してきた御崎さんの小祠がある。 1926 0 大正15年 隠岐島の民俗 丙寅 0 314 33 「八大竜王社」 西ノ島町大字宇賀字宇賀。現在、氏神社境内に遷し祭っているが、旧社地は未詳。 0 0 隠岐島の民俗 0 317 6 神楽 「若宮社」 宇賀の若宮社はヤシキ、オモヤ、インキョ、ナカ、カワノエの5軒で祭り、7月28日が祭日。仁夫の若宮社はマイイデ、ナカヤ、ヤドの3軒で祭る。春秋冬の28日が祭日で、太夫さん(神楽師)にお祓いをしてもらう。 0 0 隠岐島の民俗 0 317 8 これらは、同族ではなく、むしろ地縁的に共同で若宮社を祭っている。薄毛には若宮社の小祠が2社あり、それぞれ、オモヤ、ナカセヤが個人的に祭っている。オモヤの若宮社は、屋敷内にあり、氏神社祭礼のとき、麦5升(あるいは1斗)を供え、 0 0 隠岐島の民俗 0 317 11 神楽 お祭りする。神楽師を頼んで、ときには、太夫さんに若宮社の前でも神楽をあげてもらう。ナカセヤの若宮社は、氏神社境内にあり、大正末年に家族の者が病気つづきであったため、病気全快、家内安全を祈願してお祭りしたもの。定まった祭り日はない。 1926 0 大正15年 隠岐島の民俗 丙寅 0 317 24 「サエノカミ」 サエノカミともいう。他村へ行く山道や峠に祭られている。松、杉、の大木があり、その下に木祠や石祠を祭っている。サエノカミは木の神である(珍崎)。サエノカミは耳病を直してくれる神で、底をぬいた椀を供えて、祈願する(宇賀、珍崎、崎) 0 0 隠岐島の民俗 0 317 27 焼火 サエノカミの近くを通ると化け物がでるといわれ、また、峠を越えようとしたら、サエノカミ付近で道を間違え、気がつくと見当違いの所に来ていたといった話もある(珍崎)。焼火参りをする際、途中の山道にあるサエノカミの祠に木の枝や葉(椎、椿など)を必ず供えて通る(珍 0 0 隠岐島の民俗 0 317 27 崎) 0 0 西ノ島 隠岐島の民俗 0 318 16 「芋仏」 芋塚、芋地蔵とも称する。「泰雲院殿」と刻んだ、芋代官井戸平左衛門の石碑である。さつまいもを広めた神といわれ、さつまいもの初物を供える(宇賀、仁夫、豊田、多沢、郡)。 0 0 隠岐島の民俗 0 318 18 「馬頭観音」 西ノ島町大字宇賀の奥にある牧畑には馬頭観音を祭っている。牛の伝染病がはやったときには、坊さんを頼んで馬頭観音を拝んでもらう(物井)。 0 0 隠岐島の民俗 0 318 20 「山神社」 別府から3キロほど山奥、森厚という地に山神社(サンジンサン)があり、耳浦社とも称し、欅の大木のもとに木祠が祭られている。宮守りは古来、別府村の庄屋、オカタという旧家が勤めていたが、オカタ没落後、海神社の宮司が神主を勤め、 0 0 隠岐島の民俗 0 318 22 現在は焼火神社宮司がその任に当っている。3月初巳日(もと、旧2月初午)と10月28日(もと旧暦6月28日)の春秋2回、デヤンナマツリ(出やんな祭)という神事が行われている。夜ひそかに行われる祭で、村人が神事を見ると目がつぶれると 0 0 隠岐島の民俗 0 318 25 恐れられている神事である。まず、区長が村の役員の家をヤドとして幟を立て、その家の床の間に大山祇命の軸を掛け、供えものをして祝詞を奏上する。祭主と従者1名が参与するのみであり、区長卓はヤドとしてオモテを提供するだけで、家の者はいっさい顔を出さない。 0 0 隠岐島の民俗 0 318 28 ヤドの祭典が終ると、従者が外に出て、「出やんなよう」とさけび、村人に注意する。この声を聞くと、村人は戸をかたく閉ざし、いっさい外に出ない。もし、祭主一行が持つ提灯の明りを見ただけでも目がつぶれると恐れられているからである。 0 0 隠岐島の民俗 0 318 32 祭主と従者は、榊の葉を口にくわえ、草履ばきのままオモテのエンより外に出る。これ以後は絶対に口を開いてはならない。祭主は御幣3本を持ち、従者はシメナワ、バケツ、ひしゃく、米、麹を持って、3キロほど山奥の耳浦へ向かう。山神社に着くと、まず拝礼、 0 0 隠岐島の民俗 0 318 34 前の祭にしこんでおいた酒を神前に供する。次に従者が下の小川から水を汲みあげ、山神社前に埋めこんである。唐臼のごときものを洗う。そして、ここに精米2升を入れ、ふたをかぶせ、その上に麹一つかみおき、水を雰のごとくふきかけておく。 0 0 隠岐島の民俗 0 319 2 こうして醸造された神酒は、次回の祭のとき神前に供えるのであるが、その出来具合で漁や田畑の豊凶を占う。次に祝詞を奏し、御幣を供え、拝礼して再び無言のままヤドに帰る。帰ると、オシトギを2個ヤドの床の間に供え、オシトギの吸物を戴く。 0 0 隠岐島の民俗 0 319 5 山神社は非常に恐れられている神であり、社地付近を通る女人は吹き飛ばされるともわれている。また、刃渡りをよくするような偉い行者に頼んでも直らぬ病気も、山神社に祈願すればたちどころに直ると信じられている。 0 0 隠岐島の民俗 0 319 34 「不動堂」 西ノ島町珍崎。行者堂とも称し、不動尊および弘法大師を祭る。お不動さんはあらたかな仏さんで、願い事をすれば必ずかなえてくれるという。重病人がでると親戚の者たちが寄って、全快祈願の数珠繰りをする。またジュウヤには浦郷から坊さんが来て、 0 0 隠岐島の民俗 0 320 2 死んだ人の戒名を記した木札(フィジという)をあげて拝んでくれる。月の28日が不動さんの縁日である。月のさわりの女性は絶対にお堂に近よってはならないとされている。境内には子安弘法大師の石像や、六十六部日本回国記念塔(寛政4年6月のもの。昭和29年に再建) 0 0 隠岐島の民俗 0 320 6 などがある。戦前は行者さんがやってきて、このお堂に篭って祈祷したり、家々を乞食して歩いたものだという。 0 0 隠岐島の民俗 0 322 24 「氏神講」 氏神講、御講、お日待ち講と称して、主としてコグミ単位で氏神の祭を行っている。いわゆる客祭りの形態をとっているのは珍崎のみで、他は各組ごとにお日待ちを行っている。氏神講はすべて、戸主が参加する。 0 0 隠岐島の民俗 0 322 27 宇賀では正月28日に、カミ、ナカ、ヒガシの3組(もとはシモ組があり、4組であった)が各々氏神講を開く。ヤドは家並み順に回り番。ヤドの床の間に「比名麻治比売命」の掛軸を祭り、御神酒、神饌を供える。ヤドの者が各戸から米2合半ずつ集める。 0 0 隠岐島の民俗 0 322 29 隣近所2〜3軒が手伝って、食事の用意をする。一同、床の間を拝礼した後、御神酒を戴き中食をとる。ヤドの受け継ぎには、氏神の掛軸を渡す。珍崎では、正月13日に客祭の形態をとって、氏神講を行っている。 0 0 隠岐島の民俗 0 322 32 コグミは、6組あるが、だいたいコグミを基盤として二つの氏神講の組(ワキタコウジ、ムカイバラコウジと称する)に分かれている。そして、各組ごとに御講を開く。各組がさらに二つに分かれ、毎年交替で働き組と客組とになる。 0 0 隠岐島の民俗 0 323 10 食事 招く組のヤドは、新築の家や慶事のあった家などが勤める。ヤドの床の間に祭壇を設けて御幣を祭り、御飯(ゴクウ)をおはちに山盛りにして供え、御神酒を供える。この御飯は各人が少しずつ戴いて帰り、氏神さまのゴクウとして家族中で食べる。 0 0 隠岐島の民俗 0 323 13 招かれた組の者が上座に座り、ヤドの主人が亭主役を勤める。料理などの賄い方は働き組の主婦が世話をする。料理は高膳で、各組持ちの高膳、椀がある。昔は、床の間にも高膳を供えたという。ヒラには豆腐、ゴボウ、人参、大根、カンピョウ、カマボコ等7品 0 0 隠岐島の民俗 0 323 16 か9品の煮つけ、サラにはブリやハマチの刺身、ツボにはあわび、さざえの煮つけやノリなど、親椀には御飯を高盛りにし、汁椀には豆腐、ネギの味噌汁。まず、冷酒で一献の後、ドッサリ節や伊勢音頭などが出てにぎやかに酒宴をはる。各戸から米2合半ずつ 0 0 隠岐島の民俗 0 323 19 集めて回り、氏神講の賄いとする。 0 0 隠岐島の民俗 0 324 6 「トンド」 宇賀では大正年間まで盛大に行った。正月14日に行う。トクダヤ(屋号)から心柱にする松(高さ3丈くらい)と三方に立てかける竹をもらう。青年(15〜25)が中心になって、大宇賀と小宇賀の壇に立て、各家々の松飾りを集めて、 0 0 隠岐島の民俗 0 324 8 心柱の下に積み上げ。子供たちの書初め、また女の子が色紙で作ったトンド袋などを竹に飾り付ける。神主が拝んだ後、火をつける。青年たちは太鼓をたたいてはやす。書初めやトンド袋が高く上がると、習字、縫いものが上達するといわれ、また、心柱が海の方に 0 0 隠岐島の民俗 0 324 11 食事 倒れると豊漁、陸の方に倒れると豊作であるという。「トンドの炭を祝う」といって女衆の顔に炭をつける。トンドの火で餅を焼いて食べると腹痛をおこさぬし、また、この火にあたれば病気にならないという。(崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 324 28 「一畑講」 雲州平田の一畑薬師を信仰する講。仁夫、崎、珍崎、薄毛にある。目の悪い者は特に信仰する。月の七日が御縁日でジゲ内で講をつくり。晩方、ヤドに集まって講を開く(仁夫、崎、)。ヤド床の間に一畑薬師の掛軸を祭り御灯明をあげて、お題目を唱える。 0 0 隠岐島の民俗 0 324 31 4月に代参に行く事もあった。4月7日が美保神社の祭なので、美保関参りを兼ねて、この時一畑薬師にもお参りする(崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 324 33 「伊勢講」 宇賀、珍崎にあったが、現在は行われていない。昔は「伊勢道二十日」と称し往復二十日もかかったものである(宇賀) 0 0 隠岐島の民俗 0 325 1 「関参り」 美保神社を信仰する講。漁師仲間で講を作り、4月7日の大祭に船をしたてて御参りする。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 3 焼火 「大社講」 これも昔は各村にあった。出雲の人が焼火参りにやってくると、その帰りの船に乗せてもらって、隠岐の人は大社参りをした。これをサカブネと称する。(薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 5 焼火 「焼火講」 ジゲごとに焼火参りの日を定める。12月晦日の夜、海上に三つの霊火があがり、一つは大満寺山、1つは焼火山、1つは枕木山に行く。焼火山にあがった火は境内の大杉にかかり、ついで社前の常夜灯に入る。その火を拝めば大漁であると 0 0 隠岐島の民俗 0 325 9 焼火 信じられ、これを拝むために漁師たちはオオトシの晩、焼火神社に篭り、新年の初詣りをするのである。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 11 「金刀比羅講」 四国の琴平さんへお参りすることもあったが、だいたいは郡の金刀比羅にお参りすることが多い。ジゲ内の有志が集まって講を開く。「本番」はヤドを勤め、「当番」は米集め、金集めなどを行う(仁夫、薄毛)。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 14 「大師講」 子安講とも称し、各村にある。八十八ヶ所の霊場として祭られる子安弘法大師を信仰する。特に、子授け、安全祈願を希望する者は熱心に参加する。3月21日にヤド(回り番)に集まり、ダンゴなどをこしらえ、カネを叩いて念仏を唱える(宇賀) 0 0 隠岐島の民俗 0 325 16 月の21日に女衆がヤドに集まり、弘法大師の絵姿を仏壇に飾って御詠歌をあげる。10軒くらいづつ講をつくる(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 16 月の21日に女衆がヤドに集まり、弘法大師の絵姿を仏壇に飾って御詠歌をあげる。10軒くらいづつ講をつくる(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 325 32 「お日待ち」 珍崎では、秋祭りころ(11月)に区長宅に村人が集まり、床の間に幣束を祭り、お供え餅をあげて神主さんに村内安全を祈願してもらう。仁夫では、正月15日のトンドの後に、各組(氏神講の組)ごとにヤド(回り番)に集まり、 0 0 隠岐島の民俗 0 326 1 床の間に天照皇太神宮の神号を掛け、神主さんに拝んでもらう。現在では、部落全体で幼稚園に集まっている。祈祷の後、高膳(5品)が出て酒宴をはかる。宇受賀では、これをタニヒマチと称し、各組(氏神講の組)ごとに回り番のヤドを定め、 0 0 隠岐島の民俗 0 326 4 神主さんに同じタニに住む家々の厄除け、災難よけの御祈祷をしてもらう。崎では、組単位ではなく個人の家ごとに行う。正月10日から20日の間のよい日を定める。神官が一軒一軒まわって、床の間に向かってお願いをする。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 7 「雨乞い」 ジゲ全体の祈願として雨乞いはどの村でも行われた。村の裏山に登り、火をたいて雨乞いをする。雨乞い床と称する裏山に薪を背負って登り、火をたいて祈る(宇賀)。裏山のカリドコに登り、立ち木を切って火をつける(珍崎)。各戸 0 0 隠岐島の民俗 0 326 9 から1把ずつの麦藁をあつめ、裏山のミズガ峰に晩方登り、麦藁、松葉を焚く(薄毛)。アマガマエ(雨ガ前)と称する山に登り、各戸から1把ずつ集めた麦藁をもやす(仁夫)。ハチミネ山に登り、各戸より2把ずつ供出した薪をもやす。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 12 ガス・焼火 焼火神社の常夜灯の火を戴いて帰り、点火する。提灯かガス灯に火をもらいうけてくるのである(崎)。知夫里では、雨乞いにミナイチ踊りを盛大に行う。郡の一宮神社では8月18日に雨乞い祈祷を行うので、村人はお参りする。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 14 神楽 多沢、仁夫の各村では、この日、ミナイチ踊りを踊る。中ノ島では、神楽師を頼んで、氏神さんに神楽を奉納してもらう。40年ほど前、海士村全体の雨乞いのために、中里の役場前で神楽をあげたことがある。星神島にまつられている星の神は、 0 0 隠岐島の民俗 0 326 17 雨乞いをする神としての信仰が厚く、干天が続くと船を出してお参りする。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 22 焼火 「大漁祈願」 焼火神社に初参りと称して、正月20日過ぎ、初網をおるろす前にお参りする(珍崎、崎)。海上安全、大漁祈願の御祈祷をしてもらい、お札を受ける。漁をする者たちが、希望者を募ってお参りするので、50〜60名ぐらいになる。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 24 焼火 戴いたお札は家の神柵か船に祭っておく。また、特に、オオトシの晩お参りして焼火さんにお篭りする人も多い。不漁が続くときにも魚を供えて焼火さんにお参りする(崎)。旧浦郷村(赤之江、浦郷、三度、珍崎)の八十八ヶ所を3月21日にお参りする(珍崎)。 0 0 隠岐島の民俗 0 326 27 漁の途中で魚がとれなくなったときには、北分の角山にある寺(真言宗)に行き、御祈祷してもらう(崎)。美田に住む日蓮宗の坊さんに、大漁祈願の祈祷をしてもらう(崎)。大漁の時には「氏神さまに供える」と称して、とれた魚を2本、沖で氏神さまの 0 0 隠岐島の民俗 0 326 30 方角に向かって投げ入れる(宇賀)。漁の途中、仏さんを拾うと大漁になるといわれている。 0 0 隠岐島の民俗 0 541 5 迷惑せる由なれば皇国固有の葬祭に基づき常人に便よき略式の書と癸丑以来国事に死せし有志士の葬事を併せ記す。(是を神葬と云ふ。其書は角田氏の葬儀略有志士の葬事と京都霊山及び周防長門の諸団招魂場喪葬式なり)と。而して西郷中町に大社教出張所を設くるに及んで所謂正 0 0 隠岐島誌 0 541 5 義党に属せし人々は大抵之に帰依せり。 0 0 隠岐島誌 0 546 2 十噸以上の運送船のみにても約四十を算し、鮮魚の輸送敏活となり米子、揖屋方面との 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 546 9 右の寄港地の外美保関に寄港す。西郷境間乗船賃左の如し、1等(4円50銭)2等(3円)特別3等(2円)3等(1円50銭) 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 547 15 内各町村に通じ、大正六年より島前島後間の電話開通して一層の便利を得るに至りしも、諸般の事業の発達は隠岐本土間の海底電話の開通を翔望するや切なるものあり遂に昭和六年に至り多年の希望達し同四月より開通し、遠くは東京までも通話し得るに至れり。 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 569 3 カメ=23000貫=2300円。、テングサ、6200貫=2790円。その他、−−=17263円。(製造物)イワシ節、470貫=893円。スルメ、300貫=690円。ワカメ、4900貫=3430円。トビウヲ、3000貫=2700円。 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 569 3 (製造物)ブリ、320貫=416円。ホシノリ、320貫=2640円。シホカラ、3000貫=3600円。その他、−−5379円。計=73406円 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 569 15 生産価格総計=267516円。 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 571 6 イワシ、5000貫=3500円。イリコ、200貫=700円。カマボコ、チクワ、100貫=900円。ホシノリ、180貫=1260円。その他=240円。計=49000円。 1931 0 昭和6年 隠岐島誌 辛未 0 28 8 隠岐牧畑の地理的歴史的環境。隠岐の地理。交通期間のまだ発達していなかった時代には、本土との交通は容易ではなかった。今でも冬期には北西の季節風が烈しくて隠岐汽船も欠航することが多く(昭和26年の欠航日数は101日)、その間は隠岐の各島間の 1951 0 昭和26年 隠岐牧畑の歴史的研究 辛卯 0 28 9 交通は全く途絶え、至近距離をとれば僅か44粁の本土との隔たりが、本島を絶海の孤島たらしめているのである。このことからも、隠岐が本土から隔絶した孤立的辺陬(すう)の位置にあることを知ることができるであろう。地形。このような地質構成をもつ 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 34 10 隠岐の土壌は、一般に火山岩の風化した埴土が多く、特に島前は表土うすく、丘陵の上や山腹には火山岩の岩盤が露出している所もあり、地下水も低い。このような土壌は耕すのに非常な労力を要し、帰水の透通が不良で、有機質に乏しく、肥料分の分解も 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 34 14 よくないので、地味はきわめて瘠薄で、これを耕地として利用するには多量の有機質肥料を施さねばならない。自然地理的諸要因と牧畑。以上に述べたような機の自然的地理的諸要因は、それぞれ単独に、あるいは複合して、牧畑の成立と深い関係を持っている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 40 3 すなわち日本海の荒波をへだてた交通不便な位置にある離島の丘陵地において、粗放的ながらも麦、稗、大小豆等の作物を栽培しようとすれば、地力の薄い重粘な埴土の地力を補充するため、また労力ならびに資本の甚だしい消耗を避けるために、経営の中へ 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 40 5 牛馬を取り入れることが絶対に必要不可欠だったわけで、丘陵地に牧畑が成立したのは、このようなことと深い関係があるのである。そしてこの場合、隠岐が海洋性の気候と対馬暖流の影響によって、気温が高く積雪が少ないことは、隠岐における年間放牧を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 40 7 可能にし、これが、牧畑の成立にとって都合のよい条件となっていたのである。このように見て来ると、牧畑という特殊な土地利用方式が、隠岐島で自然発生的に生まれたとしても、決して不思議ではないのであって、それが成立するために必要な自然的条件は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 40 10 充分存在していたのである。このようにして、隠岐の自然地理的諸条件は、隠岐に牧畑式という農業経営方式を成立せしめる可能性を与えた一大要因であるが、その後引き続き最近まで牧畑を存続させていた一つの大きな原因も、やはりこの自然条件にあるといえよう。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 52 14 隠岐の歴史。古代。それでは、このような産業に支えられていた隠岐の人口はどれ位であったろうか。沢田吾一氏は、その名著「奈良朝時代民政経済の数的研究」において、当時の隠岐の人口にもふれ、弘仁式(810〜823)では出挙稲六万5000束、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 52 16 課丁1760人、人口9400人、延喜式(905〜927)では出挙稲七万0000束、課丁1540人、人口8200人と計算されている。鋳方貞亮氏も延喜式によって隠岐国四郡、十二郷の戸数六000戸を確認された。したがって、同用にこれを 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 53 2 「倭名類聚鈔」(935年頃)に記載の郷戸を基にして算出しても、一郷の郷戸を五0戸であるとすれば、隠岐四郡12郷の戸数は六00戸であるが、ただ前述のように知夫郡の三郷に知夫郷一郷を加えて知夫郡の郷数を四とすれば、さらに五0戸増加して 935 0 延長5年 隠岐牧畑の歴史的研究 乙未 0 53 4 六五0戸となる。中世。「下、隠岐国在庁等、可早令犬来并宇賀牧外宮内大輔重頼知行所々国衙進止自、右件所々、依為平家領以重頼補預所職候畢、而即犬来宇賀牧外、非平家領之由、在庁載誓状、訴国司、々々又依経奏聞、自院重所被仰下他、早彼両牧之外、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 54 13 停止重頼之沙汰、可為国路衙進止由、如件、以下。文治四年十一月廿三日」。今では島前が犢の生産地として、生産牛の約半数を島外へ、残りの半数は島後へと移出し、肥育はしないためである。これに対し島後は島前より移入した犢を舎飼して肥育し、 1188 1123 文治4年 隠岐牧畑の歴史的研究 戊申 0 57 13 食事 牛突きで勝ち牛となったものは、一般の牛の7割ほど高値に販売できるので、牛突きの行事は肉用牛としての隠岐牛の声価を保持する上においても意義があるのである。近世。ところで、このような孤立的、封鎖的な経済のもとにおいて食糧を自給するためには、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 67 9 耕地としては条件の悪い牧畑を耕作するのに、どうしても牛馬が必要であった。そこで隠岐には、当時においても、他地方に比べて牛馬の飼養頭数がかなり多かった。すなわち後に述べるように、近世の隠岐における一戸当り飼養頭数は2、1頭で、他に比べて 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 67 12 隠岐が著しく高率である。このような高率の養畜は農耕用、運搬用として、また牧畑の地力維持のための糞畜として飼養されていたのであって、男牛(牡牛)が偏重されたというのも役畜としての立場からで、この記における隠岐の牧畜は、牧畑耕作に不可欠の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 67 14 一条件として意義をもっていたのである。牧畜はこの場合どのように変化したであろうか。海運の発達によって隠岐の牛馬は主として越前の三国、小浜、敦賀から但馬を経て出雲、石見、長門の各地に移出され、とくに長門阿武郡地方では島仔(しまこ) 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 71 12 (隠岐島の子牛の意)と愛称され、駄牛としては廉価、強健であるというので珍重された。化政時代の五人組御仕置帳に「材木牛馬其他商売もの、他国より出候時者、可受御検、無佐候而者、出船仕間敷候事」(「元屋旧記」)とあるのは、当時すでに 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 71 15 牛馬が材木と並んで商品化していたことを示す一証左で、文政六年には牛馬商売に冥加金が課せられるようになり、弘化四年には「牛馬之儀、是迄は無口銭に而積出候得共、来正月より牛馬一匹に付銭五百文取立、此内百文を其村世話料として残し候」こととなった。 1823 0 文政6年 隠岐牧畑の歴史的研究 癸未 0 81 8 隠岐牧畑の生成。水田になしうる土地はごく限られていたので、稗、粟、蕎麦、大小豆などの畑作物も作られていたであろうことは想像に難くない。しかし牛馬のような家畜の飼養は、平家領の牧が出来るまでは、それほど盛んではなかったようで、そのことは 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 81 10 王朝時代に出雲、石見、伯耆、因幡の諸国が乳製品「蘇」を迂貢納する貢蘇国であったにも拘らず、隠岐がその中に入っていなかったことからも窺われよう。(C)牧畑。牧畑は牧の一部を開墾して、農耕地として利用するとともに、これを耕作に利用しない 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 86 6 期間は、放牧地として村民の共同放牧に委ねる畑地のことをいう。このように同じ土地を、時には作物の作付に、時には牛馬の放牧に利用し、農耕と放牧とを交替し転換する粗放的な土地利用方式は、隠岐のほか、かつては朝鮮海峡の対馬や済州島、南九州の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 86 8 屋久島や種子島、瀬戸内海の平群島、祝島、八島、日本海中の小島である粟島、中国山地の一部などにも、不完全ながらも行われていた。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 104 7 第七項。垣外規則的耕牧輪換(牧場輪換)、垣内耕作。放牧共同体は各大字でなく知夫村である。知夫村のどの部落もが四牧を輪換し放牧するのである。しかし牧畑耕作は土地所有者でなければできない。すなわち自分名義の土地または小作地を耕作するのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 104 8 もっとも小作慣行は頑強に残っていた。大正時代まで地主制が根強くこの村を支配し、地主は奉行と呼ばれ、稲刈りの日には、終日立ち会って見張り、現物割で三分の二つの小作料を徴収した。畑の場合は地主の番頭が廻り検見し、その二分の一を現物でとり立てていた。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 104 11 牧畑に作る作物は麦、稗、粟、大小豆で、しかもそれには、牧の輪転のために、慣行的に決っている期間中に収穫してしまわないと、放牧牛に食い荒されてしまうというFLURZWANG(耕地強制)があった。このような強固な放牧権が発生する基盤は何であろうか。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 104 13 それは牧畑内に土地を持っているか否かということではなく、ただ知夫村の一員であるということだけで十分である。まさに典型的な放牧権であり、物権型とでも呼ばれるべきものである。隠岐牧畑の成立に関する諸氏の見解。四つの牧からなる輪転式農法の牧畑が、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 109 11 明かである。このように当時すでに四圃式の牧畑が、少なくとも島前の西島や島後にはおこなわれていたのであって、島前美田村々内宮崎村名寄帳(元和三年=1617)に伊佐津牧、仁具牧、犬牧、日余牧の四牧から成る牧畑が見られることからも、 1617 0 元和3年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁巳 0 109 13 そのころ牧畑が島後のみで島前にはなかったとするのは誤りで、慶長以前から既に輪転式四圃農法の牧畑の構成が出来ていたとみてよいのではなかろうか。それより古い文献で牧畑の存在を示すものがなく、詳しいことはわからない。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 109 19 すでに慶長年間から広く存在したことは、慶長の検地帳が畑を四つの牧に分ち記載していることから窺われるし、四牧のそれぞれに既に稗、大豆、小豆、麦が輪作されたことは、正保元年(1644)年以降、延宝年間における元屋村の年貢免状などから 1644 0 正保元年 隠岐牧畑の歴史的研究 甲申 0 110 9 著者の見解。宇賀の宇野国重氏宅の資料。「宇賀牧初決定正譜。干時建久庚戌年参州吉田郡小松原庄吉川浄隠岐住、宇野加右司、牛馬ヲ野飼エシ宇賀牧初之地形南北広狭□□リ均シ、北向北風荒シ、南向ハ肥土ニシテ人煙簇、本業ハ農業ニシテ海漁兼情繁富。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 110 15 一、五月中駄遂(逐カ?)ト号シ麓ヘ山上ヨリ牛馬ヲ駆逐シ馬耳ヲ剪リ自他ノ印ヲ初ミテ付其ノ列休業相悦、北向ハ巌如屏浪響如雷、無人煙御本所、古行社。比奈麻治比売ノ神アリ」 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 112 7 隠岐においても、時代の経過とともに、次第に人口が増加して行ったであろうことは、前掲第二.六表からも推測されるのであって、住民の数が増せば、それに伴って耕地もまた次第に外へ向かって拡張せざるを得なくなってくるのである。ところが都合の悪いことに、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 112 9 隠岐の地勢は平地に乏しく、食糧生産の基礎となる耕地の拡張を忽ちにして行き詰まらせ、この行詰りを打開するためには、耕地拡張の限界を山の上の放牧地帯にまで溯って延長するよりほかに方法が無かった。そこでやむを得ず、段々と牛馬の放牧されている 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 112 11 牧山の傾斜面までを耕して行くことになったのである。しかしそのような所は一般に土地が極めて瘠薄であるから、そういう所からは、いつまでも最初の収穫を挙げることは困難である。そこで地力が尽きると、その場所は一旦これを棄ててしまっって、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 112 14 また山を上って行くということになるのである。このようにしているうちに、先に地力が尽きて一旦棄ててしまった土地もまた、やがては地力を回復し、以前よりも却って立派な草地となってくるという結果を生じ、初めの間はしだいに山の頂きに向かって 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 112 16 追い上げていた牛馬を、次にはその耕作跡地へ追い入れ、さらに現在作物を作っている畑地の地力が減じてきたとき、たまたまその放牧地から牛馬を追い出し、放牧の跡地へ作物を栽培してみたところ、非常に良好な結果を得、ついにこれを組織的に輪転 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 113 2 してみようということになり、ここに初めて、普通畑にはなし得ない牧の傾斜面等において、耕種と放牧とが交互に輪転するいわゆる粗放穀草式の農法が始められるようになったのではないかと思われる。食糧自給が最早や必要でなくなった段階においては、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 113 13 もともと四区牧の四圃制を原則とする牧畑が、漸次三区あるいは二区となり、さらに純然たる一区の牧山すなわち元の単なる方々地へと還元してきているのも、相当に見受けられるということである。このような牧畑の崩壊過程を見るとき、われわれは、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 114 3 ここに問題とする隠岐牧畑成立の過程もまた、あるいはこの崩壊過程とは逆の順序で、初めはただ山野に牛馬を放牧していた「牧山」ともいうべきものから、それが牛馬の放牧地と作物の栽培地との二区に分かれ、ヨ−ロッパ農法の二圃式のように、二区牧間に 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 114 7 耕作と放牧とが交代して、いわば二圃式牧畑とでもいうべきものとなり、さらにそれが放牧との関係から三区ないし四区の牧畑へと発展してきたのではないかと思われる。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 126 8 隠岐牧畑の存続。耕地の分布と種類。(麻畑)隠岐においては後述の牧畑と区別するため、放牧を行わずに年々耕作する普通の里畑のことを麻畑、または年々畑、普通畑、本畑、常畑、「カエチ」(垣中または開地)などと呼び、これは牧畑が地勢やや嶮岨な 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 126 10 丘陵地に所在するのに対し、やまの裾のやや平坦で農家から比較的近い所にある。その意味において、これをマワリ(廻り)畑と呼ぶこともあるが、海士村菱では廻り畑といえば、かえって牧と畑とが廻転する牧畑のことを指すという。隠岐の農家は、普通この 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 126 13 年々畑である麻畑を二反歩ほどずつ保有し、牧畑からの牛馬の侵入を防ぐために、麻畑の周囲には耕作者ごとに垣を廻らし、その中で麻、菜、大根のほか、麦、大豆、小豆、蕎麦、黍などをも栽培した。その中でも特に熟畑のことを「カエチ」といい、この熟畑には 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 126 15 主として麻を作り、農家はそれより自分で麻布を織った。盆踊り歌の一節に「盆が来た来た、ほん帷子を麻の葉で織る麻で織る」というのがそれで、その意味から、これを一般に「麻畑」というのである。検見取の頃の事情を記した「隠岐捜索所」にも、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 127 2 麻畑について次のようにいっている。「麻畑は里畑ニ而、地面勝レ候所、古来検地御座候節究り候而、村々ニ御座候。麻を作り其後へ菜大根を作申候....麻地一反ニ付土代八斗....米成之免七ツ七分之取ケ付申候。但一反ニ付土代五斗之村も御座候」と。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 127 5 このように麻畑は、家の近くの上々畑をこれに充てたのであって、菜、大根を栽培する野菜畑としての意味をも兼ね備えていたようである。そして、この麻畑はその後しだいに増加し、ことに明治以後は、従前、耕作者ごとに個人々々でおこなってきた 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 127 8 麻畑の周囲の垣をやめて、ただ牧畑と麻畑との境界の垣だけを共同で行うことにしたため、以前の不便が無くなって、麻畑すなわち年々畑は、その後著しく増加している。牛馬の飼養とその意義。第4.1表で見たように、隠岐では田畑反別または人口数に比べて、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 128 10 牛馬の飼養頭数がかなり多い。これを詳しく検討するため、貞享五辰(1688)年の郷帳によって村別の分布を示したのが、第四.四表と第四.五表であり、これをさらに隠岐全島についてまとめたのが第四.六表である。これによると、貞享年間における 1688 0 元禄元年 隠岐牧畑の歴史的研究 戊辰 0 128 13 隠岐全島の牛は3600余頭、馬は2900余頭で、一戸当りの飼養頭数は一.九頭となる。島前と島後とを比べると、島前では馬が多く、島後では牛が多い。飼養頭数も島前は一戸当り二.三頭、島後では一.九頭で、島前の方が多い。さらに村別に見ると、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 131 1 三頭以上飼育は島前の別府(四.五)、海士(四.0)、宇賀(三.七)のほか、島後では那久(三.三)、伊後(三.0)、大久(三.七)等の各村が挙げられる。これらを当時のわが国各地の場合と比較すれば、壱岐島では一.五頭(享保三)、紀伊伊都では 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 131 3 0.八頭(宝永五)、諏訪0.一頭(安永八)、但馬坂本0.一八頭(安永八)、周防の山口0.七二頭(嘉永七)、陸中(一二カ所0.九三頭(明和三)であって、隠岐が著しく高率であることがわかる。このような高率の養畜は、牧畑と関係があるのであって、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 131 7 前掲第四.一表からもわかるように、牛馬頭数の多い村には畑地面積も多く、畑地の大部分は牧畑なのである。このようにして隠岐では牧畑への放牧によって他の地方よりも、より多くの牛馬が飼養されてきたのであって、牧畑の耕作には、牛馬が役畜として、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 131 10 また糞畜として、是非とも必要であった。隠岐の牛馬は現在の改良された大型の牛馬と違って、体格が甚だ小さかった。牝牛は丈が平均三尺六寸、牡牛は平均三尺八寸で、毛並は褐色味を帯びた黒毛であるが、夏期は夏焼といって背一面に褐焼しているのが、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 132 4 隠岐の放牧牛の特徴で、その血統は出雲種とは全く同一ではなかったようである。粗飼料で飼育することができ、寒暑に耐え、性質は温順、体質は強健で使役に適した。これは当時、牧畑に放牧されて、雨に打たれ、風にあたり、山を駆け、谷を下る彼等の生活が、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 132 6 その強靭さをつくりあげたもので、傾斜地にある牧畑の耕作においても、極めて易々と使役に堪え、肢蹄は実に堅牢であった。隠岐馬も丈三尺三寸〜四尺ほどの矮馬(ポニ−)で、毛色は青毛、鹿毛、栗毛、芦毛で、性質は頗る温順、粗食に耐え、持久力に富み、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 132 9 蹄質堅硬で、蹄鉄または馬草鞋を用いる必要はなく、石ころの峠の上り下りには、大型馬など足もとにも及ばぬ、重宝なものであった。近世中期以後になると、第二章で述べたように、牧畑も雑穀作よりは、むしろ牧畑を牧場として、内地の農村地帯への役牛 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 136 7 供給を目的とした仔牛生産をおこなうことに重点がおかれるようになり、隠岐の牛も次第に島外へ商品として販売されるようになるのである。元禄一五年の隠岐国島後伊後五人組条中に「材木牛馬、其他商売荷物、他国へ出候時は、可受御検候。左候はずば、 1702 0 元禄15年 隠岐牧畑の歴史的研究 壬午 0 136 9 出船仕間敷候事」とあることは、当時すでに牛馬が材木と並んで商品化していたことを示すものである。しかし隠岐では、近世末期までには家畜市の開設がなく、すべて農家の庭先取引によって、家畜商が買い集めて島外に移出した。このような島での市場形成の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 136 12 立ちおくれは、牛飼養において自給的性格が強かったことと、関係があるのであろう。しかし少しずつでも家畜商によって移出された隠岐の牛は、例えば近くでは伯耆大山の牛馬市(大山博労座)を通して、方々へ販売されて行った。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 137 11 村落の社会的構成。隠岐においても、この時代の村の住民は、出家、神主等を除いた殆ど総てが百姓であった。そのことは宝暦九(1759)年知夫里郡別府村指出帳に「一、人数百六拾三人、内出家壱人、神主壱人、百姓百六拾壱人」とあり、明和元(1764)年 1759 0 宝暦9年 隠岐牧畑の歴史的研究 己卯 0 140 15 美田村指出帳に「一、人数千百壱人、内出家七人、山伏弐人、医師壱人、禅門七人、神主壱人、百姓千八拾参人」とあることからもわかるであろう。(役人)宝永六年「周吉郡原田明細帳」に「一、当村役人給、米壱石八斗宛、是ハ□□御触状抔□人馬指引役人ニ 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 140 16 而御座候」とあり、使い走りの小使い、すなわち村の使丁であったといわれる。(牧士=牧司)元禄二年の「日余牧人別高寄セ帳」には「是ハ地下中から人別高ニ割賦仕候、但高拾石ニ付壱斗弐升四合五勺ツツ」とあり、「明治二十五年浦郷村牧場取締規約」には 1689 0 元禄2年 隠岐牧畑の歴史的研究 己巳 0 141 7 「従来牧士ノ作取リニセシ一村共有地ノ作徳ヲ以テ之(牧士の給料)ニ充ツ」とある。現物で貰った場合と、土地を給せられた場合とがあったわけである。牧司には一人の本牧司(島牧司)と、他に各部落ごとに一人ずつ牛馬の柵外への逸散を監視する 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 141 9 里牧司たがあったが、本牧司は極めて強い権限を持ち、誰もがなれるというようなものではなく、村の有力者の中から選ばれることになっていた。(本百姓)水呑と本百姓とでは、いうまでもなく、権利義務その他の点において、かなりの懸隔がある。百姓は五節句ごとに 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 142 5 裃を着用して庄屋宅での礼式に参加することができたのにたいし、水呑にはその権利が無かった。しかも隠岐では、この百姓(本百姓)の数に制限があって、みだりにそれを殖やさぬ慣例であったと見え、水呑(間脇、名子)が百姓の仲間入りをするには、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 142 7 いわゆる「名」すなわち百姓株を買うのが普通となっていた。(水呑)水呑とは一般に右の本百姓にたいし、それ以外の小前者=貧農を指していい、種々の権利義務において本百姓とは大きな懸隔があった。例えば、かの本百姓が着用した裃は勿論のこと、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 143 5 紙緒の草履も使用することは許されず、木履下駄に皮緒を用いて居住地立退きなどの厳罰を受けた者も珍しくなかったという。間脇と百姓との相違は、必ずしも経済的関係のみに基ずくものではないのである。そのことは元禄年間、島後元屋村および中村の年寄、庄屋より 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 144 4 山中桑寄生御改について御上へ申しあげている書付の中に、「地下大小百姓并間脇召仕」云々とあることからも判るのであって、間脇は明かに身分的に百姓と区別されている。したがって間脇とは身分的に百姓より低い者の呼称で、漁民とか商売人のような 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 144 6 非農業者の中に多く、農業者の場合には、経済的にも劣弱な、いわゆる水呑百姓として、田畑を全然もたないか、またはすこししか持たない者が多かった。間脇は農耕に従事する限りにおいては、他人の田畑を耕さねばならず、したがって権利は少なく、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 144 15 義務もまた多くはなかった。すなわち彼等「まわき」は、同一村落内に住ながらも、氏神の祭礼や地下の寄合その他において発言権はなく、同上の会合に出席はしても、本百姓とは一等下の席に着き、無論村役人などに就任する権利は無かった。その代りに 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 145 1 義務の負担もまた大きくはなかった。名子−−−−−是は主家より屋敷、田畑、山林を借りて、主家の農事や家事を手伝うことを義務とする一種の隷属農民で、社会的には、百姓よりは勿論のこと、間脇よりもさらに一段低い身分のものである。数は必ずしも 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 145 9 多くはなかったようであるが、島前海士村の豪族村上家などには、相当数の名子が隷属していたし、日輪寺のような寺にも名子はいた。牧畑の構成と経営管理。牧畑の構成。例えば慶長年間の検地帳によれば、鎌倉時代にすでに「牧」もあった犬来村の牧畑(牧組)は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 153 1 仮小屋、相端牧、麦牧、鍛冶牧の四区牧に分かれ、同じく鎌倉時代に宇賀牧の名で知られた宇賀村のそれは、小宇賀牧、西牧、尾和牧、崎牧の四牧より成り、その他の牧畑も原則として四つの牧より成っていた。隠岐の牧畑式とは、上述のような構成をもった 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 155 7 四区牧の間で、作物の作付と牛馬の放牧とが交互に輪転して行われる農業経営方式を指していうのである。その作付および放牧の順序を見ると次のとおりである。いま第一図「隠岐牧畑の組織」に見るように、第一区牧に牛馬を放牧し、その跡地へ秋になって、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 155 9 来年夏に収穫すべき麦(これを来麦という)を蒔くとすれば(この時の第一区牧を来麦畑、麦山あるいは空山という)、第二区牧では前年度の秋に蒔き付けた麦を夏になって収穫し(夏成麦)、その跡に小豆を蒔き(この時の第二区牧を小豆山あるいは麦山、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 155 12 本畑、本牧とも云う)、第三区牧には粟、蕎麦類を播種し(これを粟稗山という)、第四区牧には大豆を作付する(これを大豆山あるいは空無山=くな山という)。そして翌年は第一区牧に前年に蒔き付けた麦を収穫した後、小豆を作り、第二区牧には粟稗類を、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 155 14 前年の粟稗の跡すなわち第三区牧には大豆を栽培し、前年の豆の跡すなわち第四区牧には牛馬を放ち、牧場とする。小のように毎年、各区牧の土地利用法を順次に輪転し、第三年度には第一区牧に初年度における第三区牧の土地利用法を、第二区牧には同じく 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 156 1 第四区牧の、第三区牧には第一区牧の、第四区牧には第二区牧の土地利用法を行い、第四年度には第一区牧に第一年度における第四区牧の、第二区牧には同じく第一区牧の、第三区牧に第二区牧の、第四区牧に第三区牧の土地利用法を行なうのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 156 3 このように初年度、次年度、三年度、四年度と順次、右のような土地利用法を四区牧間に輪転し、各区牧は四年を周期として第五年目には再び元の利用形態に復するようにするのである。そしてその間、休閑すなわちアキ山に当っていない区牧においても、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 156 5 作付期以外の期間(作物収穫後次の作付までの間)は村民の共同放牧に委ね、ここへ牛馬が放牧される。「作物刈取、早速牧之垣仕、古来から牛馬放シ来リ申候」といわれる所以である。「隠岐捜索書」には次のように記されている。「畑方ハ検地帳畑方之内、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 156 16 来麦高、小豆高、大豆高、四牧ニ分り申候、是ハ山畑ニ而地悪敷、民家から谷坂を越、道程遠ク養難成ニ付、往古より牧を立来申候、四牧之内、来麦畑ニ大廻候垣を仕、牛馬を入放飼、畑をこやし、其年之秋麦畑ニ仕、麦を蒔申候、其翌年之夏、麦之後ニ小豆を蒔、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 157 1 其翌年稗を蒔、又翌年大豆を蒔、其翌年ハあらしニ而、前々のごとく大廻候垣を仕、牛馬入放飼申候、如此段々、四蒔き之内、壱牧ハ荒し牛馬を飼、残る三牧ニ麦、小豆、稗、大豆四作仕候」云々と。また安永より天明にかけて浦郷村の庄屋であった人の手記にも 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 157 3 「壱年ハ麦、小豆、壱年ハ稗、壱年は大豆、此跡へ牛馬放し野飼を以、土を肥し休め、翌年九月頃麦蒔候故、四牧四年之内ニ四作ヲ仕付候得ハ、壱年は休ミ畑に成申候」とある。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 163 13 今この表を牛馬の放牧という観点からみれば、放牧は山野に雑草の豊富な夏から秋にかけては唯だ一区だけに限られ、他の三区牧には専ら作物の栽培が行われるのを常則とする。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 164 3 牧畑の経営、管理。以上、牧畑の構成と組織の大略を述べたが、次にこの牧畑に作付される大小麦、粟、稗、大豆、小豆、蕎麦等の作物栽培法を見ると、それは労力的にも資本的にも極めて粗放であるという一語に尽きる。すなわち、耕耘は播種前に一度だけ 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 164 6 除草を兼ねて牛に犁を索かせる程度で、その際に使用去れる犁は俗に「隠岐犁」と呼ばれ、原始的な形状と構造とをもったものである(第一五図参照)施肥なども放牧牛馬の糞尿と空山の雑木、雑草を焼いた灰とを以てこれに当て、特に肥料を施すようなことはしない。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 164 8 ただし作物の栽培によって消耗した地力は、放牧牛馬の糞尿と休閑とによって補われるほか、禾本作物と荳科作物との輪作(大小麦、大小豆、粟稗、大小豆)によっても維持されているということは、合理的な作物栽培方法として注目に値する。しかし種子なども、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 164 11 極めて劣等で用にたえないようなものを使用するという有様で、浦郷村庄屋伴三郎手記の「牧畑順作」によると、牧畑の播種量は、土地の善悪に応じて差はあるが、大体のところ、麦は一反につき二斗一升位、大豆は六〜七升より一斗位、小豆は八升から一斗位となっている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 164 13 中耕除草などは全くなおざりにして顧みないし、ことに害虫駆除などになると、その方法は最も幼稚であって、螟虫やウンカその他の虫害を発見すると、直ちに氏神に祈り、業を休み、酒などを飲み、鐘、太鼓を打ち鳴らして大勢で田畑を通行するいわゆる 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 165 1 「虫送り」の法を行い、この方法で駆除できない場合には、とうてい人力の及ばないものとして諦めてしまうのである。したがって、その収穫量は至って少なく、平年作における一反歩の収量は大麦五斗五升、小麦三斗五升、大豆三斗、小豆二斗であったという。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 166 1 その経営がいかに粗放であるかがわかるであろう。牛馬を耕耘や運搬に使用しない場合には、これを牧畑へ放牧したのが、むしろ普通のようである。そして、そのためには年に数回、牛馬をある牧から他の牧は移す「転牧」いわゆる「駄追い」をおこなわねばならなかったし、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 166 2 場合によっては純然たる放牧ではなくて、牧内の一定の場所に牛馬を繋いでおく、いわゆる「繋牧」もおこなわねばならなかった。なお、このように、牧畑へ牛馬を放牧することは、村民共同の権利であって、村民である以上は、たとえ牧畑に土地を持たなくても、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 166 12 また農業経営を行わなくても、何らの制限を受けなかった。すなわち牧畑の休閑地、および前作物と後作物との間の休閑期にある土地に対しては、すべて平等の権利を以て放牧することができたのである。神主や坊主?けでなく、間脇も非農業者として土地を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 166 14 持たなかったにも拘らず、牛馬だけは一頭ないし二頭を所有していたというのも、結局のところ、このような村落共同体の観念に基ずく共同放牧権があったからである。「駄追い」すなわち「転牧」は、このように村民が共同して行ったのであるが、その期日を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 168 1 定めたりするのは、牧の管理人である「牧士」(牧司)がその掌に当った。「牧士」には本牧司と里牧司とあったが、牧の管理者である牧士は、このほかに牧畑の周囲を巡視して「田畑作毛牛馬喰荒不申様ニ吟味」し、垣の破損箇所を見つけた場合は、その修理を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 168 3 受持区域の百姓に通知し、他村の入牧を拒否したり、他村の牧士と牧に関する折衝をおこなったりなど、牛馬放牧に関する一切の事を担当し、牧畑の管理に任じたのである。「当八月一五日大久村牧士六右衛門から東郷村牧士助五郎江立合、当粟稗苅仕舞、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 168 5 垣之儀先規之通早速仕候様ニ申談候」云々といっているのなどは、牧士の仕事の一端を表しているものといえよう。一般に牧畑と麻畑(年々畑)との間の垣は、最初は各個人ごとに行っていたもののようで、これは垣内、垣外の歴史的発達過程からいっても、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 169 14 興味深いことといわねばならない。住民としては、自分で田畑を所有せず、また牧畑を利用しなくても、牛馬が家の周囲を徘徊し、野菜畑(麻畠)などを荒せば困るわけであるから、そのようなことがないように、各人で垣柵をしたのである。このようにして垣柵は、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 1 最初は個人ごとに造っていたのが、前述のような過程を経て、協同一致で造るようになったものと考えられる。もっとも牧の周囲に造る垣柵=牧柵(垣床)というのは、至って簡単なものであって、特別に垣牆材を他所から部運ぶことはせず、山頂を伝って 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 3 伐り残された樹木(垣床之木)を高さ四尺位に折り曲げ、または四尺ないし五尺おきに立木を新たに植え、これに横木(枝付の木)五本を渡して絡み部結ぶ程度の極めて粗末なものである。したがってこれは一年に二〜3回も修理する必要があったという。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 6 このように、垣とはいっても、それは極めて粗末なものであったから、村境などのように、垣を完全にしにくい所では、「草有之候間、牛馬他方に入込不申候」えども、「当月(筆者注、10月)江入候から草喰切り、当村粟稗山入込、直ニ小豆山江入、喰荒し難儀仕候」 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 8 ようなことも時々起ったのである。牧畑の作物栽培法が非常に粗放であるうえに、牧畑の耕作地はこのような牛馬の害を被る惧れがあったので、その収穫は決して常に多くを望むことはできなかった。牧畑に対する貢租が極めて僅少であったというのも、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 10 このようなことからいえば、むしろ当然といわねばならない。なお、このように自由に歩き回る多数の放牧牛馬の中から、自分の牛馬を見つけ出して連れ帰る場合とか、崖落、病死の場合、誰にでもそれがどの部落の誰の牛かを見分けられるように、各牛馬には 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 13 耳印または烙印をおして放した。耳印には地下印=里印(部落印)とアイジルシ=合印(個人的)があり、耳を夫々に異なった形に切って印とした。地下印は部落を表し、知夫では四十名(みょう)に耳印があった。アイジルシは旧家の特徴をもっていて、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 170 16 分家もそれに習って同じ印をつけたのである。耳印は牛馬が生まれて三日の祝に切るならわしであったが、雄牛は八月にすぐ売るので印はつけぬことにしていた。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 173 1 牧畑の土地制度。牧畑への牛馬放牧は、村民ことごとくが、牧垣の造築、修理を条件として、すべて平等な権利で、全村一致協同のもとにおこなうのであるから、極めて協同的色彩の強いものである。そして、このような協同放牧の習慣は、やがて耕種部門へも影響を及ぼし、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 173 2 牧畑地耕作の場合、たとえ、それが自己の所持地であろうと、其処に作付される作物の種類は、部落協同の輪転組織に従った一定の作物でなければならなかった。なぜなら、めいめい恣意的に勝手な作物を栽培することは、放牧との関係もあって事実上、不可能で 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 173 5 あったからである。牧畑に見られるこのような作物作付上の制約は、一種の耕地強制ともいうべきもので、隠岐の牧畑がこのように耕地(作)強制的な性質をもっているということは、隠岐の牧畑式経営において見られる一つの大きな特徴であるといえよう。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 181 6 慶長一八年に島前で行われた検地の結果を表示した慶長一八年の諸検地帳も、その記載の様式は大体において上記慶長一二年の島後の其れと同様で、水田および四つの牧に分けて記載され、最後に屋敷帳が添えられている。これらの検地帳も前と同様に「以下抄出」 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 181 8 となっているので、面積の上から直接に牧畑地所持集中の傾向を云々することはできないが、ここでは最後の屋敷帳に現れる家数がかなり多いのに対し、田畑所持者として現れる者が公文、役人、寺社、その他の特殊な少数者に限られていることは、土地所持集中の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 181 11 傾向に対する一つの傍証であって、この種の検地帳のいずれにも見いだされる一つの大きな特色である。牧畑の貢租。隠岐のおける貢租の種類は、上のように時代の経過とともに、次第に増加してきているのであるが、牧畑地の貢租そのものもまた、かつては稗高に 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 188 9 対する米と、大豆高、小豆高に対する大豆と小豆の三種に過ぎず、来麦高に対しては前述のように一般に物成が課せられなかったらしいのに対し、後には、上に見たように、米、大豆、小豆のほか大麦、小麦も牧畑地の貢租として上納されるようになってきている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 188 11 その中で、いずれが量において多く占めたかといえば、下札が示すように、大麦と大豆とが断然多く、小豆と小麦とは遥かに少ない。ことに小麦は「大麦小麦之分リハ麦高取付之内、十歩壱小麦ニ成、外ハ大麦と究申候」とあるように、大麦の凡そ十分の一程度が 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 191 3 徴収されたに過ぎないのである。定免制以後における牧畑の免率は、漸く免一つ、あるいは一つにも達しないものが多く、極めて低率である。安永元辰年「御尋ニ付申上候書付」にも「牧畑ハ、、、格別之下免ニ而、目貫村高免壱ツ三分三厘七毛余、矢尾村高 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 191 4 免壱ツ三分七厘弐毛内之御取箇ニ而」云々とあり、最も高免のものですら、この程度であった。牧畑の貢租がこのように軽かったことが、やがて隠岐に前述のような粗放な経営方式を引き続き存続せしめた一つの理由となっているのではないかと思う。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 191 9 牧畑の小作制度。隠岐にも近世中期以降、漁業を中心として発達した商業資本によって、土地の集中がおこなわれ、小作制度が普及した。このことは前に一言したが、それは水田を中心とする普通田畑に多く、牧畑の小作は少なかったから、すべて小作期間は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 191 12 四カ年を一期とする定期小作であった。すなわち空山(秋山)に始まり空無山に終わるのであるが、中途で牧畑を買い受けた地主が、もし自作しようとすれば、小作人は無条件で小作地を返さなければならなかった。小作料は、刈り取り前に地主(奉行と呼ばれた) 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 191 14 が見立(または立見)に熟練した者一人または二〜三人を、立合人として牧畑へ行かせて、作物の見立(収穫予想)をし、小作人とともに仕きり(総生産高の決定)を行い、その半額を小作料として納付させるのが普通であった。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 194 11 近世封建時代における隠岐牧畑の特性と存続の理由。牧畑はその耕牧輪転という点に、最も大きな特徴があるのであるが、耕種と牧畜のうち、いずれにその主眼があったかといえば、少なくとも本章で見てきた近世封建時代に関する限り、耕種が主で、牧畜はむしろ 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 194 13 従的な地位にあったといわねばならない。なるほど牧畑はその初め、牧すなわち放牧地を一時、便宜的に耕種に利用してことによって成立したものであるから、粗放穀草式の様式をとったであろうと思われる中世封建時代においては、末だ牛馬の生産が主で、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 194 15 耕種はいずれかといえば、むしろ従であったかも知れない。しかし少なくとも本章において取り扱った近世封建時代になると、耕種の方がむしろ主であって、いわば耕種本位の牧畑あるいは主穀式牧畑(仮に主畜式牧畑に対してこう呼びぶ)とでもいうべき状態にあったのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 195 6 また牧畑の組織を見ても(第一図参照)、各牧の土地利用法による名称は、いずれも耕種本位であって、本牧または本畑といえば、麦を収穫してその跡へ小豆を蒔く牧山のことを指すのであり、牧畑という名称それ自体、もともと牧と畑との交互輪転というような 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 195 8 対等的な関係のものではなく、牧山の区域内にある畑という意味であったのである。いま一例として、宝永六年の「隠岐国知夫里郡別府村諸色明細帳」中における一節を引用すれば、それには次のように記されている。「高。六拾七石弐斗三升、此反五拾四町八反 1709 0 宝永6年 隠岐牧畑の歴史的研究 己丑 0 195 12 八畝拾弐歩、右四牧ニ仕、麦、小豆、稗、大豆、作仕候、内壱牧ハ休牧ニ仕、牛馬入置、来麦牧畑ニ仕」、これから見ても、当時の村人の観念では、牛馬を入れて置く牧がすなわち休牧であったのであり、この場合にいうと牧とはすなわち畑と同義語であって、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 196 3 作物を区付ける作付る所であったのである。近世封建時代の隠岐牧畑は、このような性格を持っていたのであるが、これは明治中期以後になると、交通機関の発達、商品、貨幣経済の浸透等によって、いずれかといえば、より畜産本位の牧畑あるいは主畜式牧畑 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 196 5 (前掲穀式牧畑に対してかりにこう名付けた)とでもいうべき、牛馬の商品生産を目的とする放牧中心の経営へと変質するのである。牧畑が近世徳川時代に存続した理由の第一として、筆者は先ず最初にのべた隠岐の地理的位置(離島という地域的隔絶性=孤立性)、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 196 10 地形(平坦地が少ないこと)、土性(重粘土壌)などの自然的条件を挙げねばならない。すなわち隠岐のような「石州雲州伯州から数十里相隔、其外ハ無限海上遥沖中之離島」においては、島民の生活は全く島内における自給生産に依存するよりほかなかったこと 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 196 12 (封建的封鎖経済)はいうまでもないが、しかも本島の地形は山岳が多くて平地に乏しく、食糧自給のための耕地としては、僅かにこれを山の段々畑に求めるより他に仕方がなかった。ところが、このような山畑の土性は、気水の透通が不良な重粘土か赭褐の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 196 14 岩石地かであり、そのような所では農耕は極めて粗放的にしか行うことができない。しかし逆に、このような地味の粗悪な丘陵地も、その地形、土質、気候(海洋的気候で年中放牧が可能)、植生(牧草の生長力旺盛)等の上からいえば、牛馬の放牧には適している。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 197 1 したがって、このような劣悪な条件の土地で、粗放的ながらも、粟、稗、麦、大小豆などの作物を永続的に耕作しょうとすれば、その地力を維持するためにも、また人間の労力の甚だしい消耗を避けるためにも、農耕に牛馬を取り入れることが是非とも必要であった。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 197 3 このような事情が、隠岐においては、近世徳川時代にも、なお牛馬の飼養を放棄せしめることなく、それとの結合における農耕として、牧畑式経営を存続せしめたのであろうと考えられる。他方、隠岐では、つぎに述べるような人口の増加と耕地の不足とから、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 197 11 牛馬放牧の「牧」をも、やはり耕地として穀物生産に利用せざるを得ない情勢にあったのである。しかし、もともと牧として利用されてきたような土地は、耕地化したところで、いわゆる山畑で、肥料を運搬することの困難なために、土地の生産性が低く、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 197 14 農耕を行うためには休閑を必要としたのである。ところがこの場合、そのような純然たる休閑をする位ならその期間中、隠岐の農耕に必要欠くことのできない牛馬を其処へ放牧し、放牧牛馬の糞尿によって畑を肥した方が有効で合理的であるということになり、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 197 16 このような事情から、隠岐では徳川時代においても牧畑式経営が存続したのではないかと思う。隠岐の牧畑地のような瘠薄な土地を永続的に耕作しようとすれば、四年に一回位は休み畑にし、牛馬の糞尿で土地を肥す必要があったのである。隠岐では 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 198 7 かような事情のために、徳川時代にもなお牧畑式のような制度が存続したのであろうと思うが、牛馬の放牧には、さらに牧畑の雑草を断ち、併せて牧草の繁茂を速からならしめる効果もあったという。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 205 1 隠岐牧畑の衰退、変質。封建末期における商品、貨幣経済の発達と牧畑衰退の兆候。北海航路の開発によって隠岐が京阪市場へ連結し、海産物と木材の販路を開拓したため、耕地に乏しい布施村が先ず林業と航海業に乗りだし、牧畑を解消せしめていったのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 206 7 西廻利海運の発達に伴って、従来は殆ど商品化の機会を得ることのできなかった杉、樅の木材が、建築用、造船用として上方において好評を博し、隠岐の林業は次第に発達していった。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 217 1 牧畑面積の減少。減少の傾向は、明治末期および大正中期において甚だしかったようで、日露戦争および第一次世界大戦を契機として減少している。この間にいて、普通畑も若干(四五年間に一割五分)は、その面積は減少しているが、牧畑のように大幅の減少はしていない。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 217 3 他方、水田は、江戸時代に六五0町歩しかなかったのが、其後しだいに増加して明治三0年前後に急増し、一五00町歩にまで達している。このような、一方における牧畑の減少と、他方における水田の増加は、近代の隠岐農業において見られる顕著な変化で、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 217 5 後にみるように、増加した水田の中には、牧畑から転化したものもあるのである。牧畑内耕地の減少。明治十年の地租改正以来、牧畑は「切替牧畑」と呼ばれ、台帳面は一般に「畑」とされて普通畑と区別されず、したがって、牧畑内の土地はたとえ実質的には 1877 0 明治10年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁丑 0 218 5 松林や草地となっていても、地目は殆ど全部が畑となっているため、名目上は全部が耕地であるかのように見えるのである。しかし、その牧畑(名目上はすべて耕地)の中で実際上の耕地が占める割合、すなわち耕地比率を見ると、実際には第五.七表のようになっていて、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 218 10 牧畑衰退の傾向がはっきりと見られるのである。この表からも推察されるように、戦前における広義の牧畑は、戦後よりも遥かに広い耕地を持っていた。そのことは、浦郷の村長ならびに町長を三七年間の長きにわたってつとめ、牧畑の事情に詳しかった 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 218 13 今崎半太郎翁が「40〜50年前は浦郷牧畑には殆ど山林はなく、夏の炎天下、放牧牛馬のために木陰を作ってやるため植林の必要を感じた」と話されていたことからも、わかるであろう。このように明治年間には牧畑面積の70〜80%が耕地としても利用されていたが、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 219 1 戦後は多い所で20%前後、少ない所では、島後に見られるように、殆ど耕作されていない。島前でも黒木村(現西ノ島町黒木)などは、昭和二四年において二%にすぎない。黒木村における牧畑内耕地の減少を示したのが第五.八表である。このような牧畑内 1949 0 昭和24年 隠岐牧畑の歴史的研究 己丑 0 219 3 耕地の減少は、牧畑の耕作放棄による赤松の自然成長によって牧畑内に林地が増加したためで、この傾向は隠岐全島についても見られる。例えば昭和二四年の調査によると、島前、島後の牧畑総面積4344町7反歩の内牧畑内耕地は525.8町歩であるのに対し、 1949 0 昭和24年 隠岐牧畑の歴史的研究 己丑 0 219 5 山林が2916.4町歩、草生地が338町4反で、牧畑は殆ど山林と化し、昭和四年の牧畑内耕地面積の24%に激減している。そして隠岐牧畑のうちで最も典型的であると思われる知夫村の場合でさえも、明治三八年の569町5反にたいし、昭和二四年には 1902 0 明治35年 隠岐牧畑の歴史的研究 壬寅 0 219 8 115町4反となり、五分の一にまで激減している。牧畑内耕地における作付の減少。このような牧畑の作付を休む「休牧畑」は、元禄−享保頃にも既に見られるのであって、元禄.享保年間の「隠岐穀郷帳」中で「休牧畑」が、来麦畑その他の引方と共に高のうちから 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 219 14 指し引かれ、年貢賦課の対象から除外されていることは、当時すでに牧畑の中で作付を停止しているものがあったことを示すものではないかと思う。しかし、それがより一般的となるのは大正時代からであって、以後、作付を四年二作、四年一作に減少する方式が 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 220 1 増加し、昭和四二年には、それも無くなって、牧畑の作付は中止された形になっている。牧畑における作付の減少.消滅は、後に述べるように、牧畑耕作の意義が無くなってきたためで、近年は、各農家とも規則どおりの輪転式牧畑耕作をしなくなってきている。 1967 0 昭和42年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁未 0 220 4 これは牧畑が最もおそくまで残った知夫村においても同様で、近年は仁夫区一部落だけが行い、その他の部落では、少数の農家が自分の部落に近い牧畑が耕作の順番になった時だけ、僅かばかり耕作するに過ぎないという状態になって来ている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 220 13 放牧家畜頭数の減少。家畜の放牧という面から考えると、牧畑の草生は牧畑の耕耘によって良好となり、自然草生の約三倍の草が伸びるといわれる。他方、耕種の面から見れば、放牧家畜はその糞尿を土地に与えて牧畑内耕地の地力を維持し、また矮小な 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 221 2 雑木や雑草を除去し耕耘に利益を与えるのである。したがって、以上に見たような牧畑耕作の減少は、草生を悪くし、林地の増加もまた草生を悪化させるだけでなく、放牧地の減少をもたらし、家畜の生産を減退に導くことになるのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 222 1 牧畑衰退の事実を、牧数の減少、牧畑面積の減少、牧畑ない耕地の減少、牧畑内耕地における作付の減少、ほうぼく家畜頭数の減少という諸側面から眺めてきたが、このような衰退の事実は、具体的にはどのような形態をとって進んできたのであろうか。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 222 3 これには牧畑の一部が普通畑や水田になったもの、荒廃して放牧だけを行う牧場となったもの、森林になったものなどがあり、一様ではない。牧畑の森林化。食糧の自給は極めて困難な状態にあった。そこへ全国的な商品、貨幣経済の発達に伴う交換経済が浸透し、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 224 6 これまで商品化の機会を得ることのできなかった杉や樅などの木材の商品価値が、認められるようになり、収益の少ない牧畑をやめて、有利な木材の商品生産へと転換することになったのである。そして、この森林化を一層促進させたのが、明治10年の 1877 0 明治10年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁丑 0 224 9 地租改正であって、そのさい島後の牧畑の殆どが、地目変換をおこなって山林となったのである。これは従来の地租は大概、その年の産物による物納であって、金銭に換算して納める場合も大体、課税標準が定まっていたし、豊凶の如何によっては減免も行われたのであるが、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 224 11 これが地租改正によって金納へと変更になると、流通貨幣の少ない当時の隠岐では、地租納入のための金に困り、牧畑より森林の方が税金が安いであろうとの推定のもとに、島後の個人持ちの牧畑は急に森林化していったのである。このような木材の商品性の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 225 7 増加に伴って、土地ことに山林の所有権が確立すると、土地の所有者は、牧畑として共同管理していた土地でも、自由にその利用法を変更できたために、地主の土地兼併がおこなわれ、それが牧畑の森林化、普通畑化、水田化という牧畑の地目変換の傾向に、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 225 12 拍車をかけることともなったのである。なお大正、昭和期に入ると、地主小作関係が変化し、これまで地主の気持ちを損じないような態度に出ていた小作人が、今や小作するものが少なくなったためか、その力を強めて、小作料の率も、従来の地主六分、小作人四分から 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 225 15 地主、小作人半々、ないしは地主四分、小作人六分、甚だしきは三分、七分となった。このような事情が、地主をして牧畑の森林化に走らせた場合も少なくないのである。牧畑の荒廃と牧場化。樹線のこのような降下は、立木地の増加すなわち耕地の減少、畑作物の減少を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 226 7 もたらしたのであって、前に掲げた第五.八表に見られるように、黒木村における大正四年の牧畑面積2475町のうち、耕地面積と林地面積とを比較すると、耕地区域1561町にたいし林地は914町で、牧畑の総面積に対する比率は63%と37%であった。 1915 0 大正4年 隠岐牧畑の歴史的研究 乙卯 0 226 10 ところが約10年後の大正15年には、同村の牧畑1799町のうち、耕地701町にたいし林地は1098町となり、両者の牧畑総面積に対する比率は、実に39%に対する61%で、明かに牧畑が林地化したことを表している。 1926 0 大正15年 隠岐牧畑の歴史的研究 丙寅 0 228 1 牧畑の経営様式における変化。牧畑内の耕地が減少して牧畑が衰退する場合、牧畑の森林化と同時に牧場化がなされたり、一つの牧畑が一部は普通畑化し、一部は森林化して衰退、崩壊するなどというのがそれである。それとともに、牧畑衰退の諸形態と関連して、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 228 4 もともと四転式である牧畑が、三転式あるいは二転式とあんり、ついには、その機能を消失して、牧畑式経営を消極化せしめていった場合がある。これがここにいう牧畑の経営様式における変化である。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 231 2 牧畑の耕牧比重における変化。このように完全な牧畑が崩壊して、牧畑に森林化がおこなわれる場合にも、森林化した土地に放牧することは、依然として続けられることが多い。そのことは牧畑が森林化する場合だけでなく、一般に牧畑の耕作をやめる場合について 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 231 11 いえることで、牧畑の耕作はやめても、放牧だけは止めずに続けられることが多い。このようなことからも窺われるように、もとも畜産よりも穀作に重点をおいていた従来の牧畑が、その衰退、消滅をて免れて牧畑として残存する場合には、次第に変質して 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 231 13 耕牧の比重が従来の場合と逆転し、従来の食糧自給を目的とする耕作中心の牧畑から、商品生産を目的とする畜産中心の牧畑へと変質していった。すなわち牧畑の主要食糧生産的性格から放牧経営的性格への変化、変質が見られるのである。このことは、前に掲げた 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 1 牧畑耕地面積の減退にも拘らず、放牧家畜数がその割には減少しないことによっても理解されるであろう。なお上記のような主畜的牧畑への変質を表すものとして、近年になって次のような変化が現れてきた。その一つは牧草の栽培ということであって、海士村崎では 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 3 近年になってから、冬期の干草として稗を作り、浦郷でも稗および粟を作るようになってきた。牧草の刈り取りについても、牧場内の生草は誰が勝手に刈ってもよい所(海士村崎)もあるが、耕作地を自分で刈り、残草は期日を定め、「スを立て」て刈る場合(宇賀)や、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 5 自分の所有地しか刈ることができず、他人の所有地で刈る場合は地主の許可を受けることになっている所(西ノ島町の蔵谷、赤之江、三度、珍崎等)もある。そして傾向としては、漸次、自分の所有地しか刈れない場合が多くなりつつある。このことは、個人主義的な 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 8 私有観念の発達によることはいうまでもないが、それとともに、相対的にではあるが、畜産の比重が重くなってきたことをも示すものではないかと思う。また以前、大山(焼火山)や蔵谷では、放牧頭数が多すぎる時に、慣行牧場内に一部の地主が私設牧場を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 10 設置したことがあった。これにたいし万田国太郎氏はその調査報告書において「将来かかることがあればやめて貰いたい」と言っているが、知夫村でも戦後、個人牧場の囲い込みが行われ、問題となった。個人主義的な土地所有と共同放牧との矛盾の顕われであるとともに 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 13 やはり畜産重視のあらわれでもあると考えられる。柵(牧柵、開地柵)の修築も、従来どおり部落や組合が共同作業でおこなう場合のほか、各個人の担当場所が定まっていて、個人毎におこなう場合も出てきている。ことに年々畑と牧畑との中間柵(開地柵)の場合は、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 232 15 個人個人で自分の畑の付近をやり、臨時に牛持ちだけの協議によって使用する臨時牧場の場合や、危険防止柵の場合は、牛持ちだけでおこなうことになっている。このことも、やはり牧畑の耕牧比重が変化し、穀作重視の牧畑から畜産重視の牧畑へと変質しつつあることを 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 233 17 示す一つの表れと見て差し支えないであろう。牧畑衰退、変質の原因。牧畑衰退と変質の事実、ならびにその形態について述べてきたが、このような牧畑の衰退、変質は、どのような原因によって起って来たのであろうか。これは一方において、明治以後における 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 234 1 交通機関の発達が、本土との物資の交流を容易にし、食糧の自給を建前とする牧畑経営の存続を不必要にするとともに、他方において、牧畑そのものが商品、貨幣経済の発達という時代の進展に順応できず、他の商品生産の発達のよって蚕食されたということが、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 234 3 原因として考えられる。しかも、これら他産業の生産力も、必ずしも充分には大きくはなかったので、隠岐島民の出稼や離村が次第に多くなり、これによる労働力の減少が、牧畑の耕種的利用を減少させ、そのことがひいては牧畑の草生を悪くし、牧畑への 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 234 5 放牧を減少せしめていった。なお牧畑の私有と共同放牧との矛盾もまた、牧畑を衰退せしめる有力な原因になっているように思われる。以下このような牧畑衰退の諸原因を、項を分ってのべることとする。第一項、食糧自給の必要性の低下。第二項、牧畑作物の非商品性。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 236 14 第三項、商品生産の発達。(イ)養蚕業の発達。牧畑の雑穀作に取って代った最も重要な商品作物は桑であった。これは安政開港後の輸出貿易において生糸、茶が重要な地位をしめるに至ったことに対応するものであって、牧畑作物の衰退と反比例して、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 237 9 牧畑の桑園化が進展した。ことに隠岐は日本海上の孤島である関係から、蚕蛆の発生が全然ないという好条件に恵まれ、蚕種製造地として西日本で重要な地位を占めるに至った。いま隠岐における桑園面積の変遷(第五.十一表)を見ると、明治30年頃には 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 237 11 僅か60町にも満たない状態であったのが、明治40年には133町、昭和2年には411町と増加し、昭和5〜6年頃の最盛期には622町4反(養蚕農家2711戸)に達し、その間、産繭量も明治初期の一萬貫内外から八萬貫にまで増加している。 1907 0 明治40年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁未 0 237 15 このような桑園の増加は、牧畑の桑園化によるものが大部分で、部落に近い牧畑は相当程度に桑園となっているのである。もっとも、このような急激な上昇の勢を見せたものの、その後、養蚕業が不振となって、昭和22年の桑園面積は66町弱となり、 1947 0 昭和22年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁亥 0 238 1 最盛時の十分の一近くまで激減した。しかし、一度桑園化した牧畑は、養蚕が不振となっても、再び牧畑に復帰することはなく、麦、豆、蕎麦などを作普通畑となって、牧畑衰退の原因となったのである。第四項、出稼と離村による労働力の減少。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 240 1 こにような出稼または離村による労働力不足が、牧畑の耕作放棄をもたらした場合もあることは、充分に考えられるのである。すなわち牧畑農業は、いうまでもなく粗放的な農業であはあるけれども、農耕者にとっては容易な労働ではなく、輪転の都合によっては、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 240 5 四粁以上も遠い所に耕作に出かけなければならない場合もあり、播種、収穫など並々ならぬ労働を必要をとする。第五項、牧畑の草生悪化と牧畑放牧の減少。牧畑衰退の一事実として述べた放牧家畜頭数の減少は、草生悪化が重要な原因であろうと考えられる。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 240 14 牧畑の草生は牧畑の耕作によって良好となり、自然草生の約三倍の草が伸びるといわれている。このことは逆に耕作が衰えれば牧畑は荒廃し、牧畑の荒廃は畜産を衰退に導くという結果になるのである。もちろん牧畑内耕地の耕作衰微ばかりでなく、牧畑内の耕地が 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 241 2 森林化することも、草生を悪くするのであって、まきはたの森林化による草生悪化も、牧畑の放牧利用を妨げ、牧畑衰退の一原因となっているのである。第六項、牧畑の私有と共同放牧権との矛盾。第七項、牧畑の衰逮において見られる地域差の原因。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 242 14 島後において牧畑が早く衰退したのは、一つにはその自然条件によるのである。一牧単位の面積が大きいもので9〜10町歩程度であったのに対し、島前はその土地が丘陵地形で表土浅く、島前全島が牧畑化されるよりほかに、利用の方法が見いだされなかったため、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 243 1 食事 その単位牧の面積も、大きなものは530町歩ほどもあり、小さなものでも170町歩程度はあった。当然の結果として、島前にあっては牧畑の経営は大規模であったが、島後にあっては小規模であった。したがって食糧生産の上において牧畑のもつ意義が、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 243 3 島前では絶対的であったのに対し、島後においては相対的な意義しか持たなかった。これと併せて、島後においては、前述のように水田と普通畑が多く、比重の小さな牧畑にも個人有が多かった。これらのことが、島後において牧畑衰退が化に速かにおこなわれたことの 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 243 6 原因ではないかと思われる。島後の牧畑が早く衰退したのは、これらのことに原因があると思われる。そのことは、島前にあっても、土地所有が割合に細かく分かれ、牧畑の所有者と共同放牧者との協調がよくおこなわれた黒木村、海士村では、比較的早く 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 243 12 衰退の傾向をとったことからも、裏付けられるであろう。島後が島前で生産された犢を購入し、舎飼による育成をおこなうようになった理由は何であろうか。島前の牧牛は戦後は放牧、犢生産、犢の移出という粗放的な牧畜の形態をとっている。これに対して島後は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 244 4 水田、普通畑を主とする、より生産の高い農村で、一戸当り七.五反の耕地を保有し、役牛飼養、舎飼による肥育も円滑におこなわれ、有畜農業が可能である。そこで島前の犢を安く値で購入して、舎飼による肥育をおこない、役牛としても使用し、牛価の高騰を見て 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 244 8 販売するのである。以上のような事情から、牛の飼養について、生産地としての島前と、育成地としての島後という地域てき分化がおこなわれるようになったのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 252 11 戦後における隠岐の牧畑。四区牧のうち、第一区牧は、前々年に作付た粟稗跡地に牛馬を放牧し、前年6月中旬に大小豆を蒔き、十一月にそれを収穫した後は、翌年十月中旬の麦類播種期まで十一カ月間、牛馬を放牧し、土地休閑が最も長いので、これを本牧という。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 252 13 このことからすれば、戦後の牧畑は、すでに放牧すなわち畜産中心に考えられていることが、わかるのであるが、所によっては、大小麦を栽培する第二区牧のことを本牧と呼んでいる。この場合は、牧畑を穀作すなわち耕種中心に考えての呼び方であることがわかる。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 253 1 隠岐牧畑の作物栽培法。牧畑に栽培する作物としては大麦、小麦、豌豆、大豆、小豆、粟、稗、黍、蕎麦等があるが、その中で最も多く栽培せられるのは、大麦、小麦、大豆、小豆、粟等で、その他は極めて少ない。作物作付の順序は上述のように一定しており、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 253 2 第一年目は粟、稗、第二年目は大豆、小豆、第三年目は大麦、小麦、第四年目は前年からの麦類と大豆、小豆の順序で輪栽され、四つの各区牧は毎年その栽培作物が変るだけでなく、それぞれの区牧について、上記の作付と放牧の順序を反復し、四年間で一周し、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 253 4 五年目には第一年目の方式にもどる。要するに牧畑は、前作物と後作物との間に一定の休閑期をおき、この休閑中に牛馬を放牧して地力を涵養し、栽培作物の減収を防ぐのである。牧畑における作物栽培法は極めて粗放的で、牛馬で鋤おこして播種するだけで、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 253 8 施肥、中耕は原則として行わず、僅かに一回の除草をおこなう程度で、収量は極めて少ない。(第六.三表参照)この調査によると、牧畑の反当所要労働は普通畑の約50〜60%で、牧畑の反当収量が普通畑の反当収量より劣っているにも拘らず、投下労働 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 253 14 一人当りの収量はかえって牧畑における場合の方が多く、一人当りについては、より高い収量をあげていることがわかる。牧畑が山の傾斜地等、本土では利用されていないような場所を利用して、収穫をあげていることは、注目すべきことといわねばならない。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 255 1 浦郷の牧畑。隠岐島の牧畑は、各村とも概ね四区制を以て、耕作と放牧とを交互に輪転させているが、浦郷では各部落と各牧との遠近関係から、放牧、管理、種付、耕作、収穫等、利用上の便利を考慮して、特に八区制を採用している。すなわち第一区から第四区までの 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 255 2 区画を主たる本牧場(牧畑)とし、第五区から第八区までを主たる区牧に属する従たる補助牧とし、それぞれ第一区には第五区、第二区には第六区、第三区には第七区、第四区には第八区という具合に附属させ、主樽牧とその附属の補助牧とは、常に同時に同一の 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 255 4 方法で利用されることになっている。したがって、八区制といっても、輪転の原則は昔の四区制と何ら変りはない。しかしある部落とある牧との距離の遠さからくる利用上の不便さが、補助牧の設置によって補われ、普通の四区制よりも、利用上、ずっと便利であった。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 276 8 牧柵。石垣の場合は半永久的であるが、普通に見られる木柵は、比較的短期間に腐朽するので、時々これを修理しなければならない。この牧柵の修理については、牧の土地の所有、あるいは牧畑の経営とは全く無関係に、全村民がこぞって、これに当ることになっている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 276 10 そして牧柵を造る場所になってい垣座付近の樹木は、その所有者が誰であろうと、自由に伐採して牧柵用に使うことが許される。すなわち、牧柵を造るために周辺の樹木が用いられることに対して、所有者は抗議を申し込むことができないのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 277 2 「知夫村沿革志」に「明治十七年以前、牧場ト耕作畑ノ間垣ハ戸々別々ノ長大ナル結立ヲ為スヲ以テ、完全ニ牛馬ノ侵入ヲ防グニ足ルベキモノ殆ド希ナリ、、、茲ニ於テカ、当村ノ戸長宇野幸彦氏ハ之ガ改良ニ着手シ、第一戸々別々長大不完全ナル垣ヲナサンヨリハ、 1884 0 明治17年 隠岐牧畑の歴史的研究 甲申 0 277 4 村民一致協同シテ以テ牧垣ノ負担ヲ軽クシ、堅固ナル方法ヲ設ケルノ急務ナルヲ示スト雖モ、数十百年ヨリ持続シ来リタル旧慣、如何ンゾ俄ニ改良説ニ賛成スルモノアランヤ」云々とある。放牧。牧畑の所有は個別所有であり、牧畑の経営も各農家単位に 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 277 14 おこなわれたのであるが、それにも拘らず、牧柵の造立、修理については、村民全部がこぞって、これに当らなければならない。その理由としては、これを牧への放牧関係に求めることができるであろう。すなわち牧への放牧は、どういう者がその権利を持って 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 277 16 いるかといえば、要するに村民の全部であって、たとえその牧において土地を所有せず、また全く農業経営をおこなっていなくても、村民である以上、共同に家畜を放牧しうる権利を持っているのであって、各人の職業やその放牧頭数についても、何ら制限はなく、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 278 2 その人が学校の先生であろうと、旅館営業であろうと、放牧の権利については、すこしも問題にならないのである。放牧期間は、馬は年中放牧(周年放牧)であるが、牛においては大体、三月下旬または四月から十二月中.下旬に至る期間が多く、冬期は舎飼する。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 278 9 そして農耕期間その他、必要な場合には、牧から連れ帰って耕耘等に使用するのである。牧畑が森林地となって生草の生産量を減じ、そのことが牧の放牧能力の減退をもたらしたためと考えられる。青草の生産力については、牧畑を耕作するのとしないのとでは、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 280 5 草の成長に三対一の開きがあるということであるから、森林地と牧畑地とでは、青草の生産量に恐らくこれ以上の差があるのであろう。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 281 2 牧畑の個人牧場化と森林への転用。牧畑の個人牧場化隠岐牧畑は普通田畑(内圃)の外側にある放牧地帯(外圃)に、耕作と放牧とが輪転するものであって、耕作は個人の私有地の上に、各個人によって自作または小作されるのであるが、放牧はその私有地の上に 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 281 6 平等の共同放牧権を持つ村民が、共同放牧をおこなうものであって、これは村落共同体としての色彩の濃い土地利用法であるといえよう。封建時代の村落共同体という雰囲気のもとにおいては、何の不思議もなくおこなわれたが、近年、個人主義的な自由主義の考え方が 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 281 9 島にも漸く普及するに及んで、自己も牧畑地私有権の上に使用権を行使して近代的経営の拡大をおこなおうと、農業なかんずく畜産に熱心な知夫村の仁夫では、従来からの慣行である村民の共同放牧権を阻止して、牧内の自己の所有地を垣で囲い込み、他人の牛馬を 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 281 12 入れない個人牧場がふえてきた。このような牧畑の共同的性格の崩壊傾向は、海士村において目立ってきた牧畑の森林化とともに、隠岐牧畑の衰退、変質に、さらに拍車をかけるものとして注目すべき現象である。畑地としての利用が困難であったので、止むを得ず 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 284 1 そこへ木柵の垣をめぐらして牛を放牧したのである。したがって、その発生は多分に偶然に支配されていたわけであるが、これは次のような種々の利点があり、非常に便利であった。すなわち(1)、普通の牧畑放牧では農繁期に牛を役畜として使用するため 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 284 4 舎飼いするのであるが、個人牧場にすれば、非常に広い牧場内に放牧されているのではないから、牛取りに手間がかからず、農繁期中でも舎飼の必要がない。したがって農繁期に牛を舎飼いするための世話と飼料確保に多くの労力を吸収されることから解放される。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 284 6 (2)、また共同放牧される一般の牧には、多数の牛馬が放牧される結果、牧草が不足したり、夏期には牛馬の飲み水が不足することもしばしばある。また東牧は一般に木陰が少ない。そのため、とくに東牧への放牧の期間などには、共同放牧せずに舎飼する人が 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 を飼育している。しかし農業従事者は、その家族構成調査表についてみると、平均二人で、しかも老人が多く、実際の稼働能力は恐らく一.五以下と考えられる。その上兼業農家が多い。したがって兼業農家の場合はもとよりのこと、専業農家の場合でも、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 289 6 一人当り約一町二反の耕作をし、牛一頭を担当することは、たとえ畜力を利用するとしても、これを完全に遂行することはきわめて困難であったと考えられる。他方、食糧事情が好転し、過重な労働によって低生産にかじりつきつつ食糧の自給度を高めねばならない 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 289 9 というような、かつての緊迫性も低下したので、通作距離が遠くて(平均一.五粁)、しかも生産力の低い牧畑の耕作は、放棄せざるを得ない羽目に追い込まれてきたのである。その上戦後の木材ブ−ムは、このような土地の生産性を高める上に大きな刺激を与え、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 289 11 牧畑の森林への転用の傾向を、一層ぞうかするようになったものと考えられる。第七章、結論。農業経営方式から見た隠岐の牧畑。以上隠岐の牧畑を、その生成、存続、衰退、変質の諸過程について眺めてきた。それによると、牧畑はその初め放牧地の耕種的利用によって 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 291 4 成立したもので、牧の耕地化が、その自然条件に妨げられて、他地方の場合のように完全な耕地に分化せず、かえって瘠薄な山地の粗放農業における地力維持の方法として、農耕が放牧と妥協し、大体中世末ころまでに序々に自然発生的に出来あがっていった 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 291 6 ものと考えられる。このように隠岐の牧畑は、初めは放牧地の耕種的利用によって成立したものであるから、最初の段階における牧畑は、まだ牛馬の飼養が主で、いずれかといえば耕種はむしろ従であったかもしれない。ところが近世封建時代になって、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 291 9 食事 人口が増加し、耕地がますます不足してくると、食糧自給の必要から、耕種の方がむしろ主になって、耕種本位の牧畑(あるいは大小豆作を含む穀作本位の牧畑)とでもいうべき状態になった。そのことは、この時代の記録が、すでに食糧生産のための耕作に 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 291 11 主眼をおき、牛馬はこれを野牛馬として野獣視し、その放牧は農作のために牛うまの糞尿によって地力を維持し、土地の瘠薄化を救う手段、またはその放牧によって雑草を断つ手段として考えていたことによっても解るであろう。また牧畑の各区牧の土地利用法による 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 1 名称をみても、当時の牧畑はいずれかといえば、畜産本位というより、むしろ耕種本位であって、本牧または本畑といえば、麦を収穫してその跡へ小豆を蒔く牧山のことを指し、牛馬を放牧しておく牧すなわち空山(アキ山)は休み牧で、この場合の牧は畑と 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 3 同義語であった。すなわち、この場合牧畑という名称それ自体がもともと牧と畑の交互輪転というような対等的な意味のものではなく、牧山の畑という意味であったのである。このようなことからも当時の牧畑が耕種本位のものであったことが解るであろう。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 5 そしてあこのような性格を持つ牧畑は、食糧の自給を建前とした封建時代においては、島民の生活のための農業として、極めて重要な意義を持ち、この時代に最も純粋な形で、最も広い区域にわたって、存在していたのである。このようにして隠岐の牧畑は、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 8 近世封建時代に、その最盛期に達したのであるが、徳川時代の後期から西廻航路による海上交通が発達し、これまで自給自足経済のもとにあった隠岐にも、商品、貨幣経済の波が押し寄せてくると、まず商品生産を目的とした漁業と林業が発達し、明治中期以降は、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 10 さらに交通の発達、商品貨幣経済の浸潤などによって、食糧自給の意義は衰え、漁業、林業のほかに養蚕業なども発達したが、それとともにまた出稼もふえ、牧畑はしだいに崩壊して森林や普通の年々畑に転化し、あるいは荒廃するものを生じ、牧畑として 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 292 13 残存するものも、封建時代の食糧自給に重きをおいた耕種本位の牧畑より、むしろ牧畜に重点をおいた畜産本位の牧畑へとへんしつしてきているのである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 309 10 観光 最近における隠岐牧畑の分解と新展開。隠岐牧畑の現況。西ノ島町浦郷の牧畑(719.8ヘクタ−ル、1290.7ヘクタ−ル)も、昭和35年頃から、漁業と観光業により、耕作はしなくなった。しかし放牧利用は慣行どおりおこなっている。黒木牧畑も 1960 0 昭和35年 隠岐牧畑の歴史的研究 庚子 0 310 1 昭和37〜8年頃の食糧事情の好転と農業従事者の減少などによって、生産性の低い牧畑は耕作しなくなったが、牧畑の放牧利用は昔のままの輪転方式でおこなわれている。牧畑の私有地への植林が進んでいるが、公有地では牧野改良がおこなわれつつある。 1962 0 昭和37年 隠岐牧畑の歴史的研究 壬寅 0 312 1 無畜農家の老後の楽しみ、または出稼者の支えとして、造林熱が急に高まってきたことである。この造林熱は牧畑内の土地の所有者が、自己の私有地をどう利用しようと自由であると考え、相対的に有利な造林をしたためで、牧畑内の私有地への造林は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 312 3 昭和30年代以後、急に増加してきている。このように造林が盛んのなったのは、海運の発達により木材が有利に販売できるようになったのに加えて、松苗代くらいの補助金は出るし、下刈の経費は牛の放牧によって節約できるからである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 1 知夫牧畑の現況。輪転の内容も名称も、以前とはだいぶ変っている。すなわち一見したところでは、四区輪転法の各利用方式の名称は、今も「アキ山」、「クナ山」、「粟山」、「大豆やま」となっていて、(第28図参照)、昔の「アキ山」、「麦山」、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 2 「粟山」、「クナ山」とほとんど変らないようであるが、しかし近年、牧畑の耕作をやめ、放牧を専らとするようになってきているため、従来からの空山(アキ山)を現在は「本牧」」呼び、従来の麦山または本牧を「草がら山」と呼び変える者も出てきている。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 4 すなわち牧畑に麦を作ることがなくなったため、麦山という名称が今では用いられなくなり、冬の乾草をとるための草がら山になっているのである。この点がまず注目されるのであって、以前は麦山を本畑あるいは本牧ともいって麦を常食とし、これを基幹作物とし、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 7 耕種本位の牧畑の観念を反映していたのであるが、今日ではその「本牧」の意味がすっかり変って、本牧といえば放牧する牧としてのアキ山(空山)を指すようになっている。すなわち「本牧」はもともと本牧作の略で、本作である麦作をおこなう牧あるいは 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 9 牧の畑という意味から「本牧」とも「本畑」ともいったのである。したがって「牧」は必ずしも放牧場を意味するのではなく、牧畑では「牧」と「畑」とは殆ど同義語として用いられたというのが、これまでの解釈あった。ところが、今では本牧は文字どおり 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 11 放牧を主とする区牧の意に解され、従前のアキ山を意味するようになってしまっている。(第28図参照)。ここに牧畑の性格変化がはっきり出てきているのであって、耕主牧従から牧主耕従へと発展した隠岐の牧畑は、今では専ら放牧を中心とする畜産のための 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 313 14 牧畑へと変化してしまっているのである。なお第28図でも見られるように、本牧に対して「補助牧」というりよう形態が、四年の牧畑輪転の間に二回ある。一回はクナ山の末期から粟山の粟、稗播き付けの五月中旬までと、もい一回は粟稗山の粟、稗など 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 1 収穫後から大豆山の大、小豆作の始まる六月中ごろまでとの二回である。この補助牧も浦郷や海士村などに前からあったものとは、かなり意味が違ってきている。すなわち、ここでの補助牧は、たとえば、ある区牧がアキ山(本牧)からクナやまに転ずるとき、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 3 そこの家畜を他の区牧に移動させる必要上、それぞれの区牧の輪転中に、その期間が組み込まれて考案されたものである。従前の牧畑における補助牧にも、一方ではこうした趣旨もないではなかったが、従前の補助牧の多くは、それよりも、一つの牧畑組織における 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 5 各区牧の面積や土地性、地質の不均衡を調整するように、単独では牧畑構成の単位となり得ないような区牧に対して補助牧を付属させ、家畜収容力や草生力の平均化をはかるというのが、主目的であったのである。だきら2〜3の牧畑には、原型の四牧のほかに 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 8 補助牧が付属し、浦郷牧畑のように合計八牧にもおよぶものがあったことは既に述べた通りである。ところが、ここでの補助牧は、前にも触れたように、例えば或る区牧が「アキ山」(本牧)から「クナ山」に転ずるとき、そこの家畜を他の区牧に移動させる 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 10 必要上、それぞれの区牧の輪転中に、その期間が組み込まれて考案されたものである。もっとも従前の牧畑でも、このように耕作しない刈地跡に一時放牧することは、ないわけではなかったが、これを補助牧と呼ぶことはなかった。いずれにしても放牧は 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 12 本牧と補助牧を利用し、それ以外の区牧は乾草牧(くさがらまき)として乾草取りと耕作に利用される。そして、このような乾草山における作物を栽培する予定地が、実際には耕作する人が少ない場合、その少数の牧畑耕作希望者に、全村から乾草を集めて 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 314 15 現物を提供し、乾草山にも放牧をおこない、牧を有利に利用している。また別の変化として、麦山の呼称がなくなった代りに、大(小)豆山の名が浮かび出てきていることも、注意しなければならない。これは過去にはクナ山の別名とされていたもので、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 315 1 麦作の代りに豌豆作が大、小豆の前作としておこなわれたこともあった。牛馬頭数の減少。労働力の急激な不足も、同時に合わせ考えねばならない。さらに見のがしてならないことは、このように最近の和牛の飼養は、肉用牛の飼養とくに子牛取りに集中してきたことで 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 322 2 近時のまきはた放牧は、かつての牧畑放牧と大分事情が違って、新しい畜産政策(選択的拡大)上の一大転換期にきているということである。すなわち、もともと耕牛として小型を特徴としてきた隠岐牛から、肥育型に改良しようと反省されだしてきていることである。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 322 5 この場合、牧野改良の問題、優良雄牛の導入、放牧地の衛星管理、牧畑での子牛の自然分娩の問題、とくに冬期における飼養管理の問題等々、牧畑放牧にとって考えねばならない多くの課題があり、役肉牛から肉用牛への切替えに手間取っていることも 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 322 10 牛頭数減少の原因となっているのではなかろうか。このような牛馬頭数の減少は、隠岐牧畑が衰滅しつつあることの他の一面を表すものであって、牧畑耕作のための耕牛としては、作付がなくなれば不必要となるのは当然である。ところが第八.七表、第八.八表でも 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 323 6 見られるように、ごく最近、昭和42年から少しずつではあるが、牛の頭数がふえつつある。これは肉用牛の不足から牛価が高騰したためで、今日増加しつつある牛は肉用牛であって、かつての役牛または役肉兼用牛ではないのである。 1967 0 昭和42年 隠岐牧畑の歴史的研究 丁未 0 326 3 出稼。しかしながら、牧畑の分解を決定的にしたのは、なんといっても労働力の島外流出である。出稼は産業経済の後進的な隠岐では、かなり古くからほとんど常態であった。ここ20〜30年前まで、隠岐が結核汚染度のもっとも高い地域となっっていたのは 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 326 8 若い出稼罹病者の帰郷によって主として家族に感染し、ひろがったものといわれた。それほど出稼は隠岐の名物的現象であったのである。其後、結核問題はなくなったが、出稼者は依然として跡をたたず、とくに30年代に入ってからますます高まってきた 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 326 12 本土産業の労働力需要は、島の出稼に一層の拍車をかけることになった。隠岐牧畑の新展開。第八.二三表から、売り戸数買い戸数とを見ると、取引方法は違っても、総取引戸数としては同数である。ただ個々の農家が何頭売り、何頭買ったかという、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 338 2 それぞれの頭数を知る資料が得られないのは残念であるが、ともかくも、売った飼養者のかなりの部分が、補充買いをしていることだけは推測できそうである。いま仮に成牛二頭を飼養する者が、その一頭を売って、当歳のめす子牛一頭を補充するとすれば、 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 338 5 第八.二四表からわかるように、差引き約四万九千円の収益となる。まことに微々たる現金収入ではあるが、第八.二五表によって農作物販売額別にみると、二万円未満の階層が専、兼業ともに最も多く、これに次ぐものが二万円〜十万円、そして十万円を越える 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 338 8 階層にいたっては急減する。この実情と対照すれば、畜産の実収益としての五万円近い額は、牧畑農家の経済にとっては、やはり大きな支柱といわねばならない。 0 0 隠岐牧畑の歴史的研究 0 9 1 古伝説。神社に関するもの。比志利が岩、神代には数多の神々様が、隠岐島に渡られたのであるが、或る時比志利の神は外国から御帰国の節海上俄に掻曇り、暴風吹起って波涛山の如く、御船は殆んど危かった。神は千辛万苦を忍んで辛うして隠岐 0 0 浦郷町誌 0 9 6 浦郷村珍崎、フイドシ灘と云ふ所に御着きになった。然れども此地は断崖絶壁で僅かによじ登るべき峻阪があるばかりであった。一歩を誤れば、先尋の海底に墜落するばかりであった。勇敢なる神は両の御手で岩角を握らせ給ひ山上によじ登られ、 0 0 浦郷町誌 0 9 11 岩上でホット一息せられた。(御手の跡御腰掛の岩今に残って居る。)神は此山から続く狭山に行かれ、此処の山腹に岩屋を造らせられて住居とし、数年の後おかくれになった。土人は懇ろに岩屋に葬り奉り比志利が岩屋と称へ、また神徳を慕って 0 0 浦郷町誌 0 9 15 後世産土神と崇め今日に及んで居る。(島根県口碑伝説集)待場神社。猿田彦命、三度里へ出現ましますこと三度にして三度里といふ。(待場神社由緒小出家所蔵)由良比女神社。由良比女命、由良浦の畳石といふ所に烏賊を御手にもち苧桶に乗り 0 0 浦郷町誌 0 10 7 て出現し給ふ。(神道大辞典)由良比女命が、遥々苧桶に乗って渡を苧渡りになる時、或る日、長い海上の徒然に海潮に手をおひたしになると悪戯者の烏賊共が比女命の手をお引きになった。その罪を謝するため、比女命が由良へ鎮座遊ばされてか 0 0 浦郷町誌 0 10 12 ら毎年季節をとって、由良の浜へ烏賊が寄って来ると言ふ。古伝がある。(由良比女神社社伝)地名に関するもの。三度。猿田彦命が三度里へ出現すること三度で、此の名が出来た。立島(たてしま)猿田彦命が三度で大日霊貴命を御待ちして居ら 0 0 浦郷町誌 0 11 2 れると、やがて大日霊貴命は天鈿女命を従ひさせられて、大神(おほかみ)と言ふ海中に立島(たてしま)と言って、五拾丈許りの島に天降りをされた。そうして後猿田比子の命の御許に到り賜ひ、暫く御腰を憩せられたし今に御腰掛の石として残 0 0 浦郷町誌 0 11 6 って居る。(待場神社由緒)峯見山(みねみやま)そこで天細女命(あめのうづめのみこと)は山にのぼりまして、大日霊貴命の御鎮(しずま)り遊ばす地は、いづれの地がよからうかと山の峯々を御覧なさいましたので、此の地を峯見山と言ふ様 0 0 浦郷町誌 0 11 10 になった。仮床(かりどこ)峯見山から凡そ参拾町許り東方の山に供奉し奉って、暫く此処に鎮り給ふ事になった。そこで仮床といふ。硯水(すずりみず)。「此の山は谷一つ足らない」と仰せがあって、大神は御筆をお取り遊ばされた。そうして 0 0 浦郷町誌 0 11 15 焼火 其所の谷水を御筆にしめされたので硯水の地名が残った。烏床(からすどこ)。やがて大神に書を認めさせられて虚空に投げ上げられたところ、不思議や恰度その時彼方の頂きから二羽の烏が飛び来って御文を嘴にして、遥か東、焼火の山をさして 0 0 浦郷町誌 0 12 5 焼火 飛び去った。烏床はそうした由緒のある所である。生石島(おいしじま)。焼火の山の神様は、早速御神勅を承ってそこら屈意の大宮所を御選定遊ばされて、御報告申し上げましたので、猿田彦名と天鈿女命の御二柱の神は、すぐに大日霊貴命を焼火の 0 0 浦郷町誌 0 12 10 山に御送りして、後二柱の神は三度の浦、奈那をいふ所に御越になって、雌雄二つの石を生まれてから御光を放ってお隠れ遊ばされた。そうした後其二個の神石を以て二柱の大神の御霊璽とした。待場(まちば)里人はこの御霊璽と斉き奉る事 0 0 浦郷町誌 0 12 15 になった。そうして其処を待場といふに至った。(待場神社由緒小出家所蔵本より) 0 0 浦郷町誌 0 42 10 赤崎の伝説。佐々木隠岐判官のこと。元弘の昔、後醍醐天皇隠岐に遷幸あり。別府村黒木御所に行在中、北条高時の下知により、浦郷村字城山と云ふ塞を構へ、佐々木隠岐判官之に在城し、又同村字番屋と云ふ処に番所を設け、遠見番を置く等、防 0 0 浦郷町誌 0 42 10 伝説・後醍醐 赤崎の伝説。佐々木隠岐判官のこと。元弘の昔、後醍醐天皇隠岐に遷幸あり。別府村黒木御所に行在中、北条高時の下知により、浦郷村字城山と云ふ塞を構え、佐々木隠岐判官之に在城し、又同村字番屋と云ふ所に番所を設け、遠見番を置く等防備頗る厳重であ 0 0 浦郷町誌 0 42 15 備頗る厳重であった。されど判官の心中には、如何にしても密に、内地に送り奉らんと思って居る。時恰も浦郷港字赤崎という処に伯州船が碇泊して居た。是れ正しく天幸なりと、二人の密使を選んで御所に忍ばせ、元弘二年壬申八月一日、天皇を 1332 801 元弘2年 浦郷町誌 壬申 0 42 15 伝説・後醍醐 った。されど判官の心中には、如何にしても密かに、内地に送り奉らんと思って居る。時恰も浦郷港字赤崎という所に伯州船が碇泊していた。是れ正しく天幸なりと。二人の密使を選んで御所に忍ばせ、元弘二年壬申八月一日、天皇を密かに送り奉る。美田字 0 0 浦郷町誌 0 43 1 伝説・後醍醐 宮崎と云ふ所までは、陸路を背負ひ奉り、それより御船に召され、浦郷港碇泊の伯州船へ遷し奉り、御船は密かに漕ぎ出でた。皇船の港を離るること、凡そ十余里の沖合に出でさせ玉ふ由を番所より注進に及び、判官は大いに驚いた面持ちで、片時も早く追船を漕 0 0 浦郷町誌 0 43 4 密に送り奉る。三田字宮崎と云ふ処までは、陸路を背負ひ奉り、それより御船に召され、浦郷港碇泊の伯州船へ遷し奉り、御船は密に漕ぎ出でた。皇船の港を離るること、凡を十余里の沖合に出てさせ玉ふ由を番所より注進に及び、判官は大いに驚 0 0 浦郷町誌 0 43 9 いた面持で、片時も早く追船を漕出せよと船夫等に命令し、数艘の船を拵へさせ追懸けたれど、順風に真帆を上げたこととて、皇船は走ること矢の如く、影も見へずなって、追手の船は空しく引かへした。(島根県口碑伝説集) 0 0 浦郷町誌 0 43 10 伝説・後醍醐 出せよと船夫等に命令し、数隻の船を揃えさせ追い掛けたけれど、順風に真帆を上げたこととて、皇船は走ること矢の如く、影も見えずなって、追っ手の船は空しく引き返した。(島根県口碑伝説集) 0 0 浦郷町誌 0 43 13 赤之江の地名伝説。元弘の昔、後醍醐天皇小向の里から小舟に召されて、今の入江を赤崎の岬に急がせられる際、誤って笏を海中に取り落された。それから此処を「笏の江」と称へたので、後世赤崎の赤を入れて赤之江と訛したものである。当時の御製 0 0 浦郷町誌 0 43 15 伝説・後醍醐 赤之江の地名伝説。元弘の昔、後醍醐天皇小向の里から小舟に召されて、今の入江を赤崎の岬に急がせられる際、過って笏を海中に取り落とされた。それから此処を笏の江と称えたので、後世赤崎の赤を入れて赤之江と訛したものである。当時の御製として、「 0 0 浦郷町誌 0 44 1 伝説・後醍醐 幾度か思い定めてありながら、夢やすろはぬ赤崎の宿(夢さすからぬともあり)」「朝な夕な民やすかれといふだすきかけて祈らん茂理の社に」など古老の口に語られている。この第二に「朝な夕な」の歌は松浦静麿氏の説によると、西郷町の流人となって在住 0 0 浦郷町誌 0 44 3 として、幾度か思ひ定めてありながら、夢やすろはぬ赤崎の宿。○夢やすからぬともあり、朝な夕な民やすかれといふだすき、かけて祈らん茂理の社に。等古老の口に語られている。この第二の「朝な夕な」の歌は松浦静麿氏の歌であるとの事である。 0 0 浦郷町誌 0 44 10 伝説・後醍醐 した樋口功康作の歌であるとの事である。 0 0 浦郷町誌 0 135 1 浦之郷村人口。年代(元禄3−4頃)。総数(1068人)男女別(男、492人、女、560人)内訳(坊主4人、尼1人、道心11人)原拠文献(隠州視聴記「元禄3−4」) 1690 0 元禄3年 西ノ島 浦郷町誌 庚午 0 135 2 年代(不詳なれど元禄15)総数(1033人)男女別(男473人、女548人)内訳(坊主4人、神主1人、道心7人)原拠文献(隠岐記「元禄15位の記事」) 1702 0 元禄15年 浦郷町誌 壬午 0 135 3 年代(天保13)総数(1565人)男女別(男732人、女833人)内訳(出家6人、社家1人、医者1人、百姓1557人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1842 0 天保13年 浦郷町誌 壬寅 0 135 4 年代(弘化4)総数(1627人)男女別(男766人、女861人)内訳(出家6人、百姓1621人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1847 0 弘化4年 浦郷町誌 丁未 0 136 1 年代(嘉永2)総数(1686人)男女別(男805人、女881人)内訳(出家4人、百姓1682人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1849 0 嘉永2年 西ノ島 浦郷町誌 己酉 0 136 2 年代(嘉永4)総数(1717人)男女別(男823人、女894人)内訳(出家7人、社家1人、百姓1703人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1851 0 嘉永4年 浦郷町誌 辛亥 0 136 3 年代(嘉永5)総数(1713人)男女別(男823人、女890人)内訳(出家9人、社家1人、百姓1703人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1852 0 嘉永5年 浦郷町誌 壬子 0 136 4 年代(安政2)総数(1774人)男女別(男858人、女916人)内訳(出家5人、社家1人、百姓1768人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1855 0 安政2年 浦郷町誌 乙卯 0 136 5 年代(安政3)総数(1790人)男女別(男866人、女924人)内訳(出家5人、社家1人、百姓1784人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1856 0 安政3年 浦郷町誌 丙辰 0 137 1 年代(安政4)総数(1814人)男女別(男879人、女935人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1809人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1857 0 安政4年 浦郷町誌 丁巳 0 137 2 年代(安政5)総数(1825人)男女別(男880人、女945人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1820人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1858 0 安政5年 浦郷町誌 戊午 0 137 3 年代(万延元)総数(1871人)男女別(男896人、女975人)原拠(専念寺、常福寺宗門帳) 1860 0 万延元年 浦郷町誌 庚申 0 137 4 年代(文久元)総数(1884人)男女別(男904人、女980人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1879人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1861 0 文久元年 浦郷町誌 辛酉 0 137 5 年代(文久2)総数(1906人)男女別(男917人、女989人)内訳(出家4人、社家1人、百姓1901人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1862 0 文久2年 浦郷町誌 壬戌 0 138 1 年代(慶応2)総数(1860人)男女別(男923人、女938人)内訳(出家5にん、社家1人、百姓1854人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1866 0 慶応2年 浦郷町誌 丙寅 0 138 2 年代(慶応3)総数(1873人)男女別(男921人、女952人)内訳(出家6人、社家1人、百姓1866人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1867 0 慶応3年 浦郷町誌 丁卯 0 138 3 年代(慶応4)総数(1930人)男女別(男947人、女983人)内訳(出家6人、社家1人、百姓1923人)原拠文献(専念寺、常福寺宗門帳) 1868 0 明治元年 浦郷町誌 戊辰 0 138 4 浦之郷牛馬数。年代(元禄3−4)総数(317疋)内訳(馬149疋、牛168疋)原拠文献(隠州視聴記) 1690 0 元禄3年 浦郷町誌 庚午 0 139 1 年代(元禄15)総数(438疋)内訳(馬260疋、牛178疋)原拠文献(隠岐誌) 1702 0 元禄15年 浦郷町誌 壬午 0 139 2 年代(嘉永7)総数(154疋)内訳(馬56疋、牛97疋)原拠文献(浦之郷村牛馬御改帳) 1854 0 安政元年 浦郷町誌 甲寅 0 139 3 年代(安政6)総数(146疋)内訳(馬56疋、牛98疋)原拠文献(浦之郷村牛馬御改帳) 1859 0 安政6年 浦郷町誌 己未 0 139 4 浦之郷船数。年代(元禄3−4)総数(64艘)内訳(渡海船1艘、手安船8艘、トモド船55艘)原拠文献(隠州視聴記) 1690 0 元禄3年 西ノ島 浦郷町誌 庚午 0 139 6 年代(元禄15)総数(82艘)内訳(手安船12艘、トモド船70艘)原拠文献(隠岐誌) 1702 0 元禄15年 浦郷町誌 壬午 0 139 7 年代(天保10)総数(67艘)内訳(小渡海船2艘、手安船22艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村船御改帳) 1839 0 天保10年 浦郷町誌 己亥 0 139 8 年代(天保13)総数(71艘)内訳(小渡海船2艘、橋舟2艘、手安船22艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳 1842 0 天保13年 浦郷町誌 壬寅 0 140 1 年代(嘉永2)総数(80艘)内訳(小渡海船6艘、橋船3艘、手安船27艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1849 0 嘉永2年 浦郷町誌 己酉 0 140 2 年代(嘉永7)総数(85艘)内訳(小渡海船7艘、橋船7艘、手安船27艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1854 0 安政元年 浦郷町誌 甲寅 0 140 3 年代(安政2)総数(86艘)内訳(小渡海船7艘、橋船7艘、手安船28艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1855 0 安政2年 浦郷町誌 乙卯 0 140 4 年代(安政6)総数(90艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、橋船9艘、手安船28艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1859 0 安政6年 浦郷町誌 己未 0 140 5 年代(文久2)総数(98艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、橋船9艘、手安船36艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1862 0 文久2年 浦郷町誌 壬戌 0 140 6 年代(文久4)総数(99艘)内訳(大船2艘、小渡海船8艘、橋船10艘、手安船35艘、トモド船44艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1864 0 元治元年 浦郷町誌 甲子 0 140 7 年代(慶応3)総数(96艘)内訳(大船2艘、小渡海船7艘、手安船34艘、トモド船44艘、橋船9艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1867 0 慶応3年 浦郷町誌 丁卯 0 140 8 年代(慶応4)総数(95艘)内訳(大船3艘、小渡海船6艘、手安船33艘、トモド船44艘、橋船9艘)原拠文献(浦之郷村御改帳) 1868 0 明治元年 浦郷町誌 戊辰 0 157 7 神楽 諸社常例神事。徳川時代に於ける神社の建造などによる遷宮道師は、赤之江の神社をのぞき、凡て常福寺、専念寺の住僧によって勤められた様諸社の棟札に見えて居るが、彼様な場合の湯立神楽を初め、諸社の神事は其の一切を、社家秋月日向の家 0 0 浦郷町誌 0 157 12 で行ったもので(尤も、由良山王社等各々神主が祠官として祭典を行ふ様になったが大体は浦之郷村1軒の社家として)何人も之を犯す事が出来なかった。従ってこの社家の格式は高かったもので、左に古記録の2、3を挙げて、この時代の村内各 0 0 浦郷町誌 0 158 1 社の祭事を伺ふ事にし、由良、山王等の特殊神事は「神社」並に「古舞楽」の項で述べるとしやう。浦之郷村諸社常例神事定日記並家格勤来利之社家記録。浦之郷村惣鎮守常例神事定日記。1、伊勢大神宮。六月十日十一日、二季の祭礼料、御初穂 0 0 浦郷町誌 0 158 7 夏麦壱升づつ、秋大小豆五合づつ、合せて壱升づつ、郷中家毎無残り奉納可仕事両度祭礼辞当料六百づつ、郷中より差上可事。社務送り迎ひ三里隔年。1、由良姫大明神。六月初午十月晦日両度祭礼、御初穂郷中より同断、社務司送迎人歩千人割、 0 0 浦郷町誌 0 158 13 社務司賄宮守方から可仕事、附、三箇年目壱度づつ、同社大祭御初穂銭弐〆づつ、奉納可仕事、此時社務送迎之人歩、西方三里隔年、社務賄宮守から御祝ひの重、と並白米供物壱升宮守方より社頭ヱ持参、尤組ミ重ニ餅と重飯ふた重にしめと重社務 0 0 浦郷町誌 0 159 2 司方江差出し可申、干時人歩舟之儀は人舟大小多少指引致社務より任仰ニ差出し為勤可為申メメ事。山王大権現。六月初申十月二十七日、二季之祭礼御初穂本郷中家毎無残り、夏秋ともに右同断。小麦供物壱升、宮守方より社務司方江可差出し中、社 0 0 浦郷町誌 0 159 8 務賄宮守家より、社務送迎之人歩本郷里丈け順番、秋祭礼之節大小豆の類、供物壱升、宮守方より可差出申事、附り、三ケ年目ニ壱度同社十拝礼、御初穂銭二貫づつ、郷中より社務方ヱ此秋白米壱升供物並社務賄宮守方寄り可勤御祝ひの餅一重、社 0 0 浦郷町誌 0 159 13 頭ニ而社務江宮守より可差出し渡し申、社務送迎之人歩、西方三差方順番謹しむ。三浜大荒神、宮守庄屋。六月十月二十八日、御初穂麦壱斗弐升、秋大小豆合せて六升ツ、壱年弐升、供物、夏小麦壱升、秋供物大小豆類壱升、社務賄宮守方より、社 0 0 浦郷町誌 0 160 3 務迎之舟人歩、舟之大小泙日和りニ任セ庄屋方より可勤事並名子よりも、夏秋ともに壱升ツツ御初穂奉納可仕事。稲荷大明神、宮守庄屋。二季ともに同月同日、御初穂右同断、社務賄迎人歩可為前條事。宝大荒神、宮守、荒光面屋。祭日二季共同月 0 0 浦郷町誌 0 160 10 同日、御初穂夏秋ともに右同断、社務賄送り之人歩並供物ともに可為前條事。稲荷大明神、宮守右同所。祭日二季共同月同日、御初穂右同断。平野若宮八幡、宮守、庄屋年寄り百姓の順番。六月十月十五日、御初穂夏麦壱升づつ、秋大小豆五合づつ、 0 0 浦郷町誌 0 161 1 合せて壱升づつ、本郷家毎無残り社務司賄迎之人舟泙日和りニ任セ、庄屋年寄り百姓中順番ニ可勤事。附り供物夏小麦壱升、秋大小豆類壱升可奉納仕事。石神大明神。宮守、薄古、石上ミ、小使。祭日二季ともに右同月同日、御初穂夏麦壱斗弐升、 0 0 浦郷町誌 0 161 6 秋大小豆半分ツツ合せて壱斗弐升並供物、社務司賄送り之舟人歩、宮守方より泙日和り任せ可為前條事。附り心願之面々御初穂麦持参にて、社務司江可差上申事。三宝大荒神。宮守、中原、三左衛門。六月十月十四日祭日、御初穂並供もつ可為前條 0 0 浦郷町誌 0 161 11 事。社務司賄送迎之人舟宮守より可勤事。大原大明神。常福寺鎮守。六月十月十八日、御初穂、夏麦、秋大小豆五ごうづつ合せて壱升ツツ、薄古、荒老坂之浦、家毎無残り並常福福寺名子之者中よりも御初穂壱升ツツ奉納、社務司賄薄古、荒老、順 0 0 浦郷町誌 0 162 2 番、社務司迎之舟人歩右両所隔年泙日和りニ依り可為前條事、附り供物同前。住吉大明神。宮守、薄古屋しき。二季之祭日右同日、御初穂麦壱斗二升、秋大小豆半分ツツ、合せて壱斗弐升、供物夏秋共前條之通り、社務司賄送り之人歩宮守方より泙 0 0 浦郷町誌 0 162 7 日和りニ任セ可為前條事、有志之面々御初穂麦持参社務方江差上可申事。聖大権現。珍崎産神。祭日六月十月無定日。夏麦壱升ツツ秋大小豆半分ツツ合せて壱升ツツ、御初穂家毎無残り奉納、社務賄送迎舟氏子より泙日和りニ任セ舟大小手間之多少 0 0 浦郷町誌 0 162 12 差出し可申、附り供物同前。荒神。稲荷両社。右同所。祭日六月十六日十月二十六日、御初穂家毎無残り同前社務賄送り迎ひ並供もつ可為前條事。需場大明神。三度産神。祭日六月十月無定日、御初穂並供物社務司送迎賄ニ至迄可為前條事。宇桶美 0 0 浦郷町誌 0 163 5 大明神。右同所産神。二季ともニ祭日同日、御初穂並供物右同断。荒神、稲荷両社、各同所。祭日六月十月二十日、御初穂並供物社務賄送迎右同断。山之神。右同所。二季ともに祭日両氏神と同日御初穂並供物可為前條事。五行神社茂理大明神笏之 0 0 浦郷町誌 0 163 11 神楽 江産神。祭日六月十三日十月二十五日、御初穂並供物、社務賄送迎之人歩可為前條事。稲荷大明神。右同所産神。六月二十二日夜宮之湯五神楽御初穂銭弐〆社務賄ヒ氏子順番送迎之人歩ともに十月二十二日同社秋祭り家毎無残り御初穂奉納但し大小 0 0 浦郷町誌 0 164 2 豆前條通賄送迎右同断。三宝大荒神。右同所。祭日六月十月二十二日、御初穂並供物可為前條事。山神宮(まとばの)同所。祭日二季ともニ同日御初穂並供物可為前條事。青根大明神。同所。祭日六月十月十三日、御初穂並供物右同断賄、新ん屋、 0 0 浦郷町誌 0 164 9 上ミ、愛蔵、三軒順番社務送迎同断。木本神社。同所。二季の祭日同日、御初穂並供物右同断氏子より。弁財天。三度。二月初辰之日、御礼御詫祭り、御初穂銭壱〆弐百メメ社務賄送迎氏子より。但し供物弐升奉納可仕事。弁財天。珍崎。同月初己之 0 0 浦郷町誌 0 165 1 神楽 日祭礼右同断御初穂並供物賄送迎可為前條事。弁財天。笏之江。祭日同月同日。社務賄料。白米弐升其外可為前條事。蛭子神楽。本郷。二月七月無定日、御初穂銭壱〆弐百文供物弐升社務賄送迎漁夫中。蛭子神楽。笏之江。祭日二季ともニ同月無定 0 0 浦郷町誌 0 165 9 神楽 日、可為前條事。蛭子神楽。珍崎、可為前條事。蛭子神楽。三度、可為前條事。郷中作祈祷。湯律神楽。三月八日、無定日、御初穂銭四〆文賄送迎郷中。郷中風神祭。四月七月十七日、御初穂賄送迎可為前條事。春秋両度之社十七日、祈祷料金壱両 0 0 浦郷町誌 0 166 1 ツツ、両度御中より来る。毎々之御詫なくば、御初穂銭壱〆二百文但シ賄別として。諸御神事之節、料もつ奉幣紙並休日参詣勿論之事。社家々格勤来りの事。一、浦之郷村壱軒之社家建立並納屋場、雪隠附り之事。一、郷中より人歩出し来り勿論之 0 0 浦郷町誌 0 166 7 事。小破は勿論大破ニ不及様社務方より通達ニ任セ早々御直し可申事。一、両御公儀様御用之節、郷中より泙日和リニ任セ人歩出し来り之事。附り舟も准し之ニ候事。一、社家病人有之候節、郷中より、金壱両見舞出し来り之事。一、御本署様は表 0 0 浦郷町誌 0 166 13 面親子入替り之節社家住職全郷中より壱貫目社家通達ニ任セ出し来り之事。一、社家相続人継目料、五十貫づつ郷中より可為前條事。一、社家当職ニ相成候得者、社家住職祝ひニ庄屋年寄り百姓ニ至迄皆袴をかけ羽合ニ而集祝可仕事。一、社家方江 0 0 浦郷町誌 0 167 3 年頭歳末ニ村役分並百姓間脇ニ至迄升物壱升ツツ持参上下ニ而皆可勤事。日限極月二十八日、正月三ケ日往古より通り。一、社家方より庄屋年寄方に出勤之節己れ己れ之私宅奥之誥之間ニ而神事御膳之あいさつ勿論之事並門送り見律之事外庭江出勤 0 0 浦郷町誌 0 167 8 可有事。一、於社家神主日本神國ニ者分武之士也地頭之領主兼備之職也と候得ば、村役分より呼放等並附け一切相成り不申候事。一、社家諸再興之節、庄屋方上通達のミ先例之事。一、社家借金出来候節者、村役分中相頼ミ申候得は郷中配当ニ而社 0 0 浦郷町誌 0 167 14 務方得早々相渡し払ひ来り勿論之事。一、庄屋方ニ而正月十六日清浄候て其夜御日待社家と坊主隔年ニ勤来り勿論之事、附り社務送迎勿論之事。一、正月十七日の夜郷中麦作祈祷之日当村役分中並百姓共ニ集合いたし相勤申候、但し宿は社家坊主隔 0 0 浦郷町誌 0 168 3 年ニ勤来りニ候は行者人は社家方ならば社家斗り、寺高ならば寺斗ニ而相勤申し、附り御日待之賄米一統寄り合不申とも糧米一統之價ヱ程宿方江掛け流しニ往古より之通り差出し渡し可申事。但し年行司来本〆いたし、其秋之供物白米壱升ニ大豆壱 0 0 浦郷町誌 0 168 9 升御礼紙並奉幣紙銭六百分、行者人江御布施油ゑん下不薪八百屋もの等。一、社家居所より西方よりは、夏秋両度之日待社家方より出勤古例之事。一、庚申祭り並臨時祈祷日需西方三里社家方より出勤前条通り。一、毎歳西方三里年寄り百姓中春の 0 0 浦郷町誌 0 168 15 日待家毎兼勤社家より出勤古例の通り。一、毎歳星祭り西方三里年寄り百姓中社家頼ミ頼りいにしへの通り。一、毎歳月待西方三里家毎無残り社家方江参勤古例之事。尤庄屋儀は寺社隔年ニ月需ニ参勤可仕事。附り月待料年寄り所ヱ相集〆社家方江 0 0 浦郷町誌 0 169 6 月需前日ニ贈り届け可申古例之事有来里月待毎歳承知可有事。一、毎歳十月十六日之夜社家方之月日需之節西方三里年寄り百姓中御初穂銭弐百文ツツ、年中之御礼頼置之日待頼来り従往古之通り勿論之事。一、毎歳月日待之節他家より病人之臨時祈 0 0 浦郷町誌 0 169 12 梼相互先きに可修行へ事。一、社家病死之節社家居在所年寄、庄屋方江通達ニ及び候得者郷中庄屋年寄り袴を掛け社家方江早々集り壇中従諸方之社家方ヱ々毛之人歩並舟大小泙日和りニ任セ差律申、役分自身儀は上下手弁当ニ而供奉往古より勿論之 0 0 浦郷町誌 0 170 3 神楽 事。附り社家方ヱ香尊金壱両弐歩村方より往古より之通り差出し可申上事。一、社家病死年より二年目か三年目ニは霊祭神楽料金弐両村方より往古之通り差出可申上候並諸方之社家送迎之人歩次ニ神楽さんじじき拵ひ之人歩郷中より可為前條事。一、 0 0 浦郷町誌 0 170 8 神楽 社家葬式神楽。相勤従往古之例ニ任セ寺社合勤勿論之事並七日目之橋経社中合勤其節泙日和りニ任セ舟大小手間之多少送迎之人歩可為前條事。一、由良山王之宮守病死之時神楽葬式先例ニ任セ寺社合勤勿論之事、附り七日目之橋経も往古より之通り 0 0 浦郷町誌 0 170 12 社家出勤勿論之事。御初穂銭壱〆文ツツ也。七日目之勤料物御定法通り霊神ヱ可奉調進事、附り社家送迎之舟人歩勿論之事。尤病死有れば社家方江早速届ケ可有事。一、諸御祈祷之日限社家より儀定いたし可遣ス儀は勿論之事。一、郷中諸御祈祷勤 0 0 浦郷町誌 0 171 2 場所之儀は当國御祖廟或ハ御場之神社ニ而可勤者勿論之事其外山王ニ而勤度事有らば、社家ハ氏子可任相談之事、尤郷中氏子一統諸神事、社家方江頼度時ハ村役分ヱ願ケ間敷儀は一切入り不申思通り直様社家方ヱ出願可申事。一、毎歳竃祓料郷中家 0 0 浦郷町誌 0 171 7 毎無残り、麦壱升ツツ御初穂可備調仕事。一、毎歳年越清浄郷中村役分並百姓中相勤可申儀は勿論之事。一、毎歳竃祓極月朔日より相始幾日ニ数相重りし而も村役分家ニ而社務賄可仕事、附り竃祓中半ヱ諸方より病人之臨時祈祷申来り候得は早速其 0 0 浦郷町誌 0 171 13 分相互先きにいたし勤可遣し貰事。一、毎歳竃祓極月二十四日迄ニ勤残候而も、二十四日には社家帰宅之儀者従往古之通り勿論之事。一、両御公儀様を始村持之社家、偽り諸社之宮守百姓神祇有、妨け候輩有之候得は村役分より吟味致祇は勿論之事。 0 0 浦郷町誌 0 172 4 一、諸方ニ不法をいたす輩有之候か、又は何そ不法のいたし方見出し候得ば、早々社家方より御公儀様御触御主意通り直様御奉行所江御達しに可及祇は勿論之事。一、毎歳有来り之諸神事祭礼為無怠慢村役分より組下江常可申渡し儀は勿論之事。一、 0 0 浦郷町誌 0 172 9 神楽 当村総鎮守奉仕兼帯之社家より郷中夫レ夫レ之氏神之玉串者夫レ々レ之氏子衆江御公儀様御触御主意通り配札勿論之事。一、当村於諸方ニ大神楽有之し前当國御奉行栗田市郎右衛門様御触之御主意者勿論役所様江奉差上大神楽之席ヱ罷出警固可仕儀 0 0 浦郷町誌 0 172 14 神楽 は勿論可為前條事。一、社家方江諸方之大神楽願主方より頼来り候得は、其旨儀定いたして社家方より村役分へ通達ニ及候得は、願書之儀は村役分より持前勿論早速可奉差上事。一、毎歳諸社祭礼之節供者と申白米壱升ツツ、不出ル社は、一社ニ小 0 0 浦郷町誌 0 173 4 麦壱升ツツ可奉備調者勿論之事。一、毎歳諸社諸神事之節奉幣紙並休日参詣勿論之事。一、毎歳諸社諸神事之節社務司神戸開き秘文を勤神鍵頂戴勿論之事。一、於社頭ニ社家神事勤候間は宮守百姓座を塞事相成り不申事。一、毎歳神子月水ニ相成り 0 0 浦郷町誌 0 173 10 神楽 し節は御神事、指引仕御勤可貰事。一、毎歳粟ワ稗ヱ蕎麦等之作初穂御郷中惣代氏子より其品々壱升ツツ可奉調備儀は勿論之事。一、毎歳諸社神事之節三月芋之実神楽祭礼有来之事又日、神明花之見神楽とも云。但し御初穂木式麦壱斗弐升略式麦六 0 0 浦郷町誌 0 174 1 升ツツ也。一、毎歳御中於在家ニ御主不祭り有来り之神事祭礼勿論之事。一、在家諸方家作之節家堅ミ清浄日待地鎮祭有来り之事。一、毎歳御郷中諸神事料、先例ニ任セ年寄所ニ集メ寄セ神事家数ツ之調べ、社家江之送りニ年寄り調印いたし小改り 0 0 浦郷町誌 0 174 7 人足ニ而贈り附け往古之通可蔵納仕事。一、毎歳社家勤料物村上一統無之と申律而候時は其品他より買求候而成りとも神明も御公儀様も御同様之事ニ有御座候得は御蔵納御公儀様之も同様勿論前條事、尤壱任哉弐人者其品無之時は、其節之相場ニ而 0 0 浦郷町誌 0 174 11 銭を以送り届ケ可奉納仕事。社家方江村役分より毎歳諸神事料物之贈り永代不易礼尊之贈り。一、大麦、小麦何程。一、大小豆何程。一、粟稗蕎麦何程。一、御初穂金何程。右物神祇官領家より其毎々之御神成就之任御通達ニ神事家数之調、無違乱 0 0 浦郷町誌 0 175 3 廟拵仕候而御集納仕候間御引合之上御蔵納為遊被為下候様メメ被仰上可被下候以上。永代不易御用金之贈り。一、継目金御定法通り何程。一、住職金御定法通り何程。右者神祇官領より任御通達ニ御尊所様江者当借仕御上納仕候而跡ニ而配当仕候間左 0 0 浦郷町誌 0 175 9 様御承知為遊被為下候様メメ被仰上可被下候。右者御定法格文。三度年寄、何某印。珍崎年寄、何某印。赤之江年寄、何某印。本郷年寄、何某印。同所、同印。同所、同印。庄屋何某印。年号月日。御神祇官領之御家。御執次中様。御披露。右者御定 0 0 浦郷町誌 0 176 8 法格文。一、御公儀様御触之御主意堅相守り有来り之神事祭礼メメ無怠慢抽丹誠を可勤於令怠慢者可取り放神職と之御事、附り臨時祈祷等之儀ニ而神事祭礼有来り之事ニて御裁許状ニも任先例ニ専社職を可奉守り候御事。一、御公儀様より寛文五年ニ 1665 0 寛文5年 浦郷町誌 乙巳 0 176 13 被仰出候御條目之御意趣不相弁輩者之呼名装束等着し神職ニ無之ニ村持之社家を偽り神祇道を妨げ不法を不可致御事並町人百姓ニ而も不法を致し候得は夫レ夫レ之職分取上げ可申事。一、両御公儀様江急御用御座有節者社家居在所年寄方江通達いた 0 0 浦郷町誌 0 177 3 し候得は、泙日和りニ任セ舟人歩早々差出し可申候、尤ゆるかせなる御用之時は、社家居所年寄方より。庄屋方江為勤可申事。一、社家諸事再興之相談村方江いたし度時社家方より庄屋方江通達ニ及ひ候得は庄屋方より早速村方江廻文出し、社家方 0 0 浦郷町誌 0 177 8 ヱ手弁当ニ而集合相談可申上儀は勿論之事。一、社家方ニ若シ哉、急病人出来候か又は何を転動いたし大切成る事有之候節者早々御用と思江、泙日和りニ任セ舟人歩出し早々一命を可メメ申事。附り年寄方ヱ通達之刻限寄り早々申附可為勤事。一、社 0 0 浦郷町誌 0 177 13 家方ニ急病人或ハ何を大切成ル事有之候節は東西之壇中江沙汰いたし候得ば、刻限を不厭舟人歩早々出し加為勤事。一、社家方ニ大切成ル事有之候節は村役分者勿論村中ヱ申、府け見舞可為申事、府り薪等も申府け折々見舞可為申事。一、飢餓又者 0 0 浦郷町誌 0 178 4 不自由なるとしには、社家方より庄屋方江通達いたし候得者社家方江糧米並小使せん村方より相渡し取立而撫可申儀は勿論之事。一、社家方江村役分より書通差出し候節は名当て社家様又ハ社務様又者神主様又ハ大宮様と可書事は地頭御役人様村役 0 0 浦郷町誌 0 178 9 分と之書通之取り替しニ准し候事。一、諸神事之節夫レ夫レ之宿或ハ願主方江社家宿着之節は茶水之御膳勿論之事。次ニ本膳しりものを遣ひ、とおふ肴御神酒等両度賄袴ニ而挨拶勿論之事。 0 0 浦郷町誌 0 186 1 流人の為めに、醇朴な風習を傷けられた点も少なからぬが、一面隠岐島内各村の文化も促進し、民風良俗を作る上に貢献した点も少なくなかった様に思はれるのであって、井原区西鶴の書に、八雲立國中の男女、言葉のあやぎれせぬ事のみ多し、是 0 0 浦郷町誌 0 186 6 よりはなれ嶋の隠岐の國は、その貌はひちびたれども、物いひ都の人にかはる事なし。やさしくも女の琴碁香歌(きんざこう)の道にも心ざしのありしは、むかし、此嶋に二つの宮親王流れましまし、萬其時の風義今に残れり(西鶴全集)又、寛永 0 0 浦郷町誌 0 186 11 二乙酉に書かれた、「おきのすさび」に総してのなまりは、京聲雑りに似かよひて大いにいやしからず、、、中略。かの麦つき歌の中に、公郷の子が泣知夫の山に、粟に野鳥がついたやら、所がら見るやうの感情聞捨かたくてとめ待りぬ。 0 0 浦郷町誌 0 247 6 東代宮屋。東代宮屋真野家は、代々由良比女神社に奉仕して来た旧家であるが、いづれの時代からか明かでない。今之を神社の棟札によってみれば、慶長八年のものに真野安久の名が出て居り、現在輝雄氏に至る十五年代と言はれて居るが、おそら 1603 0 慶長8年 浦郷町誌 癸卯 0 247 11 くもつと旧いであらう。家譜が失はれて居るが、正徳年間以後はその相続関係も明かで、真野安久、慶応八年の棟札にあり。真野盛八、寛永十七年六月二十八日死去。真野傅十郎、正徳元年十二月七日死去。真野家は代々由良比女神社に奉仕して、 0 0 浦郷町誌 0 249 12 御旅祭の仮宮は、其邸宅に浄地を定め、その神事は其庭に於て行ふ例である。今日家郷を東代宮屋と自称するは、単に薄古代宮屋吉田家か町内に西に位してある為めであって、昔は単に代宮屋と言はれたものである。 0 0 浦郷町誌 0 263 10 薄古代宮屋(吉田家)。薄古代宮屋は本郷の代宮屋と対照区別を明かにするため薄古を門名の上に附したもので、やはり単に代宮屋と言ふべきであらう。此の代宮屋吉田家の祖は、中原真野家の祖とともに、日吉に奉仕の祝人として渡った人である 0 0 浦郷町誌 0 263 14 由であるが、文献の証するものが無く由来は明かでない。古来から浦之郷村の名門で、殊に日吉神社の代宮屋として代々神に仕へて来た家柄であるが、其の点中原の古傅並に渡邊氏編村要録中日吉神社由緒記事並に古老傅等によって中原の祖と共に 0 0 浦郷町誌 0 264 2 渡った人にちがいなからう。而も神道吉田家の血統を引くもので、甲賀郡真野の庄以来の奉仕者吉田某を祖とすることも同家の古い過去帳に明記されて居たが、今は(最近)失はれ、編者は見る由もない。少くとも寛永以後神主として同社に奉仕し 0 0 浦郷町誌 0 264 6 て来たのは吉田家であって、棟札に明かなところである。中原真野家は八王子社の神主で、日吉神社に対しては禰宜の職として奉仕し、その奉仕関係から見れば、日吉神社に対しては付随的な位置に中原は、あった様に思はれる。或は寛永以後吉田 0 0 浦郷町誌 0 264 10 家に神主が移ったのかも知れぬが確証の文献が見当らない。確かなところは後人の研究にまかせるとして、今は古傅の如く真野家は当時日吉神社鎮座地の領主であり、吉田家血統上祝部の家であるから直接の奉仕者であり、浦之郷鎮座の後も、所謂 0 0 浦郷町誌 0 264 15 後世の中原が鍵持神主のかたちであり、傅古代宮屋が祠官のかたであった様に解釈すれば、寛永以来の棟札記事に合ふのである。渡邊信行氏談として、薄古代宮屋は昔神職であって、日吉神社の祭典は神社の守護者である中原と一ケ年交代で行った 0 0 浦郷町誌 0 265 5 との事である。当時は浦郷湾内方面迄も、崎村の中良が土地を買ひ込むと言った時で、中良の言葉で右の如く一ケ年交代になった話である。と、而し之は近年の事でないかと思はれる。代宮屋は最近迄中良の浦之郷に於ける番頭役の格で、同家の勘 0 0 浦郷町誌 0 265 11 十方拝礼 定前を支配して居た由である。山王大権現。社領、弐斗五升。大山咋命。御祭日、正月十一日、六月初申日、九月九日。三年目、十方拝礼、九月九日。 0 0 浦郷町誌 0 270 11 大前(石塚家)。浦之郷村年寄の家柄でる。寛保三の棟札に初めて年寄利左衛門の名が出て居るが四年後の延享三年の棟札には明かに石塚利左衛門とありから此の人であらう。石塚家の年寄はこの人以前からあったかも知れぬが、姓がついて居ない 1746 0 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 271 1 ため明かでない。明治二年頃まで石塚権左衛門の名が見え、随分長い門の年寄の家で而も岡田庄屋から渡邊庄屋に至る間の利左衛門は村内年寄中の随一をゆく人物であったらしく、崎村庄屋助蔵が浦之郷村庄屋を買取ってから、大江庄屋に移るまで 0 0 浦郷町誌 0 271 5 の兼帯時代(庄屋年寄の條参照)後見役として庄屋代を勤めて居たのかこの利左衛門で、寛延四年から明和七年に至る厄二十年間、浦之郷村事実上の庄屋であった。従って徳川時代に於ては、相当な家産もあったもので、所謂大前屋敷と言はれたも 0 0 浦郷町誌 0 271 10 のは、古老の言によれば、現在の屋敷から延命寺下へかけて関屋あたりまでに及んで居たものと言はれ、往年村内の一勢力であったが、近年に至ってざん漸次没落に頻し二十四五年程前家財を売って一家九州地方へ出稼したが、引き続き家人の死亡 0 0 浦郷町誌 0 271 14 等少なからず非運に訪れられ、遂に帰国の止むなきに至ったが、最近また火災の厄にあって離散の形になった。同家には昔から「雪隠(せんち)の神様」なるものが祀られて居るお産の神、婦人病、其他一切の男女腰からしもの病に霊験灼然なる故 0 0 浦郷町誌 0 272 4 を以て知られている。尚この神様の由緒を今崎元町長夫人の話に聞けば、今から百年かもっと以前に、大前かまた殷富を極めている時代に、船越の味噌屋(安達和太郎氏宅)から嫁せられたお嫁さんが、七年間も子宮病で煩ったために、実家味噌屋 0 0 浦郷町誌 0 272 8 の心遣りで、当時参宮に行った然る人に頼んで、わざわざ京都の某所からお迎ひし同家に勧請した神様で、此の神様の霊験によって、頑固な病気が平癒したと言ふ。以来同家の守護神として祀られて居る許りでなく、一般同病者の信仰が厚く来客も 0 0 浦郷町誌 0 272 12 多かった由である。ある古老の話には、周吉郡中村元屋にある、雪隠の神様は或る時代浦之郷村へ迎へに来たものと言ふ節もあるが定かでない。最近大前家全焼の厄にあった際同家の老母が持ち出して神体は安全を得た。後今崎半太郎氏、安達和太 0 0 浦郷町誌 0 273 1 郎氏などの肝煎で子祠を建て今日に至った。 0 0 浦郷町誌 0 273 3 神楽 茂理(秋月家)。浦之郷村一軒の社家として、古来神祇最上の許状をもち守名御免除地ももち、茂理神社の代々神主を始め、由良比女神社祠官をも勤め、浦之郷村年常例祭事を司り、島前神楽傍頭の家柄として、代官同席の家格を以て居たのがこの 0 0 浦郷町誌 0 273 8 茂理家である。その発祥は明かでないが、村内神社棟札並びに、分家茂理脇家に残る古文書によれば、天正五、貞享元、主馬太夫正久。息掃部。元禄六、主膳。同一五、秋月日向守藤原政房。正徳三、八月政秀房由良姫大明神祠官裁許、秋月左近中 0 0 浦郷町誌 0 273 14 昭。元文三、寛保一、秋月日向。延享四、秋月日向守藤原中昭。寛延一、宝暦二、三、秋月日向守。宝暦一二、明和一、同三、同七、安永六、天明一、同三、秋月日向守藤原寧吉。寛政三、同五、同六、同八、享和三、文化一、同八、秋月日向守藤 0 0 浦郷町誌 0 274 3 原篤登。文化一〇、秋月大学。同一二、秋月大学真信。文政二、同五、同八、天保二、天保三、同七、同一四、天保十五、弘化二、嘉永一、秋月日向守藤原真信。嘉永三、同五、安政一、元治元、秋月近江介藤原近思。元治二、慶応一、秋月老近正 0 0 浦郷町誌 0 274 8 。慶応三、秋月日向守藤原近思。茂理家は、明治に入ってから家運頓に傾き明治の終に至り最後八メメ麿になって精神に異常を来し、遂に名家も没落した。 0 0 浦郷町誌 0 278 11 原(堀川家)。赤之江の旧家、記録が無いので明かでない。代々浦之郷村年寄の家柄として重きをなしている。年寄年表をくれば享保年間から明治の初年までの間に、太郎左衛門、源左衛門、柳四郎、柳造など堀川姓の年寄が見えるが、その全部が 0 0 浦郷町誌 0 278 16 原堀川の祖先なるや否やは明かでない。同家は常福寺との関係が深く澤山の住職がこの家から出て居る様である。 0 0 浦郷町誌 0 280 5 中屋。中又は中屋と言って赤之江では古い家である由、古い記録はない。同家に阿弥陀像の一体が残って居て、昔から頗る名作と伝へられて居るが伝を明かにしない。 0 0 浦郷町誌 0 283 2 木の下(木下家)。三度の木の下は、伝承によれば、非常に古い家で身分の高い渡り人であるとも言はれて居る。全く記録がない。木下藤吉郎に由緒のある武士であるとも、木下薩摩守の(こんな人あるか否か)末孫であるとも言ふ人がある。一説 0 0 浦郷町誌 0 283 6 には壇の浦に敗れた平家の落武者(排仏地福寺の項参照)とも言はれて居る。何れにしても祖先が渡り者であった事は略想像がつくのであってその由緒ありそうな、墓地の構、墓標の文字等、不明な個所もあるが、旧家にふさわしい名前である。墓 0 0 浦郷町誌 0 283 10 神楽 石とメメも如何程の年代のものが残って居るかは疑問だが、同家の墓所の中最古とおぼしきものをスケッチすれば左図の通り、左横に、孝子木下勘左衛門と碑銘があるが、没年なども不明である。昔から山往大明神の神事として伝へられて居る神楽庭 0 0 浦郷町誌 0 283 15 神楽 の舞は奉仕の家がきまって居て、為めに之等の家には相当な地所も興へられて居たものだが、古くはこの三度木のしたが司であった由で、寛文二年神楽関係古文書に、一、庭之舞三度吉三郎、同二郎兵衛、赤之江六兵衛、同六右衛門、珍崎弥藤次、 0 0 浦郷町誌 0 284 10 同喜蔵。とある。三度吉三郎が司の木の下で「彼様の伝は吉三郎能存候」ともあるのである。先祖から代々勤め来りであったが、維新に際し一時中絶した時は、木之下家に不思議が続いたなどまことしやかに語られて居る。 0 0 浦郷町誌 0 304 7 異国船。孝明天皇の御代、長い鎖国の夢が破れて浦賀や函館に見も知らぬ外国船が来航して、驚きの眼をみはった。世の中に何が起らうと、夢にも見る事の出来ない隠岐の嶋に、嘉永二年酉の春がめぐり波のうねりに春の陽が輝きそめた。「異国の 0 0 浦郷町誌 0 304 13 舟が見えたら、すぐお役所へ届けて出る様に」と、平和な村に時の代官からお触れが出た。それから間もなく三月に入ってから、浦之郷三度に時ならぬ騒ぎが起った。永禄の昔、因幡の国の海賊衆が、隠岐の海岸を荒した事は里人の話にしか残って 0 0 浦郷町誌 0 305 3 居なかった。平素千鳥の声に起き出でて、海に山に働き、荘厳な日没を拝して、その日その日の仕事を終る村の人達は、平和と幸福に恵まれて居た。北とおなじ風が荒れて、海岸の洞窟に海驢(あしか)のほゆる冬も過ぎて、藻刈船の出盛る、弥生 0 0 浦郷町誌 0 305 7 の空の暖かい或る日、誰言ふとなく、「黒船が来た。黒船が来た。お上様からお触れのあった恐ろしい黒船が来た。」ただうろたへて騒ぐばかりであった。しばらくすると、彼の怪しい異国船は、矢の様にはしって来て、港の口に錨を下した。そう 0 0 浦郷町誌 0 305 13 してすぐにボ−トが下され、五六人の水夫が上陸した。大人達は泡を食った大騒ぎである。そうした混乱の中にあって、数人の子供達は、浜辺の岩がげに貝を拾って遊んでいた。無邪気な子供達は、こうこうして親達が泣いたり叫んだりして居るの 0 0 浦郷町誌 0 306 3 も知らず、見も知らぬ船の姿を見て喜びの眼を見張った。そして、そのお伽の国からでて来たやうな船と小父さん達を不思議に思ひながら眺めて居た。こうした無邪気な子供達を見付けた異人の水夫達は、笑み零れるやうな愛敬顔で子供達に近づい 0 0 浦郷町誌 0 306 8 て来た。始めは少しこわいやうにも思ったが、天真な子供達は、すでにこの異人のをぢさんと仲喜くなることが来出た。泡を喰って驚きまどった里人は、言ひ合せた様に、年寄雄太夫(小出)の宅に集まった。生憎雄太夫は本郷の庄屋義蔵の役宅に 0 0 浦郷町誌 0 306 13 会合にため出掛けての留守であった。里人は一同色を失った。而しこの重大事に対して取るべき所置をとらなければならなかった。そこで年寄雄太夫の長男松之進(小出正直)を坐頭として緊急会議が開かれた。直ちに庄屋役宅に報告の使をたてる 0 0 浦郷町誌 0 307 2 事にして、種々の意見も出たが、松之進の意見に従ひ、出港の談判をすることになったが、もとよりその交渉は、松之進自身があたることのなった。一同は喜んで、部落の人達に竹槍の支度などさせて、松之進の身を案じて、萬一のそなへにした。 0 0 浦郷町誌 0 307 7 其の時浜辺の水兵達は、無邪気な子供達を相手に怪しい手真似で話して居た。親達はそれが恐しくて見て居られなかった。小出松之進は、しっかりと落付いて、応揚な日本礼式を以て挨拶した。邪気もなく子供達と話して居た水夫達も此のすまし込 0 0 浦郷町誌 0 307 12 んだチョンマゲ姿の青年をどんなに不思議に思ったであらう。子供達は不意に現はれた松之進の姿を見て喜んだ。松之進は水夫達に向って、「貴殿方は、どちらから、何用あってお出になったか」と、男らしく、はっきりと申すのであったが、もと 0 0 浦郷町誌 0 308 2 より言葉は通ぜないが、水夫達は出来るだけの好意を面に現して、砂の上に文字を書く真似をした。悟りの早い松之進は、早速腰の矢立と紙とを出して興へた。するとそのうちの一人が、すぐサラサラと横文字で長い文章を書いて呉れた。勿論松之 0 0 浦郷町誌 0 308 7 進も之が読めやう筈もなく、それで仕方なく手真似を以て話すより外致し方がなかった。水夫は掌をくぼめて、それに気息を吹きかけ帆ではしらせる形をした。来た方向を聞くと又手真似で「西南から来て北に向って行く。」意味をあらはした。最 0 0 浦郷町誌 0 308 11 初松之進はそれがわかりかねたので、一応西に向って掌を吹いた処が、水夫達は、さももどかしげに、北に走る形をした。其メメで松之進は、彼等のもっている、刀様のもので我等を切るのか?と聞いて見た。すると彼等はかむりをふりながら、更に 0 0 浦郷町誌 0 309 1 更に、鯨が潮を吹いて泳ぎ廻るのを捕へて切るのだと、言ったやうな手真似をするので、初めて松之進は外国の捕鯨船が見物に上陸って来たのだといふ事を知った。水も薪も求める風もなく、水夫達も面白相に、しばらく遊んでいたが、丁度夕陽が 0 0 浦郷町誌 0 309 5 浜辺を染める頃、沖の親船からも一つのボ−トが下されるのを見て、遅くなった失敗を後悔するものの如く松之進に挨拶をして急いでボ−トに乗り移った。まこと友達の帰りを気づかったのか、中途から二隻のボ−トは仲よく母船に帰って行っち。 0 0 浦郷町誌 0 309 10 春の夕霞が薄くぼんやりと棚引く頃、魔物の様に里人に恐れられた異国船が、静に錨を抜いて上るが如く水平線の彼方へ去って行った。松之進を取まいて、真相を聞き知った里人達は今更の如く蘇生の思ひをした。松之進から異国船来航のわけを、 0 0 浦郷町誌 0 309 15 事細かに報告する為に本郷の庄屋義蔵に、第二の飛脚が出されたのは、それから間もない時であった。けれども、ここにおかしいのは、始め松之進から第一の使が息せき切って庄屋義蔵に注進に及んだ時、あだかも郡代代官某は浦之郷村巡察中で、 0 0 浦郷町誌 0 310 5 その報告を伝へると、見るも気の毒な狼狽(あわて)方で、腰をぬかし、「何、南蛮船がやって来た?黒船が?これは困った事じゃ、物共早く馳け付けよ、それ早鐘をならせ、鎧は無いか、冑はないか、拙者暫く後から参ずる、西郷へも船を馳らせ 0 0 浦郷町誌 0 310 10 。」顛倒の大騒ぎをする許りで、其の実少しも腰は立たなかった。そうした代官のあわて方に、部下の者共も怖れをなし、誰一人立たうとはしなかった。居並ぶ庄屋義蔵を始め年寄岡田虎右衛門、小出雄太夫、無下にでしやばる事もならず、顔を見 0 0 浦郷町誌 0 310 15 合せて苦笑するところへ、第二の飛脚が来た。「異国船はすぐに出帆しました。鯨船だとの事で御座います。」と註進に及ぶと、代官は打って変った態度で、「何々黒船が帰ったか、それは口惜しい事を致した。お上を恐れぬ不届者、逃す事は相成 0 0 浦郷町誌 0 311 5 らぬぞ、代官それがしの名折である。今だに行きをらぬか、、、エエ逃げ出したとは誠に残念。」と地団駄を踏んでの狂態に一同唖然とした。この事があってから、明る年の五月、大庄屋峰三郎を経て年寄雄太夫に対して、こう言ふ御褒めがあった。 0 0 浦郷町誌 0 324 11 浦之郷村にも壮士といふものあり、之等の人等が村内の先覚で島後方の強要如何にかかはらず、村内の社家神職を始め、庄屋村役人と共に排仏の急先鋒を承って、矯激な矢面に立って居なければならないわけであるが、村内排仏の其情より察すれば、 0 0 浦郷町誌 0 324 15 必ずしもメメ様でなく、矢張り役向仕方なく、渡って来た島後方面の壮士の介添に立った傾向が見えるのである。島前にも中々徹底した排仏家もあった由だが、前記の如く大体に微温的な態度が多く、之は強ちに尊王思想の稀薄と言ふ訳でもなく、い 0 0 浦郷町誌 0 325 5 きなひこの運動中心を遠ざかって居て出雲藩に対する欝憤敵視の度合もメメく、猛烈度が成りなかったから動もすれば、島後方面からは、佐幕派と目されたりして、社家の調伏事件をさえ巻き起して、赤之江の秋月日向が巻添を起した程であるから、 0 0 浦郷町誌 0 325 9 村の先覚たるべき人も排仏の実行については、従来仏法帰依の関係から、大いに二心を起して、表向排仏を称へながら、眼をつむってその隠メメを認めた様でもあった。 0 0 浦郷町誌 0 359 3 て呉れたコレラとかチブスとか言ふ病気や病名は初耳でもあり、罹ったら助かりっこは無いものと信じて居た。事実是等の病気は文化とか交通とかの所産でもあったから、一とたび是等の病毒が流行しだすと、衛生思想の幼稚な時代にあっては全く 0 0 浦郷町誌 0 359 14 虎列拉(コレラ)騒動。隠岐丸が癒々就航を始めたのが、明治十八年の二月、辺境の離れ小島に文化の波が押し寄せてきた。その頃まで病気と言ったら腹痛と風邪が凡ての病気の代名詞で、それで満足して居た島民にとっては、西洋医学が名をつけ 1885 200 明治18年 浦郷町誌 乙酉 0 360 8 一郷を薙ぎ倒す程の猖厥を極めたものでもあったから是等の流行病はその名を聞いただけでも、生命を奪ふ悪魔の来襲として全村が恐れ戦慄(おのの)いたものである。時は明治二十三年の八月隠岐と境港とを結ぶ定期船たる隠岐丸が、菱浦から浦 1890 800 明治23年 浦郷町誌 庚寅 0 360 12 郷までの間に於いて−当時別府には寄港しなかった由−その乗客中にコレラ患者が発生したと言ふ所から発見最初の寄港地に上陸させて、手当を加へるといふ定めによって、当然浦郷村に上陸させる事になった。最初港内で診察して、コレラと診断 0 0 浦郷町誌 0 361 1 を下した医師が浦郷村在住の拝志護之(はやしごし)といふ人、さあこのコレラ患者の上陸手配があるとの、うわさを聞いた村人はメメをつぶして立腹した。「そんなものを上陸させたら、直ちに病毒蔓延一郷を死のどん底に落す様なものだ。」「成 0 0 浦郷町誌 0 361 6 程之は生命を睹しても、一般村民の為に上陸を拒まう、萬一強いて上陸させるに及んでは、村民挙っての腕力にうったへる。」と、言ふ事になって、盛んに抗争の気勢を現し、その頃血気盛んな、真野治郎一、渡邊熊次郎、中島萬次郎などが参謀格 0 0 浦郷町誌 0 361 11 で黒住教会所に立て篭り、区長吉田某(薄古代宮屋)小組長を勤めて居た僧侶の廣江沢庵と言ったやうな人等が中心となって一大デモ行動を起し出した。さうなると一般区民も直ちに雷同して、我れ勝にメメ旗を押したてる、竹槍を掻込んでくる、日 0 0 浦郷町誌 0 361 15 吉神社の境内に集合して、追々挙村一致の態勢を示して来た。そこで村民側を代表した、来海幸正、中島某の二人は一応隠岐丸の事務長に会見を申し込む事になって、その場所をも指定した。而してこの二人は大いにこの会見威勢にそなへるため、 0 0 浦郷町誌 0 362 4 某家に立寄って酒を飲んだが、遺憾下らそのお尻は非常に永かった。一方事務長は早速承諾して指定の蛸崎に向かった。而し暴民に襲撃せられて、その不信を憤りつつ船に返って行った、ために紛糾は益々騒然を極めてくる許りであった。かやうに 0 0 浦郷町誌 0 362 8 なっていれば、上陸阻止交渉どころの沙汰ではない、警察も手を焼いて、西郷本署へ報告する、村役場も色を挙げて、差向き暴挙の鎮座に奔命するより外致しかたがなかった。然ろに船内の患者も幾分小康を得て、医師の拝志護之(はやし)も遂に 0 0 浦郷町誌 0 362 12 前診を取消すに至ったので一応交渉を打ち切って、其侭円満出航の段取りとなって、さしもの騒動も血を見るに至らずして−尤も始めから一種の示威に過ぎなかったものであらうが−一光事無きを得たのであるが、西郷署から応援に来た巡査桐田某 0 0 浦郷町誌 0 363 2 は有名な剣道の達人で、少々の負傷は覚悟の上で白木綿で肌を巻いて、物々しく馳せ参じたものであったが、既に平穏に復して居た後の様子を見て驚いた程であったと言ふ。而もその行動の常軌を逸した行は、村当局始め一同その前後策に腐心する 0 0 浦郷町誌 0 363 7 ところであったが、お調べを受けたものは首謀者と言っても概ね警察署付近を騒ぎあるいた者にとどまり而もそれが知らぬ存ぜぬの一点張で、無罪放免無難の解決を得るに至ったものである。当時において彼様な集団的な騒動事件は稀れな事であっ 0 0 浦郷町誌 0 363 11 た。明治二十六年、赤痢大流行、十月十四日暴風雨があって仮病舎が破壊して百有余の患者を一時は、自宅に移したりして、混雑を極めたものであった。三度避病舎も転覆した。明治二十七年、此年も赤痢大流行があった。 1893 1014 明治26年 浦郷町誌 癸巳 0 387 6 乃木将軍視察。明治三十一年六月三日、中将乃木希典来村浦郷村北辺の視察があった。前記の如く(義勇隊参照)上陸の際、義勇隊員の出迎を受け検閲の上激励した。翌日早朝密かに−村役場でも之を知り、親しく案内の積もりで人をやったが、余 1898 603 明治31年 浦郷町誌 戊戌 0 387 10 朝早く出て仕舞はれたので、案内の役にはたたなかった−随行とともに浦郷村北辺の地理を踏査され帰途小学校に立寄り、授業を参観の上、児童中間々石盤を持って居らないのを気の毒がり、黙して里へ下られたが、やがて紙製の石盤十枚を部下に 0 0 浦郷町誌 0 387 14 持たせて寄こされた。時の校長は三成松太郎氏出張不在であったが、此の由を松江にて報告を受け後将郡を松江灘町の某旅館に訪れて、厚く礼を述べた。 0 0 浦郷町誌 0 391 6 薪・焼火 抑々此大山山林は往古より山手銭を美田村へ差出し来り候得共其後中絶致したるを以て古来の通り差出方請願に付、左の通裁判ありたり。「右隠州知夫里郡、美田村山へ同郡知夫里村、浦之郷村、宇賀村、海士村、福井村、布施村、崎 1883 603 明治16年 浦郷町誌 癸未 0 391 10 薪・焼火 村、此七ヵ村、従古来入来、薪、杭木伐り候に付、来る卯年より、右七ヵ村中して、銀五十五貫宛、毎歳美田村へ差出可遣旨相方納得の上申出候趣聞居置候、然る上は以来右証文の通少しも違乱仕敷依て為後証右双方書付に如斯令済書 1883 603 明治16年 浦郷町誌 癸未 0 391 14 薪・焼火 美田村へ一通七ヵ村中へ一通遣之者也。延享三年寅九月 代官 大木長太夫 郡官 速水與一兵衛。」以上の如き次第なるも、尚ほ、時々論争起これり、然る処明治九年地租改正の当時、所有権全の知夫村外六ヵ村へ夫々移転したり、 1883 603 明治16年 浦郷町誌 癸未 0 392 6 薪・焼火 明治十五年美田村より右大山山林取返の件官訴せり、茲に於て七ヵ村は総合同盟し、其曲直を争ひしが終に左の如く和解済となりたり。 1883 603 明治16年 浦郷町誌 癸未 0 392 9 薪・焼火 約定書。今般知夫郡美田村より海士郡布施村へ係り千三百七番字文覚山林反別拾町六反六畝廿歩の場所所有権回復の儀西郷治安裁判所へ出願則勧解第五百九十九号を以て布施村へ喚起相成既に曲直を争うの場合に立至り候処畢竟右所有 1746 900 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 392 13 薪・焼火 権回復の事たる往古より海士郡海士村・福井村・崎村・知夫郡知夫村・浦郷村・宇賀村此六ヵ村に於ても同様の場所美田村に有之に付ては独り布施村に限らざる勢いにして殆ど島前全島の葛藤と相成不用意況景に付郡長高島士駿殿懇々 1746 900 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 393 2 薪・焼火 御説諭の未知夫郡別府村宇賀村海士郡豊田村知々井大井村此五ヵ村より和済之儀取扱に付双方納得の上相任せ依之右七ヵ村より金五百円和済取扱候五ヵ村へ貰受け之れを訴訟入費として右五ヵ村より美田村へ相渡し無滞相済候に付ては 1746 900 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 393 6 薪・焼火 土地は勿論立木其他に至る迄七ヵ村とも確乎たる所有権を有し候に付美田村に於て如何様の書類之且向後発見候とも所有権に関する部目は悉く無功に属し一切訴訟等は致間敷候依之双方及和済村人民惣代人共調印致し十三ヵ村へ各一通 1746 900 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 393 10 薪・焼火 づつ備置申候処如件。明治十六年六月三日・関係村人民総代用係戸長 連名印。前書の通り双方和儀相整候に付ては向後異論致間鋪依之和済五ヵ村人民総代として調印致候也。和済村民総代戸長・連名印。 1746 900 延享3年 浦郷町誌 丙寅 0 405 11 渡船賃銭定額。浦郷村ヨリ美田村字大津迄、金五銭。同波止迄、金拾銭。同珍崎迄、金拾銭。同古海迄金弐拾七銭。同来居迄、金参拾銭。而して此の頃から明治終わりまでの渡船業者は、本郷に於て、淀江屋、伊勢屋、三次屋、出羽屋、津田屋。な 0 0 浦郷町誌 0 406 5 どであったが、汽船や発動機船が発達するに及んで、一時内廻りの「ハイカラ船」と称して、菱浦の杉山などが始めて、菱や浦郷から、小蒸気船を以って内湾各港の往復を始めたり、続いて今のやうに発動機船が出来るように及んで、自然この帆船 0 0 浦郷町誌 0 406 9 の渡し船は影を潜めるに至った。 0 0 浦郷町誌 0 406 10 北前船。而し、港浦郷の段賑は、こんなちっぽけな渡し船や、運搬船にあるのでなく(漁業関係は別記する)所謂「北前船」の風待港として有命であった。島前湾内の上り下りの船溜港は、最たるものが、黒木村の大山明と、浦郷とであって、浦郷 0 0 浦郷町誌 0 406 14 浦郷は主として上り船、大山明は主として下り船の港であって、後海士村の須賀黒木村の物井、波止なども僅かに船繁りがあったものだが、一寸した風模様の船泊の便利や馴染総嫁(船方相手の淫売婦)の関係等からでもあって、大体は浦郷と大山 0 0 浦郷町誌 0 407 3 明とが主であった。北前船の入港する処は必ず、それ等を相手とする総嫁が発展する。従って当時の浦郷には総等の総嫁が出来ていた許りでなく、這入ってきた船数が多かったり、船溜めが永かったりすれば、土地の総嫁ら許りでなく島前双方の総 0 0 浦郷町誌 0 407 7 嫁等が妍を競って集まったもので、是等北前船が這入る度ごとに、小宿々々が皆絃歌の巷と化したものであるから、当時相当妍嬌を謠はれた、声のよい美人の総嫁も多かった由で、一と頃浦郷の黒なほ、白なほ、などと言ふ双璧の嫡娜者も出たりし 0 0 浦郷町誌 0 407 11 て、相当な妍勢を張ったものであると言ふ。総嫁達は、濁り北前船ばかりを相手にするのでないから、地方の風俗をも害したもので、幾度禁令の手に触れる者もあったが、殆どそれは、公然の秘密として見逃される程に、渡世化されたものである。 0 0 浦郷町誌 0 408 1 一、密売婦。本村ハ港湾好良ナルニヨリ、大小船舶の出入頻繁ナルヨリ、自然無教育ナル過程ニ養育セラレタル女子ハ、古来ノ悪風邪ヲ継襲シ女徳ヲ破ブリ、下賎ナル密売婦トナリ官ノ懲罰ヲ幾度受クルモ、鐵面皮ニシテ、平気ナル動物ナルニハ如 0 0 浦郷町誌 0 408 5 何ニモ痛歎ノ至リナリ、是等ノ悪幣ヲ除去センニハ一ノ工業ヲ興シテ、以テ之レヲ利用シ、社会ノ福利ヲ増進スルノ途ヲ講セザルベカラザルモノト信ズ。(村要録)当時、村要録の編輯氏を、いたく慨歎せしめる程であるから相当土地の民風を阻害 0 0 浦郷町誌 0 408 9 した事にもならう。近年この帆船の没落に伴って、自然総嫁渡世もたたなくなったのか無くなるに至った。さて此の、北前船の出這入りの威勢は大したもので、就中越前の右近船は、浦郷得意の船の中で、船数も多く千石以上の船も多かったので、 0 0 浦郷町誌 0 408 14 一入ほ人気をあつめたものであった。二十五反帆が、千石と言はれたもので、右近船にはひと頃、日本に二三艘しか無かったと言ふ。大船さへ流して居た程であった是等の北前船は北海道から大阪あたりへ、一年に一回しか往復しないもので殊に毎 0 0 浦郷町誌 0 409 3 年旧の六、七月頃に這入った船は(上り船)大抵二百十日の厄日が完全に済まなければ出船はしなかった。そんな場合は浦郷でお盆をする事になる。入船(いりふね)がある。帆印で持船がわかる。得意の付け船が騒ぐ、総嫁等が喜ぶ、やがて面舵 0 0 浦郷町誌 0 409 6 、取舵(とりか)の声が流れる、錨が下される。帆がつかれる、鮮やかな入船が終わると雪の中でも決して厭はない。赤犢鼻褌(あかふんどし)の炊事(かしき)役さんがは鯛を喞へて海に飛び込む。艫綱(ともづな)がとられる、附け船が参上す 0 0 浦郷町誌 0 409 10 問屋 るのである。やがて傅馬船(てんま)が下されて、船頭さんの上陸、縮緬の兵古帯に高価な煙草ダラを腰にブラ下げた船頭さんの伊達姿が艫に立っと、威勢のよい擢ぶきの唄が港を圧して流れて来る獨り問屋や小宿の総嫁らの喜びでなく、浜辺に立 0 0 浦郷町誌 0 409 13 問屋 つ程の村人は一人として見とれないものはなかった。その頃浦郷村の問屋、附船宿は次の通りである。問屋(大船頭の宿)虎屋、尾張屋。附船宿、淀江屋、伊勢屋、杉山、沖見屋、津田屋、三次屋、張間屋。船頭は大抵問屋に泊まる。朝も晩も御用 0 0 浦郷町誌 0 410 4 伺ひが船から来る。応揚に船方達に差図する船頭は、実に意気なもので「船頭大名」と言ふ言葉さへあった。大和船の北前船が、湾内に難艘と碇泊する頃になると、浦郷はもとより島前中の総嫁が集まって来る。船頭さん、オヤヂさん、チクさんな 0 0 浦郷町誌 0 410 8 ど、それぞれに得意の小宿に陣取って、夜ごと夜ごとに絃歌のさざめきを競ったものである。米が陸上られる、酒が陸上られる、子供達もツグネ(握飯)を貰ひに船に集まったものである。上り船は大抵このこの港で盂蘭盆を送った。毎年行はれる山王 0 0 浦郷町誌 0 410 12 さんの盆角力は此北前船の勧進の様をものである。浦郷の若連中と一緒になって、宮角力が始る。勿論浦は是等船頭さんの張込みで、随分賑ったものである。盆踊も盛んに行はれ、北前船の米揚があると、そのこぼれで所謂麦に米をまぜた御馳走に 0 0 浦郷町誌 0 411 1 有りつく家もあったと言ふ。それだけ豪華を競ったから、右近船の如きは船方一人雇ひ込むのも、下廻りなら船の素人は問題にしない。擢声のよさ、角力の上手が条件にされていたと言ふ。初めて港入りした船は、附船が競り合って自分の客に迎へ 0 0 浦郷町誌 0 411 5 たものであるが、其の場合は入港の際一番先に漕ぎ寄って綱を投げた琴によってきまったさうである。余り古いのは失はれて残っていないが、其の頃の船帳はこんな記載がされて居る。船帳原本は中折二ツ折一頁に二艘づつを墨筆で書かれている。 0 0 浦郷町誌 0 412 1 小口近、八幡丸、長三郎様。近、幸吉丸、七次郎様。近、永好丸、弥太郎様。松前福山、三正疋丸、礼次郎様。明治十七年八月十三日入港。石川県加賀国義川町、運天丸、栄助様。鳥取県因幡岩井郡綱代村、蛭子丸、儀三郎様。明治十七年旧九月十日 1884 813 明治17年 浦郷町誌 甲申 0 413 5 入港。鳥取県因幡国岩井郡綱代村、幸壽丸、吉五郎様。鳥取県伯耆国八幡郡赤崎宿、天照丸、紙徳次作様。明治十七年九月十二日入港。鳥取県伯耆国汗入郡御来屋驛、幸丸、小西伊三郎様。明治十七年九月入港。能登国風玉郡赤神村、板谷明徳丸、 1884 912 明治17年 浦郷町誌 甲申 0 414 5 亀吉様。明治十八年三月二十一日入港。鳥取県因幡国岩井郡にて、吉一丸、仁左衛門様。大阪長堀橋筋弐丁目河内与三兵衛船、嘉宝丸、傅次郎様。明治十八年七月十五日入港。能登国鹿嶋郡七尾、潮林規八手船、蔵乗丸、久兵衛様。明治十八年九月 1885 321 明治18年 浦郷町誌 乙酉 0 415 8 五日。鳥取県因幡国高草郡賀露村、重久丸、清兵衛様。福井県越前国丹生郡小様浦、明徳丸、山矢庄五郎様。明治十八年八月日入港。福井県越前国丹生郡梅浦村、伊勢丸、柳原市左衛門様。鳥取県伯耆国汗入郡御来矢宿、佳吉丸、金屋熊重郎様。明 1885 800 明治18年 浦郷町誌 乙酉 0 416 10 治十八年酉旧八月三日入港。大阪府定売堀北通五丁目藤野熊蔵船、青松丸、船長加賀橋立。明治十八年旧九月六日入港。同十三日出帆。山崎長太郎様。以下略。同名簿終わり頃は、漸次大和船から帆前船の数が多くなって来て居る。大阪府大阪立売 1885 803 明治18年 浦郷町誌 乙酉 0 418 1 ×(不明)今井勢兵衛手船、人見長、福井県越前国阪井郡雄島村宿、積丸、薪野安次郎様。大阪立売、今井勢兵衛手船、居鳥事、□長、金全丸、塩谷栄吉様。明治二十四年第八月二十三日入港。石川県能登国羽喰郡町、春日丸船長、川崎五郎右衛門 1891 823 明治24年 浦郷町誌 辛卯 0 419 3 様。明治二十四年八月三十日。福井県越前国南條郡郷野浦、歓、日光丸、青木七次郎様。福井県越前国南條郡郷野浦、長福寺、弥太郎様。同県同国同郡同浦、仁恵丸、与七様。石川県能登国羽喰郡一ノ宮村、常平丸、第二号角尾仁太郎様。石川県能 1891 830 明治24年 浦郷町誌 辛卯 0 421 4 登国羽喰郡一ノ宮村、妙光丸、清太郎様。(以下略)北前船入船時代の状況を知る資料として「隠岐島前漁村探訪記」から今崎半太郎の談話を抄録する。(アチツクミュ−ゼアム第三)北前船は江州、加賀、越前、能登、大阪等の豪商(廻船問屋) 0 0 浦郷町誌 0 422 4 が、大阪に根拠を定め、大阪と松前間の貨物の運搬に当って居た際に使用した千石船である。大きな廻船問屋は一軒で十艘二十艘の千石船を所有して居たといふ。千石船とは千石積の船で大体二十四反位は帆をあげた。当時としては大船であるが、 0 0 浦郷町誌 0 422 8 一枚の帆を増すと千百石、二枚増せば千二百石積といふ具合で数へられて居たといふ。この千石船は大概旧正月明けに大阪で「囲ひ」を解いて縄、砂糖、蓆、菓子、其他の物資を積んで出発し、尾の道、馬関海峡を経て、旧四月頃隠岐に寄港する。 0 0 浦郷町誌 0 422 12 これは下りの船であって主に大山に寄港することになっていたさうだ。夫れより順風に乗って北海道に乗付主荷として鰊の〆粕に昆布鰊数の子を積み合せ出航大阪へ帰るを上り船と云ひ、夫れが隠岐に寄港するこを島後にては西郷、島前では浦郷が 0 0 浦郷町誌 0 422 15 重なる寄港地で大底旧六月から七月の初旬にて、間もなく二百十日前後の台風時になるので、隠岐を外づせば航海中に台風に逢ふ事になるのだが昔から二百十日は、厄日としてあるのに夫れに航海して若し難船せば船頭の落度とあなるので、之れを 0 0 浦郷町誌 0 423 4 避ける為の寄港する習慣となって居たものだと言はれて居る。此の碇泊を短きも十日以上、長きは一ケ月以上にも及び、そのうち天候定まり秋の初めの通称アオと言はれる強烈なる東北風に乗って出航し、高美、尾之道等にて揚げ荷をする事もある 0 0 浦郷町誌 0 423 8 さうだが結局十一月から十二月に大阪へ帰り、旧十二月から翌年の正月までは船を囲って休み(囲ひ船と云ふ)翌年の正月明けに再び出帆するのである。このやうに北前船は、普通一年に一航海するのが常であって二航海するのは余程出来のよいも 0 0 浦郷町誌 0 423 13 ので、中には帰りに順風にのり損ねて隠岐で囲ひ船となる船もあったさうだ。太平洋方面の航海を採らなかったのは遠州灘が荒れたり、東山道沖が無風状態になったりして、航海が安全でなかった為である。北前船の船員は船頭一人、オモテ一人、 0 0 浦郷町誌 0 424 2 ワキオモテ三人、マカナヒ一人、隠居一人、船子二十四五人である。船頭は普通の船頭とは事なり、金の番をする者であった。オモテが船の指揮に当り、ワキオモテ三人はそれを補助する。マカナヒは会計をやり隠居は船世帯の世話をした。船子は 0 0 浦郷町誌 0 424 6 帆一枚に一人の割合であったやうだ。船子の出身地は各船主の国の者が比較的多かったが島前でも浦郷だけで十四五人位が船子になっていたさうである船員の給料については、明瞭なことは今崎村長にもわからぬやうであったが、大体に於て利益次 0 0 浦郷町誌 0 424 10 第でその給料を増減したものの如く、船主は危険の一部を船員達に負はしていたやうだ。船頭は給料の外に定石以上に積んだ場合、例へば千石積みもところを千百石積むと、百石だけは自分の収入となった。これをハセニと言ふ。又千百石を表面上 0 0 浦郷町誌 0 424 14 積んだとしても、実際にはそれ以上を内緒に積むのが常であって、さうした内緒の部分は船子達の臨時の収入責任となってちたやうだ。然し反対に定額に足らぬときは「カンガキタ」といふて足らぬ部分だけ船頭以下の船員の責任となったのである。 0 0 浦郷町誌 0 425 4 島前にこの北前船が寄港するようになったのは、何時頃のことだか不明であるが既に旧幕府時代からのことであったのは確かでメメ来明治二十五年頃まで継続し、汽船の発達と共に次第に衰微して行ったのである。其頃になると、政府の方針としても、 0 0 浦郷町誌 0 425 8 五百石以上の帆船は建造を許さぬことになったさうである。この船が隠岐に寄港の有様に就いて述べやう。北前船は隠岐には単に風を待つために寄るので、別に物資を載せたり、下したりすることは全くなかったやうである。従って風待港として繁 0 0 浦郷町誌 0 425 12 問屋 昌したのは大山、浦郷の二部落で、其処には問屋と附船屋(つけふねや)があり、惣嫁も沢山いたやうだ。問屋は船頭やチクが泊まるところで、浦郷には古くは渡邊といふ家が一軒しかなかったが、明治二十年頃に寅屋といふ宿に代ったさうである。 0 0 浦郷町誌 0 426 1 風呂・問屋 附船屋は小宿とも云ひ、船子達が船のついた時から寄港中とかに来て、其処で休んで問屋に出かけて風呂に入ったり、惣嫁と遊んだりするところで、浦郷には六、七軒あったといふ。大概各船毎に毎年定宿となっている附舟屋は定まっていたものの 0 0 浦郷町誌 0 426 6 如く、さうした場合には、その附舟屋に行くのが常であったが新たに寄港した船は、最初港に入ってきて、一番先きに船綱をうけた船の附舟屋に行くことになっていた。惣嫁になっている者は浦郷だけで五、六軒あったが、その外にも島前の各所か 0 0 浦郷町誌 0 426 10 ら集まっていたやうだ。然し村の若い者は惣嫁になった女は仲間からはぶき、結婚しない定めとなっていたさうである。北前舟は隠岐には別に貨物を集散させなかったが、派手な帆舟時代の船員のことであるから一ケ位に互る停泊中には相当な金を 0 0 浦郷町誌 0 426 15 隠岐におとして行ったものらしい。明治二十年から三十年にかけて景気のよい船の盛んな時分には、一艘につき一日十円位の金を費ったといふから−当時多い時には島前に五十艘乃至七十艘の千石船が入っていた。−島前の経済にはかなり大きな影 0 0 浦郷町誌 0 427 4 響を有していたらしい。従って明治三十年頃この船が来なくなってからは、浦郷などは一時極度に不況となり、村の対外信用が零となってしまったと、老村長は当時を追憶しながら語っていた。船の入港の模様を今少し述べておかう。北前船が入港 0 0 浦郷町誌 0 427 9 する際には各船は相当の間隔をおいて入ってきたオモテの乗組が互に船の見分けをしていたのである。そして船を湊に入れるには港内にいくら船が沢山入っている時でも、帆を一杯張ったままでどんどん入港し、碇を下すと同時に帆も一度にドツと 0 0 浦郷町誌 0 427 13 おろした。何故かう危険を冒したかと言へば、帆を一杯に張っていなければ、却って舵が利かなかったからである。それ故、メメの小さいオモテ師などは、うろうろして船をぶちあててしまうこともあった。また帆を一気に下したので、帆の半分位を 0 0 浦郷町誌 0 428 2 海中に叩き入れることも多かったさうである。帆が降りると同時に赤褌の炊事役がハヅナ(船のオモテの碇綱)を口に喞へて、海中に飛び込む。寒い時雨の時分には之が殊に勇しげにみえたものである。船が入って来ると附舟屋達は各自の小舟を漕 0 0 浦郷町誌 0 428 6 ぎ出してそれを迎へる。そして入港せんとする千石舟はその附舟屋の小舟を目がけて綱を投げ、その綱に早くとりついた舟にお客として行くことになっていた。尤も毎年きて附舟屋が定っていた船は其処に行くことになっていたのである。四時頃夕 0 0 浦郷町誌 0 428 10 飯をすますと、船員一同が揃って北前船が持って居る傅馬を下し、之に二十人位の船方が乗って裸で上陸する。ヤサホイ、ヤサホイ、インヤラエ−の懸声で、櫂十六挺位を以て漕いだ。大擢は会計方のチクサンが必ず取る事に定っていて、大概皆ん 0 0 浦郷町誌 0 428 14 な居擢(井ガイ)で漕いだが、中には伊達な船があって、立擢(タテガイ)で漕ぎ、櫓を押す時には一同立ち上り、曳くときには一勢に背後に倒れる之は見ていると何とも言へぬ美事なものであったといふ。かうして上陸した船員は附舟屋に行って 0 0 浦郷町誌 0 429 2 多くの場合は席に竝んでいる惣嫁を選んで泊まるのだが、その際附舟屋や遊女に支払ふ金はいづれも金壱封であったので、船が出てからでないといくら出したか判らなかったさうである。北前船は縁起をかつぐ出船しようとしても揚げかけた碇を惣 0 0 浦郷町誌 0 429 6 嫁が再び海へ下ろすと、出帆を延期し、その日は決して出船しなかったさうである。 0 0 浦郷町誌 0 429 8 村の概況。浦郷村は明治十四五年頃四百23十戸、大体に於て半農半漁で、漁もするし農も営むと言ふ人によって占められて居る。前項に述べた通り、黒木村の大山と共に、明治中期の終り頃まで北前航路の風待湊として栄へて居たが、此の北前船 1881 0 明治14年 浦郷町誌 辛巳 0 429 12 が来なくなってから一時極度に疲弊して、浦郷の者には決して金を貸すなと広く言はれたものであったと言ふ。浦郷村が四百戸ばかりあった明治十年前後には此の地の本郷に酒屋一軒、塩小売店が一軒、菓子屋が一軒、鍛冶屋が一軒、雑貨店が二、 0 0 浦郷町誌 0 430 1 問屋 三軒、帆船営業者が一軒、問屋が一軒あった。其の頃水田は二十町歩位で、普通農家の一戸当りの耕作反別は、明治の初め頃二町村内外であったといふ。尚、明治の初期には渡邊(大江)来海、真野(中原)の三軒が大地主で之が全村の約三分の一 0 0 浦郷町誌 0 430 6 の土地を占め、その外に土地を所有していたものは十軒乃至二十軒で、三百から三百五十位の他の家は小作人であったといふ。本郷の大江も島前一流の萬家で(中良の分家として)浦郷一の大地主でもあったが、以後変動によって産を分散したかた 0 0 浦郷町誌 0 430 10 ちになった。草刈のスがあるだけである。このスの日はもと村の総会で決定していた。山の草刈のスは牧牛を厩に入れて、舎飼をする冬の飼糧の為めに行はれるので盆が終われば、そろそろ草刈の口があくのである。漁も其頃は其頃程に浦郷では精 0 0 浦郷町誌 0 431 1 を出したものであるが、何と言っても鳥賊を第一のものとした。だから小作料の滞納の言訳としては、常にこの言葉が用ひられた。「今年は鳥賊が捕れぬから」と言った程である。甘薯の隠岐に傅はったのは何時頃の事か明かでないが、吾が浦郷に 0 0 浦郷町誌 0 431 6 於ては文政の年度に本町の門源吉と言ふ人が甘薯を貯蔵する薯穴を発明して、その腐敗を防止する事を得たと傅へられて居るから文政以前に己に一般に普及し之れが貯蔵に苦心した結果と思はれるが、由来甘薯が島根県に植立始められたのは後の享 0 0 浦郷町誌 0 431 10 保十六、七年に至る中国四国一帯の大凶年にて餓死九十万以上に達したと言はるる其の十六年に石見大森代官として入国せられた幕臣井戸平左衛門正明公が窮民救済の為め色々苦心せられ、当時薩摩に甘薯と言ふものがあって石見地方の如き瘠梁の 0 0 浦郷町誌 0 431 14 食事 地にも適し食糧として最もよきものと言ふ事を聞き出され薩摩へ交渉せられたが中々手に入らず終に幕府を煩はして薯種十六七貫を手に入れられ、当時村高百石につき八〇領内各村へ配布せられたが、最初は馴れぬこととて成績も思はしくなかった 0 0 浦郷町誌 0 432 3 のを迩摩郡福光村の老農が耕作貯蔵に効果を挙げてから広く一般に普及したと言はれて居るから先づ代官領に拡まり次で出雲伯耆隠岐等に傅はったものと思はれるから其間二三十年ありしものとしても、己に百七八十年以前に栽培が始まったものと 0 0 浦郷町誌 0 432 7 想像が出来る。此の甘薯の栽培により如何に一般が飢餓を免れ其の思恵を感謝せしかを、二百年後の今日薯代官を宗め、津々浦々に至る迄記念碑を建て、其祭祀を断たないのを見ても察せられるのである。因に享保十六年は今昭和二十五年迄二百二 0 0 浦郷町誌 0 432 10 十年、文政元年は百三十四年となる。(今崎半太郎氏談)明治七年に、時の戸長渡邊一郎氏が伊勢参宮に行って、帰りに舶来の真鍮製の柱時計と洋傘を買って帰って来た。之が浦郷に文化利器の這入った始めで珍しいがって見物に来た程であっ?。 1874 0 明治7年 浦郷町誌 甲戌 0 432 15 問屋 (渡邊信行氏談)明治十年には元高槻藩主が、渡島浦郷に来て、時の戸長渡邊一郎氏の宅に泊まったを始め、其後隠岐丸も定期の就航を始め、明治二十年には船宿の問屋、附舩宿でなく、一般旅人宿として、当時とぢては比較的設備の整った。渡邊 1877 0 明治10年 浦郷町誌 丁丑 0 433 4 旅館 旅館(大江)が営業を始めたので、接客の用意も出来、前記の如く、乃木将軍の宿泊をはじめ、就中紅毛人来始めとして、明治二十五年旧七月には小泉八雲(ラフカデォハ−ン)が節子夫人同伴、浦郷に上陸して、一飯を喫し、帰途も亦宿泊したこ 1892 713 明治25年 浦郷町誌 壬辰 0 433 8 とである。その時の紀行文を抄出仕様、当時の浦郷を知るよい文である。浦郷は妙な小さい町で、多分大きさはたっぷり美保関はあらふ。美保関同様に半円形に立って居る幾つかの峻しい小山の麓の、狭い出張りの上に建てられて居る。然し美保関 0 0 浦郷町誌 0 433 13 よりももっと原始的で又色彩に乏しい。そしてその家々が絶壁と海との間に、なほもっと密接して詰め込んであるから、その街路といふよりもその路次は、船の舷門の幅も無い位である。船が錨を投ずると、自分の注意は突然不思議な老景に惹き付 0 0 浦郷町誌 0 434 2 けられた。峻しい丘の側面の墓地に風に乗って居る、長い不分明な形をしたものが、白くごちゃごちゃして居る。その墓地には灰色の墓と仏像が一パイにある。そして一々の墓の上に、細い竹竿に結びつけた妙な白い紙片がある。望遠鏡で見て、そ 0 0 浦郷町誌 0 434 6 の旗には仏教の字句が−南無妙法蓮華経、南無阿彌陀仏、南無大慈大悲観世音菩薩その他の聖語が−書いてあることが判った。訪ねて見て毎年、盆前の全る一と月の間、他の種々な装飾的な或は記号的な品物と共に、そんな旗を墓の上に樹てるのが 0 0 浦郷町誌 0 434 10 浦郷の習慣だと知った。水には裸体の水泳者が一パイ居った。それが笑ひながら大声で歓迎の語を放った。そして沢山の軽い疾い小舟が、裸体の漁師に漕がれて、乗客と荷物を求めに矢の如くに走らせて来た。此時自分に初めて隠岐の島の人の体格 0 0 浦郷町誌 0 434 15 を観察する機会を得た。そして男も男の子も強壮な容貌なのに大いに関心した。成人は自分には出雲海岸の男子よりか丈が高くてもつときつい型をして居るやうに思へた。そしてその鳶色の脊や肩に、櫓を漕ぐ動作の時、非道い労働に選抜された人 0 0 浦郷町誌 0 435 5 間のうちでも、日本では割合に稀なものを−筋肉の素ばらしく立派な発達を−見せたものが少なからず居った。汽船は浦郷には一時間停舟したから、上陸してそこで一番の宿屋で食事する余裕があった。頗る清潔な、小綺麗な宿屋で、境の宿屋の食 0 0 浦郷町誌 0 435 10 事よりか無限に優って居った。しかも請求した代金はたった七銭だった。そして其処の老主人は茶代の全部を受取ることを否んで、半分以下を納めて、残部を手柔く無理に自分の浴衣の袖へ返へした。帰途は又、浦郷には三泊したのであるが、珍ら 0 0 浦郷町誌 0 435 14 衣服 しがって見物人の多かったのに、ほとほと閉口の様であった。見物の子供が屋根から落ちた騒ぎさへあった。自分が最初そこへ上陸した時は、日本衣物を着て居たし、半ば顔を覆い隠す非常に大きな出雲風の帽子を冠って居たので、どうにか人目を 0 0 浦郷町誌 0 436 4 のがれるほせたのであった。西郷へ向けて去った後で西洋人が一人しかも島前への真のはじめての西洋人が−実際浦郷へ来て居ったのに自分等はそれを知らずに居たのだ。といふことを発見したのに相違ない。といふのは自分の二度目の見物は、加 0 0 浦郷町誌 0 436 8 賀浦での外、他の何処ででも一度も自分が起したことの無い程の騒ぎを起したからである。宿屋へやっとはいると、早や街路は見物高い驚く許りの群衆に全く塞れてしまった。その宿屋は不幸にも町角にあったから、直ぐに両側から包囲された。自 0 0 浦郷町誌 0 436 12 分は二階の大きな裏座敷へ案内された。すると自分が座布団へ座るや否や、その大勢の者がみんな草履を階段の下で脱いで全く音を立てずに二階へ上がり始めた。行儀が宜いから部屋へははいりはせぬが、四五人一度に入口から顔を出してお辞儀を 0 0 浦郷町誌 0 437 2 をして、にこにこ笑って、じっと見て、そしてその後に階段に一パイになって居る者に譲る為に引込むのであった。召使の者が自分に昼食を運んで来るのは容易な業ではなかった。そのうち、街路を隔った向側の家の二階座敷が見物人で詰った許り 0 0 浦郷町誌 0 437 6 で無い、自分の部屋が見渡せる北と東と南との屋根といふ屋根は悉く無数の男や男の子に占められた。それから少年が大勢、自分の部屋の下の廊下の上の狭い廂へ(どういふ風にしてか自分には想像出来なかったが)登りもした。そして三方にある 0 0 浦郷町誌 0 437 10 自分の部屋の入口は、どれも人の顔で一パイになった。すると瓦がするけて、いくたりか男の子が下へ落ちた。然し怪我したものは無ささうであった。文豪小泉八雲の筆によって、凡そこの時代の、人情と言ふか風俗と言ふか、兎に角一風景が描写 0 0 浦郷町誌 0 437 15 されて居ると思ふ。 0 0 浦郷町誌 0 477 7 通信。戸長時代を経て此の時代、浦郷郵便局は主として二代局長真野巌氏、村の発展と共に愈々整備充実一途をたどり、大正六年四月一日より電話架設もなり、昭和十二年十月十五日、市内公衆電話施設もなり、当時加入者八名、交換設備之に伴っ 1917 401 大正6年 浦郷町誌 丁巳 0 477 12 た。昭和十五年九月八日、局長真野巌氏死亡につき、局長心得として真野芳夫氏、昭和十五年九月八日より同年十月三十日に至る間就任されたが同日真野義隆三代目局長として任官された。明治十四年開始以来、今日に於ては菱浦局と共に島前中心 1881 0 明治14年 浦郷町誌 辛巳 0 478 1 局の免も区を持つに至り、電信電話の開通大阪、下関其他加入電話は昭和十三年一まづ施設の完了を見、加入者数十七を数へるに至り遂年増設の機運にあって、産業経済の向上を共に一段と完備を見込まれて居る。 1938 0 昭和13年 浦郷町誌 戊寅 0 515 2 青少年団。小年団−大正十四年、村内各小学校に少年赤十字団が組織になった。昭和九年三月、本郷小学校に少年消防隊を組織、同年八月島根県消防義会長から表彰を受けた。其後小型腕用ポンプ二台、其他消防器具の整備訓練等に向って充実が図 1925 0 大正14年 浦郷町誌 乙丑 0 515 7 られた。青年団男子部−独り浦郷村許りではなかったが、明治時代若連中の時代から、昭和初期頃に至るまで、青年会、青年団の名に変る迄、処謂若い者宿と言ふが各部落に残って居て、其頃の美点としては、随分団結力もあり、気慨にも富んで居 0 0 浦郷町誌 0 515 12 たが、この若い者宿を中心として、男女間の乱倫も可成行はれたものである。漸次これ等の幣風も改り、堅実な気分を作るに至ったが、大体大正十五年青年訓練所が創設され、昭和十年之れが青年学校として整備を加へ、同十四年更に義務制が施行 1926 0 大正15年 浦郷町誌 丙寅 0 516 1 せられたので、青年は一応学校教育の中に帰って来たので、青年団の行事も略し学校行事と一体化されて来たので、一般体育の行事はもとより、道場的な訓練も受けるに至ったので愈々其の堅実味を加へ来たのであるが、太平洋戦争勃発以来多くは 0 0 浦郷町誌 0 516 5 戦場に出て行き、復員はしたが今では未だ幾分虚脱状態はまぬがれないが、再建の熟意各所に見え、勤勉漁業に従事する一方、体育文化方面に向っても力強く一歩を踏み出しつつある。最近漁業組合に於て青年の為め文化部を置き文芸方面を始め、 0 0 浦郷町誌 0 516 9 澤野岩太郎氏の寄附によって、映写機等の設備も成り、演芸方面にも新しい動きを見せ、平和国家に相応い明るい村の建設に努力しつつある。青年団女子部−青年団女子部は、大正の頃から処女会の組織の下に、小学校訓導佐藤菊野、藤田芳子両先 0 0 浦郷町誌 0 516 14 生の学校を中心とした指導が割合古くから加へられて居たので、裁縫家事等の事に亘っても習得も怠らず、穏健な発達を遂げて来たが青年学校の義務制実施などと相俟って略遺憾なく今日に至ったが、戦後愈々自主性を加へるに至った。 0 0 浦郷町誌 0 517 4 警察署。戸長時代に記した通り、浦郷警察署の始まりは屯所に始り、明治十八年分署開設から、後独立して今日島前管轄の警察署として名実共に偉容を備ふるに至った。其の後の経過並びに代々の署長を列記し様、(戸長時代以後)明治三十六年三 1885 0 明治18年 浦郷町誌 乙酉 0 517 9 月、浦郷税関監視署を置く。大正十五年六月十五日、従来警察分署として置かれて居たが此の日より浦郷警察署として独立した。初代署長、後藤連市。昭和五年十一月十一日から帝国水難救済会浦郷救難支所が開設された。昭和八年九月、浦郷警察 1926 615 大正15年 浦郷町誌 丙寅 0 542 6 伝説及霊異。伝説ニ云ハク御祭神ハ神武天皇ノ御宇当社ノ西方由良浦ノ畳石トイフ所ニ烏賊ヲ御手ニ持チ苧桶ニ乗リ出現シ給フト一説ニ云ハク御祭神苧桶ニ乗リテ海ヲ渡リ御手ニテ水ヲカキ給フトキ烏賊アリテ其ノ御手ニ噛ミ付ケリト殿内ニ古ヨリ 0 0 浦郷町誌 0 542 12 不開函ト称スルモノアリシヲ明治八年之ヲ開カレシニ量器ニ似タル函ノ片三箇アリタリ其ノ形毀ハレ木質分明ナラズト雖モ頗ル古雅ノモノニシテ中古以来ノモノニアラズト覚エ伝説ニアル苧桶ニアタルモノカト思ハレル。本社ノ境内ヨリ見ルヲ得ル 1875 0 明治8年 浦郷町誌 乙亥 0 543 1 由良浦ノ湾頭ニ小サキ鳥居アリ毎年此鳥居ニ向ツテ無数ノ烏賊ノ集リ来ルコトハ一つノ不思議ナリ十一月後其ノ季節ニナレバ土地ノ人ハ此ノ浦ノ水際ニ沿ウテ多クノ小屋掛ヲナシ烏賊の集り来ルヲ待ツ烏賊ノ襲来スルトキハ瀧ノ響ノ如シ此ノ音ヲ聞 0 0 浦郷町誌 0 543 5 キ小屋ノ内ニアルモノハ皆大ナル竿ヲ持チ出デテ烏賊ヲ掬ヒ取ル、烏賊ノ邊最モ良キ所ナラント其処ニ小屋掛ヲナストキハ烏賊来ラズトイフ土地ノ人ハ此ノ烏賊ノ群衆ヲ以テ由良大明神ノ霊異トシテ悦ブナリ。編者言−烏賊寄の古伝説は神社に伝る 0 0 浦郷町誌 0 543 10 もの一般に流布されしものを既に、第二説古伝説に於て記述したから参照されたいが、此の伝説により毎年十月から十二月晦日に至る間、由良浦に柔魚の寄せて来る事は今に変りはないが、就中十月二十九日には此村で「神踊り」と称へて御座入の 0 0 浦郷町誌 0 543 15 神事を執行する。此夜霊験によって多少に拘らず寄り来るものと言はれて、村人は「神踊り」の証と言って居る。村民は此夜から毎夜争うて此の浦に至って柔魚を拾ふ事にして居た。だから俗に鯣大明神とも称へて居る。尚、船御旅神事は隔年に行 0 0 浦郷町誌 0 544 5 はれるが、隠岐島前三島は勿論、遠く雲石、但馬あたりから新造漁船を廻航し、競って神船に列せんとする状態である。 0 0 浦郷町誌 0 544 8 神職真野家ノ永続。徳川時代「主なる旧家参照、、、ここにて略」以上は嘗て由良比女神社の、国幣社昇格運動の持ち上った時調査された由緒が真野家に所蔵されて居ので大体是れを其侭に挙げた。然し昇格申請は、一応拝殿の新築其他随神門社務 0 0 浦郷町誌 0 544 12 所境内の整備など充分神容を整へてからと言ふ事になって、遂に請願の手続に至らずして終った。昭和五年頃から、メメねて拝殿の狭隘を歎いて居た社司真野輝雄は之が新建造の事を有志並に氏子総代にはかり、一同の熱烈なる支援と要望は遂に地元 0 0 浦郷町誌 0 545 2 を始め一般宗敬者に寄附を募り、翌昭和六年建造に着手七月二十九日、壮麗なる拝殿の落成を見るに至った。従って此の遷宮式は葬礼を極めたもので、近来稀れに見る豪華なもので、島前島後全島に亘る大相撲もあったので数日の賑ひは大したもの 1931 729 昭和6年 浦郷町誌 辛未 0 545 6 であった。その頃松江、松陽新報社に於て、県下各地方の誇りとして「ナンバ−、ワン」を広く募集した。其の際この由良比女神社が隠岐のナンバ−、ワンとして第一位を占めたのであるが、其の発表記事の序文の一節を抄出しておこう。本社が主 0 0 浦郷町誌 0 545 11 催して我等の誇り、ナンバ−、ワンを募集するや隠岐の国の結果こそは極めて深い興味と注視とをもって待たれていた。蓋し日本海中に浮かぶ夢のやうな孤島が持つ豊富な郷土の誇りに対していづれが最もそのいろどりを濃厚にとしているであらう 0 0 浦郷町誌 0 545 15 と期待されたからであらう。その結果、絶対多数をもって知夫郡浦郷村に鎮座まします郷社由良比売神社がナンバ−、ワンの首座を占め輝く当選の月桂冠をかち得た。数多の隠岐郷土の中より選備でされた由良比売神社は云々。彼様に由良比女神社 0 0 浦郷町誌 0 546 4 は、独り漁業神、海上守護神として、島内の信仰を集めて居るのみならず、其の神徳の及ぶ処も広く、古来大祭時は、島内は勿論、遠く雲石、但馬あたりから新造漁船を廻航し、競って神船に列せんとする状態である。 0 0 浦郷町誌 0 546 8 日吉神社。祭神、大山咋命。位置、浦郷村字岩ケ奥。由緒、以前は山壬権現と言はれたのを、明治五年十月神社調のとき日吉神社と改称され村社に列せられた。古伝によると、後白河法皇の御代仰せによって(当時僧兵の我侭其他兵乱等)近江国甲 1872 1000 明治5年 浦郷町誌 壬申 0 546 14 賀郡真野の庄に鎮座して居られたのを、領主真野宗源(藤原の朝臣真野左京之助久綱の孫)が兵乱を避けて、その社に法師の祝部吉田某と共に奉じく隠岐に渡航浦之郷を鎮座の地と定めたもので、末社八王子神社も亦同時に奉還になった。社地を宮 0 0 浦郷町誌 0 547 3 の前と言ふ。老松枝を交ふるメメ清メメな社殿があって、南方はメメけて漁船内海の静波に浮かぶのを見得る処である。祭神は大山咋命で、大年神の御子処謂山王の神が是である。別雷神は、火雷神(大山咋神)の御子であって、御母は玉依姫である。山 0 0 浦郷町誌 0 547 7 城の瀬見小川の畔で遊ばれた時、川上から丹塗矢(にむりや)が流れて来たので、これを取って床の上に置かれたのに遂に之に感じて男子をお生みになった。外メメ建角身命が大層悦んで廣殿を造り、諸神を集めて遊宴された。時に別雷命に向かって 0 0 浦郷町誌 0 547 11 汝が父と思はん者にこの酒をすすめよと言って酒盃を賜ふたので、命は即ちその盃を捧げたままメメを穿って昇天なさった。さきの丹塗矢は火雷命(大山咋神)の化身であったと云ふのが此の神の御神譜である。日吉神社の事については、既に、本書 0 0 浦郷町誌 0 547 15 の始めに古伝説並に時の話題、廃仏、旧家、古舞楽等の処に於て関係の事を詳細に記して置いたから、主なる関係文書参考しておこう。参考文書。(一)国内神名帳(億岐家所蔵)正四位大酒明神、浦之郷村ノ山王ノ社ニ合祭。編者記−下記合祭の 0 0 浦郷町誌 0 548 6 註は億岐有尚氏の研究孝証を記したものと思ふ。(二)神名記(元禄十六発未)(焼火山蔵)浦之郷村。山王大権現。(三)隠岐国両島神社書上帳、宝暦七年(焼火山蔵)浦之郷村。同村、山王権現、宮守、助四郎。(四)中原真野氏代々記録(中 0 0 浦郷町誌 0 548 13 原古文書)元祖、藤原朝臣真野左京助久綱幕紋紺藤左メメ也。本国近江国甲賀郡真野之庄之人也(略旧家参照)(五)真野氏中原伝書。山王神社月之初申(中略)参詣不忌事尤○権現日之定メモ無之候得共、当家之先祖ニ而神ニ祝ヘ古来ヨリ信心致ス 0 0 浦郷町誌 0 549 3 事伝知ルメメ。(六)山王大権現勧進記。弘化三丙牛捻。(古田家古文書)(前略、全文旧家の項)山王大権現者人皇第十代崇神天皇御即位元年甲申近江滋賀郡小比叡東之山金巌傍天降神霊也。往昔当国当所奉観謂巳来御神徳日感応月霊験盛也。後略 0 0 浦郷町誌 0 549 8 神楽 (七)安永二巳年御下メメ写。両嶋社領、高弐斗五升、山王大権現。日吉神社のお祭日は、毎年九月九日であるが、此の社の神事は往古頗る凝ったもので「五本の祭」とて、真言、祭典(神楽)庭の舞神之相撲、十万拝礼(しふはいら)などが行はれ 0 0 浦郷町誌 0 549 12 十方拝礼 たものであるが(三年目)就中庭之舞、十方拝礼の田楽は誠にゆかしいもので今日残って居る。之れについては、古舞楽の項をもうけて記してあるから参照されたい。 0 0 浦郷町誌 0 566 8 待場神社。三度。祭神、猿田彦太神。合殿禰美神社、祭神、天鈿女命。峯見神社、千箭神社、祭神、知屋御前名奈志於乃加美。大日霊貴命もお祭りあり。此ノ二柱、待場大明神ニ有。由緒。古伝説に日く、猿田彦命三度里へ出現まします事三度にし 0 0 浦郷町誌 0 567 1 て故に三度里といふとぞ大日霊貴命を待ち玉ふ時に大日霊貴命を天鈿女命供奉し、玉ひ、大神と言ふ海中に、およそ、5拾丈許なる立島といふ島あり、此島へ天降りまして猿田彦命の御許に至り玉ひ、此所にしばし石に御腰を掛け玉ひてやすらはせ 0 0 浦郷町誌 0 567 5 玉ふ。故に其石とて今に御腰掛の名といふ。天鈿女命山に登りまして、命の鎮りまさん地は、いづれの所がよからんと山の峯々を眺め玉ふ、今に其山とて峯見山といふあり、此山より凡三十町許東方の山へ供奉し玉ひて、此所にしばし鎮り玉ふ。其 0 0 浦郷町誌 0 567 8 地とて今に仮床といふあり。此山は谷一つ足らずして悪しと宣玉ひて、御筆を取長時湧出たる水とて今に硯水と唱ふる所あり、御書を認め玉ひて、虚空へ投げ玉ふ時にかなたの山より双烏飛来りて其の烏飛び来りし所とて今にからす床といふ。彼の 0 0 浦郷町誌 0 567 11 焼火 御書をくはへて遥に東の焼火山をさして飛去りぬ、是に其焼火山に座す山神勅を承りて、畢竟の大宮所撰定して報告申し玉ふによりて、猿田彦命、天鈿女命は、大日霊貴命を彼の焼火山に送り奉りて己れ二柱神は、三度の浦なる奈那といふ所に、雌 0 0 浦郷町誌 0 567 15 雄二つの石を生し御光を放ち玉ひて隠りましき。故に其所とて今に生石島といふあり。故に其二つの石を以て二柱大神の御霊メメとして先に大日霊貴命を待ち玉ひし所に、御祠を建て、怠場神と斉奉るとぞ言ひ伝へたり大日霊貴命を待ち玉ふ所に祠を 0 0 浦郷町誌 0 568 4 建る、故に待場といふとぞ。又日く、神功皇后三韓を征し玉ふ時、越の角鹿より御船を出し玉ひて、知夫の羽メメ島にて箭を伐り取らせ玉ひて是に箭を伐り玉ふ故に羽箭島と名づくとぞ然る故にや此島の竹には白班ありといふ。楯が崎といふ所に沖を 0 0 浦郷町誌 0 568 7 航させ玉ふ御時颶風俄に吹き起りて御船危く見させ玉ふ時、待場神舳先に現れ守護し玉ひければ風波忽ちに凪たり。今に青泙(あおなぎ)といふ海あり、この故にうふとぞ天鈿女命を峯見神と相殿に斉奉る所へは、大日霊貴命の鎮りまさん地を見定 0 0 浦郷町誌 0 568 10 め玉ふ故なりとぞ。大日霊貴命を千箭神と相殿に斉奉る所以は神功皇后三韓を征し玉ふ時、大日霊貴命御弓箭を携玉ひて、待場、峯見二柱神を引率し玉ひ御出現ましまし、皇后の御軍に御力を添させ玉はんとて、千の箭を放ち玉ふ、今に其処とて追 0 0 浦郷町誌 0 568 15 矢床といふあり。其御箭韓国へ走りし所なりとて今に矢走といふ所あり。其時の軍馬の出し所とて御馬谷(みうまたに)といふ所あり。古は此御神の遺風とて氏子の者老若男女とも、正月五日社境内参り集ひて、神酒御幣を捧奉り桃の枝をもて、木 0 0 浦郷町誌 0 569 4 石をたたき、三度ときの声をあぐるを御祭とせしとぞ。千の箭を放ち玉ふ故に千箭神と名づけ奉るとぞ。婦女妊娠のため待場神社に祈願するときは必ず安産なりとて諸人多く参詣す。天保十二年正月二十日の夜、松平出羽守の持船三度の浦沖にて、 1841 120 天保12年 浦郷町誌 辛丑 0 569 9 颶風に逢ひ頻に覆らんとす、故に其船を乗捨て、橋舟にて奈那といふ平島に揚り、大風雨を凌ぎて漸く岩窟にたどり付き、四九八勝助といふもの、近くに人家の有りもやせんθ、窟を出で歩み、四九八常人の岬といふ所に火光顕れ、其光にて小路を 0 0 浦郷町誌 0 569 13 見付け、火の光に随ひ歩み、四九八メメなるかな、待場神社の鳥居の前にして火は消え失せたり。是偏に此神の助け玉ふ所なりとて、伏し拝みて、而て、真瀬弥三郎といふものの宅に到り其由を語り、四九八疾く村長の小出雄太といふものに告げ、里 0 0 浦郷町誌 0 570 2 人○○○を以て彼の所に到り見れば、船人今は言語もなく九死一生なるを辛ふじて連れ帰り種々介抱を蓋し、四九八いづれも命を全ふするを得たり。是則此神社の神徳に依れる事、著く正に里民の知る所なり。 0 0 浦郷町誌 0 578 11 寺院。平野山専念寺、浄土宗、総本山智恩院末平野山一心院。本尊、阿弥陀如来。由緒。往古美田村字波止里に有と伝へらる。御宇慶長十一年の頃、開山狭蓮社善誉上人哲道大和尚にして、維新の際明治二年当国内乱の時、仏道不帰依を称へ、国内 1606 0 慶長11年 浦郷町誌 丙午 0 579 2 一般廃寺と相成候故旧記当減却に付不詳同十年内務卿の内意に依て諸宗一時に当国布教の為め始めて僧侶派出の処同十一年十二月三日、浦郷に止り仮説教所設置の所、同十三年十月二十日、洛東五条坂西光寺住職、醍醐須忍当国派出巡回の処同十二 0 0 浦郷町誌 0 579 7 月六日当村に止まり、本堂庫裡更に建立同二十一年九月三日付を以て専念寺と公称許可(付記、醍醐須忍は第二の開山なり)隠州視聴合記、国中仏寺知夫郡六寺の一たり。明治二十四年十二月十一日、本堂庫裡とも全焼せり。原因は、当時浦郷小学 1891 1211 明治24年 浦郷町誌 辛卯 0 579 11 校建築中ニ付仮校舎として使用中、爐底焼抜け床下に貯蔵の木炭に火移り、夜中に至り大火となり本尊を初めとし残りしもの殆どなし。 0 0 浦郷町誌 0 591 7 国賀 ロ 国賀。国賀は昔から名勝地として他に紹介された事もない様であるが、古記録を見ても、その特異な景観は記されていたものである。今まではただ隠岐の海岸では景色のよい所として言われていた。国賀の風景が真実に天下の国賀として一般に知られるに至ったのは俳人河東碧梧 0 0 浦郷町誌 0 591 13 国賀 桐氏の来遊が、大いに力があった。昭和7年、島根県観光協会の嘱を受けて来県した俳人碧梧桐は、その行程の中に隠岐がなく、かねて聞き及ぶ隠岐の国賀とか白島とかが無かったので、曲げて隠岐に来遊、翌8年かの中央公論に絶賛日本一と紹介され、各新聞社の盛夏読み物に隠岐 1932 0 昭和7年 浦郷町誌 壬申 0 592 3 国賀 風物殊に国賀白島の海景美を称え、文部省からは此年、国賀を以て名勝及天然記念物指定地として、理博脇水鉄五郎、国府?来、田村博士など順次調査員の来島があり、いづれも絶賛、遂に昭和13年7月13日付を以て国賀海岸を名勝及天然記念物としてしてされたのである。 1938 713 昭和13年 浦郷町誌 戊寅 0 592 7 国賀 此年を前後して、画家俳人などの来遊も多く、昭和13年5月徳富薊峰、昭和14年4月20日には東久迩宮などの御探勝があり、来遊名士も少なくなかったが、戦時中しばらく跡途絶え、近時隠岐の国立公園問題勃興とともに、その焦点をなす国賀の景勝地としての存在はますます 1939 420 昭和14年 浦郷町誌 己卯 0 623 7 神楽 社家神楽。浦之郷浦一軒の社家、秋月日向は、神楽傍頭の家で、社家仲間に於ては重きをないして居たが、大正年代秋月八咫麿をもって断絶の形となった。従ってこの社家神楽もなくなっ?。島前に於て京都吉田家の許状を貰って代々神楽を奉仕す 0 0 浦郷町誌 0 623 11 る社家は五軒あった。即ち、幣頭、宇野石見(黒木半田)傍頭、秋月日向(浦郷村赤之江、森)並社家上席、秋月和泉(海士村(布施村)日須賀喜多)並社家、駒月越前(海士村北部客)並社家、石塚備前(知夫村古海石塚)之等の社家はそれぞれ 0 0 浦郷町誌 0 624 4 の村々に於て、常例際事の總てを行ひ、村内祭事の司として居た。而して、之等の社家仲間に於ては、整然たる順位があり、祭事に至っても各々その所在の村を中心にして領域があってお互に相冒さなかった。宇野石見、船越を除く黒木一円。秋月 0 0 浦郷町誌 0 624 9 日向、浦之郷村一円。秋月和泉、崎村、布施、太井、須賀、西、福井、中里、菱。駒月越前、知々井、保々見、豊田、宇受賀、北部。石塚備前、知夫里村一円。の如く、祭事の縄張があったから、大体自領の常例祭事は各自の社家自身で勤めたもの 0 0 浦郷町誌 0 624 15 神楽 であるが、大神楽(御〆神楽)等の様な神楽に於ては、多人数を必要とする許りでなく、一定の格式に従って嶋前五社家が一同に集まって行ったもので、従って祭事としては当時最高のものであったので、大底その神楽の坐も八畳又は十畳が普通で、 0 0 浦郷町誌 0 625 5 神楽 社家仲間に於ける坐位も整然たる定めに依ったもので、其間少しの違乱も許されなかった。だから幣頭の宇野石見に病気其他の事故があって出られない場合は、必ず傍頭家たる秋月日向が大太鼓の坐についたもので順位が定って居た。神楽は古来儀 0 0 浦郷町誌 0 626 1 神楽 式以上のものとして、殆んど神事の全部をなしたものであったから、見識も高かったし、鄭重に送り迎ひをして、神主家又は地下方に於ても賄ひ方にも心を凝したもので、此の神楽も社家相伝のもので、許状のない素人の手に伝へるべきものでなく 0 0 浦郷町誌 0 626 5 神楽 、全く秘伝とされて居たので、詳細を記録することは出来ないが、その格式から大体、大神楽、小神楽、雨乞神楽、濱神楽、等と呼びなされる種類があって、外にお神楽と唱へて、巫女舞がある。舞の手には、此の巫女舞、茣座舞、剣舞、幣舞、布 0 0 浦郷町誌 0 626 9 神楽 舞、能、等の種類があり、島前社家神楽に於ける能の代表的なものを挙げれば 0 0 浦郷町誌 0 637 8 十方拝礼 田楽。日吉神社に於て隔年行はれる祭礼には、庭の舞と十万拝礼(しゅうはいら)の舞楽が奉納される事になって居る。極めて古典的な舞楽で、古伝としては、昔近江の国甲賀郡真野の庄から、日吉神社の祝部である真野宗源が此の地へ奉じて来た 0 0 浦郷町誌 0 637 12 十方拝礼 同社と共に、此の古楽(田楽)をも伝へたものであるとも言ひ−或は薄古代宮吉田家の祖が。或は三度木の下家の伝になるものとの説もあるが詳かでない。この田楽関係の古文書としては、(前文千切れてなし)先っ中門口次二四天次ニ小ざざら、 0 0 浦郷町誌 0 638 3 十方拝礼 次ニ惣おどり之次第左右ながら舞出テ正面江向テ先ツ左江渡候也。又右江渡リ候なり向合ヲ左右ながら正面江なびきして又楽屋へなびきして又向合テすりちがいして、次ニ正面江向テ外をおがみ内をおがみ又楽屋へ向テ外をおがみ内をおがみて、す 0 0 浦郷町誌 0 638 7 十方拝礼 りちがいして座渡りして、我が座のことくおどりて、又すりちがいして、まるく成て順に渡りて、人の座に而うつして外ニ而あふぎをとりて、ひらいて渡り候ナリ、又我が座ニ而、はら合、せな合して、向合テすりちがいして、立わき、居わきして 0 0 浦郷町誌 0 638 11 十方拝礼 、又まわり合テすりちがいして笠合して、左右へのそき合テ、又うしろへ向テおい合テ、次ニ立せきを正面へして居せきを楽屋へあときまゑ引候ナリ。寛永五年辰九月九日。浦之合山王御祭礼之時記之者ナリ。田楽ならしの師、美田村龍澤寺住、玄 1628 909 寛永5年 浦郷町誌 戊辰 0 639 3 十方拝礼 良人道。美田村長福寺住良快代田楽抄者、寛永四年卯八月吉日□有之候、抄を元禄拾壱寅八月晦日ニ取寄見合をし処々少も相違無御座候ナリ。真野左京助。右之抄寅八月晦日写之。村尾安右衛門。浦之郷山王まつり役者次第書付之事。一、田楽おと 1627 800 寛永4年 浦郷町誌 丁卯 0 639 10 十方拝礼 り子ハ其身きゆう次第ニ見合明、中門口出家弐人ニ〆。一、庭舞三度吉三郎、々二郎兵衛、赤之江大兵衛、同六右衛、珍崎弥藤次、同喜蔵。以上六人但せんそんよりまい申とも申、又せんそん無之者ハ屋敷ニ付、田地斗之者ハ田地ニ付まい申ナリ。 0 0 浦郷町誌 0 639 15 十方拝礼 赤之江又右衛門あと惣右衛門まい申候へ共、せんそんよりと申子ノ年六右衛門□□取申候、か様伝ハ吉三郎能存候。一、神之すもふ、赤之江徳介、同右左衛門、これも先年八郎右衛門より受申由ニ候へ共、此者はせんそんより受申よしニて、如此ニ 0 0 浦郷町誌 0 640 4 十方拝礼 御座候、何年来追も是ナリ、又まつりハ三年ニ一度、やどハまつり無之方よりかく年宮学やハやとニて無之方ノ村よりかけ申し右あとあと如此可仕者ナリ。寛文弐年。ミつのへ子ノ。九月九日、神主、佐兵衛。同、角左衛門。庭之舞、吉三郎。(薄 0 0 浦郷町誌 0 640 12 十方拝礼 古代宮屋古文書)右により、寛永頃の十方拝礼の舞方並に寛文の頃に於ける庭之舞、神の角力等の奉仕関係を知る事が出来る。古来日吉神社に於ける古式の祭典は「五本の祭」と称して左の神事が行われた。 0 0 浦郷町誌 0 643 13 奉納の家。庭の舞奉納者の家は、昔は三度の木の下が大将、副大将が赤之江の山根屋(中良の代理と云ふ説もある。−中良は海士村崎)珍崎では後小路、赤之江の橋本等であり、本郷では代宮屋、萬屋、和泉屋、出羽屋であった。尤も本郷で出羽屋 0 0 浦郷町誌 0 644 2 三度の新屋、柳屋等は交番に出たものである。明治御維新の前後から諸政改革、世の中も騒動を極めて居た時、庭の舞も一時すたれていたのを遺憾に思った赤之江の綿屋千代造翁が公文大江に願って再興を図ったが差留めに会って又も中絶した。け 0 0 浦郷町誌 0 644 7 出羽屋などが奉して居たものである。其後又この定まった家のみでは勤め切れなくなり、最近の奉仕者は左記の人々によって行はれるに至った。虎屋岡田由麿、中屋敷真野熊次郎、中吉屋真野才次郎、屋敷佐藤岩次郎、中西真野栄信、三次三次樹次 0 0 浦郷町誌 0 644 7 れども其の後お祭の際三度の峯床から神様が木の下家を呼びよったとか、其他色々な不可思議や不詳事が起ったとかで、再び復興の気運が起り、又も此の由緒ある古典神事を続ける事になった。明治五年の神社調から従来の山王権現、日吉大明神な 1872 0 明治5年 浦郷町誌 壬申 0 644 11 神楽 どの称号が廃され社名も日吉神社と改り、以前御本殿中に安置されていたと言ふ仏体も取りのぞかれ、神社祭式の様式も変り、社家の手を離れた所から、自然大磐若(転読か)と神楽の二本が五本の祭から離れるに至ったものらしく思はれる。復興 0 0 浦郷町誌 0 644 13 郎、河内屋隠居河内次郎、米子屋佐藤喜代一、河内屋河内岩登亀、前田屋下大太、酒井屋酒井音一、大上村尾正義、松之下今咲豊男。 0 0 浦郷町誌 0 644 15 後の庭の舞奉納の家は、大将、来海、小仲屋、尾張屋。副大将、虎屋、中屋敷、大前。となって、大体本郷のみによって勤めるやうになったが、此処に至る迄に西部の人達は自然欠けて行ったものらしく、只此の復興前後迄、珍崎の後小路、本郷の 0 0 浦郷町誌 0 646 3 神之相撲。神の相撲は庭の舞に引き続いて行はれる神事で、子供2人で奉仕せられる。庭の舞の人々が舞座に座ると同時に、左右列の最後に振り分けに座っているのである。此の時はただ白の後鉢巻、額中央には小形の御幣を挿し立て、通常の着物 0 0 浦郷町誌 0 646 7 のまま座る。庭の舞が終るとすぐに神の相撲が始る。二人は裸体姿に変り、黒締込は既に出来ている。拝殿中央の神前に並んで座り、相撲の所作ともいふべきか、立った侭左手を腰に、右手を上に挙げて座りながら身体を折り、礼式の様な所作事を 0 0 浦郷町誌 0 646 11 三回して、前に置かれた白木綿の畳んだのと、御幣とを取って、ホ−ハンニヤ、ゴヘイ、と声をかけて、拝殿から駆け出し、右に座って居たのは右に、左側に座って居たのは左に、各々本社の後まで走り、本殿後で出会ひ、両方幣と共に手に捧げた 0 0 浦郷町誌 0 646 15 反を一寸つき合せて、元きた方へ後戻りして原位に駆け上り、同様の所作の後メメ出すこと三回に及んで最後に原位に復して終わるのである。 0 0 浦郷町誌 0 656 2 り。きさらぎ山。せとおちは、八百八島に、九十七浦申せども、靹と下津のあひの白石で、瀬が変るらし。いい候。きさらぎ山の後「シケオチ」に謡ふ唄、此の唄を謡ふと海が時化ないといふ。小野道風にや、青柳すずり、てんぢてまく、小袖ぐみ 0 0 浦郷町誌 0 656 8 、ちんべいに夏祭、あいのかなでほん、そんなぢやござらぬ、そりやおそだ。 0 0 浦郷町誌 0 656 11 祝唄。「ゴト」といふ唄、之は酒宴の席で先づ、シマダイが出て其の後謡ふものである。千代に八千代にいはほとなりてナヨ苔のヤむすまでサ君が代は。いはひ芽出度のどのこを見てもナヨ西もヤひがしもサ蔵建てる。よいよいと云ふ唄−一名ヤチ 0 0 浦郷町誌 0 657 3 ヤとも云ひ、雑煮の後吸物の出た時に謡。これのお家はもとから繁生、今は若世ではほ繁生。うれし芽出度の若松様よ、枝も栄ゆる葉もしげる。庄内節にて唄ふ唄。芽出度いや、芽出度いや、餅を搗くやら、まぜ団子ならす、二六田圃の花ざかり。 0 0 浦郷町誌 0 657 10 花の三月霞の下り、先は大黒、中蛭子丸、後はよるづのたから船。夕べ夢みた、芽出度い夢を、月を枕に朝日に起きて、船にたからを積むと見た。「わたまち」の日に謡ふ−唄、しよんが節にて謡。芽出度いやいや明けて芽出度い正月は、門に門松 0 0 浦郷町誌 0 657 15 飾りして、内にはしらげの米がふる。これのお屋敷ながむらば、八方ねいに八つの倉、中なる館をながむれば、八つむね造りのしらたぶき、一の垂水を眺むれば、白金つづみの桶なり、窓は切窓、世にすざり、空なる破風をながむれば、美し小島が 0 0 浦郷町誌 0 658 4 舞ひ遊ぶ、御厩かかりを眺むれば、ぜにぜに蘆毛のとちひばり、小庭のかかりをながむれば、小庭月みことな姫小松、一の枝の二の枝の、三この枝のその末に、鶴と亀とが巣をもりて、諸国の福をかいよする。なんぼ芽出度の姫小松、共に白髪の生 0 0 浦郷町誌 0 658 9 えるまで。生後三十三日の「抱上げ」の日の祝ひに謡ふ唄。鴬よ、鴬よ、使に来たか、ただ来たか、使でもない、ただでない今年始めて伊勢詣り、伊勢の町ほど古けれど、一夜のお宿を貸しかねて浜へさがりて浜松の、一の枝二の枝の、三この枝の 0 0 浦郷町誌 0 658 14 その末に、柴かいよせて、巣をもりて、十二の卵を生み揃え、ナニが一度に目をあける。親子ともに立つ時は、黄金の梃子に銀の壺、白金なる盃で飲みやれ、大黒、歌やれ蛭子相の酌取りや福の神、シヨンガイへ。北野節又は住吉節とも云ふ。酒造 0 0 浦郷町誌 0 659 3 りの初め又は造り終ひの時にうたふ唄。梅は北野の、天神様の御神木、みごとに咲いたとせ、咲いたその梅どうじやないな、風にもまれて、ちいらちいら、東風が吹く匂ひその風わしや知らん、二人が中を二世も三世もかはりやせん。松は住吉、明 0 0 浦郷町誌 0 659 9 神様の御神木、磯辺をながむれば、浪にただよふ帆かけ船、淡路島、通ふ千鳥は夫婦づれ、二人が中を二世も三世もかはりやせん。竹は八幡の八幡様の御神木、みごとにのびたとせ、伸んだその竹どうじやいの、雪が積もりて、しいわしいわ、とけ 0 0 浦郷町誌 0 659 13 しやんすのかわしやうれし、二人が中を二世も三世もかはりやせん。此処は祇園のまぎれもせんが二軒茶屋、みごとに揃うたとせ、揃たその茶屋どうじやいの、赤い前垂で、しやらしやら、華やかにとめしやんすかわしやうれし。酒はもろはく、魚 0 0 浦郷町誌 0 660 3 は鯉の糸作り、美事に飲んだとせ、飲んだその夜はどうじやいな、枕はづして、たあのしむ、朝日刺す、まだ来て見ても目もさめぬ、二世も三世もかはりやせん。なかよしと言ふ唄−酒席にて論議した後仲直りに唄ふ。明けて目出度い正月は、庭に 0 0 浦郷町誌 0 660 8 門松かざりして、二階座敷の四五六(すごろく)ハンヨ娘遊びの歌がるた。ナカヨシノ。右の中、よいよいの「うれし芽出度たの、、、」以外は、昭和十四年六月一日発行「島根民俗」歌謡特輯から轉載、此の歌は、当時八十六歳赤之江の福田三郎 0 0 浦郷町誌 0 660 12 翁の唄ったものを同誌編輯人牛尾三千夫氏が採集したものである。ゑびす祭の日の歌。おゑびすは、岩のヤ−レ、こかげで昼寝した、コナジュンニコイコナジュンニコイ鯛をヤ−レ、釣るよな夢を見た。コナジュンニコイ。だいこくは、倉のヤ−レ 0 0 浦郷町誌 0 661 2 、こかげで昼寝した。コナジュンニコイコナジュンニコイ、俵をヤ−レ、積よな夢を見た、コナジュンニコイ。うぐひすは、梅のヤ−レ、小枝で昼寝した、コナジュンニコイコナジュンニコイ、花のヤ−レ、咲くよな夢を見た、コナジュンニコイ。 0 0 浦郷町誌 0 661 6 三つの歌を唄ひ終り、そのとどめに「順に来ば、よしに来い、儲けて来るから案じるな」といふ囃詞を附ける。猶右歌は、浦郷村にて正月蛭子祭の当日酒宴で歌ふるものである。麻の中と云ふ唄。サヨ−エ、サヨエ、あ−さの中で、サノエ、さま− 0 0 浦郷町誌 0 661 10 はあサ、ヨイ−ナ−エ−サノエ、さま、サァ−ノ−、ヨイナ−、エ−エサエ、サノエ、麻の中で−サノエ、さま−サアノ、ヨイナ−、ナ−なかで−ヨ、サノエ、さまサ−ヨイナ−、エ−エサノエ、三度ナ−ヨ、さまサ−ガ、ヨイナ−、知らさにや− 0 0 浦郷町誌 0 661 14 ノ−エ、サノ、サ−が、ヨイナ−エ−、エ−サヨ−、名も立たぬヨ−。右の歌詞は「麻の中でも、三度まで、寝たがあさが知らせにや名も立たぬ」といふ短い歌詞でもあるが、繰返し繰返し謡ふものにて、右の書留は至って不完全なものであるが此 0 0 浦郷町誌 0 662 3 の唄の匂ひだけでも伝へたいと思ふ。「島根民俗」牛尾氏が石塚勝太郎氏から聞いたものを轉載した。松坂。松坂の節に違ひはないと私思へども、所変れば金量節。世の中に目出度いものは里芋の種、茎が長うて葉が広て、朝には黄金の露うける。 0 0 浦郷町誌 0 662 8 孫子栄ゆる末迄繁昌。博多節。博多帯しめ筑前しぼり、歩む姿は柳腰。百万石の知行取るより、そなたのそばで、手鍋さげるがわしやすきだ。おけさ節。此所と知夫里と、かち道なれば、草鞋脚胖は、はなしやせぬ。ごんべのかか、曲金のみやった、 0 0 浦郷町誌 0 662 15 喉にたてずによくのみやた。おいおい親父殿、其金こちらへ貸しておくれんか、与一兵衛はびっくり仰天し、いやいや金ではございません。昨夕娘がして呉れた。用意の握りまんま、さよならお先にさんじませう。やりやりしぶとい親父奴と、抜き 0 0 浦郷町誌 0 663 4 はなし、何の苦もなく一打に、命と金との、これがほんまの二つ弾。おはら。踊り子が出た、しなよく踊れ、しなのよいのがこちの嫁。踊る中へ来て邪魔する奴は、後生も悪かろ子もなかろ。どっさり節。大山お山から隠岐の国見れば、島が四島に 0 0 浦郷町誌 0 663 11 、大満寺、サアノ−ウエ−。中のコンワイドウヂアナア、小島に、ナアチョイト長者ある。サアノウエ−。どっさり節の代表歌で、長者は即ち海士の長者村上助九郎。しのび出(ぢ)よとすりや烏奴かつける。まだ夜も明けのにガホガホと、サアノ 0 0 浦郷町誌 0 664 2 ウエ−、憎くや、コレワイドウヂアナア、八幡のナアチヨイト森烏。サアノウエ−。前唄と共に代表歌、後醍醐天皇の御製ではあるまいかとの説もある。それは兎も角当時の御心境を歌ったもので、二つとも古い歌である。かのたかのたや思ふこと 0 0 浦郷町誌 0 664 7 かのた。鶴が御門に巣をかけた、サアノウエ−。御家、コレワイドウヂヤナア、御繁昌とナアチヨイト、巣をかけた。サアノウエ−。お祝の席などで芽出度い唄としてよく唄はれている。由良の姫宮烏賊寄せなさる。今宵千連、サノウエ−。明日も 0 0 浦郷町誌 0 664 14 コレワイドウヂアナア、見張りの、ハアチヨイト、小屋に寝る。サアノウエ−。由良比女神社の古伝説に材をとった。横山の新作。隠岐追分。元旦や末の間から夜はほのぼのと、笑ひ顔する福の神。咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒がいさめば花が散る。 0 0 浦郷町誌 0 665 7 つけて下され下りの節にや、港はいらにや口までも。東殿町西小路名所、薄古小在所で公事どころ。荒老浜とは誰が名をつけた、名こそ荒けれ気はやさし。伊勢音頭。伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ。お伊勢詣るに此の子が 0 0 浦郷町誌 0 666 1 出来た、この子伊勢松、お伊勢松。安来節。十四の時から勤めする。お客だました其罪で、今だにうけ出す人もない。身は高山の石燈篭、今宵はあなたにともされて明日の晩はどなたにともされるやら。私とお前は算盤縁で、三五の十五で嫁に行き、 0 0 浦郷町誌 0 666 7 四五の二十で子が出来て、五六の三十でいねいねといねといはしやらいにもする。元の三五の十五の、白歯の島田のすこぶる別嬪さんに、このきんかよしてもどせ。松江大橋、流りよが、焼きよが、和多見通ひは、舟でする。安来千軒、名の出たと 0 0 浦郷町誌 0 666 13 ころ、社日桜に、十神山。甚句(相撲取節とも)豆腐と蒟蒻と町中で出合ふて、豆腐まめなか蒟蒻が、私は色は黒けれど、投げてもめげのが生れつき、私は色は白けれどからだが弱くてどもならの、度々入湯もしたけれど、元の豆にはどもならの。 0 0 浦郷町誌 0 667 5 ゆふべ夢見た、大きな夢を、奈良の大仏背に負ひ、千石船を下駄にはき、其また帆柱杖につき、富士の山にと腰をかけ、あんまり咽喉がかはくより、近江の湖三口半にと呑みほして何やらのんどにせかるので、コホンコホンと云ふたなら、瀬田の唐 0 0 浦郷町誌 0 667 9 橋が飛んで出た。磯節。磯で名所はおはらひ様よ。松が見えますほのぼのと、松がネ、見えますイソ、ほのぼのと、テヤテヤテヤ、イササカ、リンリン、スカレテ、ドンドン。四角四面の郵便箱が恋の仲だちするわいな。恋のね、仲立、イソ、する 0 0 浦郷町誌 0 668 2 わいな。テヤテヤテヤ、イササカ、リンリン、スカレテ、ドンドン。法界節。恋でなし、色でなし、唯何となく、くひつきたいほど好きな人、と言ふて私の人でない、人でないのに、人がとるかと、案じられまする。私明治のハイカラで、あなた元 0 0 浦郷町誌 0 668 8 禄伊達模様、粋と意気とのお揃ひで、新婚旅行がして見たい。喇叺節。雪はしんしん降り積る。障子開くれば銀世界、さぞや満州は寒からう、思へば涙が先にたつ。トコトツトツトウ。 0 0 浦郷町誌 0 668 13 遊唄。おせばさいといふ踊歌。−盆踊の歌−おせはサアおせおせおさねば行かぬ、オセバサイ。おせばサア港がヤンサ近くなる、オセバサイ。音頭サ取る子が橋から落ちて、オセバサイ。橋のサ、下でもヤンサ音頭とる、オセバサイ。盆がサ、来た 0 0 浦郷町誌 0 669 3 らこそメメに米まぜて、オセバサイ。中にサ、小豆をヤンサちらぱらと、オセバサイ。酒田といふ踊歌。酒田やさんのしよう、おぐみ屋のおふり。加茂といふ踊歌。加茂がよいかや、酒たがよいか、心からより、加茂がよい。浦郷村には古い盆歌が残 0 0 浦郷町誌 0 669 11 っている。殊に赤之江のは頗る変ったのが保存されて居るので、昭和十四年にはこの「サカタ踊」を松江放送局から放送した。やりのおと云ふ踊歌。寺のげんかんに、七つの緒の下駄、女参るかの寺へ。しげさと云ふ踊歌。しげさしげさと、名も高 1939 0 昭和14年 浦郷町誌 己卯 0 670 2 ければ、しげさの御開帳、山里越えても、おがみたや。オサ、ソダヤレ、ねんごろすりや、はらむと覚悟はしても、お山へ上れば、子おろし薬を買うてやろ。此所へ収録したのは、本郷小学校での古い調査記録、牛尾氏採集ものに編者のものを加え 0 0 浦郷町誌 0 670 7 て、代表的なものを記した。近頃限りなく流行の歌があるが、際限がないから捨てて置けば二度と採集出来ないもの及び地方色豊なものだけにとどめた。盆踊歌としていづれにもよく唄はれる歌詞。何時も月夜で世が八月で、年が二十五で居ればよ 0 0 浦郷町誌 0 670 12 い。そろたそろたよ若い衆がそろた、稲の出穂よりなほそろた。もはや年がよってとぼけてならの、茶びんかけるとて篭掛けた。雨が降りそな夕立がしそな、此処の浦郷が流されそな。踊見に来て踊らぬものは、足がちんばか手がないか。しっかり 0 0 浦郷町誌 0 671 6 しやんと踊れ、盆がいなしたらくやしゆなる。音頭取る子が橋から落ちて、橋の下でも音頭とる。ばしょだばしょだよ浦郷はばしょだ、はなや榊がないばしょだ。ここと西郷はなぜ橋かけの、道がよこせでかけられの。縄のきれたはつなげばなほる、 0 0 浦郷町誌 0 671 15 縁の切れたはつながれの。沖の烏賊とり見りやこそ可愛い、わしの殿御もあの中に。男もつなら丈高男、二百十日の風よけに。親の意見と茄びの花は、千に一つのあだもない。天の星さへかぞへて見れば、四千九つ八つ一つ。いやと思へば見るめも 0 0 浦郷町誌 0 672 9 いやよ、おぼろ月夜のかげもいや。はれてつまらの他国の人に、末は烏の啼き別れ。男なにしよにあのやせ男、骨と皮とで肉がない。今宵一夜は浦島太郎、あけてくやしい玉手箱。盆踊りには、外に代表的な、山くづし、ヨ−ホイ、ヨ−ホイといふ 0 0 浦郷町誌 0 673 3 大踊りがあるが此の二つは、島前の各村に皆残って居る踊である。村々によって多少の踊り口の異ふ所もある。単調な嫌ひはあるが、多人数の大踊りになるとこれである。この踊りは声のよい音頭取りが別に居て、すす木もんど、とか、お吉清三と 0 0 浦郷町誌 0 673 7 か、八百屋おセとか言ふ、情歌の文句音頭で、踊り子は、山崩しなれ、ヤアハトナとか、大踊なら、ヨ−ホイ、ヨ−ホイ、ヨ−イヤナと言ひながら囃をかけて踊るのである。 0 0 浦郷町誌 0 712 5 年中行事(陰暦による)。正月。元旦、若水迎ひ、産土神参り(初参)三宝、銚子、取肴。屠蘇(普通の清酒を用ふ)、雑煮、節。(雑煮及節等は上流では高膳使用、一般に箸は紡錐形の新しい杉箸を用ふる。)年始廻礼−昔は五かんち(五日)迄 0 0 浦郷町誌 0 712 12 も廻りよったが今は三日迄、主に元旦に終る。二日、雑煮、屠蘇、節、書初。船持は松直しのお祝。三日、雑煮、屠蘇、節、三日迄は休む。四日、僧侶は他家への回礼は主として四日に行ふが、僧侶への回礼は一般の通り元旦でもかまわない。五日、 0 0 浦郷町誌 0 713 5 四日、五日は仕事日とされて居たが大体はお正月気持で休む。六日、〆飾を下す、年の夜。七日、七草粥、六日七日は休む。龍神祭(るいじんまつり)を行ふ(主に赤之江)本郷では仕事日とされて居た。八日、仕事日。十日、蛭子祭、漁船主のか 0 0 浦郷町誌 0 713 11 こは集まって祝ひがある。お蛭子さんの歌を唄って(民謡参照)盛んに賑ふ。十一日、此の日は歳徳(としとこ)さんの山入りを称へて鍬初めをなす。あらためて餅もつく。十二日、十三日は仕事日。十四日、節日として休む。十五日、此日、小豆 0 0 浦郷町誌 0 714 2 粥を炊き、左義長(とんど)を祝ふ。十六日、斉(とき)の日と称へて白粥を炊く。二十六日、愛宕祭。二月。二日、二日やき(灸メメへ)初牛、二月始め牛の日に休む、之れは大昔からあったのではないが、浦郷村では赤之江の大火事から休む様に 0 0 浦郷町誌 0 714 8 なった。十五日、メメメメでお寺参り。彼岸、お団子をつくり祖先をまつる。三月。三日、雛祭、お雛壇、桃の花、椿の花、菱餅、草餅(蓬餅)等御馳走をして桃の花を御神酒でいただく、女の児の祭であるが、男の児は凧上げ。浦郷の凧上げは古来盛 0 0 浦郷町誌 0 714 15 んな方で、若い者が凧上げをやって賑った。大きい角凧。二十一日、大師参り、今日に至っても愈々盛、村内に八十八所をつくり之等を始め村内寺堂めぐり、お寺お堂ではお接待もある。お接待船すら出る事もある。四月。八日、所謂卯月八日で、 0 0 浦郷町誌 0 715 7 風呂 お釈迦様お寺参り。二十四日、大山様、牛馬持が餅をついて祝ふ。五月。五日、端午の節句(上巳とも)萱、蓬などを屋根にさす。(屋根をふくとも言ふ)神棚に菖蒲を供へ粽(ちまき)を作る。菖蒲酒、菖蒲風呂、男の児の節句である。十六日、 0 0 浦郷町誌 0 715 13 あらためて粽を作り、飼牛を休ませる。六月。十五日、祇園祭でお団子つくり休む。二十九日、由良祭、三年目に船御旅(由良比売神社参照)今は太陽暦。七月。一日、墓所へ名号旗(白旗)を立てる。七日、七夕祭、七日盆、墓地の清掃、はなを 0 0 浦郷町誌 0 716 4 たてる。施餓鬼がお寺である。十三日、縁先に提灯、仏壇飾、お団子、新盆の家へは親類知己から香典、素麺、線香等を供へる。昔は若者がその家に行って盆踊を仕様ったが今はその事は頽れた。親類縁者の家へ仏拝み、夜は盆踊、ホ−ケ棚(餓鬼 0 0 浦郷町誌 0 716 9 棚とも)を作りお団子など供へて無縁仏をまつる。十四日、仏拝み、盆踊、墓参。十五日、仏送りの墓参、仏様の土産として、ひの葉、茄子、胡爪、素麺、トコロテンなどの切ったのを墓前に供へる。お盆中の墓参りはよい着物を着て参るが、殊に 0 0 浦郷町誌 0 716 14 十四日、十五日は盛装をする。十六日、仏送り、精霊船流し、今行はれる藁造りの大きい精霊船は近年から始った。晩方送り火を浜辺で焚く。お盆中特に盛大な盆踊をする時は置座を真中に置き、胴たたき、くどき手を頼みそれを廻って踊る。彼様 0 0 浦郷町誌 0 717 4 な大踊りは十六日夜などに多く行はれた。十七日、作祈祷があって風休みと称へた。この日以後一日二日休みは、村役に頼んだものだが、庄屋時代には仲々休み日を延して貰はれない様な場合には、牛を山の上へまで連れて行って、それを繋ぎ仕事 0 0 浦郷町誌 0 717 9 食事 をしないで一種のストをやったりしたものだそうだ。八月。一日、八朔、団子をつくったりして神参休んだもの、彼岸、仏祭り、お団子をして寺参りなど。十五日、明月とて月見団子をして食べる。別に月見が行われたわけではない。九月。九日、 0 0 浦郷町誌 0 718 2 節句(重陽)餅をつき、野菊を神仏に挿し、菊酒をいただく、休む。十三日、甘薯明月と言って新出来の甘薯、莢豆などもいただく。十月。亥の子、亥の日を祝ふ。百姓の祝ひで其の年亥の子が二つあれば、初亥の子を祝ふし三つあれば中亥の子を 0 0 浦郷町誌 0 718 7 祝ふ、餅を搗く、子供等が百姓の家へ(庭)へ、ぢろつきに行って餅を貰ふ。「亥の子餅を搗きやらんか、祝はぬ者は角のはへた子生め」。十夜、お寺で日を定めるので日は一定しない。十一月。霜月粥、日は其家の主人の誕生日が、己の日であれ 0 0 浦郷町誌 0 718 13 食事 ば己の日と言ふやうに粥を煮て祝ふ。十二月。八日、八日待とて祝ふが、主に商売する家で祝ひ、すべり餅と称へて餅をつき、一年中の商売上の嘘言(うそ)を神様に許して貰はれる事になる。冬至、南瓜を食べる。昔は学校で生徒が御馳走を作っ 0 0 浦郷町誌 0 719 5 て先生の恩を労ったもの、先生を胴上したりして楽しんだ、黒住教でも信徒が冬至祭を行った。寒参り、昔は若い者が、若い者宿から朝起きをして寒参(土産)をしたが近年迄学童が之れを踏襲していた。節分、当日はとべらの枝に塩辛をつけて戸 0 0 浦郷町誌 0 719 10 食事 口に挿す(魔除けとして)豆を炒って神に供へ、鬼やらに(豆まきといふ)をやる。称へ言葉「鬼は外、福は内」だが「おにやあそと、ふうわあうち」と尻切れに言ふ。此の日の御馳走には特に砂おろしと称へて海鼠を食べる。節日である。昔は代 0 0 浦郷町誌 0 720 1 宮屋へ米一升と銭二銭とを包んで星祭(厄落し)をして貰ふ。今は大抵二月四日。庚申祭、庚申待ちとも言って、年六回庚申日を祝ふが、殊に十二月庚申日は六人宛の組を作り、宿くじを取っておいてその家に集り庚申を待ちたもの、庚申の神の排 0 0 浦郷町誌 0 720 5 食事 物を掛けそれを拝んで、談笑夜食を食べて夜起きていた。 0 0 浦郷町誌 0 720 7 慶弔、祝賀(冠婚葬祭)。冠。親方とり、男子十五才になると、主筋の家に親方を取る、昔は名を貰って改名もしたものだが現在は頽れてない。此の親子名乗りは、お互に情誼を尽したものである。筆子。女子十三才頃、男子と同じく親をとる。女 0 0 浦郷町誌 0 720 12 子には筆子といふ名で言はれて居るが同じ意味である。親方から祝品として御歯黒筆を送りよった所が知夫あたりにあるから、そんな所から此の名があったものかも知らん、浦郷にその風習はなかったと言ふ。此の関係をお互子方、親方と言って居る。 0 0 浦郷町誌 0 721 4 婚。昔は至って質素、大体一般下層では若い者宿などの遊びから馴染となって、掠奪結婚の様に言ひなされて居るのは正式に貰ひ手をやらない先から連り帰り翌日になって貰ひにやる風習であったからそんな事にもなるが、大体親とも了解が出来、 0 0 浦郷町誌 0 721 8 尠くとも母親などは了解して居たもので、翌日になってから、二人程羽織を着て貰ひに行く、予め暗もくの了解があるからすぐ貰はれる。貰ひ手が持って行った酒壱升を固めの盃と言って戴き合ふ事によって成立する。祝言の晩に披露宴もやる。尤 0 0 浦郷町誌 0 721 12 も偶には親の了解が前以って得られぬ場合は、ぬけ祝言で押し切る場合も無しとしないが、了解があるのが普通である。上流の家の結婚は仲人結婚の場合が多い。今日は大抵仲人による。婿入りといふのがある(三日の祝にも当る)始め婚夫が妻の 0 0 浦郷町誌 0 722 2 里へ行く時の事を言ったもので、部落の若い者などに近づきのため婚から祝儀を包む事もある。祝言の夜は部落の若い者が、地蔵さんを担ひ込んで来て「お尻が座る様に」にと言ふ祝儀心をあらはす。婚家からも祝儀を包む。まま乱暴な若い者遊び 0 0 浦郷町誌 0 722 6 心も手伝って、牛を門へ引き込んだり、舟を担ひ込んだりして迷惑させる事もあった。葬。近隣縁者其の他業を休んで、通夜又は葬式の手伝いをし、会葬をした。喪家に於ては資力の程度にもよるが、葬式前弔客に食膳を供し、酒及握飯を屋外で会 0 0 浦郷町誌 0 722 11 葬者に饗応したものである。今は漸次此の風は頽った。祭。七日、五七日、七七日を祭る。一周忌は一年目の命日で以後三年、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、五十年、百年に霊祭法要を営む。神式の家では、十日、二十日、三十日、 0 0 浦郷町誌 0 723 2 四十日、五十日、一年、二年、三年、十年、五十年、百年、、、祭霊祭が行はれる。浦郷は古来仏徒が多い。祝。年賀、四十二(初老)六十一(還暦)八十八(米寿)之れは主として八十七年の年に祝ひ、百のお祝は九十六歳に九十六と言って祝ふ。 0 0 浦郷町誌 0 723 8 四十二は自分で祝ひ、六十一は子が祝ひ、八十八は孫が祝ふと言はれている。共に賀宴を催し、親類知己を招く、来客の祝品としては、大豆、綿(二三百匁)扇子、深い関係縁者は反物、酒等種々ある。祝儀を金包として付ける人もある。出産。名 0 0 浦郷町誌 0 723 14 衣服 付が三日、祝品としては産衣等、大豆、扇子を付ける。三十三日は綿上げと言って、初めて産土神に参らせて祝ふ。以後誕生翌年の生れの日、紐落し、三歳の霜月(十一月)十五日を祝ふ。 0 0 浦郷町誌 0 724 3 敬神、崇仏。神。伊勢参宮。京都八幡、伊勢神宮、奈良春日、此の三社詣りを古来参宮と称へた。「伊勢へ参れば、おたか(多賀)へ参れ」と言ふ言葉があって、この三宮に江州の多賀神社に参る人も多かった。その場合順路は大抵京都八幡、江州 0 0 浦郷町誌 0 724 9 多賀、伊勢神宮、奈良春日の順であった。それは浦郷では古来五月頃迄の鯖を塩鯖にし、其の後にとれる飛魚が京の祇園祭に無くてはならなぬ品で祇園祭がすめば飛魚の値が下るから、若狭行の塩鯖と干飛魚とを積んで行く船に、毎年の参宮客は便 0 0 浦郷町誌 0 724 13 乗するのであるから、左様な順路を踏むわけで、第一は若狭上りである。昔は、各所に隠岐の国宿と言ふ常宿もきまって居て、奈良は大黒屋、其の他京も伊勢も奈良も皆きまって居た。其外、近くでは出雲の大社参り、春の美保(関)参りなどと盛 0 0 浦郷町誌 0 725 4 焼火 んであり、琴平詣りなどもあった。是等の社参は都会文化に触れる唯一の機会でもあった。焼火詣り、初参りは正月中登山、御祈念をして貰ひ、御札を受け、客殿で膳に座り酒盛をして帰る。尚ほ年篭りと言って、旧の大晦日焼火神社に参篭して伝 0 0 浦郷町誌 0 725 8 十方拝礼 説の御神火を拝まふとしたもので、昔は島前各村集ったので客殿に溢れたものであった。従って此の神社の夏祭にも盛んに詣ったものである。村内各社、参年目の由良の御旅祭(舟御旅−神輿ひねり)日吉参りの十方拝礼など島中名高い賑かさであ 0 0 浦郷町誌 0 725 13 る。寒参り、前項にも書いたが近村に見られない。篭り、これには一夜の場合と二夜三日と言って心願のある時、病人平癒などを祈ったものである。御日待、星祭とも言って、お正月の月に家の日待、組の日待今でも必ず行はれて居る。 0 0 浦郷町誌 0 726 4 仏。四国詣り。「四国する」と言って、所謂四国路の八十八ケ所順礼で、伊勢参宮と共によく行はれた。小豆島めぐりは近頃になって始まったものである。大師詣り、年中行事中記載されてある通り村内の大師詣りは近年いよいよ盛んになった。十 0 0 浦郷町誌 0 726 10 夜、これも既に述べたが、此の夜はフヂを上げると言って、新しい仏様は言ふに及ばず、先祖累代入は親戚知己の霊に至るまで一定の布施をあげて菩薩を弔ふのであって一年間のお寺の経済を左右する程の行事になって居る。島前巡礼(じんで)、 0 0 浦郷町誌 0 726 15 島前全体が、春の菜の花の咲く時分行はれるのであって昔は島前三十三ケ所の札所も極って居り、古い巡礼歌もあったもので、春のじんで頃は各所の渡舟が当りときめたものであったが、今は船便などの関係か漸次衰ひて村内順礼(大師詣)に振り 0 0 浦郷町誌 0 727 4 替へられたかたちである。寒行−昔は僧家だけが寒行と称へて托鉢したものであるが近年婦人の人達の特殊信仰者が寒中、御詠歌又は遍照金剛の聖句を称へて廻るのを見掛ける様になった。 0 0 浦郷町誌 0 732 11 は漁業会の支援を求め昭和二十二年地元民の労力奉仕により遂に十二月開通するに至った。 1947 1200 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 732 14 旅館 町営旅館。従来浦郷町には旅館の数も少く、其の規模に於ても、町の発展に相応しい接客の機関に欠けて居たので之れが早急の施設には只に民間に依存して置くべき実情になかったので、町に於ても予ねて腐心計策を練って居たが偶々昭和二十年に 1945 0 昭和20年 浦郷町誌 乙酉 0 732 14 観光 町営旅館。従来浦郷町には旅館の数も少なく、その規模においても、町の発展に相応しい接客の機関に欠けていたので之が早急の施設には只に民間に依存して置くべき実情になかったので、町においてもかねて腐心計策を練っていたが偶々昭和20年 1945 0 昭和20年 浦郷町誌 乙酉 0 733 3 旅館 澤野岩太郎氏が役場庁舎に寄附する為め、菱浦にて購入し居たる家屋が庁舎より旅館に適合し居りたる為め寄附者の了解を得て、其の家屋に若干の移転改築費を交付して、之れが経営を当町崎津繁男氏に委託してここに町営旅館として発足するに至った。 1945 0 昭和20年 浦郷町誌 乙酉 0 733 3 観光 に沢野岩太郎氏が役場庁舎に寄付するため、菱浦にて購入したる家屋が庁舎より旅館に適合しおりたるため寄付者の了解を得て、その家屋に若干の移転改築費を交付して、之が経営を当町崎津繁男氏に委託してここに町営旅館として発足するに至った。 1945 0 昭和20年 浦郷町誌 乙酉 0 733 8 消火艇の購入。浦郷に於ける消防組の粗式は頗る古く、警察署所在の関係にあったので、従来其の訓練も器材の整備も隣村に比較して常に優秀の地位を占めて来たので、最近の防火実績に於ても殆ど大過なく過して来たが、ただ数台の手押ポンプと 0 0 浦郷町誌 0 733 12 ガソリンポンプによるのみでは、町内数部落に散在する関係上、火急を要する場合、部落間に通ずる道路の現状では、到底陸路に依存する事は出来ないから、近代的な消火艇壱隻位は独り浦郷町民の案ぜんのみならず近接村も皆必要な施設としζ、 0 0 浦郷町誌 0 734 1 之れが建造のことに努めたが、幸に黒木村の賛成もあり、遂に此の計画を実現するに至り、建造費総額七拾五萬六千円、内黒木村から寄附金拾五萬円の他町内各種の寄附によって、昭和二十三年十二月十八日を以って竣工進水を見るに至った。即ち 1948 218 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 734 5 七拾五馬力、ゴソリンエンジンの艇壱隻の設備である。消防団の新組織は後記する。 0 0 浦郷町誌 0 734 7 三度漁港の土。古来浦郷村の漁業は環海域な優秀な漁場ではあるが、殊に青凪国賀方面は潮流分岐の関係上特殊な魚族蝟集の場所とされて居るが、此の中心而も漁場最短の距離を占めて居る三度は、漁港としての設備に恵まれず、秋から春にかけて 0 0 浦郷町誌 0 734 11 多く吹く西寄の風に最も悪く、従って魚群の来集を知りながら、手を束ねるの歎を味って居たのであって、防災築港の事は多年の懸案でもあったが、愈々その機が熟し、充分その必要を認めしめ、査定工費三三〇萬円七割の補助を得て、昭和二十四 1949 0 昭和24年 浦郷町誌 己丑 0 734 15 年七月一日起工同八月三十日竣功、延長四十米の防波堤を工築することができたので、地元三度部落漁民の、漁船の声留至大な便を与ふるのみならず、以後に於ける動力船の発達を促し、浦郷水産の将来に大きい役割を演ずることにならう。 0 0 浦郷町誌 0 735 5 国立水産試験場浦郷分場創設。水産浦郷の業績からして、島根県並に隠岐島に於て此種施設を置くとすれば、当然その位置を得ることに必至の場所ではあるが、昭和二十三年頃起工愈々二十四年分場の新装が成ったので、近く国立水産試験場七尾( 1949 0 昭和24年 浦郷町誌 己丑 0 735 9 能登)の分場として場務を執る事になった。地元負担九十五万円。 0 0 浦郷町誌 0 771 2 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。失火。昭和二十二年。発生件数2、検挙件数2、検挙人員2、未検挙0 1947 0 昭和2ゲ年 浦郷町誌 丁亥 0 771 5 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。住居侵入。昭和二十二年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員1、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 6 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。文書偽造。昭和二十二年。発生件数2、検挙件数2、検挙人員3、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 7 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。賭博。昭和二十二年。発生件数23、検挙件数23、検挙人員97、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 8 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。贈賄。昭和二十二年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員1、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 9 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。嬰児殺。昭和二十二年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員1、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 10 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。傷害。昭和二十二年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員1、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 11 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。暴行。昭和二十二年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 12 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。窃盗。昭和二十二年。発生件数9、検挙件数8、検挙人員16、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 13 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。詐欺。昭和二十二年。発生件数2、検挙件数2、検挙人員2、未検挙1 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 14 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。背任。昭和二十二年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 15 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。横領。昭和二十二年。発生件数5、検挙件数4、検挙人員4、未検挙1 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 16 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。計。昭和二十二年。発生件数47、検挙件数45、検挙人員129、未検挙2 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 771 17 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。失火。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 18 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。住居侵入。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 19 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。文書偽造。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 20 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。賭博。昭和二十三年。発生件数10、検挙件数55、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 21 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。贈賄。昭和二十三年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 22 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。嬰児殺。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 23 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。傷害。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 24 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。暴行。昭和二十三年。発生件数1、検挙件数1、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 25 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。窃盗。昭和二十三年。発生件数9、検挙件数11、検挙人員9、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 26 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。詐欺。昭和二十三年。発生件数2、検挙件数2、検挙人員2、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 27 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。背任。昭和二十三年。発生件数2、検挙件数2、検挙人員2、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 28 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。横領。昭和二十三年。発生件数4、検挙件数4、検挙人員5、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 771 29 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。計。昭和二十三年。発生件数38、検挙件数29、検挙人員77、未検挙9 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 772 1 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。特別法犯。昭和二十二年。発生件数9、検挙件数9、検挙人員9、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 772 2 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。経済法令違反。昭和二十二年。発生件数102、検挙件数102、検挙人員109、未検挙0 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 772 3 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。合計。昭和二十二年。発生件数158、検挙件数156、検挙人員247、未検挙2 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 772 4 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。特別法犯。昭和二十三年。発生件数0、検挙件数0、検挙人員0、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 772 5 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。経済法令違反。昭和二十三年。発生件数62、検挙件数62、検挙人員72、未検挙0 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 772 6 浦郷警察署(島前地区署)犯罪取扱件数。合計。昭和二十三年。発生件数100、検挙件数94、検挙人員149、未検挙9 1948 0 昭和23年 浦郷町誌 戊子 0 781 7 新聞 新聞取次店・従来町民の購読する新聞は主として岡田由麿氏によって取り次がれているが、最近の購読部数を挙げれば(昭和二十四年十月現在)。朝日新聞140部・毎日新聞140部・島根新聞200部・山陰日日新聞6部・その他22部。 1949 1000 昭和24年 浦郷町誌 己丑 0 781 13 観光 観光協会。昭和13年7月13日、文部大臣から国賀海岸を名勝及び天然記念物として指定を受けてから、逐年観光客の増加をみるにいたったが、その都度町役場などにおいて、遊客の案内等に対しても積極的に便宜をあたえていたが、戦後の観光客も増加の予想があるので、 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 781 13 観光 観光協会。昭和13年7月13日、文部大臣から国賀海岸と名勝及び天然記念物として指定を受けてから、逐年観光客の増加をみるに至ったが、その都度町役場などにおいて、遊客の案内等に対しても積極的に便宜を与えていたが、戦後これら観光客 0 0 浦郷町誌 0 782 3 観光 も増加の予想があるので、適当な施設を必要とするので、昭和22年櫻井伊勢太郎氏率先して、これが協会の組織に懸命せられ、事務所を自家において熱心宣伝誘客案内等に当っているので、町営旅館の施設と共に遺憾ない事を期している。 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 782 4 観光 適当な施設を必要とするので、昭和22年桜井伊勢太郎氏率先して之が協会の組織に懸命せられ、事務所を自家に置いて熱心宣伝誘客案内等に当たっているので、町営旅館の施設と共に遺憾ないことを期しておる。 1947 0 昭和22年 浦郷町誌 丁亥 0 12 20 縄文遺跡は島前では海士町郡山地区で、島後では西郷湾に面する宮尾(みやび)、荒尾(あらお)、下りま(くだりま)、岩井津地区、島後北端の湊地区、東島後の布施村布施、西島後の五箇村美々津である。分布の密なのは西郷湾沿岸である。おおむね 0 0 隠岐 0 12 22 中期及び後期の遺跡である。隠岐島後は山陰地方における唯一の黒曜石の産地で、石器原料の供給地であったことは孝古学会では早くから承認されていた。 0 0 隠岐 0 16 12 隠岐の開発が7世紀〜8世紀に急激に進んだようすは「六国史」にその名がしばしばあらわれることによって推察できるが、その開発は島内における自立的な生産力の拡大上昇によったのではなく、外部からの刺激によったと思われる。その理由は、 0 0 隠岐 0 16 15 「六国史」の隠岐関係の記事は、その大半が国防関係の記事で、高句麗、百済、渤海、新羅に対する外交上の緊張で、山陰道節度使管下の国防第一線として位置づけられたからである。特に軍団が設置され、出雲との間に通信用の烽燧(のろし)の設置までなされ、 0 0 隠岐 0 16 18 隠岐の情報が機を逸せず中央に連絡されている。式内社の神階の上昇しばしば行われているのは、国防上、神咸を発揮した旨を中央に報告しているためである。このように、隠岐は北辺の離島でありながら早くから国史上に現れて、中央政府との関係の 0 0 隠岐 0 16 22 深かったことは律令制統一国家の分化を早くから受け入れたことにつながり、隠岐国府、軍団、国分寺、国分尼寺の遺構を明瞭に残し、駅鈴、伝符、正倉印等既に本土で失われたものを隠岐国造家の末裔といわれる国造家(億岐家)に残している。 0 0 隠岐 0 20 9 「延喜式」主計上は隠岐国の調として、御取あわび(みとりのあわび)、短あわび(みじかあわび)、烏賊(いか)、熬海鼠(いりこ)、鮹きたひ(たこのきたひ)、雑きたひ(くさぐさのきたひ)、紫菜(むらさきのり)、海藻(にぎめ)、島蒜 0 0 隠岐 0 20 11 (あさずき)を、中男作物として雑きたひ、紫菜をあげている。藤原宮、平城京出土木簡には軍布(め=海藻)、烏賊を隠岐から貢納したことが記されている。農業についてその田積を「隠岐国正税帳」に記されている田租から見輸租田を計算すると 0 0 隠岐 0 20 15 「507町」の水田があったことになる。「和名抄」記載の隠岐の田積は585町であるので、古代隠岐の水田面積は500町〜600町程度になっていたことがわかる。この面積は近世末期の「郷帳」による隠岐の水田面積559町より多く、奇異 0 0 隠岐 0 20 18 の感に打たれる。もし数字に大きな誤りがないとすると隠岐の水田は古代においてほとんど開発しつくされていたことになる。 0 0 隠岐 0 21 1 中世。隠岐の中世資料は極めて不備で実態が把握し難い。特に隠岐については、荘園資料が極めて少ない。東大資料編纂所所蔵の「近衛家所領目録」に「知布利庄」の名が出てくる。近衛家所領目録は延久2年(1070)10月16日の進官目録から 1070 1016 延久2年 隠岐 庚戌 0 21 4 抽出して、建長5年(1253)10月21日に作製したものである。この中に出る隠岐国知布利抄は、もと高陽(かや)院領内に含まれていた。高陽院は関白藤原忠実の女勲子で、鳥羽上皇の女御、長承3年(1134)皇后に冊立され名を泰子 1253 1021 建長5年 隠岐 癸丑 0 21 8 と改め、保延5年(1139)高陽院号を賜り、久寿2年(1155)61歳で没した。「下、隠岐国在庁等。可早令犬来へい并宇賀牧外宮内大輔重頼知行所々国衙進止事右件所々依為平家領以重頼補預所職候畢而即犬来宇賀牧外非平家領之由在庁 0 0 隠岐 0 21 8 載誓状訴国司々々又依経奏聞自院重所被仰下也早彼両牧之外停止重頼之沙汰可為国衙進止之由如件、以下、文治四年十一月廿三日。」古代末期の平家勢力は、正盛のころ、隠岐、因幡、但馬、丹波などの守を歴任し、強く地方の有力層と結んでいたこと 1188 1123 文治4年 隠岐 戊申 0 23 1 これが、実質的に結実したのが、承久4年(1193)12月20日の佐々木定綱の隠岐国地頭職拝領である。「隠岐国に於て他人の沙汰を交えず一円に地頭職」を拝領したのである。以後隠岐が後鳥羽上皇配流という悲劇の舞台として登場し、武家 1193 1123 承久4年 隠岐 癸丑 0 23 5 政権が確実にその地歩を強めて行き、佐々木一族の隠岐支配となる。佐々木道誉高氏がまず守護領国制を形成したが、いわゆる中世の絶え間ない争乱によって隠岐は佐々木氏〜山名氏〜京極氏(佐々木)〜尼子(佐々木)〜隠岐氏(佐々木)と推移してゆく。 0 0 隠岐 0 23 16 隠岐は耕地も少なく、農業経営規模が小で、大きな名主層が成長する余地は乏しく、土豪のなかから国人まで上昇することは困難であった。この結果、隠岐氏に臣属して自己の所領安堵をせざるを得なかったが、隠岐氏自体が絶えず本土側の勢力、尼子 0 0 隠岐 0 23 19 及び毛利の情勢によって動揺するので、土豪があるいは毛利方に、あるいは尼子方に服属離反を示すので、島内の紛争は絶えなかった。例えば享禄六年(1530)、毛利氏が尼子を去って大内氏に服属すると、隠岐には尼子に臣従していた豪族が叛旗を 1530 0 享禄3年 隠岐 庚寅 0 23 23 ひるがえし、隠岐氏をして「今度大宮司謀叛、隠州不属錯乱」と歎かしめ、本土の尼子氏に急を訴えるというようなことが起った。また、天文元年(1532)には隠岐氏に反抗する在地土豪の蜂起があり、本土から尼子軍が渡海来島し、土豪は逆に 1532 0 天文元年 隠岐 壬辰 0 23 26 平定去れるという事件があった。しかし、尼子氏が毛利氏に破れると、隠岐氏も立ち行かなくなり、天正10年(1582)隠岐氏が滅亡し、隠岐は毛利領となった。 1582 0 天正10年 隠岐 壬午 0 24 16 焼火 惣村成立の適例としては島前西ノ島の焼火山の入会をめぐっての村落結合がある。すなわち、焼火山腹の山林について、第2表のように島前各村が山手銭を負担して入会利用しているのである。応永32年(1425)には入会村は10村で、その分布 1425 0 応永32年 隠岐 乙巳 0 24 19 焼火 は島前全島に及び、焼火山を10区に分けて各村々に割当、山手銭を徴収している。焼火山の山林を「惣有財産−惣有地」としていることを示している。 0 0 隠岐 0 25 23 大名領国時代は吉川国領時代17年(天正11年〜慶長4年)、堀尾領国時代33年(慶長5年〜寛永10年)、京極領時代4年(寛永11年〜寛永14年)、で、寛永15年(1638)より天領となった。天領時代の隠岐統治は、松江藩御預け形式 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 25 26 と幕府直支配が交互にあった。すなわち、寛永15年(1638)〜貞享4年(1687)の39年間は松江藩御預けで、貞享4年後半から享保5年(1720)前半までは石見銀山領代官の直支配せあったが、享保5年後半から慶応4年(1868) 1687 0 貞享4年 隠岐 丁卯 0 26 2 までは再び松江藩御預けとなった。御領地時代の行政は、幕府及び松江藩の二重支配であった。まず年貢収納に関しては、幕府の権力下で遂行され、松江藩の管理権限は及ばず、事務処理のみしかできなかった。たとえば、寛文元年(1661)に幕府 0 0 隠岐 0 26 6 は隠岐米を江戸浅草蔵への廻送を命じたが、島民は食糧自給が困難な土地柄のゆえをもって、隠岐島産米の地払を幕府に願った。このような場合にはまず松江藩に願書を提出し、その奥書をもって、両島庄屋代表が江戸表に出府嘆願するのが筋道せあった。 0 0 隠岐 0 26 9 これは一例であるが、行政の経路は、松江藩を経由して幕府勘定奉行の支配をうけるのが原則であった。このため、松江藩は隠岐に対しては、島前、島後を総括する郡代と、島前、島後別の代官を派遣する他に、松江、江戸の両所に「隠州方」を設け 0 0 隠岐 0 26 13 ければならなかった。このような中間機能機関としての松江藩の位置づけは、当然「隠州郡代代官御扶持、手代給扶持、足軽加扶持米」を年間237表計上しなければならず、松江藩としては迷惑な預かり所であった。このため、隠岐のうけた行政 0 0 隠岐 0 26 18 支配は幕府、松江藩の二重勢力下にあり、極めて厳しいものであった。 0 0 隠岐 0 27 2 この検地において、夫役を負担するかわりに、反対給付として一律に3畝ずつ与えられたのが「御役目屋敷」で、この一軒役の夫役を負担する農民が隠岐では「初期本百姓」であった。松江藩預地となった寛永15年(1638)現在の田畑を「新田 0 0 隠岐 0 27 8 畑」という。幕府体制が整備されてくると、夫役は一般に現物納又は代銀納に変化してきた。村落内部で御免除屋敷を得ていた百姓が「卯時役(ぼうじえき)」をもって館(屋形)に庭夫として出役していたのに対し、高請百姓が現物納(高100石 0 0 隠岐 0 27 11 につき1石)するように変化してきた。つまり生産物地代化傾向をたどったのである。その結果、高持百姓を本百姓、無高を水呑と称した。、この変換が隠岐では承応3年(1654)ごろを転機として行われている。というのは、寛永以降の下札 1654 0 承応3年 隠岐 甲午 0 27 14 (定免相之事)を見ると、夫役の卯時役がこの年より米納になっているからである。田畑より寺社領、公文(くもん)給(庄屋に対する給与)、永引を差し引いた残高に対して、100石につき1石の割合をもって納められるようになったからである。 0 0 隠岐 0 27 18 村落行政の中で年寄役ができたのは、この天領第1期の時代である。毛利、堀尾、京極氏私領時代の村役人は、中世的色彩の強い公文と称する庄屋と役人(補役人も含む)と称する村内事務連絡調整人で構成されていた。大きな村には部落毎あるいは 0 0 隠岐 0 27 21 組毎に役人が置かれたから、例えば島前の美田村には公文1名に対し役人が3名もいた。 0 0 隠岐 0 28 4 食事 石見銀山領(大森代官)による直支配は貞享5年(1688)から開始されるが、代官支配の再編強化の時期である。この期の特色として「拝借米」制度がある。年貢米を島民の食糧にあてるため、「地払」にして、年貢は銀納とする制度で、島民 1688 0 元禄元年 隠岐 戊辰 0 28 7 食事 側からすれば食糧自給制度で一見合理的に見えるが、代銀納する米相場は隠岐島の米相場ではなく、出雲相場の中で最高の田岐町相場で命じられた。したがって上納値段は島相場の7割から10割増になり、結果として島民は地払米を2倍近い値段 0 0 隠岐 0 28 10 で購入して食糧にするという結果になった。出挙制度となんら変るもとない苛政で、明治4年(1871)までつづいた。大森代官がこのような重税措置を隠岐に課したのは、元禄〜享保期において隠岐の木材、水産物の商品化が進行し、貨幣経済 1871 0 明治4年 隠岐 辛未 0 28 13 が発展したからである。元禄3年(1690)には、島前、島後領島百姓中、年寄、公文連名で幕府に願書を差し出し、増税、検見取強化に対する訂正を求め、代官引責辞任まで発生している。「島根県史」は、享保2年(1717)から連年異国船 1690 0 元禄3年 隠岐 庚午 0 28 21 が山陰沖に現れるようになり、幕府はこの情勢を重視して、海防に備えて、隠岐を松江藩に預けたと見ている。事実、享保2年から隠岐に遠見番と称する監視哨が島前に1か所、島後に2か所設けられた。国防上の理由とともに、松江藩御預けとなった 0 0 隠岐 0 29 1 理由は、天領の行政整理による幕府の簡素化が考えられる。隠岐における大庄屋制度の採用はその具体的なあらわれである。大庄屋の勤方は、代官と村役人の中間にあって、事務処理は諸事大庄屋の奥書印形を経て決裁がなされた。その待遇は上級 0 0 隠岐 0 29 4 武士と同じく切米(年俸)と扶持米(在勤手当)を受け、支配側の末端機能を果たした。面倒な公事(くじ)出入は、ほとんど大庄屋段階で処理された。 0 0 隠岐 0 31 7 行政近代化については、佐渡、壱岐、五島、天草島に著しくおくれ、明治37年に「町村の制度に関する件施行」、これは内容的には町村制施行に近いが、官僚制島司の行政下の町村で、その支配、統制を強くうけた。全面的に本土なみの町村制施行 1904 0 明治37年 隠岐 甲辰 0 31 10 は大正8年(1919)で、本土のおくれること実に30年である。田中豊治(1952):近世日本海の帆船交通、地域1、3、PP、52〜58 1919 0 大正8年 隠岐 己未 0 35 4 本百姓と間脇。島前で確実なもの110軒、島後で250軒である。慶長検地では御役目屋敷と御免除屋敷で各村家数を示しているから、両者を合計した1900軒内外というのが慶長期の家数ということになる。当時分付、家抱などが内容的には 0 0 隠岐 0 35 6 存在したと推定されるが現在、資料的には明かになし得ない。しかし、「増補隠州記」によれば、表から明かなように、百姓、間脇を合わした家数は3286軒は確実である。すなわち、社会構成上、百姓身分の変質が、慶長期から貞享期までの間 0 0 隠岐 0 35 10 に行われていることになる。こらは内容的には百姓身分の編制替えである。第4表を内容的に区分してみる。 0 0 隠岐 0 52 1 近世封建制下の生産構造。水産業、鮑、海鼠、鰤、鯖、鰯、鯣、メメ、鯛、海苔、若布、塩。農業副業、樫実、椎実、椎茸、核苧(こきそ)、茶、漆、山椒、櫨、油、下草。牧畜業、牛馬、皮。製造業、酒、船。交通業、入津船舶、船積品。 0 0 隠岐 0 55 2 が推定される。平家没落後は没官領に編入され、さらに源頼朝を本所とする荘園(関東御領)となるわけで、重頼が預所に補任されたのであった。以上のように、隠岐は国衙領、関東御領、摂関領等の荘園化が古代末期に進行していたことは確実である。 1193 1123 建久4年 隠岐 癸丑 0 56 26 生産の基礎としての土地。高と反別のこうした不均衡は、近世における「免率」の差異からきている。寛政7年の郷帳によって平均値をとって表化して見ると第10表のようになる。これによると、麻畑がもっとも高く、次いで上畑で、水田は島前 0 0 隠岐 0 56 28 では2ツ8分3厘、島後では3ツ2分程度である。牧畑について見ると、島後では1ツ2分、島前では1ツにもおよばない。したがって牧畑の取り高は田に比べれば3分の1程度になるわけであるが後述するように牧畑は4年周期の輪転耕作で、作 0 0 隠岐 0 57 1 付けされている耕地は最大35%内外である。これによると、牧畑高の総石高に対する比重は、美田、豊田、別府のような水田を持っているところでは当然低いが、宇賀、浦郷のようなところでは総高の90%以上が牧畑高である。寛政7年の島前 0 0 隠岐 0 58 2 全体の牧畑比重は67%で、第9表の比より低いが、これは海士の水田地帯の資料の欠けているためで、島前ではまず70%内外が総高に対する牧畑高の比で、島後の18%の比重とは大差がある。つまり、島前においては耕地の93%が牧畑、6% 0 0 隠岐 0 58 9 が水田、1%が麻畑ということができる。麻畑、年々畑について述べよう。隠岐においては、放牧を行わないで、年々耕作する普通の里畑のことを麻畑、年々畑、普通畑、本畑、常畑、「カエチ」(垣内、垣中、開地とあて字するが、発生的には垣 0 0 隠岐 0 58 17 内である)などと呼び、牧畑が丘陵性山地に所在するのに対して、これは住居の周辺の平坦地にある。隠岐の集落はいずれも家屋が密集し、いわゆる塊村又は集村をなしていて、その集落に近接してこの麻畑はあり、垣をもって牧畑とは境界が作られている。 0 0 隠岐 0 59 20 表中に無高と表示されているのは生産の低さにもよるが、官辺の査定に対して無高の村として承認させることで、隠岐では海士の9(須賀、青谷、北部など)、知夫郡では26(来居、薄毛、多沢、珍崎、三度、赤之江、波止など)、越智郡では5 0 0 隠岐 0 62 1 (長尾田、歌木、木津久など)、周吉郡では3(都万目、皆市、近石)などの集落がある。知夫村は知夫島が1村で、島内の集落は行政村としては独立していない。浦郷も同様で、ここでは実に、本郷、赤之江、宇須子、荒尾井、生名、珍崎、三度 0 0 隠岐 0 62 4 、葛見の8集落が行政的には1村となっている。牧畑の経済構造。牧畑は全地区が耕作と放牧を輪転するのではなく、耕作地は土壌条件のよいところのみである。4年1周期の久耕牧輪転システムの中で、耕作地の面積は年々不同で増減する。つまり 0 0 隠岐 0 66 20 、食糧生産が強く要望される事態になると、耕作面積は増大し、逆の時には、それまで利用されていた耕作地も放任され、たちまち草原に変化してしまう。したがって農地としては面積の変化する「不定地」的性格を持っている。 0 0 隠岐 0 87 25 畑作農業。井戸平左衛門が、石見に甘薯を導入したのは享保17年(1732)のことであるから、宝暦期から明和期には備荒作物として隠岐では牧畑地区への作付が増加したと思われる。 1732 0 享保17年 隠岐 壬子 0 89 9 牧畜生産。牛馬を耕作の前提条件とした牧畑経営にその根拠が存在する。牛馬頭数の多い村は畑地面積も広く、その畑の大部分が牧畑であるために、必然的に牛馬数が大となる。隠岐牛、隠岐馬。これらの牛馬は、近代の改良牛馬と異なって小型牛馬 0 0 隠岐 0 89 16 であった。牝牛は平均3尺6寸、牡牛は3尺8寸を標準とし毛並は褐色味を帯びた黒牛であるが、夏期には夏焼といって背一面に褐焼しているのが隠岐放牧牛の特色であった。元来は出雲の黒牛と同種同系統であったが、隠岐の風土に馴化し、粗飼料 0 0 隠岐 0 89 21 と寒暑の激しさに堪え、温順、強健となった。肢蹄は山勝ちの荒地放牧の習慣により自ら堅牢であった。隠岐馬も元来は本土の馬と同種同系であって、中世には軍馬として飼育されたが、近世になって農耕役馬として飼育され、荒石混じりの丘陵山地 0 0 隠岐 0 89 23 の牧畑耕耘に使用されるに及んで、傾斜の急な段々畑でも小回りのきく小型種が好まれたで、小型の馬型が定着し、隠岐馬と呼ばれ、近代においては改良種と区別された。蹄質が堅牢で、蹄鉄、馬草鞋を必要としなかった。近世隠岐の牛馬はこのように 0 0 隠岐 0 92 1 人為的に矮小化したものであったが、幕末、安政元年に品種改良が緒につき、海士村の村上助九郎が南部より牡馬を導入、まず馬格改良がはかられ、また、牛については明治14年に出雲より種牛を買い入れ、品種改良がなされた。在来種の隠岐馬 1939 0 昭和14年 隠岐 己卯 0 92 4 は、昭和10年代に、島前では知夫村、島後では都万村歌木に各1頭生存していたが、20年代初期にいずれも死亡し、絶滅した。島前の規模の大きな牧畑では、住居と耕作地の距離が平均4kmを越えており、浦郷、黒木の両地区では7kmに達地 0 0 隠岐 0 92 25 しているとろもある。労働の過重は平坦地の比ではなく、耕耘から収穫に至るまでほとんどすべてを畜力に依存せざるを得なかった。 0 0 隠岐 0 97 22 近世牛馬数の変動。文化13年の荷馬報告の中で、別府村の場合は「馬数八匹、内老馬一匹、女馬七匹、但し弐才当才一匹も無御座候」とあって、現実に馬が飼育されているけれど、労働可能の馬と判定されたまのは一頭もいないからである。したが 1816 0 文化13年 隠岐 丙子 0 97 25 って、「家数人数並牛馬書上帳」の牛馬数は荷馬としての労働に耐え得るものを前提として、鋳方の「何等かの慣行」と目されるものの、実は本体は牧畑の重労働に耐え得る役馬ということであると思われる。この見解からすれば、実飼育牛馬は文化 1816 0 文化13年 隠岐 丙子 0 97 28 13年の場合馬1215頭が実数である。牛馬皮革製造と死牛馬、捨皮。「増補隠州記」によると、島前の各ンウ等と島後の8割方の村には牛皮役が小物成として課せられている。これは、それらの村に牛皮役を負担すべき理由があったからで、「 1816 0 文化13年 隠岐 丙子 0 99 6 隠州往古諸色年代略記」に次ぎのようにある。「慶長十五年末〔戌)秋、和泉国境(堺)ヨリ田中新兵衛、仁兵衛、儀兵衛、堀尾山城守様ヘ御願申上、御運上ヲ請、当国へ罷利渡リ、牛ノ皮ヲ剥ギ候」しかし、これは一時的であったらしく、「高梨 1610 0 慶長15年 隠岐 庚戌 0 99 10 文書」にそれを裏付ける記述がみられる。貞享期の小物成課税のようすを見ると、島前全村で、丁銀216匁、島後では非課税の村もあるが総額で125匁である。島後で最大の課税村は都万村で10匁であるのに対して島前では浦郷村48匁、海士 0 0 隠岐 0 99 15 村42匁、知夫村34匁、美田村24匁、宇賀村14匁、崎村12匁、布施、崎、知々井各10匁で、島前諸村の方が課税額が大である。これは、それだけ牛馬頭数が多かったためであろう。」文化三年寅三月、知夫里海士両郡死牛馬捨皮差出帳、覚 1806 300 文化3年 隠岐 丙寅 0 99 22 閏八月二十八日、牛一匹、美田牧、九月八日、同一匹、浦郷牧、同二十八日、同一匹、美田牧、(中略)〆、右之寄、一、弐拾疋、海士郡、此村益銭、四貫文、一、四疋、弐歳、同断、二百文、一、拾四疋、知夫里郡、同断、弐貫八百文、一、弐拾弐 0 0 隠岐 0 100 20 疋、弐歳、同断、壱貫文、〆五拾八疋、〆八貫文、右者死牛馬目目録差出シ可申上候処殊外不勘定ニ付何卒村益銭半減に被相成下候様奉願上候、以上、八月、武田屋惣助代り、文八印、雲州松江、皮趣方、出雲屋覚次郎印、大庄屋官蔵殿」、これに 0 0 隠岐 0 100 28 よると、松江の皮革業者が隠岐の死牛馬及び捨皮を得て、皮革製造に当ったことがわかり、死牛馬、捨皮を醵出した村には「村益銭」が支払われ、その代価は1枚につき200文宛であることがわかる。牛馬の商品化と価格。当時の金銀銭比価を見 0 0 隠岐 0 104 6 ると、「金1両に付銀61匁〜62、5匁、金1両に付銭6276貫〜6465貫、銭1貫文に付銀9、2匁〜9、6匁」である。したがって銭10貫文なら銀92匁〜96匁で、金1両2分という額になり、農家収入としては相当な収入である。 0 0 隠岐 0 104 9 こうしたことから推定すると、牛馬の他国移出が、現金収入のうち大きな比重を占めていたことは確実である。本土に商品として移出される牛馬も、牡牛、牡馬が主で、役用、乗馬用のごとくである。その価格は、島内の農牧林水の生産性から見ると 0 0 隠岐 0 104 20 かなり高い位置づけを得ていたと思われる。皮革生産は近世初期には島内でも行われたが、中期以降は本土の業者が、死牛馬、捨皮を得て松江で行なっていたようである。林業生産。島後村々の山林に関する記事はいずれも上記2村の記述と同傾向 0 0 隠岐 0 105 5 薪 で、昔は材木が豊富であったが、今は伐りつくして少なくなったと記している。島前の村々については山林に関する記事がない。つまり、貞享期以前に材木、薪を伐り出して商売したが、貞享期なは「今ハ尽きテ薪少々伐出ス」程度になったという 0 0 隠岐 0 105 9 のである。このことはそら以前に隠岐の木材は相当量本土に商品移出されたということである。西廻海運開始以前には特に隠岐島生産物の移出は廻船業者の得なかったが、寛文年間の西廻海運の開設により、急速度に木材の本土移出が発達した。寛文 0 0 隠岐 0 105 26 期まで、特に隠岐島生産品の商品化はなく、森林資源は豊富で蓄積が大で、大材が得られること、島であるから浜出しが容易であること、海上輸送であるから運賃が陸送に比して安価であったことにより遠距離市場である下関、長崎、大阪に移出した。 0 0 隠岐 0 106 24 木材運搬のためには大船が必要であるが、水産加工品(塩干物)等の輸送のためには特に大型船の必要はなく、小渡海船で十分である。後述するが長崎俵物、鯣等はいずれも小渡海船で長崎まで輸送されていた。島前の入会林のうち、「焼火入会林」 0 0 隠岐 0 108 5 は中世以来の慣行林であって、応永32年(1425)の「諸村山手銭之事」に、「一古銭四貫五百文、かんなが表、ちハ浦分、一古銭四貫文、坂浦よりはし迄、浦之郷分、一古銭弐貫五百文、ちつけい表、宇賀分、一古銭弐貫文、つぶて表、福頼分、 1425 0 応永32年 隠岐 乙巳 0 108 11 一古銭弐貫文、ひやけ表、大村分、一古銭弐貫文、ぢんはかだい表、西分、一古銭弐貫五百文、あき表、東分、一古銭弐貫五百文、あき表、北分、一古銭弐貫文、したがわき表、布勢分、一古銭弐貫文、鉢ケ浦、崎村。 1424 0 応永31年 隠岐 甲辰 0 117 6 食事 御制木。入会林の中の特別重要な樹木については、おのおの入会村中において「御制木」として、その伐取りについて厳重な規制をする。樹木は、かしの実が備荒食物として重視されたので、宝永3年(1706)に、元屋村中村の間で次ぎのような 1706 0 宝永3年 隠岐 丙戌 0 117 10 申し合わせを行なっている。船材木。樅は船舶建造用材として利用され、大庄屋の許可を得て伐り出される。寛政3年(1791)の「佐々木文書」には次ぎのようにある。漁業用の手安船の場合の願書を見ると、用材は小渡海船の3分の1ですむ 1791 0 寛政3年 隠岐 辛亥 0 119 25 薪・移出 ことがわかる。「願之通御伐被為下候様被仰上可被下候、新舟造立仕、他国江商売ニ仕間敷候」とあるように手安船は漁業で、廻船用にはむかなかったが、対岸の伯州にはコモ船として薪、塩干魚、海藻等の移出は行なっている。 1791 0 寛政3年 隠岐 辛亥 0 120 4 しかし、当時の山林資源はすべて天然資源であった。隠岐で計画的植林が開始されたのは享保時代で、島後周吉郡元屋村の医師原玄琢によってその端緒がつけられ、布勢(布)村において植林事業がはじまった。これについては布施村役場の刊行した 0 0 隠岐 0 120 7 焼火・植林 「布施村の森林」に詳細されている。杉の種苗試作をはじめ、その後同村の船田、佐原、長田の各氏がこれに参加し、造林をなしたという。一方島前においては、島後の植林成功に刺激されて寛延〜安永年間に焼火山の快栄上人が杉苗10万本を焼火 0 0 隠岐 0 120 11 山一円に植え付けた。対岸の境港、米子港の商品取扱品目においても、木材が重要な地位を占めていたことがわかる。例えば安政6年(1859)の「伯耆国中海付村々諸品取調書」には次ぎのようにある。「諸国より湊に相廻候諸品、米子港、一米 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 121 31 二阡九百三拾俵、是者但馬、加賀、其他北国筋より相廻り、土地近郷に売捌辺申、一大豆、小豆、灯油、油粕、干鰯、(略)一塩鰤三阡七百六十四本、是者石見、出雲、隠岐より相廻り、土地近郷並に美作備中に売捌申候、一鯣百三俵、是者松前、 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 122 4 薪 佐渡、隠岐より相廻り、土地近郷並に備作備中に売捌申候、一薪拾五万五阡貫目、是者隠岐、但馬より相廻り、土地にて売捌申候、一板七捌五百四十間、是者隠岐、石見より相廻り、土地にて売捌申候、一材木阡二百五十本、右同断、一藻葉三万八 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 122 9 木炭・薪 阡貫目、是者隠岐より相廻り、土地近郷にて売捌申候。」境港についてもほぼ同様で、隠岐からの品物として、塩鯖270梱、塩メメ74梱、塩ぶり2561梱、鯣167俵、炭520俵、薪4万4600貫、板7000間、材木1500本、藻葉11 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 122 11 薪 万4850貫をあげている。薪の売出については、島前の美田村が地下諸負で松江役所あて薪を送荷している。「薪積受負証文之事、一薪二万五阡貫目、但来末より来酉迄三ケ年受負高、代銭百七拾五貫文、但長サ二尺五寸ニ仕立、目方五貫目束ニ 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 122 22 問屋 〆、津場直段積、受拾貫目ニ付代銭七拾文宛、右者松江表江薪御買上ケ被仰付委細被仰渡候御主意之趣一統奉承知候、然上者御年限中薪樵出目方懸改、且者船積渡方之節、村役人并問屋共立会万々正確ニ取斗仕聊茂不正之儀無御座候様心配仕、御受 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 122 26 負申上候処相違無御座候、万一不埒之儀御座候ハハ連印之者共如何様之御咎茂可被仰付候、為後日証文仍而如件、弘化三年午十二月、知夫郡美田村、山稼惣代、円四郎、重右衛門(以下五名)、問屋、幸平太、与三次郎、祐七(以下四名)、年寄、 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 123 5 幸平太、虎次郎、祐七(以下四名)、庄屋八郎右衛門、大庄屋峯三郎殿、前書之通リ御受負申上候処相違無御座候、大庄屋杵三郎、松江御役所」、こうした薪販売の受負文書はかなり数多く各地に見られ、販売先も対岸市場の他に長州下関、加賀三 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 123 17 薪 国港等もあり、隠岐の薪の商品化は近世末期かなり発達していたことがわかる。弘化2年(1845)海士村源十郎船の積荷を見ると「杉一寸板百間、同六分板百三拾六間、同四分板百拾弐間、樅八分板四間半、同五分板七間、同一寸板壱間、風呂 1845 0 弘化2年 隠岐 乙巳 0 123 21 薪 くど木凡五本分、杉角壱間物壱丁〆壱貫三拾六匁三分五厘、杉丸三間物八挺、同弐間物七挺、帆柱弐本〆百四拾六匁壱分七厘六毛」とあり、注文製品のごとくで、下関に販売している。薪には松材が喜ばれていたことは、弘化2年の「村尾文書」に 1845 0 弘化2年 隠岐 乙巳 0 123 25 薪 「御尋ニ付申上口上之覚、松薪壱〆但長壱尺八寸、高弐尺五寸、横三尺代銭拾壱貫百文、右薪当島商人手前梱相糺候処、雲州布志名着ニ而前書之代銭ニ而運送可仕旨、申出候、尤当島之儀者、松薪至而払底の場所柄ニ付、年中何程運送可仕員数取極申 1845 0 弘化2年 隠岐 乙巳 0 123 28 薪 旨申出候間、此段申上候」。これは大庄屋峯三郎が松江御役所に対しての回答である。松江役所から松薪が注文されたこおとがわかる文面から見て隠岐が販売に対してかなり有利な売手市場的立場であったことが推定される。出雲の山間部からも薪 1845 0 弘化2年 隠岐 乙巳 0 124 15 木炭・薪 炭材は松江市場に送荷されるはずであるがなぜに隠岐の薪が要求されるか、その理由は恐らく次ぎの2点であろう。その1は、薪のような重量材は運搬費が価格の決定について大きな比重を占めるので、馬背輸送よりも船舶輸送の方がはるかに割安 0 0 隠岐 0 124 18 木炭・薪 である。かつ大量輸送が可能である。上記本文中にあるように布志名(松江城下の東端)まで船舶送荷できる。その2は、出雲山間部では製鉄用薪炭が大量に消費されるので、販売量が相対的に少ないということである。つまり、浜出しの容易な隠岐 0 0 隠岐 0 124 22 薪 島の材木、薪は舟運の可能な本土市場に対しては販売が有利で、採算がとれたということである。漁業生産。串鮑、串海鼠の両役は中世以来の慣例を踏襲したもので、「諸色年代記」には次ぎのようにある。「串鮑一連ニ付一斗六升宛、串海鼠一連 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 126 2 ニ付六升宛ニテ御座候処、鮑一連ニ付代米二升二合御増被成、串海鼠一連ニ付代米七升増ニ被仰付候」(寛永十五年の条)。課税村が島前にせよ、島後にせよ東南岸に偏在していることも注目に値する。山陰地方で冬期海稼ぎが可能なのは隠岐の東南 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 127 1 薪 岸地域のみで、この地域は年間を通じて操業され、漁獲高の多い地域であったためである。「是ハ智夫里郡ニハ三分ヅツ、周吉穏地郡寄セニハ七分ヅツ古来ヨリ如斯御座候、但一俵ニ一斗ヅツ入申候、古来四季トモニ塩焼申ス由ニ候得共、近来薪伐 0 0 隠岐 0 127 6 出候場所モ遠ク成、塩釜拵ニ大分手間入申儀ニ候故、二季焼申所御座候」近世末に瀬戸内の三田尻塩が入って来るようになると隠岐の製塩は衰微した。他の水産物小物成はいずれも商品化のすすんだものに課せらたようにおもわれる。というのは、 0 0 隠岐 0 127 20 課税対象がいずれも加工製品だからである。例えばアゴ役について見ると、課税額銀268匁は干アゴ134束役で、1束につき2匁の課税である。イワシは干イワシで、130俵役が194匁5分、サバは開きにした塩サバで、115刺の役が16 0 0 隠岐 0 128 1 匁1分である。隠岐における長崎俵物。長崎の対華輸出品である干鮑、煎海鼠、鱶鰭の3品を称した。その限られた商品中で中心的地位を占めたものが俵物である。俵物が貿易品としてその地位を強化して行った経過は代物替、有余売を通じて理解 0 0 隠岐 0 128 18 できるが、延享元年(1744)の幕府による「俵物一手請方」の設置で、幕府の俵物生産、流通に関する支配権はその系統化が定まったと見てよい。隠岐はこの期では長門屋伝助の請負地域の中に含まれていた。同年この方針が隠岐に伝えられ、 1744 0 延享元年 隠岐 甲子 0 128 25 集荷指示が村々に達せられた。「笠置文書」この内容を次ぎのように伝えている。「覚。一御用串物被仰付候、御積高程不相調之内ハ下ニテ一切売買仕間敷事、若違背有之候ハハ、御吟味之上、品ニヨリ急度御咎可被仰付候事。一右串物上納不相調 0 0 隠岐 0 129 2 内ハ、他国ハ不及申、其島ニテモ買集者有之モ売買一切致間敷事。一串物出候ハハ、其時月日、何村、誰ヨリ差出候段串物夫夫ニ付紙相記、可差出事。一串物上下夫々不同、仕立用粗秣ニテ見苦敷分モ有之候、扱ハ暖ニ相成差出候分ハ、運送之内ニモ 0 0 隠岐 0 129 6 腐りリ、串ヨリ落、或はハ切放レ、御用難相成分モ有之候、此後ハ冬中取揚候テ可差出候。一当夏差上候串鮑之内、山之所無之、切取候様ニ相見有之候ニ付、御台所ニテ、湯煮見分之処、惣休ハフクレ有之、山之所ハフクレ無之、切取候様ニ相見候、 0 0 隠岐 0 129 9 粗抹の致方不届ニ候。」享保20年(1735)の「煎海鼠干鮑鱶鰭出高元積国分帳」によると、「平鮑総合斤、拾五万九千百斤、合代銀総合、四百貫目程、(中略)、隠岐干鮑千五百斤程、平均壱斤に付弐匁弐分替之積代銀三貫七百目程、出雲干 1735 0 享保20年 隠岐 乙卯 0 129 19 鮑五百斤程、石見干鮑五百斤程、(中略)煎海鼠総合斤、三十八万八千五百斤、代銀総合千三百五十貫目程、(中略)隠岐国煎海鼠千弐百斤程、平均壱斤に付三匁四分替之積、代銀四貫五百目程、出雲煎海鼠三百斤程、石見煎海鼠二百八十斤程、(略)」 0 0 隠岐 0 130 2 俵物集荷の強化。隠岐における俵物の集荷が幕府方の統制によって官業色を強化したのは天明5年を境にしてである。延享期以降、天明期まで出雲隠岐の俵物の集荷に当っていたのは長門屋配下の大根島下請人「油屋喜伝治」である。その下に隠岐島 1782 0 天明2年 隠岐 壬寅 0 130 5 では、島前で別府村酒屋伴左衛門、島後では宇屋町板屋武左衛門が買集人となって働いていた。「長崎御用俵物請書。一於長崎、唐船御渡方ニ相成候俵物之儀、是迄請負人在之、諸国浦方江下請相立置右之者共買集、長崎請負之者江積送来候所、此 0 0 隠岐 0 130 14 節右請人御指止メニテ相成、長崎会所直買入ニ被仰付候ニ付、国々浦々御廻被成、今般出雲之国迄御越被遊、私共御呼出之上、是迄長崎請負人手先仕来候ニ付、買入方并仕来之儀ニ付御尋御座候、此段隠岐国両島浦々ニ而出産之煎海鼠干鮑買集之儀、 0 0 隠岐 0 130 17 先年長崎請負人ヨリ私方ニ而買集、雲州大根島、油屋喜伝治方江相送候様申談候、、、(中略)、、、追々直段下直ニ相成り、自ラ出方相減候処、其後江戸表ヨリ御役人様方御渡海被成、、、、(中略)、、、御糺之上、長州下関江相廻候様被仰渡 0 0 隠岐 0 130 20 候、、、(中略)、、、且又、長崎請負人、此度御取放ニ相成候ニ付テハ、私共儀モ買請方被召放候様可相成哉、左候而ハ祖父共ヨリ相続仕来候渡世ニ相離難儀至極ニ奉存候間、買集方可被仰付奉願候、、、(中略)、、、天明五年巳七月五日、隠岐 1785 705 天明5年 隠岐 乙巳 0 130 24 国島前知夫里郡別府村、酒屋伴左衛門、同国島後周吉郡宇屋町、板屋武左衛門、北島栄治平殿、大田宇左栄門殿。」大根島(島根県八束郡八束村)の入江(にゅうこう)の柏木家は前記文書中にある油屋喜伝治の子孫で、同家には喜伝治の書き残した 0 0 隠岐 0 131 6 問屋 文書がある。これによると、天明以前には喜伝治が隠岐の俵物集荷の責任者で、隠岐では島前では海士村菱の重兵衛(のちには別府村の庄屋酒屋伴左衛門)、島後では宇屋町の夫左衛門(板屋武左衛門)を「買方問屋」に定めて集荷し、長崎に送荷 0 0 隠岐 0 131 9 していたが、明和3年(1766)には薩摩の飯田平兵衛、長崎の伊藤十兵衛という者が日向、大隈、薩摩の俵物の集荷を開始し、それを「新会所」と称して、幕府の長崎会所より高値で買い入れをなし、ここに長崎会所と新会所の買入競争が発生 1766 0 明和3年 隠岐 丙戌 0 131 25 酒屋、板屋が直接長崎俵物会所の下関役所に送荷している。このことは、全国的に天明5年に開始される俵物直買入制を隠岐は既に安永年間に先取りして実施しているということである。 0 0 隠岐 0 133 1 隠岐の俵物流通機構。隠岐は「役場請負地域」であるから、隠岐島郡代が請負者である。代官所は島前の別府、島後は八尾にあったので、島前の場合の責任者は代官の永山平左衛門である。この役場之の命令のもとで、島前では大庄屋の官蔵が島前ぜん 0 0 隠岐 0 133 3 割当生産、出荷分をうけて、これを浦方に賦課する。この間にあって現実的に各浦々を廻村して浦方の生産集荷責任者と事務処理を行なうのが俵物買集世話人の酒屋伴左衛門である。つまり、郡代、代官、大庄屋は管理機関で、実務は買集世話人以下 0 0 隠岐 0 133 6 にかかるわけである。買集世話人は集荷がすむと所定の事務処理をして「御用船」をしたてて、送荷するのである。送荷の内容を表化すると第41表のとおりになる。第41表から明かなように、隠岐の俵物の輸送には西廻海運で隠岐に寄港する他 0 0 隠岐 0 133 13 国の廻船に俵物輸送を委託するのではなく、いずれも隠岐の廻船が御用船となって送荷している。このことは近世末期には、隠岐に海運業が確立していて、遠隔地市場に商品輸送が可能であったということである。しかし、島前諸村の各村々に廻船 0 0 隠岐 0 133 16 が普及していたのではなく、福井村、海士村、知夫村、美田村、宇賀村、宇受賀村、別府村で、島前内湾に面したいわゆる西廻海運寄港地として大をなしていた港である。隠岐の場合にはこうした強い管理体制下で、郡代を頂点とする村落行政機構 0 0 隠岐 0 133 25 がそのまま俵物の生産、流通機構として遂行されるので、全国的に見て最も官業的形態を強く持った地域であった。したがって幕末俵物の抜荷の犯罪は起っていない。つまり、生産、流通段階の管理統制が公権によって徹底しているのも、その上層 0 0 隠岐 0 135 3 機関である長崎奉行によって厳しく管理されていたからである。第27図は享保時代から慶応時代までの請負高の推移であるが、享保期から寛政期までは徐々に請負額が増加しているが、享和元年(1801)から文化6年(1809)間は異常な 0 0 隠岐 0 135 19 請負がなされている。これは全国的な俵物の出方劣り(集荷減少)に直面した長崎俵物役所が官業経営の成功している隠岐に肥前から潜水漁夫を入漁させて、隠岐島漁民とは別の請負をさせたからである。それが図ではC及びDとして記されている 0 0 隠岐 0 135 22 部分である。第28図はかなり興味ある事実を示している。すなわち、潜水稼が大量の請負をした一時期は出荷増加はあったが、それがとりやめとなった直後は出荷高が急減している。文化8年(1811)にそれが回復し、文政以降は請負を上廻って 0 0 隠岐 0 137 4 出荷し、天保期には5000斤近い出荷を果している。しかし、隠岐の俵物の出荷も弘化以後は減少の一途をたどり、明治以後の自由貿易時代に再び復興するという運命をたどることを余儀なくされた。島前の例で見ると、天保14年(1843)には 1843 0 天保14年 隠岐 癸卯 0 137 8 3200斤、弘化2年(1845)には2700斤、嘉永2年(1849)には1700斤と減少し、以後明治にいたるまで俵物の出荷額は不明となる。こうした俵物貿易の衰退は隠岐のみの局地的な現象でなく、宮本又次が明かにしたように2つ 1849 0 嘉永2年 隠岐 己酉 0 137 12 の大きな理由が原因で長崎俵物役所を窮地に追い込んだのである。第一の理由は、中国の国情不安、すなわち、阿片戦争、太平天国の乱のため、中国貿易船の日本来航が途絶え、「交易の廻船いずれも帰国いたし、重立候商船は悉く相止候」とか「 0 0 隠岐 0 137 15 彼地騒乱の為、渡日する者無之模様」となったのである。第2の理由は天保以降の抜荷の横行である。幕末薩摩藩が幕府の禁令を無視して公然と俵物抜荷貿易を開始し、長崎俵物役所より高値で買入れ、これを主としてイギリスの貿易業者に密売し 0 0 隠岐 0 137 23 、イギリス商人はこれを中国全土に販売網をひろげて売りこんだのである。こうして弘化以後は我が国における俵物流通の実権は全く薩摩に奪われたのである。しかも、弱体化した幕府はこれを抑止することができず、慶応元年(1865)には英、 1865 0 慶応元年 隠岐 乙丑 0 137 27 米、露三国の要求に屈して、幕府官栄の俵物貿易独占は消滅し、自由貿易が許可され、外国人への直売が許された。隠岐スルメの俵物貿易代替品化。請負取極額は島後に比して遥かに少なく、大漁で3万6000斤、中漁で2万8000斤、小漁で 0 0 隠岐 0 138 28 1万4000斤の取極額である。弘化2年の実納高は取極期が12月であるので集荷が予定額に達せず、5536斤にとどまった。これを年数に換算すると1万1000斤にあたる。つまり小漁時の請負高に近い数字である。つまりスルメの俵物代 1845 1200 弘化2年 隠岐 乙巳 0 139 16 品貿易品化が、隠岐では弘化2年、西海地方では嘉永元年より行なわれたのである。このことは、幕府によれば、俵物貿易挽回策として行なわれたことであるがスルメ生産地側にとっては公権力によるスルメの貿易品化であり、公的なスルメ市場の 0 0 隠岐 0 139 20 拡大である。隠岐では明治以降、このスルメの貿易品化がさらに進展し、中国市場に隠岐鯣の声価を広く宣伝する契機となった。寛文12年(1673)の美保関制札から明かなように、近世中期までは、隠岐生産物の移出市場は対岸の松江、米子 1673 0 延宝元年 隠岐 癸丑 0 140 1 の両城下都市で、松江城下への集中美保関番所によってなされていた。漁猟を専らにして廻船商売するとあるから、水産加工物、すなわちスルメ、その他の塩干魚が移出されたわけであるが、まずスルメについてみると、対岸市場と遠隔地市場の両 0 0 隠岐 0 140 10 問屋 方に移出されている。その全体量あるいは両者の比については総括的な統計なく不明であるが、対岸市場については、天保9年(1838)と11年(1840)両年度において目貫村の廻船問屋蔵屋の資料がある。蔵屋手船金比羅丸は両年度合計 1838 0 天保9年 隠岐 戊戌 0 141 1 問屋 すると松江市場に2192連、米子市場に1200連、境港市場に2397連、安来市場に700連、淀江市場に1000連、美保関市場に500連移出している。これは、蔵屋という一問屋の実績であるが、大29図に示すような廻船分布から見ると 0 0 隠岐 0 141 4 問屋 、それらの廻船も当然似通った活躍をしたことが予想されるので、総量においては金比羅丸取扱量の寿十数倍に達していることが予想される。御用鯣と商売鯣。鯣問屋が村々にできたとあるが、これは天保7、8年ごろになる。一般商品を扱う問屋 0 0 隠岐 0 141 17 国用之他は他売不致、不残長崎俵物御役所へ御渡可被置候」という状態で、自由販売を許可したうえでの割当供出制が施行されたと思われる。これは、俵物におけるアワビ、ナマコとイカは漁獲形態が根本的に相違しているところに割当施行上の差異 0 0 隠岐 0 141 18 問屋 で、天保初期までスルメを取扱ってき流通が、スルメの大量移出が生じたので、鯣問屋が独立したのである。国内商品としての移出分と、長崎御用鯣とは別個に流通していたようである。恐らくはその取扱は、九州の西海地方のごとく「御献上并に 0 0 隠岐 0 141 21 を生じさせる理由があるからである。すなわち、アワビ、ナマコは沿岸磯浜の棲息生物であるから、それぞれの村の沿岸根付の磯浜の広狭によって資源的に生産割当をなすことができるが、スルメの原料のイカは沖合回遊魚であるから、地先海面の 0 0 隠岐 0 144 24 広狭には無関係で、むしろ、西郷地区のごとく地先海面はせまくとも漁業人口の多いところのほうが漁獲高が大きい。この結果、御用鯣と、商売鯣の両者が現実的には共存している。前述のとおり、安政6年の米子、境港の隠岐よりの移入商品がスルメ 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 145 4 を主として塩鰤、塩鯖、塩シイラであること、文久年間の下関へのスルメ販売、弘化4年の兵庫、尾道へのスルメ販売、安政3年の大阪へのスルメ販売等多くの事例をあげることができる。鯖網漁業。「寛政五年春より鯖網立、是ハ四十年余網止候 1847 0 弘化4年 隠岐 丁未 0 147 5 、不漁に付相談致シ試ニ拵候処、五月朔日より漁有リ六月上旬迄ニ銭百四、五拾貫文漁致ス、、、(中略)、、、文化元年子三月新ニ鯖網拵へ、同四月十九日より始、二十五日、二十八日大漁す銭八百貫余なり仲間網を見て三町は申不及、津井、大久、 0 0 隠岐 0 147 8 今津古今ニ珍キ大漁する」。こうして新網ができるようになった。その増加状況は化政、天保期に下西、矢尾(八尾)、目貫の入会地区に13川(統)、東口の津井、宇屋入会地区には4川形17川のサバ網が増加し、旧網と合すると23川になった。 0 0 隠岐 0 147 12 旧網と新網との間に操業紛争が生じ、大庄屋の仲裁で、旧網2夜出漁すれば、新網は次ぎの1夜出漁という取極めとなった。サバ網すなわち四ツ張り網は、夜間に火光利用によって集魚し、これを包囲してまきあげるいわゆる旋(まき)網漁法である 0 0 隠岐 0 147 15 から、名称はサバ網でもアジ、イワシがサバより多く漁獲されることがあるから、この漁業による漁獲物の加工品は塩干ホシカ、塩アジとなる。主な市場は対岸の雲伯地方で、次いで若狭方面である。瀬戸内及び大阪方面への販売は少なかったようで 0 0 隠岐 0 147 18 ある。これは、上方市場には九州のものが出回って、山陰産のものは進出が困難であったためと思われる。西郷の延(配)縄漁師が西郷湾を越えて西側の津戸、蛸木方面まで延縄漁で進出しており、漕釣を圧迫していることがよくわかる。しかし、そ 0 0 隠岐 0 149 20 それらの一本釣り漁師も延縄の生産生の高さをみとめているから、これを絶対禁止するようにはもとめていない。一本釣りがたち行くように延縄を制限するように願っている。末尾のほうの、どうしても西郷延縄漁師の活動がとめ難いなら、せめて、 0 0 隠岐 0 149 23 今津大川尻より西には進出しないように制限してほしいと願っているのである。これに対して郡代福岡仙右衛門は文化6年に次ぎのような申渡しをしている。「(前略)此度連印を以、訴出候、右鰤漁之儀者重立候漁業ニ付、前々より国益と相成候 1809 0 文化6年 隠岐 己巳 0 149 27 儀と相聞、不軽事に候得者、漕釣延縄船之儀、漕釣之分は西郷より津戸迄之内、凡船数二百余艘、延縄漁は西郷三町に而三十艘位罷出候由、左候得ば、、、、(中略)、、、外村防に不相成様、今津村大川尻を西郷之海にて相嫁可申候、(下略)、、」 0 0 隠岐 0 149 30 漕釣漁民の訴えがほぼみとめられ、延縄漁の操業をかなりみとめつつ、漕釣漁民を保護している。しかし、この紛争は根本的には解決できず、いくばくもなくして、島前、島後を含めての紛争にまで拡大した。ある時期には島前島後間の海域を延縄 0 0 隠岐 0 150 2 延縄操業地域、漕釣操業地域と区分する調停案も出されたが、延縄漁民が承知せず、明治漁業法によって地先海面を除いて延縄の全面許可となうまで紛争は長引いた。漕釣自体も延縄漁業の進出に対抗して行くためには沖合出漁して生産を高めなけれ 0 0 隠岐 0 150 9 ばならなかったから、西郷町目貫の海祈祷記録にも記されているように、「屈強の輩者は鰤漕船に乗組、手弱族者鯛延縄、烏賊漁」に従事した。目貫村の場合、寛政12年(1800)には漕釣船は7隻であったが、文政5年(1822)には18 1800 0 寛政12年 隠岐 庚申 0 150 12 隻、天保2年(1831)には27隻、同14年には30隻と増加した。これは沿岸漁民にとってブリは販売価格がサバやアジに比べて格段に有利で、販路の拡大に従って需要が増加したからである。特に、対岸の米子、境を起点とした隠岐ブリは美 1831 0 天保2年 隠岐 辛卯 0 150 14 作、備中の山間地帯まで販売が浸透していた。シイラ漁。隠岐ではサバ網(四ツ張り網)に次いで規模の大きなものとして、協業形態で操業された。塩シイラに加工し、主として対岸の境、米子に出荷し、雲伯から備中、美作の山間地帯に販売された。 0 0 隠岐 0 151 1 幕末には若狭方面に市場が拡大し、信州まで販路が拡大した。アゴ、タイ。アゴ(飛魚)は建網と流し網で漁獲し、沿岸で農民が農事の間に操業し、かなりの水揚げが期待できたので「待ち網漁」とも称された。これは網をしかけてから田畑の仕事 0 0 隠岐 0 151 5 をし、揚網しても十分採算がとれ、文字どおり農漁兼労働ができた漁業であった。製品は干アゴと称されるように、干物である。淡白な味が伊勢、京都方面では歓迎され、主要出荷地は、小浜、舞鶴方面であった。タイは一本釣り及び延縄漁で漁獲 0 0 隠岐 0 151 9 された。加工物は「焼鯛」で、内蔵除去のうえ、塩押ししたものを焼いてしあげた。市場はほとんど対岸の松江、米子、境港で、遠隔地出荷はなかった。イワシはホシカにして対岸及び瀬戸内方面に販売されている。本土からの入漁。貞享5年(1688) 1688 0 元禄元年 隠岐 戊辰 0 151 20 には筑前海士が島前に入漁している。これは水練稼(潜水採貝)を試みたもので、「村尾文書」には、北分(きたぶ)より訴状で、「先代御代官坂井亀右衛門様御代に、宇受賀より筑前海士に海を売申談合被仕候へども、措留、口入不申候段、坂井 0 0 隠岐 0 151 23 与右衛門様御渡海御糺御座候、、、」とある。これは宇受賀村が浜売りして筑前海士の水練稼を許したので、北分の海にも入漁を求めたのにたいし、そのようなことをしたら海役(小物成)が納入できなくなるから、拒否するという文書である。 0 0 隠岐 0 154 9 島根半島北浦地区からの出漁が多い。この地域は沿岸資源が豊富で、隠岐出漁の必要はないと思われるが、次ぎのような事情で出漁がおこなわれた。これは、明治元年(1868)、隠岐両島が御一新とともに、旧幕時代の慣行を破棄し、杵築漁民 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 155 8 問屋 の入漁拒否を通告したのに対して、引きつづき入漁許可を隠岐島大庄屋に願ったものであるが、「隠岐之外に冬海漁場無御座候」ゆえの願い出である。これをみれば、近世末期の隠岐の水産物流通は、西郷町を中心とする商人問屋の活躍 0 0 隠岐 0 156 19 のみならず、本土側の商人資本が出漁漁民に前貸しを行なって、その生産、流通に従っていたことがわかる。しかし、本土の商業資本が、隠岐島漁に仕込みを行なってこれを支配したという事実はなかった。船稼商売。「隠州島後船手諸法度極書。 0 0 隠岐 0 157 3 一、従前々被仰出候御法度之趣、堅相守可申候、猶又毎歳正月廿日、村々船持中船手会所江罷出、御法之趣可承之事、附、船手之通商者、当島ニ而者、重立候稼筋ニ候得者、常々大切ニ相心得、往々繁栄仕候様与篤申合、諸事綿密ニ取扱可申事、一 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 7 、毎年早春乗組人数相定、往来手形奉願、御点検を請、出船可仕事附(略)一、御公儀様メメ御用船被仰付候ハハ、御問欠無(ママ)之様、別而大切ニ相勤可申事、一、兼而被仰出候唐物抜荷、一切積請申間敷候、若長崎並対洲メメ之送状、或者手板証文 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 11 有之、正明之品と存候分者、荷主船宿メメ手形取之積可申事、一、長崎御用斤(金)海鼠、干鯣并菜種類、座方仕出之廻送之外、一切抜買仕間敷候、若不埒之族於有之者、船手中メメ相糺シ御訴可申上事、一、他国江乗渡候ハハ、其所之御国法堅相守、 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 14 勿論喧嘩口論、博打等、島渡相慎可申事、一、当島者、流罪之者被差置候所柄ニ候得者、他国ニ而便船乞候者有之、縦(たとい)往来手形致所持候共、容易に為乗戻申間敷候、勿論無往来(手形)之者、或者新規之商人等、猥ニ為乗戻候ニおいてハ、 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 18 問屋 其者ニ為送戻、御窺之上、商売差留可申事、一、大阪江廻着仕候船者、不限大小ニ、入津出船共、安治川鍋屋治兵衛方江相届可申候、猶又帰国次第、船手会所江茂、右同然相為可申事、一、何国ニ而茂問屋懸りを以、売買仕切手形取之、聊ニ而茂直 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 19 売買、并出売買等、御法度之通相守可申事、一、他国ニ而送荷物等請負候節、其国々御法度之品、并盗物等一切積請申間敷候、縦不怪敷荷物ニ而茂、其所宿主より請合書付取之、積可申候、別而運賃多分出候荷物者、猶以入念相糺可申事、附(略) 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 25 一、乗組人数之内、煩(わずらい)候者御座候ハハ、等簡之取扱不仕、随分実意ニ介抱可仕候、万一相果候ハハ、其所仕御国法、病死ニ粉無之証拠、并寺院葬手形等取之、帰国次第相果候者村方より右之段御許可申事、一、船業(乗)者、平常国元 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 157 28 を離れ、無隣水上之交に候得者、船内一入睦敷、船頭メメ茂別而加憐愍可申候(下略)文化四年卯正月、村々船持、年寄、庄屋連判、大庄屋重右衛門殿。廻船活躍の概要。「山口文書」には次ぎのようにある。「御願申上候口上之覚、当船手之儀、古来 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 158 19 薪 より当地出産の薪、材木、間牧類積出、商売致来候処、近年は船数過分に相増、当地荷物計りにては渡世難相成候に付、大船の分は、他国へ乗渡、雲伯両国之内にて、米、鉄、干鰯運賃請合、大阪并瀬戸内、下関辺へ積登り、遠近に随ひ運賃銭取之、 1775 1100 安永4年 隠岐 乙未 0 158 22 渡世仕候船も有之候、地方(ぢかた)にて当島数隻之船評判悪敷相申候、斯様年々船手乱りに相成候では、、、(中略)、、、何卒御憐愍を以、船手会所御定被下候はは、毎年早春右船手会所へ寄合、前々より被仰付候御定法之儀は不及申、此度一統 1775 1100 安永4年 隠岐 乙未 0 158 24 申合之相定候法度之条々相守可申候。安永四年末十一月、島後村々船主、年寄、庄屋連名、大庄屋文蔵殿惣十殿。」。柚木学の調査によると、享保年間に今子浦に入港した帆船487隻の船籍30か国のうち隠岐船は摂津(106)、越前(74)、 1775 1100 安永4年 隠岐 乙未 0 159 7 讃岐(68)、加賀(53)、和泉(49)についで第6位の33隻で、山陰地方では第43表に示すように第1位をしめている。しかもその大部分が6人乗り以下の小型廻船すなわち、隠岐でいう小渡海船である。この傾向は但馬西部の諸寄港の 0 0 隠岐 0 159 10 場合でも同様で、文政9年(1826)には隠岐船が35隻入港しているが2人乗り30隻、3人乗り3隻、4人乗り、5人乗り各1隻である。島前島後ともに近世末期の隠岐の廻船の主力は小渡海船であったことがわかる。 1826 0 文政9年 隠岐 丙戌 0 161 1 1)「寛政七年隠岐国郷帳」筆者蔵、2)明和9年(1769)の巡検の後に命ぜられた。卯年船出入駄別改役銀の卯年とは寛政7年乙卯のことである。3)島後では、寛政7年の郷帳で明かなように牧畑の他に麻畑、上畑がある。常作の年々畑である。 0 0 隠岐 0 161 6 4)その理由については牧畑の項でのべる。5)「元禄二年書上帳」西郷町大久「斎藤修二郎文集」6)天明2年「隠州御用定式大概書」、島根県立図書館蔵、7)隠田のことを隠岐では切添(きりそえ)、地開(ぢあけ)ともいう。8)キリヤマ、 0 0 隠岐 0 161 10 アラヤナと呼ぶ所もある。9)三橋時雄(1969):「隠岐牧畑の歴史的研究」京都、ミネルバ書房。10)大塚久雄(1955):「共同体の基礎理論」東京、未来社。11)市川泰治郎訳(1969):「共同体の経済機構」東京、岩波書店 0 0 隠岐 0 161 14 12)三橋時雄(1969):「隠岐牧畑の歴史的研究」pp81〜115ミネルバ書房、13)「宝永六年別府村諸色明細帳」西ノ島町役場蔵、14)元禄五年「大久村指出帳」西郷町大久「斎藤修文書」、15)「田法記」は天和2年(1682) 0 0 隠岐 0 165 9 第三章、島嶼経済の性格と特色。生産様式の地域差。この中で、畑高と田高の差が極端に大なのは浦郷で、畑高1110石に対して田高は73石である。牧畑面積1154町にたいし、麻畑(普通畑)は6町であるから、牧畑農村の最も代表的なもの 0 0 隠岐 0 168 1 ということができる。水産地域としての色彩の強い地区は西郷地区、今津地区、津戸、蛸木地区、久見地区、知々井地区、浦郷、美田地区になる。これを大局的に見れば島後の南東海岸地区、島前中の島の南東地区が隠岐では漁業地域として摘記される。 0 0 隠岐 0 169 5 近世隠岐の食糧自給問題。「乍恐御断申上一札之事、隠岐国御年貢米雑穀石代相場悉下直ニ而ケ様成下直段外々ニ無之候間、年々直段引立候様可仕旨去年以来別而厳敷於江戸表ニ追々被仰渡候由去寅年石代御伺をも御受込難被遊被仰渡候処、寅年分 0 0 隠岐 0 169 8 者色々と御段被仰上候ニ付、御伺被遊候通相済候得共、当卯年石代相場引立不差出候而者於江戸御表ニ快而御許容難被遊旨尚又厳被仰渡候趣奉畏候、兼而御段申上候通、隠州之儀者、嶋国土地悪敷所柄ニ而米雑穀出来性殊之外不宣囲置候而も初夏ニ 0 0 隠岐 0 169 11 相成候得者、過半虫に相成、メメ精候得者大方糠之如如ク罷成、夫故他国払ニ不相成、所ニ而も下直ニ取遺候、尤初夏カラ秋作出出来候迄地米無御座、都而他国米買入取遺仕候故、隠州悪米直段之引位ニ而一向不相成候、就中畑方之儀岩壁嶮岨之岩山 0 0 隠岐 0 169 14 を開候場所柄、別而地薄雑穀出来性米から者各段之劣りリ悪雑穀ニ而御座候、、、(中略)、、、隠州之儀者嶋国不相応ニ人数多、糧乏敷所柄ニ御座候ニ付、古来から出来米雑穀御憐愍を以御貸延被為仰付、初秋から夏作出来候迄野菜海藻を取合夫 0 0 隠岐 0 169 16 食ニ仕候、冬から翌初夏迄之山海稼ニ而色々相稼漸代銀上納仕候、、、(下略)、、、」。人口と米、雑穀の生産高を「増補隠州記」の数字をもって比較して見ると、全島1万8910人の人口に対して総石高は1万2085石で、かりに1人当り 0 0 隠岐 0 169 25 通年消費高を1石とすれば78%の自給率である。これを米のみで算定すれば島前では6052人に対して1682石で28%、島後では1万2858人に対して5250石つまり41%、全島を通じてみると6932石に対して人口は1万8910人 0 0 隠岐 0 170 1 食事 で36%程度である。雑穀を加算しても自給困難である。明治2年現在の島内村勢調査である「図誌草稿」によると、人口は2万4552人で、石高は1万2,562石で、食糧自給率は51%までさがっている。これをもってみれば、明和8年(1771) 1869 0 明治2年 隠岐 己巳 0 170 5 の愁訴は農民の食糧自給不安をかなり現実的に伝えているものと考えられる。御拝借米制度。これは貢米を島民食糧のため払下げをうけて食糧に充て、その代りに貢納は貨幣納(代銀納)する制度である。一見島民に対する慈善政策のように 0 0 隠岐 0 170 27 見えるが、実質的には古代の(出挙)と性格がよく似ていて、必ずしも島民負担の面から見ると有利なものとは断言できない、しかし、他国米の移入が困難な離島にあっては、食糧確保のためには、御拝借米という現実的必要が強く、しだいにその 0 0 隠岐 0 171 2 制度が定着して行くようになった。本来の貢納は隠岐は天領であるから江戸浅草の幕府の御蔵に納めるのが筋であったが、松江藩御預地となってからは雲州御蔵納入が命ぜられた。御証文写には、「御当国、寛永十五年寅より元禄元年辰迄、御物成 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 171 5 雲州御蔵迄、江戸大公儀様御手船ヲ以、御運送被遊、島前ニ而観音丸、島後ニ而日吉丸二艘有来、、、」とあり、松江御蔵に納められたが、幕府としては直送をしばしば求めている。「寛文元年丑三月、江戸御奉行様より、御成箇米穀、江戸浅草御蔵 1661 300 寛文元年 隠岐 辛丑 0 171 8 江御上納仕候様ニ被仰付奉畏、両島より公文両人当国之米穀持参仕、、、」と、江戸に貢米輸送したこともある。しかし時には大坂廻米もあり、延宝8年(1680)にはやはり島前、島後の公文2名が隠岐の米穀貢納のため上坂している。このころ 1680 0 延宝8年 隠岐 庚申 0 171 13 より、隠岐国惣百姓から、江戸へ奉る訴訟がおこり、廻米輸送についての免除と地払(隠岐島に払い下げ)の願が深刻となった。これによると、単に米雑穀不足だけを理由にしていない。品質不良、長途の輸送による「欠(かけ)」の増加、さらに 0 0 隠岐 0 172 19 上質米を貢納せよとの命令等の問題があり、隠岐を他国同様扱ってはなはだ迷惑と陳情しているわけである。つまり、寛文期(1661〜72)には既に拝借米の事実は既にあったが、しばしば廻米を命ぜられ、そのつど宥免を願っているのである。 0 0 隠岐 0 172 22 この制度が定着したのは宝永期(1704〜10)に入ってからで、宝永6年(1709)の「原田村明細帳」には、「御年貢米之儀、、、其侭、所拝借ニ被仰付、来七月中段ニ而銀納仕候、尤年々不同御座候」とあり、7月の米相場で代銀支払い 1709 0 宝永6年 隠岐 己丑 0 174 24 がなされたことがわかる。さて、上記の拝借米は平常の年の例であるが、その代表例として享保7年(1772)の「隠岐国島後村方寅春飢人御扶置方米代御拝借帳」がある。行政側から無償救助という形態ではなく、あくまでも、現物(米雑穀) 1772 0 安永元年 隠岐 壬辰 0 175 15 拝借、代銀上納という形である。凶年時代における行政側の対策は封建体制下の離島という封鎖的孤立地域にあっては消極的な姿勢以外に示しようがなかった。それは領域の中での自給経済の運営を原則とする大前提があったからである。つまり、 0 0 隠岐 0 175 20 行政側の苛酷な収奪がない限り、島民は、凶年の被害を自らの力で解決しなければならなっかったのである。第三節、石代相場の性格。代銀貢納。いわゆる御拝借米は形の上では貢納米の地下払下げで、村々ではそれを個々の農民に貸し付けて拝借 0 0 隠岐 0 175 20 させ、高値の代銀納を命ずるのである。拝借米は代官所側から見れば「売附米」である。島後犬来村では「拝借米帳」を「売附帳」と表記しているものもある。島民にとっては、自給のため、米、雑穀を払下げしてもらい、その代金を島の相場で納入 0 0 隠岐 0 178 7 するということが当然のこととして施行されるものと思っていたが、事実は全くこれに反していた。これは石見銀山(大森)領時代、幕府の収奪強化に対し、拝借米の代銀支払いが強化されたため島後村々庄屋連名で引き下げ方を願った文書である。 0 0 隠岐 0 178 18 その意図するところは、離島で食糧不足に苦しむ隠岐島民に最高額の石高相場を求めるとは、すこしも御上の御憐愍がない。むしろ安い値段で拝借米を地払いにするのが社会政策上、当然ではないかという、庄屋の考えである。隠岐の所相場は、雲 0 0 隠岐 0 179 25 隠平均直段より18匁も高かったのであるから、隠岐島民の御拝借米は始終、高相場で拝借米を購入するという状態であった。寛政以降は後述の表のように石代相場の変動が激しい。「森文書」によると、寛政8年(1796)江戸より小普請方元 0 0 隠岐 0 179 28 締の勝与八郎が石代改に雲州にきて、隠岐の大庄屋、庄屋を美保関に呼びだし、「御米代、大坂十月相場ニ弐拾五匁下リ而、御米代上納可仕旨、御議定究被成候」となって、大坂相場に左右されることになった。ところが、幕末の大坂堂島市場の米 0 0 隠岐 0 180 34 相場が非常に高くなったので(文久期は天保期の3倍)とても隠岐島民に耐えられないと愁訴し、両島相場と松江相場の十月上米相場をもって上納することとなった。釜村「佐々木文書」の銀取証文をもととして石代相場を表化すると第47表のように 0 0 隠岐 0 181 3 なる。これによると、石代相場の変動が激しくなるのは文政以後で、天保年間には100匁を越える時もあり、慶応3年(1867)には世情不安も原因して268匁まで高騰している。安政5年(1858)以来10年たらずの間に米の石代相場は 1867 0 慶応3年 隠岐 丁卯 0 181 6 3倍以上暴騰したので、隠岐全島で米相場を中心に打ちこわし、百姓一揆が発生し、慶応3年(1867)から翌明治元年にかけて「隠岐騒動」と称する島民の武装蜂起があった。この騒動は複雑な要因を持った騒擾であるが、島民が訴えた内容に 1867 0 慶応3年 隠岐 丁卯 0 181 9 よると、貢納が銀納である隠岐島民の苦渋がありありとよみとれる。第48表は石代相場が、島相場に対してどの位の増銀が加えられて決定されていたかを表示したものであるが、寛政7年(1795)には既に島相場より増銀の方が大となり、隠岐 1795 0 寛政7年 隠岐 乙卯 0 182 2 島民のうけた石代相場における官辺よりの収奪の深さは島民の生活不安を助長し、隠岐騒動慕勃発の要因となったのである。御拝借米制度は一見離島の食糧自給を高めるための社会保障制度としての表面的形態はとったものの、封建的収奪機構とし 0 0 隠岐 0 182 5 ては石代相場を通じて極めて高額の貢納を島民に課したことになるのである。第四節。近世隠岐の荒政。備荒貯蓄。これは、隠岐の離島環境を考慮して、天明8年(1788)、寛政2年(1790)に郷蔵を再設して備荒貯蓄を強化した時のもので 1788 0 天明8年 隠岐 戊申 0 185 17 、寛政9年(1797)には、「御公儀様から凶年御手当として郡中へ籾囲之儀被仰付、是迄村囲に仕候処、此度村囲不相成、蔵組囲被仰付候」というものである。安永以来村々の「地下蔵(ぢげぐら)」または庄屋が保管していた貯穀が寛政9年 1797 0 寛政9年 隠岐 丁巳 0 185 22 以後は西郷、都万、五箇、中村、海士、別府、知夫等の「郷蔵」に囲置きされることになり、この制度は資料的には明治4年まで追跡できる。第五節。近世封建制下の生産水準。石高推移。まず近世隠岐における石高推移の数字とその意味するところ 1871 0 明治4年 隠岐 辛未 0 187 16 を検討してみたい。慶長検地の結果を総合して隠岐の石高は、松平直政の松江入国、隠岐松江藩御預けの寛永15年(1638)に1万1608石と決定した。この時点の田畑を「本田畑」と称し、その後の検地によって加わったものを「新田畑」と 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 187 20 呼んでいる。本田畑の反別は田566町、畑3156町と算定されている。本屋敷は御役目屋敷で、御免除屋敷は寺社、庄屋等の本来は夫役免除の意味の屋敷であった。畑屋敷とは新しく認められたの中の屋敷で、隠岐では「割込」と称している。 0 0 隠岐 0 191 11 また、近世末期は定免制施行であるから牧畑のような耕作面積が年々不定の農牧地の隠岐では、貢租は定免切り替えの時に決定される免によって机上で計算され、4牧の耕牧輪転式経営を妨げない限り、牧畑地における実耕作はかなり自由にその面 0 0 隠岐 0 191 14 積を伸縮できた。そのうえ、甘薯の耕作が隠岐に導入された享保以降においては、牧畑の年々畑化が進み実質的に新田畑の面積は拡大するが、耕地取扱上は牧畑扱いである。つまり、牧畑の見かけ上の面積及び高は変化がなくて新田畑の増加が生じ 0 0 隠岐 0 192 12 るわけである。耕地面積の検討。明治6年と12年を比較してわかるように、わずか6年間に水田面積が倍増したように数字上には表現されているが、現実には、この期間中、開発、新田増加があったのではなく、地券交付に当って個人別所有水田 0 0 隠岐 0 192 14 を集計したら、1326町になったということである。こうしたことから地租改正以前の田積は帳簿上における見かけ上の面積で、現実的な面積を示していないことは明かである。帳簿上の面積の増加はその主目的が貢納強化に対応する措置である。 0 0 隠岐 0 193 9 では近世の田積はいかに判定されるべきであろうか、明治12年の「町村誌」記述の面積が近世末期の実面積に近いことは確実である。とすれば、隠岐の近世の田積は1300町歩と考えられる。石盛平均5斗5升とすれば7150石の実収量はあった 1879 0 明治12年 隠岐 己卯 0 194 6 と思われる。ところが麻畑、普通畑は面積上においては極めてわずかで麻畑18町、上畑10町計28町程度である。従って明治12年の1573町の普通畑は近世以来牧畑が実質的に年々畑化して、明治の地租改正時点においては普通畑として判定 1879 0 明治12年 隠岐 己卯 0 194 8 され、耕作農民の地券には「切替牧畑」とは明確に区別された「畑」である。したがって近世及び明治6年の畑面積は内容的には見かけ上の耕作推定畑地で、明治12年の畑地は現実的普通畑と不定地としての耕作機能を持った牧畑とを示したもの 1873 0 明治6年 隠岐 癸酉 0 195 1 で、牧畑内の耕作実施面積がどれほどであったかは明かにし得ない。以上のことから近世隠岐の畑作は、課税対象となった畑高よりは実質的には相当上廻った雑穀生産高があったと考えられ、特に年々畑がその面積を拡大したと推定される化政以後 0 0 隠岐 0 195 3 には反当雑穀生産を麦に換算して3、5斗と仮定しても全島5000石は年々畑から生産されたと思われ、牧畑生産を最低見積3000石としても実質8000石以上の実収穫はあったとおもわれる。人口と関連づけて検討すると、貞享期には、公 0 0 隠岐 0 195 13 称石高1万2000石に対して、人口は1万8204人と「隠州記」には記されているので、近世幕末期の2万石の実収高に対しては比例計算すれば3万人と推定される。本庄栄治郎の「日本人口史」によると、寛延3年(1750)1万8931人 1750 0 寛延3年 隠岐 庚午 0 195 16 、文化13年(1816)2万1660人、文政11年(1821)2万5234人、天保3年(1832)2万5712人、弘化3年(1846)2万6208人となっているので、近世末の石高の実増加はほぼ前記計算数値と見込んで差し支え 1816 0 文化13年 隠岐 丙子 0 195 19 ないように思われる。この間において公称石高は寛永15年(1638)の本田畑以来明治2年まで第51表に示すようにわずかに960石であるが、商業資本の発達に伴う人口増加をになう実質農業生産の増加は最低見積もっても8000石はあ 1638 0 寛永15年 隠岐 戊寅 0 196 1 った。しかし、貢納上においては本田畑に対して寛永〜貞享期で403石、貞享〜寛政期で618石。つまり近世を通じて約1000石の新田畑増加にとどまっている。つまり見かけ上の増加と実質増加の間に7000石の差が指摘できる。その直接 0 0 隠岐 0 196 6 的な理由の一つは牧畑の「不定地」的性格に求められよう。つまり、牧畑の耕作面積は4区分された牧畑の各区の大小がある上に、耕作適地も各区によって面積上差異があるから当然年々耕作面積に差異が生じ、島民側の申告面積が官辺に承認されざる 0 0 隠岐 0 196 9 を得なかったことにある。第二に、年々畑化した牧畑が近世を通じて上畑としての取扱いをうけず牧畑扱いであったことである。田積については、近世になって突如として増加したものではなく、古代以来長年月を通じて開発しつくされたので、享保 0 0 隠岐 0 196 13 〜寛政期の石高が近世を通じて見たときの限界と見られ(第51表)、この時点で、1200町歩以上の田積となっていたが、「検地帳」等の公簿上の田積は極めてわずかしか増加を示していない。(第51表)。これは既述のように、新田増加を 0 0 隠岐 0 196 16 通じて見れば貞享期までに40町、寛政期までに50町の増反があったにもかかわらず、田積の総反別では30町以下の増加として現れているにすぎない。寛政の「郷帳」から見ると、川欠、堤成その他の永荒引高を大にし、毛付高を小にする措置 0 0 隠岐 0 196 19 で、収縮を行なっている。これは、行政措置の机上計算結果で、現実的なものではない。近世の島嶼人口。日本全体の平均を見ると宝暦より寛政期にかけては指数は100以下で、化政以後ようやく、100を越え弘化3年には103となっている。 0 0 隠岐 0 198 4 すなわち、近世末期においては佐渡、隠岐、壱岐、対馬はいずれも全国平均を上廻り、特に隠岐の増加が群を抜いていることが指摘できるわけである。島後ではほとんど見られない芋蔵(いもぐら=甘薯貯蔵の穴蔵)が島前ではいたるところに構築 0 0 隠岐 0 206 2 されているのは甘薯作付の普及を物語るものである。近世末期の人口移動。文化4年(1807)の「口上之覚」には次ぎのように記されている。「差上申口上之覚。島前村々より男女共夥敷先年より島後江稼として渡海仕罷在候に付、其頃島中庄屋 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 206 4 共相談之上、一躰島中より大勢他出候ては、田畑手入等も自然に不手廻しに相成、畢竟島前の不益に相成候間、島中厳敷吟味いちし、不残呼戻し、以来一人も差渡不申旨一統議定仕、大庄屋所へ書付等迄差出置候処、其後引続年並悪敷、間には一人 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 206 7 宛奉公稼に渡海仕候儀御座候得共其まま差置候処、追々右締合も等閑に相成、近頃思召之程恐入申上候得共、何分困窮より事起り候儀故打捨罷在候処、去今年抔就中村々より渡海仕候旨にて、又々此度島中一統相談之上、当暮より不残呼戻し、以来 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 206 10 村々より一人も渡海不仕様吟味可仕候得共、若哉一人にても渡海仕候はば、本人には銭二貫文、隣家之者共より一人前一貫文宛並組頭之者よりも五百文宛過料として島中江為差出可申議定、尤隣家のものにても早速訴出候はば、右過料銭宥免可仕候、 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 206 13 然上にも不埒之儀御座候はば、銘々共如何様にも可被仰付候、何分此度一統御願申上候間、以来締合之儀幾重にも奉御差図請度、偏に奉願候、以上。文化四年卯九月、島中頭百姓、年寄、庄屋。大庄屋宛。」「申渡。一他国諸参詣、村高百石ニ付二人 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 206 29 宛、但遠国ハ百日、近国ハ五十日限り、一他国商売往来、下地之通り、一玉造入湯、諸養生往来ハ村方ニ而能々吟味ヲ詰、弥相違無之ものは願出可仕候、是又日数五十日限り、一他国用事往来ハ村方ヨリ、何国、誰江用事有之と申儀願出可申候、一 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 207 4 島後ニ而諸職人弟子ニ罷成居、逗留仕度旨、願出候モノモ有之哉之処、以来願出候共不相成事、一同所江下女下男ニ引越度旨願出候儀不相成事、一同所江出家弟子ニ罷成居候モニハ、去秋書出シ之分ハ引越シ遺シ、尤以来出家弟子ニ相違無之分ハ引越 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 207 8 可申候、一同所江嫁聟養子ニ引越度モノ有之願出候儀、村々ニ而能々吟味ヲ詰、弥相違無之モニハ引越、去秋書出シ之外ハ、今年ハ不相成事、一同所ニ而是迄、手代奉公仕居候モノハ、容易ニ渡海仕候事不相成候、尤無拠用事有之罷渡旨願出致シテ 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 207 12 渡海申付、若長逗留ニ及候ハバ、過料可申聞候、右九ケ条之趣、堅可相守候、若違乱有之ニ於テハ、村役人之者急度咎メ可申付候条、能々相心得可申候以上、辰三月、御役所。」以上の現象から隠岐が対岸の伯耆、出雲地区、特荷米子、安来、松江 1807 900 文化4年 隠岐 丁卯 0 207 23 等へ相当数の人口流出があったことを推定でき、伝承も存在するが、現在の段階では資料的にその流出人口の実態把握は困難である。流人と人口問題。流人は着島の上、両島代官によって島後に6割、島前に4割配分されることになっていたので、 0 0 隠岐 0 209 6 赦免、帰国等で若干の差異はあっても、両島流人数は6:4に近い数字を示していた。上記の流人数の場合、享和2年島前流人98人、同4年島後流人120人、文化11年島前流人66人、同12年島後流人90人となっていてその標準に近い数字 1802 0 享和2年 隠岐 壬戌 0 209 9 を示している。島前の天明8年から安政3年の流人平均数を計算すると60人となる。この比率を島後に適用すると90人となる。したがって近世末期の隠岐島の平均年間預数は150人内外と見てよいと思われる。これを化政期の全島人口2万人 1788 0 天明8年 隠岐 戊申 0 209 12 に比べると、0、8%内外となる。以上のように、流人の全島人口に対する比重は大きく見積もっても1%であるから、流人の数が全島人口に与える影響は少なく、その文化的、社会的影響も大とは考えられない。従来流人が隠岐島文化に対する影響 0 0 隠岐 0 209 16 を過大視して隠岐島文化が流人によって開発向上されたごとく理解されているが、むしろ流人は隠岐島村落社会の中に同化されたとみる方が現実的である。(題59表)。人口推移に比し、戸数の推移はおおむね並行関係にあるが、必ずしもそのカ−ブ 0 0 隠岐 0 210 29 は一致しない。これは初期の屋敷請のあと、屋敷数は固定を強制され、増加が抑制されたからである。しかし人口は自然増加する。これは全国的に共通のことで、享保7年の「御勝手方御定書」にも「諸国在々百姓、有来家居之外ニ新規ニ家作致す 1722 0 享保7年 隠岐 壬寅 0 210 32 べからす」と命じていることによるものである。しかしながら「一家之内にて子孫兄弟多く、或は病身之者有之候而同居難成子細有之ものは一家敷内に小屋を作り、或者差懸けに致す儀は格別たるべき事」とあるように別居することがみとめられて 0 0 隠岐 0 211 3 いる。隠岐ではこれを「割込」と称している。享保6年の「今津村宗門改帳」によると22屋敷に対し、家数44軒、内訳高持19軒、持家15軒、地借9軒、寺1軒となっている。隣村加茂では地借の数は今津と同数であったが、明治元年29戸 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 211 16 が、同5年には実に74戸に増加している。家抱、名子、譜代が壬申戸籍によって独立したためである。つまり、家数としては算定されない小屋住みが多かったからである。流人は前記のように島前島後を通じて近世年間平均150人程度と推定され 0 0 隠岐 0 211 19 るので流人小屋も150戸程度あったはずである。しかしこれは村々の家数に加算されず、人口上も加算されていない。 0 0 隠岐 0 213 1 島嶼経済の解体過程。島嶼経済の解体の歴史的性格。ここで島嶼経済の解体と称するのは歴史的に2つの内容を含んでいる。その1は、封建制下における離島の孤立性、自給経済体制が前期的商業資本の発達に伴って、その孤立性、封鎖性が解体され、 0 0 隠岐 0 213 5 広域的流通経済機構の中に繰り込まれ、国民経済に参加しその結果として村落共同体的構造の島嶼経済が解体することであり、その2は、さらに商品経済が高度発展を遂げ、人口、資本、商品の都市集中が進行し、封建制下及び近代初頭の島の生産 0 0 隠岐 0 213 8 基盤が解体ることで、資本主義体制下における離島の衰退を内容とするものである。したがって前者と後者は資本の運動形態が異っている。前者は封建経済から脱出し、より自由な商業資本主義的経済への発達で、人口、商品、資本の交流が進展し、 0 0 隠岐 0 213 11 第一次産業生産の拡大発展を指向するものである。隠岐においては、第一の封建経済の解体は、佐渡とともに近世中期から始まっている。第二の近代資本主義経済の強圧による島嶼生産基盤の崩壊は第一次世界大戦後その進行を早め、昭和初期に急 0 0 隠岐 0 213 14 激に人口減少という形で現実化していった。帆船交通の発達と商業資本の活動。西廻海運開発以前の本土との交通。古代以来近世寛文期までの隠岐と本土との交通は島根半島北岸の諸港と隠岐最南端知夫島を結び全く不定期航路として存在したにすぎず 0 0 隠岐 0 214 4 、松江城下町、米子城下町商業都市機能が強まってから美保関〔三保関)が中心港となり、隠岐との連絡もしだいに美保関を中心として行なわれるよになった。元禄9年(1696)の「船宿定帳」によると、隠州島前船は門屋権七、島後船は角屋 1696 0 元禄9年 隠岐 丙子 0 214 7 問屋 新四郎が船宿で、隠州船を一手に引き受けていた。松江藩が隠岐及び島根半島北岸(北浦と称す)から塩干魚及び木材を集荷するにあたって美保関問屋を通じて独占集中政策を打ち出し、米子城下及び他国問屋に品物が分売されるのを防いだことは 0 0 隠岐 0 214 10 薪・移出 寛文12年(1672)、美保関港制札に「隠岐国并北浦方より薪、材木、肴、海藻等の商物、他国へ不出、松江へ入来候様ニ可被申付候」とあることによって明かである。寛文期までの隠岐から本土への移出物は材木、薪が主で、承応、明暦期に 1672 0 寛文12年 隠岐 壬子 0 214 13 幕命によって大坂輸送が大規模に行なわれた。これは上方の都市拡大で木材が必要であったことと、当時頻発した都市火災で建築材が大量に要求されたからで、隠岐ではこの時代に大船の数が増加した。貞享4年(1687)の「郷帳集成」に「材木、 0 0 隠岐 0 214 16 薪 薪伐り出し商売致スト、寛文9年酉七月改書上ル、今ハ山林伐尽テ薪も稀也」とあることから明かである。西廻海運の発達と隠岐。三陸海岸から房総にいたる地域からは入港がない。絶対数で最大の入港を示すのは加賀の1325隻、越中の917隻、 1669 700 寛文9年 隠岐 己酉 0 216 23 越後の470隻で、この3地区の合計2712隻で全体の60%を占めている。数量的には断然北陸地方が大である。個々の港では金石214が最高で、三国198、安宅194、新潟181、赤泊170、伏木146、美川145、放生津140、 0 0 隠岐 0 217 1 輪島120、大野120、粟ケ崎104が100以上の入港船の船籍地で、大坂は92でこれについでいる。西郷港は湾が南に開港し東湾(のぼりま)西湾(くだりま)として隠岐最大の港湾で、隠岐島物産の移出港として大をなしていたが数次の 0 0 隠岐 0 217 4 火災で船宿、問屋が焼失し、港勢を知る資料に乏しいが、島後布施村卯敷の「安部家萬控」によると、入港船の数が寛政4年1862隻、天保10年1928隻、慶応元年630隻と記されている。大山港の入港船は最大の天保10年が60隻なので、 1839 0 天保10年 隠岐 己亥 0 217 7 この比で推定すると西郷は大山の30倍以上の入港船があったことになる。隠岐における廻船業の発達。貞享期の「増補隠州記」によると、当時の隠岐の船舶は「島前船数397隻、内大船7隻、小渡海船2隻、手安船99隻、艫戸(ともど)船291 0 0 隠岐 0 219 12 隻、島後船数714隻、大船110隻、手安船393隻、艫戸船211隻」とあある。近世末期に大船にかわって小渡海船の活躍が主になったのは、重量、体積ともに大な木材の移出にかわって軽量、体積小の水産加工品の販売が主となったので大船 0 0 隠岐 0 219 14 の重要性が少なくなったためである。この小渡海船は対岸市場はもちろん、長崎、瀬戸内、上方、若越方面まで航している。北陸羽越の大型廻船が藩米の大坂輸送の主流であるのに対して隠岐の小型廻船は隠岐島生産品の本土移出及び本土における 0 0 隠岐 0 221 3 問屋 貨客輸送に従ったのである。隠岐における問屋の発達。「相定申他国船宿並商売人宿之事。一美田村問屋四軒、喜兵衛、八兵エ六兵衛、武左エ門、一他国船入津之砌、往来手形相改、宿手形相添差上可申候、其湊之内参候舟、船頭方より往来手形差 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 7 問屋 出不申候共見逃ニ不仕、問屋、庄屋、年寄立会遂吟味、其品御断可申上候、尤御当地ニ而商売仕候他国物ハ例年之通、往行御札可申請候一他国船地舟共、諸事積出し申品々少も不隠置、御点検之砌、御断可申上候、但又御点検以後、何ニ而茂為積申 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 10 問屋 間敷候、地舟之儀ハ前々被仰付候通奉畏候、他国船往来手形之外、一人ニ而茂乗参候ハハ、其趣早速御注進可申上候、御当地よりハ猶以一人も乗せ渡し不申候ニ手堅遂吟味、出船之自分相改可申候、右之通少も違背仕間敷候、其問屋油断候か又は我侭 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 13 出候ハハ、庄屋年寄五人組之者共急度遂詮議、諸事抜目無之様ニ可仕候、万一右之品々致疎略候ハハ、御聞届被成候ハハ、私共急度越度ニ可被仰付候、為後日仍如件、宝暦三年酉正月、美田村年寄庄屋、堀彦右エ門様。まず上記の文書の示すところに 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 22 問屋 よると、宝暦3年(1753)美田村では4軒の船宿を兼ねた問屋が指定された。4名は美田村の4部落すなわち、波止、大津、大山、船越の年寄役であり、自然村落ごとに問屋がおかれたことがわかる。その職掌は他国船が入港した時に往来手形 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 25 問屋 を改め、怪しい筋がなければ宿手形を添えて代官に届け出る。他国商人が便乗して来た時にはその往来御札の下附を申請する。往行御札とは商売許可免許札のこたである。他国船地舟共積出荷物を点検する。隠岐ではこのような問屋を勤めるのは村 1753 100 宝暦3年 隠岐 癸酉 0 221 28 問屋 役人である年寄役で、小規模村では庄屋がこれに当った。宝暦以来村役人(年寄)が問屋業務を行なっていたが、化政、天保期には船宿兼問屋がしだいに勢力を強め、2種の問屋が併立した。従来の問屋は村役的問屋で、「問屋手前ニテ少シモ売買 0 0 隠岐 0 222 7 問屋 不致」なかったので明かに廻船問屋とは異っていて職掌上往来手形を改め、積出荷物の点検(点検銀=駄別銀)をしてその徴収にあたるものであった。これは商行為を促進し、そじの発展を助長するためのものではなく、点検銀を確実に徴収して官 0 0 隠岐 0 222 10 辺の財政増加を目的としていた。「隠州御用定式大概書」(島根県立図書館蔵)には「江戸ヘハ不被遺候処、御勘定御改之節御見合相成候間、以来小前帳(点検帳)共可差出旨、宝暦十二年被仰渡、其後年々右書付取立、小前帳共江戸表へ被遺」れた 0 0 隠岐 0 222 13 問屋 ものである。問屋には手数料を支給した。それが「世話代ニ問屋へ遺シ」とあるそれで、積荷に対する3分の口銭が充当された。1分が納め、2分が問屋世話代である。スルメ問屋については西郷町東町「高梨高勝文書」の「惣右衛門勝村一代之事 0 0 隠岐 0 222 19 問屋 荒増書付」に具体的に記されている。それによると惣右衛門勝村は嘉永年間に宇屋町の年寄役となり、同時に船手稼をやめてスルメ問屋となった。その時の記録に「此以前十四、五年村方に鯣問屋始ル」とある。スルメ専門の問屋が独立したのは天保 0 0 隠岐 0 222 22 問屋 7〜8年ごろとなるわけである。こうなると、村役人的問屋より、商人問屋の方が流通の主導権を得るのは当然である。取引先を見ると販売先は瀬戸内、上方で明かに遠隔地交易が成立していて商品はスルメを主とする塩干水産物であり、戻り荷は 0 0 隠岐 0 224 11 各種の商品を買積あるいは賃積して山陰各地で販売している。天保9年の収支を見ると一番船の場合は上方積荷は冬イカで1万3530連(1連はスルメ20枚結)で、1325貫835文の利を得ている。下り荷は砂糖、塩、米、大麦、木綿で塩 1838 0 天保9年 隠岐 戊戌 0 224 15 、米、大麦、木綿は西郷で販売され、隠岐の飯米移入の姿があらわれている。二番船の場合を見ると、上り荷は長崎俵物と木材で、下り荷は一番船同様米、塩、麦、砂糖で新潟まで航していることがわかる。この場合でも隠岐への飯米の移入が注目 0 0 隠岐 0 227 24 される。天保11年(1840)の場合は四番船まで航海が続行し、稼動力が大である。移出物はスルメが主で、材木、塩干魚、大豆、椎茸となっている。移出物の中の小豆、大豆の存在は注目すべきもので、牧畑生産が自給以外の生産高を示し、 1840 0 天保11年 隠岐 庚子 0 229 2 移出されたことを表現している。出羽国庄内で仕入れた干鰯を備後尾道で売り捌いた時の仕切手形である。明かに買積廻船商売である。以上で明かなように化政天保期には遠隔地交易を主とした買積制廻船業が隠岐では確実に定着していたようである。 0 0 隠岐 0 229 5 このことは当然商業資本蓄積の進展を意味し、封鎖的島嶼経済の国民経済への拡大を意味する。近世末期の商品流通。島外からの商品移入については、「五人組御仕置帳」に「他国船当島心懸、商売物持参、往来手形有之候ハハ、揚候而前々之通り 0 0 隠岐 0 229 9 問屋 札を以て商売致させ可申候」とある。札をもってとあるのは「往行手形」のことで、村々問屋の手を通じて代官所が発行した。文政12年(1829)の「申渡」に「他国者両島島中、年来往行免シ来候者之外、近年追々渡海之上往行、願之品を以、 1829 0 文政12年 隠岐 己丑 0 229 13 為致長逗留候者之中ニ者、第一島方之為不宣者多分有之趣ニ相聞候、、、依之当時神主配札之者、并肥前唐津売、且越中薬売身元相知れ数十年来往行渡来分ハ別段、、、」と数十年来隠岐における行商の伝統を持った「神主配札之者、肥前唐津売、 1829 0 文政12年 隠岐 己丑 0 229 16 越中薬売」は特別扱いをうけたが、その他の商人が無制限に来島するのには代官所は警戒的であった。これは商品経済、特に外商の来島による島内の消費経済の進展が貨幣支出を増大させ、生活不安を助長するからであろう。「第一島方之為津不宜 0 0 隠岐 0 229 19 」とは代官所の上記の判断によるものと思われる。しかし商品経済の発展は行政機関の制限にもかかわらず進展し、往行手形(商売許可証)を持たない闇商人の横行を許すことになってゆく。文政12年(1829)の御役所より両島大庄屋への「 0 0 隠岐 0 230 1 申渡」には、「(前略)、、、地船計ニ不限、他国船中ニ茂、別而伯洲船乗せ来候哉之訳、既に先達而、島前知夫里、布施村ニ其類有之候段、糺之上、村役人共より申出候趣、同洲外江、境之船連来、当人為上陸、、、伯洲船甚不埒之致方ニ候得者、 0 0 隠岐 0 230 3 向後外江境船入津候ハハ、暫時出船差留置、早々可訴出候、其外ニ而茂因伯廻船に限り、串物俵物之儀ニ付而ハ、兼而不審相懸候、、、」とある。これは、対岸伯耆の松江、境の商人が隠岐に闇商売にくるので厳重に取り締まるという松江藩及びその 0 0 隠岐 0 230 8 出先機関である隠岐の島前、島後両代官所の行政方針である。島内から外部に販売する場合は後述のように松江城下集中政策を藩は隠岐に求め、同時に隠岐島への商品販売については松江からの買入れを要求するのである。天保13年(1842)の 0 0 隠岐 0 230 12 島前西ノ島焼火の「松浦文書」に、「当島之儀ハ上方江仕入等一切不仕候ニ付、店屋等も無御座候得共、松江表より少々取戻り小商いたし候者御座候間、同所にて買入候証拠仕切書等為取戻、村役人より御役所へ差出可申上候、宜品物により、一割 1842 0 天保13年 隠岐 壬寅 0 230 15 より二割之利益は為致候ても可宜奉存候其外商い船之模型により、大阪、若狭などより間々買戻り候、或は他国船入津之節買受候にも仕切を取戻、利益も前文に準じ商い為致度奉存候」とある。松江藩に提出する報告は万事が控え目で、商人の流通 1842 0 天保13年 隠岐 壬寅 0 230 18 経路は松江が主流であることを述べ、上り(大阪)、下り(若狭)の廻船からも、またその他隠岐の入港する廻船からも幕末にはかなりの商品が隠岐に入ったようである。その取扱いについては仕切書を差し出させたうえで、1割〜2割の利をかけて 0 0 隠岐 0 230 21 販売することを認めている。以上によって見ると、近世末期における隠岐の商品流通は仕入圏としては隠岐が行政上松江藩御預り地である関係上、松江の商圏であったが、対岸の境、米子の方が距離的に近いうえ、後述のように商取引における諸制限 0 0 隠岐 0 230 25 が松江よりゆるやかだったので境、得外江方面からの外商の隠岐進出があり、松江藩は隠岐から因伯商人の追放を実施していた。因伯商人が串物や俵物の流通についても抜荷等の疑いを松江藩からかけられていた。西廻海運の隠岐寄港が隠岐を販売 0 0 隠岐 0 230 29 市場対象とはしなくても、その積荷の若干は隠岐で販売したことは「他国船入津之節買受候ニも仕切を取」伝々とあるように確実で、隠岐が近世末期国民家材体制の中で、その封鎖性を解体し、商品経済への参加指向は強かったとみられる。松江と 0 0 隠岐 0 231 4 隠岐との通商関係は、文政12年(1829)の達しにかなり具体的に記されている。「(前略)諸材木板類、松江表江積入候上、隠岐宿手を不経、口銭之間をかすり、中買之者江相対、致忍売候儀是迄間々有之趣相聞候ニ付、以来中島屋武助より 1829 0 文政12年 隠岐 己丑 0 231 7 御国内諸々江隠目附為附置、右之仕方見当次第、積荷附残取揚置、早速可訴出旨、松江表御役所ニおいて同人江申付有之候条、此旨相応得可申事、鰤鯣其他塩物、并干物何等共松江表江積入候品、馬潟、江角於両番所、隠岐宿充送切手申受之、可令 1829 0 文政12年 隠岐 己丑 0 231 11 問屋 入津之処、其儀是以間同纔之口銭ニ拘リ他国問屋江之切手類貰受候趣、以後全条同様旨心得可申事(下略)」以上のような政治的背景があるから隠岐と対岸の伯洲外江、境港の商人との取引制限という現象が生じるのである。それにもかかわらず「 1829 0 文政12年 隠岐 己丑 0 231 20 地他ニ不限、無往来者、為乗組往返渡海、以後相顕候節者、同様之品銀五枚宛過料申付候事」とあるとおり本土と隠岐島との商人の往来は多かったのである。そこで、本土の商人が隠岐の「廻船商売之者」に品物を提供し、形は販売形態とした委託 0 0 隠岐 0 231 23 問屋 販売はかなり多かった模様である。隠岐宿。上記の松江における隠岐商品は隠岐宿を通じて流通した。これは生産地隠岐の村々に対して松江から発注があり、隠岐からの出荷は当然地元の問屋、年寄、庄屋を経て送切手が作製されるわけであるが、こ 0 0 隠岐 0 232 2 問屋 の間において隠岐宿の手を経ずに口銭の余計な伯洲商人やその他に忍売がなされるのである。この方法が「他国問屋之切手貰受」という方法で行なわれるのである。隠岐島にとっては制限つきの松江出荷よりも自由商売の伯洲市場出荷の方が有利で 0 0 隠岐 0 232 6 あったのは後述のとおり米子が自由市場方法を早くから政策的に施行したことに大きな関係があった。隠岐宿の監督にあったのは松江藩御用商人中島屋武助である。文政12年(1829)の達しに見える武助は三代目武助である。初代武助は京店 0 0 隠岐 0 232 9 問屋 新屋より出て海産物問屋として成長し、文化年間以来、幕府御用俵物の独占下請け人として大根島の油屋喜伝治のあとうけ、天保12年(1841)の幕府文書「俵物元極帳」にも出雲一円の下請業者としてその名が記されている。松江市中原町の 1841 0 天保12年 隠岐 辛丑 0 232 13 問屋 石原広所蔵の末次商家図によると隠岐宿は大橋川沿いに中島屋を含めて5軒指摘できる。松江藩の隠岐島物資の集荷政策は一種の流通統制であり、隠岐の廻船業者は嫌悪した。彼らが他国問屋に松江送りの荷を横流しするのを防ぎきれないばかりか、 0 0 隠岐 0 232 16 取締強化は逆効果となり、松江送りの荷が激減したので、松江側が品不足となり、「尤隠岐宿承知、中買之手江相渡候儀者、船頭共武助と相対、相談之上ニ而ハ可為勝手次第」という骨抜きの取締りに退化せざるを得なかった。このうえ、さらに隠岐 0 0 隠岐 0 232 19 島民が松江出荷を喜ばなかった原因がある。それは廻船業者に「隠岐宿上荷銭」を課したことである。これは松江積入商品に対して文政2年より、例えば米ならば「米一表に付五勺宛の見合を以、積荷何々、此銭何程と渡海場より通い帳に相記、合 0 0 隠岐 0 232 21 調印、船主江相渡」すもので、松江藩より命ぜられたものである。通帳を受け取ると船主は、渡海場の者へ金を支払い、その通帳を松江の隠岐宿へ差出す、隠岐宿はさらに松江藩隠州方に提出し、流通取締りをなすというものである。このような複雑雑 0 0 隠岐 0 232 25 でしかも隠岐島民にとって不利な取引形態は境、米子、淀江等の伯洲市場では全くなく、手数料そのものも格別低かった。そこで「隠州船上荷銭之儀」について目貫村の重平太船は松江の渡海場の者と争論をおこし、他国浦々で例のない積荷税を今 0 0 隠岐 0 233 2 ごろなぜ松江表だけ徴集するかと不服を申し立て、隠岐国庄屋連中もこれに同調し、隠岐船に対して上荷船を免除するか、さもなければ相対懸合をやめて定法を立てるよう連印願書を提出して改善を迫った。しかし上荷銭制度は存続したので隠岐から 0 0 隠岐 0 233 5 の松江市場出荷は消極的姿勢をとらざるを得なかった。これに対して伯耆市場は自由市場の色彩が強かった。伯耆市場と商品流通。「米子市史」によって米子の市場政策の変化を要約すると、貞享4年(1687)に「米子御船手改」が制定され、 0 0 隠岐 0 233 10 松江同様かなり厳しい徴税を実施していたが、元禄、享保と改訂がすすめられ、文化4年(1807)以降においては入港品に対する口銭は品々により明確に区分し、現実的取扱に改め、特に隠岐よりの入荷品については、「材木、竹売代銀拾匁に 1807 0 文化4年 隠岐 丁卯 0 233 13 付壱匁宛、但米子へ入込候隠岐国分は御免」と、隠岐の材木、竹材の入荷については口銭をとらなかった。水産物についても元禄11年(1698)までは入荷、出荷について厳しい制限をしていたが、同13年(1700)以降は他国からの積み 1698 0 元禄11年 隠岐 戊寅 0 233 16 問屋 込みを許可し、監視役の魚奉行も廃止した。享保10年(1725)には問屋口銭5分の他は水産物に関してはいかなる名目のものでも徴集金は廃止したので他国水産物の米子集中は増加し、隠岐、出雲浦、伯耆浜からの漁貝藻が大量に米子に水揚げ 1725 0 享保10年 隠岐 乙巳 0 233 20 されるにいたった。文政8年(1825)には、さらに商取引の自由化をすすめ、まず座の独占を解除し、民間の自由商業を拡大させ、その代り、口銭徴集措置をとった。例示すれば次ぎのとおりである。「他所江持越し并に同所より持込候荷物、 1825 0 文政8年 隠岐 乙酉 0 233 24 川口其外所々、境番所に於て此後相改可申候、間に改を請け、運上差出候儀、且又指出荷物、譬へば銀六拾匁の商売罷帰る者有之候節は、右の内拾五匁差出し、右代り銀札拾七匁相渡」。さらにこれを裏付ける史料として「安政六年伯耆国中海付村 0 0 隠岐 0 234 19 々諸品取調書」(県立米子図書館写本)は重要である。この文書は米子と境の両港に出入りする諸品を詳細に記している。長文であるので要約抄記する。「御尋に付取調書上、諸国より相廻候諸品、米子湊、一、米二千九百三拾俵、是者但馬、加賀、 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 234 25 其他北国筋より相廻り、土地近郷へ売捌申候、一、大豆二千五百俵、右同断、一、小豆千九百俵、右同断、一、灯油三千五百九十一樽、丹後、若狭(以下省略)一、油粕七千三拾九俵、右同断、一、干鰯七千二百二十五俵、是者但馬、出雲、石見より 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 2 相廻り、土地近郷に売捌申候、一、鰊七百八十五束、松前、一、同メ粕、右同断、一、塩鰤三千七百六十四本、是者出雲、石見、隠岐より相廻り、土地近郷並に美作、備中に売捌申候、一、鯣百三俵、是者松前、佐渡、隠岐より相廻り、土地近郷並に 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 8 薪・モバ 美作、備中に売捌申候、一、薪拾五萬五千貫目、是者隠岐、但馬より相廻り、土地にて売捌申候、一、板七千五百四十間、是者隠岐、石見より相廻り、土地にて売捌申候、一、材木千二百五十本右同断、一、藻葉三万八千貫是者隠岐より相廻り、土地 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 13 近郷に売捌申候。境湊。一、米千八百八十六俵、是者但馬、丹波、越前、加賀、能登、越中、越後、陸奥、出羽より相廻り、土地近郷にて売捌申候、一、大豆千百六十一俵、一、小豆三百七十俵、一、灯油四百六樽、一、酒粕一、油粕二千四百二十六俵 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 22 一、木実、一、砂糖、一、鰊壱万三百二十三本松前、一、鰊メ粕四万五十三本、一、塩鯖、二百七十箇、石見、出雲、隠岐より相廻り、土地近郷に売捌申候、一、塩メメ、七十四箇、右同断、一、塩鰤、二千五百六十一本、右同断、一、鯣、百六十七箇 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 29 木炭・薪・モバ 松前、佐渡、隠岐より相廻り、土地近郷に売捌申候、一、昆布、一、炭、五百二十俵、隠岐、但馬、若狭より相廻り、土地近郷に売捌申候、一、薪、四万四千六百貫、隠岐、但馬より相廻り、土地近郷に売捌申候、一、塩、五万三千俵、一、藻葉、 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 235 34 十一万四千八百五十貫目、隠岐より相廻り、土地近郷にて売捌申候、一、鉄、銅、一、木綿、五百八十二箇、近郷より相廻り、北国筋へ、売捌申候。末十一月、松平相模守家来、郡奉行、田淵唯右衛門」。藻葉とは「ほんだわら」(隠岐ではじんば 1859 0 安政6年 隠岐 己未 0 236 11 薪・移出 之儀被仰付候趣」に対する庄屋連名の代官所への願書(島前西ノ島「焼火文書触書」)によると、「当島より売出候品、至而些少之儀に候へ共、魚類、薪、其外大小豆遺ひ残之分、積出候節ハ、村役人、問屋共相改、点検を受、往来御手形船頭江相渡 0 0 隠岐 0 236 14 とも言う)のことで、対岸夜見ケ浜の棉作地帯への肥料として移出されたもので、化学肥料普及の最近まで、大量に移出された。これは昭和初期まで「こも船」又は「仕立船」と称する漁船兼用の小船で移出され、隠岐島漁家の現金収入手段として 0 0 隠岐 0 236 15 候儀ハ是迄之通ニ仕、直段之儀ハ年々豊凶時々の相場も御座候へ共、成丈ケ手詰之上、下直ニ売出申様可仕候、、、」 0 0 隠岐 0 236 17 木炭・薪 重視された。薪炭は本土側の沿岸城下都市でかなり普遍的に隠岐から仕入れている。重量物であるから陸上運搬では運賃が高くつき、隠岐から購入した方が安価だったのである。天保13年(1842)の「近来諸色高値に相成候に付、此度値段下がり 1842 0 天保13年 隠岐 壬寅 0 237 6 第八節。商業資本の蓄積。1、村役人層の流通支配、、、近世中期以後、西廻海運の発達と前後して隠岐のおける商業資本蓄積の端緒として注目すべきものは長崎俵物の流通機構である。その特色はその町人請負時代においても、役場請負(両島代官 0 0 隠岐 0 237 8 所)時代においても、集荷、輸送の機構は同一であった。すなわち、代官→大庄屋→庄屋→年寄→組頭を通ずる集荷支配が隠岐では一糸乱れず厳然と成立していた。これは隠岐が天領で、幕府の威令が行き届いていたことと、幕府の独占経営の俵物 0 0 隠岐 0 237 11 生産が隠岐において成立していたからである。上記系統の中で、各浦浜での集荷責任者は庄屋で、実事務は各自然村落(部落)における年寄がこれにあたった。つまり俵物の流通実務は年寄、庄屋によって把握されていた。すなわち幕府権力の末端 0 0 隠岐 0 237 14 問屋 機構として村役人層は俵物の流通支配者であった。そのことから種々の特権が与えられた。その一つは前述の年寄による「問屋」機能であり、庄屋階級の菜種油、ロウソク、俵物、椎茸等の独占販売権の付与である。これを「座方(ざかた)」と称した。 0 0 隠岐 0 237 17 ハゼ座、油シメ座、椎茸座などがそれである。しかし、なんと言っても最大の座は俵物座で、これは島後では宇屋町の板屋、島前では別府の酒屋に与えられた。これらが公権力を背景にして各浦方で商業資本を蓄積していく。化政以後になると、西郷 0 0 隠岐 0 237 21 問屋 を始め、海岸部の庄屋、年寄は例外なしにその蓄積資本を基として廻船業に進出した。その主なものは第64表(天保〜弘化期の廻船問屋)に掲げたとおりである。海岸に面しない内陸農山村では廻船問屋進出が困難で、島後原田村の「きのくま」( 0 0 隠岐 0 237 24 若林家)の一例を見るのみである。第二の商業資本蓄積者は山林地主である。この典型的な例は飯美の横田家、布施の長田家、山口家、佐原家、船田家等で、その持山の材木販売を通じて廻船業に進出し、その豊富な資力をもって他村の田地買占めまで 0 0 隠岐 0 238 1 行なっている。第三の資本蓄積者は西郷の商人層である。これは寛政期以降、水産物、木材の本土移出の仲買人として逐次商業資本を蓄積し、漁民に前貸しを行なって、集荷を確保し、廻船業者に委託販売を行なったものであるが、天保期になると 0 0 隠岐 0 238 4 問屋 自らもスルメ問屋となり、小型廻船を所有して活躍し、その数はしだいに増加し、隠岐島の小渡海船の船主となったものである。弘化以降、明治初年の隠岐の商人層の活躍の中堅となったのはこの層である。商業資本蓄積と階層分化。これは、自然 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 238 16 経済が発達して、隠岐のおいて農業生産が封建制下でほぼ、限界の達した時点での農民層間の分化であるが、公文(庄屋、名主のこと)が高利貸資本として土地収奪をしたことを示しているが、こうした村落上層階級が、商品経済の発展に伴って享保 0 0 隠岐 0 238 19 以降さらにその収奪を強めて行くことが指摘できる。永海一正の調査では、島前美田村で、寛永21年の中農層の27%は、元禄13年には22%、享保14年には19%に減少し、反対に3反以下の零細農は71%→77%→79%と増加し、大 1644 0 正保元年 隠岐 甲申 0 239 4 土地所有の美田村庄屋は5町3反に増大した。西郷町に近い飯田村、加茂村では化政以降村落内部の階層分化の進展に対して上下利害関係が対立し、飯田村の場合、「小前之者共理非之弁なく令騒動」した結果、庄屋は役儀御免、年寄は犬来村追放 0 0 隠岐 0 239 6 という事件が発生、加茂では庄屋の指令を村民承服せずという事態が発生した。西郷の商業資本家と結び、村方土地兼併の代行者となったためである。こうした基調の分化が明確に地域的対立まで進展したのは慶応4年から明治2年にかけて発生した 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 239 10 隠岐騒動及び廃仏毀釈事件における地域的対立である。目貫村庄屋渡辺亦十郎、矢尾村庄屋池田多久治、宇屋町庄屋松浦兵三郎、今津村庄屋服部寿七郎、平村庄屋横地愛蔵は、代官追放と廃仏に反対し、隠岐騒動にくみしなかった。彼らは松江藩に 0 0 隠岐 0 239 14 問屋・隠岐騒動 通ずる者として「出雲党」又は「因循党」とののしられた。上記の庄屋は現在の西郷3町とそれに接する村々の庄屋で、その地域には廻船問屋、米屋、スルメ問屋が集中していた。したがって上記5庄屋は商業資本の利益を代表し、いわゆる正義党 0 0 隠岐 0 239 17 隠岐騒動・問屋 あるいは同志派と称する騒動実施派と対立した。5庄屋に従う廻船問屋、大商人、西郷町不在地主39名は、同志派から大奸、中奸、小奸にランクづけされ、襲撃をうけ、なかには島前にまで難を避けたものもいる。つまり隠岐においては近世末期 0 0 隠岐 0 239 20 商業資本蓄積地として成立した西郷町及び近郊村とその他の農山村部とは利害関係が相対立するまで分化を遂げていたのである。(a)近世隠岐の経済は自給的封鎖体制の中では、貞享、元禄期に既に自然経済体制は限界に達していた。(b)農村 0 0 隠岐 0 239 27 内部における階層分化は享保期にはほぼ全島において進展し、地主的土地所有が進行した。(c)寛文以後、発展の速度をました海運業は安永年間には生業として充実し、その廻船商売は隠岐の「重立候稼筋」であった。(d)商業資本蓄積の基盤 0 0 隠岐 0 240 3 問屋 となった廻船商売は、買積制廻船商売と運賃稼廻船商売の二系統がみとめられ、廻船数の上では後者の方が多かった。いわゆる小渡海船と称するものである。(e)化政期には廻船問屋、水産物商、木材商人は隠岐島商業資本の中核的蓄積者となった。 0 0 隠岐 0 240 8 (f)商業資本は西郷を中核とする都市地域に集中蓄積した。(g)商業資本は高利貸資本として農村部の土地収奪を強め、天保以降においては商業資本と農山漁民との利害関係の対立が激化した。(h)隠岐は離島であるが、我が国帆船交通大動脈 0 0 隠岐 0 240 11 の西廻海運幹線ル−トに位置したため、近世末期には封鎖的経済地域から脱皮し、商品経済体制に入り、封建的自給経済は早くから解体過程に入り、村落共同体的経済機構は解体速度を早めた。 0 0 隠岐 0 245 8 封建的生産形態の変貌。まず享保17年(1732)の入会八か村の申合せで、入会林の耕地化は関係町村に種々の利害関係の対立を生じさせ、入会関係の混乱を招くから「致す間敷」と確認したが、明和5年(1768)の訴状においては現実的に 1732 0 享保17年 隠岐 壬子 0 245 10 大問題となり、抗争が生じた。約30年間の間に事態は憂慮していた方向に進んだのである。享保期の憂慮事項が現実的に発生して、宝暦年間には入会林内へ一方的に畑や立山(部落利用林)が発生した。こうして発生した畑は伐畑とあるような切 0 0 隠岐 0 245 19 替畑で、完全な常作の普通畑ではないが、明かに牧畑と異り輪転関係には入らない。入会林野が牧畑化して、輪転関係に入れば当然その輪転に従って耕作は行なわれるので上記のような問題は発生しない。切替畑は使用年度を経るに従って整備され、 0 0 隠岐 0 245 23 その周囲に竹、木、雑木を植えて林野と区別し、垣の内(普通畑、常畑)となるわけである。以上述べたように、近世末期には牧畑がしだいに常畑化して、牧畑を蚕食し拡大して行くと共に、数か村の入会林野が、しだいに耕作適地を求めて開発され 0 0 隠岐 0 245 23 て行く。特に入会林野所在地の地元百姓(島前焼大山の場合は美田、島後北辺のばあいでは中村)が僅かの新高をうけて、大分の面積を切り開くというわけである。上記を比較表化(第71表)すると次ぎのことがよみとれる。1)水田面積を全島的 0 0 隠岐 0 246 11 田積が存在したと考えるのが妥当である。5)畑面積については、貞享4年、明治元年の統計いずれも普通畑、牧畑を区別せず一括している。その面積は貞享期3639町、明治元年3424町である。6)明治12年の「町村誌」には地租改正の 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 246 13 見ると貞享4年は561町、明治元年は638町、明治12年葉1355町である。2)近世統計は「検地帳」をもとにした統計であって実測統計ではないから、明治元年の数字は貞享以後の新田反別を追加したもので、その増加反別は77町である。 0 0 隠岐 0 246 14 結果普通畑と切替牧畑を区別してその地積をあげ、普通畑1557町、切替牧畑4199町となっている。7)旧幕時代の隠岐の畑区分は牧畑と麻畑、上畑で、後者の面積は全島で30町歩以下である。8)つまり、旧幕時代の隠岐の畑は貢納上の 0 0 隠岐 0 246 18 3)明治12年と明治元年との田積の差は実に697町である。つまり近世末期の田積に対して地租改正結果の田積は2倍以上である。4)明治元年から12年にいたる間の田地開発増加はほとんどないので、近世末期には既に1300町以上の実 0 0 隠岐 0 248 1 取扱いは牧畑で、面積的には99%を越えていた。9)ところが、明治の地租改正後の結果を見ると普通畑として地券交付をうけたものが実に1577町を越えている。この普通畑は上記の検討のごとく、ほとんど大部分近世における成立である。 0 0 隠岐 0 248 5 10)以上の検討によると、「以前と違、追々人数も余計に相成候に付、牧畑の分も多分に常作に相成候」という現象は隠岐全島を通じての現象と判定してもよいと考えられる。さらに普通畑化したものとして入会林野Nの開発がある。これは享保 0 0 隠岐 0 248 8 以降特に著しくなったようである。現在の普通畑分布から見ると、牧畑の普通畑化が主体であったと思われる。11)次ぎに注目すべきことは、明治12年の牧畑面積は4199町となり、実測の結果切替畑が、近世末期の公称面積より広面積に普通 1879 0 明治12年 隠岐 己卯 0 248 11 畑とは別個に存在していたことになる。12)これは輪転耕作地を含んだ切替畑であるから、明治初期においても牧畑は隠岐の重要な農業であったことになる。ただし、この切替畑中に輪転耕地がどれだけあったか判定は困難である。13)以上の 0 0 隠岐 0 248 16 検討によって、近世末期には普通畑は最低1000町以上存在していたことは明かで、これが課税対象耕地としては牧畑扱いであった。(7)の理由による)したがって、実面積としては普通畑1577町、切替牧畑面積4199町、計5756町 0 0 隠岐 0 248 20 程度の畑が近世末期には3424町程度と判定され、課税対象地域として取り扱われていたことになる。14)以上を概観して見ると、近世隠岐の耕地は課税対象の公称面積に対して田畑共極めて大きな伸びがあった。15)これを地域的に見ると、 0 0 隠岐 0 248 25 普通畑化された牧畑の大きな地域は浦郷(98町)、知夫(100町)、美田(60町)、海士(162町)、都万(73町)等で断然島前が主である。今津、加茂等は近世文書に牧畑高はあっても牧畑名がないので、恐らく隠岐で最も早く普通畑化 0 0 隠岐 0 249 1 された地区であろう。16)牧畑の普通畑化は、垣の内(庭園地)に接した牧畑が普通畑化して行くから牧畑と普通畑の界をなす隔垣(牧垣又は牧柵という)は当然上部に移動する。これを景観的に見れば、集落をめぐって普通畑地が分布し、その 0 0 隠岐 0 249 5 外延に牧畑を隔てて輪転牧畑が分布し、その上部は林地となり、基本的には同心円状の配列が成立する。17)近世末期の牧畑の普通畑地の程度を近代の普通畑、牧畑の面積比と比べると第72表のごとくである。これによると、近世近代における 0 0 隠岐 0 249 9 普通畑面積の70%程度が実質的には近世末期には成立していたことがわかる。以上によって、近世隠岐の牧畑はその末期においてかなり普通畑化されていたことが明かである。牧畑に普通畑化によって牧畑そのものが衰退したかというと、そうでは 0 0 隠岐 0 250 1 なく、切替畑は近世統計面積以上存在していたのである。近世末期の米移入と商品作物。1)移出品は木材、水産加工品が主で椎茸、大豆、小豆、古金である。農産物としては畑作の大小豆が移出品であったことがわかる。2)移入品の中で塩、砂糖は 0 0 隠岐 0 250 3 本土販売もするが、米、大麦、木綿は隠岐移入で、その大部分は西郷で売られている。3)米の仕入れ地は米子蔵米、淀江米、出雲米で、遠隔地よりの移入はない。4)大小豆は松江売となっている。1)御拝借米制度は他国との通商不自由である 0 0 隠岐 0 251 26 隠岐が食糧の自給を求め、幕府に隠岐島産米の地払いを出願して許可されたものである。2)当然貢納米は代銀となる。3)代銀米価は始めは島産米の島相場であったが、次々とつりあげられ、近世末期には出雲相場、なかでも最高値の田伎町相場 0 0 隠岐 0 251 29 で上納を命ぜられた。4)この結果、隠岐が本土から購入する米価は石代相場よりさらに高い運賃、中間利潤の加わった価格となった。5)購入はかなり自由化していたが、まだ庶民の購入は極めて困難な状態にあった。6)この結果、移入米は隠岐の 0 0 隠岐 0 252 2 問屋 飯米充足用ではなく、廻船問屋による最も有利な販売商品として、漁民、商工業者、寄港する帆船、船宿等に販売された。「政治向、至って不正御座候、第一米相場、庄屋中にて取極候筈の所、御役所自己勝手にいたし、猥りに高相場を立て、諸民 0 0 隠岐 0 252 10 の難渋甚だしく候、且奸商共の制禁會て無之、既に四年以前この方、百姓一揆大いに騒動仕候」命じ元年の「村鑑」に、「紅花は入用程作り、他国へ売出さず、所にても商売なし」とあり自家用であったとおもわれるが、櫨については「漆の実生り 0 0 隠岐 0 253 6 候年には他国へ売出し、所にてはろうそくに掛候」とあり、島内でろうそく生産がおこなわれてことがわかる。旧幕以来の座方(営業独占権者)として明治期にひきつづいて営業をつづけることができた。島屋の分は明治5年の文書であるが、櫨産 1872 0 明治5年 隠岐 壬申 0 254 1 の成立が文化年中であることがわかる。ハゼ座(ろうそく座とも言う)が極めて有利であったことは隠岐騒動後の調査書に鳥取県商法掛松本仁兵衛が「就中、櫨実などは法外の利を貪り候」(井上文書)と報告しているようで、隠岐騒動の時は壮士派 0 0 隠岐 0 254 3 によって襲撃されている。以上の特権的座方制度は戸長役場の初期時代は許可されていたが、明治10年以降は全国的に廃止され、隠岐の座方も同年を限りとして消滅した。地主的土地所有の進行。中期の土地集中。享保以後に飛躍的に増加するのが 1877 0 明治10年 隠岐 丁丑 0 255 2 第一の型である。近世中期の土地売買の基本的な形態は永代売買と年季売買であるが、永代売は「名(みょう)」の売買という形で行なわれる。「名」には、単に田畑の土地そのものだけではなく、それには土地所有者の職能とか、社会構成上の権利 0 0 隠岐 0 255 5 まで含まれているので、土地所有権の移動と共に、それらも買主に移るわけである。近世末期の土地集中。全く商業資本に力によって土地集中に成功したのは島前西ノ島町美田の竹田家が典型的で、田19町6反、畑52町6反を島前各地で買収した。 0 0 隠岐 0 259 2 島前中ノ島の村上助九郎は近世末期に知夫村の耕地の大部分を所有し、近代にいたっては前記中良及び竹田家に売り渡し、その面積は知夫村全域の3割に及んだ(桜田の山口の隠岐島前漁村探訪記にも同様の伝承が記されている。 0 0 隠岐 0 260 9 水産業の近世的展開。長崎俵物の生産、流通資本の偏在。隠岐における長崎俵物は「役場請負」形態、すなわち、天領地隠岐の代官所(役場)が長崎奉行官下の「長崎俵物役所」に対して出荷を請け負ったので、当時としては「官業」である。流通 0 0 隠岐 0 260 12 問屋 機構が一般商品のように産地市場で価格が形成され、問屋を通じて流通するものではなく、価格は長崎俵物役所の「番立表」によって一方的に決定され、その価格で、産地浦浜に供出割当されるのである。役場請負下の隠岐では、代官→大庄屋→庄屋 0 0 隠岐 0 260 15 →年寄→組頭→漁民と行政系統を通じて支配統制下で生産出荷を命ぜられたので、抜荷等による流通はほとんど不可能であった。したがって漁民は商品生産としては極めて不利な低価格で供出を強要され「年貢と心得上納」する心境で出荷割当を果たし 0 0 隠岐 0 260 18 ていた。したがって出荷量は上昇し難く、生産意欲は低く、ために長崎俵物役所は潜水漁夫を隠岐に出漁させ、島後では矢尾村天神浜、島前では知々井浜で、漁民小屋、加工場を設置し、いわば工場制手工業的生産を開始した。(「文化二年一切書 1805 0 文化2年 隠岐 乙丑 0 260 22 問屋 留覚」森文書)ところが俵物の流通業務にあたる代官、大庄屋、庄屋、俵物買集世話人は立場が異っていた。特に俵物の現地集荷事務の直接担当者である俵物買集世話人(問屋業務)は御用商人として特別の保護をうけていた。輸送船は御用船であり、 0 0 隠岐 0 260 26 その御用船には買積商品もつめるので、自己商売もでき、運賃稼もでき、その上に御褒美銀が交付されるのである。その取分の内訳は大庄屋惣七及び文蔵分として165匁4分、松浦屋取分283匁9分である。漁民にも当然増産物は御褒美銀は出るが 0 0 隠岐 0 261 14 問屋 、納入価格が低くおさえられているから、労働加重に対する割増銀で、採算がとれないのである。つまり、たわらもの生産流通過程において、その利益は流通側問屋資本として偏在する。漁民の生産資本としては効果を発生し得なかった。 0 0 隠岐 0 261 18 スルメの生産流通。スルメは諸色(しょしき)の一つとして俵物と併行し、中国輸出品となっていたが、西日本では弘化、嘉永時代になり、俵物の出方劣り(出荷高減少)の代替貿易品として中国輸出海産物の中で大きくその地位を高めた。隠岐スルメ 0 0 隠岐 0 261 22 問屋 は近世を通じて、対岸市場、上方市場を主販路としたが、幕末には貿易品としての比重が増大した。生産技術の向上改善ということは特に認められないが、需要の増加によって、スルメ専門の問屋が天保年間に成立したことは既述のとおりである。 0 0 隠岐 0 261 26 長崎俵物の代替品となった弘化以降の価格は、俵物のごとく、役所決定の一方的なものでなく、産地市場である隠岐の島相場で俵物役所が買い上げていることが注目される。ブリの生産流通。ブリは隠岐では漕釣が主であったが、宝永4年(1707) 1707 0 宝永4年 隠岐 丁亥 0 262 2 に長州豊浦郡小串浦から延縄技術が導入された。入稼漁業であるから、入漁地の蛸木村では浜役銀を25匁と定めて操業を許可した。ところが、一本釣の漕釣漁に比して遥かに漁獲効果が大きく、当然漕釣漁師との間に紛争が生じた。延縄漁は西郷 1707 0 宝永4年 隠岐 丁亥 0 262 7 問屋 の商業資本家(廻船問屋)が経営者となり、文化年間にはかなり大規模になり、文化2年(1805)から6年にかけ訴訟沙汰になったが解決しなかった。生産性の高い漁法を禁止することは困難であるからである。その結果とられた策が操業地域の 1707 0 宝永4年 隠岐 丁亥 0 262 10 区分である。すなわち、島後島前間のブリ漁場のうち、今津大川尻線より西側に延縄漁は進出してはいけない。西は那久岬→二股島を連ねる線までを漕釣地域とし、その線の東側の延縄は出漁禁止となったのである。このようにいちおうは原則はきめ 0 0 隠岐 0 262 13 られたが、それはほとんど守られず、毎年紛争は起った。役所側の態度は「前々より急度国益と相成候儀与相聞不軽事に候」という見解で絶対禁止はしていない。結局は延縄がしだいに勢力を増し、一本釣りは衰退傾向をたどることとなった。ブリ 0 0 隠岐 0 262 17 漁は山陰本土では丹後伊根、若狭湾に見られるように定置網が主であが、隠岐では、近世においては定置網は十分な発達は遂げていない。島後の五箇福浦地先、島前西ノ島三度沖に大型定置が設置成功するようになったのは近代に入ってからである。 0 0 隠岐 0 263 1 四ツ張り網漁業の増加。貞享、元禄期の網場は「増補隠州記」に示されているように、島前では中ノ島の南岸、島後では東岸、南岸に偏在していた。現在の旋網漁業のように沖合出漁はできなかった。こうした投機性の強い規模の大きな経営であるから 0 0 隠岐 0 263 4 資本集積の大な西郷地区に四ツ張り網は集中して拡大した。アゴ漁、タイ漁。刺網(建網)と流し網で捕獲したが、網をしかけてから半日か一日ぐらい経過してから揚網するので「待ち網」と称せられ、特に企業的に展開することはなかった。これは 0 0 隠岐 0 264 1 煮干加工して乾物販売したが、淡白な味が伊勢、京都方面の商家で歓迎され、サバ、イワシのような大衆消費商品とは異った流通をとり、主として小浜経由で販売されたところに特色がある。隠岐においても生産加工地が全島を通じて西ノ島のみに 0 0 隠岐 0 264 4 分布し、浦郷村、美田村に圧倒的に生産が多かった。タイ漁は一本釣り、延縄の両方で捕獲されたが、主要漁場が島前、島後の南岸の岩礁地帯で、津戸、蛸木、浦郷、中ノ島上方が主要生産地である。これは大衆消費商品とはならず、市場が対岸の 0 0 隠岐 0 264 7 松江、米子の両城下都市に集中していた。鮮魚として出荷できないから塩タイ、焼タイとして移出した。高級魚で商品価値は高いが冷凍蔵技術が未発達であったから市場拡大がなかった。海藻生産の動向。資源の豊凶による年度差はあるが、近世の 0 0 隠岐 0 264 12 商業資本、技術革新の影響はうけなかった。藻葉(もば)と呼ばれるホンダワラが採取され、これを乾燥したものを漁民が自己の漁船に積み込み(こも船と称した)、対岸の夜見ケ浜に大量に販売した。これは同地区の棉作(伯洲木綿)の肥料である。 0 0 隠岐 0 264 15 この現象は近代まで続行されたが、金肥の普及により衰退し、現在は全く消滅している。このように海藻肥料が商品化されたことは全国的にも珍しいことである。近世の本土側漁民入漁。1、貞享期における筑前海士の入漁。貞享5年(1688= 0 0 隠岐 0 264 22 元禄元年)に筑前金ケ崎海士が島前中之島の宇受賀、北分地先海面に入漁している。その経緯は明かではないが、天領隠岐の沿岸が磯物の豊庫であることが代官坂井亀右衛門によって認められ、長崎奉行を通じて出漁奨励があったようで、島前大庄屋 1688 0 元禄元年 隠岐 戊辰 0 265 1 がこれに協力している。しかし永続せず、僅か3年で漁民は筑前に帰った。宝永4年(1707)の長州小串浦からのブリ延縄導入は既述のとおりで、この伝来技術は西郷漁民に取り入れられ、化政以後ブリ漁法の主流となった。享保18年(1733) 1707 0 宝永4年 隠岐 丁亥 0 265 3 問屋 越前海浦の仁平によるサバ網経営定着、、、仁平は元禄時代から島前美田地区にサバ網経営のため出漁し、逐次その基礎を築いたが、子供仁太夫の代にいたり、操業が安定し、享保18年には隠岐の定着し、海産物問屋となり、若狭方面に塩干魚を 1733 0 享保18年 隠岐 癸丑 0 265 6 移出すると供に、美田船越地区でサバ網(四ツ張り網)を経営し、成功をおさめたごとくである。これは、船越の北側の東西海域で、敷網の好適地を確保したことによったからである。化政以後になると、入漁が大規模になる。その先端となったのが 1733 0 享保18年 隠岐 癸丑 0 265 10 対岸伯耆淀江漁民の入漁で、文化18年(1811)サバ漁入漁、これは島後加茂村の網場借用のようである。網場及び地先海面の賃貸現象は隠岐では近世末期からかなり行なわれていたようで、近代に入ってからは、後述するように好漁場の本土 1811 0 文化8年 隠岐 辛未 0 265 13 側資本による蚕食現象をも発生させた。既にその萌芽が化政期に見られることは注目を要する。天保4年(1833)の入漁は夏期におけるシイラ漬漁業の入漁で、石見地区(現在の浜田)より島後の南西海岸の油井、福浦、南方を根拠としてその 1833 0 天保4年 隠岐 癸巳 0 265 21 沖合漁場での操業である。近代まで出漁は継続され、沖漁民のシイラ漬け漁業技術は浜田漁民によって指導開発された。杵築漁民の入漁は近世隠岐の入漁の中でもっとも恒常的なもので、文化8年(1811)以来、次々と出漁船が増加し、当初9隻 1833 0 天保4年 隠岐 癸巳 0 265 25 の出漁が安政年間には33隻に増加し、これに誘発されて、出雲半島北岸の大芦、古浦、雲津、千酌その他からも出漁があり、総計50隻を越える入漁船が幕末には毎年9月から翌年3がつごろまで隠岐沿岸で操業した。入漁地区は、天保年間には 1833 0 天保4年 隠岐 癸巳 0 266 1 島後では油井、津戸、加茂、島前では知々井、布施、崎であったが、嘉永6年(1853)には宇屋、目貫、矢尾、今津、岸浜、箕浦、蛸木が島後で追加され、島前では知夫が追加された。さらに安政3年になると、全島くまなくニ入漁があった。 1853 0 嘉永6年 隠岐 癸丑 0 266 4 島後では西村、元屋、飯美、布施、大久、犬来、津井、津戸、都万、那久、北方、代に、島前では宇受賀、豊田、福井、宇賀、美田、浦郷に入漁地域が拡大した。入漁船はイカ漁、ブリ一本釣に操業を限定されていたので、アワビ、ナマコ、ワカメ 1853 0 嘉永6年 隠岐 癸丑 0 266 8 等の磯物はもちろん、その他の小魚類についても厳しい採取制限があった。杵築漁民の中で四ツ張り網漁業を願い出たものもあり、西郷の資本主と宇協業した例もあるが失敗例が多く、企業的漁業は隠岐資本家が実権を把握していた。本土側資本家の 1853 0 嘉永6年 隠岐 癸丑 0 266 12 問屋 進出による地先海面使用が大きな問題になったのは明治中期以降である。本土側商業資本の影響。西郷町を中心とする問屋商人と松江、境、米子、淀江、安来、美保関の商人問屋との結び付きはかなり強く、その資本が隠岐島になんらかの支配力を 0 0 隠岐 0 267 9 持っていたと思われる。これらの事実が現在明かになし難いのは明治元年、2年の隠岐騒動で、松江藩、松江商人の勢力が隠岐から一掃されたこと及び隠岐における出雲党(松江藩に味方した商人)がこの騒動で襲撃され、その関係資料がほとんど 0 0 隠岐 0 268 16 失われたことによるものである。近世の林野所有区分。集落をめぐって水田及び普通畑があり、その外延が私有林で、輪転耕地を包含している。その奥地が地下(ぢげ)山、すなわち村落共用の入会林である。図によって明かなように、布施及び大久 0 0 隠岐 0 268 19 とも占取様式は全く同傾向で、浦郷及び知夫では島全体が同様の形態を示している。入会林の植林化。入会林の開発は村落共同体用益地であるからその開発は当然村民の共同賦役で行なわれる性格のもので、布施では庄屋の支配下に「山守役」が設け 0 0 隠岐 0 273 13 られ、入会林開発の事務処理に当った。幕末には看守人、保護係も設けられた。寺社における植林。この寺領に寛延3年(1750)より明和6年にかけて5万5000本の杉苗が植樹され、現在に残る杉の美林の端緒を作っている。「杉苗植付意 1750 0 寛延3年 隠岐 庚午 0 273 14 植林 趣書置」という快栄上人の書付によると、「杉苗植付候意趣は、後代に至って、御宮并寺院蔵等修造便りの遠計にも相成と存じ、、、此度御鎮守へ御断申上候、土地能風陰を見立、雑木切払、地下人共へ遺、心を尽くし植置、、、、」とあり、必要な 1750 0 寛延3年 隠岐 庚午 0 274 1 薪 労働力を雑木を里人(地下人)に与えることによって得ている。薪の対岸移出。近世隠岐の林業の主体は布施村における計画植林のような材木、板の本土移出が主体であったとしても、これに次いで薪の商品移出が大であったことが注目される。これは 1750 0 寛延3年 隠岐 庚午 0 274 3 薪 その市場が対岸の因幡、伯耆、出雲で、時には越前、若狭にも販売された。松江市場への移出が特に多くあったのは、松江藩が「御用薪」として隠岐の村々から薪を買い付けているからである。中国山地には広大な林野があり、薪資源は莫大であるにも 0 0 隠岐 0 274 6 薪 かかわらず御用薪が隠岐に命ぜられたのは、海上運送で、荷が松江御役所に直送できることと、薪の価格が陸送に比べて格安であったからである。米子、境への薪移出の多かったことは既に安政3年(1856)の例を述べたとおりである。 0 0 隠岐 0 274 22 牧畜の近世的展開。牛馬数推移の問題点。「家数人数牛馬書上帳」によってその推移をみると貞享を100とした場合、明治元年には島前では32、島後では73に指数が下がる。また島前の場合、明和9年の数字では牛36に、馬は16に、合計 1868 0 明治元年 隠岐 戊辰 0 274 23 して25に指数は減少する。個々の村の例では別府村では30に、大久村では70に指数が下がっている。「書上帳」の牛馬は役牛、役馬として標準牛馬として判定されたものであることは確沼で、老牛馬、仔牛馬、女馬等はある場合には「書上帳」 0 0 隠岐 0 275 8 の計算からは除外されていたことも確実である。したがって、実牛馬数が近世末期に貞享期の25%に下落したことは疑わしい。幕末になって牛馬の販売が盛んとなり、その数も増加したので取り極められたことからである。販売市場は越前、若狭、 0 0 隠岐 0 276 3 但馬、出雲、石見、長門の各地に移出され、特に長門の阿武地方では隠岐から移入する仔牛を「島仔」と称し、その強健安価さを珍重した。馬匹改良。「隠岐島誌」に次ぎのようにある。「近代にいたり、牛馬の体格矮小となり殊に馬は馬格の改良に 0 0 隠岐 0 276 13 力を用ふることなく、優良なるものは国外に移出して顧みざりし結果、遂に体躯矮小なるを称して隠岐馬と称するに至れり、是に於て、海士村の素封家村上助九郎之を憂い、熱心に馬匹改良を唱導し、安政5年私費を投じて、奥州南部より種馬を購入 1858 0 安政5年 隠岐 戊午 0 276 16 して馬格の改良を図れり、之を他国種混入の嚆矢とす」とある。しかし、商品としての牛馬の需要は断然仔牛生産と販売にあったようで、慶応4年の経計では、牛2589匹に対して馬519匹と隠岐の牛馬構成は断然、牛中心となった。 1858 0 安政5年 隠岐 戊午 0 278 17 商業資本の系譜。「座方」は、俵物輸送の手数料、集荷報償金(御褒美銀)、運賃を幕府より保証されると共に、その輸送を通じて、廻船商売をなし得たのであるからその利益は莫大なものである。この板屋、酒屋を核として御用商人グル−プの商業 0 0 隠岐 0 278 20 資本の蓄積が隠岐近世末期の経済界の主導的勢力であった。隠岐騒動時において、松江藩はその本陣を板屋に置いて島民の壮士軍と対立し、これを攻撃したが、板やを中心とする西郷の商業資本家が松江藩に協力したことは、幕末隠岐の流通機構が、 0 0 隠岐 0 278 23 権力構造下で村役人層を通じて組織されていたことを見れば当然のことである。(B)土豪系譜の高利貸資本。この型の代表的なものは島前中之島(現海士町)崎の中良(渡辺家)と海士の村上家(後鳥羽院の陵守)で、島後ではこのタイプはみられない。 0 0 隠岐 0 278 27 その特色は大地主であり、名子多数を支配して本来は地主的経営で産をなし、その資本力をもととし廻船商売に進出し、多角的な経営をした。村上家の場合は、地主的経営を基本としつつも海運及び商業活動を総合的におしすすめ、松江藩との政治的 0 0 隠岐 0 280 2 関係を密接にし、その庇護のもとに本土側に支点を設け、番頭を派遣し、隠岐島生産のみならず、本土側、商品流通にも積極的に参加している。土地開発については根拠地の中ノ島海士地区のみならず島後の下西地区の内湾干拓をなし、新田造成まで 0 0 隠岐 0 280 5 行なって西郷地区の商人を圧迫する勢いを示した。さらに安政年間には南部地方より種馬を購入し、矮小な隠岐馬の改良に先鞭をつけている。つまり、村上家の場合は多角的な経営のもとに商業資本を蓄積し、これを在地の経済開発に投資し、その 0 0 隠岐 0 280 9 資本が産業資本として活躍したところに特色がある。こうした成功は村上家が封建的地主として閉鎖的な土地支配から一歩前進し、国民経済の動向を洞察し得た立場、すなわち、松江藩、本土側との密接な交流を得ていたことによるものであろう。 0 0 隠岐 0 282 1 (C)山林地主系譜の商業資本。(寛文7年刊)にも「良材多く此より出す故に山に制ありて斧斤時を以て入る」(布施村の条)という状態で、貞享4年(1687)の「増補隠州記」には数多くの村々について、森林の項で、「今は尽きたり」、 1687 0 貞享4年 隠岐 丁卯 0 282 3 「今は半ば尽きたり」等と記し、原田村の条では「今は山中尽きて、古来の五分一もなし、然多島中第一の山林也」のように記し、貞享期には森林資源が乏しくなったことをあげている。林野丁編の「日本林業発達史」26頁以下に、諸国木材産地として 0 0 隠岐 0 282 6 元禄期の状況が示されているが、隠岐は板の良品、特に梱板、桑板の名をかかげている。これは、大阪市場等で既に隠岐板が商品化されていた証拠である。しかし、この期には島内において山林地主による商業資本の蓄積は具体的に明かになし得ない。 0 0 隠岐 0 285 12 19)豊富な森林資源に裏付けされ、人口造林の確立した布施の材木、間板販売は、布施の大型帆船で行なわれた。このことは、文政6年(1822)の村々船数調べの結果によく示されている。すなわち、第79表に示すように、同年の隠岐廻船は 1822 0 文政5年 隠岐 壬午 0 285 15 98隻で、大船39隻、小渡海船59隻であるが、大船のうち19隻が布施に集中していることがわかる。木材は体積、重量とも大であるから輸送効率の高い大船が必要である。布施でこのような状態を示したのは、山林地主すなわち大船所有者であった 1822 0 文政5年 隠岐 壬午 0 285 18 からで、その代表的な人物は、熊屋長田熊右衛門で、船田、佐原、藤野、山口、安部、横田、森田等の諸家がこれにつづいている。20)大船廻船所有者の前記の諸氏は、単に布施の木材輸送のみならず、積極的に西廻り海運の沖乗りに進出している。 0 0 隠岐 0 285 22 沖乗りとは地乗り(沿岸帆航)に対する沖合帆航のことであるが、主として北国筋から米、ほしか、俵物、諸色を積んで、庄内、越後、越中、佐渡、能登、越前、加賀から沖合を直航し、隠岐に寄港する以外は多港への寄港はせず馬関に急行する。 0 0 隠岐 0 285 26 布施の熊屋船春日丸はこの沖乗りにしばしば参加し仕切り書によると、米、ほしか、スルメの買積商売を行なっている。21)上記のように、布施における商業資本蓄積の特色は、山林地主の自営植林経営を出発点として、廻船商売に拡大し、自力に 0 0 隠岐 0 286 1 よって資本蓄積をなしたところにある。西郷の商業資本が松江藩の政治権力の庇護をうけて発達したのとは趣を異にする。こうした性格が近代にいたって、他の支配統制を排除して自村の力のみで村有林の自主的経営に発展し得た根拠である。(D) 0 0 隠岐 0 286 8 網主親方系譜の商業資本。1)近世における隠岐の漁業経営の主体はイカ釣り漁業、ブリ漁業のような漁家漁業で、企業的漁業としては「四ツ張り網漁業」(サバあみ、イワシあみ等とも称せられる)が僅かにあげられるのみで、丹後伊根、越中方面に 0 0 隠岐 0 286 10 見られるよう大型定置の経営はなかった。2)網主親方と称するものはサバ網、イワシ網親方である。この網漁の経営の方法には二通りあり、その一は、自ら経営主となるもので、他は仕込み親方として操業は漁民にゆだねるものである。隠岐では 0 0 隠岐 0 286 14 ほとんどが後者で、しかも、「村網」「地下網」「講網」等のなんらかの団体が網親であるのが最多数を占める。3)比較的漁業本位の網親として近世成立したのは、島前西ノ島の船越に根拠をもった「みそ屋」(安達家)である。享保20年の「 1735 0 享保20年 隠岐 乙卯 0 286 18 佐藤文書」に「越前国海浦、船頭仁太夫、此者儀、年々隠州へ罷越、渡世仕候処、去秋虫付損亡ニ付、教仕度旨相願、、、」とあるように享保18年(1733)大量の雑穀を放出し、松江藩より褒賞をうけているが、同家の家伝によると、元禄年間に 1735 0 享保20年 隠岐 乙卯 0 286 21 問屋 初代仁兵衛が隠岐に渡、サバ網経営によって産をなしたとある。享保20年に船越に定着し、自らサバ網経営を行なうと共に、島前の塩干物を買い集め、これを本土に販売する廻船問屋となった。かくして、網主親方出自の廻船問屋、さらに地主化 1735 0 享保20年 隠岐 乙卯 0 287 4 していった。5)隠岐における漁業資本が林業における商業資本蓄積のように再生産資本としての機能を発揮し難かったのは、俵物、スルメ、その他塩干物の流通が、始終幕府権力下の座方によって支配統制されていたので、量的には沿相当量の生産 0 0 隠岐 0 287 7 問屋 を示しながら収奪強化の体制で終始したためで、近代にいたるまで漁業生産資本の蓄積が困難であったのである。6)つまり、漁業における商業資本の蓄積は、座方を頂点とする各浦方の問屋における流通資本として蓄積されはしたが、生産資本として 0 0 隠岐 0 287 10 はその機能を発揮し難く、その資本は漁民的形態をとらなかったということができる。漁場としては恵まれた隠岐において、これを支配した資本は構造的には幕府権力下の長崎俵物流通資本で、地場資本が生産資本としての機能を発揮するのは明治 0 0 隠岐 0 287 14 20年代をまたねばならなかった。廻船船主系譜の商業資本。基本的な性格区分で、現実的にはかなり混合した形態で存在し、小渡海船が買積制廻船商売に進出下例が多い。俵物を隠岐から長崎に輸送した廻船は船名、船籍地、船頭名まで判明しているが、 0 0 隠岐 0 287 20 多くは100石以下の小渡海船であった。運賃稼の小渡海船は大船のように特定の(例えば布施のように)地区に偏在することなく、分布が一般化しているが、隠岐から離れ、本土に出稼していわゆる地乗り廻船として稼いでいるのが多い。岸浜や今津、加茂、 0 0 隠岐 0 287 23 豊田などの小渡海船は本土の諸寄、居組、加露、網代、淀居、安来、美保関などを根拠とし「雲伯両国之内ニ而、米、鉄、干鰯運賃積請負」商売したのである。(安永4年布施村山口文書)しかし、島内において最も多様な廻船商売に従事したのはこの層で、 1775 0 安永4年 隠岐 乙未 0 287 26 問屋 天保年間に各村に成立したスルメ問屋は、「惣右衛門勝村一代之事荒増記」(「高梨高勝文書」)に記されているように、船手商売、スルメ問屋系譜である。こうした廻船商売発展の中で、船主と船頭とが分化して、「雇船頭」が多くなったことは明かである。 0 0 隠岐 0 289 1 島外資本の系譜。中島屋武助は松江藩御用商人として、松江にある「隠岐宿」の管理支配を命ぜられ、「隠目付」の設置までして隠岐の水産物、木材、椎茸等の松江入荷集中をはかっている。現に隠岐の寺社に中島屋の寄進石造物(石燈篭、高麗犬、仏像、石柱)はその 0 0 隠岐 0 289 4 問屋 勢力の隠岐進出を示している。しかし、その支配は隠岐の商人問屋の段階までで、その前貸資本が隠岐の産地浦浜まで及んだことは認められない。恐らくは隠岐の俵物世話人である板屋、蔵屋、酒屋等の商人問屋と結んでの隠岐島生産物集中がその限界 0 0 隠岐 0 289 7 問屋 であったと思われる。その証拠は、隠岐島在地問屋は、その商品を自由取引の発達していた米子市場に自由出荷しているからである。 0 0 隠岐 0 290 1 近代資本主義の発達と島嶼経済の解体。水産業の近代的展開。これが俗にいう「海面官有宣言」である。これは漁民にとって大きな衝撃で、数百年の慣行のある沿岸海域の漁場を官有とし、漁民がそれを使用するためには「海面区画拝借」しなければならないというもので、 0 0 隠岐 0 291 4 はなはだ不評であった。明治前期の漁業。隠岐騒動の指導者は明治元年現在の「村勢要覧」を作製した。これは明治17年に編纂され「明治元年村鑑」と称され、写本が県立図書館にある。島後の村々ではこれにさらに資料を加え、かなり精度の高い 1884 0 明治17年 隠岐 甲申 0 291 6 「村勢概要」を編纂した。これが西郷町下西の億岐家蔵の「図誌草稿」である。この中に記された統計数字は必ずしも同一年度とは認め難いが、明治3〜5年のころの数字である。さらに明治12年の「町村誌」があるが、これは地租改正直後の「村勢要覧」で、 0 0 隠岐 0 291 9 若干の統計数字を掲げている。この表の特色は、旧幕時代の漁獲漁種とその生産高の順位が変化していないということである。旧幕時代の幕府御用の俵物は、村々割賦高が撤廃され、強制出荷の命令こそなくなったが、沿海村落すべてから売り出されている。 0 0 隠岐 0 291 16 問屋 これは後述するが、隠岐の商品流通が明治初年に、明治新政府のもとで、管理流通体制に入ったことと関係がある。すなわち、民部省所管の「通商司制度」の設置である。通商司管理のもとで、西郷町藤田に、問屋の連合体である「産物取締方」(会所)がもうけられ、 0 0 隠岐 0 291 21 問屋 問屋業務を行なった。俵物、スルメは明瞭に旧幕時代の流通体制を踏襲し、長崎を輸出港として貿易商人によって中国に輸出された。表から明かなように、島後の販売量は18万4000連以上になっていて、弘化期の大漁請負高に匹敵している。つまり、明治初年の 0 0 隠岐 0 291 25 隠岐島経済はスルメを中核にした現金収入志向の道を選んでいたことが明かである。明治中期の漁業。漁業組合、水産組合の設立。「隠岐島民は古来生計の七分は之を海産によれるをもって、所の海面の所属は、恰も陸地、人民の田畝所有権ある如く、 0 0 隠岐 0 294 18 数百年来不識不知、海面を占有せしが、、、、明治八年、太政官布告を以て其占有の権をとかれしにより、因伯雲石沿海の漁民はその利の大きさを見て、毎年数百船隊を組出漁し来り、其漁場を蹂りんし漁利を侵害せしにより、時々粉擾を醸せり、就中、鮑、海鼠 1875 0 明治8年 隠岐 乙亥 0 294 21 の如きは採捕方法制限なかりしにより、二十二方里の沿岸に対し、或時は十六台の潜水機械を使用したるにより、一時全くその種族を絶滅するに至れり、ここに於て、之が取締の必要を感じ、周吉穏地両郡漁業組合を島後に、海士知夫郡漁業組合を島前に設置し、 0 0 隠岐 0 294 24 之が取締の方法を定め、明治二十一年より同二十八年まで継続せり」(「隠岐誌」)漁業権行使の主体である組合の設立が、準則の主旨のそって、隠岐では緊急かつもっとも現実的な問題とし要請され、さっそくその効を発したのである。漁業経営体としての 0 0 隠岐 0 295 2 「水産組合」もこれと前後して設立された。島根県公報明治20年10月12日付「水産製造組合」によると、「本県下水産物は毎年三十余万円の産出にして、鯣、海参、鮑は殊の外重要なり、隠岐国周吉穏地海士知夫四郡に於ては、いずれも鯣、海参、鮑 1887 1012 明治20年 隠岐 丁亥 0 295 5 製造同業組合を設け、既に県庁の許可を得たり」とし、水産加工の方法を詳記し、優良品の産出をなしたことを特記している。これは、島根県の評価にとどまらず、全国的に「優良水産製造品」として評価されていたようで、明治27年刊行の「日本水産製品誌」 1887 1012 明治20年 隠岐 丁亥 0 295 9 には模範的梱包としてその荷造りが図示されている。また、明治25年の山陰新聞(7月1日付)は次ぎの記事を掲げている。「従来輸出水産物は、貿易港において支那商人、更に乾燥品位を区別し、荷造を変更して自国へ輸出するのが慣例なりしが、 1892 701 明治25年 隠岐 壬辰 0 295 10 蕃殖を図り採捕の制限を設けてアワビ、ナマコの減耗を防ぐこと。2)員外漁業を規定して内地漁業者の取締をなし、相互に漁利を得せしむること。3)製造法を規定して、アワビ、スルメ、イリコ、サバ節の製造、荷造りを一定にし、精密なる検査を行ないて 0 0 隠岐 0 295 13 独り隠岐鯣に限りその組合を信用し、包装の商標を見て直ちに之を取引するに至れり、価格の如きも組合組織前にありては佐渡鯣に比し市場価常に一割の低価なりしが、此時々に当り、毎時一割の高値んて取引せり、以てそ名声の天下に高きを知る」 1892 701 明治25年 隠岐 壬辰 0 295 13 外部の信用を得、商標によりて包装を解かず直ちに取引きを得せしむるを得せしむること。4)従来浜借りと称して翌年捕獲すべき水産物を担保として本年借金する弊ありて、其額巨万となり、終始貸主の圧制を受け来るも、償方を規定し漸次償還の法を為さしむること。 0 0 隠岐 0 295 15 5)スルメ共同販売所を設けて、入札公売することとし、奸商等の目引売買の弊を矯正し、製品を精良にし併せて売買高の内より本人の貯蓄金を引去り不知不識の間に貯蓄なさしむること。以上のごとく、組合の規約が時代の趨勢と、当事者の協力体制によって 0 0 隠岐 0 295 17 この隠岐スルメの評価を高めた組合規制は、極めて現実的な内容のもので注目に値する。長文なのでその要点を摘記すると次ぎのごとくである。1)沿海入会及び専用漁場を明かにし、漁場者の粉擾を末発に防遏(ぼうかつ)し、採草期節を定めて水族の 0 0 隠岐 0 296 1 現実的具体的に強化され、自主自立体制が確立した。こうした体制整備は高く評価され、明治23年の第3回内国勧業博覧会、明治28年の第4回同博覧会、明治30年の第2回水産博覧会において一等表彰をうけ隠岐スルメの市場評価は完全に安定した。 1897 0 明治30年 隠岐 丁酉 0 296 22 巾着網の導入。「隠岐国は魚族の群来最も穣田饒多にして、、、四ツ張り網を始とし、大敷網、地曳網、沖曳網等相応の漁具なれど沿岸漁具にして海底深き沖合いに至りては終日魚群充満するを見れど之を捕獲するの具なく、、、近時挙って巾着網を称場するにいたる。 1897 0 明治30年 隠岐 丁酉 0 296 24 明治30年、隠岐水産組合の試験に係る巾着網は、組合監督の下に、中井養三郎外九名の結合になれる(北溟漁業組合)なるものにより、金一万円の資金を投じて操業せられる。更にけ県税および隠岐郡連合町村費の補助をうけ、西郷湾内金峰山麓に事務所、 1897 0 明治30年 隠岐 丁酉 0 296 27 漁夫小屋、網蔵、網干場を設置し、以て事業の成功を期せり、、、網の構造は模範を岩手県に採り、技手大越安太郎(日本巾着網の元祖大越作衛門の三男)及び大越庄造(同四男)の編制せし、鰯及び鯖捕獲を目的とせるものにして、最初は打廻し二百七十尋、 1897 0 明治30年 隠岐 丁酉 0 297 2 海立二十五尋、中途海立を三十尋に改め、最後に”イセ”を増し二百五十尋に短縮せり」。鱶(ふか)網漁業。巾着漁業の他に、明治28年に山口県阿武郡山田村の原田儀三郎が山口県庁の技手山根伊右衛門よって隠岐に伝えられた。これは相当の 1897 0 明治30年 隠岐 丁酉 0 297 10 効果をあげたが、フカの所商品価格が低いので、漁業としては発展しなかった。本土側漁民の入漁と漁場紛争。隠岐支庁保存の「明治16年勧業文書」によると、入漁者の行動ははなはだ奪略的で、磯物を窃取し、そのうち石菜花(てんぐさ)は残らず 1883 0 明治16年 隠岐 癸未 0 297 17 採取したとあり、ために資源絶滅に瀕し、地元漁民の怒りをかっている。このような激しい入漁は、漁業組合法が成立施行する明治21年ごろまで続いた。こうした地先海面への入漁は明治8年の太政官布告の主旨から見て法的に防禦ができなかった。 1883 0 明治16年 隠岐 癸未 0 297 22 例えば明治9年(1876)島前宇賀村の宇野藤十はアワビ潜水漁業をおこし、知夫、別府の操業権を得、さらに逐次島前地区全域の潜水漁業権を得て、俵物生産を企業的に開始している。明治21年、漁業組合設立以後、漁業権は組合に帰したが、 1876 0 明治9年 隠岐 丙子 0 297 25 宇野は海深11尋以深の潜水漁業権を得て、俵物生産を続けている。漁場紛争。「採貝採藻場区拝借之儀ニ付願。当隠岐国之儀者絶海之小島ニテ、人口相当之耕地無之故ヲ以、沿海町村之細民ハ専ラ漁業採藻貝ヲ以テ生活トナシ、其ノ場区ノ儀モ往古ヨリ 1876 0 明治9年 隠岐 丙子 0 298 20 町村各一定ノ区域有之、互ニ其ノ境界を侵サス。サキニ海面所有ノ権ヲ解カレシ後モ、猶相与(とも)ニ旧慣ヲ守り安穏ノ営業罷在候処、本年五月中、松江住人室谷恒太郎外数名之者、他国海人業之者数百名引連、数十艘之漁船ニ打乗渡来、毎船官許ト表記 1876 0 明治9年 隠岐 丙子 0 298 23 シタル旗章ヲ相樹テ沿海之町村ノ稼キ場ニ入込ミ、壇ニ鮑ヲ撈取之、漁民等ガ従来因テ以テ生活ノ資ト致候貝類ハ一朝ニ一大争斗ヲ醸起シ、夫ヨリ海人業者ハ一応当国ヲ引去候得共、宇賀村関係之者共二十余名ハ拘留之身ト相成り、、、沿海町村ハ各区 1876 0 明治9年 隠岐 丙子 0 298 27 定之場区ヲ以テ分界トシ、仍亦固有捕獲法之至ラザル得ザラ所ヨリ沖ノ法ニ向ヒ四十尋之処ハ、貝類成長之地トシテ、更ニ場区拝借之儀願出サセ候様仕度奉存候(下略)(年月日欠)全島戸長連名。」。基本的には「海面所有の権解かれしより」とあるように、 1875 0 明治8年 隠岐 乙亥 0 299 3 明治8年の太政官布告第195号の影響を隠岐は最も直接的に被害としてうけたのである。会社企業の成立。隠岐でこうした会社が設立されたのは本土におくれること2年の明治14年(1881)である。すなわち、同年1月18日付で宇野龍麿らによって 1881 118 明治14年 隠岐 辛巳 0 299 12 牧牛社が別府村に、畜牛社が知夫に、為替会社が7月1日付で西郷に、海産社が9月に西ノ島に、12月に牧牛と海産を共に経営する興業社なるものが知々井に成立している。このうち海産社は「専ら海産、事業ヲ盛大ニセンタメ、長崎県肥前国ニ於テ 1881 118 明治14年 隠岐 辛巳 0 299 15 諸網ヲ購求シ、就業スルモノトス」とあり、その諸網とは八手網、大敷網、ブリ網、イワシ網をさしている。興業社はサバ網を専業にすることを目的としている。明治10年代に個人企業から資本合同による会社企業に隠岐の漁業が出発したことは 0 0 隠岐 0 299 19 注目すべきことであって、海面自由操業の原則における本土側資本の進出に対抗する自衛手段でもあったのである。四ツ張り網漁業の盛行。このような歴史的過程の中で西郷地区の四ツ張り網は全盛時代を迎えた。既に旧幕時代に西郷湾頭から岬半島に及ぶ 0 0 隠岐 0 299 23 網場は過密の域に達し、明治14年には岬網場は13場に再編成し、収益の平均化をはかるために輪転制を実施した。漁期には一定の規則のもとに敷網場が交替する制度である。明治後期の漁業。沿岸漁業。まずあげられるのは沿岸漁業の安定である。 1881 0 明治14年 隠岐 辛巳 0 301 8 統計数字の連続して得られる明治27年以降の隠岐沿岸漁業の生産高を金額面から見ると第44図のようになる。当時の統計は属人統計であるが、沿岸漁民による本土側水揚はなかったから属地統計と同一と考えてよいが、これによると、生産金額の面では 0 0 隠岐 0 301 11 隠岐全漁業生産の70〜80%がイカ漁業によって占められていることがわかり、その傾向は大正時代初期までたどることができる。鮮魚販売圏の拡大。明治後期の隠岐水産物流通の特色は、近世以来の長崎俵物の比重が減少して、代って鮮魚流通量の比重が 0 0 隠岐 0 304 5 しだいに大になることである。明治35年(1902)の統計書から海参(なまこ)は姿を消す。交通の進歩、特に汽船が海上運輸に登場するに及び、輸送の機動力が増加して鮮魚の出荷を万能にしたことは極めて重要なことである。隠岐水産物が 1902 0 明治35年 隠岐 壬寅 0 304 10 帆船輸送から汽船による輸送に移行しはじめたのは明治18年(1885)からである。これは定期航路としての隠岐航路の開発であって、既に刑事14年(1881)に鳥取県境港の植田文平が小型汽船で月間9航海で水産物の輸送を開始した。 1885 0 明治18年 隠岐 乙酉 0 304 13 これは採算がとれなかったためわずか1年間で廃止した。翌15年には島前中之島、崎の渡辺新太郎(屋号中良)が玉津丸という汽船を就航させたが、これも水産物輸送が主であったものの収支償わず、1年で廃止した。16年には兵庫県城崎町の有田喜一郎が 1882 0 明治15年 隠岐 壬午 0 304 16 兵庫丸を就航させた。これも前二者と同じ運命をたどった。明治36年から日露戦争時代を経て44年にいたる9年間は山陰地方の汽船航路の拡大期で、境港はその根拠地となった。まず、36年に境−舞鶴航路が、39年には阪鶴丸が就航、舞鶴と大阪を 1903 0 明治36年 隠岐 癸卯 0 304 24 を結ぶ阪鶴鉄道と結び、山陰地方の貨客の大阪輸送が機動化された。40年から44年にかけて、境港−関門地区、境港−津居山港、網代−津居山、境港−元山(韓国)も結ばれた。隠岐の水産物は隠岐→境港→舞鶴→大阪、隠岐→境港→津居山、 1907 0 明治40年 隠岐 丁未 0 305 1 隠岐→境港→関門という三航路系統のよって移出された。境港は明治20年代以後は完全に隠岐との結合を一元的に掌握し、境港を窓口として流通経路が構成されるにいたった。しかし、当時はまだ冷凍冷蔵技術が進歩していないから鮮魚出荷にはなお多くの 0 0 隠岐 0 305 5 問屋 困難な点があったが、隠岐では塩干物から鮮魚への出変化が上記の交通開発によって進行した。これと同時に、在地流通機関の近代化もしだいに進展した。会社組織の流通機関。旧幕時代より明治初年にかけては浜問屋が在地の第一次流通機関であったが、 0 0 隠岐 0 305 9 明治35年(1902)に会社組織の流通機関が西郷町において成立した。すなわち、「西郷町漁業株式会社」(創業明治23年)、「西郷町西町共栄株式会社」(創業明治29年)、「隠岐合名物産会社」(創業明治34年)がそれで、生魚、スルメ、塩干物の 1902 0 明治35年 隠岐 壬寅 0 305 12 移出を企業的に実施した。当時隠岐における会社組織の企業体は、上記の3社のほかは、乗客貨物輸送の前期「隠岐汽船株式会社」(明治28年創立)と中之島福井の「海運合資会社」(一般運送業)の2社のみで、西郷町の3社と隠岐汽船会社が 1895 0 明治28年 隠岐 乙未 0 305 15 水産物移出についてはほとんど独占的な出荷輸送機関であった。韓海出漁。出漁船は漁船(近世の呼称では手安船(てやすぶね))で舷側に竹束を結びつけ、舳先には莚をまきつけ海波の衝撃をやわらげ、10〜15隻が船団をくんで帆走した。第45図は 0 0 隠岐 0 306 17 昭和15年(1940)西ノ島別府の西当佐太郎(当時82歳)が竹島出漁船の概要を示したもので、この小船で日本海を安全に航行したという。竹束を結びつけてあるから船は転覆することはなく、出漁時は夏期の平穏な時なので往航は平均8ノットの 1940 0 昭和15年 隠岐 庚辰 0 306 22 速さで航行できたが、復航には5ノットの速力でまぎり航海をしたという。竹島出漁は近世以来、隠岐島後の福浦と島前の物井を出発基地とし、操業は鬱陵島及び竹島附近の海域で行なった。漁獲物は西郷には水揚げせず、米子市場に船送りして販売した。 0 0 隠岐 0 307 1 アワビ、サザエ、イカ、ワカメが主なる漁獲物であった。大正期の漁業。動力船の出現。隠岐の場合は大正4年に動力化は開始されたが、5〜7年には増減はなく、10年にいたり23隻に増加している。しかし、いずれも10トン以下の小型船の動力化で、 1915 0 大正4年 隠岐 乙卯 0 307 19 20トン以上の中型船の動力化は進んでいない。こうした動力船の増加に対して、無動力船は大正初期には3800隻を算したが、昭和初期には1900隻に半減した。その内容は表から明かなように5トン以下の無動力船の減少に起因しているわけである。 0 0 隠岐 0 307 23 つまり、隠岐漁船の動力化は5〜10トン級の漁船を中心にして進められたわけである。鮮魚中心の漁獲構成。この統計の中で注目すべきものは、カレイ、ヒラメの漁獲が突如として登場することである。しかもその額は魚種別漁獲高では最高の地位をしめるのである。 0 0 隠岐 0 310 17 これは、漁業種別でいうと機船底曳網漁業の定着を意味する。すなわち丹後、但馬海域で旧幕時代以来操業されていた帆船手繰網業が、大正3〜4年にかけて但馬香住を中心にして機船底曳網漁業に漁獲技術の革新がなされた。この変化は因、伯、雲、石地区でも 1915 0 大正4年 隠岐 乙卯 0 311 4 全く同様で、有名な片江底曳(出雲底曳)も大正5年には(1916)には渋谷兼八によって成功している。この刺激が隠岐では大正9年(1920)の機船底曳網操業開始となって表れてくるのである。これは、西郷町の土井某等の参加によるものである。 1916 0 大正5年 隠岐 丙辰 0 311 5 しかし、14年までそれは表面的には登場しなかった。理由はイカ漁及び青物(アジ、サバ、イワシ)の豊漁がつづいて隠岐島漁民の注意が新興の機船底曳網漁業に充分注がれなかったからである。換言すればイカ漁業及び四ツ張り網漁業の隠岐島漁民への 0 0 隠岐 0 311 8 定着性が極めて強かったこと、イカ漁業が漁家漁業として資本及び技術投下に対して生産性が高く、島民がこれに強い執着と依存を示し、新興漁業への取り組み方が本土に比し3〜5年おくれたことにもよっている。大正12年の島根県統計は遠洋漁獲高 1923 0 大正12年 隠岐 癸亥 0 311 12 という項目を設けてその漁獲高を示している。これは、いわゆる韓国出漁が本格化し、漁船の動力化と相まって対馬海域、黄海、東支那海への沖合底曳網漁業、沖合宇旋耗網漁業、延縄漁業の進出が大きな成果をあげるようになったからで、その水揚げは 0 0 隠岐 0 311 15 下関で行なわれた。つまり船籍は島根県にあっても水揚げは山口県下関で、この段階から、水産統計における属人、属地統計の分化が明確になって来る。大正末期のこうした遠洋漁業(現在的観点では沖合漁業)は島根県では出雲、石見、隠岐の各地にそれぞれ 0 0 隠岐 0 311 19 影響を与え、従来の沿岸漁業地域から、沖合遠洋をめざしての船団編成の出漁が開始される。漁業種別は沖合機船底曳、旋網、延縄が主である。隠岐漁民は竹島近海出漁と共にこれに参加する。大正12年の統計では、サバ延縄生産額として7500円、 1923 0 大正12年 隠岐 癸亥 0 311 22 鯛沖底曳生産額7万5000円、タイ延縄3000円が記されている。しかし大正14年後の統計では遠洋漁業という表現が消えて、属人統計として隠岐漁獲高(水揚高ではない)となっている。漁場が拡大されて、水揚地が下関、博多、長崎等となれば、 1923 0 大正12年 隠岐 癸亥 0 311 25 水揚統計は他県で、漁獲統計は漁船の船籍地の自県でなされるからである。大正末期から昭和初期にかけてこうした漁獲高と水揚高の性格分化が漁業統計の上で重大な意味を持つようになる。漁業の近代化と漁場拡大。先にも少しふれたとおり、隠岐の 1923 0 大正12年 隠岐 癸亥 0 312 1 漁獲統計の中でカレイ、ヒラメが登場する。両者あわせて22万円近い漁獲を示し、比重から見れば隠岐全漁獲の42%の比重を占める。しかしこの水揚げは隠岐ではなされないで、対岸の境、賀露、香住で行なわれる。つまり隠岐の機船底曳網漁業が、 0 0 隠岐 0 312 5 本土におくれること5年にして山陰の機船底曳網漁業に参加して、隠岐の属人漁獲構造を大きく変革させたわけである。隠岐の底曳は本土側の底曳発達に対してその開発時期が5年おくれている。したがって、本土底曳と同一の規模に拡大ができず、その根拠も 0 0 隠岐 0 313 6 香住及び境港等に置かざるを得ないので、その独立性は弱体であった。以上のように、隠岐漁業は近世末期から明治、大正期を通じて近代化の方向はとっているが、本土がわの進歩に比してその開始、速度がいずれもおくれ、しだいに本土との格差の拡大生じ、 0 0 隠岐 0 313 10 遂に本土資本による蚕食をうけることとなった。昭和初期における漁業はそうした資本による蚕食が進行し、隠岐漁業の基礎が不安定化し、離島漁業の性格が進行するという、歴史的段階に直面する。これについては節を改めて述べることにする。 0 0 隠岐 0 314 4 昭和初期の隠岐漁業。漁獲構成の推移。統計資料の整備している明治27年から昭和14年までの漁獲構成の変化を、イカとその他の魚類のわけて金額の面で図化して見ると第47図のようになる。図の傾向からわかるように、明治期から大正10年ごろまでは 0 0 隠岐 0 314 8 漁獲高に目だって大きな変化はないが、それ以降において急に漁獲高が上昇する。その増加の原因は鮮魚の増加によるもので、隠岐漁業をそれまで特色づけてきたイカ漁業はむしろ減少の傾向を示している。これは先にもふれたとおり、漁業種別でいうと、 0 0 隠岐 0 314 11 機船底曳網漁業によるもので、漁種ではカレイ、ヒラメの漁獲高の増加によるものである。機船底曳網漁業が隠岐で完全に成立したのは大正14年(1925)で、文字どおり漁獲の王座を占める。大正14年から昭和3年までの4年間の推移を見ると、 1925 0 大正14年 隠岐 乙丑 0 314 14 隠岐島漁獲高の30%はカレイ、ヒラメで占められている。最大の漁獲をあげた大正14年には隠岐島総漁獲高78万円のうち、この両漁が22万円を占めている。これに次いでイカが17万円、サバが12万円、タイ及びアジがそれぞれ3万円を占めている。 1925 0 大正14年 隠岐 乙丑 0 314 24 機船底曳網漁業におけるカレイ、ヒラメの生産が隠岐底曳の特色であることは第48図から明かである。島根県全体の特色から見ると大正14年の総漁獲高は448万円で、第1位を占めるのはタイの67万円、サバの58万円、カレイ、ヒラメは29万円、 1925 0 大正14年 隠岐 乙丑 0 315 4 アジ22万円、ブリ16万円というふうに、他の漁種が第1位に立っている。では、当時どれだけ機船底曳が隠岐の存在していたかというと、発動機付手繰網(機船底曳網)県全体で76統、うち隠岐6統、帆船手繰網県全体で203統、うち隠岐で30統、 1925 0 大正14年 隠岐 乙丑 0 315 10 発動機付帆船手繰網県1統、うち隠岐1統である。帆船手繰網漁業、打瀬網漁業について但馬、因伯地方の出漁を実現した隠岐漁民がこれに誘発されて、大正14年、操業成功したことは注目すべきことである。大正末期から昭和初頭に生産性の高い 1925 0 大正14年 隠岐 乙丑 0 315 15 新漁業が上記のように隠岐で成立したが、既にこの時点において、水揚げは対岸の赤碕、賀露、境港に変じ、船籍地の隠岐には水揚げがなされなくなり、漁獲と水揚げの地域分化が発生していた。地先漁業の賃貸。機船底曳網漁業、機船巾着網漁業等の近代漁業は 0 0 隠岐 0 315 19 着々とその地歩を固め、本土側企業者が、隠岐近海漁場に進出するほかに、隠岐の地先海面に本土側の資本進出がなされ、文字どおり、隠岐の沿岸漁場の蚕食が進行するにいたった。旧幕時代から地先海面への入漁はあったが、既述のように、許可魚種はイカ、 0 0 隠岐 0 315 23 ブリのみでアワビ、ナマコ、サザエ、ワカメ等の採取は許可しなかった。しかし、明治8年の海面官有による制度の変化で、漁場借用は本土側漁民にとっても旧幕時代より遥かに容易になったので、明治10年代には出雲北浦より隠岐の沿岸漁村に 1875 0 明治8年 隠岐 乙亥 0 315 26 大挙入漁があり、上記の磯物の他にテングサが大漁に採取された。この出漁の地区別状況は、明治19〜23年に行なわれた漁制調査、漁業慣行調査に詳かに記されている。明治20年以後、地先漁業権は、その地区の漁業組合に戻ったが、既に本土側の 1887 0 明治20年 隠岐 丁亥 0 316 4 資本と技術の投下の多かった地域では、なんらかの既得権をその地区に所有し、地先海面の利権を把握していた。この状態は、実に太平洋戦争後の新漁業法の施行まで、程度の差、内容表現の差はあっても実質的に温存された。昭和初期から太平洋戦争終結までは、 0 0 隠岐 0 316 7 島民の本土出稼が多く、地先海面を本土側企業体に賃貸する浜方が多くなった。第49図は昭和15年度における地先漁場の賃貸状況を示したものである。隠岐では旧幕時代以来の慣行によって維持してきた知先専用漁場を「場区(ばく)」と呼んで、 1940 0 昭和15年 隠岐 庚辰 0 316 10 その浦浜のみの入会地区で、他者の入漁は許さなかったのであるが、明治初期から外部資本の侵入があったので、場区の良用益は必ずしも近世の習慣を厳格に維持できなかった。出稼の増加により、名儀は在来どおり存続しても、実利用者は第三者であることが 0 0 隠岐 0 316 13 一般的となり、ひいては第三者に実権を奪われることになるわけである。その極端な例が、「場区料(ばくりょう)」を取って、知先海面全体を第三者に賃貸するにいたるのである。昭和初期の底曳網、巾着網漁業。明治末期から始まった小型巾着網漁業、 0 0 隠岐 0 317 19 大正期に確立した底曳網漁業は、その操業、経営については問題が多く、隠岐島漁業経済は内部的崩壊を深めていった。まず第一に問題は地元漁業者が従来慣行的に操業していた比較的規模の大きな四ツ張り網漁業及び大敷網漁業が経営不振におちいったことである。 0 0 隠岐 0 317 23 これはまず資源の減少によって決定的となった。その理由は巾着網漁業にせよ、底曳網漁業にせよ、操業制限地区以遠で稼業していたが、巾着網の場合、回遊魚を沿岸到着以前に捕獲するので、四ツ張り網設置沿岸には魚群の回遊が激減するようになった。 0 0 隠岐 0 318 3 第二の問題は経営における外部資本の侵入である。昭和初期においては、許可漁業は技術の進歩に併行して、その免許の進め方においては資源保護及び地元企業者育成が基礎にあったので、隠岐における前記漁業も地元漁業者を優先して免許した。 0 0 隠岐 0 318 6 したがった免許登録者は隠岐の漁民ではあるが、当時地元隠岐において資金面、技術面でこれを操業するに足るだけの期業者が少なく、その結果、長崎県、山口県の先進地の漁業資本家が進出し、その操業を請け負って、水揚高の5%を隠岐の免許者に 0 0 隠岐 0 318 9 支払う契約で操業した。これは地先海面が場区料支払いによって第三者に賃貸されたことと本質的に同一のもので、外部資本の侵入に他ならない。戦後の許可漁業と隠岐。境港の旋網水揚高の増加隠岐漁業。1950年より若狭地区への魚群の回遊が激減し、 0 0 隠岐 0 319 14 海域となった。境港は上記のような巾着網漁の発展によって戦後、特に1950年を契機として急速に旋網(巾着網)根拠地として拡大発展した。第87表は島根県における巾着網統数の増加と魚探、無電の導入を示したものである。これによると、 1950 0 昭和25年 隠岐 庚寅 0 319 17 53年には若狭地区での漁獲は50年度の12%にとどまり、以後さらに漁獲は衰退傾向をたどった。これに反して1947年ごろより島根、鳥取県沖すなわち隠岐島周辺海域にアジ、サバ、イワシの回遊が増加し、50年には山陰地区でもっとも回遊の多い 1950 0 昭和25年 隠岐 庚寅 0 319 19 島根県の巾着網の技術革新は魚探と無線通信機をもととして見ると、昭和23年(1948)がその開始期で25年には大量に無線機導入がなされている。これは境港の水揚急増と時期を同じくしていた。魚探→無線機導入の前に、棒受網漁業の集魚燈が 1950 0 昭和25年 隠岐 庚寅 0 320 10 巾着網の集魚燈及び、旧幕時代以来の四ツ張り網漁業にも利用され、中層回遊魚の浮上に成功し、サバ、アジの漁獲が増加した。戦後のこうした技術革新の導入と普及の早さは、アメリカの漁業技術の導入がGHQの指導で積極的に行なわれたからで、 0 0 隠岐 0 320 13 我が国における創意工夫によるものではなかった。彼らの流通形態は消費地への巾着網漁獲物の直出荷という形をとり、産地の魚市場は単なる通過機関と化してしまった。前述のように境の巾着に船主は多くは朝鮮からの引揚資本で、かつて外地で巾着網を 0 0 隠岐 0 320 20 経営すると共に、買付商人でもあった。そこで、京阪神、下関、福岡等の取引に馴れていた。これに対して地元境港の従来からの仲買人は、直ちに、それら巾着網漁獲物の大規模りゅうつうに参加できず、地元の伯耆西部、隠岐、出雲北浦よりの出荷を取り扱っていた。 0 0 隠岐 0 320 24 そこで当然、資本制大企業の巾着網、底曳網漁業における流通機構と在来の仲買人との流通機構の二元的存在が生じた。四ツ張り網漁業の消滅。旧幕時代以来、隠岐の網漁業の中で企業的なものの代表であった四ツ張り網漁業は昭和29年(1954)の 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 8 操業を最後に遂に消滅した。量的には全く境港集中傾向で、隠岐の場合は四ツ張りの水揚げの急減である。このもっとも大きな原因は、四ツ張り網布設地区への魚群回遊の減少である。四ツ張り網は沿岸の潮流のゆるやかなところに設置して魚群の回遊を待ち、 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 8 集魚燈で魚群を網の上に誘導し、これを四すみからすくいあげる漁法である。漁法が魚群の回遊を待つという消極的な方法であるから、漁の豊凶は全く魚群の回遊待ちと、潮流に対して網の布設が可能か否かにかかっている。隠岐の四ツ張り網は、沖合いの 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 15 巾着網漁業で落ちこぼれた回遊魚を沿岸において待ちうけるという結果になるので、まず資源面で大きな影響を受け、巾着網漁業が拡大するにつれて、魚群の沿岸回遊はますます減少するという結果になる。1949年以来、目立って漁獲の減少があらわれてきた。 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 19 さらに、四ツ張り網によるアジ、サバ、イワシは境港魚市場において、巾着網漁獲のそれに商品的に対抗できなくなった。というのは、四ツ張り網の捕獲魚は、一度は根拠港の西郷又は浦郷に水揚げして荷揃え、箱詰(氷詰)めの上、運搬船によって 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 22 境港市場に出荷し、そこで販売ル−トに乗るわけである。この結果、巾着物が漁場から直接境港に運搬されるのに比べて、二次出荷の形態をとり、輸送経費が加算される上に、魚そのものの鮮度が落ちてくる。また、量的にも帰着物の大量出荷には到底 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 324 25 及ばないから、銘柄面で買以叩かれ、生産者にとっては採算割れになる。つまり生産面からも流通う面からもとうてい巾着物に対抗して生産をつづけることは困難になるわけである。隠岐水産物流通の問題点。鮮魚移入と価格。隠岐のおいて出荷される 1954 0 昭和29年 隠岐 甲午 0 325 10 観光 水産物の流通経路やその性格については、第一項で述べたとおりであるが、現実に島民及び観光客等の消費を支える魚類が、島内で自給できないで、本土特に境港から逆に移入するという現象が生じたことは注意されねばならない。第90表は1969年度 0 0 隠岐 0 326 34 における隠岐汽船取扱いの移入鮮魚の量で、1万4126函(2830トン)に達している。このほか一般運搬船による移入が多数あるので、最低見積もっても4000トンは越える移入鮮魚が考えられる。このことは一見奇異に思われる現象であるが、 1969 0 昭和44年 隠岐 己酉 0 326 37 隠岐が産地市場としての性格保持できないところに根本的な原因が存在するからである。(1)、離水産物は地元消費を除くと、他はすべて本土側産地市場に水揚げし、はじめて流通経路に繰り入れられるから、生産力ポテンシャルの大きな島でも、 1969 0 昭和44年 隠岐 己酉 0 327 22 程度の差はあるとしても、本土産地市場の流通資本の制約をこうむることになる。これが離島における水産物産地市場の成立を阻害してきた要因である。しかし、経済の高度成長過程で、下五島地区のように僅かであるが全国的規模の産地市場が離島においても 0 0 隠岐 0 327 25 成立している例もある。ただし、この場合といえども、漁場、水揚地、消費地との地理的関係が、対岸の本土水揚地を経由するよりも空間的、時間的に近接しているという前提条件が必要である。(2)、離島の場合は出荷市場の自主的選択が本土側に比して 0 0 隠岐 0 328 1 著しく制約される。本土側においては沿岸小漁村においても、拠点市場を核として集荷、荷揃え、販売が極めて短時間になされ、消費地近接の場合は、即刻行商形態で消費先に出荷できる。長門北浦の行商はその代表例である。離島においては、佐渡、五島、壱岐 0 0 隠岐 0 328 4 などのように資源面に恵まれたところでも、自己の力で、直接消費地と結びつくことは現状では不可能で、本土市場に地追随するか、本土側商業資本の支配下に服するかで、いずれにしても自己決定は困難である。隠岐の水産物出荷対応。西郷漁協と 0 0 隠岐 0 328 12 浦郷漁協の境港への出張所設置がそれである。ただし、すべての魚種を取扱ってはいない。タイ及びブリ等のキ高級魚で、主要出荷先は中国地方の地方都市への直送である。豊漁時には京上神中央市場にも送荷する。 0 0 隠岐 0 333 4 農業の近代的展開。土地改良の進展。溜池築造による用水整備。明治42年(1909)の島根県農会報132号には「隠岐国溜池の来暦」と称する一文がある。長文であるので要点を摘記すると、溜池築造の気運は幕末の弘化、嘉永ごろより盛んになり、 1909 0 明治42年 隠岐 己酉 0 333 6 出雲、尾張等の技法を取り入れた。畦鍬と称する築造で、印篭溜池であった。この溜池築造により新田開発が進行したが、漏水するものが多く旱害を避けることができなかった。明治20年代に、島司原田赴城らの指導で淡路方式による溜池築造を開始した。 1909 0 明治42年 隠岐 己酉 0 333 10 すなわち、明治29年(1896)淡路より鈴木三郎という技術者を招いて、島前海士村で工を起した。これは成功したが、他にこれを模倣するものがあったが技術面で失敗するものが多かった。明治39年(1906)にいたって隠岐島農会が溜池築造 1909 0 明治42年 隠岐 己酉 0 333 13 調査のため技手を淡路、愛知県、千葉県に派遣仕し、さらに研究をすすめた。その結果、明治40年ごろより溜池築造も成功して大正8年(1919)には、全島で44ケ所の溜池が完成した。これを地区別、年度別に表化すると第94表のようになる。 1909 0 明治42年 隠岐 己酉 0 333 21 これによってみると、明治末から大正前半期に隠岐の溜池は整備されたことがわかる。具体的には開田促進は溜池と井堰の両者の併用のよって裏付けられ、第94表の44の溜池の中でも、張池に類するもの22、印篭池と称すべきもの19、井堰又は 0 0 隠岐 0 335 16 井手と判されるもの3となっている。隠岐において那久よりも大規模な溜池、井堰潅漑施設は島前西ノ島町美田の山神溜池(印篭池)による古田70町歩の用水確保工事(明治44年竣工)と、海士町の大正池(印篭池)の新田70町歩の開発給水、古田13町歩 1911 0 明治44年 隠岐 辛亥 0 335 18 への給水等がある(大正池は文字どおり大正期(4年)竣工のもので隠岐最大の溜池である。)明治大正の潅漑事業実施は近世の村、すなわち近代の部落が単位になっているが、それが村落共同体的な地域結合に土台を置いているこたおは、工事費の支弁について、 1915 0 大正4年 隠岐 乙卯 0 335 22 部落有林の木材販売に大きく依存していることと、開発指導者がいずれも地主であったところに特色がある。明治資本主義経済の進展に伴って、農作物の商品化、とりわけ、米穀の商品価値の向上が、在村地主の開発意欲を誘発し、新田が増加したのであって、 0 0 隠岐 0 336 1 その土地所有は部落全般の保有面積の増加にはつながらなかった。つまり地主的土地所有者の増大である。島前村落の大地主は畑地大地主であった。このことは用水不足のためやむを得ず畑作をなしていた地主にとって、溜池潅漑が可能になれば水田耕作が 0 0 隠岐 0 336 18 実現するという見通しを与えることになるので、特に平坦な畑作地を有する海士村中央平地、島後の都万、五箇、中村地区の地目変換による畑地の水田化を進展させる結果となった。生産の進展。隠岐で反当収量が20斗を越えるのは前掲図で明かなように 0 0 隠岐 0 340 7 大正10年代にいたってである。大正期にいたって選種、苗代、正条植、害虫駆除、肥料等の技術改善が行なわれて以来のことである。しかし、こうした耕作技術の改善地域は、大正初期においては予定面積の10%にすぎず、大正4年の島司の町村長指示の中で 0 0 隠岐 0 340 11 「本島における耕地整理、溜池築造は島農会に技術員を特設して指導開始せしも、、、既往功程面積42町歩、施行中面積24町を以てしても予定面積の僅か十三分の一に過ぎず」(「隠岐支庁文書」)のごとくで、島全体の改良事業が進歩したのではない。 0 0 隠岐 0 340 14 したがって特定の施行地域にける成功例が島平均の生産力の上昇に及ぼした数値は必ずしも大ではなかった。土地改良事業と共に稲作技術、養蚕技術等の改善が行なわれ、生産力を徐々に高めたが、肥培管理については本土米作地帯に比して極めて消極的で、 0 0 隠岐 0 340 18 大正5年、島根県内務部編の「農事参考」(島根県立図書館蔵)によると、金肥反当投下量は島根県平均969円に対して隠岐は114円、手間肥は県平均2307円に対して隠岐は362円であった。こうした施肥量の過少性は、小作農民において 1916 0 大正5年 隠岐 丙辰 0 340 21 金肥購入資金の欠乏していることと、高収穫が小作農民にとって必ずしも資本蓄積に結びつかず多穫生産に消極的であったことによる。明治新政府の殖産興業政策が既に明治3年段階で、行政官庁(鳥取県隠岐出張所)を通じて離島隠岐まで徹底し、 0 0 隠岐 0 341 29 小国屋篤治郎と称する養蚕指導者を廻村させている。しかし、その後直ちに養蚕業が普及発展した形跡はない。明治7、8年ごろ、近江国より高木某が来島し、海士村の豪族村上祐九郎、村上信一郎がその指導を受け桑樹栽植をなし、福井地区に養蚕業が興り、 0 0 隠岐 0 342 2 次いで黒木村宇賀、物井地区に波及したもようである。明治10年の全国物産表に隠岐四郡の産繭四斤と記し、その産地を知夫郡と記してあるのは、明治7、8年における桑樹栽植がその効を発したものと思われる。「隠岐統計書」の中で、明治26年以後 0 0 隠岐 0 343 9 桑園面積が逐年増加し、養蚕業が全島に普及するのは、赤間島司が「殖産の急務」として、「山野開墾して桑畑の拡張」、「桑畑集団地域育成」、「良質桑苗の移入」、「養蚕経営者への補助金交付」を実行したことによることが大きな原因となっている。 0 0 隠岐 0 343 13 明治30年代から大正時代にかけては、養蚕業は隠岐島農業の中で、現金収入面では首位を占めるにいたり、大正8年には繭移出金額は全島移出金額の30、2%を占め、それまで首位を占めていたスルメ(28、5%)と地位を交替している。明治 1919 0 大正8年 隠岐 己未 0 343 16 31年から大正9年までの発展の経過を統計によって眺めると第99表のようになる。林業の近代的展開。移出商品としての林産物。「早害の原因をつらつら思うに、是れ全く山林濫伐よりして此の害を来すのである。然るにその山林濫伐は維新前後において 1920 0 大正9年 隠岐 庚申 0 345 5 木材の販路が拡張し、大阪、長崎、神戸は勿論、遠くは長崎を通じて支那まで輸出することになったのである。今では隠岐国の輸出木材は実に巨額なものである。そこで木材の価格が暴騰し山林濫伐を来したのである。」木材の商品化が進んでいたことがわかる。 0 0 隠岐 0 345 12 島後布施村のように早くから共有林を統合して村有林とし、計画的な植林をなし、伐木も一定の規準のもとに行なうような山林経営が計画されたところは別にして、隠岐の植林が全島的に普及したのは明治20年代に入ってからで、これは、行政当局の 0 0 隠岐 0 345 17 指導によるところが大であった。明治初期の林政。この文書によると、共有林の数は全島で516体を算している。台帳面積では162町1反2畝5歩で、1体当りの面積は3反1畝であるが、実面積はその十数倍に及んでいる。その分布の特色は各部落に 0 0 隠岐 0 346 1 散在していて、特定の場所に偏在していないことである。もしこれが分散せずに数カ所に集積していたらば恐らく国有林化されていたであろう。地租改正時に分散していることと旧幕時代以来の慣行がみとめられて、国有林化されなかったことは隠岐の 0 0 隠岐 0 346 3 林野所有上の一つの特色である。官行、県行、公社造林。ところが昭和初期に国有林が突如として出現するのはいかなる事情によるものであるか。これは大正13年(1924)より向こう66年28日の期限を限って、周吉郡中村村長木下茂次郎が国との 1924 0 大正13年 隠岐 甲子 0 350 13 契約において、「官行造林」を申請し、それが成立したからである。土地所有権は地元は保持のまま地上権(利用権)を官(国)に移し、国が植林を行なうといういわゆる官行造林である。官行造林の契約満期は、昭和65年(1990)6月31日で、 1990 631 平成2年 隠岐 庚午 0 350 17 既に昭和50年現在で50年を経過している。伐採完了後の山は当然、中財産区に所有権も地上権も戻るので、財産区有林の面積は年々増加する。国有林の面積は逐次縮小し、契約満期後は零になる。官行造林に対して現在各地で実施されているのは「県行造林」で、 0 0 隠岐 0 350 26 地上権を島根県が持った「県有林」が増加しつつある。村有林の成立過程。安政開国以来、隠岐の木材は対岸、上方のみならず、長崎市場まで販売され、造船用材の樅の板は中国まで輸出された。需要の拡大は私有林材の外に奥地入会林の天然材の伐出しを 0 0 隠岐 0 356 4 盛んにしたので、その伐採後に造林が必然的に要請された。そこで、造林体制は自然と整備され、また、共同製材場(間板小屋けんたごや)も設置されるにいたった。明治期に入り、村落制度が改まり、戸長役場制度となると、入会林は「区有林」として扱われた。 0 0 隠岐 0 359 13 共有林の整理統一。隠岐における町村制の施行は本土と著しく趣を異にし、町村制の完全施行は大正8年(1919)である。明治37年に「町村の制度に関する件」という町村制に類似した形態が行なわれたが、本土に比してその自治内容はかなり制限が強く、 1919 0 大正8年 隠岐 己未 0 359 16 官僚支配体制が強固で島司の権限が強かった。しかし、隠岐島の町村にも法人格が与えられ、町村における経費の負担区分、条例規則などの制定権など明確になり、基本財産の設置も認められた。これに伴って旧村持ちの共有林野の性格も重大な変化に直面 0 0 隠岐 0 359 19 することになった。従来の村民総有的利用の行なわれていた共有地が新たに結合の結果生じた新村の財産となるので、従来の利用者は原則的には新村に対して使用料を払わねばならなくなる。施業要領の性格。近世以来植林された杉は早くは表日本の型の吉野杉で 0 0 隠岐 0 362 18 享保年間に民有林の多い里山(沿海の集落近辺)に植林されたが、奥地の高冷地には適さなかった。その結果吉野杉系統のものは近代にはほとんどその姿を消した。現在の杉の品種は在来種と、移入種にわかれる。在来種は里山に多い表日本型のものと 0 0 隠岐 0 362 22 奥地の天然林地区に多い裏日本型の2種にわかれ、前者は針葉角度が鈍角、後者は鋭角で、感触は後者が柔軟である。移入種は、隠岐において実生から固定した優良種を得ることは困難なので、いずれも挿木苗による苗木の導入という形態をとらざるを得ない。 0 0 隠岐 0 363 14 したがって移入種を現在隠岐で種苗育成する段階にはいたっていない。昭和5年に森林組合林は340町歩が村有林に合併され、公有林が村有林主体となった。ここで村有林面積は台帳面で1067町歩に拡大した。 1930 0 昭和5年 隠期 庚午 0 372 6 牧畜の近代的展開。近代の牛馬頭数の推移。「抑々耕牛の強弱は農業の盛衰に係わる所大なり、而して方今肉食の道大に開け、牛馬日々に高騰せり、今にして産牛の繁殖、種牛の改良を計らざるべからず」これによると、明治10年代に「産牛の繁殖」が主要な 0 0 隠岐 0 372 8 課題であったことがわかる。しかもその目的が、近世の耕牛飼育の性格に加えて、近代にいたっては「肉牛」飼育が新たに発達したことをっ立て物語っている。したがって、女牛の増加は、隠岐が役肉牛の生産地帯とあいて、仔牛生産を目的としたことを 0 0 隠岐 0 372 12 示すものである。「男牛(こてつ)」より「女牛(うなめ)」を重視する生産形態となったことを示すもので、近世以来の牧畑耕作、水田耕作の耕牛を主とする牧畑より、商品として牛を生産しようとするように牧畜が変化したことを示すものである。 0 0 隠岐 0 372 16 明治30年代には軍事目的から7000頭を越える飼養が行なわれたが、生産、移出はその割には増加していない。これは壮丁が兵役に服し、労働力不足を耕牛が補ったからである。在来種の和牛は成熟するまで6年位かかる晩熟性小型牛で、販売まで 0 0 隠岐 0 372 23 年数がかかりすぎ、かつ小型で商品性が低かったため、明治30年代から英国種のノ−スデボン種が隠岐島庁の宇野技師によって導入され、大正初期にはほとんど早熟性品種への改良が完成した。しかし、役肉牛生産には当然肥育が条件となるために、単なる 0 0 隠岐 0 373 2 牧畑への放牧の粗放的生産では目的達成が困難である。濃厚飼料による「舎飼育牛」が要請される。ここにおいて、「舎飼」地域と放牧地域が隠岐島内において分化してきた。現代隠岐の牧畜。特に島後では「牛突き」と称する闘牛が定期的に実施されるが、 0 0 隠岐 0 374 19 観光 ここで「勝ち牛」となると、一般牛よりはるか高値がつき取り引きされる。そこで飼育者は肥育に努力する。このことは、肉牛としての隠岐産牛の銘柄保持のため重要な手段であって、単に島民の娯楽、観光用のためではなく、もともとは経済的な肉牛生産手段であった。 0 0 隠岐 0 375 6 牧畑の機能変化。さらに耕作機能が全面的に停止し、放牧のみが維持されると、事情はまた変化する。それは森林育成地と放牧地の分化である。なぜそのように分化するかというと、耕作機能が停止すれば、牧野改良の実施が可能であるからである。 0 0 隠岐 0 375 8 これは大正時代には見られなかった現象で、昭和時代に入って耕作機能が停止した地域からしだいに牧野改良が進んでいった。例えば、島前の浦郷地区では耕作機能の停止に伴って、牧畑を完全牧野にすることとし、牧畑耕作時には1097町の牧畑面積のうち 0 0 隠岐 0 375 13 耕作地として216町は完全牧野にはならず、恒常的な放牧場は831町には拡大されなかったが、昭和25年より牧野改良を開始した。草地改良によって同年度の600頭放牧は10倍近い5000頭まで拡大飼育可能と計算された。その条件は「牧草栽培」、 1950 0 昭和25年 隠岐 庚寅 0 375 16 「土地改良」の2種で、昭和27年(1952)以降は7割国庫補助で具体化された。しかし、長期にわたる慣行のもとで牧畑は維持されてきたので、新方法による牧野改良は全面的には施行できなかった。その最大の理由は、牧野改良を実施するためには 1952 0 昭和27年 隠岐 壬辰 0 375 25 牧場の団地化が必要であったが、これを実施するとなると、牧野中の私有地の共用性をさらに強化する必要が生じるので、私用の自由を大幅に制限する必要賀生じ、また、飼育設備の拡大、耕作地と牧野の厳重区画等も要求されることになる。 0 0 隠岐 0 377 1 農機具の導入と役畜の変化。まず統計内容を見ると、昭和40年までは役肉牛統計という見出しで統計がとられているが、昭和45年度の統計からは肉用牛統計と見出しが変化し、仔牛生産頭数の記載が統計上から姿を消す。こらは単に隠岐のみの畜産統計方法 0 0 隠岐 0 377 3 でなく、農林統計方法の変化によるものである。隠岐でも例外でなく、昭和36年に西郷地区に最初2台の自動木耕耘機が導入され、翌年には17台、以後逐年その数を増し、40年には128台、45年には637台、49年には713台となった。 1961 0 昭和36年 隠岐 辛丑 0 377 9 このうち西郷地区に294だい、五箇に114台、都万108台、海士93台、その他の地区104台である。島後の肥育地帯で、役牛の意義が農機具普及のために失われてきたので、島前は生産地帯、島後は肥育地帯という地域的特色はその意味が失われてきた。 0 0 隠岐 0 378 1 飼牛目的変化と牧畑の対応。既に耕作機能は完全に消滅し、牧畑全体が放牧利用と休閑(閉鎖)に分かれていて、牧野としての機能を示しているのみである。この地域では昭和38年(1963)以来耕作は行なわれず、隠岐で最後まで耕作をつづけていた 1963 0 昭和38年 隠岐 癸卯 0 378 4 知夫牧畑も昭和42年(1967)西牧の小豆作付を最後として以後は耕作は行なわれず、その後は牧野として利用されているのみである。耕作は採算がとれないから実施はしないとしつつも、放牧は旧慣の基礎の上に少しずつ牧野の効率的利用を計ろうと 1967 0 昭和42年 隠岐 丁未 0 380 10 するものである。牧畑牧野の改善要点。1、母牛の繁殖が第一の条件である。優良種の繁殖を目指しているから、すべて人口受精によって、放牧中の自然交配は行なっていない。男牛は去勢牛以外は放牧しない。2、仔牛の哺育技術改善、仔牛の平均哺育期間は 0 0 隠岐 0 380 13 9カ月半で、市場出荷する。仔取り生産を目的とした飼育方法は当然仔牛の肥育を前提とし、かつ母牛の生産能力を保持する二つの条件をみなす必要があるので、「保育牧区」、「哺育舎」の設置充実が必要とされているが、昭和51年現在においてはまだ 0 0 隠岐 0 380 17 実現にいたっていない。しかし、このことは、母牛の健康管理と、再妊娠可能の体調整備をはかることと、仔牛を9カ月半で200キログラムまで肥育するためには、将来の実施を強くせまられていることである。現在、既に実施している飼育改善法は 0 0 隠岐 0 380 22 大体次ぎのように要約できる。イ)ダニ駆除施設の設置、これは動力噴霧機による駆除剤の付け噴きつけ、パドック、薬浴槽の3種である。薬浴槽は駆除剤浴槽に牛を入浴させる方法である。このダニ駆除は大きな成功をおさめ、牛の健康管理と肥育に大きく 0 0 隠岐 0 380 26 役立っている。ロ)種付技術の改良、系統繁殖と凍結精液利用による人口受精の実施の二つである。前記のように、放牧中の自然交尾は皆無で、優良系統牛による種付けを実施し、種牛は家畜保健所で飼育され、凍結精液として保存されている。 0 0 隠岐 0 381 1 ハ)、早期離乳と別飼実施、母牛の生産力を高め、仔牛の肥育のための条件で、理想的方法としては哺育牧区を設け、哺育舎を設置することであるが、現在では実施方法の研究段階である。次善の策として、早期離乳を実施し、母牛の体力回復をはかり、 0 0 隠岐 0 381 6 舎飼飼育による仔牛の哺育を行なっている。ハ)、飼料作物の栽培普及、母牛保護、仔牛哺育の充実策として冬期の舎飼は現在絶対条件となっているが、このためには乾草稲藁の確保(サイロ保存)を必要とする。稲藁は島前の牧畑地帯にはほとんどないから 0 0 隠岐 0 381 12 島後又は本土側から移入している。乾草は牧畑の牧野改良によって自給しなければならない。このために人口草地が牧畑地区で緊急問題として取りあげられ、昭和40年(1965)からその整備拡大は多くの隘路を待ちながら進展している。西ノ島では 1965 0 昭和40年 隠岐 乙巳 0 381 15 昭和46年(1971)までに120ヘクタ−ル、48年には18ヘクタ−ル、49年10ヘクタ−ル、50年20ヘクタ−ルと拡大し、同年末には168ヘクタ−ルの人口草地が造成された。知夫島では昭和43年(1968)5ヘクタ−ル、44年 1973 0 昭和48年 隠岐 癸丑 0 381 18 20ヘクタ−ル、45年30ヘクタ−ル、46年13ヘクタ−ル、47年12ヘクタ−ル、48、49、50年に各10へクタ−ル、同年末に110へクタ−ルに達した。その分布地域は第61図のようである。人口草地の造成は牧畑の近代牧場化の前提 0 0 隠岐 0 381 20 条件であるが、私有地に造成されるので、当然私有と共用の問題が相対立し、牧畑を計画的人口草地として全面改良することを阻んでいる。現状では放牧地にある個人有の同意を得て開発するわけである。草地造成事業は町村が事業主体者で、造成後は町村村 0 0 隠岐 0 381 24 飼牛者の共用で、牧畑を以てその地区だけを囲むことはしない。しかし、採草の権利は土地所有者のみに限られている。したがって牧野改良、人口草地造成による集団的飼牛は、土地所有者による多頭飼牛という形態を指向する。 0 0 隠岐 0 383 10 牧畑地域の個人牧場。牧畑内における個人牧場化が知夫島のみに定着し、西ノ島、中ノ島で発展しなっかのは牧畑内における土地所有の階層差に原因がある。田、畑、草地、山林内放牧地をすべて保有し、特に草地を広く持った農家が個人牧場を設置しやすいわけで、 0 0 隠岐 0 383 13 草地を持たない農家は個人牧場設置はほとんど不可能である。西ノ島では、牧畑が八牧に散在し、知夫のように部落に近いところに所有地が集中していないから個人牧場管理が困難で、地主的土地所有も知夫のように発展していない。中ノ島では牧畑の森林化が 0 0 隠岐 0 386 3 去勢牛の短期肥区育を意味する大衆肉牛の生産に主点が方向づけられるが、これもせいぜい1年以内の肥育で、長期肥育すればするほど飼料購入費が多くなるので採算がとれなくなる。その結果、男仔牛の場合は、生後3カ月で去勢し、その後4か月自己 0 0 隠岐 0 386 6 飼料で飼育し、7カ月から9カ月で市場に出すということになり、女仔牛の場合は、将来母牛として仔取生産用とする自家用分以外は、当歳牛で移出を余儀なくされる。島嶼経済の衰退傾向。第117表と118表の比較の中で、同一地区の牧名がかなり 0 0 隠岐 0 395 16 へんかしていることも注意すべきことで、同一の牧が別名で呼称されている。これはその地区の人が固定した名称で牧畑を呼んでいなかったことのためである。第118表を見て注目すべき点は、牧畑の所有が、地区民の中の何人かの共同による所有であるものと、 0 0 隠岐 0 395 20 地区有のものと、惣(郷)有のものの3種があることである。これは牧畑の個々の土地の所有のことではなく、その牧畑を運営する母体が、郷であるか、地区であるか、個人の結合(講組結合と解してよい)であるかということである。浦郷牧畑は地区の単位から 0 0 隠岐 0 395 25 成立しているが、牧畑は浦郷持、赤之江持ではなく、広義の浦郷(惣村としての)持である。是と同じ惣村持ちは知夫牧畑で、知夫の地区郡(狭義の知夫)、古海、来居、仁夫里、薄毛の地区から成っているが、それらの個々の地区有の牧畑はなく、知夫島を 0 0 隠岐 0 396 1 一括して牧畑は運営されてきた。これに対して黒木地区、海士地区の牧畑は地区単位の牧畑である。島後の場合は表から明かのように某々他何名持の牧畑である。この側面から牧畑の衰退を見ると、まず島後の個人共同持の牧畑が最も早く消滅し、次いで 0 0 隠岐 0 396 4 地区単位の牧畑が消滅し、最後まで存在したのは惣村(郷村)持ちの牧畑であったことが明かである。牧畑における耕作の減少、森林化の進行は牧畑機能の内部的変化で、牧畑そのものの経営、慣行の衰退とは必ずしも一致するものではない。仮に耕作機能、 0 0 隠岐 0 396 13 牧畜機能が衰退しても牧畑経営、輪転関係及びこれを支える社会体制の解体がなければ牧畑の経済体制のメカニズムは持続されるわけである。したがって現在牧畑の耕作機能は停止し、牧畑経営は牧場経営の手段としてのみ存在するが、これを以て牧畑の 0 0 隠岐 0 397 1 全面体消滅とはにわかに断じ難い。島嶼農業の衰退。その生産性を高め得ない社会経済的な原因は市場商品として隠岐島の農作物が成立し難いところにある。現在の隠岐は米は自給できないのではなく、自給しないので、自然条件の責に帰すことは誤りで、 0 0 隠岐 0 400 6 社会経済的な人為条件によって未耕作状態が作られ、このことは島民も知悉していることである。隠岐の畑作の特色。イ)昭和初期には、牧畑は島前の大部分及び島後の一部に分布し、輪転耕作種の麦、粟、黍、大豆、小豆は普遍的に作付されていた。 0 0 隠岐 0 401 8 食事 稗は僅かしか耕作されなかった。ロ)、牧畑の耕作機能は昭和30年代にいたって急速に衰退した。これは戦後の昭和20年代には全国的食糧不足があり、雑穀耕作も行なわれたが、食糧事情の好転と人口の都市集中の進行に伴って雑穀依存度が減少したためで、 0 0 隠岐 0 401 12 牧畑の耕作機能は雑穀生産の衰退と表裏一体の関係にあった。ハ)、牧畑耕作面積を農協調査によって表化すると第121表のように表化できる。つまり昭和43年(1968)以降牧畑は耕作機能を停止し、牧場として輪転しているのみである。もちろん 1968 0 昭和43年 隠岐 戊申 0 401 16 輪転内容は耕作時代より簡略化した。ニ)、昭和40年代にいたり、農業生産が商品作物本位になると、本土の商品生産的農業地域との地域格差はますますその度合を大にし、畑作は農家の自己消費本位の(商品化を目的としない)耕作にとどまり、 0 0 隠岐 0 401 19 畑作の経済的地位は低下した。 0 0 隠岐 0 108 10 貨幣 政府が明治元年中に三都の豪商から借りた金の総額は、約3484万両であるが、それは、同年の政府の通常歳入、約366万両を上回る。また政府は由利公正の意見にもとづき、閏四月から太政官札という不換紙幣の発行を始めた。その額は翌年五月までに四八○○万両に達した。 1868 0 明治元年 日本の歴史20 戊辰 0 108 14 貨幣 政府はこの通用を強制し、札に相場をたてさせることを禁止した。しかしじっさいは相場のたつのを抑えられるものではなかった。強制にもせよ、この巨額の不換紙幣がまがりなりにも通用したのは、三井ら巨大商人がこれを支持したからである。かれらは政府の財政機関の実務の 1868 0 明治元年 日本の歴史20 戊辰 0 109 1 貨幣 中心に入りこんでいた。かれらは政府から巨額の献金や強制借入れをさせられたが、その半面では、それを上回る利益を、政府財政を取り扱うことによって得た。 1868 0 明治元年 日本の歴史20 戊辰 0 175 3 貨幣 この造幣所は三年十月完成した。そこで新鋳された金・銀・銅貨はみな円形で、金貨は二十円・十円・五円・二円・一円の五種、銀貨は五十銭・二十銭・十銭・五銭の四種、銅貨は一銭・半銭・一厘の三種であった。日本の通貨で、円・銭・厘の単位と十進法が決まったのはこの時で 1870 1000 明治3年 日本の歴史20 庚午 0 192 4 貨幣 旧藩の内外人にたいする債務および藩内かぎり通用の不換紙幣である藩札は、すべて政府が継承した。その総額は、無利息五十年賦払戻しとした公債が1097万円、四分利付で22年間抽籤償還とした公債が1242万円あった。諸藩の外債で政府が引き受けた総額は、元利合計 1868 0 明治元年 日本の歴史20 戊辰 0 192 7 貨幣 2794万4千円余。藩札は七月十四日の相場で、同年未発行する新紙幣と引き替えることにしたが、それらの藩札などの種類は1694種もあり、明治12年(1879)四月の期限までに引き替えた金額は、新紙幣で2291万円余にのぼった。 1879 400 明治12年 日本の歴史20 己卯 0 192 10 貨幣 すなわち経済的には、旧藩知事も士族も旧藩にたいする内外の債権者も(藩札所有者も一種の債権者である)、だれ一人として廃藩そのことによって損をするものはなかった。むしろ旧藩主らは、とうてい払えないことの明らかな借金をすっかり政府に肩代わりしてもらい、 1879 400 明治12年 日本の歴史20 己卯 0 192 12 貨幣 内外の債権者も確実にそれを取り立てることができるようになったので、経済的にだけみれば、旧藩主らにとっては廃藩は利益にさえなった。ここに廃藩にたいして諸藩の抵抗がおこらなかっち理由の一つがあろう。 1879 400 明治12年 日本の歴史20 己卯 0 203 6 風俗・制度 四民平等についていえば、政府は明治3年9月、それまで平民に禁ぜられていた苗字を名乗ることを許し、廃藩直後の4年8月には、華氏族の散髪と脱刀は「勝手たるべきこと」とした。この文面では、散髪・脱刀を強制するのではないが、事実はそれが強力にすすめられた。 1871 809 明治4年 日本の歴史20 辛未 0 203 8 風俗・制度 同月、また、平民が羽織や袴を着用する服装の自由をみとめた。同月、さらに士族が下民のささいな「不敬」をとがめて、はなはだしいのは斬りすてるなどのことは、「御維新ノ今日アルベカラザルコト」とし、地方官をして心得違いのないように士族をあつく教諭させた。 1871 809 明治4年 日本の歴史20 辛未 0 203 11 風俗・制度 また華族より平民にいたるまでの通婚の自由をみとめ、年末には、華氏族が在官中のほかは農工商の職業につく自由をもみとめた。平民が官吏・将校になることも、これより以前にすでに制度上は可能になっていた。 1871 809 明治4年 日本の歴史20 辛未 0 203 14 風俗・制度 このようにして服装・結婚・職業と身分が分離され、その点での四民の差別が制度上ではなくなったばかりでなく、4年8月28日には「穢多・非人の称廃され候条、自今、身分職業とも平民同然たるべきこと」とされて、千年以上にわたる賎民制の廃止が発令されたのは「四民平等 1871 828 明治4年 日本の歴史20 辛未 0 222 5 風俗・制度 天長節・紀元節・神武天皇祭・新嘗祭などの国家的祝祭日がつくられると同時に、人日ジンジツ(1月7日)・上巳ジョウシ(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)という民衆の伝統的な五節句は廃止された。 1873 0 明治6年 日本の歴史20 癸酉 0 223 5 風俗・制度 明治13年ごろの東京でさえも、市民が天長節に自発的に国旗をかかげるものは少なく、巡査が戸ごとに強制して歩かなければならなかったことが、帝国大学雇教師、ドイツ人ベルツを悲しませている。しかし警察の力によってでも、こういう祝祭日が20・30年とつづけられる 1880 0 明治13年 日本の歴史20 庚辰 0 223 8 風俗・制度 うちに、それはいつのまにか国民生活上の習慣となる。また明治の日本人は、統治者としての天皇陛下にたいする政治的に自覚された尊敬をもつよりも、かなり急速に、神様の子孫である天子様にたいする宗教的畏敬をもつようになった。 1880 0 明治13年 日本の歴史20 庚辰 0 223 10 風俗・制度 三浦観樹将軍はその回顧録で、かれが東京鎮台の司令官であった明治20年ごろのことについて、「兵隊に天皇陛下ということを教えるのも容易でなかった。天子様といえばすぐわかる」と語っている。 0 0 日本の歴史20 0 226 14 貨幣 政府は田畑作物の自由をみとめた。これより先4年5月、政府は一定の条件のもとに年貢の代金納をみとめていたが、(畑年貢は3年7月から無条件に代金納)、田の年貢として米を納めなくても、年貢米の代価に相当する金額を納めればよいということは、その田で米を作らず、 1871 900 明治4年 日本の歴史20 辛未 0 227 1 貨幣 ほかの有利な商品作物をつくってもよいということを、消極的に意味していた。いま、一歩を進めて積極的に作物の自由を認めたのである。5年2月、田畑永代売買の自由をみとめ、売買譲渡のさい、その所有権を国家が確認する地券を交付することを布告し、さらに七月、 1872 200 明治5年 日本の歴史20 壬申 0 227 4 貨幣 すべての私有地に地券を交付することが令せられた。 1872 200 明治5年 日本の歴史20 壬申 0 227 10 貨幣 明治六年七月、地租改正が布告され、その具体的な手続きを定めた条例と規則が公布された。新法の骨子はつぎの四点である。1)以前の年貢は、土地の収穫を基準として、田租は米納、畑租は現物納または代金納であったが、新地租は、土地の価格を政府が決定し、その地価を 1873 700 明治6年 日本の歴史20 癸酉 0 227 13 貨幣 基準として田畑租とも金納とする。2)地租の税率は地価の百分の三とし、地租の三分の一以内を村入費として付加する。年の豊作凶作によって税金の増減はしない。3)以前の年貢は、村を単位にその村の石高に応じてかけられ、村内の滞納者の分も五人組または村全体の連帯で 1873 700 明治6年 日本の歴史20 癸酉 0 228 1 貨幣 納めたが、地租は土地所有権者個人からとる。その個人が納税出来なくても、だれも連帯責任は負わされない。4)地価は、改正後五年たてば、時価によって改正する。(この規定は明治七年に地租条例第八章として追加された) 1873 700 明治6年 日本の歴史20 癸酉 0 0 0 電気 島前電気会社が設立 1922 0 大正11年 たちあがる隠岐 壬戌 0 0 0 電気 中国電力会社が隠岐の電力関係会社を統合する 1951 0 昭和26年 たちあがる隠岐 辛卯 0 0 0 ラジオ 島根県に放送電波が行きわたるようになったのは、昭和7年3月、全国で17番目の日本放送協会松江放送局が開設されてからであるが、開局当初のラジオ聴取者数はわずか1436人に過ぎなかった。 1932 300 昭和7年 島根県大百科事典 壬申 0 0 0 テレビ 日本放送協会松江放送局がテレビ放送を開始したのは昭和34年10月であった。 1959 1000 昭和34年 島根県大百科事典 己亥 0 0 0 テレビ 島根県においては、昭和44年11月からテレビ放送を開始した山陰中央テレビ(テレビ専業局) 1969 1100 昭和44年 島根県大百科事典 己酉 0 0 0 テレビ 鳥取県に本社のある日本海テレビ(昭和34年3月テレビ放送開始) 1959 300 昭和34年 島根県大百科事典 己亥 0 0 0 ラジオ 山陰放送(昭和29年7月ラジオ放送開始)からの放送も島根県をエリアとしていきわたっている。 1953 700 昭和28年 島根県大百科事典 癸巳 0 0 0 テレビ 山陰放送(昭和34年12月テレビ放送開始)からの放送も島根県をエリアとしていきわたっている。 1959 1200 昭和34年 島根県大百科事典 己亥 0 0 0 隠岐連合町村会で本土連絡の汽船購入を決定 1884 400 明治17年 島根県大百科事典 甲申 0 0 0 隠岐電灯株式会社設立 1911 800 明治44年 島根県大百科事典 辛亥 0 0 0 隠岐のクロキヅタ産地を国の天然記念物に指定 1922 300 大正11年 島根県大百科事典 壬戌 0 0 0 知夫郡黒木村に隠岐保健所設置 1943 900 昭和18年 島根県大百科事典 癸未 0 0 0 隠岐の知夫・海士・周吉・穏地郡を隠岐郡とする。 1969 400 昭和44年 西ノ島 島根県大百科事典 己酉 0 0 0 隠岐郡西ノ島町で県下初の町営バス運行 1972 400 昭和47年 島根県大百科事典 壬子 0 0 0 隠岐・島根半島沿岸に廃油漂着 1976 0 昭和51年 西ノ島 島根県大百科事典 丙辰 0 0 0 隠岐島豪雨で被害大 1977 808 昭和52年 島根県大百科事典 丁巳 0 6 17 郵便 郵便発信(21578通)着信(37777通)(別府郵便局) 1899 1200 明治32年 西ノ島 隠岐誌 己亥 0 6 18 郵便 郵便発信(25133通)着信(43539通)(別府郵便局) 1900 1200 明治33年 西ノ島 隠岐誌 庚子 0 6 19 郵便 郵便発信(27547通)着信(47347通)(別府郵便局) 1901 1200 明治34年 西ノ島 隠岐誌 辛丑 0 41 24 薪・焼火 明治十六年海士知夫両郡山林境界論を和解したること。知夫郡美田村焼火山は森林欝蒼たり然るに同郡浦郷村宇賀村知夫村海士郡福井村崎村布施村は薪林すら乏しく畑地のみ多牟と先に旧幕府の領地にして松江藩の支配に属する時役所 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 0 41 28 薪・焼火 へ用いる薪炭は各村より出すの慣行にありしが右六ヵ村は之に充つるの材料なく依って之を松江藩支配役所に乞い該材を焼火山に仰ぎ従って人民の日用薪木をも伐り取り遂に地の区域を定め一村中の共有林となりしか美田村に於いては 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 0 41 31 薪・焼火 己に松江藩支配を解き役所に用いる薪材の必要消滅したるしたる以上は該地は美田村に復帰するこそ至当なれと七ヵ村に対し之が請求を為したるより惣代大に葛藤を起こし己に裁判を仰ぐ日あり該事件に関し、布施村用係前田虎次郎始 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 0 41 35 薪・焼火 め舟子若干名、は裁判所往復の途中暴風波の為め沈溺し非命の鬼籍に載れり於是乎人心の沸騰殆ど治安を害せんとする勢に至れり仮令該事件は公判の決する処に服すべきも原被両造の葛藤は呉越の恨みよりも浅からす如此は最爾たる小 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 0 41 39 薪・焼火 国中千歳不磨の悪結果を見るは火を見るよりも明らかなれば、之を鎮定するは治者の責任と断定し之か仲裁談判に着手せんことを島根県令に請求するも、允許を得ず、職を犠牲に供し該地に就き他村有志者をも召集し三十日の久きを経 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 0 41 42 薪・焼火 て原被両造の調和を整へ長く人民の治安を保ちたるは実に氏(高島士駿)の功労なり。 1883 0 明治16年 隠岐誌 癸未 308 355 10 地名・観光 知夫郡四郡(欄外)知夫郡下、〈令義解和名抄〉属島前、曰知夫島、〈周凡七里〉曰西島〈周凡二十里、属島四十五〉知夫在出雲島根郡西北、西島在知夫東北〈国図〉領郷四〈和名抄〉宇良、〈今曰浦郷別成一島在郡西称西島〉有由良比女社〈延喜式〉 1906 0 明治39年 丙午 308 355 11 地名・観光 有珍崎與知夫島相対其間曰赤灘瀬戸〈視聴合記国図〉由良、〈今別府村属七村在宇良東〉有比奈麻治比売命社、真気命社延喜式有別府〈按隠岐古記云、初国府在島後、当時派吏於此、以治島前二 郡、故曰別府〉即後醍醐帝駐蹕之処、所謂黒木御所也〈太平 1906 0 明治39年 丙午 308 355 13 地名・観光 記、視聴合記〉三田今美多郷、〈属村六在由良西南〉後曰美田院〈視聴合記〉有大山社〈延喜式〉知夫、〈按本書不戴、蓋渉郡名到脱間也、今知夫島、在三田南、属村八〉・・ 1906 0 明治39年 丙午 0 219 1 紀行 隠州視聴合記・巻四・島前記・知夫郡・同別府。島前は地脈三つに断たれて三島たり。海部郡一つ、知夫郡二つ、皆峻高にして原野あらず、故に嘉蔬少なくして、菽麦多し、其草は惟れ短く其木は惟稀なり、其山は峻にして其村落は皆山を後にし海を前にす、此 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 219 6 紀行 故に網引漁釣を事とし、此を山税海租とす。海部は坤より艮に長く、知夫は其西南より北方に曲りてケンサンたるカイ山なり、其半面東の内浜に向ふ所、則ち別府なり。古島後より一小吏を遣わし、島前の事を知らしむ、故に此を別府という、北の小岡に昔の館 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 219 9 紀行 所あり、今の駅亭は其下なり、代官の家此にあり。民家左右に分かれ、猶地勢高くして遠きを見る。河の南に見付島と云うあり。蓋崎邑より入来る船の、先ず此島を見るによりて名づく。其南の山崎に松樹多く生出す此より美田郷の境なり、即ち美田尻といふ、 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 220 1 紀行 上に八幡宮あり、別府の古吏の氏神といふ。府より西は山にして半腹に飯田寺といふあり、越えて西に下れば高崎といふ、高岸千丈雑樹多し。海に立島といふあり、此を白島といふ、釣魚の宜地なりとぞ。府より北の山崎を黒木と云ふ。伝に曰く、昔後醍醐天皇 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 220 4 紀行 姑く狩し玉へる所なり、故に今に到りて黒木皇居と云ふ、北の方海に随ひて東が崎と云ふ所を過ぐれば、北の山を香鴨といふ、寺ありて香鴨寺と号す、其崎を廻り行けば、十四町ばかりにして宇賀村に至る。 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 220 7 紀行 宇賀村。宇賀村は内海の岸辺、地形別府に似て狭し、後の山間に田園ありて往来崎嶇を経、十町ばかりを西北に越ゆれば外海に出ず、此処を鹿浦と云ふ。是より南別府山に次ぎて、耳が浦といふあり、皆人家なくて岩間にて漁釣をなす。村より左は倉谷といふ。 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 220 10 紀行 海岸を北へ回りて山下を行くこと十九町にして、大宇賀小宇賀といふ蜒家あり、十町ばかり丑寅に廻り行きて海に冠島二股島あり、北へ行く事三十町にして、沖の方に星神といふ嶼あり、雨を祈り風を祈る、高さ五十間廻り百六十間此より北は海漫々として天を 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 221 2 紀行 窮む。別府に帰りて八幡の前より西の方小坂を越えて美田に行く、左右は皆翠微にして或は少しく田園あり。 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 221 4 紀行 美田郷(或は美田院と云ふ)。美田郷に東より入り小坂を下れば又田園あり、左に古き神祠あり、西に向かふ高平の地に旧石塔の大なるあり、一国の中物の是に似たるなし、想ふ故あらん、然れども銘摩滅して證す可らず。此より下れば入海の渚に出づ、南に去 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 221 7 紀行 る事三十町ばかりにして海に出たる小島あり、此を小山と云ふ、松根波に濯はれ、岸高き上に旧坊あり、此より右に行く山の腰に長福寺あり、岩径斜にして松竹柴門を蓋へり。其麓は田圃ありて、温居市部大津小迎船越なんど云ふ村店あり、皆入海の岸に臨み、山 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 221 10 紀行 に随つて住居せり。其船越といふ村より外海に出づること甚だ近し、東西の山勢尽きて、陸地十八九間ばかり海に出づる径亦此の如し。往年多力の賊夫あり、入海の岸より船を負ひて外海に出でて終日釣漁し、又負うて入海に帰る、故に此村を船越と号す。 克く 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 222 1 紀行 船を遣ることあり、況んや近き海辺をや、萬言にあらざるべし。此辺の小村は皆美田の境内にして、税賦も亦同じ。彼小山より寺前を左へ行けば、美田本郷に至る。三方は山にして、未申に向かいては入海の岸上なり、茂樹繁竹の間山路縦横なり、板屋茅屋軒を 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 222 4 紀行 接へ、田俊船叟群居す、此も亦昔は院の御料とて美田院といふ訝し、何故かあらん。或人曰く造蔵院のある所を院といふとぞ。南に松山あり海の西へ指出たり、越ゆれば遠く波止村につづけり、其間樵路多くして近隣の者薪柴を探り、背の山の東麓より内海を伝 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 222 7 紀行 行けば美田までは三十一町、其間を大山脇と云ふ。「按神名帳知夫郡有大山神社此山焼火之神歟、謂之脇則斯山可為大山者可知牟、脇者其麓根之義歟、」大山脇より南に去る事海路十六町にして、山南に大巌の峨々たるあり、高き事五尋あまり、上に穴二つあり 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 222 11 紀行 一口は未申に向ひ、一口は巳に向ふ、内の広さ丈余ばかり、此を文覚が岩窟と云ふ、昔文覚投荒せらるる時、此に居て修練す、小松側に生じ苔蘚石を彩れり、岩下浪翻り怒潮音誼し、遡回して従はんと欲すれば、崖岨て且つ高し、船中より見るのみなり、一島の 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 222 14 紀行 出たる処の右に廻れば鉢が浦と云ふ。是より西方直に北に行く其山址を波止といふ、先の美田の松山につづけり、此は彼の後鳥羽院の官船を寄せ給ひし処とぞ。谷際に小堂あり、茅屋が軒端の月も見しと製吟ありし堂なり波止村より焼火山に登る村の間、谷水流 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 223 3 紀行 れ傍ら椿多し。此より山上に至る其路二十町許り、険難九折にしてまた赤土あり、強半を過ぎて少しく平かなる尾上あり、遠望絶景なり、門前に至る処又谷深く径窄にして石肩高く出でたり、波止村より船に乗じ美田に帰ること三十四町、入海を斜に渡りて西に 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 223 6 紀行 行けば浦郷に至る、其船路二十町あまり。 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 223 8 紀行 浦郷。浦郷は東南に向ひ入海の浜なり、西に神祠あり、山の半に城福寺といふあり。里の左の岸に臨み、松老いて風興ある処に専念寺といふあり。人家多く連なり、北の方山に次いで小径あり、越えて下れば外海なり、北山長く列なり、彼船越村を極む。郷の右 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 223 12 紀行 につづきて薄子浦あり、其山の出でたる処に、由良明神と号する小社あり、極めて小さく古りはてて亡きが如し、里人も知る者なし。「按神明帳知夫郡有由良比女神、乃可為斯社也、恨土人知城福寺之為仏、不知斯社之為神、神在而如亡、呼哀哉。」出たる山崎 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 224 3 紀行 を右に行くこと遥かにして、荒生城奈尺居形崎なんど云ふ小村、入海の岸に連なり、処々に住居せり。形崎の南の山端より、郷に帰る道一里十二町、山より西の外海に廻り、美田居の崖鯛か崎国が浦賊が崎と云ふ処あり、其間に美田郡と云ふ蜒家あり、餘は皆岩 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 224 6 紀行 間の釣漁の地なり、又彼形崎山指出て、知夫山の北赤灘山に対し立って海門となり。又東に出て葛島あり、五町ばかりを行渡れば、乃ち知夫山なり。漁翁の曰く斯間勢不恒、或其形如岳嶽、其奮如雷電、膨騰奔激使人見之、則雖丈夫凋顔牟。其湍怒何以到之乎、 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 224 9 紀行 南有赤灘山、北有形崎山、崖爽勢迫湧而溝高、逆西風当東山沸、湧 無可退消之地如彼浙浙江海門、故数十間島中第一之急灘也、或風微潮平則有。一葦者渡。 1667 1000 寛文7年 出雲文庫第2号 丁未 0 248 10 民謡 を偲ばせるところがあるが、何ともいへぬ哀音が、それを柔らかく縹渺と包んで、語句に角立たせぬ。殊に「サアノウェ−」と云う囃言葉にたまらなく懐かしい地方色があって、私たちはいつしか、頭上の松籟うち寄せる涛の音を忘れて、白昼の磯辺に恍惚と眼をとぢてしまった。・ 0 0 出雲文庫第2号 0 249 4 民謡 とよりで、その点テンポがゆるく、松前追分に通づるもので、余韻溺々彼の帆船時代北前の船頭等が、港を恋うる唄である。烟雲遠い海原を、或いは月の夜船の舵枕、男泪を流しつつ女を念うの唄であり、烏賊釣り船人が空の昴を眺めつつ、悲しく唄う船唄で、本来は 0 0 出雲文庫第2号 0 249 6 民謡 三味線太鼓があるのでなく、自分の声に自分自信で陶酔してホロリと唄う謡である。だから遠来の客人中、無用の楽器を制しつつ「静かに謡って下さらぬか」と、眼をつむる謡である。 0 0 出雲文庫第2号 0 251 11 民謡 さりで終わる」と言うのが例である。祝儀唄としては、普通必ず「よいよい」を出し、終わりもやはりよいよいで終わるが、サァどっさりだ!と云う事になる。その陽気は一体何処から来るものかわからないがとにかく陽気である。凡らくこれは近世輩出した三味線の 0 0 出雲文庫第2号 0 251 13 民謡 名人、海士村の源達あたりが派手で陽気な節奏を此の歌に付けた所から来てはいまいか、ヤツサ、コラサの囃し言葉も去る事ながら、テテ テコ テン テン と言ったような、三味線の伴奏や間奏、それに伴う太鼓の音、如何なる無精者でも一つ出て踊らねばおれな 0 0 出雲文庫第2号 0 251 17 民謡 いような衝動にかられる。この所、悲哀を含む歌詞や歌調も、そこのけの有様である。 0 0 出雲文庫第2号 0 248 7 民謡 どっさり節・詩人西条八十。(前略)追分を真似たというが、初めて聴くこの古謡は追分とは似てもにつかぬ謡であった。調子は本調子で弾くのであるが、長く長く引く謡で、そのなかに、おなじメロデ−を幾度となく畳こんでゆく、どこか「口説節」 0 0 出雲文庫第2号 0 249 1 民謡 (一)船唄としての性格。哀怨切々、縹渺の風韻に包まれている事は詩人西条氏の言に尽きておる通り、その起源が既に示す如く、悲恋哀別、愛怨思慕の情感に満ちている事もも 0 0 出雲文庫第2号 0 251 8 民謡 (二)しこり謡としての性格。しんみり唄えば、涙を催す様な謡ではあるが、さて一度、これを三味線・太鼓に乗せて、宴席で唄うとなれば、所謂シコリ唄として一躍陽気その物に化してしまう、不思議である。隠岐ではお祝いの宴席など、「どっさりで始めて、どっ 0 0 出雲文庫第2号 0 619 12 船 舟玉。船玉様の御心を入れるのは夜の丑の刻で、船大工が甚だ秘かにこれを行なう故にその詳細な事は知らぬが、あとから、古船の船玉等を見ると、船玉の御心は船頭の髪の毛と船大工の棟梁の女房の髪毛に木片を添えて、鯛のような形のものを作り、これに一 0 0 出雲文庫第2号 0 619 15 船 文銭を添えて、中の船梁もしくは筒に入れてある。船方をやめた時には船から船玉を抜いて床の間に安置してこれを祭るようにしている。船玉様のいさむのは多く船頭の喜び事のある折りである。船上のみならざ陸上に於いても船頭に船玉がついてチンチン鳴る 0 0 出雲文庫第2号 0 619 17 船 事がある。また丹後の京ヶ崎、長門の須佐の高山の傍を船で通る時には船玉様がいさむ。(山脇松若) 0 0 出雲文庫第2号 0 163 1 船降し 隠岐の浦郷で、たまたま漁船の進水式に出会いました。食堂に入りますと、今日は進水式があって、その予約があるので席がないと言うんですね。食堂といっても、テ−ブルが一つしかない小さな店で、フランスならばビストロというところです。ほかに行くと 1977 0 昭和52年 労働・構造・神話 丁巳 0 163 3 船降し ころもありませんでしたし、ちょうどよい機会だと思いましたので、頼んで同じテ−ブルに座らせてもらいました。そうしましたら仲間に入れてくれましてね。私にとっては、庶民的な、お祝いのときの食事がどんなものかわかりましたので、大変面白かったで 1977 0 昭和52年 労働・構造・神話 丁巳 0 163 5 船降し すが、いま話をするのはその後のこどです。食事がすむと、式をやるからと言うので、他の人と一緒に歩いて、小さな造船所に行きました。船の上には船主とその奥さんとその弟の船大工と、それから神主さんが乗って、実に真剣で厳かな式が行なわれました。 1977 0 昭和52年 労働・構造・神話 丁巳 0 163 7 船降し ところが周りの人々は、親戚の人とか村の仲間ですが、まったくのんきなもので、しゃべったり、ふざけたりしているんですね。宗教儀式なのか、それともそうでないのかということが問題にならないように見えました。ヨ−ロッパでは考えられないことです。 1977 0 昭和52年 労働・構造・神話 丁巳 7 18 13 教育 文部省設置 1871 718 明治4年 島外 島根県近代教育史 辛未 7 22 8 教育 学制領布(全国を8大学区、1大学区を32中学区、1中学区を210小学区とし、学区制により学校を設置。明治6年4月10日、7大学区に改正)「文達13別冊」 1872 803 明治5年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 22 11 教育 府県の学校を一旦廃止し、学制に従って設置するよう指示「文達13」 1872 803 明治5年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 22 19 教育 文部省、小学教則及び中学教則略を公布「文達番外」 1872 908 明治5年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 23 8 太陽暦採用(明治5年12月3日を明治6年1月1日とする昼夜12時を24時と改める) 1872 1109 明治5年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 23 13 教育 文部省、府県に対する小学委託金額(小学教育費国庫負担額)を定める「文達42」 1872 1118 明治5年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 24 1 五節句を廃し、祝日を定める 1873 104 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 24 8 教育 島根県正副戸長を学区取締心得に任命 1873 319 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 25 4 教育 大学区の区画を改定(8大学区を改めて7大学区とする)「文達42」 1873 410 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 25 5 教育 公・私学校の名称を番号のみによらず、校名を設ける(地名・人名等を適宜に使用)「文達45」 1873 412 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 26 14 教育 文部省の大小監を廃し、視学、書記を置き、かつ教員の等次、学位の称号を改定(教員等次は大学は教授、中学は教諭、小学校は訓導、学位称号は博士、学士得業士)「太告296」 1873 812 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 27 12 教育 小学校普及委託金を、翌年1月から月割配布する旨公示 1873 1227 明治6年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 28 4 教育 小学教科のうち、算術は洋和算のいずれも可とする「文達10」 1874 318 明治7年 島外 島根県近代教育史 甲戌 7 28 11 教育 本県、学校休業日を1・6制から日曜日に改める 1874 409 明治7年 島外 島根県近代教育史 甲戌 7 29 6 教育 島根県、教員試補制を採用 1874 627 明治7年 島外 島根県近代教育史 甲戌 7 30 12 教育 文部省布達により小学生徒の学齢を6年から満14年までに規定(文達1) 1875 108 明治8年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 31 4 教育 島根県小学教員伝習所設置 1875 311 明治8年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 31 11 教育 島根県管内で最初の小学卒業生を出す 1875 425 明治8年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 32 18 教育 島根県、小学教員伝習所、最初の卒業生8名を出す。正規資格教員の誕生 1875 1000 明治8年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 34 4 官庁、1・6日の休暇をやめ、日曜日全休、土曜半休制の決定(4・1実施 1876 312 明治9年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 34 9 満20歳を丁年(成人)と定める 1876 401 明治9年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 34 14 教育 小学校の休日を1・6の日とする布達を廃止(旧に復し日曜日を休日とする)「文達3」 1876 520 明治9年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 35 9 教育 旧島根県教員伝習所を松江師範学校と改称 1876 1004 明治9年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 36 4 教育 第4大学区連合教育会議(開催広島)に参加 1877 100 明治10年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 37 3 教育 県内小学の称号統一(第幾中学区第幾番何小学) 1877 612 明治10年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 38 10 教育 この頃より、従来の若者宿、若衆等にかわり新しい青年会の動きがみられる 1877 0 明治10年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 38 22 梟首刑廃止 1878 104 明治11年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 40 12 教育 小学校教則中、小学簡易科を設け各小学へ布達 1878 925 明治11年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 40 17 教育 本県小学教則頒布 1878 1102 明治11年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 41 18 教育 小学世話係及び同保護人廃止 1879 215 明治12年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 42 8 隠岐支庁を廃し周吉穏地海士知夫郡役所設置 1879 310 明治12年 西ノ島 島根県近代教育史 己卯 7 42 13 琉球藩を廃し、沖縄県を置く 1879 404 明治12年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 42 18 教育 第1回通常県会で隠岐国へ巡回学校教師1名設置を可決、若林樸(東京師範卒)を任命 1879 600 明治12年 隠岐 島根県近代教育史 己卯 7 42 20 教育 隠岐4郡組合立隠岐中学設立 1879 600 明治12年 隠岐 島根県近代教育史 己卯 7 43 5 教育 教育令公布(学制廃止)「太布告40」 1879 929 明治12年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 43 8 教育 学務委員選挙続制定 1879 1101 明治12年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 45 1 教育 学事年報はじめて編成 1880 202 明治13年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 45 2 『出雲国地誌略』『石見国地誌略』『隠岐国地誌略』前後して刊行 1880 200 明治13年 隠岐 島根県近代教育史 庚辰 7 45 9 教育 集会条例公布(軍人・教員・生徒が政治に関する集会に出席し、また政治団体に加入することを禁止) 1880 405 明治13年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 45 22 教育 公立隠岐中学校を県立に移管 1880 703 明治13年 隠岐 島根県近代教育史 庚辰 7 47 1 教育 教育令を改正公布「太告59」 1880 1228 明治13年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 47 7 教育 県、教育令改正公布に拘らず、何分の達しあるまですべて従前通りとする旨を布達 1881 111 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 48 1 教育 小学校教則綱領制定「文達12」 1881 504 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 48 7 教育 府県立町村立学校職員名称並びに准官等を定める(はじめて校長の職種を規定)「太達52」 1881 615 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 48 9 教育 小学校教員心得制定「文達19」 1881 618 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 49 3 鳥取県再置、因幡伯耆を管轄する 1881 912 明治14年 隠岐 島根県近代教育史 辛巳 7 49 10 教育 県、小学区画制定 1881 1205 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 49 11 教育 県、明治12年学務委員選挙手続を廃し学務委員推挙規則制定 1881 1205 明治14年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 50 1 軍人勅諭発布 1882 104 明治15年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 50 19 教育 本県、町村立小学校数を指示 1882 510 明治15年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 51 1 集会条例改正(取締りを厳しくする) 1882 603 明治15年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 51 3 教育 隠岐中学校廃止 1882 630 明治15年 隠岐 島根県近代教育史 壬午 7 51 5 教育 本県、隠岐国町村立小学校数を指示 1882 703 明治15年 隠岐 島根県近代教育史 壬午 7 52 12 教育 是年、学齢児童の就学率50%を超える(その後再び低下) 1882 0 明治15年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 53 15 官報第1号発行 1883 702 明治16年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 53 19 教育 府県が小学校・中学校・師範学校の教科書を採択使用する場合、事前に文部省の認可を必要とする旨を布達(従来は届出制)「文達14」 1883 731 明治16年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 54 2 教育 小学校教員の資質向上のため、教員講習所設置、督業訓導の配置方指示「文達16」 1883 818 明治16年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 54 11 教育 県、隠岐郡各小学生徒競進会(集合試験)規則を文部卿に稟議 1883 1025 明治16年 島根県近代教育史 癸未 7 55 8 教育 督業訓導を小学督業と改称「文達4」 1884 304 明治17年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 56 15 教育 本県、小学区画、校数を廃し改めて小学区画、校数、等科、位置を定める 1884 805 明治17年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 57 3 教育 本県、小学校試験規定制定(小学試業規則廃止) 1884 820 明治17年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 57 5 教育 小学督業設置(師範学校教諭3名・助教諭1名) 1884 915 明治17年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 57 7 教育 島根県私立教育会創立 1884 1016 明治17年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 57 10 教育 周吉郡西郷に教員講習所開設 1884 1119 明治17年 隠岐 島根県近代教育史 甲申 7 58 7 教育 島根県私立教育会雑誌第1号発刊(以後毎月10日刊行) 1885 218 明治18年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 59 10 教育 教育令再改正(地方教育費の節約等)「太告23」 1885 812 明治18年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 60 8 教育 公立小学校においては、修業期限1か年をもって1学級とすべきことを定める(半年進級制を1年進級制に改正)「文達16」 1885 1212 明治18年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 60 10 教育 森有礼、初代文部大臣に就任 1885 1222 明治18年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 61 23 教育 小学校令公布(尋常小学校4年・高等小学校4年の2段階、尋常小学校の課程を義務教育とする)「勅14」 1886 410 明治19年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 62 10 教育 小学校の学科及び基程度制定「文令8」 1886 525 明治19年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 62 11 教育 小学簡易科要領制定「文訓1」 1886 525 明治19年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 63 13 教育 文部省、珠算を廃して筆算を用いる旨訓令(明治20・4・1実施) 1886 1100 明治19年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 63 18 教育 教科用図書検定要旨制定「公示」 1886 1209 明治19年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 64 18 教育 本県、小学校授業料規則制定(高等小学科1か月金10銭以上1円以下、尋常小学科同5銭以上50銭以下) 1887 309 明治20年 島外 島根県近代教育史 丁亥 7 65 11 教育 隠岐国教育会結成 1887 429 明治20年 隠岐 島根県近代教育史 丁亥 7 66 17 教育 小学校の学科及び基程度中、女児裁縫追加「文令10」 1887 1027 明治20年 島外 島根県近代教育史 丁亥 7 69 1 教育 小学校名称指定規定(島根県何国何郡第何番学区何々学校) 1888 711 明治21年 島外 島根県近代教育史 戊子 7 69 9 教育 隠岐私立教育会、操行査定法及び学業操行判定表決定 1888 821 明治21年 隠岐 島根県近代教育史 戊子 7 71 1 教育 本県、小学校建築標準制定 1889 215 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 71 3 教育 本県、小学校学区番号校数位置等科改定 1889 330 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 71 13 教育 本県教育会、松江市において本県初の教育品展覧会(県下各学校教員児童生徒の出品物)開催(〜6・3) 1889 528 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 72 1 教育 小学簡易科要項を改正し、6か月以上12が月以内の補習科の設置を認める「文訓3」 1889 701 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 72 3 教育 本県、小学簡易科教則改定 1889 718 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 73 16 教育 本県教育会、幻灯使用通俗講演会で各地巡回 1889 0 明治22年 島外 島根県近代教育史 己丑 7 74 18 教育 本県、御真影守衛心得を指示 1890 621 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 74 19 教育 県下各高等小学校に御真影下附 1890 621 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 75 9 教育 小学校令施行規則制定 1890 821 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 75 10 教育 ラフカディオ・ハ−ン、英語教師として松江に来任 1890 830 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 75 18 教育 小学校令公布(明治19年の小学校令廃止)「勅215」 1890 1007 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 75 19 教育 郡に郡視学、市町村に学務委員配置 1890 1007 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 76 2 教育 教育に関する勅語発布 1890 1030 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 76 3 教育 文部省教育に関する勅語の謄本を全国の学校に交付「文訓8」 1890 1031 明治23年 島外 島根県近代教育史 庚寅 7 77 9 教育 小学校設備準則制定(11・17改正)「文令2」 1891 408 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 77 12 教育 小学校正教員・准教員の別を定める「文令3」 1891 508 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 77 15 教育 小学校祝日大祭日儀式規定制定「文令4」 1891 617 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 78 11 教育 小学校修身科において教科書を必ず使用すべきこととする(従前は明治20・5の通達により使用しなかった)「普通学務局長通牒」 1891 1007 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 78 19 教育 小学校教則大綱制定「文令11」 1891 1117 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 79 1 教育 小学校の補習科教科目及び修業年限を定める「文令8」 1891 1007 明治24年 島外 島根県近代教育史 辛卯 7 80 15 教育 市町村立小学校の名称「島根県何郡(松江市)何郡は町村名、市は字尋常(高等)小学校、島根県何郡(松江市)何郡は町村名、市は字高等小学校を定める(昭和16・3・30限り) 1892 419 明治25年 島外 島根県近代教育史 壬辰 7 81 17 教育 隠岐の小学校位置及び設置区域決定 1892 829 明治25年 隠岐 島根県近代教育史 壬辰 7 81 19 教育 隠岐国に町村制を施行しない地方の小学教育規定を実施 1892 901 明治25年 隠岐 島根県近代教育史 壬辰 7 83 16 教育 小学校祝日大祭日儀式に関する件を定める「文令9」 1893 505 明治26年 島外 島根県近代教育史 癸巳 7 83 22 教育 女子の就学促進のため、教科目になるべく裁縫を加えることを訓令「文訓8」 1893 722 明治26年 島外 島根県近代教育史 癸巳 7 84 4 教育 文部省、小学校における祝日、大祭日の儀式に用いる歌詞・楽譜を選定(「君が代」等) 1893 812 明治26年 島外 島根県近代教育史 癸巳 7 84 18 教育 実業補修学校規定制定「文令16」 1893 1122 明治26年 島外 島根県近代教育史 癸巳 7 87 18 災害 赤痢猖獗(隠岐で発生後、出雲・岩見各地にも発生、患者総数4600余名) 1894 明治27年 島外 島根県近代教育史 甲午 7 90 7 教育 日清戦争の遺族には小学校授業料を免除する「勅5」 1896 207 明治29年 島外 島根県近代教育史 丙申 7 90 13 教育 蘆淡水、隠岐にて教育小説を発表 1896 300 明治29年 隠岐 島根県近代教育史 丙申 7 91 14 教育 学齢未満の者の就学禁止通達「文訓6」 1896 817 明治29年 島外 島根県近代教育史 丙申 7 93 1 教育 県、学校清潔方法制定 1897 201 明治30年 島外 島根県近代教育史 丁酉 7 94 20 教育 市町村立小学校の授業料に関する件公布(尋常小学校は30銭以内に制限)「勅407」 1897 1110 明治30年 島外 島根県近代教育史 丁酉 7 95 12 教育 男児と女児と教室を区分し男女別学奨励 1898 127 明治31年 島外 島根県近代教育史 戊戌 7 97 9 教育 県、小学校における国旗掲揚に関して指示 1898 1122 明治31年 島外 島根県近代教育史 戊戌 7 99 8 教育 第13議会において、国民教育授業料全廃の議、可決される 1899 406 明治32年 島外 島根県近代教育史 己亥 7 102 9 教育 教育免許令公布「勅134」 1900 331 明治33年 島外 島根県近代教育史 庚子 7 102 20 教育 文部省、国語調査会設置 1900 417 明治33年 島外 島根県近代教育史 庚子 7 103 2 教育 県、師範学校小学校教員講習科隠岐支所設置(明治35年3月廃止) 1900 400 明治33年 隠岐 島根県近代教育史 庚子 7 103 7 交通 陰陽連絡鉄道(姫路・鳥取・米子・境間)工事着工 1900 500 明治33年 島外 島根県近代教育史 庚子 7 103 18 教育 小学校令改正(尋常小学校を4年に統一、高等小学校は2年、3年、4年の3種とし、体罰を禁ずる。市町村立尋常小学校における授業料徴収を禁止) 1900 820 明治33年 島外 島根県近代教育史 庚子 7 103 20 教育 小学校教授用として、従来の字音仮名遣を改め発音仮名遣(棒引仮名)を採用、漢字を制限してその範囲を定める 1900 821 明治33年 島外 島根県近代教育史 庚子 7 110 1 教育 本県教育会、教育品陳列場を松江図書館内に設置 1902 604 明治35年 島外 島根県近代教育史 壬寅 7 112 1 教育 小学校令改正、学齢の起算を満6才に達した翌月とあるところを翌日と改正 1903 327 明治36年 島外 島根県近代教育史 癸卯 7 112 13 教育 国定教科書制度成立(小学校令改正)小学校図書審査委員会廃止 1903 413 明治36年 島外 島根県近代教育史 癸卯 7 112 16 教育 修身・国語・日本史・地理・図画の教科書は必ず国定教科書を使用することとなる 1903 429 明治36年 島外 島根県近代教育史 癸卯 7 114 20 教育 戦死者遺族、出征・応召軍人の子女等の授業料減免に関して訓令 1904 220 明治37年 島外 島根県近代教育史 甲辰 7 115 10 教育 隠岐の町村合併に基づく小学校位置及び設置区域指定 1904 324 明治37年 隠岐 島根県近代教育史 甲辰 7 115 18 教育 小学校国定教科書の使用開始 1904 400 明治37年 島外 島根県近代教育史 甲辰 7 116 2 煙草が全面的に政府の専売となる 1904 701 明治37年 島外 島根県近代教育史 甲辰 7 117 7 行政 塩専売法公布 1905 101 明治38年 島外 島根県近代教育史 乙巳 7 117 9 行政 竹島を隠岐島司の所管とする件内務大臣より知事へ訓令 1905 215 明治38年 隠岐 島根県近代教育史 乙巳 7 117 18 日本海海戦、我国連合艦隊、露国のバルチック艦隊を日本海に迎え撃ち、当日の戦闘にて完全に壊滅、県下海岸に砲声轟く 1905 527 明治38年 西ノ島 島根県近代教育史 乙巳 7 119 16 教育 郡・町村・学校等戦勝記念林設置 1905 明治38年 島外 島根県近代教育史 乙巳 7 119 17 教育 各地で小学校に高等科を併置または補習学校を設置、青年夜学会開設 1905 明治38年 島外 島根県近代教育史 乙巳 7 121 9 教育 本県の小学校児童出席率全国1位となる 1906 明治39年 島外 島根県近代教育史 丙午 7 122 6 教育 小学校令を改正(義務教育年限を6か年に延長。尋常小学校を6年、高等小学校を2〜3年とする)(明治41年4月から施行) 1907 321 明治40年 島外 島根県近代教育史 丁未 7 123 1 通信 松江市内電話開通(加入者257人) 1907 501 明治40年 島外 島根県近代教育史 丁未 7 123 12 教育 小学校の夏季休業を40日間とする 1907 705 明治40年 島外 島根県近代教育史 丁未 7 125 18 教育 小学校教授用のかなの字体かなづかい、漢字制限等、従来の方針を変更(漢字数制限撤廃等) 1908 907 明治41年 島外 島根県近代教育史 戊申 7 126 15 教育 県立隠岐商船学校、海軍省から廃艦鎮西の払い下げを受け、寄宿舎に充当 1908 明治41年 隠岐 島根県近代教育史 戊申 7 128 19 行政 神社廃社20・合祀93・境内神社に移転13 1909 明治42年 島外 島根県近代教育史 己酉 7 129 11 教育 理科教科書を国定に追加 1910 721 明治43年 島外 島根県近代教育史 庚戌 7 131 5 行政 神社廃社18・合祀84・境内神社に移転16 1910 明治43年 島外 島根県近代教育史 庚戌 7 131 16 交通 大阪商船の大阪・山陰線、下関・境を連絡地として国有鉄道と旅客、貨物の船車連絡開始 1911 400 明治44年 島外 島根県近代教育史 辛亥 7 134 1 教育 県、御真影奉蔵に関する規則制定 1912 110 大正元年 島外 島根県近代教育史 壬子 7 134 13 交通 一畑軽便鉄道株式会社創立 1912 406 大正元年 島外 島根県近代教育史 壬子 7 137 11 交通 大阪商船、下関・境線を米子・安来・馬潟に延航(11月より隠岐浦郷・菱浦・西郷に変更) 1913 400 大正2年 島外 島根県近代教育史 癸丑 7 138 12 10月31日を天長節祝日と定める 1913 725 大正2年 島外 島根県近代教育史 癸丑 7 138 13 教育 小学校令中改正(府県授与の免許状を全国に有効とし、また教育・兵事・産業・衛生・慈善等の目的の為校舎・校地の使用を認める) 1913 716 大正2年 島外 島根県近代教育史 癸丑 7 139 6 教育 松江市連合青年会主催陸上運動会を天神裏遊園地で開催(全山陰陸上競技選手権大会の起こり) 1913 1031 大正2年 島外 島根県近代教育史 癸丑 7 145 13 教育 隠岐島黒木村婦人会結成 1915 1225 大正4年 西ノ島 島根県近代教育史 乙卯 7 145 14 教育 御大典記念事業が県下各校において行われる 1915 大正4年 島外 島根県近代教育史 乙卯 7 148 13 教育 この頃県下教育界で公民教育・労作教育・芸術教育などの論議漸次盛んになる 1916 大正5年 島外 島根県近代教育史 丙辰 7 150 16 教育 総理大臣の諮問機関として臨時教育会議を設置(教育調査会廃止) 1917 921 大正6年 島外 島根県近代教育史 丁巳 7 151 20 このころ足踏脱穀機が急速に普及 1917 大正6年 島外 島根県近代教育史 丁巳 7 152 4 教育 島根県私立教育会を島根県教育会と改称する件文部大臣より認可される 1918 205 大正7年 島外 島根県近代教育史 戊午 7 152 9 教育 市町村義務教育費国庫負担法公布(小学校教員の俸給の一部を国庫で負担) 1918 327 大正7年 島外 島根県近代教育史 戊午 7 156 1 教育 小学校令改正(臨時教育会議の答申に基づく改正) 1919 207 大正8年 島外 島根県近代教育史 己未 7 156 11 トラホーム予防法公布 1919 327 大正8年 島外 島根県近代教育史 己未 7 156 18 行政 史跡名勝天然記念物保存法公布 1919 410 大正8年 島外 島根県近代教育史 己未 7 161 18 行政 第1回国勢調査を実施。総人口(植民地の人口も含んだもの)7699万人・内地(日本在住)5596万人 1920 1001 大正9年 島外 島根県近代教育史 庚申 7 163 9 隠岐国青年団結成 1920 大正9年 隠岐 島根県近代教育史 庚申 7 168 5 教育 県立商船水産学校、隠岐東郷村に開校(西郷町外11村組合立隠岐商船学校と浜田の県水産講習所が合併) 1922 401 大正11年 隠岐 島根県近代教育史 壬戌 7 173 7 教育 県、小学校児童用机腰掛規格標準制定 1923 828 大正12年 島外 島根県近代教育史 癸亥 7 174 2 教育 文部省、国民精神作興に関する詔書発布に伴い、教育関係者に聖旨完徹を訓令 1923 1117 大正12年 島外 島根県近代教育史 癸亥 7 175 13 教育 隠岐華頂女学院設立 1924 408 大正13年 隠岐 島根県近代教育史 甲子 7 179 10 教育 メートル法を採用した『尋常小学算術書』を第1・2学年から使用開始(順次高学年に及び、昭和3年度に6学年に至る) 1925 401 大正14年 島外 島根県近代教育史 乙丑 7 181 17 行政 第2回国勢調査(総人口=植民地も含む8346万人。内地5974万人) 1925 1001 大正14年 島外 島根県近代教育史 乙丑 7 196 13 交通 国鉄伯備線全通 1928 1025 昭和3年 島外 島根県近代教育史 戊辰 7 197 6 ラジオ体操放送開始 1928 1101 昭和3年 島外 島根県近代教育史 戊辰 7 197 7 教育 県下各地、各学校等において御大礼奉祝の諸催行われる 1928 1110 昭和3年 島外 島根県近代教育史 戊辰 7 197 16 教育 各校において御大典記念事業行われる(御真影奉蔵庫設立多し) 1928 昭和3年 島外 島根県近代教育史 戊辰 7 198 11 教育 県、小学校の準備教育禁止の旨各校へ通達 1929 202 昭和4年 島外 島根県近代教育史 己巳 7 199 7 教育 山陰教育大会を隠岐国西郷町尋常高等小学校において開催 1929 511 昭和4年 隠岐 島根県近代教育史 己巳 7 199 19 教育 教員の俸給不払、強制寄付、減俸、馘首等、全国各地に起こる 1929 600 昭和4年 島外 島根県近代教育史 己巳 7 200 7 教育 第5回隠岐小学校児童庭球大会を県立商船水産学校において開催 1929 714 昭和4年 隠岐 島根県近代教育史 己巳 7 202 16 教育 県、読書週間実施 1929 1111 昭和4年 島外 島根県近代教育史 己巳 7 205 8 教育 市町村義務教育費国庫負担法を改正(国庫負担金を増額) 1930 517 昭和5年 島外 島根県近代教育史 庚午 7 206 14 教育 県教育会主催第1回隠岐見学団(教員団・学生団)出発 1930 805 昭和5年 隠岐 島根県近代教育史 庚午 7 207 8 教育 県、健康週間・体育週間を実施 1930 1011 昭和5年 島外 島根県近代教育史 庚午 7 207 8 行政 第3回国勢調査実施。総人口(植民地人口を含んだもの)9040万人・内地(日本在住人口)6445万人 1930 1001 昭和5年 島外 島根県近代教育史 庚午 7 208 10 教育 青年団体、文部省の所管となる 1930 1222 昭和5年 島外 島根県近代教育史 庚午 7 208 12 教育 大日本連合婦人会設立 1930 1223 昭和5年 島外 島根県近代教育史 庚午 7 209 3 教育 実業学校公民科教授要目制定 1931 120 昭和6年 島外 島根県近代教育史 辛未 7 209 17 教育 全国各地で教員多数整理される 1931 331 昭和6年 島外 島根県近代教育史 辛未 7 210 5 教育 小学校令施行規則を改正(小学校教員の減俸) 1931 617 昭和6年 島外 島根県近代教育史 辛未 7 211 14 交通 山陰線京都・下関間全通 1931 1115 昭和6年 島外 島根県近代教育史 辛未 7 214 17 教育 県も緊急届出調査開始。調査対象人員の53.64%が給食を要望している結果が判明 1932 700 昭和7年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 214 18 教育 農漁村の欠食児童20万人突破 1932 727 昭和7年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 215 14 教育 文部省欠食児童増加に対処し、学校給食実施の趣旨徹底方並びに学校給食臨時施設方法に関し訓令 1932 907 昭和7年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 215 16 教育 冬期から味噌汁給食広まる 1932 1001 昭和7年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 216 20 教育 大日本国防婦人会創立 1932 1213 昭和7年 島外 島根県近代教育史 壬申 7 217 1 教育 実業補習学校を実業国民学校と改称 1933 301 昭和8年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 217 16 教育 『小学国語読本』『尋常小学算術』など新編集の小学校国定教科書使用開始 1933 424 昭和8年 島外 島根県近代教育史 癸酉 7 222 9 教育 全国小学校教員代表者、宮城前に精神作興大会を開催、国民道徳振作に関する勅語下賜、本県から団長村上米十郎津和野小学校校長以下300名出席 1934 403 昭和9年 島外 島根県近代教育史 甲戌 7 222 19 教育 隠岐島小学校教員精神作興大会を県立隠岐高等女学校において開催 1934 506 昭和9年 隠岐 島根県近代教育史 甲戌 7 224 7 教育 隠岐島小学校教員の学力補充のための本県主催隠岐島教育講習会を黒木村別府尋常高等小学校において開催 1934 722 昭和9年 西ノ島 島根県近代教育史 甲戌 7 227 7 交通 一畑バス松江市内運行開始 1935 221 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 227 13 教育 兵役法の改正により青年学校修了者の在営年限6か月短縮 1935 330 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 227 14 教育 青年学校令公布(実業補習学校及び青年訓練所廃止) 1935 401 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 227 19 教育・通信 全国向け学校放送開始 1935 415 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 229 18 教育 青年学校教練科等査閲令公布 1935 810 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 230 7 教育 青年学校教練及び訓練科目要旨を制定 1935 821 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 230 14 行政 第4回国勢調査(総人口=植民地も含む、9769万人・内地6925万人) 1935 1001 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 231 18 行政 この頃から県下で報徳祭が実施され、報徳教育が急速に広がり、学校に二宮金次郎の像が盛んに作られる 1935 昭和10年 島外 島根県近代教育史 乙亥 7 232 4 ロンドン軍縮会議脱退 1936 115 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 232 12 陸軍部隊一部反乱、斎藤実・高橋是清らを暗殺(2・26事件) 1936 226 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 233 2 教育 県立商船水産学校を県立水産学校と改称(昭和8・4航海科生徒募集中止) 1936 401 昭和11年 島根県近代教育史 丙子 7 234 1 左翼文化団体を一斉検挙 1936 710 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 234 3 教育 文部省、義務教育8年制実施計画要綱を決定 1936 704 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 235 16 教育 教育塔竣工式(開催大阪)に本県教育会代表並河主事・小学校代表津和野小校長村上米十郎参列 1936 1030 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 236 6 教育 文部省、国体明徴の観点から小学校国史教科書を改訂 1936 1122 昭和11年 島外 島根県近代教育史 丙子 7 236 18 文化勲章令を公布・施行 1937 211 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 238 4 教育 文部省編「国体の本義」刊行 1937 531 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 239 8 国民精神総動員実施要綱を閣議決定。国民精神総動員運動はじまる 1937 824 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 240 7 徴兵服役及び在営期間延長 1937 928 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 240 8 教育 国語のローマ字綴方の統一に関し内閣訓令(いわゆる訓令式) 1937 921 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 240 19 日・独・伊防共協定調印 1937 1106 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 241 1 教育 県、御真影開扉状態での校長訓話論告に関し通牒 1937 1126 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 241 4 県立公園を指定 1937 1201 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 241 5 交通 木次線全通し芸備線と接続、陰陽連絡 1937 1212 昭和12年 島外 島根県近代教育史 丁丑 7 241 12 軍需工業動員法発動 1938 117 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 241 18 教育 内閣情報部選定『愛国行進曲』を各学校長宛配布 1938 120 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 241 19 県、満蒙開拓青少年義勇軍募集 1938 121 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 243 1 国家総動員法公布(5月5日施行) 1938 401 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 244 3 貯蓄報国強調週間開始 1938 621 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 244 14 教育 県下小学校に新繊維原料野草マオ採集剥皮の協力を要請 1938 704 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 246 6 教育 生活様式改善に関する県通牒(集団行動の規律化・儀礼改善・体位向上・物資節約資源回収・空地利用・服装改善・記帳励行) 1938 831 昭和13年 島外 島根県近代教育史 戊寅 7 248 11 日本精神発揚週間開始 1939 205 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 249 1 教育 県、小学校児童の桑条剥皮作業を奨励 1939 317 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 249 11 教育 青年学校令を改正し青年学校を義務制とする(満12才以上満19才未満の男子の就学義務を定める 1939 426 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 249 17 ノモハン事件起こる(日ソ両軍衝突) 1939 512 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 250 2 教育 松脂(ヤニ)採取激励 1939 700 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 250 4 教育 小学校武道指導要目制定 1939 529 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 250 7 教育 県、島群内公私立青年学校生徒の閲兵分列並びに国防体力競技会を各島郡別に開催 1939 500 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 250 17 教育 県、防空教育及び学校防空の徹底を指示 1939 630 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 251 8 教育 隠岐教育会主催後鳥羽上皇御登遐七百年隠岐神社造営記念修・史・読・綴教壇修養会を別府尋常高等小学校において開催 1939 809 昭和14年 西ノ島 島根県近代教育史 己卯 7 252 19 戦時食糧充実運動(七分搗米・代用食・混食)開始 1939 1100 昭和14年 島外 島根県近代教育史 己卯 7 254 15 教育 市町村立小学校教員俸給及び旅費の負担に関する件公布(俸給及び赴任の旅費は道府県の負担とする) 1940 329 昭和15年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 254 16 教育 義務教育費国庫負担法(教員俸給の半額国庫負担)公布(4・1同法施行令公布。市町村義務教育費国庫負担法を廃止) 1940 329 昭和15年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 255 10 砂糖・マッチ切符制となる 1940 601 昭和15年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 257 9 政治 大政翼賛会発会式挙行 1940 1012 昭和15年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 257 10 国民服令公布(国民服を制定) 1940 1102 昭和15年 島外 島根県近代教育史 庚辰 7 259 4 教育 国民学校令公布(小学校令を改定) 1941 301 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 259 16 教育 国民学校発足 1941 401 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 261 14 教育 文部省教学局編『臣民の道』刊行。各学校に配布 1941 721 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 261 15 米穀通帳制配給始まる 1941 801 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 261 18 教育 県、修学旅行宿泊訓練等には飯米を持参するよう通牒 1941 815 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 262 17 国民勤労報国協力令公布(勤労奉仕を義務法制化) 1941 1122 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 262 18 物資統制令公布施行 1941 1216 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 262 21 教育 県、応召軍人遺家族のうち就学困難な国民学校・青年学校在学者に教科書・学用品・被服の現品給与を示達 1941 1212 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 262 22 言論・出版・集会・結社等臨時取締法公布 1941 1219 昭和16年 島外 島根県近代教育史 辛巳 7 263 5 衣料点数切符制実施 1942 201 昭和17年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 263 6 食糧管理法公布 1942 221 昭和17年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 265 16 大東亜省設置(拓務省・興亜院廃止) 1942 1101 昭和17年 島外 島根県近代教育史 壬午 7 267 10 教育 県、学級数少ない学校は分教場に変更し、高等科は1市町村11校に統一する準備を行う 1943 329 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 268 9 教育 県、児童生徒の県外旅行を禁じ、学校職員の県外視察を差し控えるよう示達 1943 419 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 268 15 教育 県、農繁期において学校職員は勤労奉仕隊を組織し、勤労奉仕作業等を行うよう示達 1943 517 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 269 4 隠岐保健所を黒木村に設置 1943 901 昭和18年 西ノ島 島根県近代教育史 癸未 7 269 5 イタリア無条件降伏 1943 908 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 269 9 25才未満の未婚女子を女子勤労挺身隊として動員決定 1943 922 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 269 21 教育 県、児童生徒に対し防諜指導を徹底するよう通牒 1943 1027 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 270 11 教育 県、国民学校・中等学校等冬期休業を短縮する旨通牒 1943 1217 昭和18年 島外 島根県近代教育史 癸未 7 270 20 行政 防空法による疎開命令発令 1944 126 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 271 2 行政 国民登録制を拡大(男12〜60才・女12〜40才) 1944 210 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 271 6 教育 国民学校令等戦時特例公布(就学義務満12才までとし、8年制を停止) 1944 216 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 271 16 教育 学校における休業日に関して定める(日曜日の授業を認める) 1944 328 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 273 4 サイパン島の日本軍全滅 1944 707 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 273 22 教育 男子満18才以上を兵役編入決定 1944 918 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 274 2 海軍神風特別攻撃隊、はじめて出撃 1944 1025 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 274 5 米軍B29により本土空襲開始。国内生産力急速に低下しはじめる 1944 5 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 274 10 大都市児童、集団疎開はじまる 1944 昭和19年 島外 島根県近代教育史 甲申 7 275 2 ヤルタ会議開催 1945 204 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 275 10 B29東京を夜間大空撃 1945 310 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 275 13 教育 学童集団疎開強化要綱を閣議決定 1945 315 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 275 15 教育 決戦教育措置要綱を閣議決定(国民学校初等科を除き、学校における授業を原則として4月から1年間停止) 1945 318 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 275 20 米軍、沖縄本島に上陸開始 1945 401 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 276 4 ドイツ無条件降伏 1945 507 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 276 21 建物疎開始まる 1945 709 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 277 9 教育 学徒勤労動員解除 1945 816 昭和20年 島外 乙酉 戦犯容疑者の逮捕始まる 1945 911 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 278 3 教育 教科書取扱方に関し通達(戦時教材の省略・削除等) 1945 920 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 278 6 教育 学校における銃剣道・教練の廃止を通達 1945 1003 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 278 8 教育 学校放送再開 1945 1008 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 1 日本社会党結成 1945 1102 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 3 GHQ、財閥解体を指令 1945 1106 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 4 日本自由党を結成 1945 1109 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 4 教育 体育から軍国調を一掃、武道を学校から排除 1945 1106 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 9 GHQ、農地改革を指令 1945 1209 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 10 GHQ、国家神道の禁止を指令 1945 1215 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 11 教育 全日本教職員組合結成(日教組) 1945 1201 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 13 労働組合法公布 1945 1222 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 15 教育 GHQ、修身、日本歴史及び地理停止に関する件指令(授業停止、従来の教科書の収集破棄新教科書の作成を指令) 1945 1231 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 279 24 この年、県下空襲200回 1945 昭和20年 島外 島根県近代教育史 乙酉 7 280 7 GHQ、軍国主義者の公職追放 1946 104 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 280 11 日本労働組合総同盟結成 1946 1117 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 280 21 教育 国民学校の後期使用図書中の削除、修正箇所について通達 1946 125 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 281 6 公職追放令公布 1946 228 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 281 7 教育 修身・国史・地理教科書の回収について通達 1946 212 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 281 13 教育 国民学校令等戦時特例を廃止 1946 223 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 281 15 物価統制令公布 1946 303 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 282 5 政府 国号の呼称を日本国と決定 1946 706 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 282 10 教育 昭和22年度から、国民学校にローマ字採用を発表 1946 711 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 282 12 メーデー復活 1946 501 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 284 10 教育 文部省に国語審議会を設置 1946 911 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 284 15 教育 国語審議会現代かなづかいを答申 1946 921 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 284 19 教育 文部省、男女共学実施について指示 1946 1009 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 284 22 教育 GHQ、国史の授業の再開を許可 1946 1012 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 285 6 教育 第1回国民体育大会、京都・大阪を中心に開催 1946 1101 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 285 6 日本国憲法公布 1946 1103 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 285 10 教育 国語審議会、当用漢字表(1810字)を答申 1946 1105 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 285 13 教育 当用漢字表・現代かなづかいについて内閣訓令・告示 1946 1116 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 7 285 17 教育 文部・厚生・農林各省、学校給食実施の普及奨励について通達 1946 1201 昭和21年 島外 島根県近代教育史 丙戌 1 1 1 島海湾の一部にのみ産する海草にして珍奇なるものに属す。3)指定の事由、保存要目天然記念物中植物に関する部第9に依る。4)保存の要件、公益上必要止むを得さる場合の外採取を許可せさることを要す。 1923 308 大正12年 島前の文化財 癸亥 1 1 13 るものは、その後者に属する。他の海藻の如く胞子によって繁殖せず、葉茎を伸長し随所に新芽を押し出す故に常に大小群落をなす、而して同一場所に長く存在せざるものの如し。深所にあるものは浅所にあるものよりも葉茎共に大なり。世界中紅海大西洋及び南洋の海に産する。此 1923 308 大正12年 島前の文化財 癸亥 1 1 13 の珍種が紅海以東唯隠岐にのみ産するは学術上興味多き現象と言うべし。 1923 308 大正12年 島前の文化財 癸亥 1 1 13 <指定当時の新聞記事> 天然記念物くろぎづた、明治四十三年九月岡村理学博士偶々別府海岸逍遥中黒木御所下に於て発見、仍って此の和名を附せらる。緑藻植物=管藻類いわづた科に属する。世界に産するものに葉緑の単鋸歯状なると重鋸歯状なるのとの二種ありて、本島に産す 1923 308 大正12年 島前の文化財 癸亥 1 4 1 観光 名勝、隠岐国国賀海岸 昭和十三年五月三十日、国指定1)所在地、島根県知夫郡黒木村大字美田字大床、日後、後アンコウジ、ドウド、高谷、カケ、中アラケ、白崎、浦郷村字トノズ、十二尋畑、ガアド、大根ヶ浦、国ヶ、小国ヶ、大木平、赤尾。2)指定地積、国有二筆、三畝十 1938 530 昭和13年 島前の文化財 戊寅 1 4 1 五歩、黒木村大字美田字大床より浦郷村字老屋に至る絶壁地及地先二千メートル以内の海面、島嶼、岩礁。3)説明、粗面玄武岩より成れる島前西島の北海岸が断層に沿って海触を被り、直立200メートルに垂んとする断層崖をなせるものにして崖上崖下一樹の茂生するものなくそ 1938 530 昭和13年 島前の文化財 戊寅 1 4 1 の魅奇豪壮なる景観は本邦罕に観る所なり。加えるに崖下には奇岩怪礁の乱立するあり旦天然記念物として価値ある天然石橋及び大小五十余りの洞窟あり此等の多くは玄武岩中に発達せる断層及び 1938 530 昭和13年 島前の文化財 戊寅 1 4 4 岩脉との間に成因上の関係を有するものにしてその中明暮の岩屋(一名明暮窟)の如きは十八断層に沿い他は岩脉に沿って発生したるに条の狭長なる洞窟がその中程ににおいて相交差して之に入るもの洞内においてメメ然明暗の二区あるを感ずるを以てその名を得たるものにして波触洞 1938 530 昭和13年 島前の文化財 戊寅 1 4 4 窟として珍しきものなり。4)指定の事由、保存要目名勝の部第十及び第四並天然記念物中地質鉱物の部第七及び第十一に依る。5)保存の要件、公益必要己むを得さる場合の外現状の変更は之を許可せさることを要す。 1938 530 昭和13年 島前の文化財 戊寅 1 5 1 焼火 重要民俗資料「トモド」 昭和三十年二月三日、国指定、1)所在地、島根県知夫郡黒木村大字美田、波止、焼火神社飛地境内地内、2)所有者、島根県知夫郡黒木村大字美田1294、焼火神社(宮司松浦康麿)3)材料及び大きさ、モミ材、くりぬき、おもき造り、長さ20尺5 1955 203 昭和30年 島前の文化財 乙未 1 5 1 寸、幅(最大)3尺。4)説明、貞享四年(1687年)の「隠岐記」に、島前327艘、島後197艘のトモドがあったと記録されており、古くは隠岐島にある舟の大部分を占めたと言われている。トモドの手法は、二本の丸太を別々に刳りこれを補助材と共に両方から継ぎ合わせ 1955 203 昭和30年 島前の文化財 乙未 1 5 1 たものである。その二本のP胴材(オモキという)の間に入れる補助材(チョウという)の幅はごく狭く、時にはこれを必要としない場合もあるほど、つまり大部分が「刳る」手法により造られるものである。 1955 203 昭和30年 島前の文化財 乙未 1 5 17 その様式は丸太舟に次いで古いといわれ、全体の形は箱型ともいうべき長方形である。トモドという名称は、ともで櫓を使うから「ともろ」、舟の後部が大きいから「ともぶと」の転訛、など種々の説がある。用途は元来非常に広く、単にカナギのみならず、その他の漁労にも、また 1955 203 昭和30年 島前の文化財 乙未 1 5 17 運送にも盛んに使われたといわれる。しかし板舟の発達と、用材のモミの木が得難くなったため、昭和になると殆ど見る事が出来なくなり、今では西ノ島にただ一艘残るだけとなった。 1955 203 昭和30年 島前の文化財 乙未 1 6 0 史跡、黒木御所 昭和三十三年八月一日、県指定、1)所在地及所有者、島根県知夫郡西ノ島町大字別府字黒木二七五番地、二七六番地、二七七番地(黒木神社)大字別府字小谷二二八番地の二、二二八番地の三(安藤猪太郎)、大字別府字坪ノ内二五四ノ内(近藤倍夫)、大字別府 1958 613 昭和33年 島前の文化財 戊戌 1 6 0 字道場ノ前二八三ノ内(伊藤英基)2)説明、「御船隠岐の国に着きにけり、佐々木判官貞清、府の島というところに黒木の御所をつくりて皇居とす..」(太平記)「黒木の御所と申して札の辻より東の方へ三町去って、高さ三十間周り四町の山あり、三方海にして北はつづき、南 1958 613 昭和33年 島前の文化財 戊戌 1 6 0 の方松生じ裏竹生ず、頂上東西七間南北六間石壁も古く残り、元弘二年後醍醐天皇鎌倉北条高時のために被捕させ給い当国へ左遷ましませし、此黒木之御所を建て遷らせ給う..」(隠州視聴記)とあるように、ここは元弘の 1958 613 昭和33年 島前の文化財 戊戌 1 6 7 後醍醐天皇が隠岐へ遷幸されて約一年間行宮されたところである。全山を天皇山といい面積約三千坪、老松欝蒼たる丘陵である。御所跡は天皇山の一番奥にあり、比田井天来の筆になる石標で示されている。局屋敷、判官屋敷、千福寺各跡は、いづれも天皇山の付近にあるが、民有地 1958 613 昭和33年 島前の文化財 戊戌 1 6 7 のため各々その一部が指定されている。 1958 613 昭和33年 島前の文化財 戊戌 1 7 0 十方拝礼 無形文化財「美田八幡宮の田楽」 昭和三十六年六月十三日、県指定、1)保持者の住所、島根県知夫郡西ノ島町2)保持者、代表者、寒沢幸次郎(他二十四名、島根県知夫郡西ノ島町大字美田字大津、字小向地区に居住) 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 0 十方拝礼 無形文化財「美田八幡宮の田楽」 昭和三十六年六月十三日、県指定、1)保持者の住所、島根県知夫郡西ノ島町2)保持者、代表者、寒沢幸次郎(他二十四名、島根県知夫郡西ノ島町大字美田字大津、字小向地区に居住)3)実施場所、美田八幡宮(宮司、松浦康麿)4)由来、美 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 0 十方拝礼 田八幡宮の田楽は、俗に「十方拝礼」(シュウハイラ)と称して隔年旧暦八月十五日例祭に行われてきたが、現在では新暦九月十五日の例祭に行われる。「八幡宮祭礼式書」(文化十年)に、「隠岐守義信より八月十五日に天下泰平国家安全五穀成就子孫繁栄の為に田楽の大祭を被遊侯云々 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 0 十方拝礼 」とあり、義信については美田八幡宮棟札に「天正十三年当国守護佐々木九衛門尉源義信」と見え、室町末期にはすでに行われていたものと思われる。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 11 十方拝礼 5)田楽の役名、人数、採り物、服装 中門口(坊主ともいう) 、2名、びんざさら、祭笠、青摺衣、白くくり袴、白脚胖、白足袋ワラジ。坊主脇、2名、びんざさら。坊主脇、2名、びんざさら、祭笠、友禅の広、袖縞くくり袴、黒脚胖、黒足袋ワラジ、赤丸ぐけ襷(一丈)、 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 11 十方拝礼 印篭、小刀(木製)。すってんで(鳥ともいう)2名、つづみ、鳥冠、更紗模様の広袖、黒くくり袴、黒脚胖、黒足袋ワラジ、赤丸ぐけ襷(一丈)、大刀。鳥脇、2名、びんざさら、坊主脇に同じ。子ざさら、2名少年、摺りざさら、祭笠、赤の振袖、赤脚胖、白足袋ワラジ、赤平ぐ 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 7 11 十方拝礼 け襷(一丈)、印篭、小刀。子ざさら脇、2名青年、びんざさら、坊主脇に同じ。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 3 神楽 無形文化財、隠岐島前神楽 昭和三十六年六月十三日、県指定、1)保持者の住所、島根県知夫郡知夫村2)保持者、代表、石塚章(死去につき現在子息尚武氏)3)由来、隠岐において祭事を司る家に「よこや」と「社家」がある。「よこや」とは所謂正神主家の謂であり、社家と 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 3 神楽 は神楽を主として司ると共に祭事をも司った。勿論神主としては、「よこや」の方が一段と古く「よこや」という屋号からしても少なくとも中世前期の発生とみてよいと思う。しかし、社家の方も、社家の一つ秋月家に伝わる記録によると、天正、文禄のものも残存しているので、相 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 3 神楽 当古い家柄ではあるが、しかしこれと神楽との関係を証する資料は残っていない。こうした社家が島前に五家あり(別府宇野氏、浦郷秋月氏、布施秋月氏、知夫石塚氏、海士駒月氏)ここに伝えられたのが、島前の神楽である 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 17 神楽 社家はいづれも吉田神道の宗本家卜部家よりそれぞれ許状をいただき神楽を執行したものであるので、神楽の行法的な内容のものには吉田神道の行法が多分に汲み入れられてはいるが、卜部家より伝授を受けたといったものではなく、いつの頃からか行われていた島の神楽に吉田神道 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 17 神楽 の行法を多分に汲み入れて現在の形に完成したとみるべきであろう。4)種別、内容よりの類別、イ)前座七座の一系ロ)式三番、岩戸の一系ハ)神子神楽ニ)注連神楽ホ)葬祭神楽(現在廃滅)。執行次第の大小による類別イ)大注連神楽ロ)湯立大神楽ハ)浜神楽ニ)神子神楽ホ 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 9 17 神楽 )八重注連神楽(現在廃滅)以上であるが、大注連神楽とは、最後に注連行事、即ち神子の神懸りとなるもので、これが最重要のものとされている。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 0 12)鵜ノ羽、男、2人、謡曲調−神途−能遅拍子。13)十羅ジュウラ、男3人女1人、−−、湯立に同じ。14)佐蛇サダ、男、2人、鵜ノ羽に同じ。15)八重垣、男2女1、−−、−−。16)御戸開、女2人、急調(神勧請詞)。17)布舞、男、1人、、神途に同じ。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 21 曲目構成A)曲目B)性別C)舞人D)拍子 1)神途舞カンドマイ、男、1人、神途−−いんよう。2)御座、男、1人、神途−−いんよう−神途急調−すずか。3)御座清め、女、2人、すずか−−千早−神勧請詞。4)剣舞、男、2人、すずか−申立−神途急調−すずか。5)散供サ 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 21 ングウ、男、1人、すずか−申立−神途−いんよう−かんど。6)先払、男、1人、能遅拍子−早拍子。7)湯立、男1女1人、荒振神い巫女、千早、千早−いんよう−千早能早拍子。8)随神ズイジン、随神邪神、拍子=湯立に同じ。9)岩戸、男1女2、大神うづめ手力男、湯立に同 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 21 じ大神出ずる時に千早。10)切部キリベ、男1女1、切部巫女、千早−いんよう−早拍子−能早拍子−五段囃子−早拍子。11)恵美須、男、1人、先払いに同じ。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 33 神楽 12)鵜ノ羽、男、2人、謡曲調−神途−能遅拍子。13)十羅、男3人女1人−湯立に同じ。14)佐陀−男2人−鵜ノ羽に同じ。15)八重垣−男2人女1人。16)御戸開−女2人−神楽鈴−御座清めに同じ−急調(神勧請詞) 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 38 17)布舞−男1人−布1反、中啓−神途に同じ。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 10 39 神楽 (6)指定の理由 1)巫女による神懸かりの形が保存されている事。2)出雲神楽の祖形と思われる点が多く、伝統ある社家神楽のため、古態のままがよく保存されている事。3)単に演技としての要素のみでなく、神事としての要素が保存されている事。 1961 613 昭和36年 島前の文化財 辛丑 1 12 1 十方拝礼 無形文化財、日吉神社庭の舞付神の相撲 昭和39年5月26日、県指定。保持者の住所、島根県知夫郡西ノ島町大字浦郷。保持者、代表者、酒井音市。由来、今から約八百年前、近江国甲賀郡真野庄より、真野宗源、祝部吉田某と共に戦乱をさけ、 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 12 12 神楽・十方拝礼 氏神日吉神社を奉じて浦郷に移り、日吉田楽を伝えたと言われている。古来旧暦九月九日の例祭には隔年ごと「五本の祭」と称し1)真言(大般若経の転読)。2)神楽。3)庭の舞。4)神の相撲。5)十方拝礼が行われた。明治になり、「真言」は 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 12 18 神楽・十方拝礼 とりやめられ、「神楽」もいつしか中絶、現在では、庭の舞、神の相撲、田楽(十方拝礼=しゅうはいら、という)だけが残っている。(4)内容。*)庭の舞。舞人六人、各々待鳥帽子に布衣、扇を持つ拝殿両側に三人宛相対して着座し、前に白幣を置く。 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 12 25 十方拝礼 右の頭一人が立って正中に進み拝三度、再び神前に向かって右の手を胸に、左手を水平に伸ばして、内側の足から踏んで、右廻り三回して正中にもどる。次に左右の手をかえて逆方三回回って正中に直り、さらにはじめの所作を右廻り三回して、初の態にかえる。 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 12 33 十方拝礼 今度は左右水平に上げて、初回のごとく回ること三度、正中に復して一拝して本座に復す。次に左座の頭一人出て同様所作なし、次に右中、左中、右下、左下の順に同様舞う。六人舞い終れば、一同立ちて神座に面して二列縦に並ぶ。右頭(ケサノセクモノ、 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 12 40 十方拝礼 ナナツモノヤツモノ、コトノシラベルガゴトシ(三唱)。左頭(オオ−)。右頭(ヨクヨク、チュウモントトノエテ、ウタウモノシルベシ、三唱)。一同(オオ−と答えて。(ツルガナル、ウノハマデ、アソブハチドリ、アンパレ−レ−ラ−レ、レコ−マツルガウエデアソブ 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 13 7 十方拝礼 ハチドリアンパレ−ラ−レ、次に円形をつくりながら、ヨロズヨ−マディ−モ、アンパレ−レラレ−レ、これを三唱してもとの位置にもどり、(この宮の五本の祭する人は、寿イノチも長く千代の世までも、サンヨサンヨ、唄い終って復座。 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 13 15 十方拝礼 この庭の舞は歌詞等からして、おそらく「東遊び」を伝えたものであろう。前段は拝舞であり、後段は円舞の踏鎮めである。 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 13 18 十方拝礼 神の相撲 庭の舞が終るとすぐ神の相撲がはじまる。裸形の2少年は黒締込で、白鉢巻の前面中央に小型の幣をさす。拝殿中央の神前に並んですすみ、立ったまま左手を腰に、右手を上にあげて、すわりながら身体を折り三度礼拝をする。前におかれた御幣と白木綿 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 13 31 十方拝礼 をつき合わせて、もと来た方へ後もどりして拝殿に駆けもどる。同様のこと三回に及んで終る。この神の相撲は神が童子の形をもって現れ、相撲によってその年の作の吉凶を占うというのが古来の考え方であろう。(5)指定の要件。1)庭の舞は東遊に倭舞の要素が 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 13 37 十方拝礼 混入して固定したものと認められる。2)神の相撲は年占が儀礼化して固定したものと認められる。3)所作歌詞衣裳も現在の形を崩さぬこと。 1964 526 昭和39年 島前の文化財 甲辰 1 15 1 焼火 有形文化財。銅鐘。昭和41年5月31日、県指定。所在地。島根県知夫郡西ノ島町大字美田1294。所有者、焼火神社(宮司、松浦康麿)。形態、法量、全高2尺5寸8分(78、2センチ)竜頭の高さ6寸4分(19、4センチ)鐘身の高さ 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 15 10 1尺9寸4分(58、8センチ)基底の直径1尺6寸2分(49、1センチ)厚さ基底部で1寸1分(3、3センチ)帯は縦に5条ずつ四面にあり、横には上帯はなく、下部に集中して9本はいっている。乳は16箇ずつ四面にあり、撞座は表裏に各一つついているが 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 15 15 焼火 蓮華ではない。鋳肌はよいとはいいがたいが、帯は高くはっきりしている。全体の姿はよくまとまっている。銘文)隠州嶋前美田院焼火山雲上寺。奉鋳鈎鐘者嶋前嶋後一紙。半銭進以此功徳到成就所Β。□国守護堀尾山城守□□□□晴公。□□□江州甲貿之住。 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 15 24 竹林弥三衛門□藤原一□。住持順応本願前□寺□□。同常福寺良善千福寺□法。同八郎左衛門□野徳衛門。堀川□三衛門。鐘突宇賀之大単越備後守□□。浦郷真野左京亮。長福寺住法印□□。安国寺住法印快朗。村上右京亮。□田長左衛門。松浦兵衛。 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 16 8 領鋳大工雲州宇波住人。加藤茂兵衛□□□。同小工息善兵衛。干時元和四戌午九月十二日。製作、寄進事情)銘文によれば元和四年(1618)雲州宇波の鋳工大工加藤茂兵衛、小工息善兵衛の作であったことが知れる。寄進事情に関しては、萬治二年、 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 16 20 雲陽散儀生藤弗緩子誌、斎藤豊宣写「縁起書」(同神社蔵、隠州視聴合記収録)によれば、神がみずから宇波の善兵衛に命じてつくらしめられたもののごとくなっているが、事実は銘文の冒頭にもあるように、島前島後を一紙半紙の勧進をして、島前各地の公文、 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 16 25 神主、僧侶の協力によって成ったものであろう。指定の理由)年代的に古いとはいえないが、雲隠地方を通じての唯一の鋳物所であった能義郡宇波の作であり、同所の作が少なくとも鐘に関してはほとんど残っていない現在、いわゆる国ものの標本として保存すべきものと考えられる 1966 531 昭和41年 島前の文化財 丙午 1 17 15 焼火 天然記念物。焼火神社神域植物群。昭和45年10月27日、県指定。所在地)島根県隠岐郡西ノ島町大字美田字焼火山1293、1293続1、1293続5、1294、1297、1298内第2、1298の6番地。所有者)焼火神社 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 1 焼火 説明)焼火山(海抜451、7メ−トル)の植物群中、神社を中心とする約4ヘクタ−ルの地で、境内地の老杉群、社殿背後の岩壁に着生する特殊植物、参道脇に群生する隠岐植物群、山頂付近の暖地性常緑広葉樹林の四つに分けて考える。 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 10 老杉群は参道入口から本殿までの約300メ−トルの間にケヤキ、アスナロなどとともに群生するもので、目通り周2メ−トル以上のものが20本もあり、もっとも大きい社殿直前の竜灯杉のごときは目通り周6メ−トル樹高約30メ−トルを測る。 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 18 焼火 社殿の背後の高さ約20メ−トルの岩壁には、ラン類のセッコク、フウラン、マメツタラン、シダ類のタクヒデンダ、顕花植物のトウテイランなどの観賞用植物が着生し、いづれも発育良好である。なかでもタクヒデンダは名のとおり焼火山のこの場所にしかないもので、 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 22 オオエゾデンダとオシャゴジデンダの中間型を示す。またトウテイラン(洞庭藍)は隠岐以外では因幡と丹後にしかない隠岐島における代表的植物のひとつである。第一の鳥居から社務所までの左側山腹斜面にはチョウジガマズミ、オニヒョウタンボク、 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 29 ヨコグラノキ、サイゴクミツバツツジ、ミツバイワガサ、などの落葉低木や、トウテイラン、オキノアブラギクなどが、ヒメゴダイ、トキワイカリソウなどとともに群生しているが、この大部分は隠岐島の代表的植物であって、山陰本土ではみられないものである。 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 18 38 神社境内から山頂にはシイ、カシ類やヤブツバキ、タブサカキ、ヒサカキなどの常緑樹の密生林である。隠岐の天然植生を示す常緑広葉樹林として貴重である。 1970 1027 昭和45年 島前の文化財 庚戌 1 19 1 焼火 焼火信仰についての一考察 北見俊夫。焼火信仰について研究され、そして発表されたものは、故大島正隆氏「海上の神火」(文化6の7)、牧田茂氏「焼火信仰と船玉信仰」(山陰民俗5)二宮正彦氏「隠岐の神社について−焼火神社」(隠岐関大島大共同調査会刊) 0 0 島前の文化財 1 19 9 焼火 があり、そして最も新しく発表されたものに北見俊夫氏の「海上の信仰」がある。このように中央の専門の方が研究の対象となさる程に「焼火信仰」は単に隠岐島民のみのものでなく広い信仰圏と種々の信仰内容を持つ、所謂「霊験あらたか」といわれる大神であった。 0 0 島前の文化財 1 19 17 焼火 このすべてを資料にもとづいて記述することは膨大なものとなるので(これはいづれ一本にあとめる予定)ここには北見氏の「海上の信仰」より抄出して焼火信仰の一端を紹介することにした。北見氏に対し心より御礼を申し述べる次第である。 0 0 島前の文化財 1 19 24 焼火 猶、焼火信仰を考える時、熊野信仰との関連をのべるべきであるが、ここでは一切こうした私見はのべないことにする。本論考の題目は「海上の信仰」であるが、仮に私が表題の様にして紹介することにした。(焼火神社宮司、松浦康麿) 0 0 島前の文化財 1 19 32 焼火 日の入りのお燈明 「オド−ミヨ−の薪は、削りかけを三本棒に結わえたもので、先ず燧石を三度チョンチョンチョンとうち然る後に火をつける。それを右手に高く捧げトモのカジ柱の所に立って大声で次の様に唱える。−−お燈明、お燈明、お燈明、オキノ国タクシ権現様にたむけ 0 0 島前の文化財 1 19 32 ます。よい漁に会はせ、よいアラシに会はせなはれ千日の上日和。 0 0 島前の文化財 1 19 44 かく唱へ終るとその火を三回頭上に大きく振り回して海中に投ずる。これはカシキの行ふもので其の間船頭始め乗組全員舷に立って祈念をこらすのである。(話者船渡勘治氏、79才」。「日の入りのお燈明」献燈に際しての唱えごとは、岩手県気仙郡綾里村砂子浜 0 0 島前の文化財 1 19 50 (現在三陸村)で「その昔(昭和14年現在)といえども、オキのタクシ権現なるものが何処の如何なる神様であるかは、全く知らず、単に古来からの伝えのままに唱えられてきている」そうである。宮城県桃生郡宮戸村室浜(現在鳴瀬町)での唱えごとの 1939 0 昭和14年 島前の文化財 己卯 1 20 3 神様の名前には、隠岐の都万目の顎無地蔵の名まで出てくる。これらの伝承を大島正隆氏に語った白髪赤顔の漁師の翁は、かって少年の日、カシキの役に当っていた。また三陸海岸ベンザイ乗に従事し同様の献燈儀礼を行っていた船乗りたちも、ともに酒田以南の海路 0 0 島前の文化財 1 20 10 焼火 を知らず、ましてや隠岐の島山をまだ見ぬ人たちであった。さらに、当時すでに伝承者になっていたかれらは「タクシ(焼火)の権現とは昔から船方の神様であるから、是非とも念じなければならぬ。その神様のお社の下を通るときにはどんなアラシ(凪といふ意) 0 0 島前の文化財 1 20 15 のよい時でも帆をセミモトまで引かせ、米一升のオサングを海に撒くものだ」と付け加えて語っていた。 0 0 島前の文化財 1 20 18 焼火 タクヒといふ珍しい神の名 この珍しい神の名が、津軽南部の海にまで運ばれた事実や、以下追々述べる文献所収の記録などから1)焼火山の霊験がいつ頃から説かれる様になったのか、2)どのくらいの信仰圏の広がりを持っているのか、3)どの様な霊験内容が 0 0 島前の文化財 1 20 25 語られてきたものか。したがってこの神の性格機能はどうか。4)どの様に伝承が薄れてきたものかなどを考察してみよう。「六国史」類でこの神のことが記されているもので古いのは、桓武天皇延暦18年(799)の記事であろう。遣渤海使帰途にさいし 799 0 延暦18年 島前の文化財 己卯 1 20 32 「帰郷之曰、海中夜暗、東西メメ曳、不識所著、干時遠有火光、尋遂其光、メメ到嶋浜、訪之是隠岐国智夫郡、其処無有人居、或日奈麻治比売神常有霊験、商賈之輩、漂宕海中。必揚火光、頼之得全者、不可勝数、神之祐助、良可嘉報、伏望奉預幣例許之。と記載されている。 0 0 島前の文化財 1 20 39 ついで承和5年(838)冬10月この神に従五位下を授け、貞観十三年(871)閏八月二十九日任申、夜流星があり神々に位を授けたとき、この神に正五位下を授けたさらに元慶二年(878)正五位上を授けている。平安初期から都の人々にも知られて 871 829 貞観13年 島前の文化財 辛卯 1 20 45 焼火 いたことはこれだけの記事からでも伺えるが、「栄華物語」巻第三六には「根あはせ」の条に「恨みわび干さぬ袖だにある物を恋に朽なん名こそ惜しけれ」をうけて右近少将源経俊朝臣の歌として「下もゆる嘆きをだにも知らせばや焼火神(たくひのかみ)の 0 0 島前の文化財 1 20 51 焼火 しるしばかりに」いとをかしくて過ぎぬ」と出ている。焼火神について、「和訓栞」の註では「隠岐国の海中の神火也焼火権現と称す、海部郡島前にまします」と記されている。中世になると、承久の変後、後鳥羽院が島に渡られた日、風波漂白の海上、雲間はるかに 0 0 島前の文化財 1 20 58 例の火が現出した時、院が−灘ならば藻塩やくやと思ふべし何をたく火の煙りなるらん−という御製を詠じたことから、たく火をもって神号とするに到ったというのが一般の説になっているが、「栄華物語」の例でもわかるように、すくなくとも平安末期には 0 0 島前の文化財 1 20 63 焼火 焼火権現の名で呼ばれていたのではないかと考えられる。近世になると前述の「日の入りのお燈明」行事に隠岐のタクヒを唱えることが広く行われ、葛飾北斎の「北斎漫画七編」の中に、又安藤広重の「六十余州名所図会」にも「焚火ノ社」としてその絵が 0 0 島前の文化財 1 20 69 焼火 画かれており、海民のみならず、江戸人士の間にも知られていたことがわかる。それよりさき、まづ隠岐島前焼火権現社に伝わる同社の縁起は万治二年(1659)の奥書のある漢文体のものと、年代は不詳(筆者常福寺住快穏は文化年間の人につき 1659 0 万治2年 島前の文化財 己亥 1 21 4 焼火 この頃と推定)であるが、これをもとにして当時の信仰を折込んだものとがある。それによってみると、平城天皇の御代、大同年中に奇端があり、海中出現の神として祀られたのに始まることになっている。そして焼火山に船玉大明神を祀るようになった 0 0 島前の文化財 1 21 10 由来については、空海法師入唐の折博多の浦で風待ちし、夢の告げをうけ、夢さめて枕元に光明輝きたる玉が出現したとしている。その玉が一度高野山に安置されて後、隠岐国の海中より出現し給うた大山大権現の御神殿に天長八年(831)より 831 0 天長8年 島前の文化財 辛亥 1 21 16 焼火 納められることになりいよいよ海上安全の御神徳を現わすことになったと記されている。寛文七年(1667)の「隠州視聴合紀」所収の焼火山縁起は、これらとちがって、一条院の御宇(986〜1011)海中より出現の火光飛んで山に入りしを 1667 0 寛文7年 島前の文化財 丁未 1 21 22 焼火 以て此社の始めと説き多少相違がみられる。この外貞享五年(1688)の「増補隠州記」寛保三年(1743)の「諸国里人談」天明七年(1789)「紅毛雑話」上田秋成集」などに焼火権現信仰の記事が見えている。明治以降については網羅的に 1789 0 寛政元年 島前の文化財 己酉 1 21 29 調べ上げたわけではないが、ラフカディオヘルンの「知られざる日本」に紹介されているのは有名である。 0 0 島前の文化財 1 21 33 焼火 (3)焼火権現神火の奇瑞 焼火権現に関し、どのような奇瑞が文献や伝承を通じて伝えられているであろうか。ただ漠然と船方にとって、きわめてあらたかな神様であるということ以外に、以上の資料から、具体的につぎのような内容に分類することが出来る。 0 0 島前の文化財 1 21 40 イ)難破しそうになった時祈願をこめる。するといかなる嵐のなかでも三すじの火光がありありと示され、船をその中央の火に向けさえすれば、かならず安全に港をとることが出来る。されば、ロ)平穏無事のときでも前述のごとく、カシキ演ずる処の 0 0 島前の文化財 1 21 45 焼火 「日の入りのお燈明」行事にさいし、−隠岐国の焼火権現、早よう港をとらせ給え−と念ずるのであった。漁船は唱え言葉のなかに−オキの国のタクシの権現にたむけます。よい漁に合わせ、よいアラシに会わせてくなはれ千日の上日和−などの文句が含まれる。 0 0 島前の文化財 1 21 51 また、ハ)この社から授与される「銭マモリ」は魔除けとして船乗りにとって護符の役割を果たし骰子とともにこれを船玉さんの御神体として納めている廻船もあった。江戸時代の玩銭日録「板児録」にも記載され、同寺の「年中御札守員数」を記した 0 0 島前の文化財 1 21 57 天保十三年十二月の日付のある帳面にも年間〆めて七千九百銅をいうおびただしい「神銭」が授けられていた。その神銭の由来については「嶺に巨岩在り、其半腹に穴あり是に宮殿を作れり(中畧)鐘楼在り、宝蔵あり。山上へ行道在て到れば、神銭湧出る一壷在り、 1842 1200 天保13年 島前の文化財 壬寅 1 21 63 人壱銭を得る時は水難をまぬがれ疫病をさける(中畧)神徳を記て説に不逞神火を施して闇夜の漂船を助け給ふ凡そ秋津州は不及言に高麗に至っても神火を請時は出すと云事なし」とある。もう一つ重要な要素は、ニ)竜燈神事である。「隠州視聴合記」の著者 1842 1200 天保13年 島前の文化財 壬寅 1 21 69 焼火 斎藤勘助の「焼火山縁起」に「(前略)有神燈毎歳除夜見之。海中其始出也、一点如星炬如篝、耿々而明、徐々而立。如見漁火於波涛渺茫之中如有物伝火来焉、漸而近未及山里許対神祠而止。自山而隔一海湾而有村日千振。自千振観之、燈不止於海中遂達於山羊。 0 0 島前の文化財 1 22 5 焼火 相伝海神献之焼火之神。雖陰晴風雨年々不同、然必以夕見此燈也。若其燈数年有多少。土人以漁為業者以是為卜。故見燈数多則隣里相慶、以為多漁之兆。此夕土人遠近来観焉。其数千百、年々加盛。自古今尚多矣。」これは、竜燈神事について、近世初期の状況を 0 0 島前の文化財 1 22 12 焼火 描写したものである。近くは明治25年ラフカディオヘルンが隠岐に渡ったときの紀行文のなかに、「(前略)焼火山には伝説がある。自分はそれを友から聴いた。その頂上には権現様の古い社殿がある。十二月三十一日夜、霊火が三つ海から現れ出て社殿の処へ昇り、 1892 713 明治25年 島前の文化財 壬辰 1 22 18 社殿の前の石灯篭の中に入り、燈のやうに燃えて居るといふことである。その光は一度に海から現れるのでは無く、別々に現れて、一つ一つ峰の頂上へ上がってゆくのである。みんな其光が水から昇るのを見に小舟に乗って来るが、心の清浄な者だけに見えて、 0 0 島前の文化財 1 22 24 焼火 よこしまな考えや願を有って居る者はその霊火を見ようと待って居ても駄目である(後略)」と記している。以上あげた焼火権現信仰の内容のうち、ロ)についてはすでに検討したが、ハ)に関しては牧田茂氏が「焼火信仰と船玉信仰」といふ論考で船玉信仰上、 0 0 島前の文化財 1 22 30 焼火 裏日本に於ける一つの中心地と認め、船玉信仰の性格を究明するなかで「船霊」様という特殊の神が元来あるのでななく、家の神が船旅の守護として祀られた場合に船霊様と呼ばれたものではないかと」いう考へを提出した。その論拠として焼火権現発行の 0 0 島前の文化財 1 22 35 銭守りと其の効能からヒントを得たとし、またそれに沖縄のオナリ神信仰やそれを今に伝えたとみられる船玉の妻や娘の髪を御神体とする風の残っていることなどあげている。これだけでは仮設としてなら受取れるが、まだ論拠不充分なように思われる。 0 0 島前の文化財 1 22 42 焼火 (四)竜燈と祖霊信仰 イ)に述べた神火の信仰こそ、古くからの海中出現の神として尊敬をうけて来た焼火山信仰の中核をなすものであり、ニ)は其の後、いつからこの様な神事の形になったものか明かでない。そこで竜燈信仰について海上関係のものに 0 0 島前の文化財 1 22 48 焼火 限定せず、もっと視野をひろげて全国的展望に立って考えてみよう。そうした意味では、焼火山の竜燈神事が大晦日の晩におこなわれる点に注目したい。竜燈信仰については、はやく柳田先生が「神樹篇」のなかで柱松の神事から説き起こされ、盆の 0 0 島前の文化財 1 22 54 燈竜や祭の折に柱を立てることも柱松の行事と系紋を同じくするもので、竜燈という漢語は語はもと水辺の恠火を意味し筑紫の不知火(しらぬい)河内の姥が火などがこれに該当し常に一定の松杉の上に懸るという点がわが国の特色といえるのであって燈を 0 0 島前の文化財 1 22 59 献じたという類の口碑はむしろ後に発生したものであろうと説かれた。各地の竜燈信仰のなかで、竜燈が一年のうち一定の時期に発現する例をとらえてみるに徳島県の津峯権現、舎身山竜寺の両所はいづれも除夜の晩に山の頂上へ竜燈が上った。 0 0 島前の文化財 1 22 66 石川県の最勝寿住吉神社は一名竜燈社とも呼ばれ、毎年一二月晦日の晩に竜燈の奇事があったもでこの名がある。(畧)大晦日に竜燈の上がるこれらの例に対し新潟県八海山の頂上にある八海明神の例は七月晦日である麓の里に住む人々は毎年この夜は 0 0 島前の文化財 1 22 71 焼火 登山参拝して一宿する習である。此夜山から麓の方を下し臨めば数十の火が燈のごとく連り、連綿として山中に飛来るをみる。(畧)結局、一年のきまった期日をそれらの期日は神霊を送る季節であった事を考へ合はせると、焼火権現の場合も明らかに 0 0 島前の文化財 1 23 6 焼火 其の例にもれず、祖霊信仰と関連するのではないだろうか。八海明神の例には祖霊との関係が一層深いように思われる。さらに焼火権現の場合には年占の要素が習合している。 0 0 島前の文化財 1 23 11 (五)竜燈の種々相 竜燈はもと一種の天然現象であったろうと思うのであるが、その名のつけられたのは五山の学僧などの命名でなかったかと柳田先生は推論された「諸国里人談」火光部にいくつかの竜燈信仰の事例を記載している。不知火について 0 0 島前の文化財 1 23 17 「豊後国宮古郡甲浦の後の森より桃灯のごとき火、初夏のころより出る。又松山よりひとつの火いでて空中にて行合、戦ふごとくして海中へ颯と落る。(畧)四五月八九月にかならずあり。これつくしのしらぬい火といふなり。」とありこれも一種の 0 0 島前の文化財 1 23 22 竜燈であろう。橋立竜燈については「丹後国与謝郡天橋立に毎月十六日夜半のころ丑寅の沖より竜燈現じ、文殊堂の方にうかみよる。堂の前に一樹の松あり。これを竜燈の松といふ」と記しまた津軽岩木山に関し「(前略)御祠には、かねのみかたしろ三ならび、 0 0 島前の文化財 1 23 28 その中にまじりて、石のみかたしろのあるは守山の神とか。赤倉のかたに神場(おにば)にて処を見やり、いと静かな夜には、竜燈、天灯のささぐるを見−」とあるのは意味深長に感じられる。(畧)いづれにせよ、近世にはすでに一般的にその名が普及していた 0 0 島前の文化財 1 23 35 焼火 ようである。これを要するに、竜燈は、信仰のある人々にとって暗夜の道しるべであった。竜燈が発現する時期は、焼火権現その他大晦日の例、八海明神の七月晦日の例などから考えて、それらは祖霊を迎え送る日でなかったか。すなわち竜燈信仰に、種々なる要素 0 0 島前の文化財 1 23 41 が習合したなかで、海上の信仰に関する部分は重要なものとして伝承されてきた。そして海上で夜を迎える廻船や漁船が行う「日の入りのお燈明」行事は、海中より竜神が捧げる燈火をカシキが代行する形をとったと解することはできないであろうか。 0 0 島前の文化財 1 23 48 焼火 (6)焼火、篝火、燈台、竜燈 海上での神火の発現は、どこまでが神秘でどこからが現実生活なのか区分しがたい面をもっている。海上航行上、港や岬によって暗でも目印になる何かがあった。燈台以前の昔の生活を考えてみれば思いあたる点が多い。 0 0 島前の文化財 1 23 54 焼火 これまでにも述べてきた処であるが、焼火権現に感応する”みちびきの火光”に似た神火が各地に伝承されている。同じ隠岐島後の五箇村久見(くみ)では、その沖合いを通って難破しそうになると、一心に内宮さん(久見の伊勢命神社)を拝んで、オヒカリを上げて 0 0 島前の文化財 1 23 59 下さいと念ずると久見の波止(はと)にオヒカリがあがって目印になるといわれている。新潟県西蒲原郡間瀬村での伝承では、野積との村境に祀っている榎坂の地蔵様が、シケのときに火がついて知らせてくれると信じられている。この種の伝承に対して、 0 0 島前の文化財 1 23 65 現実的な目当てとして、夜間の燈台以前の常夜燈、燈明台などで火をともしていたこと、発生的には篝火をたいていた処を考慮してみる必要があろう。神秘的な神火の出現をすべてこのような篝を焚いたところに此定することは必ずしも当らないかもしれないが、 0 0 島前の文化財 1 24 1 焼火 何かしら相関関係があってのことではなかろうか。(畧)航路標識として、最も原始的な焼火(たきび)、篝火が近代的な燈台設置まではもっとも普通のものであったことを示すであろう。能登の三崎も重要な目当てになる場所であったが、三崎の権現様の奥宮が 0 0 島前の文化財 1 24 6 焼火 山伏山の頂上に祀られ、そこで篝火を焚いたことが伝えられている。そうした意味から隠岐の焼火権現の焼火も、篝火を焚いたタクヒからその名がtけられたのではないかと考えられ、またこの山の竜燈神事で述べた如く「有神燈毎歳除夜見之。海中其始出也。 0 0 島前の文化財 1 24 12 焼火 一点如星如炬篝−−」「社殿の処へ昇り、社前石灯篭の中にいり、燈のやうに燃えて居る−−」と伝えられる。竜燈とび来たって灯篭の中に入る伝承は、焼火権現だけの伝承ではない。以上の点を勘案してみるとき、竜燈と灯篭との媒介から、暗夜の道しるべ、 0 0 島前の文化財 1 24 18 目当てに焚いたもっとも素朴な篝火との対応関係に注目してみたいと思う。信心ある人にとって、体験的なある現実が、神秘的なひらめきをもって、心のなかに竜燈などの火光を現ぜしめるのではなかろうか。 0 0 島前の文化財 1 24 24 焼火 (7)海上信仰の伝承 「諸国里人談」の著者は「焚火」の項に「隠岐国の海中に夜火海上に現ず。是焼火権現の神霊なり。此神は風波を鎮給ふなり。いづれの国にても難風にあひたる船、夜中方角わかたざるに、此神に立願し、神号を唱ふれば、 0 0 島前の文化財 1 24 30 焼火 海上に神火現じて難をのがるる事うたがいなし」と述べついで後鳥羽院隠岐遠島の故事にふれ、焼火権現の来歴について一条院の御宇に海中より出現し給う由緒を引用しているところをみると、文献から得た知識も相当含まれていることは確かであるが、 0 0 島前の文化財 1 24 35 当時のいわゆる里人談を紹介した点も疑いえないであろう。18世紀中葉における、その里人談の内容をなかに置いて、昭和10年代の故老からの伝承と、文献を遡って、本稿で前述した「日本後紀」所収の延暦18年、遣渤海使帰途にさいしての記事と、これら三者の 799 0 延暦18年 島前の文化財 己卯 1 24 42 間にいくばくの差異があるであろうか。このような事情から推して遣渤海使の筆にとめられた信仰内容は、それ以前の悠久のいにしえからのものであろうことを、今にして想うのである。その継承の古さと根強さを痛感するものである。一方天明7年(1787) 1787 0 天明7年 島前の文化財 丁未 1 24 47 記するころの「紅毛雑話」では「洋中にて難船の時、舳先の方の海面に神火の現ずるを見る時は、其船かならず恙なし、蛮人「フレ−ヒュ−ル」と号く「ウヲ−ルデンブ−ク(書名)」にも説あり、一昨年来りし「カピタン(役名)」「ロンベルゲ(人名)」 0 0 島前の文化財 1 24 53 焼火 印帝亜(いんでや)の海上にて難船の時、彼神火を見たるよしを語りしと、家兄の物語なり。吾邦焚火山の神火と同日の談なり」とあり焼火権現信仰の広がりと内容の斉一性に驚く。この信仰は、時間的経過の深さと空間的広さという点において考えさせられるものをもっている。 0 0 島前の文化財 1 25 1 焼火 焼火山の自然 焼火山は島前で一番新しい地質で出来ている。ガラス質粗面岩の山で、高さ451メ−トル島前最高の山である。かけ値なしの海からそびえているので、登山には苦もあるが楽しみが多い。登山道はほとんど太古のままで坂の多い小道で、 0 0 島前の文化財 1 25 8 丁目丁目に地蔵さんが並んでいる。古いのやわりに新しいのや、寄進者の分布を見ても面白い。麓、波止の里から十八丁としてある。登山口のもう一つは別府方面から大山口が一里二丁ある。楽しみのひとつは眺望、知夫里、中ノ島、西ノ島が環状に並び中海を作り 0 0 島前の文化財 1 25 14 その中央にそびえて立つ山であるから申し分がない。島前特有の放牧用の木戸のある入口の急坂を通りやれやれと思う時分限界の開ける場所に出る。経1メ−トル位の岩があって思わず足が止まる昔からの休み場である。この岩もガラス質の粗面岩で大人は荷物を 0 0 島前の文化財 1 25 20 揚げて休み、子供は万歳!を叫んだりする。向こうに築山の如く見えるのが西ノ島の南端になる。この間にクモの糸の様なものが見えるがこれは送電線である。行き交う観光船はミズスマシの如く、おきじ丸、しまじ丸などが美しい航跡の弧を画がいて−− 0 0 島前の文化財 1 25 26 焼火 空、透明、海、エメラルド、木々のグリ−ン。晴れた日には鳥取の大山が遠望出来る。夏でもいつしか汗も引いて元気がでる。山の植物。近年どこも植林が進み森林が単純化して自然がアンバランスになりつつあるが、焼火は古来より信仰の山で未だに自然が残されている。 0 0 島前の文化財 1 25 33 早春の椿は美しい、登山口のあたりに古木も多い雪を被った椿、濃緑の葉と紅の花、島後のシャクナゲの花と好一対だ。蜜に来る目白も可愛い。このあたりでは希少な保護鳥の天然記念物にも指定されているカラスバトを見ることもある。この鳥はこの山系に多く棲息するが 0 0 島前の文化財 1 25 39 人の目にふれにくく割合にここはよい観察地である。木戸口を通って間もない処から珍木のヨコグラノキがある。それは、暖地系の植物である。当地ではアイノキと称し古来より家を建てる時には大切なクサビを作る為の木としていた。その為直径15センチ位に 0 0 島前の文化財 1 25 45 もなると切って保存しておく。大変堅く腐りにくい木でる。利用の為切るので大木は残っていない。このあたり山桜の多いが中にカスミ桜もあって分布上面白い。アオタゴ、ザイフリボクも多い。共に白い花が咲いて花時には山桜と趣の変わった風情がある。 0 0 島前の文化財 1 26 4 坂道一帯にトキワイカリ草がある。船のイカリの様な形をした白い花を咲かす。この植物も数種あるが隠岐のは白花だ。黄とかピンクとか花色の違うものもあるがここではたまに淡いピンクのを見るくらいなもので、隠岐ではオドリコ草も白花だ。 0 0 島前の文化財 1 26 10 イチゴもたのしみになる。クサイチゴの香、キイチゴの味、ここのは葉型が違いナカバノモミイチゴだ。ウラジロイチゴ、ナワシロイチゴもある。冬になると雪の下からルビ−の様な実を見せる冬イチゴ、これはオオフユイチゴで冬の山あるきをする時の楽しみだ。 0 0 島前の文化財 1 26 15 食事 食べる物といえばこれも沢山ある。栗、椎は勿論アケビがある。これはアケビ、ミツバアケビ、ゴヨウアケビで、実も形も、色風味もそれぞれでありムベはここではヒヨビという。寒くかってからのムベの意味でフユムベがヒヨビと変わったか。これにも二品あるが 0 0 島前の文化財 1 26 22 実の肉質に純白と黄味がかったものとあって黄味の方が甘い。グミの類もナツグミ、これはタナゴと云ふがこの意味はわからない。オオバグミ、ツルグミこの中間フアカバグミもある。イタビカズラの実、これは子供達が親に禁止されていてものがさない、 0 0 島前の文化財 1 26 28 食事 親も子供の頃食べている。ここではイワマメと云っている。イヌビワの実もうまい。山道も次の限界が開けてほっとする休み処に出ると神社の客殿がチラチラと木の間がくれに見える。ここらにギョウヂャノミズがある。これはここでボ−ダと云ふが 0 0 島前の文化財 1 26 34 意味はわからないエビズルに似た植物だが実は数等甘い。低い処にはない。山で修行する行者にちなんだ名である。ここまで来るともうすぐ一ケ鳥居だ。登山道の両側の植物を一つ一つ品定めしながら登るならば盛夏でも汗なしに登ることも出来る。 0 0 島前の文化財 1 26 40 春の山を紅紫色に色どる三ツ葉のツツジは西国三葉ツツジと称するもので山陰ではほとんど観られないツツジである。山腹あたりはネズミモチ、ヒサカキ、シャシャンボの多い所でよく観るとこれに寄生するヒノキバヤドリギに気がつく。この外に暖地性の 0 0 島前の文化財 1 26 45 オオバヤドリギもあるが道からは観ることは出来ない。近年は少なくなったがササユリが美しい、持って帰っても育たないのに抜く人がある為である。ヤマホトトギスは多くて可愛い花だ。山で見るコオニユリも美しい。採集かれて少なくなった花もある。 0 0 島前の文化財 1 26 51 クマガエソウがそれで特有な二枚の扇の様な葉、黒紫の大形の花、珍寄さの為に持って行かれてこまる。林の中で観るナツエビネも美しい淡紫色で清麗だ。この山は四季それぞれに楽しみがあって秋の山も美しい。澄んだバックの空、白雲、海、波、皆純粋で 0 0 島前の文化財 1 27 1 清潔なのが何よりうれしい。黒松林の中の紅葉がいい、ほれぼれするのがウリハダカエデで島で一番美しいと思う。カエデの乾いた感じの紅でなく、ウエットで新鮮さを感じさせるし、目立って美しい。ここではこの木をハシギと呼ぶ。箸を作る木の意味である。 0 0 島前の文化財 1 27 7 正月近くなると神に供える中太の箸や正月に使う箸を作ったからである。ウリハダカエデは名の通り瓜の葉に似た大きい葉で若木は幹も緑色している。早くから紅葉するのがヌルデ、ハゼでこれも美しい。蔓物でツタ、ツタウルシの葉も美しいが葉が 0 0 島前の文化財 1 27 12 三枚に見えるツタウルシには手をふれない方がよい。カブレたら大変だ。実物で美しくなるのがガマズミ、ミヤマガマヅミ、ツシマナナカマド、カマツカの類がある。ツシマナナカマド、ミヤマガマズミは特に美しい。ナナカマドは朱紅、ミヤマガマヅミは深紅だ。 0 0 島前の文化財 1 27 19 食事 この内カマツカ、ガマツミの実は子供が食べる。カマツカをヤマナシ、ガマヅミをカンゾと呼ぶ。この山に暖地系のチョウジガマツミがあるが実は少なく黒く熟す。波止の子はカンゾメなどと呼んで口にするこれは甘い。ヤブコウジの実も美しい。 0 0 島前の文化財 1 27 24 ムラサキシキブの紫の小実が枝一ぱいな成ったのも可愛い。これには普通種と大葉のものとある。小さいものでツルアリドウシの実も可愛い。センリョウ、マンリョウ、アリドオシと縁起をかついでこの三品を揃え植える。前の二種の自生はないがオオバアリドウシがある。 0 0 島前の文化財 1 27 30 名の通り蟻でも刺すほど尖ったとげがある。小さい赤い実が成る。コショウノキは花も美しく香りもよい。白花チョウジとか山ヂンジョウと呼んでいる。これは南方系のもので赤い透明な実がなる。ヒヨドリがよく食べてしまう。ミヤマシキミの実も朱紅で美しい。 0 0 島前の文化財 1 27 36 ウチダシミヤマシキミは葉も美しく庭には一本はほしい。山菜もある。ワラビ、ゼンマイ、サンショウ、タラ、ウコギ葉の中央に花のつくハナイカダ、大昔から備荒植物として有名なリョウウブ、フキ、ツワブキ、シヲデ、ヨモギ澱粉を製造するクズ、鉄砲百合の様な 0 0 島前の文化財 1 27 42 花の咲くウバユリがある。この花の咲くものをここでは男土、いうがこれは養分を花に取られて球根がやせ澱粉がない。さていよいよ杖の沢山奉納してある杖の神の前を過ぎると一の鳥居に至る。これより天然記念物指定になる植物群の中に入る。指定地は参道左側 0 0 島前の文化財 1 28 1 焼火 岩盤上の植物群生地からはじまり神社を中心とする4ヘクタ−ルの範囲である。この群生地は島前群島を代表する植物と焼火特有のタクヒデンダ等を含む貴重な存在である。ことに造林事業促進の為杉松等の樹種を以て単純林と化する現在、神域の故を以て現在まで 0 0 島前の文化財 1 28 6 自然林を保有する事は植物のみならず動物の保護にも通ずることである。陸貝のニシノシマギセル、オキマイマイ、アラハダシロマイマイ、オキゴマガイ等も産し全国でもその数の少ない大形の黒鳩のカラスバトも多数棲み永くその自然を保護すべき地域である。 0 0 島前の文化財 1 28 13 神楽 参道入口から本殿まで約300メ−トルの間にケヤキ、アスナロ等と共に杉の巨木がある。目通り2m以上のものが20本もあり、うち3m以上のものが7本、最大のものは社殿前の神木竜燈杉で目通り6m樹高約30mある。神楽殿前にあるアスナロは目通り 0 0 島前の文化財 1 28 19 約3m樹高25m位あり大きさ島前随一である。これは暖地系のアスナロで能登半島以北の北方系のものとはちょっと葉型に違いがある。アスナロは島前には多いが島後には少ない。神殿前にクロベの巨木もあったが今はその実生が二本残っている。島の最も高い 0 0 島前の文化財 1 28 25 所で時折風雪の害がある。広葉樹に大木の少ないのはそのせいで椎も根株の太いのはあるが幹がともなわない。山頂付近の暖地性常緑広葉樹林の樹種はシイ、カシ類、ツバキ、タブ、サカキ、ヒサカキなどの密生林で隠岐島の天然植生を保っている。ことに神殿 0 0 島前の文化財 1 28 31 上の岩壁に着生する植物は神域なるが故に保護され、高さ約20mの硝子質粗面岩には着生菌類のセツコク、フウラン、マメヅタラシ、シダの類のタクヒデンダ、がある。タクヒデンダは、オオエゾデンダとオシャゴジデンダの中間型を示す学術上価値の高いものである。 0 0 島前の文化財 1 28 37 尚この山系にはオオエゾデンダと(寒地性)ヌカボシクリハラン、ヤノネシダ(暖地性)も分布している。又岩上のトウテイランはゴマノハグサ科のもので銀白の葉に淡い紫の花を穂状につけ可憐である。これは隠岐以外では因幡、丹後あたりしか見られない植物である。 0 0 島前の文化財 1 28 43 岩壁の植物は小さくてよく観る事が出来ないが双眼鏡があれば観察が出来る。この外参道沿でオニヒョウタンボク、ミツバイワガサ、エゾアジサイ、ダルマギク、オキノアブラギク、オキタンポ、ポタイトゴメなどの植物も観られる。又これ等植物の他動物も多い。 0 0 島前の文化財 1 28 49 野性動物で哺乳類中一番大きいものがオキノウサギで外は小型のものだけである。コウベモグラ、オキヒミズモグラ、ジネズミ、オキヤチネズミ、カヤネズミ等が分布する。昆虫もかなり多い。動植物とも今後充分保護を加えながら研究するならば益々貴重さが顕現される事であろう 0 0 島前の文化財 1 29 1 焼火 巡見使と焼火神社 旧幕時代の隠岐にも、巡見使は渡った。将軍の代替り毎に、幕府から諸国へ派遣され、土地の政情を査察する公儀役人のことである。はじめに土地の役人たちが、この中央から派遣される役人のために、いかに心をつかって、その送迎に 0 0 島前の文化財 1 29 1 行政 大巡見あり。総勢413人にも及ぶ来島 1838 411 天保9年 西ノ島 島前の文化財 戊戌 1 29 9 あたったものであったかを和巻岩守手記によってうかがってみたい。−御巡見其他役人の巡回−旧幕時代に、高位高官の役人は勿論、下役のものでも、各村へ巡回する時は、先触れとて、何々役、何日、巡回につき送迎申、宿割人足割等、其メメ待方を通達する。 0 0 島前の文化財 1 29 16 各村に於ては二三日前より其準備に忙殺され、多くの費用を費やしたものである。御巡見とて、徳川幕府より、今の巡閲使を派遣し、諸国の状況を視察せしめたものだが、其御巡見使の入国するときは、数十日、前に前触を為し、上を下への大騒ぎで送迎の準備に 0 0 島前の文化財 1 29 22 手の尽くさるる限りを尽くしたもので、今から之を思えば、昔如何に役人が傲慢を極めたかが想像せられる。当家に正徳2年6年、享保2年、延享3年、享保元年、寛政元年、天保9年に巡見使が入国された時の書類がある。其最近の天保9年の巡見振りを紹介してみる。 0 0 島前の文化財 1 29 29 巡見、諏訪縫殿助、知行三千石、上下付添三十五人。同、竹中彦八郎、同二千石、同三十人。同、石川大膳、同一千五百石、同二十七人。勘定方、高橋繁之丞。支配勘定八木岡大蔵。御徒目付、山本庄右衛門。雲州御馳走方上下十三人。御医師上下十二人。 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 29 38 御船方奉行、上下五人。御朱邦預、上下二人。御茶道、上下六人。御台所役人、上下十人。御料理人、十人。外ニ両島役所の役人二十五人。郡代、上下六人。代官、上下六人。御目付、上下二人。合計百八十一人。本巡見の巡見せられる区域は、山陰、山陽の両道である。 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 29 49 焼火 一行を崎村庄屋新八郎松江表へ出迎し、一行は四月十日知夫村泊、十一日焼火山にて休憩別府泊、十二日海士村を巡見直に都万村へ渡海、矢尾村泊り、夫より美保関へ渡海之先触あり。一行前記の通り二百人近い多人数で、之を送迎して相当の礼遇を尽くさんとする 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 1 のであるから、島前一帯は上を下への大騒ぎにて、その準備に苦心惨胆したものである。賄方では、フトン百二十枚、味噌八十五貫匁、醤油二石、干瓢四百匁、鰹魚五連、煙草三貫匁、烟管三十本、酢四斗、砂糖十斤、箸千膳、油六斗、半紙十束、下駄百足、 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 8 薪 草履百五十足、草靴二百足、唐紙三千枚、蝋燭八百匁、半切紙三百枚、杓子百丁、薪五百〆、其他数十点にして、布団は各村より借集めた。船と人夫は御召船の漕ぎ船四人乗八十四艘船人夫を百三十九人外に夘事人多数あり、乗馬二十四頭、巡見入国の前日より、 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 15 各村から多人数出張り遠見番所より、船見ゆの相図あるや忽ち漕船出て漕寄せ、直ち上陸宿所へ案内し、島前の共同賄とする。翌十一日は別府村泊りにして夜具その他一切の物を持運びて知夫の如くに歓待し、翌日は海士村巡視村上助九郎邸に休息せられ、 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 21 御召船以下八十余艘を従ひて都万村へ渡海せらる。その巡村の行列は実に盛んなるもので諏訪巡見使一人の夫を記してみれば陸行には直先に旗を押し立て、具足箱二人、長持二棹十二人、御用人足六人、御乗物一挺八人、御供篭二挺八人、御供馬七匹口取七人、 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 27 夜具持四人、下駄草靴草履持二人、其他十一人計七十人にして、内二十三人宛小頭を付けらる。船行には御召船一隻、御供船一隻、漕船四人乗四艘(島後請)御用達船四人乗四艘、以上一巡見使の行列であるが、他の二巡見の夫れも多少の相違はあっても略之と同一で 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 33 ある。其他郡代、代官、之に属する諸役人に要する人足、御用船夥しきものである。この惣人足三百三十九人、船数八十四隻舟夫三百三十六人、其料理人卯事人、給人、小使等多人数を徴発、各村の庄屋、年寄は勿論当時頭分惣出にて本陣(宿所)一切の世話から、 1838 411 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 30 39 荷物の取扱、賄方及人夫船の世話又夜具諸具の持廻り等落度なくしたものだ。今日から思えばその混雑の状想像も及ばぬ程である。以上、和巻岩守氏の手記によって、当時の隠岐の在地役人と、巡見使入国のすがたを想像していただきたいのであるが、 0 0 島前の文化財 1 30 45 焼火 焼火神社に記録された巡見使御社参記の完全記録を筆写させていただいて感じた、所見をのべて、巡見使のことを考えてみたい。隠岐に渡海し、その任務を遂行して去った何回かの巡見使は、例外無く焼火神社に参拝した。どの理由のすべては、はるかに渡る海上安全 0 0 島前の文化財 1 30 61 焼火 その制度の初期から享保ごろまでは政治視察の上で幕府にとっても効果をあげたといわれているが、寛文ごろからは殊に海辺浦々の巡見が重視されたという。焼火神社の御社参記録には、寛永十年の巡見以来の記録がその都度認められ、和巻手記にある先触れから 0 0 島前の文化財 1 30 67 知夫一泊翌日社参、一泊のこともあり、休息の後出発の場合もあった。ここには、その一つをあげて大体のことを知っていただく事にしたい。 0 0 島前の文化財 1 30 71 淳信院様御代替え翌年。延享三年寅六月御巡見御参詣之記。大巡見。小幡又十郎様、御知行千五百石。板橋民部様、同千七百石。伊奈兵庫様、同千石。延享三年寅四月二十八日雲州三保関より知夫里湊江夜五ツ時に御着船翌二十九日四ツ時橋浦より御登山、 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 7 御迎住持宥賢伴僧清水寺、有光寺恵光、精進川土橋之前に而御待受申上、小幡又十郎様御用人関仲右衛門殿三張常助殿御先へ登山、直に神前へ御参詣済、寺へ御入り候而、又十郎様より住待へ御口上之趣並御初穂白木台ニ而御持参取次、同宿春山、次に 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 12 又重郎様御乗物五丁程跡より参、伴僧壱人ツ、御案内路次門迄参り夫より御座敷江之御案内春山。次板橋民部様右同断、次伊奈兵庫様右同断。御座敷江御着座巳後、住持御目見御挨拶申上、次御引渡三宝、次御盃御吸物次御酒次御肴等。一、御行水之支度 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 20 仕候得共、御行水は不被遊候。神前へ御参詣御案内春山、祖寛、拝殿に御待請ハ清水寺恵光、住持御殿之高蘭之内ニ着座、御三殿之膝付迄御登り御排相済、拝殿へ御帰座之上、御神酒御洗米差上寺へ御着座。一、御用人衆御家老衆六人屋舗、御家老衆 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 26 四人上ケ炬燵ノ間、士衆二十四人客殿ニ而是迄御吸物本膳御上候同断、但客殿光之間へは二之膳出し不申候。一、家来衆七於余人是亦こたつ之間、囲爐裏間ニ而三しきりに膳部差出相済候。外ニ雲州より渡海之御船手等大勢入込杯之外膳部余計出し候、 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 33 殊ニ御船手等勝手迄入込大混雑ニ御座候。一、雲州より御馳走方三人御料理方御茶道、是ハ新六畳之間。一、医師衆三人、是ハいろり之間上ニ着座此外、御供人数十人斗は隠居ニ客着座、是も二しきりに膳相済。一、雲州より之御船頭衆三人此外、中間 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 40 等拾四五人は座敷無之ニ付直に橋へ下山。一、当島御郡代御代官目付元吟味方、是ハ朝五ツ半時知夫里より登山膳相済夫より西之蔵ニ着座、其外下役人衆勝手廻りニ被居候。一、当山ヲ九ツ半時御、下向橋浦へ、御下山夫より美田へ御通り御船ニ而、 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 47 別府泊り御見送り住持、伴僧若党ニ而精進川土橋罷出候。一、先達而、雲州より両度之御巡見御渡海海上安全御祈祷被迎遣候、御初尾白銀一枚神献御座候。則前方を護摩キ行御巡見御登山之節座敷ニ而右雲州より御祈祷御頼ミ被露仕御礼差上申候。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 31 56 一、翌晦日別府御本陣迄御影神銭等持参、昨日御社参之御礼ニ住持罷出候、伴僧長福寺春山、若党伊八、外ニ二人召連。一、同日海士村へ御渡海御泊。一、五月朔日島後都万村へ御渡海、同日西郷へ御越し二夜泊同月三日島後御出船三保関へ御着船。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 5 夘月晦日之献立。御引渡、三宝、御吸物、御酒、御肴、三種。御本膳。生盛。夏大根、すまし、志ゃうが。御酢和会。きくらげ、御汁、小志いたけ、めうが竹、ふき、ゆず、山椒。御煮物。むかこ、水こんにゃく、御飯、路くぢやう、引而、香之物。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 13 二之膳。平皿。ちくわとうふ、くわい、竹の子、かんぴょう、つけ松たけ、御汁。とろろ、あおのり、包こしょう、猪口。こまとうがらし、うこぎ、すりわさび煮。御麩皿。麩。いり酒、生こんにゃく、指末、海そうめん、けん青梅、かんてん、れんこん、河たけ。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 21 御地紙折。山のいもちりめん焼、あけこんぶ、やきしいたけ山枡みそ付。御酒、御肴。ふりけし、ひたし物。御肴御吸物。みそ、御吸もの、御肴。此方見合。後段。御茶、御菓子、御餅。すまし御吸物、へきいも、しいたけ、しほで。御酒御肴いろいろ。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 28 御次之献立。皿、すあへ、夏大根、こんにゃく、青みちさ。汁、あられとうふ、ふき。煮物、香之物、おわり大根、むかご、氷こんにゃく。飯。平皿、引而、山いも、わらび、かんぴょう、あげとうふ、こんふ。指味、からしかけ酢、とさか、かんてん、ちさ。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 32 あへもの、ひじき、白あへ。酒、肴、いろいろ。後段、茶。料理人、水野善兵衛。手伝、崎村観音寺。美田重左衛門。別府次郎左衛門。座敷給仕等配役覚。知々井春源、同宿恵光。同宿、春山。一、御座敷、規寛、小座敷、美田新九郎。同、伝之進。 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 32 42 先炬燵之間、海士村建興寺。美田甚兵衛。客殿、有光寺。美田甚助。度した炬燵之間、大山教運。美田次郎右衛門。同儀右衛門。囲爐裏間、美田儀右ヱ門。同八之丞。はし伴助。新座敷、別府千福寺。同松之助。座敷惣見役、美田長福寺。勝手見繕、 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 3 浦之郷。七兵衛。勝手繕場見繕、知夫里伊八郎。酒方、文太夫。四郎兵衛。行水場役、二人。勝手働、男女二十三人。料理方、四人。〆五拾四人。一、橋村より御登山之節床御小休所迄御茶持参役。新九郎、千太郎。松之助、作左衛門。此節毎度ニ 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 10 遣候人足四拾参人、是ハ西鳥居より内道橋掃除等ニ遣候御社参当日人足遣候。右何レも橋村之者共。一、御札守役、宇野大和。是ハ護摩堂ニ而出ス御影六百枚程用意仕置、是ハ沢山也。神銭三千程拵置候得共七百、程不足ニ付翌日相成別府へ持参仕候、 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 17 焼火 壱枚縁起等余程入用也。一、当寺之寺号山号並住持之名同宿之名迄書出候様被仰候ニ付則左之通書出候。覚。一、焼火山雲上寺住、兵部郷法邦宥賢。同宿、春山。恵光。視寛。一、当山境内並寺内間数書出候様。被仰出左之通書出候。覚。一、隠岐国 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 28 焼火 嶋前知夫里郡美田村焼火山雲上寺。寺内間数梁行五間半桁行十五間。境内麓寄り絶頂迄拾丁余東西拾二三町。右当山之儀断崖絶壁樹木深欝故巨細ニ難斗候故大既書上申候。延享三年寅年四月二十九日別当兵部卿法印。宥賢印。如此三通相認別府(翌日 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 35 御礼ニ罷出候節差出申候。御初穂之覚。一、金弐百匹、小幡又十郎様より。青銅三百文、銅御用人衆中より。一、同弐百匹、板橋民部様より。青銅三百文、同御用人衆中より。一、同弐百匹、伊奈兵庫様より。青銅三百文、同御用人衆中より。以上である 1746 428 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 33 44 焼火 一回の御社参記は終っているが、大方の場合、この大一行は焼火山の苦心も大変なものであったことであったにちがいない。和巻手記の方では、島前村方の方の苦労がわかるが、焼火山が中心になって、当時の島前各寺々の僧を集めて、その応接にあたっていることがわかる。 0 0 島前の文化財 1 33 52 焼火 こんな大仕かけな仕事を仰遣わされ、それをみごろに果たしてきた当時の焼火山雲上寺の実力は想像以上であって、後年の焼火信仰の普及と経営に大きく作用したと考えられる。いまは、島民から忘れ去られているけれども、巡見使の来島と、焼火社参りの 0 0 島前の文化財 1 34 4 例外のなかった史実について、もっと考えてみたいと思うのである。それにしても巡見使が必ず最初に着岸し、そこで、一泊した知夫の地に、なぜその伝えがのこらなかったか不思議思はれる。筆者が島後の古文書で調べたところではその当時の知夫の 0 0 島前の文化財 1 34 11 宿割りの明記したものも残っているので、知夫には伝えだけでものこってよい筈である。何かわりきれない感じがする。巡見使社参。1、寛氷十年、大巡見、市橋伊豆守。村越七郎右衛門。拓植平右衛門。2、寛文七年、大巡見、稲葉清左衛門。 0 0 島前の文化財 1 34 16 巡見 大巡見。市橋伊豆守・村越七郎右衛門・拓殖平右衛門 1633 寛永10年 西ノ島 島前の文化財 癸酉 1 34 19 巡見 大巡見。稲葉清左衛門・市橋三四郎・徳永頼母 1667 寛文7年 西ノ島 島前の文化財 丁未 1 34 20 市橋三四郎。徳永頼母。3、延宝九年、大巡見、高木忠右衛門。服部久右衛門。佐橋甚兵衛。4、元禄四年、御料巡見、秋田三郎左衛門。宝七郎左衛門。鈴木弥市郎。5、宝氷7年、大巡見、黒川与兵衛。岩瀬吉左衛門。森川六左衛門。正徳二年、御料巡見、 1681 0 天和元年 島前の文化財 辛酉 1 34 22 巡見 大巡見。高木忠右衛門・服部久右衛門・佐橋甚兵衛 1681 天和元年 西ノ島 島前の文化財 辛酉 1 34 25 巡見 御料巡見。秋田三郎左衛門・宝七郎左衛門・鈴木弥市郎 1691 元禄4年 西ノ島 島前の文化財 辛未 1 34 28 巡見 大巡見。黒川与兵衛・岩瀬吉左衛門・森川六左衛門 1710 宝永7年 西ノ島 島前の文化財 庚寅 1 34 30 森山勘四郎。三橋勘左衛門。湊五右衛門。7、正徳六年、大巡見、鈴木藤助。小池岡右衛門。石川浅右衛門。8、享保二年、大巡見、松平与左衛門。落合源右衛門。近藤源五郎。9、延享三年、大巡見、小幡又十郎。伊奈兵庫。板橋民部。 1716 0 享保元年 島前の文化財 丙申 1 34 42 10、延享三年、御料巡見、佐久間吉左衛門。野呂吉十郎。山田幸右衛門。11、宝暦十一年、大巡見、阿部内記。弓気多源七郎。杉原七十郎。12、同年、御料巡見、永田藤七郎。高野与一左衛門。児島平右衛門。13、寛政元年、大巡見、石尾七兵衛。 1746 0 延享3年 島前の文化財 丙寅 1 34 42 巡見 御料巡見。佐久間吉左衛門・野呂吉十郎・山田幸右衛門 1746 延享3年 西ノ島 島前の文化財 丙寅 1 34 45 巡見 大巡見。阿部内記・弓気多源七郎・杉原七十郎 1761 宝暦11年 西ノ島 島前の文化財 辛巳 1 34 48 巡見 御料巡見。永田藤七郎・高野与一左衛門・児島平右衛門 1761 宝暦11年 西ノ島 島前の文化財 辛巳 1 34 51 巡見 大巡見。石尾七兵衛・花房作五郎・小浜平太夫 1789 寛政元年 西ノ島 島前の文化財 己酉 1 34 52 花房作五郎。小浜平太夫。14、同年、御料巡見、清水利兵衛。池田八郎左衛門。村尾源左衛門。15、天保九年、大巡見、諏訪縫殿助。竹中彦八郎。石川大膳。16、同年、御料巡見、高橋。八木岡。山本。天保九年の大巡見は、松江藩人数を入れ 1838 0 天保9年 島前の文化財 戊戌 1 34 54 巡見 御料巡見。清水利兵衛・池田八郎左衛門・村尾源左衛門 1789 寛政元年 西ノ島 島前の文化財 己酉 1 34 60 巡見 御料巡見。高橋・八木岡・山本 1838 天保9年 西ノ島 島前の文化財 戊戌 1 34 64 焼火 て総渡海人数は四百十三人といった大がかりのものであった。近世の焼火信仰。早くから航海安全の神として崇められていた焼火権現が、西廻航路の航程のなかに隠岐が入ってから航海業者や船乗りの参詣が多くなったこととあわせて、この数度に 0 0 島前の文化財 1 35 2 焼火 にわたる巡見使の参詣が慣例になって、地元の篤い信仰とともに、焼火信仰は全国に拡がり普及していったことはまちがいない事実である。補。知夫里村、大江、渡辺喜代一氏の所蔵古文書のなかに、(襖の下張にしたものをはぎとったもの)巡見使の 0 0 島前の文化財 1 35 9 人馬先触の断片があったので、それをかかげて参考に供したい。前文紙切れてなし。宝暦十一年巳三月十。但馬宿中。○人足弐人馬二疋従江戸播磨但馬備中備後美作石見丹後隠岐国迄上下並於彼御用中幾度も可出之、是者右国為巡見御用御徒目附児島平左衛 1761 310 宝暦11年 島前の文化財 辛巳 1 35 16 間罷越ニ付而相渡之者也。宝暦十一年己三月、但馬宿中。○永田藤七郎、高野与一左衛門持参之巡見御用書物長持壱棹。従江戸丹後但馬石見隠岐播磨美作備中備後国々迄御用中幾度も急度可持候者也。巳三月、但馬宿中。覚。御朱印一、人足弐人。同断。 1761 310 宝暦11年 島前の文化財 辛巳 1 35 28 一、馬三疋。内弐疋ハ人足四人ニ代ル。御リ文。一、御用長持壱棹持人足。永田藤七郎分。御証文。一、人足弐人。同断。一、馬三疋。沙汰文。一、人足弐人。一、馬一疋。これは、筆者が現在までに知夫で見た唯一の巡見使関係古文書である。 1761 310 宝暦11年 島前の文化財 辛巳 2 25 1 神楽 隠岐島の葬祭霊祭神楽について 1)はじめに2)葬霊祭神楽記録抄3)墓所における祭式4)橋教の事(イ)勝太郎翁の話(ロ)ハシ教資料5)霊祭神楽能記(イ)身売(ロ)石山(ハ)八重垣6)結び。1)はじめに。現在葬祭、霊祭の神楽の行なわれる土地と 0 0 島前の文化財 2 25 13 神楽 して挙げることの出来るのは、佐渡島加茂村、秋田県保呂羽山付近、宮崎県諸県郡地方等で、まだこの外にもあるかも知れないが今の処わかっていない。いづれにしても数少ないものである。わが隠岐島の神楽の中にも葬祭、霊祭の神楽が行なわれ 0 0 島前の文化財 2 25 17 神楽 ていたのであるが、明治の初年頃神楽社家の転退と共に廃滅してしまった。せめて記録のみでも留めて置きたいと以前「山陰研究2」に報告したことがあるが、これはほとんど島内の人の目に掛からぬものであったので今度その後の資料も合わせて報告することにした。 1868 0 明治元年 島前の文化財 戊辰 2 25 22 神楽 なおこの資料をもとにして、国学院大学教授倉林氏がいろいろと考察を加えられた論考が国学院雑誌(61−2、62−4)に「霊祭神楽考」として2回にわたって掲載されている。それを要約して紹介するとよいのだが長くなるのでここではふれないが、興味のある方はこれを一読 0 0 島前の文化財 2 25 29 神楽 されんことをおすすめする。2)葬霊祭神楽記録抄。島前西ノ島町赤之江秋月家の文書に「社家家格勤来之事」といふ一冊がある。この内より葬霊祭に関係のある箇所を抄録する。社家病死ヨリ二年目カ又ハ三年目ニハ霊祭神楽、料金弐両村方ヨリ往古ノ通リ差出シ可申 0 0 島前の文化財 2 25 36 神楽 上侯(中略)神楽さんじき拵ノ郷中ヨリ可為(下略)。社家葬式神楽相勤従往古之先例ニ任セ社寺会勤勿論ノ事辯七日目ノ橋教社中会勤(下略 )。由良、山王之宮守病死ノ時神楽葬式先例ニ任セ社寺会勤勿論ノ事、附リ七日目ノ橋教モ往古ヨリノ通リ社家出勤勿論ノ事、御初穂銭一 0 0 島前の文化財 2 25 45 神楽 貫ヅツ也、七日目ノ勤料物御定法通リ霊神エ可奉調進事(下略)。右によって見ると、葬式神楽即ち「墓所での祭式」七日目の「ハシ教」(執行の場所は不明であるがおそらく死者の家であろう)それから二年目又は三年目に霊祭神楽即ち後記する「能」の入ったものを執行した 0 0 島前の文化財 2 25 52 ことがわかる。ここにいう由良、山王の宮守とは、由良比女神社真野代宮家(よこや)、日吉神社吉田代宮家両家である。これによってみると少なくとも社家、代宮家等は明治以前においても葬儀を全面的に僧侶の手にゆだねず、むしろ社家が主となって行なって来たことが 0 0 島前の文化財 2 26 1 わかる。3)墓所における祭式。死去時における葬家の祭式に就いては、一切不明であるが、「墓所における祭式」については牛尾三千夫氏が島根民俗(2−3)に記しておられるので再録する。「石塚翁は今年七十才(註二十数年前死去)になられるのであるが、翁の 0 0 島前の文化財 2 26 7 神楽 12、3才頃迄この葬祭神楽は行なわれていたといふ事だった。墓所へ大きな青竹を立ててそれに長い白木綿を垂げて、その下で楽の音に合わせて廻るのであるか機を見てその木綿を引くと青竹はすぽんと折れたといって居られた。(昨秋浜田に柳田先生をお迎えした夜、 0 0 島前の文化財 2 26 13 神楽 先生もこの葬祭神楽の話を吾にせられた。東郷村の老神職からすごい話を聞いたと語られ、それはやはり青竹の大きなのを立ててその下を血族が神楽の囃子につれて廻るのであるが、その時鉈用のものでその青竹を切ると、竹は素直に切れたまま地上に立っている。その時仰ぎ見ると 0 0 島前の文化財 2 26 18 竹の梢は一面火となり誰一人これを正視する者はない相で、この時始めて死者との血縁が切れるのであると言われた)」。ここに言う石塚翁は島前知夫村の社家石塚家の現当主尚武氏の亡祖父勝太郎のことで、この話は私もじかに承わったこともある。又東郷村の老神職とは島後 0 0 島前の文化財 2 26 26 神楽 周吉神楽の社家村上菊市翁で、翁も数年前ついに亡くなられたが、昭和二十七年九月に島後神楽の話を聴く為同家を訪ねたことがあるが、談たまたまこのことにふれると、くり返しくり返しこの話をなされ感深く承ったことであった。前記した様に島の神楽も明治の初め頃、 0 0 島前の文化財 2 26 33 神楽 すでにほろびつつあったものの様で、島の神楽については最も詳しかった両翁であったがこれ以上詳細については記憶しておられなかった。囃子についても「霊歌」とか「遊女ぶし」などという独特のものもあったが、今は真似方さえ忘れてしまったと語っておられた。 0 0 島前の文化財 2 26 40 (4)ハシ教の事。(イ)勝太郎翁の語り。始めに「橋教」についての石塚勝太郎翁の物語られた処を記しついで記録をあげることにする。「社家の行法の中にハシ教といふ事があったそうな。如何なる方法で行なうか明らかでないが死者の罪障消滅の修法であたらしいと前置して 0 0 島前の文化財 2 26 48 物語られた。黒木村(現西ノ島町)美田尻近藤家(屋号面屋おもや)は旧幕時代に出雲藩御用船観音丸の船頭として威勢を振るっていた。幕末頃の当主は名は何といったか知らぬが、妻は非常な美人であったそうな。御用船の御船頭は公用で留守になる日が多かった。その頃代官 0 0 島前の文化財 2 26 54 所の若党に烏田作十という武士があった御船頭の妻女と代官の若党はいつか夫の目を忍んで果敢ない歓楽に危うい逢を続ける仲になった。狭い土地で知られずにいる筈がない。妻女のふしだらを知った御船頭は一夜作十の忍ぶを窺って遂に槍を執って立った。塀を乗り越えて逃走 0 0 島前の文化財 2 26 60 せんとする姦夫を追って一槍のもとに突殺した。この事件が起こって間もない時の事である社家の幣頭である宇野石見(別府)は或夜宇賀の里から馬上での帰り途、六社明神(海神社)と別府の中間にさしかかると馬は何を見たかピッタリと足掻を止めた不審に思い馬上から暗 0 0 島前の文化財 2 26 67 をすかして見ると眼にボンヤリと人影がうつった。「生あるものかなしきものか、吾れは宇野石見なるぞ」といふと人影は寂しい声で「私は烏田作十である。御船頭の妻女と姦通した事は重々悪いが殺され方が片手落ちである。妻女を残して吾のみ討たれた事は恨めしい怨恨を晴らし 0 0 島前の文化財 2 27 4 たいが罪障ある身でどうしても報復する事が出来ぬ石見殿御情けでござるハシ教をつとめて罪障を除いて下され」と折り返し依頼した。約によって石見は翌日黒木の海岸でハシ教を修していると背後の薮からすさましい物音がして一頭の大蛇があらわれアッと思う間に石見の傍を通っ 0 0 島前の文化財 2 27 10 て海に這入った。石見はこの状をまたたきもせず眺めていた。大蛇は始め真すぐに泳いでいたが途中から方向を美田尻の浜の方に転じ泳いで行った。これを見極めて石見は帰宅した。当時感冒がはやっていたので石見の妻女の巫女はその禁厭の為美田と別府の中間に才ノ神越という 0 0 島前の文化財 2 27 17 峠がある巫女は朧夜を心細く思いながらこの峠にさしかかると別府の方から荷車を曳いて来るものがある。近づくとそれはたしかに死んだ筈の烏田作十で車の上には男の死体らしいものが、つんであった様に見えた。そして通りすがりに巫女の顔を見て莞爾と笑った様に思った。 0 0 島前の文化財 2 27 25 気味が悪いので肩に掛けた守袋を打振りながら祓詞を唱えつつ急ぎ足に帰宅してその事を夫の石見に話すと石見も始めてハシ教の事を話して「さては今夜御船頭は死なれたであろう」といっていたが果たして翌朝になって事実としてあらわれた。」(亡父静麿の筆録より) 0 0 島前の文化財 2 27 31 (ロ)ハシ教資料 波志教次第下1)ヤラ不思議ヤ候。古ノ隙ニ聞ヌレバ今日七日陰陽河ノ岸ニ吾立テ神父母ヤ聞食セト云。是ハ定テ吾住ル世ニテ親子ノ縁ノ結シ神子達ヤランカ住ル世ヲ限リ今黄泉ニ赴ト覚エタリ出合尋ハヤト存候。誰ヤコノ陰陽河ノ岸ニ呼人ハ大子カ呼カ鳶ガ招ク 0 0 島前の文化財 2 27 40 カ1)問方アラ嬉ヤ嬉ヤ。1)去ハコソ鳶ハ呼イデ大子コソ呼候トハ。住ル世ニテ数多ノ大子アリ吾コソ何之国何々宮之社司又ハ神子トモ御名乗候エ吾申合セト大子神子等ニ候ハバタヤスス迎エ申サム。1)問方サム候。1)オオ尤モ道理カナサナガラ人ノ作シ罪科ニハ有ジ己ガ心ニ 0 0 島前の文化財 2 27 47 作ル罪咎ゾヤ。 二瀬河渡ラム河ノ深ケレバ吾心ヨリシテ沈ミヌルカナ。いで罪科の次第逸々語て聞かせ申さむ先意を沈め耳を峙て聞給や、夫此陰陽河橋とは迷か故に悪事は陰の河となり善事は陽の河と成て南北え流れて隙もなしここに善悪邪正の道を分かつ故に自己の神不正者 0 0 島前の文化財 2 27 54 心念の橋届く事不能、是皆人の心より作る所の業ぞかし是故に此の橋を渡むとするに先が一間計り切れて落ちる亦後え戻らむとすれば後も亦一間計り切れて落ちる空よりは高つ鳥飛来て頭を砕き眼をむかむとし下よりは大蛇浮上て呑まむとするに肝を消し逃れむとすれば蔓幕を引く 0 0 島前の文化財 2 27 60 神楽 如く両眼に霧降かかる故に日月も不拝、あわれと云も愚なり。先六俵の俵とは彼の橋の柱なり中にも五俵の俵は五本の真柱を表す今一俵は敷板を表す也。升数不足の輩は此橋の柱ゆるぐ也亦数々の布の内千早布水引橋布を切取或は住める世にお神楽の有し時不足の料には高つ鳥飛 0 0 島前の文化財 2 27 67 神楽 来て頭を砕き目を抜むとす是則天神戒給所なり。又一膳の膳器は一膳は各の生来る時の器膳也又一膳は神楽の時今一膳は本覚え戻る時の用意也一膳も不足する料には下より大蛇浮上て呑むとす是則地祇給所也。或親師匠を悪口目尻懸悪しき者は八百万神等も深く是を悪給ふ故に蔓幕 0 0 島前の文化財 2 28 2 を引か如く両眼霧降懸る今更に日月も不拝是皆何様の罪の報なり然とも吾此罪科を祓ひ天津祝詞の太諄辞を以て導き此橋を渡したやすく高天原え上天妙果を得させむと思ふ。−−陰陽河や一つの橋のとだゆるも作りし罪の報いなりけり−−抑々五俵の俵を此橋の五本の柱に表すとは 0 0 島前の文化財 2 28 10 先東方の柱は是天八十万日魂尊に表すなり天地の元気三生木徳神也在人は肝の臓に住す又東方に鹿島大明神と顕れ木の直体と成給、又南方の柱は天八合魂尊に表す也天地の元気に儀火徳神也在人は心の臓に住す、又南方に熱田大明神と顕れ火の直体と成給。又西方の柱は天八百日魂尊 0 0 島前の文化財 2 28 16 に表す也天地の元気四殺之金徳神也在人は肺の臓に住す。又西方住吉大明神と顕れ金の直体と合給。又北方の柱は天三降魂尊に表す也天地の元気一徳水神と成在人は肝の臓に住す。又北方に諏訪大明神と顕れ水の直体と成給。又中央の柱は天八降魂尊に表す也天地の元気五鬼土徳神 0 0 島前の文化財 2 28 22 也在人は−の臓に住す。又伊勢大神宮と顕れ土の直体と成給。是則五臓六府の神にして則木火土金水、青黄赤白黒也五色変じて人と成也。−−引寄せて結べば芝の庵なり離せばもとの野原なりけり−−今一俵の俵は此橋の敷板に表す伊−諾伊−冊尊一切衆生無量無辺高天原に 0 0 島前の文化財 2 28 29 入むが為天地、父母と成在人は男女の姿と成給て天橋に通ひ座す夫日月とは在人は両眼に表す也。故に一念盲動すれば日月の不拝るもことわりなるべし。−−天も地も天照神の原なればまた行く先も高天なりけり、日神の光の下の大社又行先も高天なりけり、分け登る麓の道は多け 0 0 島前の文化財 2 28 38 れど同じ雲井の月や拝まむ。−−ここよりも外から来ねば死るとも何国え行かむ本の都へ−−汝当体皇霊神と可観衆生は是則天手照大神也有難き神道を示す、迷則衆生と大神は別也。悟則大神と衆生同体也−−悟るには一方ならむ雲晴れて心の月にかかる雲なし−−月と日と何れ 0 0 島前の文化財 2 28 47 愚かに拝ねと月日にまさる闇を照らせば去りながら御身と吾親子の縁を結し時五色の幣帛一本御身え授置、今一本をここに保つここに合わせ候へ。1)問方1)答方中々合て候。−−合たらば天の岩戸を押し開き早持ち参れ天の岩戸へ1)問方、歌、右以上答、歌、如件。天保四発 0 0 島前の文化財 2 28 59 己歳夏卯月六日大宮司藤原重寛。印。右の文書は海士町社家秋月いえに残存のものであるが「上」を欠いているので前半をうかがうよすがもない。前記の石塚翁もこの記録は見ておられなかったのでハシ教は単なる修法とのみ考えておられたようである。) 0 0 島前の文化財 2 28 68 神楽 (5)霊祭神楽能記 霊祭神楽は「八重注連神楽」とも称した。単にこの能のみ行なったわけでなく、次第等も定められていたであろうが、伝承もなくまた今の処記録の発見もないので一切不明である。これから記する能記は前記西ノ島赤之江社家秋月家に残されたものである。 0 0 島前の文化財 2 29 5 (イ)喪祭身売之次第 商人霊歌にて出る抑々かように候者は信濃国の住人万の長者にて候。四方に四つの藏八方に八つの藏何の乏しき事はなけれどもここに一つの苦患あり。吾等国の習とて七里去りて魔野ケ池ありこの池に大蛇住候。是に毎年人餌き与え来り、当年某の順番に 0 0 島前の文化財 2 29 11 相当りもっとも媛は一人持候へ共、大蛇の餌食に与ふる事余りむざんに思ひ、京清水の麓に人買札を立て札の表に附けて参りたる人賞価切らず買取って、大蛇の餌食に仕らばやと存候。然らば札立申ん。媛出づる時下囃霊歌なり、能すだれ前へ出づたれば抑々かように候者は此辺に住 0 0 島前の文化財 2 29 18 居仕る女にて候。実にやら承り候へば清水の麓とやらに人買札の立たる由承はり尋ねて参らばやと思候、媛霊歌にて道行札の前にて媛云ふ、うのう商人様や札の表に附て参って候。のうのう商人様や札の表に附て参って候。商人立って媛に向って云ふ、札の表に附て参りたらば身売 0 0 島前の文化財 2 29 25 り申か。媛いう、身を売からめそめては兎も角くもにて候。商人云う、して又身をば何の為に売申す。媛云う、去はこそ青柳のいと恥かしくは候へ共、父におくれ当年三年に相成候。母は世に座すとは申せども今日をも明日に送り難き体に候へば父に一品をも献ず可きやうもなし。 0 0 島前の文化財 2 29 31 我身を売り父の霊魂を祭らばやと思候。商人いう、さてさて言語道断なる事を申す者かな。姿を見れば秋の月(損じて不明)指までも瑠璃をのべたる如く眉目美しき媛にて候が、吾身を売て霊祭いたすなど申す事は古今珍らしき者にて候。して又身をばいくらに売申す、媛云ふ、金千 0 0 島前の文化財 2 29 37 両に売申さん、商人云ふ、千両には高き媛に候へ共、大蛇の餌食に与える者じゃに依って価値切らず買取りづるにて候。去れば金渡し申さん媛云ふ、あら有難や候(金を懐に入れて媛重ねて云ふ)なふなふ商人様や媛に少しく隙を乞はせ給い乞はせ給い。商人云ふ暫の隙をば何の為に 0 0 島前の文化財 2 29 43 乞申す、媛云ふ、去はこそ右より申上候通りに、父の霊魂を弔ふて参り度思ひ候。商人云ふ、尤には候へ共、然乍ら媛を失ふたと申して京洛中を尋ぬるならば人笑ひ申さん。額に焼鉄を当てるがそれでも合点か、媛云ふ、身を売ったからそめては兎も角にて候。商人云ふ、然らば焼鉄 0 0 島前の文化財 2 29 49 を当申さんとうとう帰り申せ。(媛霊歌にて几帖の前に行く)なうなう几帖の内の神巫様へ、頼む可き事の候。(神主官服にて能廉の前に出)几帖の内の神巫様へ頼可しとは某の事か、何の御用に候ぞ。媛云ふ、去はこそ青柳のいと恥ずかしくは候へ共、父におくれ当年三年に相成候 0 0 島前の文化財 2 29 54 母は世に座すと申せとも今日をも明日に送り難き身体に候へば、父に一品の献るべきやう更になし。吾身を売り五百両ここに手持是にて霊魂を祭り給えや。神主云ふ、さてさて神妙なる事を申者かな。姿を見れば、春の花は千里に開くが如く、秋の月は満水に浮かぶが如し。誠に眉目 0 0 島前の文化財 2 29 60 美しき媛にて候が、己が身を売り親の霊魂を弔う等と申事は、古今珍しき者にて候。然ばよく念頃に弔うて進上。媛いう、あら有難や候。媛着座、此時霊祭の次第本祓幣、供米、水器、焼香、打鳴各々案机拝法如常、三才祝文、三種大祓(座中同音読之)次心中祈願、夫より導師 0 0 島前の文化財 2 30 5 立って積語を勤め終わって、神主云う、よくよく念頃に弔って候、媛云う、有難や候、夫より媛立て帰る霊歌をうたふ、(此の歌にて)姥出云う、抑々かように候者は、此辺に住居仕者にて候。自らは媛一人持候処此間相見へ申さず、尋ねて参らばやと存候。霊歌にて道行(媛に出 0 0 島前の文化財 2 30 10 合って)姥云う、いかにあれなる媛は自らが媛にてはなきか。媛云う、御身の媛にて候。姥云う、自らが媛ならば額のきづは何として出来申申す。媛云う、去はこそ申上兼候へ共、父におくれ当年三年に相成候御身は世に座すとは申せども、一品の献るべきようも更になし。吾身を 0 0 島前の文化財 2 30 16 信濃国万の長者様へ金千両に売り、五百両にては父の霊をよく念頃に弔って参候。今五百両是に手持是をば身に進じ申さむ。(金を老母に渡す老母金を一旦受取り)姥云う、さてもさても無残なる事を申す者かな、汝もさほど拙き者にてもなければ名ある人の媛にてはなきか。 0 0 島前の文化財 2 30 21 吾身を売り霊祭到候て何の益か有哉自らこの金何にせん。(損じて不明)汝に身を売らせ申事相成ず速く我家へ帰り申さん。(といって媛を手を掛けて帰らんとす此時霊歌をうたう但し歌の程を見合わせ商人立来たり老母に向て)此方の買取たる媛を、何の為に打擲すはなせ申せ。 0 0 島前の文化財 2 30 27 媛云う、なうなう商人様や媛を買取なされ候て、何になされ候や、商人云う、某が買取れば大蛇の餌食に与え申す。姥云う、大蛇の餌食ならば自らに替えて給えや商人様や。商人云う、汝が様なる土臭き姥おば何に致さん、早く離れ申せ離さぬに於いては剣をとばすぞ。と云ふて 0 0 島前の文化財 2 30 27 叱れば姥媛をはなし歌にまかせてにげ去る、(夫より早拍子に囃す)(大蛇出る)(夫より媛は中央の方に向って腰掛に腰をかける大蛇舞終る頃媛大蛇の頭を扇子にて押さえいって曰く)(媛云う)如何に大蛇暫く謹みて聞け、我親の肌の守に、三部の御祓を賜ふ此の御祓を以て払 0 0 島前の文化財 2 30 37 はば則ち禍転じて福となす。祭文本記に曰く、三世の怨敵は境を隔てず万人の悪念は境を越えて遠く滅す。凡そ三才の七難は、湯を以て雪を消すが如し。万悪千害は、火を以て毛を焼く如くなり。然ば則ち悪鬼万里に去って、七難近く起こらず万富来て近く生す。依って一巻きは 0 0 島前の文化財 2 30 44 父の為、又一巻は母の為、又一巻は商人の為、又一巻は吾身の為、又一巻は此池に住む大蛇の為、汝も此御祓の公徳に依って邪道の苦患免れん事何の疑なきぞ大蛇。大蛇云う、あらあら有難や有難や。御身をば吾頭(いただき)にのせ何国へまでも送り申さん。終 0 0 島前の文化財 2 30 50 (ロ)石山之能次第 山伏出る時云う事、(出舞)抑々左様に候者は諸国一見の僧とて候。然ばわれ未だ都をみづ候間に、此度思立て諸国一見と志して候。又能き次手にて、石山寺へも参詣仕ばやと存候。・・(その時強力出る)道行、思立我本国立出て。行けば程なく都に早く着き 0 0 島前の文化財 2 30 56 にけり。急ぎ候程に是は早や石山寺にも着て候。暫く此処に滞笛をいたし、洛中をもめぐらばやと存候。遊女出時云う事、柳々自らは洛中をめぐる女にて候。げにやら承り候得ば坂野に貫き御僧御座候由聞き参らせ候。(遊女山伏に向って云う事)のうのう是なる御僧様似頼むべき 0 0 島前の文化財 2 30 63 事の候。山伏、御僧に頼むべきとは愚僧が事か。遊女、さん候。女人成仏の儀を聴聞申そうずるにて候。山伏云う、汝女人成仏の儀を知りてや、遊女、さん候、山伏、さてさて神妙なり。夫女人とは後生三生の雲厚くして、仏生の空晴れれかたし。然れば三途八難の苦しみも一人 0 0 島前の文化財 2 30 68 女人を以て根本とす。罪咎重くては、諸神諸仏の済度にも投げてられ、十方菩薩の化度にも漏るる、思えば涙なり。四大海もかへって浅し。然りといへども、法花経四巻提婆品の看聞に曰く、「一者不得梵以天王、二者帝釈、三者魔王、四者転輪聖王、五者仏心云何女身速得成仏」と 0 0 島前の文化財 2 31 2 説く時は皆是女人成仏の事なり。能う能う後生大事に願うずる事肝要に候候。遊女云う、あら尊や候重ねても参り女人成仏の儀を聞き申さばやと存候。山伏云う、(虫食不明)只今女人一人見え色々の事申しあれなる草びらに隠れ入り候ここは不思議に候程に、当山の人やこの由を 0 0 島前の文化財 2 31 8 物語候へ。物語候へ。里人出云う事、畏まって候。われら在所の者にて候得共、くわしき事は存ぜず候。然れ共老人共の申伝へ候事共御座候程に、あらあら申上げましょう程に、先ず先ずそなたへ休らへ候へ。抑抑当山石山寺と申奉は、弘法大師(六字不明)御帰朝あって先京の東寺 0 0 島前の文化財 2 31 15 を御建立あって、第二番に此石山寺を御建立なされ、第三番高野山を切開きなれたと申候。然れば当山の御本尊は大悲観世音菩薩にて御座候。弘法大師高野山御建立成されんと思召し此石山寺を真雅和尚(虫食不明)二人の御弟子に御付託あったと申候。それより当山は女人(二字 0 0 島前の文化財 2 31 22 不明)の御寺と申奉候が都にて不思議御座候はんとて此寺へ女人まみえ候程に、如何様天下に災難事も御座候はん間よくよく御祈念肝要に候候。山伏云う(虫食不明)然らば真言加持力を以て祈らばやと存候。東方降三世明王、南方軍茶利明王、西方大威徳明王、北方金剛夜叉明王、 0 0 島前の文化財 2 31 29 中央に大徳大夜叉不動明王、衿羯羅、制メメ迦、羯締羯締波羅僧羯締、波羅僧羯締、菩提薩婆訶、般若心経、デンツクデンツク。(仕舞切)不思議やいま迄ありつる女よくよく魔生と成って眼に霧をたてかけ、おつぱらいもんがんもふしや、と祈る功徳に姿もかすみにまぎれ入りに 0 0 島前の文化財 2 31 35 けり(不明)云う、いかに御僧何事ぞ、シテ、浮世をば、ワキ、浮世をば何と巡る御僧、ワキ、入るもうるべき吾があらばこそ、シテ、入るもうるべきわがあらばこそと言うは誰ぞ、ワキ、くうとう風涼しき処高尾の峯にゆひたつる人は愛宕の峯に住む、シテ、メメて御僧の住家は 0 0 島前の文化財 2 31 41 如何に、ワキ、一所なし、シテ、車はいかに、ワキ、火宅の殺生、シテ、おすも、ワキ、おされず、シテ、引くも、ワキ、引かれず、シテ、車どう、ワキ、魔道にも心をのせ御僧、シテ、善悪二つは両輪の如し仏法あれば諸法あり諸法あれば衆生あり衆生あれば御僧あり御僧あれば 0 0 島前の文化財 2 31 47 神楽 太郎坊の行徳もあり、祈らば祈るべし行者も行徳もおとるまいぞや、おとるまいぞや、いざや行者と法くらべせん。終。右は海士町秋月社家所蔵のもので文政十年の写本と思われる。表紙裏に、文政十年丁亥閏六月に当家前政常霊神祭神楽相勤、是迄は石山之 1827 0 文政10年 島前の文化財 丁亥 2 31 54 能茂有之申候其時より八重垣之能勤始。とある。(ハ)八重垣之能次第。足名乳、狩衣風折エボシ大口にて出、霊歌。抑々かように候者は国つ神御名乳と申者にて候吾往時八人の童女あり然処当国簸ノ川上八岐大蛇の為に年毎呑まれる処今メメ奇稲田姫と申す童女一人残れり然はあれ 0 0 島前の文化財 2 31 62 ど今此の童女又呑まれなんとす脱るるに由なし哀れ不憫に候へ共今時来り候間吾子稲田姫ここに至り候へ、稲田姫霊歌、素尊、狩衣大口しやぐまにて出、能廉の内にて、不思議やここになく声ありあり四方の気色も騒々しき素尊是迄顕れたりゃあはあはあ(註能遅拍子也)にて舞 0 0 島前の文化財 2 32 1 終て、素尊足名乳に向って云う、おおそれにあるは誰そやいかに斯く哀傷(いたむ)や、足名乳にて答ふ、霊声、おお吾は是国つ神名は脚名乳妻が名は手名乳と申也童女は是吾子也名は稲田媛と申候然処当国簸ノ川上に大蛇あり此の大蛇とは各々八岐あり眼は赤がちの如く杉桧背に 0 0 島前の文化財 2 32 6 生えて八丘八谷の間に蔓延たり往時吾子八人の少女ありしに年毎此の大蛇の為に呑まれけり今又此の少女呑まれなんとす脱るるに由なしこの故携でてなき候、素尊云う、扨々不便に候者かな然らば其少女吾に奉らば大蛇速に平げんと思ふ、足名乳云う、あら有難や候勅のままに奉ら 0 0 島前の文化財 2 32 25 ん、素尊云う、さらばは拆の酒を醸み並にさづき山を作るべし、足名乳云う、畏ち候いかに手名乳勅のままにより調へし其器之処に持来候へ手名乳舞衣にて出、此時遊女ぶし但八本の幣並注連に五色のしめ子を付て手名乳持つて出る也、(能記はこれで終わるが、脚名乳、手名乳 0 0 島前の文化財 2 32 25 神楽 楽屋に入る。早拍子に変わって大蛇が出る。大蛇退治されて終わる)本能記は(イ)の身売能記と一冊になっており秋月日向藤原真信拝書とある。真信は天保年間の前記赤之江秋月社家である。この外に島後神楽では、霊祭能として「鉄輪」を俗に「丑ノ刻参り」といって演じた 0 0 島前の文化財 2 32 32 神楽 といふ。東郷村上社家所蔵のもの、又穏地神楽の方にも能記があるが、謡曲「銕輪」と比較して見ると言葉使いまで全く同じく、右を稍簡単にして隠岐神楽流に作り上げたものであり、資料価値が乏しいので本稿からは除外した。以上四曲が霊祭能資料の総てであるが、島前の三曲 0 0 島前の文化財 2 32 39 神楽 の霊祭能のうち古いのは「身売」「石山」であった。それは前記石山能記の表紙裏書によってもわかる。それではどうして、八重垣を霊祭能として取上げたのか、理由はそう簡単に言えぬが霊祭神楽を「八重注連神楽」と称した事から考えると、八重注連、八重垣という文学の共通 0 0 島前の文化財 2 32 46 神楽 ともう一つ「身売」とこれと、どちらも大蛇を退治するという共通点は考えられてよいではなかろうか。又同じ霊祭能といっても前二者とこれとは全然導入の経路は異なったものであり、仮に前者を近江系の芸能をするならば後者は言うまでもなく出雲神楽からの導入であった。 0 0 島前の文化財 2 32 52 神楽 然して導入された時代も前者は古く、後者は新しく随って霊祭能としての定着度も前者にある。ところが現在残ったのは「八重垣」で前者は全然すたれてしまったこれは何故か、それは霊祭能としては八重垣は定着しなかった事と、殊に出雲神楽の代表的演目であると神話戯である 0 0 島前の文化財 2 32 59 神楽 という点で明治以後も普通の神楽の演目としてつづけたであろう。勿論霊祭能として演じ方と現在とは拍子、採り物等部分的に異なることは言うまでもない。(6)結び。以上を要するに「墓所に於ける祭式」は石塚翁並村上翁の語られる様に島前、島後共ほぼ同じものであった様に 0 0 島前の文化財 2 32 67 思われる。海士町豊田では近年まで葬式の時刻は日が暮れてから墓地へ行ったということであるが、これは大変古風な考え方であり、古くは皆こうした時刻に行ったものであろう。されば墓所に立てられ青竹を切り落とした時顕れるという霊火もはっきりと眼のあたりに見ることも 0 0 島前の文化財 2 32 74 神楽 出来た事と思う。次に「ハシ教」であるが、社家の伝承のみによると一人で行なう罪障消滅の修法の様に考えられるが、記録によると、少なくとも二人以上で演じたもので、島前神楽の注連行事に類似しちものの様でもあり、又能の如きものの様でもあって今の処断定は控えるが、執 0 0 島前の文化財 2 33 7 行時期等から推すと、むしろ前者に近いものであったと考える方がよさそうである。それに付けても資料が「下」のみで「上」を欠くのは残念な事である。次に「霊祭能」に就いてであるが、これは記録にもある通り、二年目又は三年目の霊祭に行なうものであり、初めにも言った 0 0 島前の文化財 2 33 13 神楽 如く「八重注連神楽」という名称もあり、単にこれらの能のみを単独に上演したという事でなく、他地方の例から考えても、例えば秋田県保呂羽山麓の霊祭神楽(これに就いては本田安次著霜月神楽之研究94頁−−104頁にわたって詳細に記されている)に於ける如き一定の 0 0 島前の文化財 2 33 18 神楽 順序次第のもとに行なわれたに相違ないと思うが、これに関する資料は発見されていない。又記録に「神楽さんじき拵の人夫郷中より」とある様に屋内で行なうものでなく別に神楽舞台を作った様である。普通個人が執行する神楽は其の家の「中ノ間」を行なうのを通例とするが、 0 0 島前の文化財 2 33 24 神楽 別に桟敷を作ったとなるとここにも問題がある。何れにしろこの神楽は普通神社の祭礼等に行なう神楽と異なり毎年恒例に行なわれるといった性質のものではなく、随って上演の機会も少なく、何年目に一度あるかないか、という様なものであり、殊に明治以後の急速な移り変わり 0 0 島前の文化財 2 33 30 と共に自然に忘れられ、ついに廃滅の止むなきに至ったのである。(46、12、17記) 0 0 島前の文化財 2 42 1 文覚終焉の地 文覚は歴史上相当有名でありながら生没のはっきりしない人物の一人である。古川柳に「文覚は袈裟を手にかけ首にかけ」というのがあるが、先刻(昭和47、1、2、午後8時)NHKテレビ放映第1回新平家物語を見ていたら遠藤盛遠(後の文覚)が袈裟に 0 0 島前の文化財 2 42 9 逢う場面と平太清盛に、お前の父親は平忠盛ではないと告げ口する場面があった。盛遠の、同じ院の武者、左衛門尉源(渡辺)渡の妻袈裟に対する横恋慕は余りにも有名である。盛遠は渡辺(今の大阪の渡辺橋の辺り)の遠藤左近将監茂遠の子で体躯壮大で傲慢であったと、 0 0 島前の文化財 2 42 15 いわれる。上西門院(鳥羽天皇の第二皇女、後白河天皇の准母統子)の北面の武士となり院の武者所に仕えていたが一八才の時、源渡の妻袈裟(盛遠の幼な友達又従兄妹ともいわれる)に懸想し袈裟母子(母は衣川)を脅迫して強引に言い寄り、切羽詰まった袈裟に謀るられ渡の 0 0 島前の文化財 2 42 21 代わりに袈裟本人を手にかけ殺害してしまった。盛遠は悔恨の余り十九才で出家し、のち文覚と称した。この辺の劇的なシ−ンは歌舞伎や小説、映画などによっても一般によく知られているところである。文覚については平家物語に相当詳しく書かれてはいるが終焉の地について 0 0 島前の文化財 2 42 26 は何も書かれていない。一般の学者には元久二年(1205)鎮西の地(の何処かに)に流され、そして死亡したと信じられているようである。文覚は洛北高尾山の神護寺復興のため離宮法往寺に後白河上皇を訪ね(上皇は太政大臣妙法院の琵琶を聞いておられた)寄付を強要した 1205 0 元久2年 島前の文化財 乙丑 2 42 33 ところ相手にされないのを怒り乱暴を働いたので捕らえられ承安三年(1172)三月伊豆の奈古屋に流された。そして奈古屋の近くの蛭ケ小島に流されていた悲運の源頼朝を扇動して治承四年(1180)八月源氏再興の旗揚げをさせ頼朝は成功の上建久(1929)鎌倉幕府を 1172 0 承安3年 島前の文化財 壬辰 2 42 39 開府した、ことは皆様のよく知るところである。文覚は建久十年(正治元年)(1199)正月十三日頼朝(53)を失ってからは頼朝の威光を笠に着た荒法師振りは生彩を欠いたというものの相変わらずの朝廷を見縊った所業尉は、いたく朝廷方の憎しみを買い晩年は大変不遇 0 0 島前の文化財 2 42 46 墓所さえ不明なのである。文覚の性格は余程傲慢な荒法師であったらしく平家物語にも荒聖とか怖しき聖、やいばの験者などの言葉で表現されており承久二年(1220)僧慈円が著した「愚管抄」には天狗をまつる人なり」とあり、この性格が禍して一代のうちには随分損を 0 0 島前の文化財 2 42 53 したであろうことは想像に難くない。さて課題の文覚終焉の地については三説ある、曰く佐渡終焉説、曰く鎮西(対馬)終焉説、曰く隠岐終焉説これである。以下これらにつき順を逐うて述べるつもりであるが、読者は予め次のことを念頭に入れておいて貰いたい、即ち文覚の 0 0 島前の文化財 2 42 60 佐渡配流、鎮西配流及び隠岐配流が頼朝死去から6年の間に生起していることである。それは何を意味するか、仔細に考察するに、これは文覚が親幕派の九条兼実(九条、二条、一条家の始祖)に常に加担し、兼実の政敵であった源(土御門)通親に反抗していたことを物語って 0 0 島前の文化財 2 43 1 いる。その証拠に兼実の盛衰に影の如くに文覚が浮沈していることである。以上の兼実と通親の確執を頭に入れて以下を読まれるならば文覚配流理解の助けになると思う。佐渡説(明月記、百錬抄、皇帝紀抄、東寺長者補任)平家物語には不思議にも文覚佐渡配流のことが書かれ 0 0 島前の文化財 2 43 9 ておらず伊豆配流と隠岐配流のことのみが記されている。しかし一般には伊豆配流は別として隠岐配流がオミットされ佐渡配流説が最も浸透しているようである。例えば、一般新聞雑誌の記事は殆どが佐渡説である。正治元年(1199)佐渡配流説、建仁二年(1202)十二月 0 0 島前の文化財 2 43 15 二十五日佐渡流罪赦免説、翌月の同三年正月佐渡からの帰還説、同年悲憤のうちに同島での死亡説、高尾神護寺の過去帳記載建仁死亡説等々である。昔佐渡観光案内書に佐渡には文覚の墓があり旧暦七月十八日には文覚忌が行なわれ文覚の霊を慰めるとあったので私も文覚の墓は 0 0 島前の文化財 2 43 22 佐渡にあるものと思っていたが、文覚に興味を覚え始めてから後、昭和三十四年以来三度佐渡に渡島したが、その都度序いでに文覚の墓所につき調査した。しかし同島には文覚の墓所は全然ない、観光案内書は誤りであったことも判明した。同島畑野町大久保に文覚が行をしたと伝え 0 0 島前の文化財 2 43 28 られる奈辺久良(なべくら)の滝がある。文覚が佐渡に流されたのは正治元年(建久十年)(1199)三月十九日であることは略く間違いない(明月記=「三月十九日文覚上人夜前流罪定了左中弁被示之」。百錬抄=「正治元年三月十九日の条「三月十九日文覚上人配流佐渡国」 1199 319 正治元年 島前の文化財 己未 2 43 35 皇帝紀抄=「正治元年三月十九日高尾文覚上人依院勘配流佐渡国二ヵ度被行流刑者也」。建久の頃に九条兼実(既述)という人がある。この人は日記「玉葉」でよく知られているが、兼実は摂政、関白、従一位、太政大臣で博覧多識、頼朝に、朝廷方の親幕政策に利用された人物であ 0 0 島前の文化財 2 43 42 る寿永五年(1185)十二月頼朝の推薦によって摂政にまでなり、常に頼朝との接触を保ちながら院政を抑えて自己勢力の伸張に努めてきたが建久七年(1196)政敵、源(土御門)通親のク−デタ−(後鳥羽天皇の尻押しあり)によって九条一門は朝廷から蹴落とされ、通親が 0 0 島前の文化財 2 43 48 これに取って代わり朝廷の実権を掌握(表面は近衛基通を関白とする)し鎌倉幕府に盾ついて、いたが三年後の建久十年(正治元年)正月十三日の頼朝(53)の死は通親に絶好の機会を与えた、翌月(二月)には早速九条一門の残存勢力狩りが始まり同時に、その配下の武士たちも 0 0 島前の文化財 2 43 54 一網打尽に逮捕され、それぞれ処分されたが頼朝とは特別な関係にあり又兼実の有力な支持者であった文覚が無疵に置かれる筈がなく「九条兼実一派と通じて源通親の襲撃を謀った」という理由で三月十九日捕らえられ佐渡へ流された。文覚が佐渡から召返されたのは配流三年目の 0 0 島前の文化財 2 44 3 建仁二年(1202)といわれる。東寺長者補任には「建仁二年十二月二十五日文覚上人召返宣旨」とある由なるが、文覚が何故に東寺の長者(管理者)に補任されたかと言うと、文覚の勧進により建久八年京都東寺(真言宗東寺派総本山)の諸堂を修造(蓮華門は現在国宝になって 0 0 島前の文化財 2 44 9 いる)しているので(東宝記)東寺の長者に補任され、その長者が赦免帰京の次第となったので補任辞令簿に補記されたものであろう。この記録は信憑性が高いものと信じられる。建仁二年赦免説を裏付ける事件として、同年十月は文覚を佐渡に流した源通親(54)が死亡し、 0 0 島前の文化財 2 44 16 二ヵ月後の十二月二十五日には文覚宣旨が下り(これは通親が死亡したことに起因するものと思われる)、翌月の建仁三年正月文覚は京都に帰って来た。この事実は文覚と通親との関係がよく窺える。以上を要約すれば文覚は正治元年三月十九日に佐渡へ流され、三年後の建仁二年 0 0 島前の文化財 2 44 22 十二月二十五日に赦免になり翌月の建仁三年正月京都へ帰って来たことになる、従って佐渡には文覚の墓がないことがわかる。鎮西説(対馬説)(鎌倉大日記、神護寺浄覚上人文書)鎮西終焉説は学者の最も信じる説である(多くの歴史辞典)。鎌倉大日記によれば 0 0 島前の文化財 2 44 28 「元久二年乙丑(1205)文覚上人鎮西配流三度目」とある由であるが、これはおそらく隠岐配流との混同と思われる。(元久二年は隠岐に配流された年である。後述する)郷土史家知夫村横山弥四郎氏も、その著書「隠岐の流人」104頁に鎌倉大日記を引用し−−文覚の配流 0 0 島前の文化財 2 44 35 は四度目に隠岐に来た事になるのだが、如上鎮西配流に疑問が残るとすれば隠岐は三回目の流罪になるであろう−−と言われる。これについては逐次明らかになると思うが、私の推定によると、第一回目−伊豆配流、第二回目−佐渡配流、第三回目−鎮西(対馬)配流、第四回目− 0 0 島前の文化財 2 44 43 隠岐配流。となり鎌倉大日記の配流順序は正しいと思う。昭和三十四年大阪外語大、大森暢講師が京都高尾神護寺の宝物庫を調査中、文覚の次の神護寺住職だった浄覚上人(栂尾高山寺を創建した明恵上人の叔父)の画像と同上人の手紙類を多数発見したというのである、画像は 0 0 島前の文化財 2 44 51 江戸時代の模写だが、手紙の内容によると浄覚は対馬に流された文覚に従って九州に下り二年後に文覚が死亡するまで世話している。また神護寺の近くの高山寺(高弁=明恵上人創建)(宇治茶の母木あり)から「建仁三年七月二十一日春秋六十五」という賛文のある文覚の 0 0 島前の文化財 2 44 57 画像も発見されており、これを信じれば文覚は元久二年(1205)六十七才のとき九州(鎮西)で死亡したというのである。浄覚の手紙の一つ、神護寺の探勝という僧に宛てたものには「自分たちは文覚上人に従い鎮西に下って柴を刈るなどの修業もした、しかし、これをきらって 0 0 島前の文化財 2 44 63 逃げ帰った法師もあり、ちかごろ孝行ということがいわれるが、浅薄な人心がなげかわしい」などと書かれてあるという。これは信憑性が高いと思われるので一度対馬に渡り調査したいものと考えていたところ幸い昭和三十九年夏対馬厳原の町会議員有地蔀(しとみ)氏、同岩坂智男 0 0 島前の文化財 2 44 70 氏(長崎県PTA連合会常任理事)、厳原町観光政策推進特別委員長神田信市氏の三人が隠岐航路視察に来島したので次の質問を試みた。(問)文覚上人は対馬で死亡したという説もあるが対馬に文覚の墓があるか。(答)それは初耳だ、よいことを聞いた、それが事実とすれば 0 0 島前の文化財 2 45 5 対馬に名所が一つふえることになり喜ばしい、帰ったら早速調査してみる。(問)今まで文覚上人と対馬との関係について何か聞いたことがあるか。異口同音に(答)何も聞いたことはない。以上が問答の約言であるが、一行は帰島したら観光教会とも相談して調査してみる、もし 0 0 島前の文化財 2 45 14 判明すれば必ず、お知らせするからと確約して帰ったが未だに何等の通信にも接していない、これは対馬に文覚の墓所がない証左である、もし墓所が見つかれば欣喜雀躍して報せてくれる筈である。又西ノ島町宇賀出身の友人下問秀松君が対馬の下県郡美津町に居住(僧侶)している 0 0 島前の文化財 2 45 20 ので同君にも調査方を依頼したのだが対馬における文覚の結果は何も得られなかった、という返事である。今日まで対馬に文覚の墓があるということは聞いたこともないし又読んだこともないので対馬にには文覚の墓はないものと信じる。では文覚は一体何時鎮西に流されたであろう 0 0 島前の文化財 2 45 27 か、鎌倉大日記の元久二年説は隠岐配流との混同であることは既に述べた。文覚が佐渡から帰京したのが建仁三年(1203)正月、隠岐への配流が元久二年(1205)四月とすれば、この間二年三ヵ月の間隔があるが、高山寺文覚画像賛文より推定の建仁三年鎮西配流は、不思議 0 0 島前の文化財 2 45 33 にもここにピッタリ当てはまる)文覚はおそらく、この間に対馬へ流され、そして帰って来たものであろう。隠岐説(平家物語、東宝記)建仁の頃の主上は後鳥羽院(後鳥羽院は後の諡(1242)で当時は上皇、後白河法王第四皇子)であったが後鳥羽院は若い頃佚遊(いつゆう 0 0 島前の文化財 2 45 40 )で殊の外「ぎっちょうの玉」(正月などに球を杖で打って遊ぶ遊戯)を好み政道は専ら「郷(きょう)の局」後鳥羽天皇の后、源通親の北の方)に任せ切りであり心ある人は嘆き悲しむ有様であったが皇兄守堤親王(後白河法皇第二皇子、後高倉院、後鳥羽上皇隠岐配流と共に院政 0 0 島前の文化財 2 45 46 を執られる)は時望があり、文覚は、これを見て、ひそかに、これが廃立を計らんと画策していた、おそらく九条兼実と気脈を通じていたものならん、これを実行に移さんとしたが(頼朝が死亡してから六年後である)忽ち計画が漏れ京都二条猪熊の宿所で搦め捕らえられ元久二年 0 0 島前の文化財 2 45 52 四月隠岐へ流された、文覚時に八十五才(平家物語では「かくて建久十年正月十三日、頼朝卿年五十三にて失せ給ひしかば、文覚やがて謀反を起されけるが、忽ち漏れ聞こえて、文覚坊の宿所、二条猪熊なる所に官人ども数多つけられて、八十に余ってからめ捕らえられて、 0 0 島前の文化財 2 46 1 つひに隠岐国へぞ流されける」とあり)であった。文覚が京都を出発するにあたって「是の老の波立ちて、今日明日を知らね身をたとひ勅勘なればとて、都のほとりにも置かずして遥々隠岐の国まで流されける。ぎつちやう冠者これやすらかね。如何様にも我流さるる国へ迎え取らず 0 0 島前の文化財 2 46 8 るものを。と躍りあがりぞ申しける。此君は余りに、ぎつちやうの玉を愛せられ給う間文覚かやうには悪口申しけるなり、其後承久に御謀反起させ給ひて国こそ多けれ、遥々と隠岐の国まで遷されさせおはしける。宿怨の程これ不思議なれ、その国にて、文覚が亡霊荒れて、恐ろし 0 0 島前の文化財 2 46 14 き事ども多かりき」。と平家物語巻十二にあるので文覚が隠岐へ流されたことは事実とみてよいと思う。しかし問題は建久十年(正治元年)(頼朝死後−−やがて−−)である、これは既に述べた通り佐渡配流との混同であることは間違いない、佐渡説の項でも述べた通り百錬抄、明 0 0 島前の文化財 2 46 21 月記、皇帝紀抄も正治元年(建久十年)三月十九日文覚上人佐渡国配流となっている。次に文覚の年令問題に触れてみたい。文覚は宝安元年(1120)生まれ(ジャポニカ宮坂有勝氏−文覚の生年は今まで全然判らなかったもの−)だから、文覚が(1)伊豆に流された時が承安三 0 0 島前の文化財 2 46 28 年(1172)五十二才(高山寺文覚画像賛文よりの逆算年令が三十四才、以下傚之)、(頼朝二十七)。(2)頼朝挙兵の時が文覚六十才(高山寺賛四十二才)、(頼朝三十四才)。(3)頼朝開府の時が文覚七十二才(高山寺賛五十四才)、(頼朝四十六才)。(4)頼朝死亡の 0 0 島前の文化財 2 46 33 の時、(文覚佐渡配流の年)が文覚七十九才(高山寺賛六十一才)、(頼朝五十三才)。(5)鎮西配流の時が八十四才頃(高山寺賛六十六才頃)。(6)隠岐配流の時が八十五才(高山寺賛六十七才)となる。隠岐配流の文覚の年令が八十五才とは、平家物語に「八十に余って」 0 0 島前の文化財 2 46 38 とあるものの、少々(三〜四年)年を取りすぎいるようにも思う、又宮坂氏のいう生年が間違っているのではないかと思ったり又文覚と頼朝とは年令が二十六才も隔たっているが、これでうまく間が合ったであろうか、と思ったりもする。文覚は元久二年(故三沢喜右衛門は正治 0 0 島前の文化財 2 46 44 二年という)四月京都発、五月二日島根半島略東端の美保関に到着、同十三日隠岐へ来島(宝歴十年三沢喜右衛門撰「隠州往古以来諸式年代略記」−−焼火神社蔵−−焼火神社宮司故松浦静麿氏は正治二年は元久の誤ならんとい−)そして今の西ノ島町(西ノ島)大字美田字文覚 0 0 島前の文化財 2 46 51 焼火山南東の現「文覚の窟」の岩窟に篭もり相変わらずの荒行を続け往生を遂げた(終焉地)が遺骸は知夫村(知夫里島)の同志安藤帯刀が引取り現在の知夫村字文覚1523番地天神山々上(元松養寺飛地境内に葬り、我らの父祖は文覚の墓として伝承祭祀現在もそのまま 0 0 島前の文化財 2 46 58 引き継がれている。文覚の墓は未だ佐渡にも、対馬にも見つかっていない。っすれば我々隠岐島民は知夫の天神山山上の墓を真実の文覚の墓所と信じて間違いない。(昭和四十七年一月二日稿) 0 0 島前の文化財 3 1 1 県指定文化財、有形文化財、銅剣、昭和四十七年三月三十一日県指定。一、所在地、島根県隠岐郡西ノ島町大字別府。二、所有者、隠岐島前教育委員会。三、説明、平形銅剣の部類に属するもので、全部は保っていない。すなわち、茎部から剣身の中 1972 331 昭和47年 島前の文化財 壬子 3 1 9 ほどにかけて残存し、現存部分は長さ一七、一センチ、そのうち茎部二、二センチ、開幅はごくわずかしか残っていないが、復元するば四、四センチ、全長およそ三〇センチぐらいだろう。昭和四十三年六月、海士町大字海士字竹田の竹田遺跡から偶 1968 600 昭和43年 島前の文化財 戊申 3 1 14 然にも中学生が拾いあげたものである。昭和四十五年三月、日本考古学会による発掘調査の結果、この銅剣は溝の中から拾いあげられたものと判った。伴出遺物として土器(壷、甕(かめ)、高坏、小形壷など)と鉄器があり、土器形成は弥生時代末 1970 300 昭和45年 島前の文化財 庚戌 3 1 17 葉の様相を示している。従来知られていた銅剣分布範囲を越えた地点からの発見であること、形式が北九州におけるものと同類と考えられること、伴出遺物が明かなことなど、学術研究上貴重なものである。 0 0 島前の文化財 3 9 1 有形文化財、美田出土石器、昭和四十八年三月三十一日審議中。一、所在地、島根県隠岐郡西ノ島町大字美田三〇三二番地。二、所有者、島根県隠岐郡西ノ島町大字美田、加木貞雄。三、説明、美田湾の沿岸であった地点方米の土中から出土した黒耀 1973 331 昭和48年 島前の文化財 癸丑 3 9 11 石の石器は、その大部分が製作加工途上の遺品であるが、縄紋から、弥生時代にかけて、存在した美田湾の文化遺産として今後の解明に大きく役立つ資料として注目に値する貴重なものである。果たせるかな、その附近から更に完全な弥生式磨製石斧が出土した。 0 0 島前の文化財 3 15 1 史跡、来居一号横穴、昭和四十八年三月三十一日審議中。一、所在地、島根県隠岐郡西ノ島町大字美田字来居三五八八−三。二、所有者、島根県。三、概況、美田湾に向って西側から突き出した丘陵の先端崖面の標高約五メ−トルの位置に構築された 1973 331 昭和48年 島前の文化財 癸丑 3 15 9 横穴で、もとは九穴によって構成されていた来居横穴群中の一穴である。この横穴群のうち一〜八号横穴については、県道西ノ島線の改良工事に関係して、発掘調査による記録保存を図った後、工事によって破壊されることになり、昭和四七年六月に 1972 600 昭和47年 島前の文化財 壬子 3 15 13 発掘調査を実施したのであるが、このうちの一号横穴は横穴の築造過程を知るうえで貴重な遺跡であることが判明したことから、一部工事計画の変更によって玄室の原状保存を図ったものであり、その一三、八メ−トルを指定地とする。岩に穿た家形 0 0 島前の文化財 3 15 22 妻入り式の横穴で、規模は前長六、三メ−トル、玄室長三、四〜三、八メ−トル、羨道長一、二〜一、三メ−トル、前庭部長一、三メ−トル、玄室幅約三、二メ−トル、羨道幅一、一〜一、三メ−トル、前庭部幅一、一〜一、二メ−トル、玄室高一、 0 0 島前の文化財 3 16 4 六メ−トル、羨道高一、四メ−トルを測り、玄室左壁は仕上っていて壁部と天井部の界線が明瞭に刻まれているが、右壁は未完成で深いノミ痕を留めている。また、玄室の棟線は左側にズレていて、右側が広く作られている。羨道および前庭部はきれ 0 0 島前の文化財 3 16 8 いに整形してあり、羨門部には閉塞石を挿入するための切り込みが設けられている。前庭部には多数の栗石が置かれていたが、これは閉塞石のそえ石であったろうと推測される。床面は前側に傾斜して作られてあり、玄室左側には破壊痕がある。全体 0 0 島前の文化財 3 16 12 的にみて、丁寧な作りの横穴で、東南に向って開口している。玄室内は密掘によって荒されていたが、釘が数本遺存していて、ここに木棺が安置されていたことを示している。「遺物」内部は蜜掘によって荒されていたので、遺物のほとんどは不明で 0 0 島前の文化財 3 16 18 あるが、数本の釘と金環二個が玄室内に遺存していたし、また前庭部には須恵器の平瓶が残されていた。<造成年代>須恵器平瓶の形式からみて、古墳時代末期(七世紀頃)と考えられる。<特徴>大形の家形妻入り横穴で、整然とした作りではある 0 0 島前の文化財 3 16 24 が、玄室右壁が未完成のまま使用されている。すなわち、右壁前半は最初のノミ痕を深く水平方向に残したままの第一工程の段階で、後半はそのノミ痕を縦に削ってやや変形した第二工程の段階で横穴の造作を中止している。これに対して左壁は、そ 0 0 島前の文化財 3 16 29 のあとをさらに削り落して第三工程まで仕上げてあり、一つの穴に横穴の三段階の構築過程を留めている。 0 0 島前の文化財 3 35 1 調査概報、西ノ島町来居横穴群。門脇俊彦。一、緒言。この小稿は、県道西ノ島線改良工事に伴ない、島根県西郷土木事務所からの委託を受けた隠岐島前教育委員会が、昭和四七年六月二三日から同月二九日までの七日間実施した来居横穴群の発掘調査 1972 623 昭和47年 島前の文化財 壬子 3 35 9 の概要を記したものである。来居横穴群は西ノ島町大字美田字来居三五八八番地の三に所在した横穴群で、西側から美田湾に突き出した丘陵先端部の崖面、標高三〜五メ−トルの位置に形成されたものである。横穴群を構成する横穴の数は九穴確認さ 0 0 島前の文化財 3 35 16 れていたが、このうちの一〜八号横穴が県道西ノ島線改良工事にかかることになったことから、前記の発掘調査を実施することとなった。発掘調査は筆者が調査担当を引き受け、島根県埋蔵文化財調査員中学校教諭石井悠氏の協力を得、隠岐島前社会 0 0 島前の文化財 3 35 22 科教育研究会員諸氏等地元関係各位のご援助のもとに予期以上の製かをあげて終了することができた。記して篤く感謝の意を捧げるものである。なお、この調査の結果、一号横穴および七号横穴は比較的良好な保存状態であったが、他の横穴はいずれ 0 0 島前の文化財 3 35 28 も大部分が破損されていることが判明したし、また七号横穴も今後の保存に耐え得ない状態であることが明かになったので、これらの横穴は道路改良工事によってつぶされるもやむを得ないと判断するに至った。ただ、一号横穴のみは横穴の築造過程 0 0 島前の文化財 3 35 34 を知るうえできわめて貴重なものであったし、また今後の保存にも十分に耐え得るものであったので、この横穴の玄室は原状保存することとし、西ノ島町指定の史跡とすることになったのでる。二、遺跡の概要。来居横穴群を構成する横穴は、丘陵端 0 0 島前の文化財 3 36 3 の東側斜面に七穴が並び、南側斜面に二穴が開口していたが、両者の横穴はその構築位置のレベルを異にし、東側横穴列が南側のそれより約二メ−トル高位置に形成されていたし、また東側横穴列最南の七号横穴と南側横穴列最東の八号横穴とは約一二 0 0 島前の文化財 3 36 9 メ−トル離れているので、この両者は別の支群を構成していたものと考えられる。つまり、東側支群は七穴によって構成された横穴群であり、南側支群は二穴以上の横穴によって構成された支群とみられるのである。ただ、南側支群については八号横 0 0 島前の文化財 3 36 16 穴以外は道路改良工事に関係がなかったので、調査対象とはしなかったから何穴埋もれいるか判然としないが、南側斜面を調査すれば、あるいはさらに多くの支群が構築されているのかも知れない。しかし、来居横穴群の中でその内容が判明している 0 0 島前の文化財 3 36 23 ものは、発掘調査を実施した一〜八号横穴の八穴のみであるのでここではこの八穴についてのみ述べることにする。一号横穴、東側支群の最北にある一号横穴は、玄室の奥行き約三、六メ−トル、同幅約三、三メ−トル、同高さ約一、六メ−トル、羨 0 0 島前の文化財 3 36 29 道長約一、四メ−トル、同幅約一、一〜一、四メ−トル、同高さ約一、四メ−トル、現在の前庭部長約一、三メ−トル、同幅約0、八〜一、二メ−トルの規模をもつ、岩に掘った四注式妻入型の横穴である。天井部の棟線は約二、八メ−トルの長さに 0 0 島前の文化財 3 37 2 比較的明瞭に刻まれ、玄室は縦に長い不整形な長方形を呈し、羨道部は横断面方形型に造られていて、現状での羨道部の天井は奥かられ0、八メ−トルのところでなくなっている。羨門部の両壁には、閉塞石がはめ込まれるように枠取りがなされてい 0 0 島前の文化財 3 37 8 るが、この部分にははめ込まれた閉塞石は認められなかった。ただ前庭部の床面から十数個の栗石が検出され、この石群が閉塞石の一部であろうと考えられた。床面は、玄室から羨道にかけてほぼ一直線に約一〇分ノ一の勾配をもちながら前に低く傾 0 0 島前の文化財 3 37 13 斜しているが、前庭部においては羨門部より約四センチ低く造られ、この部分の勾配は玄室羨道のそれに比してやや緩やかである。横穴の造りについてみると、この一号横穴はもともと丁寧に整形する意図があったものらしく、前庭部と羨道部、それ 0 0 島前の文化財 3 37 19 に玄室の棟線から南側はきわめて丁寧に削られていて、壁面が美しく仕上がっているが、玄室の棟線から北側は未完成のままで、荒いノミ痕を留めている。南壁は玄室羨道ともに天井部との間に界線が刻まれているし、また、羨道北壁には天井部との 0 0 島前の文化財 3 37 25 界線の刻入こそないが、稜線によって天井部と壁部は明瞭に区別されていて、きわめてよく整った形態を呈し、仕上げ削り美しさとともにこの横穴の造りの丁寧さを示しているのである。未完成のままで放置されている玄室北半部は、棟線から床面 0 0 島前の文化財 3 37 30 にかけてやや外反りの孤状を呈し、壁部と天井部との区別は明瞭でない。さらに、この部分においては前半部と奥半分でノミ痕の様相を異にし、前半部では奥に向って水平方向のきわめて荒いノミ痕を留めているのに対し、奥半部では水平方向の荒い 0 0 島前の文化財 3 37 36 ノミ痕を上から削り落したための縦方向の削り痕を留めていて、南半部の仕上った部分をも含めてこの横穴は三段階の築造過程をきわめて適確に示しているといえる。つまり、この一号横穴の築造がまず奥に向って水平方向にノミを入れて掘り込みつ 0 0 島前の文化財 3 37 42 つ穴の輪郭を造り(第一工程)、次に水平方向のノミ痕を削り落しながら穴の形を整え(第二工程)、最後に小さな凹凸を削り落して整形することによって仕上げる(第三工程)という三段階の工程によることを知ることができるのである。この横穴 0 0 島前の文化財 3 37 48 が何故完成されないままに使用されたかについては知る由もないが、ともあれ、この一号横穴は未完成なるが故に、その築造過程を示すものとしてきわめて貴重な稀有の遺跡であるといえよう。なお、玄室の床面は密掘のためにか二次的にかなり破損 0 0 島前の文化財 3 38 6 していた。遺物は密掘によってほとんど持ち去られていたが、わずかに金環二個、鉄クギ五本、須恵器小片一片、土師器小片一片、鉄片一個が玄室内に散乱しており、また前庭部の閉塞石群上に須恵器平瓶一個が残されていた。玄室内から鉄クギが検 0 0 島前の文化財 3 38 12 出されたことは、この横穴内に遺骸を埋葬するにあたっておそらく木棺を用いたものと考えられる。また玄室内には数個の栗石が散在していたが、これは木棺の棺台に使用されたものである可能性が強い。なお、この横穴に何体の遺体が埋葬されたか 0 0 島前の文化財 3 38 18 については、玄室内部が密掘によって荒されていたために知ることができなかった。二号横穴。二号横穴は一号横穴の南側約五メ−トルの位置に造られた小形の横穴で、奥行約二、四メ−トル、玄室最大幅約二、五メ−トル、玄室の高さ約0、九メ− 0 0 島前の文化財 3 38 23 トルの造りの粗雑なものである。横穴のタイプは丸天井形で、玄室の平面形も不整形であり、部壁と天井部の界は認められない。床面は五分の一勾配で前に傾斜しており、奥壁の一部に削痕を留めている。密掘を受けていて、内部は荒され、床面には 0 0 島前の文化財 3 38 29 破損痕もあり、遺物も持ち去られていたが、わずかに鉄クギ一本と鉄の小片二個が検出された。三号横穴。三号横穴は二号横穴の南側約二メ−トルの位置に造られた横穴で、奥行約二メ−トル、玄室最大幅二、二メ−トル、玄室の高さ約一、四メ−トル 0 0 島前の文化財 3 38 35 を測る。玄室は一、一×二、二メ−トルの横に長い長方形のプランだが、造りは粗雑で形も整っていない。横穴のタイプは平面形両裾の意図はあるものの、右壁はきわめて不整形であり、左壁のみ玄室と羨道の区別が明瞭である。丸天井形で、床面は 0 0 島前の文化財 3 38 41 玄室部が羨道部より約十センチ高く造られている。内部は密掘によって荒されていたが、床面に土師器小片二個と鉄片二個が散在していた。四号横穴。四号横穴は三号横穴の南側約二メ−トルの位置に造られた横穴であるが、前半部がすでに崩壊して 0 0 島前の文化財 3 38 47 失われていたので、その全容を知ることができなかった。現存部の奥行は約一メ−トル、玄室幅約一、三メ−トルを残していたが天井部の大部分を失っていたので高さは不明である。造りはきわめて粗雑なものであるがそのタイプ等は不明である。内 0 0 島前の文化財 3 39 15 部はすでに荒されていて、遺物は検出されなかった。五号横穴。五号横穴は四号横穴の南側約一、五メ−トルの位置に造られた横穴であるが、この横穴も前部が崩壊していたのでその様相を十分に把えることができなかった。横穴の規模は現存部の奥 0 0 島前の文化財 3 39 33 と思われる。丸天井形で造りは粗雑であり、形もきわめて不整形である。たま高さは約一メ−トルで低い。内部は荒されていて床面には破損痕もあり、遺物は検出されなかった。六号横穴。六号横穴は五号横穴の南側約三メ−トルの位置に造られた横 0 0 島前の文化財 3 39 39 穴であるが、天井部の大部分は崩壊していたり玄室の前側も失われていたので、その全容を適確に把えることはできなかったし、また調査中に落磐事故があったために、実測も十分に行えなかったことは残念であった。羨道部については失われて不明 0 0 島前の文化財 3 39 45 であるが、玄室は現存の状態から推定して約二、七×五、三メ−トルの規模をもつ横に長い長方形を呈し、高さは約二、二メ−トルで、造りはきわめて丁寧であり、四注式平入形式で、壁と天井の界および棟は明瞭に刻出され、床は一二分の一勾配で 0 0 島前の文化財 3 40 2 前に低く造られている。さらにこの横穴には間口二、一メ−トル、奥行一メ−トル、高さ約四〇センチの奥室があって、奥室の床は玄室のそれより約五〇センチ高い。奥室床の前端には閉塞石のはめ枠が作られていて、ここに切石一枚による閉塞石が 0 0 島前の文化財 3 40 7 置かれていた。また、玄室の左壁沿いには四個づつの栗石が二列に並べてあり、この上に木棺が安置されていたものと思われる。玄室右奥隅附近からは土師器壷一個と直刀一本が検出された。なお、奥室の調査は落磐事故のために実施できなかった。 0 0 島前の文化財 3 40 14 七号横穴。七号横穴の南側約一メ−トルの位置に造られた横穴で、幅約四メ−トルの広い前庭部をもち、玄室長約二、六メ−トル、同幅約一、九メ−トル、同高さ約一、三メ−トル、羨道長約一、一メ−トル、同幅約八〇センチ、同高さ約一メ−トル 0 0 島前の文化財 3 40 21 を測り、造りは粗雑ではあるが四注式妻入形式のまとまった形を呈している。玄室において棟線は明瞭に認められるが、壁と天井部との界線はなく、羨道は横断面方形で、床は二〇分の一勾配で前が低く造られている。前庭部は一部を残して大部分が 0 0 島前の文化財 3 40 28 失われていたのでその全容を知ることができなかった。玄室内は密掘を受けたものらしく荒された痕跡を留めていたが、メメ一本、刀子二本、鉄クギ一本、鉄斧一個、土師器高坏二個が散在しており、また、羨道と前庭部からはそれぞれ鉄片一個と直刀 0 0 島前の文化財 3 40 35 片一個が検出された。玄室内には栗石五個が散在していたが、これは鉄クギの検出と併せ考えて木棺を安置するための棺台であったろうと思われる。八号横穴。八号横穴は南支群の最東部に造られた横穴であるが、玄室の大部分を留めるのみで、あと 0 0 島前の文化財 3 41 6 は消滅していたためにその全容を知ることができなかった。玄室の残存部長約三メ−トル、玄室幅約三、二メ−トル、高さ約一、三メ−トルの規模をもつ丸天井形のもので、玄室は方形を呈し、比較的よく整った造りで、床は一四分の一勾配で前側が 0 0 島前の文化財 3 41 18 思われるものはほとんど検出されなかったが、一部残存していた遺物を表示すると別表の通りである。このうちの土師器片、須恵器片、鉄片についてはいずれも細片であるためにそのタイプ等は明かでない。一号横穴出土の須恵器平瓶は高さ約一五セ 0 0 島前の文化財 3 41 24 ンチ、胴部最大幅約一七センチ、口径八センチを測り、山陰の須恵器四期に属する新しい式のものである。同横穴出土の金環二個はいずれも一、八×二センチの大きさで、環の径は四ミリを測る。六号横穴出土の土師器壷は高さ約二〇センチ、口径約 0 0 島前の文化財 3 41 29 一八センチで、表面はハケ整形し、内面はヘラ削りのみの手法を用いている。同横穴出土の直刀は刃部の一部を欠損しているが、刃部推定長約三八センチを測る。七号横穴出土の土師器高坏二個は同様タイプで、いずれも高さ約一〇センチ、口径約一一 0 0 島前の文化財 3 41 35 センチを測り、前面をヘラ削り後磨研している。この種の高坏は西ノ島町兵庫遺跡に出土例があるが、三期ないしは四期の須恵器と伴出するものである。同横穴出土の刀子二本にはいずれも木質片が付着していた。同横穴出土のメメは全長一五、四センチ、 0 0 島前の文化財 3 41 41 茎長九センチを測る。また同横穴約七センチの小形で長さのいちぢるしく短かい式のものである。以上来居横穴群出土の遺物の概畧を紹介したが、紙数の都合で実測図が掲載できなかったので写真をご参照願いたい。ともあれ、これらの遺物はいずれ 0 0 島前の文化財 3 41 48 も古墳時代後期後半のものであり、このことは来居横穴群が比較的短い期間に形成され、その形成年代が七世紀頃であることを示すものである。四、小結。来居横穴群は残存した一部の遺物から七世紀頃の短時間に形成された横穴群であることが判明 0 0 島前の文化財 3 41 55 した次第であるが、この横穴群で注目すべきことは群の構成様態であろう。来居横穴群が二グル−プ以上の支群によって構成されていることは前述したところであり、複数支群による横穴群は山陰地方においても他に多くの例をみるところであるし、 0 0 島前の文化財 3 42 4 また一支群を形成する年代幅が短期間であることも一般的であるが、来居の東支群にみられるように、一支群を構成する各横穴のタイプが様々な様相を示すものは少ない。東支群を構成する七穴の横穴で同一タイプを示すものは認められず、幅が狭く、 0 0 島前の文化財 3 42 22 この来居横穴群の所在する位置は、この周辺ではもっとも平地の乏しいところであって、ここに多数の横穴が構築された理由が何辺にあるのか検討を要するところである。横穴が、ある特定の丘や谷に集中的に造られ、古代の集団墓地を形成している 0 0 島前の文化財 3 42 28 例はしばしばみうけられるところであり、周辺の古墳の様相と併せ考える必要があろう。来居横穴群はこの他にも様々の問題を提起しているが、これらの検討も今後に残された課題である。なお、この横穴群については後日詳細な報告をする予定にしている。 0 0 島前の文化財 3 43 1 隠岐国知夫郡美田邑来暦抄、松浦康麿。はじめに。当家の所蔵文書の中に、祖父勲の書写させた「美田邑来暦」という写本がある。原本はどこにあったのか、奥書のない事とて不明であるが、原本の失われた今となっては貴重な写本となり、旧島根県 0 0 島前の文化財 3 43 8 史編纂の折も資料として提供しており、「島根県史史簿記録原簿第七八二五号」という整理票がはられている。体裁は半紙卦紙十二葉に表紙を付し「隠岐国知夫郡美田邑来暦」と書かれ、全文楷書で写されているので大変読みやすいものであるが、史 0 0 島前の文化財 3 43 14 学の素養のすくない者が写しているので誤読と思われる箇所が多く写本としてはあまり上質のものではないが、内容が主として伝説の書留めであるので資料としての価値はかわらない。成立年代は不詳であるが、文中に寛文五年(一六六五、隠州視聴 0 0 島前の文化財 3 43 20 合紀の二年前)の記事である事からすると一応その頃の成立とみてよいのであろう。今まで断片的には資料として引用されているのでこんな写本のあることは知っていても、全体を知る人は少ないかと思うのでここに全部を掲載することにしたが一部 0 0 島前の文化財 3 43 26 省略したのは資料価値の少ないと思われるものに限ってある。こうした伝説の書留めは島前には例のない事なので、今からでもこうした事に興味を持たれた方はこうした伝説を書留めておくと資料として役立つものであるという一つのサンプルとして 0 0 島前の文化財 3 43 33 紹介する。読み易くする等、句点を付し又誤読と思われるものは出来るだけ訂正しておいたが、意味不明なものはそのままにしておいた。本文。本郷ヨリ十三町北ノ方小向ト申ス在所ヨリ二丁坂、寺内ニ松竹雑木アリ。一、高田山長福寺、真言宗、高 0 0 島前の文化財 3 43 41 壱石。夫当時ハ行基菩薩ノ草創也。往昔行基当峯霊場ナリト見テ篭リ給フニ生身ノ観音示現シテ日ク、是ヨリ北ニ当リ渺々タル浦アリ、奥ニ龍宮浄土ヨリ来リシ嘉樹アリ斯ヲ吾ガ像ニ刻ザンデ仏閣ヲ建エ安置セバ我又茲ニ住マン。夢裏分明ニシテ覚ヘ、 0 0 島前の文化財 3 43 47 彼浦ニ臨ンデ磯ヲ看渡スニ一ツノ流木アリ。是ヲ取上ゲ千手、十一面ノ二仏ヲ刻彫シテ千手ヲ当寺ノ本尊トセリ。十一面ハ同州別府村飯田寺ニ安置シ給フトナン。此嘉樹ノ余木ヲ修行者枕木ニ用ヒ、出雲国枕木ノ霊地ヘ詣スルニ□□□枕木ノ観音ノ御 0 0 島前の文化財 3 43 53 膝ニ日輪ノ如クナル疵アリ□□□゙修行者ノ枕ヲ入アハセシニ符合シテ成就セリ。此ノ所謂アルニ因テ枕木山ト名付クト云。枕木ノ観音、飯田ノ観音、当寺ノ千手一体分身ノ観音ナリ(下畧)本郷ヨリ三町寅ノ方大津ト申在所ニ有。一、道場寺、真言 0 0 島前の文化財 3 43 60 宗。本郷ヨリ四町午ノ方四引(シビキ)ト申所ニ有。一、円蔵寺、真言宗。本郷ヨリ四町北ノ方大津ト申ス在所浜辺ニ有。一、小山寺、真言宗。本尊七仏、薬師如来ニ御座候ヲ此山落居ノ時焼ケ申シ、一尊御残リ今奉安置(下畧)以上四ケ寺也。本郷 0 0 島前の文化財 3 43 68 寅ノ方七町隔テ。一、大山大明神。此御神ハ仁徳天皇ノ年中ニ他国ヨリ御流レ寄リ被成候。処ハ本郷ヨリ戌ノ方三十五町隔テ伊佐泙(イザナギ)ト申浦ニテ御座候。是ヨリ辰巳ニ当リテ三十町隔テ宮崎ト申ス在所ヘ御在居被成候ヲ人々見付申シ。今ノ 0 0 島前の文化財 3 44 7 テ本地阿弥陀如来三尊ノ御垂跡也。御神慮アラタニテ縦令バ当国御奉行御身上ニ御難題有ノ時ハ必ズ御持経ノ御コイ任ト申云フ(下畧)一、焼火山縁起(畧)一、寛永十五戌寅年焼火山ノ麓、明村(アキムラ)ト申在所ニ六十斗リノ女人焼火山ヘ参詣 0 0 島前の文化財 3 44 13 焼火 ノ時五三日以前ノ咎人ノ棺ノ覆ヲ取リ着物ニシテ登山仕候得バ其孫ニ五郎ト云男子忽ニツカマレ失セ申也。今頃モ下人ドモ麓ヘ下リ不浄ニ交リ登山致シ候得バ方々ツカミナヤマシ候。(下畧)一、寛文五乙己年焼火山御山ノ神銭壷ニ宝殿ヲ建立シテ古 0 0 島前の文化財 3 44 20 ヨリノ壷ト新シ壷トモニ弐ツ入置候得者、同年極月二十四日僅ノ風吹キ崩シ岩石ニ当リ宝殿モ新壷モ微塵ニ成候得共古ヨリノ壷ハ少シモ損ゼズ遥ノ岩石ヲ落下スト雖モ神銭少シモ不捨有之事霊験マコトナリ。是ハ古ヨリ宝殿無之故カト諸人感入申也。 0 0 島前の文化財 3 44 27 焼火 一、焼火山烏一番居住イタシ客人来ラントスル時寺山中告ゲ廻リシ事実定也。子一羽或ハ二羽産出スル事毎年也。九十月ノ頃烏数多参リ一両日滞テ去ル也。是ハ当山出生ノ子々孫々ニカト諸人申事也。一、(畧)一、高田大明神。本郷ヨリ十三町北ノ 0 0 島前の文化財 3 44 35 方ニ有。小向ト申ス在所ヨリ二町半ノ坂弥山トテ大石アリ宮廻ニ松木アリ此松ニ天狗御住被成候。一、地主権現。本郷ヨリ午ノ方二町隔テ有。宮地ニ松木御座候。一、三保大明神。本郷ヨリ丑ノ方五町隔テ有。宮地ニ松一本榎一本。一、八王子、大山 0 0 島前の文化財 3 44 44 大明神宮地ノ内ニ有。一、塔ノ尾ト申処ノ石塔ハ南向、廻船ヨリ積参リ此処ニ立置申候。施主ノ名ヲバ福長見ト申シタリト申云フ。一、本郷ヨリ寅ノ方二十九町隔テ見付島ト申島アリ。先年笠置当国ヘ配流ノ時船此浦ヘ着申御見付候ニ付、見付島ト申 0 0 島前の文化財 3 44 48 伝候。灘ヘ上リ島ヲ御覧シテ誠ニ見レバ景有ル島ト申シ此磯ソ名ヲ実見ト申候(下畧)一、大山明家本ヨリ三町北ニ当テ出鼻ニ釜屋崎ト申ス岩有リ是ニ古ヘ文覚通リ船ニ斎ヲ御貰ライ被成候ニ徒ヲ申ス船頭ノ行李流寄リ岩ト成ルト申伝候。一、大山明 0 0 島前の文化財 3 44 55 家本ヨリ三町南東ニ当リ児塚ト申ス塚アリ。同浪辺ニツヅラ島ト申ス石アリ此処ヘ行衛不知船破損イタシ児相果テ申ニ付児塚ト申伝候。一、大山明家本ヨリ五町南ニ当リ古ノ寺床アリ其廻リニ桂木アリ。一、美田村大山大明神ト海士ノ内宇受賀村大明神 0 0 島前の文化財 3 44 68 石美田村大山ヲ越シ申サバ御妻ニ成リ申ベシ又越不申バ成リ間敷ト御約束ニテ御座候処ニ山ヲ越サズ候間御約束チガイ申ニ付御中悪敷御座候。古ハ宇受賀大明神ノ神主衆并眷属衆迄大山明神ノ御前ヲバ下馬仕候。一、大山明家本ヨリ二十六町南ニ当リ 0 0 島前の文化財 3 44 74 屋敷有リ古ヘ此処ニ泉出申候。人々ニハ不存候牛此水ヲ飲ミ申故酒ノ匂致スニ付、而テワト申シ此水ヲアヤメ新左衛門ト申者見付此処ニ家ヲ造リ泉ノ力ニテユウユウト生業致シ侈メメ申ニ付言分ヲイタシ、雲州富田ノ志奈谷ト申処ニ三年ノ牢舎仕リ難儀 0 0 島前の文化財 3 45 1 ニ付小唄ヲ歌ヒ申ニ、小唄ニ「サムヤシナダノトンダノアラシ夜ノ寝覚ニ隠岐コイシ」ト歌ヒ申候ヲ御奉業様御聞届ニ成御赦免成、隠岐ヘ帰国仕リ右ノ処ヘ在宅イタシ此処ニテ相果テ申候由ニテ塚処今ニ御座候。一、文覚上人当国ヘ御渡海ノ時ノ年号 0 0 島前の文化財 3 45 7 ハ不存候本郷ヨリ辰己ニ当リテ一里十二町隔テ岩山有。七十間上ニ岩穴一ツ有高サ二間横二間半入一丈一尺、卒都婆二十六本アリ。是ヨリ七間上ニ岩穴一ツ有、高サ六尺横一間半入一間、卒都婆三十本アリ。此ノ岩山ノ二町西ノ脇ニ鉢ガ浦ト申ス入海 0 0 島前の文化財 3 45 13 アリ(中畧)此ノ子細ハ文覚上人御前ヲ船通リ申ニ御斎迄被成候得者、御鉢ニ船頭青草ヲ入レ其ノ罰ニテ我ニ波風立チ船破仕リ忽ニ島ト成候。又船頭モ相果島ト成、御鉢ハ浦ニ寄リ島ト成リ中ハ虚ニテ上ヲ踏ミ候得者ドウドウト鳴リ申候ソレニ依テ鉢 0 0 島前の文化財 3 45 19 ガ浦ト今ニ申伝候。又文覚岩屋ヨリ崎村ノ堤浦ヨリ東ヘ船路十五町隔テ船頭ノ鼓流レ寄リ島ト成リ、今ニツツミ浦ト申伝候。一、文覚上人御修行ノカイカ水海士郡布施村ノ内、奈久ト申候ヘ東ニ当リ海路十六町隔テ出水有。此水御座候時ハ海上ヲ鉄ノ 0 0 島前の文化財 3 45 25 足駄ニテ御歩御座候ト申伝候。一、文覚上人ノ御墓処知夫郡松養寺ノ寺辺ニ有。又ハ海上ニテ御入定トモ申伝候。一、(畧)一、本郷ヨリ一里北ノ方ニ高崎ト申ス雑木山ニ古キ寺床アリ。往昔ヨリ寺御座候由伝中候。古ノ住持良賢坊ト申シ生国ハ九州 0 0 島前の文化財 3 45 32 焼火 薩摩ノ人、焼火山ト高崎ト掛持ニ不断ノ修業ハ魔法伊須那(イズナ)ヲ修行シ、焼火ニテ客人御座候得者、高崎ニ茶ヲ置キタリト申シ書院ニ入天狗ニ被申得者片時ニ茶ニテモ何ニテモ入用ノ物参リ候也。此処ヨリ南ノ方ニ当リ弥山ト申テ嶮々タル滝御 0 0 島前の文化財 3 45 38 座候。名ヲバ白滝ト申シ、亦大松一本有リ、廻り一丈三尺此杉、天狗衆合ノ処ニテ御座候。坊床ヨリ東ノ方十町計リ隔テケイセイガ床ト申処有リ、坊所ハ女人結界ニテ御座候此床ニ家ヲ建テ遊女ヲ置キ寺ヘ参詣ノ諸人ニ又寺内ノ男ドモ此処ヘ集リ酒宴 0 0 島前の文化財 3 45 44 遊興仕候ニ付テ此処ヲ傾城が床ト申候。此床処ヨリ南西ニ当リ七町下ニ魚切ト申処有、此処ニテ魚肴料理仕ル処ニテ御座候ニ付魚切ト申由申伝候。又二百年以前ニ々村長福寺ノ住持覚文坊ト申ス坊主高崎坊処ヘ篭リ魔法ヲ修行仕候処ニ天狗衆ノ嫌ニテ 0 0 島前の文化財 3 45 50 御座候。此寺ニ七年被居候が七年迄大風吹申ニ付国中ヨリ断ニテ此坊主下シ申スニ其時ヨリ寺絶ヘ本尊薬師如来ハ別府千福寺ヘ奉安置候由申伝候。一、(畧)一、本郷ヨリ南ノ方ヘ七町隔テ内海入口浦之郷浜境也。是ヨリ南ヘ六十間隔テ内海入口大神 0 0 島前の文化財 3 45 58 ト申ス滝ニ古木ノ松有リ是ヨリ南ヘ十一町尾ツヅキノ立山有。此山ニ天狗御住被成候松アリ。是ヨリ十町隔テハシン先ト申ス出鼻ニ弁才天古木ノ松一本アリ。一、(畧)一、本郷ヨリ丑寅ニ当リ十九町隔テ別府ヘ越申候峠ニ地蔵堂有。此地蔵石体也行 0 0 島前の文化財 3 45 64 基菩薩ノ御作ト申伝候。一、本郷ヨリ北ノ方十八町隔テ日余ノ峯ト申処ニハシレ岩ト申スガンクロ有リ。不断ハハシレ申サズ、ナカナカニハシレ黒煙立ツ其ノ近所ヘ小石シトナリテチカ申候。是ハ天狗ノ業ト申候。一、本郷ヨリ西ノ方浦之郷ノ境迄陸地 0 0 島前の文化財 3 45 71 一里半。一、本郷ヨリ別府ヘ一里十五町。但シ高崎ト別府ノ後耳浦境目迄。一、本郷ヨリ別府御札辻迄陸地二十八町三十間。船路三里。一、本郷ヨリ浦之郷御札辻迄三十町。船路三町。(註)本郷は現在の一部、明村は現在の大山、三田村は現在の西 0 0 島前の文化財 3 45 81 ノ島町内一部、大津、小向、舟越、美田尻、大山、波止の七区。 0 0 島前の文化財 4 1 1 ラカンマキ。一、所在地、西ノ島町別府大字美田二、一九七二、所有者、西ノ島町大字美田二、一九七、近藤重治。三、説明、植哉品と思われる。幹の太さ目通り二、四メ−トル、地上三メ−トルのところで二本となり太い方は廻り一、八メ−トル。 0 0 島前の文化財 4 1 8 他の方は一、五メ−トル位の太さで、その先は七本の枝立ちとなりその他化さ二〇メ−トル位である。樹の勢は大変よく、保存も良好である。樹齢は不詳。イヌマキとよく似るが、それの変種とか亜種、独立種とか云われるが学説は明かでない。 0 0 島前の文化財 4 2 1 タブノキ。一、所在地、西ノ島町赤之江、福萬寺。二、所有者、西ノ島町赤之江、福萬寺、監原達城。三、説明。赤之江福萬寺の右側奥にあるタブの古木。根廻り五、五メ−トル。目通り廻り四メ−トル。高さ三、五メ−トルあたりが太くなり廻り七 0 0 島前の文化財 4 2 7 、五メ−トル位になっていてこれより幹廻三メ−トルが立って総丈一二メ−トル位のものである。古木で樹齢は詳でない。途中の太い部分は元枝の張っていたものが折れそれを巻込んでこの様になったものである。樹勢よく根元からも若枝が立ち主幹 0 0 島前の文化財 4 2 14 には瘤がよく発達し見事である。隠岐島原生植生の代表的照葉広葉樹の代表的植物で貴重な植物の一つである。 0 0 島前の文化財 4 6 1 是何叶(地名)−その一−木村康信。宇賀=ウカ、西ノ島東部の里で、鵜処=ウカで冠島の対岸に鵜の繁殖地がある程の処で鵜のいる処でこの名が生まれた。倉ノ谷=里の両側共海に岩山、断崖があり、これがクラで断崖のある谷で地形から出来た名。 0 0 島前の文化財 4 6 10 おろしや=オロシは崖の意味で島前では岩でなく風化岩の崖の所を云ふようだ。はっさ=他の土地では八田となっている所もある。湿地帯を示す地名で田がある。物井=モノイでなく古くはモネで藻根海に山が迫り藻の多い磯と云ふ地形を表した地名 0 0 島前の文化財 4 6 18 である。来居=クリイ。岩礁クリのあるところの意で知夫里島のは皆知るところであるが、西ノ島には美田と黒木御所裏物井の手前と二ケ所ある。知当=チトウでなく古くはツトで津門、津戸で船付場、渡船場。島後にもある。小向=コムカイ、古くは 0 0 島前の文化財 4 6 27 神メメカムカイで美田の連田を開こんし、高田神社などの神田ジンデを作り、その頭が大神メメオ−コンケで高田山長福寺(今はここにない)に関係の深い里で職種による特殊な地名。里には三ケの共同井戸が残っているが中央附近に御供井戸がある。 0 0 島前の文化財 4 6 35 抜井=ヌクイ、小向の名は里の総称で上の方をヌクイと云ふ。この地帯は第三紀層が火山岩にかぶさっていて層間に湧水があり、古い時代に地滑りがあり、崩ヌケが変化してヌクイとなった。湧水はヌクイガワと云い清水が今も湧いている。カワは井戸 0 0 島前の文化財 4 6 42 の方言。よしづ=葦津、小向の中央部、美田湾で一番風当の静かな入江で後醍醐天皇の船出の処の碑のある附近である。葦のある船付場である。宮崎=ミヤザギ、高田神社参道のある附近の名。御供井戸のある。岬形の地形地。 0 0 島前の文化財 4 7 1 「笠置文書」建武元年の打渡状に現われた「道賢」について。富長源十郎。はじめに、(一)建武中興と山伏(二)笠置家文書の道賢(三)米良文書の道賢(四)北畠、日野家につながる道賢(五)日光輪王寺の銅鋺と銅賢(六)近世隠岐の終験道 0 0 島前の文化財 4 7 12 「はじめに」現在、鳥取県の名和町では町誌を編集中であるから、私もその一員として町史歴史部門を担当しているが、名和町といえば名和長年ということから、どうしても建武中興史には力が入る。この建武中興をやると、いろいろな場所に山伏が 0 0 島前の文化財 4 7 19 現われて、中興の裏面で大活躍をしているという感をつよくする。たとえば、(一)新田義貞が鎌倉を攻撃した時、河内、遠江、武蔵、信濃、常陸、奥羽の広い地域から軍勢が一斉に時を同じくして鎌倉に集まっている。(二)楠木正成が、元弘二年 0 0 島前の文化財 4 7 25 十二月九日付で河内金剛寺衆徒に与へた書状に、左衛門尉正成と署名しているが、当時の幕府の発した文書には兵衛尉となっていて、これは隠岐の天皇から任命されたと見るより外はない(高柳光寿)(三)出雲鰐淵寺に対して隠岐の天皇が宸筆願文 0 0 島前の文化財 4 7 32 を奉納した。など、どれをとってみても、山伏の仕事で無ければ出来ることではないようであって、それから述べようとする笠置文書の「道賢」も山伏ではないかと思われる。隠岐の後醍醐天皇の行在所について、島前説、島後説の両方があって、観光 0 0 島前の文化財 4 7 38 客はとまどうが、建武中興で山伏が大きく活躍したことを知るならば、必然的に島前の黒木御所説をとりあげざるをえないであろう。(一)建武中興と山伏。山伏の歴史をひもどいてみると、修験道は日本古来の山岳信仰に端を発し、全国いたるところ 0 0 島前の文化財 4 7 45 にその発生は見られるが、仏教の普及にともなってこれと習合し、とくに天台、真言と結びついて有名になる。山伏の道場として熊野、大峯、金峯山、出羽三山、四国の石槌山、九州の彦山、越中立山、伊豆湯走、伯耆大山、越前白山など、全国には 0 0 島前の文化財 4 7 51 古くから有名なところは無数にある。中でも、吉野、熊野地方は奈良、京都からも近く、修験道の発達に適していたので、平安の昔から皇室、貴族、武家の熊野参詣は多かった。白河上皇は九度、後鳥羽院は十八度、後白河院は三十四度の熊野詣りを 0 0 島前の文化財 4 7 57 されたが、熊野はその他の貴族、源氏、平氏の武士の棟梁たちと政治的に、あるいは軍事的に結びついたことは歴史上名高い。熊野別当家においても、嫡流が源氏、庶流は平氏と血縁を結び、熊野水軍として壇の浦の戦いにまで巻きこまれたことがある。 0 0 島前の文化財 4 8 4 熊野参詣が盛んになると、参詣に当っては特定の山伏が道案内から祈祷、宿泊を世話するが、こうした山伏を御師といい、祈祷案内を頼んだ方を檀那といい、これをいわゆる師檀の関係と称した。鎌倉時代になると、これが一つの権利のようになり世襲 0 0 島前の文化財 4 8 10 的となる。この御師というのは、多数の輩下の先達を使って全国を歩きまわらせ、地頭、荘司など地方の有力者を檀那として獲得すべく努力させる。そして師檀関係が成立すれば、先達は檀那を案内して熊野の御師の所へつれてくるが、これに対して 0 0 島前の文化財 4 8 17 檀那は祈祷料を御師に払う。この場合、御師は特定の氏族を檀那とすれば、その一族の系図をもって各地に散在する一族をすべて檀那とし、配下の先達を駆使して広範囲の檀那の要求にこたえなければならない。また、御師や先達が、全国ξ檀那を回 0 0 島前の文化財 4 8 23 檀するにあたっては、地方の有力者たる檀那は、自分の家に泊めてやったり、通関料や船賃を免除してやったり、いろいろと特権を与えて便宜をはかってやる。山伏たちにとって、こうした師檀の関係というものは貴重な財産として扱はれ、鎌倉中期 0 0 島前の文化財 4 8 30 以降になると、これに檀那株と称して、売買入質、相続の対象となし、有力御師は、零細御師から檀那株を買取って、ますます大きくなった。その代表的な御師の家柄が、熊野那智山の米良家であり、熊野那智山執行法印銅賢の譲状(一三八四)(米 0 0 島前の文化財 4 8 37 良文書)、ならびに同道珍の譲状(一四四七)によると、道賢は建武中興には四十一カ国に檀那をもち、道珍も南北朝時代には、四十六カ国に檀那をもっていたことがわかる。山伏の修験道は、天台宗は聖護院を中心とする本山派、真言宗は醍醐寺を 0 0 島前の文化財 4 8 42 中心とする当山派に分かれるが、室町時代ごろからこれがはっきりと組織化され、熊野詣りにおいても服装、巡路などにちがいがあった。とくに、その支配方式においても室町ごろから本山派は「霞」という縄張り的方式をとり、当山派は三十六先達 0 0 島前の文化財 4 8 48 による在地統制(袈裟筋)の形式をとった。また山伏は、古くから武力集団化し、とくに熊野の山伏は熊野水軍といって、瀬戸内海の制海権もにぎったし、建武中興でもその組織力、兵力というものは倒幕計画に必要な要素で後醍醐天皇もこれを利用 0 0 島前の文化財 4 8 54 したから、山伏が暗躍したことは太平記に多く記するところである。太平記の中に、北条高時が宴会で天狗にたぶらかされたとか、日野資朝の子阿新丸が佐渡で逃げる時に山伏に救われたとか、正成が千早城で山伏から水源地を教えられて築城したとか、 0 0 島前の文化財 4 8 61 越後で新田義貞の挙兵をしらせてまわったとか山伏の話は無数にあるので、一説に太平記の著者は山伏ではなかったかといわれるくらいである。後醍醐天皇は、倒幕にあたって、三十六名の御子のうち、護良、宗良両親王を天台座主に、尊珍、静尊、 0 0 島前の文化財 4 8 67 聖助の三親王を天台聖護院門跡に任じて山伏の本山派をおさえ、同時に真言宗醍醐寺の文観を重用することによって当山派を支配しようとした。中村直勝博士は「南朝の研究」において、醍醐寺の報恩院は八条女院の助成によって建立されたから、八 0 0 島前の文化財 4 8 73 条女院領が後醍醐天皇に伝領されたことを考え合わせれば、報恩院にいた文観が後醍醐天皇の倒幕計画に参加したこともわかるといい、また文観は学問僧でなくて、祈祷をこととする山伏だったろうともいっている。このように醍醐寺の報恩院は、代 0 0 島前の文化財 4 9 1 々大覚寺統の天皇と関係が深かったが、また黒板勝美博士の「北畠顕家の上奏文に就いて」によると、醍醐寺の金剛玉院は後醍醐天皇の父君後宇多院が修業され、北畠親房の弟実助も後宇多院の兄弟弟子として修業しているということだし、同じく三 0 0 島前の文化財 4 9 7 宝院には、倒幕の計画者で佐渡で斬られた日野資朝の弟の賢俊もいた。また、元弘元年、倒幕計画がもれて、天皇は比叡山に上るとみせかけて東大寺に行幸し、東南院の聖尋を頼るが、この聖尋も報恩院流の名僧で文権と相弟子の関係にあり、続いて 0 0 島前の文化財 4 9 13 行幸する金胎寺、笠置寺らはいずれも聖尋の配下の寺で、真言宗の山伏の寺である。楠木正成にゆかりの金剛寺、観心寺、久米田寺らはいずれも真言宗で聖尋、文観とも関係があるところからしても、正成の勤皇もこうしたところのつながりがあるの 0 0 島前の文化財 4 9 18 ではないか、というのも黒板博士の意見であった。すなわち、倒幕から建武中興への過程は、歴史の表面には現れないが、後醍醐天皇と山伏との関係をぬきにしては考えられないのではあるまいか。(二)笠置家文書の道賢。以上のように、後醍醐天皇 0 0 島前の文化財 4 9 25 は、山伏の本山派、当山派の両派を擁して倒幕を目指すが、元弘元年には笠置山で幕府にとらえられ、とうとう隠岐島に流されてしまう。しかし、天皇が隠岐に流されて配所にあるからといって、決して倒幕計画が中止されたわけではなく、護良親王 0 0 島前の文化財 4 9 31 は吉野、楠木正成は千早城に、それぞれ倒幕計画を着々と進めていた。笠置落城でもとらえられなかった護良親王は、天台座主でもあり、側近を率いて山伏姿になって吉野方面に身をかくすくらいだから、天皇以上に山伏を使うことにはすぐれていた 0 0 島前の文化財 4 9 38 だろうし、天皇に代って倒幕の指揮をとるとともに、秘密裡に山伏、水軍を使って隠岐の天皇と連絡をとり、天皇奪回計画をたてていたにちがいない。こうした意味から、隠岐における山伏や、水軍の動向をうかがうに、その根拠となるところは島前 0 0 島前の文化財 4 9 43 にしかなく、島後にはない。すなわち、わが国の古代信仰につながりを伝えると思はれる「延喜式」の神祇式(平安時代)に載せられた、隠岐国の神社は十六座あり、うち山ノ神を祀るものは島前西ノ島(旧美田村)の大山神社のみである。この大山 0 0 島前の文化財 4 9 50 焼火 神社は「大日本史」によれば「焼火山上に在り」と記され、この焼火山は中世には神仏習合によって「雲上寺」が開山されたが、この開山は紀州国道玉とあり、道玉はその伝承、遺物からして、熊野山の山伏であることは間違いない。即ち焼火山は当 0 0 島前の文化財 4 9 55 初に於ては修験道との習合であった。また、隠岐の水軍として名高い村上家も中ノ島だし、近藤家も西ノ島で、山伏や、水軍を使って天皇の奪回をはかるのに、島前の条件はととのいすぎるくらいととのっている。この西ノ島(旧美田村)に笠置家と 0 0 島前の文化財 4 9 61 いう旧家があり、ここには建治二年(一二七六)の佐々木泰清の大山社祢宜職へ対する下文をはじめ、多数の古文書を所蔵するが、このうち建武元年五月の打渡状というものがある。(新修島根県史)隠岐国美多庄内大山宮祢宣分。かうし料畠事。定 1276 0 建治2年 島前の文化財 丙子 4 9 69 補、祢宣所、いさなきのふん、かかやのふん、一所、六郎入道作、一所、清太郎作、飯犬のふん一所惣入と作(ママ)一所千手作、このはら一所、願成作、己上五所。右、於大山大明神宮かうし料畠者、五篭江一所宛在所と定、祢宜方へ可打渡之由、 0 0 島前の文化財 4 10 1 地家御代官公文所え任被仰下旨、所打渡如件、建武元年五月六日、御代官沙弥西領(花押)公文僧道賢(花押)古文書学上「打渡状というのは、所領を人に渡付すべき命をいけた人が、之をその人に渡付した由を返事として申すために作る文書である。 1334 506 建武元年 島前の文化財 甲戌 4 10 11 施行状、遵行状に応じて、地元に於て使者、もしくは地元の沙汰人が出す文書」「(日本の古文書)−相田二郎」である。代官といえば、武士領の地頭代のことであろうし、公文といえば、荘園の荘官のことであっても、一種の「所職」として、隠岐の 0 0 島前の文化財 4 10 17 公文職をもつことが出来るようになっていただろう。地頭代と公文が連署しているところをみると、土地が地頭側と領家側と両方にかかっていたものと思はれるが、その背後には施行状なり、遵行状があるもので、誰れか大山宮の祢宜分として「かう 0 0 島前の文化財 4 10 24 し料」を寄進したものがあったにちがいない。そして、西領と道賢が役職柄、地元の沙汰人として連署して、この打渡状を作ったものである。建武元年五月といえば、天皇親政の最中で、還都後まっ先に手がけたのが土地制度であり、天下をあげて天皇 0 0 島前の文化財 4 10 31 の土地とするため後醍醐天皇は後三条天皇にならって記録所を復活し、ことに諸国一ノ宮二ノ宮等を本所、領家の関係をたち切るような命令(建武元年五月七日)を出したから、神社や寺院の所有する土地は、真に自己所有のものとして有利になった 1334 507 建武元年 島前の文化財 甲戌 4 10 43 その寄進などについては必ず天皇の勅許を必要としのではあるまいか。建武二年六月、建武の功臣、名和長年の長男義高は、肥後八代庄の地頭職のうち、熊野那智山に鞍楠村を、出雲大社に志紀河内村を寄進するに当って、天皇にその勅許を受けた 1335 600 建武2年 島前の文化財 乙亥 4 10 50 綸旨が名和家(名和町)ならびに出雲大社に伝わっている。肥後国八代庄地頭分内鞍楠村寄進熊野那智山之由被聞食畢者、天気如此悉之以状。建武二年五月二十八日大膳大夫(花押)伯耆大夫判官館(名和義高)(新修島根県史大社文書も同日同文) 1335 528 建武2年 島前の文化財 乙亥 4 10 58 肥後八代庄は、南九州の要衡の地として征西府の最後の根拠地となったところであるから、とくべつの意味もあって名和義高に、賜わったものであるかもしれないが、それにしても後醍醐天皇の所領に対する理想がこの文書にはよくあらわれてい。 0 0 島前の文化財 4 10 64 だから、隠岐のような天皇と関係深い土地で建武元年五月という中興の盛事において、しかも大山宮のような隠岐唯一の山伏と関係ある神社に、わずか畠五ケ所の寄進とはいえ、これは必ず天皇の勅許を必要としたことであろう。たとえ、間に領家や 0 0 島前の文化財 4 10 70 地頭が入っていたにしても、天皇の理想は、そのようなものはすべて天皇の意志の代行者にほかならなかった。すなわち天皇のこのような独裁政治に反感をもつものの代表者が、足利尊氏であり、それを支持する勢力であったが親房をしていわしむれ 0 0 島前の文化財 4 10 76 ば「武士の輩は、いわば数代の朝敵であり、御方に参って其家を失わぬこそ余ある皇恩なれ」というのである。こうした理想の是、非は別として、このような時に、天皇と関係深い隠岐美多庄において、天皇に寄進の意志なくして打渡状などが作れる 0 0 島前の文化財 4 11 4 ものではない。必ずや、この打渡状の背後には天皇の寄進の意志があったにちがいなく、何故の寄進かといえば、これは常識的に考えても、隠岐行在所時代から還都までの協力に対する礼とか、恩賞とか、に受取ってよかろう。隠岐には、佐々木一族 0 0 島前の文化財 4 11 10 から没収した所職が多いから、この笠置家文書の打渡状の沙汰人たる代官西領といい、それぞれがおそらく建武中興における恩賞としてもらった所職であろうが、ここでこれから述べようとするもが、打渡状に記された公文僧道賢についてである。こ 0 0 島前の文化財 4 11 17 の道賢は、打渡状に表われた建武元年(一三三四)から、さらに三十五年たった応安二年(一三六九)にも、隠岐国美多庄にその名が現われることが笠置家文書でわかる。(花押)宛下、道賢所。隠岐国美多庄一分方公文職并浄蓮跡事右、以者所宛下 1369 0 正平24年 島前の文化財 己酉 4 11 24 也、年貢以下任先例可令執進上者、百姓等令存知此旨、敢以勿為異失、仍宛仍如件。応安二年六月二十四日。右二通の文書で道賢が建武中興で後醍醐天皇からその隠岐における地位を承認されていたが、南北朝時代になると、北朝側から美多庄におい 1369 624 正平24年 島前の文化財 己酉 4 11 31 て公文職を宛下されたことがわかり、その存在が確認される。この二通の笠置家文書によって、建武中興前後から四〜五十年間僧道賢というものの存在がわらるが、これを同時代の他の史料を調べてみると、二つの史料に道賢というものが現われる。 0 0 島前の文化財 4 11 38 一つは、熊野那智山の執行道賢で、その存在は米良文書によって確認され、他の一つは、日光輪王寺妙見堂の銅鋺に刻名された道賢である。(三)米良文書の道賢。米良氏は、熊野に住む豪族で先祖は藤原実方から出た熊野別当湛増の後胤たといわれ 0 0 島前の文化財 4 11 45 る。この一族はある時は平氏と、またある時は源氏と血縁を結んで、海、陸に勇名を馳せたが、鎌倉時代も中期以後になると、熊野で有力な御師の家柄として御師職を相伝して全国に多数の檀那をもち、建武、南北朝時代には四十一カ国、あるいは四十六 0 0 島前の文化財 4 11 51 カ国に檀那の範囲は及んでいた(米良文書)。そして、南北両朝からの軍勢催促状以下、多数の古文書を蔵し、室町時代には足利将軍の御師となり、徳川時代には徳川将軍の御師として、山内一の勢力を誇った。米良氏系図をみると、建武中興、南北 0 0 島前の文化財 4 11 58 朝時代には、道賢−道珍−道義−道有(道義の弟)と続くが、ここに道賢という名を発見する。この系図を頼りに東京大学史料編纂所の影写した米良文書(三)を見ると、永徳四年(一三八四)の那智山執行法印道賢の譲状というものによって、道賢 0 0 島前の文化財 4 11 65 は建武三年(一三三六)に先師執行祐豪から四十一カ国の檀那株、その他の財産を譲りうけたことがわかり、その後、永徳四年まで約四十七年間、那智山執行の地位にあったことになる。譲状惣丸帳。(中略)右件檀那田畠当自先師執行法眼祐豪乎任 0 0 島前の文化財 4 11 72 建武参年譲渡所之世帯也、全不可背他供仍為後日亀鏡状如斯。永徳四年二月七日執行法印道賢(花押)すなわち、笠置家文書による隠岐の道賢は、建武元年(一三三四)から応安二年(一三六九)まで記録にあり、米良家文書の道賢は建武三年(一三三六) 0 0 島前の文化財 4 12 4 から永徳四年(一三八四)まで約四十七年間那智山執行として存在していたことがわかり、(1)同名であること(2)とちらも僧であること(3)ほぼ同年輩で、同時代約五十年間その実在が一致する。などで両者はほぼ同一人物であはないかと思 0 0 島前の文化財 4 12 10 はれるがこれを笠置家文書の打渡状の署名、花押と、米良文書の署名、花押を比較してみよう。だが、まず前提条件として、笠置家の道賢の文書は、建武元年(一三三四)のもので、まだ熊野那智山執行になっていない時のものであり、米良文書は永 0 0 島前の文化財 4 12 16 徳四年(一三八四)のものであるから、その間に五十年の年月と、社会的地位に大きな差がある、など考えに入れる必要がある。二通の文書を写真によって比較してみると次の通り(BとB’は同日のもの)(A)建武元年(一三三四)の笠置家文書 0 0 島前の文化財 4 12 23 の署名と花押(B)永徳四年(一三八四)の米良文書の署名と花押(B’)永徳四年(一三八四)の米良文書の署名と花押、これによって、次のようなことがいえる。(一)三書とも、道の字において首の下とシンニュウがくっつくくせがあり、こと 0 0 島前の文化財 4 12 30 にAとBの首はシンニュウの上の点と同じくらい低い。(二)Aの賢と、B’の賢はよく似ている。(三)三書とも、賢の下と花押の上がくっつくくせがあり、このくせは五十年たってもかわらない。(四)この時代の花押は、同一人物でも年代によ 0 0 島前の文化財 4 12 38 って、また社会的地位によって違うことがある。たとえば足利尊氏の花押は、元弘二年と観応三年では、たて、よこの比率がちがってきているし、義満以後の将軍の花押は、武家様と公家様を使い分けている。また、楠木正儀の花押について、中村直 0 0 島前の文化財 4 12 46 勝博士は、「南朝の研究」において、これを五段階に分けて、第一から第三までは年がまだ若い時のもので、適当な花押が選定せられなかった時の道程を示すものといい、第四、第五の花押は地位が一定した時のものである、といっているが、同時代 0 0 島前の文化財 4 12 52 の道賢の花押も、Aと、B、B’の間には五十年の年月と、執行という社会的地位の変せんがあるので、楠木正儀のように花押に形のちがいがあってもおかしくはない。(五)運筆の上において、Aの花押が左側を円形の中に囲んでいるに対し、B、 0 0 島前の文化財 4 12 58 B’の花押になると、三角形が左に張り出す。しかし、右側の鳥の尾のように下ったところはA、B、B’とのに運筆は一致している。(六)署名、花押ともに、AからB、B’へ(若年から老年へ)と進化の方向をたどり立派になってくることは、 0 0 島前の文化財 4 12 65 五十年間の地位、年令の成長を示すものとして妥協性が認められる。(四)北畠、日野家につながる熊野の道賢。以上で、隠岐の道賢と、米良家の那智山執行の道賢とほぼ同一人物にちがいないということを述べたのであるが、それでは、建武中興ご 0 0 島前の文化財 4 12 72 ろの米良家はいかなる立場にあったであろうか。手許にある僅かな資料で、米良家のすべてをつかむことは出来ないが、知ることの出来る範囲で調べてみた。(一)まず、後醍醐天皇は倒幕に際して、日野資朝、俊基の二人の公卿を抜きてきして勤皇 0 0 島前の文化財 4 13 2 家をつのらせるが、同時に天台宗の円観、真言宗の修験僧ではないかといわれる文観を重用したので、山伏の道賢は真言宗であるから、文観からも天皇につながる可能性はある。(二)次は、建武三年正月、鎌倉から攻め上った足利尊氏は、一時京都 0 0 島前の文化財 4 13 8 を占領するが、間もなく奥羽から攻め上った北畠顕家によって九州落ちを余儀なくさせられる。この時、赤松則村のすすめによって、尊氏は持明院統から院宣をもらうことになる(梅松論)が、太平記の記事によると、この時、都へ引き返して持明院 0 0 島前の文化財 4 13 14 統へ交渉する役目を引きうけたのが、尊氏に同行していた米良家の薬師丸という少年で、後の那智山執行道有である(前記系図参照)。太平記の尊氏の物語りによると、熊野の米良家と日野家は資朝の弟賢俊が持明院統側についたので、薬師丸に使者 0 0 島前の文化財 4 13 21 となって帰京して、日野家を介して持明院統から院宣をもらってくれるように頼む。○将軍都落事付薬師丸帰京事。「此時熊ノ山ノ別当四郎法橋道有ガ末ニ薬師丸トテ童体ニテ御伴シタリケルヲ、将軍喚寄給テ、忍ヤカニ宣ケルハ(今度京都ノ合戦ニ 0 0 島前の文化財 4 13 28 御方毎度打負タル事、全ク戦ノ筈ニ非ズ。倩(ツラツラ)事ノ心ヲ案ズルニ、只尊氏混(ヒタスラ)朝敵タル故也。サレバ如何ニモシテ持明院殿ノ院宜ヲ申賜テ、天下ヲ君与君ノ御争ニ成テ、合戦ヲ致サバヤト思也。御辺ハ日野中納言殿ニ所録有ト聞 0 0 島前の文化財 4 13 33 及バ、是ヨリ京ヘ帰上テ院宣ヲ伺ヒ申テ見ヨカシ)ト被仰ケレバ、薬師丸(畏テ承リ候)トテ、三草山ヨリ暇申テ、則京ヘゾ上リケル」この延元元年(建武三年)の記事は、尊氏がこれを機会に勝因をつかんだものとして有名な文章だが、薬師丸の使 0 0 島前の文化財 4 13 39 によって日野賢俊が持明院統の光厳上皇の院宣を奉じて厳島まで逃げ延びている尊氏を追っかけてきて届ける(梅松論は鞆浦)と尊氏は直ちに「新院の御気色によりて」兵を召することを九州の大友以下の諸豪に伝へて、またたく間に兵を集めて東上 0 0 島前の文化財 4 13 45 し、湊川で楠木正成を破り、六月末には京都で名和長年を討死せしめて都を占領する。尊氏が、このように速かに兵力を恢復し得たのも、まったく光厳院の院宣のおかげであってみれば、薬師丸、日野賢俊の功績は恩賞の第一等である。だから、賢俊 0 0 島前の文化財 4 13 52 光厳上皇によって彼が望んでいた醍醐寺の座主に補され、米良家は足利将軍家の御師として勢力を保つことが出来たのであるが、それでは、何故に日野資朝ほどの忠臣の弟が尊氏の側についたかといえば、建武の中興において、日野賢俊は後醍醐天皇 0 0 島前の文化財 4 13 58 に醍醐寺の座主に補せられるように望んだが容れられず、報恩院の文観が座主に任ぜられたのでこれをうらみにおもい、その後は持明院側に走り、これと血縁関係にある米良家の薬師丸も、恐らく同じような理由で尊氏に同行していたものであろう。 0 0 島前の文化財 4 13 64 しかし、これは建武中興後のことであって倒幕時の元弘の乱当時においては、日野資朝につながる米良一族は、後醍醐天皇のために倒幕に努めたのであろう。(三)次いで、米良家が天皇のために倒幕に協力したであろうと思はれる理由は、永徳四年 0 0 島前の文化財 4 13 70 (一三八四)の道賢の譲状によると、道賢は、建武三年(一三三六)に先師執行祐豪から四十一カ国に及ぶ檀那を譲りうけた中に、伊勢国の檀那として「北畠一族」とか「伊勢之国司御一族不一人漏」とか記さらていることによっても、前々から北畠 0 0 島前の文化財 4 13 75 一族は米良氏の檀那であったことがわかる。北畠といえば、村上源氏の嫡派で、村上通親以来倒幕を目指した大覚寺統の天皇とつながり深い家柄で、後醍醐天皇の妃源親子も親房の伯母だし、その御子護良親王は従兄弟であるとともに、親房の妹は護 0 0 島前の文化財 4 14 3 良親王に嫁して興良親王を生んでいる。このように、熊野那智山の道賢は、元弘三年の倒幕以前の時点においては、山伏の家柄といい、日野資朝との関係といい、また北畠一族との師檀関係といい、歴史の表面には現れないけれども、必ずや倒幕計画 0 0 島前の文化財 4 14 9 においては裏面の立役者であったにちがいない。平素から、熊野の米良氏は北畠一族、あるいは村上源氏の系図をもって、多数の輩下の先達を駆使して師檀関係の名のもとに全国的な連絡網を張っていただろうから、天皇から頼まれれば、どんなに幕 0 0 島前の文化財 4 14 15 府の警戒が厳しくとも全国津々浦々に連絡がついたであろう。道賢の譲状には出雲、伯耆にも檀那がいたと記してあるし、その末筆には隠岐一門などの文字もみえる。だから、天皇がどこへ流されようとも、失望することはなく護良親王を中心に楠木 0 0 島前の文化財 4 14 27 義高の寄進即天皇の寄進でもあろうから、これだけをみても熊野那智山は倒幕に際して天皇に味方をしたことがわかる。そして長年が船上山に挙兵するに当り、隠岐の天皇奪回を手助けするとか、幕府のきびしい警戒網をくぐって挙兵の檄を配布する 0 0 島前の文化財 4 14 32 とか、熊野の山伏が何かのことで名和氏を助けたからこそ、熊野那智山に所領の一部をさいて寄進したものであろう。話はいささか脱線するが、元弘三年一月下旬に、吉野の蔵王堂で破れた護良親王は、村上彦四郎の身代りで、やっと危機を脱するけ 0 0 島前の文化財 4 14 45 、親王は吉野で負けると山伏に身をやつしてそのまま舩上山にやってきたことがわかる。すなわち、親王は、吉野で死んだと見せかけて、こっそりと舩上山にやってきて、はるかなる隠岐島を眺めながら、ひそかに名和長年、大山寺の源盛(長年の弟 0 0 島前の文化財 4 14 50 )、鰐淵寺の頼源らを集めて隠岐の天皇をいかにして奪回するかという計画をねったであろう。だから、軍事研究家にいわせると舩上山は千早城の要がいと似たところがあるというが、いよいよ天皇を奪回すべく主力を対岸の伯耆舩上山に移して、天 0 0 島前の文化財 4 14 56 皇が隠岐を脱出してきたら舩上やまに連れて上り、長期篭城すべく準備をすすめたにちがいない。船上寺は、天台宗大山寺の末寺であるから、山伏の道場であろう。この時、熊野の山伏は、陸路に強いことはもちろん、水軍もお手のものであったから、 0 0 島前の文化財 4 14 63 恐らく隠岐の天皇を救い出すための情報連絡には、最も適していたであろう。(五)日光輪王寺の銅鋺と道賢。米良家文書に記された道賢のほかに、日光輪王寺妙見堂の銅鋺に、延元元年六月三十日(一三三六)、比丘道賢が寄進したということが刻 0 0 島前の文化財 4 14 69 まれていて、同時代に僧道賢がここにも名を出している。この銅鋺は口経五寸、高さ一寸五分、十枚一組で寄進されたものが、一枚だけ今日まで残っていたものであるが、その銘文中に「後醍醐院自号焉」とあるところから、後醍醐天皇の称号は生存 0 0 島前の文化財 4 14 75 中に自から後醍醐と名乗っていたことを証明する資料として、今日でも重文に指定されているというもの。奉施入于、日光山中禅寺、妙見大菩薩、御宝前御器、一具十枚、年延元々丙子、六月晦日、也、当今皇帝、還城再位、預聞、以、後醍醐院自号、 0 0 島前の文化財 4 15 13 焉、当上人大現、大工彦三郎入道、施主比丘道賢、為伝於不朽、自筆耳。この妙見堂というのは、弘仁年間に弘法大師の建立したものだが、日光山の衆徒中から選ばれて妙見堂の奉仕するものを上人といってから、銘文中に「当上人」というのがそれ 0 0 島前の文化財 4 15 23 であり、その名を大現といったのである。また、大工彦三郎というのは、笠置家の同年代の人物と思はれるのに「彦三郎」というのがあるが、道賢とともに同名の人物として注目される。この妙見堂の銅鋺の銘について、日光文庫にいた藤井万喜太氏 0 0 島前の文化財 4 15 29 は歴史公論(昭和十三年)において左のように記している。「(前略)この銅鋺に銘文を手刻して施入した比丘道賢という人のことであるが、これが日光山の住僧であるならば、必ず坊号を記入すべき筈であるのに、単に比丘道賢とのみ記入して坊号 1938 0 昭和13年 島前の文化財 戊寅 4 15 35 のないのは、恐らく当山の人ではあるまいと思う。しかしながらいづくの如何なる人であるか、知る由もないのは遺憾である。(中略)この鴻業の成就には、其の背後に山伏修験の行者が活躍したことを除外したは考えられない。即ちこの道賢も山伏 0 0 島前の文化財 4 15 41 修験の行者ではあるまいか。日光山が完全に南朝の勢力圏内に入って、持明院統の聖恵法親王が退山され、代って、大覚寺統の茲道法親王が入山されて一山を統治した。建武元年頃から当山に足を留めて吉野、熊野、比叡から、北は出羽の三山などへ 0 0 島前の文化財 4 15 47 連絡をとり、北畠親房親子の奥羽経略に絆う、白河の結城宗広等との交通謀義に預った人であろう。是れ必ずしも不当の憶測ではあるまいとおもう」と述べている。たしかに、日光山は奈良時代に下野の行者勝道が修験道の道場を此の地に修めたとい 0 0 島前の文化財 4 15 54 う霊地で、鎌倉時代から座主に皇族を戴くことが始まり、建武中興に及んでは、後宇多天皇の弟、後醍醐天皇の叔父に当る茲道法親王が座主に補せられたところであるから、関東、東北を経略するには絶好の足場であったろう。藤井氏は、ここに銅鋺 0 0 島前の文化財 4 15 61 を寄進した道賢は、恐らく山伏で、しかも北畠親房親子の奥羽経略とタイアップして全国的に歩きまわっているものだろうといっているが、山伏といい、南朝派といい、北畠といい、実に熊野那智山の道賢と条件がピタリである。建武中興時に、いか 0 0 島前の文化財 4 15 67 に山伏が多くとも、御醍醐天皇の還城を祝って、しかも後醍醐天皇が生存中から後醍醐院と自称していたということを知っているほど、天皇に近く、親しみを感じて刻名入りの銅鋺を寄進するほどの道賢という名の僧が二人といるともおもえない。必 0 0 島前の文化財 4 15 74 ずや、熊野那智山の山伏道賢にちがいあるまい。ことに、大工彦三郎は、笠置家系図に同年代に記されているところをみても、天皇の隠岐の苦難時代をしのぶために、わざわざゆかりの人物を隠岐から連れてきて大工としたとおもわれ、「還城再位」 0 0 島前の文化財 4 16 3 の文は、隠岐からの還城を祝う心がよくにじみ出ている。道賢がこの銅鋺を寄進した延元元年六月三十日という日は、都にあっては、熊野米良家の一族である薬師丸によって持明院統の院宣を得た足利尊氏が、都を奪回して、名和長年を大宮にほおむ 0 0 島前の文化財 4 16 9 った日であり、事実上建武中興は破たんをきたし、南北両朝に分かれはじめた時である。南北朝時代は、皇室ばかりでなく、公家、武家、社寺が多く南北の二派に分かれて争った時代であるから、米良一族のみのことではない。しかし、道賢も建武三 0 0 島前の文化財 4 16 16 年から、那智山執行という一山を統治する立場に立つので恐らく何時までも南朝の味方ばかりもしていられなかったであろうが、ことに隠岐においては早くから武家方の勢力が入り、道賢宛ての応安の下分も北朝年号が使われているところをみると、 0 0 島前の文化財 4 16 22 隠岐における道賢の公文卿も北朝系の勢力によって地位を承認されたようである。ついで室町時代になると、本山派門跡の全国廻遊などおこなわれて、地方の修験者は天台系一色にぬりつぶされるから、隠岐の修験者も天台化することになろう。そし 0 0 島前の文化財 4 16 29 て、世は中世から近世へと移ってゆく。(六)近世隠岐の修験道。以上、建武中興において、黒木御所の近くに山伏の道場があって、しかも那智山の米良家の道賢ほどの有力修験者が公文卿を勿、それが北朝年号の応安時代まで笠置家に史料が伝わる 0 0 島前の文化財 4 16 36 とすれば、隠岐の修験道も、その後急に失はれてゆくはずもなく、必ずや後世に何等かのこんせきをとどめるであろう。これを江戸時代の史料によって調べてみると、まず、別府村の慶長四年(一五五九)の検地帳には建興寺という山伏の寺があった 0 0 島前の文化財 4 16 41 ことが記されているが、これが慶帳十八年の検地帳には別府村から、中ノ島の碕村に引越している。そして、貞享五年(一六六八)の隠州記には「建興寺大峯領、畑高拾弐石、是ハ当国山伏ノ先達也、故ニ古来ヨリ如此高被下」とあり、視聴合紀には 0 0 島前の文化財 4 16 48 「当国山伏の本山也」とある。これは室町時代以後、本山派の山伏が全国的に有力になって当山派をおさえて、地方の修験者の道場を天台色にぬりつぶし、「霞」となしたが、その時、国毎に置いたのが「先達」であるから、隠州記や、視聴合紀の記 0 0 島前の文化財 4 16 54 事から察するに建興寺は本山派の「霞」になっていたと思われる。それては、どこの霞かといえば、天保二年の「本山近代先達次第」によって察すれば、室町時代から有力な京都の住心院の霞ではあるまいか。すなわち宮家凖が、「本山近代先達次第 0 0 島前の文化財 4 16 61 」をもとにして作製した「近世における本山派修験者数」によれば、中国地方において天保三年に住心院は隠岐三五人、石見三三人、周防八人の修験者をもっていたことがわかるが、本山派で隠岐は中国最大の霞であった。そうすると、道賢なき後の 0 0 島前の文化財 4 16 68 隠岐は、室町から戦国時代にかけて、本山派聖護院門跡の全国廻遊によって、建興寺は本山派住心院の霞となったのではなかろうか。本山派聖護院門跡のなかには、毛利、尼子、の戦を調停した道増、毛利、豊臣の戦を調停して秀吉の帰依をうけた道 0 0 島前の文化財 4 16 74 澄など傑僧が続出して、政界にまで勢力をふるったが、慶長三年に秀吉没して、徳川氏の時代になると、家康は本山派の優勢をこころよしとせずして、これをおさえにかかり本山派を迫害する。すなわち、慶長七年の真言宗当山派三宝院門跡義演によ 0 0 島前の文化財 4 17 3 る佐渡大行院への金欄地袈裟許可がひき起した本山、当山派の争に端を発し、慶長十七年の修験道法度が出来るまで、家康は本山派の権利を次々に取り上げて勢力をおさえるが、建興寺が碕に移るのもこの時である。田邑二枝氏の談によると、碕にお 0 0 島前の文化財 4 17 9 いて建興寺を助けた渡辺氏は、美作国で毛利氏に亡ぼされ、修験者のつながりで天文年間に隠岐に逃れてきて、秀吉の天下統一によって隠岐に落着いたものだということであるから、渡辺氏が頼ってきたのは羽振りもよく、しかも毛利の手が出せない 0 0 島前の文化財 4 17 15 秀吉に近い本山派である建興寺ではなかろうか。そのうちに渡辺氏は碕で落着くし、建興寺は家康の宗教政策で、別府むらでは立ちゆかなくなり、大檀那たる渡辺氏を頼って、明治の排仏まで江戸時代を碕で過ごしたというわけであろう。江戸時代に 0 0 島前の文化財 4 17 22 、徳川氏の宗教政策から勢力をおさえられたとはいえ、室町から江戸時代にかけて京都住心院の霞として、中国地区最大の本山派山伏を擁した隠岐の修験道は、建武中興当時までさかのぼれば、われわれが想像する以上に大きな勢力であったかも知れ 0 0 島前の文化財 4 17 27 ない。だからこそ、那智山執行という道賢ほどの山伏が笠置家文書に名を現わすのであろうし、また、後醍醐天皇の隠岐脱出という史上に稀な大事件が展開されたのであろう。(了)(付記)この原稿を作成するにあたって、鳥取県史編纂室の浜崎洋 0 0 島前の文化財 4 17 36 三、宮本哲之助両氏に御協力を頂いたので、明記して厚く御礼申上げる次第である。(名和町誌編纂委員)<追書>後醍醐天皇の行在所については、我々島民は別府の黒木御所をそれと信じて疑わない。処が史学者は島後の国分寺がそれだと主張され 0 0 島前の文化財 4 17 44 るが、それはそれでよいとしても、それでは何故島前に伝承があったり神社が出来たり、又島後には伝承が全然ないわけは説明してくれない。さすれば国分寺説なるものも学問的に決定的なものだということは出来ないと思う。其の后に於て新たに発 0 0 島前の文化財 4 17 51 見される資料は「黒木説」を証明する資料ばかりで、「国分寺説」に官するものは一つも槌かされていない。今度寄稿頂いた、富長氏の論文も「黒木説」を補強する資料の新たな発見であり論攷をお寄せ頂いた富長氏に心から感謝し、大方の熟読をお 0 0 島前の文化財 4 17 60 願いする。(松浦) 0 0 島前の文化財 4 17 62 是何叶(地名)−その二−木村康信。釜屋=カマヤ、小向の西の端で塩釜、製塩に関係のある地名であるが、今はそこにある家の屋号と変化している。船越=フナコシ、諸方にある地名で地形から来た名である。船曳=フナヒキ、船越の内、船を曳い 0 0 島前の文化財 4 17 71 いて越しやすい所の部分地名。ひいどし=吹通、で隠岐には多い地名。狭い風通りのよい所の意。菱浦=ヒシウラ、ヒシは崖、岩壁を云ふのでやはり地形から来た地名。 0 0 島前の文化財 4 18 1 隠岐の動物、木村康信。「とぶ、とぶ、しょだら、一ぴょう持って来い。かもよ、かもよ、おまえのあたまに火がちいた、もぐらにゃきえの、もぐりゃきえる。」この様な自然と遊ぶ子供等の唄も一つづつ消えて行く。はじの唄は、鳶、鳶、塩俵一俵 0 0 島前の文化財 4 18 8 持って来い。の意味である。著者も子供の頃鳶に手に持っていた菓子をさらわれて泣いた経験がある。さらうだけでなく塩俵の一俵も持って来いとの意味である。次は鴨よ鴨よお前の頭に火がついたよ、水にもぐれば消えるから、もぐりなさいの意味 0 0 島前の文化財 4 18 13 で鴨は鴨類どれでもよいのだが、主にうみう、に向って唄い、うみう、がもぐれば手をたたいて喜び、なかなかもぐらないと、もぐるまで唄うのである。今では西ノ島でも浦郷にだけ鳶の名前がショウダラとなって残っている。ここでは鳶と呼ぶ人は 0 0 島前の文化財 4 18 19 ほとんどなくて一般にショウダラで湊に群れ止まっている姿は猛禽類のキリッとしたものはなくショウダラの名がぴったりの姿で止まっている。扨て今回は隠岐の々物のあれこれについて書き諸賢の御教示を給りたい。昭和二年一月二一日に象牙一本 1927 121 昭和2年 島前の文化財 丁卯 4 18 25 が三度西方五五キロ水深三〇〇米の瀬で底引網にかかって引上げられた。(浦郷角谷岩信採)これはナウマン象の牙の半化石である。隠岐の動物記としては一寸遠いものの様に思はれるが、同年六月には別府みなとの改修の折海泥中からこれも半化石 0 0 島前の文化財 4 18 31 になったイノシシの奥歯が発見されている。鑑定の結果現代のイノシシの歯より大きく沖積世初期の頃の動物古代イノシシの歯であるとの事である。古い隠岐の事は未だ分らない事が多いが、東京の国立科博物館地学第一研究室の理学博士千葉とき子 0 0 島前の文化財 4 18 37 は島前の地質などの研究を数年来つづけて居られ、その間島前の地質図などの作成もされたが、昨年から今年にかけて島前の地質時代をさぐる為に沢山な動植物の化石を採集し研究室に持ち帰られた。これ等の研究によって又古代の動物も分る事と思 0 0 島前の文化財 4 19 5 いその成果の多からん事を祈っている。隠岐の動物ですでに姿を消しているものがある。有名なのは隠岐馬、鳥類のトキ、海獣のトド鯨の類又は疑問の残る隠岐牛、メメは興味があるがどの様に解明出来るか?又一方では姿を消す心配のあるものがある 0 0 島前の文化財 4 19 11 近年クロ−ズアップされた環境と生物の問題は隠岐も論外ではない。やたらの開発は即自然破壊である。簡単に川堰が出来ただけでも生物の環境は大変になる。即ち川をさかのぼる魚はその道を断たれてしまう。隠岐にはどの川でも見られ戦前は子供 0 0 島前の文化財 4 19 22 植物の根などで巣を作りそこに産卵し営巣中は他の魚を近ずけない様に他の魚に攻撃をしかけるなど面白い習性のある魚であるが近年は堰が作られるとか農薬などの害を受け大変に少なくなっている魚である。昨年は美田の川に数十匹の群がきていた 0 0 島前の文化財 4 19 28 が堰がある為溯上が出来なかった。この川にはアユも来るが昔の様に上流へはアユも溯上出来無くなっている。元島根大学教授農学博士上田常一氏はこの美田の川に住む手長エビは南日本に分布するミナミテナガエビで学問上大変貴重だからよく分布 0 0 島前の文化財 4 19 34 を調べて保護する必要があるといはれ調査に入ったが昨年の旱ばつであきらめた。堰といい川の改修といいここに住む動植物の事は考えていない。一つの堰の為に改修の為に自然が失はれる場合がある。ミナミテナガエビの標本は又作る気で隠岐高校 0 0 島前の文化財 4 19 39 に寄贈したので高校の生物標本室のものだけになった。このエビの♂は体長八センチ位にもなり第二胸脚のハサミのある長い手は一六センチにもなる特徴のあるエビだ。夏になると子供は川原でこのエビを捕って遊んだ。水の中の石垣の穴をよく見ると 0 0 島前の文化財 4 19 45 例のヒゲが動いていて分る。餌を穴に近ずけるとハサミのある長い手がのびて来る餌を少し後に引く子供は作業中だまってはいない。出て来りゃうまいものやるから、、、とか、いい子だとか友達に話す様にして、だましだまし引出したエビを手づか 0 0 島前の文化財 4 20 3 みにする。♀の方は体もハサミも細く短い。だが今はみられない。海の貝も姿を消したものがある。昭和のはじめ頃島後中村海岸の砂浜にはナマグリが多かった。夏、採集旅行に出かけ中村の米屋に宿をとりすぐに海へ出て泳ぐ一メ−トル位の深水の 0 0 島前の文化財 4 20 9 所で脚先で砂の中をさぐると貝が出て来る足指ではさんで拾う、沢山とれる、これを宿で賞味したのは今は夢、今はこれに似た瀬戸内の貝が養殖されている島前でも外浜あたりにいたのが早くから消えてしまった。船引運河が出来て環境が変化してし 0 0 島前の文化財 4 20 16 まったからであろう。この外浜の貝の消えようはひどい。最近運河の改修がつづけられているので潮流の変化冬場砂の大移動する事なでがその原因と思はれる。海の荒れた翌日は貝拾いの楽しみがあった外浜の東半分は貝がらの砕けた砂で白く西に行 0 0 島前の文化財 4 20 21 くと砂鉄チタンなどを含んだ黒い砂で出来ていた。その浜に貝が打ち寄せられて汀線に縞紋様が出来ていた。サクラガイ。ベニガイ美しく砂で磨かれた宝貝類キシャゴ、カツラガイ、シラタマツバキ、ウラシマ、小さいチグサガイ、シドロ、スダレ貝 0 0 島前の文化財 4 20 27 等色々で、ハマグリの貝を拾ふと膏薬や気付薬の匂をふっと感じ又一方の貝をさがしたがなかなか一組事はなかった。しかし今は砂上の貝はほとんどないと云ってよい。こぐ、たまにベニガイなど見る事があってもキシャゴなどはない。内海の貝も 0 0 島前の文化財 4 20 38 堀るとウチムラサキの貝殻が多く出るが生きたものは見ない。オオノガイもあまり見ない、この様な大形の二枚貝から姿を消して行く様だ。女の子の鳴して楽しむウミホホヅキを産むテングニシも見られない。アサリたオニアサリも油臭くなっている 0 0 島前の文化財 4 20 44 これ等の敵であるツメタガイもめっきり少くなってしまった。海洋の汚染は内海から進んで居る様だ。アサリの油臭さは漁船の廃油の様だ。海岸なでのごみの中にラジオ、テレビ、洗濯機などのある処もあるのでPCBなどの汚染も考えられ、まだま 0 0 島前の文化財 4 20 50 だ汚染源も多い。開発と云ふ名の自然破壊は着実に進んでいる。陸上動物も同じ事が云える。島後のムカシトンボも昨年の旱天が心配だ。乱伐で谷川が干上っていたとしてら、特殊な環境を必要とする昆虫だけに保護もむずかしい。大久奥山などにい 0 0 島前の文化財 4 20 55 たル−ミスシジミも必配になる数年前隠岐の植生図作成の為の調査に出かけた時は一面に広葉樹は伐られ針葉樹の植林地になっていた。昆虫の内特殊な植物を食草に持つこの様な蝶は環境変移に大変に弱いものである。隠岐も植林が進んで来た。白砂 0 0 島前の文化財 4 20 61 青松の浜はよいが、松ばかりの島になってはこまる。古い隠岐の島は主として照葉の広葉樹林で覆われていた。それが次第に人手が加へられて落葉樹が多くなり材のよい松杉類の植林が進んで来た隠岐の島々には小さい方から手入が行届いて針葉樹の 0 0 島前の文化財 4 21 2 単純林に衣更して来た。その間に姿を消した動物は多いと思はれる。例えば中ノ島のオシドリがある。この鳥は渡り鳥であるが餌が普通の鳥と異りシイ、カシ、ツバキなどの実を食べ巣も木の穴などを利用するので環境の変かに適応出来ず姿を消して 0 0 島前の文化財 4 21 7 しまった。キツツキも姿を消した。中ノ島ばかりでなく知夫島も西ノ島も同じ途をたどっている。とんがらす、とんがらす。米がほしけりゃ田作れ。田作りゃ足がよごれる。よごれりゃ洗え。洗やつんて。つんたけりゃあぶれ。あぶりゃあつい。あつ 0 0 島前の文化財 4 21 14 けりゃあとよれ。あとへよりゃのみが食う。のみが食やころせ。ころしゃいたわし。いたわしけりゃだいてね。だいてねりゃなをかむ。この童唄は特別天然記念物で現在に極めて少数しが残存せすそれこれ絶滅寸前の鳥ニポニカ、ニッポンの学名のあ 0 0 島前の文化財 4 21 20 るトキのものである。著者が観察したのが最後で昭和十二年の秋美田小向の田圃で四羽来ていた。古老の話しによると大正の始め頃までは神社なでの大松山間の水田附近の大松なでには群をなして棲息していたとの事であるが、鳥の習性と環境の急変 1937 0 昭和12年 島前の文化財 丁丑 4 21 25 によって姿を消してしまった。現在隠岐のトキは美田小学校の標本室に風切羽数本を残すだけになっている。このトキと同じ途をたどると大変だと思はれる鳥にカラスバトがある。昭和四九年二月二二日付山陰中央新聞に松江市の人で鳥類生態研究家 1974 222 昭和49年 島前の文化財 甲寅 4 21 31 の根岸啓二氏が山陰の鳥カラスバトにつき次の如く書かれている。欧産ウッド、ピション(森鳩)の日本版とも云ふべきもので本邦ハト中の最大型、普通ハトの倍近い、全身真黒でカラスのようだ。とはいっても羽艶のバラ紫が美しく頚部は錆緑、嘴 0 0 島前の文化財 4 21 37 の浅黄色は果実バトの特性を示すカラスバトは南域温帯島嶼主産のもので伊豆七島や琉球列島薩南諸島にかけて分布するものの九州五島や対島、済多島、隠岐佐渡にもいるだけに、これの天然記念物指定地域に漏れた隠岐に関する文化庁見解を糺した 0 0 島前の文化財 4 21 43 らウヤムヤに握り潰された。隠岐方言のクロバトはツバキや椎樫の実を啄み性過敏で人を寄せつけぬ、鈍重のゆえに狩られて僻島にのみ残った島とは思えない、一卵しか産まないので増えない。絶やしてならぬ島である。と。根岸氏の指摘の通りの鳥 0 0 島前の文化財 4 21 49 であるが食物が特殊であるだけに、現在の植林が進めばそれも針葉樹を主としているので広葉樹が少くなれば致命的な打撃を受けてしまう。隠岐では現在未だ椎樫ツバキ、タブ、ヤブニッケイ、アブラギリなどの餌の成る木々は残存しているので相当 0 0 島前の文化財 4 21 55 数のカラスバトを観察する事が出来る。今ならば打つ手があるがなかなか思い通りにはならない。このカラスバトについての生態には分らない事が多い、先ずいつごろ巣作りつるか。どんな巣を作るのかよく分からない。書物によると常緑広葉樹中の 0 0 島前の文化財 4 21 60 地上一、五メ−トルから七メ−トル位の高さの木の枝や木の洞穴に木の枝など荒く組合せ浅い皿形の巣、二四センチから三五センチ径のものを作る。二月から九月頃純白の卵(四二mm×三〇、五mm)を一個産卵するとある。しかし木の実のない時に何 0 0 島前の文化財 4 21 60 地上一、五メ−トルから七メ−トル位の高さの木の枝や木の洞穴に木の枝など荒く組合せ浅い皿形の巣、二四センチから三五センチ径のものを作る。二月から九月頃純白の卵(四二mm×三〇、五mm)を一個産卵するとある。しかし木の実のない時に何 0 0 島前の文化財 4 21 66 を餌とするか何でひなを育てるかなど分からない事が多すぎる。この様な事であるから諸賢の観察など多数の方々の御力添がないかぎり解明出来ない事である。本年はじめて西ノ島町のカラスバトのカラ−写真を見る事の出来たのは島前教委の森淑子 0 0 島前の文化財 4 21 71 焼火 氏の努力の結果であり大変有難い事である。隠岐島の内西ノ島焼火山の一部がカラスバトの棲息地として特別保護区の指定をうけてはいるものの充分ではない。話題を変えてこれは多くてこまる方ではオキノウサギ、隠岐野兎でこの名のつく由来につ 0 0 島前の文化財 4 21 78 いては次の様ないきさつがある。明治三七年英国の動物学者でもあるベッドフォド侯ラッセルが東亜の小型哺乳類を採集する為に探検隊を送った。この企に従事した米人アンダ−ソン兄弟が隠岐に来たのは明治三八年六月末で、西郷−中条−都万など 1905 0 明治38年 島前の文化財 乙巳 4 22 5 で採集し七月中頃迄滞在した。この時の採集品の中にこの兎があって、日本本土普通の野兎に比べて背の毛色が濃く腹毛が殆ど純白な点が外見の違いで、体形も一般に小型で島嶼型の亜種とされている。しかし体型、毛色などは個体差があるようであ 0 0 島前の文化財 4 22 11 る。隠岐野兎で時々真白な兎が見つかるがこれは他の動物でもよくある白化現象で普通の兎にある色素が欠け白毛となり目を見ると特有の赤目をしている。近年野兎の数が激増している。少し奥まった植林地の被害は大きい。積雪時に観察すると野兎 0 0 島前の文化財 4 22 16 の通過した足跡がよく分るし、林地に入って見ても兎の道が縦横に通っている事が分る。野兎の習性として自分の通り道を作るからである。繁殖は年二回春秋で冬期雪中の足跡を見ると小型のものがあて秋仔がいるのが分る。春仔は早いのは一月頃か 0 0 島前の文化財 4 22 22 ら産まれるのではないかと思はれる。今年二月中旬山道で小型のタカかオオコノハヅクかに襲撃されたものと思はれる仔兎の約一センチ位の鼠色の毛の散乱しているのを見た。これは春仔のものだ。春仔については色々の思出がある。大正の頃子供の 0 0 島前の文化財 4 22 28 仕事に牛を連れて野に出る事があった。近くの牧場に手をひき連れ見晴らしのよい草原で子供等は思い切り大声と体を動かして遊ぶ、ふと気がつくと仔兎が二頭小松の蔭から出てタンポポの花などを器用に食べている。オ−イ兎だぞと、何のことはな 0 0 島前の文化財 4 22 39 類?犬などが主たるものである。野兎は又この害を防ぐ為に夜分に行動する事が多い。扨てこの天敵、生物のバランスを保つ一つの鍵である隠岐での天敵の方を観ると現在までに記録されているものは次の通りである。ノリス。イヌワシ。クマタカ。 0 0 島前の文化財 4 22 44 ハイタカ。ツミ。トビ。オジロワシ。ハヤブサ。チョウゲンボウ。コチョウケンボウ。の十種が主役者なのだが、この内常に見られるものといへばトビ位のもので他の鳥の姿を見る事は極く稀れでハヤブサ、ツミの姿を時たま見る位である。一昨年 0 0 島前の文化財 4 22 50 西ノ島大山区有林上空でイヌワシらしき姿を見たものの確認出来なかった。オジロワシについては一九六六年国賀で川本貢功氏が撮影し確認されてはいるがそれ以来の話しは聞いていない。これも大正年代まではそんなに稀れでなく子供時代犬を連れ 0 0 島前の文化財 4 22 56 て兎追いに行き兎はオジロワシに横取りされ犬は尻尾を巻いて人犬共に薮の中に頭を隠すような経験やら、漁師が投げヤスで岩上のワシを刺して捕ったのを大桶に入れて飼っていたのも見た。天敵の減少する原因は種々あろうが主要なポイントは食糧 0 0 島前の文化財 4 22 61 にする鳥獣の減少で、その鳥獣の減少も単純に針葉樹化する隠岐の自然に適応出来ないからである。自然の環が破れるとアンバランスが生じ、盲点に増殖現象も生じて来る。野兎の分布を一月から二月初めにかけて一寸調べて見た。約一ヘクタ−ルに 0 0 島前の文化財 4 23 4 どれ位の兎が出て来るかを目標にした。県道に近い平地植林地は一頭の足跡も、通り道も見つからない。標高二〇m位の県道添い植林地では二頭位。県道より一キロ入った林地植林もある所では二二頭。二キロ入った奥地では四四頭もの通過足跡を観 0 0 島前の文化財 4 23 9 る事が出来た。五年位前までは西ノ島でも東部地区では野兎は全滅したのではないかと思はれる位激減していた。この原因は不明である。激減といい激増といい不安定な事は事実である。隠岐島でも知夫里島と中ノ島にはこの野兎は棲息しない島が狭 0 0 島前の文化財 4 23 15 い為外敵から逃れる事が出来なくて消えたのか?ところが知夫里島では野兎ならぬタヌキが激増して現在駆除の為三人のベテランが許可を得て捕獲中である、目標四五〇頭。野兎と同じ様にタヌキも同じ通り道を通るらしく谷間の林中を通って見ると 0 0 島前の文化財 4 23 21 縦横に兎道ならぬタヌキ道がある。タヌキは雑食性で植林にはあまり害はないもののこの様な増殖では農作物の害はひどい。夜行性で別に天敵らしいものもいないとなると、いやでも増殖する。知夫里島のタヌキは毛皮用の飼狸が脱走したものと聞い 0 0 島前の文化財 4 23 26 ている。次に増殖で問題になているのが島のキジ。島後の方が先輩だ。数年前に中村で早朝白島岬の植物を観察に出かけた西村をなずれ少し行くとチャボメメのような声を聞いたのでこの様な所に家はない不思議な事もあるものと思っていると又鳴いた。 0 0 島前の文化財 4 23 33 これでようやくキジの放たれている事を思い出したが、行くにつれその数の多いのに驚いた。島前でも西ノ島は数回に恒って放たれた。はじめはコウライキジが放たれたが成功せず、それからはキジだけのようにである。コウライキジは頚に白い輪模 0 0 島前の文化財 4 23 38 様があるので分かりやすい。知夫里島へも中ノ島へも渡ったのが見かけるそうである。西ノ島では昨年頃から増して来問題をおこしている。ところが西ノ島はほとんどが牧場になている為に狩猟期になっても牧場側の特別の許可がないと狩が出来ない 0 0 島前の文化財 4 23 44 温暖な島だけに年中放牧されている所もあって狩猟もなかなかむずかしい。これが又農作物を荒すからこまる。人家近くでも営巣する一巣に十三個もの卵を抱くから増し出したら大変な数になる。この様な新入者は増し出したら爆発的である。バラン 0 0 島前の文化財 4 23 50 スを持たないから、休耕田にはえたホウキギクの様に、植物も増殖するものがある。今年はよい年でありますように毎年を祈るのだが昨年は旱天つづきで大変な年であった。水田の稲は枯れる。川の水は干上ってしまうし、人も飲料水に困るほどであ 0 0 島前の文化財 4 23 55 ったが。雪が降り、積り、梅雨のような長雨などがあって山々に水が湿り、やがて小川にも水が浮き少しづつ動き川が生きて北。だがあの食用ガエルのジャイアントオタマジャクシの姿はない。いつもだと早々に子供達の目に蛙の卵が発見される頃だ 0 0 島前の文化財 4 23 61 がそれの気配さえない両棲類にとって大変な年であった。オキサンショウウオ。これは隠岐でも島後の山中の渓流だけに幼生は棲息し成体になると水中から出て落葉下の動物を餌に生活しているので久しくその成体は島後の人でも知る人は少なかった。 0 0 島前の文化財 4 23 67 広島文理科大学動物学教室の佐藤井岐雄教授がこれの研究に来られ著者も同道してこれの生態研究を見聞する事が出来た。たしか研究の結果命名されたのは昭和一五年であったと思う。島後の子供はアシゴズなどと水中の幼生の事を呼んでいる、これ 1940 0 昭和15年 島前の文化財 庚辰 4 23 73 は魚のゴズのようで四本の足があるからで、著者が中条中学に勤務中生徒が生体の事を話したらある雨の日生徒が傘の中にこれを入れて学校へ持って来た。噛みつかれたら大変とひどく痛めつけていたが事情が分ると次々と捕って来た。今まではイモ 0 0 島前の文化財 4 24 1 リと混同していたようであった。その当時佐藤助教授は島前にも棲息するのではないかと西ノ島を主として調査されたが島後の棲息地と差異が多く恐らく棲息せずと学者らしい判定を下された。筆者の知るかぎり隠岐の両棲類の研究は未完のように思 0 0 島前の文化財 4 24 7 ふ。この島の蛙はヤマアカガエル、ニホナマガエル、ツチガエル、この三種は島後、島前共通で島後にはこの上シュレ−ゲルアオガエル。がありアカガエル中に疑問が残る。蛙の中にも白化現象があってアマガエルの小さいのにこれを発見した。純白 0 0 島前の文化財 4 24 13 でなく淡い黄色を帯びたものであった。今まででは雀にもこれを見たが弱い為か成体の成熟した姿のものは見た事がない。上記両棲類の健在を祈るような気持ちで筆を進めている。天候に変かがあれば生物にも変化が起る一時ニ−スを賑はした例のア 0 0 島前の文化財 4 24 13 でなく淡い黄色を帯びたものであった。今まででは雀にもこれを見たが弱い為か成体の成熟した姿のものは見た事がない。上記両棲類の健在を祈るような気持ちで筆を進めている。天候に変かがあれば生物にも変化が起る一時ニ−スを賑はした例のア 0 0 島前の文化財 4 24 19 トリ隠岐にも来たが、あの様な大群ではなかったが隠岐では珍しい事であった。田圃を群舞する羽音は小鳥のものとも思えないほどで統制のとれた舞い振でしばらくいたが小群となりいつしか見えなくなった。以前この様な群れで来たものにニュ−ナイ 0 0 島前の文化財 4 24 24 雀があったがその後その姿はあまり見なくなった。数年前には海に游泳するヒレアシシギの類の大群数千羽が美田湾に入って来た事があって内数十羽が電線にあたって事故死した事があった。例年春三月二十日頃からツバメの姿を見るが早い年には三 0 0 島前の文化財 4 24 30 月七日に来る事がある。イワツバメである。この様な早い年にはいつもの様にその後急に寒くなるのだが今年も三月九日に来た、一一日にはウグイスの初音も聞いたが一二日からは急な寒波で冬から春にかけて最低の寒さで積雪もあった。ツバメは完 0 0 島前の文化財 4 24 36 全に避難したのやら。以前三月七日の時は美田小学校の二階などに大群で避難し、寒さに死ぬものもあった。近年野菜を食害する野鳥が多くなった。キジバト、ヒヨドリ、スズメ。狙われる野菜はカンランが一番で白菜の類が二番目スズメはホウレン 0 0 島前の文化財 4 24 42 草まで食う。ヒヨドリは体も大きく食餌にも困ると見え命がけで網を張っても中へ入り込んで来る。スズメは集団でカンランなど筋だけにしてしまう。(未完)(島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 4 25 1 三度考。{隠岐島前のわらべ唄「正月つぁん」を中心に、三度が聖地であることを考える。}酒井董美。一、三度への興味。最近はきかれなくなったが、ひと時代までの子どもたちは、正月の来る喜びを「正月つぁん」に託してよく唄っていたものだった。 0 0 島前の文化財 4 25 9 唄といっても特定の作者によって、作りあげられた唱歌などではあなく、それは自然発生的にいつからともなく唄いつがれてきたわらべ唄のことである。隠岐、島前地方でも、この正月つぁんの唄」が以前には盛んにうたわれていたらしく、今でも壮 0 0 島前の文化財 4 25 15 年以上の方々に聞けば、かなりの確立で教えてもらうことができる。筆者は四十八年度の人事異動で隠岐へ来たのであるが、同年六月六日に初めてこの唄を聞くことができた。海士町御波部落にお住いで、昭和三年生まれの濱谷包房氏からうかがった 0 0 島前の文化財 4 25 21 その唄は、正月つぁん、正月つぁん、どこまでござった、三度のかどまでござった。というのである。三度というのは、隣の島、西ノ島町三度部落のこであり、筆者はこの「三度」のことばに強く興味をそそられたので、以来、機会があれば同類を捜 0 0 島前の文化財 4 25 28 すことにしたのである。二、島前の唄はいずれも「三度」。海士町は島前三島のうち中の島にある。その後、同類を崎、保々見、多井、東、福井の五部落について知ることができたが、いずれも「三度」の地名は共通していた。それでは島前の他の島 0 0 島前の文化財 4 25 35 はどうだろうか。中の島や西ノ島から定期船で、それぞれ約五十分かかって知夫里島、すなわち知夫村に着く。ここでは仁夫里、古海の二例しか知らぬが、やはり「三度」の名は存在していた。仁夫里の場合を同地出身の松谷ハナさん(明治34生、 0 0 島前の文化財 4 25 41 西ノ島珍崎在住)にうかがった。正月つぁん、正月つぁん、どこまでござった、三度のかどまで、削り箸い餅を刺いて、カンブリカンブリござった。おそらく、同島の他部落でも同様ではないかと思われる。このことは、三度部落のある西ノ島でも同 0 0 島前の文化財 4 26 3 じことがいえる。赤之江部落の場合を川崎イシさん(八十八歳)は、正月つぁん、正月つぁん、どけまでござった、三度のかどまでござった、徳利にゃ酒を入れ、重箱にゃ餅を入れ、トックリトックリござった。と教えてくださったが、浦郷、珍崎両 0 0 島前の文化財 4 26 11 部落でも「三度」の部分は共通しているのであり、他部落もまた同じと見てよいのではなかろうか。三、三度部落を訪れて。それでは、肝心の三度部落のここの部分はどうなっているのだろうか。確認のため、筆者はこの部落へ出かける必要を感じは 0 0 島前の文化財 4 26 19 じめた。地図で見れば、西ノ島の他の部落はすべて東側に連っているが、この三度部落のみは裏側にあり、しかも島前地方でもっとも西端に孤立した姿で位置しているのである。去る十一月十八日、まだ見ぬ三度部落に思いをはせながら、筆者は車を 0 0 島前の文化財 4 26 24 走らせてみた。赤之江から山中の舗装路にはいる。途中、放牧された牛たちが、道路に群れ遊ぶ姿に牧歌的な情趣を味わいながら十分もとばすと、目ざす三度部落に着く。戸数七十弱、人口二百余り、浄土信仰の厚いこの部落は、晩秋の冷風の中につ 0 0 島前の文化財 4 26 30 つましくその姿を見せていた。中央を小川流れ、西側の山に攻められたためかわずかな家並が小川に平行して走り、そのまま青凪の浜にいたる。この間、三百メ−トルもあろうか。浜にはコンクリ−トで固めた湾壁がある。その内側にいくつかの漁船 0 0 島前の文化財 4 26 35 が並び、外側にはわずかな砂浜が続く。狭い湾の両岸は、そのまま低い山脈が延び、その先は日本海である。そして、このコンクリ−トの湾壁のみが、周囲の調和を破って異様に見えた。しかし、それを除けば「正月つぁんの唄」の舞台にふさわしい 0 0 島前の文化財 4 26 41 漁村のたたずまいであった。筆者は、たまたま出会った部落の古老とおぼしき方に「正月つぁんの唄」を尋ねてみた。元教員で七十七歳の萬田丈太郎氏がその人である。氏は往時を回想されながら、即座にこう教えてくださった。正月つぁん、正月つぁん、 0 0 島前の文化財 4 26 49 どこからござった、浜からござった、重箱に餅を入れ、徳利に酒を入れ、トックリトックリござった。氏の唄には「三度」の語はなかったのである。そして「正月つぁん」は、はるかなる海を越えて浜へ到着し、そこからこの部屋へやって来ることに 0 0 島前の文化財 4 26 57 なっていた。(後日、萬田半次郎氏〜明18生〜からうかがった唄では「三度」の語ははいっていた。)四、歳神信仰との関係。島前地方では「正月つぁん」は、まず三度部落までやって来ると考えられていた。そして、その三度部落では「浜からご 0 0 島前の文化財 4 27 4 ざった」としている。つまり、正月ははるか彼方から海を渡って三度へ到着し、さらに島前の各地を訪れるのである。知夫村の例を教えてくださった松谷さんは、「カンブリカンブリござった」の「カンブリカンブリ」が、海の波の上を渡るときの感じ 0 0 島前の文化財 4 27 10 を意味していると解説されたし、海士町崎部落の丸谷さん(明30生)は問題の部分を「三度の浜までござった」と唄われた。「正月つぁん」の海上渡来説は複数で証明されていると見てよいのではなかろうか。ここまで考えてくるとき、わたしたち 0 0 島前の文化財 4 27 16 は歳神信仰とこの唄が密接な関連のあることに思いいたるのである。簡単に歳神信仰を眺めてみよう。正月訪れる神、すなわち歳神をトシトコさまという地方は多く、ここ島前でもその例に漏れない。家々では主人を中心に床の間にトシトコ柵を作り、 0 0 島前の文化財 4 27 23 数々の飾りをつけ、この神を歓迎する。ここがトシトコさまの滞在場所なのであり、わが家にこの神が滞在されているしるしとして、家の前には門松を立てる。神が去ると飾りおろしとか柵おろしなどと称して、正月のシメ縄をはじめ、柵の飾りもお 0 0 島前の文化財 4 27 28 ろされ、門松とともに聖なる火、トンドで焼かれるのである。したがって、トンドの残り炭を身体につけると病気にかからぬとか、トンドで書き初めを焼き、それが高く舞いあがると、習字が上達すると思われている理由もそこにある。このようなト 0 0 島前の文化財 4 27 35 シトコさまは、先祖の霊(祖霊という)が年頭にあたって、子孫の住む現世を訪れ、子孫たちの怠情を戒め、人々に豊作や豊漁を含めた幸わせを授けるものとされている。秋田県男鹿半島に伝わる有名なナマハゲの行事も、その変形と見られるのでる。 0 0 島前の文化財 4 27 42 ところで、祖霊の住む国はどこかといえば、普通の人の行けぬ海のはるけき彼方のトコヨ(常世)の国であるという古代信仰をあげねばならぬ。このことは折口信夫博士の「妣が国へ−常世へ」−「折口信夫全集」第二巻(昭和40、中央公論社刊) 0 0 島前の文化財 4 27 47 −に詳しい。要するに「正月つぁん」は、年改まって来訪する豊作、豊漁の神でもある。「トシトコさま」の異名であることを、ここでは強調しておきたい。唄に見られる正月つぁんは、マツリゴトの必需品である酒と、ハレの日の食物たる餅を持っ 0 0 島前の文化財 4 27 54 たり、あるいは食しながら、また、知夫村のように正月のみに用いられる歳箸である削り箸に、餅を刺したりしながら、カンブリカンブリ海を渡って来るのであった。以前の人々の心に描いた歳神トシトコさまの姿が、まさにそこにあったのである。 0 0 島前の文化財 4 27 60 五、「三度」聖地考。(イ)諺と三度。最後に残された問題は、島前の人々がどうして「正月つぁん」の上陸地に三度部落を選んだかということである。ともかくも、かなり離れた三つの島の人々がこぞって、「三度」を推することは、偶然の一致な 0 0 島前の文化財 4 27 67 どという体のよい理由ではかたずけられぬ何かがあるに違いない。島前に移り住んで一年になったばかりの筆者には詳しい事情はわからぬが、ただ、次のことだけは主張できそうである。隠岐地方一帯でよく使われる諺に「三度とボンノクダは見たこ 0 0 島前の文化財 4 27 73 ことがない」というのがある。ボンノクダというのは、後頭部を意味する方言であり、なるほど後ろに目のないわれわれは、自分の後頭部を見ることはできぬ。そして、このことと同様、三度部落をみる機会も特別に作らぬ限りはなく、他部落から孤 0 0 島前の文化財 4 28 3 立した、しかも、島前で最西端にあるこの部落へは、めったなことでは行かれないという意味をこの諺は持っている。つまり、島前地方の人々から見て、この三度部落は未知に近い辺境の地であり、それゆえに自分たちの住む地域とは異なった何かが 0 0 島前の文化財 4 28 8 あるのであはなかろうかという期待感が、神がまっさきに来臨される聖なる地としてのイメ−ジに、飛躍したに違いないのである。(ロ)潮流との関係。そして、それを助けるいまひとつの有力な事実がある。三度部落の古老、萬田丈太郎氏からもう 0 0 島前の文化財 4 28 15 かがったが、それは潮流の関係で、ソ連人や朝鮮の漁民なでが難船して、この部落へ流れつくことが、ときおりはあるということである。時代をずっとさかのぼって、このことを考えてみよう。ことばも風習も違い、ときとしては肌色のまったく異る 0 0 島前の文化財 4 28 21 異邦人が、しかも、高い大陸文化を持って漂着したとなるとどうだろう。古代信仰を厚く信じていたはずの素朴な以前の人々にとって、それがマレ人たる祖霊の来臨に結びつくのは容易であり、またそれはごく自然なことなのではなかろうか。(ハ) 0 0 島前の文化財 4 28 27 西方浄土観との関係。また、三度部落が島前で最西端にあるという位置的条件から来るものに、仏教の西方浄土につながる考え方があるのではなかろうか。西方浄土とは、いうまでもなく、死後の極楽の世界は西方にあり、それを浄土とする観念であ 0 0 島前の文化財 4 28 33 る。三度部落が最西端にあるという事実は、西方浄土に一番近いということを意味しており、古人たちにとっては、浄土観と常世観の混交も別に不思議はなかったものと思われる。そのようなところから、ここが祖霊の上陸地たりと信ずる気もちは、 0 0 島前の文化財 4 28 38 さらに強まってくるのであろう。(ニ)地蔵、才の神、踊り。いまひとつ愉快な理由をあげておきたい。赤之江部落と三度部落の境にあたるところには地蔵があり、それには特別な風習が存在していた。それは三度部落へ初めてはいる人々は、必ずこ 0 0 島前の文化財 4 28 45 の地蔵の前で踊りを踊らなければならぬと言われていたことである。(西ノ島町立美田小学校長、松浦義武氏のご教示による。氏は以前三度小学校に勤務していた。)問題の地蔵は旧道にあり、昭和三十四年に現在の道路が開通してからは、ほとんど 1959 0 昭和34年 島前の文化財 己亥 4 28 50 通る者もなくなり、いまは完全に忘れ去られた存在になっている。筆者は、三度部落の守護神としての才の神的な性格をこの地蔵は投影していると見たいのである。そして、さらに大胆な推論を下すなら、以前は地蔵ならざる、才の神自体がそこにあ 0 0 島前の文化財 4 28 57 ったけれども、長年にわたる神仏習合の結果、仏教信仰の強い当地の影響で、いつしかそれが地蔵に入れ替ったのではないかと考えたい。才の神は、元来、部落を守護したまう祖霊的性格の一面を強く持っており、たいていは部落や村の境に祀られて 0 0 島前の文化財 4 28 63 いた。ところが、ここの地蔵も部落の入口に位置していたのである。筆者はこの点からも才の神と地蔵の交替支持の理由を見るのである。そして、いまひとつ有力な理由は、前述のように聖地たる三度への初訪問者は、必ずこの地蔵の前で踊りを奉納 0 0 島前の文化財 4 28 75 な風習は、はるか以前にあって、多分、他部落を初訪問する際の儀式として、一般化していたものではなかろうか。それが当地では、聖地より強く意識するゆえに、他ではとっくにすたれたこの風習も記憶され、続けていたのではないかと思われる。 0 0 島前の文化財 4 29 5 そして、才の神が神仏習合の風の一般化にともない特に強力な浄土宗の支持者で固まっていた当部落の影響で地蔵へと転換されたのだと推論したい。話は横道へそれずぎたが、重要なのは初めての訪問者は、まず、地蔵の前で踊りを奉納しκければな 0 0 島前の文化財 4 29 13 らなかったという点である。このことは、さきの説明のように、三度が聖地であると信じられていた証拠と見てよいのではなかろうか。(ホ)田植え唄と「三度」。三度が祖霊の最初の上陸地として考えねばならぬ理由を、これまでいろいろあげてき 0 0 島前の文化財 4 29 18 たが、次にやや角度を変えて、「三度」の地名自体について考察を加えてみたい。三度の意味を文字通り素朴に解すると、三回ということになる。ここで気にかかるのは「三」の数字である。いうまでもなく「三」は聖数であり、それゆえに幸運をこ 0 0 島前の文化財 4 29 24 めた尊い数として古来から知られている。祖霊来臨の地たる、ここ三度の「三」もこれと無縁ではないように思えるのである。話はかなり飛躍するが、これは島根、広島両県を中心に、昔から伝承されている田植え唄に見える「三度(さんど)」の語と、 0 0 島前の文化財 4 29 30 どこらつながりがあるように思えてならない。手元にある「邑智郡誌」から、試みに二つばかり関連の部分をとり出してみる。三祓と云ふ神は三度まつる神やれ年徳に、たなばたに、三度まつる神やれ三度祭った三社の神よ。日貫村−P719− 0 0 島前の文化財 4 29 38 さんばいとさんばいと三度まつる神やあれ、年徳に三はいに秋は七夕にのに、何と三ばいみこしのせてのう、三度まつりてよいたなばたにのう。清水屋の田植歌集(矢上村字後原)−P補79−(いずれも傍点筆者)田植え唄は、祖霊である田の神サ 0 0 島前の文化財 4 29 44 神楽 ンバイを田へ勧請して秋の豊作への祈りをこめる神事としての、田植えに唄われるものであり、したがって、それは神に拝げる賛歌の意味を持つ。さらにいえば田植え唄は、神社信仰における祝詞、あるいは神楽歌に相当するものといえるであろう。 0 0 島前の文化財 4 29 50 また、前に引用した唄を含んだサンバイの由来を説く、「サンバイオロシ」なる一連の唄は古風を留め、田の神の性格をさぐる上で非常に重要なものとされているのである。そして、重ねていうが、田の神サンバイは祖霊であり、歳神トシトコ(つま 0 0 島前の文化財 4 29 56 まり「正月つぁん」)の季節に応じて変化したものと考えられているのである。この田植え歌をみると、田の神は「三度まつる神」とされている。すなわち、田の神サンバイ、歳神トシトコ、そして七夕の神と三態の現われ方をするというわけである。 0 0 島前の文化財 4 29 61 しかし、現実の民間信仰においては、祖霊は三回しか変化しないのであろうか。もちろん否である。春秋二回まつられる社日さま、旧暦十月の亥の子神、そのほか、火の神オカマさまなども、同じ祖霊の別の面をいったものである。それでは、神事歌 0 0 島前の文化財 4 29 68 である田植え唄では、どうして「三度まつる神」と規定しているのであろうか、その理由をさがして行くと、さきにも述べたように尊い数である「三」という聖数信仰に行きつくようである。つまり、「三度まつる神」の「三」は、いわゆる三回を意 0 0 島前の文化財 4 30 2 味するのではなく、聖数にあやかって使われてはいるものの、実は「数多い」という隠れた意味を表しているのではないかと考えられてくるのである。民間信仰の諸相を調べて行くとどうしてもこのような結論になってこざるを得ない。さて、このよ 0 0 島前の文化財 4 30 9 うに考察を進めてみて、再び三度なる地名を眺めると、次のようなことがいえるのではなかろうか。すなわち、聖地である三度部落は、古代信仰に基づく、島前地方における唯一無二の上陸地であった。そしてこの祖霊は、季節に応じて姿を変えつつ、 0 0 島前の文化財 4 30 15 海の彼方の常世から現世へやって来るものとされている。そしてそれは、年三回と限ることなく、もっと多くの回数訪れるのである。古代人たちはそれを聖数信仰から「三」の文字に代表させて、多数をしめしていたのではないかと考えられてくる。 0 0 島前の文化財 4 30 22 それはそれとして、邑智郡に伝わる田植え唄の「三度(さんど)」と三度(みたべ)の不思議な符合は、祖霊信仰に関連しながら、あるいは偶然ならざる因縁の暗示を意味しているのかも知れない。ただ、惜しいことに同類の田植え唄がここ島前地方 0 0 島前の文化財 4 30 26 焼火 では見つけられていないことを記しておく。(ヘ)焼火神仰とのつながり。三度を考える場合、いまひとつ避けて通れない問題に、焼火神仰との関係がある。焼火信仰は、三度部落と陸つづきの、西の島、焼火神社(西ノ島町波止)にまつわるものである。 0 0 島前の文化財 4 30 33 「六國記」「栄華物語」等、平安時代の文献から早くもその名が見えており、航海の安全を司る霊験あらたかな神として、全国的に広く漁師仲間の信を集めていたのである。そして、その信仰の一つとして、難破しそうになったとき、祈願すると、嵐の 0 0 島前の文化財 4 30 38 焼火 中でも三筋の火光が現われるので、船を中央の火に向けさえすれば、必ず無事に港に着くことができるとされている。この三筋の光と三度の「三」の符合も気にかかるところだが、一応そのことはここでは触れないでおく。この焼火神社のご神体は、 0 0 島前の文化財 4 30 45 焼火 いうまでもなく「船玉さま」である。ところが、この船玉さま自体、本来は祖霊が船旅の守護神として、まつられることに源を発していると考えられている説もある。さて、この焼火信仰と三度部落は、どうも深い関係にあるらしい。三度の古老の間 0 0 島前の文化財 4 30 51 焼火 では、焼火さまが焼火山におさまる前に、この三度部落から上陸されたという神話が語りつがれている。大略を示すとこうである。−いつのことか、焼火さまの乗られた船が三度沖を通りかかられたが、青凪の浜に目をやると人影が見える。s思議に 0 0 島前の文化財 4 30 57 焼火 思われて、焼火さまが陸へ上がられると、だれもいない。船へもどってまた見ると、やはりl影がある。再び上がると姿は見えぬ。船へ帰ってふり返ると、たしかに人影がみえる。そこで焼火さまは、意を決して三度目にここからの上陸を実行された。 0 0 島前の文化財 4 30 62 焼火 この地が三度と呼ばれる理由がこれであるという。さらに焼火さまの上陸地点に石があり、いまでも地元の人々は「お石さま」と呼んでいる。そして、不思議な人影は、三度の氏神として待葉神社に祀られている猿田彦命と信じられている。さて、焼 0 0 島前の文化財 4 30 70 火さまは、この三度から上がられ、水のあるところを徒歩で越されたが、そこを「越水(こしみず)」と呼び、中谷の裏にある岩で休まれたので、それを「腰かけ岩」という。以前はそのいわにシメ縄がはられていたそうである。また、中牧で狩をな 0 0 島前の文化財 4 30 75 焼火 さったので「狩床」の地名が残り、さらに歌を一首したためられようとしたら、水など出そうもない場所にもかかわらず、にわかに水が湧き出てきたので、焼火さまはその水を硯にとり、無事、書きとめられることができたので、この場所をいまでも 0 0 島前の文化財 4 31 6 焼火 「硯水」といっている。その歌を焼火山の方へ向かって投げられたところ、たちまちカラスが飛んできて、それをくわえ、無事、焼火山へ届けたので、カラスの地名を「カラス床」と称し、いまでも地元の人々は、それらの地名をよく知っている。焼 0 0 島前の文化財 4 31 21 焼火 火さまは、やがて焼火山に行かれ、そこを鎮座の場所に定められたと伝えられる。−話者、萬田半次郎氏(明18生)十二月八日収録。地名由来を含んだこの神話は、三度部落が有名な焼火信仰と密接な関係のあることを示すと同時に、焼火の神が本 0 0 島前の文化財 4 31 34 来祖霊であり、これまで述べて来たように、祖霊が常人の達し得ない常世の国から海を渡って、まず三度へ上陸したのだという筆者の考えを証明するものであろう。ただ、歳神や田の神などの祖霊の同根異体を示す他の神について、この神話は物語って 0 0 島前の文化財 4 31 39 焼火 いないが、それは漁を生業とするこれらの地にあって、強大な勢力をほこる焼火信仰に焦点化されたと、筆者は解釈しているのである。もちろん、この神話とは別に、本稿の中心をなす「正月つあん」のわらべ唄が、焼火信仰に因われることなく、歳 0 0 島前の文化財 4 31 45 神(すなわち祖霊全般の)の海上渡来説を裏づけている有力な証拠であることは、くり返すまでもないことである。六、終わりに。以上でそろそろ本稿を終えようと思う。「正月つぁんの唄」を足がかりに、三度部落が聖地である理由を述べてみた。 0 0 島前の文化財 4 31 51 脱線もし、かなりの飛躍もあったようだが、それは筆者の未熟さに免じてお許しを得たい。しかし、筆者は、どうしても三度部落が「正月つぁん」こと「トシトコさま」等の祖霊が、島前地方を訪れる際に、まず最初に足跡を印す聖地でなければなら 0 0 島前の文化財 4 31 57 ぬという点を主張したいのである。島前地方のかつての子どもたちによって、何気なく唄われていた「正月つぁんの唄」ではあるが、民俗学のスポットライトを当てて考えてみると、その意味するところは、非常に深いといえそうである。(完)<参 0 0 島前の文化財 4 32 6 考文献>北見俊夫氏「海上の信仰」(日本民俗学70)。参考資料。本稿中に全文引用しなかった「正月つぁんの唄」を左にあげておく。いずれも昭和四十八年度中に、筆者が収録させていただいたものである。「西ノ島町関係」(三度部落)正月つぁん、 0 0 島前の文化財 4 33 9 正月つぁん、どこからおいでた、三度の浜からおいでた、重箱に餅入れ、徳利に酒入れ、とっくりとっくりござった。伝承者、萬田半次郎(明18年生)(珍崎部落)正月つぁん、正月つぁん、どこまでござった、三度のかどまでござった、徳利に酒 0 0 島前の文化財 4 33 19 を入れ、重箱に餅を入れ、かんぶりかんぶりござった。伝承者、松谷竹吉(明32年生)(浦郷部落)正月つあん、正月つあん、どこまでござった、三度のかどまでござった。伝承者、氏名不詳。浦郷出身で現珍崎在住の明治生まれと思われる老女。 0 0 島前の文化財 4 33 29 (筆者は県立隠岐島前高等学校教諭) 0 0 島前の文化財 4 34 1 隠岐国旧語帳について。田邑二枝。豊中の作家畑中吟子女史から、隠岐国旧語帳という旧写本を何かの役に立てばと井藤旅館でいただいたのはもう三年前であった。女史の友人が後鳥羽院を書いている女史のために神田の古書店でみつけたものであっ 0 0 島前の文化財 4 34 7 たのである。後鳥羽帝のことを書くために、ふとその本を読んだのが今年のはじめであったが、あらためてその本のありがあたさを知った。女史に深謝するとともに、隠岐の同友のためにその本の内容を紹介しておきたい。隠岐国旧語帳と題する写本 0 0 島前の文化財 4 34 15 は三沢喜左右衛門忠義の集記によるものであって、後鳥羽上皇、後醍醐天皇の二部からなる隠岐の古記伝承をまとめたものである。奥書の年号は宝暦十二年である。三沢喜左右衛門の出自は明かでないが、美田村の年寄であり、学問もあり、算筆に長 0 0 島前の文化財 4 34 21 じていたといわれることもうなづけるが、そのがいはくな歴史の知識はどこから養われたものであったのか、かねて興味をその人となりによせているがまだわからない。それはそれとして、隠州往古来年代略記の史料的価値は高いものであり、正確で 0 0 島前の文化財 4 34 27 焼火 あって裏付けも充分である。美田村神社縁起など一連のものの著作からある時点では美田村年寄役であったとしても、その人物の史伝の方に深い興味を覚えるのである。この伝写本の内容について、一通りその全文を紹介しておきたい。一当国焼火山 0 0 島前の文化財 4 34 35 焼火 大権現と奉拝ハ焼火頂上に巨岩有リ其半腹に穴有、神武天王の御宇に天上天天の原より此巨岩江天降り玉ひて照りかが屋き給ふを見て諸人尊ミ歩行をはこび石尊大権現と拝し奉り、其後人王六十六代の帝一条院の御宇長徳元末より光明を放チ玉ふを見 0 0 島前の文化財 4 34 41 て神慮難有国主義清宮殿を造り大山大権現と奉称、義清の氏神と拝し尊ミ諸願を祈ルに霊験あらすと云ことなし、既に此御神ハ闇夜の漂船を助け給ふことハ几ソ秋津高麗に至りても請神火火不立と云ことなし、依之、承久三年己五月の乱に後鳥羽院を 0 0 島前の文化財 4 34 48 武臣北条義時の為に当国に遷幸せさせ給ひて七月雲州三保関江着御、二十七日巡風に成り帝都より供奉の旁江ハ御暇を被遺三保関より隠岐へ御渡海の御時冲間にて俄に風波立けれバ上皇御製にわれこそハ新島守よ隠岐の海の荒き浪かぜこころしてふけ 0 0 島前の文化財 4 34 55 と被遊けれハ波蘭暴風も静りけれとも月没して湊も流石遠かりけれハ入津無ニ覚束思召上皇の仰に隠岐国に湊を知らせ玉う神ハなきかと問給へハ船頭答申上けるハ、隠岐国にかくれなき大山大権現ハケ様成る難義の節神火を乞ハ真の闇夜にも能湊に神 0 0 島前の文化財 4 34 61 火を立テ入津いたすこと疑ひなしと答けれハ、然ハ其神江神火を乞能湊をも見よかしと御有けれハ船頭謹而身を浄め大山大権現江神火を乞ハ当国崎村三保大明神の社神木楷廾巻の空に明らかなる神火立チけれハ上皇御製にナタナラハもしを屋くやとお 0 0 島前の文化財 4 35 1 もふへしなにを焼く藻の煙なるらむと被遊けれハ御船無恙崎村三保の湊江御着船被遊て三保の湊に入るふねのされこそこがるたへぬおもひに又其里を御覧被遊て御製野辺染る鴈の泪ハ色もなし物思ふ露の隠岐の里にはと被遊て三保大明神の御社に三夜 0 0 島前の文化財 4 35 10 を明かさせ王ふ、此宮大破に及び月星の光りも居なから見へけれハ上皇御製にいのちあらハ茅が軒端の月も見つしらぬハ人の行末の空と御製被遊て、其後美田院大山大権現江幸有し時御供の船頭水主に御暇被遺其節御製に三保の裏を月と友にそ出し身 0 0 島前の文化財 4 35 18 の独りそのこる隠岐の外山にと御製被遊それより鞁の浦江着御有しか鞁嶋を御覧有りて御製かかり火の所定津見へけるは流れつつみのたけハなりけりと被遊此所より御船にて曲迄御着船被遊けるに算表(トリイ)迄大山大権現六十斗りの翁と現し竹の 0 0 島前の文化財 4 35 26 帚を持下り玉ふを上皇御覧有て汝ハ此山の翁ならハ大山権現の社江案内仕れと仰けれハ彼翁答て日成程の当社の社僧にて御座候、今日上皇御社参之由を先達而承り掃除等乍御迎罷下り候、先日三保の関より御渡海の御時沖間ニテ船頭神火を乞し時神火 0 0 島前の文化財 4 35 32 焼火 を御覧有りて御製灘ならハもしを屋くやとおもうへしなにをたく藻の煙りなるらんと被遊しをなにを焼火の煙りなるらんと御直シ被遊べしとの玉ひて其後彼翁行方なし、上皇不思議に被思召是ハ此山の大権現なりと御吹挙有りて大山を御改焼火大権現 0 0 島前の文化財 4 35 39 と御勅許被遊寺ハ雲上寺と寺号を下され弘法大師の御作薬師仏を御寄進宮殿を御造営被遊と云云。故に彼御製を灘ならはもしをやく屋とおもふへしなにをト火の煙りなるらんと被遊候。沖の小島赤灘の瀬戸葛島の前を船入津するを御覧被遊て御製楸生 0 0 島前の文化財 4 35 47 るおきの小島の浪のうへにうら風そふく日くらしの声とにかくにつらきハ隠岐の嶋津島夢をハおのか名にやこたへん浪路わサ隠岐の小島に入るふ年のわれとこかるるたへぬおもひに如此御製被遊其後八月五日海士郡海士村江御幸被遊勝田山源福寺へ着 0 0 島前の文化財 4 35 54 御有て提坊と云僧を被召出当寺の謂を御尋有しに屋んことなき王威に恐れ更に勅答なし其時御狂歌とへと更に勝田の寺の謂おハかくしてむ年に提坊かなと被遊勝田山に御殿を建星霜を送らせ玉ふに、勝田の池の蛙の声松風の音を聞召侘て蛙鳴く勝田の 0 0 島前の文化財 4 35 63 池の夕たたみきかまし物ハ松か勢の音と御製被遊けれハ勝田の池に蛙有てもなく事なく松風の音もなしとかや、貞応元年午春勝田山の桜盛なるを御覧被遊て御製におもひ出る都の春にかわらしな勝田の山のはるの盛りは其後五月雨降続賎が手業を御覧 0 0 島前の文化財 4 35 71 被遊御製に賎女カかたつき麦をこし侘てにうにやすらん五月雨の頃と被遊候七月松尾山金光寺御登山之時東西南北の海を御覧有て御製賎女カ横なしはたをたて置てまた見るも海又見るもうみと被遊当国に十九年の星霜を送らせ給ひ御齢六十歳にて延応 0 0 島前の文化財 4 36 2 元年ノ亥二月二十二日に終に崩御同二十六日勝田山に奉葬其上江御陵を建鎌倉より修理を加江御廟廃す。寛永九年申夏仏洞より勅命にて水無瀬中納言氏成郷都より雲州三保関江御下着被遊三保関より隠岐国江御渡海被遊候而後鳥羽院を京都江御勧請被 1239 222 延応元年 島前の文化財 己亥 4 36 8 焼火 遊、其時氏成郷、御詠歌、雲霞海より出てあけ初る、おきの外山に春をしるらん、奉レ備御陵と云題にて友忠郷詠歌、隠岐の海あわれを思ふ人有りて、とへとこたへずうら風そ吹く、如此御詠歌被遊又焼火山大権現ハ上皇御勅号の社なれハとて御社参 0 0 島前の文化財 4 36 16 焼火 有て氏成郷の御詠歌、千早振神の光りを今も世にけたて焼火の志るしそすらんと被遊其夜ハ雲上寺に御1宿船中の御祈誓有しに翌御出船同日三保関江御着船被遊候、其後此和歌を寺の宝物とす、慶長年中関ケ原乱の時も秀頼公此神江御祈誓の御宝物と 0 0 島前の文化財 4 36 24 焼火 も被遊ける。其後家康公ニも御祈誓有りて御運被為開天下一統の上御宝物御寄進被有其外雲州国主直政公尾州国主大納言光友郷御腰物御寄進諸国主の御寄進物焼火山の宝物に納宝物とす。其後後鳥羽院御陵明暦四年戌の春雲州の国主松平出羽守直政公 0 0 島前の文化財 4 36 30 改て御造営、延宝二年寅春雲州国主綱隆公の御時修覆有享保十九年寅春運州国主松平出羽守再造立被遊ける。元弘二年申春後醍醐天皇御謀叛により北条高時の為に当国江遷幸三月七日帝都を出御都より供奉の軍過半御暇被遺三保関より隠岐国江御渡海 0 0 島前の文化財 4 36 37 御漕船弐百余艘にて千波の湊江漕渡り此湊にて国主隠岐判官より古海坊二夫里坊を御宿に拵へ此寺に武士数多附置暫く御座被遊ける。其後当国別府村の東の方三町去りて黒木と云所高サ三十間廻り四町の山有り三方海にして北の方ハ山続南の方に松竹 0 0 島前の文化財 4 36 43 生ス、頂上東西七間南北六間石壁古ク此山の頂上に御殿を建、四月佐々木隠岐判官より天皇を此所江遷し奉る。鎌倉より厳敷下知を以宿直の武士数多指置ける。有ル時天皇隠岐判官を被召出問給ひける。当国に郭公有りて鳴くことなし行謁いかにと御 0 0 島前の文化財 4 36 50 尋有けれハ勅答に昔当国江後鳥羽院遷幸の時郭公頻に羽たたき鳴けれハ上皇御製になけハ聞ききけハ昔の恋しきに此里いでよやまほととぎすと被遊ける故其後終に郭公鳴ことなしと勅答申上けれハ其時後醍醐天皇御製聞人も今ハなき世にほととぎすた 0 0 島前の文化財 4 36 58 れにおそれて鳴ぬ此里と被遊けれハこれより郭公鳴きけると也。当国美田の院八幡宮ハ黒木の御所より道程四町余在しに天皇常に此御神江御祈誓有ける。冨士名判官ハ天皇江御味方の志しを運ひけれハ警固当番之節或夜天皇より御局を以判官江御酒を 0 0 島前の文化財 4 36 64 被下ける時、判官申上けるハ君いまた志ろしめされずや、河内ニ楠、播磨に赤松、上野に新田義貞御味方仕籏を上ケ候、此時節に当国御忍ひ出何方江成とも御渡り被遊可然哉、判官能キに取計ひ可申由申上けれハ叡慮不浅判官に官女を被下けると也。 0 0 島前の文化財 4 36 71 其後判官雲州江渡り塩谷江相通しけれハ塩谷冨士名を押込ける故計畧むなしく成ける。其後天皇ハ頭ノ中将忠顕を被召連正慶二年酉三月二十三日夜御所を忍ひ出玉ひて兎やせん角やせんと被思召煩ける所に八幡宮より翁壱人出来り天王を奉守りて美田 0 0 島前の文化財 4 36 77 ノ院兵庫より宮崎江廻りける。此湊に伯州居合せけるを翁彼船頭を頼て天王を船に奉乗せ巡風も能伯州の方江と志しける。翌二十四日御宿直ノ武士天王忍ひ出玉ふに驚隠岐判官江注進仕小早船を以追掛奉りけれハ巡風ニ而御船江間近く追付奉る、船頭 0 0 島前の文化財 4 37 7 供奉の御方江申上けるハ追手の船三艘追懸候間此あひ物俵の下江御隠れさせ給ひ候得とて奉隠シ上よりあひ物を積かけ置けれハ追手の船追付御船ニ乗移リ武士共さがし奉れ共見出し不申、船頭追手の武士に向ひ申けるハ、今朝美田の湊より船壱艘馳出 0 0 島前の文化財 4 37 13 し候へしが冠を着し候もの壱人島帽子を着し候者壱人乗移リ雲州の方江馳行候と申けれハ追手の船共彼方江追掛ける。又跡より追手船五十余艘奉追掛船頭申上けるハ又追手船間近く来り候間御祈誓被遊べしと申上けれハ海上ニ向ひ龍神江御祈誓有て懐中 0 0 島前の文化財 4 37 19 より仏舎利を取出し海中江入レ玉ひけれハ俄に吹王けの風吹出し天王御船ハ伯州の方江矢を射ることく馳行追手の船ハ隠岐国江吹戻されしと也。御船ハミくりやの湊江御着船被遊ける。供奉の御方船頭江仰けるハ此湊に天皇の御味方仕ル者ハなきやと 0 0 島前の文化財 4 37 26 問玉へハ船頭答て日当国に名和又太郎と云者有是を御頼被遊べしと申上けれハ則又太郎を御頼被成けるに又太郎勅答仕兼候処子息申けるハ天王我等を御頼被成事偏ニ武運可開瑞相難有とて早々可奉迎に一決シ又太郎新敷菰を着して其上ニ天皇を追ひ奉 0 0 島前の文化財 4 37 32 迎ける。其後船の上と云山江城を構江米五千俵城に入置ける、又太郎弟申しけるハ白布五百疋幡に拵江近国の武士之紋幅印をしるし立けれハ近国の兵共此幡を見俄に御味方に参ける也。隠岐判官ハ雲州江渡り塩谷判官与申合船の上に押寄せ戦ひけれと 0 0 島前の文化財 4 37 39 も天罰難逃散々に打負、其後隠岐判官ハ両六波羅と一所ニ番場辻堂ニ而切腹いたし天運忽開ケ天皇都江御幸一統静謐之御代と成り勅定にハ隠岐国美田院八幡宮助ケに寄り此度運を開と仰有て正八幡大神宮と可奉拝旨御綸旨を被下田壱町御寄進被遊と云 0 0 島前の文化財 4 37 45 云。宝暦十二年癸午七月、三沢喜三右衛門忠義、是ヲ集記。以上同書の内容を原文のままにあげた。後鳥羽院と、後醍醐帝の隠岐の伝説は、次の諸本に見ることができる。その内容は大同小異である。特に異説がないのは、島民の伝説が終始異論を混 0 0 島前の文化財 4 37 53 えず正統伝承として語り伝えられ、書きとめられてきたからである。隠州視聴合紀、寛文七年(一六六七)斎藤勘助。増補隠州記、貞享四年(一六八七)郷帳集成。おき濃すさび、宝永二年(一七〇五)風水。隠州往古以来諸色年代略記、宝暦十一年 0 0 島前の文化財 4 37 62 (一七六一)三沢喜左右衛門。隠岐古記集、文政六年(一八二三)大西教保。この旧語帳集成の時点で、既に両帝に関する隠岐の旧記が前揚のとおり成立していた。喜左右衛門は諸色年代略記を広汎な文書資料によって集成した翌宝暦十二年にこの旧 0 0 島前の文化財 4 37 70 語集を書いている。この本の大きい特色として高く評価したい一例を示せば、後篇末尾の後醍醐天皇の美田八幡への倫旨のことである。末曾有の権威と不屈の御精神によって、隠岐御脱島に成功せられ、天下統一を達成せられた天皇の隠岐に下し給った 0 0 島前の文化財 4 38 2 綸旨が御在島一年心中祈願をこめられた美田八幡宮に対するものであったことである。美田八幡宮に神格を授け、寄進田があったことは、美田八幡宮の神に対する恩賞にとどまらず、美田八幡の氏子を中心とする忠誠を深く賞されたものであったと言 0 0 島前の文化財 4 38 8 っても異論の余地はあり得ないであろう。喜左右衛門は別に「美田村神社之縁起集」という本のなかで美田尻の神が翁となって現われ、天皇を案内して御脱出を助け奉ったので、その後天下統一の後、正八幡大神宮と拝し奉る旨御綸旨を下されたとい 0 0 島前の文化財 4 38 15 う古伝を記していてその伝写本が正長二年(一四二八)の原本によったことが奥書してあると黒木村誌の著者永海一正氏も書いている。喜左右衛門のその写本の原本は、天皇崩御の延元四年から九十年の時点で書かれた史料にまでさかのぼっている一 0 0 島前の文化財 4 38 21 事からも、彼の学究態度のきびしい一面を知ることができるのでる。註、前篇水無瀬氏成詠歌、雲霞海より出ての一首は後水尾天皇の御製、禁裡御奉納之御短冊二十首の巻頭院撰のこと。(島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 4 41 1 島前年中行事資料、松浦康麿。はじめに。当家所蔵文書書の中に「当寺年行事」という記録がある。これは奥書によると、右六代快順法印之時改由申伝代々住職為令無失念、十代目住職快栄記之。千時宝暦三癸酉年正月、とあるが、快順が元禄年中の人 1753 100 宝暦3年 島前の文化財 癸酉 4 41 9 であるので、すくなくとも元禄頃の当家の仕来りの記録とみてよい。「当寺年行事」とあるので、寺院の行事の様に思われるだろうが、そうではなく、どこの家でも行い来っていた仕来りと大差なく、現在謂う所の「民俗資料」の記録である。こうし 0 0 島前の文化財 4 41 15 たどこでも、どの家でも行っていた事は珍しい事ではないので記録として残っている場合は少ない。本稿ではこの記録を柱にして、その都度々々採集した資料も付記し合せて島前に於ける年中行事をもみて行きたい。猶昭和四十八年度に県教委より「 0 0 島前の文化財 4 41 20 隠岐島の民俗」という報告書も公刊されているので、もっと詳しいことの知りたい方は、これを見られることをおすすめする。当寺年行事。一、元朝年男起鶏前、行水斎戒沐浴櫛心清浄待鶏初鳴著上下照灯挑、詣五十鈴川、先盥漱、迎若水、直御年徳 0 0 島前の文化財 4 41 27 供宝前其後メメ子涌、住持始上分者呑引茶次雑煮次酒一反次住持寺内不残盃スル次吸物酒、以上給仕等年男役也。坐敷、大黒天囲爐裏之間也扨而末明於御神、前奉御供ヘ今朝ノ御供別府御役所島後御役所雲州隠岐役所衆中ヘ指上申。其外親類亦縁者ヘモ 0 0 島前の文化財 4 41 34 遣ス。次宝蔵ヨリ掛銭ヲ出シ備年徳。臼初縫初ウム初吉書。普通の家では年男は主人がする場合が多い(島前一円)が大家に於ては、別に年男役をたのんだものである。若水迎へには他人に出合せぬ様、又出合っても無言で挨拶せぬ。。若水を汲む時の 0 0 島前の文化財 4 41 44 唱言「何汲む福汲む」と唱える。臼初、縫初等は二日にする例が多い(島前一円)私の家でも現在は二日にする。一、二日、儀式同元朝。但シ院主盃ハ無之。大般若之紐解。院主盃ハ無之の意味はわからないが私の家では現在も二日には主人は礼酒を 0 0 島前の文化財 4 41 50 頂かない例である。一、三日若水等同二日。未明坐敷雨戸少々宛開置。午時、御供、絵讃下ス。年徳、大神宮両脇残ス。別府御役所礼。「未明雨戸少々宛開置」これは三日の未明に「毘沙門天」が福をくばってまわるといわれ、その為に雨戸を少々あ 0 0 島前の文化財 4 41 57 けておく。三日にはどこの家でも御供を下る。これを「柵さがし」という(島前一円)一、四日御神前御供ヲロス。美田礼。家の御供は、三日に下すが、神前御供は四日の朝に下した。四日は俗に「坊主年始」といい、僧侶の方が年始廻りをする例で 0 0 島前の文化財 4 41 64 ある(島前一円)。一、五日雑煮但味噌煮。雑煮は島前は醤油の味付、餅の外に入れるものは家によって異るが、のりは必ず入れる。一、六日厳(かざり)ヲロス。年徳、大神宮両脇ノ供(ソナエ)、掛絵ヲロス。是日若木ヲ迎、晩ニハ年徳宝前鳥追 0 0 島前の文化財 4 42 4 ナズナ、芹等供年徳。七草を切る時の唱えごと。「七草なづな唐土の鳥が渡らぬ先に」を繰返して唱へ乍らきざんだ。(西ノ島)一、七日、七草粥。一、十一日、早朝雑煮、若餅トテ餅米一斗程ツク。午時天照宮ノ絵讃ヲロス。今日続村寺方衆呼、御 0 0 島前の文化財 4 42 11 日待、御供別搗習。一、十二日、臨時大般若。一、十四日、年徳餅タツ。兄弟共方へ配分、他人ヘハ無用。一、十五日、早朝粥柱トテ年徳餅一ツ宛入、上下無隔粥上ニテ粘祝、午時ニ年徳掛物ヲロス。この日「とんど」と称して注連飾りを焼く。現在 0 0 島前の文化財 4 42 19 は島前全域新暦で正月をする様になり六日に「とんど」をする家が多いが、旧正月をしていた頃は六日には注連飾を下し、それをまとめて床にあげておき、十五日になって「とんど」をした。これを「とんどをはやす」といった。昭和の初期頃まで、 0 0 島前の文化財 4 42 25 若い者が娘にこの「とんど」で出来た藁灰の墨をつけ、又娘は男に「のり」をつけた。すみ祝い、のり祝いといった。又門松は葉のみ焼いて幹は節分まで門に立てておく。又竹で灸箸を造るとよくきくといって持帰った。御供餅を、とんどの火で焼いて 0 0 島前の文化財 4 42 32 食べる風はいづこも同じである。一、十六日、味噌搗、牛馬ニ馳走す。島前では「トキ」といっている。一、二十日、早朝雑煮。早朝山不入。この日は山神が木を数える日といわれ山に入ると木に教えられてしまうので入るを忌むといわれていた。( 0 0 島前の文化財 4 42 39 焼火 西ノ島)一、二十四日、御精進供、月並ヨリハ丁寧ニ仕ル。これは普通の家の行事でない。焼火権現の縁日で、正月初めの縁日であるので特に調理をした神饌を供したのである。普通の月には御飯のみをたいて他の神饌と共に供えた。一、二月朔日、 0 0 島前の文化財 4 42 48 一日正月トテ吸物ヲ酒。古い時代程、正月の行事は叮寧であったが、だんだん簡畧されて、現在では正月三ケ日だけを正月と思うようになってしまった。こうした折目折目の日は普通と異ったいわゆる「ハレ」の日であり、其の日は我々に直接関係の 0 0 島前の文化財 4 42 54 ある神々が訪れそれを祀る日であった。そして其の日は年中で一番御馳走を作って神に供へ、又家内中でそれを頂く楽しみの日でもあった。その中でも殊に正月は待遠しいものであった。「正月さん、正月さん、どこまでござった。三度のかどまでご 0 0 島前の文化財 4 42 61 ざった。重箱に餅ちよ入れて、徳利に酒を入れて、とっくりとっくりござった。(西ノ島)と子供達は唄って正月を待ったものである。一、三月三日、よもぎ餅御神供三膳御役所其外親類礼、随時。一、五月五日、粽御供三連、役所其外三月節句同。 0 0 島前の文化財 4 42 70 五月節供の粽は茅の粽である。私の家では神供用は茅で俵形の粽を作り家ノ神に供えるものと異っている。昔は五月の粽は茅粽、又は笹粽であったが、現在では殆んど「かたり」(さるとりいばら)の葉で包んだ粽を作る様になっていまった。(島前 0 0 島前の文化財 4 42 76 一円)一、六月朔日、氷餅トテ仏前カキ餅ヲ供、臨時大般花。一、十五日、祇園祭但し御供備小麦。此日忌木瓜。一、従二十三日恒例之祭礼、島前二郡ヨリ勤之料物十二貫文寄附。(中畧)近郷之男女参詣。一、七月七日、御役所其外三月同。墓所掃除。 0 0 島前の文化財 4 43 11 七月盆という(島前一円)この日より盆を迎へる行事に入った。一、十三日、施餓鬼柵ツル。小座敷之メメ。高三尺。一、十四日、墓参。一、十五日、施餓鬼祭、今晩墓前ニ麻ガラニテ火ヲ焼ク。旗、素麺、ヒノ葉、芋ノ茎、梨瓜、茄子等備。一、十六 0 0 島前の文化財 4 43 21 日、送火、西ノ門ニテ焼ク。島前では、海に面した部落では精霊舟を作って盆送りをした。海の無い部落海士、東、宇受賀、北部等は精霊舟は作らず、家の近くの畠で送火をたいた。昭和の初頃まで子供は盆に笹で御輿を作り、それを墓所からかつい 0 0 島前の文化財 4 43 29 で部落をまわり海に流した(西ノ島)。一、九月九日、菊餅御供三膳、御役所其外三月三日ニ同。一、十月亥猪(いのこ)末ノヲ祝。亥ノ子の餅をついた日は、洗わずにそままにしておくものだという。亥ノ子さんは目くらの神様で、其の家で餅を搗 0 0 島前の文化財 4 44 3 いているかどうか、臼の中を手でさぐってみられる。餅をついておれば入って来られ、搗いてない時は又田へお帰りなられるものだという。(西ノ島)私の家は末の亥を祝う事にしているが島前一円大体、初亥、中亥を祝うのが多いようである。一、 0 0 島前の文化財 4 44 10 十二月朔日ハ相応ニ祝。此月ニ入リ申ノ日煤取り初メ、煤払モ勝手次第払フ。仕廻ニハ吸物、酒働輩祝。一、小月ニハ餅米二十四日カス。同二十六日ヨリ二十七日朝迄ニ搗。大月ニハ二十五日ニカシ同二十八日朝迄ニ搗。餅ハ大体壱石余(中畧)二十八 0 0 島前の文化財 4 44 16 日朝祝フ。祝後、若松、榊、譲葉、裏白迎ニ行、年男ハ蓑組シメノ役。此日宝蔵ヨリ年徳其外絵讃蓑正月入用道具出ス。一、神前厳ハ大晦日朝年男カザル。(下畧)一、御供餅ハ住持ノ役ナリ。一、年徳御厳ハ小座敷床ノ上ニカザル。一、天照宮御厳 0 0 島前の文化財 4 44 22 は床の脇。一、大黒天厳は蓑組。(下畧)一、御供備様ハ年徳大三方(中畧)供数大体五十膳バカリ、神前、年徳除テ。扨又道具備トテ供一膳宛奴婢不残遣ス(中畧)大年夜年男へ扇子、鼻紙一帖、取米、打挑、引茶道具相渡ス。一、取米、三方ニカ 0 0 島前の文化財 4 44 29 ザル。北ハ黄ニ南ハ青ク東白、西紅ニ染色の山此歌ニ合セテカザル。年男に渡す取米は、若水迎えの時持って行くもの。一、節分ノ豆ノ打チョウメメニ日、ハラハラト鬼メハソトヘ打出シ、福ノ神ヲハウチヘイリ豆。七難即滅七福即生ト三度打ナリ。 0 0 島前の文化財 4 44 38 この日厄落しを行う。厄年の者は銭一文と豆を自分の年の数と、それにぼんの窪の髪の毛を紙に包み、夕方に三つ辻又は四つ辻の所に行き、後向きになって、後へ投げて帰って来る。この時人に合うと厄が落ちないといって忌む。(西ノ島)この日も 0 0 島前の文化財 4 44 45 正月と同じく「セチ」を戴く大家では四つ組椀を使って家族中式膳についたものである。又大歳にも年を取り節分にも年を取るという(島前一円)。この事は節分になって初めて一年が終ったという実感がした事からいわれた事であろう。この「年行 0 0 島前の文化財 4 44 51 事」の記録も節分の豆打の歌をもって終っている。(島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 5 1 1 島根県指定文化財、紙本墨書笠置家文書十一通。一、所有者、笠置真メメ。二、所在地、隠岐郡西ノ島町大字美田五七三(笠置真メメ)三、内容、一、永禄五年十二月二十六日家清、清秀、連署証文。二、年末詳十月十九日藤原彦左衛門為安書状。三、天 1562 1226 永禄5年 島前の文化財 壬戌 5 1 8 正弐年十月二日三沢為清、為虎連署書状。四、年未詳隠岐清家書状(折紙)。五、年末詳二月九日佐世元嘉書状(折紙)。六、年未詳六月十七日佐世元嘉書状(折紙)。七、年未詳六月二日佐世元嘉書状(折紙)。八、天正十八年拾二月十五日安倍吉 0 0 島前の文化財 5 1 13 貞書状(折紙)。九、天正二十年九月二十三日源二兵衛後家証文袖判アリ。十、年未詳三月十二日宮内卿法印某記文(前欠)。十一、寛文元年丑十月朔日御検地帳無判ニ付願状。 0 0 島前の文化財 5 4 1 島根県指定文化財(紙本墨書)。昭和五十年四月島根県指定有形文化財として西ノ島町美田笠置家古文書十一通が指定になった。永禄から寛文に至る比較的新しいものであるが隠岐島に於ける数少ない中世文書であり、隠岐島に於ける毛利政権の浸透 0 0 島前の文化財 5 4 7 とそれに伴う近世郷村社会の成立をmる史料であり、大名領国制成立下における在地勢力の消長の一端を物語るものとして保存の価値を認められたものである。同家にはこのほか鎌倉、南北朝、室町前期の記年を有する文書も十数通あるが、これらに 0 0 島前の文化財 5 4 13 ついては尚検討を要するというのが県よりの通知である。一、永禄五年十二月二十六日家清、清秀、連署証文、袖判(尼子義久)其元御代官隠州美多庄の儀、当座隠岐殿知らせ被れ候、向後の儀は御公領の由、御意に候、近年の如く代官職分相違有る 0 0 島前の文化財 5 4 20 可からず候、向後の為め袖御判候、恐々謹言。永禄五年十二月二十六日、清秀(花押)家清(花押)表端書(松田三郎衛門、大□)笠置□、尼子方の支柱の一人であった笠置氏が援軍の諸将とともに反尼子勢力の鎮圧に努め美田庄代官として島前尼子 0 0 島前の文化財 5 4 30 方の中核となっていたであろう。毛利元就は出雲経畧を決意し、永禄五年七月毛利軍は大挙して出雲に入った。文書の表端書に松田三郎衛門の名が見えるが、もしこれが松田誠保と同人であるとすれば彼は白鹿城主であり、一時毛利氏に降ったものの 0 0 島前の文化財 5 4 37 十一月再び尼子方に帰った部将である。当時隠岐は為清の代で彼は永禄元年、晴久の石州発向に当り兵船、糧船五十余艘を以て戦陣に参加している(雲陽軍実記)。右の文書の隠岐殿は隠岐為清のことであろう。笠置氏が従来代官職を勤めていた美多 0 0 島前の文化財 5 4 43 庄は、当座隠岐為清に知行せしめていたが、今後は尼子直轄領とすることとした。近年の如く代官職を勤めよ、という意味に解せられる。晴久はすでに頓死、子の義久が後を襲っているが署判する清秀、家清については分からない。美多庄の代官職を 0 0 島前の文化財 5 4 49 得て、島前尼子方の支柱であった笠置氏は、出雲において尼子氏の存亡が急を告げるようになると、海を渡って参戦した。永禄八年五月六日の尼子義久の感状、笠置家綱宛のものが現存する。二、天正二年十月二日三沢為清為虎連署状。(折紙)隠州 1565 506 永禄8年 島前の文化財 乙丑 5 4 56 の内弥陀(美多)庄公文職、笠置民部兵衛愁訴申し候条申し付け候、其国に於て萬事馳走を遂げ、右の役職相抱う可きの通り具に申聞かす可く候、恐々謹言。天正弐年十月二日、為清(花押)為虎(花押)二郎左衛門殿。右の文書が毛利氏から美多庄 1574 1002 天正2年 島前の文化財 甲戌 5 4 63 公文職を安堵された初出のものである。これによると、笠置民部兵衛は、出雲の三沢氏を通じて、美多庄公文職を愁訴懇望したのであった。その結果美多庄公文職を与えられ、笠置氏は初めて毛利の被官となったのである。二郎左衛門は県史の解釈は 0 0 島前の文化財 5 4 69 隠岐清家としている。尼子滅亡後、笠置氏は暫く不利な立場であったと思う、民部兵衛と云うのは同家系図に出て居ないが宗右衛門尉綱清や与三左衛門尉家綱が尼子氏に隷属して戦陣にまた他の地に代官など勤めて居た間に於て本関にあって笠置家を 0 0 島前の文化財 5 4 74 守って居た人と思われる。そして同家の天正十五年の毛利氏よりの署条の内に毛利氏家臣として簾宗次郎吉幸、石塚源左衛門尉助清、笠置民部左衛門尉吉綱、連署笠置宗右衛門尉宛出しているほど毛利氏の為に働いて居たもので尼子の失脚後同時に不 1587 0 天正15年 島前の文化財 丁亥 5 5 6 利になった笠置一家のために旧交をいかし三沢為清、其子為虎によって毛利氏から本領安堵状を得たものと思われる。三沢氏はすでに天正当時は毛利方の旗下であったから、それによって笠置家の存立を謀ったであろう。尼子毛利の争覇戦は桃源郷の 0 0 島前の文化財 5 5 12 隠岐にも少なからぬ影響が見られる。三、天正十八年十二月十五日、安倍吉貞書状(折紙)。貴所美多庄公文敷、弥相定め候、就中当春広島に於て、吾等取次を以て上様御対面成られ候、佐世与三左衛門殿御奉書御給わり候、此方まで然る可く存じ候、 1590 1215 天正18年 島前の文化財 庚寅 5 5 19 向後に於ても、御公儀油断無く肝煎被る可き事肝心に存候事に候恐々謹言。安倍又左衛門尉吉貞(花押)公文、笠置善左衛門尉殿、参る。天正二年、笠置は美氏多庄公文職を得たのであったが天正十八年さらに領主吉川広家にてり安堵された。安倍吉 1574 1002 天正2年 島前の文化財 甲戌 5 5 28 貞は毛利氏被官である。佐世与三左衛門尉元嘉はもと尼子の臣一時領地を没収されたこともあったが、後には毛利氏に重く用いられ、外様として広島城代をも勤めた人物である。 0 0 島前の文化財 5 6 1 後醍醐天皇隠岐御脱出考、田邑二枝。発願。警護の武士たちに送られて、はるばると中国路を越え、海原遠く離れた隠岐の黒木御所に落ちつけれた後醍醐天皇は、後鳥羽上皇の先例があるとはいい、その隠岐で生涯をおわる御考えは毛頭もなかった。 0 0 島前の文化財 5 6 9 四ケ月ほどの月日はいつか流れた八月初秋の兆が島に訪れる頃、天皇の悲願は心中に不動のものになっていた。天皇の影を慕う山伏集団と、海を自在にして平時、戦時を問わず、形を変えて活躍する海賊の集団は、隠岐の海上に巧みにしのびよって暗 0 0 島前の文化財 5 6 15 躍していたのである。黒木御所から出雲の鰐淵寺に密送された天皇の願文は、そのような天皇に味方する者たちの手を経て送達することができたのである。天皇の隠岐脱出計画は神仏の冥助に期待する初願からはじまった。平田鰐淵寺文書λそのこと 0 0 島前の文化財 5 6 22 を見ることができる。敬白。発願事。右心中所願速疾、令成就者根本薬師、堂造営急速終其功、可致顕密之興隆之、状如件。右、心中の所願疾(すみやか)に成就せしめば根本薬師堂の造営急速に其功を終へ顕密之興隆を致すべきの状、件の如し。 0 0 島前の文化財 5 6 37 元弘二年八月十九日(御花押)天皇の心中所願が何であるかは、説明の必要のないほどに明白であり、世はすでに北条氏の立てた光厳院の年号正慶と改められていたが、この文書の年号は明かに元弘であって、隠岐に在っても正慶年号を承認している 1332 819 元弘2年 島前の文化財 壬申 5 6 44 のでなく、御親らの年号を明記しておられることに天皇の強い御主張があらわれているのである。隠岐都万村、天健金草神社縁起によれば、天皇は隠岐御在島中、御還幸の祈願を国内神社百十六神にかけられたとあり。正長二年の原本記録隠岐国旧語 1429 0 永享元年 島前の文化財 己酉 5 6 50 帳の美田八幡宮へは、御所から四丁の位置にあって、祈誓の御日参が続いたとある。天皇の所願は達成されて、鰐淵寺には根本薬師堂が、天健金草神社には、女神二座と正位一品の神位が、美田八幡宮には正八幡大神宮の神位と田一町歩が贈られた。 0 0 島前の文化財 5 6 57 神仏への御祈誓は、天皇の不動不屈の信念の表白であった。天下のうごき。北条氏は、天皇を後鳥羽上皇の先例によって、隠岐へ流し、光厳院を立てて後醍醐天皇を廃帝にした。そのままであったなら、天皇はやはり、隠岐から再び都に還幸のことも 0 0 島前の文化財 5 6 64 なく、或はそのまま隠岐で御憂悶の末、御生涯を朽ち果てることになったのかもしれたかった。護良親王の御活躍。天皇の皇子護良親王は、幕府の厳重な警戒にもかかわらず、神出奇没身を隠して、天皇が幕府に捕われた天弘元年九月以来天皇隠岐御 0 0 島前の文化財 5 7 1 脱出までの間、天皇に代わって諸国の官軍を掌握し、さかんな活動を展開し、楠正成と密接な連絡を保ちながら、天下の形成を大きくゆり動かす原動力の役割を果たした。「増鏡」の文学的敍述も生彩があるので、その一節をあげてみよう。(原文の 0 0 島前の文化財 5 7 6 まま)「大塔の法親王、楠木の正成などは、猶同じ心にて、世を傾けむ謀をのみめぐかすべし。正成は、金剛山ちはやといふ所に、いかめしき城をこしらへて、えもいはず、武きものども、多く篭りゐたり。さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵をかた 0 0 島前の文化財 5 7 14 らひければ、世にうらみのあるものなど、ここかしこに、かくろへばみてをるかぎりは聚り(あつまり)つどいけり。宮は能野にもおはしましけるが、大峯をつたひて、しのびしのび、吉野にも、高野にもおはしかよいつつ、さりぬべきくまぐまには、 0 0 島前の文化財 5 7 20 よく紛れものし給ひて、武き御ありさまをのみ顕(あらわし)し給へば、いとかしこき大将軍にていますべしとて、附き随ひきこゆるものいと多くなり行きければ、六波羅にも、あづもにも、いと安からぬ事と、もてさわぎて、猶かの千はやをせめく 0 0 島前の文化財 5 7 32 も、いとむづかしう、心ゆるびなき世のありさまなり。」播磨の国大山寺の所蔵、大塔の宮の令旨の原文をあげて、護良親王の「国々の兵をかたらいければ」の内容をうかがう資に供しよう。伊豆国在廳遠江守時政野子孫東夷等、承久以来採四海於掌 0 0 島前の文化財 5 7 38 、奉蔑如朝家處、頃年之間殊高時入道之一族、啻以武略藝業軽朝威剰奉左遷。當今皇帝於隠州悩震襟乱国条、下尅上之至、甚奇怪之間、且為加征伐、且為奉成還幸、所被召集西海道十五ケ国内群勢也、各奉帰帝徳、早相催一門之輩、率軍勢不廻時日、 0 0 島前の文化財 5 7 45 可令馳参戦場之由、依大塔二品親王令旨之状、如件。元弘三年二月二十一日、左少将定恒奉。大山寺衆徒中。原文が長文で読みづらいと思われるので大意を書いてみることにしよう。「伊豆の国の北条遠江守前司時政の子孫あづまえびす等は、承久以 0 0 島前の文化財 5 7 52 来、四海を掌中にし、朝家をないがしろにしてしばらくの年代にわたっている。殊に高時相摸入道の一族はただに武略の威をもって朝威を軽んずるのみならず、あまつさえ現天皇を隠岐へうつし、みこころをなやまし、国を乱すことは、下尅上の至り 0 0 島前の文化財 5 7 58 であって奇怪なひそかごとである。これに征伐を加えんが為め且天皇還幸を成さんがため、西海道十五ケ国内の群勢を召し集められる所なり。各帝徳に帰一し、早く一門の輩をせきたてて軍勢をひきえて、時を廻らざず戦場に馳へ馳せ参じせしめるべし。」 0 0 島前の文化財 5 7 64 と、あるが、この令旨が、他の場合のものと異うのは、隠岐にある天皇の御還幸を成しとげることの条項が明記され、大塔の宮の天皇脱還の計画が可成具体的に進められていることを察しせられる根本資料をしてここにとりあげたのである。前述の 0 0 島前の文化財 5 7 71 「増鏡」の文章はその内容を裏付けるに充分の史実資料によって書かれていたことは、正成の軍略と親王の北条氏撃滅の大計画進行のあとをみるとき了解できるのである。天皇御脱島。後鳥羽上皇は強い都への御還幸を公家のあっせんによって、鎌倉 0 0 島前の文化財 5 8 3 へのはたらきを期待され、その時期を心長く待たれたが、幕府を動かす実力は公家になく、遂に十有九年の御生涯を終られた。幕府は存亡の命運を賭して承久の戦後処理をし、厳しく冷酷な処分をして上皇を隠岐に流し、その後の上皇の再起を完全に 0 0 島前の文化財 5 8 9 封じた。上皇帰洛のことなで絶対に認めなかった。後醍醐天皇も同じ運命におかれていたが、笠置落城後熊野、吉野の諸所を潜行しながら山伏の組織網を使って諸国に討幕の号令を下し、天皇勢力の回復を計る皇子護良親王の活躍と二十万と号する幕 0 0 島前の文化財 5 8 15 軍を引きつけて善戦する忠臣楠正成が、健在であって、笠置以来の延長大策戦を展開し、官軍の勢力が増大して天下の形成は天皇に有利になっていった。護良親王の秘策は成功を修めて、山伏と海賊網の秘密連絡が隠岐御所の天皇に通報されると、天 0 0 島前の文化財 5 8 21 皇は好機の到来に意を決するところがあったのである。元弘三年二月十三日には、大塔宮は伯耆国船上山から鰐淵寺に令旨を発している。鰐淵寺文書等目録事に記された十九通の正文の内二通の案文があり、その一通が同宮(大塔宮)令旨案である。 1333 213 元弘3年 島前の文化財 癸酉 5 8 28 一通、同宮令旨案、元弘三年二月十三日、被下之、於伯耆国船上山請取之、正文者、可有北院、とあるものである。更にその前記載には一通、大塔将軍宮令旨、元弘三年七月十日、大塔兵部卿親王、被任将軍之時、申給、執奏二条殿法印御房。と記載 1333 710 元弘3年 島前の文化財 癸酉 5 8 35 がある。前者は隠岐の天皇御脱出の一ケ月余り前のことであって、天皇御脱出の密計に関するものであると考えられるが、鰐淵寺には正文が不明になっているといわれる後者は、天皇御還幸後のものである。天皇の発願の倫旨から、天皇御還幸後の親 0 0 島前の文化財 5 8 41 王令旨に結ばれる鰐淵寺文書の奇縁である。天皇の御E出を述べる「増鏡」の名文をあげることにしよう。「増鏡」月草の巻。「都にも、猶世の中しづまりかねたるさまに聞ゆれば、よろづにおぼしなぐさめて、関守のうち寝るひまをのみ、うかがひ 0 0 島前の文化財 5 8 47 給ふに、しかるべき時のいたれるにや、御垣守にさぶらふつはものどもも、御気色をほの心えて、靡きつかうまつらむと、思ふ心つきにければ、さるべきかぎりかたらひ合せて、おなじ月の二十四日のあけぼのに、いみじくたばかりて、かくろへゐて 0 0 島前の文化財 5 8 53 奉る。おとあやしげなるあまの釣舟のさまに見せて、夜ふかき空の暗きにまぎれにおしいだす。折しも、霧いみじうふりて、ゆくさきも見えず。いかさまならむとあやふけれど、御心をすづめて念じ給ふに、思ふかたの風さへ吹きすすみて、その日の 0 0 島前の文化財 5 8 61 申の時に、出雲の国につかせ給ひぬ。ここにてぞ、人々心ちしづめける。」天皇の隠岐御脱出のありさまを、すなをに描写した増鏡のこの文章は味ってつきない滋味がある。太平記の潤色の多い文章とくらべて断然内容が洗練され、史実的な点でも勝 0 0 島前の文化財 5 8 68 れている。隠岐につたわる御脱出の伝説とも符合しているが、伝説には長い間には伝承者の、物語りに枝葉がつくのは致し方もないが、美田湾を船出して以後海上での追跡物語りなどは、つけたりのものと思われる。史実としての、たしかな証明はど 0 0 島前の文化財 5 8 74 こにも見あたらないからである。それは、太平記の敍述が混入したものであると考えられるものである。鎌倉の命によって、隠岐の天皇警固は厳しかったのであるが、月日のたつに従って、そのきびしさがゆるんで「御垣守にさぶろうつわものども」 0 0 島前の文化財 5 9 4 も、天皇のお志をほのかに知ってはいたが、ひそかに天皇になびくような気持ちがただよい。暗黙のうちに御脱出にも協力的であろうとする不思議な変化がおこっていた。それを、隠岐の伝説では冨士名判官や、名和泰長などの人物に充てているので 0 0 島前の文化財 5 9 10 あるが、天皇の帝徳によることであるとともに、中央や諸国、殊に山陽、山陰の国々の動向が、遠島の隠岐にも波に乗り、風の便りで刻々伝えられる時勢の影響があったのであろう。天皇御脱出には、船の手配が絶対に必要であったことはいうまでも 0 0 島前の文化財 5 9 16 ない。日本海を乗りきるだけのたしかな能力をもつ水夫と船頭がたよりの航海で、その計画は事前に充分練られたものであったと考えねばならない。追ひ立てられて、命からがら隠岐を逃げねばならない渡航ではなかったのである。「隠岐国旧語帳」 0 0 島前の文化財 5 9 23 は美田八幡宮の神が翁になって道を案内し兵庫から宮崎へ出、そこに居合せた伯州船の船頭を頼んで天皇をお乗りしたとしている。八幡宮の翁は、当夜何かと心を砕いて奉仕した美田村の衆のなかの長老であったと考えても、天皇の御信仰に感動した 0 0 島前の文化財 5 9 29 八幡宮の氏子代表であったと考えてもよかろう。美田村木村家の邸内には、天皇御腰掛の石と伝えられる大石が、大地にふかく根をおろしたように据っている。天皇御脱伝説のなかで、御乗船の地点を示す遺祉である。大塔宮のふかく遠大はご計画の 0 0 島前の文化財 5 9 35 なかの天皇御還幸がこのあたりから展開されたのである。(逆意の果て)佐々木隠岐判官清高は、天皇御不在を部下の報告で知り、隠岐御脱出をたしかめると、事の重大さにおどろき色を失った。清高は兵二千騎を率えて伯耆小浪に出陣したが、船上 0 0 島前の文化財 5 9 43 山御所に在った天皇は、名和長年に清高攻撃を命じ、長年の率える官軍の先攻をうけて敗れ兵は四散した。清高は隠岐に逃れようとした。「伯耆巻船上録」には、:清高父子、小船一艘取乗り隠岐へ逃げ帰りけるが、国人はや心替りして防ぎければ、 0 0 島前の文化財 5 9 56 はなかった。出雲守護佐々木塩冶判官高貞は、天皇が船上山に拠られると、早速義軍に馳せつけている。隠岐御所に警固の任にあたっていて、天皇に御脱出をおすすめした冨士名判官義綱も高貞の一族であった。そのときすでに隠岐前司清高の小浪城 0 0 島前の文化財 5 9 62 攻めの官軍のなかには、伯耆、美作、出雲、因幡の兵の中には隠岐の兵も加わっていたのであった。清高を容れる天地はすでに隠岐にはなかった。元弘三年五月七日、江州番場自害の人のなかに隠岐前司清高の末路を見る。隠岐前司清高、三十九才。 1333 507 元弘3年 島前の文化財 癸酉 5 9 70 子息次郎右衛門尉泰高、十八才。同三郎兵衛尉高秀。同永寿丸、十四才。(近江国番場宿連華寺過去帳)(島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 5 10 1 隠岐の蝶、木村康信。隠岐の昆虫採集には時代が時代だけに色々と。雑な思出があるが、昭和七年から美田小学校勤務となって児童と野外で捕虫網を振って昆虫を追いまわした十一年間が面白くて主力をつくした時代であった。昭和十四年九月に作った 0 0 島前の文化財 5 10 8 「隠岐黒木村に分布せる動物植物目録」の中に昆虫類三五四種。内蝶類七科四八種が記載してある。この目録は松江市で県内の理科教育研研会に発表する材料の一部であった。その後も一種一種と増すのがうれしくよく野外に出た。やがて来た戦争で 0 0 島前の文化財 5 10 13 防虫剤が入手出来なくなり、学校を転勤するのにも持って廻ったが、標本虫にやられ他の虫と昆共に全滅してしまった。それでも分布上貴重なものは大事に保存していたがぼろぼろになって、今その内二〜三点が残るのみで残念でしょうがない。戦後 0 0 島前の文化財 5 10 19 何とかして再びと−何度が思ったが、自然の荒廃と生活の事に追われてその機を失して現在に至った。今は自分の家の庭に来たもの以外は手を出さないことにしているが、往年の捕虫網もボロボロになって用心して振っても蝶もぬけそうである。島前 0 0 島前の文化財 5 10 26 はホ−ムグランドだが、島後の方は思うにまかせず主として夏休みを利用した。昭和七年の夏植物の採集に来られた丸山巌氏とはじめて西郷で会い、一緒に島後の山々を歩いた。その後、毎年のように打合をして島後を廻った、私は昆虫を丸山氏は植 1932 0 昭和7年 島前の文化財 壬申 5 10 32 物を、これが縁となって隠岐の植物の事を教えて頂いた。足に豆を作り、背にアセモをかき、谷川でシャツの洗干を岩の上に置いてアユを捕ったり、大満寺での昼寝、二人共水筒の水を飲干し、分けて負った標本の新聞紙は重く、顎を出し、汗をかき、 0 0 島前の文化財 5 10 37 へとへと歩いた山道の苦しかった事も忘れがたい。村から村への県道も夏ともなれば草ぼうぼうで僅かに荷馬車の轍だけが道である事を示している様なところが多く、ほんとうに自然に満ちていた。その代わり山路は今とちがい狭いが人がよく通る為 0 0 島前の文化財 5 10 43 に夏草の為に分からないという様な事はなかった。草いきれはあっても、土ぼこり、砂ぼころをかぶるような事はなかった。昔よ再び!日暮れて途なほ遠しの感を持ちながら隠岐の蝶の記録を綴る事にする。一、アゲハチョウ科(九種)アオスジアゲハ。 0 0 島前の文化財 5 10 49 ジャコウアゲハ。キアゲハ。アゲハ。オナガアゲハ。クロアゲハ。モンキアゲハ。カラスアゲハ。ミヤマカラスアゲハ。アオスジアゲハは暖地性の蝶の代表種とされ敏速な飛び方と翅の色彩の美しさはこれの特長で、隠岐では島後に多く有木奥の山道 0 0 島前の文化財 5 10 55 の水溜などに群舞する様は見事であった。島後では普通に見られるが、島前では少ない種類だ。幼虫はクス科のクス、タブ等の葉を食べる。ジヤコウアゲハ、戦前島後の岡部武夫氏の目録中に記載されたのを見た事はあったが、実物は昭和四十八年八 0 0 島前の文化財 5 11 1 月自宅で捕まるまでは見た事がなかった。これの食草はウマノスズクサ、オオバウマノス、ズクサで隠岐にはオオバウマノスズクサがある。此の草はつる草で花も一風変った花だが実が面白い、秋おそく風の吹く頃になると実は熟し乾いた実は破れて 0 0 島前の文化財 5 11 7 落下傘状になる。自然の巧とはいいながら見事なものである。一草を庭に植えて観賞したのがこのジャコウアゲハとの出会いになった。四十九年にも来た。今年も来る事を期待している。オナガアゲハ、ちょとジャコウアゲハに似たところがある。島 0 0 島前の文化財 5 11 13 前では少ない方で西ノ島でも山に入らないと見られない。島後でも大満寺山の谷合などではかなり見られる。モンキアゲハ、アゲハチョウの中では一番大型で飛翔中後翅の黄白色の紋が目立つ夏日蔭の林中でこれに出逢うと一層紋が浮立って見える。 0 0 島前の文化財 5 11 19 海岸の岩場に咲くコオニユリの赤い花に来ているのを見るとユリの花粉で翅などが赤くなっている。ミヤマカラスアゲハ、名の通り山地に多い蝶で翅に緑色鱗があって美しい。渓流の砂地などで群舞する時など見事である。カラスアゲハもこれによく 0 0 島前の文化財 5 11 24 似て美しい光った緑鱗が翅の黒色とよく映えて山道などで出逢うと一瞬目を見張らすほどである。二、シロチョウ科(六種)モンシロチョウ。スジグロシロチョウ。ツマキチョウ。モンキチョウ。キチョウ。エゾスジグロチョウ。この科のものはそれ 0 0 島前の文化財 5 11 31 こそ幼ななじみの様な気でつき合うと見そこないをする。油断なく確かめる必要がある。エゾスジグロシロチョウは「山陰の蝶」に記載されているが私は今まで気付かずにいた。スジグロシロチョウとよく似て見すごしていた。発香鱗を検鏡して見る 0 0 島前の文化財 5 11 37 必要がある。それ以外の見分方はむずかしい様だ。又キチョウだと思って見すごす中にツマグロキチョウが混入している可能性もある様に思われる。この科のものは油断がならぬ。三、マダラチョウ科(一種)アサギマダラ。アサギマダラはガガイモ 0 0 島前の文化財 5 11 43 科の植物のカモメヅル、キジョランなどを食草としていて多い蝶ではない。優雅でほとんど翅を開いたまま流れるように、ゆるやかな飛び方をしているが、捕虫に失敗すると一瞬空中高く舞い上りアットいう間に消えてしまう。美しい蝶だ。食草のキ 0 0 島前の文化財 5 12 1 ジョランは暖地系の蔓草で大形の常緑心臓形葉を持ち変った大型の実の成る植物で隠岐では限られた所しか分布していない。四、テングチョウ科(一種)テングチョウ。テングチョウ、名前も面白いが系統的に古い蝶でアメリカの第三紀層から化石と 0 0 島前の文化財 5 12 7 として発見されたものに近いとされている。此の蝶がテングチョウと名付けられたのは頭端が長く突き出して天狗の鼻のように見えるためである。食樹はエノキだが近年この大木などが姿を消してこの蝶も少なくなった様だ。西ノ島でも才ノ神の坂あ 0 0 島前の文化財 5 12 13 たりで路上に群がりとまり、歩いて行くと風に舞う落葉のように飛び散るのがゥられたが、道は舗装され食樹は切られて様子はすっかり変って来た。五、ジヤノメチョウ科(五種)ヒメウラナミジヤノメ。ジヤノメチョウ。ヒメジヤノメ。コジヤノメ。 0 0 島前の文化財 5 12 19 ヒカゲチョウ。色彩が地味で少し暗い様な叢間の中をみえかくれヒラヒラゆるやかに飛翔するものが多いのでつい見のがしたり、追うのをあきらめる事があるので注意して見のがしのないようにしたい。以前戦後になってこの科のものについて白水隆 0 0 島前の文化財 5 12 25 氏の確認を求められたものもあった。この科のものも見残しのないように注意したい。六、タテハチョウ科(一九種)ミドリヒヨウモン。クモガタヒオヨウモン。メスグロヒヨウモン。ウラギンスジヒヨウモン。ウラギンヒヨウウモン。オオウラギン 0 0 島前の文化財 5 12 31 ヒヨウモン。ツマグロヒヨウモン。イチモンジチョウ。コミスジチョウ。ホシミスジ。サカハチチョウ。ヒメアカタテハ。アカタテハ。ルリタテハ。ヒオドシチョウ。キタテハ。コムラサキ。ゴマチダラョウ。アサマイチモンジチョウ。此の種は数も 0 0 島前の文化財 5 12 38 多いが、又それだけに見のがしがある。イチモンジチョウとアサマイチモンジチョウは標本をもう一度見る必要があるほど似た種だ。門脇久志氏が区別され隠岐のリストにあげて居られる。手元にイチモンジをお持ちの方はもう一度よく見て頂きたい。 0 0 島前の文化財 5 12 43 又この科のもので注意して頂きたいのはスミナガシがある。岡部武夫氏の記録にも「山陰の蝶」にも記載してあるが、私は見たことのないものである。注意して見たいこの科のものにエルタテハ。シ−タテハなどもある。採集に来た学生などの採集話 0 0 島前の文化財 5 12 49 はあるが、私は確認していない。この科でコムラサキは美しい、雄の紫の幻色は怪しいほどの輝きを持ち美しさが何とも云えない。この蝶との出会いは昭和四年海士町の後鳥羽院の祭礼の最中であった。足元の叢にヒョイと止ったこの蝶の美しさは今も 0 0 島前の文化財 5 12 55 忘れられない。隠岐では少ない蝶のようだ。ゴマダラチョウはよく高い木の梢の上などで滑空していて捕虫網がとどかないが、好んで樹液に集まるので、この時は案外に楽々と捕れる。七、シジミチョウ科(一二種)ル−ミスシジミ。ムラサキシジミ。 0 0 島前の文化財 5 13 3 ウラゴマダラシジミ。ウラキンシジミ。トラフシジミ。カラスシジミ。ベニシジミ。ウラナミシジミ。ツバメシジミ。ヤマトシジミ。ルリシジミ。シルベヤシジミ。この種のものは小型で捕ってもなかなか整理に困難する。またよく似た連中もいて見 0 0 島前の文化財 5 13 9 のがしも多くなる。ヤマトシジミとシルビヤシジミがその一つである。前翅裏面の紋様に差がある。よく見ないと間違る。ル−ミスジミは島後ではじめて(昭和一五年八月一三日)大久奥山で♀一を採集した。この時谷で蜂の巣を踏みつけて蜂に追か 1940 813 昭和15年 島前の文化財 庚辰 5 13 15 けられ急な坂道を駆け上りフウフウ息をはずませている目の前に現れた。四〜五匹いたように思う。一寸変った型の蝶の様に思い網を振った、一匹入ったので三角紙に入れようとして取り落し叢の中に落して取りにくくあきらめようと思ったが、思い 0 0 島前の文化財 5 13 21 なおしてようやく取り上げた。その晩の事も忘れられない、布施村宿りである。例によって前の河原で足や手を洗って宿に入る、二階の机で早速蝶を出して見てビックリした。ル−ミスシジミにちがいない。図鑑と何回も合せて見る。おしかったあの 0 0 島前の文化財 5 13 26 時何でもっと捕らなかったか。くちおしい明日もう一度引きかえそうかと思案していると宿の姉ちゃんが夕食を持って来た。お客さん今晩はお米の御飯ですよと云うので不思議そうな顔したと見えて、「いつもは麦まざり飯を出すのですが、今日から 0 0 島前の文化財 5 13 32 お盆ですから」と説明してくれた、もう戦時色でこの年が最後で島後行きは一寸出来なくなる。その晩ル−ミスの事など思って寝られずにいると、地震だ可成りゆさゆさ揺られた。村中大騒して浜に出て沖を見ている。二階で様子を見ていると、主人 0 0 島前の文化財 5 13 37 が下に降りて来る様にと呼ぶので心配する程の事もないので顔を一寸出してそのまま寝る。明る日は朝から雨になって、引返す事もあきらめ中村へ向った。ル−ミスシジミは昭和一五年一〇月四日、江崎博士に他の標本類と共に送って確認して頂いた。 1940 1004 昭和15年 島前の文化財 庚辰 5 13 43 其の後一九五一年、一九六八年と捕れた記録がある。ウラキシジミ、これは西の島の高崎山で素手で捕った。風の吹く日で笹の葉に飛ばされんようにしがみついていて小型の蝶だが翅裏の黄金色が目について捕える気になった。網を持たなかったので 0 0 島前の文化財 5 13 49 両手で挾み捕りマッチ箱に入れて持ち帰った。蝶は羽化して間もないような新鮮なものであった。この蝶は現在日本特産種で北海道から九州まで分布し、近畿地方では低地にも棲息するといわれるが一般的には山地性で一部の地方を除いては数が少く 0 0 島前の文化財 5 13 54 珍重される。その当時は鳥取の大山はこれの産地として知られていた。この蝶が隠岐でも多くとられていないのは、これの生態からであろうと思われる。というのは山地性なのと年一回の発生で七月から八月にかけて羽化し成虫が現われるが昼間はあ 0 0 島前の文化財 5 13 60 まり活動せず、夕刻かなり暗くなってから梢から梢へと渡り飛ぶなどが採集者の目にかかりにくい原因と思われる。しかし昼間おくれ咲いた栗の花に来て蜜を吸うのもあるので採集には栗の花を目標に丹念に探すのが効果的と云われている。八、セセ 0 0 島前の文化財 5 13 66 リチョウ科(七種)ダイミヨウセセリ。キマダラセセリ。イチモンジセセリ。ヒメキマダラセセリ。ミヤマチヤバネセセリ。チヤバネセセリ。ホソバセセリ。この蝶も整理に困難する小型でうるさい種だ。網で採るのはさほどの事でもないが、体型が 0 0 島前の文化財 5 14 5 変っているだけに心いそぐ時には始末におえない。地味で目立ない種だけに見すごしも多くなるが注意して見なければならない種である。さて以上で記載した種は八科六〇種になるが「山陰の蝶」との記載の相違は私はスミナガシを未確認だし彼れに 0 0 島前の文化財 5 14 11 はジヤコウアゲハが入っていない。スミナガシは見つかると思うが平地には少い種で隠岐では食草が少いと思われるし、飛ぶのも速いとの事であるがこれが見付ると八科六一種となる。昨日高崎山の見える仁具の浜から谷間づたいに歩いたがツマキチョウ 0 0 島前の文化財 5 14 17 が沢山飛んでいた。ハマダイコンの花に来る。一見弱そうな蝶だが風を利したすび方でなかなか近よせない写真をと思うが飛ぐ逃げる。春型のアゲハチョウも出ていた。昭和五〇、四、三〇記。(島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 5 15 1 隠岐の鳥類、前田安住。春になると、毎年同じ場所にツバメが帰ってきて営巣し、ひなを育て、秋に去っていくこのツバメのように、非常に多くの鳥が定期的に季節によって移動している。その移動の程度は種によってさまざまで、地球を半周するほ 0 0 島前の文化財 5 15 8 ど移動するのも、ごく小さな範囲を移動する場合がある。両方とも、大きな意味で渡り鳥である。これに対して、一年中ほとんど移動しない鳥<留鳥>もいる。日本では普通海を渡るような長距離の移動をする鳥を<渡り鳥>と呼んでいる。渡り鳥の 0 0 島前の文化財 5 15 14 中には、冬ごしを別の地方でして、秋になって去っていく鳥。日本では繁殖しないが、冬の寒さを越しにやってくる鳥があるが、前者を夏鳥、後者を冬鳥と呼んでいる。また、国内を季節によって移動する鳥を<漂鳥>と呼び、渡りの途中に立ちよっ 0 0 島前の文化財 5 15 19 ていく鳥を<旅鳥>と呼んでいる。しかし、多くの鳥が<渡り>をするのはなぜであろう。長い距離を幾日もかけて飛んでいくことは外敵、天候の状態、つかれと危険がいっぱいであるし、実際たくさんの鳥が死んでいるなずである。それにもかかわ 0 0 島前の文化財 5 15 26 らず、毎年きまったコ−スを正確に渡りをする。はかりしれない鳥の世界であるが、私は、このはかりしれない鳥の世界の研究をしたのではなく、現在に至るまで、隠岐の先輩諸氏が苦労なされて一九七種の鳥を、確認された偉大な業績を若い我々が 0 0 島前の文化財 5 15 31 引きつぎ、少しでも先輩の手助けになればと思いペンをとった次第です。私が現在までに確認できた鳥について、誰にも訓じみ深い鳥を渡り鳥、留鳥、旅鳥とに分類して、紹介したいと思います。1留鳥。*スズメ、、、<離村にびっくり>「すずめ、 0 0 島前の文化財 5 15 39 すずめ、おやどはどこだ」と歌がとびだすほど、人間生活とかかわりあいの深い鳥である。この鳥の特徴は、頭頂とうなじが茶色で、白いほおに黒い斑があり、人家のあるところにはどこにでもいる。あるスズメ研究家によれば、ある山村の部落の戸 0 0 島前の文化財 5 15 46 数が一九七一年から一九七三年にかけてどんどん減り、最後の年にとうとう全員山をおりた。するとどうでしょう、一年もたたないうちにスズメは一羽もいなくなったそうである。この事象は、一体なにを意味するのであろうか。なかなか興味深い問 0 0 島前の文化財 5 15 51 題ではないだろうか。*ヒヨドリ<異変?>低山帯の常緑広葉樹の森林をすみかとし、秋から冬にかけて人里近くにおりて、「ヒ−ヨ、ヒ−ヨ」と騒々しく鳴く、この鳴き声からヒヨドリと名付けられる。この鳴き声も、春、繁殖期にはいると「ピ− 0 0 島前の文化財 5 15 58 ルリ、ピピ−ルリ」と変な鳴き方をし、人里近くに全然現れなくなる。ところが、近年、都会地では繁殖期に入っているはずのヒヨドリが、都心に現れヒナと一緒にえさをあさる姿をたびたび見るという。こんな現象がどんどん国内でふえつつある。 0 0 島前の文化財 5 16 6 このヒヨドリの習性を変えた原因は何であろうか。*モズ<秋の象徴>この鳥の特徴は秋の風物詩、高鳴きであろう。秋の早朝「キ−イ、キ−イ、キキキキ」と高い声で鳴き、テリトリ−(縄張り)の宣言をする。このテリトリ−が定まるとこの高鳴 0 0 島前の文化財 5 16 13 きもおさまる。また、採餌の方法は、高い木の下枝や低木に止まって、そこから昆虫の動きなどを見張りをし、餌をまいおりて採るとまたもとの枝にかえって食べる。この鳥は集団で生活するようなことはなく、繁殖期以外はつがいをつくらず、一羽 0 0 島前の文化財 5 16 19 で生活する。また、この鳥で印象的なのはタカ類のように口ばしが強く先端が鈎状で、顔は太くて黒い過眼線が目立つ。*カラス<不吉な鳥>古来から「カラスの鳴きが悪い」と不吉なでき事の知らせでるるとか、、、と、人に嫌われた誰も知ってい 0 0 島前の文化財 5 16 25 る鳥である。このカラスには、ハシボソガラスとハシブトガラスの二種がある。普通一般に「カラス」と呼んでいるのはハシボソガラスのほうである。この二種は、体つき、鳴き声では区別しにくい。区別できるのは口ばしで、ハシボソガラスの方が 0 0 島前の文化財 5 16 32 ハシブトガラスよりも細い。*コカワラヒラ<目立つ黄色帯>日本にいるヒワ属の鳥はマヒワ、ベニヒワ、カワラヒワと三種であるが、普通日本で繁殖するのはカワラヒワのみである。カワラヒワは農耕地、河原、村落など人のすむところにふつうに 0 0 島前の文化財 5 16 38 みられる鳥である。日本のカワラヒワは亜種で、英名<スモ−ル、ジャパニ−ズ、グリ−ンフィンチ>と呼ばれているように、小型で、羽色は全体に緑色をしており、飛んでいるときに翼の黄色帯が目立つ。春早く、高い木の梢から「ビィ−ン、ビィ 0 0 島前の文化財 5 16 45 −ン」「チョン、チョン、チチチ」というさえずり声を聞く。ふつう「キリキリ」と鳴きながら波状に流れるように飛ぶので、一見して他の鳥と区別することができる。*セキレイ<尾振り鳥>水辺できぜわしく尾を上下に振る姿を多くの人は見て知 0 0 島前の文化財 5 17 4 っていると思う。人が近づくと、「チチン、チチン」と波状に飛んで逃げていく。セキレイには、セグロセキレイ。ハクセキレィ、キセキレイの三種がいる。セグロセキレイは、その名のとおり背が黒く、のど、胸、顔も黒く額から目の上部を通る白 0 0 島前の文化財 5 17 11 眉線が目立ち白のコントラストのあざやかな鳥である。ハクセキレイは上面と胸と尾が黒く、顔と翼と腹が白くてセグロセキレイと同様で、コントラストのあざやかな鳥である。前者の鳥と区別がつきにくく、よくとまどうことがある。また、繁殖は 0 0 島前の文化財 5 17 18 海岸近くで、しかも東北地方から北に限り、冬には関東以南に渡るので、漂鳥といえるであろう。キセキレイは、黒く長い尾とあざやかな黄色の下尾筒をそなえた鳥で、体の上面はねずみ色、下面は黄色で翼の色は黒く、下尾筒の黄色との対照があざ 0 0 島前の文化財 5 17 24 やかである。*メジロ<飼い鳥>メジロの声を求めて、多くの人は子供時代メジロとりをした思い出があると思われる。この鳥の特徴は、眠の周囲に光沢のある白い輪があることである。地方によっては、繁殖期のメジロのさえずりが「長兵衛、忠兵 0 0 島前の文化財 5 17 31 衛、長忠兵衛」とも聞こえるそうである。*ホオジロ<夫婦円満>よく知られている鳥で、黒い顔に白いほお線と長い眉線がある。冬飛ぶとき、尾羽の外側の白色が目立つ。真冬の一時期を除いては、年から年じゅう雌雄いっしょに暮らす仲のよい鳥 0 0 島前の文化財 5 17 38 である。この鳥の鳴き声は、ある地方では「一筆啓上候」と昔の手紙文の書き出しのようにきこえるとか、、、。*シジュウガラふつうに見られる鳥で、背は緑かかった色で、腹は白く、その中を黒い線が一本はしる。のどの頭の上は黒く、ほかは白い。 0 0 島前の文化財 5 17 45 シジュウガラは活発で、「ツ−ピ−、ツ−ピ−」と鳴き、群れることはほとんどない。*ヤマガラ<芸達者>隠岐では島後に多い鳥である。シジュウガラとほぼ大きさは同じだが、尾が短く下面がくり色をしている。飼い訓らすと、つるべをたぐり水 0 0 島前の文化財 5 17 52 を飲むとか、おみくじを持ってくるとか芸をよく覚え、「ツツビ−、ツツビ−」とよい声でさえずる。*ウグイス<音楽家>日本では古くからウグイスの鳴き声は多くの人に親しまれてきた。背面はいわゆるウグイス色で、薄い白色の眉斑がある。鳴 0 0 島前の文化財 5 17 61 き声は「ホ−ホケキョ」と聞こえるものと、俗に谷渡りといわれる「ケキョ、ケキョ、ケキョ」と続けるものと、また、梅の花が咲く頃まで平地にいて「チャッ、チャッ」と鳴く、俗にいう「ヤブウグイス」の場合がある。*カワセミ<頭でっかち> 0 0 島前の文化財 5 17 67 池のほとりを「ツィ−」と鳴き、直線に低く飛ぶ姿を見かける。この鳥は、頭と口ばしが大きく、尾が短いスタイルの悪い鳥にもかかわらず、背面は頭から尾の先までコバルト青色をしており、腹面はくり色の美しい体色をしている。*トビ<掃除家 0 0 島前の文化財 5 18 6 >好天の日、「ピ−ヒョロロ」と、上昇気流にのって円を描きながら飛んでいる姿は素晴らしい光景である。トビは、タカの仲間とはちがい、生きた獲物をねらうのではなく、人の捨てた動物質の残物や死魚などを巧みにつめで採り、木に止まってゆ 0 0 島前の文化財 5 18 13 っくりと食べる。いわば自然界の掃除家である。*ハヤブサ<狩人>狩りのみごとさ、スピ−ド、機敏な飛行振りは古くから知られている。昔から「タカ狩り」に用いられたオオタカと比較した場合、ハタブサは、上空から急降下して獲物をおそい、 0 0 島前の文化財 5 18 20 オオタカは、横合いから鋭いつめで獲物を落すそうである。*ミサゴ<ダイビング鳥>ミサゴは、上空から急降下して水面の獲物をとるため、水面に「ビシャ」と水しぶきをあげる習性からか「ビシャゴ」と呼ぶところもある。島前の耳浦海岸から国 0 0 島前の文化財 5 18 27 賀海岸にかけて、ミサゴの勇姿に時おり出会う。*イソヒヨドリ<ピ−コ−>名前が示す通り磯にすむ鳥で、海に面した崖とか岩の上で、時々尾を上下に振って「ツツピ−コ」と澄んだ声で鳴く鳥をよく見かけると思う。体色の特徴は、胸から腹にか 0 0 島前の文化財 5 18 34 けて濃い赤茶色がよく目立つ。メスは全体が黒灰色で、別種のように見える。*ミソサザイ<小型>小さい鳥で体の背面が茶褐色で黒い縞があり、腹面はベ−ジュ色で、腹部とわき腹に横縞がある。冬になると積雪の少ない山麓や人里付近に現れ、切 0 0 島前の文化財 5 18 42 株の上や岩から岩へと「チョッ、チョッ」と鳴きながらとび移る。危険がないと判断すれば、尾を垂直にたて高声音で「チョロロロロ」と鳴く。*クロサギ<変わり者>普通サギといったら、白の代名詞のようになっているが、黒っぽい羽毛をもち海 0 0 島前の文化財 5 18 48 焼火 岸の岩礁だけで生活する変わり者である。日本では、個体数の少ない鳥であるが、島前の焼火山の海岸線でよくみかける。*キジバト<山バト>「デデポッポ−」の鳴さ声で多くの人に親しまれ、俗に「山バト」といわれ、各地でもっとも普通に見ら 0 0 島前の文化財 5 18 55 れるハトである。農地に近い雑木林を好んですむが、最近、都会の公園や、庭園の植込みに入りこんできているそうである。この鳥は、防衛行動の一つとしてキジバト特有の円舞があり、これは空中高く舞い上がり滑空しながら円を描く行動であり、 0 0 島前の文化財 5 19 3 この鳥が円舞するとすぐ近くに巣があることがわかるそうである。*カラスバト<Eシバト>隠岐の鳥はと問われたら、まず第一番にあげるのはこの鳥であろう。全体が金属光沢のある黒色で、ふつうのハトよりも一まわり大きいのですぐ確認できる。 0 0 島前の文化財 5 19 11 鳴き声は、「ウッウ−、キリ、キリ」とツく。別名ウシバトとも呼んでいる。この鳥は、太平洋岩に面した温暖地にすむ留鳥であるが、数がたいへん少ないので、天然記念物に指定されているが、知夫、西ノ島、海士でも冬の間よく観察できるように 0 0 島前の文化財 5 19 17 なった。*ニホンキジ<国鳥>西ノ島にニホンキジが放鳥されたのが、西ノ島のいたる所で「け−ん、ケ−ン」と鳴き声が聞こえてくる。相当数が増した様子である。海士の方でも近頃キジをよく見かけるようになり、ふえすぎて農作物に影響がなけ 0 0 島前の文化財 5 19 24 ればよいのだが、、、、。*イソシギ<目立つ白帯>シギ科はふつう旅鳥が多いが、イソシギは一年中観察できる。水辺に近い草原や海岸近くで、「ツィ−、ツィ−」と澄んだ声で、翼を小刻みに動かしながら、水面上を低く飛ぶ。飛ぶときに、翼に 0 0 島前の文化財 5 19 32 ある白帯が特に目立つ。*ウズラ<幻の鳥>何のへんてつもない鳥であるが、数年前、隠岐にウズラは棲息しているやいなやと、木村康信先生と岡部武夫先生両氏との間に意見のくいちがいがあったそうである。木村先生は、ウズラは棲息している。 0 0 島前の文化財 5 19 38 岡部先生は、それはシギ科の誤認だと、、、。私はどちらにせよ、このまぼろしの鳥、「ウズラ」を求めて山野を歩きたいと考えている。2渡り鳥。(ア)夏鳥。*ツバメ<春の使者>春を告げる桜と同じようにツバメの初確日も生物暦として使われ、 0 0 島前の文化財 5 19 47 人間生活とのかかわりあいも深い。わが隠岐の島にも毎年、ツバメ、コシアカツバメ、イワツバメの三種が飛来する。コシアカツバメは、ツバメよりも一まわり大きく、腰の部分の赤かっ色がよく目立つ。その断面を天井にくっつけたような形である。 0 0 島前の文化財 5 19 54 イワツバメは、国賀海岸などの洞穴内に巣を作り、ツバメよりも一まわり小さく、腰の白い部分がよく目立ち、尾は燕尾型ではなく、全体をしてかわいらしい。*サギ<公害の被害者>今から十余年前までは、美田の田んぼに百近くのサギが乱舞して 0 0 島前の文化財 5 19 61 いたという。ところが、現在では農薬汚染がひどく、サギもポツン、ポツンとした見ることができない。このサギの仲間には、アオサギ、ダイサギ、チュウサギ、コサギ、アマサギ、ゴイサギがある。アオサギは、サギの中でも最大で、背は名のとお 0 0 島前の文化財 5 20 2 り青灰色で前頚に黒いすじがあり、飛んでいるとき、「クワッ−、クワッ−」と鋭い不協和温を発する。ダイサギ、チュウサギ、コサギはよく似ているが体の大きさで識別する。ダイサギ全長九〇センチメ−トルぐらい、チュウサギは全長七〇センチ 0 0 島前の文化財 5 20 8 メ−トルぐらいで、繁殖期になっても冠羽がなく指が黒い。一方コサギは繁殖期に入ると冠羽が数本でて、指が黄色であることから区別できる。アマサギは、ふだんは全身まっ白い。しかし繁殖期に入ると、頭や首、飾り羽が亜麻色<キツネ色>を帯 0 0 島前の文化財 5 20 14 びてくる。アマサギの名はここからきたのである。この鳥は、もともとアフリカとアジア南部にすむ留鳥であったそうだが、ここ五十年間に全世界に分布を広げ、世界の大陸でどこにでもみられる鳥になり、世界でこれほど、急速に広まった例は少な 0 0 島前の文化財 5 20 20 いという。日本でいつから見られるようになったのかはわからないという。ゴイサギは、サギの中でも変わり者で繁殖期以外は昼間は休んでおり、夕暮れになると「クワッ、クワッ」と鳴き、夕暮れから夜明けにかけてえさをあさる。この鳥は、他の 0 0 島前の文化財 5 20 27 サギとちがって、いつも首を乙字形に曲げているので首がないように見え、目は赤く、頭上に白い羽毛が二、三本ある。*オオミズナギドリ<騒音公害>隠岐の鳥類の中でカラスバトについで、あげたい鳥である。知夫里島の沖にある周囲二キロメ− 0 0 島前の文化財 5 20 34 トルの波加島は、オオミズナギドリの王国である。この鳥は、体は暗褐色で白い羽縁があり、下面は白く足は、体の後方についており、歩くのがたいへん下手な鳥である。この島に一歩足を踏み入れると、オニスゲの根の下に、一メ−トルから一メ− 0 0 島前の文化財 5 20 41 トル五十センチメ−トルぐらいの横穴の巣が、一平方メ−トルあたり、三個ぐらいありよく足を巣にとられることがある。島が夕闇せまる七時前、はるか向こうの海上から「ピ−ウィ、ピ−ウィ」(雄の鳴き声)「オ−ギャ、オ−ギャ」と鳴き声がだ 0 0 島前の文化財 5 20 47 んだん近くなると、やがて島の上空を左旋回をしはじめる。すると「ピ−ウィ、バタバタドスン」と鳥の鳴き声、木にひっかかる音、地面に落ちる音がいたる所から聞こえてくると、何となく気分がよくない。島に到着してからもさえずり通しで、島 0 0 島前の文化財 5 20 53 全体は騒音公害である。夜明け前、木を滑翔台として飛び立ったり、障害物のない岩の上やひらけた斜面を利用して、約三千羽の鳥が飛び立つ姿はすさまじい。*ウミネコ<大家族>ウミネコは渡り鳥であるが、隠岐では一年中見られる。この鳥は、 0 0 島前の文化財 5 20 62 背と翼の上面は黒に近い濃い色で、その他の部分は白色だが、他のカモメと違って成鳥になっても尾の先端の太い黒帯が目立ち、その名が示すように、鳴き声は「ニャオ、ニャオ」とネコが鳴くような声である。(イ)冬鳥。*シメ<アンコ型>全体 0 0 島前の文化財 5 21 2 にかっ色を帯びた肉色で、大きな首、短い尾といったずんぐりした体つきとおおきな口ばしで、他の鳥とはすぐに区別がつく。大きな口ばしで果実のかたい種子などを割り、中の実をだすほど強靭な口ばしの持ち主である。*アトリ上尾筒が白く肩の 0 0 島前の文化財 5 21 9 ところが錆色をしているので他の鳥とは区別ができる。また鳴き声は群れをなして「キョッ、キョッ」と鳴く。去年はこのアトリをよく見かけたが、本年はあまり見かけなかった。*ヒレンジャク<赤い尾>ツグミより少し小形の鳥で、頭上に尖った 0 0 島前の文化財 5 21 16 羽冠をもち尾の先端が赤いことにより、他の鳥と容易に区別することができる。*キレンジャク<黄色の尾>ヒレンジャクと大体似るが、尾の先端が黄色である。本年、海士、西ノ島で約六〇羽の大群を見る。*ツグミ<チョウマ>ふつうに見られる 0 0 島前の文化財 5 21 24 冬鳥で、関東地方ではチョウマと呼んでいる。昔はカスミ網でこの鳥を生捕りにしたようであるが、現在では禁止されている。日本に渡ってくるツグミの経路は三つのコ−スに分かれているそうである。この鳥の鳴き声は越冬期には耕地に降り「キェ 0 0 島前の文化財 5 21 31 −キッ、キェ−キッ」と鳴く。*ジョウビタキ<紋付き>冬、上下に尾を振り「ヒ−カカ、ククッ」と地鳴きをする。頭は灰色で口から口ばしにかけて黒く、腹面が赤茶色で黒っぽい翼に白い紋があるので、「紋付き」と呼ばれている。*カモ<浮寝 0 0 島前の文化財 5 21 38 の名手>海士のスワ湾にて四種のカモを観察することができた。ホシハジロは、頭部と首の部分がこげ茶色で、胴体は明るい灰色。ヒドリガモは頭部は赤かっ色で、額部はクリ−ム色で、背部は灰色で尻は黒い。ヨシガモは、頭部の羽毛はふさふさと 0 0 島前の文化財 5 21 45 していて緑と銅色に光り、後頭部で長い冠羽となる。キンクロハジロは、全体に光沢のある黒色で。下腹部から腹側ぶにかけては純白で、長い冠羽がうなじの上にたれさがっているのが特色である。私が、これらのカモを観察できたのは、たぶん渡り 0 0 島前の文化財 5 22 5 の帰路、羽休みに立ち寄ったもの考えられる。*タゲリ<ピ−ウィ>「ピ−ウィ、ピ−ウィ」と鳴くので、英名で(ピ−ウィ)とも呼ばれている。飛ぶとき翼の動かし方がゆるやかであり、頭に冠羽がある。本年、海士中学校前の田んぼ、約三〇羽の 0 0 島前の文化財 5 22 13 群れを観察すること出来た。*カモメ<港湾鳥>隠岐島では、オオセグロカモメ、セグロカノメ、カモメと三種観察することができた。オオセグロカモメとセグロカモメの区別はなかなかむずかしいが、前者の二種とカモメを区別するには足の色を見 0 0 島前の文化財 5 22 19 ることである。オオセグロ、セグロカモメの足は肉色であるのに対して、カモメは黄色である。また口ばしの先端に赤色斑があり、体も大きいことで区別きでる。*オオハクチョウ<白衣の天使>去年の十二月三日から十三日までの十日間スワ湾に六 0 0 島前の文化財 5 22 27 羽オオハクチョウが滞在する。そのうち二羽が成鳥であり、あと四羽は幼鳥であった。成長の羽毛はまっ白で、口ばしは目に続き黄色でその先端は黒色である。幼鳥は全体の羽色が灰色で、汚れた感じでハクチョウらしくない。ハクチョウは、アマモ 0 0 島前の文化財 5 22 34 などの底生植物や沼沢植物の根、種子を常食をしている。<アカエリカイツブリ>浅い湾や沼岸でよく見られる鳥で、繁色羽では頭部は黒で、首はあざやかな焦げ茶色をしているので、すぐ見分けられるが、非繁殖羽ではカンムリカイツブリとよく似 0 0 島前の文化財 5 22 40 ているのでなかなか見分けが困難である。*オオバン<クル−>雌雄ともに羽毛が黒く、足指が平たく幅広くなっていて泳ぐのに適している。この鳥の鳴き声は「クル−」とつんざく声で鳴き、ときどき「クッ」という短い声が混ざり、この声を続け 0 0 島前の文化財 5 22 47 ざまに繰り返す。3旅鳥。旅鳥については確認できない種が多く、残念であるが、木村康信先生の観察によれば、次にような鳥があげられる。ムギマキ、ノゴマ、サンカノゴイ、アカアシシギ、ソリハシシギ、オグロシギ、ダイシャクシギ、チュウシ 0 0 島前の文化財 5 23 7 ャクシギ、ハマシギ、トウネン、ウズラ、ムナグロ、メダイチドリなどである。以上、簡単に隠岐の鳥類について列挙したにすぎないが、鳥類の観察者の仲間が一人でもふえれば、幸だと思います。尚、稿をまとめるにあたって、木村康信先生の暖か 0 0 島前の文化財 5 23 14 い御指導があったことを申し添え感謝したい。参考文献、隠岐雑粗、第二巻。隠岐郷土研究、、(8)。世界動物百科(朝日新聞社)。(海士町立福井小学校教諭) 0 0 島前の文化財 5 23 21 島前産、鳥類標本目録、木村康信。カラス科:カケス。ムクドリ科:ムクドリ。キンパラ科:スズメ、白化スズメ、ニュナイスズメ。アトリ科:シメ、アトリ、コイカル、ホホジロ、カシラダカ。セキレイ科:キセキレイ、セジロタヒバリ、タヒバリ。 0 0 島前の文化財 5 23 29 メジロ科:メジロ。ウグイス科:キクイタダキ、ウグイス、コヨシキリ。モズ科:モズ。レンジャク科:キレンジャク、ヒリンジャク。ヒヨドリ科:ヒヨドリ。ツグミ科:トラツグミ、クロツグミ、ツグミ、シロハラ、ルリビタキ、ジョウビタキ、ノ 0 0 島前の文化財 5 23 38 ビタキ。ミソサザイ科:ミソサザイ。ツバメ科:イワツバメ、ツバメ、コシアカツバメ。アマツバメ科:アマツバメ。ブッポウソウ科:ブッポウソウ。カワセミ科:カワセミ、アカショウビン。ホトトギス科:カッコウ。フウロウ科:オオコノハヅク、 0 0 島前の文化財 5 23 46 コノハヅク、アオバヅク。ハヤブサ科:ハヤブサ。外二点。ワシタカ科:ハイタカ、ツミ、エッサイ、トビ、オジロワシ。ヘラサギ科:トキ。(風切羽根のみ)サギ科:アオサギ、チュウサギ、クロサギ、アマサギ。ササゴイ。ゴイサギ。ミゾゴイ。 0 0 島前の文化財 5 23 54 ヨシゴイ、オオヨシゴイ。ガンカモ科:オオハクチョウ、マガモ、カルガモ、コガモ、オシドリ、ビロウドキンクロ、スズガモ。ウ科:ウミウ。ウミツバメ科:ヒメクロウミツバメ。同ヒナ。ミヅナギドリ科:オオミズナギドリ。同ヒナ。カイツブリ 0 0 島前の文化財 5 23 61 科:カイツブリ、ハジロカイツブリ。ハト科:カラスバト。シギ科:イソシギ、ツルシギ、ホウロクシギ、ウズラシギ、ヤマシギ、タシギ、アカエリヒレアシシギ、アオシギ。カモメ科:アジサシ、ウミネコ、セグロカモメ、ユリカモメ。ウミスズメ 0 0 島前の文化財 5 23 68 科:ウトウ、ウミスズメ。クイナ科:ヒクイナ、同ヒナ、ツルクイナ♂♀、ヒメクイナ、オオバン、クイナ、バン。以上の標本は筆者の作成したもので防腐しただけで整形してない事を付記する。 0 0 島前の文化財 5 24 1 知夫海士二郡村々神社取調帖、−島前神社(小祠)資料−、松浦康麿。はじめに。一、中古以来、某権現或ハ牛頭天王之類、其外佛語ヲ以神号ニ相称候神社不少候、何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早々可申出候事、但勅祭之神社、御宸翰、勅額等有 0 0 島前の文化財 5 24 8 之候向ハ、是又可伺出、其上ニテ、御沙汰可有之候、其余之社ハ、裁判、鎮台、領主、支配頭等ヘ可申出候事。一、佛像ヲ以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事、付、本地抔ト唱ヘ、佛像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、佛具等之類差置候分ハ、早々 0 0 島前の文化財 5 24 16 取除キ可申事。右之通被仰出候事。(神佛分離に関する布告、神祇事務局達)右が明治元年四月二十日=慶応四年二月二十八日、通達の所謂「神仏判然令」であるが、これに基いて隠岐に於てもこれが実施の前提として明治二年から三年にかけて、億 1868 420 明治元年 島前の文化財 戊辰 5 24 23 伎有尚、忌部正弘、松浦十郎の三氏を中心として隠岐島内の神社の悉くを調査した。この記録は、さきに曾根研三氏の編集によって、謄写刷で島根県より「隠岐国神社秘録」と題して刊行され、隠岐の神社の研究資料として学界に益する事、大であった。 0 0 島前の文化財 5 24 30 神楽 ここに紹介する「神社取調帖」は、其の調査の折、宇野重寛(海神社神主=島前神楽社家幣頭家)が主として「小祠」のみを調査して億伎有尚に差出したものの控えである。表題のみを見ると島前の神社の総ての調査書の様に見えるが、これは島前の 0 0 島前の文化財 5 24 35 神社の総べてではない。現存する各村々の氏神を初め、中社以上と認めた神社は右の「秘録」にすべて記載されており、其のほとんどが現存している。ここに紹介する「小祠」もほとんど現存しているかと思うが、その由緒、神名等の不明のもの、又 0 0 島前の文化財 5 24 42 廃祠となったものoているかと思うので、大方の参考になればと紹介する事にした。原本は私の所蔵で、和半紙表紙共九枚の和綴で、表紙を除き罫紙に書かれている。猶記載の村名はすべて旧村名である。本文。隠岐国知夫海士二郡村々神社取調帖、 0 0 島前の文化財 5 24 50 知夫郡宇賀村。八面荒神社。此祠倉ノ谷浦ニアリ。重寛ワカキ時遷宮の神事アリテ行テ此神ノ御名ヲ八面荒神ト唱フルハ何トカヤ佛メキテ聞ユト云ヘバ、カシコノ浦人ナル西当ノ何某トテ齢八旬ヲコエタル翁カタワラニアリ云ヘル。此神ヲ八面荒神ト 0 0 島前の文化財 5 24 57 唱ヘ奉ルハ、八方ヲ守リ給ヘル御名ニテ此浦ノ八方ヲ守護シ給フ神ナリト古ヘヨリ云傳ヘテ、人皆ネギ事シ仰キ奉レリト云ヘリ(中畧)此浦ニハ外ニ神モオワシマサズ(中畧)森モフトク松ノ古木生ヒ茂リ殊ニ名畑モ八面名ナド云ヒテ付タリ。星神。 0 0 島前の文化財 5 24 63 コレハ本郷ヨリ一、二里余モ離レテ、廻リイカバカリカアラン島ノアリケルヲ、星神島ト唱ヘ祠モナケレド星神ヲ祭レルヨシココノ神名記ニモ載セ又隠州記、隠岐古記集ナド云フモノニモ書ノセタリ(中畧)近キ頃ヨリ雨降サザレバ此島ニ渡リテ、雨 0 0 島前の文化財 5 25 4 ヲ祈ルニ必ズ降ルト云フニアラネド降ル事モアリ。誰ガ云ヒ習ハセリト云事ノ由縁ヲシラズ。宇賀村人ナルモノサマザマノ妄説ヲ伝ヘ云フモノアレド更ニヨルニ足ラズ。御崎祠。知当ト云フ里ノ奥ニアリ。コハ旧ノ御名、日御崎ト云ヘリ。愛宕祠。物 0 0 島前の文化財 5 25 13 井ト云フ里ノ奥ニアリ。此ニ祠フルケレド真気命神社ノ未社トナリテ可ナルベシ。御崎祠。是モ同所ニアリ。此祠ハナホ古ク森モフトク古木多カレバ、ココニ置キテ然ルベキカ。同郡別府村。伊勢社。祭神内宮ニ同ジ。近キ頃外宮モ合セ祭レリ。此社 0 0 島前の文化財 5 25 22 ト耳浦ナル山神トノ二社ヲ書出セリ。太キ松ノ森アリテ往古ハ此山ヨリ浜辺マデ松ノ大木生ヒ續キタリト云ヒ伝ヘリ。今モソノ余波トオボシキ松モアリ。頂上ニ旧伊勢ト云フ所アリ。イツノ頃ホヒ下ニ社ヲ下シ奉レリヤ其由縁シラズ。幸神祠。稲荷祠 0 0 島前の文化財 5 25 30 山神祠。此ノ三祠モ古クハ見ユレド程近ケレバ伊勢社ニ合祭シテ然ルベシ。日吉祠。女帝祠。此ニ祠四河浦海神社ノ左右ニアリ。此祠モイト古ク、二祠共名田畑付テ二人所持セリ。サレド此祠ハ海神社ノ未社ナリト昔ヨリ云ヒ伝フレバ未社トナリテ可 0 0 島前の文化財 5 25 38 ナルベシ。同郡美田村。従三位柴木彦大明神。此神ハ隠岐国神名記ニ載セタル百六社ノ内ナリ。我子重壽ガ考ヘニ日ク、小向ト云フ里ノ左ノ方ノ日余山ト云フ山ノナカラニ、松ノ前トテ松ノ大木五本アリ、是レヲ松ノ前ノ山神ト云ヘリ祠ハナシ。其所 0 0 島前の文化財 5 25 45 ノ名ヲ柴木山、又カタハラヲ柴舟トモ云ヘリトゾ(中畧)重壽神事アリテ彼ノ里ニマカリ帰ルサニ彼ノ日余山ノ裾野ヲ通ルニ一人ノ老翁ニ行逢ヒテ思ヒ出シタレバ、彼ノ山ノ由縁ヲ委シク尋ネ聞クニ老翁ノ日ク、彼ノ松ノ前ノワタリヲ柴木山ト云ヒ、 0 0 島前の文化財 5 25 51 又カタハラヲ柴クネト云ヘリ。松ノ前ヲ下リテ少シ計リノ岩窟アリテ祠ノ形モアリ。コハ何ノ神ト云フ事ハ知ラネドモ昔ヨリ此所ノ山神ナリトゾ云ヘル。行テ見マホシク思ヒ給ハバ己手引シテ行カント云ヘシバ嬉シク、彼ノ老翁ト二人行キテ見ルニ実 0 0 島前の文化財 5 25 57 ニ老翁ノ言ニ違ハズ。是ナン正ニ柴木彦神ナラント伏拝ミテ家ニ帰リテ重寛ニ語リケラク、今日ハ神ノ御シワザニ依リテ兼テ尋ネマホシキ柴木彦大明神ニ合奉リタクトゾ、ツバラニ語リ聞カセタリ(下畧)山神祠。橋浦ト市部里ノ真中ナル「ネイジ」 0 0 島前の文化財 5 25 64 焼火 ト云フ所ニアリ。此祠モイト古ク殊更森ハ焼火を除キタレバ此ノ森ニツヅクハアラズ。此祠ヲ外ニ移シ給ハバ悪シカリナント思フ考ヘアレバ、ココニ置カルルゾ宜シカルベキ。地主祠。山神祠。三穂祠。天神祠。荒神祠二座。稲荷祠。山神祠。荒神祠。 0 0 島前の文化財 5 25 76 此二祠ハ大山神社ノ未社ナレバ前ナリ七祠共ニ合祭シテ同社ノ未社トナリゾ宜シキ。荒神祠。山神祠。此祠荒神ハ高田社鳥居ノ脇ノ森ニアリ。山神祠ハ本社ノ左ノ方岩窟ノ半腹ニアリテ、水ノ流ルル上ナリ。イト景ヨシ。二祠共古ク見エテ未社ナレバ 0 0 島前の文化財 5 26 6 山神祠ト合祭スベキヤ此侭置ベキヤ。山神祠。美田尻社ノ社内ニアリ。外二祠アレドモ皆合祭タルベシ。荒神祠。稲荷祠。荒神祠ハ舟越里ノ奥ニアリ。大キナル松ノ森アリ此祠モ古シ。稲荷祠ハ同所ノ里内ニアリテ度々焼ケタレバ新旧分ケガタシ。森 0 0 島前の文化財 5 26 16 モナク合祭然ルベシ。辯財天祠。此祠ハ舟越浦ノ真中ナル海ニ小サク浮ビタル島アリテ其島ナル祠ナリ(中略)此祠ハ漁師共ノ漁ヲ守給フ神ナリトテ、イト深ク仰ギ奉レル神ナリケレバ、此侭差置ルベシトゾ思フ。(中略)又橋浦ト市部浦トニ所アリ。 0 0 島前の文化財 5 26 23 舟越ノニハオトリタレド漁師ノ信仰ハ同ジ。山神祠。此祠は高崎ト云フ山ノ頂上大キナル森ノ中ニアリ。前ハ數十丈ノ滝ナリ。白滝ト云ヘリ。イトイト絶景、祠モ古ク謂モアレドモ長ケレバ省キヌ。速戸祠。此祠ハ美田郷内、橋浦ト大山明浦トノ間ナ 0 0 島前の文化財 5 26 32 ル数十丈ノ岩窟ノ中ニアリ。是ヲ丈覚ガ窟ト云フヨリ世人此神ヲバ文覚ナリト思ヒ誤マレルモノ多シ(中畧)抑此神ハ舟人共ノ深ク仰奉ル神ニテ他国人等マデ祠ヲ新ニ造替ヘナドシテ御恵ヲ祈ルハ此神ノ御徳ナラン。御名モ「ハヤト」ト唱奉レルハ何 0 0 島前の文化財 5 26 37 トカ由アリゲル御名ナリ。此ノワタリハ潮モイト速シ。渡リ神祠。此祠ハ大山明浦ノ奥、大キナル森ノノ中ニアリ。神名記百六社ノ中ニ正四位上和太酒明神ト云フアリ。外ニ又和多津ト云フアリ、和多津ト云フ有、イヅレガ彼ノ百六社ノ内ナランコトハ 0 0 島前の文化財 5 26 45 未ダシラズ。祠モ古ク見エ、森モイト広シ。56十年ノ昔此山ノ木ヲ切リ取リテ崇ラレテ、モノグルヒト成リタル人モアリシハ重寛ヲガヨク知ル事ナレバ、此侭サシ置カルルゾヨキ。幸神祠。山神祠。此祠同所ノ大キナル森ニアリ。幸神ナホ古ク見エ 0 0 島前の文化財 5 26 53 レバ幸神祠ニ合祭シテ可ナルベシ。同郡浦郷村。大原祠。乙訓祠。平野少宮祠。八王子祠。此四祠ノ内八王子祠ハ日吉社ノ未社ナレバ八王子祠ニ合祭シテ宜シラルベシ。八王子祠ニハ田畑モ付タルヨシ。石神。同所簿古ノ里ニアリ。此神体ノ石長サ二 0 0 島前の文化財 5 26 63 尺五寸余、巾三尺五寸余、年々スコシヅツ太クナルト云ヘリ。此例所々ニアリ事モノニモ見ユ。住吉祠。蓬莱亀。此二祠石神祠二、三祠合祭シカルベシ。伊勢祠。日御碕祠。此二祠ハ、由良比女神社ノ未社ナリ。青根祠。此祠ハ赤ノ江里ニアリ。往古 0 0 島前の文化財 5 26 74 ハ茂理社ト両氏神トモ仰ギシヨシ。イト古ク森モアリ。辯財天。三度ノ里ニアリ。知屋御前。同所ニアリ。里人辯天トモイヘリ。宇弥美。松尾社ノ相殿ノ神ナリ。サレド土地ヲ「ウネミ」トモ云ヘル由。白鬚祠。此神ハ往古漁師夜網引スルニ、何トカ 0 0 島前の文化財 5 27 6 ヤ大キナルモノ網ニ入リタルヲ漁師共怪シミ恐レテ網ト共ニ石垣ノ上ニアゲテ走リテニゲ去ル。其所終夜光リ輝ケリ。一人ノ老翁木下何某ガ許ニ来リテ告テ日ク、吾ハ近江国白鬚神ナリ由縁アリテ網ニ入リテココニ来レリ。社ヲ建テ吾ヲ祭ラバ里内安 0 0 島前の文化財 5 27 12 カラシメント云ヒ終ヘテカキ消ス如ク失セヌ。夜明テ彼所ニ行キテ見ルニ古ビタル神像アリ。コレヲ其ノ御教ノマニマニ祠ヲ建テ齋レリト云傳フ。其所ヲ白鬚山トサヘ云フトナン。 0 0 島前の文化財 5 29 1 島前地方の年中行事、酒井董美。はじめに。隠岐島前地方は三つの主な島から成っている。本土を離れること約六十キロのこれれの地方には、はたしてどのような風習がみられるのであろうか。あるいは本土では既に滅んだ行事などが、まだ残されて 0 0 島前の文化財 5 29 8 いるかも知れない。そのような期待と興味を抱きつつ、昭和四八年度当地へ赴任した筆者は、当地の風習を調べつつある。今回はその中から年中行事に焦点をしぼって発表することにした。ここでとりあげるのは、各島一地区ずつの計三地区とした。 0 0 島前の文化財 5 29 14 話してくださったのは次の方々である。知夫里島−知夫村大字古海。道上伊勢次郎さん(M二八年生)橋本松次郎さん(M二五年生)杉山樽吉さん(M三一年生)西ノ島−西ノ島町大字浦郷赤之江。奥板石太郎さん(M三二年生)関田ナオさん(M三五 0 0 島前の文化財 5 29 22 年生)海士町大字福井字福井。花岡ツギさん(M二三年生)花岡ヨシさん(M四一年生)さて、話の中心においた時点はおおむね大正初年とした。急速に廃りつつある各風習の記憶」を、話者の方々に呼び覚していただくためには、このあたりが、遡 0 0 島前の文化財 5 29 29 りうる限界のように考えられたからである。ここでお断りしておきたいことは、わたしのこの三地区の調査は、実はほぼ民俗全般にわたるものであり、その中のひとつとして、この年中行事もうかがったのである。したがって、整理のポイントは抜け、 0 0 島前の文化財 5 29 36 穴だらけであることに気づき、誠に恥ずかしい。しかし、いかに粗末なものであるとはいえ、機会を捉えてまとめておかぬと、せっかく貴重な時間を割いて協力くださった古老の方々の御好意が無になってしまうので、意を決して発表に踏みきったの 0 0 島前の文化財 5 29 42 である。不充分な叙述は筆者の聞き出し技術のまずさにのみ原因がある。このことを特にはっきりさせておき、本題に入りたい。調査地区の概要。古海部落は知夫島にあり、戸数約五十で半数は浄土宗。漁業中心の地区でる。そして漁師から信仰の厚 0 0 島前の文化財 5 29 49 い西ノ島の焼火神社に対しては、座元的な誇りを持っている。赤之江部落は西ノ島の旧浦郷町にあり、戸数は約一二〇、真宗が圧倒的に多く、やはり漁業中心。福井部落は中の島にある戸数三〇余りの農村で、ほとんどが神徒である。さて、三地区に 0 0 島前の文化財 5 29 56 共通していえることは、比較的近年まで盆や正月が旧暦で行われていたことであろう。理由としては漁期が関係しているようである。古海では正月は七〜八年前、盆は六年ぐらい前までは旧暦で行い、今は正月は新暦、盆は月遅れの新暦八月に行って 0 0 島前の文化財 5 29 62 では正月は十三年前から新暦になり、盆は五年ぐらい前から、新暦の八月になった。しかし、節分や節句はまだ旧暦のままという。ただ、ほとんど漁業を行わない福井では、第二次大戦後、すでに正月は新暦となり、盆は昭和三七年から新暦の八月に 1962 0 昭和37年 島前の文化財 壬寅 5 30 2 なっているけれど、節句、亥の子は旧暦のままである。ただ節分は新暦である。このように細かく見てくると、三地区で多少のズレが認められるが、本土と比べると、最近まで旧暦が続いていたといえそうである。さて、同じ島前地区とはいっても、 0 0 島前の文化財 5 30 12 行われる風習には、やはり三地区それぞれに濃淡があるし、また、一方にあって他方にないものもあり、地域によるこのような変化は当然のこととはいえ、人間生活の営みの微妙な違いに不思議な感慨を覚えるものである。年中行事。正月準備。「正 0 0 島前の文化財 5 30 29 月つぁんとわらべ唄」正月が近づくと以前の子どもたちは、次のような唄を唄っていたという。赤之江=正月つぁん、正月つぁん。どけまでござった。三度のかどまでござった。徳利にゃ酒を入れ、重箱にゃ餅を入れ、トックリトックリござった。( 0 0 島前の文化財 5 30 42 伝承者、川崎イシさん、八八歳)「スス払い」赤之江=ススバキといっている。旧十二月十三日に行い、夕食にごちそうをした。米飯に豆腐や大根汁をそえている。「餅つき」赤之江=たいてい二八日についた。二重ねの供え餅を御供と称し、これは 0 0 島前の文化財 5 31 41 他の餅とは別の火で作る。つまり、他の餅の際は、一応火を消し、新たに火を起こすのである。さらに御供と他の餅との違いとしては、御供をつくとき、榊に木をつけ、臼を薄く濡らす点があげられる。臼にシメ飾りをしてつく点は共通している。ま 0 0 島前の文化財 5 31 47 た、御供の上には紙に包んで五円玉ぐらいな大きさのワオキと称する三個の餅をおく。この御供を供え、シメ飾りの飾られるのは次のところである。俵の神、オモテ(床の前、ソラノ神)エビス、トシトコ、カマ大明神、ホウソウの神、船玉さん、餅 0 0 島前の文化財 5 31 52 つき臼、書き硯(今の金庫にあたる)犁、子鞍(牛の鞍)。なお、ここでは力餅なるものはなかった。「二九日には餅をつかぬ」とはいわれている。「正月飾り」赤之江=門松は二八日か大歳に立てる。シメ飾りは戸口、窓、牛小屋、納戸、物置き、 0 0 島前の文化財 5 32 14 船などに主人が飾る。「大晦日」赤之江=大歳ソバを夕食にとる。一月の行事。「初詣」元旦。赤之江=元旦午前零時ごろ、氏神さんへ初詣に行き、お神酒をいただいて帰った。無言で参るものというタブ−はない。「若水汲み」赤之江=戸主が近く 0 0 島前の文化財 5 32 48 の井戸に汲みに行くけれど、これまた無言のタブ−はない。ただ、若水汲みではないが、「四十九日の餅を配る際は人に出会っても物をいってはならぬ」とはいわれている。この若水汲みは、唄え言を三回いって汲むものとされていた。「福汲む徳汲 0 0 島前の文化財 5 33 1 食事 む(後不詳)というのであり、この水で雑煮を炊いた。「雑煮のことなど」赤之江=小豆雑煮であるという。ここでは「七日になるまで茶漬けやおかゆを食べてはならない」というタブ−がカ在している。「年始」元旦。赤之江=元旦に年始にまわ 0 0 島前の文化財 5 33 28 った。「松直し」二日。赤之江=船玉さんの祝いと称して、主人が船の松飾りを横にし、神酒を供え、カコの人(同じ船に乗りこんで漁をする仲間の者のこと)を船に乗せ、祝宴をはった。「縫い初め」二日。赤之江=主婦が白い紙袋を二つ縫い、そ 0 0 島前の文化財 5 33 45 れに米を入れ、トシトコさまに供える。「綯え初め」二日。赤之江=戸主がワラをたたき、縄を綯い、トシトコさまに供える。「書き初め」二日。赤之江=この日、書き初めをした。「棚おろし」三日。赤之江=「棚さがし」といっている。御供を下 0 0 島前の文化財 5 34 15 げる。「坊主正月」四日。赤之江=「坊主の礼」といい、この日は坊さんが年始にまわり、一般の人は祝わない。「若木迎え」六日。赤之江=「切り初め」と称し、戸主が桃の木などを二本切り、トシトコさんに供える。これは十四日のドンドはやし 0 0 島前の文化財 5 34 54 食事 の際に焼くことになる。なお、この日トシトコさんは別にして、他のシメ縄をおろすことになる。「七草」七日。赤之江=前日とっておいた七草で七草ガユを作って食べる。この日以後はお茶漬けを食べてもよいとされている。「エビス講」十日。赤 0 0 島前の文化財 5 35 4 食事 之江=網主が漁師たちを家に招待して祝う。「鍬初め」十一日。赤之江=「鍬初め」あるいは「トシトコさんの山行き」ともいう。小豆と麦をまぜて、「百姓めし」なるごはんを炊き、鍬初めをすました後で食べる。「ホトホト」十四日。赤之江=子 0 0 島前の文化財 5 35 36 供たちが各戸をまわり、金をもらっていたが、このことを「ホトホト」と呼んでいた。明治末年まであった。「トンド」十五日。赤之江だけは十四日。赤之江=「トンドはやし」といっている。部落の浜三ケ所で行った。正月飾りなど棚さがしでおろ 0 0 島前の文化財 5 35 52 したものを焼く。このとき「火にあたればマメな」といわれている。以前はモになると若連中の男や年ごろの娘は、一緒になって酒をくみかわし、半ば徹夜したものである。「スミつけ」十五日。赤之江=娘たちが墨を油で練りあげたものを持って、 0 0 島前の文化財 5 36 3 早朝の四〜五時ごろ、地区の一町歩ぐらいの広い田に若連中の男たちを追いこんで、男の顔に墨をつける行事。中には逃げ出して宿へ帰る男たちもいたが、女たちは追いかけて、隠れている置ここたちを見つけると、墨を顔に塗りつけた。男女各五十 0 0 島前の文化財 5 36 8 〜六十人ぐらいおり、合わせて百二十人にも及ぶ一種の鬼ごっこであるが、結局、八時ごろには目ざす男性全員に墨をつけ終えることになった。大正初期まででこの風習は消滅してしまったという。「ハツカ正月」二十日。赤之江=米を少し多めに入 0 0 島前の文化財 5 36 53 れて食べた。この日は仕事は休むことになっている。二月の行事。「フツカ焼き」二日。赤之江=「フツカ焼き」といって、肩の真中のチッケという場所に灸をすえる。若い者は一つずつ「供えイッチン」(御供一組のこと)を持ちより、ごちそうを 0 0 島前の文化財 5 37 6 作って食べる。そのことを「ヤイトボコリ」といっている。「節分」二日ないし三日。赤之江=トベラの枝をとり、そこへ大根を輪切りにしたのをはめて全ての入口に挿し、鬼のこないまじないとする。大豆炒りは主婦の仕事で炒りナベを使うが、初 0 0 島前の文化財 5 37 39 めはトベラの葉をたく。炒り終わった豆は一升枡に入れてトシトコさんに供える。豆まきは主人が行うが、初めに神に向いて三回「福は内」と叫んでまき、神に豆をぶっつける。そして、外に向かって三回「鬼は外」と叫んで投げる。残りの豆はトシ 0 0 島前の文化財 5 37 45 トコの棚にあげておく。「初午」二月の初めの午の日。赤之江=仕事を休んだ。特にごちそうはしなかった。「社日」彼岸前後にもっとも近い戊の日。赤之江=仕事は休むが特にごちそうはなかった。「十五日」赤之江=この日仕事を休んだ。「もし仕事をすれば地獄の釜の蓋が開き 0 0 島前の文化財 5 37 45 、落ちこむ」といわれていた。小麦粉、ヨモギ餅を食べた 0 0 島前の文化財 5 38 16 「彼岸」赤之江=新三月十八日を「彼岸入り」という。これから七日間、仏にボタ餅やフラ(平)ダンゴ、ウドン、ソバ、ソウメンなどを作って供え、相伴した。三月の行事。「ヒナまつり」赤之江=菱餅をつき、ごちそうを作った。それにはヨモギ 0 0 島前の文化財 5 38 39 餅もあった。そして、桃の花や花びらを酒に落した桃酒を供えて相伴した。「お大師さんの日」二十一日。赤之江=八十八カ所へ家族中で参った。中には札をこさえておく人もあった。どの札所でもおばあさんたちの世話人がおり接待してくれた。この 0 0 島前の文化財 5 38 58 食事 日は小麦粉の餅、つまり、バク餅をつく。四月の行事。「卯月アカ」八日。赤之江=ダンゴを作って食べ、お寺に参る。黒木(旧「黒木村」)の大津には甘茶があったらしいがここではない。五月の行事。「節句」五日。赤之江=男の子には幟とショ 0 0 島前の文化財 5 39 34 食事 ウブと榊の葉を一緒にしたのを立てたが、鯉幟を立てるようになったのは第二次大戦後。食べものとしてはササの葉でマキを作る。このゆで汁をまくとナガムシ(蛇、悪病)が入らぬとされた。病人や妊婦のいる家ではマキを作らず、マガタニの葉で 0 0 島前の文化財 5 39 40 包んだホオカツギをつくる。ほかにショウブ酒を供えて飲む。夜はショウブ湯に入った。また、カワラ屋根の上三カ所にヨモギ、カヤ、ショウブ各三本を一緒にしたのを挿した。これも病人や妊婦のいる家ではこのようなことをしない。また、子方は 0 0 島前の文化財 5 39 45 神楽 この日親方から名をもらった。六月の行事。「氏神さんの祭」十二日。赤之江=十三日、広場に浅敷をつくり、若連中が神楽を舞った。準備に二カ月ぐらいかかった。御輿かつぎもあった。餅、赤飯、ホホカツギを作って食べた。七月の行事。「一日 0 0 島前の文化財 5 40 24 食事 」赤之江=「仏さんの立つ日」といっている。スヤのあるかぎりノバタをこの日墓へ立てる。小麦粉で作ったウマダンゴを作る。「ナノカ盆」七日。赤之江=大人はこの日墓掃除を行う。子どもは男女とも七回海に入り、七回食事する。「花とり」十 0 0 島前の文化財 5 41 12 日。赤之江=盆花であるシキビの花を女の人が取りに行く。「十二日」赤之江=新盆の家へは線香、ウドン、ソウメン、菓子箱などを持って行って供えた。さらに親類の濃い者は提灯を供えた。「仏迎え」十三日。赤之江=迎えダンゴを作って仏を迎 0 0 島前の文化財 5 41 44 える。墓には桐の葉を敷き、ニガ桃、柿などの果物を供えた。自分の家だけではなく、親類の墓にも供えていたが、これは十年前くらいまでは行った。仏壇には赤飯、ホオカツギ(オハギのこと)、ボタ餅などのほかに寒天を四角に切ったものをカガ 0 0 島前の文化財 5 41 50 ミと称して供える。また、無縁仏がくるので、そのためにホウケ棚というものをササ四本で作っていたが、三十年ぐらい前でなくなった。「十四日」赤之江=期日ははっきりしないが、盆の間に坊さんが地下中を読経して回っている。「ヨイサカ」赤 0 0 島前の文化財 5 42 19 之江=この地区は二つに分かれる。それは氏神さんを境にして、上をシャクネ、下をエキナと称しているが、エキナの方がやや人数が多い。当地区独特の子供組の行事「ヨイサカ」は、この二つの子供組の間で競争のような形で行われる。満十五歳の 0 0 島前の文化財 5 42 24 子供を頭に男の子供たちは、一日から十五日まで、各自がゴザと毛布を持ちこんで、納屋の二階を宿として泊りこむ。そして、山へカズラたてに行き、それを持ち帰って海へ浸す。そのうち葉が腐るので、中の芯だけ取り出し、老人を頼んで綯っても 0 0 島前の文化財 5 42 30 らう。これが十二日ごろになる。さらに色紙に「南無阿弥陀物」と書き、旗として綯ったカズラの間にはさむ。十四日午後四時ごろ、子供たちは「ヨイサカ、ヨイサカ」と声をかけつつ、「墓へ参らっしゃいよ」と大声で地区内をまわり、柳を持って 0 0 島前の文化財 5 42 36 墓へ参る。その後、大人も墓へ参る。墓は小高い丘のウエイあるが、そこから帰ってシャクネとエキナの子供たちの間で喧嘩となった。しかし、この喧嘩は四〜五年前でなくなった。翌十五日であるが、この日のことを前日同様「ヨイサカ」と称した 0 0 島前の文化財 5 42 42 り、あるいは「続きバタ」といったりしている。この続きバタであるが、さきにカズラで作っておいた縄に人数分だけ三尋おきに「南無阿弥陀仏」と書いた旗を立てたものをいい、これを子供がかかえて墓へ上がる。先頭が大将(十五歳のもの三〜五 0 0 島前の文化財 5 42 48 名)、続いて払い持ち(前、中、後と十四歳の者が分かれる)となる。墓参りを済ました子供組は部落へおりてはしからはしまでまわるのである。そしてこの「続きバタ」は、次の日の十六日、シャ−ラ船に乗せ、船の飾りにするのである。「送り盆 0 0 島前の文化財 5 42 63 」十六日。赤之江=「送りダンゴ」と「シャ−ラ船」を作って仏を送る。シャ−ラ船であるが、長さは約十二尺、幅約五尺で、五年ぐらい前までは、エキナとシャクネの大人たちが、朝、四〜五時ごろに集まって、各一隻の船を子供組が作っておいた 0 0 島前の文化財 5 43 12 「続きバタ」を飾りに用いて完成させるが、どちらが早くできるか競争のようにしていた。できあがったシャ−ラ船は本物の船に積み込まれるが、このとき、坊さんが読経する。沖まで運ばれたシャ−ラ船は、そこで海におろされて流されるのである。 0 0 島前の文化財 5 43 29 食事 八月の行事。「八朔」一日。赤之江=小麦粉の餅を作って食べた。仕事は休んだが、今は何もしていない。「月見、十五夜」十五日。赤之江=仕事を休む。もし仕事をすると「地獄の釜が蓋を開く」といわれる。子供たちは、月の見える家の縁側へ集 0 0 島前の文化財 5 43 44 食事 まって月見をする。ススキなどの花を飾り、月見ダンゴなどを供え、会食する。九月の行事。「節句」九日。赤之江=野菊の花をとり、餅をつく。形は四角。それに利くの花びらを入れた菊酒とともに神に供え、相伴する。「メンゲツ」(ネンゲツと 0 0 島前の文化財 5 43 60 も)十三日。赤之江=「メンゲツ」といっている。トシトコさんをはじめ、神々に枝豆のままの大豆と芋を供える。島前の他地区に見られるような、畑物を盗んでもよい風習などは聞かれない。「彼岸」二十日ごろ。赤之江=春に同じ。十月の行事。 0 0 島前の文化財 5 44 16 「十月」赤之江=「四月と十月は酒を作ったらいたまぬ」といわれている。「亥の子」赤之江=三回あれば中を、二回あれば初亥を祝うことは古海に同じ。トシトコさんだけには鏡餅、他の神には小餅を供える。この日は「トシトコさんが臼まで帰ら 0 0 島前の文化財 5 44 36 れる」といい「餅つき臼はトシトコさんがなでるので洗わぬ」とされている。子供たちは石にワラを十本ぐらいつけて家々をまわり、亥の子搗きをする。亥の子の晩に餅をつかぬ者は。蛇生め、子生め。角の生えた子生め。の唄の詞章が残されている。 0 0 島前の文化財 5 44 44 しかし、家からは何もくれなかったという。この亥の子搗きは第二次大戦後、見られなくなった。十一月の行事。「カイ(粥)日」赤之江=主人と長男の年の日(寅年生まれなら寅の日)に「煮込み」といって、おカユに小麦粉の挽いちのを延ばし、 0 0 島前の文化財 5 44 65 食事 ソバのように細く切って、小豆と共に入れ、塩味をつけたのを食べたり、濃い親類に配ったりした。第二次大戦前まで行っていた。「紐落し」十五日。赤之江=三歳になった男女児が神社に参る。賽銭をあげて参るだけ。「冬至祭」二十二日。(二十 0 0 島前の文化財 5 45 6 食事・問屋 三日の年も)赤之江=カボチャを神仏に供えて、後、食べぞめする。十二月の行事。「ヤ−カマチ」八日。赤之江=この地区に問屋が二軒あったが、そこが祝った。一般の人々は「ウソツキ祝い」といっていた。さらにこの日は、どういうわけか知ら 0 0 島前の文化財 5 45 37 ぬが、シジュウフクを作ることとされている。(県立隠岐島前高等学校教諭) 0 0 島前の文化財 5 46 1 宇賀牧、岩倉敏雄。もくじ。まえがき、名について、放牧の自由権、牧畑の発生因、宇賀牧の区劃、垣内について、輪転耕作のやり方、柵垣について、牛馬放牧の制約、種牛馬放牧の割合、牧替と採草、牧畑管理役員、あとがき。まえがき。西ノ島の 0 0 島前の文化財 5 46 18 「宇賀牧」の起源については明かではないが相当古いものであることは「吾妻鏡」(文治四年一一八八)に島後の「犬来牧」と共に「宇賀牧」の名が既に見えており、従って宇賀牧は島前でも古い部に属する牧場即ち牧畑ではないかと想像され、この 1188 0 文治4年 島前の文化財 戊申 5 46 23 観光 宇賀牧を究明することによって隠岐全体の牧畑の古い態様もかくの如くではなかったかと類推できるのではなかろうか。独特な四牧式輪転作法を採用した隠岐の牧畑は現在観光資源としてPRされているが、しかし今日の宇賀牧では完全は姿で牧畑を 0 0 島前の文化財 5 46 29 見ることはできない。ただ鉄製のアングル杭の有刺鉄線のフェンスが昔の牧畑の境界線を辿って、林や雑木林の中を縫って走っているに過ぎない。食事情の変遷に伴い約十年程以前から輪転耕作そのものは完全に姿を消してしまい、昭和二十七年〜八 0 0 島前の文化財 5 46 35 年頃より牧畑は森林化しつつあり、やがては幻の牧畑化せんとしている。今日では若者に牧畑のメカニズムを理解させるには相当気骨の折れるのが実情である。本稿大体の骨子は近世初期より明治中葉までを主とし、それに近代中期以後の牧畑管理型 0 0 島前の文化財 5 46 42 態又は慣習の資料を玉石混淆し、それを梢々順序だてたものと御了承願いたい。なお以下本稿をよまれるにあたっては「畑」は当地の方言に従って、大抵の場合には「やま」と読まれたい。例えば「麻畑」を「あさやま」と読むが如し、又以下の月日 0 0 島前の文化財 5 46 47 は旧暦である。名について。牧畑の管理体制の中において留意しなければならないものに「名(めよう)」の問題がある。古老は「明治にいたるまでは名と称する者が牧畑を支配していた」という。近世初期から封建制度維持の主柱となった農地(農 0 0 島前の文化財 5 46 53 民の屋敷共)は農民が地主である領主に従属し、移転の自由を奪われた上領主のために、これを耕作して年貢(農地の地代として)を納め、夫役(屋敷の地代として、即ち屋敷年貢)に従事した。即ち前資本主義地代である。この貢租義務のある農民 0 0 島前の文化財 5 46 59 (高持)は「本百姓」と呼ばれ、貢租義務のない作人および、日傭い農民(無高)は「水呑百姓」と呼ばれた。この水呑百姓は村政についての寄合にも参加できなかった。いわば始めからの公民権永久停止者であり、あたかも農奴的存在であったので 0 0 島前の文化財 5 46 64 ある。なおこの租とに下層階級には名子、後家、山女などがあった。農地は領主のものであるとの観念から勿論売買の対象にはなり得なかったが、しかし、この裏を掻く農民があった。経済力に優れた農民(富農)が劣った農民(貧農)から農地の耕 0 0 島前の文化財 5 47 7 作権を買い取り(その貧農には形式的に耕作保有権が残る)、その農地を支配収益し貢租義務も肩代りした。(この本百姓は耕作権を売渡した農地については、その農地の作人と堕するか或は完全に耕作そのものをも引渡した)。この農地支配収益権 0 0 島前の文化財 5 47 12 者が名であり、その畑が名畑である。名は「農地耕作保有権なき地主」場合によっては「名畑」と読み替え、意味上大体不都合がないようである。名は人的、物的の両面の意味に解せられる。名の農地耕作権買取りは前述の旨趣から非合法(1農地の 0 0 島前の文化財 5 47 18 地主は領主であるとの観念から、2又寛永二〇年=一六四三=田畑永代売買禁止令、3延宝元年=一六七三=分地制限令に抵触することから)であったので当初は、これを公然と表向きにすることはできなかったが、田畑永代売買禁止令の脱法行為と 1643 0 寛永20年 島前の文化財 癸未 5 47 24 してのうちを質入れ或は年期売買の形式によって農地耕作権を買取り名が次第に拡大し勢力を得るに及んで、後には村方においても公然同様の権利と認めざるを得なくなり、その趨勢は後には八代将軍徳川吉宗も、ついには、これを黙認せざるを得な 0 0 島前の文化財 5 47 29 くなった。しかし、その農地耕作保有の潜在的な原権は、あくまでも後顕慶長一八年の検地帳に登録された農民(初期本百姓という)にあり、その子、孫と代々世襲さるべき性質(一地一作人の原則)のものであったが、現実は初期本百姓が次第に名 0 0 島前の文化財 5 47 35 に蚕蝕され、ついには牧畑の殆どは名の占めるところとなり(慶長一八年検地帳の五一名の初期本百姓が元禄年間には四八名(めよう)になっていたという)、したがって、その管理運営も勢い名の意思が支配的となり、牛耳るところとなった。それ 0 0 島前の文化財 5 47 40 は名が富農であり実質的には地主(領主関係から地主とは呼べなかったが)であったからである。この名の売買は潜在的原権(初期本百姓名儀)不変のまま、名が更に名を買い集め、明治初年には名は地主に、作人は小作人とになり終戦まで、これが 0 0 島前の文化財 5 47 46 続くのである。これも厳密にいえば明治政府が領主と入れ替っただけで表見的には従来と変りなかったが、しかし政府は画期的な土地の私有権を認めそれを登記法によって、一般に対抗なさしめた。名はここにおいて名実共に確実に地主としての地位 0 0 島前の文化財 5 47 51 を確保した。序でに水呑百姓の食生活の一端について述べてみたい。西ノ島町小宇賀鼻の海岸に木造のポンプ倉があった。最近ブロック建に建替えられたあが、この木造ポンプ倉は江戸時代に宇賀上小路天神社前から現在の場所に移転され腕用ポンプ 0 0 島前の文化財 5 47 58 倉庫として永い勤めを果たした。名は収穫麦を五公五民の年貢原則により二分の一を年貢として納め、残りの二分の一即ち全体の四分の一を小作料として作人に与え、その残り(全体の四分の一)を自己の取り分とした。貧乏人の子沢山、全収穫麦の 0 0 島前の文化財 5 47 64 食事 四分の一の小作麦では、恐らく作人は満足な生活が得られたとは思われない。水呑百姓は櫃麦がいよいよそこをついたときは夫食倉より当座の生活用麦を借り出し餓之をしのぎ、日傭労働などによって労賃(麦、貨幣)を稼ぎ夫食麦を返却し、次の借 0 0 島前の文化財 5 47 69 り出しに備えた。若し、その収穫年度内に返却し了えない分については次期収穫をまって返却したとのことである。放牧の自由。一般村民(現在の大字宇賀民)は名(と少数の本百姓)の支配する牧畑に牛馬を自由に放牧できた。しかしその代償とし 0 0 島前の文化財 5 47 76 て柵垣の新替、補修等には必要な労力を提供しなければならなかった。いわゆる地下仕事(じげじごと)である。この放牧自由のシステムは大体昔の原型を保って今日にいたっている。放牧の自由権は「個人有部落入会(いりあい)権」の一種であろ 0 0 島前の文化財 5 48 4 うか。名の多くは屡説の如く経済的に優勢であったので牧畑は手に終えない柵垣の問題は一般村民との協同に頼らざるを得なかった。その結果放牧の自由権は比較的安定した権利であった。牧畑の発生因。隠岐の牧畑の第一次的発生因由は、昔島民の 0 0 島前の文化財 5 48 12 食事 主食たる麦(小麦を含む、大麦の大体一〇%位であった)(牧畑に播付ける麦は「牧麦」又は「オソ麦」−最晩生種麦−といい特殊な品種であった)の確保にあったことは確かである。それは輪転耕作方法の順序を見れば、何に一番重点が置かれてい 0 0 島前の文化財 5 48 17 たか一見明瞭である。第二次的には商品貨幣経済の発展に伴い、又犂の発明により当時の労働力の最大補助手段たる牛馬の生産販売による現金(又は商品)収入を目的としたものであった。以上が牧畑発生の二大因由であろう。第三次的以下、、、に 0 0 島前の文化財 5 48 23 食事 は準主食たる粟、稗、黍などの生産、副食乃至調味料(味噌、醤油、餡材の如き)の原料確保を目的として大豆、小豆等を作付したもののように思われる。合理的な四牧式輪転耕作方法は、隠岐農民が、これ等農業生産過程において、生活の知慧とし 0 0 島前の文化財 5 48 28 て自然発生的に生んだアイデアであったに違いない。宇賀牧の区劃。宇賀牧は古くから次の四牧畑に区切られているが、その名称は時代により多少相違している例えば崎牧は現在では神付(かんずき)牧という者もあり、明治時代には「先牧」の文字 0 0 島前の文化財 5 48 35 が当て嵌められていた。済(すみ)牧は又、加天牧、小宇賀牧といった時代もある。枇杷牧は昔「尾和」の字が当て嵌められていた時代があり、又現在では白浦牧と呼ばれている。以下の呼称は幕末から明治にかけての呼び名である。崎牧(五八町九 0 0 島前の文化財 5 48 41 畝=麦収穫六一七、〇斗=平均反収一、一斗)(字蓬芽、畑ケ浦、辺ノ浦、清水、イト、カムリ、神付、田坪)済牧(九一町八反=一〇七一、四斗=一、二斗)(字大宇賀、小宇賀、済、加天、イララ、松ケ尾)枇杷牧(八九町九反三畝=一一五一、 0 0 島前の文化財 5 48 49 八斗=一、三斗)(字倉之谷、ビワ、イカツチ、処谷、白浦、石畑)西牧(五六町四反一畝=七〇一、二斗=一、二斗)(字知当、物井、初座、籔畑、志々賀)合計、二九六町二反三畝。右麦の平均反収が少ないのは栽培法が極めて粗放で肥料を施さ 0 0 島前の文化財 5 48 59 ず(放牧中の牛馬の排泄物のみである。しかし、それは僅かなものである)中耕をなさず、ただ一回の除草を行うのみであったからである。宇賀牧は何時の頃から四牧式輪転耕作法が採られたかは不明であるが慶長四年(一五九九)の吉川検地帳によ 1599 0 慶長4年 島前の文化財 己亥 5 48 65 れば別府村の牧畑が石畑馬木(牧)、中馬木、大谷馬木、相馬木の四牧に分かれていたこと(これは四牧式輪転耕作のための前提だったと思う)から、宇賀牧も既にその以前から四牧式輪転耕作法が採られていたことは確かであろう。垣内について。 1599 0 慶長4年 島前の文化財 己亥 5 48 72 昔(現在も)小宇賀以日の内海岸沿いに各部落を中心として「垣内」(界中、年々畑、常畑、普通畑ともいう。知夫、海士では「ケイチ」と呼ぶ)と称されており、その垣内は麻畑(里畑)と仮屋敷(昔は本屋敷と称するものはκかった。屋敷は領主 0 0 島前の文化財 5 49 2 のものだから)とに仕切られていた。宇賀元屋平左衛門の書写せし「慶長一八年(一六一三)丑七月一三日の堀尾帯刀検地帳、屋敷、麻畑、写」によれば麻畑が五反六畝二一歩、仮屋敷と尾除屋敷および尾除畑の計が二町三反二畝あった。古老による 1613 713 慶長18年 島前の文化財 癸丑 5 49 8 と明治の初め頃までは各農家の戸口の辺りに牛馬が廐舎を慕って、うろずき廻り飼い主の家を覗くというような常況にあったので各農家は周囲に石垣や柵垣を構築し戸口には木戸を設けて出入したということであるから垣内とはいうものの麻畑、屋敷 0 0 島前の文化財 5 49 13 などは牧畑の中に、あたかも離島の如き格好で点在していたものと想像される。次に野菜畑および田はどうなっていたかの疑問であるが野菜は麻畑の麻収穫跡地を野菜畑として利用し専用の野菜畑というものは表向きにはなかったようだ。麻栽培中は 0 0 島前の文化財 5 49 19 麻畑の片隅を耕すか或は垣内の空閑地の一部を柵垣で囲って耕作するか(谷込め、という)又は恒常的内密に牧畑の一部を野菜、甘薯、茶などの栽培に利用(牧畑の中を一部柵垣で囲って耕作する場合を「丸込め」という)していたのであろう。田は 0 0 島前の文化財 5 49 25 衣服 近年にいたるまで知当(ちとう)に中田が三反五畝三歩あったのみである。それも「公文」に属していた。棉花の入手困難な時代にあっては麻は衣料用、漁撈用等生活又は生産用資材として貴重な存在であったことは確かである。麻畑が上々畑(熟畑 0 0 島前の文化財 5 49 31 )であったことを見れば、その貴重さの程が頷ける。慶長一八年検地帳に宇賀村(永禄二年=一五五九=別府村より分離した)には初期本百姓が五一軒あり、(四九軒には各三畝の仮屋敷が与えられていた。二軒(年寄、刑部)には各五畝の仮屋敷( 1559 0 永禄2年 島前の文化財 己未 5 49 39 役屋敷ともいった)が与えられていた。この五一軒分の仮屋敷合計は一町五反七畝となる。右の如く一般本百姓には一律に三畝の仮屋敷が与えられたが、これは夫役割当の便宜のためであったようだ。又前顕御除屋敷(御免除屋敷ともいう)が六反あ 0 0 島前の文化財 5 49 47 った。内訳は公文(元禄七年九月一日より庄屋となる)、一反五畝。村役人(年寄)二人(各五畝)一反。大工、一反。一宮(真気命神社)一反。神主、五畝。願成寺、一反。なお右の粗とに御除畑(寺社領)というのが一反五畝あった。内訳は済社 1696 901 元禄9年 島前の文化財 丙子 5 49 56 (比奈麻治比売命神社)八畝。観音堂、七畝。以上合計(麻畑共)二町八反八畝二一歩と別に田が三反五畝三歩が垣内にあった訳である。御除屋敷を見て驚いたことには大工が特殊職業者として優遇されていたことである。御除屋敷と仮屋敷とのメリ 0 0 島前の文化財 5 50 1 ットとデメリットは、農地は地代として年貢を納めなければならなかった。又屋敷請した百姓は仮屋敷の地代(屋敷年貢)として夫役を課せられたが御除屋敷は、夫役を免除された。宇賀村宇野勝雲斉見龍(現在西郷町西町吉田の伊勢千代松氏−屋号 0 0 島前の文化財 5 50 7 日之出屋−の祖先かと思われる)が享保一八年(一七三二)癸丑二月二一日前顕平左衛門書写の慶長一八年検地帳写に補註しているが、それによれば延宝四年(一六七六)に長崎より物井に流されて来た長崎外町代官末次平蔵父子(島前の文化財第三 1676 0 延宝4年 島前の文化財 丙辰 5 50 13 合参看)が同年普請する際百姓源七の二畝一五歩、同吉兵衛の三畝一五歩計六畝が麻畑より平蔵父子の屋敷に転換されている。特にこの事実が明記されていることは特異な事実として記録されたものと見られ、このことから判断すると封建時代には年 0 0 島前の文化財 5 50 18 貢に減少をきたす畑の屋敷への転換は、なかなか困難であったことを物語っているようだ。輪転耕作のやり方。古い時代の牧畑輪転耕作のやり方の把握については、幸いにも昭和二十六〜七年頃までは大体昔の原型を保って輪転耕作されてきたので、 1951 0 昭和26年 島前の文化財 辛卯 5 50 25 そのやり方については比較的正確な実態を掴むことができる。宇賀牧は崎牧、済牧、枇杷牧、西牧の四区劃に仕切られていることは既に述べたが、その輪転耕作のやり方は具体的には次の通りである。図2最上欄を初年目と仮定(初年目の説明は順年 0 0 島前の文化財 5 50 30 繰下がるから第二年目は第二欄を、第三年目は第三欄を、第四年目は第四欄を対照の上、図のみにて類推御理解願いたい)すれば、1西牧。前年十月中旬に麦を播付け(四カ年で一ラウンドするから、西牧の第四年目に相当する最下欄を参看)たとし 0 0 島前の文化財 5 50 37 、本年(初年目)六月中旬それを収穫し、その跡にすぐ大豆、小豆を播付けるとすれば、本年一一月中旬に、それを収穫するので初年目の西牧は作付で殆ど[がっている。そのため空無畑(くなやま)とう。従って初年目の西牧の放牧は殆ど不能であ 0 0 島前の文化財 5 50 43 る(但し第二年目は五月中旬粟、稗、黍播付けまでと、九月中旬それを収穫採草後は放牧可能である)図2西牧最上欄を見れば一一月中旬より放牧可能のようであるが牛(馬)は冬季カ月間は舎飼いするので(牧畑は冬枯で草が欠乏し又積雪のため) 0 0 島前の文化財 5 50 49 (隠岐では牛馬を一年の内、僅か冬季三カ月間舎飼いするのみであるから、これがおきに牧畜業の発達を促した一因ともなっている)、かくの如く初年目の西牧は牧場としての効用は殆どない。2枇杷牧(現在白浦牧)。昨年一一月上旬大小豆収穫後 0 0 島前の文化財 5 50 55 (枇杷牧第四年目最下欄参看)、本年一〇月中旬麦を播付けるまでの間、耕作が中止放置され(約一一カ月間)専用放牧場となる。これを「空き畑」(あきやま、明き畑、秋畑)と称し牧畑の主格となるので「本牧」ともいう。秋畑(あきやま)の意 0 0 島前の文化財 5 50 62 は秋耕耘して麦を播付けるので秋畑というのであるが、当地では、空き畑というよりも、この意の「あきやま」に解する方が膾炙されている。この一一カ月の放牧期間中、牛馬により除草され糞尿によって肥された枇杷牧は、その年の二百十日直後の 0 0 島前の文化財 5 50 68 降雨(八月流し又は八月梅雨という)のあと麦播付け準備のため第一回の耕耘を行い、放牧中の牛馬に土塊を踏み砕かせ或は降雨によって土塊を崩潰させた後第二回の耕耘(切返しという)をなし一〇月中旬麦播付けをする。従って一〇月中旬より来 0 0 島前の文化財 5 50 74 年(第二年目欄)六月中旬麦収穫までと、その跡すぐ大小豆を播付けするので、その収穫を了る一一月中旬までは枇杷牧は作付のため梗がり第二年目は空無畑となる。3済牧。前年九月中旬粟、稗、黍収穫採草後約九カ月間は放牧可能となり、枇杷牧 0 0 島前の文化財 5 51 1 牧畑作付図 0 0 島前の文化財 5 52 4 と共に春の放牧場の主格となる。本年六月中旬に大小豆播付け一一月上旬それを収穫するまでの五カ月間は大豆畑(だいずやま)となり梗がる。しかし一一月上旬より翌年一〇月中旬麦播付けまでは即ち第二年目は空き畑(本牧)となる。4崎牧。前 0 0 島前の文化財 5 52 12 年一一月中旬大小豆収穫後六月カ間は放牧可能となり(実際は前号の通り済牧が春の放牧場の主役となる)、五月中旬粟、稗、黍(準主食)を播付け九月中旬に、それを収穫するまでの四カ月間は粟畑(あわやま)となり梗るが、その後は来年六月中 0 0 島前の文化財 5 52 17 旬大小豆播付けまでの九カ月間は放牧可能であり(実際は本年収穫直後、名が第一回採草を行い暫く放置後、済牧に歩調を揃え一般村民が崎牧、済牧に同時入会って崎牧は第二回の−採草を行う)、そして再来年は空き畑(本牧)となる。5総括。( 0 0 島前の文化財 5 52 25 1)牧畑の輪転耕作と放牧は、四牧畑の前作物と後作物との間に休閑期を設け、これを旨く噛み合せて作付けと放牧の一石二鳥の効果を狙ったものである。(2)初年目春は図示の如く崎牧、済牧、枇杷牧は空いているので、これ等の牧畑には自由に 0 0 島前の文化財 5 52 31 放牧できる訳であるが作付けの関係上春は主として済牧に放牧される。しかし秋は崎牧しか空いていない(実状は採草の関係上済牧と同一状態である。4崎牧参看)ので放牧には相当制約を受けるのであるが実際問題として牛(馬)は一般に冬季三カ 0 0 島前の文化財 5 52 37 月間舎飼いするので影響はあまりない(馬は風雪に強いので余程大雪でない限り冬の牧場に放置される)。(3)初年目は六月中旬に、大豆畑に予定された、春放牧の主役たる済牧の放牧牛馬は小宇賀浜に(崎牧の場合には、辺ノ浦浜に、枇杷牧の場 0 0 島前の文化財 5 52 44 合には倉之谷浜に、西牧の場合には初座浜に)追い集められ各持主は、そこで自己所有の牛馬を補捉して、これを空き畑(本牧)となっている枇杷牧に放牧する。年一回この行事を「牧移し」「牧替え」又は「駄追い」という。そして駄追い跡地の済 0 0 島前の文化財 5 52 50 牧には、すぐ大小豆が作付けされる。(4)宇賀牧の用語では図2最上欄の済牧のような状態にある牧畑を「空無畑(くなやま)」といい、空有畑の意に用いられているが、知夫牧、浦郷牧の用後では同欄西牧の如き状態にある牧畑の意味に用いられ 0 0 島前の文化財 5 52 56 ている。しかし知夫牧、浦郷牧用語の方が妥当のように思われるので本稿では知夫浦郷牧用語の空無畑に従った。したがって「くなやま」の用語は宇賀牧と知夫浦郷牧とでは全く正反対である。柵垣について。名および一部本百姓以外の農民にとって 0 0 島前の文化財 5 52 63 の重要な関心事と掛り合いは、放牧の自由権と柵垣新替又は補修の奉仕の問題であり、又小作の問題であった。1柵垣の種類。牧畑が輪転耕作のために合理的に四区劃に仕切られていることは屡説したが、牧畑と牧畑および牧畑と垣内との間は柵垣で 0 0 島前の文化財 5 52 70 仕切られた。柵垣の種類には二種類あり構造は同一である。ただその設置場所により名称を異にするのみでる。即ち、牧畑柵垣。畑柵垣。である。牧畑柵垣は、牧畑と牧畑との間(あいがき、ともいう。知夫牧では大廻垣という)に、畑柵垣は牧畑と 0 0 島前の文化財 5 53 2 垣内との間(たにごめ、ともいう)に設けられた柵垣のことである。2柵垣の単位。柵垣の単位は牧畑柵垣、畑柵垣共に「反」といい一〇尋をもって一反(柵_を立体的に見たものであろう)とした。これは柵垣新替又は補修費の算定きそとなったも 0 0 島前の文化財 5 53 10 ので補修は総括的には村民一般請負(地下仕事)となっていた。しかし実際の補修に当っては個人別に何反と割当てられていたようである。それが次第に組別割となり、現在では部落別割当(図1参看)となっている。明治初期の、この補修請負額は 0 0 島前の文化財 5 53 16 一反につき二五銭であった。3柵垣費の負担。柵垣の補修、新替などの材料は現地調達主義が主で現地で調達できるものは自由に伐採し使用する慣行であったし又労力は前述のように一般村民の地下仕事的請負であった。(これは放牧自由権に根ざす 0 0 島前の文化財 5 53 23 義務的なもの)ので、その補修費は比較的僅少であった。これに要する財源は地価割によって名(と少数本百姓)に賦課し徴収した。昔の牧畑は現在と異り殆どが作り畑であったので山林が少なく、しかも、その山林は雑木が多く占めており、松材( 0 0 島前の文化財 5 53 29 薪 自然林であった)の如きも家屋建築用材として僅かに需要があったのみで薪材用として割木にされた。柵垣材料の現地自由伐採は雑木林や薮地が征伐されて牧畑のためには好結果をもたらしたという。4柵垣と垣座。明治の頃までの柵垣は、高さ、四 0 0 島前の文化財 5 53 37 尺(尺度、鯨尺以下同じ)。長さ、六尺。六尺の間隔の間に杭を五本立て杭間に竹木を密に挿込む。横木、四節(即ち四段)これは柵垣構造の一単位であり、実際は、これが延々連続する訳である。柵垣は腐朽するので将来の補修省力に備えて柵垣に 0 0 島前の文化財 5 53 44 密着して遂次樹木を密植し高さ五尺に仕立て(かきやつという)(これに要する土地は関係地の名、少数本百姓が提供した)これを漸次柵垣の杭に代替させようという構想のものであった。そして「かきやつ」仕立或は柵垣補修のための作業用地とし 0 0 島前の文化財 5 53 50 て杭打線に沿い上手(かみて=高地側)側に巾五尺の帯状のフェンスゾ−ンが設けられていた。これを「垣座」と称するのであるが恰も国境中立地帯の如くに柵垣に沿い巾五尺で延々と続いていた。最近このベルト地帯のフェンスゾ−ンの帰属をめぐ 0 0 島前の文化財 5 53 57 って大字民と柵垣上手側地主との間にトラブルが屡々起こっている。例すれば大字民は垣座は慣習法に従って共有地であると主張するのに対し柵垣上手側地主は「否」共有の冬季が成されていない以上自己の所有地であると主張するトラブルである。 0 0 島前の文化財 5 53 63 このトラブルの引金は放置された「かきやつ」が成木となり高価に処分される場合に、これが代金をめぐってである。現在宇賀牧に「込め垣」という語が残っているが、本来の意味は、個人が牛馬を臨時飼育するために一時的に作る小規模の囲い垣の 0 0 島前の文化財 5 53 69 ことである。牛馬放牧の制約。放牧の牛馬が柵垣を二回破ったときには、その牛馬の持主に一〇日間それを飼育させ、三回破ったときには三〇日間それを飼育させる。四回に及べば次の牧替えまでは、それが放牧を禁止した。柵垣破りで始末の悪い牛 0 0 島前の文化財 5 53 73 には長さ一メ−トル位の棒を角枷(つのかぜ)として角に縛り付け放牧したものである。角枷を取付けられた牛は、それが障害となって柵垣破りが不能となるが牛自身は角を折ったり、転倒負傷したり、など危険を伴うが、その損害は持主自身が負担 0 0 島前の文化財 5 54 3 しなければならなかった。種牛馬放牧の割合。昔牛馬の繁殖の方法は野種(のだね)が原則であった。牛馬は牝牡混じて放牧するのであるが、その割合には一定の規準があった。明治時代になってからは種馬は検査に合格したものでなければならず、 0 0 島前の文化財 5 54 9 種牛は村民が適当と認めたものでなければならなかった。従って適格種牛以外の生殖可能な牡牛の放牧は禁止されていた。種牛、牝牛の放牧の割合。種牛(満二才〜三才)一頭に付牝牛四〇頭以内。種牛(満四才〜六才)一頭に付牝牛六〇頭以内。種 0 0 島前の文化財 5 54 18 牛(満七才〜一〇才)一頭に付牝牛四〇頭以内。である。これ等種牛と牝牛との割合は過去永年の経験則から割出したものであろう(現在は六才未満の種牛のみを放牧している)。種馬の頭数については別段定めてなかったので牛に重点が置かれてい 0 0 島前の文化財 5 54 24 たもののようである。又種牛馬は村内に於て確保し、種付料は受胎した牝牛馬主より徴収した。牧替と採草。牛馬の一斉牧替え(牧移し)は最近まで「駄追い」と称し大人のみならず子供達にとっても、その日は楽しい一日であった。六月中旬に行う 0 0 島前の文化財 5 54 31 行事だが、牧畑取締人によって駄追い日が指定され、その日は大字宇賀部落民総出で手に竿や棒切れを持ってホ−イ、ホ−イと牛馬を追い、その牧畑に属する特定の海浜(具体的には既述の輪転耕作のやり方、5総括、(3)参看)に集め、各牛馬の 0 0 島前の文化財 5 54 36 持主は自己所有牛馬を、そこで補捉して、これを本牧にほうぼくするのである。隠岐では前述の通り冬季三カ月間牛(馬)を舎飼いするための乾草の確保は現在でも重要なことである。牧畑の牧草の刈取りの決行は「草のスがたつ」と称し牧畑役員た 0 0 島前の文化財 5 54 42 る取締人(現在では大字宇賀会々長)が、草のス日を指定し、その日は村民一斉に出動して採草に従事する。牧畑の牧草刈取り順序は例えば図2初年目の場合は崎牧は九月中旬粟、稗、黍収穫後その跡地を直ちに、同牧畑の実際耕作権者が優先刈取り 0 0 島前の文化財 5 54 49 を行い、暫く放置し、又済牧は一一月上旬大小豆収穫後直ちに、右放置の崎牧と併せ一般村民は総出で両牧に入り会って採草するのである。しかし昭和四〇年以降は昔のような、草のスは見られなくなった。牧畑管理役員。宇賀牧畑管理役員は、取締 1965 0 昭和40年 島前の文化財 乙巳 5 54 56 人、一名。副取締人、二名。牧士(もくじ)二名。計、五名。明治の頃までは以上五名の役員を置いて牧畑を管理させていた(現在は大字宇賀会々長一名、理事三名、牧士二名、計六名)右役員各々の役務、特に牧士の役割についてのべたかったが割 0 0 島前の文化財 5 54 64 当紙数をオ−バ−したので割愛し本稿をクロ−ズアップする。あとがき。本稿では名に若干力を入れ過ぎた嫌いがあるが、近世牧畑管理体制の中にあって主要な役割を果たした名は、その名称すら一般より忘れ去られようとしている。その意味からし 0 0 島前の文化財 5 54 70 ても名に力を入れざるを得なかった。(昭、五〇、二、一一稿)参考文献。(1)明治二五年三月「宇賀村牧場取締規約」(2)慶長一八年七月一三日「御検地帳宇賀村屋敷麻畑写帳」宇賀村元屋平左衛門写(3)享保一八年二月二一日右検地帳に「 1613 713 慶長18年 島前の文化財 癸丑 5 55 5 奥書補註」宇賀村宇野勝雲斎見龍(4)昭和四〇年「隠岐島史料(近世民政史料一)隠岐郷土研究会編(5)同三年「輪転牧場」新谷義光所蔵(6)同八年「隠岐島誌」(7)同三五年「知夫村誌」(8)同四三年「黒木村誌」(9)同四七年「近世 0 0 島前の文化財 5 55 13 隠岐島史の研究」永海一正著(10)同三七年「新日本史の研究」田名網宏著(11)同四二年「日本史」石井孝、外著(12)その他。被聴取者。(1)大字宇賀会々長(倉之谷)新谷義光(2)牧士(物井)新宅新市(3)古老(宇賀)小梨菊次 0 0 島前の文化財 5 55 21 郎(4)同(同)故小中又市(生前に) 0 0 島前の文化財 5 55 23 島前神社棟札調。永享十年(一四三八)由良(ゆら)比女神社(西ノ島)。永正十六年(一五一九)比奈麻治比売(ひなまじひめ)命神社(西ノ島)。大永八年<享録元年>(一五二八)大山神社(西ノ島)。天文二十一年(一五五二)真気命(まけ 0 0 島前の文化財 5 55 28 みこと)神社(西ノ島)。永禄十五年<元亀三年>(一五七二)茂理(もり)神社(西ノ島)。天正十八年(一五九〇)美田八幡宮(西ノ島)。慶長七年(一六〇二)日吉神社(西ノ島)。慶長十一年(一六〇六)奈岐良比売(なぎらひめ)神社(海 0 0 島前の文化財 5 55 32 焼火 士)。慶長十五年(一六一〇)宇受賀命(うつかみこと)神社(海士)。元和二年(一六一六)高田神社(西ノ島)。寛永三年(一六二六)諏訪神社(海士)。寛永六年(一六二九)焼火(たくひ)神社(西ノ島)。万治三年(一六六〇)天佐志比古 0 0 島前の文化財 5 55 37 (あまさしひこ)命神社(知夫)。延宝五年(一六七七)奈須(なす)神社(海士)。延宝五年(一六七七)三穂神社(海士)。延宝五年(一六七七)家督(あとど)社(海士)。延宝八年(一六八〇)天王原神社(知夫)。延宝九年<天和元年>( 0 0 島前の文化財 5 55 42 一六八一)大山神社(知夫)。延宝九年(一六八一)御倉(みくら)神社(海士)。貞享二年(一六八五)姫宮神社(知夫)。元禄二年(一六八九)海神社(西ノ島)。元禄五年(一六九二)宇菅(うすげ)神社(知夫)。元禄十二年(一六九九)北 0 0 島前の文化財 5 55 47 乃惣神社(海士)。元禄十七年<宝永元年>(一七〇四)宮田神社(海士)。正徳三年(一七一三)東神社(海士)。正徳三年(一七一三)北野神社(海士)。宝暦元年(一七五一)朝露社(海士)。宝暦十二年(一七六二)多沢(たたく)神社(知 0 0 島前の文化財 5 55 52 夫)。寛政年中(元年一七八九、十二年一八〇〇)穂八見神社。右は明治二年の隠岐国神社取調帖より各神社の棟札の記載されたものを抽出し、時代順に並記したものである。現在島前にはいわゆる氏神と称するもの他三十八社あるがここに記載のな 0 0 島前の文化財 5 55 58 いのは、西ノ島町黒木神社、聖(ひじり)神社、待場(まつば)神社、渡利(わたり)神社、橋乃里神社、海士町で隠岐神社、建須佐雄(たけすさを)神社、布施神社、日御崎神社、多井(おおい)神社、知夫村で渡津(わたつ)神社の以上十一社で 0 0 島前の文化財 5 55 62 ある。この神社には棟札が全然無という事ではなく、例えば黒木神社には正徳三年再建の棟札が現存しているがこの記録には記載されていないまでである。又ここにあげたのは其の神社で最古のものがあげてあるので以下年次を追って数枚のものが保 1713 0 正徳3年 島前の文化財 癸巳 5 55 67 十方拝礼 存されている。言うまでもなく棟札には単に建立年月日のみでなく、当時の代官、庄屋、年寄等々の名前が記載されるのが通例であるので資料価値は大変高いのは言をまたない。美田八幡宮の田楽が天正十八年以前から行われたという資料も棟札の記 1590 0 天正18年 島前の文化財 庚寅 5 55 73 十方拝礼 載によったものである。(松浦記) 0 0 島前の文化財 6 2 1 芋代官碑。島前には、芋神さん、芋殿さん、芋代官と言われている碑がある。私がこの碑について調べようとしたのは、数と場所だけでも確認してやろう、という極めて単純な理由からである。ひまを見つけては、お寺やお堂を中心に歩いて見た。その間、ずい分大勢の人に話を聞い 0 0 島前の文化財 6 2 9 たし、教えてもいただいたが、まだその調査は不十分である。今後を、もっと確かなものにするために、「どんなことをした人の碑で」「場所はどこにあって」「島前への甘薯の普及」について、今までに教えていただいたこと、見たこと、聞いたことを不十分ではあるがマトメて見 0 0 島前の文化財 6 2 15 たいと思う。井戸平左衛門正明。島前で、芋神さんと言われている人である。正明は、享保十六年(1731)九月、岩見国大森銀山領の代官となった。着任早々領内を巡視した正明は、凶作続きで村々には生色がなく、人々の暮らし向きは予想以上で窮迫していることを知り心を 1731 900 享保16年 島前の文化財 辛亥 6 2 23 食事 痛めた。そこで早速庄屋や金持ちから義金を募って、米を買い入れたり、私財を投げ出して窮民を救うことに努めたと言われている。享保十七年の春、旅の雲水から、「九州では一年の半分位も芋を食べていて、人々は飢えることがない」という話を聞いた。正明は、出来不出来の少 0 0 島前の文化財 6 2 30 いと言われるこの芋を、何とかしてこの岩見の国に取り入れたいと考えた。種芋の入手方法については諸説あるが、苦心の結果ようやく七月になって種芋百斤を手に入れた。早速村々にわけて試作させたが、時期遅れと無経験のために、ほとんどが失敗してしまった。ただ一人邇摩郡 0 0 島前の文化財 6 2 38 釜の浦の老農が、その栽培に成功したという。この甘薯が、その後岩見一帯から中国地方へと普及して行くのである。この年は春から天候不順、その上西日本一帯にウンカが大発生し大凶年である。どの資料を見ても、岩見も出雲も隠岐も実に悲惨であったと書かれている。 0 0 島前の文化財 6 2 45 (岩見年表)西国虫付飢餓ニツキ公儀ヨリ周防長門岩見ニ御回米アリ・・。津和野領餓死人一万千百六十一人宗門帳死人高一万五千余人・・。(隠州往古以来諸色年略記)八月ヨリウンカト言虫付日本大悪年・・。(島根県史年表)神戸郡百姓強訴、首謀者二名斬首す。隠岐島大飢饉 0 0 島前の文化財 6 2 54 西郷三町の使者一千五百人。餓死する人も多く、強訴や一揆も起こり、いわゆる享保の大飢饉といわれる年である。正明は幕府の許可も持たず、陣屋の蔵にある米や金、庄屋などに保管してあった年貢米まで残らず窮民の救済にあてた。また年貢の減免なども行い、この歴史に残る 0 0 島前の文化財 6 2 60 飢饉をのり切ろうとした。この勇断によって、銀山領では一人の餓死者も出さなかったと言われている。享保十八年、海士町史によれば、島前飢人五百人以上とあるほどの凶年である。この年の四月、正明は幕命を待たず独断で官庫を開いたという理由で、銀山領代官職を罷免された 1733 0 享保18年 島前の文化財 癸丑 6 3 2 大森を離れる正明を送って、別れを惜しむ人々の泣く声が、岩見の山々に満ちたと伝えられている。正明は備中笠岡の陣屋に移されてから間もない五月二十六日、切腹して果てた。(しかしこの頃からかなり健康を害しており、病死であったという説もある。)享年六十二才。墓は 0 0 島前の文化財 6 3 9 笠岡の威徳寺にあり、法号を「泰雲院殿義岳良忠居士」という。死後、その徳をしのび、仁政に対する頌徳の記念碑が各地に建てられた。島前の芋代官碑。島前には井戸平左衛門正明公の碑が、十六ヶ所に残っている。(1)宇賀。倉ノ谷と宇賀の間、県道脇に海に向かって建ってい 0 0 島前の文化財 6 3 19 る。来待石造り、高さは1メートル。正面右上の表面が風化して欠落し、「良忠大居士」という文字がようやく読める。柱上部に割れ目が入っているが、下部はセメントでしっかり固められている。建立年は不明であるが、見ただけで江戸時代のものと見当がつく。もともと、旧道 0 0 島前の文化財 6 3 26 トリゴエ坂にあったものを新しく海岸道路ができた時に現在地へ移したと聞いた。(2)物井。智頭の大日堂入口、五輪群の中にちょっときゅうくつそうに建っている。正面に「梵字泰雲院殿義岳良忠」が読め、それから左下は風化のため欠落している。右に「丑五月二十六日、伊藤 0 0 島前の文化財 6 3 34 平左エ門」とある。戒名の上に梵字を付けた形から見て、江戸時代の碑文の特徴をもっている碑である。この頃には幕命にそむいた人であるということを考えて、わざと井戸などと書き替えたとも言われている。だがこの碑に伊藤とあるのは、井戸を聞き違えたものではなかろうか。 0 0 島前の文化財 6 3 42 (3)別府。黒木天皇山下の県道にある。戒名もはっきり読め、台石の「村中」の文字で、旧別府村中でこれを建立したことがわかる。多分新しい県道が出来た時に、現在地へ移されたものであろう。と思われる。古くから知られた代官碑だのに、はじめ建てられた場所はわからない 0 0 島前の文化財 6 3 51 「今から百二十年位前の飢饉の時、芋によって助かったそうだ。」という話を聞いた。天保の頃のことだろうか。(4)美田尻。美田尻堂左手の石仏群の中にある。やや風化しているが「梵字泰雲院殿義岳良忠大居士霊位」と文字ははっきり読める。右に「五月十六日、伊藤平右エ門 0 0 島前の文化財 6 3 58 」左に「世話人文七」とある。世話人文七から建立された年が大体見当がつくと思われる。美田尻前野家の五代前に文七という人がいると聞いた。もしこの人であるなら、慶応二年に七十四才でなくなっているので、それより前と見当がつく。文七という名をもつ人が、美田尻にはい 0 0 島前の文化財 6 3 66 ただろうか。(5)大津。長福寺の墓地に近い大津の堂右手。高さ1メートル42センチ、巾76センチの大きい自然石。「泰雲院義岳良忠大居士」左に「井戸平左エ門」と小さくあり、右下に「世話人村中」並んで「前田、松本」と刻んである。世話人前田、松本姓であり、長福寺 0 0 島前の文化財 6 4 6 が明治十六年に現在地に再建されたということなどから考えると、碑の建立は明治であろうか。昭和四十四年、調査を思い立ってから、間もない六月の日曜日に、この大きい代官碑に出会った。この日は、市部と大津の予定で出掛けたたが、うれしさのあまり途中から、早々家に帰り 0 0 島前の文化財 6 4 13 図を整理したものである。(6)小向。木村家左手横の旧道に、大津の碑と同じ石質で大きさは半分位、高さ75センチ、巾41センチの自然石がある。文字が刻まれていないので、これを見ただけでは代官碑であるかどうかわからない。だが、付近の古老の話によれば、いつの頃 0 0 島前の文化財 6 4 21 からかわからぬが昔から芋供養をしていた、芋神様はこの石だと言う。だから文字はなくても、甘薯をひろめて下さった人に感謝するために建てられた碑、これは間違いなくりっぱな代官碑であると思う。供養する月も日も今は忘れられているが、その日も新しいシキミの葉が供えら 0 0 島前の文化財 6 4 28 れていた。(7)船越。運河のほとりにあり、石質は来待石、風化がはげしくほとんど原形をとどめていない。正面の文字は「塚」と読めるだけであるが、左横は意外にはっきりと「銀山御料御代官井戸平左エ門正明」と読め、右横は「享保十八丑年」と読めて代官碑であることがわ 0 0 島前の文化財 6 4 38 かる。高さは53センチで、島前では一番小さいものであった。また風化の状態から外浜の風の強さが思われ、もう建っていることができないようになっていた。昭和四十七年、船越の有志の人々によってこの碑は新しく造りかえられ、今は磨かれた花崗岩の堂々たる代官碑になって 0 0 島前の文化財 6 4 46 いる。(8)本郷。常福寺の境内にあり、来待石造り、台石四段。正面中央の部分が欠落しているが「泰雲□□塚」と読める。左側に「明治十九年、催主前田□造、関□□」背面に「造立者本郷中」とある。建立の年が明治十九年であるとはっきり刻まれている碑は、島前には二ヶ所 1886 0 明治19年 島前の文化財 丙戌 6 4 53 だけであるが、他にも銘はないが、この頃のものではないかと思われるものがある。明治二年に隠岐島内廃仏、その復興が明治十年頃から盛んであることに関係があるだろうか。大森の井戸神社は、正明公没後百五十年に当たる明治十四年の建立と聞くが、この事との関係があるのだ 0 0 島前の文化財 6 4 61 ろうか。飢餓の苦しみからやっとぬけ出した、考えて見たら甘薯のおかげで助かったようなものだ、という状況が明治十九年の頃にもあったのだろうか。ただ、この明治十九年は深刻な農村不況の年である。(9)赤之江。墓地にある。三段の石垣を築き、その上に巨大な自然石。 1886 0 明治19年 島前の文化財 丙戌 6 5 9 正面に「甘薯代官之碑」左に「隠岐島司正六位勲五等千代延聡建書」右側に「為謝恩大正八年四月□院建之」とあり、島内で一番大きい碑である。お寺の住職さんの提唱で建立されたもので、今でも古老はその当時の芋供養のようすを知っている。 1919 400 大正8年 島前の文化財 己未 6 5 16 知夫村。(10)多沢(11)郡(12)大江。多沢の碑は堂の裏、郡は一宮神前、大江は堂の前にある。この三つの碑は、海辺の丸い石に文字の刻まれたもので、建立の年はわからないが、おそらく同じ時期に建てられたものであろう。いづれも正面に「井戸平左衛門正霊代」右に 0 0 島前の文化財 6 5 24 「享保十八年」左に「五月二十六日」と刻まれ、その他の文字は見あたらない。「むかし、サツマイモをひろめて下さった人がこの碑に祭ってあり、近頃まで、畠でとれた一番大きいイモを供えた」という話を大江で聞いた。(13)仁夫。堂の右手、荒神さんの前にある。高さ1メ 0 0 島前の文化財 6 5 32 ートルの四角柱、正面に「井戸平左衛門正明霊代」右に「享保十八年」左に「五月二十六日」右側に「施主村中」左側面に「世話人・宇賀村・小倉清左エ門・上原弥五郎」とある。小倉、上原という人がわかれば建立された年は明かになる。ただ、宇賀村・姓名ということから明治五 0 0 島前の文化財 6 5 38 年以降、明治三十七年以前のものと大体の見当がつくものである。それにしても、知夫村にある碑の世話人が宇賀村の人であることが不思議である。(14)古海。姫宮神社境内にあり、1メートルをこえる大きい自然石、海岸から運ばれたものであろう。文字はないが、土地の古老 0 0 島前の文化財 6 5 45 が芋神様と伝え、知夫村誌にも、五月二十六日・九月二十六日を縁日とすると書かれている。海士町。(15)豊田。豊田入口の道路左手にあり、高さ1メートル40センチの海岸の自然石。正面に「井戸平左エ門正明神霊」右に「享保十八年」左に「五月二十六日」と肉太に刻まれ 0 0 島前の文化財 6 5 54 てある。以前から知られていて、今でも里の人達から大切にされているりっぱな碑である。付近の堂の中には、石仏などもきちんと並んでおり、季節の花なども新しいものが供えられていた。(16)保々見。清水寺の池の辺にある。四角柱の正面に、「伊藤平左エ門神霊」右側に 0 0 島前の文化財 6 5 62 「享保十八発丑五月二十六日」台石の上段に「明治十九年・当村中・世話人井上要四郎」とある。保々見へ行く途中、知々井の老人が、「知々井には碑がないが、イモは盛んに作ったものだ。わしらの若い頃、四十俵位作るのは普通で、わしらの親よりもっとむかしからイモの世話に 1886 0 明治19年 島前の文化財 丙戌 6 6 1 なったものだ。その証拠が里中、村中にある芋倉だ。」と話てくれた。甘薯の普及。甘薯ほど多くの別名を持つ植物もめづらしいと思う。一般的なものでも、アメリカ芋・蕃藷・トウイモ・カライモ・琉球芋・薩摩芋などと言われ、原産地から日本へ伝わるまでの経路が、およそ見当 0 0 島前の文化財 6 6 8 食事 のつくような名前がある。また、ハマイモ、カズラ芋、大米などと作られた土地や形態、また食物としてどう思われていたかも想像できるような名前もある。慶長十年(1605)には琉球で栽培されていたし、間もなく九州へも伝えられたと言われている。幕府が本格的に甘薯の 1605 0 慶長10年 島前の文化財 乙巳 6 6 11 食事 しく植え付けたと書かれている。その頃の代表的な普及書である青木昆陽の「蕃藷考」には、(1)一畝で数十石もとれる。(2)色が白くて味がよい。(3)くすりになる。(4)今年の茎が来年の数石分の種となる。(5)風雨に損ずる事がない。(6)代用食として飢饉をまぬ 0 0 島前の文化財 6 6 14 普及をとり上げたのは、享保十七年以降であるが、部分的には早くから作られた土地もあったらしい。宮本常一氏の甘薯の歴史によると、八丈島へは享保二十年に幕府から種芋が届けられたが、その時にはすでに島中で作られていた。しかし公命によるものであるので、またうやうや 0 0 島前の文化財 6 6 17 食事 がれる。(7)菓子同然に利用。(8)酒となる。(9)干して粉にして餅となる。(10)生でよし煮てよし。(11)忌地がない。(12)春夏に植えて十月に芋ができる。(13)ウンカの害がない。と、不作に備えての、いわゆる備荒食物としての効能が大半である。 0 0 島前の文化財 6 6 24 そして、全国へ普及したのは、宝歴年間だと言われている。島前で甘薯がつくられるようになったのは、いつ頃のことであろうか。日本海にある島国、そして当時の海運の便を考えると、享保の飢饉以前から伝わっていても不思議ではないと考えるのだが、甘薯については記録も少な 0 0 島前の文化財 6 6 31 く、その普及については、数少ない資料によって想像するしかない。享保二十年に松江藩に差し出したと言われる「海士郡海士村産物控江」(海士町誌)を見ても、凶作に備えるために村の農作物や、山野に自生する草木果実のすべてを書き出しているのに、甘薯に当たる名は見られ 1735 0 享保20年 島前の文化財 乙卯 6 6 37 ない。この頃島前では、つくられていなかったものと思われる。宝歴二年(1752)「美田村方法度」(黒木村史)によれば、名月と名付、田のはた大小豆、いも山江出立毛いたづらにぬすみ取申間敷候・・とあり、このいも山が甘薯の畑を意味すれば、享保二十年から宝歴二年ま 1752 0 宝暦2年 島前の文化財 壬申 6 6 45 での間に伝わったと考えられる。この村方法度は、寛文二年に定めていたが、近頃段々猥になったので、此度寄合細吟味したものであると書かれている。この年の細吟味の寄合で、いも山へ出を新しく付け加えたのではなかろうか。更に二十年後の明和九年の資料「隠岐国四四郡村々 0 0 島前の文化財 6 6 53 植立物申渡請書」によれば、薩摩芋。是者砂地川、或荒地返り候様成物所宣敷候、尤植立実成種ハ秋ニ至、爐之腋を堀灰籾殻を敷囲置、又翌年二三月頃取り出し砂地江植つる出候ハバ節を二ツ伐・・(大久斉藤文書)とあり、甘薯の普及は確実である。多くの品種の中から特にサツマ 0 0 島前の文化財 6 7 4 イモの栽培がすすめられたのは、他の品種に比べて、味は少々劣るが収穫が早くて多く、腐れが少ないという特質があるからであろう。文化二年の資料「蕃薯解」(松浦康麿氏蔵)によると、堀上ケたる芋少しも疵付さるをえらびて掛目三百目より以下は春の囲いにいたし夫より 0 0 島前の文化財 6 7 12 食事 大きなる芋は其年冬の食に囲ふべし居宅の床下に穴を堀(囲う穴を釜という)芋何程にても入藁古俵などを厚く覆い寒風のあたらぬやうに囲置三四日遺ふ程小出して其後は元の如くかこひ置べし。翌年の食用に囲う芋は形太き成はよろしからずを目三百目より内の芋聯も疵なきを撰て 0 0 島前の文化財 6 7 19 少しも湿気なき崖の根を横に穴を堀一釜に五七荷程も入藁を覆ひ土をかけとかく雨水の入らぬやうにすべし少しにても雨雪に濡れば直に腐入一釜残らず腐也。少しにても疵付たる芋又は至而小さく性悪き芋は厚一二分斗りに輪切にして日に干よく乾きたるトキ俵に入居宅梁の上にあげ 0 0 島前の文化財 6 7 25 食事 おけば翌年秋迄も味かわらず・・むして食す甘味ありて食易し又雑穀の飯に切干のままたき交ても味よし是をこけら飯といふ。玉が小く食用に成らざる芋は明き畑に其まま植置ば苗植の芋に先立ち七月初めに実入早く夫食の助となる也是を人形芋といふ又人形芋植にも成がたき程の屑 0 0 島前の文化財 6 7 32 芋は・・・とあり、その作り方・食べ方は勿論、床下を掘って囲う方法が文化二年には定着したものと考えられる。以上の資料で見る限りでは、島前への甘薯の普及は、やはり井戸平左衛門正明公が岩見へ普及した享保の大飢饉後、間もなくであろう。その後もくり返し勧められたり 0 0 島前の文化財 6 7 41 また新しい品種がとり入れられたりしたものと思われる。甘薯は食料難の時代になると大切にされ、世の中が平穏になるといつの間にか忘れらればかにされるかわいそうな食物である。この食物に私たちの祖先はどれだけ助けられただろうか。島根県全体では、甘薯の普及によって 0 0 島前の文化財 6 7 41 明らかに人口が増加したという統計もあるという。島前の人口もこの例にもれないと確信しているし、きっと多くの人々の命が助けられただろうと思う。だから島前の人達は、素朴に感謝する気持ちを表わすための碑を建てたのである。島根県全域に芋代官碑が建てられ、鳥取県に 0 0 島前の文化財 6 7 55 まで及んでいて、その数は数百とも聞く。県下ほとんどに建てられている碑が、なぜ島後にはないだろうか。近頃島後で機会あるごとに尋ねているが、まだ見付からないし、あるという話も聞かない。 0 0 島前の文化財 6 7 55 芋塚ーふるさと再見沙ー。佐藤忠氏の調査によると、浜田周辺では嘉永七年、松原心覚院の辺りに建ったのが最も古く、大部分は明治十年以後が多いという。芋塚のあるのは大体海岸部で、内陸部ではない。山間部では日原に一基あるがこれは天領で大森代官支配下にあった為であろ 0 0 島前の文化財 6 7 61 ろう。現在丸立寺境内に移転されている。文久三年の建立である。甘薯が早くから栽培されたのは、海岸部で、内陸部で作るようになったのは、明治になってから後である。芋塚が海岸部にのみあるのは、そのせいであろう。(大庭良美) 0 0 島前の文化財 6 8 1 黒木神社創祀私考。(1)「くろぎ」という地名。「くろぎ」という地名は、黒木御所からきているという考え方と、もう一つ「くろ木」即ち雑木という意味であるという言い方と二つがある。黒木御所別府説を否定する論者は、よく後者を主張する。ただし黒木山の現状は主として 0 0 島前の文化財 6 8 9 松であって雑木林ではない。いくら間違っても現在の様な林相を「くろ木山」とはいはないはず。若しくろ木山であったとするならば、それがどうして現在の様に変わっていったかを考えざるを得ない。雑木林は自然にまかせていて松林に変わることは絶対にないといってよい。松が 0 0 島前の文化財 6 8 15 自生する場合は、表土が切取られ裸地となり、そこへどこからともなく種が飛んで来て生えるというのが植物の生態の常識である。現在の黒木山は腰部は、椎、椿を主とし他の雑木が密生しているが、上部は全山松林である。これは或る時代に上部に工事等をして一時裸地になった 0 0 島前の文化財 6 8 23 時代があり、その後地に松が自生したものと考えねばならぬ。「黒木」の地名が「くろ木」から来たというのなら前述の様に考えるのが妥当であろう。若し初めから自生の松林であったならくろき山山と呼ぶ事はκい。さすれば「黒木」という地名は「黒木御所」から来ていると考え 0 0 島前の文化財 6 8 30 る外はないだろう。黒木という地名が資料としては、「宇野家々譜」に「暦応元年寅七月守護楠正行送りの御号地名与次郎処を御壷内中場と申処を王城と申す外は黒木と御唱ふ」が初見であるが、これは資料として疑義もあるので暫くおくとして、次は「慶長四年別府村検地帖」の 0 0 島前の文化財 6 8 37 くろき、上屋敷七畝、建興寺分、三郎左エ門。同所、上屋敷七畝、同分、民部エ門。の右の記録である。この様に「くろぎ」という地名は相当早くから定着していた。寛文七年の「隠州視聴合紀」別府村の項に「府より北の山崎を黒木と云ふ云々」とあるのは当然である。 1667 0 寛文7年 島前の文化財 丁未 6 8 44 社名について。「黒木社」の資料の初見は元禄十六年の「島前神名記」であり、次いで正徳三年八月再建の「棟札」である。いづれも江戸中期のものであるので、現在まで黒木御所について論ぜられものを見ても神社の創建については軽くあつかわれてきた。ただし、現在なら兎も角 1703 0 元禄16年 島前の文化財 癸未 6 8 51 神社創祀当時は、観光等ということは微塵も考えられない時代。それなのに神社が創建されたという、深い縁由がなければならない。しかるに、創建に関する伝えもなく、資料の初出も江戸期のものなので、これから述べる事は仮設に過ぎないと一笑に付される仁もあるかも知れない 0 0 島前の文化財 6 8 57 が、小社でなく相当の大社であっても創立に近い頃からの文献を備えている神社はそう多くない。殊に黒木社の如き小祠に於ては文献の無いのは普通であって、あえて異とするに足らなぬ。文献的に証明が出来ぬから創建も江戸期をそう遡らないであろうと簡単に考えるのは間違いで 0 0 島前の文化財 6 8 64 ある。前置きはこの位にして先ず「黒木社」という社名の事から検討を加えてみたい。一般に「黒木社」は創建当初より黒木御所に因んで名付けられていると考え勝ちであるがそうでなく「黒木」という地名から仮に名付けられたものと思う。ここで仮にというのは、元録十六年に 0 0 島前の文化財 6 9 6 神祇管領の吉田家に報告する為に初めて公式な社名がつけられたのではないかと考えられるからである。それはこの時代の右の吉田家より神社並びに祭神の調査乃至報告方の達しがあり、前記に「神名記」もそれに応じたものであろう。これには島前全部にわたって祭神名が記されて 0 0 島前の文化財 6 9 13 焼火 いる。(焼火神社が現在の祭神大日霊貴尊と決定したのは「焼火山近世年表」によると元録十五年となっている。この事から考えても祭神不詳の各氏神の祭神が現在の如く決定したのも大体この頃と考えてよかろう。)それでは、それまでの「黒木社」何とれていたでといわれていた 1702 0 元禄15年 島前の文化財 壬午 6 9 20 であろうか。私は「天皇さん」または「後醍醐さん」と呼ばれていたと思う(一般に神社を呼ぶ場合「何々さん」というのが普通で、例えば「八幡さん」「由良さん」「御鳥羽んさん」というが如くである)何故この様に考えられるかというと、明治二十年代に報告された「神社明細 0 0 島前の文化財 6 9 26 書」に後醍醐天皇御社或は黒木御所と称し奉りしを明治五年十月黒木神社と改称云々」と記されているからである。この事は既に元録年間に「黒木社」と報告されているのにこの事を誰も知らなかった。という事は一般には他の言い方がされていたという事である。 1872 1000 明治5年 島前の文化財 壬申 6 9 32 即ち先に記した「天皇さん」であったと思われる。それを明治の明細書では形を整えて「後醍醐天皇御社」として現在の如く「黒木神社」と改称方を願い出たと思うのである。現在黒木の丘は「天皇山」(てんのうやま)と称されているが、これは元は「天皇さん」であって「天皇様 0 0 島前の文化財 6 9 39 」が後に「山」と変わったものと思う。一般には形のない「御所」よりも神社の方が大切であったのである。(3)創祀の時代。さて、それでは「黒木社」の創祀はいつの時代であり、奉祀の動機は何であったかを、考えることにする。大体明治以前に於て神社乃至寺院に於て、天皇 0 0 島前の文化財 6 9 47 を祀っているのは、祟徳院・安徳天皇・御鳥羽院・土御門院・順徳院・後醍醐天皇の六天皇で、いづれも都を離れられた、いわゆる悲運の天子様のみで、他の天皇はいづれも明治以後に於て奉斎されたものである。ここに問題がある。何故前記の天皇のみが明治以前から霊神として 0 0 島前の文化財 6 9 53 祀られなければならなかったのか、これを単的にいうならば、「怨霊のたたりを恐れ安鎮を願った」に外ならない。当時は如何に武家の時代であったとはいえやはり日本人として天皇を蔑にし奉るという事は正道であるとは良心的には考えてはいない。であるから何か不祥事が起る 0 0 島前の文化財 6 9 60 とすぐこれは何かの怨霊の祟りではないか、それは天子様のそれでないかと考える。そこでこれが慰霊安鎮の方途を考えるのである。この例証は御鳥羽院の場合も「水無瀬神」の霊神号を奉ってこれが祭りを行ったり、安徳帝の場合は阿彌陀寺に於て供養を行った等々である。 0 0 島前の文化財 6 9 68 この様な考え方は、上代程強く、中世・近世になるに随って希薄にはなるが、江戸時代になってもこうした考えは続いていた。隠岐に配流された日御碕の小野尊俊検校の祟りを恐れ、時の藩主松平宣澄は松江と隠岐と日御碕に推恵霊社を建立した。その一例である。殊に延元四年天皇 0 0 島前の文化財 6 9 74 が吉野に崩御なされると、その菩提を弔う為にと足利尊氏は夢窓国師のすすめに随って京都に天龍寺を建立したが、その実は天皇の怨霊の安鎮の為が本心であったと思う。天皇奉祀の動機を「天皇の御威徳を称えてとか、建武の中興を祝して」とかいう風に考えるのは、少なくとも 0 0 島前の文化財 6 10 5 明治以降のいわゆる「皇国史観」に立っての考え方であって、明治以前に於て「人を神として祀る」場合は前記せる如くその人の怨霊が祟る、それを鎮める為にするのが常識であった。故に黒木社の場合も、そう考えるのが素直な見方と思うのである。 0 0 島前の文化財 6 10 12 ではその祟を身に染みて恐れるのは誰か、いうまでもなくそれは島民ではなくして、天皇に敵対した武家であったのだ。黒木の山に登る者は昔は裸足で登ったという。この事は明治の頃まで続けられていた。現在ではこれは「御所の在る所は勿体ない」からだという風に解している 0 0 島前の文化財 6 10 18 様であるが、これはそうではなく、初めはむしろ祟りを恐れる一つの形のあらわれであって、こうした例は他の土地にもある信仰民俗である。次の創祀の時期について述べる。これを考える時で先ず思い浮かぶのは、「安国寺」で創建である。安国寺は一国一寺元弘の変における適味 0 0 島前の文化財 6 10 25 方の戦死者の菩提を弔うというのが表面立った理由であった。先ず前記の天龍寺が京都に、次いで安国寺が国々に創建されるのであるが、安国寺の場合は、新建立されたのは極わずかで、その殆どはその地方における既存の寺院をそれに当てたものという。隠岐・島前・中ノ島にある 0 0 島前の文化財 6 10 32 安国寺も寺跡より出土した瓦等から見ると安国寺時代より古い時代のものであり、隠岐の場合も既存の寺院を安国寺に当てたと見るのが妥当である。黒木社の創祀も恐らくこのような時期即ち、天竜寺・安国寺創建の延元四年から五・六年乃至十年位までの間(1339〜1349) 0 0 島前の文化財 6 10 39 に創建されたもので、その中心となったのは当時在任の武家ではなかったか、それは前述の如く天皇の怨霊を一番恐れたのはこれに直接関係した武家衆であったはずだからである。建武中興はわずか数年にして崩壊、この期は南北朝中心の世であった事を考慮に入れると、その対立の 0 0 島前の文化財 6 10 46 天皇を島民が率先して祀るなどは一寸考えられない事である。然して創建当初は前述の如くであっても、時を経るに随って土地の者の信仰がなければ神社は存続しない。後世には武家よりも島民の信仰に因って現在まで続いたのである。(四)結び。後醍醐帝の行在所が島前か島後か 0 0 島前の文化財 6 10 53 と種々に論ぜられ大方の学者は文献史学の立場から「国分寺」がそれで、別府は天皇御配流か又は御脱出の折一時立ち寄られた位の処に神社を建てるわけはない。知夫村にも立ち寄られた伝承があるが、神社は造られていない。「天皇の長期の行在(滞在)の事実」があったからこそ 0 0 島前の文化財 6 10 60 その跡地に神社が創祀されたのである。島後の国分寺にも現在天皇を祀ったと称する神社が寺の背後にあるが、それは時流に便乗したもので、初めから天皇を奉祀したものではない。明治二年の「島後神社巡察日記」国分寺の項に当時の祠が書き上げてあるが、山王小祠・東照宮社・ 1869 0 明治2年 島前の文化財 己巳 6 10 69 慈悲権現祠・愛宕小祠・荒神小祠とあり、それが寺内の祠総てである。そのいづれを見ても、天皇を祀ったらしい祠は一つもない。以上神社の創祀から見ても、天皇の行在所は「島前の別府」の地をおいて外には無いという事が出来ると確信する。猶、黒木御所の立地条件について 0 0 島前の文化財 6 11 1 種々の異論もあるが、この点に就いて私見を述べる事は、本題から離れるので割愛する。が一つだけ神社に関して述べると、神社の向が明治初年頃まで今と反対即ち御所跡と向かい合っていた事を別府の古老は知っている。(別府前局長前田幹氏談)この事実は重要だと思う。 1868 0 明治元年 島前の文化財 戊辰 6 11 7 それは「御所跡」は「現在の跡地と神社のある場所を包含した地域」でなかったかと考えられるからである。いわゆる古社には古墳の上に建てられている例が多い如く、黒木社の場合も御所跡の地域外に神社が設けられる事は先ずないと思うからである。黒木御所は仮御所とはいって 0 0 島前の文化財 6 11 13 も現在地のみをみると余りにも小規模過ぎる感はまぬがれない。又地形も今は起伏があって山上に二つの小丘がある如くに見えるが、元は跡地、神社地は同等高の丘であり、御所への古道は、現在の御所跡の背後から今の千福寺跡の方についていた事は明らかである。御所跡の 0 0 島前の文化財 6 11 20 立地条件に就いていう時、よく現状のみを見て論らわれる傾向が多いので念のために書き添えることにした。追い書。延元四年八月十六日(新暦九月二十七日)に後醍醐天皇は、吉野の行宮に於て「玉骨はたとひ南山に埋むとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」とお仰せらせ 1339 816 延元4年 島前の文化財 己卯 6 11 28 左の御手に法華経を、右の御手に御剣を按ぜられて神上がりましたという。この御遺詔によって、御陵は北に向かって設けられている。天皇陵としては異例の事である。黒木社も現在は南面であるが、創建より明治初年頃までは北面していたことは前述した通りである。 0 0 島前の文化財 6 11 35 神社の向かいは、普通には南乃至東面して造営されるのが常識である。旧黒木社が北面していたという事は、創建当時の者が前期の御遺詔を風聞していて、御霊安鎮には天皇の御心にすこしでも逆らわぬ様にとの配慮のもとに社の向きを御陵にならって北面にしたのではないかという 0 0 島前の文化財 6 11 41 風にも考えられぬ事もないが、これはあまりにも創祀者の心理に立ち入り過ぎた推理の感もあるので、想像として記するに留める。(51・6・30記) 0 0 島前の文化財 6 18 30 焼火 願開きの民俗。神仏に心願成就を祈念する時、その礼物をあらかじめ神仏に約束してから立願する方法がある。その御礼奉賽に参ることを「願開き」というその献納物はいろいろであるが、焼火神社に於けるものは、(1)千本幟の願。これは島前どこの神社でもある方法である。 0 0 島前の文化財 6 18 38 五寸位の長さの割竹をけづり、それに巾一寸五分位の紙を幟形に巻いたもの千本。鳥居から拝殿までの参道の両側に立てる。これは戦後も続いていたが、現在は殆ど見られなくなった。(2)金(かね)の鳥居の願。金の鳥居というと聞こえはよいが、鉄板又はブリキで高さ巾共五・ 0 0 島前の文化財 6 18 45 六寸位の鳥居を献納する。神をあざむくもはなはだしいと思うが、ただし当人は初めから右様の物を考えているから神をだましたという意志はないはず。これは今でも時々ある。(3)ジンメの願。「ジンメ」は恐らく神馬であったと思うが、その方法は馬と関係ないのではっきりは 0 0 島前の文化財 6 18 53 言えぬ。おれは心中にジンメの願を掛け、願成就の時には参詣してその旨を申出て最小一日から長い者は一週間位神社の雑役奉仕を願出た。今流にいえば勤労奉仕、天理教でいう「ヒノキシン」と同じ考え方である。仕事の内容は境内の掃除、祭礼時の荷上げ、春詣りの賄手伝等々が 0 0 島前の文化財 6 18 59 焼火 主であったという。変わった処では裁縫をさせてくれと申出た者もあった。これは大正の中頃まであった。(4)流し木の願。これは岡山県和気地方で行われている方法である。この地方では「隠岐の焼火の権現は一生に一度は必ず命を助けて頂く事の出来る神様」といわれており 0 0 島前の文化財 6 18 66 焼火 小願は一週間、大願は二十一日間自宅に於て祈念をする。そして満願の時は奉賽の為に「流し木」をする。木の大きさは人それぞれに異なるが、一間から三間位までの丸太を近くの吉井川に流すとそれが焼火権現に届くと伝えられている。(岡山県和気郡佐伯町用賀藤原栄氏開願の為 0 0 島前の文化財 6 18 73 に参詣、談)(5)木を植える願。これは開願の時神社に参って境内に献木植樹するもの。鳥取県八頭郡智頭町方面で行わ(40ページ中段に続く) 0 0 島前の文化財 6 26 1 隠岐国高田山寺ノ峰経塚。松浦静麿。経塚の位置は、知夫郡黒木村(現西ノ島町)大字美田字小向高田山東峯で七十七米の処です。此の山麓に、今は移転しましたが、幕末頃まで、高田山長福寺という真言寺があったのです。経塚は大正十年五月二十六日に一度外形を見ました。 1926 526 大正15年 島前の文化財 丙寅 6 26 9 東西に短く南北に長い楕円形墳で始めは単に古墳と思っていました。小石を集めたもので墳上には松桜その他雑木が繁っています。南方は美田の田園を俯瞰する景勝の地で、高田神社の在地高田山西峯とは谷一つ隔たって、寺の峯の頂上と神社の位置は高低殆ど平行線上です。(第1 0 0 島前の文化財 6 26 15 図)実測によれば第二図のような形状です。昭和五年の五月中に村内の資力検査員山林部の人々が此の頂上で休息中墳丘上の石を少々除き枯松葉をかくと円鏡を発見したといふ話が耳に入りましたので、夫れを尋ねて、更に数回に亘って表面の部分を発掘しました結果、左記の遺物が 1930 500 昭和5年 島前の文化財 庚午 6 26 23 出ましたので、経塚と推断したのです。ただし経筒の発見はありません。なおこの塚は今から三十年も前に持ち主が所謂黄金の茶釜でも掘り出す気で発掘したという事も聞きました。従って遺物は墳丘の全面に細片となって散っております。遺物に就いて説明いたしますと、1)和鏡 0 0 島前の文化財 6 26 29 一面。直径三寸五分、重量二十九匁、縁高一分五厘、縁は厚縁少傾であります。紐は菊座紐であり単圏であります。(註表紙参照)鏡背の草花は広瀬氏の和鏡図を参照すると桜と山吹と思われこの二草花が紐座を中心に相対して各外区に向かって繁茂開花して整然と鏡背を二分して 0 0 島前の文化財 6 26 36 居るようです。その中に双雀が相対して飛んでいます。両草花の中間、鏡の上部と見るべき所には松枝らしい草が見えております。雅致ある模様で鎌倉中期の鏡と見られます。(註平安時代後期)。2)和鏡破片。復原すれば直径三寸二分であらうと思います。長い年月土中にあって 0 0 島前の文化財 6 26 43 痩せたかと思われる薄手であります。復原しても重量が八匁あるかなしかの貧弱な素質であります。縁は細縁で高さは一分であります。紐座は捩菊座紐で文様は単圏で隔てられた外区に網目の模様があり内区は紐座を中心に葦の密生と見ゆるものが相対し鷺と見るべき鳥が紐座を中心 0 0 島前の文化財 6 26 48 に葦の密生と見ゆるものが相対し鷺と見るべき鳥が紐座を中心に反対向に飛んでおります。若し密生した植物が松の梢の表現なれば鷺と見るべき鳥は鶴であることになります。粗製でありますが、平安後期の特徴を備えているようです。(3)銅鍔。薄手の青銅鍔で鍍金の痕跡が見え 0 0 島前の文化財 6 27 5 ます。儀式用太刀のであろうと思います。長径二寸三分に短径二寸です。但し鉄片はかなり出ましたが太刀の残片と見るべきものを発見いたしません。(4)青磁合子。壷形合子と思います。完全ではありませんが破片を発見して復原したものです。(註高さ一寸七分、蓋径二寸) 0 0 島前の文化財 6 27 15 (5)古銭。宣和通宝の大形です。(6)陶器破片数十個。釉薬のかかった陶器破片です。故意に破却せられたもののようです。復原すればかなり大きな壷になるようです。或いは経筒の外壷ではないでしょうか。推定復原して見ますと「第三図」の様になります。(この陶片を 0 0 島前の文化財 6 27 23 島根大学山本清教授によって復原したのが写真「第四図」で現在島根大学に寄託)。(7)赤焼土器破片。厚手の土器です。硬質で口辺の破片によって考えますと、或いはこれが経筒の破片ではなかろうかと思います。口辺復原しますと口径三寸位になるようです(「第五図」参照) 0 0 島前の文化財 6 27 31 これは底部のやうですが、中心に穴があります。或いは蓋の破片かも知れません。(8)鉄片数十。何れも細片で原形を推定いたしかねますが小刀の残片と見るべきもの二、鉄鉢の残片と見るべきもの一は稍々原形を想像されます。何分にも未だ全部完全に採掘したものでありません 0 0 島前の文化財 6 27 38 からわかりかねますが経塚だという事は確定いたしても差し支えありますまい。追記。本報告は、昭和七年九月刊、考古学雑誌、二二巻九号所載のものの再録である。本号表紙と関連があるのと、本報告は殆ど島内でも未見の方が多いことと思われるので転載して参考に供することに 1932 900 昭和7年 島前の文化財 壬申 6 27 45 した。猶写真はすべて除いた。本文には「和鏡一面」とあるが故小中又市氏旧蔵のもと二面出土している(表紙裏参照)現在出土品全部焼火神社の所蔵となっている。註は松浦康麿が付したもの(五一、七、二六記) 0 0 島前の文化財 6 40 33 焼火 (十八ページより)れているもの。この地方には別に人の目につかぬ奥山に入って「焼火権現の方に向かって人火を焚く」という方法もあるという。最近あったのは昨年三月智頭町戸板定雄氏が檜苗五本を持って参拝した。(6)蚊帳に入らぬ願。私の少年の頃まで、夏になると蚊帳 0 0 島前の文化財 6 40 40 焼火 に入らぬ願をしていたからといって、夕方に参拝して客殿でお篭りをして帰ったものである。蚊の多い処で蚊帳に入らぬというならわかるが、私の山の家はあまり蚊がいないので、蚊帳は一帖もない。この開願などはユーモラスがあって面白い。以上が焼火神社に対する「開願」の 0 0 島前の文化財 6 40 47 方法である。庶民信仰として面白いと思い記して見た。(松浦記) 0 0 島前の文化財 6 41 1 三度と正月さん。岩倉敏雄。著者は、西ノ島町宇賀出身であるが、子どもの頃正月(勿論旧正月であった、終戦直後より昭和三十三年頃まで、西ノ島町では各部落新旧正月まちまちであった)が近づくと、毎年のことながら、お正月にと妻皮付の高木履(高下駄)と提灯を買って貰い 0 0 島前の文化財 6 41 8 大晦日(おおとし、といった)が待ち切れず、座敷を高木履で歩き回り、畳がいたむといって、叱られたものである。大晦日が夕方ともなれば木履を地に下ろし、暗くなるのを待ち兼ねて提灯に灯を入れ、それを振り降り「正月さん正月さん、何処までござった、三度のカド(庭まで 0 0 島前の文化財 6 41 17 )ござった、トク(徳利)に酒入れて、重箱に餅入れて、トックリ(ゆっくり)トックリござった。」と唄いながら、大晦日から正月三が日ぐらい毎夜地下(じげ)じゅうを歩き回り、歩き疲れると、昔話の上手な古老を一団となって訪れ、ランプの下で、お伽噺(とんとん昔といっ 0 0 島前の文化財 6 41 27 た)を聞いて、空想に駆られたり、英雄豪傑の話に知を湧かせたものであるが、ラジオやテレビのない時代ではあったけれども今思えば、それでも結構楽しいお正月であった。その頃、子どもの心に三度とは一体どんな所であろうか、三度の子ども達は、正月が早く来てイイなアと 0 0 島前の文化財 6 41 34 羨ましく思ったものである。「三度とボンノクダ(後頭部のこと)見たこた(こと)ござらぬ」の当地方の諺どおり三度部落には、なかなか訪れる機会がなかった。昭和二十八年夏、齢い四十余にして初めて国賀観光の途次、乗船(当時は専門の観光船はなかった)のエンジン故障 0 0 島前の文化財 6 41 40 のため三度浜に不時寄港した。子どもの頃から夢に描いていた三度部落を初めて目のあたりにし、俄に童心に立ちかえり、思わず「正月さん正月さん、何処までござった・・・」と、つい口ずさんだ。思えば、これは二十余年前の古い話である。西ノ島町宇賀部落に、小中又市(昭和 0 0 島前の文化財 6 41 47 四三・八・一死亡八九才)という博聞強記の古老がいた。生前同翁から郷土にまつわるいくつかの故事来歴を聞いたが、その一つに「三度と正月さん」があった。要旨は、凡そ次の通りである。「何時の時代か自分には判らないが、伝承によれば遠い昔、大陸からの船が三度浜に 0 0 島前の文化財 6 41 55 難船漂着した。その船が遇々万年暦(連続60年分を一括した暦で永代暦ともいう)というものを積んでおり、その暦が、お礼のしるしか何かで三度にもたらされた。文化程度の低かった時代のこととて、恐らく当時比較的インテリだった三度の寺の坊さんが暦の使用方法を教わった 0 0 島前の文化財 6 41 61 ものであろう。そして使用法がマスターされた後は、もう何日すれば正月だとか、盆が来るとか、節句だとかと諸行事日が次々と三度から島前各部落に予め伝達され、それが各戸に布れられたものであるという。子どもたちには待ち遠しい正月が、もう何日すれば来ると、三度から 0 0 島前の文化財 6 41 68 伝達して来たので、島前の子供たちは勿論一般島民も、お正月は三度から来るものと観念づけられ、それが「三度と正月さん」の童歌となったものであると聞かされている」ということであった。そこで我が国に暦が伝来(602)した当時から約三百年間の日本海側の大陸との彼我 0 0 島前の文化財 6 42 5 通交船中、文献に表われた隠岐漂着船を参考までに年代順に、これを抽出列挙して見た。この中に、或いは三度に暦をもたらしたかも知れぬ漂着船が含まれているかも知れない。当時我国と日本海側の大陸との関係は朝鮮半島を統一した新羅国とは不仲、新興渤海(新羅国とは敵視の 0 0 島前の文化財 6 42 11 仲)とは親交の間柄であった。神亀四年(727)閏九月に最初の渤海使が出羽の国に到着して以来、日本と同国との通交は史実に明らかなものだけでも34回に及んでおり、日本からのみにても前後13回にわたり渤海国へ使者を派遣している。仁和四年(888)及び天慶五年 727 0 神亀4年 島前の文化財 丁卯 6 42 18 (942)には新羅船も隠岐に漂着している。 0 0 島前の文化財 6 42 20 隠岐最初の漂着船。天平宝字七年(763)送渤海客使平群虫麻呂(へぐりのむしまろ)の一行が渤海国よりの帰途遭難し隠岐に漂着している(続日本記)天平宝字七年十月六日船師板振鎌束(いたぶりのかまつか)が渤海国より帰国の途中、船人をして、乗船の客を海中に投入させ 763 1006 天平宝字7年 島前の文化財 癸卯 6 42 26 た罪で獄に下った。これは判官平群虫麻呂等が送使となり、鎌束が船頭(船名は能登)となって渤海使新福王一行(第六回目の渤海使である。一行は前年の十月朔日、二十三人で越前の加賀郡に着陸来朝した)を渤海国に送り届け(天平宝字七年二月二十日、日本を出発、八月十二日 763 1006 天平宝字7年 島前の文化財 癸卯 6 42 41 に送り届ける)て帰るとき(翌年二月二十二日渤海国を出発)我国よりの留学生高内弓(こうのうちゆみ)と、その妻高氏(唐人)その子広成、嬰児一人、乳母一人、それに入唐の学問僧戒融と優婆塞(うばそく=在家の仏道に従う女)一人が、その船に便乗(唐より渤海国迂回帰国 763 1006 天平宝字7年 島前の文化財 癸卯 6 43 2 )していた。途中暴風に遭遇して方向を失い、しかも舵取と水手が波にさらわれてしまった。その時、鎌束等船人は、これは、この船に異邦の婦女が乗っており、しかも、その上一食数粒の食事で飢えることを知らない奇妙な優婆塞が乗っており、それがための災いであろうといい、 763 1006 天平宝字7年 島前の文化財 癸卯 6 43 8 鎌束は水手をして、高氏とその嬰児(女)、乳母、優婆賽の女四人を捉させ、海中に投じてしまった。風は、なお吹き荒れて、十余日漂流の後、隠岐に漂着した。 763 1006 天平宝字7年 島前の文化財 癸卯 6 43 12 第二回目隠岐漂着船。延暦十八年(799)五月十三日、西ノ島町大字宇賀字神付(かんづき)に漂着した前遣渤海使内蔵宿祢賀茂麻呂(くらのすくねかもまろ)の一行がある(日本後記)。延暦十八年内蔵宿祢賀茂麻呂一行が渤海国より帰航の途中闇黒のために方角を失い、暗夜を 799 513 延暦18年 島前の文化財 己卯 6 43 18 漂う中に、比奈麻治比売神の火光の揚がるのを見て、それを目標に着船した所が「神付」であった。そして全員全きを得た。今につたえられるところによると、西ノ島の略々最東端付近の神付に上陸した賀茂麻呂一行は、そこより峰を越えて、一つの谷に下ったが、その谷を後に勅使 799 513 延暦18年 島前の文化財 己卯 6 43 24 の名をとって「蔵之谷」(くらのたに)といった。又神付より蔵之谷に至る途中に「蔵坪」(くらつぼ)という地名が残っているが、勅使が休息した場所といい伝えられている。現在、比奈麻治比売神社(宇賀と蔵之谷、両部落の氏神)の社宝として、次の賀茂麻呂の古詩が一篇残さ 799 513 延暦18年 島前の文化財 己卯 6 43 31 されている。離国漂天外、煙波鬱春風、船中何見処、早到来花空。延暦十八年卯五月八日。従五位下、内蔵宿祢賀茂麻呂。 799 508 延暦18年 島前の文化財 己卯 6 43 36 第三回目漂着船。天長二年(825)十二月渤海国使高承祖等103人が隠岐に漂着した(日本逸史)。 825 1200 天長2年 島前の文化財 乙巳 6 43 39 第四回目漂着船。貞観三年(861)正月二十日、渤海国李居正等105人が隠岐国へ漂着の上、島根郡(島根半島の北浦=美保関町)に向かった。出雲国では、絹145匹、錦1225匹を贈って、これを、もてなしたという(三代実録)。 861 120 貞観3年 島前の文化財 辛巳 6 43 45 第五回目漂着船。仁和四年(888)十月三日、新羅人35人が隠岐に到来(漂着?)した(日本紀略)。 888 1003 仁和4年 島前の文化財 戊申 6 43 48 第六回目漂着船。天慶五年(943)に、新羅船七隻が隠岐に寄着(漂着?)した(日本紀略)。 943 0 天慶5年 島前の文化財 癸卯 6 43 51 以上が、筆者が文献で得たものの全部であるが、これに洩れたものも或いは若干あるかも知れぬ。この内、漂着地点のハッキリしているのは、第二回目漂着の内蔵宿祢賀茂麻呂一行が、西ノ島(三田郷)の東端、神付に漂着した分のみで他の五ケースについては、隠岐の何処に漂着 0 0 島前の文化財 6 43 57 したかは、全く不明である。当時、渤海国からの船は図們江(豆満江)を遡った左岸の同国の首府竜原府(東京城=現在の琿春あたりであろう)を出航、朝鮮半島沖合い(新羅国とは既述の如く我国及び渤海国は不和であった)を南下して山陰沖に辿りつき、そこから対島海流に乗り 0 0 島前の文化財 6 43 63 日本海の常風とでもいうべき西風(乃至北西風)を殆ど真艫に受けて東航し、先使の轍を踏んで航路の目標を一応発見容易な越前崎乃至能登半島を指向した上、敦賀湾、若狭湾等に寄着したものであろう。その際、日本沿岸で最初に視界にはいる陸地が、西ノ島三度崎(岬)である。 0 0 島前の文化財 6 43 70 それがために、大陸船の隠岐漂着数も前掲の如く比較的多かったものと思われる。これ等の漂着船中に、果たして小中翁の所謂暦を三度部落にもたらした船が含まれていただろうか、しかし三度寺(現在の寺名は、地福寺、創建不詳)或いは大陸よりの暦についての伝承が、現地三度 0 0 島前の文化財 6 43 76 部落には残っていない。本稿は「三度と正月さん」については、かかる説もあるということを大方に紹介し、それに、我国に暦が伝来した当時より約300年間の日本海における大陸と我国との通交船中、隠岐漂着船を標題の推考の参考として挙げたまでである(昭和51、5、25 0 0 島前の文化財 6 44 1 隠岐島と神社。空間認識からみる神社の立地性に関する研究。宇杉和夫。その一、突き出た空間(焼火神社他)。1)はじめに。今日において、生活空間の在り方は大きく問い直されている。それは第一に自然の在り方の認識と、それを背景とした物を作る態度の在り方に集約される 0 0 島前の文化財 6 44 9 また、物を作る方法は、作られる状況という生活する場の理解と共にあるものでなければならないが、この相互の関係はいまだ明確になっていない。この『空間認識からみる神社の立地性に関する研究』はこれらの疑問と課題に対していくらかも検討を試みることをめざしている。 0 0 島前の文化財 6 44 15 本稿はその一つのケーススタディーとして、<突き出た空間>を報告する。2)これまでの神社に対しての研究。これまでにおける神社に対する研究は、イ)宗教学から、ロ)国文学から、ハ)歴史学から、ニ)考古学から、ホ)民俗学から、ヘ)建築学から、ト)植生学から、 0 0 島前の文化財 6 44 22 チ)地理学から、のものがある。元来、神社に関する学問はその伝承等に曖昧な夾雑物が多く、信憑性も問われ、実証的な科学の分野に組入れにくいものとして取り扱われていた。しかし最近になって注目できるものに、1)歴史地理学的考察2)神話民族学的考察3)植生的緑地 0 0 島前の文化財 6 44 28 計画的考察等がある。これらは共に文化形態と自然形態との関連についてそれぞれの立場からの検討であるととらえることができる。3)空間学からみる神社。ここで神社の立地性について検討を試みることは単に歴史的空間のあり方を想定するにとどまらない。今日的な都市、 0 0 島前の文化財 6 44 35 および、農村の生活空間の中での位置についても考察していきたいと考えている。また、過去から現在に至る生活空間の変遷(空間の置換論的意味性)の中で、いかにその役割を担ってきたかを考察することは意味深いものがある。そして何よりも私にとって興味あることは、人間が 0 0 島前の文化財 6 44 42 建物をつくり、生活空間を形成してきた状況を考察するにあたって、それが歴史的に最初の方に近いものであることである。すなわち、自然環境をも含めた生活空間をいかに規定し、建物をつくり始めたか(空間の発生論的意味性)は、その後の歴史的空間と現在における生活空間 0 0 島前の文化財 6 44 48 のあり方と、その規定の仕方を知るうえで大きな示唆を与えてくれるものと考えている。これらを検討するには前述した諸学から検討された成果を基礎や背景にして考察することも必要であるが、それが空間性という抽象的、総合的な立場から検討することの必要性をもつものである 0 0 島前の文化財 6 44 54 ことを明らかにしたいため、空間認識をその基底の一つとする空間学(Spaceology)からみる神社の立地性の考察とすることを、お許し願いたい。4)調査地とその概況。今回の<突き出た空間>は、島根県韻岐郡におけるフィールドワークの結果をもとに報告する。隠岐島は、主な 0 0 島前の文化財 6 44 61 る三つの島からなる島前と隠岐最大の島である島後とに二分されているが、これは島前におけるケーススタディである。神社の立地を決定するものは、自然の側からみれば最もその要因として大きなものは地形である。そしてこの地形のうち海と陸との関係は基本的に重要なフレーム 0 0 島前の文化財 6 45 1 焼火 を形成している。今回の<突き出た空間>は陸地が海に突き出ているケーススタディである。一つは島前中央にある焼火神社であり、一つは同じく西ノ島町にある黒木神社、海神社、美田八幡宮であり、一つは海士町崎にある三穂神社である。 0 0 島前の文化財 6 45 8 焼火 5)焼火神社と<突き出た空間>。焼火神社は島前の中央にあり内海に突き出た形態を持つ焼火山の頂上近くにある。現在は神社の形式をとっているが、明治に神仏分離が行われるまでは雲上寺とも呼ばれる焼火権現であった。その信仰圏は島後の「あごなし地蔵」と共に広く北陸 0 0 島前の文化財 6 45 14 焼火 地方まで広まっていた。焼火権現は航海の安全を守る神である。焼火神社には海と火と舟にまつわる信仰がある。焼火山は、島前の中央にあり最も高い山である。島前の内海及び外海のさまざまなところからこの焼火山の山頂がのぞめる。その山頂に登れば島前のほぼ全貌がみわたせ 0 0 島前の文化財 6 45 21 焼火 る。また東方には、島後の容姿が望める。山頂から西ノ島町および海士町の内海に沿った集落からの距離は五キロメートルとは離れてはいず焼火山が海抜四百五十一メートルとさほど高い山ではないので、内海に沿った集落の家の形態がはっきりとわかり、通行する人間をさえ認める 0 0 島前の文化財 6 45 28 焼火 ことができるぐらいである。この山に登って望めば島前は一眺めなのである。焼火神社はこの山の九合目ほどのところにある。最初の祠の階段の前を通りすぎると社務所がある。社務所の前はやや小径が広くなっておりそこから内海がみわたせる。特に南方についての見晴らしがよく 0 0 島前の文化財 6 45 34 内海に入ってくる船は見落とすことがない。そこを通りすぎ、、やや右に折れて鳥居をくぐるともう拝殿がみえる。拝殿は北向きである。拝殿の周板敷にあがると西側に開き戸があり内部がのぞめるようになっている。本殿は西向きである。また本殿の周囲にある数個の祠は全て西を 0 0 島前の文化財 6 46 2 焼火 向いている。この本殿の向いた前を本土と隠岐を結ぶ連絡船、隠岐汽船が通過をするとき船は汽笛をならす。焼火神社の位置と本殿の向きはこのように島前を一瞥し、湾に入ってくる船をチェックし、かつその船が左の入江に入ってきて焼火神社の前を通過するのを再びチェックでき 0 0 島前の文化財 6 46 11 焼火 る位置にあたる。6)黒木神社と<突き出た空間>。黒木神社は焼火山のある西ノ島町にある。本社は、後醍醐天皇の「黒木御所」の地内にあることからしても後醍醐天皇をお祀りしてあることは申すまでもない。焼火神社所蔵の護国仁王経裏書神名記に、元禄十六年「黒木社」と 0 0 島前の文化財 6 46 16 焼火 書かれているが、その祠は村方明細帳にも載らない小祠であった。黒木神社は焼火山によって左右に分けられた東側の入江の最も奥にある小高い丘の上にある。丘は入江に向かって南に突き出している。それはすぐ西側に焼火山が入江全体に向かって突き出しているのと、スケールに 0 0 島前の文化財 6 46 22 焼火 おいては大きな差があるが同じ形態をもっている。ただしその突き出かたの規模が入江の大きさに対して小さい。この点で入江全体に対してそれを二分させようと大きく突き出している焼火山とは異なっている。境内への登り口は丘の西側の防波堤によって整備された中程にある。 0 0 島前の文化財 6 46 29 境内は丘の頂上にある。社殿は本殿、拝殿ともに丘が海に突き出している同じ方向(南)を向いている。この境内からの眺めは内海の東側の入江を見渡せるほどである。特にこの入江に南から入ってくる船は、この丘からの視野からのがれることはできない。一方、船でやってくる 0 0 島前の文化財 6 46 36 者にとってもこの小丘は、周囲の平坦な構成とは異なり目につきやすいものとなっている。この天皇山とも呼ばれる丘の最も奥に、後醍醐天皇の行在所跡がある。7)海神社と<突き出た空間>。黒木神社の東にある小丘には延喜式神名帳に記載されている海神社がある。海神社のあ 0 0 島前の文化財 6 46 43 る地は西の黒木神社のある突き出た岬と東の岬との間の弓状に凹んだ低地に、海辺まで後方の山地が突き出してきた小山の上にある。ここも顕著ではないが入江の中に突き出た小丘のパターンをもっているといえよう。海神社の境内には、海辺に立った鳥居から入る。階段を登り境内 0 0 島前の文化財 6 47 4 にあがり振返ると、木間から入江と中の島の家督山と西ノ島の山々が、眺められる。境内の軸と海辺の鳥居はほぼ真南を向き、その方向上には高平山がある。本殿の背後には古墳があり、その丘は後方の山地につながっている。周囲の地形を概括的にみれば入り込んだ低地に、山地 0 0 島前の文化財 6 47 11 焼火 が左右の低地を分けるようにして突き出しており、その先端の丘に海神社が前方への見晴らしをもってあるというように、島前全体に対する焼火山、そして焼火神社のある形態と意味に相似したものがうかがえる。8)美田八幡宮と<突き出た空間>。黒木御所の西方にも小山状の 0 0 島前の文化財 6 47 18 突き出た丘があり、美田八幡宮がある。この突き出た丘の周辺は低地となっているが、この低地が海であったころは、この小山も現在の黒木神社のある丘のように突き出した形態となっていたのであろう。丘は背後の山地との間がくびれており、そこを通る道路から境内に至る参道は 0 0 島前の文化財 6 47 25 北西にあたる背後の山に向かっている。本殿も同様に北西に向かっており、本殿の後は山となっており、海士方面への見晴らしは全くなく、この点において美田八幡宮は、本稿における<突き出た空間>にある他の四つの神社と異なっている。これには、美田八幡宮が、別府から 0 0 島前の文化財 6 47 31 美田に抜ける峠を意識していることを指摘できるであろう。美田八幡宮の後方の海上には見付島があり、その陸地よりの浜辺には陸地に向かって、小祠が祀られているが、これは美田八幡宮がまつられているパターンと同様な認識形態に基づくものであると考えられる。 0 0 島前の文化財 6 47 38 9)美穂神社と<突き出た空間>。美穂神社は島前海士町崎にある。崎の集落の氏神である。御鳥羽上皇が隠岐に流されて最初に着いたのがこの地で、美穂神社で一夜お泊りになったとの伝えがある。美穂神社は崎にある入江に突き出た形態をもつ小丘の上にある。規模は黒木神社 0 0 島前の文化財 6 47 44 のある地よりもさらにスケールが小さいが、島前の内海に対する焼火山の意味と極めて似た形態となっている。以前はこの小丘の入江が主なる港であり、東の入江は浜であった。現在は埋め立て、整備された港によってやや不明確になっているが、それでもその埋め立てられたところ 0 0 島前の文化財 6 47 51 を海であったと想定してみれば現地を実見してみてもその輪郭は明らかとなって眼に映ってくる。神社の参道には海とは逆の西北から続いている階段がある。しかし拝殿ならびに本殿はその参道には正面を向けてはいず、海の方、すなわち入江の入口に向かっている。従って参拝する 0 0 島前の文化財 6 47 58 者は参道をすすみ、振返って本殿に向かうことになる。また本殿の正面をやや丘を下ったところには小さな祠とそれに似合った鳥居がついている。ここは港が整備される以前この小丘のすぐ周囲に海面がよせていたときには海面より二メートルばかりのところになり、入江から入る 0 0 島前の文化財 6 48 6 船にとって最も眼に着くところであった。崎の入江の外から眺めるとき、そこに小さいながらもこの<突き出た空間>の呈する景観の最も典型的なものが、この美穂神社にみられる。このような、入り込んだ入江ξ中に突き出た半島あるいは丘に神社が祀られるケースは島前にも 0 0 島前の文化財 6 48 14 他に何箇所かみられる程一般的なものともいえる。10)結論。以上<突き出た空間>が神社の立地のために選ばれた五つのケースを報告した。突き出た空間は例外なく海からの見晴らし、あるいは海への見晴らしの良さをもっている。五つのケーススタディにおいてもこの 0 0 島前の文化財 6 48 21 この<見晴らし>があるということは全体的な場の意味の連続性の中にその場所の存在力を高めるものであったのかというと、どうもそれのみではないよう考えている。より強い意味がある空間の発生機構がそこにはかくれているのではないかと考えている。この五つの神社を通じて 0 0 島前の文化財 6 48 28 認められるのは、入り込んだ入江(あるいは低地)に突き出した山地(あるいは丘の)イメージである。そしてこれは、島前の全体的形態とその認識に関与している。私には、これが空間の発生機構において重要な意味と役割をもっていると考えられる。これがなぜ重要な意味をもつ 0 0 島前の文化財 6 48 35 のかということと、そのメカニズムについては機会があれば、他の地域でもみられるケーススタディを添えて報告させていただきたいと考えている。〔参考文献〕「隠岐国神社秘録」昭和二十八年、島根県総務課。「隠岐」昭和四十三年、末永雅雄、関西大学、島根大学共同隠岐調査 0 0 島前の文化財 6 48 44 会編。「黒木村誌」昭和四十三年、永海一正、黒木村誌編集委員会。 1968 0 昭和43年 島前の文化財 戊申 6 49 1 その二、凹んだ空間(由良姫神社他)。1)はじめに。『その一<突き出た空間>』では島根県隠岐島前にある内海に突き出た形態をもつ陸地にある神社について報告した。本報告では、同じ隠岐島島前にある他の四つの神社について、<凹んだ空間>と称して報告する。 0 0 島前の文化財 6 49 9 一つは入江に面してある由良比女神社についてであり、一つはその東側の浦郷にある日吉神社であり、一つは、さらに東方の山の中腹、標高百三十メートルの位置にある高田神社である。そして他の一つは焼火山の北麓にある大山神社である。先に、『その一、突き出た空間』で 0 0 島前の文化財 6 49 15 焼火 焼火山のある半島状の突き出た陸地によって、島前の内海は東西に分割されていることを述べたが、本報告の四つの神社はこの西側の入江の奥にある。入江の奥には島前最大の集落、浦郷のある浦郷湾と、舟引運河によって内海を北側にある国賀方面の外海につなげる美田湾がある。 0 0 島前の文化財 6 49 23 そしてまた、浦郷湾の西には突き出た半島をはさんで凹んだ入江があり、浦郷湾と美田湾の間にも小さな入江がある。すなわち、ここは微妙な変化をもつ突き出た陸地と凹んだ陸地が東西に交互に並んでいるのであるが、この陸地の突き出た形態と凹んだ形態が連続する特徴ある地形 0 0 島前の文化財 6 49 28 の中に由良比女神社と日吉神社と高田神社はある。これらの神社は、<海>が<陸>にくい込んだ<凹んだ空間>を意識してその社地の選地と境内の空間構成がなされている。2)由良比女神社と<凹んだ空間>。島前には延喜式神名帳に、名神大に選ばれた神社が二つある。 0 0 島前の文化財 6 49 35 由良比女神社と宇受賀命神社である。由良比女神社がなぜ現在の地にあり、かつ名神大社としての格が与えられていたかということ、そしてその空間構成などについて、主に自然空間の理解の立場から考察してみる。すでに『その一、<突き出た空間>』において、入江の中にある 0 0 島前の文化財 6 49 42 突き出た陸地に神社がおかれるパターンを示したが、由良比女神社のある位置には突き出た半島がある。しかるに由良比女神社は『その一』で示したような<突き出た空間>の選地パターンをとっていない。由良比女神社は陸地にくい入った入江の最も奥にある。そして、突き出た 0 0 島前の文化財 6 49 48 陸地を背後にしているのである。(<突き出た空間>には、突き出た陸地の上に神社が構えられる場合と、突き出た陸地を背後に背負って社地が選ばれる場合がある。『その一』で報告したのは主にこの前者である。)すなわち、由良比女神社は、入り込んだ海を<表>としてとらえ 0 0 島前の文化財 6 49 63 突き出た陸地を<裏>としてとらえているのである。神社には『当社ノ大祭日ニアリテ神輿ヲ船ニ載セ由良浦ヨリ出デテ、(突き出た陸地をまわり)浦ノ郷ノ浜ニ着く』と伝えられている。このくい込んだ入江、由良浦にはかってイカが多く寄ってきたためイカヨセノ浜と呼ばれたと 0 0 島前の文化財 6 50 7 焼火 という。焼火山のある突き出た陸地によって東西に分割された西の入江の西側の海岸線は、由良比女神社がある由良浦を終局点として海面を陸地の中に引き込んでいる。海面は渦を巻いて由良浦に至り、由良比女神社のある位置において極まり、そこで<海>と<陸>が混合し<海> 0 0 島前の文化財 6 50 13 から<陸>に変換されるのである。この観念を除いては、由良比女神社の空間的位置付けについて語り出すことはできない。この<渦>の観念は、島前の二つの名神大社である宇受賀命神社の空間的意味の表象機能の分担にもまた符合するるのである。すなわち焼火山によって東西に 0 0 島前の文化財 6 50 19 分割された二つの入江のうち、東の入江は、そこを通過してなお島後に向かうルートが意識されていなければならないが、西の入江にとっては、その奥は内部に至ることが意識されていなければならない。東の入江にとっては<関>が意識されるのに対して、西の入江は<海>から 0 0 島前の文化財 6 50 27 <陸>に変換される<渦>が意識される根拠がここにあるのである。由良浦の奥の平静な水面をもつ水辺にには、祭神が降臨したと伝えられている「畳石」をまつっている鳥居がある。由良比女神社の境内の中の参道へは、由良浦の西岸の道が入江の曲線に添ってそのまま誘われるよ 0 0 島前の文化財 6 50 34 観光 うに導かれるようになっている。社殿は突き出た半島を背後にし、西北を向いている。由良比女神社の西北の地には標高三百メートルにも及ぶ絶壁をもち、隠岐随一の景勝の地である国賀海岸があり、そこには北方から荒波が打ち寄せている。私は隠岐島が奇妙とも思える程自然空間 0 0 島前の文化財 6 50 41 の理解と神社の立地が対応していることを考えてみるとき、この国賀海岸の中央に由良比女神社の境内の軸が向かっていることを無視出来ないのである。3)日吉神社と<凹んだ空間>。日吉神社に向かう参道は浦郷湾から続いている。街を通り抜けて、丘陵の中にくい込んだ低地の 0 0 島前の文化財 6 50 49 奥まったところから日吉神社に向かう参道は上がり坂となる。浦郷湾の東には、小高い突き出た陸地があり、さらにその東には、入江があるが、日吉神社はこの突き出た陸地の背後を東に抜けかかったところにある。浦郷湾の東の入江に神社の後をみせているのである。 0 0 島前の文化財 6 50 57 十方拝礼 境内からは南に眺望が開けており、東の入江を一望できる。やや細長い広場に主体がおかれ、その奥に社殿があるという簡素な境内で、田楽が行われる。日吉神社の社地は東の入江にあるが、そこへの参道は西の入江(浦郷湾)から至ということで、真ん中に突き出た陸地によって 0 0 島前の文化財 6 50 64 隔てられた東西の二つの<凹んだ空間>の空間的意味を特徴づけ、豊かなものにしているのである。このことによって境内のある場所とそれを囲んでいる景観は、登ってきた日常的な世界と異なった位置にあるということ(存在する空間の変換とでもいおうか)を意識せしめるのであ 0 0 島前の文化財 6 51 5 る。4)高田神社と<凹んだ空間>。高田神社へは美田湾内にある小向の集落から登る。ゆるやかな山道を三百メートル程進と道はさらにゆるやかになって眺望のよい場所に出る。眺望は南面に開けており、美田湾内の入口がスッポリと掴めている。そこを通りすぎると参道は北に 0 0 島前の文化財 6 51 12 向い、階段となる。階段は二百十六段とかなり長く、最初はゆるやかであるが、社殿に近づくにつれてだんだんときつくなり、勾配をもってくる。拝殿は西を向いているが、本殿は南を向いている。従って本殿の前は崖となり、杉と竹の木立があるが、これは配置形態からみても、 0 0 島前の文化財 6 51 29 その雰囲気からみても、『その一』で報告した焼火山にある焼火神社と相似しているものがある。また、境内からは社務所の横を抜けて、美田湾の奥に至る小道がある。美田湾の最も奥には内海と外海とを結ぶ舟引運河がある。現在は運河が整備されているが、以前はトモド舟と呼ば 0 0 島前の文化財 6 51 36 れる底の平たい舟が陸上を引かれていったのである。高田神社は美田湾という<凹んだ空間>を意識しているが、神社のある位置は北方の外海に面している高崎山まで連なる峰の中腹にあり、『その一』で示した<突き出た空間>における神社の立地形態と近い形態となっているので 0 0 島前の文化財 6 51 43 ある。5)大山神社と<凹んだ空間>。延喜式式内社大山神社は、美田大津にある。大山神社は美田湾の東側にある西ノ島で最も大きい水田地帯に面している。大山神社は焼火山に連なる山地を背後にして、北面している。大山神社の東側には美田川が北流している。美田川は大山 0 0 島前の文化財 6 51 50 神社をまわるようにして焼火山のある奥へとその源がくいこんでいる。焼火山のある半島は南北に連なる東西の二つの山脈によって形成されているが、美田川はこの間を流れており、そこには小きざみながらも水田がとれるほどの広がりをもつ場所もみられる。川の源をたどると半島 0 0 島前の文化財 6 52 3 焼火 の中央の、焼火山に至る。そこからは焼火山山頂、及び焼火山に向かう小径がある。大山(おおやま)とは焼火山に与えられた名である。とすれば、大山神社は、この焼火山、ひいては半島全体をまつっているものであると考えることができよう。大山神社の前の水田のある低地は、 0 0 島前の文化財 6 52 10 かっては海面であったと考えられるが、この低地から美田川の上流に至る空間は連続してみつめられていたのである。美田湾から東へ旋回して美田川の上流に至る空間と焼火山のある山地の形態との関係は、先に述べた由良比女神社とその背後にある半島との関係に相似している。 0 0 島前の文化財 6 52 16 焼火 大山神社は焼火山をまつる神社であり、この<凹んだ空間>から半島全体に対して位置づけられているのである。大山神社の境内の向きは、この旋回する<凹んだ空間>の接線上にあり、それゆえに北向きであると理解されるのである。先に述べた焼火神社が<突き出た空間>の 0 0 島前の文化財 6 52 23 焼火 パターンから焼火山と半島全体の意味に関係づけられているのに対して、大山神社が<凹んだ空間>のとして焼火山と半島全体の意味に関係づけられていることは極めて興味深いものとなっている。6)結語、突き出た空間と凹んだ空間。<突き出た空間>は<凹んだ空間>を共存 0 0 島前の文化財 6 52 30 させている場合が多い。本報告の四つの神社のある隠岐島前浦郷付近のように交互に繰返された連続する海岸線のある場合もあるし、『その一、<突き出た空間>』で示した五つの神社のよういに、凹んだ海面(湾)をさらに突き出る陸地(半島)と、二重構造になっている場合も 0 0 島前の文化財 6 52 36 ある。また、そもそも<突き出た空間>は<陸>を<海>へと主体を変えるだけで、それは<凹んだ空間>となると考えることもできよう。私は、この意味の中に最も基本的な空間把握に関する「構造」とも呼べる諸関係が存在しているのではないかと考えているが、それは、さらに 0 0 島前の文化財 6 52 42 ケーススタディを報告していくに従って明らかにするよう努めたいと考えている。〔参考文献〕『その一』であげたものの外には次のものがあげられる。1)隠岐における原始信仰の考古学的調査、大場磐雄、亀井正直、国学院雑誌、昭和三十五年二、三号。2)隠岐島の田楽と 0 0 島前の文化財 6 52 50 庭の舞について、牛尾三千夫、島根県文化財調査報告第六集、昭和四十五年、三月。3)文化財めぐり、隠岐島、季刊文化財第六号昭和四十六年七月、島根県教育委員会。後記。簡潔に言えば、近代以降の建築や都市に関する学問は、近代技術とともに欧米から入ってきた。生活空間 0 0 島前の文化財 6 53 4 に対する見方は調査の仕方や計画の立て方、及びその実施に至まで、この輸入された学問をもとに組立てられた。ところが現在、環境問題、エネルギー問題、文化財保護の問題を通してそれが見直される時期にきている。そこで、私たちの文化に根差した生活空間のとらえ方が 0 0 島前の文化財 6 53 10 なかったのかということが問い直されている。神社の位置とその意味について考えてみるとき、それが豊かなる示唆を与えてくれることを私は確信している。とりわけ自然空間のとらえ方には、そこに一つのシステムといえるものさえ存在することが予感できるのである。島前の 0 0 島前の文化財 6 53 17 地形と神社との関係を最初に三年前体験できたことが、私にこのシステムの実在を確認するに至る最も大きなきっかけを与えてくれたのであった。『その一、<突き出た空間>』はその時の体験をもとにまとめられている。現在、私と数人のグループは、各地における神社との 0 0 島前の文化財 6 53 24 空間形態(特に自然空間)との関係を拾い集め、主に、建築学と都市計画学を研究の根拠として『空間認識からみる神社の立地性に関する研究』と称してまとめだしているが、本稿もこの全体的な脈絡の中で検討していただければ幸いである。(主に日大理工学部学術講演研究発表会 0 0 島前の文化財 6 53 30 日本建築学会大会、同関東支部研究発表会で発表している。)本稿は昭和四十九年と昭和五十年の日大理工学部学術講演研究発表会に発表した論文に補稿を加えさせていただいたものである。研究としては未成熟な故に、新たな情報や意見に随時補正するものが出て来ると思えるが、 0 0 島前の文化財 6 53 37 その骨子となると空間のパターンとシステムの存在についてはに序々に確かなものととなっていることを私は感じている。最後に、この機会を与えて下さった焼火神社宮司、松浦康麿氏に謝意を表させていただきます。(昭和五十一年夏、崎にて)(日本大学助手) 0 0 島前の文化財 6 53 45 (追記)。宇杉氏は、現在日本大学で建築を専攻しておられる、新進の学究であられるが、たまたま氏の研究が表題の示す如く「神社の研究」ではあるが、今まで誰も手を染めていなかった「空間学」による研究方法で大変ユニークなものである。殊に隠岐島前の神社がその対照に選 0 0 島前の文化財 6 53 52 ばれておるので、是非島内の諸賢に一読をおすすめしたく、氏の了解を得て掲載させていただくことにした。氏は引き続き本年度は、出雲の神社中「大社造」の社殿を持つ主なる神社を対照に研究をすすめられており、いづれその成果も近い将来に公表せられるものと期待している 0 0 島前の文化財 6 53 58 一人である。一言付して紹介の辞とする。(松浦記)。 0 0 島前の文化財 6 53 60 焼火 隠岐を舞台にした謡曲。隠岐を舞台にした謡曲が二曲ある。一つは「隠岐院ー一名隠岐物狂」他の一つは「焼火山ー雲上寺とも」である。前者は京都鳥羽に住んでいた女人が人買にさらわれ隠岐に渡り遂に発狂して御鳥羽院の廟前で上皇の故事を曲舞(くせまい)に作って謡っている 0 0 島前の文化財 6 53 66 焼火 処へ諸国行脚をしていた父が偶然来合わせ親子である事を知ってめでたく連れ帰る。後者は出雲大社の神職左京某が焼火権現に詣で、社職の老人より神徳の数々を聞くうちに神が示現して神殿に入る。というストーリーになっている。右二曲共共現在廃曲となって「能」として上演 0 0 島前の文化財 6 53 72 される事はないが、隠岐の方は一部乱曲として現在も謡われている。出来得れば前二曲共「能」として復活してみたいものである。 0 0 島前の文化財 7 1 1 講・焼火 隠岐島前の伊勢講 序。一世紀前位までは、どのこの村でも各種の「講」があった。大社講、一畑講、近くは焼火講などがその例であるが、伊勢信仰が全国的に広がりをもってから、伊勢講が盛んになった。これは単に信仰のみでなく、一つは旅の楽しみ 0 0 島前の文化財 7 1 9 講・焼火 といった事も盛んになった一つの要素と考えて差し支えないかと思う。しかしこの伊勢講もせいぜい明治20年代位までで、自然消滅していった。処がこうした講の実態は記録に留められる事は至って少なく、又講によって参宮したという体験者も今は殆ど 0 0 島前の文化財 7 1 15 講・焼火 なくなったので、昔の講と、そして参宮への旅はどうだったろうかという事を記録によって述べてみたい。題して「島前の伊勢講」としたが資料は、西ノ島のもののみである事をことわっておく。(1)私の家の代々の内に快栄(寛延三年住職、文化二年寂) 0 0 島前の文化財 7 1 22 講・焼火 という祖先がある。この仁は一生の間に十六度も参宮したという事が家記にもあり、又山内の一角に伊勢山を見立て、内宮、外宮の碑を設け、月々の遥拝も怠らず、子々孫々に至までこの心を忘れずつとめる様にとの書置まで残している。いわば島における参宮の大先達 0 0 島前の文化財 7 1 28 講・焼火 であった。その快栄が先達となって参宮したのは、波止の講の者のみでなく、美田は勿論、浦郷、別府、宇賀の人達まで引き連れて参宮した。その中の波止の講については明和五年(1767)の奥書のある「御伊勢参宮講前書並定書」というのが残っているので、 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 34 講・焼火 当時の講の在り方を知る上ですこしく煩瑣になるきらいはあるが、全文をあげついで解説を試みる事にする。(読み易くする為適宜句読点を付しておく。)(2)御伊勢参宮講前書。それ伊勢両皇太神宮は天下の宗廟にして百王鎮護の至尊神仏聖の惣本地なり。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 42 講・焼火 御恵の新たなる事は座に述べがたし。あしたの日の山の端に出、夕べの月の海づらに浮かび至らぬ隅もなきは皆是神明の余光なり。天地の間に生を受け月氏晨旦といえどもいづれの輩か神恩に洩れ奉んや。就中、吾神国に生るるものは大神の懐子なり。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 49 講・焼火 上天子より下庶民に至まで一日片時も神恩を忘れてはあるべからず。恩を得て恩を忘るは畜獣にもおとれり。往昔元禄年中牛鳥神明に詣で翅を刷ひ頭をたれ神明の徳を尊び不信の輩の耳目をおどろかせり。浅間しき禽獣なおかくのごとし。況や五常を備え有情に 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 55 講・焼火 冠たる人間誰か信仰し奉らんや。億劫にも受けがたき人身を受、幸に有難き吾神国に生まれ、何ぞいたづらに時日を過ごし空しく年月を送らんや。ここを以て男女参拾人参宮講を結び、二季の懸銭を集め一度神明へ歩を運び宮川の流れに身を清め至誠心に 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 61 講・焼火 「あまてらすすめおほむかみ」を唱奉り、神前を拝し能く神恩を報し奉らんと欲す。一度の参宮の功徳は万善万行にすぐれ、一遍の神名号には無量の重罪を滅し八百万神はもとより、閻摩王三世の仏菩薩も恭敬礼拝し給ふこと疑いなし。功徳利生更にはかるべからず。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 1 67 講・焼火 猶まめやかなることは旧記に散在せり繁をいとふて爰にはぶきぬ。唯其の一、二を記すのみ。興行誠に速やかに参宮成就せば、現世安穏家内豊楽子孫繁栄豊貴自在にして、浮世又高天原無為の都に至らん事、何ぞ瞬息を待んやと云に。倭姫尊の宣く。此神名号は 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 3 講・焼火 大道を悟る勤めゆへ、死人月水穢火其外忌服などあるとても少しもはばかりなく、神名号を唱へぬれば、其功徳にて有るほどの穢忽にはらわれ、其所其身も清浄に成るのよし、しるし置き給へる上は道行の内婦人は月の障等もこれ有る可く候へ共、信心の誠候へば、 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 9 講・焼火 神明納受遊され参宮空しかるまじく候。熊野権現の御歌に、もとよりも、塵にまじはる、神なれば、月のさわりは、何のくるしき。惣して男女貴賎僧俗を論ぜず日本に生るるものは、大神の氏族なり。然るにその元たる神道を忘れ異国の法を第一とするは先異端なり。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 17 講・焼火 たとえば僕あり家主人につかへずして、能く他の主人に仕え、又子ありて其父母を捨てて他の父母に孝せば豈人悪さらんや。此趣きをよく弁へ先神明を尊び、猶余力あらばいづれの異道をも勤め神道の翼とすべし。弘法大師の歌に、あるといふ、あるが中にも 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 23 講・焼火 とりわけて、神道ならぬ、成仏はなし。神道引導の歌に。生まれこぬ、さきも生まれて、住める世も、死るも神の、ふところのうち。定。1)御講定日は霜月十一日早朝行水垢離身を清め欠無く出席仕り、大神宮を勧請奉り、御神酒幣帛を捧げ、異口同音に神名号を唱え奉り、 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 32 講・焼火 意願成就子孫繁栄を祈り奉り、喧嘩口論一切不浄なる誥開仕間敷候事。2)懸銭は一年四百文に相定め四月十一日、十一月十一日両度異変無く急度相立申す可く候。勿論懸銭は御初穂同然の儀に御座候間、たとえ仲ヶ間中に勘定合これ有候共、指引次やり一切 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 38 講・焼火 自分勝手なる算用仕間敷候事。3)人数参拾人を四に分、四人の組頭を定め懸銭万端世話仕る可く候。組下懸銭不埒は、組頭の不世話に御座候間、組下の内至て不如意なる者又は不精なる者は前度より尋合、正銭を以て出来申さず候はば、麦大小豆日雇手間其の人の 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 45 講・焼火 勝手次第に立てられ講破り申さざる様に、四人の組頭工面仕り、組子を励まし講終迄、退屈無く仲能く成就仕る可く候事。4)懸銭は集まり次第四人の組頭預かり利満仕り、又茶木綿等相懸のもの調置き利廻しに相成様に才覚仕り、少にても懸銭の足しに相成様に 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 52 講・焼火 仕る可く候事。5)参宮仕候儀は、前年より三人宛鬮入、鬮落のもの一人前に懸銭の内四貫文相渡申す可く候事。6)参宮の序に西国順礼又は大和廻り仕り度者これ有り候はば、遠慮無く順達仕る可く候。諸神諸仏も皆天照宮の御身分にてこれ有間参り候事少しも 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 59 講・焼火 苦しからず候。併し参宮第一と念願仕り、外は次第廻りと相心得申す可事。7)船中乗合道中懸連は男女打込にこれ有候間、婬事妬毒一切不浄なる事申し懸け間敷候。遥々参宮仕り候ても、婬欲等不浄これ有候はば、男女共に邪婬の罰のがれ難く候。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 65 講・焼火 一生多病無福の身となり子孫も繁昌仕らず候。第一戒たくべく候事。8)出船より道中帰帆迄、殺生並誑惑仕間敷候。平生は渡世にこれ有の間、是非に及ばず候。参宮の間は堅く相慎み申す可く候。天照宮は慈悲第一の大神にてましませば、殺生誑惑は御嫌い遊され候。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 71 講・焼火 既に以て宮川阿漕ヶ浦其外神領の内は殺生禁断放生の地に御座候。人畜異といへども殺生は死相なり。誑惑は盗人の端なり。君子猶以て慎まざれば、神明何ぞ納受これ有るべき。何分急度相慎み申す可く候事。右条々堅相守興行速に参宮成就仕り、神恩に報奉可く候。 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 2 78 講・焼火 尤も拾年余を経候事に御座候へば、各退屈にこれ有て可く候共、何れも心法仕り、四人の組頭は組子を諌め組子は組合を励まし退屈無く御講成就仕り、内外共清浄に参宮仕り、宮川の水に身を清め御神前に於て神名号を唱奉り丹誠に抽で村里静謐家内安全子孫繁栄意願成就を 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 3 6 講・焼火 祈奉る可きもの也。依而願状如件。明和五年戌子正月十一日。橋村講中。茂八組合、伝兵衛、源四郎、久五郎、儀右ヱ門、喜兵衛、きん、きさ、萬右衛門組合、宇左ヱ門、勘助(以下氏名略)。(3)以上がその全文である。これは快栄が起草したもので、 1767 111 明和4年 島前の文化財 丁亥 7 3 24 講・焼火 橋村(今の波止)の藤森家(面屋)に保存されているものと、私の方にも控えが残っている。快栄自身、僧籍にありもっぱらこの様な主意書を書いたということは、当時の社僧というものの在り方の一端を伺う上で参考になろう。さて、この文書の橋村(波止)は焼火山麓にあり、 0 0 島前の文化財 7 3 31 講・焼火 現在約五十戸位の集落であるが、当時は三十戸で、文中「同士男女三十人」という事は全戸に当るわけである。この外私蔵の資料「弘化三年伊勢二人別覚帳、大津村」という横帳の一冊があるが、これは六十八人で講をなしており、これも当時の大津の全戸数であった。 1846 0 弘化3年 島前の文化財 丙午 7 3 37 講・焼火 この外にも二、三見たことがあるがいづれも集落全戸を単位として組織されていた。大体島前には百戸を越すような集落は少ないので、集落全戸を以て講をつくるのが普通のようである。次に、講日であるが、波止の場合は四月と十一月の十一日と定めているが、 0 0 島前の文化財 7 3 44 講・焼火 他の場合は記録も伝承もないので島前全体については詳にしない。次は講当日の行事についてである。これは他の講も大体同じで、神供として神酒、粢一重〜三重、塩水等を供え、各自拝礼をした後で、路銀の懸銭を集める事と、二人〜三人の代参者を鬮によって 0 0 島前の文化財 7 3 51 講・焼火 選び出すこれが主なる事であった。これはすべての代参講に取られる方法であり、又この鬮に当ったものを代参者ということは各地の例と変りない。(4)この様にして決められた処の代参人は大方が四月から六月の頃を見計らって参宮に旅立ったものの様である。 0 0 島前の文化財 7 3 58 講・焼火 講の資料として橋村の様な定書等の残されているのは、当地では珍しい例で、大方の資料は講銭の出納が記されている程度である。一例として、一人宛の割当額と代参人一人宛の路銀について、橋村の場合と大津村の場合をあげてみると、前者は一人割四百文で、 0 0 島前の文化財 7 3 65 講・焼火 代参者には四貫文が出されており、後者は一人割三百四十八文で代参者には十一貫文をあたえている。又講銭の年出法も両社異っていたこの事については次で述べることにする。(5)講銭の捻出方については前記橋村の如く、四百文を年二回四月と十一月に正銭を 0 0 島前の文化財 7 3 72 講・焼火 以て各自が納める方法と、次に示すような、区の共有林を共同で伐採してこれを売却して参宮の諸経費に充てる方法とがあった。弘化三年伊勢二人別覚帳、大津村中。村中申合之儀は木切りだし壱ヶ年に弐人宛参詣仕候事、一人に銭拾壱貫文づつ渡可申こと。と規定し 0 0 島前の文化財 7 4 1 講・焼火 午六月(註、弘化三年、1846)。拾壱貫文、平八。拾壱貫文、菊五郎。外に壱貫七百文、酒壱斗。これは牛六月伊勢講相談の時の御神酒、〆弐拾参貫七百文、是を六十八人割三百四十八文六分づつと記され、壱〆五束(註2、壱〆五束、薪「一〆」は木の長さ 0 0 島前の文化財 7 4 9 講・焼火 一尺八寸〜二尺のものを、高さ二尺五寸巾三尺に積んだもの。束は長さ五尺の縄を二回まわしてしばった木の数量(西ノ島、美田の例)三百五十七文、長尾、八文余り。同、三百五十七文日当八文余り。壱〆四束、三百三十文、中瀬、十九文不足。壱〆四束半、三百四十二文、吉右衛 0 0 島前の文化財 7 4 16 講・焼火 門六文不足(以下略)と以下六十八人それぞれの薪雑木の伐採量とこれが価格並に一人割三百四十八文八分に対する過不足が記されている。然して規定した如く年に二人宛参宮しても三十四年間もかかる事になるので、中断された時もあったらしく、明治十七年に講員 1884 0 明治17年 島前の文化財 甲申 7 4 24 講・焼火 の元帳を書改めているが、其の時まだ二十人も残っている。この元帳には面屋の如く参宮を済ました者にはそれぞれエトによって参宮の年が記されているので、結局大津村の場合は、弘化三年に始まった伊勢講が明治二十六年になってやっと全部の者が参宮を終えた 1893 0 明治26年 島前の文化財 癸巳 7 4 29 講・焼火 事になっている。(6)さて次は、隠岐島よりの参宮についてであるが、これは今の処他の資料がないので、快栄の「参宮道中日記」によって考察をすすめてみる。先ず、経路であるが、ここにあげるのは一例であって島からの参宮には必ずしもこの経路をたどったと 0 0 島前の文化財 7 4 37 講・焼火 というわけのものでもないが、明治時代に参宮したという故老の話を聞いても、大方が先ず大山寺に詣り、四十曲峠を越えて山陽道に出たとの事であるので、参考にはなると思う。「道中日記」によると四月二十日に出立して、帰島したのは六月二十五日この間 0 0 島前の文化財 7 4 43 講・焼火 六十五日を要している。(地図参照のこと)この時の一行は五人、内二人は女連れであったので、日数は多くかかったものと思う。日記といっても綿密なものでもなく、経路、宿屋名、発着時刻、宿料、買物代等々いわば毎日の金銭の出納が主でそれに前記の様な事が 0 0 島前の文化財 7 4 50 講・焼火 記されている程度である。始めの方を記してみると、「四月、二十日出達千ブリ郡に出、浮二日逗留、同、三日四ツ時出(註4)、七ツ三保関着(註5)。安来屋久平方宿ス。四月二十二日、銭二十四文、四人、三保殿(註6)ヘ上ガル、神酒五合代、八十文、四人、 1784 420 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 4 58 講・焼火 同百文、三保関ノ宿ヘ出ス、四人、同二十三日朝伯州サカイ行、直ニ安来行。銭二百八十文、かさ代二つ代、同百二十文、かさ二つ、銭壱貫二百二十文、木綿壱疋(下略)といった塩梅のものである。経路は、出雲美保関を二十二日に出発して次の日は安来泊り。 1784 423 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 4 67 講・焼火 翌日は清水寺詣り、米子在の今在家泊り。赤松越をして大山寺詣。因備線の根雨に下り坂井原、美甘を経て備中神代着は二十七日。勝山、勝央、三日月を経て、姫路に着いたのが五月三日、此間十一日を要している。途中には宿屋あり、中食の茶屋もあって、 1784 503 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 4 74 講・焼火 これも堂々たる街道であったわけである。それより須磨、西宮、大阪、伊丹を通って京都着が五月十一日、大津、水口、松坂と歩いて伊勢着五月十六日。隠岐を出立より二十七日目に目的地山田に着いたわけである。毎日の出発は大体五ツ時(午前八時) 1784 511 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 5 2 講・焼火 宿着時を七ツ時(午後四時)一日八時間を歩いている。伊勢での宿は山田守屋金大夫方宿となっている。この項を抄出すると、七ツ過守屋金大夫宿ス、同十七日、雨天、守宿逗留、金百疋御初穂上ル、宮廻り両度、銀弐匁六分五厘かへる、金壱、代壱貫五百六十四文、 1784 511 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 5 12 講・焼火 と、いとも簡単に記されているので参宮の様子など知るよすがもない。翌十八日は六両の中を朝熊山に詣で此の日は小俣に宿している。帰途は高野山参拝の為、八太、新田、初瀬、宇野を経て二十四日高野山着。ゆっくり順拝して、翌日午後に下山して慈尊院泊り。 1784 518 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 5 18 講・焼火 法隆寺、奈良、宇治を経て再び京に着いたのは六月一日であった。京で一週間滞在、八日出立、それより須知福知山、河守(大江)宮津、久美浜を通り城崎着は十四日、三日間入湯の後キリハマ(竹野町)より舟をやといモロイソに出、ここから隠岐島後の船権現丸 1784 601 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 5 24 講・焼火 というのに便乗、風待ちの後二十日に出帆西郷着が二十三日。帰りはゆっくりした旅をしているので、往きの時より日数を要して、六十五日目に帰山したわけであるが、途中京の滞在、城崎の入湯の約十日間を差し引いても五十五日を要した事になる。 1784 623 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 5 30 講・焼火 いづれにしても隠岐島よりの参宮という事になると早くても四十日〜五十日を要したものと思われる。(7)それでは参宮に要する経費は一体どれ程であったろうか。前に引用の橋村の場合は明和から安永にかけての参宮で一人宛四貫文、大津村の場合は 0 0 島前の文化財 7 5 37 講・焼火 弘化から明治にかけてであるが十一貫文の路銀を渡していR。今道中日記によって宿の木賃、米代価、酒代等を抄出し、これを元として大体の諸経費を考えてみることにする。左に主なる宿泊地と木賃、米代を一覧にして示すと、(地名、米1升代、木賃) 0 0 島前の文化財 7 5 44 講・焼火 今在家、90文、35文。神代、76文、40文。勝山、90文、45文。勝央、86文、40文。姫路、77文、32文。石山、100文、40文。水口、100文、松坂、 、32文。小俣、116文、30文。八太、110文、35文。初瀬、106文、30文。 0 0 島前の文化財 7 5 47 講・焼火 神戸、95文、35文。京都、112文、55文。奈良、100文、55文。久見浜、93文、35文。となる。又当時の酒一合代金は大体十六文から十八文位。これで見ると当時(天明四)仮に一日百文としても約六十日で六貫文は入用になる。 0 0 島前の文化財 7 5 55 講・焼火 橋村の場合は明和五年より始めていて、四貫文宛渡している。この頃の米価(註8)は一升五十文前後、木賃二十四、五文という事であるので仮に一日八十文として五十日位の経費はあった。大津村の場合はこの時代より約六十年後の事であるので比較には 1768 0 明和5年 島前の文化財 戊子 7 5 61 講・焼火 ならないと思うが十一貫文宛渡すから大体の経費はあったであろうが、橋村に比較すると物価も相当上がっていた事と思われる。以上大まかではあるが、資料に基づいて一通りの考察を試みたわけだが、講費の捻出も苦労する百姓衆にとっては参宮はなかなかの 0 0 島前の文化財 7 5 68 講・焼火 思い立ちであり、さればこそ一生一度の参宮は一入の感激であり、又念願であったわけである。さきにも述べた如く伊勢講は殆どが当時の村(今の区)単位に組織されていたから代参が全部終了するのは大津村の如く明治の中頃までかかった様な例は珍しくなく、 0 0 島前の文化財 7 6 2 講・焼火 うたわれる民謡に伊勢音頭があるが、この節まわしは本場のものとは随分違ったものになってしまって、今ではまるで別な民謡の様に思える程変化している。この事は伊勢講としての記録はなくてもある時代に島の伊勢参りも相当盛んであったという一つの証左 0 0 島前の文化財 7 6 8 講・焼火 にならないものであろうか。(8)伊勢講を考える時、伊勢の御師(オシ)について是非ふれなければならないが、これも古い記録は今の処見あたらない。最近発見された資料で浦郷村の庄屋であった渡辺家に「諸国配札配当帳」という一冊がある。これは 0 0 島前の文化財 7 6 16 講・焼火 伊勢のみでなく、近くは大社、日御崎、遠くは高野山、京都愛宕山等々から来島の御師から神札をうけ、それを浦郷、赤之江、珍崎、三度の各区に頒布し、そして御初穂を納入したものの控えで、嘉永元年から明治四年までの間の記載がある。所謂御師が持って来る 0 0 島前の文化財 7 6 22 講・焼火 神札は当時は庄屋が責任を以て頒布したものである。参考までに初めの方をあげると、諸国配札配当帳、嘉永元年申六月十七日、高向二頭大夫様御使者渡部正兵衛殿知夫里村より四ツ下刻御出、同日美田村へ御越被成候、一つ、箱御祓、三拾二。一つ、見先御祓、百拾枚。 1848 617 嘉永元年 島前の文化財 戊申 7 6 31 講・焼火 一つ、はし、百七拾弐ぜん。(畧)一つ、箱御祓、一。一つ、萬金丹、壱。一つ、扇子、二本。一つ、風呂敷。一つ、箸、壱袋。〆二百文。庄屋所、〆三貫六百五十八文、右者大庄屋所に而御使者渡部正兵衛殿へ直に相渡申上候、六月二十一日(下畧) 1848 617 嘉永元年 島前の文化財 戊申 7 6 44 講・焼火 すこしく説明を加えると、高向ニ頭大夫というのが、伊勢の御師職で、この御師というのはそれぞれの縄張が厳重であって、隠岐の場合は二頭大夫の管轄であった。(因に伊勢から廻って来る大大神楽の大夫とは無関係)先ず来島すると各村々の庄屋所を訪ねて恒例の 0 0 島前の文化財 7 6 51 講・焼火 通り配札を依頼し、村送りで次の村へ出立して行く、なかなか権威のあるものであった。箱、見先(剣先)御祓は神札の種類、それに箸をつけたものである。萬金丹、扇子、風呂敷、ここにはないが伊勢暦等は庄屋所への手土産として持参したもの。 0 0 島前の文化財 7 6 58 講・焼火 数量は浦郷村全体の配布数である。又、私蔵のものに、記、一金三百疋也、右者此度主家大口付御寄付御頼申上候処格別之思召を以御寄付被成下恭頂戴仕候何れ帰国之上無相違収納可仕候為後日仮請二候仍如件。高向ニ頭大夫、渡部正兵衛印、嘉永五壬子年七月、雲上寺様。 1852 700 嘉永5年 島前の文化財 壬子 7 6 69 講・焼火 又、西郷町高梨氏所蔵の「伊勢講打入銭並差引帳」(嘉永七年)に卯三月二十三日、壱貫七百文、金壱分、此分伊勢大夫渡辺正兵衛様へ宿大仲より御案内被下候節中間より進上物に成申候、同四月二十一日、参貫四百文、金弐分、此分右同人様帰国之節中間より進上物 1854 323 安政元年 島前の文化財 甲寅 7 7 2 講・焼火 ニ成申候(下略)。右の記載がある処からして隠岐全島二頭大夫の管轄であった事がわかる。橋村の如く地元に先達のいる場合は、それが中心となって「講」を組織する事も出来るが、そうでない地域では、こうして毎年廻国して来る伊勢の御師の配下の者が講をつくる 0 0 島前の文化財 7 7 10 講・焼火 事を勧めたのではないか。(結)本稿の初めに「山内の一角に伊勢山を見立て内宮、外宮の碑を設け云々」と書いたが、この碑のかたえに、天明三癸卯六月吉日、奉詣両皇太神宮御宝前、と記された碑があり下方に快栄外参宮者の名七名が記されている。 1783 600 天明3年 島前の文化財 癸卯 7 7 18 講・焼火 もう一基天明六年五月の記名のある右同様の碑がありこれには八名の名が記載されている。参宮の記念碑まで建てるという事は、今の感覚では想像も出来ないが、昔の旅には出立に当って水盃までして旅立ったといわれ、それだけに一生一度の念願かなって参宮も恙く 1783 500 天明3年 島前の文化財 癸卯 7 7 24 講・焼火 終えて帰った時の喜びは感慨一入であり記念碑まで建てる気になったものであろう。(註1)天明三年の参宮記念碑に、宇賀村八百次、伊平太、別府村□□、美田村平兵衛、安右エ門、快栄、おとら、とある。天明六年の碑、美田村みそや祐七の外、大津おくり、 1783 600 天明3年 島前の文化財 癸卯 7 8 5 講 浦郷村、清八、同、大江およし、おせん、雲上寺快栄、覚善、宥海、美田村安立常右エ門とある。(註2)壱〆五束、薪「一〆」は木の長さ一尺八寸〜二尺のものを、高さ二尺五寸巾三尺に積んだもの。束は長さ五尺の縄を二回まわしてしばった木の数量(西ノ島、美田の例) 1783 600 天明3年 島前の文化財 癸卯 7 8 13 講・焼火 (註3)「参宮道中日記」は年記の奥書はないが、「辰六月十五日」とあり、他の資料も参考にして「天明四年辰年」と推定した。(註4)4ツ時(午前四時と午前十時とある)(註5)七ツ時(午後四時)知夫里発午前十時とすると六時間で美保関に着いた事に 1784 0 天明4年 島前の文化財 甲辰 7 8 21 講・焼火 なるので一寸早すぎる様だ。しかし順風にのるとこの時間でも行けたものだという。この場合何れか不明。(註6)美保殿=美保神社の事。(註7)モロイソ、現在の住吉(旧芝山港)か諸寄か不明、ただしキリハマより舟を雇ったとあるから、さすれば諸寄の方が 0 0 島前の文化財 7 8 29 講・焼火 妥当かもしれぬ。加露当りでないかという考え方もある。本稿は昭和35年、神宮司庁刊「瑞垣」(47、48)に掲載したものの改稿である。前稿における誤を訂正し、新たに、御師関係資料を加えた。(52、4、4)(隠岐島前文化財専門委員) 0 0 島前の文化財 7 8 47 十九日、十一月二十九日。姫宮大明神、六月十二日、九月十三日。愛宕大権現、六月二十四日、九月二十八日。弁財天、六月二十八日、九月十四日。午頭天王、六月七日、七月十四日。正八幡宮、六月十五日、八月十五日。蔵王権現、六月十八日、九 0 0 島前の文化財 7 8 53 焼火 月十八日。大山権現、六月二十一日、九月二十四日。伊勢宮、六月十一日、九月二十八日。同郡美田村。焼火大権現、毎月二十三日。八幡大明神、四月三日、六月十五日、八月十五日。大山大明神、二月十三日、六月十四日、九月十三日。高田大明神 0 0 島前の文化財 7 8 62 、六月十八日、八月二十八日、九月十八日。三穂大明神、六月二十八日。地主大権現、ナシ。同郡宇賀村。素気雄大明神、六月十三日、九月十九日。済大明神、六月二十六日。同郡別府村。六社大明神、六月二十一日、九月二十七日。山神社、二月初 0 0 島前の文化財 7 8 71 午、九月二十八日。伊勢宮、年中一度。黒木社、年中一度。同郡浦之郷村。由良大明神、二月初午、六月初午(三年目御旅祭)、九月十九日。山王大権現、正月十一日。六月初午、九月九日(三年目十万拝礼) 0 0 島前の文化財 7 17 1 西ノ島町美田出土の石器 美田小向の石器。西ノ島町小向の加木貞雄氏屋敷下層から可成の量の黒耀石が出土したことを木村康信先生から知らせていただき、現場の模様を見たり、採取遺物を調べたものはもう何年の昔のことになった。黒耀石はすべて大形の 0 0 島前の文化財 7 17 9 石片が多く、トロ箱で二はい位あったが、土器その他の伴出物は前方の畑に運ばれた泥土のなかに埋もれてはっきりその時代を立証する資料は見えなかった。現在島前教育委員会に保管されているもののなかから一、二?あげて参考に供してみたい。 0 0 島前の文化財 7 17 14 この遺跡は、現在の建地下層にあり建物改造のための敷地三坪位の整地で発見されたものであったとおもう。僅かの面積から数多い石器が出土したのであるが、建築中のことでそれ以上の発掘調査は行われていない。採取されたものは黒耀石の粗器が多く、 0 0 島前の文化財 7 17 21 六センチ位の剰片が主で前掲四点はいづれも粗製利器である。1号のものは、筆者がスワ湾周辺や郡山で採集のものの中に数例がある。2号のものも数例があり、3号、4号のものも数例をあげることができる。ただ、この遺跡には石鏃、石錐、細石器等が見られなかった。 0 0 島前の文化財 7 17 29 四種に共通していい得ることは、豊富な黒耀石を材料としながら大形、粗雑、多様化の傾向がうかがわれることである。当時の生活様式の変化がその背景にあったのではないかと、原産地に遠い美田の出土であるだけに興味は尽きない思いがする。 0 0 島前の文化財 7 18 1 安藤家宅地裏石器散布地。別府小学校付近で石器の発見されたことは、聞いていたが、現場は美田尻水田と校庭盛土であるためその中心地点をたしかめることはいまのところ困難である。偶然のことから別府安藤宅地裏畑地が黒耀石片の包含散布遺跡であることをたしかめて、 0 0 島前の文化財 7 18 8 いつか発掘による調査によって究明が期待できるものと考察している。私が同家のご了解をいただいて表面採集をした石片は、すべて同家に一括保存してあるが、まだ着手の緒についたままである。立地条件と表面散布、耕作の都度の出土状況から、その 0 0 島前の文化財 7 18 14 様相は、海士町郡山遺跡の初期の発見事情と近似していることに興味をもつものである。今後の調査によって解明を期待すると共に、出土遺物の散逸を防止しておかねばならないと思う。いままでの採集のなかに、黒耀石製とサヌカイド製の完形石鏃二点がある 0 0 島前の文化財 7 18 20 ことを特記し、西ノ島地域の縄文遑跡究明の手掛りになる位置であると確信している。松浦静麿氏採集石器から。1)西ノ島町波止弁天山出土石斧。昭和二十一年八月小畑由松発見の石斧がある。局部打製のこの石斧は隠岐島出土の石斧のなかでも大形のもので、 0 0 島前の文化財 7 18 28 既に石斧が土中に穴を掘るための主要な工具になった時代のものを代表する。2)浦郷常福寺下畑出土石斧。弥生式時代の代表的な形式をもつ石斧であり、切断用おのの概念から一歩進んだ農耕文化時代の重厚なしかも入念な磨製石斧である。刃部の鋭利に 0 0 島前の文化財 7 18 35 磨ぎすまされた、しかも丹念に磨かれたこの石斧は、やがて次の鉄器時代への推移を物語って完全な形態を保ち、久からずして無用の遺品として放置されたものであろう。3)黒木八幡グランド採集石鏃と石錐。昭和二十五年採集のものであって、石鏃は三角形中型、 0 0 島前の文化財 7 19 3 石錐とともに海士町郡山出土中にその例は多い。幻の西ノ島縄文文化解明の鍵として貴重な先学の業績を物語る資でもある。木村康信氏採集石器から。1)昭和四十八年二月八日、小向上川屋敷跡で採集の、くぼみ石は海士町竹田遺跡で筆者が採集した、数十点の 0 0 島前の文化財 7 19 10 くぼみ石と同系のもので、弥生後期独特のものである。2)昭和二月二十六日、右上川屋敷跡、地下七十センチより出土の石斧(長さ25、5センチ)は、島前地区最大の石斧で、前記波止出土の石斧(長さ16、3センチ)とあわせて、縄文文化末の新しい用途を 0 0 島前の文化財 7 19 16 示す珍しい遺物である。3)昭和49年2月23日、シ−サイドホテル裏の堤の土堤で発見された、くぼみ石は前記一連のものとは、時代を画し、縄文時代に属するものであることはたしかである。石質は別として、海士町郡山遺跡出土のものと規を一にするものである。 0 0 島前の文化財 7 20 1 焼火 焼火の年ごもり−大正四年の出来事− 島前の年中行事の一つに焼火の年篭りがある。それは昔から旧大晦日の夜に「御火」が現れ焼火の権現さんに入るというので、それを拝む為に島前の各里からお参りするのである。この御火は知夫里の俵島から 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 9 あがるという伝えもあった。又これを初めて発見したのは島後の今津(西郷町)の者であったという伝えもあって、今津から参詣に来ると篭殿の中で一番上等の室を提供してくれと威張ったものだともいう。夕方からぼつぼつと登山するが、到着すると先ず社務所に 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 15 申出て受付をしてもらう。これは直会の賄をたのむ為で、社務所ではこの受付順によって、夕と朝の2回式膳を出す。祭典は午前二時にあるので、それまでは思い思いに席を構えて、飲んだり唄ったり、又隅の方では賭場も開帳される。かと思うと酔った勢いで 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 21 喧嘩もあったり、なかなか賑やかなものであった。祭典のある時刻は「御火」のあがる時刻といわれ、祭儀が終ると御神酒を頂いて急いで外に出て海の方を見つめている。すると誰かが「お火だ、お火だ」といってその方に向って拝むと我も我もと拝むのであるが、 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 27 よく見えた年は「年が良い」「お蔭があった」といって喜ぶ。そして朝の式膳について夜の明けるのを待って下山し、村に帰って正月を祝うのである。大正四年二月十三日(大正三年陰暦大晦日)恒例によって我が知夫里からも数多くの参拝登山者があり、そのうち 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 34 東方(薄毛、多沢、郡、来居)から男女合わせて四十二人の参詣者が明けて二月十四日三隻の漁船に分乗して帰る途中の出来事であった。この日は西寄りの寒風が、殊の外強く波浪も高く吹雪を伴う時化模様であった。一番小さい舟に十人、中型の舟に十四人、 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 40 焼火 最も大きい舟に十八人が各々乗り込んで焼火山下の曲浦で帆を半分に絞り待機し、風のなぐのを祈りながら荒れ狂う沖の白波を見つめていた。何分この日は正月の元旦である。何時間とも予測もつかぬまま空しく待っておることは誰しも耐え難い思いがあった。 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 46 酒の気嫌も手伝ってか、多少無理ではないかと考えながら、あえて中型舟が帆を揚げた。我が舟はあの舟よりも大きいという自負心もあってか、あの舟がやれる位なら、、、と小さい舟を後に残してともづなを解き帆を巻いた。舟は矢のように走る。沖に進むにつれて 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 52 波はますます高く赤灘口から吹き込む吹雪まじりの風は身を切る程に寒い。舟船が知夫里とのほぼ中程に来たかと思われる時であった。突如として舟は横に転覆してしまった。実に一瞬の出来事であった。荒れ狂う波浪の中に投げ出された十八人の者は水舟にすがり 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 59 漂流物に身を託し、激浪の翻弄に任せ声を出す者もない。そのうちに寒さに耐えかね力尽きて溺れ沈んで消えゆく者を眼前に見ながら如何とも手の施しようがない。「しっかりしておれ。」と励ましてくれていた伯父(崎浜重松)の姿も何時の間にか消え去って 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 20 65 見えなくなった。何時間経ったか。先に帰った中型の舟が年寄り女共をおろし、四、五人の若者が乗って救助に引き返してきた。生き残った者全部を収容するにも相当な時間を要したことは勿論である。こうして救助の舟は海士の須賀に入り民家に運ばれ、 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 21 2 たき火とおかゆで暖められようやくにして生気を取り戻した。この間少なくとも四時間位はたったと察せられるが仮死の状態に一、二の者が常態に回復するまでにはかなりの時を費やした。その頃には風も多少衰え波も幾分鎮まり手配の小蒸気船「日の浦丸」が 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 21 7 来てこれに便乗し須賀を出発し来居に送られた。帰りついた生存者は、沖瀬幸太郎、大空市松、竹川藤太郎、大空乙次郎、下浜熊市、仲石太、国村吉太郎外一名の八人で、死者は薄毛の山樽松、多沢の山根才松、穴山虎若、大西国太郎、道畑才次郎、郡の崎浜重松、 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 21 13 来居の脇坂安松、前忠次郎、山下弁次郎、新谷幸次郎以上の十名でこの遭難の犠牲となった。村は正月どころではない。悲惨と愁嘆のちまたである。翌日からは村を揚げて死体の掃海作業が展開された。老人達は家に在って昼夜兼行その用具作りに凡ゆる創意と 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 21 19 努力をはらい、若者達は毎日冬の海に出て老人共の作った道具を用い小舟を操りながら懸命に死体捜索作業に取り組み、正月の十日までに全死体の引き上げに成功した。以来この諸精霊の安らかなる冥福を祈り続けて六十年、生き残った八名も年を追うて次々に 1915 213 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 21 25 焼火 世を去り、当時を偲び今尚私一人が生き延びて戦慄を覚える。さしも賑わった焼火の年ごもりも、この頃を境として、今では参る人も極まれになってしまった。 0 0 島前の文化財 7 21 31 酒と魔法 「隠岐国島前知夫里郡美田村来歴」と題する写本のなかから、他本に未見の記載があるので、記しておきたい。あやめ新左衛門と酒の泉。1)大山明家本より弐拾六町南に当りて屋敷有、いにしへ此所に泉出申し人には不存候、牛此水をのミ 0 0 島前の文化財 7 21 37 申ゆへ酒のにほへいたすに付いて、さてはと申此水をあやめ新左衛門と申もの見付、此所に家を造りいつみの力に而ゆうゆうとすぎわひいたし、おごり申に付云分をいたし、雲州とん田之しは谷と申所に三年のらうしゃ仕、難儀に付うたをうたひ申候小うたに、 0 0 島前の文化財 7 21 44 さむやしほだのとんだのあらしよるのねざめに隠岐こひし、とうたひ申候を御奉行様御聞届に成、御しゃめん成就隠岐江きこく仕右之所に在宅いたし此所にて相果て申候由にてさる所今に御座候。註1)「隠州往古以来諸色年代略記」に「同(天正)十四年 0 0 島前の文化財 7 29 1 焼火 トモド舟とテヤス舟、児島俊平。西ノ島町、焼火神社の国の重要民俗資料として「トモド舟」(モミ材、長さ二〇尺五寸、巾三尺)が一隻保存されている。トモド舟の歴史からみると「丸木船」(縄文文化期、紀元前五〇〇〇年ごろ)に次いで古く、 0 0 島前の文化財 7 29 8 古墳時代、四−五世紀ごろに発祥したとされる古形舟である。その構造は丸木舟が一本の樹木を刳り抜いて造った舟であるのに対して、この舟は二本の樹木を別々に刳り、これを両方から結合して造った舟であって、丸木舟から板組の構造に移る中間 0 0 島前の文化財 7 29 14 形式の「刳(エグリ)舟」として学術上貴重な資料である。隠岐には西郷町(島後)、海士町(島前)を中心として縄文、弥生文化期の遺跡などが多数鵜発見されているところをみると、丸木舟やトモド舟などの刳舟は、その昔、祖先が移住してきた 0 0 島前の文化財 7 29 20 時にもちこんだものであろう。これらの舟が史料の上で何時ごろから出てくるのか、手近な資料で調べてみると、江戸時代の初期にまで遡ることができるが、今のところそれ以上の記録はないようだ。貞享四年(一六八九)の「増補隠州記」によると 0 0 島前の文化財 7 29 26 隠岐の漁船は「トモド舟」と「テヤス舟」の二種類だけであった。テヤス舟とは板組の舟であるが、舟数からみて当時すでに全域に普及していたことが判る。(表一)また、寛政四年(一七九二)の「島前船数書上げ」には次の如くある。両郡(海士、 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 29 32 知夫)船数。覚。辛亥改四百拾八艘。一、惣船数、四百弐拾五艘。大船、二艘。小渡海船、拾九艘。手安(テヤス)船、百四拾六艘。かんこ船、四拾九艘。艫戸(トモド)船、百九拾九艘。刳(エグリ)船、拾三艘。ヒラタ船、壱艘。右は当子年船如 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 30 8 此御座候、以上。寛政四年子三月、大庄屋三太夫、印。松田源左衛門様。岡村壬左衛門様。(宇受賀、村尾家文書)貞享年代より約一〇〇年くだった寛政年代になると、漁船(大船、小渡海船は除く)として新しく「カンコ舟」、「ヒラタ舟」など板 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 30 17 組の舟がぞくぞくと渡来してきたことが明かであるが、この文書の中で特に注目したいのは「刳舟」が一三隻も存在していることである。トモド舟とわざわざ区別して記載しているところをみると、この舟は前述した丸木舟であると断定せざるを得な 0 0 島前の文化財 7 30 22 い。ところで「増補隠州記」に刳舟の記載が無いのはどうしたことであろうか。寛政年代に渡来してきたとでもいうのであろうか。しかしこの本は、隠岐を松江藩から大森代官支配に移管した時の事務引継ぎのための郷帳集成よりなると推察されるの 0 0 島前の文化財 7 30 28 で、事務処理にあたって刳舟が原始的で小さいものであったから、舟と認めず除外したと考えるのが妥当であろう。いずれにしても、隠岐においてトモド舟よりも古い丸木舟が今から百数十年前まで常用されていたとは驚異であるが、ここに明確であ 0 0 島前の文化財 7 30 35 る。次に「テヤス舟」であるが、この舟の渡来は何時ごろのことであろうか。史料の初出は寛文二年(一六六二)浦郷村「検銀」であるらしいが、それによると、この舟は「右は加茂村の百姓、漁、作方のかよい舟のため手安舟を造りたく、、、」と 1662 0 寛文2年 島前の文化財 壬寅 7 30 41 漁業、農業用に使用したことが明かである。また同七年「松江藩巡見使来島の際の漕ぎ船に関する覚」によると、巡見使の「御三殿を迎へるための漕ぎ船、手安船を島前より五十隻、島後より四十八隻、沖なか近く差し出し由、、、」とあり、当時す 0 0 島前の文化財 7 30 47 でに隠岐全域に普及している。この船は以上からも推察されるごとく、外海の荒波に耐えうる肩巾五尺位の船で、明治中期に至るまで隠岐の代表的漁船となる。ところで、板組の船の始祖は「天□(テントウ)舟」または「伝渡舟」と云って淀川(京 0 0 島前の文化財 7 30 53 都−大阪間)における荷積舟として発祥したようだ。この船は舟材とする厚さ三糎前後の板を製材する技術がないと造れないが、製材用の縦びきノコギリが平安時代(九−一二世紀)に立派に存在しているところをみると、そのころに誕生した舟であ 0 0 島前の文化財 7 30 59 ろう。伝渡舟はまず出雲に渡来したと思う。その年代は不明であるが、宝暦一三年(一七六三)「大根島萬指出帳」にその名が見える。左に一部を掲げてみる。波入浦、家数、百六拾六軒。道法リ、人数、八百五人未有。入江村迄、伝渡(テントウ) 1763 0 宝暦13年 島前の文化財 癸未 7 30 66 船、四拾八艘。弐拾弐丁、メ小(ソリコ)船、五艘。伝馬(デンマ)船、壱艘。艫戸(トモド)船、弐艘。〆五拾六艘。入江村、家数、九拾五軒。道法リ、人数、百七拾四人未有人。二子村迄、伝渡(テントウ)船、弐拾五艘。弐拾弐丁、伝馬(デン 0 0 島前の文化財 7 30 74 マ)船、壱艘。メメ小(ソリコ)船、壱艘。艫戸(トモド)船、壱艘。〆弐拾八艘。当時の大根島ではソリコ舟、トモド舟などの漁船より伝渡舟が圧倒的に多く、中ノ島沿岸村落の荷積運搬の中心をなしていたと推考される。これより以前のことになる 0 0 島前の文化財 7 31 4 と史料はないが、元弘三年二月(一三三三)後醍醐天皇が西ノ島町赤之江浦から本土に向けて脱出された際、そのとき船を漕いだ簸川郡大社町仮ノ宮に住む祝部(ホウリ)某の先祖が、功により持ち船に「天渡丸」という号を賜り、それを屋号として 0 0 島前の文化財 7 31 9 「天渡屋」と呼ぶようになったという口碑がある。天渡とは伝渡のことで同意義であるとすると、伝渡船は鎌倉時代(一二−一四世紀)には出雲に渡来していたことになるが、十分考えられることである。この舟も一六世紀になると常民の間に普及し 0 0 島前の文化財 7 31 16 て、島根半島北浦などの漁船として盛んに使用されているのである。すなわち、天和元年(一六一五)の松江藩漁船鑑札「御免札」に楯縫郡三浦(平田市佐香町)の漁師、伊右衛門が伝渡船と伝馬船によって鑑札を受けているのである。出雲に来た伝 1615 0 元和元年 島前の文化財 乙卯 7 31 22 渡船は数十年を経ずして隠岐にも渡来したはずである。しかし隠岐の史料には近世を通じて伝馬船の名が見られないのは何故であろうか。「増補隠州記」の原田村の条に「木材に伐り商にしと、寛文九年(一六六九)秋に江戸へ書上げる。今は山中尽 0 0 島前の文化財 7 31 28 きて古来の五分の一もなし、しかれども島中第一の山林なり、、、」と。木材を移出するためには当然、製材技術が導入されたことであろう。そして島が禿山になるには長年月を要するであろうから、我々の想像以上に古くから板組の舟を造る技術的 0 0 島前の文化財 7 31 34 環境は十分整っていたとみてよい。しかし、史料にこの舟の名が無いとすれば、隠岐ではこれを必要とするほどの産業、経済が発達していなかったから、定着することなく消え去ったのであろう。その反面において隠岐の常民は在来のトモド舟に代る 0 0 島前の文化財 7 31 40 漁業、農業用の板組の舟を欲していたようだ。理由は隠岐の地勢そのものにある。すなわち、島の特長として、急峻な山々が海のきわに連なり、その山あいを深い谷が海に走る。したがって集落と僅かな耕地は海岸の谷間に点在するから、常民の生活 0 0 島前の文化財 7 31 45 は舟なしでは考えられない。交通路はもっぱら海で、隣村は勿論のこと自分の田畑へ行くにも舟で往来せねばならぬ。しかしトモド舟は細長い刳舟で波浪に弱く、外海の往来には極めて危険であったからである。常民のこの欲求は海岸地形からみて、 0 0 島前の文化財 7 31 51 内海に恵まれた島前よりも島後において切実な問題であった。そのことは両島におけるトモド舟とテヤス舟の比率を見ると歴然としている(表一)。トモド舟は島前に多いが、テヤス舟が島後に多いのはそのためである。出雲から渡来してきた伝渡船 0 0 島前の文化財 7 31 57 は隠岐に定着しなかったが、その造船技術を会得した常民は自分らの欲求に合った「テヤス舟」という隠岐独特の舟を誕生せしめた。一四−一五世紀頃のことと推察する。その生出を明かにする鍵は二〜三である。第一に、伝渡船に付随して渡来した 0 0 島前の文化財 7 31 63 とするならば、同年代の出雲史料にテヤス舟の記載があるはずだが、それがない。第二に、貞享年代に隠岐ではテヤス舟が全域に普及し、その数は数百隻におよぶが、同年代に出雲で使用された形跡がない。第三に、テヤス舟の呼び名は全国的に通用 0 0 島前の文化財 7 31 69 するものでなく、隠岐特有のものである。常民は何故にそのような呼び名を付けたのであろうか。呼び名の由来がわかれば舟の性格も判断できるのである。焼火神社宮司、松浦康麿氏によると、氏の先代(故静麿氏、民俗学に造けいが深い)の時代に 0 0 島前の文化財 7 31 76 おいても、すでに呼び名の由来、語源を知っている漁民はいなかった、とのことであった。ある意味を持った呼び名も定着すると、由来は切り離され、捨てさられるものだ。まして五−六〇〇年を経過すると知る人もないのが当然である。テヤス舟が 0 0 島前の文化財 7 32 4 誕生するまでは、隠岐の常民は丸木舟やトモド舟で交通し漁業をしていた。これらの舟は櫓や擢を漕いで目的方向に進む舟であるから、一刻も手を休める事が出来なかった。手を休めると舟は潮や風に流されて途方もない所へ行く。ことに岬の周辺は 0 0 島前の文化財 7 32 9 潮が速いから、それは命にかかわることである。したがって、当時の漁撈は湾内か磯辺に限られていたと考える。そのような時代に帆を使って風の力で自由に走る舟が隠岐で誕生し、常民を櫓や擢を漕ぐ苦労から解放してくれた。常民にとってこの舟 0 0 島前の文化財 7 32 16 の特長は手が休めることであるから、彼らが「手休め」舟と呼び、、、それが「テヤス」舟に音訛したと考えられないであろうか。テヤス舟は呼び名のとうり隠岐で初めて帆を使用できた漁船である、ところに意義がある。トモド舟に比べると安定性、 0 0 島前の文化財 7 32 21 速力、省力化、等々の点において人力車と自動車ほどの相違があるから、隠岐の漁業もこれを機に湾内から外海に向けて一大飛躍をなした。ブリ漕釣、延縄漁業などはその好例である。文化、文政年代(一八〇四−一八二九)になると、島根半島北浦 0 0 島前の文化財 7 32 27 および鳥取県淀江方面の漁民が伝渡舟で出稼ぎに来るようになったが、その頃より出雲沿岸にテヤス舟が普及しだしている。出稼ぎ漁民によって持ち帰られたのであろうが、隠岐の舟が漁船として如何に秀れていたかが想像できよう。ことろで、出雲 0 0 島前の文化財 7 32 33 から渡来したはずの伝渡船のことであるが、渡来した時点においてはたしかに定着せず消え去った。しかし本土では漁船として使用しているほどの手ごろな舟であったから、隠岐でも何らかの形で利用されておかしくない。「増補隠州記」に僅か二隻 0 0 島前の文化財 7 32 39 であるけど、「小渡海船」という廻船が記載されている。ここで小渡海船の性質を明かにする必要があるようだ。まず小渡海船の大きさについてみると、船を新造する時の「船材木願」から、テヤス舟より少し大きめの舟であることがわかる。(表二 0 0 島前の文化財 7 32 45 )。用途、運航についてはそれを示唆する次の一札がある。周吉郡釜村船往来願。一、船頭水主(カコ)弐人乗船一艘、権左衛門船。内、仲船頭、藤八。在所目貫村、宗旨真宗、矢尾村、蓮光寺檀那。水主、宗右衛門。在所釜村、宗旨浄土宗、戌来村 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 32 52 天然寺檀那。右之者は宗門堅相改且旦那寺より証拠手形取差上申候、他国へ商売に参候節御法度の物積出申間敷候尤出船の刻御役人御点検の御積出可申候御関所之通御手形被遣被為候様ニ被願上可被下候此者共流人の子孫にても無御座候に付私共請?", 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 32 58 合判形仕候仍如件。寛政四年子三月。釜村、年寄、源重郎。庄屋、権左衛門。大庄屋、文蔵殿。この船は寛政年代において船頭と水主の二人で帆をあやつり、出雲、伯耆など地方(じかた)(対岸)との商売に運航していたことがわかる。さらに船の 1792 300 寛政4年 島前の文化財 壬子 7 33 2 構造であるが「隠岐島前漁村探訪記」に明治時代に生きた人の話がある。要約すると漁船のなかに「リョウセン」(漁船)と称する船があり、それは肩巾六尺以上のもので、造りはテヤス船、カンコ船と同じ板組の船であった。この船の周囲を波浪の 0 0 島前の文化財 7 33 7 害をさけるためコモあるいは板を立てて囲み、仕立船、コモ船と呼んで水産物や雑貨の運送船に仕立ていたそうだ。このように検討してみると、明治時代のコモ船と寛政年代の小渡海船は同一の船であり、さらに出雲の伝渡船とも同じ船であることが 0 0 島前の文化財 7 33 13 わかる。やはり伝渡船は隠岐にも渡来したのであった。しかし、当時の隠岐では伝渡船のような大形の舟で沖合に出て漁業をやらねばならぬ必要性がどこにも見当らぬ。それよりも島全体が貧しくて、伝渡船を持つほどに商業資本も蓄積されていなか 0 0 島前の文化財 7 33 20 ったから、無用の長物として定着することなく消え去ったのである。それから二−三〇〇年後の貞享年代になって、ようやく島前で二隻ほど保有するようになったということであろうか。それまでは水産物の移出、雑貨の移入など総て出雲、伯耆の伝 0 0 島前の文化財 7 33 26 渡船によってまかなわれていたと考える。とすると、島前で小渡海船を初めて持ったということは、隠岐における産業、経済の発展過程を考察する上において、見逃すことのできない一つの節であるかも知れない。隠岐の常民は地方から海を渡って来 0 0 島前の文化財 7 33 31 た船を伝渡船と呼んだであろうが、いざ自分らがその船に乗って海を渡るだんになると、それは実感として伝渡船ではなく、まさしく荒海を渡る船であったから、直接法で「渡海船」と命名したのではないであろうか。私も隠岐に住んでこそ渡海船と 0 0 島前の文化財 7 33 37 いう意味がわかるような気がする。隠岐の文献に伝渡船の名が無いのはそのためであろう。この船が漁船として本格的に使用されだしたのは明治年代に入ってからと思うが、二〇年頃から島前の漁民が朝鮮の鬱陵島へ年々数百人出稼ぎに出漁している。 0 0 島前の文化財 7 33 43 その時の渡航は総てこの舟によったのである。古代から近世にかけて隠岐の常民が愛用した舟、船を歴史的に整理したのが表三である。ほとんどの舟はすでにない。僅かにカンコ舟の残骸を三度浦や赤之江海岸で見かける程度である。カンコ舟も江戸 0 0 島前の文化財 7 33 50 中期から激増した舟であった。トモド舟に比べて船価が安く、軽快であったのが普及の原因であるが、同じような理由でヒラタ船も中ノ島の諏訪湾などに使用されたようだ。ところが、島前の自然は余りにも海の幸に恵まれていた。浅瀬や岩礁の間に 0 0 島前の文化財 7 34 1 馬洞の岩松。西ノ島町宇賀部落と蔵之谷部落との中間の地名を「馬込め(うまごめ)」(馬篭め又は駒込め)といい、宇賀寄りの出崎は窓付けの岩頭になっている。伝説によれば宇治川の先陣で一番乗りした佐々木高綱の乗馬<池月>(生月)の名馬 0 0 島前の文化財 7 34 4 舟を入れて刈鎌、突ヤス、鮑鈎、海鼠落しなど、いわゆる内湾でカナギ漁すれば十分に足りるのである。農作の肥料用藻葉を捩り竹でフ取するにしても、そのような自然環境にあっては、文明の所産であるカンコ舟よりも在来の鈍重で堅牢なトモド舟 0 0 島前の文化財 7 34 7 が、その誕生地、島後の「津井(さい)の池」池畔より島後水道を泳ぎ渡り、この付近で追い詰められたが、馬は舟垣の間をかいくぐり出雲の加賀浦へ渡ったとか、その事故により、この附近を「馬込め」と呼ぶとのことである。又岩頭の窓は池月の 0 0 島前の文化財 7 34 10 の方がはるかに適応していて、現代までも常用されたとは皮肉なことである。トモド舟という古形舟が現代まで保持されたのは、隠岐の自然とその環境にとけこんだ常民の生活様式によるものだと、私はこの島に生活してつくづく感じるのである。 0 0 島前の文化財 7 34 12 名馬が蹴破って明けた穴と伝えられ「馬洞(めどう)の穴」(明通の穴又は瀬戸岩の穴)と呼ばれる所以である。その馬洞の窓に小庭松程度の松の木が一本南西に向かって枝を張っている。この岩松は姿に似ず逞しい松で、大旱魃にもめげず、数百年 0 0 島前の文化財 7 34 15 参考文献。1島根県(一九六七)、新修島根県史資料編ニ「増補隠州記」。2吉川金次(一九七六)「鋸」。3正井儀之丞編(一九二七)「島根県口碑伝説集」。4永海一正(一九七二)「近世隠岐島史の研究」。5桜田勝憲、山口和雄(一九三五) 0 0 島前の文化財 7 34 17 の風雪に堪えて今日までを生き続けてきた松である。貞享五年(一六八八)の隠岐の郷帳「増補隠州記」の宇賀村の項に、「本郷(注、物井)より東に拾丁去て馬篭と言ふ山に松柏を生ず、是は古へ嶋後津井村より出し池月の名馬海越渡り来て此山へ 1688 0 元禄元年 島前の文化財 戊辰 7 34 23 登りたるよしにて磯辺に駒乃足跡あり、是より此馬出雲へ渡り加賀浦へ上り後は鎌倉へ献すると云、此駒篭乃出崎に瀬戸の岩とて窓乃如く明通り岩間有頂上に松壱本生ず」とある。この隠州記は二九〇年以前に書かれたものだが、この松が隠州記に取 0 0 島前の文化財 7 34 24 「隠岐島前漁村探訪記」。6井上吉次郎「隠岐の船考」(島根県栽培漁業センタ−所長) 0 0 島前の文化財 7 34 29 上げられた、ということは、当時相当目立った松であったに違いない。さすれば馬洞の岩松は現在の生長度合から見て、貞享五年の時点に於ても二〜三〇〇年以上の年月を経ていたものと想像される。即ち馬洞の岩松は貞享五年を前後に数百年間を今 0 0 島前の文化財 7 34 35 日まで生き続けた名松である。(五二、四、一四)(岩倉敏雄) 0 0 島前の文化財 7 35 1 隠岐国往古旧記集。写本之辞。此の写本の原本は今津村服部守一氏蔵本によるものの如し。其を永海一正氏写本し、知夫里横山弥四郎氏が東町松浦高鞆氏の写本を写本せるものによって校訂せしものを、永海一正氏より借用して此写本一本を作る。昭 0 0 島前の文化財 7 35 9 和三十一年七月二十九日。於西郷町矢尾ノ里海鳥社、藤田一枝筆写。昭和三十三年五月二十二日西郷中町高梨文太夫氏、東郷高梨家伝来の古写本を示さる。それにより校合するところ赤字(註) で示す)を以て記之。隠岐国往古旧記(本文)一、 0 0 島前の文化財 7 35 18 当国を隠岐国と申ハむかし美田の院本郷より七町寅の方に当て大山大明神の御社に高さ四拾余丈の大木有り。此木人王の初、神武天皇より御木と名附玉ふ。依之此国を御木の国と申すなり。人王弐拾九代の帝宣化天王の御宇ニ此木枯申なり。其後三拾 0 0 島前の文化財 7 35 23 二代の帝用明天皇の御宇ニ御直し、隠岐の国と名附玉ふなり。一、当国御支配の起りハ人王四拾八代の帝称徳天皇の御宇、佐々木治郎右衛門領地に罷成る。其後佐々木隠岐守清政時代承和五年に小野篁、当国へ御遠島被成、嶋前海士郡豊田村之内野田 0 0 島前の文化財 7 35 30 と云所に住王ふ。松尾山金光寺に夜な夜な五色の光明かか屋起(やき)小野篁不思議に思し召ある暁き寺に御登あれは、地蔵菩薩御出玉ふを御覧して一首の御歌、本能本能と峯の細道わけ入て地蔵ひかりに逢ぞ嬉しき。とありけれは、亦地蔵菩薩の御 0 0 島前の文化財 7 35 37 返歌に今生と後生を救はん其のために無仏世界に出て導く(導引く)と御返歌被成に我姿ハ如斯造り(二作)玉へと有ければ、小野篁仰の如く刻玉ふ。仁明天皇の御宇六年の頃来島の由比時にゃ和田の原八十嶋かけて漕出ぬと人には告げよ海士の津り 0 0 島前の文化財 7 35 44 ふね、と被遊、其後小野篁亦嶋後へ渡り、那久村にて光山寺の地蔵も御刻ミ被遊て其後当国御赦免、佐々木隠岐守清高時代、正治弐年申四月、文覚聖人御むほんに依て鎌倉頼家公より当国に遠嶋、知夫里郡美田院本郷より辰の方ニ壱里拾二丁四拾間去 1120 400 正治2年 島前の文化財 庚子 7 35 50 て、磯辺に高さ百尋の岩壁あり。穴二つあり。下の穴高さ弐間横弐間半、内にて文覚聖人行をすまし玉ふ。扶持方は当地頭より合力(ごうりゃく)いたし亦或時は心なき船頭鉢のうちへ穢れたるものを入れければ、文覚大に怒りを返玉ふに、忽風波立 0 0 島前の文化財 7 35 56 て(船も)船頭水主とも島となり、又此舟に鼓を積居りけるに此鼓を海士郡崎村の内堤か浦を鼓か浦とも申すなり。其後文覚聖人天狗を以て安藤帯刀を呼寄せ頼まれけるは我今八十余に及び今をも知らざる我を不便と思召れ候得ハ我毎日香を三升宛岩 0 0 島前の文化財 7 35 62 屋の内にて焼候間我焼候跡にて此香の煙なし其後の弔ひを頼まれける。安藤帯刀毎日山の峯へ登香の煙を見ければ、或時香の煙なし。扨は聖人御隠れさせ玉ふとて智徳の高僧を頼まれ御迎にぞ参りける。其後念頃は御弔ひを致しけるが故に、御墓は知 0 0 島前の文化財 7 36 1 夫里村松養寺にあり。其後承久三年己五月後鳥羽院の御謀反により、北条義時か為に被捕させ玉へ(ひ)同七月八日に御メメを落したまい、王位をすべらせ、同十三日鳥羽を出御(ましまし)同二十七日出雲三保関へ着御、此所より御船に被為召京都よ 1221 727 承久3年 島前の文化財 辛巳 7 36 6 り御供(奉)の人ニハ大方御暇を下され、七条院の御母修明女院、承明門院へ御歌を献(じ)せらると云。堂羅ちね(め)の消えやらでまつ露の身を、風よりさきにいかでとわまし、しるらめや浮めを三穂の浦千鳥、なくあく志ぼる袖のく(け)しき 0 0 島前の文化財 7 36 13 を。雲州名所森の宮御覧有て、千早振出雲の牡丹みもすへで、ねきそかけつる紅葉つらする、はるかなる幾代か雲になれぬらん、いつもの宮のちぎのかたそぎ、しらま弓(ゆみ)出雲の山のときはなる、命が阿屋な恋つつあらん。三保関より隠岐へ御 0 0 島前の文化財 7 36 21 渡海の時我に風波立ければ(御製)我こそは新島守よ隠岐の海の、あらき波風心してふけ、隠岐の海ひとり荒れぬる(やれぬる)、なく年(ね)にまかふ磯の松風。と御製被遊ければ波瀾暴風もしづまりけれとも亦夜に入月没して湊も流石に遠さかり 0 0 島前の文化財 7 36 29 ければ、入津覚束なくおほしめし大山権現へ御祈誓ありしに崎村三保の湊に神火立(建)ければ上皇の御製に、灘ならばもしをやくやと思ふべし、なにをたくもの煙成るらん。と被遊けれはつつかなく御着船。上皇亦御製に、三保の浦月と友には出し 0 0 島前の文化財 7 36 36 身の独りそ残る隠岐の外山に。湊を御覧有て御製に、浪間わけ隠岐の湊に入る船の、われこそこがるたへの(ぬ)思いに、おもひやれ憂めを三保の浦風になくなくしぼる袖のしつくを。里を御覧被遊て御製に、野へそむる雁の泪は色もなし、物をもふ 0 0 島前の文化財 7 36 45 露の隠岐の里には。其夜三保大明神の社に御一宿、御製に、命あれば茅が軒端の月を(も)みつ、しらぬは人の行末の空。甚翌日大山へ御参社の時鼓浦鼓島を御覧して御製に、かがり火の所さためす(ぬ)見えつるは、流れつづみのたき火なりけり。 0 0 島前の文化財 7 36 53 焼火 其所より御船にて御社参ありしに、島居迄大山権現寺僧と現じ御迎に出給ふ。僧日、船中の御製に、何をたくもの煙り成る(なる)らんと被遊しを、何を焼火の煙なるらんと御直しあれとなり。上皇是は此山の権現にてもとすいぎょ有りて、夫迄は大 0 0 島前の文化財 7 36 59 焼火 山権現と申せしを御改め、焼火権現と被遊、寺は雲上寺といふ寺号を被下、弘法大師の手刻ミの薬師(仏)を御寄進被遊しとなり。又隠岐名所其外小嶋を御覧有て、御製に、萩(はぎ)生る隠岐の小島を浪の上に、浦風さそふ日暮しの声、兎に角につ 0 0 島前の文化財 7 36 66 らきは隠岐の嶋千鳥、憂めをあはれ名にやかこたん。其後八月五日阿摩郡勝田山源福寺に着御有て後は御殿を建て雪霜を送らせ玉ふに、蛙の声松風の音を聞召佗て、蛙なく勝田の池の夕たたみ、聞かましものは松風の音。夫より勝田の池に蛙ありても 0 0 島前の文化財 7 36 73 鳴く事なし。松風の音もすさましくなりしとなり。又或時源福寺の寺僧(家)に堤坊と有しが此僧を召出されて当寺の来暦御尋ね有しが此僧止む事なき主威に恐れ更に勅答なし。其時の狂歌に、とへさらに勝田の寺の謂れをも、隠して胸に堤坊かな。 0 0 島前の文化財 7 37 2 勝田山の桜の咲きしを御覧有て、御製に、思ひ出る都の春にかはらじな、勝田の山の花のさかりは。無き人の御忌日(に)とて僧を召されし時、御追歌、おもい出て折焼柴の夕焼(夕煙)り、むせぶも嬉し忘れかたみを。五月雨降り続き賎か手わざを 0 0 島前の文化財 7 37 9 御覧有て、賎の女がかた搗き麦をほし佗て、にふに(歳)やすらん五月雨の頃。松尾山金光寺へ御登山被遊、東西南北の海を御覧有て、賎の女か横なしはたを建置て、また見るも海もたま見るも海。夫より承久より拾九年後延應元年亥二月二十二日御 1239 222 延応元年 島前の文化財 己亥 7 37 17 歳六拾(歳)にして崩御。同二十六勝田山(寺)にて御葬奉る。其後又後醍醐天王元弘二年申北条高時に捕らせ玉ひて同三月雲州三穂関着御。此所より御船に被為召都より御供の衆中に大方暇(御)被下の纔(わずか)の御供にて同十七日無恙御木( 0 0 島前の文化財 7 37 22 隠岐国)の国千波の湊へ入津被為遊此所の古海坊ニ夫里坊とて此所に暫時御座有しが後に別府村黒木と言所に御所を建遷らせ玉ふ。或時隠岐の判官被召出て被仰渡けるは当国に郭公ありて鳴く事なし行衛如何にと御尋ありければ其勅答に日むかし当国 0 0 島前の文化財 7 37 27 へ、後鳥羽院御幸ありし時、郭公頻に羽たたきをせしかば上皇御製に、なけばきき聞けばむかしの恋しきに、此里出よ山ほととぎす。と被遊たる故に其後郭公鳴く(絶て)事なしと申上ければ上皇亦御製に、聞く人も今はなき世に郭公、たれに恐れて 0 0 島前の文化財 7 37 35 鳴かぬ此里。と如斬御製被為遊しかバ夫より又鳴とかや。其後正慶二年酉三月二十八(二十三)日日之夜御忍び出兎やせん角やせんと被遊し所に翁一人身ニ藁巻にして来り(来り)天皇を守り奉リ美田の院宮崎より亦小船にて浦の郷村の内赤崎へ参り 1333 328 元弘3年 島前の文化財 癸酉 7 37 40 しかば此所ハ(に)伯州船居合けるに此船へ便船を乞はれ夫より伯州船の上と申所へ御修幸被遊候(ける)を跡より隠岐判官追手にむかへ(ひ)しに終に自害しけるとや。偖此翁と申すハ美田の院正八幡宮なり。建武元年に隠岐守此国を拝領し、山手 0 0 島前の文化財 7 37 46 銭(場)竃役銭等御議定有しとや此隠岐の守ハ(に)佐藤治部の少輔と内外の戦ひによりて終にハ平(互)に討死しけるとや、其後尼子(天子)隠岐守領地となり御仕置役人には松田弥三郎、中西勘右衛門より下物成り(げものなり)等御議定有しと 0 0 島前の文化財 7 37 51 也。其後隠岐守子息正之五郎時代、天正十一年戌七月安芸の広島より嶋後今津村へ武士数多渡海致し同七月十五日の夜正之五郎宅へ乱入(す)終に(は)討れさせ玉ふと也。夫より広島の内取(うちとり)吉川拝領地に罷成両島仕置役人ニハ比田六右 1583 715 天正11年 島前の文化財 癸未 7 37 56 衛門被致渡海、反銭卯時銭在家布川銭山見様下物成(やまみためししたものなり)右之品々儀定極ると也。其後慶長四年堀尾帯刀拝領罷成り同じく拾弐年村尾越中落合助右衛門仕置被渡海被致検地其外小物成銀改之。同十三年申の年飛鳥井少将遠島有 1608 0 慶長13年 島前の文化財 戊申 7 37 61 て海士村ニ住宅従公儀七人扶持(ニ)(特ニ)大豆壱石三斗五升六合(一斗五升六合)銀弐百六拾七匁六分(ニ)被下之卯時壱日壱人(分)宛従公儀嶋へ被仰付相勤しと也。同年和泉国より田中新兵衛、甚兵衛、仁兵衛と申もの渡海いたし公儀へ御願 0 0 島前の文化財 7 37 66 申上御運上を請両嶋牛の革はぎ申。同十七子年同十八丑年迄ニ嶋前ハ村上肥前と申役人追検地有之端々迄残らす棹の不入処なし。又飛鳥井少将後鳥羽院御廟を崇拝し修覆を加へ其後寛永九申の夏、後鳥羽院御弔ひに仙洞より勅命にて詠歌を奉て御旧跡 1612 0 慶長17年 島前の文化財 壬子 7 37 72 を御弔ひの勅使は水無瀬中納言氏成(うじなり)卿也。其和歌の一巻并氏成の紀行あり。亦源福寺の宝物となる其巻頭は早春と言ふを題にして御製、雲霞(の波)海より出てあけ初る、隠岐の外山に春を知るらん。管袖は奉備御陵と題して伊勢祭主友 0 0 島前の文化財 7 37 78 焼火 忠、隠岐の海のあはれを思ふ人とあれと、とへとこたへす浦風のふく。又焼火山へ御社参ありて御製、千早振神の光りを今の世に、けたて焼火のしるしみすらん。同十年酉六月御巡見市端(いちはし)伊豆守、村越七郎右衛門、拓植半右衛門始て御渡 1633 600 寛永10年 島前の文化財 癸酉 7 38 7 海萬御仕置御見分被成、其後同年国主弐代目堀尾山城守御時代に上り御支配人池田出雲守、小出大和、古田兵部御預り。同拾一年ニ京極若狭守へ御預けに罷成、御仕置役(ニハ)、団弥市右衛門御渡海諸色御改、また慶安四、十月十三日慶法院祖立( 0 0 島前の文化財 7 38 13 そりょう)遠嶋海士村ニ住宅公儀より弐人扶持宛被下置、明暦弐申五月十七日慶法院病死、同四戌春後鳥羽院御陵直政公改て御造営、寛文元丑五月二十四日存識、メメ盛、存誉三人遠島、嶋後護国寺村ニ住居公儀より五人扶持被下置、同六年九月二十四 1659 0 万治2年 島前の文化財 己亥 7 38 19 日、メメ盛病死、同七末夏御順見稲葉清(勝)右衛門、市橋三四郎、徳永頼母御渡海被成、同十一月村松少監、今村左太夫御了簡を以て嶋前の四分嶋後ハ(江)六歩に割賦物極リ。堀部勘右衛門、同八申五月三日病死、同酉三月存誉は御赦免、同潤(壬 0 0 島前の文化財 7 38 24 十月宮崎仁左衛門、同藤左衛門遠嶋有て有木(島後)村ニ住宅公儀より五人扶持宛被下置。同十年戌九月金剛院信證、密厳院由愚、醍醐三宝院御門跡衆遠嶋、美田村ニ住宅公儀より五人扶持に卯時一日ニ壱人宛嶋より出す。同拾弐子(潤)六月本多瀬 0 0 島前の文化財 7 38 30 兵衛、同治郎左衛門、奥平源四郎、同弥市郎遠嶋、嶋後延宝弐寅二月二日祖立病死。同春雲州御弐代目綱隆卿時代に後鳥羽院御陵修覆あり。同四辰年五月二十二日、末次平蔵子息平蔵遠嶋宇賀村に住宅御公儀より四人扶持宛被下置。同五巳正月十七日 1674 0 延宝2年 島前の文化財 甲寅 7 38 36 本多次郎右衛門病死。同九酉高木忠右衛門、脇部久右衛門、佐橋甚兵衛、右三人御巡見ニ御渡海有是。其後天和弐戌六月、勝田山源福寺の住僧上京して六月二十二日水無瀬中納言(江)伺公、其折節後鳥羽院御忌日とて、歌の会ありしに源福寺の来を 0 0 島前の文化財 7 38 42 見てまんざ各々恐悦有(り)、水無瀬中納言御親子殊に満足して古の氏成の渡海を前書にして和歌一首宛氏信より恵賜なり。則弐枚共に表軸を調へ是又源福寺の什宝(物)となる。同三亥四月二十一日相楽治郎少輔、遠嶋あり(有之)嶋後東郷村に住 0 0 島前の文化財 7 38 48 宅、公儀より弐人扶持宛被下置。亦貞享二丑八月十八日諸事歩割帖相定る。雲州御支配都て五拾壱年。其後元禄元辰年御代官由良長兵衛御支配被仰付御渡海有之、新田畑御改。同四末年御順(巡)見、宝(むろ)七郎左衛門、秋田三郎左衛門、鈴木弥 1685 818 貞享2年 島前の文化財 乙丑 7 38 54 市郎御渡海有之、両嶋公文給並ニ地役人御取上げ。同五年八月十六日由愚歳六十一才にて病死。其後宝永七、六月御巡見、墨川興兵衛、岩瀬吉左衛門、森川六左衛門、御渡海、亦正徳ニ辰十月御順見、森山助四郎、三橋勘左衛門、湊五右(左)衛門、 1710 600 宝永7年 島前の文化財 庚寅 7 38 59 御渡海、又其後御順見同六申六月、鈴木藤助、小池勘左衛門、石川儀衛門御渡海、又享保弐酉年、松平兵左衛門、落合源右衛門、落合源五郎御渡海。同三戌年唐船数多着船仕候ニ付、同五子年御代官御支配都而三拾三カ年にて上り。同年八月より松平 1718 0 享保3年 島前の文化財 戊戌 7 38 66 出羽守殿御預り被成、御支配人は奥(竹)田喜左衛門、御郡代西村武助、御代官佐野武太夫、同嶋前松浦豊太夫より八月十三日に当国御請取。御仕置に御目付松平源太夫、御代官村尾皆右衛門、御代官和多四郎太夫、豊嶋奥左衛門、地方役人村(井) 0 0 島前の文化財 7 38 72 上元右衛門、墨沢伊右衛門、岩崎左衛門、吟味役池田此八(このはち)。同六五正月二十四日、大庄屋役儀始て、美田村八郎左衛門、嶋後矢尾村庄屋十太夫、都万路村庄屋清重郎被仰付。同七丑六月二十四日、嶋前大庄屋段々御願申上候ニ付、役儀御 0 0 島前の文化財 7 39 1 免被成、後役別府村助之進へ被仰付。同十己七月朔日、助之進病死ニ附、海士村助九郎被仰付。同十七年子年、日本悪年ニ附種夫食備(借)用。同十八年丑八月大庄屋役儀崎村祐七へ被仰付。同十九年寅年松平出羽守、後鳥羽院御陵御造営有之。其後 0 0 島前の文化財 7 39 7 寛保三亥二月十四日大庄屋役儀又海士村に被仰付。延享二丑八月大庄屋十太夫病死ニ付嶋役目貫村庄屋文蔵江被仰付。同夜雲州より新田畑御改ニ付田部惣江衛門、服部彦三郎御渡海。同三寅四月二十八日御巡見、小幡又重郎、板橋民部、伊原兵庫、同 0 0 島前の文化財 7 39 13 焼火 六月二十九日ニ巡見佐久間吉左衛門、野呂吉重郎、山田幸左衛門御渡海。此時美田村山手銭割賦有リ。一、焼火山大権現、三座同殿座。伊勢大神宮同体也、手力雄命左陽。天照皇大日霊貴、離火社霊是也。萬幡姫命右蔭。未社。辨財天、豊玉比メメ命。 0 0 島前の文化財 7 39 21 焼火 五郎王子、素盞鳴尊五男王子。御前、事代主神。随神御門神、左右豊石窓命、奇石窓神。山神、大山祇命。焼火山雲上寺、社陵拾石、此田反別八反四畝弐拾壱歩。是ハ永禄六亥九月幸清(ゆききよ)と書判して寄進状有之。亦大山にて仲間屋舗壱カ処。 0 0 島前の文化財 7 39 28 橋、森の下にて堀壱カ処但畑なり。是ハ天正十二年酉七月八日、菊(藁)宗次郎と書判して(有)寄進状有之。抑当山は本郷より己ノ方へ壱里八町、橋より十丁也。鳥居より九町。大山脇より五十町也。其道いづれも除難九軒(折)を経て嶺に有巨岩。 0 0 島前の文化財 7 39 34 其腹に穴有り、是に宮殿を作り拝殿より長廊下作り続けり。鐘楼あり、宝蔵あり。山の下へ(上)行通(道)あり。至れば神銭沸出るつぼあり。人得神銭を則免水難を避病難壱銭を投じ弐銭を得(故)日ニ早数十倍雖然無敢溢。四(西)の方に僧坊あ 0 0 島前の文化財 7 39 39 り。昼夜参詣の客無絶為饗応。古樹立並て茂れり。山中に有隻鴉常ニ遊堂前知客来則巣庭樹に依て社僧皆知之出ル神前寺に縁起あり。神徳を記せり。神火を不遑施して闇夜の漂船を助け玉ふ。凡秋津州高麗に至りても凡神火を不建といふ事なし。承久 0 0 島前の文化財 7 39 45 焼火 の昔後鳥羽院御来嶋之時波瀾暴風御船中の御製神火の建し事は海士村勝田山に記す。其時より焼火山と言、雲上寺と云とかや。是上皇の所被為成也。上皇嶋を御覧被成御製に、波路わけ隠岐の小島に入船の、我とこがるるたへぬ思ひに。雲晴れ遠雲州 0 0 島前の文化財 7 39 53 焼火 伯州の見山曇時は墓嶋、赤灘の瀬戸、葛島の眺め他国にも稀也景地なり。所々よりも、棒宝物入宝蔵是神徳の故にや(也)。上皇船中の御製にも、なだならばもしほやくやと思ふべし、何を焼火の煙なるらん。亦、寛永の始水無瀬中納言勅に依て勝田 0 0 島前の文化財 7 39 60 山の御廟に来りし時、上皇御取立の山なれば苔(昔)の跡を随ひ参詣ありて所々順礼し玉ふと也。一、寺社領高、百弐拾七石。内田高百拾五石。但し、一枚三石宛畑高拾弐石ハ海士村崎村建興寺領。寺領六拾七石。三拾八石、嶋前。弐拾九石、嶋後。 0 0 島前の文化財 7 39 69 社領六拾石。弐拾三石、嶋前。三拾七石、嶋後。但寺社領、拾六石、智夫里郡。四拾五石、海士郡。拾七石、越智郡。四拾九石、周吉郡。此訳、嶋前、田高弐拾石源福寺。同三石安国寺。畑高拾弐石建興寺。同拾石宇津賀村大明神。同壱石一宮大明神 0 0 島前の文化財 7 40 4 焼火 。同五斗渡須大明神。同壱石願成寺。同五斗松養寺。同二斗五升由良大ニョウ仁。同弐斗五升山王権現。同弐斗五升常福寺。同弐斗五升有光寺。同壱石八幡。同拾石焼火。同壱石長福寺。嶋後、田高三石八幡。同壱石高田大明神。同一石千光寺。同拾 0 0 島前の文化財 7 40 11 石一宮大明神。同弐石内宮大明神。同弐石月日領。同弐石常楽寺。同三石月日領。同三石八幡。同拾七石大満寺。同五石国分寺。同弐石加茂大明神。同拾石惣社大明神。同八石護国寺。同三石八幡。同弐石天神宮。一、禅尾山国分寺、真言宗、寺領五 0 0 島前の文化財 7 40 17 石、国分寺村。釈迦、薬師、阿陀三如来。鎮守山王弐拾壱社。(是ハ人王三十代の帝欽明天皇の御祈願所なりという。四天王寺有り仁王門有り)寺家六坊大乗V、本蔵坊、安楽坊、岸本坊、昔しは寺領百石之由慶長年中に五石ニ成ル。一、両嶋寺数九 0 0 島前の文化財 7 40 22 拾五ケ寺。内天台宗三ケ寺。真言宗五十一ケ寺。禅宗十八寺。浄土宗拾九ケ寺。一向宗三ケ寺。法花宗壱ケ寺。此内嶋前寺数三拾三ケ寺。此内、真言宗弐拾三ケ寺。天台宗壱ケ寺。浄土宗七ケ寺。一向宗二ケ寺。嶋後寺数六拾弐ケ寺。此内真言宗弐拾 0 0 島前の文化財 7 40 29 八ケ寺。禅宗拾八ケ寺。浄土宗拾弐ケ寺。天台宗弐ケ寺。一向宗壱ケ寺。法花宗壱ケ寺。一、富春山安国寺、真言宗、寺領三石、海士村西分。夫当寺本尊ハ観世音菩薩。人王三拾代の宗欽明天皇の御宇、隠岐守御祈願所といふ。寺家六坊あり。大門あ 0 0 島前の文化財 7 40 36 り。むかしは寺領百石の由。中頃被召上、慶長年中より三石に成る。一、高田山長福寺、真言宗、寺領壱石、美田村。夫当寺ハ人王四拾弐代の帝文天皇の御宇慶雲年中の頃行基菩薩の草創なり。往昔、行基当峯霊場なりと見て篭らせ玉ふ。生身の観世 0 0 島前の文化財 7 40 43 音現して行基に告て日、是より北の方に当りて高く峨々たる浦あり。其奥に竜宮城(浄土)より来りし奇樹あり。斯を以て吾形像を刻んで仏閣を建て安置せば、我又爰に常住せんと、夢裏分明にして、覚て彼浦に臨んで磯を見渡すに、壱つの流木を得 0 0 島前の文化財 7 40 49 (有り)たり。是を取揚て千手、十一面の二仏を彫刻して千臂を当時の本尊とせり。十一面は(始め)(同州)別府村飯田寺に安置し玉ふとなん。此奇樹の余木を執行者枕に用、出雲の国枕木の霊場へ詣するに厥砌に枕木の観音の御膝に月の輪の如く 0 0 島前の文化財 7 40 54 成穴の疵あり、成就せざりしを、彼の執行者の枕を入合せしに符号して成就せり。此謂有に依て枕木山と名付と云。枕木観音寺の観音一躰方身(分身)の観音としふ。一、大原山常福寺、真言宗、寺領弐斗五升、浦之郷村。夫当寺ハ人王五拾弐代嵯峨 0 0 島前の文化財 7 40 60 夫王御宇、弘法大師諸国修行之時当国へ御渡海ありければ此山へ(光明輝きければ)寺を建玉ふとなり。其後(真野)長門守修覆を加るという。一、願成寺、真言宗、寺領壱石、知夫里村。一、松養寺、真言宗寺領壱石(五斗)知夫里村。夫当の昔し 0 0 島前の文化財 7 40 67 は、古海坊、仁夫里坊とて、赤平山に有りしが、元弘年中より後醍醐天王当国へ御遠島ありて、御所を建て遷らせ給ふ故、寺号山号共に御直し被下候と云。一、建興寺、天台宗、寺領拾弐石、崎村。夫当寺ハ人皇六拾弐代之帝村上天皇の御宇、当寺御 0 0 島前の文化財 7 41 3 祈祷所に御建被遊しとや。故に寺領として畑高拾弐石御附被成るると也。一、勝田山幸福寺、真言宗、豊田村。当寺に承和年中に小野篁当国へ御遠島ありし時、此寺を御建立、又松尾山金光寺(も)本尊を刻ませ玉ひ、其後島後那久村へ御渡り、光山 0 0 島前の文化財 7 41 9 寺の本尊を刻ませ給ふと云。一、繁滝山千光寺、真言宗、寺領壱石、都万村。当寺本尊千手観音、雲慶の御作也。当寺ハ昔、佐々木隠岐守位牌所に建立し玉ふ故に元は寺領三拾石有りしが、慶長年中壱石に成る。一、瑞奇山護国寺、禅宗(拾)寺領八 0 0 島前の文化財 7 41 15 石、護国寺村。夫当寺者天子隠岐守為清、位牌所に建立せらるるなり。其時代寺領百石なりしが、慶長年中より八石に成る。一、摩尼山大満寺、禅宗、寺領八石、有木村。当寺ハ家里より三拾八丁あり。但し弐拾丁行けば精進川とて参詣の人清めをす 0 0 島前の文化財 7 41 21 る所あり。是より一つの坂にかかり下の地蔵堂焼尾山のおぜを登り上へ地蔵堂を経て十八丁登り僧坊に至り。(ル)本堂ハ六間、坂を登り前に鐘楼有り。本尊千手観音、山の頂の処には小社あり。旱魃の時雨祈る。僧俗祈れば雨不降といふことなし。 0 0 島前の文化財 7 41 27 一、元屋山建福寺、禅宗、寺領三名、元屋村。当寺ハ開山ハ国済国師、貞和三年の頃雲州能義郡雲樹寺より渡海あり。此寺に住居す。則ち縁起に見えたり。当寺より未の方壱町隔り世の中桜といふ名木あり。世の中能年ハ花咲又悪しき年ハ必花咲事な 0 0 島前の文化財 7 41 33 し。此国済国師の墓ハ霊護庵にあり石塔あり。一、蔵福山願満寺、真言宗、小路村。夫当寺ニハ昔ハ寺家六坊、藤本坊、成就坊、吉祥坊、宝寿坊、多門坊、東光坊とて有り繁栄にして郡中に勝れし地なり。仁王門、鐘楼堂又、本堂有り。本尊ハ、薬師 0 0 島前の文化財 7 41 40 如来、千手観音、寺僧の伝に日(いわく)、むかし兵乱時海賊来て、什物雑具を掠取て、僧坊不残焼失す。薬師如来は煙中より飛て、都万村千光寺の山の上に至り玉ふ。観音は横尾山の谷口に飛行留り玉ふ。是薬師観音夜な夜な光明をはなち給ふ。依 0 0 島前の文化財 7 41 45 て近辺の草木照りかがやきけるにより、地頭是を奇妙也とて、弐仏を迎ひて此寺を建て前の如く横尾山に今古き石あり。彼仏の跡と言ふて社の形をしたる石あり。一、振鈴山上楽寺、真言宗、寺領弐石、中村。夫当寺ハ年を経て九月十九日の祭りあり。 0 0 島前の文化財 7 41 52 中村ハ月を餝り此寺より行列をなして出る。元屋ハ日を餝り八王子大明神より社人列をなして、中村へ渡り会所の堂の前に日月の会合あり。礼儀有りて、曲馬、相撲さまざまの芸、社僧の役終わりて、日月還御社僧共に帰る。元屋八王子にも右の通の 0 0 島前の文化財 7 41 57 祭礼有(るに依て)社領弐石。一、津井村池二ツ有り。陽池、長百五拾間、横九十間、深さ五間。陰池、長九拾間、横三拾八間、深さ四間。弐つの池の間に中尾山とて高さ弐拾間の山有。海際より拾間、池中に鮒有り菱あり、又長弐間余のうなぎあり 0 0 島前の文化財 7 41 64 と云。見る事稀なり。昔(の)駒此辺を廻り、我影(顔)のの水に移るを見て、母と思へ池中へ飛入又池の辺へ上る事数度、如斯するに依て人是を池より出すといふとかや。亦池に附き不離に附て、池付の駒といふ。其後、嶋前へ渡り雲州へ泳き附、鎌 0 0 島前の文化財 7 41 69 倉へ献上して生類を食するに依て生食(いけづき)とも号す。又池月とも書、池の辺りに墨の如くなる石あり。彼駒の爪の跡迚あり。硯に拵へ巾着の緒〆にして摺人もあり。此池にて雨(雨乞をする)祈る功けんなき事なし。一、布施村浄土浦といふ 0 0 島前の文化財 7 42 5 処あり。此浦に昔嶋右衛門迚言ふ人有りしに(都)紫野の一休寺を建てし時、虫の喰いたる柱御覧なされしに、此虫喰いし跡の文字を見給ひ(へ)ば、隠岐国島右衛門にはおとりしとあり。夫より隠岐国へ御渡海有て(彼)嶋右衛門を御尋ね対面有り、 0 0 島前の文化財 7 42 11 一夜の屋度をかさせ玉(びし)と念頭に語りしが、夜明けぬれば、嶋右衛門兼て漁師の事なれば、つり置し鯛を食事となす。御僧には何がなんと存ずれ共御覧の通り外にたべ物も候はずと云ければ一休不苦某にも貴殿のたべものをと有ければ、やがて 0 0 島前の文化財 7 42 17 彼鯛三献を與へける。其後一休和尚たらひに潮をそへかつとせきあげ玉へば、食したる鯛元の如く踊りける有様を、嶋右衛門つくづく見て扨も御僧(には)食したる物吐出し元の如くなし給ふはいかにと問えば、一休答へて日、我仏体を得て魚を食せ 0 0 島前の文化財 7 42 22 しかは成仏させんと思ひ又元の如くにたすけとらせん、いかに嶋右衛門申様、扨々我等にはかよふの魚を食する時は身命を助り、又ハ魚を(茂)くわれて成仏(と)心得候なり。いで成仏の印を見せ申さんとて、うつはものに水を入(せき上ケ)はき 0 0 島前の文化財 7 42 28 出せば、下に(は)台座の蓮(花)上には、弥陀観音勢至の三尊をああらわすと也。一休驚き其時の狂歌に、釣に出(る)身はさぶ嶋のやれころも、布施来て見れば浄土なるらん。如斯彼(被)成しにより此浦を浄土の浦とハ申なり。一、上東村に雨 0 0 島前の文化財 7 42 36 来といふ所あり。此所にむかし柄橋中将といふ人、始ハ島前の布施と云所にあり。此処に御座ありしか、其後都より追手来りしにより此処へ忍はせ給ふ時の歌に、露の身の袖はひがたし立よるも、雨来の里の森の下かけ。と被成て山奥へ忍ひたまふを 0 0 島前の文化財 7 42 43 跡より追手参りしかば今はせんかたもなく、ゑぼし太刀をば我印とて岩に成、笛は地へ逆さまに立置給ふにより竹となる。それよりすぐに自害被成し時(一首)いざさらば爰を都を定むべし、雨来の里の椎の敷しば。と被成終におわり玉ふ。亦年をへ 0 0 島前の文化財 7 42 51 て都より蘆月といふ人来りて、?、中将の古跡を尋ねて古塚に向へ(ひ)、天津風雲井にかけし柄はしといふて、末をつがんとする時、塚の中より声ありて、かよひ路たゆる森の下草と、聞ひ(へ)ければ、蘆月是を聞御いたわしくぞんじいざ弔ひ奉らん 0 0 島前の文化財 7 42 57 迚、都へ被帰ける。此事村人不思議におもひ小社を造り柄橋大明神と崇奉る(祝申)と也。一、油井村より己の方に当りて古き城跡あり。高さ壱丁余廻り拾丁是はむかし油井といふ人の居城の跡なり、亦油井の池とて有り。指渡し百拾間、深さ七尋、 0 0 島前の文化財 7 42 63 ふな、うなぎ、菱あり。亦国主油井、油井被成し池なりと云々。一、都万村上皇(里)より辰の方に城跡有り。是は昔佐々木隠岐守居跡なり。其後都万村弥市郎といふ地頭も居城せし跡なり。一、那久村に古き城山あり。是は箕尾尾張の守といふ人居 0 0 島前の文化財 7 42 70 玉ふ。此尾張守都万の城主と戦ひ落城して討死す。今は此城主を岩神大明神と申、又は岩神八幡とも申なり。一、代村に古城跡有り。此城はむかし秋堀北右衛門といふ人の住玉ふ山なり。此北右衛門、今は北谷大明神と申之。一、大久村より亥の方に 0 0 島前の文化財 7 43 2 当て古城跡有り。是はむかし奥田右衛門之助といふ国主の城跡あり。一、矢尾村より西に当り、天子隠岐守居城の跡なり。此隠岐守の子息正之五郎時代に広嶋より夜討渡海いたし自害をなされしと也。其後堀尾帯刀時代よりは、八幡宮と号す。宮地は 0 0 島前の文化財 7 43 9 山六歩目にあり。其外御立山なり。一、御奉行屋敷、矢尾、目貫出崎にあり。此屋敷は昔し天文年中雲州新山城主落城して、武士数多渡海して此処に住宅。亦其後慶長拾弐未年より御奉行屋敷に成る。一、嶋前宇賀村に星野神大明神と云嶋有り。此嶋 1607 0 慶長12年 島前の文化財 丁未 7 43 15 高さ四拾六間、廻(百)六拾(百六十)間、磯より三拾丁北の方にあり。此星野神嶋は雨を祈り、風を祈神なり。此嶋を見て古老の日、大森や二股嶋に冠きて、あらたにおがむ星野神嶋。一、別府村に黒木とて古き城跡あり。此処は昔し後醍醐天王の 0 0 島前の文化財 7 43 21 御殿を建し跡なり。此山三方は海にて、北方は山続き、東西拾七間、南北拾弐間あり。一、美田村本郷より北方当て高さ弐拾間半、亦三間余、東西拾七間、南北拾間余の古起(き)城跡あり。此城は弐百八拾年余巳前に隠岐守御内佐藤治部の少輔とい 0 0 島前の文化財 7 43 27 ふ人居城なり。今は小山さん薬師寺迚寺を建けるなり。一、浦の郷村本郷より拾壱丁北方に当り、古き城山あり。是は昔真野四郎兵衛と佐藤治部少輔と村境の論に依て戦ひし(たがいに)時、勝負不附により鎌倉へ訴へければ早速検使被遣、利非の才 0 0 島前の文化財 7 43 33 判有て戦ひは済む也。一、知夫里村本郷より拾弐町去て、古き城跡有、是は安藤帯刀と云人の居城の跡なり。一、海士村本郷より西方に当て古城の跡有。是は昔し後鳥羽院当国御遠嶋之時為に御殿を建し跡なり。一、布施村本郷より弐拾壱町去て申の 0 0 島前の文化財 7 43 39 方浜辺に堂ノ木といふ処有。古へ爰に柄橋中将都より落来住玉ふ折から跡より追手来ければ夫より嶋後(上東村)雨木といふ処(の里に)忍びたまふとなり。一、御制札場、拾九ケ処。知夫里村、三田村、宇賀村、海士村、別府村、浦ノ郷村、福井村、 0 0 島前の文化財 7 43 46 豊田村、知々井村、布施村、崎村、周吉郡中村、大久村、今津村、矢尾村、寛永七末春江戸表より御改ニ而。越智郡津戸村、都万村、南方村、小路村添。一、巣鷹山、拾壱ケ処。嶋前、知夫里郡知夫里村寒嶋(浦)浦郷村、ゑら加崎、かの子通(冬通 0 0 島前の文化財 7 43 54 )、三田村、高崎自然にあり、宇賀村はなれ自然に有り。嶋後、越智郡、津戸村、大守しま、北方村高崎、周吉郡、布施村、左(右)峯(嶋)、大久村、津目嶋。一、御船、観音丸、天正年中丑夏、雲州吉川御時代、当国御代官御願申上願ひ相叶、御 0 0 島前の文化財 7 43 61 船雲州より到来に附、堀尾帯刀殿時代、其後京極若狭守殿、松平出羽守殿御預りに罷成候ても修覆従御公儀前々通被仰付来候。一、両嶋庄屋、昔ハ公文と呼れ候へ共、元禄四未夏御巡見、宝七郎左衛門、秋田三郎左衛門、鈴木弥市郎御渡海の刻より庄 0 0 島前の文化財 7 44 2 屋と御改め、給分は高百石に附壱石宛被下置候処此時より御取上被成となり。一、嶋前豊田村より嶋後津戸村へ海上三里の渡りあり。汐早にして横波荒くたやすく船を渡す風稀なり。当嶋第一の難処、諸御用送り迎ひの水主船渡料として御公儀より、 0 0 島前の文化財 7 44 9 毎年米八石被遣、船渡相勤となり、亦嶋後津戸村上十五日、蛸木村より下十五日、隔番にして、嶋前豊田村へ諸用相勤る(尤)渡料として米七石七斗宛毎年御公儀より被下置なり。一、両嶋山林東西南北委細に書上候様、寛文八年酉七月、江戸御表よ 0 0 島前の文化財 7 44 15 り被仰付、村々吟味之上御勘定所迄一札差置候。壱ケ所嶋後周吉郡矢尾村城山跡、此反別拾四町余。是は谷峯入組にて平均之間数書記候に付大積り如斯。一、両嶋御林六ケ処の内、海士郡豊田村に嶋山、長四百八拾間、横手六拾八間、此反別拾町九反 0 0 島前の文化財 7 44 22 。弐ケ所知々井村崎山、長七百拾間、横手四拾八間半、此半別拾壱町五反。同村ひい後(ご)島長六拾間、横手三拾間、此反別六反。壱ケ所知夫里郡美田村見附嶋、長百間、横手弐拾間半、此反別三反。一、嶋後下西村之内、岩井杉とて壱本あり。廻 0 0 島前の文化財 7 44 28 り三丈八尺、是ハ昔若狭の国より人魚(人形魚)といふ物食せし尼来りて、此杉を後代の形身とて植置と云、八百年越て是をまた見来るべしと彼尼いふに依て、八百比丘尼(八百尼)の杉と世の人是を云きたるべし。又一宮大明神の社にも壱本あり。 0 0 島前の文化財 7 44 33 焼火 嶋前美田村大山大明神の社にも壱本、焼火山にも壱本あり。昭和十六年(皇紀二千六百一年)二月周吉郡西郷町大字東町松浦高鞆氏蔵本より写之。書写分明ならざる点多くあれども原本のままにまかす。浪月生。一九五六年三月二十一日知夫村横山弥 0 0 島前の文化財 7 44 39 四郎氏(浪月)より借用の筆写本を以て校合す。朱筆(註 の所)これなり。永海。跋。さきに田邑氏が、本誌で三沢喜三右永門著「隠岐国旧語帳」の全文を紹介されたが、同人には別に「隠州往古以来諸色年代畧記」があって、これは新修島根県 0 0 島前の文化財 7 44 47 史にも資料編に収められている貴重な文献である。今回紹介する「隠岐国往古旧記集」は海鳥社主藤田一枝氏の遺稿で、氏が巻頭写本の辞で明示しておられる様に、隠岐郷土史の上で不滅の功績を残された。横山弥四郎、永海一正、藤田一枝の三氏の 0 0 島前の文化財 7 44 53 研究業績に、高梨文太夫氏の協力によって出来た、完璧な校合本である点を評価したい。この写本の元本が三沢喜三衛門忠義の撰になるものである事は、其の内容から明かで、その人の出自は別として彼が近世の隠岐で稀にみる史家であった事は間違 0 0 島前の文化財 7 44 58 いない。昭和時代のすぐれた隠岐の郷土史家たちが互いに力を合せて一つの資料に取組み研鑽を積んだ温い友交の態度は美しく、しかも今は揃って故人になってしまわれた事をおしみ、且はこの貴重な校合が世に埋まることしのび難く、広く世におく 0 0 島前の文化財 7 44 64 って役立てて頂く事にした。猶本資料は御舎弟田邑二枝氏の提供になるもの、心から謝意を表するものである。(松浦康麿記) 0 0 島前の文化財 7 45 1 十方拝礼 美田八幡田楽覚書。(一)隠岐汽船が別府に入港すると、右手に黒木御所の丘が、そして正面に八幡ノ森が望まれる。この森に鎮座する、美田八幡宮の大祭(九月十五日)に中世より田楽が奉納されて来た。(古記録には田楽とあるが、一般は十方拝 0 0 島前の文化財 7 45 8 十方拝礼 礼<しゅうはいら>と呼んでいる)「田楽」とは、田の神に豊作を祈る予祝行事から発して、それが芸能化されたものといわれている。平安時代には外来の「舞楽」が都の貴族の間で、後世から黄金時代といわれる程盛んに行われたが、それがあきる 0 0 島前の文化財 7 45 13 十方拝礼 と鄙びた田楽が珍重される様になって、これが最も盛んであったのは鎌倉から室町時代にかけてであったという。処が「能」が完成される事によって、この方がより芸能として高尚であることから、田楽は自然に衰微してしまった。この様な経過をた 0 0 島前の文化財 7 45 19 十方拝礼 どった田楽は、その残留も全国的に僅少であり、田楽躍として残ったのは十指を数える程度である。殊に中国、四国地方でまとまったものは、我が西ノ島にのみ存続されて来て、全国的にも貴重なものとされ、昭和三十六年には県指定の無形文化財に 1961 0 昭和36年 島前の文化財 辛丑 7 45 25 十方拝礼 、又昭和五十一年度には、文化庁より国選択の民俗芸能として記録作製等の保存措置を講ずべき無形文化財として選定されたので、同年の八幡宮の大祭には臨時に奉納してそれを記録に作製した。さきにも記した如く、田楽をここでは十方拝礼と呼ん 1976 0 昭和51年 島前の文化財 丙辰 7 45 31 十方拝礼 でいる。これは他の田楽をに礼のない呼称であるので、意味は不明であるが、囃言葉に「たのしゆやしゅうはいら、しゅはいたぬなが、しゅうはいら」という言葉がる処からするとこの囃言葉から名付けられたかも知れない。又十方拝礼という文字は 0 0 島前の文化財 7 45 36 十方拝礼 、躍の所作から思いついた文字ではなかろうか。又、田楽には楽器に簓(ささら)と鼓(つづみ)のあるのが特徴でこの田楽にも「びんささら」と「摺ささら」の二種のものが使用されている。躍そのものは単調であるが、並列の形が色々と変化しこ 0 0 島前の文化財 7 45 42 十方拝礼 れに1らんじゃ2すりつげ3腹合座換4背合座換5扇の手6立車7居車8腹合9背合10立分11居分12笠合13左右のぞき14折合等の名称がつけられている。役名は、中門口(坊主とも)二人、坊主脇二人、すってんで(鳥とも)二人、鳥脇二 0 0 島前の文化財 7 45 47 十方拝礼 人、子ざさら二人、子ささら脇二人、以上十二名が躍の所役である。囃方は、鼕打二人、囃方四人である。(二)さて大祭当日、神前に於て式に順って祭儀が斉行され、次いで田楽が奉納される。順序は先ず初めに獅子舞があり次いで神ノ相撲、これ 0 0 島前の文化財 7 45 55 十方拝礼 が終わると田楽躍となる。初めに中門口二人の躍。次鳥二人の躍、次小ささら二人の躍があって総躍となるのである。囃は「ロ−ロ−」と唱える「らんじゃ」と「たのしゅやしゅうはいら」と唱える二つがある。「ロ−ロ−」は笛の譜を口で唱える様 0 0 島前の文化財 7 45 61 十方拝礼 になったもの。この田楽にも元は笛役があったが、いつの頃からかすたれたのである。衣装で珍しいのは中門口が青の法衣を着ている事である。これは「田楽法師」というのは記録にはでるが、現在法師形をしているのはここだけである。衣装はもと 0 0 島前の文化財 7 45 66 十方拝礼 は、中門口が法衣、鳥と小ささらは錦の広袖、脇躍は平服の上にくくり袴を着けるのみであったというが、いつの頃からか現在の如く全員広袖の上衣を着る様になった。これも時代的な一つの変化である。躍は現在桟敷の上で行っているが、わらじを 0 0 島前の文化財 7 46 2 十方拝礼 履いている処からすると、もとは庭上で躍ったものであろうか。(三)ここで、当八幡宮で田楽が興行されるようになった沿革について、ごく簡単にのべる。幸い文化十年(一八一三)に神主月坂玄盛の書いた「八幡宮祭礼式書」というのが残ってい 1813 0 文化10年 島前の文化財 癸酉 7 46 9 十方拝礼 るので、当時に於ける所役の分担、次第等詳しく知ることが出来る。それの序文によると、「隠岐守義信より八月十五日に、天下泰平、国家案ぜん、五穀成就、子孫繁栄の為に田楽の大祭被遊候云々」とあり、国主義信については同社の棟札に「天正 0 0 島前の文化財 7 46 16 十方拝礼 十三年(一五八五)当国守護佐々木九郎衛門尉源義信」と見え、又同十八年の棟札に「田楽衆十二人」とある事によって、戦国期には既に行われていた事がわかる。八幡宮は中期武家によって信仰された社であるので、当時は島前の総社的存在の社と 1590 0 天正18年 島前の文化財 庚寅 7 46 22 十方拝礼 して祭礼もより賑はしく斉行され、単に三田村のみのものでなく、中世期には少なくとも島前全体の祭礼であったのであるが、それが時代が下るに随って、美田村の祭礼として、それぞれの分担をして奉仕を続けて今に至ったのである。(四)田楽の 0 0 島前の文化財 7 46 29 十方拝礼 研究家新井恒易氏は、昭和四十七年来島され、祭礼当日つぶさに調査され、それを「続中世芸能の研究」の中に「隠岐美田八幡宮の祭と芸能」の一項を設けて発表しておられ、美田田楽の特徴として次の諸点があげられるとして、(一)大太鼓が伴奏 0 0 島前の文化財 7 46 35 十方拝礼 に用いられ、腰鼓がない事。(二)囃方がおり、歌謡のあること。(三)拍板(註ささら)役のほか、少年役の摺ささら役が加えられている事。(四)鼓役が鶏冠を被ること。(五)中門口、鼓役、子ササラの個別の特有の舞踊があること。(六)総 0 0 島前の文化財 7 46 42 十方拝礼 舞の中に、扇の手、笠合せ、折合等の特有の舞の手があること。しかし、舞人が左右に編成されて、表と裏の舞の形式や、行道形式の舞の手を持っている等、田楽の基本形態をそなえており、その舞曲も今日なおしっかりしたものとして残っている。 0 0 島前の文化財 7 46 48 十方拝礼 と述べられている。専門的な説明であるが、当田楽の価値を知る上で参考になる点も多いので抜粋しておく。猶詳しく知りたい方の為に参考文献の主なものをあげると、松浦静麿「美田八幡宮の田楽祭」(民俗芸術二−一二)同「美田八幡宮の獅子舞 0 0 島前の文化財 7 46 54 十方拝礼 」(同三−一)牛尾三千夫「隠岐島の田楽と庭の舞について」(島根県文化財調査報告書六集)新井恒易「続中世芸能の研究」(単行本)山路興造「現存田楽躍覚」(まつり六号)等である。(五)最後に昭和五十一年、奉仕した方々の氏名をあげて 0 0 島前の文化財 7 46 62 十方拝礼 、謝意を表したい。中門口、三美成志、桜井巌。鳥、尾崎才之助、角市吉史。小ささら、佐々木幸司、佐々木秀幸。脇躍、岡田昌平、桶谷康男、道端由秋、平木満、山野弘道、金森一郎。鼕打、前田伊太郎、中島熊次郎。囃手、奥田菊市、加木貞夫、 0 0 島前の文化財 7 46 69 十方拝礼 菊田由雄、服部治作。獅子、山野菊次郎、山野弘道。神ノ相撲、木村真二、富田卓巳。同行司、小林勝太郎、木村勝馬。この機会に美田七地区並に有志の方々の協力によって衣装も新調した。こうした価値ある芸能であることを再認識して頂きいつい 0 0 島前の文化財 7 46 76 十方拝礼 つまでも保存して行きたいものである。(松浦康麿記) 0 0 島前の文化財 7 47 1 宇賀観音寺由来記、岩倉敏雄。まえがき。西ノ島町宇賀部落C岸より宇賀川沿いの道(左岸)を約一〇〇米歩いたところに右側へ通じる一条の坂小径がある。この小径は二〇〇米程登ったところで突き当りになっているが、そこに観音寺(西ノ島町大 0 0 島前の文化財 7 47 8 字宇賀一一五八番地の一所在)なる佗しげな無住の一宇の堂が建っている。この観音寺前身は明治二年の廃仏毀釈までは宇賀、蔵之谷両部落を檀方とし、寺院としての一応の寺勢を張っていた。観音寺なる名称は一般には馴染まれた寺名とみえて全国 0 0 島前の文化財 7 47 14 的には多数の観音寺名の寺院があり、隠岐だけでも三カ寺の観音寺がある。即ち西郷町西田の観音寺(曹洞宗)、海士町崎の観音寺(真言宗)、西ノ島町宇賀の標記の観音寺(浄土宗)のこれである。宇賀観音寺名来歴。宇賀観音寺(以下単に観音寺 0 0 島前の文化財 7 47 20 という)の創建は資料不足の現在では明かではないが慶長十八年(一六一三)の堀尾検地帳によれば宇賀村には、御除畑(寺社領)が済社(註、比奈真治比売命神社)八畝。観音堂、七畝。と所載あり、この観音堂が恐らく観音寺の前身と想像される。 0 0 島前の文化財 7 47 28 観音堂(大字宇賀一一一一番地、通称ラントバに所在した、面積七畝一五歩)が有住の、しかも寺院としてのフ裁を整えた時代は何時頃のことであろうか、隠岐に於ける最古の地誌である「隠州視聴合紀」には観音寺の寺名は見えていない。この視聴 0 0 島前の文化財 7 47 34 合紀は寛文七年(一六六七)松江藩松平出羽守の藩士斉藤勘介(豊宣)が寛文七年秋より同八年秋までの一カ年間隠岐郡代として赴任し、その赴任早々から島前、島後を隈なく巡見して、その見聞を取纒めたものであるが観音寺は載っていない。(宇 1667 0 寛文7年 島前の文化財 丁未 7 47 40 賀村では知当の香鴨寺のみが記載されている)。ということは観音堂が寺院としての体裁を未だ整えていなかった。ことの証左でろう。降って貞享五年(一六八八)の隠岐の郷帳「増補隠州記」の宇賀村の項に初めて観音堂が寺名として登場してくる 1688 0 元禄元年 島前の文化財 戊辰 7 47 46 従って観音堂が寺院としての体裁を整えたのは、寛文七年から貞享五年までの間(二十一年間)のことと思われる。観音堂が一応寺院としての体裁を調え、その寺名も観音寺と改め、有住の寺として宇賀、蔵之谷両部落に寺勢を保ち、明治初年の廃仏 0 0 島前の文化財 7 47 53 廃寺までの同寺が如何様に推移したかを推断することは、現在の段階では困難な事柄に属するが僅かに残された断簡零墨を頼り、或は古老よりの口承を探り推古してみたい。旧観音寺の所在場所。旧観音寺建物は明治三十一年までは西ノ島町大字宇賀 0 0 島前の文化財 7 47 59 九三二番地(現在の寺屋敷)にあった。しかし旧観音寺そのものは明治二年の廃仏騒動により寺院としての、その命脈は一応絶たれた。次はその具体的所在場所であるが、旧道(宇賀〜蔵之谷道路図参看)宇賀部落入口附近より稍々下った宇賀川右岸 0 0 島前の文化財 7 47 64 の山沿いの広場になった所(畑)である。明治三十九年海岸道路(馬込め道路)が黒木村道として開道し、以来旧道(鳥越え道)は全く省みられなくなり、宇賀部落有史以来のか細い往還は幹道としての使命をここに全く終了した。ここに於て旧観音 1906 0 明治39年 島前の文化財 丙午 7 48 4 寺建物跡は新道の開通により、同一場所に在りながら表玄関の位置から宇賀奥の一番淋しい位置に転落した。徳川時代の観音寺。徳川時代(開府一六〇三)初期の観音寺は観音堂と呼ばれる一宇の堂であった。それが貞享五年(元禄元年)の増補隠州 0 0 島前の文化財 7 48 10 記には観音寺とあることは既に述べた。しかしながら現在の観音寺仏像脇の厨子内の位牌によれば同寺創建の僧は「当寺開山清誉伝了禅師、覚位、六月十五日」となっておるも、惜むらくは年号が不明なことである。又同厨子内の他の位牌(同寺関係 0 0 島前の文化財 7 48 16 の位牌は右とこれ以外にはない)によれば五代住職は「当寺五世木蓮社秀誉道察伝大徳、覚位、元禄十二卯年(注、一六九九)正月二十五日」となっている。この位牌から逆算すると観音堂時代にも相当長い期間(或は織豊時代以前に及ぶかも知れな 0 0 島前の文化財 7 48 22 い)住職が居住していたことが判る。観音堂に御除畑が七畝あったことは、その為であろう。資料Aは一昨年々年蔵之谷鹿子原家(家号面屋=末次平蔵の子孫と目されている「島前文化財第三号」三一頁参看)が家屋建替えのため旧家屋を取壊し中、 0 0 島前の文化財 7 48 28 筆者たまたま現場を通りかかり、不要物焼却場で、末次平蔵に関する何かの古文書でも発見できぬものかと、焼却物を混ぜ返していて、発見したものである。この資料A「一札の事」は蔵之谷面屋のマンなる女が四国遍路に旅立つ際、観音寺の住職が 0 0 島前の文化財 7 48 35 マンの為に書いた宗旨証文であるが、これによれば宇賀、蔵之谷の両部落民が観音寺の檀家であったことが判り、時の住職が‘政宣’であったことも判る。宇賀、蔵之谷両部落は明治維新までは一単位の部落であった。(資料A解読)一隠州島前知夫 0 0 島前の文化財 7 48 42 里郡宇賀村女マン代々浄土宗拙寺旦那に紛れ御座無く候然る処右之者四国遍路に罷出候若し此者何国にて相果て候共結縁を以て御回向成され下さる可く候尤も此方御届けに及ばず候右御頼み申度此の如くに御座候、天明八年、(注、一七八八)申三月 0 0 島前の文化財 7 48 49 知夫里郡宇賀村、観音寺、政宣。諸国所々、御寺院御衆中。資料以下(Fを除く)は西ノ島町宇賀、宇野一氏宅に於て発見したものである。資料Bは宇野一氏の祖先弥市郎が観音寺の崖下の畑を同寺に条件付で寄付している。それは当時の社会体制、 0 0 島前の文化財 7 48 57 法制上の制約からして止むを得ないことであった。明治維新までは土地は領主のものであるとの観念から又田畑永代売買禁止令、分地制限令等によって、殊に農地は自由に処分できなかったので畑は資料B追て書の通り除外したものであろう。住職は 0 0 島前の文化財 7 49 1 資料A、資料B、資料C表、資料C裏 0 0 島前の文化財 7 50 1 資料D1、資料D2、資料E、資料F1、資料F2 0 0 島前の文化財 7 51 4 覚誉和尚であったことが判る。(資料B解読)永代指上(差上げ)申す畑の事。一寺崖の下の畑、縦三間二尺、横四間五尺の場所也。右畑永代差上げ申す所は私親浄林斎米(ときまい)の為に上げ申し候然る上は重ねて如何様の新儀出来候共父親の菩 0 0 島前の文化財 7 51 12 提の為に指上(差上げ)申す上は子々孫々に至る迄一言の仔細申す間敷候後日の為に仍て手形如件。享保七(注、一七二二)寅正月十七日。地主大字宇賀、弥市郎。弟、徳千代。同、乙次郎。観音寺、覚誉和尚様。私持ち頼り候屋敷何方へも永代売り 0 0 島前の文化財 7 51 24 申候共右差上げ申す場所(注、畑)は除き申す可候己上。弥市郎。寅正月十七日、観音寺様。資料C表面は文化一〇〜一一年にかけ徳田屋林太夫が短時日の間に次々と子供三人を亡くし、これが菩提を弔うために別府相牧の「いなが谷」の松山一カ所 0 0 島前の文化財 7 51 33 の内の三分の一(分米二斗八合三勺に相当分)を観音寺に寄付し、その代りに毎年十夜の際には、この三人の子供の為に諷誦(ふじ)を一本づつ上げて貰いたい、ということであり、資料C裏面は明治初年の廃仏廃寺により右松山が寄附の目的を果た 0 0 島前の文化財 7 51 39 されなくなったので明治五年宇賀村役員(即観音寺檀家役員でもあったであろう)は寄合を開いて松山を元の所有者へ戻した恰好にしている(実際は部落共有にした)(資料C表面解読)永代時(斎)米料に上げ置候松山の事。別府村相牧の内、いな 0 0 島前の文化財 7 51 47 が谷、三分の一。一松山壱カ所の内、分米二斗八合三勺但し暁夢童女、秋露童女、稚性童子、右の畑(松山)三人の戒名の者菩提の為に此度家内相談の上永代に上げ置候所実正に御座候然る上は御役目として毎年諷誦一本宛御勤め下さる可く候右松山 0 0 島前の文化財 7 51 53 に付私儀は申すに及ばず子孫の末に至る迄聊も申分御座無く候永代証文仍如件。文化十二年(注、一八一五)亥正月。宇賀村徳田屋、本人、林太夫。同、観音寺。(資料C裏面解読)一隠岐国両島一円廃寺廃仏に相成り候節、寺へ斎米料として上げ置 0 0 島前の文化財 7 51 63 き申し候畑、元戻しに相成り其時に此証文戻り申し候。左候得共畑は地元へ所持致し候訳也。明治五年申二月二十八日村役一同寄合取調の上にての事也。資料D1、2を見て、昔の旅行許可手続の順序、方法が判り面白い、先ず本人が旅行しようとす 1872 228 明治5年 島前の文化財 壬申 7 51 70 れば所属寺の住職が代官宛に、本人の宗旨証明と併せ身元引受を保証し、これに基づいて年寄と庄屋は連名で大庄屋に対し、本人は流人の子孫ではない、ことは私共が保証するから、本人に対し往来手形が下付されるよう取計って貰いたいと上申する。 0 0 島前の文化財 7 51 75 大庄屋は更に、これを代官に対し進達し然る後、代官から本人に往来手形が下付されたことが判る。又この資料によれば屡人の子孫は旅行ができなかった、もののようである。(資料D1解読)宗旨証文。知夫里郡宇賀村伊平太宗旨代々浄土宗当寺の 0 0 島前の文化財 7 52 8 旦那に紛れ御座無く候就ては若し宗門に如何様の儀出来仕り候共拙僧罷出申し披く可く候依而宗門請状如件。嘉永五(注、一八五二)子七月。宇賀村、観音寺。滝川八郎太夫殿。注、滝川八郎太夫は当時の代官である。(資料D2解読)奉願往来御手 0 0 島前の文化財 7 52 17 形之事。一知夫里郡村、伊平太、年数六十二。右之者宗旨浄土宗当村観音寺旦那に紛れ御座無く候然る処此度出雲順礼として渡海仕り度く願い奉り候間海陸御関所通行御手形を遣わされ下され候様仰せ上げられ下さる可く候尤も此者は流人の子孫にて 0 0 島前の文化財 7 52 23 も御座無く候に付私共請合い判形仕候仍而如件。嘉永五年子七月、宇賀村。年寄、幸左衛門。庄屋、安太郎。大庄屋八郎左衛門殿。注、八郎左衛門は西ノ島町市部、笠置真風氏の祖先である。資料Eによれば観音寺は枇杷牧に丸込を持って、いたこと 0 0 島前の文化財 7 52 33 が判る。丸込(まるこめ)とは牧畑の中の一部を柵垣で囲って耕作する場合をいうのであるが、枇杷牧の丸込は距離が遠くて不便でありましょうから私(幸左衛門)が寺の上の次兵衛屋敷を半分買受けましたので交換して上げましょう。そして次兵衛 0 0 島前の文化財 7 52 38 屋敷に関わる役目(夫役)は私に於て果します。なお貴寺の枇杷牧の丸込の役目(貢租)も引受けて減らして上げましょう。ということであろう。(資料E解読)替地証文の事。一寺上次兵衛屋敷を二分し私買受(請)候所此度貴寺枇杷丸込と替地仕 0 0 島前の文化財 7 52 45 候所実正明白に御座候向後此畑に付子孫に至る迄異論申す間敷候御役目の儀は拙者、次兵衛屋敷之役目仕候貴寺に於ては枇杷の畑役目御勤め減らさる可く候仍而替地添証文而如件。安政六(注、一八二三)未十一月。本人。幸左衛門。請人、茂左衛門。 0 0 島前の文化財 7 52 55 同役年寄、平太夫。観音寺。資料Fの詳細については島前の文化財第三号一七頁〜一八頁を御参看願いたい。これは島前文化財専門委員田邑二枝氏が島前の文化財第三号に「幻の綸旨」として発表された観音寺関係の資料であるが、F1によれば当時 0 0 島前の文化財 7 52 63 の住持が相誉国那上人であり、文久三年(一八六三)十月朔日知音院末寺観音寺住持相誉上人宛として権右中弁勝長なる者から資料F1を封皮とした三通の文書を受けているが、観音寺では更に、これを別の封書に包み、その封皮に「綸旨」の表書( 0 0 島前の文化財 7 52 68 資料F2)をしている。この内容の文書中には綸旨の字句がある。以上の断簡により徳川時代の観音寺のアウトラインを略々掴むことができる。同寺の徳川時代の約二〇〇年近くの間には幾多寺勢にも盛衰があったのであろう。一般庶民(農民)分段 0 0 島前の文化財 7 52 75 生死(過去の善悪の報いに応じた寿命にも長短がある)を信じ、浄罪を願い、寺院の為に屋敷(野菜畑でろう)や松山を寄附したり(右資料は、その一部分であろう)して観音寺は、さして貧乏寺でも、なかったように思われる。次は観音寺の規模で 0 0 島前の文化財 7 53 5 あるが、明治初年の廃仏廃寺直後の資料によれば東西五間、南北九間とあり、相当規模の建物であった(資料については後述する)。恐らく本堂、庫裡兼用で他に附属建造物は、なかったようである。観音寺建物そのものは徳川時代が約一八〇年、明 0 0 島前の文化財 7 53 11 治時代が約三〇年(その間小学校に使用)計約二一〇年間耐用した訳だが、この建物は終局的には明治三十一年宇賀天神社屋敷(大字宇賀一一二四番地)に宇賀尋常小学校が新築された際、解体して、その新校舎の一部に使用した、とのことであるか 1898 0 明治31年 島前の文化財 戊戌 7 53 16 ら木造構造物の耐久性を考え、徳川時代に観音寺は一回乃至二回は建替えられたものと判断される。明治時代の観音寺。(イ)旧観音寺建物の成行。明治二年(一八六九)隠岐を襲った廃仏の波は観音寺も避けて通る訳には、いかなかった、だが幸い 0 0 島前の文化財 7 53 24 にも観音寺は焼失を免れた。しかし若干の破壊は蒙ったであろう。それは現在の観音寺庭の石地蔵(旧観音寺庭から移転したもの)(一部は石仏(いしぼとけ)に移したという)を見れば想像がつく、満足なものは一体もない、これは廃仏の際の旧観 0 0 島前の文化財 7 53 29 音寺の被害状況を物語っているようだ、しかも観音寺は、その上寺院の象徴である仏像をも失ったのである。隠岐は明治初年から九年までの間鳥取県の管轄区域であったが、翌十年には出雲、石見、隠岐、伯耆、因幡を含めた山陰県とでもいうべき大 0 0 島前の文化財 7 53 35 「島根県」が誕生した。新たに誕生した島根県は、従来鳥取県の管轄に属していた隠岐の実態を把握するために隠岐の各町村に、その報告を命じた(明治十年)。各町村は報告書を島根県隠岐支庁に提出したが、その報告書は翌年(明治十一年)「隠 1878 0 明治11年 島前の文化財 戊寅 7 53 40 岐国町村誌」として取纒められた。その中に「明治十年観音寺所持地取調帳」というのがあるが「大字宇賀一屋敷五畝拾三歩故境内当時小学校支校」(注、同寺は明治七年宇賀校支校に接収された)とあり、又同十年各町村より提出された右報告書中 1878 0 明治11年 島前の文化財 戊寅 7 53 46 には「観音寺は、明治四年廃寺、東西五間、南北九間、村の東方にあり、現今帰俗の小谷初太郎居住、傍を小学校に用ゆ」とある(「黒木小学校百周年記念誌」一二〜一三頁、笠置真風氏稿参看)。因に小谷初太郎は旧観音寺最後の住職で、その居住 1871 0 明治4年 島前の文化財 辛未 7 53 52 跡は、旧観音寺跡北隣に小谷屋敷(大字宇賀九三四〜九三五の二番地)として残っている。(ロ)現在の観音寺建物。明治二年の廃仏、同四年の廃寺により旧観音寺は寺院としての、その主体性を失った。当時宇賀部落に岩倉茂十郎なる人物がいた、 0 0 島前の文化財 7 53 59 茂十郎は二十三才で宇賀、蔵之谷両部落の年寄役を勤めた人物であるが明治二年本人三十九才のとき廃仏騒動が起ったが本人は身を挺して観音寺の仏像を隠匿した。「くばくの期間隠匿したかは不明であるが、廃仏騒動の興奮は、さして永続きはしな 0 0 島前の文化財 7 53 64 かった。ようである。口承によれば廃仏直後、廃仏先導者達には次々災い(盲になったり、発狂したりして)が訪れ、民衆は仏罰の恐ろしさに戦(おのの)いたり、とのことであるから、廃仏の熱(ほとぼ)りは意外に早く冷めたものと想像される。 0 0 島前の文化財 7 53 69 又明治十年には各町村よりは寺院復活の嘆願書が出されたとのことである。茂十郎は廃仏の熱りが冷めた頃を見計って大字宇賀一一五八番地の一(平ノ上)に現存の観音寺(東西五間、南北三間)を個人で建立し、隠匿の仏像を、そこに安置した。そ 0 0 島前の文化財 7 53 75 の仏像は大正四年までの約五〇年間地域民衆の信仰の対象として経過した。大正昭和時代の観音寺。大正四年観音寺の主寺(観音寺は無住、無檀家だったので)別府所讃寺(当時一般は旧名地福寺を呼んでいた)の住職加藤天竜氏と観音寺を相続所有 1915 0 大正4年 島前の文化財 乙卯 7 54 3 していた茂十郎の子重太とは如何なる理由か不仲となり、重太は所讃寺の所属を脱して海士町東の西明寺(浄土宗)の系列に入った。重太は西明寺住職田中大道氏と謀り観音寺の仏像(三体一セットで中央の仏像は立像で小学一年生位の高さであった 0 0 島前の文化財 7 54 9 =宇賀木野福市氏談)と涅槃(ねはん)図の掛軸を京都の仏具商に売却し、その代替として購入したのが現在の阿弥陀如来立像と涅槃図の掛軸である。従来のものに比しチャチなものであることは言うまでもない。現在の観音寺は一個人が建立した堂 0 0 島前の文化財 7 54 14 宇で規模も小さく住職が居住するには快適とはいえず、殆んど無住に近かったが、それでも時折住職らしき者が居住した。砂原寛政氏も、その一人である。その子女の多くは同寺に於て誕生した。同氏は後に海士町中里の源福寺に移られ、然る後西郷 0 0 島前の文化財 7 54 20 町指向(港町)和合林の住職として了えられた。昭和十年筆者が大阪に在職していた頃筆者の許へ宇賀部落会長宇野俊三郎氏より「観音寺は現在荒廃し雨漏れも甚だしいから同寺を部落に寄附しては如何、さすれば部落民一同で奉仕修復するから」と 0 0 島前の文化財 7 54 26 の要請を受けた。筆者(家督相続により堂宇の所有者になっていた)は、それに応え、堂宇(土地一〇七坪は大正十一年十月部落へ既に寄附済)を宇賀部落へ寄附し今日に至っている。(昭、五二、四、10、稿)追手。現在まで判明の観音寺歴代住 1922 1000 大正11年 島前の文化財 壬戌 7 54 33 織を、ここに揚げたるも、不詳者なお七名あり。一代=清誉伝了禅師(年不詳、6、15命終)二代=不詳。三代=不詳。四代=□蓮社高誉上人岳晋和尚(元禄6、□、6命終)五代=木蓮社秀誉吸道察伝大徳(元禄12、1、25命終)六代=不詳 0 0 島前の文化財 7 54 44 。七代=不詳。八代=覚誉(享保7、1、17存命中)九代=不詳。一〇代=政宣(天明8、3、0存命中)一一代=不詳。一二代就察蓮社□誉大和尚(文政4、1、13命終)一三代=光蓮社明誉覚冏和尚(文政13、7、14命終)(現命22才 0 0 島前の文化財 7 54 52 、宇賀徳田屋出身)一四代=不詳。一五代=観蓮社常誉上人住阿的全大和尚(万延1、8、14命終)一六代=相誉国那上人(文久3、10、1存命中)一七代=小谷初太郎(廃仏後、明治4、還俗)(昭、五二、五、一七調) 0 0 島前の文化財 7 55 1 隠岐の山桜、木村康信。今年春の低温が続いた為か、大方の山桜が里の染井吉野とほとんど同時に咲き出した。早咲きから遅咲き、次々に咲いて花期は長い。あんなところにと思われるような所からも咲き出し、人の足をとめる。今年は三月二十七日 0 0 島前の文化財 7 55 8 焼火 から咲き始め約一ケ月間次々と咲いていた。木々によって花の色も、新芽の色も多種多様だ。西ノ島の山桜を観ていて面白い事が分かった。焼火山系の中央部に多く、東部、西部が輪転式の牧畑でその当時は耕して天に至る式に山頂まで耕作された牧 0 0 島前の文化財 7 55 14 薪・木炭 畑が植林されて現在に至ったからである。中央部は大昔から薪炭用の雑木山が多く植林の進んだ現在も尚残っているからである。薪炭用に伐っても萌芽して可成原生形態が残るので、この事が山桜だけでなく、島前でもここだけといってよいほどクロ 0 0 島前の文化財 7 55 20 ベの群生もある。西部でも浦郷薄古の山の雑木の残った所には可成の桜があり中には大きい木もある。東部にしても里近くの雑木の中には美しく咲き出す。この事からも分かるように隠岐全島に山桜は多く分布している。しかし巨木はあまり残ってい 0 0 島前の文化財 7 55 25 ないようだ。私の知った限りでは島後で目通径一メ−トル余あったが製材されていた。この様な大木は隠岐には今残っていないと思う。今残っていて県天然記念物の指定を受けているのは西郷町中村建封寺跡の世間桜(ヨノナカザクラ)二本がある。 0 0 島前の文化財 7 55 31 男桜は白花で目通周四メ−トル、女桜の方はピンクの花で目通三、二メ−トル、共に大木であるが木は空洞が出来ている。年令は六五〇年と言われている。山桜は皆このように長命かと言うとそうでもないらしい。この指定を受けている二本の桜はエ 0 0 島前の文化財 7 55 36 ドヒガン。アズマヒガンなどと呼ばれるもので花はヒガン桜とよく似ている。四月のはじめ頃咲き出し美しいので県下でも栽植され観賞されている。しかし隠岐では自生のエドヒガンは今年まで発見されていなかったが今回四月十一日小向区有林の中 0 0 島前の文化財 7 55 42 で美事に咲いた三本立の一株を発見する事が出来た。その後西の島のを調査して大山区にも二本ある事を発見した。すづれも壮年の木である。島前に大木がないのは薪炭用に切る為である萌芽すれば残るが萌芽しないと滅亡する。この桜の名木には神?",",",0,0 56 6 101" 島前の文化財 7 56 12 見事な山桜があって毎年のように花を採って観賞していた。あまり見事で調べて見るとこれも今まで隠岐で知られていなかった紅山桜である。又花が大きいのでオオヤマザクラとも北海道に多いのでエドヤマザクラとも言われている。これも西ノ島を 0 0 島前の文化財 7 56 17 調べて見ると浦郷赤之江入口県道カ−ブ手前の崖の上、赤之江奥松林の際に有る。共に壮年の木で花は美しい保存したいものである。新潟県には周四、二メ−トルもの大木があり花は大きく径が六センチメ−トルもあると言う。普通の山桜の花色、芽 0 0 島前の文化財 7 56 23 色は種々あって区別は難しいがこの内にカスミ桜がある、新葉と共に咲き出し淡いピンク、又は白花で花は小さい方である花梗や葉柄に毛がある。山桜にはぼとんど毛はない。このカスミ桜も長命で大木になるものがある。山形県に高さ二八メ−トル 0 0 島前の文化財 7 57 3 、周四、六メ−トル、樹令三〇〇年と言うものもある。山桜の分類は難しい、交雑品が出来易い為かと思う。隠岐の島は松の島になってしまった様だが前記の様な萌芽林も若干残っている為に鳥のカラスバトも生存しているし、山桜もこのような珍品 0 0 島前の文化財 7 57 9 が生育している是非残したいものだ。日本は草もさくらと咲きにけり。と桜草も愛し、戦前の小学生の帽章、ボタンも桜であり、大和心まで桜で表現され、戦後は桜花見見物に一億総出動の如く、テレビで開花を知らす様であるが、実際日本人と桜は 0 0 島前の文化財 7 57 15 どうなっているのか。この疑問は方言を探って分った。山桜の方言は隠岐には無い様だ。全国でも木としては少ない方で「カンバ」「カバヌキ」と二つある。それもどうやら皮の方が主となった方言らしい。皮の方を「カンバ」と言うのは山梨、飛騨 0 0 島前の文化財 7 57 20 、福井方面で「カバヌキ」山桜を指さすのは佐渡、富山、徳島祖谷、奄美大島との事である。又名がのの上田地方では白樺を言うとある。共にその特徴のある皮から名が出たものと思われる。これは庶民の実生活より生まれた皮の利用から来た方言で 0 0 島前の文化財 7 57 26 ある。一方これと反し「花」「木の花」「花の木」「花王」「花の王」「国花」又異名として夢見草、曙草、しののめ草、かとり草、もよい草、あだな草、かざし草、はるつげ草、七日草、さらし草、他名草、尋見草、他夢化草、よしの草、いろみ草 0 0 島前の文化財 7 57 31 、つまこい草、など大変御億の名があるが、これは食うに困らぬ方の人から出た名である。サクラの語源は色々と説があるが長くなるので割愛する。山桜の利用は種々あるが庶民には曲木細工の昔なつかしいメンツ、メッと言われた木製の弁当箱やオ 0 0 島前の文化財 7 57 37 ロシと言った木製の篩、箕などの接着結着用に桜の皮を器用に使うしこれがなくてはあの様な器物は出来なかったと思う。又皮は染料にもしている。しかし文化はこれを多用した。材は木理が細かいので版木としての最高品であり大いに利用された。 0 0 島前の文化財 7 57 42 又家具、彫刻、茶道具、楽器などにも用いられ褐色の木理の細やかさは光沢を放ち、工作は易く狂いも少いなどの利点が多い。この様な実利の面も大いあり、又観賞による文学、芸術、工芸の発達は言うまでもない事である。その根源になったサクラ 0 0 島前の文化財 7 57 48 の代表的なものの生育しているを文化財として記念し保護する有形無形の文化財は多い。三好博士は桜観賞の歴史を次のように分けている。上古奈良時代−野生種観賞時代中古平安時代−種植時代、近古江戸時代−品種生成時代。近世−科学的研究時 0 0 島前の文化財 7 57 54 代。花より団子−旬を待たず、店頭に並べられ、甘党を誘惑する桜餅、何とも言えないほのかな葉の香り、大島桜の葉の塩漬が多用されると言う。香りの成分はクマリンだと言う。桜湯の塩味のきいた特有な香気と碗に開いた八重桜はいつ頂いてもお 0 0 島前の文化財 7 57 60 目出たい気分になる。鎮咳薬のブロチンはなつかしいが今は桜からとる事はないとの事だ。先年吉野山へ行った一目千本とはよく言ったもの山桜は多い、季節になると後楽の客が多いとの事、店を廻って名物を見ると皮細工があった。茶托、や茶入な 0 0 島前の文化財 7 58 3 ど見事な出来で価もなかなか高価であった。今は接着剤が良いのでこれの利用は多用されているようであった。その名も染井吉野と言う桜は近年多く植えられて、桜名所の桜は皆これと言ってよい程だ。テレビで桜前線の目安もこの桜で、吉野山の桜 0 0 島前の文化財 7 58 9 の様な錯覚をの向もあるがこれは山桜でなく江戸時代の末期に交雑品種として出現しその花期と言い、派手は花、生育が早く栽培、増殖が容易と三拍子も四拍子も揃って現在の様に日本各地に植えられた。何にでも功罪はある。欠点は短命な事だ。二 0 0 島前の文化財 7 58 14 〜三〇年を最盛期とし五〜六〇年は老衰期になる。それと満開を期待していても数年前の様に野鳥のウソに蕾を食われて咲ない事もある、これは野鳥の餌の少なくなる季節に染井吉野の芽が充実しこの鳥の狙うこととなるらしい。尚これは桃の花蕾も 0 0 島前の文化財 7 58 20 餌にする。桜にも病害はるが自然林中ではあまり見かけない。植えられた桜ことに染井吉野は多いので目につくのが天狗巣病がある。これは小枝が出来て何かが巣でも作った様に見えるので分かる。その他の病気も多いので薬剤防除は欠かせない。植 0 0 島前の文化財 7 58 25 えるからには放置する事は禁物である。これも染井吉野の寿命を短くしている原因のひとつである。桜の名木は神社、仏閣に保護されたものが多いが隠岐で指定を受けたのは前述の中村元屋のエドヒガン二本だけである。寺のは明治初年の廃物騒動の 0 0 島前の文化財 7 58 31 折に共に滅亡したのか、とも考えて見たが、そうでもない神社などにも少ないようであるから隠岐の桜文化の花は未開であったと言うべきか。美花の紅山桜。エドヒガンも存在する事が分り長命の木でもあり保存保護を計るのも遅くはない。カスミ桜 0 0 島前の文化財 7 58 36 にしても長命で巨木にも成り新葉と共に咲き出す風情も妙である。これ等山桜は苗を植えても染井吉野の様には急速に咲き出さない、花の盛りとなるには年数を用する。今ある桜を残すようにしたら隠岐島は数千本の名木の島となる事は間違いない。 0 0 島前の文化財 7 58 42 木炭 紅山桜の実生苗を七本作ってあるので、これを記念にしかるべき所を求めて植えたいと思っている。エドヒガンも何とか繁殖を計りたい。桜調査に廻っていたら秋の紅葉も残してほしい。昔も心ある人は薪炭用にもこの桜、紅葉の二種は残すようにし 0 0 島前の文化財 7 58 48 たものとの話もあった。何にしても隠岐の自然は保存したいものだ。 0 0 島前の文化財 7 59 1 隠岐の古私札、竹谷素信、松浦康麿。(一)江戸時代に発行された紙幣を総称して「古札」といっているが、これには「藩札」と「私札」の別がある。「藩札」は幕府の許可を得て藩が発行したもので寛文元年(一六六一)福居(井)藩に於て「銀札 1661 0 寛文元年 島前の文化財 辛丑 7 59 9 」を発行したのが初めで、それ以後各藩もこれにならって発行する様になった。(因みに松江藩では、延宝二年(一六七四)に初めて発行した。)それが文化から天保頃になると、藩や村役所等の許可を得て、社寺、豪農、商人等にも各種名目の私札 1674 0 延宝2年 島前の文化財 甲寅 7 59 15 を発行する様になった。これを「藩札」に対して「私札」といっている。隠岐は一国ではあるが、江戸時代は幕府の直轄地であったから随って「藩札」はない。「私札」で現在わかっているものは、左記の通りである。(一)雲上寺札(銭札)、(現 0 0 島前の文化財 7 59 21 焼火 焼火神社)西ノ島町。(二)蓮光寺札(銭札)、西郷町。(三)熊屋札(銭札)、布施村。(四)蛸木村札(薪札)、都万村蛸木。右の中、蛸木村のものは「薪札」であるが、この様なものは島後地区にはまだあるかも知れぬが、今の処発見されてい 0 0 島前の文化財 7 59 27 ない。又島前でも村上助九郎家等では「銀札」「銭札」等が発行されていてもよさそうであるが、これも今の処記録も札も発見されていない。(二)雲上寺札。(一)銭百文札(図一)(二)銭五十文札(図二)(イ)(1)百文札には、図柄が二種 0 0 島前の文化財 7 59 35 ある。発行は安政五年四月が始めてで、以下資料に示す如く。文久三年六月まで数度にわたって発行した。私札には各種の名目がつけられているが、「神酒預券」というのは他に例がなく珍しい名目である。(2)五十文札。大小の二種ある(図二) 1858 400 安政5年 島前の文化財 戊午 7 59 41 は小札。(大札の方は一六、七cm×三、七cmある)五十文札の発行は文久元年十一月が始めである。(3)通用は島前全域。(ロ)発行の手続等に関する資料は残っていないが、明治四年浜田県より発行高等に対する調査があり、その控が残って 1871 0 明治4年 島前の文化財 辛未 7 59 49 いる。それによると、覚。神酒預券。一、三千四百九十六貫文、是ハ安政五午年四月出高。右同断。一、千三百三貫文、是ハ安政六未年出高。右同断五十文札。一、四百十五貫六百文、是ハ文久元酉十一月出高。右同断百文札。一、四百九貫五百文、 0 0 島前の文化財 7 59 63 是ハ右同断。右同断五十文札。一、五百五十二貫四百五十文。是ハ同年十二月出高。右同断百文札。一、三百貫文、是ハ右同断。右同断五十文札。一、四百七十三貫五百五十文、是ハ文久二戌年六月出高。右同断。一、九十八貫三百五十文、是ハ同年 0 0 島前の文化財 7 60 6 十一月出高。右同断。一、四百四十七貫百文。是ハ同年十二月出高。右同断百文札。一、百十九貫六百文。是ハ右同断。右同断。一、二百九十九貫文、是ハ文久三亥年三月出高。右同断五十文札。一、二百七十四貫二百文、是ハ右同断。右同断。一、 0 0 島前の文化財 7 60 20 焼火 四百十九貫七百五十文、是ハ同年六月出高。〆八千六百八貫六百文。(引揚高、畧)右者神酒預券出高引揚高等之御儀御尋被仰付候ニ付委細取調候処書面之通相違無御座候。以上。明治四年辛未四月、知夫郡美田村焼火神社神主、松浦斌。浜田県出張 1871 400 明治4年 島前の文化財 辛未 7 60 30 所。以上の如く、安政五年、同六年、文久元年、同二年、同三年と合計八千六百八貫六百文の銭札をはっこうしていた事がわかる。処が明治二年、隠岐県当局より、雲上寺札の通用を禁止した。そこで現在通用の高を報告するθ共に引上げに取かかっ 1869 0 明治2年 島前の文化財 己巳 7 60 36 たのである。覚。神酒預券。一、八千六百八貫六百文、安政五午年より寅年春迄ニ仕出高、其暮より急度止留仕。内二千九十五貫五百五十文、寅年暮より少々宛引上之分。残六千五百十三貫五十文、当時世間ニ通用有之分。此引替之手当ニ大小之杉立 0 0 島前の文化財 7 60 47 山ニテ立木ニテ売立之積リ。一、杉代、六千五百六十貫文、手当之分。右之通乍恐書上申候間可然様御願申上候以上。島前美田村。雲上寺。明治二巳年五月、御役所様。右によると既に慶応二年より引上げにかかっていた様で、明治二年五月現在で通 1869 500 明治2年 島前の文化財 己巳 7 60 57 用のものは六五一三貫五〇文で、これに対する引当として寺有山林の杉立木を売却してこれに当てることにした。(杉立木見積書別冊にして添付)然し乍ら短日の間に引替えを行うことは不可能であったので、引換延引の願書を提出して許可を得た。 0 0 島前の文化財 7 60 64 奉願口上之覚。私共先年より等島為通用神酒預券札相弘罷在候処、今般引替之儀被仰出御尤之御午奉承知、則引当之材木等帖面ニ相認先達而差上置候ニ付、追々売払引替候積ニ御座候処、当年ハ年柄モ不宜ニ付而ハ売払方等甚六ケ敷、勿論少々売払候 0 0 島前の文化財 7 60 70 而も金札ハ無御座、二分金之儀ハ双方共不通用ニ付、大ニ差閊難渋罷在候。依之近頃奉恐入候得共以御憐愍当年中引替之儀御延引被仰付被為下候様奉願上候。以上。知夫郡美田村、松浦左京。明治二年巳八月。御裁判所。貨幣不融通ニ而引換難相運ニ 1869 800 明治2年 島前の文化財 己巳 7 61 2 ヨリ、当年中延期之趣、無拠次第柄ニ而、聞届候。乍併才覚ヲ以精々相働、材木ヲ板材ニ拵へ都会之地へ積出し、米穀と交易いたし処及力急速ニ、引換候様心懸可申候事。然し又、明治四年にも再度浜田県に対し引揚高等についての委細の報告書を提 1871 0 明治4年 島前の文化財 辛未 7 61 9 出している。それによるとこの時点でも六〇四一貫文が残っていて、結局全部の引揚げが完了したのは其の後すくなくとも二、三年を要したと思われるが資料が残っていないので明かでない。 0 0 島前の文化財 7 81 1 江戸時代島前村々神社、祠の祭日。海士町村尾家に「隠州風土記」天保四年七月と奥書のある記録が保存されている。現在手元に写しが無いので、内容の詳細に就いての紹介は出来ないが、右の中から、「神社の祭日」の項のみ抄録しておいたものが 1833 700 天保4年 島前の文化財 癸巳 7 81 8 あるので資料として掲載した。この神社一覧は、集落の氏神も路傍の小祠も一律にあつかわれているので、現在の神社と比較する場合解りかねる点もあり、註記をするのが親切であるが、その暇もないまま、一覧としてあげるに止めた。この時代の人 0 0 島前の文化財 7 81 14 々は小祠であっても一年一度のお祭をしていた事はこれによってわかる。祭日はすべて旧暦であるが、明治の改正の際月を一ケ月遅らせたのが現在の祭日である。然し現在日の変ってしまった神社も相当ある。松浦康麿。海士郡海士村。諏訪大明神、 0 0 島前の文化財 7 81 21 正月十一日、六月二十八日、九月十九日。新宮大明神、正月十六日、六月二十九日、九月二十九日。渡大明神、六月二十九日、九月二十九日。神宮権現、九月十一日。惣社大明神、六月二十八日。十二社権現、六月二十八日。天神宮、六月二十七日。 0 0 島前の文化財 7 81 30 神楽 同郡宇津賀村。宇津賀大明神、正月十一日、神楽始。正月十八日、五穀豊饒祈願。四月初卯、早苗開。六月十一日、大祭。九月二十九日、御座替神事。十月二十九日、御座入神事。漁津大明神、霜月二十八日。八幡宮、八月十五日。客大明神、九月十 0 0 島前の文化財 7 81 39 四日。同郡豊田村。柳姫大明神、六月十一日、十月十日。大歳大明神、六月十一日、十月十日。月輪大明神、六月十日。鹿島大明神、六月十日。同郡太井村。那須大明神、六月十八日、十月十八日。御崎大明神、六月十八日、十月二十八日。同郡布施 0 0 島前の文化財 7 81 48 村。日御崎大明神、六月十三日、九月二十八日。稲荷大明神、二月初午、六月十九日、十一月朔日。八幡宮、六月十九日、八月十五日。高田大明神、六月十七日、十一月二十九日。渡大明神、六月十七日。大歳大明神、ナシ。熊野三社権現、六月十九 0 0 島前の文化財 7 81 56 日、十一月朔日。同郡崎村。客大明神、六月十六日、九月二十八日。高田大明神、六月十六日、九月二十八日。住吉大明神、六月十五日、十一月初午。帝釈大明神、六月十五日、十一月初午。三保大明神、六月十五日、十一月初午。同郡福井村。十二 0 0 島前の文化財 7 81 64 社大権現、六月十二日、九月十二日。御蔵大明神、六月二十一日、九月二十一日。家督大明神、六月二十一日。日吉大明神、ナシ。同郡知々井村。天満大自在天神、六月二十五日。熊野山大権現、三月三日。渡大明神、六月十五日。客大明神、六月十 0 0 島前の文化財 7 81 72 五日。八幡宮、八月十五日。十二社大明神、六月十五日。知夫郡知夫村。一宮大明神、正月二十九日、二月初午、二月二十九日、六月十五日、八月十五日、九月初午。(八ペ−ジの二段目に続く)(八一ペ−ジより)九月中午、九月二十九日、十月二 0 0 島前の文化財 7 83 1 船玉神のいしぶみ。船舶の守護を祈る船玉神は、古く延喜式神名帖に摂津国住吉坐神社の境内に船玉神社として祀られているのが有名であるが、普通に船霊様というと、船大工が造船に当って秘儀によって御神体(賽、人形、女の髪毛、銭等)を封じ 0 0 島前の文化財 7 83 5 焼火 込める。これにさす場合と、一方、「日本船路細見記」等には全国の有名な船神様を「船玉大明神」と称えた様な例もある。その中には焼火権現も入っていた。同社の場合は焼火神そのものが、船神として崇敬されているから、別に神を祀らなくても 0 0 島前の文化財 7 83 10 よい様に思うが、この時代には別に祀った方が信仰者にとっては安心したものであろうか。その顕れがこの碑であると思われる。又こうした時代に生まれたのが、同社に保存されている「船玉大明神縁起」であったろう。これに就いて述べると長くな 0 0 島前の文化財 7 83 13 るので略するが、その文中に「諸神十二体拝まれ給ふ云々」とあり、その十二神とは住吉大明神、薬師如来、釈迦如来、勢至菩薩、大日如来、千手観音、文珠菩薩、虚空蔵菩薩、天照皇大神、春日大明神、八幡大菩薩、大辨財天をいい、これを総合し 0 0 島前の文化財 7 83 17 て「船玉大明神」と称している。勿論神仏習合時代のものではあるが、今の観念からすると誠に不思議に思はれるかも知れぬが、この時代にはこの様な形が最も民衆に受入れられ易かったのであろう。これは日本人の信仰の在り方を端的に表して居り 0 0 島前の文化財 7 83 21 、大変面白い。然しこうした信仰は民衆の間には過去のものではなく今も信仰として続いている。されば単に面白いといって済まされる問題ではない。碑文。正面、船玉大明神守護。側面、維寛政八丙辰天、六月大吉日。台座、嶋前船持中、とある。 0 0 島前の文化財 7 83 29 焼火 大きさ、総高一二〇センチ、巾四二センチ、厚さ二七センチ。場所、隠岐郡西ノ島町焼火神社境内。(解説、松浦康麿、拓本、淀重美) 0 0 島前の文化財 8 78 1 焼火 廻船遭難碑。焼火山近世年表文政四年の項に「八月十五日大風廻船数百破船舟人多ク死ス」とある。隠岐は稀な大暴風であった。丁度この時松前(北海道)から大阪へ向けて航海中の橘屋自在丸外六隻の船団が国賀の沖合で難破し船もろとも乗組員全員が哀れ藻屑と化してし去った 0 0 島前の文化財 8 78 3 焼火 。浦郷の村人は船の残骸と海死の人々に目を掩ったが、一方流れ者を拾い集め、中には死者の持ち金までぬき去った者もあったという。ところがやがて次々と怪異がおこり祟りが続いて断絶する家も出た。当時「怨みの時化」と唱えて殊に廻船の船人達が警戒する様に 0 0 島前の文化財 8 78 5 焼火 なったという。この海死者の鎮魂慰霊の為国賀沖を見晴かす焼火山に碑が建てられた。塔身七角形の一面に一船づつ刻銘。その七隻は、橘屋自在丸、龍甲丸、住栄丸、龍玉丸、福寿丸、伊勢丸、大和屋明永丸である。総高2・65米。御影石製、台座は蓮台共四段、隠 0 0 島前の文化財 8 78 7 焼火 岐では最も大きい碑である。台座には文政四辛巳年八月十五日、堀達とある。堀達は建碑者で、大阪の船問屋である。詳しくは「浦郷町誌」「隠岐の石造美術」を参照されたい。(拓本・淀重美・解説・松浦康麿) 0 0 島前の文化財 9 1 1 島前の植物方言とこれに関連する習俗について。木村康信。一、田に敷込む緑肥植物。二、入合地、海の産物を一斉に採りに行く事を「ス」がたったという。三、秋季刈干にする植物。四、田圃の雑草。五、植物方言名。一、田に敷込む緑肥植物。 0 0 島前の文化財 9 1 10 昨今の田のようすを見て年寄は嘆く。罰が当らにゃいいが。昔しゃ一粒でも多く米を作る為に山の奥であれ、海辺であれ、水さえあれば田を作ったもんだ。大山の奥の谷でも海辺でも、美田尻の保健所奥の山の中腹の谷の湿地にも田を作った。今も 0 0 島前の文化財 9 1 16 畦が残っている。三度へ行く途中、赤之江から登って行くと峠に出る。峠には地蔵さんが祭ってある。堀割の手前である。昔は杖の神様といった。ここを通る人は杖をこの神様に納めて行ったものだ。今は杖ノ神様である事も忘れられてしまい杖を 0 0 島前の文化財 9 1 22 納める人もなく、小さい地蔵さんが草に埋もれている。この地蔵産の西側に「タイ」がある。此頃は「鯛」の字が当ててある。このあたりの荒磯では釣人が鯛を釣って有名になっている。なるほど鯛の鼻、鯛の浜とか思われるが、実は三度の人達が 0 0 島前の文化財 9 1 27 苦労して田を作った処で、:田居:即ち田の在る処と云う意味の処である。田居の浜が正しい。三度の人達が遠い処を通って田を作った処だ。島前の山地など歩いているとこんな処にと思うような処に田圃の跡が残っている。年寄は又云う。牧畑は 0 0 島前の文化財 9 1 33 山の山頂まで作り帯の幅位な棚畑も作ったし、高崎山の崎の方は麦を作っても朝早く牛を連れて収穫に行けば一回通えば日が暮れてしまった。その様な僻地でも百姓は懸命に作物を作った。それなのに近頃は米が出来すぎて、減反政策とやらで山田 0 0 島前の文化財 9 1 38 は勿論連田でも奨励金をもらって休耕田とやらにし勿体なくも草を生して……などと愚痴はつきない。昔の田作りは百姓の命といってもよい位で今のように金肥のない頃は田作りは大変であった。稲作りと云わず、田作りと云うほどで田の中に入れ 0 0 島前の文化財 9 1 45 る肥料には苦心している。駄肥、堆肥は勿論だがそれにも増して大変なのは春の生草、木の芽を田に敷き込む作業である。春になるとこれを採集する為「ス」が立てられる。大正時代まで行われた大事な行事の一つであった。しかしこれも金肥が手 0 0 島前の文化財 9 1 50 に入るようになって廃れて来た。この「ス」はコナラのスと云われた。(スの事については後に述べる)コナラと云うのは緑肥材料の総称になっている。これについては後述するがとにかく田圃作りの基礎作業として色々な植物を採集して田の土の 0 0 島前の文化財 9 1 57 中へ鋤込み肥料とするものである。この材料は何でもよいと云うものでなく、永い伝統があるようである。そして永い伝統の間に紛れ込んだものや、又脱落したものもあるようだ。扨て田作りの季節になるとコナラの「ス」が立つ。「ス」の前にな 0 0 島前の文化財 9 1 63 ると皆がコナラ採りの準備をしてその日の来るのを待っている。コナラといっても一つの植物ではなく、島前でのコナラは緑肥にする植物の総称で、この緑肥にする植物はケ−ジ、ムシオ、ダンジリ、タズ、ソソイなどが主なものである。これ等の 0 0 島前の文化財 9 2 4 新芽を採って来て田の中に踏み込み肥料にした。美田から知夫里島まで船を仕立て、採りに行く者もあった。勿論その頃の事であるから動力船などでなくカンコかトモドで行くのである。知夫里の人に見つかったらメメめられるにきまっているがそれ 0 0 島前の文化財 9 2 9 でも採りに行く。島後の中村あたりではコナラの事をカジキと云うらしい。長野県あたりで刈敷といっているがそれの訛らしい。ケ−ジはイラクサ科のヤブマオやラセイタソウの類を呼ぶ方言で、コナラの代表的な植物で一番多く採られた草である 0 0 島前の文化財 9 2 15 。全草を根から引抜いて田の中へ敷込む、根の方は固くて肥料として不都合のように思われるが、田に入れるとよく溶けて肥料になったとの事である。面白い事にゲ−ジといっている事である。何だかこの両者には関連があるように思われてならな 0 0 島前の文化財 9 2 22 い。ムシオはイラクサ科のカラムシの事で人家の近くに多くあって繊維植物として多用された時代のあった事が推察される。ケ−ジと同類の植物なのでこれも採集されて敷込まれた。ダンジリはマメ科のウマゴヤシ又の名はモクシュクという。鳥取 0 0 島前の文化財 9 2 28 や京都の一部ではイタドリの事をダンジ又はダンジリと呼んでいる。イタドリも此の地方では緑肥材料として用いている。これも両者の間に何か関係がありそうである。タズはニワトリの事である。太い新芽が早春に出るから緑肥の材料としては大 0 0 島前の文化財 9 2 34 変都合がよい。ところによっては、この木が挿木で育つので田の近くに仕立たり、又田作の神事にこの木を使うところもあるようだが、隠岐では如何でしょうか?田作りに使うからダズクリが略されてタズになったとも思うのだが分らない。タズの 0 0 島前の文化財 9 2 40 名は古事記、万葉集などにも出ていて古典植物の一つである。万葉集にはヤマタヅ、本草和名には多都乃木とあり、この木の黒焼が骨折の薬として用いられ、接骨木などの字も当てられている。ソソイとは奇妙な呼び名の植物だがカラカサバナ科の 0 0 島前の文化財 9 2 47 ハマウド、シシウドを呼ぶ方言である。何故ソソイか分らない。ソとは磯の事をいうから(例ソナシ=磯なしの浜。ソツミ=磯が行きどまりになっている所等)磯にある、磯に関係あると云う意味か。ソイの意味は分らない。大きくなる植物で大き 0 0 島前の文化財 9 2 52 いのになると2メ−トル位にもなり、太さも大人の腕より太い位になる。隠岐で一番大きい草本である。近年流行のアシタバもこの類であるがこれは当地にはない。ソソイはこの様に大きい植物であるから一本でも荷重がありその上肥料としての効 0 0 島前の文化財 9 2 58 果もいいとて盛んに採集された。どんなに太くても草刈鎌でザクザク刈取られる植物である。扨てこのように緑肥材料の植物には数々あるが所謂る「コナラ」なる植物は出て来ない。しかし植物の名としてはブナ科のコナラがあるので調査する事に 0 0 島前の文化財 9 2 64 した。田作に緑肥を用いたのは一般的な事で山梨や長野県あたりでは緑肥として生草や木の芽、小枝を田に入れる事を刈敷とか「かるしき」「かんじき」などといっている。そしてこの刈敷の材料はナラの類の新芽が一番よいとされ、刈敷を採る共 0 0 島前の文化財 9 2 70 有の山にナラの類の木を仕立て、新芽を採っていた。ナラならばオオナラでもミズナラでもよく効いたとの事である。ナラとはコナラ、ミズナラ、クヌギ、アベマキ、カシワの類をいったものである。この事から推察出来るように田作りの緑肥はコ 0 0 島前の文化財 9 2 75 ナラの新芽を多用した地方から渡来したのにそういないが、当の島前には採集するほどナラ類が無い。陸稲が渡来した時代の島前は多分焼畑農から牧畑への時代であったのではなかろうか。兎に角山という山はほとんど牧畑で僅かに薪取りの入合山 0 0 島前の文化財 9 3 3 しか残っていなかったはずである。知夫、海士などは牧畑の柵にする木にさえ苦労したほどである。そこで野山の臭きをコナラの代用として田作り用の緑肥とした。故に島前でコナラというのはこの辺の事情からと思われる。島前にもコナラは分布 0 0 島前の文化財 9 3 8 している。樫の実のようなドングリの成る栗の葉に似た葉で木の皮はナラ類特有の皮である。海士では知々井岬などに可成あり西ノ島にも有る。しかしこの芽を緑肥として田に敷込むほどはない。この類の木をソメガワノキなどともいって根の皮を 0 0 島前の文化財 9 3 14 網などの染料としている。コナラという緑肥材料の総称としての名だけが残っている。二、「ス」のことについて。年末の海苔の「ス」は今でも皆が待っている。正月の雑煮に新海苔は欠く事が出来ないものである。今年も年末になって海苔の「ス 0 0 島前の文化財 9 3 20 」が立ったが間もなく「都合によって取り止める」と放送があって、出かけようとしていたが引き返した。何でも区内に不幸があって取り止めたとの事であった。このように天候の急変以外にも取り止めになる事もある。現在行われている「ス」は 0 0 島前の文化財 9 3 26 漁業関係だけである。海苔、若布、テングサ、ナマコの採取にこの「ス」の制度がる。又「ス」の制度も色々で「ス」の公示(今では各部落の放送によるが、その昔は役人……ヤクン……によって触れられた)の日だけ、又は時間内だけのものと、 0 0 島前の文化財 9 3 32 公示があった日以後は自由に採取出来るもの(ナマコ)があり、若布に対しては場所の指定や予告がある等の事があり、海苔については12月になると自由採取は禁止され通常は4月になると開放され自由採取が許される。今年は温冬で不作、3月 0 0 島前の文化財 9 3 37 薪 に入ると間もなく開放されてしまった。肝心の海苔が生育しない為である。昔は色々なものに「ス」があった。薪とり即ち木樵の「ス」。海藻のモバの「ス」。緑肥のコナラの「ス」。秋の干草刈の「ス」。椿の実の「アブラカス」。栗ξ「ス」等 0 0 島前の文化財 9 3 43 があった。「ス」の制度は全国的に有ったものと思われる。門外者の私にはそれの解明は無理だが山あけとか、山の口あけ、海あけとかいう言葉がこの「ス」に相当するように思われる。「ス」というが制度があるから何か適当な文字がありそうで 0 0 島前の文化財 9 3 50 あるが、菲才の私には分らない。そこで代表的な海苔の「ス」について述べてみる。美田の海苔の「ス」が立つと船越、小向、大津、市部、波止、大山、十景、美田尻の部落から海苔摘の人々が出て来る。海苔摘の場所は外浜の磯と湾の小島である 0 0 島前の文化財 9 3 55 。昔と云っても戦前だが海が凪いで来ると皆が出動の準備をする。用具は背負用のツカリ、内容品は木綿の海苔入れの袋、竹製で海苔摘専用のザル(方言ではノッツンザ−キ)1個、数枚のケンガラ(ブリキ製の皿形のもので昔は貝殻で海苔を掻き 0 0 島前の文化財 9 3 61 取っていたのでカイノカラが訛ってケ−ノカラからケンガラになる)、手袋、足半草履、この足半は岩場で滑べらないように必ず履くものである。勿論藁製である。風の模様などで近々の内に海苔の「ス」が立ちそうだと皆これだけを用意している 0 0 島前の文化財 9 3 66 。以前はまだ手元のはっきりしないような早朝から始る事もあったので遠い大山、十景、美田尻、波止などからは「ス」が立ちそうだと何回も早朝に出て来て「ス」にならないので帰る事もあった。最近になって事故防止の事もあり早朝から出向く 0 0 島前の文化財 9 3 72 事もないので「ス」は午前8時からという事になって大変によくなった。磯で摘む者はそれぞれ目当の磯へ向う。背のツカリの中でケンガラの触れる音が賑やかだ。大勢の者が次々と列をなして行くので見事である。或る人は蟻の千度詣のようなと 0 0 島前の文化財 9 4 1 もいうがそれほどでもないとしても磯では海苔を自分の足元だけのを摘むようになるほどで、兎に角沢山な人出になる。一方船で岩礁や小島へ行く者は外浜湾のナンドジマ(波止島)の手前に集合する。昔はカンコ、トモドで艫と櫂を軋ませて集っ 0 0 島前の文化財 9 4 7 たが、昨今は皆動力船で、それも快速の船が多い。8時前になると5、6、10隻は集っている。それが合図船の振る旗で一斉に発進する。海は沸き空は轟き、磯の者はこれと同時に海苔を掻く、この音が又物凄いとは、一寸おおげさであるが何百 0 0 島前の文化財 9 4 12 人もの人立ちが力のかぎり岩面を引掻くのであるから想像を越えた騒音になる。瞬時に船は沖へ散り磯の海苔はノッツンザ−キに掻き込まれる、カンガラの縁は外にめくれて新しいのに取り替えられる。サ−キの海苔は木綿袋へ入れられて袋がふく 0 0 島前の文化財 9 4 18 らむ頃には大方の磯海苔は摘み取られてしまい30分もすると男立ちはそろそろ引き揚げる。日が照ってそよ風が吹けば磯の海苔は干し上がる、干上った海苔を指先ではぎ取ったり、掌でもみ取ったりする、この様な作業になると男は女子に負けて 0 0 島前の文化財 9 4 23 しまう、時たまケンガラの音のする磯では姉さんかぶりの白い手拭が岩によりかかって手だけが忙しく働いている。これが海苔の「ス」風景である。早朝から大勢の人の慌しい動きのようすが蜂の巣を突ついたようにとたとえられてこの海あけの行 0 0 島前の文化財 9 4 29 薪 事を「巣」と一般にいうようになったのではないか。十数年前まであった島後での薪の「ス」について、その土地の人は、まるで戦争のようであった、というほど里中が大騒ぎになる。これが蜂の巣を突ついたように、蜂が沢山に出て騒ぎをするよ 0 0 島前の文化財 9 4 34 うに、大勢の人が出動して行くから「ス」がたつとか、「ス」をたてるとかになったと思うが如何でしょうか。三、干草、生草、飼料にする植物、牛小作。秋になると干草刈が始る。冬中舎飼する牛馬の主飼料にする為である。牧畑の草刈を草穀刈 0 0 島前の文化財 9 4 41 とも草殻掻ともいわれた。この干草の量は「ダン」でいい表わされ、今日は何ダン刈ったと云われていた。この「ダン」は駄荷の事で牛に背負わせる量であって、牛の背に左右3把ずつ負わせるので、計6把が1駄荷と云う事になる。この牧畑で一 0 0 島前の文化財 9 4 46 番よい草はアジマメである。アジマメは和名がヤブマメで、面白い特徴を持つ草である。地上部の事は他の豆類と変りはないが、この植物の根茎には地下結実の豆が出来ている。その為に秋地上部が刈取られも耐える事がない。豆科植物であるから 0 0 島前の文化財 9 4 52 栽培も手数がかからず地下に結実するから種子蒔の手数もはぶけてなかなかよい牧草である。古老の話によるとアジマメは味がよいのでつけられた名で昔は食糧にも利用したとの事である。只注意して取扱いしないと豆がある為に鼡の害を受ける事 0 0 島前の文化財 9 4 58 である。牛が好んで食べ滋養に富むのでよい牧草である。里近くにアジマメによく似たツルマメがある。この豆には地下の結実がない、それと量が少ないので千草には利用されず、生草で飼料とされる。ヘチヘ。面白い方言を持つ植物だ。ヘチセと 0 0 島前の文化財 9 4 64 云うこともある。いまの人達は植物の方言をあまり知らない。一般の人立ちも方言を遣いたがらない。教育の普及した為らしい。しかし必要を感じ、それの特徴を知ってそれを伝達する庶民の知恵の方言は、なかなか味があって興味がつきない。時 0 0 島前の文化財 9 4 69 には露のように光り、スミレのように匂い、先人の目が草葉の陰からチラッと見えるようにすら感ずる事がある。方言は大事にしたい。残したい、貴重な先祖の遺産である。扨本題にかえってヘチヘなる植物について色々と聞いて廻って分った事で 0 0 島前の文化財 9 4 75 あるが、ヘチヘは数種類の草の代表名である。アワヘチヘ、マタヘチヘ、タケノコヘチヘ、の3種がヘチヘと呼ばれている。海士町誌や本誌第8号の隠岐産物絵図を見るとヒヂハイとなっている。何故ヒヂハイとかヘチヘと呼ぶかを考えて見たい。 0 0 島前の文化財 9 5 4 想像するしかない。その向かし牧畑農が盛んな頃は貧農が多かった。いや誰もが毎日忙しく、ごく一部の人立ちが暇をもてあましていた。一方は働蜂の如く夜明と共に出動し、日没と共に寝につく。一部の者は雄蜂の如くであったと思う。その当時 0 0 島前の文化財 9 5 9 自分の牛を持つ事は大変な事である。皆飼いたいが資力がない。そこで親方から仔牛を飼わせてもらう牛作である。これも聞き廻って見ると大体に於て次ぎのようである。牛作の条件。1才の仔牛を小作して3才になって売れたら半分が飼主の取分 0 0 島前の文化財 9 5 16 となる。3才の♀牛を10才まで飼えばその間に生まれた仔牛はその都度4分の1が飼主即ち小作者の収入になる。これを足1本を小作者の取前といった。10才になった親牛を売った場合もこれの足1本分が小作者の取分となる。これ等が一般的 0 0 島前の文化財 9 5 22 な条件でその外にも個々には異った状県もあったようだ。兎に角今の農業が耕耘機なしでは出来ないと同様に、牛なしの農業は大変であったから皆牛を求めて苦労していた。何とかして牛を手に入れたい、その方法としての牛小作であった。牛を飼 0 0 島前の文化財 9 5 28 う為には飼料が必要だ、幸い牧畑は畑の持主でなくとも放牧が出来るいわゆる入合権があるので牛は何頭持っても放牧が出来る。それも冬になって3ケ月あまり畜舎で飼えば早春から又放牧が始るので島前の牧畑は大変に便利であった。藁や草穀が 0 0 島前の文化財 9 5 34 必要であるが秋の草刈は大変な気苦労と体力が必要である。その頃になあると牧の牧司(モクジ)が草の「ス」を触れて廻ると一勢に草刈がはじまる。草刈婆があっても近い所遠い所それも入合地の事とて色々とトラブルもあったと思われる。いよ 0 0 島前の文化財 9 5 40 いよ標題のヘチヘであるがトラブルの原因は境界地の草であったと思われる。ヘチヘがヒヂハイと役人の書いた記事(前記隠岐産物絵図など)にある事から辺地生え即ち境界の外に生えた草は誰れが刈取っても苦情なしとされた事が覗える。ヒヂで 0 0 島前の文化財 9 5 45 なく辺地でハイは生えであろう。道の辺、畑の辺の草は辺地生であるから誰れの所有物でもないから苦情なしと裁断された。その辺地生が草の名となり、又時代が皮って役人が植物調査をして聞き取り、「何、ヘチヘとな?百姓のいう事不明瞭だぞ 0 0 島前の文化財 9 5 51 、もう一度申せ、何ヒジハイと申すか……」その間に聞き取りまちがいでこの様に辺かしたもののように思われる。長く持って廻ったが辺地生のアワ、マタ、タケノコのヘチヘが百姓に重宝されたのは飼料の質も勿論だが干るのが早い事である。秋 0 0 島前の文化財 9 5 56 の空の事である折角の干草が雨に合うと大変なので干難い草は難物で干草にしない。アワヘチヘはエノコログサの類で穂がアワのようなので、マタヘチヘはスモトリヘチヘとも呼びメヒシバの類をいう。穂先が股になっていて、子供がこれに相撲を 0 0 島前の文化財 9 5 62 とらせるなどでこの名が生れた。タケノコヘチヘはコブナグサやアシボソなどの類をいう。干草になり難い草であっても生草で飼料として重宝されるものもある。ヤブツルアジキは里近くにあってよく繁茂する。方言はノヅといっている野豆の意味 0 0 島前の文化財 9 5 68 だ。水草とか、ウシノヒテイと呼ばれている水辺のミゾソバなどが干草にせず専ら生草で飼料にする草である。その他色々な植物が利用されている。利用される以上各々植物名があったはずだがなかなか発掘の仕事は進まない。大豆(ダイズ)、小 0 0 島前の文化財 9 5 74 豆(ショウズ)、アズキともいうが小豆蒔(ショウズマキ)などの言葉は残っている。残っている方言も、地方のものでない植物だと異物に乗り移っているものもある。干草の中のカラヨモギがそれである。カラヨモギとは河原ヨモギの事で実物は 0 0 島前の文化財 9 6 1 クソニンジンなどでカワラヨモギでない。島前では山地よりも海岸の崖や浜辺にカワラヨモギはある。このカワラヨモギは肝臓の薬として煎用されるが島前ではクソニンジンの香が薬効をそそるか専ら煎用されている。同じ科の植物で成長体の色別 0 0 島前の文化財 9 6 7 は一寸むずかしいので付焼刃の知識では判別が出来かねる。このように秋の草刈は百姓の大仕事の一つで草に対する関心も強く個々の草にも名が付けられていたはずであるが今となってはなかなか難物となっている。田仕事やその他耕作の時には牧 0 0 島前の文化財 9 6 13 から牛をつれて帰る。牛は大事にした。家族同様といってよいほど可愛がって飼う者が多かった。こんな事に出会った事がある。植物採集に出て丘の広場で休んでいると遠方で「花子−」と呼ぶ声がする。近所の牛がモ−と返事のように鳴くξで変 0 0 島前の文化財 9 6 19 な牛だなあと思っていると、だんだん呼ぶ声が近づくと牛はモ−と鳴きながら馳って行く、よく見ていると呼ぶのは飼い主で鳴くのはそこの愛された牛であった。飼主は人に言うように話しながら持って来た昼食のお握りを牛に食べさせていた。連 0 0 島前の文化財 9 6 25 れて帰った牛には生草を飼料にする。子供が学校から帰ると牛を連れて草飼いに出る。当地ではクサカイといっていた。近年はなかなか見る事はない。牛はよく草を知っている肥の効いて萠えた草は見向きもしない。時には干からびた芝などさえ丁 0 0 島前の文化財 9 6 30 寧に食べるが、トウダイグサやセンニンソウは毒草だから食い残されてゆく。このように子供も牛の飼育に協力するので草の名も知っていたが今は忘れられていく。トウダイグサはメメクサでこの乳液で皮膚に字をかくとそこに字型の炎症が出来た 0 0 島前の文化財 9 6 36 。センニンソウはウシゴロシで葉を舐めると辛い味を覚えている。四、田圃の雑草。田の草取も百姓の大仕事の一つである。その田の草もそれぞれ特徴があるので今でも面白い方言が残っている。面白いとは当らない事がかとも思うが、田の草取り 0 0 島前の文化財 9 6 42 は百姓にとって最大関心の物であるから方言も傑作が多い。ツラワレは海士町誌にある海士村産物控や隠岐産物絵図ではツラワルと出ているがこれも植物名の採取者が誤ったものと思われる。即ちこの草の葉が鋏状に分れているので面(ツラ)が割 0 0 島前の文化財 9 6 48 れであり、ハサングサ、ハサミグサとも呼ばれ、時にはミツバとも呼ばれている。これは見ようによっては葉の元が鋏のように長くのびているので三ツの葉に見たてて呼んだものである。これは和名オモダカでオモダカの葉を見ればなるほどと合点 0 0 島前の文化財 9 6 53 の出来る方言である。コナギの事を海士町あたりではヨメガサラ、ヨメノサラと呼んでいる。ヨメガサラやヨメノサラは他の植物名の事もあるが島前では他にない。美田あたりではオモダカと呼ばれている。海士町のようにこれの方言があったと思 0 0 島前の文化財 9 6 59 われるが今は分らない。クログワイの事を美田ではネコノテナワというが意味が分らない。忙しい時には猫の手もかりたいと云うが、このクログワイは茎は切れやすく、一本の棒、海士町ではセンコグサと云うがほんとうに線香の様な草で取り残し 0 0 島前の文化財 9 6 65 やすく、切れやすく、根には球茎が残るのでうっかりすると一面に生えて来る。このように面倒な草だから何となくネコノテナワがふさわしいような気もする。これを抜く時に葉茎を握るとパチと音がするのでパチパチともパチパチ草などと芸のな 0 0 島前の文化財 9 6 70 い方言も近頃は生れて来ている。百姓泣かせの草である。スゲと呼ばれているのはミズガヤツリの類を呼ぶ方言だ。田圃のレンゲ草が一面の花盛りになると、あちこちの田圃からピ−ピイと草を吹いて鳴らす音がする。子供達がスズメノテッポウを 0 0 島前の文化財 9 6 76 吹いて鳴らす。この草の方言はあるはず、いや必ずあるはずなのだが出てこない。ピ−ピ草は子供の呼び名だが近頃の子供は知らない。どこかでタゴメなどといい名をつけた所もあったが隠岐では消えかかっている。又田一面に生える小さい綿状の 0 0 島前の文化財 9 7 6 草でマツバイがあるが美田方面ではジシバリと呼んでいてこれが生えると土地に皮が出来たようになって鋤で耕すのに一寸困る位になると云う。一面に生えて土地を縛りつけたようになるから、なるほどジシバリで合点が出来る。海士町ではウシノ 0 0 島前の文化財 9 7 12 ケと呼んでいる。海藻でもウシノケがあるがこれは和名はウシケノリで別物である。密生したマツバイはなるほど牛の毛にも見えて来る。その他の雑草ミズオオバコ、タウコギ、などあるが方言は採集出来ていない。必ずあるはずであるが。五、植 0 0 島前の文化財 9 7 19 物方言。植物の方言調べは面白いがなかなか困難がある。一番こまる事は刻々と消えて行く事だ。あの人なら知っていたであろうに……とよく云われる。故人に聞く事は出来ない。これと古老に会って話していてもなかなか思い出されない事がある 0 0 島前の文化財 9 7 25 。又雰囲気によってはフット出て来る事があって嬉しい。筆者も本年72才である。相当植物にも関心を持っていて知っている方であるが、知らない事は年長者に聞かねばならない。充分な調査の上で発表すべきであるがその余裕がないのでほんと 0 0 島前の文化財 9 7 30 うに未熟な研究であるが昭和54年3月末で一応〆切って発表する。読者諸賢には緒気付の事が多いと思われるのでそれ等の事柄について御教示を給り追記充実を計り参考に供したい。 内は和名。メメクサ、ウマゴヤシ(ノゲジ)最近島前にも 0 0 島前の文化財 9 7 30 うに未熟な研究であるが昭和54年3月末で一応〆切って発表する。読者諸賢には緒気付の事が多いと思われるのでそれ等の事柄について御教示を給り追記充実を計り参考に供したい。 内は和名。菊科。メメクサ、ウマゴヤシ(ノゲシ)。最近 0 0 島前の文化財 9 7 39 島前にもオニノゲンが進入して来た牛馬や兎の好物でこの名がある。アザメラ。牛の飼料として新芽を掘り用いた時代もあった。シンギクモドキ(ノボロギク)。満州から大豆粕が肥料として入るようになってから桑畑が生えた。春菊に似ているか 0 0 島前の文化財 9 7 47 ら春菊もどき。元黒木村々長故佐倉鶴松氏の話。カラヨモギ(クソニンジン)。カワラヨモギが訛ってカワラがカラになった。牧畑の草刈が盛んな時代にはヨモギなどと一緒に刈取られ飼料にされた。時には黄疸の薬としてカワラヨモギと誤認され 0 0 島前の文化財 9 7 54 て服用された。ノギク(オキノアブラギク、オオユウガギク)両方共ノギクと呼ばれている。9月の節句にはオオユウガギクの花を神仏に供える。テンジクボタン(ダリヤ)今はこの方言は遣われていない。マグソ、ウマクソ、エトロブ(オナモミ 0 0 島前の文化財 9 7 63 )。牧畑で牛馬の集合して休む処に沢山生える草である。馬糞の中から生えて来るからこのようにいうでしょう(玉木常太郎87才)。エトロブとは衣服などに付着する植物の種子の総称である。ヌスビトハギの実、センダングサの実などがある。 0 0 島前の文化財 9 7 71 バカクサ(アレチノギク、ヒメムカショモギ)。戦後に廃って来たホウキギクは新しいバカクサと呼んでいる。向かしのバカクサはイカを干す時のハギカイ(イカの脚の根元を広げて干すときの支かい棒)に便利で使った。ツワ(ツワブキ)。新芽 0 0 島前の文化財 9 8 3 の葉柄を塩蔵などして食用にする。クロナイバナ(ベニバナ)。戦前海士町などで薬用として栽培していた。紅花=クレナイバナが訛ったものである。うり科。ガアウリ(キカラスウリ)シリタタキ。方言の意味は分らない。すいかずら科。スイバ 0 0 島前の文化財 9 8 13 ナ(スイカズラ)子供はこの花の蜜を吸う。アズキイチゴ(ウグウスカグラ)。赤くて透明な小豆のような実が甘くて食べられる。島前では少ない食部Tだ。カンゾ、カンゾウ、カンゾメ、(ガマズミ)。向かしの子供はこの実を口に入れて甘酸い 0 0 島前の文化財 9 8 19 汁を吸った。材は強靭で太鼓の揆やハンマ−の柄にする。西ノ島の波止の子供はチヨウジガマズミの黒い実も口に入れる。これ等をカンゾメと云っている。ミ−ミ、ミンミン、ミ−ノキ、バアズゴロシ、ボ−ズクセ−キ(ゴマギ)。川辺などに多い 0 0 島前の文化財 9 8 26 木だが別に用途はない。九州の上球磨地方ではコクサギをミャムノキといい、悪い臭がすると鼻をつまんでミャ−ムというそうだが、ミ−ミの原型がこの葉の臭気の表現から来ているようだ。又この木葉を揉むと線香の匂いのような香がするのでボ 0 0 島前の文化財 9 8 33 −ズ(坊主)臭い木といったり、又この葉の臭が特有で性臭を感ずるのかボボクセキなどと呼ぶ事もあるが、バァズ(坊主)ゴロシの意味は分らない。アカネ科。ネズミサシ(オオバアリドオシ)。山林の下木で鋭い刺のある小さい木で赤い実が成 0 0 島前の文化財 9 8 40 って美しい。刺が鋭いのでこの名がつけられた。ハナタカメン(ヘクソカズラ)。子供がこの花を唾で鼻の頭につけて鼻高面のようだとこれを奔ぶ。ゲ−ロンバコ(オオバコ)この草は色々と奔んだ。葉には強い筋があるのでそれを折って引出し機 0 0 島前の文化財 9 8 47 織の真似をしたり、花茎を引抜いて、引掛けて切り合ったり、雨蛙を捕って機械体操と称して棒につかまらせて運動をさせる。元気のよい蛙は思うように体操をしてくれない。ピョンピョン逃げたり棒から飛んで逃げると子供は蛙に土の粉をまぶし 0 0 島前の文化財 9 8 53 て棒につかませる。体が乾いていうことを聞いて体操をしてくれる。しかしやがては弱って動かなくなる。子供は次ぎの遊びに移る。庭の土に一寸したくぼみを作りオンバコの葉を一枚敷き弱った蛙をその上に置きその上を又葉で被い、囲りに小石 0 0 島前の文化財 9 8 60 を円く列べて唱えごとをする。「この蛙はいつしなしやった、十日の晩に甘酒呑んでとうとう死なやった。」と小石の上を指で数えるようにして唱え、唱え終ると、そっと上の葉をはぐってようすを見る。元気が出ないと又唱える。本郷仲ウメ81 0 0 島前の文化財 9 8 67 才。子供はこれで蛙は元気をとりもどすものと思っている。その内に次ぎの遊びに変って蛙の事は忘れてしまう。ナス科。カラスボウツキ(センナリホウズキ)。アカナス(トマト)。アカナスを親父が作って食べていたのは大正時代で御盆が来る 0 0 島前の文化財 9 8 75 と仏前にお供えしてあって柿のようで美しかったが、その臭は嫌であった。クチビルバナ科。メメフキ、ス−ベロ(オドリコソウ)。生干して茎を脹らましそれをピチャピチャとつぶして遊ぶ。又その花の蜜を吸う。蜜を吸うからス−だと思うがベ 0 0 島前の文化財 9 9 4 ロが分らない。ベ−ロとなれば椿の事になる。メメフキも分らない。メメは乳液の事だからひょっとしたらメメフキはタンポポの事ではないかとも思われる。タンポポの花茎も生干して脹らませて遊ぶ。ネコノチンポ(ウツボグサ)。ウツボグサの 0 0 島前の文化財 9 9 11 花穂の事を言うのだが何故これをこのように呼ぶか分らない。ヤナギかのネコヤナギの花もネコノチンポと云うがこの方は何となく猫らしい気もする。ジゴクノカマノフタ(キランソウ)。ヒルガオ科。アサガオ(ヒルガオ)。コヒルガオも同様で 0 0 島前の文化財 9 9 19 ある。ミンダレアサガオ(ハマヒルガオ)ミンダレは耳だれでミミダレグサとヒルガオを呼んでいる処があるから方言が伝わって来たものか。耳だれは耳メメの事らしい。隠岐では中耳炎をおこして膿が出るのを耳だれという。チョウセンアサガオ( 0 0 島前の文化財 9 9 26 ルコウソウ)。イタヤイモ、シャクネイモ(七福)。甘薯で甘い七福種の事であるが、板屋からひろまったから板やいも。赤之江からひろまったからシャクネイモとなった。ヒイラギ科。トスベリノキ(イボタノキ)。オボタロウを取って敷居に塗 0 0 島前の文化財 9 9 33 り戸の滑りをよくする。ヒトツバ(ネズミモチ)。隠岐でヒトツバと言えばナズミモチの事であるが、シダの類にヒトツバがあってこのシダがゼンソクの薬として用いられているため、只ヒトツバといわれて早合点してネズミモチを用いると誤りに 0 0 島前の文化財 9 9 40 なる。民間薬ではよくこのような事が起るから注意する必要がある。アイノキ、トノコ(トネリコ)。この枝などを水に浸すと藍色が出る、この事から出た方言である。トノコはトネリコの訛ったものである。トノコに2種あってシロトノコは立性 0 0 島前の文化財 9 9 47 の木で青トノコはそんなに大きくならない木だというが未確認である。美田でいうアイノキは別のヨコグラノキの事をいう。カキノキ科。エボガキ(ヤマガキ)。エボはイボの事で柿の実が小さいのでイボ柿と呼ぶ。その昔柿渋を取る為にこの実を 0 0 島前の文化財 9 9 55 利用した。8月の頃柿の帯を去り臼にて搗き砕き柿の実1斗に水2少合をさし桶に入れて1両日を経て布袋にて絞る。其かすに水を和して23日を経れば下等のシブを得。と柿渋の製造法もある。柿渋は和紙などに塗り防水、強化、糸などにも塗り 0 0 島前の文化財 9 9 62 強化して利用、又木製の桶などにも塗るなど利用法は多かった。ツツジ科。アタマハゲ、テテマラ(ナツハゼ)。島前では中ノ島だけにあるようだが、実の形からアタマハゲ。島後ではテテマラと呼んでいる。これも実の様子からの呼び名である。 0 0 島前の文化財 9 9 70 クィサシブ、サセボ(シャシャンボ)。実が甘いので子供がよく食べた。サシブはヒダカキの呼び名で木がよく似ている。ヤマツツジ(サイゴクミツバツツジ)。隠岐にはサイゴクミツバツツジが多い。島前には他の躑躅はないのでヤマツツジはミ 0 0 島前の文化財 9 9 76 ツバツツジの事である。高崎山には見事なツツジの林がある。イチヤクソウ科。ロクテンソウ(イチヤクソウ)。大正から昭和のはじめ頃脚気が流行した。体に水が合わないとか、白米を食べると脚気になるとかいわれた。良薬がないまま色々な民 0 0 島前の文化財 9 10 5 間薬がはやった。その中にロクテンソウがあった。鹿メメ草が訛ったものである。ついでに当時の脚気に効くといわれた民間薬は、縞蛇の黒焼1匹分が2円位であった。カラスバト(クロバトとも云った)の黒焼、これは効いても一寸手に入らない。 0 0 島前の文化財 9 10 11 新造の弱ったのにセンチムシを水に浮かせて呑む、とか、麦飯やソバネリ、夏蜜柑を食べるとよいなどと云われた。ミズキ科。ママコナ(ハナイカダ)。山菜として知られた植物である。当今名を知っていても採る人はない。癖のないしたしみやす 0 0 島前の文化財 9 10 19 い山菜である。ミズガシ(クマノミズキ)。生木の時は水っぽくて切りやすい木だが乾くとなかなか堅い木でこの名がつけられている。カラカサバナ科。ソソイ、ウデ、ウド(ハマウド、シシウド)。2メ−トル位にもなる大形の植物で、島後では 0 0 島前の文化財 9 10 27 ウデとも云う。西ノ島町あたりでも今はウドの大木などと良くない方の例に云われソソイの名は忘れつつある。ウコギ科。タラ(タラノキ)。最近はハリギリ、カLスザンショウなど刺のある木をもタラと呼ぶことがある。ヤマギリ、セン(ハリギ 0 0 島前の文化財 9 10 34 リ)。昔は下駄作りにこの木が使われた。材が白く桐に似ている為である。漁師が鯛網などに魚の追込み用に利用した。これも木膚が白くて海でも目立つからである。栓の木は文字通り、この木で栓を作った事がこの名の起りだ。隠岐でダベソと云 0 0 島前の文化財 9 10 41 うがこれは樽臍の訛りである。これもこの木で作ってあるかどんなか分らないが近頃は一寸見られなくなった。アカバナ科。ツキミソウ(オオマツヨイグサ)。大正時代に大変愛された草であったが最近は見られない。最近になってコマツヨイグサ 0 0 島前の文化財 9 10 48 、アレチマツヨイグサなどが入って来ている。これも月見草と呼ばれている。グミ科。タナゴ(アキグミ)。牧畑の棚畑にある実の食べられる植物で棚子と云う。或る学者にアキグミは傾斜地の土砂止めの役目があり又防風の効があって牧の松の造 0 0 島前の文化財 9 10 56 林に役立つと聞いた事がある。戦後もしばらく秋になるとタナゴ盛りに皆が出かけた、飯盆(ハンボ)や飯櫃(メシツギ)をツカリなどに入れてタナゴを盛るのである。どこまでも澄んだ空、見渡す限り碧藍の海を眺めながら一日中山で遊んでタナ 0 0 島前の文化財 9 10 62 食事 ゴを盛って帰る。最盛期は10月末の頃である。家の者はタナゴ盛りが帰るのを待っていた。この頃はどこの家でも沢山持って帰ったし、行かなかった家へは御すそ分けなどした。それほど沢山に食べたが最近は食べる者も少なく、タナゴ盛りに行 0 0 島前の文化財 9 10 68 く人もないようになった。タナゴ盛りとはタナゴを入物に摘み入れる事である。グ−ミ、グ−ン(ツルグミ、マルバグミ)。ツルの方もマルガの方も皆同じ方言で呼ぶ。マルバの方は浜辺に多く知夫里には正月頃に熟す珍しい品種がある。一般にマ 0 0 島前の文化財 9 10 76 ルバの方が早く熟す。それに反してツルの方は山地性のもので知夫里島にはないようだ。これは正月頃に熟す。子供達はよく知っていて取りに行って親にしかられる。共に崖などの危険な場所にあるからである。今は知らない児が多い。ツルの方と 0 0 島前の文化財 9 11 3 焼火 マルバの方との雑種が出来ているアカバグミがそれで、これも山地にあってツルになっている。キブシ科。マメノキ、スッポン(キブシ)。美田の子供はよく春休みになると焼火詣りをした。焼火へ行くとオコシが買えるから楽しみであった。帰り 0 0 島前の文化財 9 11 10 途ではマメノキの枝を持って帰った。伸びのよい枝を肥後の守(小刀)で切ったり、折ったりし何本も持って帰る。帰ったらオコシは神棚にお供えして、遊びにかかる。銘々が枝を持って中の髄を押し出す。押棒を腹の帯に当てていて枝の中の髄を 0 0 島前の文化財 9 11 17 力一ぱいに押す。上手にやれば30センチ位のが出て来る。出たのはナカイ(台所)の銅壷の湯気に当てながら渦巻などに曲げて細工する。色付けすると一層美しいのが出来る。これが春休の楽の一つであった。細工する途中で切れて短くなると口 0 0 島前の文化財 9 11 24 にそれを含みスポンスポンと音をさせて遊ぶ、これがスッポンの由来だ。ツバキ科。サシビ、サシブ、サセビ、クサカキ(ヒサカキ)。島根半島までハマヒサカキは来ているが隠岐には渡っていない。シキミの代用として仏前に供える。ベ−ロ、ベ 0 0 島前の文化財 9 11 32 −ロノキ、キノミ、アブラモモ(ヤブツバキ)。ツバキに関係する方言は割合に多く残っている。我々との関係が深かった事を意味している。ベ−ロ、ベ−ロノキは唐竿の回転して打つ方の木をベ−というが、このベ−を作る時一番よい木は柔かで 0 0 島前の文化財 9 11 38 しかも堅くて重い木だ。その条件を持つ木が椿だと云う。そこでベ−の木が訛ってベ−ロノキになった。唐竿の型は隠岐のは打つ方がクルクル廻る細い方である。キノミは木の実の事である。勿論油を取る実である。秋になるとアブラモモをボゾク 0 0 島前の文化財 9 11 45 (モギトル)から学校から遊びに行かず山に来いと言われてよく椿の実を採った。昔の事で着物の懐の内へ実を一ぱいに入れて木から降りるの困難であったのを覚えている。又昔はこの様な木の実はモモと呼んでいたようだ。野生の桃の中にアブラ 0 0 島前の文化財 9 11 51 モモと云うのがある。これは実に毛がなくつるつるしている。一種のネクタリンである。大正時代までの子供は椿の花の蜜をよく吸った。花をむしって吸うと大人に叱られる。実にならなくなるからである。そこで女竹などの細い管を作って木に登 0 0 島前の文化財 9 11 58 って花の蜜を吸った。雨の後だと水っぽくて駄目だ。古い花だと酸ぱくなったいたり蟻などがいてこれも駄目。新しいのを見分けて吸った。サルナシ科。ワタタ(マタタビ)。マタタビの訛がワタタになったものかと思われる。僅かに方言が残って 0 0 島前の文化財 9 11 65 いる。新芽を食べた。シナノキ科。イギノキ(シナノキ)。昔は全国的にこの木の皮から繊維を採っている。田植あげにイギの皮をむいたり、若木を切って溝に漬けて上皮を腐らせて芯の皮を取る。内皮は網目になっていて水にも強く縄やみなどの 0 0 島前の文化財 9 11 73 材料とした。イギとはエギの事で柄にすると上等の柄が出来るとの意味である。包丁の柄にするといいとの事だ。ブドウ科。カラスエブ(ノブドウ)。エブ(エビヅル)。ツタオロシ(ツタ)。オロシはウルシの訛言。ツタウルシの誤認から来た名 0 0 島前の文化財 9 12 4 である。今でもこれにかぶれると重っている人が多い。ボ−ダ、ゴンダエブ(ギョウジャノミズ)。甘い、酸味が少ない、沢山に取って果実酒を作ってたのしんでいる人もある。作っても面白いが雌雄異株だから両方を植えるとよい。クロウメモド 0 0 島前の文化財 9 12 11 キ科。アイノキ、ヤエノキ(ヨコグラノキ)。西ノ島でも東部ではトネリコの事を云うが美田方面ではヨコグラの事を云う。ヨコグラノキをエイノキとも云うのでエイが訛ってアイになってアイノキになったと思われる。西ノ島には多い木である。 0 0 島前の文化財 9 12 18 四国の土佐横倉山で発見されてこの名がつけられたもので全国的には珍しい木である。堅い木で昔から家屋建築の楔として珍重され径15センチ位にTもなると切られて保存されてしまい大木はない。エ−ノキは柄の木の意で柄によい意味だが島前 0 0 島前の文化財 9 12 24 では前述の通りで方言は意味を表していない。カエデ科。ハシギ、オオカギ(ウリハダカエデ)。ハシギは箸木で正月が来ると節会箸(セチバシ)をこの木で作った。としとこさん(歳徳神)に供える中太の箸も作った。海士や島後などではオオカ 0 0 島前の文化財 9 12 31 ギと云う。白い膚の木で拍子木にするとよい音がするともいわれている。子供の頃、大正時代だが3月の節句に凧揚げをするが障子駄小など揚げるとこれにトウをつけてうならせる。今考えるとトウは藤から作ったウナリの事である。このウナリの 0 0 島前の文化財 9 12 38 事をトウといっていたが、このトウをハシギの皮で作る事を何回か試みたが成功しなかった。生の皮でなくて水につけて皮を採ったにちがいない。書物にはその様にあり、シナより弱いが上品に見えるのでミノなど作ったそうだ。カエデノキ(トキ 0 0 島前の文化財 9 12 44 ワカエデ)。ニシキギ科。シラメグスリノキ(マユミ)。大原郡でもシラメグスリと云う。新潟でもシラメゴロシ。シラミの薬として実を使ったものか?八束郡ではアカベと云う(女陰の事)。材は将棋の駒材料になるそうだが当地ではこの様な大 0 0 島前の文化財 9 12 51 木はない。ウシゴロシ、タマツバキ(マサキ)。牧畑の棚外の崖などの危険な所に生育しているのを牛馬が好んで食い崖から落ちて死ぬ事がるのでウシゴロシと云う。タマツバキはよい呼び名であるが由来は分らない。各地にテラツバキ、ハナツバ 0 0 島前の文化財 9 12 58 キ、ハマツバキの名がる。葉がツバキに似ているからツバキは分る。海辺に多い植物だからハマツバキが原形でハマがタマと訛ったものか。ウルシ科。フシノキ、ネバノキ(ヌルデ)。大正時代まで残っていた婦人の鉄漿づけ用の附子を採るのでフ 0 0 島前の文化財 9 12 65 シノキ。ネバノキはこの葉を味噌、醤油の麹作りをする時に蒸した材料の上に被った。この葉をネバノキと呼んだ。又この木の沢山生育する処でネバタン(ネバ谷)と云う谷がある。(西ノ島)。トウダイ草科。メメクサ(トウダイグサ)。この草 0 0 島前の文化財 9 12 73 の乳液、メメ(乳)を子供等は皮膚のうすいところへつけるとかぶれる事を知っていた。コロブノキ、コロブ(アブラギリ)。この油に毒性があって中毒すると足が立たなくなる事からコロブの名が出た。島根県でも採油用として奨励された時代が 0 0 島前の文化財 9 13 2 あり、大正時代まで造林されたコロブ山(アブラギリの林)があった。隠岐に棲息する天然来念仏のカラスバトはこの実も餌とする。ショウガツサン(ユズリハ)。島前の山中にもあるが栽培品の種子が野生化したもののようである。カタユズリ( 0 0 島前の文化財 9 13 9 ヒメユズリハ)。海岸近くに多い植物で葉も小形で厚味がある。この葉の厚くてかたいのが方言の出所か。大木もあるが観賞に適し庭木によい。アメフリノキ(アカメガシワ)。雨が降るとこの葉に音を立てるので雨降の木か。この木にはよく虫が 0 0 島前の文化財 9 13 16 穴をあげている。この虫は子供のカンの薬になるとこの木の虫を取り出して頭を取り内蔵を出し竹の串に虫をさして炙って食べさせた。炙ったもの甘いが生でもなかなかうまい。センダン科。センダノキ(センダン)。元から隠岐に在った木か一寸 0 0 島前の文化財 9 13 24 疑問だ。山林になく里近くの処にしかない。材の美しい木である。木の実は鳥の餌になる。マツカゼソウ科。ショウガツダイダイ(ダイダイ)。正月の〆飾りにつけるのでこの名がある。この実の汁は料理によい。ダイダイ(ナツミカン)。オトコ 0 0 島前の文化財 9 13 32 ザンショウ(イヌザンショウ)。タラノキ、タナラ、アキノキ(カラスザンショウ)。近年になって幹に刺のある木の名が混乱しているようだ。タラノキがそれである。アキノキは島後の方言。サンショ(サンショウ)。島前で荷字をニ−ジ、垣を 0 0 島前の文化財 9 13 39 カ−キ、と延ばしていうが、又反対にサンショのように短く言うこともある。フクロソウ科。オコッサングサ(ゲンノショウコ)。実の御輿の屋根のようにそりかえるので子供はオコッサンに見立てて指先にてかざしてチョウヤッサチョウヤッサと 0 0 島前の文化財 9 13 46 囃す。今はミコシと云うが古人はオコッサンエナエである。イナエはニナウの訛。健胃薬として利用するが白花の多い処では赤花が、赤花の多い処では白花が効目があるという。西ノ島は白花が多い。カタバミ科。スイスイグサ(カタバミ)。子供 0 0 島前の文化財 9 13 54 がこの葉をとって噛む。酸っぱい。ナカ−ジグサ(ムラサキカタバミ)。これが西ノ島に渡来したのは大正時代で、珍しいのでもらい受けて植えたのが畑に逃げて大繁殖し除草に困難している。ナカ−ジは屋号(中瀬)。マメ科。カズラ(クズ)。 0 0 島前の文化財 9 13 62 昭和30年代まではこの蔓を利用するために牧畑へ取りに行った。これをカズラタテに行くといった。1尋半に切って、くくったり、長いのをたぐって輪にし八の字にくくったりして持って帰る。薪や干草等何でも括るのに使う。乾いたのは水に浸 0 0 島前の文化財 9 13 68 して使った。昔は9月になるとこのカズラの「ス」が立ったとの事だ。エノコ(クズの根)。エノコは葛粉を採るためにクズの根を掘るがこの根を呼ぶ名である。且粉のことを昔は精といったにちがいない。この精が訛ってエ−になった。ウバユリ 0 0 島前の文化財 9 13 75 の方言がエ−である。昔山菜などに詳しい老婆に話を聞いた事がる。エノコを掘るのは、エノコ3月といって3月が一番よい、エ−はエ−4月だ。昔不作の歳には皆がエノコ掘りに行ったものだ。中にはエノコ掘る穴に頭をつっこんだまま死んだ者 0 0 島前の文化財 9 14 3 食物 もあった。ワラビの根からも粉がとれるがこの粉は沢山食べると体に悪い。沢山に食べて体が腫れて死ぬ事もある。などと話してくれた。勿論月数は陰暦である。ワラビ粉は強力な糊になり唐傘、提灯などを張るのに使った。アジマメ(ヤブマメ) 0 0 島前の文化財 9 14 10 。この豆は味がいいのでアジマメと呼ぶとの事だ。醤油だと作る時にも利用された何といっても秋の干草として珍重された。牧草としての価値が高い。この植物は地中に豆が出来る面白い性質がある。秋になって地上部が刈り取られても根部にはこ 0 0 島前の文化財 9 14 17 の豆が残って再生する。根部には少なくとも数個の豆があるので自然繁殖には充分である。粗放牧草としてことに島前のような牧畑では再認すべき植物である。ツルマメも誤ってアジマメと呼ばれているが、これは里近くにあり、アジマメほど大量 0 0 島前の文化財 9 14 23 にない。ノズ(ヤブツルアズキ)。一見小豆に似た蔓草だが農家の被とはノズと呼んでいる。野豆の意味らしい。乾きが悪いので干草にせず生草を飼料にする。ムギシキ、ムギマキ(スズメ、エンドウ)。麦畑に生えて麦幹に登り麦を敷込んでしま 0 0 島前の文化財 9 14 30 ほどでこの方言がる。パチアチ、ハチハチ、ピ−ピ−グサ(カラスノエンドウ)。麦畑に多く、麦の草取の折に、子の莢を取って片端を切り片方を開いて中の豆を出し、口にくわえて吹くとピ−と鳴る。子供はピ−ピ草と云って親しんだ。麦秋とな 0 0 島前の文化財 9 14 37 り牧畑は頂上まで黄金色の波が立っていた。天気がいいとこの草の黒く熟した豆はパチ、パチと弾けて跳ぶ、麦幹に当ってはね返る音もする。時には口中に飛び込む事もある。この音が方言になっている。デ−ズ(ダイズ)。ダイズの訛で西ノ島の 0 0 島前の文化財 9 14 44 一部分の人達がいう。ショウズ(アズキ)。今でも時々ショウズ蒔などと聞くことがある。唐竿で莢をたたいて豆を脱穀する事をショウズコナシという。ナツマメ(ソラマメ)。昔の子供には親しみの深い豆であった。淡い緑の葉を取って丁寧に手 0 0 島前の文化財 9 14 52 で揉むそして舌の上に乗せて唇を閉めて葉を吸うと葉の上皮と裏皮の間に空気が入ってふくれる。そっとそっとその空気を押して広げて葉全体の皮を上下にはなして脹らます。今のゴム風船の原型だ。なかなか上手に出来ないので何枚もメメると、実 0 0 島前の文化財 9 14 58 が出来んぞと叱られた。実が成ると豆人形を作った。松葉で首や手を作り莢を胴にして松葉を通しその先に豆をつけて松葉を動かして人形の頭や手を動くようにして遊んだ。若い豆を煮て食べると豆の先をちょっと切り内の実を押し出し、その皮を 0 0 島前の文化財 9 14 65 グイグイと舌の先にのせて音を出す。あまりグイグイ音を出して遊んでいると親がそんなにグイグイ鳴らすと青大将が蛙かと重って来るぜ、とおどかされた。夏になるといり豆にして、おやつにした。海水浴の折にも持って行った。コマツナギ(メ 0 0 島前の文化財 9 14 71 ドハギ)。この草は強い草で牛馬を繋ぐ時によくこの草に結綱を結んだ。エトロブ(ヌスビトハギ)。着物などに付く植物の種子を呼ぶ方言だが、幼児がだれにでも抱かれようとするのをエトロブさんと呼ぶことがある。オナモミ、メナモミ、セン 0 0 島前の文化財 9 14 78 ダングサ、ガンクビサウ、イノコズチ等の実は皆エトロブと呼ばれる。ヒヨコグサ(ミヤコグサ)。黄色いふっくらとしたこの花は誠によくヒヨコに似ている。サッガタリ(ジャケツイバラ)。サッガは猿が、の意味であるが隠岐には猿は棲んでい 0 0 島前の文化財 9 15 8 ない。カタリといわれる植物は刺があって着物などにひっかかるものをいうので、野ばらなどもカタリである。サルのように巧に物をつかむ(よくひっかかる)植物という意味か、猿でも敬遠する植物の意か分らないが前者のように思われる。この 0 0 島前の文化財 9 15 14 蔓の虫も薬用として利用される。造林地では困難な植物の一つである。カアカノキ(ネムノキ)。夏の炎天にも負けず特異な総形花を咲かせる。花色も紅赤、ピンク、白とある。昔は鋤の床を作るのに使った。昔薪には下等な木とされた。炉に焼く 0 0 島前の文化財 9 15 21 と煙って仕方がないからであった。造林地でも困る木である。伸びが早いからである。牛馬はよろこんで食べる。牧野では利用価値のある植物である。イバラ科。カタリ(ノイバラ)。海辺にはテリハノイバラもあるが総てカタリである。チョウセ 0 0 島前の文化財 9 15 30 ンガタリ(バラの1種)。黒味のある赤色の四季咲のやや蔓性のバラがこの名で呼ばれていた。垣作りなどにされ中輪多花で更けると紫色が出てきたなくなった。今この花は一寸見られない。クチナイチゴ(ベビイチゴ)。クチナは蛇の方言、結局 0 0 島前の文化財 9 15 37 蛇苺となる。キイチゴ、サガリイチゴ(ナガバノモミジイチゴ)。実の色が黄色な苺で甘い、上品な苺だ。花も実も斜の葉茎に下向に着くのでサガリイチゴの名がある。ヘソイチゴ(クサイチゴ)。松の植林地に多かった。日当りのよい傾斜のある 0 0 島前の文化財 9 15 45 丘に苺とりの人影が遠くからでも見えた。手篭に摘んだのを入れる。大きい苺を摘むと、ふわっと中空の実がプ−ンと特有の匂を放つ。中空の穴のある方殻見て臍か、語源は分らない。昔の子供はこの苺に夢中になったが、昨今の子供は知っている 0 0 島前の文化財 9 15 51 かどんなか疑問である。モチイチゴ(カジイチゴ)。実がモチモチと粘りがあるのでモチイチゴ。赤い大きなモチモチした実に魅力があった。ゲシイチゴ(ナワシロイチゴ)。ゲシとは岸、崖の意味でこのような処に蔓を延ばしている。ルビ−色の 0 0 島前の文化財 9 15 58 実は美しい。子供が田圃の石垣などのをさがしてよく食べた。カンイチゴ(フユイチゴ)。竹やぶや林の下にある苺で小雪の降る初冬の頃ルビ−のような色の実が熟す。粒は小粒で甘酸ぱい。ジゴクバナ、ユビクサレ、ナベワリ(クサボケ)。赤紅 0 0 島前の文化財 9 15 67 色の花がむらがって咲き木には刺がある。これが地獄を思わせるか。ユビクサレは鋭い刺にさされる事を恐れての事か。ナベワリの意味は分らない。コクタン(シャリンバイ)。ハマモッコクとも云われ海辺の植物でコクタンではない。隠岐の里近 0 0 島前の文化財 9 15 68 くの野山にあるがこれはヤツデと同様庭から逃げた植物である。ナナカマ(ナナカマド)。水気の多い木で燃えにくい木でこのように呼ばれている。隠岐のはツシマナナカマドである。ウシゴロシ、ヤマナシ(カマツカ)。丈夫な木で鎌の柄などに 0 0 島前の文化財 9 16 3 する為カマツカの名があるが、当地ではウシゴロシの名がありこれは牛の鼻釣を作るので牛がひどい目に逢うと云う意味である。鼻釣は鼻鐶の事である。鼻釣はこの外イヌガヤでも作る。ヤマナシは子供に関係がある。秋になるとこの赤い実を採っ 0 0 島前の文化財 9 16 9 食物 て食う、実の形が一寸梨に似ているところからこの名がある。ヤマナシを食って餅を食べると腹痛を起すと用心したが、これは大人が食いすぎをいましめた事柄でその昔の食生活が想像されて面白い。ナベワリ(シモツケ)。火に燃やすと鍋が割れ 0 0 島前の文化財 9 16 16 ると云う。ユキノシタ科。ナナバケ(アジサイ)。大正の初期頃迄は色が変るので一般には好まれない植物であった。美田の小学校には大株のものがあった。サオトメバナ(ウツギ)。田植頃に咲くのでこの名がある。イケノシタ(ユキノシタ)。 0 0 島前の文化財 9 16 25 ユキノシタの訛ったもの、薬草として栽培されたものである。ジュウジバナ科。コゴネ(ハマダイコン)。昔(大正時代頃まで)この根を漬物として食べた。歯切のよいピリッと辛いところが好まれた。戦後山菜ブ−ムに乗って復活するやに見えた 0 0 島前の文化財 9 16 32 た如何でしょうか、その後の話はまだないようだ。コナ(アブラナ)。アブラ菜の種を密蒔して春になって薹立したのを(ひきたちと云う)ひたし、漬物、煮食などする。クスノキ科。フクギ(クロモジ)。フクギは餅鼻などをこの枝につけ福木に 0 0 島前の文化財 9 16 41 した事によるが私はこの福木にしたものを見た事がない。この来は外傷薬として有名であるから薬用木としてのフクギの名が入って来たものと思われる。用法も近年は内服薬と変って来ている。薪を樵る時代には昼食などの折はこの木で箸を作った 0 0 島前の文化財 9 16 47 。野外で箸を作るときは先ず山の神に供える分を先に作りお供えしてから後に自分等の分を作った。シママツ(ハマビワ)。海岸に多い暖地系の植物で漁師が沖に出て魚礁などの方位を見たりなどの折に目標木などになる木で一見して黒松同様に黒 0 0 島前の文化財 9 16 54 々と見える事からこの名がある。アザケ、アサカヤ、ガアガシバ(ヤブニッケイ、イヌガシ、シロダモ)。島前ではこの方言は乱れて明瞭でない。以前ははっきり区別したはずだが関心が薄れ利用しなくなるとこのようになる。一応シロダモをアザ 0 0 島前の文化財 9 16 60 ケと呼ぶようだがはっきりしない。タンノキ(タブ)。隠岐では多い木、大木も残っているが一般の山林には大木はない。酒屋の酒しぼりの酒船を作る。モクレン科。ハナノキ、ハナ(シキミ)。仏に供える。盆とか正月、彼岸などが近づくと樒を 0 0 島前の文化財 9 16 69 採る為に山に入る。最近造林や薪炭作業が行われないので形のよい樒は採れなくなった。その為か近年これを掘って里内に植える人が多い。ツズラフジ科。ツズラ。(オオツズラフジ)。太い蔓を神経痛の薬とした。若い蔓はクズと同様に採って篩 0 0 島前の文化財 9 16 76 を作ったり、負篭を作ったり農具などをくくるなど多用された。アケビ科。アクビ、アッポタテ(アケビ)。ミツバアケビもゴヨウアケビもアケビも区別せず皆アケビだ。この雌花をアッポタテの花といって子供は奔んだ。この花の雌芯を取って手 0 0 島前の文化財 9 17 6 のひらに乗せてアッポタテタテと囃しながら片方の手で手首をポンポンたたいていると雌芯の先に粘液が出ているのでこれがひっついて立つ、これがアッポでアッポとは幼児の事である。ヒヨビ、フョビ、フユビ(ムベ)。秋たけて着物の裾がふく 0 0 島前の文化財 9 17 13 らはぎにすれてヒリヒリと皹がする頃になると子供達は連れ立って山遊びに行く、ヒヨビ食いである。奥山でヒヨビの大藪を見つけると、これが子供達の山賊ごっこや、戦ごっこの城になったり、巣になったりする。藪をハンモック状に編んで外か 0 0 島前の文化財 9 17 19 食物 ら見えないようにしたり、梯子をつくったいなかなか忙しい。勿論兵糧係はヒヨビの実を集める。ヒヨビもよく熟して中の肉が黄味のものが上等とされていた。日暮になるまで懸命に遊び、食い、歌いながら帰った。方言について、アクビは何とな 0 0 島前の文化財 9 17 26 く秋の感じがあるのかこのムベは晩く熟すので冬を思いフユビとなり勝である。キツネノボタン科。ウシゴロシ(センニンソウ)。毒草で牛馬も食わない。引草(草飼いと云う)していても牛はセンニン草ところに来るとここだけは除いて行く。コ 0 0 島前の文化財 9 17 33 ンペトグサ(タガラシ)。子供達はハメサンゴトする時にこの実をコンペトとして取った。ハメサンとはママゴトの事だ。毒草の事は知っていた。ナデシコ科。ヘズリ、ヒヨコグサ(ハコベ)。どこの家でもメメを飼っていた。春になると又どこの家 0 0 島前の文化財 9 17 40 でも雛が出た。竹の大きな目篭の中で遊んでいた。この飼料にハコベをつかった。ナデシコ(カワラナデシコ)。ジシバリ(ツメクサ)。ギッシリと密生するのでこの名がある。スベリヒユ科。ハエトリグサ(スベリヒユ)。効果は分らないがこの 0 0 島前の文化財 9 17 48 大株を家の入口などにつり下げて蝿の防除をした。チョウチコ(マツバボタン)。この草花は昔よく作られて夏になると雨切石の所などに列を作って生え赤、黄、白などまばゆい位に美しい花を咲かせた。チョウチコの意味は分らない。チコは小さ 0 0 島前の文化財 9 17 55 いと云う感覚か。ヒユ科。ヒノハ、フノハ(ヒユ)。昔は食べた。近年迄は御盆の折仏前にお供えするだけになって、今はお供え用にもしない。お盆の16日になるとホ−ケ棚は青竹で玄関脇に作られた仏壇である。ホ−ケは仏である。)皆帰られ 0 0 島前の文化財 9 17 63 るので15日に桐の葉に供えた。ソ−メン、コンニャク、フノハなどを桐の葉にそのまま包んで、ホ−ケ棚も作らなくなった。ヒノハ、フノハはヒユノハの訛ったものである。タデ科。カラクサ(ヤナギタデ)。ウシクサ、ウシノヒテイ、ミズクサ 0 0 島前の文化財 9 17 72 (ミゾソバ)。葉の形が正面から見た牛の顔型なので牛の名を取ってウシクサ、ウシノヒテイ。ヒテイはヒタイである。ミズクサは水辺に有る草ではっきり方言が残っているのはどこにでもある便利な牛の飼料草である為である。ウシズイカ(ギシ 0 0 島前の文化財 9 18 1 ギシ)。新芽のかぶっている薄い膜を取ってふくらませて遊んだ。スイバに似ていて牛が食べる草なのでウシズイカ。スイカ(スイバ)。酸パイ茎の皮をむいて噛んだ。酸いからスイカ。イラクサ科。ケ−ジ、シリヌグイ(ヤブマオ)。ラセイタソ 0 0 島前の文化財 9 18 10 ウ、オニヤブマオなど皆を呼ぶ名である。ケ−ジが普通の呼名だ。大正のはじめ頃までは一般に紙は貴重品でトイレットペ−パ−などはなく便所いやその頃はセンチ(雪隠の訛)でセンチには落藁があったり古い太い大綱がひっかけてあってそれを 0 0 島前の文化財 9 18 16 ほどいて使った。古綱のほどいたのは柔かくて上等であった。山で用をたす時は勿論この葉を使った。ムシオ、ウジゴロシ(カラムシ)。皮を衣料にしたらしく人家の近くに多い植物である。便所の中に入れて駆虫用にした。それでウジゴロシの名 0 0 島前の文化財 9 18 22 がついた。メラ(イラクサ)。手などがこの植物に触れるととげにさされて痛い、その痛みをチッチッハシルと云う。ハシルと云う痛みは歯の痛みも云う。特異の痛みである。メラに刺されたら歯糞をつけると治ると云う。美田の子供は乾いた土の 0 0 島前の文化財 9 18 29 粉をつけた。この草も近年は少なくなった。クワ科。モグラ(カナムグラ)。畑の隅や堤などに繁茂して嫌われる草だ。イワマメ(イタビカズラ)。子供達はこの植物に食われるやつと食われぬ奴があると偉そうに云う。俺は知っていると云う風貌 0 0 島前の文化財 9 18 37 で云う。雌雄異株の植物で雄木の方はいつまでも緑色の実で食われない、雌木の方は危険な場所にあっても子供は食いに行く。黒紫でイチジクと同じようにうまい。岩の上などに多くあるので岩豆と云う。クソマメ、オボオボノキ、バタバタ(イヌ 0 0 島前の文化財 9 18 44 ビワ)前物と同様子供はこの実を食べる。クソマメの名は雄木の実を採って食えないから腹立ちまぎれにクソマメとなったのではないか。この雌木の実は可成甘い。これも黒紫色に熟す。バタバタはこれの広い葉が風に吹かれての音から来ち名であ 0 0 島前の文化財 9 18 51 る。ニレ科。ヨノミ(エノキ)。崖や川岸などに多い木で子供はこの実を食うためにこの木に登って叱られるが、叱る親も子供の時に登って食っていてしかる親にしかられている。その親も登った。おかしなものだ。島後にはよく街道にこの大木が 0 0 島前の文化財 9 18 59 あり、中条の大木は見事なものであったが昭和戦後になくなった。材は柄の木だが隠岐ではメメとしては上等のものが出来ると珍重された。ネレノキ(アキニレ)。「ヨノミはなってもネレの木だ。」と諺がある。これは面白い諺で諸方にあるらしい 0 0 島前の文化財 9 18 66 。榎の実は成っていてもこの木は楡の木だと強情を張る、この事が面白い。戦後しばらく食糧難で色々植物には苦労した。ニレの葉を乾かして粉にし他の殻類と混ぜ合せて捍ねると葉の粉から粘りが出て餅が出来る。ハアソの木、ソメガワノ木(コ 0 0 島前の文化財 9 18 73 ナラ)。ドングリの成る木を呼ぶ、木の皮のタンニンを利用して網などを染めた。ヤナギ科。ネコノチンポ(ネコヤナギ)。芽が出て葉が伸びると皆この木を忘れてしまうが早春に銀白の花芽が出るほど注目する。毛なみが猫の感じで可愛いいが、 0 0 島前の文化財 9 19 3 猫のチンポの名がある。長野県のある地方では可愛らしいのでヤナギボボとかヤナギボコとか呼ぶ。ボコ、ボボは乳児の事である。フキの薹もフキボボ、フキボコである。隠岐ではボボとは児でなく児を作る男女の作業の事である。この用な閏房の 0 0 島前の文化財 9 19 9 事などは隠語めいて分らない事が多いがこの方言は分かってみればなるほどほのぼのとしたものである。どこから伝来したかは分らない。バンノキ、バタバタ(ヤマナラシ)。バタバタはこの木の葉の音から来た名である。バンノキの意味は不明。 0 0 島前の文化財 9 19 16 クルミ科。ノブ、ソメガワノキ、カサカサノキ(ノグルミ)。何故ノブなのか分らない。ソメガワノキはこの皮を染料にして網などを染めたからである。カサカサの木は、子供主に女子が奔んだが実がカサカサと音を出すからである。椎茸の原木に 0 0 島前の文化財 9 19 23 する。ラン科。ヘ−クリ(サイハイラン)。この根茎をすりおろしてアカギレの治療薬とした。ヘ−クリの意味は分らない。ネジレバナ(モジズリ)。花がねじれて咲くので注目したか。ショウガ科。ミョウゴ(ミョウガ)。ヤマイモ科。ハナタカ 0 0 島前の文化財 9 19 33 メン(トコロ)。メメ果を唾で鼻先につけて鼻高面をかぶったつもりで子供は遊んだ。ヤマイモ、トロロイモ、ジネンジョ(ヤマノイモ)。ユリ科。マキノハ、サッガタリ、ウマガタリ(サルトリイバラ)。古くはウマガタリ、普通はサッガタリ、5 0 0 島前の文化財 9 19 42 月(旧)の節句が来ると餅作りが粽作りに変りこの植物葉をマキノハと呼んで粽作りをする。サッガタリは猿の意味があるように感じられるが分らない。カタリは刺があってひっかかる植物の事である。ウマガタリは馬の蹄のような葉だからかく呼 0 0 島前の文化財 9 19 48 ぶ。ジイガタマ(ジャノヒゲ)。地の玉の意味かも。短かい葉にかくれた青藍色の玉をさがしてその皮をむいて石に打ちつけると中空高く跳んで行くのをたのしんだ。ババガタマ(ヤブラン)。西ノ島の高崎山にジ−ガ山があり一方にバ−の山があ 0 0 島前の文化財 9 19 56 る。ジ−とバ−で対になって安心する。バ−の山でなく坊の山で山伏の修行場があった処である。坊がバ−になったから落ちつかない反対の高地をジ−が山とやって落ちついたものと思う。この伝でジ−ガタマに似た実の成るヤブランをババにして 0 0 島前の文化財 9 19 62 安心するが、この方の実は小さくて面白くなかった。ヤガン(コオニユリ)。外浜の蛭子さん側の岩山にも向う島の崖にも隠岐の海岸辺にはこのユリが多い。花の形がメメ燈に似ていて野原にあるので野メメが、それにしては学がありすぎるような気が 0 0 島前の文化財 9 19 69 する。昔の子はヤガンの雄芯の花粉を顔につけて遊んだ。鬼の様な顔になる。エ−、ヤエ(ウバユリ)。根茎をつぶして澱粉をとる。いわゆる精がとれる。セ−がエ−に変りエ−からヤエに変化したがエ−の地方とヤエの地方がある。この植物が成 0 0 島前の文化財 9 19 76 熟すると薹が立って花が咲く、この花の咲くのを男エ−と云う。どこで区別が出来るかと聞けば男エは節があって分ると云う。男エ−は掘ってもエ−が採れないと云う。実をつけて完熟するとこの株は枯れる。ヘリ、ヘル(ノビル)。ヒルがヘリ、 0 0 島前の文化財 9 20 5 ヘルに訛っものである。味噌和、ことにニナとの和物は最上の珍味である。ノビルの野生は沢山あるので賞味したいものだ。ゲボ(ギボウシ)。昔はこの葉根を食べたが今は忘れているようだ。ギボウシのギボがゲボに変化した。子供はこの広い葉 0 0 島前の文化財 9 20 12 を茹でたり焙ったりして柔らかくしてふくらませて奔んだ。コナギ科。ヨメガサラ、ヨメノサラ、オモダカ(コナギ)。田圃の雑草で百姓泣かせの草だが面白い名前をつけている。小さい皿のような葉を嫁の皿と名づけている。可愛らしい嫁、「い 0 0 島前の文化財 9 20 20 い女房(ニョウバ=女)の小女房。」の諺の可愛い小か。嫁にくやの小か、さだかでない。オモダカは誤認の為のものと思う。ツユクサ科。カメガラ、トンボクサ(ツユクサ)。女子がハンカチや紙に絞模様を作って遊んだ。又トンボの餌として芽 0 0 島前の文化財 9 20 27 の元のやわらかいところを食べさせた。サトイモ科。エベクサレ(マムシグサ)。マムシに指などを噛まれると指が腐る事もあるので古くはマムシの事をユビクサレと云ったにちがいない。この草がマムシの模様があるのでエベクサレと呼ばれる。 0 0 島前の文化財 9 20 35 この事からトマトを指さすとトマトが腐るとか、蛇を指さすと指が腐るとかいい、蛇を指さした時にはいそいで自分の歯で指さした指を噛んで歯型をつけると呪がとけると信じていた。ギシギシ(セキショウ)。この草の花穂を抜き取って白いとこ 0 0 島前の文化財 9 20 41 ろを歯に当て、キュキュとこすって鳴らす。ギシギシとやるのでこの名が出来た。ハンゲ(ハンゲショウ)。薬草としての名が知らされて出来た名だと思う。駆除のむずかしい草の一つだ。カヤツリ科。ネコノテナワ、センコグサ(クログワイ)。 0 0 島前の文化財 9 20 49 田圃の雑草で駆除の困難な草だ。西ノ島ではネコノテナワというが若い人達はこの方言をあまり知らない。話しをするとあのパチパチ音のする草の事かと云うから後にはパチパチ草と呼ぶようになると思う。海士町のセンコグサは形態からの呼び名 0 0 島前の文化財 9 20 55 でピッタリだ。ネコノテナワの意味は分らない。スゲ(ミズカガヤツリ)。田圃のカヤツリ草の類をスゲと呼んでいる。誤認誤称である。ミノスゲ(カサスゲ)。軽い上等のミノをこの草で作った。刈り取ったスゲを海水につけて干し保存していて 0 0 島前の文化財 9 20 63 暇を見て作ったと云う。このスゲに似たナキリスゲも使ったと思われる。ウシノケ、ジシバリ(マツバイ)。マッチの軸位の長さの針のような草だ。一面にギッシリと生えるとこの方言がぴったりと当る。ジシバリは一面に生えると土地に皮が出来 0 0 島前の文化財 9 20 69 たように鋤などでも耕し難くくなるほどだと云う。この事方言の地縛である。コウブシ(ハマスゲ)。薬草としての香付子がそのままの名だ。駆除がむずかしいので百姓はよく知っている。ホモノ科。タケノコグサ、タケノコヘチヘ(コブナグサ 0 0 島前の文化財 9 20 78 )。竹のこは葉が笹の葉のようで成長盛りの芽がそろって立っているところが筍を思わせる為か、ヘチヘは前述の秋の干草で述べた通りである。コブナ草は染料として今も利用しているところもあるが隠岐ではその記録は見つかっていない。キミ、 0 0 島前の文化財 9 21 7 キビ(モロコシ)。アワヘチヘ、ネコノシッポ(エノコログサ)。アワヘチヘはアワのような辺地生の意味である。犬のころでなく猫の尾を連想するとは面白い。スモトリヘチヘ、マタヘチヘ、フジセ(メヒシバ)。スモトリ草の類を皆このように 0 0 島前の文化財 9 21 14 呼ぶ。オヒシバについては干かねるので生草のまま飼料とするとの事である。フジセの意味は分らない。ミチシバ(チカラシバ)。昔の子供はよく兵隊ごとをして遊んだ。道のこの草を結んで鉄条網といって沢山作って大人をひっかけて叱られた。 0 0 島前の文化財 9 21 22 ムギクサ(カモジグサ)。生垣などの麦の葉によく似たこの草を見つけると一枚一枚抜いて根元を括り葉を細く裂いてカモジを作って色々な髪型に結って遊んだ。勿論女子の遊びである。スモトリグサ(オヒシバ)。草相撲をとって遊んだ。穂を抜 0 0 島前の文化財 9 21 28 いて穂先の2本を短く他の2本を長くして、この2組を組ませて台をトントンたたいて早くひっくり返った方が負けだ。セ−フナ、トマゲ(チガヤ)。まだ穂になって出ていないのを抜き取って中の白い柔かい穂を食べる甘い。何でセ−フナか分ら 0 0 島前の文化財 9 21 35 ない。トマゲは苫を作る材料だから。これでタタミ表やミノなども作った。シノダケ(ヤダケ)。矢を作るのに使った茸である。若竹を竹縄にして昔の人は垣、薪などを上手に結束した。丸竹のままで、又割ったので簀を作った。ニョウバダケ(メ 0 0 島前の文化財 9 21 43 ダケ)。用途の広い竹あ。子供は竹鉄砲、笛、釣竿、節一つ残して切ったのを割り、手でガラカラ音をさせてもみ、口に銜えて吹くと法螺のような音がした。長い竹はヤス竹にする。昔はイカがよくとれた。イカ干の竹ぐしにされた。海岸は勿論道 0 0 島前の文化財 9 21 49 路にも干される事があって、まるでイカのトンネルであった。矢竹と同じく竹縄にもする。オトコダケ(マダケ、ハチク)。マダケ、ハチクは男竹である。ニョウバダケに対して節高で大きいので男竹で安心する。筍の皮を拾いに行って干して保存 0 0 島前の文化財 9 21 57 する。毎日拾いに行かないと色が悪くなる。飴なども包むので商売人が買い集めた事もある。自家用にもする。弁当も包む、草履も作る。木履の鼻緒にもした。日笠などの細工物も作った。子供等は筍の皮の中に梅漬の実やシソを入れて吸う。子供 0 0 島前の文化財 9 21 63 は酸いいものが好だ。吸ううちに皮が赤くなり、綺麗に染まると安心する。塩分も多いので水を飲んで親にしかられる。又筍の生皮で傘などを折って作った。一年生の若竹は秋の稲架作の時に竹縄として使われた。常立(ジョウダテ)の立木(タテ 0 0 島前の文化財 9 21 69 ボコ)に材料をくくりつけるのに使われる。この竹縄をエエソ竹と云う。エエは結いでソは素かと思われる。ト−ギン(トウモロコシ)。この皮で女子は髪型(カツラ)作りをする。出来上ると墨を塗って仕上げる。バッカセ、バ−ツカセ(オオエ 0 0 島前の文化財 9 21 75 ノコログサ)。海士町での呼び名、意味は一寸分りかねる。ヅネゴ、ミャ−ミ(カラスムギ)。麦他は毛の中のヅネゴ取りに行くと事もはこの実を開いてツバメの形にして飛ばして遊ぶ。ヅネゴは連れ子の意味か、ぶらぶらと連なった実がこの呼び 0 0 島前の文化財 9 22 4 名となったか。ミャ−ミの意味は分らない。これは浦郷方面での方言である。ゲシダマ(ジュズダマ)。オテダマの中に入れたり、数珠玉を作って遊ぶ。オテダマは近代語で古くはコブ石遊びで石の丸いので遊んだと言う。磯の丸石を拾ったり、瓦 0 0 島前の文化財 9 22 11 の片などをたたいて丸くしたりなどして作った。コブとは瘤の事でこぶのような石の意味である。袋製のオテダマが入って来てもこれをコブと云っていたが今の子供はもうコブは知らない。タゴメ、ピ−ピグサ(スズメノテッポウ)。田面一面に生 0 0 島前の文化財 9 22 18 えるこの草のように稲がよく出来る事を祈っての願望の呼び名タゴメは分るような気がする。ピ−ピグサは子供達がこの草の上部を抜いて皿に穂を抜き残りを口で吹いてピ−ピ−鳴らすからこの名が出来た。サジオモダカ科。ツラワレ、ハサミグサ 0 0 島前の文化財 9 22 25 、ミツバ(オモダカ)。葉の面が鋏の様に分れているのでハサミグサ、面が分れているのでツラ(面)割れ。葉が3つになっていると見てミツバと呼ばれている。ツラワレは海士、ハサミグサは西ノ島、ミツバは美田の一部で云う。ヒルムシロ科。 0 0 島前の文化財 9 22 33 スガモ、ツ−ツ(アマモ)。スガモは能登以北の海の植物で隠岐には見られない。多分アマモを誤認しての呼び名と思われる。ツ−ツは子供達がこの草を奔んで葉鞘を吹く時にツ−ツ−といいながら吹くのでその名がある。ヒノキ科。ネズミサシ( 0 0 島前の文化財 9 22 40 焼火 ネズ)。ハイネズ(フセネズ)。ネズの矛に這うものを呼んでいるがハイネズは別品である。アスカベ(クロベ)。島前には少ない木だ。焼火山には巨木があったが風で倒れた。2代目が今すくすく伸びている。マツ科。ニョウバマツ、メマツ(ア 0 0 島前の文化財 9 22 49 カマツ)。島前には多くないが自然林の中に残っている。ニョウバとは女の事である。オトコマツ、オマツ(クロマツ)。モンノキ(モミ)。イヌマキ科。マキ、ランカンノキ(イヌマキ)。自然木はないようだが神木として相当太いものもある。 0 0 島前の文化財 9 22 57 ランカンは擬宝珠の意味で実がこれに似ているから。カニクサ科。シャミセングサ(ツルシノブ)。この蔓の皮むき1本の紐を作りピンと張って弾いて音を出して遊ぶ、三味線遊びの草。ゼンマイ科。オトコゼンマイ(ゼンマイ)。胞子葉の方を呼 0 0 島前の文化財 9 22 66 ぶ方言、男の子はこの綿毛を血止めの薬としていつも持っていた。だれかが傷をするとすぐに着物の襟などに入れていたのを出して傷につける。自身が傷をすると他の子はお前センマイの綿を持っているから怪我したのだといった。前もっての用意 0 0 島前の文化財 9 22 72 は怪我のもとというわけであった。ウラボシ科。ツボ、シダ(ワラビ)。ワラビは食われる新葉の伸びていないものの事で伸びるとツボだ。意味は分らない。シダは一般的な呼び名。昔は牛馬の駄屋の敷草にした。トクサ科。マツブキ、ツギクサ( 0 0 島前の文化財 9 23 3 スギナ)。松葉の様な形でマツ、フキは茎が長いから出た名か。ツギ草はツクシや、スギナの節を千切って又節の袴にさし込んで切れ目を当てる遊びから出た呼び名。ウラジロ科。モロムケ(コシダ)。ところによって正月の〆飾にコシダを使う、 0 0 島前の文化財 9 23 11 このコシダをモロムケと呼ぶ。葉の形が相称で優雅に見えるからこの名がある。イワヒバ科。イワマツ(イワヒバ)。水気のある高い山の岩場にある寿命の長い植物で盆栽作にされる。岩場にある美しい(盆栽で一番は松で美の極)植物の意味か。 0 0 島前の文化財 9 23 20 (未完)。 0 0 島前の文化財 9 23 21 なぞなぞ。木村泰信。昔の旧正月の楽しみは隣々のお爺さんの昔話を聞きに行くことや炬燵での糸どりや謎かけなどがあった。謎もほとんど誰もが知っていた。数もあまり多くはなかった。豆腐48丁そら何じゃ、障子。海の中の俵そら何じゃ、な 0 0 島前の文化財 9 23 28 まこ。三角桝に粉1パイそら何じゃ、そば。六角堂に小僧一人、人も詣らにゃ戸は開かぬそら何じゃ、ほうづき。ぐるぐる廻りながら糞するものそら何じゃ、石臼。朝になるとひっこんで夜になると出るものそら何じゃ、雨戸。黒牛の尻を赤牛がな 0 0 島前の文化財 9 23 37 めるそら何じゃ、くどの鍋。上は大水下は火事そら何じゃ、風呂。お前やあっち行け、私しゃこっち行くこんだ真中で合いましょうそら何じゃ、帯。いる時にいらず、いらん時にいるものそら何じゃ、風呂蓋。座われば高あなり、立ちゃ低くなるも 0 0 島前の文化財 9 23 46 のそら何じゃ、天井。家のまわりで太鼓たたくものそら何じゃ、雨だれ。白壁骨なしそら何じゃ、豆腐。山から太鼓たたいて来るものそら何じゃ、あらね。山で綿ぼうしかぶっているものそら何じゃ、ぜんまい。あとさき金山、中チックリ竹山そら 0 0 島前の文化財 9 23 55 何じゃ、きせる。天にもつかず、地にもつかず中にぶぅらりそら何じゃ、自在かぎ。青竹節なしそら何じゃ、ねぶか。青くて白くて赤いものそら何じゃ、西瓜。三ツ目小僧に歯が2枚そら何じゃ、下駄。白竹節なしそら何じゃ、ろうそく。 0 0 島前の文化財 9 24 1 隠岐の石鏃と石匙。田邑二枝。黒燿石の原産地。隠岐は黒燿石の原産地であるが、その主山地は島後島であって、島前諸島では山地を見ない。なかでも西郷町津井(さい)の行け周辺から産するものが良質といわれている。俗に馬蹄石といわれてき 0 0 島前の文化財 9 24 8 観光 たもので、明治、大正の頃には、硯材、印材、風鎮等とし、隠岐土産として販売され、現在も観光みやげ品として島外へ流失している。古代隠岐の石器としての利器、その原料の大部分が黒燿石である石鏃の検出概要をまとめておきたいと思う。勿 0 0 島前の文化財 9 24 14 論、これで全部であるのではなく、現時点まで明かに照明されたものに限られていることはいうまでもない。あわせて、これは黒燿石を主材とする石鏃とは反対に硬質火山岩を主材とした石メメのことにもうふれておきたいと思う。隠岐で検出された 0 0 島前の文化財 9 24 20 石鏃。一、西郷町富尾遺跡。1三角鏃で逆刺のないもの。2三角鏃でU字形逆刺のあるもの。3三角鏃でV字形逆刺のあるもの。4三角鏃で方形逆刺のあるもの。5柳葉形、すべて黒燿石製で計17。二、中村湊遺跡。1三角鏃で逆刺のないもの。 0 0 島前の文化財 9 24 30 2三角鏃でV字形の逆刺のあるもの。黒燿石製で計24。三、西郷町岩井津遺跡。1三角鏃で逆刺のないもの。2三角鏃でV字形の逆刺のあるもの。黒燿石製で計5。四、西郷町くだまり遺跡。1三角形でV字形の逆刺のあるもの。黒燿石製で計2 0 0 島前の文化財 9 24 38 島後計48本。五、西ノ島町別府遺跡。1三角鏃でU字形の逆刺のあるもの。黒燿石製1、安山岩製1計2。六、知夫邑古海遺跡。1三角形でU字形の逆刺のあるもの。黒燿石製計1。七、海士町郡山遺跡。1三角鏃で逆刺のないもの。44本。2 0 0 島前の文化財 9 24 49 三角鏃でU字形逆刺のあるもの。41本。3三角鏃でV字形逆刺のあるもの。33本。最小形長さ1・5?のもの1あり。4X形のもの1本。5有茎のもの1本。6柳葉形のもの1本。7三角鏃で方形の逆刺のあるもの5本。8脚部欠損のため分類 0 0 島前の文化財 9 25 11 不能11本。計137本。合計188本。島後島48本、西ノ島2本、知夫利島1本、海士町137本。以上隠岐各地から検出された石鏃の大体を見ることができる。島後各遺跡のものは、中村湊を除いて大部分は藤田一枝氏が、海士町郡山のもの 0 0 島前の文化財 9 25 20 は田村二枝がどちらも昭和22年頃以降の検出である。中村のものは関西大学の発掘によるものである。ここにあげた石鏃の分類については、隠岐調査報告書「隠岐」に公表された島大、山本清、関大、石の博信先生の取纒めによったものである。 0 0 島前の文化財 9 25 28 田村採集のもののうち昭和32年の時点までの54点以外のものはすべてその後のもので、分類は田村によるものである。別府安藤家散布地のものも同じ。石匙。硬質の火山岩で作られた「石匙」は郡山遺跡から17点余の検出があった。果皮、魚 0 0 島前の文化財 9 25 35 皮、獣皮などをはぐのに使用されたものとされて「皮はぎ」とも呼ばれていたもので、縄文時代の生活用具としては日常欠かせないものであり、その数も多かった筈であるが、消耗も多い用具であったようである。鋭利なことは黒燿石の加工面には 0 0 島前の文化財 9 25 40 及ばないが、便用の際の刃部のもろさによる欠落があり、加工食料への砕片混入の危険などから黒燿石は意識的に用いられなかったのかもしれない。刃部の構造も同一には作れない。黒燿石製のものもあることはあるが、その用途は特別であったの 0 0 島前の文化財 9 25 46 かもしれない。郡山遺跡の石匙。石材は安山岩が主である。風化した表面からの印象は灰白色を呈し、一見もろそうに見えるが内部は黒色で強靭である。頁岩質層を示すものもある。定形的な縦型と横型があり、ツマミは○の中央にあるものと斜め 0 0 島前の文化財 9 26 7 上部につくものがある。刃はツマミと直角で、使用のために丸みを帯るものがある。横形、ツマミのあるもの8、ツマミのないもの3、縦型、ツマミのあるもの4、ツマミのないもの2、計17点。郡山石匙の代表的なものを以上17点で説明する 0 0 島前の文化財 9 26 16 ことができる。以上はすべて黒燿石以外の石質のものであるが、黒燿石製のものになると、刃器としての用途と形式の趣が随分変ってくるので別に考察してみたいと思っている。石鏃の場合の使用目的と石匙の場合の使用目的の相違が、どちらも鋭 0 0 島前の文化財 9 26 22 利であることを必要としながらも、刃部を構成して継続使用下場合、その強靭性をより必要とするのが石匙であって、石匙に純良なガラス質黒燿石を敬遠したのであれば、それは古代人の生活の知恵であったのかもしれない。突さし、切断の一発効 0 0 島前の文化財 9 26 28 果には断然優れたその鋭利性を追求された黒燿石は貴重な石器材料であったことはまちがいないが、その用途には限界があったといえるのではあるまいか。黒燿石製の実用された石斧がないこともつけ加えておこう。★この隠岐の石鏃検出分布表か 0 0 島前の文化財 9 26 34 ら一つの疑問が生れる。黒燿石原石山地は島後津井の行け周辺と五箇村を主とし、島前に山地はない。にもかかわらず、島後の数が少ないのは以外である。郡山遺跡に断然数が多い。この数は最少にとどめても私の知見では更に50点以上増すこと 0 0 島前の文化財 9 26 42 になるのは次による。松浦静麿氏20点以上、宇野岩雄氏30点以上戦前当時の採集があった。海士中学校郷土班=戦後の採集があった。★原石山地とは海をへだて、獣類は棲息していなかった。したがって狩猟より漁撈に比重のかかっていた筈の 0 0 島前の文化財 9 26 50 郡山中心の縄文時代の人達が何故石鏃の保有率が高いのであろうか。★郡山遺跡の場合、松浦、宇野両氏の戦前からの採集はあった。戦後においては島後数遺跡は藤田一枝によって丹念に精査が行われている。宮尾の例のように。関大、島大の発掘 0 0 島前の文化財 9 27 6 調査もあって調査に精粗の差はないといえる。疑問点の解明は今後にかかるところが多いのであるといってもよかろう。★島後地区の黒燿石破砕片の散布地には更に入念な目を根気よく注がれる必要がある。島前地区でも、西ノ島安藤家周辺の散布 0 0 島前の文化財 9 27 14 地には注意の目がはなせない。 0 0 島前の文化財 9 28 1 隠岐、西ノ島の俚諺(一)。村尾富夫。はじめに。古くから云い伝えられた言葉の中に、ドンバの酒とり。からすの赤羽。又あまり上品でないものにさけたもんが出たがる。屁にまじる糞。など却々うがちのある面白いものがあって、少からず興味 0 0 島前の文化財 9 28 11 をもっているところであるが、これは俚諺なのか俗信なのか厳密には分類しかねるので、総括して「俚諺」とした。現在では旅行やテレビジョンの普及でふるさとなまりが急速に失われつつあって、この様な俚諺ももはや言葉そのものさえ難解なも 0 0 島前の文化財 9 28 17 のになっている様で、このままでは軈(やが)て忘れ去られようとしている現状なので、せめて覚えているものだけでも記録として残して置きたくペンを執った。然し本格的に採集していたわけでないので、よく使われる記録にあるものを書並べた 0 0 島前の文化財 9 28 22 ので自ら限界がる。これを機に今後も採集して報告したいと考えている。本稿を草するにあたって、木村康信、松浦康麿両氏の御助言と、横山弥四郎著「浦郷町史」の方言の項に多大なる啓示を得たことに感謝している。記載について。(1)はじ 0 0 島前の文化財 9 28 29 めに方言で書いた。(2)他の地区にもあるが、こちらでも多く使われているものはとり上げたが説明は簡単にした。(3)記載順は50音順とした(標準語のもので)。あかめが判らんにくらめが判っか。(明るいのが判らないのに暗いが判るか 0 0 島前の文化財 9 28 36 )あまり利口でない者が只でさえ何も判らないのに物事の裏が判る筈がない。あと這うガンがモチョふろう。(あと這う蟹が餅を拾う)何に拘らずとかくわれ先にと先を争いがちである。ところが案外にのそのそしていた後の人に思わぬ福が当るこ 0 0 島前の文化財 9 28 43 とがある。(類似語)残り物に福あり。あっこと三度。(あること三度)事件は連続して起りがちである。しかしそれは必ずしも絶対的でない。良いことはあまり気にならないし忘れがちであるが、よくないことが2度あるとこの様に言って警戒す 0 0 島前の文化財 9 28 51 る。失敗が繰返されないようにとの戒め。いじくのかわ。自分は少しも働こうとしないでじっとしていて人が働いているのを見ている状態。一文おしみの百しらず。少しばかりのことに物おしみをする者が大きな損になることには気づかない。いお 0 0 島前の文化財 9 28 59 (魚)は大名に焼かせ。「魚は大名に焼かせ、餅は乞食に焼かせ」と続けて言う。魚焼きはゆっくりと焦げるくらい焼いたのが味がよいし、餅は早く食べようと傍にいて何度も何度もひっくり返して焼いた方がよい。おし(牛)の糞にもだんだん。 0 0 島前の文化財 9 28 65 牛の糞にも段々がある様に人にもそれぞれ身分の上下(段階)がある。又物事を進めるにも順序があるという意味にも使われる。又一説に口先きだけのお礼の言葉ともいう。牛の角に蜂。牛は角を蜂にさされても少しも痛痒を感じないということか 0 0 島前の文化財 9 29 6 ら弱い者が身の程も考えずに強い者に立向っていくこと。(類似語)蟷螂の斧。おそとばあづの髪ゃいったこたねえ。(嘘と坊主の髪は結ったことがない)坊主には髪が無いので髪を結うことができない。それと同様に嘘は絶対に言わない。髪結い 0 0 島前の文化財 9 29 13 の「ゆい」と「云う」をかけた洒落。ンメもん食ってイダンすんな。(旨いものを食って油断するな)これといって大きい理由もないのに御馳走を食べさせられたときは後で何をやらされるかわかったものではない。要心第一。ンマの子のただ歩き 0 0 島前の文化財 9 29 19 。(馬の子のただ歩き)馬の子は生まれるとすぐに立上ってよたよたとあても無く歩くので、目的もなく歩き回ること。何にもならぬ無駄なことをする事。いいこた小人数。(宜い事は小人数)旨い物を食べるにしても、物を分配するにしても小人 0 0 島前の文化財 9 29 27 数の方が分けまえが多くて良い。古くから「しごた大人数ええこた小人数」(類似語)旨い物は小人数。大風が吹きやんだやあな。(大風が吹き止んだような)嵐のあとの静けさと同義語「大勢でごった返した後元の静けさに返ったとき」にこの様 0 0 島前の文化財 9 29 34 に云う。(類似語)大風の吹いたあと。大風にかげなし。台風は時々刻々に風向が変わってくる。台風でなくても大風になると「おとし」というものがる。この風ならわが家は安全と油断は禁物という戒め。横着もんのせくばたらき。(横着者の節 0 0 島前の文化財 9 29 42 供働き)横着者にかげってふだんぶらぶらしておりながら節供や休日など人の休む時に働く、といこと。働かなければ食えなかった昔の人はこの様にいって村休みを厳守させたものだろう。横着はヤンより悲し。(横着は病むより悲し)病気には薬 0 0 島前の文化財 9 29 50 もあり治療によって治すこともできるが横着者の怠け癖は治しようがなく病気をするより悲しいことだ、と横着者をわらう言葉。おこじの待ちぐれ。(おこぜの待ち喰い)おこぜは他の魚のようにあちらことら餌を探しまわるのでもなくヘドロをか 0 0 島前の文化財 9 29 56 ぶろうが砂に埋れようがじっとして餌を待っている。ということから物を与えられる迄じっとして待つこと。「おこぜの待ち暮し」という者もある。恐しもなンテエ(恐しいものは見たい)こわいけれどこわければこわい程よけい好奇心が募るとい 0 0 島前の文化財 9 29 64 もの。殊に小さい子には特にこの様な状態がみられる様である。一般にこわいものに対する好奇心。おたふくが甘酒に酔う。醜女の事を「おたふく」という。それが酒に酔うと一層みにくくなるというので、下戸が少しの酒に酔って醜態を演ずるこ 0 0 島前の文化財 9 29 70 と。負った子よりデエた(抱いた)子。背に負った子は目につかないのでとかく疎遠になりがちだが前に抱いた子はよく目につくので大切にする。この場合抱いた子は自分の子であり負った子は他人の子であるとも考えられる。自分の事を大切に守 0 0 島前の文化財 9 29 76 る。オジョ見りゃネがおめえ。(おじを見りゃ荷が重い)ここでいうおじは叔(伯)父ではなく隠岐ではじ二男以下の男を総称してオジ又はオジクラという。(因みに二女以下の娘はオバという)。この言葉は親が働いているところへおじが近づい 0 0 島前の文化財 9 30 5 て来たのでとたんに依頼心が起って力が抜けていく状態で、一般に人を見て依頼心の起るをいう。親に似た子びょうたん。メンデルの法則にほこり俟つまでもなく親子はそっくりというのが当然である。しかしこの様にいうときはとちらかと云えば 0 0 島前の文化財 9 30 11 嘲りの意をもって使われる事が多いようである。鍛冶屋の竹火箸。人の物ならどんな手数のかかる物でも作るのに自分の物は簡単な火箸さけ竹で間に合せている、というので「他人のことにばかり忙しくて自分の事はかまっていられない」。(類似 0 0 島前の文化財 9 30 18 語)紺屋の白袴、医者の不養生。数云やクド云う。「クド」というのははっきりしないが、クズが変化したものか。町誌にのってべらべらとおしゃべりをしているとつい言ってはならない事迄言って失敗する。「おしゃべりに対する戒め」。蛙のつ 0 0 島前の文化財 9 30 24 らに水。どんな事をされても平然としている。かけらより這え。(駆けるより這え)走って行けば早く行けるが転んで怪我をする事もある、這って行った方が安全だ。(類似語)急がば回れ。烏が物かくす。動物の習性から植物の一部を適当に隠し 0 0 島前の文化財 9 30 32 ておくものがるが必ずしもその隠し場所を覚えてはいないようである。ここで鳥をあてたのは鳥が常に人の身近かなところに居るからだろうか、一般的に物をしまいすぎて必要な時いくら探しても却々見つからない時のことを鳥が物隠した様だとい 0 0 島前の文化財 9 30 38 う。からすの赤羽。黒いからすがいくら赤い羽をさしても不似合いでお化粧にならないことから、ちぐはぐで似合わない装飾や化粧すること。枯木に烏も二度とまる。売買あっせんをしている際に商談がゆき詰って一旦中止の状態になった時にこの 0 0 島前の文化財 9 30 45 様に言って再び話をやり直すときに言う。即ち物事を見切りをつけないで再びやり直す。雁が飛びゃ糞蝿も。大きい雁が悠然と飛立つさまを見てくそ糞蝿が真似をして飛ぶ、というので「身の程も考えずに人真似をすること」(類似語)鵜のまねす 0 0 島前の文化財 9 30 52 る烏。木もと竹うら(うら=梢)。木は根元から、竹は梢の方から割るがよい。器用びんぼう。何でもできる器用な人はその手腕を利用して豊かな生活ができそうであるのに案外そうで無い事が多い。器用な人が謙遜してこの様に言うことも多い。 0 0 島前の文化財 9 30 60 臭いものに蝿がたかる。臭いものに蝿がたかるように良く無いものにはやはり良く無い連中が寄ってくる。腐っても鯛。鯛は魚の王様として珍重されているが腐ってもやはり鯛は魚の王であると言う事から「良いものは条件が悪くなっても値うちは 0 0 島前の文化財 9 30 67 変らない」。くちはち(口八)。口八丁の略で、八丁というのは思いのまま活動ができるということから「よくしゃべる」こと。口ばっかりのいか塩辛。烏賊塩辛の中では大変美味しいおかずであった。その塩辛を贈る約束をし乍ら、こんどこそ、 0 0 島前の文化財 9 30 75 今度こそと言うだけで少しも約束を果さない、といので「口先ばかり旨い事を言って実の伴わないこと」。口に風を通すだけ。ものを言うことを口に風通す、とさげすんで言う事からいらぬことをしゃべるだけ。会議などで何が一言云わねばおかぬ 0 0 島前の文化財 9 31 3 という通称一言居士といわれる人を評していう。くらめのじんぎ。じんぎは人のためにする布施(仏語)である。日本人には寄附にしても奉仕作業にしても自分の名をはっきり士ってもらわないとやりたくないという気持が有る様でじんぎはΨたけ 0 0 島前の文化財 9 31 10 どそれが誰にも知られない時にいう。「そげなくらめのじんぎはせえでもええ」等という。こどま(子供は)風の子。子供はどんな寒さにも平気である。げすのかんぐり。げすは下衆。考えの浅く心卑しい人のあて推量。冴えたあとはうれになる。 0 0 島前の文化財 9 31 20 子供が賑やかに高笑いしたり騒いだりしてはしゃぎ回ったあとはきっと泣く。涙を雨にたとえていう。うれ。雨のことをいう。「ええうれがした」等という。(類似語)高日和の後は雨だ。さけたもんが出たがる。破れたところからぼろがはみ出る 0 0 島前の文化財 9 31 27 ようい、とかく出なくてもよいような者にかげって前へ出たがる。三寸の夜。三寸は小さいの意。寒いふとんに入って小さく縮こまって寝るので、「大変寒い夜のこと」「今夜は三寸の夜だワイ」などという。シイラの先走り。籾の実の入らぬのを 0 0 島前の文化財 9 31 36 しいらという。脱穀の時にしいらは先に出ていくので先に出しゃばる者を軽蔑して言う。シイラ(魚)がよく穫れるとき小さくて金にならない小物は魚群の先にたっているので餌につくのは小物で大物は却々穫れないこと。と2種の考えがあるよう 0 0 島前の文化財 9 31 42 だ。後者は漁師でないと判らない監察でいかにも海に生きる人達の俚諺としておもしろい。死馬が屁えふる(死馬が屁をひる)新だ馬が屁をひる筈はない、その死んだ馬が屁をひるというので「つまらぬ者と思っていた相手が意外な働きをする」こ 0 0 島前の文化財 9 31 49 の働きも屁であることから余り上等のはたらきではない様である。じゃが蚊(蛇が蚊)。蛇が蚊を呑んでも全く腹を充たす用をしないというので「需要には全く不足でとるに足らない状態」(類似語)焼石に水。しゅうはいら松負ったやあな(十万 0 0 島前の文化財 9 31 58 拝礼松負ったような)美田八幡宮の十万拝礼には美田7部落それぞれに役割がきめられていたが船越はたいまつを準備する役割であった。奉仕作業だからどれだけやらねばならぬという責もなくほんの少しだけ負ってぶらぶら行った。このことから 0 0 島前の文化財 9 31 64 少しばかりの荷を負っている有様を評していう。空き腹にまづい物なし。空腹のときには何でも美味しくて好き嫌いなく食べられる。そのや(家)に似たもん(者)がくる。家には家風がある。家族は勿論、結婚するにもその家風に即した人が好ま 0 0 島前の文化財 9 31 71 れるから自らその家風に似た人が入りがちである。どこの家でもやっぱりよく似た人が入るものだ。ぞわかわしても一代は一代。あくせくと一所懸命に働いてみても一代は一代である。太閣さんの唐渡り。今日は渡海、明日は渡ると却々渡海されな 0 0 島前の文化財 9 32 2 焼火 かったという昔話から、何かをやる、やるといい乍ら却々実現しかねる状態。「ありゃ太閣さんの唐渡っだケン」という。高山の笠雲、時化のもと。焼火山や高崎山など高い山に風に吹かれて一方だけに笠の様に雲がかかるときは時化の前兆である 0 0 島前の文化財 9 32 8 。竹六、木八、塀十郎。竹は6月、木は8月に手入れするのがよく、塀は秋の嵐が過ぎ去った10月頃に繕ろうのがよい。(ここのは月は旧暦)。竹は八月、木は九月。これは前項との異り伐期である。(ここの月は旧暦)。滝の苺で手がとわの( 0 0 島前の文化財 9 32 16 届かぬ)滝の中程にある苺の様にただ見上げるだけで手に取ることの出来ないこと、から思うだけで望みの達しないこと。(類似語)高嶺の花。伊達の薄着。不恰好になるのを嫌って寒いのを我慢してでも薄着をすること。棚からぼた餅。思いがけ 0 0 島前の文化財 9 32 25 ない幸運がおとずれてくる。たわげの膏薬。自分の確固たる意見をもたずにあちらについたりこちらについたりして態度のはっきりしないこと。たわげ=峠、分岐点の意が、又はたわけか。(類似語)二股膏薬。茶より茶口。お茶もよいが、それよ 0 0 島前の文化財 9 32 33 りも菓子などの茶口の方がよい。(類似語)花より団子。ドンバ(とんぼ)の酒とり。昔は自然が遊び相手であり道具であった頃幼児は蜻蛉を捕えて残酷にも腹をむしり取ってそこへ松葉などをさし込んで「酒とり(酒買い)に行って来い」と云っ 0 0 島前の文化財 9 32 41 て飛ばしたものである。それは再び帰って来る筈が無い。こんな事から使いに行って却々帰ってこないことをいう。ねえもん(無い物)食ったじょうずがない。いから欲しいと言っても無い物は無いのであってその様な物を食べるという様な芸当は 0 0 島前の文化財 9 32 47 できない。子供に無い物をせがまれた時に言う。西風にみよと(夫婦)喧嘩は夕凪がする。日中西風がかなり強く吹いていても夕方には凪になる。これと同様に夫婦喧嘩も夜には平穏にかえる。この言葉では夫婦の和を凪にひっかけて言う。ぬけ漁 0 0 島前の文化財 9 32 54 。人がもう駄目だと思って出漁しないでいるときにこっそり出かけて意外の漁をすること。猫にさざえ。さざえは御馳走である。しかしこれを猫に与えても全く何の価値もないことから「物の価値の判らないこと」(類似語)猫に小判。猫がハコし 0 0 島前の文化財 9 32 63 たやあな。(猫が糞をしたような)叱られてシュンとしている様。鼠の滝落ち。鼠が滝に落ちても音もせず滝には何の影響もなく水中に呑まれていくことから、床に入るとすぐに前後不覚にぐっすりと眠りこんでしまう状態。(類似語)みめずの滝 0 0 島前の文化財 9 32 71 落ち。寝てヤ−マチしたもんがねえ。(寝て怪我した者が無い)よけいな行動をするからつい失敗する事もある。だから何もしないで寝ている方がよい「むだな手出しをするな」。また逆のもある。寝ておってもヤ−マチする。世渡りはむづかしい。 0 0 島前の文化財 9 33 1 薪 ねの木。荷を運ぶ時往きは荷を持っていても帰りは手ぶらであるからこの労力を利用して何かを運ぶを云う。以下余談になるが、世は昔大山の椎茸山に雇われた人夫は低賃金で働いていたので雇主は材のウラ木を人夫が帰る時薪にして持帰ることを 0 0 島前の文化財 9 33 7 薪 黙認した。人夫達はこの薪を自家用に積んで居たが、風待ちをしているヨソ船の船員の需めに応じて売却した。後には半公然とウラ木の良いところを持帰って金にした。これが語源だという。ネノキは荷抜きか。馬鹿が年とる。年と共にバカそのも 0 0 島前の文化財 9 33 14 のも年をとってバカの程度が進むこと。馬鹿と鋏は使いようで切れる。馬鹿といわれている人でも上手にきげんをとって使うとよく働く、鋏も亦上手に使えば悪い鋏でも結構役に立つというので馬鹿も鋏も使い方にコツがある。馬鹿につける薬がな 0 0 島前の文化財 9 33 21 い。馬鹿は生まれつきのもので直し様がない。馬鹿の一つ覚え。馬鹿な者な何か一つ覚えるとそれだけを得意になっていつでもやる。馬鹿にも一芸。馬鹿にも何か一つは得意なものがある。腹のシイタにゃハジョ知らん。(腹の空いたにゃ恥を知ら 0 0 島前の文化財 9 33 29 ん)腹が空くと恥も外聞もなく一途に食物に吸い寄せられていくこと。八月の流し。旧8月の頃の毎日降り続く長雨。人のゴボ(牛蒡)で法事する。他人の物を使って自分の用に充てる。(類似語)人の褌で相撲とる。人の尻をはぐりゃ鎌うちこま 0 0 島前の文化財 9 33 37 れる。誰しも弱点は有るもので、人の弱点ばかり突いていると軈て自分もひどいめに合う。人の物で仁義する。じんぎするとは自分の物でやてこそ価値があるというもの、それを他人の物でするのだから「形式的なじんぎ」。ふたたびわらび。老人 0 0 島前の文化財 9 33 45 が子供のような行動をすること。嘗て古老にこの意を尋ねたら、わらびはだんだん大きく伸びていくと軈て先がぐるりと曲って元へ戻ってくる、人もちょうどその様に年をとると子供に返るからだという。しかしこれはどうもわらびでなくわらべ( 0 0 島前の文化財 9 33 51 童)ではあるまいか。風呂の仁義は水になる。風呂に入るようにすすめられてお互いにゆづりあっているうちに風呂は段々さめてしまう「風呂はあまり遠慮しない様に」との意。屁と火事ゃ宿から騒ぐ。自分であることをカバ−するためえてして屁 0 0 島前の文化財 9 33 58 をひった本人から言い出すので宿からと言われたものであろう。この言葉はまた次の様に便われたものである。何人か集った所で誰かが放屁した時この言葉を一人一人に一語づつ当てて最後の「ぐ」に当った人をその当人とした。屁にまじるくそ。 0 0 島前の文化財 9 33 65 忙しくて猫の手も借りたい状態のところに併せて手数のかかる用件が重なって起ること。「この忙しに屁に混じる糞とまためんどうな仕事ができた」などという。蛍は尻で光る。だんなはボ−ッとしていても下の者がしっかりしているので商売繁昌 0 0 島前の文化財 9 33 71 しえちる。水喧嘩の最中のゴウヅレ(豪雨)。我田引水で水争いの最中に豪雨になったのでさっきの争いはどこへやらお互いに黙ってしまう。「大騒ぎをしたが後は静かになった」時に言う。三度とボンダジャ(後頭部は)見た事ない。昔の三度( 0 0 島前の文化財 9 33 78 西ノ島町)は随分遠くて容易に見られない所であったが自分の後頭部は近いのに見難いところである。言葉は遠い所と近い所に見難いところがある。(類似語)江戸と背中は見たことがない。みやだん牛のやあな(ような)。昔、美田の宮谷牧から 0 0 島前の文化財 9 34 6 引いて帰る牛には子牛、孫牛迄ぞろぞろと付いてきたという。このことから「たくさん子供を連れて歩いている親のことを宮谷牛のようだ」といった。注=(宮谷牛は置き放しの牛の中、良さそうなのを曳いて行ったと見られるふしがある)。婿八 0 0 島前の文化財 9 34 12 人役。婿は嫁の実家のお気に入る為一所懸命に働きつとめることから、「婿が嫁の実家の為にお手伝いする様」を言う。目くそが鼻くそをわらう。目くそも鼻くそもあまり良いものではないことから、「自分の足らないことには気がつかないで他人 0 0 島前の文化財 9 34 19 の欠点だけをわらう」こと。もちゃ(餅は)団子にでもなる。餅の材料さえできればそれが餅の予定であっても団子が欲しいということになれば団子を作るという事もできるということから「物事の相談がまとまりさえすれば後はどうにでも都合の 0 0 島前の文化財 9 34 25 よい様になる」という意に用いる。物もらいの事おこし。他所から品物をもらった場合。唯喜んでおればよいものを、色々と善し、悪しを批評したり等して、それが他所迄聞こえて物議を起す元となる。ヤスからむ。魚を穫ろうと銛を作ったり先を 0 0 島前の文化財 9 34 33 磨いたりして道具を用意するばかりで一向に漁に出ようとしないことから「物事の計画をするばかりで却々実行にうつらないこと」。やわきと綿入れ一人で出来ぬ。やわきは陰口。綿入れをするには一人では出来ない必ず相手がいる。やわきも相手 0 0 島前の文化財 9 34 39 がないと出来ぬ。雪道ョ歩いて下駄盗む。よく晴れた日の光りまぶしい雪道を歩いて、造りの暗い昔の家に入ると外の光りで眩惑されているので一瞬あたりが見えなくなって足元を探り乍らううろうろしている様子。横たんぼうつ。無理なことをゴ 0 0 島前の文化財 9 34 47 リ押しやり通そうとすること。(類似語)横車おす。ヨの実ゃなってもねれの木だ。ヨの実はえのきの実。ねれの木(ニレ)だと主張しているがよく見ればヨの実が成っている。それでもニレだと頑強に主張する「自分の主張を無理矢理におし通す 0 0 島前の文化財 9 34 53 こと」(類似語)這っても黒豆。夜八ばけ。昔は農地が遠くて朝早くから起きて支度したものだがいくら早く起きるといっても八ッ時(午前2時)ではあまりない早すぎて異常である。「朝早くから起きてばたばたと忙しげに支度する人のこと」夜 0 0 島前の文化財 9 34 60 八どのとも言う。夜道にゃ日は暮れん。夕暮れ時は何となく心が落つかず気ぜわしいものだが日が暮れてしまえば「どうせ遅くなったのだからあわてることはないと心を落ちつける」。夜の小便先知らず。夜はあたりが暗くて判らないのでどんな所 0 0 島前の文化財 9 34 68 にでも用を達するという事から「前後の考えもなくわれ関せずと行動すること」単に夜の小便とも言った。来年のこと言や鬼が笑う。将来の事は誰も判らない。漁師乞食。漁が無ければ今度こそと思い、漁があれば今日も亦大漁。と毎日漁に出ると 0 0 島前の文化財 9 34 75 いう漁師心理。漁師は夜を欠くな。漁が無いと思ってあきらめていると意外な時に漁のある事もあるから漁師は毎晩休まずに出漁せねばならぬ。若鶏ゃ宵鳴き。若い鶏は未だ鳴く時間が判らないので宵のうちになのに鳴くという事から「素人が先行 0 0 島前の文化財 9 35 6 するのを評して言う」右のほか次に揚げるようなものがあるが説明は省略した。青が吹きゃイカが穫れる。朝荒れとバクチうちゃ後ではげる。どちらも後は脱がされる。朝焼け隣歩きもするな。朝焼け蓑出せ、夕焼鎌研げ。芋にも芋頭(いもかしら 0 0 島前の文化財 9 35 14 )がある。嘘8百。嘘のとちかわ。恨む先が無けりゃ向こうの山でも恨め。七度探して人を疑え。日暮れと大年ゃ(大晦日)いつでも忙しやわきと褌ゃ前から外れる。禁忌に関するもの。梅干の種を海へ投込むと海が荒れる。行くな9日、戻るな7 0 0 島前の文化財 9 35 23 日。柿の種をイロリにくべると目が潰れる。参考文献の主になるもの。守口七之輔著、故事ことわざ事典。折井英治著、ことわざ辞典。柳田国男著、なぞとことわざ。 0 0 島前の文化財 9 35 29 食事 間食という言葉。間食という二つの漢字は、古く奈良時代の終り頃に、書かれた本にも既に使って居る。これは口言葉(くちことば)で何といったのか明かでないが、少なくとも今のように「カンショク」という人はもとは無く、「ケンズイ」と字 0 0 島前の文化財 9 35 34 音で呼んだのが古いことであった。食をシ−又はスイ−と読むのに呉音(ごおん)というもので、仏教を学んだ人は皆呉音を使って居た。たぶん大きな寺などに行って働いていた人々が覚えてはやらせたものであろう。今でも小昼間(こびるま)( 0 0 島前の文化財 9 35 40 註=隠岐でいう小茶)という代りに「ケンズイ」という語を用いているが、其の語のもとを忘れ「間炊」と書いて間で炊く飯だからといったり、又粥を出すからケンズイのスイは吸う事だと思っている者もある。ケンズイという言葉を知っている区 0 0 島前の文化財 9 35 46 域は可成り広いが、端々では其の意味が少しづつかわって来ている。中国地方の西北海岸や九州の南部から島々にかけて、ケンズイというのは親類からの見舞品で、主として大病人のある時とか、家の普請に大工職人の入って居る時とかに、手伝の 0 0 島前の文化財 9 35 51 気持で酒や米や、又は重詰めの肴を贈って来る事であった。もとは家々の間食も皆カンズイだったのが、後々こういう見舞品に力を入れる風習がおこって、何か特別のものと見るようになった事は、今でもわざわざ「家建て(やたて)ケンズイ」な 0 0 島前の文化財 9 35 56 食事 どと謂って居る地方があるのを見てもわかる(柳田国男著、村と学童より)隠岐では建築の側組(がわぐみ)、棟上げ等の時に持ってゆく食物、酒、祝包みが多くなったがもとは酒や食物を持って行く方が多かった。こちらでも元の意味がわからな 0 0 島前の文化財 9 35 63 くなった処から、縁起のいい文字をと「建瑞(けんずい)」などと書く人もある。九州の方での例と同じ考え方が隠岐のケンズイである。この言葉がいつ頃から使われ出したかもうわからないが、この言葉など身分の高い流人等の使っていたのを、 0 0 島前の文化財 9 35 68 食事 こちらでもまねて使うようになったものと考えられないだろうか。隠岐では間食を小茶(こちゃ)というが、この言葉も範囲が広く、関東地方などでは、広く用いられているという。(松浦記)。 0 0 島前の文化財 9 42 1 神楽 写真解説。(1)湯立は盟神探湯(くがだち)の舞である。くがだちとは事の真偽曲直を判ずる為熱湯を探って神に誓を立てる事。これによって真なるものは全く、偽なるものは爛(ただ)れるという神明裁判の一種。神楽では釜で湯をわかさぬが 0 0 島前の文化財 9 42 6 榊を両手に全身に湯をかける所作の舞である。(2)神子(みこ)舞には仮面をつけるのと、直面(ひためん)の2種がある。能の場合は仮面をつける。舞い方に特色があり、全国の神子舞中でも価値高いものである。(3)佐陀神能の御座舞は茣 0 0 島前の文化財 9 42 12 蓙を四つ折としたまま開かず採物として舞うが、島前のは開いたりたたんだりして舞う写実的なのが特徴。(4)切部には神子との二人舞と一人舞の2通りあるが、正式のものは二人舞。普通は一人舞をする場合が多く、社家の方では二人舞を市切 0 0 島前の文化財 9 42 18 神楽 部(いちきりべ)と呼んでいる。市(いち)とは神子の古語である。(5)八重垣とは大蛇(おろち)退治の能。出雲神楽では「八戸(やと)」と名付けている処もある。大蛇の舞型には写実的なもの(じゃばら型、とかげ型)と佐太神能敷な立型 0 0 島前の文化財 9 42 22 神楽 と大体3種があるが、島前の場合はそのいづれでも無く、大蛇は楽屋のれんを両手に持って舞台に出たり、入ったりという(写真参照)特殊な型である。古くは葬祭神楽能としての曲目であった。(6)岩戸は全国各地の神楽の殆どにある曲目であ 0 0 島前の文化財 9 42 28 神楽 り、そして又最重要な曲目としている場合が多い。これは神楽の源流が神話の岩戸開きの事故に基くという解釈からきたものであるが、神楽としてはそう古い要素をもつものではない。島前でも儀式の能と称して重要な曲目にしている。(7)布舞 0 0 島前の文化財 9 42 34 神楽 は注連行事の時にのみ舞うもので、備中神楽では「布の舞」で神がかりに入る方式もある。島前の布舞もこうした系統に属する舞ではないかと思われる。(8)注連行事に就いては本文で解説しておいたがこれは行法の前半で神子の出るまでの処で 0 0 島前の文化財 9 42 40 ある。中央の重で引綱を手にしているのが幣頭役。幣頭は次第に随い唱言(となえごと)に合せて引綱により天蓋を上下させるが、天蓋は上下左右と踊るが如く揺れ動く、実に神秘的な行法である。昔はこの下で神子は「神がかり」となっちのであ 0 0 島前の文化財 9 42 45 る。楽器は太鼓のみで銅拍子は用いない。(9)恵美須(えびす)は前半は釣竿を採物として釣の舞、魚を釣り上げた後は喜びの扇の手の舞いで舞納める。 0 0 島前の文化財 9 43 1 神楽 隠岐島前神楽概要。松浦康麿。1伝承者−神楽社家の事。2神楽斎場とその飾付について。3曲目と次第と種別のこと。4囃子の種類と楽器。5前座の舞。6儀式三番の能。7岩戸の能。8神子神楽。9大注連神楽。10湯の行事のこと。伝承者− 0 0 島前の文化財 9 43 13 神楽 神楽社家のこと。普通社家というと神主家を指すのであるが、隠岐では神主家は「ヨコヤ」といい社家とは神楽を司った家の謂である。然して「ヨコヤ」とは神主家に対する屋号であって、社家に対しては決してヨコヤとは呼ばなかった。一例をあぃ 0 0 島前の文化財 9 43 19 神楽 げると幣頭社家の宇野家は式内社海神社の正神主でもあったがヨコヤといわず「飯田(はんだ)」という屋号で呼ばれている如くである。という事は成立の初期に於ては、神楽専門に祈祷の神楽や各社の祭礼に奉仕するのが本来の姿であって祭事は 0 0 島前の文化財 9 43 24 神楽 ヨコヤ神主が司る処であったわけであろう。現在でこそ神楽は神社の祭礼と切っても切れぬ間柄であるが、隠岐神楽の性格は祈祷を主とした神楽であったので神社と直接関係は無くても成立したのである。それが後には神楽社家の方も吉田神道によ 0 0 島前の文化財 9 43 30 神楽 る許状を受け神楽を司ると共に祭事も司る事になって明治期を迎えたのである。この事に就いて記述を進めると長くなるのと本稿の主旨でもないのでこの程度に留めるが、この社家によって伝えて来たのが「隠岐の神楽」である。この神楽社家が島 0 0 島前の文化財 9 43 35 前には5家、島後周吉郡には7社家、穏地郡には6社家があった。島前の5社家をあげると宇野家(西ノ島別府)(屋号飯田(はんだ))秋月家(西ノ島赤之江)(屋号森)秋月家(海士須賀)(屋号北)駒月家(海士北部)(屋号客)石塚家(知 0 0 島前の文化財 9 43 43 夫古海)(屋号石塚)である。以下島前についてのみ述べると、5社家の間には「社家仲間法度書之条々」なる文書(嘉永元年)にも示す如く、「貞享年中、享保年中、寛政年中相極候法度書之趣少しも違背仕間敷事」と厳敷く幣頭宇野家に対して 0 0 島前の文化財 9 43 49 神楽 座席の順位を始め社家の心得等について誓約をしている。それによると幣頭家は別府宇野家、次席は赤之江秋月家であった。さて神楽の執行に当っては神楽の大小によって大神楽は5社家会勤小神楽の場合は1社家乃至2社家で行ったがその場合の 0 0 島前の文化財 9 43 55 縄張等も決められていてお互いにおかすことはなかったのである。この様にして明治に至るまでは一切社家以外の者には伝受をしなかったので時代によって大小の変遷はあったのであるが、古格を守って今に至っている。処が明治期に入り神社制度 0 0 島前の文化財 9 43 61 神楽 の改変と共に一時神楽の執行を停止させられたのと又時代の趨勢のおもむく処、先づ幣頭家宇野家が、次いで赤之江秋月家、海士駒月家と転退の止むなきに至り、現在は海士秋月家、知夫石塚家の子孫の手によってかろうじて保持して現在に至って 0 0 島前の文化財 9 43 66 神楽 いる。神楽斎場とその飾付について。神楽殿という常設の舞殿はない。その都度都度神社の境内や御旅所の附近へ、舞処二間四方、楽屋二間四方の舞台を組立てる。通常神楽場と呼んでいる。神楽場は神を迎える斎場であるので正式には次に記す様 0 0 島前の文化財 9 44 5 に飾付けられる。その概略を記すと、先づ四方に注連を張りその上に白木綿を引廻し四隅の柱には御幣(宇豆幣)を結える。注連の八方には八神(廉島、熱田、住吉、諏訪、広田、平野、松尾、梅宮)の神名を記した紙を垂れる。中央天井には雲形 0 0 島前の文化財 9 44 11 (くもかた)(3尺6寸4方)天蓋(玉蓋又はバツケという)(2尺3寸4方)をつるす。天蓋には4方に白紙で紙手(して)、鳥居色紙で乱l形、千道(ちみち)等の切紙、又中央には鏡、扇(日の丸)中処(ちゅうど)の袋(赤絹に米又は大豆 0 0 島前の文化財 9 44 16 1升3合を入れたもの)を結え、色紙で紙手、千道等をつける。そしてこれは引綱によって上下出来る様にしつらえてある。又4方に棚を設けて神座を作る。1棚に神体幣3本を立て、供物を献ずる。供物は鏡餅3重、神酒1対、白米1升、大小豆 0 0 島前の文化財 9 44 21 小麦の類2升、廟(ひょう)の俵(俵の小形のもの)3俵(大豆1升宛入れる)懸魚等を供える(4方共同じにする)又この神座は楽屋にも設けられ其の前に机を置き、面、採物等をあげておく。中でも面は特に鄭重にあつかわれる。以上が正式の 0 0 島前の文化財 9 44 26 神楽 神楽場のしつらえ方である。処が、現在ではただ注連を引廻し、中央に簡略な紙手をつけるのみで供物等は何もしない。この事は神楽場が神を迎える斎場であり、神出現の場であるという神楽の本義−信仰−が忘れられてしまって単なる祭礼の日の 0 0 島前の文化財 9 44 32 賑いに墜してしまった一つの現われである。曲目と次第と種別のこと。大別して舞(直面(ひためん)のもの)と能(仮面をつける)に分ける。(1)前座の舞。(イ)寄せ楽(楽のみ全員)(ロ)神途(かんど)舞(男一人舞)(ハ)入申(いれ 0 0 島前の文化財 9 44 40 むし)(男一人神勧請、舞なし)(ニ)御座(ござ)(男一人舞)(ホ)御座清メ(ござきよ)(女二人舞)(へ)剣舞(男二人舞)(ト)散供(さんぐう)(幣舞(ぬさまい)ともいう)(男一人舞)以上を前座の舞という。この外に注連行事の 0 0 島前の文化財 9 44 46 時に「布舞」というのがある。(2)式三番の能(イ)先払(さきはらい)(男一人舞)(ロ)湯立(ゆだて)(男一人、女一人舞)(ハ)随神(ずいじん)(男二人舞)以上三番を儀式三番の能と称し、重要な能とされている。(3)岩戸の能。 0 0 島前の文化財 9 44 54 神楽 以上、前座の舞より岩戸までを「式の神楽」という。(4)式外の能(イ)十羅(じゅうら)(女一人舞、男四人舞)(ロ)恵美須(えびす)(男一人舞)(ハ)切部(きりべ)(男一人舞、女一人舞)(ニ)佐陀(さだ)(ホ)鵜の羽(これは雨 0 0 島前の文化財 9 44 62 神楽 乞神楽の時に用いるという)(5)葬祭の能(イ)八重垣(ロ)石山(ハ)身売(葬祭能は現在廃滅した。能記は残っているが、手振は忘れられた。唯、八重垣は一部改作されて、現在式外の能として行っている)(6)神子(みこ)神楽(イ)本 0 0 島前の文化財 9 44 73 神楽 格式(ロ)舞い児(7)注連(しめ)行事(8)湯の行事。以上が曲目を総べてである。総てこれが執行に当っては、祈願の主旨なり、神楽の大小等によって(1)大注連(おおしめ)神楽(雨乞、病気平愈等)(2)湯立(ゆだて)大神楽(遷宮 0 0 島前の文化財 9 45 3 神楽 祭等)(3)大神楽(氏神の祭礼等)(4)浜神楽(漁祈祷等)(5)神子神楽(おかぐら)(地主神祭等)(6)八重注連神楽(葬祭、現在廃滅)等の名称によって類別され、それぞれ次第もきめられている。然して、大注連神楽とは、最後に注 0 0 島前の文化財 9 45 10 神楽 連行事を行う神楽の謂で、これが最も重要な神楽であることはいうまでもない。その次第は、前座の舞七座、儀式三番の能、岩戸の能注連行事という順で執行されるが、岩戸と注連行事の間に式外の能を数番入れる。次に湯立大神楽は先づめ始めに 0 0 島前の文化財 9 45 17 神楽 「寄せ楽」次に「湯の行事」そして「入申」に続き以下「岩戸」までを行う。参考資料に旧記(天保頃)にある次第をあげる。 は筆者注。先清浄行法、神前并神楽殿悉之ヲ清ム。神楽殿ニ於テ寄セ楽、次神途舞、次入レ申シ諸神勧請之ヲ勤ム。 0 0 島前の文化財 9 45 25 次御座舞、次御座清浄、次剣、舞、次散供、次前駆(先払)次湯ノ法則(現在行はず)次湯立、次随神、次岩戸法則(現在行はず)次宮司(現在無し)次美古登(ウズメノミコト)次手力男(たぢからを)次岩戸此時女神二体(天照大神トウズメノ 0 0 島前の文化財 9 45 30 ミコト)式作法終ル夫ヨリ建雷神俗ニ切部是二本式略式有り。日御崎ノ能俗ニ十羅ト云佐陀、恵比須舞能終ル。次注連行事別ニ式作法ノ次第有リ。次諸神勧請(神戸開ノ神子舞)次玉蓋ヲ願主ニ載セル。此時秘文、賀佐意多(かざいた)〃月ノ輪嘉 0 0 島前の文化財 9 45 37 佐伊太ト唱也。次神戻シ、次三十番神(現在なし)現在の次第と比較してみても殆ど代っていない。囃子の種類と楽器。(1)囃子の種類。(イ)神途舞ぶし。主として前座の舞に用いる。幣(ぬさ)−たつるナエ−ここ−も−高−天−の原なれば 0 0 島前の文化財 9 45 48 エヘイエヘイ集りたま−えエヘイエヘイ四方−の神−が−み(下句反復)(ロ)千早(ちはや)拍子。主として神子舞、能の時は神方の舞に用いる。神垣やエ−あらわれいづるヨ神−すがた−これこそ千−代−の−エヘエヘ−エヘヤ−エヘヤ始めな 0 0 島前の文化財 9 45 55 りけり始めなりけり(下旬反復)(ハ)陰陽うた。いんよう−いんよう−八乙女は−誰がもとエ−まいる天にますいんよう−天にま−す神業(かみわざ)してかエ−いんよう−神もよ八乙女をやいや、さともうた神に、なびかぬ神も、あらじ、とん 0 0 島前の文化財 9 45 62 ど、はやり、とんど。「陰陽うた」はこの歌詞についた拍子である。元来神子舞のみに用いられたものと思うが、現在は採物によって、「八乙女は」を「このしでを」とかっ「この御座を」とかに言い換えて前座の舞に用いる。(ニ)すずか拍子( 0 0 島前の文化財 9 45 70 神楽 静拍子か)主として下囃に用いる。(ホ)御神楽遅拍子(千早拍子のこと)同早拍子。(ヘ)能遅拍子(ヤアハアハハ−と囃す)同早拍子(ヤアハア−又はエッヤと囃す)(ト)五段舞拍子「切部」の神子舞に用いる特種のもの。(チ)急調子。神 0 0 島前の文化財 9 46 2 神楽 子舞、能いづれにも急調がる。この外に細分すれば拍子の異ったものもあるが大体右の拍子が基調である。島前神楽の囃子の特色は、単に楽器で囃すのみでなく、基調となる、神途、千早、陰陽は神楽歌が共にうたわれるという点である。随って多 0 0 島前の文化財 9 46 8 神楽 くの神楽歌が伝承されている。(2)楽器の種類。(イ)鼕(胴長)一人(男役)桴は長さ8寸径1寸位の太いものを用い、張皮に面して打つ。(ロ)太鼓(〆太鼓)二人−三人(男役)桴は長1尺2、3寸位の細いもの。(ハ)銅拍子二人−三人 0 0 島前の文化財 9 46 15 神楽 (女役)。前座の舞。神楽の方では、1曲を1座と称する。前座の舞はいづれも直面(ひためん)(仮面をつけぬ)で内容は祓清めの舞である。順序は次第の項でも述べたが、(1)寄せ楽(2)神途(3)入申(4)御座(5)御座清メ(6)剣 0 0 島前の文化財 9 46 22 神楽 (7)散供の順で、装束は格衣(かくい)又狩衣(かりぎぬ)に差袴、鳥帽子(えほし)で、採物はその曲目によって、榊、剣、大麻幣(おおめさへ)、茣蓙等々と異なる。(1)の寄せ楽は神楽始めの奏楽で全員座に就いて楽を奏する(神途舞 0 0 島前の文化財 9 46 26 神楽 ぶし)。舞はない。(2)神途は、榊に神手(しで)のついた採物で東西南北中央黄竜(楽屋)と六方を榊でもって清める。(3)入申は神楽斎場の神の隆臨を乞う行法で、幣頭は正面の神座に向かって座し、先づ大祓詞を申し、ついで口中にて神 0 0 島前の文化財 9 46 31 勧請詞を申すのであるが此の間静かな楽を入れて神隆しをする。(4)次で神座に用いる茣蓙を採物として舞い、(5)御座清メとなる。前座の舞は男舞であるが、この御座清メは神子二人の舞で、御座舞に用いた茣蓙を中央点蓋の下に敷きその上 0 0 島前の文化財 9 46 37 で舞うものである。次(6)剣舞、剣も古くより悪霊退散の採物として用いられたもの。(7)そして最後に散供となる。散供(さんぐ)とは御米を以て清める意である。(神社に参拝した時、賽銭と共にお米をあげるが、これも同じ意味である) 0 0 島前の文化財 9 46 42 採物は大麻幣を持つので別名幣(ぬさ)舞ともいわれているが、もとはお米と幣をもって清祓をする舞であったが、現在では幣のみで祓をする様になった。以上が前座の舞の概略であるが、この様にして斎場を清めて後その場に神があらわれるのが 0 0 島前の文化財 9 46 47 神楽 、いわゆる能(仮面をつける)である。現在氏神祭等の神楽で行はれる曲目は、主に神途舞御座消メ(神子舞)散供であるので、前座舞の代表として散供について梢詳しく記しておく。散供。すずか拍子にて下囃、これが終る頃舞人は、大麻幣と中 0 0 島前の文化財 9 46 55 神楽 啓、神楽鈴を振乍ら、陰陽−この二字にかからぬ神もましまさば(囃方)こがねのしめを飾りましますと唱和する。次いで、申立て。謹請再拝々々謹み敬いて言上し奉る也。夫れ当り開ける年の序に宜しき年号の立始りて昭和何年何月何日大年を申 0 0 島前の文化財 9 46 63 神楽 せば(干支)の御年、月の並びは十月(つき)に余り二月(つき)あり。日の数は凡そ三百六十余ケ日、中にも今年今月今日吉日良辰を撰び定めて申すして白さく。依て今日の御神楽の由を謂者(いつぱ)当所何神社(神楽の主旨を申す)の御為に 0 0 島前の文化財 9 46 68 神楽 今日御神楽を奏し奉るもの也。いかに况んや天地開闢の始より人皇百皇百代の今日に至まで、神道の験あらたなり。神祇相伝殊勝なり。爰を以て只今神祇斎場の床を飾り供物を調え即ち清浄高大の高天原と号し奉るもの也。依て神司共は黄金の散米 0 0 島前の文化財 9 46 74 を調え白妙の幣メメを捧げ再拝し、頭(こうべ)を傾けて神徳を仰ぎ、袖をつらねて神明の高威を崇(あが)め肝胆の志を砕きて神力を頼み奉るに皆悉く満足せざるということなし。そもそも大散供の起りと謂者、天津彦々火迩々杵尊葦原の君として 0 0 島前の文化財 9 46 79 天降り給う時日向国高千穂の串振の峯に於て雲霧深く柵引き重なり、余り暗かりければ、天神より依さし給える稲穂をこきぬ籾となし虚空え散らし給えば天が下少こし明らかに成り給えり。是より起りて今に至まで魑魅魍魎(ちみもうりょう)邪気 0 0 島前の文化財 9 47 5 罪科を払わん為の大散供なり。而して後四海波静かにして草木枝を鳴らさじ。国土納まりて万代の栄華を極むる事、まさに疑いの無きものなり。文(もん)に曰く天地清浄一気和合悪魔退散萬歳々々。これが終ると神途舞ぶしにて楽が始まる。舞は 0 0 島前の文化財 9 47 11 神楽 楽に合せて東西南北中央黄竜と六方を拝し乍ら舞う。神楽歌の二、三をあげると再拝やここも高天の原なれば、集り給え四方の神々。東方拝めば神降るよろずの神も花とこそみれ。ちわまの神も花とこそみれ。五十鈴川清き流れの早やければ、八百 0 0 島前の文化財 9 47 19 万代の罪残らじ。舞い始めに神供の米を取って散米。拍子は神途ふし−いんよう−最後に又神途にて、よき只今の阿ぞび舞いする。にて舞納める。儀式三番の能。(1)先払(2)湯立(3)随神この三番は儀式三番と弥え特に重要視されている。 0 0 島前の文化財 9 47 26 神楽 (1)先払は天孫降臨の神話、猿田彦大神が天孫を迎える古事による能で神楽能の一番始めに舞うので「一番だて」ともいわれている。能遅拍子にて楽が始まると舞人はのれんをついて出る。そして順逆順と遅拍子にて舞一段を終るそして「おお吾 0 0 島前の文化財 9 47 32 神楽 は是れ八重の街(ちまた)にすむ猿田彦大神なり。我先立って悪魔払わん其の為に神体ここに現れたり」と言立。早拍子に変り舞一段。最後に扇に手の舞にて舞納める。「神体ここに現れたり」という言立ては大変古風な言立で神楽能の本質をいい 0 0 島前の文化財 9 47 37 神楽 あらわしたもの。隠岐神楽の能は全体にスト−リ−は大変単純であるがこの事は又古風を存している事でもある。(2)湯立。能野(ゆや)の巫女の湯立てを修している処へ、荒振神の御祖神があらわれ、探湯により悪神でないということを証明す 0 0 島前の文化財 9 47 44 神楽 という舞。(3)随神。随神−豊間戸間戸神−と邪神の舞。随神によって邪神を退散させるという舞。俗に「八幡」ともいう。島前神楽の拍子は、先払の拍子と神子神楽の拍子の組合せによって構成されている。先払の拍子は能遅拍子と早拍子であ 0 0 島前の文化財 9 47 51 神楽 り、これは邪神の舞に用いられ、神子神楽の拍子は千早拍子、いんよう、早拍子で、神子の舞神方の舞に用いられる。岩戸の能。神話にある、岩戸開きの古事より天照大神をお迎えするという能。遅屋は拍子にて宇豆売命出る。千早振る玉の御簾を 0 0 島前の文化財 9 47 60 ば巻上げて吾が名をひとの問うぞうれしき、以下本格式の神子舞一段、宇豆売入る。楽は能遅拍子にかわり手力男命(たじからお)が出る。「おお我はこれ手力男の神なり。岩戸開かんその為に神体ここに現われたり」と言立して舞一段。終って「 0 0 島前の文化財 9 47 67 神楽 天の戸を開きて月の夜もすがら、涼しく拝む神垣の内」と重々しい口調でとなえ、岩戸を開く。再び千早拍子となり、宇豆売命の舞一段(神楽歌四首)諸共に一樹の雨を注ぐとも柳はみどり花はくれない。の神楽歌によって天照大神(手に鏡二面を 0 0 島前の文化財 9 47 74 神楽 持つ)が出る。宇豆売と大神の二人舞にて舞い納める。以上式の神楽能に就いて概略を記した。この外式外の能と称し、十羅(じゅうら)、恵比須(えびす)、切部(きりべ)、佐陀(さだ)、鵜の羽羅も伝えられている。右のうち、切部、鵜の羽 0 0 島前の文化財 9 48 2 神楽 等特色のあるものもある。殊に鵜の羽は雨乞大神楽ににみ用いる曲目であったという。神子神楽。隠岐神楽(島前、島後共)の特色として神子神楽がある。単に神子舞だけならば、近くは美保神社、出雲大社等にもあるが、神楽の中に神子舞があり 0 0 島前の文化財 9 48 9 神楽 、それが島前神楽の構成上重要な地位を閉めている点他にあまり類例がない。この神子は明治以前は吉田神道による許状を頂き社家の男子と同等に祈祷等も行っていたものである。文献の一例をあげると、海士町秋月家に、隠岐国海士郡布施村日御 0 0 島前の文化財 9 48 15 神楽 崎稲荷両社神社子。伊勢。右着舞衣可勤仕恒例神事神楽者神道之状如件。享和三年六月六日。神祇管領印。かくら秘文。あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけおけ、右授与神子伊勢訖。慎而莫怠メメ。享和三年六月六日。神道管領。 0 0 島前の文化財 9 48 27 神楽 右の様な許状が保存されている。さて神子舞は(1)神楽の中にて行うもの(2)舞い児と称し幼児(1才未満)を抱いて舞う祈祷の舞。(3)それに神社の祭典に舞うものを本格式としい、他はそれを簡略したものであるので、本格式のものに就 0 0 島前の文化財 9 48 33 いてのべる。(千早拍子)千早振る玉の御簾をば巻上げてわが名を人の問うぞうれしき。氏神を招ずる今宵雨降るな小風な吹きそ神を請ずる(以下三首畧)。(いんよう)いんよう−八乙女は……(以下畧)。(早拍子)アッサネンヤサンエンヤ天 0 0 島前の文化財 9 48 42 の八重雲かきわけて降りし神を我ぞ迎えん。宜きわざしてか天にますひるめの神を暫し止どめん。乗り遊べ早や乗り遊べ空座によき空座に人になのりそ。さらさらと乗り遊べ座にのりて外宮内宮。実になる花もアッサネンヤサンエンヤと押し戻す花 0 0 島前の文化財 9 48 50 神楽 の実神楽まいらする神の社へ、伊勢の御座へ、玉の社へ、(四首畧)実になる花もアッサンエンヤサンエンヤ今早や御幣納受戻いて車も遊び舞する。御崎木を下りつ昇りの岩角に袴は破れて着替へ給うらん。(二首畧)実になる花もアッサンエンヤ 0 0 島前の文化財 9 48 58 神楽 サンエンヤ今より後は阿田の長屋の笠狭の御崎串振丘に神上ります。八重雲払へ、神の光や。左様(さんよう)そう、左様よう。舞い児。主として朝神楽の折に行う。古くは氏神の拝殿等でも行ったものであろう。生まれてから一誕生までの幼児を 0 0 島前の文化財 9 48 66 抱いて舞う。神子舞としては簡略なもの。千早拍子。氏子をば神こそ守れ千年まで丸なる岩の平になるまで。早拍子となり。有難や氏神明と袖かき合せ拝むにはちわまの神とこそみれ。鶴は千年亀は万年、鶴亀の踏みならしたる御座なれば、悪魔は 0 0 島前の文化財 9 48 75 神楽 寄せじ平廻する。左様そろ。終ると幼児を立たせ二、三歩あるかせる様にして終る。これは祈祷の神子舞である。大注連(おおしめ)神楽。注連行事について。隠岐神楽(島前、島後共)に於て最も重要な方法を注連行事という。これは最後に神子 0 0 島前の文化財 9 49 6 神楽 が「神がかり」となって神託を申すもので、神楽の本旨がここに有ることは言うまでもない。処が明治以降こうした行法は差止められたので現在では形式のみとなった、然し神がかりは無くともその精神は変りないので大注連神楽という事になると 0 0 島前の文化財 9 49 11 、斎場飾りは勿論神供等は式通りに準備し奉仕者も殊に潔斎等厳重に行っている。もともとこの行法は単独に行うものの様であるが、記録や又社家に伝承の式は左の様な順で斎行されている。先づ前記の前座の舞(七座)より始めて、儀式三番の能 0 0 島前の文化財 9 49 17 神楽 、次いで岩戸の能を了へる。ここで一たん中休みとなり夜食をとる習いとなっていた。大体神楽は夜に行うのが本格であるので中休みの頃は大体十二時過ぎとなる。ついで十羅、切部等式外の能数番を終る頃夜はしらじらと明け初めて来る。ここで 0 0 島前の文化財 9 49 22 小憩の後いよいよ注連行事が斎行されるのである。前記せる如くこの行法の中心となるのは神子の役である。さて順序として舞台の事から記すと、先づ舞処の中央天蓋の下に鼕を立て、その上に神酒一対、榊等を置く。その後方に俵二俵、一の俵に 0 0 島前の文化財 9 49 29 は宇豆幣三本を立て他の一俵には茣蓙を敷きこれに神子が腰掛けるのである。幣頭の前の机には、次第本、鈴を置く。一同座に着くと幣頭は鈴を振り乍ら式の如く神拝を行いそれより注連行事にうつる。幣頭は天蓋の引綱を引ながら壮重な口調で陰 0 0 島前の文化財 9 49 35 陽−この二字に掛からぬ神もましまさばと唱えると同座のもの付けて、こがねのしめを飾りまします。と唱える(楽はこの時にのみ入る)(中畧)幣頭「そもそも雲形と申すは天つ御空を表すとぞ申すなり。亦玉蓋と申すは天照大神主宰し給う処の 0 0 島前の文化財 9 49 44 神楽 日界を以て玉蓋とぞ申すなり」(中畧)神道は千道百道道多き、中なる道ぞ神の通い路。幣あまたは次第に随って唱言を申し、又神楽歌も入り、その間引綱を以て天蓋を上下させるのである。「亦中央に明鏡を掛ける事正しく神明の直体を表し奉る 0 0 島前の文化財 9 49 52 。爰以て唯今神祇斎場の床を飾り供者を調へ清浄高大の高天原と号し奉る。即時に変穢成除災与楽成地とぞ申也。いかに亦神も嬉しと思召すよき只今の遊び舞する。此の時神子は大麻幣を採って出で左右左と祓い、右手に幣、左手に榊葉を持ち中央 0 0 島前の文化財 9 49 58 の俵に腰掛ける。すると幣頭は又玉蓋を引上げ引降しをする。それに合せて神子は久方の天の八重雲かきわけて降りし袖をわれぞ迎えん。(中畧)ついで神勧請詞を申す。終って退下。これが現在のものであるが、昔は神懸りに入る時「いのりぶし 0 0 島前の文化財 9 50 2 」というものを唱えたという。次神門開(みとひらき)という神子舞がある。終ると天蓋を降し幣頭は立ってそれを持ち願主に載かせる。最後に「月の輪かざし」という行事があり退下。以上が注連行事の概要である。この頃はすっかり明け切って 0 0 島前の文化財 9 50 7 神楽 いる。朝食があって「朝神楽」となる。朝神楽の主体は「布舞」と「神子舞」である。「布舞」は白布一反を採物として神途舞にて舞うものであるが、最後に布を長くのばし捻(よ)れや捻れや神の綱よれや。の囃子に合せて布を手に又体に巻く如 0 0 島前の文化財 9 50 13 神楽 くにして舞い納める。最後に神戻し(神上げ)楽によって神楽はすべて終了する。湯之行事のこと。湯之行事は神楽にのみあるのでなく、往昔は神主も執行していた。随って単独で行う場合と、神楽の時に行う場合とがある。神楽の時には、寄せ楽 0 0 島前の文化財 9 50 20 、湯の行事、入申という順で行う。湯の行事を行う場合は、舞台正面の前庭にあらかじめ爐を築き、清浄なる釜をかけ清水を堪えて沸す。湯釜に面する舞台中央に机を置き供物をし、地鎮幣、祓幣、湯銭、手草(たぐさ)(笹二束)を置く。左側に 0 0 島前の文化財 9 50 25 幣をたてる。行法の概略を述べると先づ祓幣にて身を祓い着座。再拝拍手。次に立って幣を左右左と三度、座して幣を立てて持ち、陰陽−この二字に掛からぬ神もましまさばこがねの注連をかざりまします。と唱う。次いで湯之祝文、次湯中に湯銭 0 0 島前の文化財 9 50 32 、米、塩少々中啓にのせ投入、又ゴマ木を三度にわけて爐にくべる。次幣の串を湯中に差入、手を交互にかえ、三度づつ三回呪文を唱えつつかき探る。終って幣を机の傍に置き「大祓詞」を申す。次手草行事、この時鼕、太鼓の楽を入れる。「神勧 0 0 島前の文化財 9 50 39 神楽 請詞」に合せて手草を釜につけて振る。再び呪文を反復して終る。最後に島前神楽の研究や報告の中から代表的なもの二、三と本稿でふれなかったものに就いては拙稿のものをあげておく。詳しくはそれによって見て頂きたい。石塚尊俊著「西日本 0 0 島前の文化財 9 50 45 神楽 諸神楽の研究」(慶友社刊)山路興造解題「隠岐神楽歌集」(日本文化史料集成巻一の内)(三一書房刊)拙稿「隠岐島前の湯立について」(山陰民俗11)拙稿「隠岐の葬祭神楽」(山陰研究二。改稿島前の文化財2)。あとがき。島前神楽の保 0 0 島前の文化財 9 50 53 焼火 存に早くから意を注いだ先覚に亡父静麿があり、横山弥四郎翁があった。私の少年の頃石塚勝太郎翁夫妻は息女静枝さんを同道して焼火社の月次祭には欠かさず奉仕するのが恒例となっていた。翁は又放し上手で昔話や講談を聞かせてくれるので私 0 0 島前の文化財 9 50 58 神楽 達子供にとっては何よりの楽しみであったが、父は父で神楽の事に就いて色々と聞くのを楽しみにしていた。然し聞書はあまり残っていない。私が神楽好きになったのもこうした少年の日の印象が強く残っていた為であろうか。時を経て殊に戦後、 0 0 島前の文化財 9 50 64 神楽 神楽の調査や研究が盛んとなり、多くの研究書や調査報告も出る様になり、島前神楽もその線に沿って一早く注目される様になった。私が芸能復興誌(8号)に「隠岐の神楽」を報告したのもその頃であった。それと前後して県下では石塚、牛尾両 0 0 島前の文化財 9 50 70 神楽 先生、又西角井、倉林、本田、郡司の諸先生も調査の為御来島。その成果は、刊行されて研究者の注目する処となった。この様に価値高い神楽であるが島内の方々には案外に内容と価値の認識はうすい。そこで本稿は島内の方々を対照に筆をとった 0 0 島前の文化財 9 50 75 。これに依って幾分でも島内の方々に関心を寄せて頂けるなら幸いである。(54、9、24) 0 0 島前の文化財 9 51 1 隠岐国風土記。隠州者在北海中、故名隠岐嶋矣。其在巽地言嶋前也。凡二郡、知夫里郡海士郡、村数十三属焉。其位震地言嶋後也。凡二郡、周吉郡穏地郡、村数五十三属焉。其府者周吉郡南岸西郷豊崎也。従是離之方至出雲三保関海上三十五里、至 0 0 島前の文化財 9 51 7 同積積浦北浦十八里、至長門下之積百里、巽之方至伯州赤崎四十里、メメ之方至若州小浜百二十里、自子至卯無可往地、乾之間二昼一夜走而有松嶋、又一昼走有竹嶋。俗云磯竹嶋。此二嶋無人之地也。或云春夏秋之間朝鮮人来多漁鮑海鹿之類(あしか 0 0 島前の文化財 9 51 13 乎。寛文年中迄者自隠州往滞舟而漁、採桐メメ檀竹芳之類帰也。近年闕其従竹嶋見高麗如自雲州望隠州。然則日本之乾地以此州為限矣。嶋前(ドウゼン)ト云テ嶋三ツ。田畑高五千五百石余御帳之通。畑多田寡平地ニ而はけ山なり。深林竹木之松樹多 0 0 島前の文化財 9 51 27 。嶋後(ドウゴ)と云テ嶋壱ツ。田畑高五千石余。土肥山林幽谷多。田多畑寡桑漆けやき杉椿其外良木澤山。出雲から隠岐江参、相詰勤候役人之次第嶋後ニ居候分一、郡代、嶋前嶋後之国勢を取扱候役、隠岐之殿様ニ而候。米田茂兵衛役組はすれ知 0 0 島前の文化財 9 51 41 行百石役料ハ四斗入四拾俵附足軽三人惣而出雲ニ間嶋十兵衛百五拾石取、間瀬勘太夫百石取、速水与一兵衛百石取、米田茂兵衛百取石取、此四人隠岐嶋取之郡代役ニ而御座候、三年目ニ入替り勤申候。一、代官、嶋後之御銀を取集候而出雲江運送候 0 0 島前の文化財 9 52 3 御役、太田伝兵衛、知行百石。役料四斗入俵、附足軽壱人。三年つつ之上納銀取集松江江運送四年目之春替り申候。一、元方役人、是者侍之列ニ而者無之候、小算役人之内から来候由、公儀から之云出し、百性から之訴事何ニ而も此役人掛候故萬役 0 0 島前の文化財 9 52 10 人とも申候。野村羽右衛門三人扶持二十五俵。借し小者壱人。四年目つつニ替り。一、吟味方、是ハ元方役人ニ立替何ニ而も掛役ニ候。弐人扶持二十七俵之足軽之内から算筆功者ニ小利口ニ立候者を撰出し候。勝部喜八、貸小者壱人役料不収。一、 0 0 島前の文化財 9 52 20 点検役、他国から着候船何物何を何国から積来りたり、又国之船何を何程積、船頭水夫何人乗候而出航候を相改候役、大野喜助弐人扶持十五俵(ママ)之足軽ニ而候。一、唐船遠見番、足軽弐人扶持切米同然。一、大庄屋弐人、百性から出口願状ニ 0 0 島前の文化財 9 52 25 奥書印形いたし、役人之云付を申付役、鞍置馬ゆるされ候、惣庄屋之内から撰是任ニ当ル、岡田十太夫、苗代田清十郎、役料二十俵(ママ)つつ外ニ何もなし、右者嶋後西郷之内目貫村与矢尾村との境に御役所有而詰候役人ニ而候。嶋前御役所ニ相 0 0 島前の文化財 9 52 32 詰候分。一、御代官、是も嶋後と同ク三年つつ之御銀取集、其年之八月松江江運送致候事三度仕廻候而、四年目之春替り候、嶋前ニハ郡代居不被申候ニ付、国勢嶋後之郡代之談合、又急之儀ハ一存ニ而済シ被申候ニ付、嶋後之御代官よりハ様子ちと 0 0 島前の文化財 9 52 38 能分ニ御座候。尾崎治左衛門。知行百石役料嶋後ニ同然附足軽壱人。一、歩行目附壱人、七人扶持ニ十四石役料金壱両。貸小者弐人。一、元方役人、嶋後与同然。中村伴六。一、点検役同然。一、唐船遠見番弐人同然。一、大庄屋渡辺祐七、役料弐 0 0 島前の文化財 9 52 49 拾俵外ニ何もなく只くらあふミゆされ居斗ニ候。右者嶋前別府村ニ御役所有、相詰候役人共ニ候。嶋前ト云テ嶋三ツ嶋前田畑之高五千五百石余御帳面之通也。山畑はけ山ニ而平地なく、山畑ニ作候所麦大小豆粟稗、屋敷近所麻を作候。惣而田方寡ク 0 0 島前の文化財 9 52 57 地味うすく梅雨を待て稲植付候へとも、かしらに井手堤なく天水のミ待申事ニ候。又者六月之旱ニハ稲之根江水廻りかね、茶葉病なみなみの年ニも秋之家収寡候。海中ニ有之国ニ候へハ、畢竟盆山のことくにて、四時とくに風続候故、十年之作ニ八 0 0 島前の文化財 9 52 62 年迄ハ風旱之損毛ニて、漸二年之取ニ候へとも、地味薄御座候故、實熟とかく些少ニ候。諸作ともニ夫力耳(のみ)費、収蔵寡候。私居候所別府村と申候高百十三斛余之村、御奉行所有之、国中之府ニ而候ヘハ、嶋前ニ而ハ好村分ニ御座候。南東入 0 0 島前の文化財 9 52 67 薪 海北西ニ林有之、薪沢山、けやき、ははそ(柞)、楓なとをたききニいたし候。北之方松之嶺と申を越、耳浦と申へ出候ヘハ、あら海漁場也。此所ニ而鯖を取、刺鯖ニいたし他国へ出し候。呉竹まれニ而苦竹少々有之。松樹沢山、風水子かおきのす 0 0 島前の文化財 9 53 5 焼火 さみに書候おきのひて松随分沢山ニ候。一、島前中村々に寺社多。寺ハ真言宗多、浄土も有之様。本願宗者一宇、日蓮宗ハ無之候。一、神社ニハ、後鳥羽帝之節勅号之地焼火山雲上寺。是ハ船頭之洋中に漂白し暗夜なとニ迷、湊を失たる時祈候ヘハ 0 0 島前の文化財 9 53 11 焼火 、神火あらわれ安穏を得候よし。大坂から西船ニて往来いたし候もの信仰候故、繁昌之地、神明帳隠岐十六社之内也。其外神社とも村々ニ有之候。右焼火山ハ一條院之御宇ニ草創之由雲上寺之旧記ニ見ヘ候。一、寺は東鑑、承久記ニ出候。後鳥羽帝 0 0 島前の文化財 9 53 17 之御陵有之候。源福寺苅田山之文字を唯今ハ勝田(カツタ)山ニ書申候。真言宗其外村々に有之候。一、百姓食物雑穀ニわかめ、あらめ、豆葉、たひ、あかさなとを和し、飯ニも粥ニもいたし候。然とも春は食物乏候ヘハ、葛ノ根、わらひ之粉を給 0 0 島前の文化財 9 53 23 、又ハところ(野老)を給候。晩(カ)事ニハところも二種有之候。まところと申て京都ニ有之候風情御座候。かなところと申て土茯苓(まつほど)之ことくなる有之候。灰ニ混シ煮候而給候。一、海中之地ニ候へとも、三月から五月初迄ハさしさ 0 0 島前の文化財 9 53 28 ば(刺鯖)を仕出候。あミ(網)いたし候へとも青魚一種ニ而賞味もうすく、七月末から九月初迄周(鯛か)魚を取申候。其外寒中鮑、海鼠之類を取候而是類は他国江出候。其外ハ何魚を取候而も差而料類不自由ニ候。手前客なと行候節ハ銘々あミ 0 0 島前の文化財 9 53 34 をこしらへ置、釣道具なと貯候而取ニ遣申候。一、免弐つ弐歩五リン。五歩以下ノ損毛ニ候ハハ御断申上候。まして五歩以上之損毛ニ候ハハ、御立見願可申上御断可申上旨約束いたし来候。椿之実、漆実、牛皮、芍薬、茯苓、鰯、メメ、蚫、海鼠、竃 0 0 島前の文化財 9 53 40 役是等ハ小物成と申て十二月ニ銀納いたし、年貢も銀納ニ候へとも、これハ六月末から七月五日六日迄ニ皆済ス。収候所之銀高嶋前嶋後から納候所から三十弐三貫目、又或年ニより二十八九貫目ニ而候。観音丸与申候而公高禄之御船壱艘有之、公儀 0 0 島前の文化財 9 53 45 之御水夫預かり居申候而、右之御銀出雲役人百姓から請取観音丸二而松江江運送いたし、夫から常態包二いたし、大坂出雲屋敷之留守居宿から大坂納二出候由一、寒暑温涼之儀、先春者正月十五日過ぎより伯州之大仙おろしと申して北東之風毎日強、天気晴朗無之、 0 0 島前の文化財 9 53 52 ひたもの曇り折々淡雪さそひ候而、初午彼岸なとの比漸蓬、菖蒲少つつめたち、ひとへのしらむめも彼岸ならてハ咲不申候。上巳之節餅二入候蓬も大抵者不自由ニ候。右之良風毎日吹つつ候而潅仏過迄元袷ニわた入れニて居候。山桜のひとへなるも 0 0 島前の文化財 9 53 57 八十八夜から十五六日過候而ちちけてひらき申候。誠ニ日光寒草短月色苦霜白ニ而御座候。偖四五日綿入壱つニ而私こときの病身も漸氷の解たることくニ覚申候。又わさ梅雨とやら申て雨降続候。五月之梅雨左之通ニて、五月末六月初ニ木綿ひとへ 0 0 島前の文化財 9 53 63 物ニ成候。蚊ハあまり無之、手前なと蚊屋さげ申候も、外之毒虫ともかや屋根ニも天井から落候故用心之ためにいたし候。地下人大半ハ蚊屋なしに明し申候。夏蚊屋さけ候家ハ一村ニ二三軒つつ、外無之候。偖のミは随分沢山ニ御座候而、扨々昼夜 0 0 島前の文化財 9 53 68 ともにこまり申候。就中夜多出候。夜膝なとまくりためし見申候ニ飛付申事胡麻なとをふりかけ申ことくにて、寝申候ニ人々こまり申候故、のミ棚と申ものを人々いたし候。京之水茶屋の床机之ことくこしらへ置、其上ニ臥具を置、蚤の付不申様ニ随分を 0 0 島前の文化財 9 53 74 心遣いたし置、着し候て寝申事ニ御座候。然とも是は家広く御座候儀歟又は人之出入寡ク候屋宅ハ右之通ニいたし、其難を凌候ヘとも、私宅なとニてハ成不申候。惣而之私家ハ横三間に竪六間ニて御座候而、六畳敷之座敷ニ間通り之部屋十畳敷之居間、 0 0 島前の文化財 9 54 2 家来之居申候所四畳敷之此分ニ而、本屋より蔵へ参候所竪横弐間之そぎ屋ニて御座候而、右ニ書続候外ハ土間にて御座候。農事又者酒造候には土間せまく候てはあしく御座候故、右之通之すまい。尤酒造候には竪六尺間五間半に横七尺間弐間半之蔵にて 0 0 島前の文化財 9 54 7 候得共、四壁七歩之松板に而張り候物にて、萱やねにて御座候。火之用心は随分あやしく御座候。此所を蔵と名付け、其蔵に続候而米雑穀入申候所御座候。是は横は七尺間弐間半にて竪は六尺間三間之板張りに御座候而、やねは同前にて候。火事と申さは 0 0 島前の文化財 9 54 13 腰たてはなり不申候事に御座候へとも、是程にこしらへ申事無斗、私辛労之極にて出来候事故、精力も纔之貯も疲、是を阿房之殿閣与見罷在候事に御座候。左之用に御座候故前に書申候羅見蚤棚置可申座無之、其上二本指之公儀人衆与熟懇にいたし候故ひたもの 0 0 島前の文化財 9 54 18 入来いた申候故今宵ものみに施行をひく事よと笑申事に御座候。牽織之祭も無之、小麦団子斗打喰、大麦にて酒を造り賞翫いたし、十三日之節たま祭もそこそこに荷葉飯もまれに麦をこなし之間より、このかた之休憩と申候て、十五日には家々に切麦必いたし、 0 0 島前の文化財 9 54 24 くろくむくつけなる高股を出し、妻や子の中にはらはいて夏中の労を此時のはし、夜に入候へはおとり相撲も御座候。腰巻はおりにほうろく頭巾も見不申事故不好、田畑江出候衣装にて、肩はひちから上脚はひさから上斗むねのあわさる手織りのふと布、 0 0 島前の文化財 9 54 30 信夫ノ郡の藍すりもなり不申、深泥の内にくりと云物御座候を掘り出し、黒く屡流るたる着し、小娘人のよめなとは□□のふと布の手拭を島田わけの上に置、昔のとうねん風のおんとを巽あかりに、すっくり立て腰は少もしなへ不申、両手をふり廻し申候は、 0 0 島前の文化財 9 54 36 大木にかつらのまといたるか風にふかれ動く風情にて、夜々わめき暁迄声をからし候得は、其側には只今三番のすまふ、西ノ方においてひとつ松与申声いたし候を立より見申候へは、ひとつ松もから崎も三牟袷の木綿肌帯扨々おかしき事之限りにて、廿日過ぎを 0 0 島前の文化財 9 54 41 来仕と八月十五夜名におふ月のさゆると故人の云置しも云い出す人も無之、菊も重陽から十四五日も過候而咲申。9月十三夜は月見なりとて芋、青豆なとたのしみ候へ共、其夜に限り畑江若き者とも慰めに芋豆をぬすみに廻り候に、何とやら致し候へは、 0 0 島前の文化財 9 54 47 まきれ者御座候。不断盗を致候者ましり畑を明候事度々御座候故、大概月見には外に致、右之番に打ち廻り候てくもりやらはりやら月は不好候事にて、十月初から京の北しくれのことくしくれ候斗にて、はれ候事無之。夫 0 0 島前の文化財 9 54 47 まきれ者御座候。不断盗を致候者ましり畑を明候事度々御座候故、大概月見には外に致、右之番に打ち廻り候てくもりやらはりやら月は不好候事にて、十月初から京の北しくれのことくしくれ候斗にて、はれ候事無之。夫から次第にみそれ斗降続、はれ候事 0 0 島前の文化財 9 54 52 一日も無之。霜月之比から西北風斗吹続、風雪間なしにふり候て、三尺四方の爐辺にせなかをあふり申たのしみのみにて、手立は無之そうろう。夫からすぐに越年になり申事にて、さのみに雪もふかくは無之、弐尺ほと降候へは深雪にて御座候。惣而寒暑 0 0 島前の文化財 9 54 58 衣服 江戸京に比し候而は弱御座候。大抵冬の服私ことき肌着に木綿わた入れ袷、厳寒と申に其上に羽織をかさね申事に御座候。冬も凌ぎよく暑も木綿ひとへ物に而大かた土用も仕過申事御座候へは、寒暑ともに弱く御座候得は、九月末から彼岸過迄は、はれ無之、 0 0 島前の文化財 9 54 63 曇りみぞれのみふり、夏も志めり強御座候而兎角温気之湿地にて御座候。私共湿に冒されひたと少瘡なとも湿痰之頭痛等有之、こまり入り候。地震爰元江参不存候。雷は夏之夕立は無御座、冬春之間雪降候しらせに少鳴申候而、気運中國筋五畿内とは格別之 0 0 島前の文化財 9 54 69 違に而御座候。人心も土地に応し申候。誠之えひすにて利欲のみ深く候て頑愚に御座候。家内何人暮候所に而も銘々之槌文庫に手堅く錠をおろし、鎰も帯よりはなし不申、兄弟親類之患難困窮相互構不申、打寄酒を夥敷給候事に御座候。音声なまり強御座候故 0 0 島前の文化財 9 54 75 音曲なり不申、茶花入と申事絶果、名目も不存候。大かたは無筆にて御座候。庄屋なと斗とくにおかしくまけ廻候。夫故賭碁碁将棋にて光陰を過ごし申候。兼好之四季の段は源氏を本にしてかかれし事に御座候。只今拙者書読候は何之より所も無之風土之気味 0 0 島前の文化財 9 55 2 を書申候故嘸おかしく可被思召与存候一、鳥類之事雉、鳩、山鳥、水鶏無之。其余は何鳥も御座候 一、魚之事さより、きす、こいしもち、蛤、みるくい、たいらき、赤貝、さけ、ます無之、すすき、さわり夥敷味違、あふらこく候。又京にて見不申候物に、 0 0 島前の文化財 9 55 9 いかけと申魚御座候而、すすきに似申たるものに御座候。油もうすく給よきものに御座候。惣而魚鳥ともに大抵味うすく御座候 一、采物には桑寄生桑茸至而能御座候而公儀から年に三度つつ其役人相改廻り、村から番人付申候。然とも是は原田村上西村と申 0 0 島前の文化財 9 55 15 所之深林之桑の老樹掛り居申斗に而、外之村には無御座候。其外黄韲(せいさい)、芍薬、薄荷、茯苓山采に而候。作り蕷(いも)無之、自然薯にて御座候而すくれて白薯に而候議候に能もよく覚申候。茯苓、芍薬随分下品に御座候故、手前には 0 0 島前の文化財 9 55 20 遺不申、京から取りよせ候。野産之和人参と申て御座候。爰元醫師共常に遺申候。私江も遺候様にとすすめ申候は、唐沙参よりも其功能なとと申候へ者、秋から今以流行致候は疱痘に而御座候。爰元醫共ひたと遺候而唐人参に餘り劣り不申候由申候得は、私は 0 0 島前の文化財 9 55 26 今日迄遺候事無之、其巧能不好候 一、獣者牛馬、山猫、兎斗に而御座候。牛馬百姓之遺候分は面々駄屋に飼候へとも、其外は野飼にいたし置候。其元之狗なとのことく山畑も平原にも沢山に御座候而、内福之者は牛馬四百疋五百疋所持いたし候。貧乏之私 0 0 島前の文化財 9 55 32 こときも牛馬合而六十疋ほと御座候。右之通野飼にいたし両耳に銘々村々之印をきり申候。作り物之害をなし候時分には牧士と申て巧者に扱候ものを雇、賃銭村々から出し合わせ、朝夕其者に防せ申事に候。斬愛し置候へは、近国から又其商売人参候へは、 0 0 島前の文化財 9 55 38 相応之料物に成り申事に候 一、米雑穀味薄く形容は魚鳥草木共に似而非なる物に御座候 一、所之者上京又者出雲なとへ参候歟因幡なとへ罷越候而醫術修行致候事、三四年つつ之寛滞に而、帰嶋之後何れも相勤事に御座候得共、扨々用に立不申候。一分之上 0 0 島前の文化財 9 55 45 には埓明申と覚候風情に候へ共、何を一ツ仕覚候事もなく、其通之生涯を仕廻申候。此国之風に御座候。私とも醫行恒産に成候はは、勤可申候得共、何を申ても醜謝些少に御座候得は、少童壱人も醫力にては指置かたく、夫故無是非家来に農事なとさせ候事に 0 0 島前の文化財 9 55 51 御座候得共、先年私南京人江出会筆談いたし候事、出雲用人中家遠迄聞及被申候由に而、郡代代官を始諸役人衆は私江療治頼に付迷惑なから相勤申事に候。又在嶋メメ早少三十年に及申間に候へは、別懇之者も多候。何故に私江別懇にいたし候と考候へは、大病 0 0 島前の文化財 9 55 57 之節頼可申底意之外他事無之候。左様に平日出会申面々より之療養之頼、農事之防勝手之迷惑に御座候得共、疎意なりかたく相勤申事に候。大半断之立申候程之療用、外へ譲り先は国之熟人専要に病用相勤申事御座候 一、只今在嶋之流人百三十人。さりとは 0 0 島前の文化財 9 55 63 種々之者居申候。細工人、浪人者、出家、神主、盗賊、馬醫、百姓毎年五十七人つつ京大坂奈良から罷越候。十年斗己来者江戸からは不被遺候。偖赦之儀者七十八年己前迄□も有之候。此近年者無御座候。赦之節は小舟に而此嶋から出雲之城府松江と申所江罷 0 0 島前の文化財 9 55 69 渡り、夫から大坂から来候者は大坂之御役所へ引卒せしめ、京奈良から来候者も其所々江遺候由。此十二三年以前恩赦に逢、此嶋から右之品に而帰国之者、生国は河内に而百姓之由、故郷へ戻り候後、何と心得候哉嶋に子供有之、又かせき之便も能所に候合点 0 0 島前の文化財 9 55 76 致候。子供には大坂公儀江御油断申出し、此嶋へ再還いたし熟人に唯今は相成、少々田畑等帯し候て地下並之渡世致し、此類之男唯今三人御座候。兎角貧稟之国に候故歟、先者珍事にて御座候。就中右之人江私心安いたし候。右之河内之百姓者故郷に老親も有 0 0 島前の文化財 9 56 3 之由に而、毎春二月初に爰元出航候而4月中頃迄故郷に寛帯、京大坂之本願寺なとかけ廻り候之由に而、麦作取収之時分に嶋へ帰り申事御座候而、此男物語に而、春之京大坂鎖細に相知し申事に候 一、嶋人平生之職、先農第一に致候者セ候。其外舟船に而 0 0 島前の文化財 9 56 10 食料 他国から嶋江之通用、又は出雲因幡之城米を運賃に而大坂之蔵屋敷へ廻し候輩も御座候、京も亦田舎も渡世何に替候事無之候。食物のかし米遺候事は罕(まれ)に御座候。第一大麦に而候。飯にも粥にも致候外、珍事は味噌之糀に大麦を致候。大豆壱舛に麦の糀 0 0 島前の文化財 9 56 15 壱舛、塩からく和し置候得は、幾年置候而も味そこね不申候而、勝手に能事与申ならし候故、手前にも損益之考は無之口得共、三年ほとつつの味噌を遺申候。当分杵之味噌は遺不申事に候。扨又右之麦糀に而酒も酢造り候。冷飯麦壱舛之積りに彼麦糀壱舛 0 0 島前の文化財 9 56 21 入水、ひたひたに入置候へは、六七月には朝仕込入、夜味附申候。熱之麦飯に麦糀四五合入水、ひたひたに入置、六七月之頃には能酢になり申候。珍敷学文仕候事に候。偖食物之事、大麦第一に致、又は稗之粥百姓喰物三度つつ一日之間に給申内、壱度は飯を 0 0 島前の文化財 9 56 27 炊、弐度は粥に而仕込申事に候。かてに入に候冬はこな大こん葉、早春には京に而正月之かさりに入候ほんたわら、其以後草木芽生候へ者色々之めたちを入、夏はあらめ、わかめに而御座候。何国に而も春は百姓之給物乏候は其習には候得共、此国之百姓就 0 0 島前の文化財 9 56 33 食事 中食乏御座候故、葛根をほり、其内之しらみを食候事にこう。偖は華蕨を灰に而煮候而給申候、一服者布を専に用事に候。麻を各作り申事に而、苧者随分沢山に御座候。冬春之間よめも娘も腰のぬけたるはは、夜々苧をうみ、三月頃から年中入用之布を織申候。 0 0 島前の文化財 9 56 38 夏はふとき布をかたひらに致、冬は袷にいたし、上も下も布にてすまし候。木綿は国に綿作り不申候に付、打わた他国から取り寄せ、木綿に織たて候て、布を織候ものは多く、木綿織申もの一村に二三人ならては無之候。他国から古手之木綿もの取寄せせせ多用 0 0 島前の文化財 9 56 44 申候。絹布之類は大坂堺播磨から北国江参申廻船とも、長門下関からすくに佐渡か嶋へはしり□、必隠岐へ寄、夫から日和見合佐渡へなりとも北国へ成とも参候由。此廻船共種々之物を持来り要用を弁し申事に候。其外四国九国之船共北国江通候分は皆寄候 0 0 島前の文化財 9 56 49 事、或長崎へ冬之間参滞船いたし候も、北国江参候序に寄申事に候へは、唐物も求安く候。其外越前から之商船通テ持来候又は越後布加賀布なとも、但馬からは柳こほりなとも持来、兎角大坂から西へ之物北国物は何様之物も爰元へ持来候。京から東之物 0 0 島前の文化財 9 56 55 不自由に御座候。爰元之者西国巡礼にも毎年伊勢参宮にも参候故、美濃名護屋迄も通用もなり候。山田高向二頭大夫隠州之御師も御座候得共、参候五人とも六月初から七夕時分迄には二頭大夫へ参候事に候。則二頭大夫手代御祓賦りに毎年此元江渡り申事 0 0 島前の文化財 9 56 61 に候。山田之浄土譲師梅光寺之住僧信知和尚と申候。此嶋海士村素生之人之由に而、其因類又は知己道心者なとひたもの滞留候事此十年斗以前迄は御座候も、近来は様子不承候。又真言之小僧とも為修学上総下総安房江戸之近郷江も参申事様に御座候而、 0 0 島前の文化財 9 56 66 深川六兵衛方なとの通用も五七年に一度程つつ寄申事に候。先大概右之條々之通に御座候而、気運之違者格別之事に候得共、人間世計者替事無之候。此壱冊隠岐之手鏡と可被思召候 右此書者京都之醫師尾関意仙有子細而宝永六己丑年卒尓に殺尼謀に付而、 0 0 島前の文化財 9 56 72 其節被宥死罪、隠岐国江配流、行年弐拾六歳之時也。其後在嶋廿八年之後、元文改元丙辰年九月八日勢州神戸住人富永見純醫江被寄候を写置候者也干時元文二年十月十五日記之畢(表紙裏 参河国羽田 八幡宮文庫印あり)。解題。本書は古代の風土記 0 0 島前の文化財 9 57 2 ではなく、近世中期〔元文元年(1736)に隠岐島前別府村[現西の島町別府)に配流になった尾関意仙によって書かれた隠岐島(主として島前)の地誌で二十一葉の小冊子である。原文は不明であるが、写本が岩瀬文庫(愛知県西尾市立図書館)に所蔵 1736 0 元文元年 島前の文化財 丙辰 9 57 8 されており、島根県立図書館にそのコピ−がある。本復刻は県立図書館本により訳文は図書館の方でなされたものを了解を得てそのまま掲載させて頂いたものである。さて筆者の尾関意仙に就いてであるが、意仙は京都の御所出入り謂所の御謂殿医であった。 0 0 島前の文化財 9 57 14 子孫は現在西ノ島町別府に住んでおられる。然し同家には本書の原本控等は保存されていないが、意仙の父、栄仙の弟子南条道為による「赦免願」が残っている。それによると本書の奥書と内容に大小の相違もあるので右文書を掲載して参考に供する。 0 0 島前の文化財 9 57 20 乍恐奉願口上書(註一)隠岐島流人法眼 尾関栄仙子 尾関栄達 宝永三年戌七月、聖護院村より入牢仕候、其節二十二才而御座候。同五年子の十二月、隠岐島流罪被為仰付候。今年まで在嶋三十年五十五才に罷成申候。右隠岐島流人、尾関栄達儀左に相印 0 0 島前の文化財 9 57 27 候通三十年以前御吟味の筋に付流罪被為仰付候。父栄仙儀二十七年以前於聖護院村に病死仕候。栄達御咎之筋者三十四年以前、則宝永三年戌七月十九日尭景於聖護院村に家来之下女、年五十年じゅせんと申せんだく尼に而御座候。其節常達儀用事に付罷出 0 0 島前の文化財 9 57 33 申候処印篭を失念仕、門外より立戻り、庭に立ながら、じゅせん印篭を取遺し候へと申付候を、請入不申、自身取りて参よと申候を、又押返し申付候へば、不勝の体に而印篭をなげ出し候得共、庭に立候所まで届き不申候。栄達腹立仕不届之致方取上手渡し 0 0 島前の文化財 9 57 38 候へと少言葉あらく申候へば、女腹立の面色に而立、右之印篭を足下にけ出し申候。栄達庭に立ながら及腰に印篭を取らんと仕候上よりけ出し候と拍子悪敷下女が足下栄達頭こびんはずれにさはり候由に御座候。元来若者思慮なき儀故哉、則帯在候脇指直 0 0 島前の文化財 9 57 44 にぬき持、刃むねと存たたき申候処に手疵に罷成相果申候。尤、家来に相違無御座候処、下女一類共妾の様に申立無是非流罪仕候。私儀栄仙医術之弟子に御座候。栄達儀当時存命仕候、趣承及申候。此度流罪御赦免奉願上候。先年筑後守様御在役の筋御願申 0 0 島前の文化財 9 57 50 上置候。此度以御慈悲を御赦免被成下候はば難有忝可奉存上候。以上元文二年巳ノ七月 白川通船屋町 願主医者 南条道為 尾関栄仙弟子 家主 井筒屋三右衛門 年寄 篠屋茂兵衛 右によると、意仙は号で実名は栄達といい隠岐配流の事状も詳しく 0 0 島前の文化財 9 57 59 記されている。本書は彼が、島での流人生活の中で得た体験や見聞をまとめ、元文元年(一七三六]九月伊勢國神戸に住む医者富永見純に送ったもの。流人とはいえ医者という特殊な社会的立場にあったためか、島での生活は予想以上に自由で、屋敷を 1736 0 元文元年 島前の文化財 丙辰 9 57 65 構え、家僕を召し使っている。医者として村内の病人を診る事も暫々であった。本書の内容は、役人の村方支配の様子、村民の食事、衣服、農事、漁業等々村の生活、風土、気象、風俗、又動植物などに至まで克明に記している。流人自からが流人生活 0 0 島前の文化財 9 57 70 を書いたものが今まで知られていなかっただけに本書の文献価値は誠に高いといわねばならぬ。(註一)横山弥四郎著「隠岐の流人」による。本解説に当り、山陰中央誌掲載「山陰の古書」「隠岐国風土記」の紹介文を参考にし引用させて頂いた筆者に対 0 0 島前の文化財 9 57 77 し謝意を表する。(松浦康麿) 0 0 島前の文化財 9 58 1 島前村々神名記。両嶋神社書上帖。隠岐の神社資料二点を紹介する。仮に前者を資料(一)とし、後者を資料(二)とする。(1)原本は焼火山松浦家蔵「仁王経」の裏書である。これには「神名記」とのみあるが、島前の神社だけの記載であるので、 0 0 島前の文化財 9 58 7 「島前村々神名記」と名ずけておく。隠岐で神社資料のまとまったものとしては、隠州視聴合記(寛文七年、1667)増補隠州記(貞享5年、1688)等あるにはあるが、これらは社名のみの記載であるので(一)の奥書は元禄十六年(1703)で 1703 0 元禄16年 島前の文化財 癸未 9 58 14 あるが、各神社の祭神が残らず記入されており、前二者より資料価値が高い。これは恐らく当時の神道管領たる吉田家より、調査の達しでもあってそれに答えたものではなかろうか。黒木社、後鳥羽社(勝田神社と有)が、記録に現れたのもこれが一番 0 0 島前の文化財 9 58 19 古い。次に(二)は亡父静麿が「隠岐国神社秘録」(亡父の命名)の草稿を作る際、億岐家から借用の筆写本を原本とし、それに曽根研三編「隠岐国神社秘録」所載のもので校含した。奥書の「辰 三月」は宝暦十年に当るが、これは宝暦七年書き上げ 1757 0 宝暦7年 島前の文化財 丁丑 9 58 25 のものを十年に再度提出しているから、随って本書き上げは、宝暦七年現在である。表紙裏朱書に「神主有之分計り書出伝伝」とある様に全部の神社でなく、七年の原本から神主(宮守)の居る社のみを抜粋して報告したものである。今(一)(島前 1757 0 宝暦7年 島前の文化財 丁丑 9 58 30 のみ)と〔二)を比較すると(一)は八九社(末社を除く)(二)は三七社である。元禄度の社は昭和の現在でも殆ど現存しているから、宝暦度にも存在したはづだ。それで神主、宮守の無い社は誰が責任者であったかというに、他の記録に、「村持」 0 0 島前の文化財 9 58 36 と出るもので、この場合氏子の者が一年交替で祭礼の準備(主に神饌の調達、榊取り、御社掃除等)の世話をしたのであろう。この様なやり方を続けている処は今でも点々とある。是を一年神主ともいう。この資料は昭和二八年刊前記「神社秘録」の中 1953 0 昭和28年 島前の文化財 癸巳 9 58 42 神楽 にも入れてはあるが、一五0部限定の為、島内でも末見の方が多かろうと掲載することにした。この特色は各社に神主、宮守が記載してあることである。隠岐には神事を司った家にヨコヤ神主、社家(神楽)神主、の外に屋号の「ヨコヤ」という三類 0 0 島前の文化財 9 58 47 があるが、最後のヨコヤは現在は屋号のみで神社との関係の不明なものが殆どであるが、これが恐らく宝暦度でいう「宮守」でないかと思われる。この記録を目処にして調査してみると、大体がわかるでないかと思う。ここで神主とあるのは吉田家から 0 0 島前の文化財 9 58 53 の裁許状をもっているものの謂で、ヨコヤ神主、社家神主いづれも神主となっているが、後者は、島前では、布施村秋月、浦郷村秋月、別府村宇野の三家、島後では、油中村和田、北方村藤田、東郷村村上、矢尾村村上、目貫村高橋の五家である。つい 0 0 島前の文化財 9 58 59 神楽 でに申すとこの社家に伝えたのが、隠岐の神楽である。最後に(一)の祭神であるが、これはこの時代、神主側で古典に出ている神名に附会して決定書出したと思われるものが多く、ここに記載のもののすべてが、古来からの祭神というわけのものでもない。 0 0 島前の文化財 9 58 64 祭神も時代によって変遷があったのである。(松浦康麿記) 神名記天神地祇総三千百三十二座 社二千八百六十一處 前二百七十一座 大四百九十二座 三百四座並預祈年月次新嘗等祭案上官幣就中七十一座預相嘗祭 一百八十八座並預祈年国幣 0 0 島前の文化財 9 59 7 小二千六百四十座 四百三十三座並預祈年案下官幣 二千二十七座並預祈年国幣 右延喜御門御勘請にて六十余州鎮座祭 隠岐式内十六座大案上四座小案下十二座 知夫里郡七座大一座小六座 由良媛神社大名神大元名和多須神 浦之郷村由良媛大明神 0 0 島前の文化財 9 59 15 太山神社小 海(アマノ)神社二座志賀三社一座住吉三社一座 別府村六社大明神 比奈麻治媛(ヒナマチ〕命神社活玉依姫命別号宇賀村済大明神 真気(マケノ)命神社素盞鳴命真名鶴雄宇賀圧須気尾大明神 天佐志彦(アマノサシヒコ)命神社 0 0 島前の文化財 9 59 19 大巳貴命別号知夫里村一宮大明神 海部郡二座大一座小一座奈伎良(ナギラ)媛命神社阿波奈伎阿和那美命別号豊田村柳井姫大明神宇受加(ウケカ)命神社大名神大倉稲魂命宇津賀村宇受加大明神 周吉郡二座並小加茂那備(カモナヒ)神社京都上賀茂 0 0 島前の文化財 9 59 24 別雷皇太神加茂村加茂大明神 水祖(ミオヤ)神社京都下賀茂同躰玉依媛大巳貴命矢尾村糺ノ天神 玉若酢(タマワカスノ)命神社大巳貴命別名ナリ下西村惣社大明神 和気能須命神社大山咋命別号下西村松尾大明神 穏地郡三座大二座小一座天健金草 0 0 島前の文化財 9 59 29 神社都万院天健八幡相殿ニ有 水若酢命神社名神大豊受皇大神外宮五ケ山田ケ原一宮大明神 伊勢命神社名神大猿田彦太神別名椿大神也久見村内宮ト伝 右延喜五年十二月廿六日 宣旨於斎場所定請神号同廿八日神躰ヲ各渡六十余州而後諸国祭鎮座 0 0 島前の文化財 9 59 34 給者ナリ 延長五年十二月廿六日 外従五位下行左大史臣阿刀宿祢忠行 従五位上行勘解由次官兼大外記伊権介伴宿祢久永 従四位上行神祇伯臣大中臣朝臣安則 大納言正三位兼行民部卿臣藤原朝巨清貫 左大臣正二位兼行左近衛大将皇太子傅臣藤原 0 0 島前の文化財 9 59 42 朝臣忠平。文亀三年十二月廿六日、神道長上従二位行神祇大副兼侍従、卜部朝臣兼倶右各在伴。知夫里郡之内。浦之郷村、由良媛太明神式内案上須勢伴媛尊隠岐一ノ宮、山王大権現大山咋命、大原大明神天皃屋根命春日同躰、住吉大明神底筒男、中筒男 0 0 島前の文化財 9 59 52 表筒男命、石神明神伊和佐久命根佐久命、蓬莱亀(ホウライキ)神社豊玉媛神代ニイツル、平野少宮、仁徳天皇、大鷦鷯命、乙訓(オトクニ)明神、大山咋命、松尾同躰ナリ、森大明神、天紬女命、青根明神、青加志伎根(アオカシキネ)命、待場明神 0 0 島前の文化財 9 59 59 猿田彦太神、比志利権現、事代主命、辯財天神社二所豊玉媛命、知屋御前、宇祢美大明神、美田院、大山大明神式内案下大山祇命、正八幡大神宮御相伝秘法應神天皇誉田皇命、高田大明神、素盞鳴尊伊弉諾尊、相殿座、三保大明神、三保津媛命、地主 0 0 島前の文化財 9 59 69 焼火 権現大巳貴命、弁才天玉依媛命、荒神社所々素盞鳴眷属、焼火山大権現宮三座同殿伊勢太神宮同躰ナリ、手力雄命左陽、天照大日霊貴離火社神霊号、萬幡姫命右陽、末社辯財天社、豊玉姫命、五郎王子、素盞鳴命ノ五男王子、御前、事代主命、山神 0 0 島前の文化財 9 60 3 大山祇命、随神御門神左右豊右窓命、奇石窓命、金重御神宮アリ、最勝神同、荒神同、道祖神同、水神、疱瘡守護神、船玉神。別府村。六社大明神式内案下志賀三社一座住吉三社一座、海神二座、伊勢内宮太神日神、山神社大山祇命、稲荷明神倉稲魂命、 0 0 島前の文化財 9 60 16 荒神社黒木社九十五代後醍醐天皇尊治皇命。宇賀村。須気尾大明神式内三座、稲田姫命、真気命真名鶴雄也三座、大巳貴命、末社、熊野社、伊弉諾尊、愛宕神社、火産霊神、八面荒神社家伝記素盞鳴尊ノ眷属、済大明神式内案下比奈麻治比メメ命、活玉 0 0 島前の文化財 9 60 25 依媛命、星加美嶋明神鹿賀瀬雄命、渡須神社龍神和多積命、日御前、日神鏡(ヒボマノカガミ)天照ト不可伝、弁才天社、豊玉媛命、天満天神社、菅亟相菅原朝臣道真、御崎二社、事代主命、八束水臣津野命。知夫里村。一宮大明神式内案下、大巳貴命、 0 0 島前の文化財 9 60 34 渡津大明神、五十猛神、姫宮大明神、倭姫命、愛宕大明神、伊弉並命火産霊尊、伊勢宮、猿田彦大神椿社ノ別号、大山大明神大山祇命、大山権現、大巳貴命、午頭天王、素盞鳴尊変身、蔵王権現、伊弉諾尊、八幡宮、應神帝、弁才天、玉依比メメ命、 0 0 島前の文化財 9 60 44 海士郡之内。崎村。三保大明神二座、事代主命美穂津姫命、西宮大明神蛭子尊、帝釈天社、天道部也仏家ニ出ル、素盞鳴尊ノ変身ト伝、住吉社、住吉神同躰、高田大明神、素盞鳴尊、客大明神、午頭天王。布施村。稲荷大明神、倉橋魂命、熊野本宮 0 0 島前の文化財 9 60 54 伊弉諾尊、熊野三社神者誓句神也、八幡宮、應神帝、日御前、日神鏡和多利神、和多津命。太井村。奈須大明神、奈須比古命大巳貴ノ子、日御前、日神鏡、大歳明神、真名鶴雄素盞鳴尊ノ変身。知々井村。熊野那知社、早玉男神、渡利神、玉依比メメ 0 0 島前の文化財 9 60 65 天満天神、道真公。豊田村。柳井(ヤナイ)媛大明神式内案下、奈伎良比メメ命、鹿嶋大明神武甕槌命、月輪大明神、月神、大歳大明神、真名鶴男。宇受賀村。宇受加大明神式内案下、宇受加命五穀神也、龍頭(リュウズ)大明神、火火氏見尊、客大明神、 0 0 島前の文化財 9 60 74 午頭天王。海士村。諏訪大明神、健御名方命、熊野新宮、事解男(コトサカノヲ)神、惣社大明神、大巳貴神、糺(タダス)天神、少名彦命、朝露大明神、奈伎佐波目命、八幡宮、應神帝、大山明神、大山祇命、渡須神、玉依媛命龍神、市之宮、市 0 0 島前の文化財 9 61 7 杵嶋媛命、妙見、天道部、素盞鳴尊ノ変身也、勝田神社、八十二代後鳥羽帝尊成皇命。福井村。御蔵大明神、大國玉命、秘伝傅、日吉明神、大巳貴命、山王権現、大山咋命、十二所権現、熊野十二社、山神、猿田彦大神、家督大権現、大巳貴神杵築人 0 0 島前の文化財 9 61 16 同躰故アトトリト云々。右之旨於吉田正相改秘傅也、元禄十六癸末孟夏吉曜日天兒屋根尊五十七世神祇管領長上三位兼侍従ト部朝臣兼敬卿御代。両嶋神社書上帖。(島前)。海士村、新宮権現、宮守助太夫、同村、諏訪大明神同武太夫、宇津賀村、 0 0 島前の文化財 9 61 26 宇津賀大明神、同三太夫、豊田村、柳井姫大明神、同利右衛門、同村、大歳大明神、同市助、知々井村、天満宮、別当西福寺、同村、熊野権現、宮守三太夫、同村、八幡宮、同清十郎、同村、渡大明神、同善助、太井村、奈須大明神、同源治郎、同村、 0 0 島前の文化財 9 61 34 御崎大明神、同又兵衛、布施村、熊野権現、別当宝光寺、同村、御崎大明神、神主秋月和泉、同村、稲荷大明神、同同人、同村、八幡宮、宮守徳兵衛、崎村、大峯社、別当建興寺、同村、三保大明神、宮守助蔵、同村、蛭子大明神、同同人、同村、 0 0 島前の文化財 9 61 42 帝釈天、同徳兵衛、同村、高田大明神、同十兵衛、福井村、御蔵大明神、同仁左衛門、同村、十二社権現、同喜平太、福井村、日吉権現、同吉郎兵衛、同村、跡戸権現、同清太夫、知夫里村、一宮大明神、宮寺吉重郎、同村、渡大明神、同徳兵衛、 0 0 島前の文化財 9 61 50 焼火 浦之郷村、由良姫大明神、神主真野丹次(波)、同村、森大明神、同、秋月右近、同村、山王権現、宮守、助四郎、美田村、焼火権現、別当、雲上寺、同村、高田大明神、神主、宇野河内、同村、八幡宮、宮守、八郎左衛門、同村、大山大明神、同、 0 0 島前の文化財 9 61 56 同人、別府村、六社大明神、神主、宇野石見、同村、伊勢宮、同、同人、宇賀村、杉尾大明神、同、宇野大和、同村、済大明神、宮守、十太夫。(島後)。津戸村、花生大明神、宮守、金兵衛、都万村、八幡宮、神主、古木左門、同村、高田大明神、 0 0 島前の文化財 9 61 64 同、坪井主善、那久村、壇鏡権現、別当、光山寺、同村、峯津大明神、神主、安部将監、同村、山王権現、宮守、久四郎、同村、忌大明神、同、喜兵衛、由井村、國吉大明神、神主、和田掃部、同村、三保大明神、同、同人、由井村、那智権現、同 0 0 島前の文化財 9 62 1 同人、南方村、辯財天、神主、阿部杢之進、同村、中言大明神、同、同人、同村、那智権現、宮守、半四郎、同村、天満宮、同、平左衛門、同村、稲荷大明神、同、文八、同村、徳照大明神、同、助之進、苗代田村、来成大明神、同、熊三郎、那久路村、 0 0 島前の文化財 9 62 9 妙見神社、同、佐兵衛、都万路村、山王権現、同、小三郎、小路村、熊野権現、神主、藤原左善、郡村、熊野権現、同、代左京、同村、山神社、宮守、定之亟、山田村、山王権現、同、杢右衛門、一宮村、一宮大明神、神主、大宮司(忌部氏)、北方村、 0 0 島前の文化財 9 62 16 嵩大明神、別当、横山寺、同村、八幡宮、神主、藤田薩摩、同村、若王子権現、同、同人、同村、白尾大明神、宮守、善之亟、代村、北谷大明神、神主、斎加大善、久見村、内宮大明神、同、八幡将監、伊後村、熊野権現、別当、清雲寺、同村、蛭子 0 0 島前の文化財 9 62 23 大明神、宮守、万三郎、西村、月下大明神、同、與吉、同村、天月神社、同、杢之進、湊村、天満宮、同、治郎左衛門、中村、月日社、別当、常楽寺、同村、八幡宮、宮守、権之亟、元屋村、八王子神社、神主、榊原大蔵、飯美村、白髭大明神、宮守、 0 0 島前の文化財 9 62 30 長兵衛、布施村、春日大明神、同、甚四郎、卯敷村、白髭大明神、同、弥次郎、大久村、八幡宮、同、金次郎、同村、奈岐良大明神、同、與次兵衛、同村、春日大明神、同、市兵衛、同村、熊野権現、同、又兵衛、同村、大日神社、同、喜十郎、釜村、 0 0 島前の文化財 9 62 38 森大明神、同、吉右衛門、犬来村、三保大明神、同、貞五郎、同村、南張大明神、同、同人、津井村、八幡宮、同、市右衛門、同村、熊野権現、同、喜十郎、飯田村、八幡宮、同、長三郎、東郷村、八幡宮、神主、吉田内蔵助、同村、久瓊太神社、 0 0 島前の文化財 9 62 45 同、村上大善、同村、浦宮大明神、宮守、市三郎、有木村、熊野権現、同、源内、同村、妙見神社、同、半左衛門、国分寺村、八幡宮、神主、横地利馬、同村、池畔大明神、宮守、又郎左衛門、原田村、山王権現、同、弥三郎、同村、住吉大明神、同、 0 0 島前の文化財 9 62 52 文五郎、原田村、八幡宮、同、與四郎、原田村、物忌大明神、同、弥久治、上西村、八大龍王社、同、斧八、上東村、中琴大明神、同、太七郎、平村、牛頭天王、同、角兵衛、同村、御瀧権現、同、定治、蛸木村、神嶋大明神、同、杢兵衛、加茂村、 0 0 島前の文化財 9 62 60 加茂太明神、神主、野津式部、箕浦村、姫宮大明神、宮守、定右衛門、岸浜村、厳嶋大明神、同、金右衛門、今津村、白鳥大明神、同、磯右衛門、西田村、山王権現、同、重左衛門、下西村、松尾大明神、同、祐七、惣社村、惣社大明神、神主、國造、 0 0 島前の文化財 9 62 66 (億岐氏)、矢尾村、天満宮、同、吉岡丹正、同村、國府尾八幡宮、同、村上築前、同村、御崎大明神、宮守、平右衛門、同村、日開山大明神、同、貞右衛門、同村、正八幡宮、同、同人、目貫村、辯財天、神主、高橋豊前、同村、諾浦大明神、宮守、 0 0 島前の文化財 9 62 73 徳左衛門、宇室町、御崎大明神、同、治左衛門。右者諸國大小之神社於京都御用ニ付当時所在之分不洩様ニ書付可差出旨今度従、公儀御觸之趣奉得其意候依之隠州両嶋村々神社遂吟味候処書面之通御座候。以上。辰三月、松乎出羽守家来。 0 0 島前の文化財 9 63 1 在嶋郡代、今井佐右衛門、右者諸國大小之神社当時所在之分不洩様取調書付可指上旨被仰渡奉畏早速隠岐國迄申遺候付而村々吟味旨候処書面之通二御座候、以上、辰七月、松平出羽守家来、由良勘兵衛、(朱書)宝暦七年旧幕府エ雲藩ヨリ書出し候、神社 1757 0 宝暦7年 島前の文化財 丁丑 9 63 11 帖之由ニテ明治二年七月同藩足羽文左衛門ヨリ差出候分、社寺方、(朱書)(表紙裏に有り)、朝命ニ而宝暦七年國中神社方調候帖面ニ候処神主有之分計書出候様幕史ヨリ命候趣ニ而此帖面ヲ省略シ別帖ノ通リ書上ヶ候由ニテ明治二巳年雲藩岡本三郎 1869 700 明治2年 島前の文化財 己巳 9 63 17 ヨリ差出シ候分之寫、社寺方、此帖者今般両嶋神社取調之儀被仰付依之裁判所より御下ケ被下候ニ付写し置もの也、明治二年巳十月、杉舎金翠(花押)。 1869 1000 明治2年 島前の文化財 己巳 9 77 1 力士の碑。近世末期迄の隠岐では、村々が寄り合って、郡や国を単位の大祭り奉納相撲を催し、すぐれた力士をえらび出し当時の牛突きとともに、庶民が熱中した最大の娯楽であった。土地の有力者や村役人がその育成には格別の力を注ぎ、島前、島後 0 0 島前の文化財 9 77 6 の各村々にどの伝統をのこした。それはまた若者達の英気を団結させ、村落社会のなかの若連中の組織を固め、村の行動体としての地位を高めることにも役だったのであった。私は十五六年昔、焼火山の北の登り口大山の里を通りかかったとき、路傍 0 0 島前の文化財 9 77 11 焼火 に建っているこの碑をはじめて見たとき、碑の立派さもさることながら、真夏の太陽に映える火嶽の二文字に心をひかれ焼火山を連想し、それが力士の碑であることを直感した。はたして火嶽は友一郎のしこ名であり、焼火信仰の地元大山の力士として、 0 0 島前の文化財 9 77 15 焼火 常時焼火権現の神助を授かり勝負にのぞむ必勝の信念としたことであったであろう。碑文には墓とあるがこの碑は、明かに力士顕彰碑であり、墓は別の土地にある。明治壬申戸籍には、新谷友一郎、弘化三年五月九日生、明治十八年二月二十八日没、 1885 228 明治18年 島前の文化財 乙酉 9 77 21 生業舟乗と記載されていることもわかった。島前には各村々に力士の碑があるが、これが最大のもので実績を表しているかのようにみごとである。知夫利村にも力士碑は多いが郡一宮神社のものがこれにつぐ大きいものであるが一m80位の高さで 0 0 島前の文化財 9 77 25 ある。龍浪弥七。万力米吉、明治十五年旧七月七日、郡若連中、とある。火嶽友一郎、碑の高さ二、二0m、巾九0cm、石材、大山石、文字、二五cm角。(拓本、淀重美、解説、田邑二枝)。 1882 707 明治15年 島前の文化財 壬午 10 1 1 天然記念物、くろぎづた産地 大正11年3月8日、国指定。1、区域、島根県知夫郡、別府湾の内見付島より俚称黒木御所阯を見通したる線内の海面、島根県海士郡、大字福井菱浦湾より西南方茅崎鳥島を見通したる線内の海面。2)説明、世界中紅海以東においては独り我邦隠岐 1923 308 大正12年 島前の文化財 癸亥 1 0 1 焼火 表紙・口絵解説。二代広重「隠岐焚火の社」(表)。「焚火の社」の浮世絵は「北斎漫画」七編の中に出ているが、これは諸国名所絵としては早い頃の作品であろう。北斎・広重は風景画の二大作家として有名であるが、広重が「東海道五十三次」 0 0 隠岐の文化財 1 0 3 焼火 を発表してより以降は風景画の方は広重の方が世にもてはやされるようになった。初代広重は諸国名所絵を何度も画いているが、その一つである「諸国六十八景」は早い時期のもので、後に「六十余州名所図絵」を画くが、そのいずれにも隠岐の代表ととして「焚火の 0 0 隠岐の文化財 1 0 5 焼火 社」を選んでいる。本画は二代広重で「諸国名所百景」と題して初代広重に習って隠岐では焚火社を画いた。焼火信仰の特色は「神火示現」の信仰でそれが為に航海安全の神として船人等の強い信仰を受けていた。ここに画かれているのも北前船に於ける海上安全を祈 0 0 隠岐の文化財 1 0 7 焼火 る「献灯」の行事である。ただし、北斎・広重共に山陰を訪ねた証はないので恐らく江戸に於いて「献火」の事を聞いて画材としたものであろう。二代広重も初代広重に習って構図をすこしかえて画いたと思われる。 0 0 隠岐の文化財 1 0 9 焼火 初代広重「焚火の社」。「焚火の社」は「六十余州名所図絵」のものでこの方は「献火行事」でなく舳で御幣を振っている図になているが、このような行事があったかどうかは詳らかでない。 0 0 隠岐の文化財 1 0 17 北前船(裏)。北前船。西郷町今津の白鳥神社に奉納されている北前船(廻船とも)の模型であるが、現存していない今では貴重な資料である。今津では正月二日の「松直し」(隠岐に於ける船祝)の時にこの船をおろして、拝殿前を海に見立てて 0 0 隠岐の文化財 1 0 20 社殿を1周して海上安全を祈る行事をつづけている。二代広重は文政9年生まれで明治2年に没している。初代広重の門人、初代の死後は「一立斎広重」と名のる。広重には三代まである。二代と三代は血縁関係はない。(松浦記) 1869 0 明治2年 隠岐の文化財 己巳 1 11 1 隠岐国代記考証(国代考証)について。井上寛司。はじめに。隠岐中世史研究は、その著しい史料的制約ものとで、未だ解明しえぬ多くの空白部分をかかえ、呻吟を続けている。中世という時代を生きた隠岐島民衆の暮らし向きやその歴史的ないし 0 0 隠岐の文化財 1 11 8 地域的特徴、そしてそので育まれた思想や文化、生活習慣、風習等が今日の私達の生活をどう支え、また規定しているのか。これら隠岐中世史研究に課せられた課題の重さに較べ、現在私達が弛りえている事柄はあまりにも少なく内容の乏しいもの 0 0 隠岐の文化財 1 11 13 といわざるをえない。中世民衆の生活の場、そしてそのあり方を強く規定した隠岐中世の政治、経済、社会構造そのものも、未だほとんど解明しえていないというのが現状である。こうした困難な状況ものとにあって、中世史料の不足を補うに足る 0 0 隠岐の文化財 1 11 19 価値をもつものとして、従来からしばしば利用されてきたものに、「隠州視聴合紀」「増補隠州記」「隠岐古記集」以下の近世になって編纂、著述された地誌、歴史書類のあることは人のよく知るところである。小稿で取り上げる「隠岐国代記考証」 0 0 隠岐の文化財 1 11 24 (一般には「国代考証」の書名をもって知られる)もまたその一つで「隠岐島誌」をはじめ、従来からこれに関説したものも少なくはない。しかし、「隠州視聴合紀」等に較べ、「国代考証」の用い方が著しく限定され、部分的なものにとどまって 0 0 隠岐の文化財 1 11 30 いることは明白であって、「国代考証」のもつ史料的価値からいって、その利用の仕方には少なからぬ問題が含まれていると考えざるをえない。私見によれば、右のような問題は主として次の2点にその原因があるのではないかと思う。(1)「国 0 0 隠岐の文化財 1 11 36 代考証」という書物の性格、内容が明かでなく、安心して利用できない。(2)活字化されておらず、利用に不便がある。右のうち、とくに第2点につうては若干の補足をしておかねばならない。1964年に刊行された隠岐郷土研究会編「隠岐島 0 0 隠岐の文化財 1 11 42 史料(近世編)」の中に、「国代考証」としてその全文がすでにタイプ印刷されているからである。この「隠岐島史料」は古代から近世に至る隠岐関係史料を網羅的に編集したもので、これによって隠岐前近代史研究が大きく促進されたことは疑い 0 0 隠岐の文化財 1 11 48 ない。「国代考証」についても、本書によってその存在が広く知られ、利用の便宜がはかられたわけで、隠岐郷土研究会のご努力に深く敬意を表するものである。ただ惜しむらくは、さきに指摘したような「国代考証」に対する評価と考察に欠ける 0 0 隠岐の文化財 1 11 53 ところがあり、そのためもあってその翻刻には多くの誤りと不備な点が目立ち、このままでは使用を著しく困難なものとしている。これまで「国代考証」が十分活用されることなく来た理由の一つに「活字化」されていないことをあげたのは、「隠 0 0 隠岐の文化財 1 11 59 岐島史料」のもつこうした史料集としての不安定性をふまえてのことである。以上より、小稿では、まず「国代考証」のもつ史料としての性格について、現在わかる範囲での考察を試み、これをふまえてできる限り正確にその翻刻につとめることに 0 0 隠岐の文化財 1 11 64 したい。未だ十分な考察に到達しえない不備なものではあるが、読者諸賢のご教示、ご批判をいただければ幸いである。1、書名の由来と諸本の伝来。現存する諸写本等によってみると、本書はその書名を「国代考証」または「国代記考証」といい 0 0 隠岐の文化財 1 12 4 、「意気の国代記について考証を行った文書」の意と解せられる。「隠岐国代記」とは隠岐国の代々の公的統治権者の次第を記した記録の意で、具体的には「隠岐視聴合紀」に収録されている「国代記」を指している。つまり、本書は「隠州視聴合 0 0 隠岐の文化財 1 12 9 紀」の中の「国代記」の記載内容を批判的に検討し、その誤りを正し、より正確な「隠岐国代記」を作成しようとした文書だということができる。書名に「考証」という言葉が用いられたのはそのためであり、この点で、本書は「隠州視聴合紀」以 0 0 隠岐の文化財 1 12 15 下この前後に作成された他の地誌、歴史書類とは大きくその性格を異にするものといわねばならない。右のことは、本書の記載内容および形式をみれば一層明白となるが、それについて延べる前に、あらかじめ諸写本の伝存状況についてみておくこ 0 0 隠岐の文化財 1 12 21 とにしたい。写本によってその記載内容および形式に若干の相違があり、「国代考証」の元の形を確定しておくことが以下の考察を進めていく上ですべての前提でなければならないからである。私がこれまでに調査しえたところによると、現在本書 0 0 隠岐の文化財 1 12 27 の写本としては次の5冊の存在を確認することができる。A、海士町村上助九郎氏所蔵本(以下、海士村上本という。以下同じ)B、境港市上道町東寛氏所蔵本(東本)C、西郷町松浦千足氏所蔵本(松浦本)D、西郷町横地和子氏所蔵本(横地本 0 0 隠岐の文化財 1 12 33 )E、西郷町村上ふみ氏所蔵本(西郷村上本)右のうち、海士村上本、松浦本、西郷村上本にはいずれも奥書が記されておらず、いつ誰によって筆写されたのか明かでない。これに対し、比較的伝写、伝来の過程がよくわかるのは東本で、その序文 0 0 隠岐の文化財 1 12 39 に「此本元隠州島前知夫郡崎邑雲上寺之什物也、天保六甲乙未歳伯州会見郡弓ケ浜上道邑足立玄脩仲夏上中旬迄写之」、また写本末尾に「天保六乙末六月吉日写之、伯州会見郡浜之目上道邑、足立玄脩主」とあり、さらにこの後に、別筆で「大正十 0 0 隠岐の文化財 1 12 46 四年ニ譲受セシモノナリ、本家東勇太郎所有」と記されている。かつて島前雲上寺(焼火神社)に所蔵されていた「国代考証」を、天保六(1835)年六月に伯耆国会見郡上道村の足立玄脩(医者だったといわれ、隠岐と何らかの関係があったの 0 0 隠岐の文化財 1 12 52 であろう)が筆写し、それが後東氏の所有に帰し、今日に至っている。こうした経過を右の記述から知ることができる。この東本の存在については、早く焼火神社松浦静麿氏の指摘するところであって、昭和三(1928)年四月松浦氏はこの東本 1928 400 昭和3年 隠岐の文化財 戊辰 1 12 57 を底本として「国代考証新注評」と題する稿本を作成しており、現在その稿本は松浦静麿氏の所蔵するところである。そして「国代考証新注評」の記するところによると、かつて焼火神社に所蔵かれていた「国代考証」(足立玄脩が筆写したもとの 0 0 隠岐の文化財 1 12 63 写本)は、昭和8年刊行の「隠岐島誌」編纂の参考資料として提出し、紛失したものであるという。焼火神社所蔵本の失われた今日、東本はこれを今日に伝える点でも貴重な資料だということができよう。一方、横地本はその奥書に「周吉東郷吉田 1933 0 昭和8年 隠岐の文化財 癸酉 1 12 69 氏ニテ写ス、真野覚兵衛主」「都万村歌木、真野氏」また表紙に「真野秀次」「記録原簿第4825号、横地信太郎蔵」と記されており、その筆写年代は明かでないが、かつて周吉郡東郷の吉田某が所蔵していた「国代考証」(写本、この点後述) 0 0 隠岐の文化財 1 12 74 を都万村歌木の真野覚兵衛が筆写し、それが後西郷横地氏の所有するところとなり、今日に伝えられたものであることが知られる。この横地本の存在は同じく永海一正氏の早くから注目するところであり、永海氏は1954年8月にその稿本を作成 0 0 隠岐の文化財 1 13 2 し、松浦静麿氏稿本との校合を経たのち、1969年9月には梅之写松浦千足氏所蔵本と校合を行っている。永海氏のこの稿本は現在永海ユキ子氏の所蔵するところであるが、その記載内容、体裁等から考えて、先述した「隠岐島史料」が底本とし 0 0 隠岐の文化財 1 13 8 たのはこの横地本であったことが知られる。後述するように、この横地本は諸写本の仲にあってそれほど出来ばえの良いものとはいえず、これを底本として採用したところに、そもそも「隠岐島史料」の困難も存在したのではないかと考える。 0 0 隠岐の文化財 1 13 14 2、諸写本の比較−諸本の系譜。次に、5冊の写本の内容および体裁をそれぞれ比較検討し、その相互の連関を考えてみることにしたい。これまでにその存在が確認しえた5冊の写本についてみると、その記載内容および形式からいって、およそ2 0 0 隠岐の文化財 1 13 20 つないし3つのグル−プに分類することができる。その第1は、海士村上本によって代表去れるもので、「国代考証」の本文に当る部分と、その考証の根拠となった参考資料をまとめた部分との2つからなっている(以下、前者を本文編、後者を参 0 0 隠岐の文化財 1 13 26 考資料編という)。これに対し、西郷村上本は本文編のみからなり、参考資料編を欠いていて、第1グル−プとはその体裁が大きく異なる。これが第2クル−プで、この2つの区分によってみるならば、西郷村上ほんを除く他の4冊はいずれも第1 0 0 隠岐の文化財 1 13 31 グル−プに属するといってよい。ところで、参考資料編についていうと、その中には(1)太平記、後太平記などの諸記録、(2)雲州守護記、(3)惣社、国府尾八幡宮、国分寺、一宮以下の寺社所蔵文書、記録等が含まれており、松浦本では本 0 0 隠岐の文化財 1 13 37 文編と(1)を一括して「国代考証」とし、これと(2)と(3)とをそれぞれ独立した記録として1冊に合綴して今日に伝えている。そして、とくに松浦本では(3)を「社寺古証文」と命名して「国代考証」および「雲州守護記」と区別してお 0 0 隠岐の文化財 1 13 42 り、その記載様式は海士村上本、東本、横地本とは大きく異るところである。これは第1グル−プの中にさらに2つのクル−プが存在したことを示唆するものであり、この松浦本を第3クル−プということもできるであろう。以上、記載様式の形式 0 0 隠岐の文化財 1 13 48 的な側面から、5冊の写本が2つないし3つのグル−プに分類しうることを述べたが、しかしこのような分類によって「国代考証」の元の形やその伝写過程を直ちに明かにしうるものでないことはいうまでもない。たとえば、第2グル−プとしてあ 0 0 隠岐の文化財 1 13 54 げた西郷村上本の場合、筆写のある段階で参考資料編部分のみ筆写を省略したか、もしくは何らかの事情で紛失してしまった可能性もあり、また第3グル−プとしてあげた松浦本にしても、ある筆写の段階において筆者の判断でさきのような形態を 0 0 隠岐の文化財 1 13 59 とった可能性も存在するからである。そこで、これらの点を念頭におきつつ、今一度その個々の記載内容に立入って検討を加えることとする。まず、海士村上本についてみると、本書はその記載様式(本文編と参考資料編の区別が不明確であるなど 0 0 隠岐の文化財 1 13 65 )や記載内容(他の諸本と比較して若干の記載漏れを指摘することができるなど)からみて、これを「国代考証」の原本とみなすことはできないが、以下に述べる諸本に較べ、その記載内容は比較的原本に忠実かつ正確だと判断され、5冊の写本の 0 0 隠岐の文化財 1 13 70 中では最もすぐれた写本といってよいと考える。これに対し、海士村上本と同じ系列に属しながらも、なお海士村上本とは別の写本に拠ったと思われるものに松浦本と横地本とがある。この両本は、(1)海士村上本の脱漏部分(本文編「宗清」溢 0 0 隠岐の文化財 1 13 76 号、参考資料編、雲州守護記の「綱隆」の項など)の記載をもち、(2)逆に海士村上本に記載されているにもかかわらず同じ箇所を欠落している(本文編「忠晴」の項、同「綱近」の項など)ことから、海士村上本とは別の写本に拠ったことが推 0 0 隠岐の文化財 1 14 4 測され、しかも相互に脱字や誤字があって、松浦本→横地本ないし横地本→松浦本という伝写関係をそこに認めることはできない。つまり、松浦本、横地本は海士村上本とは別のある共通の写本をそれぞれ別個に筆写することによって成立したと考 0 0 隠岐の文化財 1 14 10 えられるのである。一方、さきにも述べたように横地本が海士村上本と同じ記載様式をもち、かつ横地本と松浦本が共通の写本から成立したものであるとすると、さきに松浦本が第3グル−プに属する可能性があると指摘した点についても、それが 0 0 隠岐の文化財 1 14 15 松浦本の筆者の独自の判断にもとづく記載様式の変更であったことが知られよう。松浦本が「国代考証」、「雲州守護記」、「社寺古証文」の3つに区別されながらも同一人物の手で筆写されたものであること、「社寺古証文」という表題は後世に 0 0 隠岐の文化財 1 14 21 なって記入されたもので、写本とは異筆であることなども右の推測を支持するものである。松浦本にみられる筆写段階での記載様式の変更は、同じく横地本においてもみられるところであって、横地本には同書の最末尾に「隠岐国ハ往昔ハ対馬見源 0 0 隠岐の文化財 1 14 27 義親ノ食地ニテ平家ノ世ト成テ薩摩守忠度ノ来地タリ」以下の1文が付されている。この1文は「陰徳太平記」巻8「隠岐国合戦之事」の一部を抜書きしたもので、他の写本には全くみえないものである。そもそも「国代考証」には「陰徳汰平記」 0 0 隠岐の文化財 1 14 33 は全く引用されておらず、おそらく「国代考証」の作者はその存在をしらなかったものと思われる。それ故、横地本にみえるこの1文は、明かに後世、ある筆写段階で付加されたものであって、それがいつの時点であるかは明かでないものの、現在 0 0 隠岐の文化財 1 14 38 ある横地本をもって「国代考証」の元の形を復元しえないことは明かといわねばならない。横地本は他の写本に較べても誤字、脱字が多く、こうした点でも不安定な写本であることに、私達は十分留意しておかねばならない。次に東本についてみる 0 0 隠岐の文化財 1 14 44 と、その記載内容は脱漏部分や誤字を含め、その細部に至るまで海士村上ほんと合致し、両者が同じ写本の系列に属することは明白である。さらに、誤字、脱字のみんらず、海士村上本筆写のさい新たに加えられたと推測される注記まで合致すると 0 0 隠岐の文化財 1 14 50 ころから判断すると、東本は海士村上本を筆写したものとみてまず誤りないであろう(東本には海士村上本以上の誤字、脱字が認められ、東本→海士村上本の伝写関係は考えがたい)。東本が焼火神社の旧蔵所蔵の「国代考証」を焼火神社が借り受 0 0 隠岐の文化財 1 14 56 け筆写し、これを足立玄脩が天保6年に筆写し、こうして東本が成立したのであろう。焼火神社旧蔵写本および海士村上本の成立が天保6年以前であることをこれによって知ることができる。なお、東本でもう一つ注目されるのは、その記載様式で 0 0 隠岐の文化財 1 14 62 あって、本書は「隠州視聴合記」として一括され、その中の一部として今日に伝えられている。東本「隠州視聴合紀」は、寛文7年の序文と目録、地図、国代記全文および同紀巻3の「嶋西郷人数」、巻4の島前人数、神名帳、国中仏寺、文覚編を 0 0 隠岐の文化財 1 14 67 記し、この後に続けて「国代考証」の全文を掲載していて、「隠州視聴合紀」といいながら、あきらかにその中心は「国代考証」におかれている。東本における以上の酔うな記載様式は、「国代考証」が「隠州視聴合紀」国代記の考証を試みた文書 0 0 隠岐の文化財 1 14 73 であることを明確に物語るものであり、おそらく東本(焼火神社旧蔵本)の筆者はそのことを知るが故に、あえてこのような記載様式をとったのであろう。さて、残された1本西郷村上本については、さきにその記載様式が他の諸本と大きく異なる 0 0 隠岐の文化財 1 15 1 ことを指摘しておいたが、その相違点は単に形式にもみとどまるものではない。その主要な相違点を列記すれば、以下の通りである。1、「国代考証」の本文の前に、「視聴合記云、昔対馬守源義親国也、其後薩摩守平忠教在雲州美穂関領之者未考 0 0 隠岐の文化財 1 15 7 也、義親鎮守府将軍源義家次男兵部メメ也、(中略)康和二年庚辰三月二十一日搦捕、同月二十九日配流出雲国、武家評林第十巻以之見之則合記未考之誤也、又在三保関領当国者非平忠教是佐々木薩摩守清秀也」という参考資料編の諸記録最末尾の一 1100 321 康和2年 隠岐の文化財 庚辰 1 15 15 文(若干語句に違いがあるが)と、源頼朝以下徳川家重、家治、家基に至る「中興武将伝来図」を掲載している。2、「国第考証」の本文編「少輔五郎」の項で、「陰徳太平記」巻六十八「隠岐々々守清家生害付経清被討事」のほぼ全文を掲載して 0 0 隠岐の文化財 1 15 22 いる。3、他の諸本が松平幸千代(宗衍)をもって本文編を終えているのに対し、本書ではこの後に続けて将軍家重、家治、家基および松平治郷(宗衍嫡子)を記載している。右のような特徴をもつ西郷村上本は、まずもってそれが単なる「国代考 0 0 隠岐の文化財 1 15 29 証」の写本とはいいがたいものであること、むしろ「国代考証」を素材としながら筆者が独自に考証を試みようとした「国代考証」とは別個の文書といった方がより適切であることを示すものと考えられる。西郷村上本が主として本文編のみからな 0 0 隠岐の文化財 1 15 35 る特異な形態をとったのは、右の点からすればむしろ当然というべきであって、西郷村上本から「国代考証」の元の形を復元しえないことはあらためて指摘するまでもないところである。さて、以上のような西郷村上本の特異な性格(基本的特徴) 0 0 隠岐の文化財 1 15 41 をふまえた上で、あらためてその記載内容および形式をみてみると、そこにはとくに次の2点が重要な問題として浮かび上ってくる。その第1は、記載内容に若干の違いがあるとはいえ、西郷村上本が「国代考証」の本文編のみによって構成されて 0 0 隠岐の文化財 1 15 52 また松浦本、横地本とも異なる別個の写本が採用されていること。これを最も端的に示すのは、本文編に引用された次の史料である。奉寄進惣社内高田大明神料田事(A)合二段者一段ふんとう、一段しいさき。(B)忠道名内油壱升九合、付用途 0 0 隠岐の文化財 1 15 58 七十文。右、彼寄進田者、一段御供田一段修理田、限永代奉寄進者也、於修理勤行等祈祷無メメ怠可有勤修者也、仍為末代寄進状如件、康応二年庚午卯月二日前豊前守書判国造殿。この史料は現在もその社本が惣社(億岐豊伸氏)に所蔵されているが 1390 402 元中7年 隠岐の文化財 庚午 1 15 66 、この史料のうち、海士村上本(従って東本も同様)は(A)、(B)の部分を欠落し、また松浦本、横地本は(A)のみを記して(B)部分を欠落している。原文書によってみると、その記載は右に示した西郷村上本の通りであって、少なくとも 0 0 隠岐の文化財 1 15 71 この史料に関する限り、西郷村上本の拠った写本の方がより正確だということができよう。そしてこれは単に右の1通の史料にとどまらないのであって、例えば「隠岐清政」についても同様のことが指摘できる。先述のように、西郷村上本は「国代 0 0 隠岐の文化財 1 15 77 考証」の単なる筆写にとどまらず、筆者自身の手で積極的な改変が加えられたと推測されるため、どの部分を「国代考証」の元の文章とみなすべきか慎重な検討を要するが、海士村上本、松浦本なととは異なる可能性を秘めていることは疑いないと 0 0 隠岐の文化財 1 16 5 ころといえよう。なお、不要な混乱を避けるため、これまであえて触れないできたが、松浦千足氏所蔵文書の中には、さきに松浦本として検討を加えた写本とは別に、もう1冊別の「国代考証」が存在している。これは西郷村上本と同様本文編のみ 0 0 隠岐の文化財 1 16 11 からなり、かつ本文編仮名の引用史料がすべて省略されていて、本文編の前に「視聴合記ニ云」以下の1文が付されていること、本文編の記載内容が西郷村上本と基本的に一致することなどの特徴を指摘することができる。おそらく西郷村上本を底 0 0 隠岐の文化財 1 16 16 本として筆写が行われたものであろう。以上、諸本の伝写関係(系譜)についての煩雑な考証に終始してしまったが、ここで以上の考察によって得られた結論を簡単にまとめておくことにしよう。1、これまでに調査しえたところでは、「国代考証」 0 0 隠岐の文化財 1 16 23 の写本として海士村上本、東本、松浦本、横地本、西郷村上本の5冊、および松浦千足氏所蔵ももう1冊の写本の計6冊の存在を確認することができる。2、この内、西郷村上本とその要点を筆写した松浦千足氏所蔵のもう1冊の写本は、必ずしも 0 0 隠岐の文化財 1 16 29 「国代考証」の忠実な写本とはみなしがたく、「国代考証」の写本としては残りの4冊をもってあてるのが妥当と考えられる。3、但し、西郷村上本は他の写本にはみられない重要な特徴をあわせ有していると考えられるから、一定の前提と慎重な 0 0 隠岐の文化財 1 16 35 配慮をもってこれを活用していくことが必要である。4、これら5冊(西郷村上本を含めて)の写本は海士村上本系と松浦本系および西郷村上本系の3つに大きく分類することができ、東本は海士村上本をさらに筆写したもの、横地本は松浦本と同 0 0 隠岐の文化財 1 16 42 じ写本に拠りながら別個に筆写を行なったものと考えることができる。5、これら諸本の比較検討を通して、「国代考証」の原本が本文編(狭義の国代考証といえよう)と参考資料編の2部門から構成されたこと、諸本の中では海士村上本が写本と 0 0 隠岐の文化財 1 16 49 しては最も優れていることなどを指摘することができる。 0 0 隠岐の文化財 1 16 51 3、成立年代と作者。最初にも述べたように、5冊の写本はいずれも奥書が欠落しているか、もしくは部分的なものにとどまり、「国代考証」がいつ、誰によって作成されたのか明かでない。ここでは、現在考えうる範囲において、若干の推測を試 0 0 隠岐の文化財 1 16 57 みることにしたい。まず、成立年代について。この点についての考察の手がかりは、本書の中に次のような形で用意されている。一つは、本文編の記載が第6代松江藩主松平宗衍(幸千代)で終っていること、もう一つは本文編および参考資料編に 0 0 隠岐の文化財 1 16 63 掲載された史料の所蔵者が「今在某所」という形で明示されていること、これである。まず第1の点についてみると、ここでは次のように記されていることが注目される。幸千代四歳、松江少将宣維嫡子、(中略)寛保二年壬戌十二月十一日於江戸 0 0 隠岐の文化財 1 16 70 御城元服叙従四位下侍従出羽守賜一字号諱宗行腰物拝領也、(下略)具体的な年号としてみえる寛保2(1742)年は、参考資料編「雲州守護記」にもその記載がみえ、本書における最も新しい年号である。本書が最終統治権者を松平宗衍(幸千 0 0 隠岐の文化財 1 16 76 代)とし、かつ宗衍関係記事を寛保2年で終えていることは、この後まもなく本書が成立したことを意味していると考えてまず誤りないであろう。では、「幸千代」の所に「四歳」と記されているのは何を意味しているのであろうか。松平宗衍の生 0 0 隠岐の文化財 1 17 5 年は享保14(1729)年5月のことであるから、4歳といえば享保17(1732)年に当たる。参考資料編「雲州守護記」にはもちろん「四歳」という記載はみえないから、この記載は「国代考証」の作者が記入したものと考えなければなら 0 0 隠岐の文化財 1 17 10 ない。そして、「国代考証」本文編の記載が「幸千代」でもって終り、そこに「四歳」と記されていることからすると、宗衍が4歳であった年、すなわち享保17年に本書が成立したと考えるのが最も自然というべきであろう。しかし、それではさ 0 0 隠岐の文化財 1 17 16 きの寛保2年という記事と矛盾していまうのである。いったい、これはそのように考えれがよいのであろうか。ところで、享保17年という年に注目してみてみると、参考資料編「寺社古証文」の最初の史料、惣写所蔵貞治7(1368)年4月1 1368 401 正平23年 隠岐の文化財 戊申 1 17 22 5日隠岐国惣国造職補任状案に、「享保17年壬子迄365年也」という注記が付されているのが知られてる。こういう形での注記は本書にのみ見られるものであるが、この注記の意味するところは、「国代考証」の作者がこの史料を採訪し、筆写 0 0 隠岐の文化財 1 17 27 した、もしくは本書に採録したのが享保17年で、それから数えて貞治7年が365年前になるということであって、この注記がさきの「四歳」という記載と無関係であったとは考えられない。つまり、本書の「完成」が仮に寛保2、3年頃であっ 0 0 隠岐の文化財 1 17 33 たとしても、「国代考証」執筆の作業ないしそのための資料集めは、少なくとも享保17年には開始されていたのであって、その間十数年の歳月が系かしていたと考えなければならないのである。次に第2点についてみると、具体的な人名を付して 0 0 隠岐の文化財 1 17 39 分析の手掛りを与えてくれるのは、本文編徳治元(1306)年3月14日西郷公文入道久尊安堵状と、参考資料編同文書以下3通に付された「右、本書今在今津村庄屋服部長兵衛家」、「右三書、今津村庄屋長兵衛家有之」という2つの注記であ 0 0 隠岐の文化財 1 17 45 る。隠岐んいおける廃仏毀釈運動に最も激しく抵抗した寺院の1つとして知られる西郷町今津の完全寺には、当時の住職等の必死の努力によって数冊の過去帳が今日に遺されたが、その内の1冊に今津村庄屋服部氏(屋号宮本)の過去帳が収められ 0 0 隠岐の文化財 1 17 50 ている。過去帳は「長兵衛先祖」(俗名不詳)に当たる「但月妙椿禅定尼」(承応3<1654>年10月没)「春月慶光信士」(寛文3<1663>年3月没)以下の記載をもち、長兵衛については、渓メメ不留信士、元文5乙卯年8月6日、長兵 0 0 隠岐の文化財 1 17 56 衛。(異筆)「磯右衛門養父」と記されている。同過去帳によってみると、長兵衛の祖父(惣右衛門)は貞享2(1685)年、父(俗名不詳)は翌貞享3年、そして母(俗名不詳)は享保17(1732)年に死亡しており、また長兵衛の妻(俗 0 0 隠岐の文化財 1 17 62 名不詳)は宝暦元(1751)年、養子磯右衛門は明和2(1764)年にそれぞれ没している。これによってみると、長兵衛の没年(元文5<1740>年)と父の没年との間には約55年の開きがあり、果してこの間すべて長兵衛が今津村庄屋 0 0 隠岐の文化財 1 17 68 の地位にあったのかどうか疑問がないわれではないが、少なくとも「今津村庄屋服部長兵衛」という記載が元文年以前を指摘した点と基本的に矛盾するところはないと考えることができる。以上、いずれの史料からみても、享保年間の末年ないしそ 0 0 隠岐の文化財 1 17 75 れ以前にはすでに「国代考証」作成の作業が開始されており、寛保年間に至って今日みられるような形に整えられたことはほぼ疑いないところであろう。つまり、「国代考証」は18世紀前半の享保〜寛保年間ごろに十年以上もの歳月をかけて作成 0 0 隠岐の文化財 1 18 2 されたと考えられるのである。作者について。これについては残念ながら具体的な分析を加えるべき手掛りが何も残されておらず、現時点でこれに明確な解答を与えることは困難である。ここでは、それについて考えるべき2、3の点を指摘して、 0 0 隠岐の文化財 1 18 8 後考に備えることにしたい。「国代考証」の記載内容等から判断すると、その作者は少なくとも次のような3つの条件を満たす人物であったことが推測できる。その第1は、隠岐在住ないし長年隠岐に住み、そして隠岐で没した人物であること。こ 0 0 隠岐の文化財 1 18 14 のように考える根拠としては、さしあたり次の3点を指摘することができよう。(1)惣社、国分寺、一宮をはじめ隠岐中世関係史料を丹念に蒐集しており、しかもそれは1点1点の文書を求めて根気強く調査続けるという性格のもので、一時的な 0 0 隠岐の文化財 1 18 20 いし短期間の来島によってこうした作業をなしえたとは考えられない。そして蒐集された史料が島後に密で、島前に疎なるこち、島前村上、笠置両家の文書について何も触れていないことなどからすると、作者は西郷周辺の島後に居を定めていたの 0 0 隠岐の文化財 1 18 25 ではないかと推測される。(2)その作成期間が長期に及んでいること。(3)写本の残存状況にも示されているように、「国代考証」が隠岐でのみ知られていて、他の諸地域や中央ではその存在すら知られていないこと。これは、全国にある古記 0 0 隠岐の文化財 1 18 31 録、古文書を網羅的に調査、掲載した岩波「国書総目録」に「国代考証」の名がみえないことからも推測されるところであり、これらは要するに「国代考証」の作者が隠岐の外にこれを持ち出さなかったことを意味するものと考えることができよう。 0 0 隠岐の文化財 1 18 37 第2の条件として指摘しうるのは、歴史に深い造詣をもち、かつ各種の歴史書を手にしうる条件をもっていた人。これは、雲州守護記をはじめ、太平記や後太平記などを駆使していることからも推測されるところであり、また中世文書に対する読解 0 0 隠岐の文化財 1 18 42 力という点からもこれを推測することができる。第3に、近代的合理主義とでもいうべき批判的精神の持主であり、またそうした思想を培うことが可能な経歴の持主、ないしそういう職業についていた人。最初にも述べたように、「国代考証」執筆 0 0 隠岐の文化財 1 18 48 の意図は「隠州視聴合紀」国代記の批判的検討にあり、かつその批判的検討を支える歴史分析の方法は、史料にともづいて史実を解明していくという近代合理主義にも通ずるものであった。今日でならば当たり前とも思われるこうした批判的精神と 0 0 隠岐の文化財 1 18 53 合理的思想様式も、18世紀前半という時代に即してみるならば極めて注目すべき事柄といわねばならず、誰でもがよくなしえたこととは到底考えられない。以上、作者の確定については、すべてを今後の課題として残すこととなってしまったが、 0 0 隠岐の文化財 1 18 60 すぐれた先人を発掘するという点からも、一日も早いその具体的人物の解明を願わずにおれない。読者諸賢のご教示をお願する次第である。 0 0 隠岐の文化財 1 18 64 4、歴史的意義と価値。「国代考証」のもつ価値やその成立がもった歴史的意義については、いくつかの側面からの評価が可能であるが、ここではさしあたり3つの点について若干の問題を提供しておくことにしたい。その第1は、本書が今日なお 0 0 隠岐の文化財 1 18 70 不明のままにおかれている中世隠岐国代々の領主を確定する作業の重要な出発点であり、また「隠州視聴合紀」国第紀等にみられる通俗的な歴史理解を打破していく画期的な問題提起であったということである。今日、中世隠岐国の代々の領主とし 0 0 隠岐の文化財 1 18 76 て一般に知られているのは「隠岐島誌」所収の「守護地頭年代表」だといってよいが、これは「隠岐島誌」にも明記されているように、文政6(1823)年大西教保によって著わされた「隠岐古記集」の関係部分をそのまま掲載したものである。 1823 0 文政6年 隠岐の文化財 癸未 1 19 4 ところが、この「隠岐古記集」の記載を子細に検討してみると、それがほとんど「国代考証」をそのまま引き写したものであることが知られる。つまり、「隠岐古記集」といい、従ってこれをそもまま掲載した「隠岐島誌」といい、そしてその記載 0 0 隠岐の文化財 1 19 10 を一般的に受けとめている今日の私達といい、いずれも「国代考証」の理解(成果)に拠っているのであって、今さらながら「国代考証」のもつ比重の大きさに驚かされる。もちろん、今日の時点に立ってみた場合、その記載内容や「考証」の方法 0 0 隠岐の文化財 1 19 15 に多くの弱点がみられることはいうまでもないところであり、だからこそその批判的検討が必要なのであるが、ここで私達が留意しておかなければならないのは、そうした科学的で厳密な作業(批判的検討)そのものがこの「国代考証」において開 0 0 隠岐の文化財 1 19 21 始され、それが「国代考証」を生み出す力ともなっていたということである。「国代考証」が成立してからすでに2世紀半、私達はこの間にどれだけ「国代考証」を越える深い歴史理解と研究方法の前進を実現しえたであろうか。点検してみる必要 0 0 隠岐の文化財 1 19 26 があるように思われる。「国代考証」の長所でもありまた短所でもある方法論の特徴は、現存する古文書、古記録を丹念に蒐集し、とくに古文書についてはその発給者をもって時の公的統治権者と理解する極めて単純、素朴なものだという点にある。 0 0 隠岐の文化財 1 19 33 たとえば、応永2(1395)年10月13日左衛門尉清泰は惣社に対し田地180歩を寄進したが、この寄進状の存在を根拠として清泰を当時の「附庸(守護代のこと−井上)」であったとしている。この文書の存在、したがって左衛門尉清泰の 0 0 隠岐の文化財 1 19 38 実在をふまえて、当時の隠岐国の統治権者が清泰であったと推定する理論の組立て方は、「隠州視聴合紀」とは明らかに異質であり、「国代考証」の方法論的な優位性は明白である。だが、よく考えてみると、清泰の実存が確かだからといって、こ 0 0 隠岐の文化財 1 19 43 の一通の寄進状からどうして清泰が当時の守護代であったと結論づけることができるのであろうか。「国代考証」の中には、この疑問に答える説明が何ら用意されていないばかりか、そうした点について何らの配慮もなされていないのである。では 0 0 隠岐の文化財 1 19 50 今日、右のような「国代考証」にみられる歴史分析方法の限界ないし弱点は、どう克服されているであろうか。確かに、その後の研究を通して「国代考証」が作成された当時よりははるかに多くの史料(島前村上、笠置両家文書等)が発掘され、私 0 0 隠岐の文化財 1 19 55 達の隠岐中世に関する理解が深まったことは事実である。しかし、事歴史分析の方法という点についていうならば、今日の到達点は「国代考証」に較べそれほど高いとはいえないのではないか。いや、それどころか、場合によっては「国代考証」に 0 0 隠岐の文化財 1 19 61 さえ及ばないところがあるのではないか。たとえば、「西郷町誌」(昭和50年刊行)を例にとってみると、そこには2つの気にかかる問題点(歴史分析の方法という点で)が含まれている。1つは「陰徳太平記」にみえる天文合戦等の記述をその 0 0 隠岐の文化財 1 19 66 まま事実と受けとめ、その上に立って戦国期の歴史叙述が進められていること。もちろん、「陰徳太平記」の記述が一定の事実を反映していることは疑いないところであるから、これを史料として用いることは必要であり、史料的制約の大きい隠岐 0 0 隠岐の文化財 1 19 72 中世史にとって、それへの依存を高めることは止むをえないところでもあろう。しかし、このことは、いうまでもなく「陰徳太平記」の記述をそのまま事実と認めるということを意味するものでは決してないし、またそうであってはならない。確か 0 0 隠岐の文化財 1 19 77 な事実をふまえ、それに元づいて「陰徳太平記」を批判的に検討することこそ私達に課せられた課題であり、それは他でもない「国代考証」が「隠州視聴合紀」国代記に対置した歴史分析の方法だったのではないか。もう一つの問題は、「西郷町誌 0 0 隠岐の文化財 1 20 5 」においても「国代考証」と全く同様に、たとえばさきの応永2年10月13日左衛門尉清泰寄進状をもってただちに清泰を守護代と認定し、また宝徳4(1452)年秀重なる者が村上与四郎(島前海士公文)に「道(島)前海士郡段(田)所給 0 0 隠岐の文化財 1 20 10 内兵メメ(田カ)森屋敷分等」と安堵していることをもって、秀重を当時の守護代と断定していることである。もし、この論法でいくならば、応永18(1411)年同じく直実なる者が村上左衛門五郎に「道(島)前海部公文職」を安堵しているか 0 0 隠岐の文化財 1 20 15 ら、直実もまた守護代だったということになろうが、この直実については守護代とは認めていない。いったい、この論理的な不整合性をどう説明するのであろうか。残念ながら、「西郷町誌」には「この疑問に答える説明が何ら用意されていないば 0 0 隠岐の文化財 1 20 20 かりか、そうした点について何らの配慮もなされていないのである」。「西郷町誌」をヤリ玉にあげて、少々酷評にすぎた嫌いもあるが、私はもちろん「西郷町誌」のすぐれた側面の多くあることを認めるものであり、右のような問題があるからと 0 0 隠岐の文化財 1 20 26 いって「西郷町誌」の価値がいささかも減ずるものではないと考えている。この点、誤解のないよう、とくに断わっておきたいと思う。要するに、私がここで指摘したいことは、「国代考証」ものつ方法論上の問題が決して過去のものとなったとは 0 0 隠岐の文化財 1 20 32 いえないこと、そういう問題提起がすでに二百数十年前以上も前になされていること、私達はこのことを厳粛に受けとめなければならないということである。留意すべき第2の点は史料に関する問題すなわち「国代考証」が蒐集した史料の中に、今 0 0 隠岐の文化財 1 20 38 日ではすでに失われていまったものがいくつか含まれており、この点で「国代考証」は極めて貴重な価値をもっているということである。その代表は国分寺、護国寺、国府八幡宮所蔵文書と今津村庄屋服部氏所蔵文書である。この内、寺院関係史料 0 0 隠岐の文化財 1 20 43 は廃仏毀釈によって失われたものであり、また国府尾八幡宮文書や今津村庄屋文書は家の断絶等により散佚したもので、ともに今後それらを発見することは困難であろう。これらの史料は、その一部が「隠岐島誌」、「島根県史」等に掲載され、ま 0 0 隠岐の文化財 1 20 49 たさきにふれた「隠岐古記集」にそのすべてが筆写されている。しかし、「隠岐古記集」についていみてみると、そこに掲載された史料(「古証文」)は「国代考証」所収史料と完全に合致し、明かに「隠岐古記集」は「国代考証」に拠ってこれを 0 0 隠岐の文化財 1 20 54 転写したものであることが知られる。「隠岐古記集」の転写はほぼ正確に行われているといってよいが、中には若干の違いもあり、やはり原本により忠実な文書としては「国代考証」所収のものをもってあてるべきであろう。私自身、かつて「隠岐 0 0 隠岐の文化財 1 20 59 古記集」からの史料引用を行ったことがあるが、今後は右の点をふまえ「国代考証」によるのが適切であろう。また「国代考証」には、いくつかの史料(たとえば、永禄13<1570>年9月29日尼子勝久知行宛行状なと)について、その文書 0 0 隠岐の文化財 1 20 65 の伝来過程が記されており、史料の正確な理解にとって重要な指摘ということができる。「国代考証」が本文編のみらなず参考資料編を付したことの意義には極めて大きなものがあり、またそこに作者の見識と偉大さをみることができるように思う 0 0 隠岐の文化財 1 20 70 。最後に、第3点として何よりも注目すべきことは、私達が以上に述べて来たようなすぐれた先人を私達の祖先としてもちえたこと、そしてこのような人物を生み出す思想的、文化的基盤と土壌、歴史的伝統を隠岐がもっている、ということである 0 0 隠岐の文化財 1 20 76 。いかに個人的にすぐれた資質をもつ人物といえども、このような歴史的基盤と伝統のないところで、その能力をいかんなく発揮し、磨くことは困難であろう。私達は「国代考証」という1冊の書物の存在を通して、その確かなる存在を確認するこ 0 0 隠岐の文化財 1 21 5 とができるのではないだろうか。 0 0 隠岐の文化財 1 21 6 むすび。以上、私が現在までに調査しえた5冊の写本を手がかりとしながら、「国代考証」についての概観を試みた。調査期間も短時日で、決して十分なものとはいえず、今後新たな写本の発見される可能性も大きい。そしてそうした写本や、場合 0 0 隠岐の文化財 1 21 12 によっては原本の発見によって本稿の記述に変更を要する部分が生ずるかも知れない。しかし、そうした新発見を待つだけでは先へ進めないと考え、あえて本稿をまとめた次第である。読者諸賢のご理解を請うものである。最後に、本稿作成ならび 0 0 隠岐の文化財 1 21 18 に後に掲げる「国代考証」翻刻のために、各写本の所蔵者をはじめ、島後教育委員会横田登氏、隠岐郷土館館長、職員以下実に多くの方々のご協力を得た。一々氏名をあげることは差控えるが、この場をかりて深く御礼申し上げる。 0 0 隠岐の文化財 1 21 24 <注>(1)後述する西郷無から実本のみこの書名をもつ。(2)横地本の所蔵者横地和子氏が病気入院中のため、直接横地本をみることができず、後述する永海一正氏稿本と西郷町誌編纂室旧架蔵筆写本(西郷町役場企画課管理)とにより考察を 0 0 隠岐の文化財 1 21 29 行なった。(3)この割注は永海一正氏の手になるものかも知れない。(4)資料整理のさいの貼紙と推定される。(5)松浦本の写本表紙には「1国代考証、2社寺古証文、3雲州守護記、3部合冊、東町梅乃屋(印)」と記されており、これと 0 0 隠岐の文化財 1 21 35 同筆で「国代考証」中に「社寺古証文」という標題が書込まれている。松浦本の筆者は、右の(1)と(2)および(2)と(3)の間にそれぞれ1〜3ペ−ジ分の空白を入れて筆写を行っており、後世この文書を整理したさい、さきの表紙ととも 0 0 隠岐の文化財 1 21 40 に「社寺古証文」という標題を挿入したものと思われる。(6)たとえば、参考資料編永禄13年9月29日尼子勝久知行宛行状についての注記の中で、「右門」という国府尾八幡宮の神官について「後惣社之袮宜ニ成」との補注が付されている。 0 0 隠岐の文化財 1 21 45 この補注は他の社本にはみえないもので、海士村上本の筆者が書込んだものであろうと推定される。(7)あるいは、「国代考証」の作者が「国代考証」の完成後、新たな調査、分析にもとづいて「国代考証」の本文編部分を書き直し、これを「国 0 0 隠岐の文化財 1 21 50 代記考証」と呼んで「国代考証」と区別したのかも知れない。もし、仮にこうした前提に立って考えるならば、作者が「国代記考証」執筆を決意した最大の要因としては、作者が「国代考証」完成後に「陰徳太平記」の存在を知った点に求められる 0 0 隠岐の文化財 1 21 55 であろう。そして、「国代記考証」の記述が第7代松江藩主(治郷)についての、「明和4年亥11月家督」をもって終わっていることからすると、「国代記考証」の完成は明和4(1767)年頃、「国代考証」の完成からおよそ25年後であっ 0 0 隠岐の文化財 1 21 60 たということになろう。しかし、右のような推測はあくまで「国代考証」と「国代記考証」とが別個の文書であるという前提の上に立ってのみ成立しうるもので、現時点においてこれを確認することはできない。それ故、本稿では、右の点は今後の 0 0 隠岐の文化財 1 21 65 検討課題とすることとし、さしあたり本文で述べたように、西郷村上本を「国代考証」の写本の一つ(異本)として理解し、論を進めていくことにしたい。(8)これまでから知られている「雲州守護記」は、「島根県史」編纂のさい、同編纂掛が 0 0 隠岐の文化財 1 21 70 「大正9年8月25日隠岐国海士郡海士村村上助九郎蔵本ニ依リ謄写」したもので、現在は島根県立図書館に架蔵されている。しかし、この写本は「宗衍ノ長男」松平治郷まで記載しており、その記載内容も誤字、脱字等を含め「国代考証」のそれ 1920 825 大正9年 隠岐の文化財 庚申 1 21 75 とは若干異っている。「国代考証」作者は、海士村上氏所蔵の「雲州守護記」とは別のものに拠ったことが知られる。同書の成立年代や作者等も明らかでないが、当時いくつかの写本が作成されており、「国代考証」の作者もその内の1本に拠った 0 0 隠岐の文化財 1 21 80 ものと考えられる。(9)本書は、応仁元年から天正年中に至る諸国の争乱、足利氏の興廃等を記したもので、多々良宗庵の著作になる(「通俗日本全史」所収)。但し、本書は21巻からなり、「国代考証」が拠ったのは同著者の手になる「後太 0 0 隠岐の文化財 1 21 85 平記評判」(40巻)の方ではないかと考えられる。手もとに同書がないため、直接確かめることができなかった。今後の検討課題としたい。(10)村上助九郎氏所蔵文書。(11)拙稿「中世隠岐の公文」(「島前の文化財」12号)。<国代 0 0 隠岐の文化財 1 22 7 考証の翻刻は本誌110頁より> 0 0 隠岐の文化財 1 28 1 隠伎国木簡とその特徴。佐藤信。奈良の藤原宮跡、平城宮跡で出土ぢた隠伎国関係の木簡を整理すると、下掲のようになる(藤原宮、平城宮以外の遺跡からも2点出土している)。今のところ42点を数え、日本海諸国の中では若狭に次いで2番め 0 0 隠岐の文化財 1 28 7 に点数が多いことは注目されよう。木簡の点数を郡別にみると、海部郡19点、周吉郡12点、知夫郡5点、隠地郡3点、他未詳となっている。木簡は1点を除くすべてが隠伎国から両宮への貢進物に付けられた荷札木簡である。荷札木簡は貢進物 0 0 隠岐の文化財 1 28 13 とともに移動し、宮内で最終的に消費された場所において廃棄されたものと考えられる。これら隠伎国木簡には他の諸国の木簡と異る独特な特徴が認められ、それについてはすでに東野治之氏「木簡にみられる地域性」(「講座考古地理学1」)の 0 0 隠岐の文化財 1 28 19 指摘があり、筆者も「木簡からみた古代日本海諸国」(「歴史公論」9巻3号)等でふれたことがある。ここでは、もう一度その諸特徴について、(1)木簡の形態、(2)記載形式、(3)記載内容の順にまとめ直してみよう。(1)まず木簡の 0 0 隠岐の文化財 1 28 25 形態については、1全体に長さが短い(完形のものの平均長が12、6cm)こと、その割に幅の広い材となっていること、そして2長方形の材の上下両端の左右に切り込みをいれた型式(031型式)のものが圧倒的に多いこと、が指摘できる。 0 0 隠岐の文化財 1 28 30 これらの特徴は木簡の貢進品目に海藻がおおく、その海藻の荷(メメ入か)への木簡の取付け方と関連するものと思われる。また3利用された材に杉が多い(材質鑑定したもののうち杉12点、檜6点)ことも隠伎に特徴的である。(2)次に記載形 0 0 隠岐の文化財 1 28 36 式についていると、4木簡の材の1面に記載しており、記載が表裏両面にわたらないことが大きな特徴である。これも荷札の貢進物への取付け方に関連しよう。そして5記載の一部が2行の割書になるという点も挙げられる。これは1の材が短いと 0 0 隠岐の文化財 1 28 41 いうことと対応している。(3)つづいて記載の内容上の特徴をみよう。まず地名について。すぐ目につくのは6藤原宮木簡は国名を記さずに評名、郡名から記載をはじめていることである。そして7平城宮記簡では国名をすべて「隠伎」と表記し 0 0 隠岐の文化財 1 28 46 ている点の注目される。7は天平5年(733)隠伎国正税帳など当時の第1次資料である正倉院文書にもみられる傾向である。六国史をみると「続日本紀」では「隠伎」と「隠岐」の表記が相半ばするが、「日本後紀」以降はほとんど「隠岐」に 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 1 28 52 統一されている。すくなくとも奈良時代後半頃までは、「隠伎」の国名表記が用いられたことが推測されよう。次に郷名をみると、「和奈類聚抄」に不載の郷名(知夫郡大井郷、海部郡の中□郷、神宅<3家>郷、佐吉<前、佐伎>郷、周吉郡の上 0 0 隠岐の文化財 1 28 57 部郷、山部郷、隠地郡奈□郷など)もあるが、「和奈類聚抄」記載の郷奈とあわせ、隠伎の古代郷名はかなりの部分が現代の隠岐島各島の地名と対応することが指摘できるようである。木簡記載の人名からは、日下部、阿雲部、海部、壬生部、額田 0 0 隠岐の文化財 1 28 63 部、勝部、鴨部、宗我部、孔王部、軽部、物部、棘部などの氏姓の分布が知られる。隠伎における部民制展開の状況がうかがえるが、海人関係の阿雲、海部などは隠伎国正税帳に記す郡司名にもみえ、海産物中心の隠伎国の貢進のあり方と結びつい 0 0 隠岐の文化財 1 29 1 てくるのである。木簡にみえる貢進物としては、軍布(メ)すなわち海藻(メ)22点、伊加(イカ)3点、鰒(アワビ)2点、海松(ミル)1点、紫菜(ムラサキノリ)1点、乃利(ノリ)1点などとなる。8隠伎の貢進物には海藻類が圧倒的に 0 0 隠岐の文化財 1 29 8 多いという特徴が知られるのである。木簡には貢物の税目を記さない例が多い(特に藤原宮木簡において)が、中に九点ほど調する記載がみられる。また「延喜式」主計上式では隠岐国調庸物の品目の中で「調。御取鰒、短鰒、烏賊、熬海鼠(イリ 0 0 隠岐の文化財 1 29 13 コ)、鮹メメ、雑メメ、紫菜、海藻、嶋蒜(アサツキ)。」「中男作物。雑メメ、紫菜。」とあるので、海藻は調として貢進された可能性が高い。なお「延喜式」主計上式諸国調条では正丁の調の負担額を「海藻、海松各州三斤」としながら「但、隠岐国 0 0 隠岐の文化財 1 29 18 食事・税 州三斤五両」と但書を注しており、隠岐を別扱いにしている点も注目される。これら海藻は、貢物荷札木簡が平城宮内の各所で出土することから知られるように、宮内の様々な場所で官人等の食用に供された訳である。以上、隠伎国木官についてそ 0 0 隠岐の文化財 1 29 24 の特徴の概略を述べたが、これらの木簡によって検討すべき課題はまだ多く残されており、詳細については今後の研究に委ねられているといえよう。隠伎国関係木簡釈文。凡例。1藤原宮跡、平城宮跡出土の隠岐国関係木簡を天平5年(733)隠 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 1 30 4 伎国正税帳の郡名順に整理し、出土遺構を示した。2下段の数字は、木簡の長さ、幅、厚さ(単位ミリメ−トル)と、形態の型式番号を示す。型式分類は左のとおり。○三一型式、長方形の材の両端の左右に切り込みをいれたもの。○三二型式、長 0 0 隠岐の文化財 1 30 8 方形の材の一端の左右に切り込みをいれたもの。○三三型式、長方形の材の一端の左右に切り込みをいれ他端を尖らせたもの。○三九型式、長方形の材の一端の左右に切り込みがあるが、他端は折損、腐蝕などによって不明のもの。○八一型式、折 0 0 隠岐の文化財 1 30 13 損、腐蝕その他によって原形不明のもの。3引用文献の略称は左のとおり。藤A「藤原宮跡出土木簡概報」藤B「藤原宮」藤「藤原宮木簡」1、2(藤)「藤原宮出土木簡」(1)〜(6)(頁数と上段、下段を示す)平「平城宮木簡」1〜3(平 0 0 隠岐の文化財 1 30 20 )「平城宮発掘調査出土木簡概報」(1)〜(16)((藤)に同じ)A、知夫郡。(1)知夫利評三田里石マ真□支軍布メメ、116×22×5、○三一型式杉、板目。(藤B128号)藤原宮北面外濠。(2)知夫利郡由良里軍□冂(布カ)10 0 0 隠岐の文化財 1 30 24 8×25×3、○三九型式杉。(藤A19号)藤原宮北面外濠。(3)隠伎国知夫郡□□郷安吉里海部恵得調海藻六斤七年、172×27×3、○三三型式、(平2249号)平城宮造酒司関連遺構南北溝。(4)隠伎国智夫郡大井郷各田部小足軍 0 0 隠岐の文化財 1 30 29 布六斤、147×28×3、○三一型式、((平)16、7−下)平城宮内裏東大溝。(5)凵伎国智夫郡由良郷壬生部冂、(81)×(21)×3、○三九型式、((平)16、7−下)平城宮内裏東大溝。B、海部郡。(1)海評佐々里阿田矢 0 0 隠岐の文化財 1 30 34 軍布、109×25×2、○三一型式檜、柾目、(藤547号)藤原宮造営前南北大溝。(2)海評海里軍布□(メメカ)、111×23×2、○三一型式杉、(藤A47号)藤原宮内裏東方南北溝。(3)海評海里□二十斤、78×18×3、○三 0 0 隠岐の文化財 1 30 38 一方式檜、(藤A49号)藤原宮北前外濠。(4)海評海里軍布、127×26×5、○三一方式杉、柾目、(藤B11号)藤原宮内裏東方南北溝。(5)海評海里冂凵、104×14×3、○三一型式檜、柾目、(氏B16号)藤原宮内裏東方南 0 0 隠岐の文化財 1 30 43 北溝。(6)海評海里伊加二十斤、101×26×4、○三一型式檜、檜目、(藤B61号)藤原宮内裏東方南北溝。(7)海評中□里支止軍布、97×20×3、○三一型式杉、(藤163号)藤原宮北面外濠。(8)海評海里人小宮軍布、13 0 0 隠岐の文化財 1 31 3 5×29×3、○三一型式杉、(藤164号)藤原宮北面外濠。(9)海評三云え里人□部土□軍布、98×20×3、○三一型式、(藤171号)藤原宮北面外濠。(10)海評佐々里相多乃利、124×27×3、○三一型式杉、柾目、(藤8 0 0 隠岐の文化財 1 31 8 12号)藤原宮東面内濠。(11)海部郡前里阿曇マ郡袮軍布二十斤、161×31×5、○三一型式、((平)10、7−上)平城宮第二次大極殿西南低湿地埋土。(12)隠伎国海部郡佐吉郷日下マ止々利調鰒六斤養老七年、156×32×7 723 0 養老7年 隠岐の文化財 癸亥 1 31 12 、○三一型式、((平)16、7−上)平城宮内裏東大溝。(13)隠伎国海部部□(神カ)宅郷□□里勝部□波海藻六斤天平□(三カ)年、198×26×3、○三一型式((平)16、10−上)平城宮内裏東北方東西溝。(14)隠伎国海部 731 0 天平3年 隠岐の文化財 辛未 1 31 16 郡佐伎郷大井里阿□マ□□呂麻御調軍布□□(六斤カ)天平□(九カ)年、149×25×5、○三一型式、((平16、7−上)平城宮内裏東大溝。(15)隠伎国海部郡作佐郷大井里海部小付調紫菜二斤、120×21×3、○三一型式、(( 737 0 天平9年 隠岐の文化財 丁丑 1 31 21 平)16、10−うえ)平城宮内裏東北型東西溝。(16)隠伎国海部□冂久良里□冂、(57)×22×3、○三九型式、((平)16、10−上)平城宮内裏東北方東西溝。(17)隠伎国海マ郡佐吉郷日下マ□□袮伊加六斤七年、155×2 0 0 隠岐の文化財 1 31 25 7×5、○三九型式、((平)16、7−上)平城宮内裏東大溝。(18)隠伎国□郡佐吉郷日下マ□乙方呂蝮六斤七□(年カ)(157)×27×4、○三一型式、((平)16、7−下)平城宮内裏東大溝。(19)隠伎海マ郡佐吉郷阿曇マ□ 0 0 隠岐の文化財 1 31 31 □多□布六斤、147×29×5、○三一型式、((平)16、7−下)平城宮内裏東大溝。C周吉郡。(1)次評鴨里伊加、78×31×3、○三一型式杉、柾目、(藤B26号)藤原宮内裏東方南北溝。(2)次評鴨里鴨マ止□身軍布、103 0 0 隠岐の文化財 1 31 37 ×33×3、○三一型式杉、柾目、(藤B127号)藤原宮北面外濠。(3)次評新野里軍布、86×29×3、○三一型式杉、(藤172号)藤原宮北面外濠。(4)次評冂、105×16×2、○三一型式、(藤209号)藤原宮北面外濠。( 0 0 隠岐の文化財 1 31 43 5)周吉軍□軍布メメ、117×19×5、○三一型式杉、柾目、(藤B60号)藤原宮内裏東方南北溝。(6)隠伎国周吉郡上マ里メメマメメ師郡布六斤霊亀三年、((平)6、4−上)平城宮東出張部東面外濠。(7)隠伎国周吉郡□□郷□(少カ) 717 0 霊亀3年 隠岐の文化財 丁巳 1 32 1 原里宗我部福男□□□年、182×26×3、○三一型式杉、柾目、(平2902号)平城宮小子門西辺南北溝。(8)凵伎国周吉郡上部郷訓義里孔王部水在調海藻六斤天平三年、○三一型式、((平)16、7−上)平城宮内裏東大溝。(9)凵 731 0 天平3年 隠岐の文化財 辛未 1 32 6 郡山部郷市厘里軽部同男調海藻六斤天平□(六カ)年、(147)×23×4、○三九型式、平城宮内裏東北片東西溝。(10)□伎国周吉郡山部郷生壬部□祭冂海藻6□(斤カ)、(152)×28×2、○三九型式、(平2291号)平城宮造 734 0 天平6年 隠岐の文化財 甲戌 1 32 13 酒司関連遺構南北溝。(12)山部郷物部□□□調□□、117×31×7、○三一型式檜、柾目、(平2903号)平城宮小子門西辺南北溝。D隠地郡(1)(表)隠伎国役道郡都麻郷真嶋里(裏)□(二ケ)、(120)×29×4、○三九型 0 0 隠岐の文化財 1 32 18 式、((平)16、7−上)平城宮内裏東大溝。(2)凵道郡都麻郷□□□□(麻呂カ)調海松□□(六斤カ)天平十七冂、(169)×23×3、○八一型式、(平349号)平城宮内裏北外郭簡衙(大膳職)土壙。(3)役道郡奈□□□□□□ 745 0 天平17年 隠岐の文化財 乙酉 1 32 23 □棘マ小結□□□□□□□□□、171×22×4、○三二型式、((平)16、7−上)平城宮内裏東大溝。E郡名未詳。(1)(表)若侠十五兩二文(裏)□隠伎廾兩志麻十二兩三文、123×18×3、○三二型式、((藤)5、17−上 0 0 隠岐の文化財 1 32 29 )藤原宮東面外濠。(2)凵郷円志里日下部□手凵海藻六斤神亀二年、(91)×24×3、○三九型式檜、板目、(平2894号)平城宮小子門西辺南北溝。(3)「凵伎国」□阿曇マ麻支調□肝六斤、(152)×(12)×5、○三九型式、 725 0 神亀2年 隠岐の文化財 乙丑 1 32 35 ((平)16、7−下)平城宮内裏東大溝。F藤原宮、平城宮跡以外出土の隠伎国関係木簡。(1)奈良、稗田遺跡。隠地郡大田マ□□(箸麻呂カ)日下マ□□(荒次カ)海藻、147×31×3、○三一型式、(「木簡研究」3号)下ツ道橋脚付 0 0 隠岐の文化財 1 32 39 近河川。(2)京都、長岡京跡。隠伎国周吉郡奄可郷蝮王部益冂、(110)×25×3、○三九型式、(「木簡研究」5号)長岡京南一条大路南側溝。<追記>本稿は1983年文部省科学研究費補助金一般研究B「古代における水産物の生産と 0 0 隠岐の文化財 1 32 45 使途に関する研究」(代表、狩野久)による成果をふくんでいる。 0 0 隠岐の文化財 1 45 1 隠岐教育百年史拾遺。この百年史は諸般の事情から活字にならない原稿が数篇のこりました。それらについて概説することは、大きい意味で編集意図を補うことにも役立つのではなかろうかと、敢て筆をとりました。一つは「三つの授業」です。明 0 0 隠岐の文化財 1 45 7 治17、8年に開かれた教員講習会(該書70頁)の受講生の筆記の中から授業の実際について記録されたもので、当時の1時間の授業の流れを伺うに足りるものです。二つめは、昭和14年8月西郷小学校で開かれた「後鳥羽天皇登遐七百年隠岐 0 0 隠岐の文化財 1 45 13 神社御造営記念国語教壇修養会」において芦田恵之助が教壇に立った実地受号(3時間単元)の速記録の中の1時限のもの。三つめは、本書の編集年昭和53年になされた研究事業の中の一つの記録(小学校国語研究会提供)です。明治初期と昭和 0 0 隠岐の文化財 1 45 18 初期と現在と、三つの授業記路を並べて、その変遷と児童と教師との対応を見たかったのです。百年の歴史を編みながら、学制や学校の流れは概観できますが、教育のいのちである教室における教児の躍動する姿には接することはできません。本書 0 0 隠岐の文化財 1 45 24 の特色として形式とともに内容をも考えたからでした。三篇を書いて思いましたことは、幼きもののいのちに文化の灯をともすという切ないまでのいのちの営みこそ教育における不変の源流ではなかろうかという思いでした。今一つ具体的な時代相 0 0 隠岐の文化財 1 45 30 を浮彫りにしたいという願い、えてして無味乾燥になろうとする編集に幾らかの味つけをしたかったわけでした。内容は明治20年代の学事等の篇千と明治42年度における各町村の学事等の状況の二つです。前者は町村役場から支庁への部内状況 0 0 隠岐の文化財 1 45 36 の申報書で幸いに約8年間分があり教育事情をはじめ民事一般がよくわかります。後者は明治42年に隠岐島庁が提出させた町村状況調査書があり、この時点での各町村の実情がよくわかります。この二つの資料から本書関連部分並びにその背景と 1909 0 明治42年 隠岐の文化財 己酉 1 45 41 なる具体相を摘記したものでした。前者が8年間という縦の系列とすれば、後者は全町村という横のひろがりをという意図でした。なお「学校篇」では、各学校の昭和53年どの経営方針と校地校舎の平面図を予定していましたが、経営方針は大同 0 0 隠岐の文化財 1 45 47 小異であろうということ、平面図はあまりにスペ−スをとり過ぎるということで割愛、平面図はともかく経営方針は学校教育における点晴のつもりでした。校舎写真、校章、校歌の掲載は、これらを補って充分といえるかとも思われます。次に、こ 0 0 隠岐の文化財 1 45 53 の編集のために蒐集した資料(隠岐島後教育委員会保管)の概要を略記しておきます。島根県立図書館には「隠岐支庁引揚文書」(約260点、資料目録刊)、鳥取県立図書館(本館鳥取市、米子市に分館)には鳥取県歴史(新、旧二部)捗取県教 0 0 隠岐の文化財 1 45 59 育史があります。明治初年の隠岐をたずねることができます。(一)鳥取県歴史のコピ−267頁。学制頒布のころ、隠岐の小学校創立についての制度的なものは専らこれによりました。当時隠岐は鳥取県でした。(二)明治2年鳥取県歴史再録旧 0 0 隠岐の文化財 1 45 65 隠岐県コピ−34頁。島根県歴史第1回編集のものの第11巻。「明治2年ヨリ同7年ニ至ル鳥取県歴史中ニ掲載セル隠岐国ノ事蹟御点検ニ便ナランカタメ再録シテ一篇トナシ則及進達候也明治10年11月16日」と、県令から(島根県歴史)修 1877 1116 明治10年 隠岐の文化財 丁丑 1 45 71 史館長への添書があります。(三)鳥取県歴史(戦後編集のもの)。近代編第1、2巻より、総説編鳥取県前史、政治編鳥取県の誕生、島根県の時代。コピ−60頁。同第5巻より、資料篇、コピ−120頁。鳥取県は明治9、8、21に島根県に 0 0 隠岐の文化財 1 46 7 合併され独立したのは同14、9、12でした。政治篇に「島根県の時代」がある所以です。(四)鳥取県教育史(昭和47年編)庶民の教育、明治時代の概説、学制の頒布、欧化教育の反省と四章の抄録コピ−80頁。学校創立当時の学校番号は 0 0 隠岐の文化財 1 46 13 鳥取市の一番から始まり境港市の末尾159番で切れています。160番は宇賀なんですが、この教育史からはさぐれません。(五)隠岐役所日誌。西郷町役場「西郷町誌に係る史料」室に保管されている県立図書館蔵のコピ−(これはいつでも閲 0 0 隠岐の文化財 1 46 19 覧ができかつ大部ですのでコピ−はありません。)(1)明治5、6年(2)明治7年(3)明治8年(4)明治9年発信文書、授与辞令、出張命令等実に丹念な控えです。教育の任命辞令から学校番号、規模等を知ることができます。(六)辞令 0 0 隠岐の文化財 1 46 28 留。隠岐支庁引揚文書からコピ−。(1)明治12年−14年124頁。主として教員の任免関係。(2)明治15年−16年40頁。教員賞与、卒業生褒賞等。18年講習教員免許証授与者名。(3)明治28年−30年14頁。表彰11件。譴 0 0 隠岐の文化財 1 46 35 責1件。罰俸1件。(七)履歴書。引揚文書明治4年−13年。コピ−は「岩佐久一郎」他7名分。(八)島根県達。島根県庁地方課、明治13年、隠岐中学、巡回学校教師つき10件。(九)島根県指令。島根県庁地方課。明治13年。学事につ 0 0 隠岐の文化財 1 46 41 き、郡長高島士駿が県令に出した伺とそれへの指令書。9件だけコピ−。当時郡長が学校教育、教員確保に心血をそそいでいた実際がよくわかります。(十)隠岐国概況取調書。引揚文書コピ−60頁。明治29年隠岐島長第1課庶務係が行った調 0 0 隠岐の文化財 1 46 47 書。県を通して内務省に提出したものでしょう。位置、著名ナル山川、気候、旧跡(祭礼にまで及び詳述)鳥獣家畜、管轄ノ沿革、廃仏、人口、社寺、人情風俗、習慣、宗教、婚姻ノ式、淫風、人狐、道路、飲料水、疾病、医師、産婆、兵事、戸籍 0 0 隠岐の文化財 1 46 53 、教育、海陸産物年生産額(29種)、税金、牛突キ、大人小人ノ遊戯、言語等々実に微細で目の至らざるなしという感です。(十一)部内状況申報。引揚文書コピ−180頁。明治21年から8か年分8部、町村役場から支庁へ、支庁から県へと 0 0 隠岐の文化財 1 46 59 部内状況を3か月ごとの申報綴。行政一般のうち教育を中心に2、3の項目を摘記します。一、学事(明治21年)客年改正ノ学制実施以来一般学事ノ程度暫ク不振ノ状ヲ呈セシト雖モ漸次施設ノ整理スルニ随ヒ稍挽回ノ勢ニ向ヒ民間ノ志操モ亦漸 1888 0 明治21年 隠岐の文化財 戊子 1 46 66 ク上進シ教育ノ必要ナルヲ感スルノ景況ナリ。本学期間試験ニ応セシ学生ハ就学生徒ノ三分ノ二ニシテ其学力ノ成績ハ之ヲ通常ノ学年ニ比スレハ稍低度ナリト雖モ改正学制実施ニ方リ教員ノ変動学校ノ廃置等ノ為メ授業日数ノ十分ナラサルニ拠ルヘ 0 0 隠岐の文化財 1 46 73 シ。本年3月教育品展覧会ヲ開キ教育品ヲ蒐集シテ衆庶ノ展覧ニ供シタリ未タ其効果ヲ知ル能ハスト雖モ瞑々中ニ利スル所少ナカラサルヘシ。一、学校設置屋舎模様替(明治21年)県令23号ノ指定ニヨリ小学校ヲ設置スルモノ周吉郡4、穏地郡 1888 0 明治21年 隠岐の文化財 戊子 1 47 2 3、海士郡2、知夫郡3校ナリ。屋舎模様替ハ海士郡ニ1校ニシテ10月10日ヨリ四郡高等小学校ヲ開設ス。一、学校分教場設置廃止(22年)飯田小学校ニ犬来、布施小学校ニ飯美卯敷、中村小学校ニ松ケ浦、久見小学校ニ代、都万小学校ニ歌 0 0 隠岐の文化財 1 47 9 木、大津久、那久小学校ニ油井、知夫小学校ニ古海ノ各分教場ヲ設置ス。一、学校資金(23年)9月中四郡通常連合町村会ヲ開キタルニ共有財産ヨリ各尋常、簡易小学校ヘ配布金2158円、高等小学校ヘ補助金792円及勧学費50円支出スル 0 0 隠岐の文化財 1 47 17 事ニ評決セシヲ以テ認可実施ス。一、勅語奉読敷及拝ユ敷(23年)校内ニ恭シク式場ヲ設ケ玉座ヲ定メ勅語ノ謄本ヲ備ヘ教員生徒ヲ引率シ玉座ノ前ニテ君カ代祝歌ヲ唱ヒ拝礼ヲ了レハ校長ハ勅語ヲ奉読シ且意ヲ加ヘテ諄々誨告ス式場ニハ戸長及学 0 0 隠岐の文化財 1 47 23 校職員等参列シ茲ニ校下人民拝観セリ。西郷高等小学校ハ奉読式ト併セテ御真影拝戴式ヲ行ヒシニ参列及拝観スルモノ三百余名ニシテ其式順序ハ至ツテ厳粛ナリシヲ以テ一般ヲシテ大イニ崇メメノ意ヲ感動セシメタリ。一、宗教(25年)神道ニハ大 0 0 隠岐の文化財 1 47 31 社、黒住ノ二派、仏教ニハ真言、浄土、日蓮、真宗ノ四宗アリ其ノ中浄土真宗ハ旧寺再興ノ出願中ナリ。一、兵事(25年)来年4月19日ヨリ3週間近衛師団ノ予備役歩兵、砲兵ヲ勤務演習ノ為メ第5師団ヘ召集ノ命アルヲ以テ令状及旅費ヲ交付 0 0 隠岐の文化財 1 47 38 シ出発セシム。一、学事(26年)前略。訓導其人ノ如キ就中軫念セサルヘカラサルモノナキニアラサレトモ本年新ニ任命セラレタル数名訓導ノ如キハ各其分ヲ守リ訓誨其宜シキヲ得人皆嘱望シ止マサルナリ蓋シ上司ノ賢明ナル此良訓導ヲ此校ニ任 0 0 隠岐の文化財 1 47 45 命セラレタル当地ノ幸福実ニ鮮少ナラサルヲ信ス今後尚ホメメ往ノ方針ヲ以テ監督処置ニ尽力アラハ十年ヲ期スル業モ其半ニシテ好結果ヲ奏スルハ断シテ疑ハサル所ナリ。一、衛生(27年)本郡ニ於テハ6月下旬ヨリ部内一般赤痢病劇行シ其模様タ 1894 600 明治27年 隠岐の文化財 甲午 1 47 52 ル伝染ヨリモ流行ノ勢力最大ナリシモノノ如シ一家一人ノ感染者アレハ其家内ニ蔓延スルヨリモ忽チ東西南北ノ嫌ナク発病者出来シ更ニ原因ノ認メカタキモノ最多ク且一端撲滅ノ徴アリテ数十日ノ后忽然又双方ニ患者ノ頻出スル等ノ事実アルヲ以テ 0 0 隠岐の文化財 1 47 59 ナリ而シテ患者ハ総テ最初ヨリ避病院ニ移シ直ニ予防消毒ヲ勉メタリト雖モ更ニ其効ヲ認メカタク終ニハ部内一般ニ蔓延シテ患者ハ六百数十名ノ多キニ達シタリ<下略>(別府外ニ村役場)この時の全町村の集計は、患者数2422名、死亡者は4 0 0 隠岐の文化財 1 47 65 25名と記録されています。町村別の数字をあげるに忍びませんでした。一村で最多死亡者は96人とあります。衛生係の心痛、村民の恐怖と悲痛、全く此の世の地獄、凄惨と申すきりありませんでしょう。隠岐では今1回明治12年7月コレラの 1879 700 明治12年 隠岐の文化財 己卯 1 47 71 猖獗があります。(十二)町村状況調査書。引揚文書全10冊。明治42年島庁が各町村より報告させた調査で西郷町のものを例示します。<明治42年調査、周吉郡西郷町状況調査書、隠岐島庁>と表書き。まず大きい町図1葉から始まります。 0 0 隠岐の文化財 1 47 77 自然、人情風俗、行政の3部に分れ、人情風俗の如きは特性、風紀、共同(社会連帯)、雑況とあおれぞれに十数項目をたてて詳述してあります。この時点での至らざるなき状況書です。行政の諸事務の中に教育、人情風俗の共同の中に社会教育全 0 0 隠岐の文化財 1 48 5 般の状況がよくわかります。(十三)隠岐公論紙連載、斎藤理三「教育の歴史」全43回分コピ−1冊。(十四)島根県市立教育会雑誌(並河由則所有)島根県近代教育史編集室に全コピ−。その中、隠岐関係分コピ−40頁。12号(明治19、 0 0 隠岐の文化財 1 48 12 1)会員中島行徳報告の島前の学校状況。14号(明治19、3)隠岐国小学校教員講習の報告書の緒言−小学督業芳川修平の詳述。23号(明治23、6)四郡学事の概況、ほかに13、46、52、59、64号とコピ−があり、今昔の感にた 0 0 隠岐の文化財 1 48 19 えないもの、ほほえましいものなどがあります。(十五)とくに本編集のため購入した書誌は次の通りです。雑賀小学校百年史。津田小学校百年史。分教場史と風土記、江津市蹟市公民館、井沢、清見分館。(十六)その他、よく参照したもの。文 0 0 隠岐の文化財 1 48 28 部省。学制百年史(記述編、資料編)。島根県議会史(全議事速記録)。隠岐郡内の町村誌(史)。隠岐郡内各小中学校の記念誌。おしまいに、未蒐集の資料と申しては何ですが、どうしても心に残りますことを記しておきます。戦前に第1区、第 0 0 隠岐の文化財 1 48 35 2区教育研究会というのがありました。春は島後、島前別に、秋は合同で交互に開かれ、交通不便で一泊二日が常でした。会場は持廻りで宿屋の不足分は民宿(?)でした。土地の方々との交流も出来て大いに教育熱は揚ったものでした。この会の 0 0 隠岐の文化財 1 48 40 あと教育会の総会があり、会員大いに気焔を吐きました。機関誌の発行、隠岐神社の創建にも大いに貢献したと思います。戦後、教育研究会は再組織され研究の推進は目ざましいものがあります。一方教育組合も系統組織の末端としても又独自の歩 0 0 隠岐の文化財 1 48 46 みもしてきました。隠岐島教育振興会が発足して社会科副読本「起きあがる隠岐」の刊行、隠岐文化センタ−の建設と力を尽くしました。子ども風土記としての児童文集「あらなみ」「おきの子ら」は健かに育っています。これらの資料は早急に発 0 0 隠岐の文化財 1 48 52 掘蒐集保管を願っています。「隠岐教育百年史」という光栄ある編集の一端に携わらせて頂きましたこと生涯忘れ得ない温かい思い出になります。かえりみますと身の非才、力の至らなさ全く慙愧に堪えない思いにかられてもいます。これまでの仕 0 0 隠岐の文化財 1 48 58 事を通して、今しみじみと思いますことは、百年という歳月の遠さです。戦後40年、終戦当時の状況すら煙霧縹渺たりです。それでも国立公文書館にある文部年報によりますと、明治7、8年隠岐の学校の確認ができます。よく保管された記録の 0 0 隠岐の文化財 1 48 63 時間性、峻厳性に鞭打たれる所以です。文化財に有形、無形とあり、有形に記録と非記録とあるとすれば、文化財の中に占める記録の位置の重大さに気付かされます。文字にせよ映像にせよ、系統的に管理よく保管されることが要件です。いろいろ 0 0 隠岐の文化財 1 48 70 な意味で、この際、隠岐郡を一円とする「郷土資料室」を創立することを提唱します。防災設備の整った資料室が出来るならば門外不出といわれる資料の寄託も大いに期待されるところです。これは、博物館、図書館、美術館、とともに文化行政と 0 0 隠岐の文化財 1 48 75 して本腰を入れる秋に際会していると思いますがこれは筆者一人の思い過しでございましようか。<昭和58、11。横田武> 0 0 隠岐の文化財 1 49 1 隠岐と椿の物語。木村康信。一、思いつき。二、椿の方言。三、隠岐の凪腸(ナギワタ)と椿の実。四、椿は唾吐。五、隠岐の椿の方言。六、木の実の採油と油石。七、後記。一、思いつき。色々なことに興味があって、中でも生物関係の仕事が多 0 0 隠岐の文化財 1 49 12 いので、その方面の事について頭をつっこんでいるが、時々頭をあげてよそ見をする癖がある。すると、岡目八目でよそ事がよく見える事がある。専門外の事であるので無責任を表明して、茶目気を発揮して気晴しをする。ところが、下手な鉄砲も 0 0 隠岐の文化財 1 49 18 数撃ちゃ当るというが、たまに傑作に当って面白くてたまらない。この「隠岐と椿の物語」は、その傑作と自負している。この標題を選んだのは、ツバキを調べている内に、これは太古から我々との関係が大変深い事が分って来る一方で、益々分ら 0 0 隠岐の文化財 1 49 24 なくなるのが、ツバキという名の由来であった。書物には色々と書いてあるが、合点がいかない。このような事は地名などでよくある事で、それは役人などが語源の分らぬまま自分勝手に書替、誤記するからである。気をつけて誤りを後世に残さな 0 0 隠岐の文化財 1 49 30 いようにしたいものである。大昔の人達は色々なものに名づけの名人で、名を聞けばその物ズバリの良い名をつけている。地名などではその名を聞けば、位置やら地勢までも分るものもあるほどで、それは昔の人の生活に直結した必要から出た名で 0 0 隠岐の文化財 1 49 36 、磨きあげられた宝石のように美しい文化財だが、今の人達がその語源や意味が分りかねるのは、遠い時代の昔のことであり、それも漢字を当てて書くために意味が若干曲がるとか、古語の為に今つかわれていないとかの理由もあってのことである 0 0 隠岐の文化財 1 49 42 。さてツバキであるが、この字(椿)はこれにぴったりの字で、日本で作った倭字だともいうが漢字にもあって誠にまぎらわしい。椿はチャンチンでセンダン科の植物で別物である。そして、有名な貝原益軒は厚葉木のアを略してツバキになったと 0 0 隠岐の文化財 1 49 48 いい、言海で見るとこの葉に光沢があるので津葉木とあり、書物それぞれに理屈が書いてある。政治家の弁舌ではないが、ああの、こうのと言を左右するのはどうも胡散臭い。結局この勘が当ったわけである。椿の裏に何かがある、臭いとにらんだ 0 0 隠岐の文化財 1 49 54 のである。隠岐の古人はベ−ロ、ベ−ロの木という。ツバキといいだしたのは明治の終り頃からである。二、ツバキの方言。古事記や日本書紀(720)、万葉集、常陸風土記、豊後風土記、出雲風土記などにもツバキの事が出ているが、海石榴の 0 0 隠岐の文化財 1 49 60 字が当ててあったり椿と書いたものもある。おそらく今から1300年以前からツバキの名があったわけである。しかし各地では、それぞれに最適な方言が用いられている。主なものを抜き出して見ると次の通りになる。チバキ、チバチ、シバキ、 0 0 隠岐の文化財 1 50 2 沖縄。カタイシ、岡山。カタチ、神戸、広島。カタギ、大分。カタシ、カタシノキ、四国、熊本、宮崎、島根、山口。ムツキ、茨城。ベ−ロ、ベ−ロノキ、島根(隠岐)。この外にもツペ、ポッポなどがあるが今は割愛する。カタシ、カタシノキの 0 0 隠岐の文化財 1 50 12 類については推定されるようにツバキの木が堅い木だからである。景行天皇12年に、今の大分県で賊を征伐するのに椿の木で武器を作ったとしてある。これは材が堅くて強いから、色々な道具の柄にしたり、上等の木炭を焼いたり、又その灰がコ 0 0 隠岐の文化財 1 50 18 ンニャクを固めるのに最上のものである事も史っていた。カタイ木だからカタシだ。大体に山地の方での呼び名である。さてチバキ、チバチは何の事であるか、これは貴重な手がかりになる方言であるが、正面からは解けない謎であった。解けてみ 0 0 隠岐の文化財 1 50 23 ると何の事はない、唾の事である。ツバとツバキとだんだん近づいて来てもまだ解けない謎。これには一つのキ−ワ−ドがあった。三、凪腸とツバキの実。NHKの朝のテレビをよく見ているが、今年の3月31日の朝は忘れられない。そのくせそ 0 0 隠岐の文化財 1 50 30 の番組のあと先は分らず、ただ志摩半島の鳥羽あたりのカナギ漁師が、その昔カナギ鏡をつかって漁をしたら採りすぎて資源が乏しくなるので、カナギ鏡を使うことを禁止して、その代りに昔ながらのツバキの種子を噛んで吐き、その油の働きで海 0 0 隠岐の文化財 1 50 35 の底を見てカナギ漁をした事もあったとの話があった。何でもこのあたりの漁法漁具などを一堂に集めて、民俗資料館を作ったとかの一連の話の内の一コマをつかんだのである。これが鍵になって謎が解けるのであるが順を追うことにする。その昔 0 0 隠岐の文化財 1 50 41 隠岐の漁師が、といってもそんなに遠くの事ではない。海の底を覗く箱目鏡が出来る前の事である。板ガラスが手に入るようになって作られた道具だから、ごく近年の事である。この頃は各地で油をつかって海の波を鎮めて漁をしたらしい。隠岐で 0 0 隠岐の文化財 1 50 46 は鮑の肝臓を口に含み、噛んで唾を海中に吐いて波を鎮め、カナギ漁をした。そこで鮑の肝臓の事を凪腸といっている。近頃の若い人は凪腸の意味を知らず、鮑の肝臓の固有名詞だと思っている。最近の書物の日本民俗語大辞典に、ナギワタやゴマ 0 0 隠岐の文化財 1 50 52 油も使ったと書いてあるが、それを使った地方の分布が知りたい。今年6月松江に出た折、町で行商の魚屋のおばあさんに(70歳位)どこから来られましたか、と訪ねると島根半島鹿島町からとのことで、ナギワタの事を聞くと知らぬとの事であ 0 0 隠岐の文化財 1 50 57 ったが、隠岐へ帰る船の中で、釣に隠岐へ渡る鳥取県境市の人に聞くと、50歳台の人であったが知っていた。これらの分布を知りたいので、ちょっと方言辞典などて調べて見たが出ていない。いいおしんですぐにはいはず。猫が鼠をもてあそぶよ 0 0 隠岐の文化財 1 50 63 うな言いまわしをしているが、このNHKの放送を聞いた時シメタと思った。謎が解けたのである。思った通り、昔の人達は利口であった。時によるとそれの専門だと思われる人達が、昔の人達が幼稚で野蛮であったかのような思い違いをしている 0 0 隠岐の文化財 1 50 68 事があるってガッカリする事があるが、これは大変な思いちがいである。考えて見るがよい、太古人の作った品物で現代人が見て何につかったか、どのようにして作ったか分からない物が沢山にある。それぞれの時代に、それぞれ才能の粋をつくし 0 0 隠岐の文化財 1 50 74 て生活しているのであって、一概に時代を越えて表かすることは不当というべきであろう。さて、シメタと思ったのは何であったか。四、ツバキは唾吐(ツバキ)が語源。昭和51年に樹木大図説(上原敬二著)を手に入れて愛読しているが、なか 0 0 隠岐の文化財 1 51 3 なかの名著で、ツバキの事についても60頁にも及んでいる。いつも思う事であるが、書物をみても自分の分った事しかなかなか分らないもので、見れども見えずの言葉が当るように思う。この本のツバキの方言の最後に小文字でシ−ボルト、ツッ 0 0 隠岐の文化財 1 51 9 カリニの日本植物誌にはarbre-deslire唾の木と記している、と書いてある。(ドイツ人、長崎で天保6年−1835年の著)何回この本を繰っていても、この項は目の中へも頭の中にも入っていないようであったが、例のテレビの話を聞いてふい 0 0 隠岐の文化財 1 51 15 と重いだしたので本を開いて字引で調べてみると、唾液の木の意味になる。目の鱗がおちたようなとかいうが、シメタ、と思った。鬼の首を取ったとのたとえがあるが、両手を挙げて叫びたい気分であった。隠岐の凪腸と同じく、表現の仕方は違う 0 0 隠岐の文化財 1 51 21 がこの木は唾の木と沿岸部で広く云われていたにちがいない。沖縄のチバキ、チバチ、シバキは御気付の如くツバキである。ツバキが書物に取り上げられるようになった時代には、興味がその木材や花などに移り、演芸、茶席、文学の場で持て囃さ 0 0 隠岐の文化財 1 51 26 れて、当て字も椿などの字が用いられて変身してしまい、庶民との縁が切れて、語源がカナギ漁師がこの木の種子を噛んで吐き出し、その油分で海面を凪にし漁をしたので唾木といった事などは世の中に埋まってしまい、自負したいい方だが今回気 0 0 隠岐の文化財 1 51 32 付かなかったら、シ−ボルト氏が折角書いて残していても、日の目を見ず、、、になったかも知れない。「島前の文化財」第9合に島前の植物方言とこれに関連する習俗について、を書く折などは、ツバキの名は学者などが理屈でつけた名で、厚葉 0 0 隠岐の文化財 1 51 38 木などはどのようにして広まっていったかと不思議に思っていた。今では学者が新種の名のついていない植物を見つけると、その植物に名をつけて、学会などで発表して皆が知るわけだが、その昔は一人位が自分よがりの名をつけても世間に通用し 0 0 隠岐の文化財 1 51 43 なかった。皆の者の共感を得て、はじめて名前として通用する事になる。共感のない名前は口伝えには広まっていかないものである。鳥羽地方の唾木、隠岐地方の凪腸を使った漁師の分布が分れば大変面白くなるのだが、今はそれの関連が分り、ツ 0 0 隠岐の文化財 1 51 49 バキの語源が解明されたばかりである。今までは、中央の学者が全国を廻るなどして資料などを集めて、分析や統合などして結論を出していたが、これには限界があって正確を期することは 難しい事が分って来た。これぞれの地方の好事者や関心 0 0 隠岐の文化財 1 51 55 ある人達の協力を得なければ、このような研究はよい成果を揚げる事が出来ないものである。さて沖縄からチバキ、チバチ、シバキはどこへ行ったでしょうか。途中を寄り道せずに鳥羽へ行ったでしょうか。鳥羽から先へはどうでしょうか。又隠岐 0 0 隠岐の文化財 1 51 61 の凪腸はどこから来たのでしょうか、どこかへ行ったのでしょうか、面白くなります。五、隠岐の椿の方言。この事については「島前文化財」第9号に書いているが、再度とりあげて書かねばならない。その方言はその地方の住民との深いかかわり 0 0 隠岐の文化財 1 51 67 の中から生まれた掛け替えのない名で、それには歴史、絆など百万の日くが含まれているからである。隠岐には割合に大椿が残されている。島前でも天然記念物に指定されたものに、海士町豊田の氏神の本殿横にあるものは太さ1、8メ−トル、高 0 0 隠岐の文化財 1 51 72 さ10メ−トルの大木である。まだこのような大木は多数あって、大変大切にされていたものである。近世になっては小物成等といえあれた年貢に納めさせられ、古文書に島後の油井村や島前では美田村などが柄油を納めた事が出ている。柄油は初 0 0 隠岐の文化財 1 52 2 見の時は何の事か分らず、エゴマ油の誤記か何かのように見ていたが、本誌第9号75頁に松浦康麿氏も書いておられるが、ベイノアブラと読むのが正しい。ベイとはツバキの方言である。さてその語源は?。大正の初めの頃迄この方言が通用して 0 0 隠岐の文化財 1 52 7 いたが、花はベ−ロの花、木はベ−ロの木であった。実は「木の実」といい、これから採った油は「木の実の油」といった。べ−の語源も調べていたがなかなか分らず苦心していたが、分って見れば何のことはない。ベ−は麦などの脱穀に使う連枷 0 0 隠岐の文化財 1 52 13 (カラサオ)のくるくる回って穀類を叩く方の竿をベ−と呼び、この竿は粘りもあり、堅くて強いツバキの若木の真直ぐなのが一番よいとされ、それがもとでべ−の木というようになった。ベ−とベ−ロについては、次のような事が言海に書いてあ 0 0 隠岐の文化財 1 52 18 る。「小児ノ戯、其事ハ誰ガシタルカト疑フ時占ヒ中ツルワサニテ、紙捻ノ尖ヲ少シ折リ曲ゲテ、両ノ掌ニ挟ミ揉ミテ、其觜ノ差シタル者ヲソレナリト定ム」これがベロベロの神である。このことがもとになって、くるくる回るものがベロベロで、 0 0 隠岐の文化財 1 52 24 連枷の回転竿がベロになりベ−ロとなったものであり、ここから二つに分れ、竿の方はベ−と変化し、ツバキの方はベ−ロが定着したものである。尚ベロベロ占いは大正の初め頃まであり、特に正月遊びに出て、隣のお爺さんにトントン噺を聞いて 0 0 隠岐の文化財 1 52 30 の合間にまわり歌などを始める時に、だれから始めるかをこの占いできめた。紙捻の先を折り曲げたものの代りに木の小枝を使い、くちばし形に曲がった枝先に火をつけて掌でもみまわして、誰から始めたらよいかいなといいながら手を止めて、火 0 0 隠岐の文化財 1 52 35 のついた枝先の向いの人に当ったと順番をきめた。今わかって見れば何でもない事だが、この隠岐の方言のベ−ロは隠岐だけのものか?まだどこかに類例はないのか、あれば面白くなるし、なければないで問題となり、尾を引く研究課題である。 0 0 隠岐の文化財 1 52 42 六、木の実の採油と油石。木の実油は前述の今でいえば税金だが、小物成などという年貢として納めさせらえるほど重宝な油で、食用は勿論、侍の刀などから金具類の錆止め、髪油と重用されていた。さてその採油については、油絞りが出来る迄は 0 0 隠岐の文化財 1 52 48 一般に鍋で煮出して採油していた。椿の種子は割れて落ちたら油分が少ないといって、木にある時に採りに行った。入会山の場合には椿の「ス」が立つ時もあった。一般にいう山あけである。この実は、ツバキのモモとも呼ばれていた。このモモは 0 0 隠岐の文化財 1 53 3 軒下などに並べて干され、果皮が破れて実が出ると実は集められ、皮の方は焼灰にされる。椿の木や皮には強いアクがあって、コンニャク作りなどの時につかわれる。実はほうろくや鍋などで煎られたが、煎り具合があって、なかなかむずかしかっ 0 0 隠岐の文化財 1 53 8 たともいわれている。煎った実は、石臼に入れて手杵で搗いたり、多い時には「から臼」でも搗いた。煎って搗きつぶすのは、油分が実の中から出やすくする為である。搗きつぶしたものは水の入った鍋の中に入れられて、グツグツ煮られる。煮ら 0 0 隠岐の文化財 1 53 14 れて油が浮き出ると柄杓で掬い採る。採った油には、少しの水分や不純物があるので、瓶などに入れて浮いたものや底に沈んだ水やごみを取り除いて、きれいな油にした。油屋が出来て絞りとるようになったのは、近年の事である。この木の実油が 0 0 隠岐の文化財 1 53 20 、昔は年貢物として納められた柄油(ベイノアブラ)といわれた。この事を調査している内に、油石の事が頭に浮かんだ。隠岐では一般に玄武岩の硬くて丸い海石を油石というが、調べて見ると、言海には膏石、黒褐にして光る事膏の如き石、美濃 0 0 隠岐の文化財 1 53 27 赤坂の山中に産す。石炭の一名。又油石は黄色にして油色なる石、美濃の河辺より出ず。と書いてある。又、他の書物でみると播州(兵庫県)にては石炭をあぶら石というともあり、隠岐のように、玄武岩の硬くて黒く丸い海石を油石というのは他 0 0 隠岐の文化財 1 53 32 では山口県があるが、その外の事は未だ手が届きかねている。ところが常日頃歩き廻っている内に見付けた石器と思われるものが、浅学の目では見分ける事が出来ないままに庭に置いてあるが、今年ひょっとした事から廃屋の跡地に玄武岩の平らな 0 0 隠岐の文化財 1 53 38 叩石を一箇拾った。この石は黒くてつやつやしているので、洗って汚れを落して見ると油がしみている。油をとるのに臼のない時代には、実を石で叩きつぶしていたのにちがいない。自然物を利用する事に長じた先人達は、製粉用の皿石には粗面の 0 0 隠岐の文化財 1 53 43 岩石を、製油用の叩石には写真のような玄武岩をつかったと思われる。玄武岩ならば、隠岐に普通にあって油の浸み込みも少なく硬いので、石粉にもなりにくくて利用され、油石と呼ばれるようになったと思われる。写真の台石は、今年の5月26 0 0 隠岐の文化財 1 53 49 日、秋田沖の地震で津波が沖をおそい海底が現れた折に、美田湾の海岸で拾ったものでらる。尚、玄武岩の丸い海石は藁叩石として各戸に納屋に一つ、土間にも一つ位は埋めて台石とされていた。七、後記。隠岐には椿の木は多いが、近年あまり大 0 0 隠岐の文化財 1 54 4 事にされていない。大木も多いが一本ずつ色色な理由で切られてしまう。1年に4ミリメ−トル周りが太るので、身のまわりの大木の周りを測って調べてほしい。例えば、1メ−トルあったとすればその樹齢は250年である。その永い年月を我々 0 0 隠岐の文化財 1 54 9 に油を恵み、鳥類には蜜を与え、その葉からは酸素を放ち、花は心を、葉は巻いては笛となり、饅頭の皮にもなった木である。貴重な文化財的な木である事を思い保護してほしい木である。又、近年は西ノ島町などでは町の花木として指定するなど 0 0 隠岐の文化財 1 54 15 、観光方面にもとされているが結構な事と思われる。南方の地方で、観光用として園芸品種を植えてある処もあるが、その為に植えるならばこの事は避けた方が良い。その理由は自然との不釣合だ。美しい隠岐の自然にはどこまでも自然物でなけれ 0 0 隠岐の文化財 1 54 20 ばバランスがとれない。秋採りの実を採蒔きすれば植林はいらない。処によると段畑の防風林としていて背は低くして実を採るのに便にしている。島前あたりでは、残った牧畑の流土防止などをかねると面白いと思われる。10月中旬から咲き出す 0 0 隠岐の文化財 1 54 26 ベ−ロの花、淡いピンク、濃紅、紫を含んだ花々が冬中も咲きつづけ、5月頃までも目をたのしめる。ベ−ロの花咲く隠岐を紹介するのも面白いし、木の実の油を絞って特産土産とするのもよかろうと思う。とにかく椿を再認識してほしいと思う。 0 0 隠岐の文化財 1 54 32 後醍醐天皇の伝説二つ。長厳寺の五輪塔。飯石郡三刀屋町(島根)。元弘2年(1332)隠岐へ流された後醍醐天皇を救出するため、楠正成の一族、楠刑部輔正清が天皇の后(きさき)を擁護しながら、三刀屋町伊萱で伯耆の武将名和長年の援軍 0 0 隠岐の文化財 1 54 38 を頼りに兵を挙げた。しかし北軍に押されて60余人が自刃、一部は備後(広島県)方面へ落ちのびて再起を期した。長厳寺境内にある五輪塔は、古くから「後醍醐さん」とも「后の墓」ともいい、近くには付け人たちと思われる古い墓がたくさん 0 0 隠岐の文化財 1 54 43 ある。来待石に似た柔らかい五箇の石を積み重ねた塔で、下から二つ目の石に梵字が刻みこんであるが、古くて判読できない。この五輪塔の竹筒に茶湯かお酒を入れて供えると、セキの病気が治ると伝えられ、今も参拝する人が絶えない。 0 0 隠岐の文化財 1 54 50 天皇水。東伯郡赤崎町(鳥取)。後醍醐天皇が都へお帰りの途中、大熊付近でのどがかわき水をお求めになったが、あたりにはまったく水がない。あわてる村人に天皇は、そばの大きな岩を指し、「この岩を起してみよ」と仰せになった。ある男が 0 0 隠岐の文化財 1 54 56 力いっぱい起したところ、きれいな水がこんこんとわいて出た。天皇はたいへんお喜びになり、岩をおこした男の怪力をほめて「今後、強力と名のるがよい」と仰せられた。男はそのままではおそれ多いと「高力」に改めて名のり、現在でも大熊地 0 0 隠岐の文化財 1 54 62 区のほとんどが「高力」姓である。(山陰中央紙、「伝説、民話のふるさと」) 0 0 隠岐の文化財 1 55 1 島前の植物目録(2)合弁花草本。木村康信。丹後亜興。▽和名は「日本原色植物図鑑草本編」(北村四郎ほか保育社)及び「日本帰化植物図鑑」(長田武正北隆館)のものを原則として使用した。▽(帰)は、帰化植物又は逸出したものを表わす 0 0 隠岐の文化財 1 55 9 。一時帰化種は省略した。▽樹木編のように種名を1字下げる表記はせず、必要事項はその都度注記した。<きく科>ノゲシ。オニノゲシ(帰)。オニタビラコ。ヤクシソウ。ハナニガナ。ニガナ。オオジシバリ。ジシバリ。ハマニガナ(稀)西ノ 0 0 隠岐の文化財 1 55 21 島(外浜)アキノノゲシ。ヤマニガナ。ムラサキニガナ。ブタナ(帰)。コウゾリナ。○オキタンポポ、隠岐の固有種。コオニタビラコ。ヤブタビラコ。キッコウハグマ。オクモミジハグマ。センボンヤリ。タムラソウ(稀)。キツネアザミ(少) 0 0 隠岐の文化財 1 55 35 ○ヒメヒゴタイ(稀)西ノ島(波止)。ノアザミ。ツワブキ。ベニバナボロギク(帰)。ダンドボロギク(帰)ノボロギク(帰)ヤブレガサ(少)西ノ島。タカサブロウ。クソニンジン(帰)。カワラヨモギ。オトコヨモギ(少)。イヌヨモギ。○ 0 0 隠岐の文化財 1 55 47 ヒメヨモギ(稀)西ノ島(船越)。ヨモギ。○オキノアブラギク、隠岐の固有種。トキンソウ。セイヨウノコギリソウ(帰)知夫。カミツレモドキ(帰)知夫、同定が不確実。アメリカセンダングサ(帰)。タウコギ。センダングサ。キヌガサギク 0 0 隠岐の文化財 1 56 1 (帰)知夫。キクイモ(帰)。サンシチソウ(帰)海士。メナモミ。コメナモミ。シュウブンソウ(少)西ノ島。フキ。カセンソウ。ヤブタバコ。サジガンクビソウ。○ヒメガンクビソウ(稀)西ノ島。コヤブタバコ。ガンクビソウ。ハハコグサ。 0 0 隠岐の文化財 1 56 15 チチコグサ。ヒメジョオン(帰)ヒメムカシヨモギ(帰)オオアレチノギク(帰)ホウキギク(帰)シラヤマギク。シロヨメナ、イナカギク的でもある?○ダルマギク。オオユウガギク、島前のはすべてこれ。オオアワダチソウ(帰)セイタカアワ 0 0 隠岐の文化財 1 56 25 ダチソウ(帰)西ノ島。アキノキリンソウ。ヒヨドリバナ。オナモミ。オオオナモミ(帰)<ききょう科>ミゾカクシ(少)。ヒナギキョウ。ツルニンジン。ツリガネジンジン。○ソバナ(稀)西ノ島。ホタルブクロ。<うり科>キカラスウリ。ア 0 0 隠岐の文化財 1 56 39 マチャヅル。スズメウリ(少)。<おみなえし科>○カノコソウ、西ノ島。ツルカノコソウ。ノヂシャ(帰)。オトコエシ。オミナエシ(稀)知夫、海士。<すいかずら科>ソクズ(稀)<あかね科>ハシカグサ。ヘクソカズラ。アカネ(少)エゾ 0 0 隠岐の文化財 1 56 53 ノカワラマツバ。チョウセンカワラマツバ。ヤエムグラ。ヤマムグラ。ヒメヨツバムグラ、確実な同定ではない。クルマバソウ、西ノ島。ハナヤエムグラ(帰)知夫。ツルアリドオシ。<おおばこ科>ヘラオオバコ(帰)。エゾオオバコ。オオバコ。 0 0 隠岐の文化財 1 57 1 トウオオバコ。<はえどくそう科>ハエドクソウ。<きつねのまご科>キツネノマゴ。<たぬきも科>○タヌキモ(稀)絶滅寸前である。<ごまのはぐさ科>コシオガマ(少)ヒキヨモギ。○クガイソウ(少)西ノ島。○トウテイラン。タチイヌノ 0 0 隠岐の文化財 1 57 13 フグリ(帰)、ビロ−ドモウズイカ(帰)。オオイヌノフグリ(帰)。イヌノフグリ、最近は見られない。フラサバソウ(帰)海士。アゼナ。アゼトウガラシ。アブノメ。ムラサキサギゴケ。サギシバ。トキワハゼ。ゴマノハグサ。<なす科>セン 0 0 隠岐の文化財 1 57 26 ナリホオズキ(帰)。ホオズキ、逸出であろう。ハダカホオズキ。イヌホオズキ。ヒヨドリジョウゴ。<しそ科>ヤマハッカ。ヒメジソ。イヌコウジュ。コシロネ(少)海士。エゴマ(帰)。ナギナタコウジュ。クルマバナ。トウバナ。イヌトウバ 0 0 隠岐の文化財 1 57 40 ナ。カキドオシ。シロナバナカキドオシ(稀)西ノ島。ジャコウソウ(稀)西ノ島。メハジキ。○キセワタ(稀)西ノ島。ホトケノザ。オドリコソウ。ウツボグサ。ナミキソウ。○ラショウモンカズラ(稀)西ノ島。キランソウ。ツルニガクサ。ニ 0 0 隠岐の文化財 1 57 53 ガクサ(稀)海士。カワミドリ。<くまつづら科>クマツヅラ。<むらさき科>○ホタルカズラ(稀)西ノ島。キウリグサ。ハナイバナ。スナビキソウ。<ひるがお科>ネナシカズラ。アメリカネナシカズラ(帰)。ハマヒルガオ。コヒルガオ(少 0 0 隠岐の文化財 1 58 2 )。ヒルガオ。<ががいも科>コイケマ(少)スズサイコ(稀)○クサタチバナ(稀)高崎山。オオカモメヅル。ガガイモ。○キジョラン(稀)<りんどう科>アケボノソウ(稀)西ノ島。ツルリンドウ。フデリンドウ。トキイロフデリンドウ(稀 0 0 隠岐の文化財 1 58 15 )。<さくらそう科>○ハイハマボッス。ルリハコベ。コナスビ。ハマボッス。ミヤマタゴボウ(稀)西ノ島。オカトラノオ。<いちやくそう科>ギンリョウソウ。○ギンリョウソウモドキ(稀)。ウメガサソウ。イチヤクソウ。 0 0 隠岐の文化財 1 59 1 食事 隠岐島前の飛魚漁。野地恒有。はじめに。ハレの食膳には魚は欠かせないものになっている。しかも、ハレの魚の魚種をみると、魚なら何でもよいという場合ばかりでなく、ハレの機会によってなくてはならないとされ、種類が決っていることが多 0 0 隠岐の文化財 1 59 8 い。たとえば、鯛はその代表のようにいわれる魚である。そこで、「なぜ鯛なのか」と問うた時、「めでたいから」といった答がふつう返されるのだが、実際、なぜ鯛はめでたいのか(ハレの魚種となるき)は、いっこうに説明できないのである。 0 0 隠岐の文化財 1 59 14 そして、ハレの魚となる魚種は、鯛ばかりではなく、実に多彩である。また、魚種の問題を漁業活動からながめると、ある特定魚種の漁に限って、豊漁祈願祭や初漁祝や供養などが行われることがみられる。その場合、そういった魚種には、他魚種 0 0 隠岐の文化財 1 59 20 とは区別される何らかの意味があると考えられる。そして、そういった特定魚種が、ハレの魚となる魚種と密接に結びついてくる可能性も考えられる。しかし、ナマグサモノの名ものとに海産物を一括してとらえたり、魚種(あるいは、それを対象 0 0 隠岐の文化財 1 59 25 とする漁業形態)に関係なく、魚撈儀礼をとらえていては、このような実態すら看過されてしまうのである。消費者側、生産者側の両面から、特定魚種の民俗的解明はなされねばならないのである。そこで本稿では、特定魚種視点の重要性を示すに 0 0 隠岐の文化財 1 59 31 止どめ、特定魚種を漁業活動、食制、信仰の各面からとらえ、同時に漁村生活の実態と特徴を示したいと思う。一、旧美田村<註(1)>と飛魚(アゴ)。昭和33年刊の「町勢要覧」にある魚種別漁獲量をみると、美田漁協において、飛魚(アゴ 0 0 隠岐の文化財 1 59 36 )シイラの漁獲量が他漁協に対して多くなっている。<註(2)>また、漁獲高の点では、先の「町勢要覧」には出ていないので、「黒木村誌」所載の「黒木村沿岸漁獲物(漁獲高)」をみると、昭和1年ではアゴがとびぬけて高く、9年でもアゴ 1926 0 大正15年 隠岐の文化財 丙寅 1 59 41 、鯛が高くなっている。<註(3)>さらに、貞享4年の隠岐島各村の郷帳を集成した「増補隠州記」の中で小物成についてみると<註(4)>、「トビウオ役」が課せられているのは、全島を通じて、美田村(トビウオ五拾五束役、銀百拾匁)、 0 0 隠岐の文化財 1 59 47 別府村(トビウオ二束役、銀四匁)、宇賀村(トビウオ二束役、銀四匁)、浦郷村(トビウオ七拾五束役、銀百五拾目)であって、美田村、浦郷村に特に多く、これらの村の他には課せられていない。また、明治11年の「各村の物産」(「黒木村 1878 0 明治11年 隠岐の文化財 戊寅 1 59 52 誌」所載)をみると<註(5)>、干トビウオを出荷しているのは浦郷と美田のみで、美田三万匹、浦郷一万匹となっている。これらの点から、少なくとも経済的側面からいって、飛魚が、美田(あるいは黒木)や浦郷で重要種であり、地域的特徴 0 0 隠岐の文化財 1 59 57 を示す魚種であることがいえよう。美田村の中でも特に船越里は、飛魚の漁場となっている外海をひかえており、美田村内の動力船保有数をみても船越が最も多く<註(6)>、美田村の漁業中心地となっている。以後、船越を中心としてみてゆき 0 0 隠岐の文化財 1 59 62 、特定魚種<飛魚>を視点にその漁村生活をとらえてゆく。いわば「飛魚の漁業民俗誌」を試みてみたいと思う。二、漁業活動。船越では、四ツ張網、地曳網、シイラ網、イカ釣、カナギが漁業活動の中心をなしていた。(第1図参照)。四ツ張網 0 0 隠岐の文化財 1 60 4 の漁獲対象は一般に、アジ、サバ、アゴ等であるが、船越ではアゴが中心となっていた。(現在は刺網である。)ここでは、アゴを主要漁獲対象としていた四ツ張網を中心に、漁期、漁場、漁法、組織、分配の項目をたてて述べてゆく。1漁期、漁 0 0 隠岐の文化財 1 60 10 場。隠岐島周辺の飛魚は、カクアゴとマルアゴの二種が一般に区別されれており、船越で漁獲対象となっているのはマルアゴの方で、漁期は6月上旬から7月中旬(7月18、9日の高田神社祭礼前まで)である。この時期に、アゴは産卵のために 0 0 隠岐の文化財 1 60 16 接岸するのであって、船越の漁師によれば、マルアゴは白砂を好み、10〜12、3ヒロの海底の砂地に腹をつけて「すわって」おり、藻場に産卵するという。海底の魚群は、幾重にも重なってぎっちりと静止してすわっているというが、この集魚 0 0 隠岐の文化財 1 60 22 の状態を判断するために、テエナ(後述)はスナワ(15ヒロほどの縄の先に石をつけたもの)を海底にたらして、スナワにアゴがぶつかる具合からみるという。つまり、スナワをたらして、一尺ぐらい上げるとアゴがあたらなくなるのは、アゴが 0 0 隠岐の文化財 1 60 27 海底に張ったようになっている訳で大漁になる。それに対して、スナワを1尺上げても2尺上げてもアゴがぶつかるのは、アゴが分散している訳で大漁にはならず、この状態を「アゴがハバシイ(賢いの意)」という。四ツ張網では火を焚いて魚群 0 0 隠岐の文化財 1 60 33 を誘導する訳だが、うまくやらないと、群のまま火について浮いてこないで、アゴはすわったままで動かないという。次に、アゴの漁場についてみると、四ツ張網の場合、第2図である。漁場のことをザという。岸辺側からニグノザ(ヒガシノザ) 0 0 隠岐の文化財 1 60 38 、ナカノザ、ニシノザと呼ばれ、中でもナカノザが、ナカノホンザといわれ1番よい漁場だったという。ニグノザは海底が浅くあまりよい漁場ではなかったという。その他に、イザナキノザがあり、ここは番外のザで、いつ使用してもよかった。現 0 0 隠岐の文化財 1 60 44 在アゴは刺網によって漁作されており、漁場はこれらとほぼ同じであるが、刺網の場合、以上あげた他に、カタドノザが設けられている。漁場使用の慣行についてみると、四ツ張の場合、その年の最初の出漁日に、各網組(船越には網組が三統あっ 0 0 隠岐の文化財 1 60 50 った)のテエナが、エビス社の前でくじをひいた。3人のテエナのうちの1人が3本の藁を握っており、他の2人が藁をひく。1番永い藁がニシノザ、2番目がナカノザ、1番短いのがニグノザとなる。(このニグノザに当る短い藁をひくと、テエ 0 0 隠岐の文化財 1 60 56 ナが「ドンだ」と言ったという。)以後1日ごとに漁場は、ニシ→ナカ→ニグ→ニシという順で変っていった。現在刺網の場合、くじをひくまでは自由に出漁してよいが、アゴが本格的にとれ始めると、漁協美田支所でくじびきを行なう。そのくじ 0 0 隠岐の文化財 1 60 61 びきの時期は、6月上旬の田植えの頃だという。刺網の漁場は第3図にるように、1日ごとに刺網を張る位置が代っていく。ヒガシの1〜2、ナカの1〜2がいいザであるという。潮流、風のアゴの関係にふれておく。ニシシオ(東→西)ではアゴ 0 0 隠岐の文化財 1 60 67 は西方にすわり、ヒガシシオ(西→東)では東方にすわるという。このような潮流が強い時には、テエナ船がガワブネが潮に流されて隣のザに近づいてゆき、あるいは、よい漁場の方へ故意にながされてゆき、海上では網組どうしのなぐり合いのけ 0 0 隠岐の文化財 1 60 72 んかが始まったりしたという。また、潮流が強すぎると、アゴは産卵に寄ってこないという。また、風は6月頃にマオキ(北西)から吹く風をイレカゼといい(9〜10月頃にはこの風をアオキタという)、アゴをナダに入れる風でアゴ漁に適した 0 0 隠岐の文化財 1 61 1 風である。2漁法。○沿革。船越の安達家(ミソヤ)には、越前邦からの移住の際の願(享保20年)が家系とともにあり、その願の中に「然る処御当国美田村にさば漁商売に年々羅越候に付村方衆中馴染衆も出来申候」ため引越したいと、「越前 1735 0 享保20年 隠岐の文化財 乙卯 1 61 9 国海浦味噌屋仁兵衛二男」の仁太夫が、美田村の庄屋、年寄に願出ている。この「さば漁商売」について、小泉憲貞は「(安達家初代が)代々二百余石積ノ船ヲ以テ商売ス移住ノ際四ツ張網使用隠岐国ニテノ嚆矢トス同氏の家系ニ顯然タリ」として 0 0 隠岐の文化財 1 61 14 いる<註(7)>。これを受けて「黒木村誌」では、「仁兵衛は宝永3年に死亡しているから、おそらく元禄年代よりはるばると隠岐へ漁業に来ていたのであろう。(中略)元禄年代より父仁兵衛が舟越においてはじめて鯖網(四ツ張網)漁業をひ 1706 0 宝永3年 隠岐の文化財 丙戌 1 61 19 らいた」と伝えているとしている<註(8)>。このように鯖漁とSて四ツ張網が始まったとすると<註(9)>、船越の地域的特徴から、四ツ張網の主要対象魚がサバからアゴへ移ったとみることができ、その場合、四ツ張以前のアゴ漁の形態が 0 0 隠岐の文化財 1 61 24 重要な問題となるが、今のところ、そこまでさかのぼることはできない。ここでは、四ツ張網漁という状況の中でアゴをとらえていく訳であり。船越の四ツ張網の網組は、元網、新網、孫網の三統から成っていた。この四ツ張網漁は、昭和10 0 0 隠岐の文化財 1 61 30 年頃まで行われていたという。四ツ張網の解体については、四ツ張網組以外の者が刺網を個人漁としてアゴをとり始め、一人当りの漁獲高が刺網の方がよく、四ツ張網組との間に争いが生じ、我も彼も刺網をやるようになったという。この状況は、 0 0 隠岐の文化財 1 61 36 安達家所蔵の「勘定書」からもうかがわれる<註(10)>。○漁法。漁法についてみることは、後述の役割構成やテエナの役割理解のために必要である。四ツ張網は、2艘のテエナ舟(カンコ)と4艘のガワブネ(リョウセン)<註(11)>か 0 0 隠岐の文化財 1 61 42 ら成り、テエナ船には二名ずつ、ガワブネには四名ずつ乗っており、一つの網組は二十名から成っている。四ツ張は、火焚きで集魚するので、夜漁である。(1)漁場では、ガワブネは四方に広がった位置でイカリを下ろす。それぞれのガワブネに 0 0 隠岐の文化財 1 61 48 は、ナワアミとよばれる網が積まれておりミソコと呼ばれる袋網が、魚を積む番に当たるガワブネ(ツミバンという)に積まれている。ツミバンの船はタモをもち、出漁時にはタモを船に立ててゆく。(2)四方に広がったガワブネは、イカリの網 0 0 隠岐の文化財 1 61 55 を延ばして四艘が接するまで近づく。そして、オモテ(ガワブネの四名は、オモテ、ナカノリ二名、トモ=船頭から成る)が、隣のガワブネの船頭にモヤイヅナを投げ、モヤイヅナで四艘は固定される。(第4図1参照)。(3)各ガワブネの積む 0 0 隠岐の文化財 1 61 60 ナワアミを、オモテと隣の船頭によってぬい合わせつなげ、ナワアミを張る。また、ツミバンの船からミソコが出され、各ガワブネのナカノリ二名が、ミソコの一辺とナワアミの一辺をつなげる。ナワアミ、ミソコが結び合わせられると、テエナの 0 0 隠岐の文化財 1 61 66 合図があるまで、寝て待っている(第4図2参照)。(4)一方、火焚き役のテエナは、カガタに松を焚いて魚群を誘致する。アゴが集まってくるとガワブネに合図する。合図を受けたガワブネは、モヤイズナを解いて四方に広がり、第4図3の状 0 0 隠岐の文化財 1 61 72 態になる。そして、テエナがアゴをミソコの上へ誘致する。テエナ船がミソコの上に致ると、四方のガワブネは一斉にナワアミをたぐり上げる。すると、アゴは中央部へ追い込まれ、ミソコの中へ入ってゆく。(5)アゴがミソコ内にとり込まれる 0 0 隠岐の文化財 1 61 77 と、四艘のガワブネはモヤイヅナで結びつけられる。そえいて、ミツバンの船の両側のガワブネからナカノリ二名が、ツミバンの船へ移って来て、アゴをミソコからすくうのを手伝う。以上のようにして、ミソコを1回上げることをヒトカワといい 0 0 隠岐の文化財 1 62 5 、一晩に7〜8カワやり、大漁時には10カワもやったことがあったという。また、満月の前後には漁を休み、あるいは、月の出までやることもあり、それをカタヅキとかヒトカワモチという。また、刺網は各家ごとに行われており、船越の刺網は 0 0 隠岐の文化財 1 62 11 ソコダチという底刺網で、前夜に網を漁場に建てておき、朝網を引き上げて刺さっているアゴをとるというものである。3組織、分配。○役割分担。テエナ−たい松による集魚役で、テエナ船二艘には、それぞれ二人ずつ乗る。テエナ船のトモに乗 0 0 隠岐の文化財 1 62 18 るテエナは、船をこぐこととカガタの火の番をする。このトモのテエナは若い者がやる。もう一人のテエナは、オモテに乗って、スナワをたらしてアゴの集魚状態を判断する。このテエナは経験のある者がやる。テエナ船のカンコは、二人のテエナ 0 0 隠岐の文化財 1 62 23 のどちらかが出す。また、ミソコはテイナが管理(保管、修繕)をし、ミソコイタテ(後述)を司る。カガタも保管した。ナカノリ−ガワブネには、船頭(トモノリ)、ナカノリ二名、オモテの四名が乗る。ナカノリには、若者や素人などがあたっ 0 0 隠岐の文化財 1 62 29 た。仕事として、ナワアミとミソコをつなぎ合わせる、ツミバンの船に移ってアゴをすくい上げるのを手伝うなどである。また、アゴの漁獲数は、ナカノリがアゴを5ワずつとって数えた。オモテ−オモテには経験のある者とか、狭い所で仕事する 0 0 隠岐の文化財 1 62 35 ので足の確かな達者な人があたった。隣のガワブネの船頭とともに、モヤイヅナを扱ったりナワアミをつなぐのが仕事である。船頭−ガワブネ(リョウセン)の所有者であるが、リョウセンの船主が船頭とは別にいる場合もある。船頭は、タモ、ナ 0 0 隠岐の文化財 1 62 41 ワアミを漁期中管理する。モヤイウチナワアミシタテ(後述)は船頭が中心になって行う。四ツ張網の作業や準備には、テエナを中心として網組全体で行うことと、船頭を中心としてガワブネ単位で行うことがある。○分配。分配として、テエナに 0 0 隠岐の文化財 1 62 48 は一人前と七分五厘、他は平等に一人前ずつ分けられ、ガワブネの船主には、船前一人前が与えられた。つまり、勘定祝に、分配金(総漁獲高から製造元への借金、必要経費を差引いた金額)を二十七に分けて分配した。その他に、ナカノリに対し 0 0 隠岐の文化財 1 62 54 ては、出漁するごとに、ハタラキシロとして、両手でひとつかみ分だけ現物を与えられた。このハタラキシロはガワブネの仲間(四人)で分配した。また、ツミバンになったガワブネの四人は、テエナにみつからないようにアゴを隠しておき、ナカ 0 0 隠岐の文化財 1 62 60 ノリによる漁獲量の計算が終わるまでにテエナにみつからなければ、隠したアゴはツミバンのものとなり、ガワブネの収入として製造元へ売った。このように魚を隠すことをネオ−という。テエナはネオ−を監視するが、みつけても見逃したともい 0 0 隠岐の文化財 1 62 65 う。ネオ−の収入は、ガワブネの四人で飲んだりした。漁から帰ってくると、浜で子どもや女たちが待っており、彼らに船から咲かんを投げてやった。しかし、自分の所属する網組でなく他の網組の家族へは、たとえ同じヤウチ(一般に親類を示す 0 0 隠岐の文化財 1 62 71 )であっても分けてやることはしないという。これは、「マンが移ってしまうから」とか「エビスサンが移ってしまうから」という。子どもに分ける分には、他の網組であっても関係ないといい、子どもの頃には、朝早くからアゴをもらいにいけと 0 0 隠岐の文化財 1 62 76 親から起されたものだという。三、食制、保存法。アゴは製造元(ミソヤとヤマネ)で、アゴの背中を開いて(セゴワレ)、内蔵を出し塩にして、日干しにして出荷した。それをシオアゴという。船越におけるアごの食制としては、アゴの身をすり 0 0 隠岐の文化財 1 63 7 つぶして作るアゴダンゴ(タタキともいう)や、刺身にする。また、保存法として、アゴガツオにする。アゴガツオとは、まずアゴの腹を割り(ハラワリ)にして、煮てから中骨をとり、10〜14、5ワを3本の藁で編んだひもで通して、イロリ 0 0 隠岐の文化財 1 63 12 の火の上につりさげてあぶったという。今は、板の枠に金網を張ったもの(ミスとかトオシという)をイロリやクドの上において、そこにアゴをならべて、ミスを10枚ほど重ねて作るという。1年分として四百ワぐらい作るという。アゴガツオは 0 0 隠岐の文化財 1 63 18 ダシとしてふだんから使うのであるが、家によっては、ふだんはなるべくイリコ(イワシ)のダシを使い、人が集まるような時や、盆のそうめんの汁や正月のにしめのダシには、アゴガツオでなくてはならないという家もある<註(12)>。 0 0 隠岐の文化財 1 63 24 四、信仰。漁期を中心として様々な儀礼が行われるが、その中で、まず、漁期開始までの準備と、漁期開始時から終了時までの行事を「漁撈年中行事」としてとらえる。また、この他に、出漁のたびにくり返される出漁時、帰漁時の行事や、臨時的 0 0 隠岐の文化財 1 63 30 なマンナオシや大漁祝といった行事がある。この出漁のたびの定期的、臨時的行事を「漁期中行事」としてとらえ、この点からみてゆく。(第5図参照)。○漁撈年中行事。(1)十日エビス。正月九日の晩に、テエナの家に四ツ張網組の者が集ま 0 0 隠岐の文化財 1 63 37 って、夜の明けるのを待ち(エビスゴモリ)、夜が明けるとエビス社に参った。そして、エビス社からもどって来て祝うのをトウカエビスという。十日エビス前に、テエナが、四ツ張網の乗組員に今年もやってくれるように頼みに回るというが、元 0 0 隠岐の文化財 1 63 43 、新、孫網の所属はほぼ決っていたというから、今年は産かするかどうかの確認で回ったのであろう。十日エビス当日には、テエナの家に集まった顔ぶれを見て、船頭、ナカノリ、オモテの役を決めた。正月二日のマツナオシの祝が、イカ釣の仲間 0 0 隠岐の文化財 1 63 49 を中心に船主の家でやられたというのに対し、十日エビスは「四ツ張ノ十日エビス」といわれた。しかし、四ツ張網がやられなくなってからは、エビス社の管理するイタヤの家で、船越の漁業従事者が集まって十日エビスをやったこともあったとい 0 0 隠岐の文化財 1 63 54 うが、今は、各家でエビス社に参るていどであるという。(2)四ツ張のキコリ。四ツ張網に所属する者は、カガタに焚く*コエ松を、十日エビス前から各々集めておくが、十日エビス後には四ツ張網組単位で、松を切りに山に入る。網組単位で松 0 0 隠岐の文化財 1 63 60 を切りに行くことを、マツキリ、ヤマイリ、四ツ張のキコリなどといった。四ツ張の松は、船越の個人持ちの山から、テエナが山林の所有者と交渉して松を買ったといい、網組ごとに買う山は別々であったという。しかし、それ以前には、船越の共 0 0 隠岐の文化財 1 63 65 有林(ジゲヤマ)であるコウジンヤマとかマツザキから切り出したといい、その時には三統がいっしょにまとめて切り出し、その後に三つに分けて、くじびきで分配したという。その場合、三統がいっしょに山に入る日は、正月五日のゴカンチに決 0 0 隠岐の文化財 1 63 71 まっていたという。ヤマイリには、1軒から一人が出て、男でも女でもよかったが、切った松を浜に出すマツダシは、女がやったという。ヤマイリからマツダシまで1〜2週間かかり、その間に、ヤマイリノイワイ、ナカイコイワイ、マツダシノイ 0 0 隠岐の文化財 1 64 1 ワイを、テエナの家でやったという。*コエ松とは松の木の回りが腐って、芯だけになったもので、この芯の部分は油(ヤニ)が出ていて火持ちがよく、雨の日や風のない日とか大漁時に火を大きくするめに使った。(3)モヤイウチ。十日エビス 0 0 隠岐の文化財 1 64 6 を過ぎてから、雨の降った日などに、ガワブネの船頭が「寒いけんモヤイウチやろ」と、ナカノリ、オモテを集めて、モヤイヅナ(藁綱)を作る。ガワブネの仲間ごとにやられ、漁期開始までにモヤイヅナを1本作っておく。(4)ソメガワトリ。 0 0 隠岐の文化財 1 64 12 4〜5月頃に、渋の出る木の皮(主にクヌギの皮)を、テエナが四ツ張の仲間に呼びかけてとりに行く。この木の皮をソメガワといい、ミソコイタテの時に、これで以て糸網を染めた。(5)ミソコイタテ。5月の終わり頃、みそこ(袋網)をテエ 0 0 隠岐の文化財 1 64 18 ナの家で作った。まず、湯をたいてソメガワを煮て、その渋で糸網を染めた。そして、その糸網を袋型にしてミソコを作る。でき上がったミソコに、テエナが酒をかける。その後、テエナの家で四つ張の仲間が集まって酒宴を開く。この日には、テ 0 0 隠岐の文化財 1 64 23 エナの家で米を2斗ほど炊いて、ツグネ(握り飯)にして、2個ずつ船越中の者に配った。船越の人たちはテエナの家へ握り飯をもらいに行くのだが、「ざぶとんをおぶっていって、ヤヤコの分としてまでももらった」という。(6)ナワアミシタ 0 0 隠岐の文化財 1 64 29 テ。各ガワブネごとに積むナワアミを四分の一ずつ、ガワブネの四人組が分担して、冬のうちから作っておく。四分割のナワアミに、おもりの石(テギイシ)とテグリヅナをつけておく。テギイシは、自分の力に合った石を浜から拾って来てつけた 0 0 隠岐の文化財 1 64 34 。そして、出漁する当日(出初め)に、ガワブネの上とか船頭の家で、四分の一のナワアミを一つにつなげるのがナワアミシタテである。初出漁時には、船頭がナワアミに酒をかける。(初出漁時にツミバンになったガワブネでは、タモアミにも酒 0 0 隠岐の文化財 1 64 40 をかける。)(7)高崎山参り。2月の最初の巳の日に、四ツ張の仲間の女房連中が高崎山にまつられている山神社に参った。網組の男も登った。その後、テエナの家で酒を飲んで米を食べたという。(8)クロヤキ。最初に出漁して帰ってきた朝 0 0 隠岐の文化財 1 64 46 に、テエナの家で米を1升炊いて、その火でアゴを2匹焼く。アゴを黒焼きにする薪は、四ツ張の松を使ったという。そして、アゴは、ソブ(鱗)を落さずにマルタ(そのまま丸ごと)でまっ黒に焼く。焼いたアゴは、テエナの家のエビスに供え、 0 0 隠岐の文化財 1 64 51 食事 下ろして20人で米粒ぼどずつ塩をつけて食べた。この初漁祝をクロヤキという。<註(13)>。クロヤキにするのはアゴだけで、四ツ張網ではサバ、イサキなども獲れたというが、サバやイサキのクロヤキは聞かぬという。また、他漁の初漁祝 0 0 隠岐の文化財 1 64 57 をクロヤキといったりするが、実際に黒焼きにするのはアゴだけだという。また、アゴの初漁には、エビス社の管理をするイタヤへ、エビスサンにあげてくれとアゴをもっていくという。そのアゴを、イタヤでは自分の家のエビスに供える。漁師が 0 0 隠岐の文化財 1 64 62 イタヤへもっていく魚はアゴだけだといい、他魚種をもっていったり、アゴの大漁時や不漁時にもっていくこともないという。四ツ張網がやられなくなってからは、クロヤキは初漁祝の名前としてだけ残り、刺網で獲ったアゴを実際に黒焼きにする 0 0 隠岐の文化財 1 64 68 ことはないという。しかし、イタヤへは、今でもアゴの初魚(ハツ)をもってくる人があるという。(9)カンジョウ祝。盆前に、テエナが製造元(ミソヤ、ヤマネ)と会計し、テエナの家で分配する。アゴの漁期は7月中旬で終わるが、カンジョ 0 0 隠岐の文化財 1 64 74 ウ祝は、7月下旬〜8月上旬のうちに行われたという。カンジョウ祝には、テエナが乗組員に頼んで来年の約束をする。○漁期中行事。(1)出漁時。出漁前に、テエナは四ツ張の松をテエナ船に積んでおく。ツミバンのガワブネは、タモアミを積 0 0 隠岐の文化財 1 65 4 み、それを立てて出漁する。出漁する時に、テエナは、エビス社に酒をあげ、漁に出てテエナ船で火を焚く所で、「リュウジンサンに」として酒を海にこぼした。(2)帰漁時。漁から帰って来て、ナカノリによる漁獲量の計算がすめば、1日の漁 0 0 隠岐の文化財 1 65 9 は終了である。ガワブネには、ナカノリのハタラキシロとネオ−の分配がある。そして、ネオ−の量が多かった時には、小漁祝と称して、ガワブネの四人が船頭の家で酒を飲んだ。(3)マンナオシ。他の網組に漁があるのに、自分のところだけ漁 0 0 隠岐の文化財 1 65 16 がない時、漁を休んでテエナの家で酒を飲んで、マンナオシをする。その時、テエナは、エビス社から御神体のエビス像を盗んできて、テエナ船に積んでおく。テエナがエビスを盗んだことは、同じ網組の者にも教えないという。また、テエナ以外 0 0 隠岐の文化財 1 65 21 の者が盗んできて、ツミバンの船に乗せることもあったという。エビス像は漁があるまで積んでおき、神体がなくなったエビス社を見て、村人は「エビスサンは今夜は留守でござる」などという。マンナオシに他の網組の者に酒を飲ませると「マン 0 0 隠岐の文化財 1 65 27 が行ってしまう」といって、そういうことはしないという。また、タモ網を他の網組の者にとられると「マンがとられる」といい、逆に、漁のある網組からタモをとってきたりするという。(4)大漁祝。千円以上稼ぐと千両祝だといって、エビス 0 0 隠岐の文化財 1 65 33 社に参ってから、テエナの家で酒を飲んだ。大漁祝に他の網組の者を加わらせることはしない。加わらせると「マンがとられる」とか「マンが移る」という。(5)漁と女性。不漁時には、高崎山へ四ツ張網組の女房連中が参った。網組(男)で参 0 0 隠岐の文化財 1 65 38 ることもあったというが、四ツ張網漁が始まると、女たちは毎日のように高崎山へ参ったという。船越では、女を船にのせるとマンがいいとし、女をニョウボエビスとかニョウバエビスといって、「マンがいいけん乗ってくれ」と女房に頼んだりす 0 0 隠岐の文化財 1 65 45 るという。また、出漁中に海が荒れてくると、女たちはタタイバタケ(第2図参照)に薪をもっていって、そこで火を焚き目印にしたという。○俗信。ふつう魚を箱部時には、エラブタから口へひもや棒を通して運ぶのだが、アゴの場合、アゴは顎 0 0 隠岐の文化財 1 65 52 を通すもんじゃないといって、このようにしては運ばないとう。他の魚種ならいいのだが、アゴは鰭をもって運ぶという。これは、首をつることを「アゴ=顎をつる」というところから、アゴのエラブタを通すのをきらうのだろうといっていた。< 0 0 隠岐の文化財 1 65 57 註(14)>。おわりに。最後に特定魚種<飛魚>視点からとらえた船越の漁村生活の特徴を2、3述べてみよう。まず、テエナの役割と性格をまとめると、漁撈年中行事では、十日エビス、ミソコイタテ、クロヤキ、カンジョウ祝をテエナが中心 0 0 隠岐の文化財 1 65 65 になって行なう。漁期中行事では、毎出漁時にテエナがエビス社に酒を供え、海に酒を注ぎ、マンナオシはテエナがエビス像を盗み、テエナ船に積んだ。これらの行事の中で、テエナの火焚き、集魚という役が直接関係している行事(テエナの<火 0 0 隠岐の文化財 1 65 70 >、<集魚>という役の特性と行事内容が結びついているもの)は、クロヤキ、毎出漁時の作法、マンナオシである。それに対して、十日エビス、ミソコイタテ、カンジョウ祝をテエナが中心に行うというのは、テエナが火焚き、集魚役にとどまら 0 0 隠岐の文化財 1 65 75 ず漁全般に渡る指揮者=ダイクになっていることによる。十日エビスの役割分担決定、ミソコイタテの網準備、カンジョウ祝での製造元とも会計などは、ダイクが受けもったことである。隠岐島前の豊田、知夫、崎では、四ツ張網のタイナ(テエナ 0 0 隠岐の文化財 1 66 5 )は、単なる火焚き役で、網の修繕及び船子の乗組決定を行なうアミダイクが別にいた<註(15)>。タイナ(テイナ)は、集魚具合いを見て指示する漁場での指揮者であっても、同時に漁全般の指揮者であるとは限らないのである。テエナが同 0 0 隠岐の文化財 1 66 10 時にダイクであるという点が、船越のテエナの特徴といえる。次に、船越の漁撈年中行事をみると、初漁祝のクロヤキで、実際に黒焼きにするのはアゴだけだったといい、また、エビス社を管理するイタヤへ初魚としてもっていくのはアゴの初魚時 0 0 隠岐の文化財 1 66 16 であったといい、漁期開始時に他魚種の時にはみられず、飛魚に限って行事が行われることが注目される。このクロヤキ(初魚祝)とアゴの結びつきについては、島前浦郷でも同様なことを聞くことができた。また、「隠岐島前漁村採訪記」にも、 0 0 隠岐の文化財 1 66 21 船越では「船をはじめて出した晩に取って来た飛魚をクロに入れてタイナの家の夷様に供へ、酒盛をなす。えをクロヤキといふ」(傍点筆者)と出ている<註(16)>。このように初魚祝とアゴが結びつく点は、船越斗か隠岐の問題にとどまらな 0 0 隠岐の文化財 1 66 27 い。全国的視野でみると、紙面の関係で具体的にみてゆく余裕はないが、漁記開始時の初魚祝や豊漁祈願祭、あるいは正月行事が、飛魚に限って、しかも漁業従事者ばかりでなく村落単位で行われる地域が太平洋沿岸地域に点在している。これは、 0 0 隠岐の文化財 1 66 33 黒潮との関連で重要であるが、こういった中で、隠岐の事例は、対馬暖流側の重要性を示している。また、同時に、<飛魚>視点の重要性をも示している<註(17)>。この他、船越の特徴として、漁期前の2月に四ツ張網の女房連中による高崎 0 0 隠岐の文化財 1 66 38 山参りや、女性をニョウボエビスとよびなどの、漁と女性の問題などがあげられる。最後に、筆者の調査の過程で、多忙な中を快くお話をしていただいた話者の皆様や、殊に、多方面にわたり御協力していただいた松浦康麿氏に深く謝意を表したい 0 0 隠岐の文化財 1 66 44 。また、この「よそ者」の調査し書いた小論に対して、隠岐島の皆様からの忌憚のないアドバイスをお願いしたいと思う。筆者は、これからも隠岐島の調査を進めてゆきたいと思っている。<註>(1)現在の西ノ島町は、もと美田、別府、宇賀、 0 0 隠岐の文化財 1 66 50 浦郷の4村から成っており、後に、浦郷村と黒木村(三村合併)となり、昭和32年に両村合併して現在に至っている。(詳細は「黒木村誌」525頁。)(2)「町勢要覧」(西ノ島)をみると、漁獲量が西ノ島町として一括されてしまっている 0 0 隠岐の文化財 1 66 55 が、昭和33年刊のもの(町村合併1周年記念号)には、浦郷、美田、黒木漁協別の漁獲量が出ているため、その要覧所載の統計(昭和31年度)を用いた。それによれば、飛魚の漁獲量は、浦郷漁協7278貫、美田漁協11010貫、黒木漁協 1956 0 昭和31年 隠岐の文化財 丙申 1 66 60 818貫となっている。(3)永海一正「黒木村誌」昭和43年、569頁。(4)「増補隠州記」「新修島根県史、史料篇二近世上」昭和40年、185〜194頁。(5)前掲書(3)、476頁。(6)前掲書(3)、12頁。(7)小泉憲 0 0 隠岐の文化財 1 66 67 貞「隠岐誌」前編、明治36年、15頁。(8)前掲書(3)、395頁。(9)これらの論稿では、この「さば漁」と四ツ張網の結びつきが明確にされていないと思う。(10)たとえば、昭和9年の「勘定書」をみると、元網は計3円78銭7 1903 0 明治36年 隠岐の文化財 癸卯 1 66 72 厘、新網は計89円12銭7厘である(網組は20名から成る)のに対し、個人漁で安達家に出したHは、一人1回の漁で30円24銭を稼いでいるのがわかる。(11)カンコとは肩幅4尺以上、リョウセンとは肩幅8尺以上の漁船を示す(後掲 0 0 隠岐の文化財 1 66 77 書(15)、383頁。(12)盆に飛魚がなくてはならないとするのは、島後布施でも聞かれ、また、京都山間でもそういう地域がある。(13)初魚を黒焼きにするというクロヤキ行事は、出雲、隠岐地方に広く分布している。(14)島前宇 0 0 隠岐の文化財 1 67 6 受賀では、さかさに(尾の方をもつこと)運んではいけない、鰭や頭の方をもつものだという。(15)桜田勝徳、山口和雄「隠岐島前漁村採訪記」昭和10年(「日本常民生活資料叢書」20、昭和48年)、389頁。崎の例は筆者調査による 0 0 隠岐の文化財 1 67 10 。(16)前掲書(15)、499頁。(17)関連して、隠岐の事例として、宇受賀のアゴイシ行事というのがあり、これは、正月という機会に、村落祭祀で飛魚の豊漁祈願を行なうというもので、飛魚視点の重要性を如実に示している。このア 0 0 隠岐の文化財 1 67 16 ゴイシ行事について、筆者は、機会を改めて論ずる用意がある。(1983、10、15) 0 0 隠岐の文化財 1 68 1 第3図その他 0 0 隠岐の文化財 1 70 1 島前代官所記。笠置真風。所在地。隠州視聴合紀(寛文7年1667)の別府の項に「北の小岡に昔の館所あり、今の駅亭は其下なり、代官の家、此にあり」、陰徳太平記ノ国合戦之事の項に「島前後悉く清政(宗清)が命令を受けづる間、やがて 0 0 隠岐の文化財 1 70 8 別府に一城を作りて、中畑、中原等を於て島前の二郡を治めしめ、彌々尼子の余風を仰ぎける。」前記の北の小岡に昔の館所ありという場所が、現在の尾の代から隠岐判官館跡一帯の台地と伝承されている。増補隠州記(1688)の別府村の項に 0 0 隠岐の文化財 1 70 14 は別府尾代官屋前ニ御制札場在、囲ノ内ニ御蔵在、島前二郡ノ府也。慶長18年(1613)堀尾検地による、別府村、屋敷請には、御蔵屋敷二反九畝と記され、後述の絵図面と変らない。前記、増補隠州記の島前二郡ノ府也」、とある代官所はま 1613 0 慶長18年 隠岐の文化財 癸丑 1 70 21 さに、この別府の地で280年の星霜を経ている。明治維新迄この地が島前地区の行政の中心であった。中世の末期、隠岐は、尼子と毛利の戦いに追われ、在地豪族らの去就も困迷した。永禄9年(1566)富田城陥ち、尼子義久は降人となった 1566 0 永禄9年 隠岐の文化財 丙寅 1 70 27 が、尼子勝久、永禄12年(1569)山中鹿之助らの尼子再興義軍を随えて隠岐へ渡り、復興を企てたが、毛利輝元の大軍に攻められ敗走し、天正6年(1578)上月城にて自匁、尼子氏の幕を閉じた。隠岐氏も天正11年(1583)内訌に 1569 0 永禄12年 隠岐の文化財 己巳 1 70 32 よって自滅した。そこで毛利の一族吉川氏が隠岐を支配し代官を派遣した。歴代代官と検地。宝暦11年(1761)隠州往古以来諸色年代略記によると、天正11年末7月13日に、広島より佐々木才又郎殿着船仕、当国ヲハ山方善右衛門殿、猪 0 0 隠岐の文化財 1 70 40 頭九郎右衛門殿ニ預ケ置、佐々木才又郎殿、広島へ戻り、同8月ヨリ吉川様御拝領ニ被成、簾宗次郎殿御着船、御奉行被成候とあり。又御証文写(安部彦次郎氏所蔵)には、天正11末年より慶長3(4)年迄17年之内、雲州冨田城には毛利殿よ 0 0 隠岐の文化財 1 70 45 り吉川美濃守殿被差遣、雲隠を治め被申候、高麗陣迄御勤被成、隠岐国在判には右美濃守殿手代芸州より猪頭九郎左(右)衛門、岡野杢太、山方善右衛門、此三人被遣、嶋後矢尾村之内、殿屋敷と申所、嶋前別府之内、尾片と申所、此二ケ所に天正 0 0 隠岐の文化財 1 70 50 11年より慶長3年迄尾在謹被成候。両嶋御奉行、猪頭九郎左(右)衛門。嶋前御代官、岡野杢太。嶋後御代官、山方善右衛門。嶋前代官、岡野杢太は別府村尾片に在勤したことになる。慶長4年(1599)吉川氏によって行われた別府村検地帳 0 0 隠岐の文化財 1 70 58 の、別府村公文、近藤十郎左衛門とあり、この近藤氏、門名を御方といって近世末期まで別府村庄屋職を勤めた家筋であり、その家の伝承にも国守拝領の御屋敷と、いっている。前記尾片とはこのあたり一帯の地名と解すべきである。現在の島前診 0 0 隠岐の文化財 1 70 63 所のある勝部氏の御屋敷これなり。御証文写とは幕末より維新にかけて隠岐国代官に出入した、卯敷村庄屋安部弥次郎がその重要記録の中から隠岐国行政の綱要を抄録したもの。天正11年8月より島前代官は簾宗次郎に交替した。毛利代官着任に 0 0 隠岐の文化財 1 71 3 よって、隠岐嶋の代官政治が開始された。当時、広島より毛利家臣、中村、内藤、井頭、十川、四名の連署による指示書が島前の笠置善左衛門に対し「我等に於いては諸篇を抛ち候、等閑有るべからず候、御納得尤に候」と述べ、一切、在地のこと 0 0 隠岐の文化財 1 71 9 は、お任せするから、等閑にしないように、とりしきってくれとある。具体的な村落行政については従来通り、在地豪族の手によって進めららたように思われる。関ケ原の戦、後(慶長5年1600)堀尾氏が雲、隠に封ぜられ、寛永10年(16 0 0 隠岐の文化財 1 71 15 33)まで30数年堀尾の支配が続いた。慶長12年(1607)に島後、慶長18年(1613)には島前と隠岐全島に検地が実施された。この検地は「古検」と呼ばれ近世を通じて隠岐国貢租体系の根幹となった。この検地によって別府御陣屋 1613 0 慶長18年 隠岐の文化財 癸丑 1 71 21 敷地も三段二畝二十四歩を近世末まで変りなく示している。堀尾時代からの島前代官は海士町、村上助九郎氏所蔵の「隠岐御役人御更代覚」慶長4(5)年−天保6年(1599−1835)「新修島根県史、史料篇2近世上」に所収されている。 0 0 隠岐の文化財 1 71 27 天保7年以降の島前代官と隠岐郡代名は次の通り。島前代官落合次郎太夫、天保7、隠岐郡代奥山鹿之助。島前代官塚本官次、天保9、隠岐郡代上田伝五郎。島前代官名内藤新七、天保11、隠岐郡代栗田一郎左衛門。島前代官津川六郎右衛門、天 0 0 隠岐の文化財 1 71 33 保13、隠岐郡代池田八郎左衛門。島前代官石川門八、天保15、隠岐郡代吉村喜兵衛。島前代官松田半蔵、弘化元。島前代官高橋伴蔵、弘化3、隠岐郡代三谷茂助。島前代官岸田俊蔵、嘉永元、隠岐郡代山田七左衛門。島前代官滝川八郎太夫、嘉 0 0 隠岐の文化財 1 71 38 永3、尾崎軍太夫。島前代官山岡善右衛門、嘉永5、隠岐郡代山田介右衛門。島前代官渡辺扇蔵、安政元、隠岐郡代村上弥一郎。島前代官原忠右衛門、安政3、隠岐郡代佐藤織弥。島前代官奥田小市、安政5、隠岐郡代布施弥一。島前代官田村郡右 0 0 隠岐の文化財 1 71 43 衛門、安政6、鈴村祐平。島前代官枝本喜左衛門、文久2、隠岐郡代丹羽与兵衛。島前代官足羽丈左衛門、元治元、隠岐郡代三田村円左衛門。慶応2、隠岐郡代山郡宇右衛門。慶応4、山郡宇右衛門。明治元年11月、隠岐国取締之儀鳥取藩へ被仰 1868 1100 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 71 49 付、足羽丈左衛門、佐藤、山崎ら共、嶋後へ帰嶋。(明治元年御用日記)目安事件と入会紛争。「御証文写」に「慶長4(5)年、、、堀尾帯刀様雲州へ御入国に付、雲、隠、御拝領ニ而御当国御奉行領島御兼務被成、越智郡津戸村ニ御在番所有之 0 0 隠岐の文化財 1 71 55 、竹林弥三(惣)左衛門殿屋敷有、唯今之法正寺屋敷是也」とあり、奉行は代官の上位、竹林は両島兼務の奉行として津戸村に在勤したことになる。津戸村と対岸の蛸木村は、島前豊田村との最短距離にある。「増補隠州記」によれば、この2村は 0 0 隠岐の文化財 1 71 60 、毎月上半は蛸木村から、下半は津戸村、豊田村へ継飛脚の船を出すことになっており、その代り舟渡料として米4石宛を受け(隠岐古記集)その他夫役免除もうけていた。津戸は両島の要津である。竹林奉行は堀尾氏入国のはじめに前後8年間勤 0 0 隠岐の文化財 1 71 66 め、約5年間、両島代官として在任した。その間、元和4年(1618)に百姓目安事件があって、堀尾古記が記述したように竹林奉行は切腹、関係者もそれぞれ罰せられ、その結果、島民の減税の要求が通った。ところが、この事件に島前入会問 0 0 隠岐の文化財 1 71 71 焼火 題が関連あると思われてならない。隠岐諸色年代略記に「両島惣百姓中ヨリ竹林弥惣左衛門殿ヲ被下候様ニ、松江御願書差上候ニ付、竹林殿自害被成候」、島前、美田村の大山(焼火山)は、島前最大の山林資源供給源として、中世より島前諸村が 0 0 隠岐の文化財 1 71 77 入会し、村別に相応の山手銭を出していた。ところが元和年中より山手銭が中絶するようになった。それは代官竹林弥惣左衛門の時であった。この山手銭中絶の一件は、近世を通じて島前各村と美田村の間に絶えず大きな紛争をかもした起点となっ 0 0 隠岐の文化財 1 72 6 た。その都度代官は中介の労をとり、時には巡見使に訴えるなどその処置に困惑したものだ。行政所管の変遷。堀尾氏三代にて断絶、京極氏また後嗣なく4年足らずで断絶、寛永15年(1638)松平直政が出雲に転封され、松江に松平家が定着 1638 0 寛永15年 隠岐の文化財 戊寅 1 72 13 して隠岐は天領として松江藩預ケ地となった。隠岐では幕府と松江藩の二重支配をうけるので、村の行政は、とかく敏速をかき年貢問題や訴訟問題はあくまで幕府宛で、常に松江藩の奥書を必要とした。松江藩は郡代(1)、代官を(2)派遣して 0 0 隠岐の文化財 1 72 18 約50年間隠岐の行政に当った。郡代は西郷の矢尾村において全島を所管し、代官二人で、一人は島前別府、他の一人は島後にいて行政を担当した。各々任期は3年でその配下には、御徒目付(かちめつけ)、元方(4)、吟味役(5)、点検役、 0 0 隠岐の文化財 1 72 23 などの諸役があり、郡代、代官、は上級武士を充て、その他は多く下級武士をもって充てられた。幕府の内意によって松平綱近が隠岐を返納したのは、貞享5年、そして大森代官の所管として、享保5年迄30数年間、幕府直轄の行政が行なわれ1 0 0 隠岐の文化財 1 72 29 年交代の代官在勤であった。増補隠州記はこの時の引継ぎに使用されたものである。享保5年、幕府は農政改革や、異国船近海出没の情勢を重くみて、隠岐国をふたたび松江藩預ケ地とした。特に遠見番役二名が増員になり、寛延3年(1750) 0 0 隠岐の文化財 1 72 35 より前記吟味役は調方と改称された。かくて近世末まで天領で松江藩預ケ地として、この期間70人の代官が入れ代り立ち代り在勤年数3年位で交代のためか特に残る治績は見えない。御用船。隠岐の行政官は船のことを第1考慮せねばならない。 0 0 隠岐の文化財 1 72 44 隠岐諸色年代略記によると、「天正13年酉7月22日ニ日吉丸、観音丸新造立被仰付、、、舟大工、船頭ニ御扶持被仰付」とあり、船頭には切米4石3斗4升に一人扶持を給し、(加茂井上文書)御免除屋敷を与え好偶している。切米とは春夏冬 1585 722 天正13年 隠岐の文化財 乙酉 1 72 51 焼火 の3期に期限切って支給する扶持米のこと。吉川氏は隠岐入国の当初より御用舟建造に積極的であった。吉川氏の島前代官、簾宗次郎も着任と同時に船神焼火神社に田畑の寄進あなされた。その寄進文書にも「就中、乗船渡海之上に於いては順風自 0 0 隠岐の文化財 1 72 57 焼火 在の快楽を受けん」たる(焼火文書)。その後、御用船は何度も修復、新造立をくり返したが、船名はそのまま近世末まで路襲され、島前配船観音丸船頭は美田尻近藤家(重屋)が御船頭さんの家筋となっている。寛永15年(1638)、松江藩 0 0 隠岐の文化財 1 72 63 仕置役人の渡島の際にも、松江迄御迎ニハ船頭九左衛門、宇賀村新八、知夫里村三郎兵衛、浦郷村七兵衛、右之者共、殿さまヘ御目見仕、御三人之御供仕羅帰候、とあるが、この船頭九左衛門は慶長年度の久右衛門の子と思われる人物である。島後 0 0 隠岐の文化財 1 72 69 、日吉丸と共に年貢や官物の輸送、あるいは公役人の交代、巡見使、吟味役人の渡海など、公用一切の用務に使役されたのであった。その大きさは延宝9年(1681)巡見使の記録によると、46挺立、8人乗となっている。享保9年(1724 0 0 隠岐の文化財 1 72 74 )の新造立の記録に観音丸御船1艘、長3丈4尺、横1丈4尺、深4尺1寸、但180石積位とある。(黒木村誌)社寺信仰。古代より神をまつり、仏に祈ることが政治と1体で日本人の古来の思想であった。為政者の社寺に対する寄進は大いにな 0 0 隠岐の文化財 1 73 4 焼火 されたものである。殊に生死を賭ける武将達の社寺信仰は格別なものであった。島前に於いても天正13年(1585)前出の吉川氏島前代官、簾宗次郎の焼火神社への田畠寄進(焼火文書)、永禄6年(1563)牛尾幸清の焼火権現田寄進(国 0 0 隠岐の文化財 1 73 10 焼火 代考証)、天正10年(1582)には毛利元康の島前宇津賀神社への社領寄進がある。寺社領についても、元禄当初、海士村源福寺の20石を筆頭に焼火山雲上寺の10石、崎建興寺12石、宇津大明神10石、その他島前内の社寺は、3石以下 0 0 隠岐の文化財 1 73 15 焼火 である。(増補隠州記)徳川幕府の将軍代替り毎に天領たる隠岐には必ず巡見使の派遣がある。焼火神社御社参第一に海上の無事平穏を祈願する慣例があった。迎える地元役人も大変であった。時には松江藩随行諸役人を加えると400人以上にも 0 0 隠岐の文化財 1 73 21 焼火 なることがあった。公儀役人の渡島は来るものも迎えるもの共に物心両面の多大な負担であった。焼火神社前宮司松浦静麿氏の遺稿を記して代官信仰状況の一助に資したい。末社東照宮勧請私考。静麿記。徳川の盛時に東照宮を勧請すると云ふ事は 0 0 隠岐の文化財 1 73 28 天領の人民としては最もな次第で当時の知識階級の人が然する事が幕府の好意を迎ふる最良の法と信じた事も首肯される。それは、天明8年申2月の東照宮霊台石碑建立訳書及、寛政元年酉5月渡辺某が記した「御霊台興行」(省略)の文意でも充 1788 200 天明8年 隠岐の文化財 戊申 1 73 33 焼火 分察する事が出来る。そして寛政元年酉年に八幡の地(今黒木村字美田尻八幡宮<美田尻神社>)へ勧請した。当初鎮座地予定は別府黒木天皇山の予定であったが何故か八幡地へ勧請する事になった。(焼火山近世年表)寛政元酉4月17日。庄屋 1789 417 寛政元年 隠岐の文化財 己酉 1 73 40 焼火 、亀之進。年寄、武平次、願文参照。併し土地が悪かった為か祭礼等も賑やかでないので遂に焼火山に奉移する事になった。丑4月17日「祭礼触書」参照。<註>丑4月17日は寛政5年の丑年ならん東照宮棟札に寛政5年6月3日建立とあれば 1793 417 寛政5年 隠岐の文化財 癸丑 1 73 46 焼火 此時は3月初旬に勧請、取敢えず4月17日に遷宮を兼ねたる祭礼があって真に社殿の出来たのは6月3日であったらふと思ふ斯くして焼火山に奉移した東照宮は地の勝と当時焼火山に別当の隠居快栄当主圭快等の方法宜しきを得たると民衆の和と 0 0 隠岐の文化財 1 73 51 焼火 で年々隆盛な祭礼が行われる事になって文化12年の家康200年祭には代官所の役人等が祭礼取締として登山する程多数の参拝者が入り来る様になった。「文化12年焼火文書」参照。<備考>元和2年、家康公薨。文化12年、200年祭。大 1815 0 文化12年 隠岐の文化財 乙亥 1 73 59 焼火 正4年、300年祭。因に焼火山東照宮は山門の処から高い石段を登った処に鎮座され、その社殿の美麗なること世に知られざるは遺憾である。海士村中里鹿島屋大工とのみ知る。村上家御抱え大工と伝えられる。歴代島前代官の中、その事蹟の記 1915 0 大正4年 隠岐の文化財 乙卯 1 73 65 された高橋伴蔵を紹介する。弘化3年(1846)に島前代官に着任、本居派国学と和歌の指導を在任中にされたと記録あり。又任を終えて、松江藩に帰って後、文久3年3月(1863)に松江藩は隠岐沿岸警備のため軍用方高橋伴蔵を隠岐に派 1863 0 文久3年 隠岐の文化財 癸亥 1 73 71 遣して農兵隊を組織させている。又、嘉永4年(1851)に隠岐を訪れ、海士村勝田山陵に詣でられ、源福寺を訪れ、持明院基延卿筆の扁額「隠岐院」を寄進された。見事な筆蹟、流石に持明院流の御家元と拝観するものを感嘆せしむ。隠岐院扁 0 0 隠岐の文化財 1 74 1 額裏の彫刻の銘文。文政十(1863)丁亥四月九日申寅書之。左京大夫正三位藤原朝臣基延。嘉永辛亥季夏雲藩高橋君風。予嘗祗役干隠岐国官暇探本国名区一日拝。元暦太上天皇山陵詣苅田山源福密密刹当時行所云以隠岐院三大字扁堂楯持銘院基延 1863 409 文久3年 隠岐の文化財 癸亥 1 74 7 卿所筆也次訪寺主密三上人談及扁額予因以彫木之事議之上人上人喜而預予帰国命工告成今贈之上人云爾。この扁額、海士町歴史民俗資料館に展示せらる。流人受入れ。隠岐は古代より流人の島として数多くの政治犯の方々が配流された。江戸幕府の 1863 409 文久3年 隠岐の文化財 癸亥 1 74 14 「公事方御定書」の制定があって、遠流(おんる)でなく、「遠島処分にすべき罪」であるとなり、貞享元年(1684)扶持米をつけない、所謂、放捨の流人が大量に来るようになった。別府が流人着岸第1の港となっているので其着岸状況を、 1684 0 貞享元年 隠岐の文化財 甲子 1 74 20 寛政9年(1797)の文人流人、西条左衛門の「隠岐国行船中日記」の抄を引用して紹介する(西郷町松浦千足氏所蔵)6月10日、、、今日風おだやか成ル故、夜もすがら船をはせて夜7ツ(午前4時)過、隠州嶋前磯ニ着。11日、明7ツ( 1797 610 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 74 26 焼火 午前4時)過より向風故、入江ニ入事難成四ツ半(午前11時)頃迄入江の口をまぎりからふじて此江を入、是赤灘入口也、向に焼火山大権現御鎮座、嶋前大1の大山也、此山の磯を廻り行ク事3里斗、大山根村を過て別府村ニ船かかりす此所則嶋 1797 610 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 74 31 前役所也、船付前の家にアオイのまく打役人此船を警固す、是嶋後より郡代役来り流人の別嶋後え6分嶋前え4分別ル其内雨天て船中に逗留。12日、此所ニ止泊、此辺ニ住居の流人魚野菜類諸物商ニ来ル。13日、同断。14日、朝より諸荷物別 1797 610 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 74 39 府高札場上ル、8ツ(午後3時)過頃皆思ひ思ひ着類改舟より上ル、則役所ニおいて申渡諸商買何へ不寄勝手次第ニ仕渡世可仕由郡代より申渡、20日、此迄口書之為、別府逗留、21日、古海村へ住居、忘れんと思う心のいやまさり、忘れられぬ 1797 610 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 74 46 、影の面影にたつ。別府について村々の庄屋集り「大理(内裏)の人なる由聞けり。和歌は知り給ふや」と望ければ語る。思ひきやしらぬ浦輪に旅寝して、身は嶋守の名に朽んとは。流人御免。在来より国中の流人の数は何千人になるか推定もつか 1797 610 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 74 53 ない。その流人に幕切れの時が来た。慶応4年(1868)7月20日、別府へ呼出し、次の通り赦免の通達があった。一、流人7月20日、別府へ呼出し、21日夜子刻(午前1時)時分乗船仕候、是ハ御一新場合ニ而、両嶋流ざい御免有之候。 1868 720 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 74 58 組頭寄合之時。(島前大庄屋村尾官蔵、島後騒動日記録)神亀元年(724)に隠岐を罪人の遠島地としてから何千人の流人があったか定かでないが幾多の哀史を秘めて、ここに千百年の幕を閉じた。もとより島との絆を断ち切れずに、そのまま在 0 0 隠岐の文化財 1 74 65 住した者もあると思われるが、明治の夜明け、夏の深夜に罪を許され、別府の浜で村々の組頭に見送られ、故山に帰る喜びを胸に抱きしめ、乗船するこの人たち、情景は、まさに維新のドラマである。幕末防備。異国船が山陰沖に姿を見せたのは、 0 0 隠岐の文化財 1 74 71 享保初期からで享保5年(1720)隠岐国が松江藩預ケ地となった時には、島前代官所機構の中に番屋役が設けられ、島前では番船も命ぜられ、遠見番2名が仰せ付けられた。その時の名残りに今でも番手という役名が残っている。文政8年(1 1720 0 享保5年 隠岐の文化財 庚子 1 75 1 825)には幕府から外国船打払令が発せられ、松江藩からは島前大庄屋へ、「異国船相見候はば大筒等をも相備立、弥賊船と相見候者、打払可申候」。弘化3年(1846)島内の要所に砲台(大筒場)が設けられ、非常の際、軍用拠点とされた 1825 0 文政8年 隠岐の文化財 乙酉 1 75 7 。次の5ケ所に設けられた。海士郡崎村、知夫郡別府、美田村市部、船引、浦郷村本郷(崎渡辺文書)安政3年(1856)大砲、小銃に鋳換えるため、社寺の梵鐘を提出するよう命令を出している。供出者は常福寺、山王神社、八幡宮(安藤猪太 1846 0 弘化3年 隠岐の文化財 丙午 1 75 13 郎氏所蔵)嘉永5年、米使ペルリ浦賀に来り、国をあげて海防は急務となった。嘉永6年(1853)2月28日、御役所より大庄屋笠置八郎左衛門に警備対制に対する指示が出されている。覚。一、昨27日相触候通、村々ニ而昼夜遠見之者、弥 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 20 無油断令遠見、若、異国船見懸候ハバ早々御役所江可及注進候。一、中尾謙助、山本林蔵、鶴原豊蔵毎ニ為遠見候間、其節村々遠見之者共より委細可申出候。一、知夫里之内、仁夫里浦年寄権十、浦之郷年寄三左衛門両人江遠見番頭取申付候事。一 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 27 、浦之郷村、崎村大筒台場、并村々御用地遠見番地共、道筋致掃除、歩行不自由無之様致可置事。一、異国船相見候場所より昼ハ煙ヲ立、夜ハ火焼、追々外村遠見場所より請、勿論早く御役所江可及注進事。一、異国船見懸候て、其村より合図之煙 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 32 立候得共、若風雨其日の模様により合図見兼可申も難斗候間、其村より両隣ノ村江為知可申事。一、美田、宇賀、別府村ニ而ハ、手安船4艘手合置、健成水主も申付置候事。一、異国船、島近ニ船寄候ハバ、御陣屋出張可申も難斗候処、其節ハ八幡 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 38 、弘法堂ニ而早鐘撞候間、予(兼)而左之村々ニ而人足手合置、早々御陣屋江集可申候、尤得道具等も可令持参候。附り、夜分ニ候得(柄)者明松持参之事。宇賀、別府、美田尻、十景。一、明松、草鞋、竹槍、得(柄)道具類、村々手合置可申事 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 43 。一、異国船名レ之浦方江相見候とも、早速雲州江飛船差立候間、物井、大山明、両所之内ニテ、手安船1艘6人乗水主ニ而、予(兼)而手配置事。一、異国船、島近帆寄候ハバ、方角村々人別共、銘々得(柄)道具持、最寄江馳集、万一上陸及乱 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 48 妨候様之儀モ有之候ハバ、早速搦捕可申候事。右之通、諸手配等手抜無之様、村々江申渡ヘク候。以上。丑2月28日、御役所。大庄屋八郎左衛門殿。(笠置文書)。八郎左衛門は筆者の曽祖父になり、過労のため、この年の10月壮齢35歳にて 1853 228 嘉永6年 隠岐の文化財 癸丑 1 75 55 入寂。隠岐騒動の島前。島前大庄屋村尾官蔵手記の、慶応4年4月から8月迄の「島後騒動日記録」が県図書館にあったものを藤田新氏の手によって紹介された。当時の事件動向が克明に記されている貴重なものである。島後騒動という聞きなれな 0 0 隠岐の文化財 1 75 62 い題目に頗る奇異を感じた。なるほど島前側から見れば、この事件は島後が本舞台となっていて、島後から島前に働きかけがあったが応ぜず、むしろ松江藩に便宜さえ与えてやった。頭書の主題は島前統治の位置にある大庄屋としては当然このよう 0 0 隠岐の文化財 1 75 68 に解すると思われる。この日記録には今まで発表されなかったことが克明に記されている。松江藩兵を島後に送るため、御用船漕差出しの打合せ、5月10日嶋後砲発、「村々櫓見張番いたし、脱走もの相見候ハバ、早々取〆申出候、島後船参り候 0 0 隠岐の文化財 1 75 74 ハバ不残留置早々御注進可被成候」、「惣農兵とも差図次第、急々庄屋所へ集り候様御申付可被成候」。松江藩は人心安定策とし、米300俵を島前に配給し、さらに庄屋、年寄、頭百姓を召集し振舞をしている、等々、多々ある。今、隠岐島誌そ 0 0 隠岐の文化財 1 75 80 の他文献によって当時の島前代官所役人と、島前13ケ村の庄屋の苦悩を記してみる。慶応4年3月19日、島前代官所へ、島後同志派による、郡代放遂の密報が島後より入った。別府代官足羽丈左衛門は直ちに、往来方広野秀太郎を西郷の状況を 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 7 査に島後に送る。また、一方、農兵隊長村上助九郎、魚谷幸市らを召集して協議したが、代官に協力し、代官所守備を約した。万一を案じ、代官所吏員の妻子は皆、仕立船で出雲に帰らせた。当時、別府に土木工事従事の豊田住民20名を人質に抑 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 13 留したと古老の言にある。豊田の藤田壽八郎、沢田瀬八郎両名はかねて島後同志派と気脈を通じ島後の議にも参画した程であり、これに対しても以前から探知され、両人を連行、糾明する処があった。このような豊田に対する疑心暗鬼の為、人質の 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 19 行動がとられたと思う。島後同志派よりの交渉使2名、福井村まで来て「島前も島後と行を共につるため島前代官も放遂せられたし」という強談判であったが、島前の庄屋らは別府会所へ寄合相談致すも決着を得ず、その内島後よりは交渉員を増員 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 25 して菱浦に滞在、島前庄屋も菱浦清楽寺に集合、島後同志派の度重なる強い同意要請に堪えかね、極内々に島前代官所へ伺を立てた処が代官は、「我々役人共がこの陣屋に居て不都合とあれば何時にでも立退くべきも、空しく帰藩しては藩主に対し 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 30 申訳がない。宜しく立退くべき事由を箇条書にして差出さるべし」と答えた。島前庄屋らはもとより自発的な罪を数えて之を追払う心もなく、島後申入れに対しては拒絶の事由として、「かねて、足羽代官より、島前大庄屋に対して、大政御一新に 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 36 なっても5月の年貢皆納期に納米は大坂表、銀納は会計裁判所へ収納、とあって、すでに回答した今日故、島後同志派への同意は出来ないと断った。かかる状勢で島後と松江藩の板ばさみになった13名の島前庄屋は苦悩の末、出雲藩の勧めもあり 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 42 、4月1日遂に出雲への逃避を結構して島後側の追求をさけた。1行は物井から出帆、雲津に入り本庄経由で松江に到着し、松江藩隠岐方役所へ参り事情を話した。役所にては、他国へはやり申さず当国に逗留せよと宿を与え賄をつけてすこぶる丁 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 48 重な取扱いをした。この滞在中、1行中の村上助九郎、村上喜平太、渡辺助蔵、宇野市郎右衛門等は隠岐役所元方原民八と同道し、上京した。島前の郷帳を持参していたので西園寺鎮撫使庁に出頭し、手続きを完了し、松江に帰った。「朝廷よりは 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 54 隠岐国は是迄通、雲州おまかせに相成候と隠岐役所より公文方へ被申」たので島前庄屋は安心して帰国した。鎮撫使公翰に公聞とあり以後古称公文と改まる」。慶応4年(1868)3月15日島後庄屋大会が国分寺で催され、公翰開封事件討議か 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 76 59 ら郡代放遂を非とする派は退場するという事態になり、放遂を主張する派は自ら正義党と称し、上西村横地官三郎宅で集合中の同志派と合流して、3月18日郡代放遂が決定した。3月19日は同志派の動員下3000人という大衆が西郷陣屋に向 0 0 隠岐の文化財 1 76 66 け出撃を開始した。総指揮役は、忌部正弘である。当時陣屋には5士と配下数人にすぎないので、これを傍観するのみ。同志派の使者3人は山郡郡代に6ケ条の要求を出し、即答を求めた。その内容はすこぶる過激な表現であった。結びは、「早々 0 0 隠岐の文化財 1 76 72 立退帰国可被致候」。憂国同志中と、これに対し激怒した山郡郡代は一度は大身の槍(松江藩の槍術指南の家筋)をとって討って出ようとしたが、代官鈴村祐平ら藩士に抑えられ退去のやむなきにいたった。同志らは抵抗を受けることなく陣屋占領 0 0 隠岐の文化財 1 76 77 に成功した。山郡郡代は部下30余人を従えて御用船観音丸で西郷を出発し、島前に赴き、島前の足羽代官と協議対策を立てようとした。ところが同船の鈴村代官が船を出雲浦に直航させた。21日到着、山郡郡代は24日悄然として松江に帰藩し 0 0 隠岐の文化財 1 77 6 た。即日、御役御免謹慎を仰せつけられた。山郡郡代が5月17日に松江寺町善導寺に於て切腹の際、「遺言は何もないが唯々鈴村に一言することを得ざるを残念とす」と前出の槍をおさえられたこと、島前上陸をはばまれたことの2点、古武士的 0 0 隠岐の文化財 1 77 12 な山郡宇右衛門としては諦め切れないものがあったであろう、冥福を祈るのみ。太政官は慶応4年(1868)4月13日附で松江藩に隠岐国取締の指令があったので松江藩では隠岐出兵の方針にふみ切った。参政、乙部勘解由を隊長とし、隊員7 1868 413 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 1 77 18 0余名が、まず別府に到着したのが閏4月18日、閏4月27日には先発隊捕手方が西郷に渡り、5月3日岡田組50余人、八尾に上陸、同松江から200人の増員、9日には隊長も西郷上陸、愈々不穏な形勢になった。5月10日陣屋明け渡しの 0 0 隠岐の文化財 1 77 24 交渉はならず、乙部隊長は実力を行使して陣屋を回復した。同志派の死者14名、負傷者8名、捕えられた者19名の犠牲者を出し、島外に脱走した者100人を越えた。同志派の陣屋占拠も昔日の夢であり、儚い幕切れになった。其後は鳥取藩使 0 0 隠岐の文化財 1 77 30 節の渡来、薩長軍艦の来援があり、特に鳥取藩使節景山龍蔵の斡旋によって、松江藩も方針一転し、5月16日、小部隊を残して松江に引き上げた。5月28日になって太政官は土肥原監察使を派遣して事件の糾問をし、同志派による自治機関は復 0 0 隠岐の文化財 1 77 37 活したが、財政窮乏のため、井上甃介(後香彦)と池田清兵衛の二人を鳥取藩に派遣して米2500俵を25年賦償還で借り入れ、急場をしのいだ。更に島前側と交渉し、全島一体の立場で、御一新後の新体制遂行に努力し、島前側も時勢の推移を 0 0 隠岐の文化財 1 77 42 洞察し、8月に島前総会所を設け、壮士隊が結成され、隊長には安達武雄、村上新十郎、総会所は村上助九郎宅に設け、廻船局は別府に設けられた。島後後鳥羽院御陵守衛の松江藩士も島前壮士側に引き渡し、9月11日以後は隠岐は島民の完全自 0 0 隠岐の文化財 1 77 48 治となった。9月8日明治改元となり、明治元年となる。太政官は11月6日、鳥取藩に隠岐取締を命じた。島前へは島前取締景山介太郎、三沢清之進等が渡島し松江藩から引き継ぎをうけた。明治2年2月18日に引き継ぎを終わり、2月20日 1869 218 明治2年 隠岐の文化財 己巳 1 77 55 に公文中へ左の通り。頭取、村上助九郎、宇野市郎右衛門、村尾卯平太、村尾三太夫、和巻俊助、渡辺俊造、藤井又エ門、前田藤造、渡辺助蔵、村上喜平太、渡辺儀三郎、渡辺十左衛門、渡辺市郎、笠置八郎左衛門、近藤仙右衛門。右ハ今般被成御 0 0 隠岐の文化財 1 77 64 雇御陣屋詰被仰付候間申合四人ヅツ相詰可申依之勤番中五人扶持宛被遣候。同日夕方因州様より酒肴下され市郎右衛門宅(物井岡田)にて公文年寄中終酒筵を開く。(豊田和巻善一日記)。代官所跡の現状。隠岐の行政所管は目まぐるしく替る。明 0 0 隠岐の文化財 1 77 72 治2年(1869)2月隠岐県が設置され役所は隠岐県裁判所と称した。明治2年8月には大森県に統合、出張所となる。明治3年1月には大森県庁が浜田に移され浜田県と改称され、西郷に浜田県出張所が設けられた。明治4年11月には県の統 0 0 隠岐の文化財 1 78 1 合によって出雲、隠岐を併せて島根県とすることになったが、島根県所管となることを快とせず反対運動をして鳥取県所管としてもらた。西郷には鳥取県隠岐国支庁が設置された。明治9年4月より、雲隠石因伯の5ケ組を島根県とし、山陰を一円 1876 400 明治9年 隠岐の文化財 丙子 1 78 7 として大県とした。明治14年9月、更に因伯2国を所管とする鳥取県が分離したが、隠岐は引き続き島根県に残って今日に至る。別府の代官所建物も裁判所とか出張所とか所管の替る毎に名称も変ったが、行政役所としていたことは間違いないが 1881 900 明治14年 隠岐の文化財 辛巳 1 78 13 、何時の頃からか民間の手に渡り、更に黒木村役場が民間の住居を利用して設置されていた。そして昭和32年まで続いた。現在では近代建築の黒木公民館が代官所然として堂々たる構えをなし、島前地区の各種の会合になくてはならぬものになっ 0 0 隠岐の文化財 1 78 19 ている。いかめしい竹矢来もなく、重厚な土塁も削られ、罪人を吊して、下から煙り責めの拷問をしたという、正面の大松も枯死。何一つ昔をしのぶようすがはない。でも慶長以来380年の物語を秘めた歴史の重さは尊いものと思われる。その一 0 0 隠岐の文化財 1 78 25 隅に昭和55年、故安藤猪太郎翁の建立による「島前代官所跡」の石碑(題字は筆者)が島前の将来の発展を静かに見つめている。<註>(1)郡代=江戸時代の職名。幕府は直轄地に代官を於て民政を掌らしめたが、管轄区域の広大なもの、格式 0 0 隠岐の文化財 1 78 32 の異なるものを郡代と称した。勘定奉行に隷属した。(2)代官=織田、豊臣時代には年貢収納を掌るものを代官と称した。徳川時代では直轄地を支配する者を代官と称し、租税、訴訟、以下民政一般を掌らしめた。(3)御徒(かち)目付=江戸 0 0 隠岐の文化財 1 78 38 幕府の職名(諸大名も目付を置いてその配下に御徒目付あり)。目付の指揮を受け、警衛、探偵などに従事したもの。松江般の目付の指揮下にあって園国に派遣される。(4)元方=金銭、物品の収納事務に掌る役。(5)吟味役=容疑者の犯罪事 0 0 隠岐の文化財 1 78 43 象を詮議し、自供させる役。(6)遠見(とおみ)番役=遠見番所にあって、外国船の出入り、通過などの動勢を監視報告させるために、海辺各地に設けられた番所に勤務する役。 0 0 隠岐の文化財 1 79 1 西条左衛門尉光暉考。田邑二枝。寛政9年(1797)隠岐に流され、知夫村古海の里御酒坂に住み、文政10年(1827)行年80歳で世を去った西条左衛門尉光暉は流人の中でも異色のある事績をのこしている。もともと大阪から隠岐到着ま 1797 0 寛政9年 隠岐の文化財 丁巳 1 79 7 焼火 での流人船中の日記を克明に書き綴ってきたことが異例のことであり、そののち隠岐後鳥羽院の宝物記隠岐百首などを筆写することの機縁になったことにつながったようであると考えられる。文人としての西条左衛門が村上家、焼火山などの客人的 0 0 隠岐の文化財 1 79 13 取扱いを受けるようになったのも船中日記の異例な完成の彼の業績が高く表かされたことはもちろんであろうが、折々に流人という通常一般の観念を越えさせる彼の自ら語らない世界が彼にあったからであると考えられる。近世の流人といえども時 0 0 隠岐の文化財 1 79 20 の法制のなかでは極刑の死一等を減じる流刑の判決のきびしさがある。彼は、自己を語っていない。流されて人間的な悲しみ悩みは人一倍であったが、赦免の沙汰もあったにもかかわらず再び隠岐を去ることはなかったのであった。それはまた、隠 0 0 隠岐の文化財 1 79 27 岐に来て4年目、人にすすめられ親子ほども年のちがう当時19歳の島の乙女中谷しちを妻とし、あれほど悲しい家郷の妻子との離別の憂苦を忘れ、80の老令で世を去る日まで添えとげ、数人の子をのこした複雑な人間としての数奇な運盟の中に 0 0 隠岐の文化財 1 79 32 も現われているのである。彼は文学者として伝えられ、その方が有名であったようだが、そのことはどうであろう。次に掲げる古文書は題名筆者名を欠くが、光暉歿後間もない時点で記されていて、彼の秘められた伝記の一面を物語り、考証資料の 0 0 隠岐の文化財 1 79 39 価値もあるので紹介して参考に供した。「予が幼弱なるころ嶋前知夫の里に謫せられたる京家の衛士のよしにて西条左衛尉源光輝と名乗り、いかなる犯科にて来りしやその事はしらねども、数年の星霜を配所にて送りし人有り。終に一面の交りいれ 0 0 隠岐の文化財 1 79 44 たる事なけれハ、其人なりはいかか有しや。甲州流の軍学を研究し其渕原を探り、他流の得矢を弁論し、自己の一見をも立てしよしにて常に此道をいひよるべき人なき事を己年歎息せりを聞き及へり。いかに□にも辺境の野人漁者のみなればさも有 0 0 隠岐の文化財 1 79 50 りぬべし。斯る身の果なればいかでかすなとりなとの業やなるべき。纔に薪水のたすけにもと、小説稗史軍書なんど筆耕せしにや。予もそれをはたまたま見たる事も有りしに、いかにも文学家とは見へねとも、その他何くれとなく唐大和の古き言の 0 0 隠岐の文化財 1 79 56 葉など書き集めおのが読歌とて和歌の集も有りしよし。此道にかしこき人は片腹いたくなどいひ罵れども、彼もと武者なればあながちに詩文和歌の巧拙を以て貶黜すべき事にあらざるべし。或は高メメ自屓の失を笑ふ人もありと聞けど尺の木必有節目 0 0 隠岐の文化財 1 79 62 。寸の玉必有瑕の習ひ、夫人の情短とする所あらざる事なければ又以て累ひとするにたらざるべし、何はとあれ中々一器量あるものとしられて相見まほしく思ふ内老病にていつしか黄泉の客とはなりぬ。男女の子あまたもてり、姉娘なるもの予が近 0 0 隠岐の文化財 1 79 68 隣の漁家の婦なるをもて、それを因に妻子相商議して彼の遺書数十巻相携来り、是を予に売代なしてんやと左右に請ひ求む。もとより浮気の癖ある□□(意)より、いなみがたくおもひとりて必心やすかれよきにはからひみんと受引しぬ。彼の遺書 0 0 隠岐の文化財 1 80 6 といへるは、いわゆる軍学の書にして細字に筆記したる美本なり。或畳弐枚斗りも布塞ぐ程の紙に行軍陣烈の子細を図絵し或は弐三尺四片或は細長く或は幅広なる、某紙にしたがひ悉く野人城攻防禦累砦なんどいへるもの、五色にいろとりて図絵せ 0 0 隠岐の文化財 1 80 11 しもの数十枚添えたり。夢にだに美田ることなき書にて武門の外は実に無益の寶故誰一人志を寄るあらざれば是をすすむる道もしらず空しく予がやぶれ戸棚のうちに三四ケ月も止め置ぬ。有時雨のさぶ降りていとつれづれなるままに不斗此書を覗ひ 0 0 隠岐の文化財 1 80 17 見しに、但州仙石家の御事諸所に散見せり、なを貧り見る中に西条の系譜を得たり。彼深く隠したる事ならんに死際に至りて妻子共いかがして此書中に混し入れけん。光暉は仙石家の浪士なり、しかるに何故京家の武士といひしや、候家を去りての 0 0 隠岐の文化財 1 80 23 後に京家へ仕しか、或は故主の題名を汚さん事をおそれし誠忠にて斯くは謀ひしか、さだめて深き故有るらめ、かかる辺境へさすらひ来り、磯打浪浦吹風にさぞや寝覚もうかるべきに、聊志を屈する事もなく終身怡々として其道をあらためず、軍学 0 0 隠岐の文化財 1 80 29 の書を枕として配所の露と消えしぞいと便なき事になん。其後ゆへありて彼書は島前へ帰しやりぬ。程経て予が労を謝する印にとて寫本二冊譲らる、壱冊は城法規矩と而表題をし書にて是又醫家にては諺にいふ猫に小判の長物なり。一冊は仙石候歴 0 0 隠岐の文化財 1 80 35 世の言行を記し老臣諸士の伝なども書添へたる書にて表題は御目録聞書と有り。般幹譜などよりは当家の事実における真の直なる書にて、此書を得てしより実に予が家の寶秘録なりしに、近年奸賊等出石において陰謀を企て、既に騒攘に及びしころ 0 0 隠岐の文化財 1 80 40 天下の巷説紛々として止るなく、一犬客に吠して千犬メメに伝ふと、あしたに奇語を演てゆふべに怪語を交へ、名家の由来をもミだくだんとす。予ひそかに彼秘本を取出し奸臣賊子等の性名をも正し見るに皆譜代恩顧の者にて先祖は勇々敷忠臣なりし 0 0 隠岐の文化財 1 80 46 に、時運とはいひながらさてさて残念なる事なりと。彼秘本を携出彼方此方へおのれ濁り知り顔に持歩し而、惜哉終に此書の所在を失ひ再び類書だにも見当らず、千悔すれど不及今に遺念止るなし。出石にて求なば得べけれども力不及して止ぬ。唯 0 0 隠岐の文化財 1 80 54 其中に不思議にも記憶せし一條有り。宝永年間信州上田の城主政治君の世に当りて但州出石へ移封の台命を蒙り玉ふ、候書老臣を召粛然として宣ふやふは、汝等領内大小の神社を点検し、すみやかに修理を加ふべし是此度の専務なり、格別頗敗に至 0 0 隠岐の文化財 1 80 59 りては故典にしたがひ新宮を改作すべし。必怠る事なかれと命ぜらる。諸老臣いづれも面を見合せ敢て一言御いらへを申ものなし、候また論して曰く汝等何の疑ふ事ありて決定の遅滞に及ぶや、我聞く諸候は其封内の紙祇を祭を以て奉職とす、何ぞ 0 0 隠岐の文化財 1 80 65 遠途の輜重行季に財費の多からん事のみを患とし慮りて、予をして公道の大儀を失ハしめんとするや、今封を但州へ移の期に臨てあはてて棟の傾落を修補し、草菜を除ふたも遅しとして公聴へ対し奉りて其職を失ふが如く心甚之を恥。しかるを況や 0 0 隠岐の文化財 1 80 71 財費をいといて舊章を廃するをや、其人を思ふて猶其樹を愛ると聞、況や昭々たる神徳をや上敬すべきを敬して、下民を導かざれば封を何れの地に移して政事を行ふといへども民豈服従せんや。必旧領主のメメ以て申領主に伝ふる事なかれ、汝等それ 0 0 隠岐の文化財 1 80 77 これをつとめよと宣ひき。此一言行公の美徳を侭したるといふにはあらず、其他善行嘉言枚挙に遑あらずといへとも、予先念健忘の如く鬱症を患ひしより、寸点の記憧なく見るが如く、見ざるが如く蒙々昧々として烟霧中に在るが如く、悉其首尾本 0 0 隠岐の文化財 1 81 4 来の次序を忘失す。而此一條纔に記憶せし事、実に一奇事といふべし。西条光暉が事総(績)を山鳥の尾の長長しく記せしものハ候の美とく、浮説虚説に有らさるの由来を示さん為なり。文の拙は今更いふへからず、見る人ゆるし玉ふべし、口もて 0 0 隠岐の文化財 1 81 10 いはんよりはと籠を火燵のほとりに採り、愛甥高梨寧常に与ふ汝それこれをおもへ。」以上原文のまま揚げたので、構文、用字共に原文を傷つけないために、現代流の加字改筆をしなかったことに加えて筆者の古文書解読力の不足などから理解に抵 0 0 隠岐の文化財 1 81 15 抗を感じるものになって申訳ないがお許しねがいたい。流人西条光暉については、彼の配地古海の史家横山弥四郎氏の知夫村誌、隠岐の流人などに詳しいし、西郷松浦千足氏所蔵の西条左衛門尉船中日記の記録、和歌集緒穂路月集などがあって有名 0 0 隠岐の文化財 1 81 21 である。このなかの船中日記は54年11月山陰中央新報に藤沢秀晴氏が歴史の中の旅と題して連載し、広大稲賀敬二教授も寛政9年永広日記と副題して隠岐公論紙上でおぼろ月集と共に紹介があって、彼の文人としての一面は語り尽されている。 0 0 隠岐の文化財 1 81 27 焼火 文化元年焼火山雲上寺円純法印に招かれて、焼火権現御縁起の漢字文を国字体に撰したり、後鳥羽院宝物記を書いたことなど只の武人にはできるものではなかった筈である。今回紹介したこの筆者不明の文書のなかから秘められた彼の史実をメメいと 1804 0 文化元年 隠岐の文化財 甲子 1 81 32 れるなら筆者も幸とすることになるだろう。私は横山先生の知夫村誌の流人西条光暉の記載をもう一度読んでみた。そこには彼の伝記の最後の部分がある。文政10年亥6月28日卆行年80才。葬干隠州嶋前知夫里郡古海村御酒坂。謚三覚院大広 0 0 隠岐の文化財 1 81 39 堂自得斉、門人立碑。郡学兵書相伝、干忠助正暉、所持之。妾嶋前仁夫里仲谷半十郎女。男子佐馬之助、後改元蔵、26才死去。二男嶋之助、後改元章、26才死去。女子ふみ、嫁嶋後目貫礼儀屋。女子ゑい、別家を立嶋前に在住、雲州足立之子を 0 0 隠岐の文化財 1 81 45 後。西条忠助正暉、益(知夫村大江、永広家所蔵)ここで彼の謚「三覚院大広堂自得斉」を見る。このおくり名の大広堂自得は彼が生存中に号として使っていたものであった。それを証明する古文書の写本にその記名を見ることができたからである 0 0 隠岐の文化財 1 81 52 。筆者「大広堂自得」とある5人組仕置帳の書者であり、その表紙には永広氏とあると見れば、その原書は明かに西条左衛門その人であるといえるではなかろうか。序に5人組仕置帳について附記してこの稿を終ることにする。その仕置帳は隠岐島 0 0 隠岐の文化財 1 81 58 前島後を通じ各村々には皆あったもので、大森代官直轄の時代享保2年から実施された幕府の農民統制のための制度であった。その内容は5人組前書61項目に記された村役人以下惣百姓連判請書で守らねばならない生活全般の規制であっち。従っ 0 0 隠岐の文化財 1 81 65 て村々によって大体その項目には大差がない。この大広堂の仕置帳には博奕の禁が抜けているのはその本書を見ないので何ともいえないが何故であるのかわからない。おわり。 0 0 隠岐の文化財 1 82 1 隠岐、西ノ島の俚諺(4)。村尾富夫。最終回の弁。話をする時には正誤に拘らずかなり大胆に話すことができても、いざそれを文章にするとなると1行書くのにも苦心するのに「西ノ島の俚諺」を書いて見ないかと言われて、いとも簡単に引き受 0 0 隠岐の文化財 1 82 8 けて、まがりなりにも既に3回に亙って書いたが、今それを読んでみると汗顔の至りであるが、然し最終した事がせめてもの意義ある作業であったと思う。資料が乏しくなって他の地区に採集に出かける様になったが、だんだん資料が少なくなって 0 0 隠岐の文化財 1 82 14 一頁の資料を採集するのにも長時間を要する様になった。今後偶にしか出無いような貴重なものもあろうと思うが、今回限りで一応終りにしたいと思う。何時かまた資料が多くみつかれば、稿を改めて記載させて頂くつもりである。これ迄4回に亙 0 0 隠岐の文化財 1 82 20 った俚諺の記載については当初から木村康信、松浦康麿両氏の懇篤なる御指導を得たこと、本稿を草するに当り宇賀、小梨菊次郎氏から多くの資料提出を頂いた事等に感謝している。記載については前回同様に五十音順とし、方言のものについては 0 0 隠岐の文化財 1 82 26 初めに方言で記し、標準語の方は「」で示した。○雨の降らのに川下濁る。大きい川では、上流地方で雨が降ると川下の方では雨は降らなくても水が濁る。(火の無い所に煙は立たぬ)と同意。○急がば歩け。(急がば回れ)と同意。○一厘は千円 0 0 隠岐の文化財 1 82 34 の下敷き。千円は大金でも元は一厘が積み重なって出来たものだが、細かい金でも大切にしよう。○田舎士(さむらい)に旅坊主。どちらも自分の国では存在を認められないでいても旅先では「お武家さん」「お坊さん」と尊敬せられることから「 0 0 隠岐の文化財 1 82 40 故里では余り存在を認められないのに旅先ではちやほやされる事。○犬が星。欲しいけれども到底手の届きそうに無い高のぞみ。○牛の糞に辷って尻もち突いた。何かの実行に当って、足元によく気を付けないと牛の糞の様なつまらない物にでも辷 0 0 隠岐の文化財 1 82 49 る。○売り物にゃ紅させ。手製の物など進物する場合等、体裁よく繕って贈る時に言う。また、同じ商品でも手入れをすれば良く見えるものだからきれいにしよう。○大風前の静けさ。(嵐の前の静けさ)と同意。○踊らぬ者にゃ下駄噛ませ。盆踊 0 0 隠岐の文化財 1 82 58 りの時、踊らずに見ている者に体してこの様に言ってからかった。註=昔は盆には新しい下駄を穿いて盆踊りをしたもの。○隠す物(もな)な見てい。隠せば隠す程、好気心が湧いて見たくなる。○かごまば大木の下。(寄らば大樹の蔭)と同意。 0 0 隠岐の文化財 1 82 66 ○片事が挾(ハサ)る。気懸かりな事が在って、忘れようとしても何時もそれが心の奥底にちくりちくりと出る。○乞食しようより秋の山(ヤメ)立て。人前で乞食するくらいなら秋の畑へ出て働け、そこには沢山の農作物が実っている。註=牧畑 0 0 隠岐の文化財 1 83 5 が多かった為、通常、畑を山という。「類似語」叔父叔母の前へ立つより秋の山へ立て。○乞食の昼寝。一般に言われている意よりも、なまけて昼寝をしている者を言う様である。○このしろはアンヤに食わせんな。このしろは旨い魚だが、骨が多 0 0 隠岐の文化財 1 83 12 いから大切なアンヤに食わせてはならない。註=アンヤは長男、一般に後継者の若主人にはアンさんと言う。○サスの目挿すやあな。さすの挿し目挿すように(どんなに細かな事にも抜け目が無いこと)。因に扠首は屋根の棟木を支える又木の意で 0 0 隠岐の文化財 1 83 19 、これに棟木を載せ竹、茅などを添えて隙間無く編む。○3人寄りゃ継子(ママコ)ができる。3人集まって何かをすると、どうしても一人が余ってきてのけものになる。○姑嫁ふる、嫁ゃ釣瓶の縄ふる。嫁が姑にいびられると、嫁は姑に反抗でき 0 0 隠岐の文化財 1 83 26 ないので釣瓶の縄に当り散らしている。○外よしの内すばり。よそでは人付き合いもよく好人物なのに家では家人に当り散らす人。○そば焼に風が当る。そばは風が吹くと花や実が落ち易いが、そば焼も造っていると思わぬ来客があって食われてし 0 0 隠岐の文化財 1 83 33 まう。因にそば焼はそば粉を熱湯で練り、あづき又は黒砂糖を中に入れ(何も入れない事もある)団子を造って焼く。食糧の乏しい昔ではかなりの御馳走。○大は小ををかなえる。(大は小を兼ねる)と同意。○タマダレに嫁とらせ。ぐうたらな男 0 0 隠岐の文化財 1 83 41 でも、嫁とらせると家庭を持たねばならなくなるから気持が引き締まってくる。註=タマダレはまともな社会生活の出来ないぐうたら者。○田分け。農家で親子共同で農地を耕作して生活が出来ていたのに、これを子供らに分けて別々に耕作したら 0 0 隠岐の文化財 1 83 49 皆が食えなくなった。○近くが見えのに遠くが見える。他人の事についてはあれこれと批判するが、身の回りの事については全く判らない。○寺の小僧はあまんじゃく。寺の小僧は天邪鬼が多くて、和尚さんの意に反した事をして叱られる。○天は 0 0 隠岐の文化財 1 83 56 天国一寸下は地獄。天は素晴らしい良い所であるが、一つ誤れば下は地獄だ。○年寄と煙草包丁は先が無い。どちらも先が無い。○殿様風呂。始めはちょうど宣い湯加減で、上る様になるに従って段段暖くなる風呂。○時しらず。時分、時を考えな 0 0 隠岐の文化財 1 83 65 いで行動をする事。この事から年中花が咲く金箋花を時しらずという。○泥棒に留守番。「盗人に留守番」と同。○何が何でも牡丹餅ゃ米だ。芋や麦などで拵らえて牡丹餅だと言っても、本当の牡丹餅は米でなければならない。という事から論議す 0 0 隠岐の文化財 1 83 73 る時この様に言って駄目おしする。○馬鹿のあと知恵。事件に直面した時には何ら適切な考えが出ないでいて後になって、又は解決してから良い考えが出る。○馬鹿の多髪。髪の多い人は馬鹿だといったが、これは髪の多いのを羨ましがったものか 0 0 隠岐の文化財 1 84 3 。これに対してキンカ(光頭)は偉い人だと言った。○馬鹿の昼むかし。昼日中昔話などしているのは馬鹿者のする事だ。昔は早朝から夜遅く迄忙しく働いたので、昔話の外世間話などでも長々やっているとこの様に言って笑った。○馬鹿のふりす 0 0 隠岐の文化財 1 84 11 る利口者。言葉通りの意である。偉そうに振舞っている人に対し、何事にも控え目で多くを語らず無能の様にしているが、本当は能力勝れた人。○八掛八段、嘘九段。当るも八掛、当らぬも八掛と言われる様に八掛には嘘も多い。○貧乏と尻糞(シ 0 0 隠岐の文化財 1 84 19 クソ)付きまとう。貧乏は尻糞の様に付きまとってなかなか離れない。○貧乏人の勘定と竹の回し切りは合わん。どちらも出来そうでいて計算通りにはいかない。○夫婦喧嘩と相撲とりゃ後が無い。どちらも(後が無い)という。○船乗りの上りと 0 0 隠岐の文化財 1 84 27 藁叩きの柄のめげたは使い途が無い。長年海上生活をしていた人が、陸上の仕事になじみかねているのを揶揄した言葉。○下手な話にドメが無い。くどくどと後やら先やらまとまりの付かない話しぶり。註=ドメは終り。○盆に坊主がハクラした。 0 0 隠岐の文化財 1 84 35 盆は坊さんの稼ぎ時なのに病気して休んでいる。という事から猫の手も借りたい農繁期に休んでいること。註=ハクラは日射病。○松かぶたに菰を着せ。(馬子にも衣装)と同意。○ンたもんがノストする。「見た者が盗人する」物を見て欲しくな 0 0 隠岐の文化財 1 84 44 る心を言う。ここで言う盗人は、盗む事を意味するのでなく欲しくなった事を協調した語で、他人に物を所望する時などこの語を引用して頼む。「類似語」見た物乞食。○道の蟻皆殺(ンナコレ−)した。道草くったとでも言うべきか、歩き方のの 0 0 隠岐の文化財 1 84 51 ろい人に対して言う。○むき(又はのき)の三助。全然心にかけて無い状態。○むこ肥し。婿が憎くてアラメの固い茎の部分ばかり食わせていたら反って婿が肥えた、というのでアラメの茎の事。○村ままこ。村八分と同じ。○若い時出さん汗ゃ年 0 0 隠岐の文化財 1 84 60 寄って涙で出る。若い時にしっかり働けという事。以下生業、天候等に関するものは前回通り分類して記し、説明も簡略にした。一、農業、漁業に関するもの。○いい綱二尋半、にお八尋、鞍んかは五尋。牛の手綱の造り方は用途によって違い、牛 0 0 隠岐の文化財 1 84 67 耕用のは二尋半、放牧牛は捕える「にお」は八尋、鞍に着ける鞍んかは五尋に造る。○つかりは八尋で編む。つかりを編む縄は八尋必要だ。註=つかりは縄製の農用背負袋。○亥の子魚は蓑のひげの先にでも着く。亥の子(旧暦10月の亥の日)の 0 0 隠岐の文化財 1 84 73 頃は豊漁の時期である。○梅は半夏に取れ。梅の収穫期は半夏の頃がよい。註=半夏は夏至から11日目、昔は梅干が主であったので、梅の充実した頃に取った。○カ−カの目くされ。カ−カ(むぬの木)の薪は燃えが悪く燻ぶって目があけられな 0 0 隠岐の文化財 1 85 4 い。○胡麻蒔きは水汲みにも遇うな。胡麻を蒔いて雨に叩かれると発芽が悪くなるので、これを強調したもの。○蚕豆は節句三つすりゃ食われる。そら豆は旧9月、3月、5月の三つの節句を経たら食べられる=そら豆の播種期。「類似語」蚕豆は 0 0 隠岐の文化財 1 85 11 三節句に合わすりゃできる。○シャクの日に牛を放すな。放牧にはいろいろ危険を伴うので、舎飼いから牧畑へ放す時には吉日を選んだのでこの様に言った。註=シャクについて。シャクは次の様に月によって異なるがこれが陰暦の第1先負の日に 0 0 隠岐の文化財 1 85 19 当る。従ってその日から六日目毎に有り月4〜5回ある。旧暦1月と7月、三日。2月、8月、2日。3月、9月、1日。4月、10月、6日。5月、11月、5日。6月、12月、4日。シャクの日の禁忌。(1)牧畑へ牛を捕りに行くこと。( 0 0 隠岐の文化財 1 85 29 2)放牧、牧替。(3)牛の受け渡し。(4)シャクに生まれた牛は時分の持牛としない。○正月の雷は漁がある。昔は正月に雷が有ると手綱で掬ったという。○尻からげで胡麻蒔くな。胡麻が先端だけ実る状態になるのを嫌う為。○節句魚は7里 0 0 隠岐の文化財 1 85 37 沖に逃げる。節句には魚が沖に逃げると言い、不漁の時期。○百日照っても種物残る、三日の大雨種だい取れぬ。○夕やけは天気を知らす。二、生活に関するもの。○籠を冠ると背が伸ばぬ。笊を冠ると背が伸びないともいう。○極楽浄土の大門は 0 0 隠岐の文化財 1 85 46 金づくでは開かん。信仰を高めよ。「反対語」地獄の沙汰も金次第。○子安の綱。昔は座産が多かったのでお産の時の力綱。○梅雨布子(ノノコ)。梅雨は大変寒い日がある。○スバリは夜抜くな。註=スバリは刺。刺がささったのを夜抜こうとす 0 0 隠岐の文化財 1 85 55 ると、反って深く刺さって抜け難くなる。○八より十が上。蜂に刺されそうな時、まむし除けの呪い。○箒で人叩くな。箒で叩かれると出世しないから。一説には長患いをして死にそうでいて、息を引取りかねて苦しんでいるのを見かねて箒で叩い 0 0 隠岐の文化財 1 85 62 たからともいう。○婿は下座で冷や飯、仕事は八人役、分け前は八分。婿に行く事を考えるより自立せよとの意。以上で私の拙い調査報告を終ります。開設は私の意見がかなり多くて、誤りも少なからず有ると思います。御批正を頂戴できれば幸尽 0 0 隠岐の文化財 1 85 70 です。<参考文献>野口七之輔著、ことわざ辞典。尚学図書編、故事俗信ことわざ大辞典。金田一春著、古語辞典。 0 0 隠岐の文化財 1 107 1 亥年にちなんで。木村康信。一、西ノ島別府湾出土のイノシシの歯。二、亥の子と子供達の囃唄。三、亥の子の晩の主役ジロツキ考。一、古代イノシシの歯の化石。昭和42年6月西ノ島町別府湾改修の折海底の泥土が堀り揚げられた、その泥土の 0 0 隠岐の文化財 1 107 8 中に写真のような古代猪の歯が出土した。東京の科学博物館の長谷川善和氏に観ていただいたら沖積世初期の古代猪の歯であると知らされて驚いた。隠岐にも猪が棲息していたのか?の疑問もあるがこれだけの資料では何ともしようがない。以前三 0 0 隠岐の文化財 1 107 14 度、西方沖で底引網でナウマン象の牙1本(半化石品)を引き揚げた浦郷の船主があったが、このような時代には今とはちがい大陸とつづいていたといわれるので、今のような島前には大型の獣の棲息を考える事は無理のようである。この古代イノ 0 0 隠岐の文化財 1 107 20 シシの歯は現代の猪の歯より大型との事であった。二、亥の子と子供達と囃唄。旧暦10月の亥の日を祝うが、年によって亥の日が2度ある年や3度ある年もあるので、2度の時には初めての亥の日、3度ある年は中の亥の子を祝う。家では出来秋 0 0 隠岐の文化財 1 107 26 を祝って餅を搗く。子供達は子供達でこの日はなかなか忙しい。今となっては正確な事が分からないが田の行事として「デッコ」打ちがあった、写真の通りの木製の「デッコ」を田の中へ打ち込んで「デッコ」遊びをした。これがすむと5寸釘など 0 0 隠岐の文化財 1 107 32 の金物で「デッコ」遊びをしてもよかった。これは校庭や家の庭などでの遊びで「ほんこ」でやって相手の立てた釘を打ち倒して立てると倒した釘は自分のになる。今から思うと「デッコ」は「デコ」「木偶」で何かを形どっている。出土品の写真 0 0 隠岐の文化財 1 108 4 のような石があるが、これはどうも田の神を祠る道具のようである。町打ちの事しか分からぬが倉ノ谷、黒木御所海辺から各1ケ。美田では10ケも出ている。「デッコ」も削り方からして、石器の形によく似ている。豊作を祈る性器をかたどった 0 0 隠岐の文化財 1 108 10 ものと思われる。「デッコ」打ちもすんで、夕食もそこそこに子供達は集まる。前から貸りて用意した「ジリヨツキ石」の紐を検査したり、「メ−ケン袋」これは貰った餅を入れる袋。この袋の番の者を極めたり。メ−ケン袋は小麦粉の入っていた 0 0 隠岐の文化財 1 108 16 袋の事である。メ−ケンはメリケンでアメリカの訛りである。さてそろそろ薄暗くなって顔形が一寸分りにくくなった頃合を見て家家を廻る。各家は家の前の庭を「カド作」をして秋の脱穀の準備をしている。庭の事をカドといいこれを平に手入れ 0 0 隠岐の文化財 1 108 21 するのである。子供達はこの庭に陣取って「ジリョツキ石」の紐を引いて地搗きの準備をする。家の中では毎年の行事で待っている。1つ祝ましょと庭を搗かれたら大変である、丁寧になおした庭をボコボコ穴を穿けられてしまうからである。大抵 0 0 隠岐の文化財 1 108 27 の家では子供の気配を察してすぐに呼び入れて餅をくれる。貰ったら祝詞を囃して庭をいためないようジリヨ搗きして次の家へ廻る。囃唄。こんやの亥の子、祝うかの−(祝うぞ餅やるからと呼びこまれると)ここの旦那さんよい旦那さん。金庫、 0 0 隠岐の文化財 1 108 35 米庫建て並べ、繁昌せい繁昌せい。亥の子餅つきやらんか。つき手がなけれや。つきましょうか。(子供達は地搗きの構えでいる)(餅を貰うと)ここの父っつぁん繁昌せ、金うめ、子うめ繁昌せい。(又は単に)ここの父っつぁん。ぼくらになれ 0 0 隠岐の文化財 1 108 46 、ぼくらになれ。(ごくらの語源は宝庫か、お金持の意味だ)餅をくれないとか、子供等の心証を悪くすると、亥の子の晩に祝はぬ者は、鬼うめ、蛇生め。角の生えた子を生め。ここのちちっつぁん貧乏せい。貧乏せい。などの悪態をつく事になる 0 0 隠岐の文化財 1 108 54 が、このような事はほとんどなかった。囃唄は町内でも少しずつの差があるが、時代や各地区別で変化もあるようである。これも大正時代まででそれ以後は廃れていった。三、亥の子の晩の主役ジロツキ考。ジロツキ石は写真の通りの石で、各地で 0 0 隠岐の文化財 1 108 60 地搗石と呼ばれるものである。このジロツキ石の名称は島前だけの名称かと思っていたが、調べてみると島後にも痕跡が残っているし、鳥取県あたりにもあるようすで分布を調べるのも面白いと思われるが話を先に進める。この事について調べる内 0 0 隠岐の文化財 1 109 2 に、幸田露伴の著「五重塔」の中に「地鎮の式もすみ、地曳土取故障なく、さて龍伏(いしずえ)は其月の生気の方より右旋りに次第据え行、、、」などとある事を知らされて、ジリョウは地龍からきているように思われた。宗教上からは自然の水 0 0 隠岐の文化財 1 109 7 の力を重視して、水の変態を龍に喩え変転自在にして絶大なる威力を如意宝珠としているようである。この絶大なる威力をかりて地鎮が基礎固めの龍伏(イシズエ)据である。さて一方では加藤清正が姫路城を建てる時、その石垣が1夜にして崩れ 0 0 隠岐の文化財 1 109 13 る事しばしばで当惑していた時に老婆が来て、石垣の中へ石臼一つを築き込んだら石垣のすわりがよくなると教えたといい、無事築城の石垣の石臼はここの名物となっている。この方法は他にも有名なものもあるとの事である。むごい話だが、地鎮 0 0 隠岐の文化財 1 109 19 の為の人柱の話などもあって、呪いとか御祓いの信仰も生まれて来る。これが地霊鎮めの修法である。地龍、地霊に分かれるが、亥の子の日にはもぐら打ちも行われる地方も多いので、島前の地りょう搗き石は、地霊と書いた方が適当と思われる。 0 0 隠岐の文化財 1 109 25 田の神といい、囃唄といい、地霊を鎮め豊作を祈る昔の人々の思想がしのばれる。昭和55年1月5日の朝日新聞の記事に「祈りしみ込む民俗石具」鳥取県倉吉市文化財専門委員、日本民俗学会員高木啓太郎(六三)氏の研究があった。それに色々 0 0 隠岐の文化財 1 109 30 な石具の事が出ていたが、書きぬきすると地霊搗石については、倉吉では地締め石といい、写真で見ると当地のものと同型で綱つけも八人用である。新築家屋の大黒柱を建てる土台固めにつかい、台地の神霊を鎮める地鎮の願いをこめているとある 0 0 隠岐の文化財 1 109 36 。又ここでは、「猪の子に用いるのは猪の子石といい、綱の先に石をゆわえ囃唄をはやしながら家々のカドを突いて回って、おだちんの餅をもらう。これは悪霊払いの習俗である。」とある。この事からも、ジリョツキとかジロツキは地鎮θ悪霊祓 0 0 隠岐の文化財 1 109 42 の為の搗石で、地霊搗石が地霊石といわれ、このような地盛りや作業を地霊仕事ともいわれている。しかし、近年はこの石も使われず、作業は近代かされ地霊仕事という言葉だけが僅かに残っている。この地霊搗石も民俗館の資料として保存する事 0 0 隠岐の文化財 1 109 47 になる。 0 0 隠岐 隠岐の文化財 2 5 1 <建造物>美田八幡宮本殿一棟。二間社流造。向拝付。建造年、明治24年。大工棟梁、戸田政五郎。村尾礼造。所在地、隠岐郡西ノ島町大字美田2177。所有者、美田八幡宮(宮司、松浦康麿)。建築様式について。隠岐島前地区の神社建築は 1891 0 明治24年 隠岐の文化財 辛卯 2 5 10 殆どが、「春日造変態」であるが、当社は唯一の流造である。社殿規模は大きく二間三面社でこのようなものは他にない。八幡宮の御祭神は、誉田皇命(ほんたのすめらみこと)、足仲彦命(たらしなかつひこ)、気長足姫命(おきながたらしひめ 0 0 隠岐の文化財 2 5 14 )の三柱の神が祀られており明治以前には仏体も祀られていた。内陣が三前に仕切られているのは古くは一柱ずつ別々に奉斎されていたか、又は仏体と神体別々に奉斎されていた為かと思われる。当社は中世期以降は為政者の信仰も厚く島前の総社 0 0 隠岐の文化財 2 5 25 的存在としての社であり、恐らく古くは造営も美田村全体の掛りとなっていたのであろうから社殿規模も他より大きかったものと思われる。さて構造についてであるが、本殿が内陣、外陣共三前となっているのは、宇受賀命神社と当社の二社のみで 0 0 隠岐の文化財 2 5 34 あるが、当社は本殿向拝と通殿の側面を板壁によって仕切った為に図で見る通り、外陣両側は向拝の柱間と同じ幅とする為本殿柱間の中間に柱が入り、正面を塞いだ形となり折角の社殿の美観を損なったのみでなく、使用出来ない形となった。これ 0 0 隠岐の文化財 2 5 40 は職人の意志というより島前地区の他の神社のものを真似たもので、これは此処のみでなく他社も殆どこのような仕上げとなっていて、構造から見ると無理な手法である。さて次に職人の系統について記述しておく。棟梁は戸田政五郎で相棟梁は村 0 0 隠岐の文化財 2 5 45 尾礼造である。この棟梁戸田政五郎は、西郷町戸田家の分家筋の者であり、本家戸田家は文化年間の徳三郎まで遡ることが出来、現当主は戸田良市氏で現在も子息共々に建築家で職人としての旧家である。さて戸田姓であるが、当家の伝える処によ 0 0 隠岐の文化財 2 5 51 ると、播州姫路余乃家戸田文左衛門より頂いたものとの事。職人で名字を許される事は職人として格の高い家であった証としてよい。以下代々大工職を家職として精進したようで縁組も大工職として名のある家よりのものが多い。宮大工としての技 0 0 隠岐の文化財 2 5 56 はどのようにして会得したかは詳らかにしないが、前記播州戸田家は恐らく上方の宮大工の系に列なるものであろうから家祖徳三郎も上方で技をみがき、そしてその技を子孫に伝えたものではなかろうか。当社の棟梁政五郎は分家筋の者であるが職 0 0 隠岐の文化財 2 6 5 人としてはなかなかの腕であったらしく、旧隠岐支庁舎(現、隠岐郷土館)も政五郎が棟梁として造ったもの。いわゆる洋館造りの新しい手法も会得していたようである。又相棟梁村尾礼造は美田尻村尾(向(むかい))家の出で職人としては腕の 0 0 隠岐の文化財 2 6 10 立つ人であったようで、当社氏神であるので本来ならば一人で棟梁を勤めてもよさそうであるが、戸田政五郎と共に建築したという事は、より立派なものを造る可く戸田政五郎氏を迎えたものと思われ、その関係は詳らかにしないが恐らく子弟関係 0 0 隠岐の文化財 2 6 16 でなかったかと思われる。建造は美田尻、大山両区の掛りで、棟札には美田尻組、(区)長村尾金六、大山組(区)長橋本伝吉、世話人、美田尻村尾金次、岩佐喜三郎、大山、山本重郎、万田林市、願主美田尻、大山明里中。遷宮は明治24年8月 1891 800 明治24年 隠岐の文化財 辛卯 2 6 22 14日であった。 0 0 隠岐の文化財 2 7 1 <史跡>高田山寺ノ峯経塚。所在地、隠岐郡西ノ島町大字美田小向寺ノ峯。所有者、油井増一(西ノ島町小向)。経塚概要。経塚とは、経典を埋納した仏教遺跡である。多くの場合神社や寺院の境内又はその周辺の地域にある。その形は小さい円丘 0 0 隠岐の文化財 2 7 8 をした封土があって、その下に築造された。こうした遺跡は現在のところ、わが国だけに限られるもので中国その他には見られない。そのはじまりは平安時代の十世紀の終わりごろと推定されるのである。経塚の造営は平安時代中期以後、江戸時代 0 0 隠岐の文化財 2 7 15 まで行われて本州全土に分布している。普通は小さい石室をつくりその中に経筒をたて、或は外甕に治められて、その周りには木炭などの防湿剤をつめた例もあり、その周に和鏡、利器、銭貨などの奉賽品を副納するのである。(経塚遺宝展目録− 0 0 隠岐の文化財 2 7 20 奈良国立博物館より抄)。出土遺物。(焼火神社松浦康麿蔵)一陶製経筒、一口。一青白磁壷形合子、一合。一草花双鳥鏡、一面。一網双鳥鏡、一面。一梅樹飛雀鏡、一面。一青銅製鍔、一枚。一宣和通宝、一枚。遺物の時代は平安後期と推定され 0 0 隠岐の文化財 2 7 30 ているが、築造年代は時代が下がるのではないかと思われる。指定の事由。前記の如く経塚は各地に存在するが、隠岐島では現在の処ここのみであり、又遺構も破壊されず残存している点は県下でも珍しく保存の要がある。なお、出土品については 0 0 隠岐の文化財 2 7 38 「島前の文化財6号」に掲載してあるので略す。本遺跡は専門家による発掘調査がなされていないあので再調査の要があると思われる。 0 0 隠岐の文化財 2 21 1 古代出雲と新羅−隠岐の神々−。速水保孝。出雲と新羅は同文同種。大社湾から南に延びる砂丘の帯。五月の初めだった、外園海岸(出雲市長浜町)の浜地には、緑黄の浜ボウフウが点在。陽光を浴びながら、女たちはそれを掘り、男たちは海辺で 0 0 隠岐の文化財 2 21 8 綱引きに余念がない。こうした風景は、おそらく古代から変らぬ出雲びとの営みだったろう。波打ち際には砂鉄が帯状に層をなして波に戯れている。ところが、砂浜には景観を害するほどおびただしい漂着物。サンダル、ポリ容器、漁網用のウキな 0 0 隠岐の文化財 2 21 14 どさまざまだが、そのほとんどにハングルが記されている。きっと、朝鮮半島から流れ着いたものにちがいない。それらに混って、半分に割れた椰子(やし)の実が一つ。遥けくも、南の島から海流によって運ばれてきたものであろう。これらはい 0 0 隠岐の文化財 2 21 20 かにも象徴的である。日本列島が大陸から分離し、対馬海峡ができ上ったのは、今からおよそ18000年前のことという。従って、それまでにも大陸から動物や人間が亙ってきていたが、対馬海峡ができあがると、原始から古代の出雲には、黒潮 0 0 隠岐の文化財 2 21 25 の分流である対馬暖流にのり、南方から漁撈文化が入り込む。そして、龍蛇(りゅうじゃ)信仰や佐太大神誕生の加賀潜戸(くけど)神話などを産んだ。しかし、何と言っても、弥生期以降の古代出雲文化の主なル−ツは朝鮮半島、わけても新羅( 0 0 隠岐の文化財 2 21 31 しらぎ)文化であると言ってもよい。というのが、半島の東海岸沿いにリマン寒流が南下、東流してくる対馬暖流にぶつかると、東北へ並流して日本海還流となる。それに乗って、稲や鉄をはじめとする朝鮮半島文化が日本海沿岸各地に伝播してき 0 0 隠岐の文化財 2 21 36 た。すなわち、東海岸北部の元山湾(ウオンサンマン)から船出すれば、到達するのが隠岐などを経由して高志(こし、北陸)の海岸一帯。また、東海岸南部の蔚山湾(ウルサンマン)から出航すれば、海流と北西風の関係で、どうしても出雲を中 0 0 隠岐の文化財 2 21 42 心とした山陰海岸(広義の出雲)に漂着する。伯耆(ほうき)淀江町出土の弥生式土器のツボに描かれた原始絵画、それはドンドラ型の丸木船をカイで力漕している図柄である。また、韓国蔚山郡盤亀台の岩刻画にもゴンドラ型の船が描かれている 0 0 隠岐の文化財 2 21 48 という。こうした船でわが方と朝鮮半島を航海していたのだ。その淀江には、約四百もの古墳があって、大陸系の石馬(いしうま)を今日に残した渡来人集団がクニ造りをしていたことは確実。愉快なのは空高くそびえる高麗山、地元の人々はカラ 0 0 隠岐の文化財 2 21 54 ヤマと呼び、韓(から)ひとたちがエッサエッサと郷里から引っ張ってきて、伯耆大山と背比べしたという伝説がある。ともあれ、わけても当時の島根半島は完全な離島で天然の防波堤。その内側は波静かな内産みだったから、渡来してくる新羅び 0 0 隠岐の文化財 2 21 59 とたちにとって、丁度裁くでオアシスに出合うよう、出雲は大変に魅力のある土地だった。そのもたらした新羅文化を幾重にもうけ、古代出雲は、当時の表日本といえる日本海文化圏の中心的存在になりえたのである。それを裏書きするものの一つ 0 0 隠岐の文化財 2 21 65 が、血液型A人の分布率。水野祐によれば、新羅の表徴である慶尚南道(キョンサンナンドウ)の韓国人のA型率は、総じてA型率の高い韓国南部でも最高で四割強。そして、出雲人の亜型率も同じく四割強で日本最高だとし、両者間の人趣的近似 0 0 隠岐の文化財 2 22 4 性を強調している。ところで筆者の調査では、同じ出雲でも、島根半島部や宍道湖、中海沿岸部のA型分布率は五割近い。それが中国山地に移るに従って低くなり、横田町(仁多郡)などでは低下。逆に、日本の原住民の血液型といわれるO型分布 0 0 隠岐の文化財 2 22 10 布率が高くなる。このように、出雲の沿岸部のA型率が異常に高いのは、新羅人集団の数十波にも及ぶ渡来に合わせ、南型のA型人たちが北九州方面から出雲に来て、それが重層した結果だとされている。まさに、これらの諸点からも、古代出雲と 0 0 隠岐の文化財 2 22 15 新羅は同文同種の間柄だと言っても、過言ではなかろう。国引きはまず新羅から。古代出雲と新羅の濃密な関係は、神話の世界にも反映している。古代の出雲びとはこれを国引き神話として、「出雲国風土記」の中に高らかにうたいあげた。出雲の 0 0 隠岐の文化財 2 22 22 祖神ヤツカミズオミツノ(八束水臣津野)はつぶやく、「八雲立つ出雲の国は細長くて未完成の若国(わかくに)。どれ、わたしがつくりし足してやろうかい」と。どこかに国の余りがないものか。最初に見つけたのが新羅の岬。そこで、オトメの 0 0 隠岐の文化財 2 22 27 棟のように幅広いスキをとり、大魚のエラを断ち切るよう、ぐさりと地魂を切り離す。それに丈夫な綱をうちかけ、くにこいくにこいと引き寄せ、出雲の本土につなぎ合わせたが、杵築(きづき)の岬(日御碕から平田市川下までの土地)。それが 0 0 隠岐の文化財 2 22 33 動かぬよう、つなぎとめたクイが佐比売山(さひめやま、三瓶山)。その時の引き綱が、本稿の最初に述べた園(その)の長浜だという。続いて神様は島根半島の他の三ブロックを同じような方法で国引きする。北方の佐伎(さき、隠岐郡海士町の 0 0 隠岐の文化財 2 22 39 崎であろう)から引いてきたのが狭田(さだ)のくに(平田市から鹿島町まで)。やはり北方の良波(らは、丹波だろう)から闇見(くらみ)のくに(松江市北部)。最後に高志(こし、北陸)の都々(つつ、すす)の岬から国引きしたのが三穂( 0 0 隠岐の文化財 2 22 44 みほ、美保)の岬(美保関町)で、引き綱が夜見島(今の弓ケ浜半島)。それが動かぬようにつなぎとめたクイが火神岳(ひのかみだけ、大山)だというのである。以上が国引き神話の大要。それはもとより物語りではあるが、単なるフィクション 0 0 隠岐の文化財 2 22 50 (つくり話)ではない。かつて本土から隔絶していた島根半島が、多くの砂を流す雲伯の河川による沖積作用で陸続きになろうとする。その次第を古代の出雲びとは、ヤツカミズオミツノ(八束見ず臣津野、多くの洪水で港や平野をつくる)神のし 0 0 隠岐の文化財 2 22 56 わざだと考え、語部(かたりべ)たちが神話の形にうたいあげたものであろう。ところで、より重要なのはどこから国引きぢてきたかということだ。最初に、新羅から国引きしたというのは、既述のように、出雲には新羅からの渡来人が一番多かっ 0 0 隠岐の文化財 2 22 62 たからである。新羅の蔚山湾を発し、三瓶山を目標に大社湾の園の長浜に至った航海経験が、こうした大ロマンをつくりあげたのであろう。そして、ソは新羅の元号だから、園(その)の長浜とは、新羅人の来た新羅の浜という意味であるかもしれ 0 0 隠岐の文化財 2 22 68 ない。隠岐島の開拓者も新羅人。ヤツカミズオミズノが隠岐から国引きしたのにも理由がある。鉄が得られるまで、黒燿石はヤジリや刃物材料としてまことに貴重。その産地が山陰では隠岐だけである。その一つ、隠岐郡五箇(ごか)村久見(くみ 0 0 隠岐の文化財 2 22 74 )の黒燿石加工場(八幡昭三社長)を訪れた。専門家が原石をたたくとさすが、ちょっと力を加えただけで、鋭利な刃物ができあがる。火山で噴き上げられたマグマ(溶岩)が急速に冷えた際できたものというが、黒燿石は生活用具だけでなく、装 0 0 隠岐の文化財 2 23 4 飾品としてもまことに美しい。出雲びとにとっては、どうしても交易が必要だったろう。それを裏書きするのが、美保関町サルガ鼻の縄文洞遺跡。ここで隠岐産の黒燿石を加工していたのである。また、隠岐は古くから朝鮮半島より山陰へ渡来する 0 0 隠岐の文化財 2 23 10 のに目標となる中継地でもあった。「伊未自由来記」によれば−隠岐島草分けは「木の葉人」。最初、島後の北端伊後の西の浦(西郷町)に着岸、次いで来たのが北方(五箇村)の長尾田(ながおだ)への上陸組。さらに、島前の船越(ふなごし、 0 0 隠岐の文化財 2 23 15 西ノ島)にも渡来者があった。その後、年々島の各地に同種の人間が漂着して定住、次第に隠岐全島に分散居住するようになった。これらの人々は、西方1000里にある韓の斯盧国から来たといい、また韓の除羅国から来たとも伝えられていると 0 0 隠岐の文化財 2 23 21 。ところで、斯盧も除羅伐(ソラポル)も新羅の古名だから、隠岐島の草分けは新羅人ということになる。そして、故国の迎日県(ヨンイリヒョン)の古名である斤鳥支(クンオキ)の斤(大きい)をとり除いて、移住地の地名をオキとなづけた。 0 0 隠岐の文化財 2 23 27 焼火 さらに、隠岐島島前知夫里(ちぶり)の地名ル−ツは、蔚山府彦陽県(ウルサンブォンヤンヒョン)の古名の知火(チブル)。島前の高い山は朝鮮半島から渡来するのに恰好のまとである。そこで、火を焼いて燈台の役目を果たしたから焼火(たく 0 0 隠岐の文化財 2 23 33 ひ)信仰がうまれた。その火のことを韓語でブルと発音するから、チブリの名がつけられたのではないかとの説がある。(中田薫、「古代日韓交渉史断片考」)。また、隠岐の島前、島後をドウゼン、ドウゴと呼ぶが、韓語では半島をバンドウと発 0 0 隠岐の文化財 2 23 36 音するという。そるすると、島の前、島の後というのは出雲側から言ったものではなく、朝鮮半島側から隠岐を見た呼び名ではないかとの説(五箇村取材)も成り立つが、検討に値しよう。さらに、隠岐びんとはワタスカミ(渡海して来た神)を五 0 0 隠岐の文化財 2 23 42 箇村の久見や西の島にまつった。わけても後者では、これを由良姫(ゆらひめ)神社にまつり、新羅の神であるスサノオの娘スセリヒメに擬している。また、島津島(知夫村)の渡津神社には、スサノオの息子イソタケルをまつり、それぞれ海上安 0 0 隠岐の文化財 2 23 47 全の神としている。その他、新羅びと渡来の地とされる長尾田には白山神社、都万村森に白山神社、布施村飯美に白髪神社、同じく卯敷(うじき)に白髪神社をまつっているが、白のつく神社には元来、新羅系髪をまつっていたと考えてよい。とい 0 0 隠岐の文化財 2 23 53 うのが、新羅の古名は、徐羅伐(ソラポル)、徐羅(ソラ)、斯羅(シラ)、斯盧(シロ)などと言われ、しずれも明るいという語義。そして、斯盧(シロ)はそのまま白になるから、白は新羅で聖なる色である。以上の白ヒゲ、白ガミ、白山神社 0 0 隠岐の文化財 2 23 58 などは、新羅の白日の神、つまり太陽神を元来まつったものというのである(比較民俗学者、金両基、キムヤンキの説から)。ともあれ、古代出雲にとって隠岐は新羅系の兄弟国で、しかも、黒燿石資源のユタかなところ。どうしても、国引き対象 0 0 隠岐の文化財 2 23 64 地にせねばらなないほど重要な土地だったのである。スサノオは新羅の神。スサノオはヤマタノオロチ退治は、出雲神話(「古事記」、「日本書紀」)のハイライト。高天原(たかまがはら)で大暴れ、姉神のアマテラスを怒らせたスサノオは、神 0 0 隠岐の文化財 2 23 70 々の相談の結果追放処分、出雲の斐伊川上流に天降る。そこでは、国津神(土着神)のアシナヅチとテナヅチの夫婦が、娘のクシナダヒメを中にして内折、スサノオに訴える。−わたしたちにはもと八人(多数)の娘がいたが、毎年ヤマタノオロチ 0 0 隠岐の文化財 2 24 1 (八岐大蛇)に襲われて、今ではこの娘がただ一人。今年もまたオロチが現れる時期になりましたと。ヨッシャ、ヨッシャとスサノオは、イナダヒメを嫁にくれることを条件に、オロチ退治を引き受ける。やがて現れ出た来たオロチに、強い酒を飲 0 0 隠岐の文化財 2 24 7 ませて酔いつぶす。スサノオはトツカの剣を抜き、オロチを切り殺し、その尻尾(しっぽ)から得たのが見事な剣、アメノムラクモノツルギ。それをアマテラスに献上して和睦し、スサノオは目出たくクシナダヒメと結ばれ、須賀(スガ)の宮で住 0 0 隠岐の文化財 2 24 12 いする。そして、「やくもたつ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」と、雄大な妻ごもりの歌をものする。これが古事記にのるオロチ退治神話の大要である。ところが、日本岐書紀第四の一書によれば、高天原からスサノオは、息子のイ 0 0 隠岐の文化財 2 24 18 ソタケル(五十猛、イタケル、イタテ)を連れ、まず新羅に天降り、ソシモリ(曽戸茂梨、王城の地)に居住する。しかし、この国にはいたくないと、埴土(はに)を以て舟を造り、東方に舟を出し、出雲国簸の川上の鳥上(とりかみ)の峯(船通 0 0 隠岐の文化財 2 24 24 山)に当着している。また、同行のイソタケルは高天原から天降るとき、多くの木種(きだね)を持参したが、韓(から)国には植えずに、筑紫から始めて日本全国にまき、すっかり青山にする。そのため、イソタケルはイサオシカミ(有功神)と 0 0 隠岐の文化財 2 24 30 言われ、紀伊国の大神となる。さて、スサノオが新羅の神で、新羅の王都から出雲へ渡来してきたとは大変に意義深い。筆者は今春NHK教育テレビ「ヤマタノオロチの謎」に出演、太田市五十猛町一帯でロケして驚く。同町の大浦害願はスサノオ 0 0 隠岐の文化財 2 24 35 の上陸地点とされ、泊り山鎮座の韓神新羅神社の祭神はもとよりスサノオ。山一つ越えた宅野(たくの、迩摩町)海岸にも、辛崎(からさき)、辛浦(からうら)などの地名があり、韓島にはスサノオをまつる韓島神社があって、ここが本当の上陸 0 0 隠岐の文化財 2 24 41 地点だとか。また、スサノオの息子神であるイソタケルは、駅近くの宮山鎮座の五十猛神社にまつられ、神名が町名や駅名にまでなって住民に親しまれている。その他、太田市近辺には新羅神社、漢女(からめ)神社、大屋姫神社、迩幣姫(にべひ 0 0 隠岐の文化財 2 24 47 め)じんんじゃなど、新羅系の神々をまつる社が多い。今でこそ、ここらは石見の一部だが、古くは出雲の領域。スサノオ、イソタケルたちが上陸したとしても、決して不思議はない。というより、スサノオ神らを信奉する新羅系渡来人が多かった 0 0 隠岐の文化財 2 24 52 のだ。それにしても「埴土(はに)を以て船を作る」とはこれいかん。カチカチ山の狸の泥舟でもあるまいに、粘土で作った舟は沈没するのが当り前。水野祐は西村真次のフロ−ト説をふえんし、埴土(粘土)で焼いたカメを舟べりにぶら下げ、浮 0 0 隠岐の文化財 2 24 58 きとして航行したのではないかと述べられているが、筆者も賛成。これらのカメはいわゆる新羅焼き、1200度の火土が高くてすこぶる堅い。それが日本に伝わって須恵器(すえき)となる。スエ−とは韓語では鉄。従って、スエ器とは鉄のよう 0 0 隠岐の文化財 2 24 63 に堅い器(うつわ)の意だという。おそらく、それらのカメの中に、木種などいっぱい詰めて、スサノオ、イソタケル集団は渡来したのでなかろうか。ところで、出雲びと自身によって編纂(へんさん)された「静も国風土記」によれば、おそらく 0 0 隠岐の文化財 2 24 69 、スサノオは大社湾から神戸川をさかのぼり、須佐(佐田町)の地に落ち着く。そして、この国は小さいが住みよい国だと、自分の名を木や石にはつけないで、大須佐田、小須佐田を定めたから、この地を須佐と呼ぶようになったとある。ところが 0 0 隠岐の文化財 2 24 74 、今日、須佐神社あたりを訪れると、いかにも山あいの小盆地。とても、スサノオの出雲経略の基地とするには、ふさわしくないと思えるが、さにあらず。初期の水稲農業の発展には、洪水の恐れある平野部より、排水のよい山田、棚田、狭田(さ 0 0 隠岐の文化財 2 25 2 だ)の方が適している。それに、スサノオ集団は韓鍛冶(からかぬち)の技術保持者。須佐付近に産出する砂鉄に目をつけたのではなかろうか。というのが、風土記は、須佐川に入る波多小川と三刀屋川に入る飯石小川に、それぞれ鉄(まがね)あ 0 0 隠岐の文化財 2 25 7 りと特記しているからである。おそらく、スサノオ、イソタケル集団は既に鉄製農工具を持ち、稲づくりの先進地新羅の高度な農業土木技術を身につけていたにちがいない。他方、クシナダヒメは風土記によると、クシイナタミトヨマヌラヒメ、今 0 0 隠岐の文化財 2 25 13 の三刀屋町上熊谷付近の神だった。父母神のアシナヅチとテナヅチ、そのナは土地とか国、ツチは霊の意味があるとか。つまり土着の出雲びとが足と手を働かして土地を開き、造りあげた大事な稲田の象徴がイナダヒメ。それがヤマタノオロチ、す 0 0 隠岐の文化財 2 25 19 なわち、八つ(多く)の支流を集めた大河の斐伊川に住む大蛇に毎年食われるとは、貴重な稲田が斐伊川水系の氾らんで破滅することである。今日でも出雲では蛇は荒神で崇(たたり)神。古代出雲びとは、大洪水が起るのは、川の中で大きな蛇が 0 0 隠岐の文化財 2 25 24 暴れるからと考えたのである。そこで、斐伊川水系の治水対策を隣り村である須佐の地で、田づくりに成功していたスサノオに依頼。よい具合いに、スサノオの息子イソタケルは高天原から木種を持参した植林の神。それにスサノオ自身も、書紀の 0 0 隠岐の文化財 2 25 30 第五の一書によればシャ−マン。「韓国(からくに)は金銀が豊富な国だから、自分の子が治める国に浮宝(うきたから、くり舟)がないと困るだろう」と、自らのヒゲを抜いてスギを、胸毛を抜いてヒノキを、尻毛を抜いてマキを、眉毛を抜いて 0 0 隠岐の文化財 2 25 36 クスを、それぞれ化成させたという。もともと、スサノオの古朝鮮語はススング、スサングで、いずれも巫(みこ)を意味するという。ともあれ、植林による治山は治水に通じる。スサノオ親子神のシャ−マニズム(巫術、呪術)と農林技術で、初 0 0 隠岐の文化財 2 25 42 期の斐伊川水系の治水に成功したというのが、ヤマタノオロチ退治神話の実像であろう。さらに、スサノオがオロチを切った剣は韓(から)製であった。そして、オロチの尻尾から鉄剣を得たというのは、砂鉄を求めて奥出雲深く進出してきたスサ 0 0 隠岐の文化財 2 25 48 ノオ、イソタケル集団が、新羅の製鉄技術で砂鉄から鉄づくりに成功したことを意味する。それまでの出雲は諸国と同じよう、朝鮮半島から鉄挺(てつてい、鉄の板)を輸入していた。風土記の横田郷(さと)の条に「以上の諸(もろもろ)の郷よ 0 0 隠岐の文化財 2 25 54 り出す所の鉄、堅くして尤も雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ」とある。こうして、出雲が他国に先んじて、鉄剣や鉄製農工具をふんだんに得たことが、古代出雲の武力と農業生産力を飛躍的に増大させることとなった。新羅の神であるスサノ 0 0 隠岐の文化財 2 25 59 オは出雲の神となり、さらに記紀神話にとりあげられて、日本の神となるのである。オオナモチの天下づくり。記紀の出雲神話では、オオクニヌシはスサノオの六世の孫、あるいは直接の子供神にランクされ、スサノオの娘スセリヒメを正妻にし、 0 0 隠岐の文化財 2 25 66 スサノオの後継者として出雲的世界である葦原中国(あしはらなかつくに)の建設を始めるのである。ところで、オオクニヌシ(大国主)とはヤマト政権がつけた神名。風土記によれば、出雲びとはこの神をオオナモチ(大穴持)と呼んでいる。ナ 0 0 隠岐の文化財 2 25 72 は朝鮮語で土地や国を意味する。イホツスキスキ(五百津鋤鋤)ナオトラシニトラシテ、アメノシタ(天下)ツクラシシ大神であった。つまり、鉄製のスキを五百も多く手にとって、国づくりに成功した神であった。それを裏書きするかのよう、顕 0 0 隠岐の文化財 2 26 1 宗(けんぞう)紀には、出雲はどんどん開墾が進み、沢山の米がとれる国だと書かれている。こうした経済力を背景に、豊富な鉄製武器を駆使し、オオナモチは八十神(やそがみ)を退治(武力征圧)し、妻問い(政略結婚、平和交渉)の旅を続け 0 0 隠岐の文化財 2 26 7 る。八十神退治は出雲国内はもとより、伯耆から因幡を経て遠く高志(こし、越、北陸)の能登半島にも及ぶ。わけても、能登国一の宮である気多(けた)大社はオオナモチが主祭神。ここの「おいで祭り」では、オオナモチに扮した宮司が神馬に 0 0 隠岐の文化財 2 26 13 またがり、五泊六日かけて征服の旅を再現する。さらに愉快なのが、この社の「おいずみ祭り」の蛇の目神事。ところが、スサノオではなくオオナモチが邑知潟(おうちがた)のオロチを退治して治水を図り、民心を安定させた故事を祭りにしてい 0 0 隠岐の文化財 2 26 18 る。オオナモチの妻問いは、出雲国内ではスサノオの娘スセリヒメら四人、それに、因幡のヤカミヒメ、北九州のタギリヒメ、北陸系魚川(いといがわ、新潟県)のヌナガワヒメなど、東奔西走の絶倫ぶり。わけても、ヌナガワヒメへの妻問いは正 0 0 隠岐の文化財 2 26 24 妻のスセリヒメのりん気を買う。そのヌナガワヒメは硬玉(ヒスイ)の象徴。古事記ではオオナモチがヤチホコ(八千矛)の名で妻問いするから、出雲より持参したのはおそらく矛に象徴される鉄製品。それの見返りに貴重なヒスイの大珠や勾玉な 0 0 隠岐の文化財 2 26 29 どの呪具(じゅぐ)を得たろう。そして、風土記ではお二人の間に生れたのがミホススミ(須須神社と美保神社の旧祭神)、「旧事本紀(くじほんぎ)」ではタケミナカタ(信州の諏訪大神)とさけている。出雲と高志の親密さを神話にうたいあげ 0 0 隠岐の文化財 2 26 33 たものといえよう。こうしたことどもは、オオナモチの出雲的世界の建設が日本海沿岸一帯に及んだことを物語るもの。その成功の秘密は何だろう。それは、これらの地域の出雲と同様、朝鮮半島文化の影響を強く受け、環日本海文化圏をなしてい 0 0 隠岐の文化財 2 26 39 たからである。たとえば、出雲に集中している古墳時代初期の四隅突出型方墳が、石見から因伯、さらに越中(富山県)にまで及んでいること。しかもそれが、新羅あたりの古墳に源流を持つと、中村春寿の新説さえ出ていること。また、淀江町の 0 0 隠岐の文化財 2 26 45 石馬文化、羽合町長瀬高浜の弥生遺跡と出土物、わけても壮大な古神殿を思わす建築物の柱址。さらに因幡国府町岡益(おかます)の石堂など。これらは朝鮮半島からの渡来人集団の技術を度外視しては考えられぬものである。また、丹波(たにわ 0 0 隠岐の文化財 2 26 51 )の王と倭(わ)の王女の間に生まれた男の子が、新羅の国王となる話。逆に、新羅の延鳥郎(ユンオ−ラン)と細烏女(セイオニョ)の夫婦が日本へ渡り、国王と王妃になった話(「三国遺事」)。新羅の王子アメノヒボコ(天日槍)が日本に渡 0 0 隠岐の文化財 2 26 56 来、播磨(はりま)の国でアシハラシコオ(オオナモチ)と国の領有権を争い、但馬(たじま)の出石(いずし)神社に鎮まり、その子孫に神功(じんぐう)皇后が出る話。オオカラの王子ツヌガアラシトが出雲経由で敦賀(つるが)の地に至り、 0 0 隠岐の文化財 2 26 62 その名をとって地名とした話。以上あげれば盛り沢山、環日本海文化圏と朝鮮半島文化との密接不可分の関係が理解できよう。出雲の敗北、国譲り。ところで、日韓の交通ル−トは今一つ大動脈があった。それは朝鮮半島から対馬、壱岐を経て北九 0 0 隠岐の文化財 2 26 69 州に至るもの、主として朝鮮半島南西部の百済(くだら)系文化の伝播路である。江上波夫の有名な騎馬民族説によれば、日本列島を征服して畿内王朝を建てたのは騎馬民族だという。馬韓、弁韓、辰韓のいわゆる三韓時代、東満州の扶余(ふよ) 0 0 隠岐の文化財 2 26 74 族が南下して三韓を支配したのが辰王。その圧迫を受けて、日本の倭人の国邪馬台(やまたい)国は北九州から東遷する。そして朝鮮半島南部の任那(みなま)に都を置き、北九州との間にかけて倭韓連合をつくったのが、ミヤキイリヒコ(崇神天 0 0 隠岐の文化財 2 27 5 皇)、その国が最初の日本だったという。こうして、次の応神王朝のとき、九州の宇佐を基地にして、瀬戸内を通って畿内(きない)に至り、河内、摂津に強力な政権を樹立する。さらに数代を経て大和地方に進入、いわゆる大和政権ができあがる 0 0 隠岐の文化財 2 27 10 というのである。筆者も大筋では賛成だ。記紀の出雲神話は出雲の国譲りがフィナ−レ。スサノオの後をうけたオオクニヌシが苦心して国づくりした出雲的世界を、どうしても譲れと高天原のアマテラスの家来が迫る。三度目の使者として派遣され 0 0 隠岐の文化財 2 27 16 てきたのが高天原切っての勇者タケミカヅチ。杵築(きづき)のイナサの浜におりたち、イエスかノ−かと最後通牒。困りはてたオオクニヌシは、諸否を息子コトシロヌシの託宜にまかせる。その時コトシロヌシは美保岬で魚釣り中。そこで快速船 0 0 隠岐の文化財 2 27 22 の諸手船(もろたぶね)で使者を送り、意見をただす。コトシロヌシは思案のあげく、国譲りを進言、自ら責任をとって、天の逆手(さかて)という呪術の柏手(かしわで)をうち、船を青紫垣(あおふしがき)にかえ、海底深く沈んで自殺する。 0 0 隠岐の文化財 2 27 27 ところが、今一人の子供神タケミナカタは絶対反対。千引き岩を投げ合ってタケミカヅチと争うがついに降参。そこでオオクニヌシはこれまでと国譲りに同意、代償として自らの鎮まる大宮殿をつくらせ、根の国にかくれてしまったという。こうし 0 0 隠岐の文化財 2 27 34 た記紀の物語りを見ても、出雲の降服がすんなり行われなかったことは明白だ。それに風土記での国譲りでは、出雲の要求がもっと強硬。オオモナチは自分の治めている領土は譲りもするが、この出雲国だけは自分の鎮まる国として、青垣山をめぐ 0 0 隠岐の文化財 2 27 39 らし、玉をめでるように国土を愛し守るんだと主張している。国譲りは決して綺麗ごとではなく、もっと血なまぐさいのが実相。それを推測させる話が記紀に出てくる。倭韓連合国家をつくった崇神天皇紀によれば−天皇は出雲びとの持つ珍しい神 0 0 隠岐の文化財 2 27 46 宝をぜひ見たいと所望、物部(もののべ)の一族タケノモロスミを出雲へ派遣、神宝を提出せよと強要する。世は祭政一致の時代、出雲大神の神宝を相手に渡すことは全面降服を意味する。その時出雲国王のフルネは筑紫(つくし)へ出かけて留守 0 0 隠岐の文化財 2 27 51 。弟のイイイリネが兄に無断で神宝を天皇に献上した。帰国して激怒したフルネは弟を謀殺してヤマトに戦いを挑む。ヤマトはキビツヒコらの軍勢を出雲へ派遣する。たぶん、出雲には馬が不足、騎馬戦は全く不得意だったと思われる。フルネは戦 0 0 隠岐の文化財 2 27 57 死し、出雲はヤマトの軍門に降る。そして、出雲大神の祭りも停止せざるをえなかった。その後、出雲は再度ヤマトに反抗するが、続く垂仁紀でも、ヤマトはモノノベトチネを大将に出兵、またもや出雲大神の神宝を取り上げて管理させる。つまり 0 0 隠岐の文化財 2 27 62 出雲を直接支配したのである。他方、古事記ではヤマトタケルが出雲へ乗り込み、出雲タケルを殺したことになっているが、これは書紀の話と同じプロット(構想)から出たもの。ともあれ、こうして、新羅系文化を背景に栄えた出雲的世界は亡び 0 0 隠岐の文化財 2 27 68 、出雲はヤマトの一地方としてひっそくさせられてしまった。しかし、その後天皇家には不幸がしきり。疫病が流行して人民は死に絶えそう。わけても垂仁天皇の息子ホムチワケはあごひげが垂れるほどになっても口がきけない。うらなわせると、 0 0 隠岐の文化財 2 27 75 すべてが出雲大神の崇(たた)り。時に天皇の夢枕に立った出雲大神は告げる−私の社を天皇の宮殿同様に立派なものにするなら、ホムチワケの口がきけるようにしてやると。そこで天皇は息子を出雲へやり、出雲大神にお詫びを言上させる。その 0 0 隠岐の文化財 2 28 2 途端にものが言えるようになったので、天皇は約束通り、天下無双の大廈(たいか)の出雲大社を建立させたというのである。ヤマト政権は百済系。新羅系の出雲大神はまさしく天皇家にとっては崇(たた)り神であった。そこで後の話になるが年 0 0 隠岐の文化財 2 28 8 に一度、全国の神々を出雲へ参集させ、出雲大神のごきげんとりする神在月の年中行事もつくった。さらに、出雲国造(こくぞう)の代替り毎に前後二回も国造を宮中に呼び出し、服属の誓詞ともいえる神賀詞(かんよごと)を奏上させねば、天皇 0 0 隠岐の文化財 2 28 14 家は安心できなかった。それは新羅系の出雲が統一新羅と連合して、反旗をひるがえすのを恐れての疑心暗鬼からだった。出雲びとは新羅を忘れない。出雲は、ヤマトに征服されたものの、新羅の神々と文化を決しておろそかにしなかった。新羅神 0 0 隠岐の文化財 2 28 20 のスサノオとイソタケルをまつる神社は極めて多い。風土記デハ、スサノオとその御子神たちの伝承が出雲の九郡中、六郡に分布して十二話もある。ところが、スサノオが記紀神話のヒ−ロ−にとりあげられたから、スサノオ社は飛躍的に増加する 0 0 隠岐の文化財 2 28 25 。というのが、神社の祭神は時の政治的力関係や、社格をあげるためなどで、作為的に定められる場合が多いからである。たとえば、熊野神社の主祭神はクマノノオオカミクシミケノであった(風土記)が、それが出雲国造が天皇の前で述べた神賀 0 0 隠岐の文化財 2 28 31 詞(かんよごと)では、イザナギのヒマナゴ(最愛の御子)となり、いつしかスサノオとされたようなものである。ともあれ、今日、島根県内の神社でスサノオを主祭神とするのが113社、配祀神としているのが105社、境内社境外社にまつる 0 0 隠岐の文化財 2 28 36 のが205社に及ぶ。中には、既術の韓神新羅神社のほか、風土記の韓竃(からかま)社、延喜式の韓竃(からかま)神社は、ウップルイ(多数の湾曲の多い入江の意)という韓国の古語が残る河下(かわしも、平田市)近くの唐川(からかわ)の 0 0 隠岐の文化財 2 28 42 山中に鎮座。あからさまにカラの名をつけスサノオをまつっている。さらに、イソタケルをまつる神社も多く、主祭神とするのが113社、配祀が8社、境内外社が6社にも及ぶ。延喜式神名帳(えんぎしきじんめいちょう)には、「揖夜(いや) 0 0 隠岐の文化財 2 28 47 神社、同社に坐(ま)す韓国伊太テ(からくにイタテ)神社」とあるのをはじめ、中海、宍道湖南岸地帯にいたてK、イタケル、イソタケル神をまつる式内社が多い。それは植林の神というより、航海の守護神。延喜式神名帳がわざわざ韓神の同座 0 0 隠岐の文化財 2 28 53 を明記するのは、どうしてか。おそらく、イタテ神を信奉する信羅人集団の勢力が強く、それを無視することができなかったからであろう。玉作湯(たまつくりゆ)神社(玉湯町)にも、韓国伊太テ神社が同座。主祭神はクシアカルダマだが、この 0 0 隠岐の文化財 2 28 59 神は頭にクシがついているから出雲の神で、出雲玉造り集団の祖先神。しかし、その多くが勾玉や管玉造りの特に盛んな新羅から渡来した職人だった。そこで、どうしてもイタテ神を併祀せねばならなかったのであろう。ところが奥出雲に入ると、 0 0 隠岐の文化財 2 28 65 イソタケルはイガタケと呼ばれて植林と製鉄の神。書紀の一書によると、イソタケルは植林の神として、出雲から紀伊(きい)へ移り、紀伊国の大神になっている。その通路にあたる播磨(はりま)では、もっぱらイダテと呼ばれて製鉄の神。鎮座 0 0 隠岐の文化財 2 28 71 した紀伊では、植林、航海、製鉄の神として神格をひろげている。それも道理、植林した木から材木を得て船を造り、あるいは木炭を得てタタラ製鉄の燃料にする。各地域の住民生活のニ−ズが、このようにイソタケルの神格を多様化させたのであ 0 0 隠岐の文化財 2 28 76 る。オオナモチの国づくりに協力したスクナヒコナも海の向う(朝鮮半島)からの渡来神。これを主祭神とするのが25社、配祀が29社、境内外社が75社と相当数に及ぶ。また、稲荷神社が主、配、境内外を合して371社と多いが、もともと 0 0 隠岐の文化財 2 29 5 稲荷神は新羅から渡来してきた秦(はた)氏が伏見にまつった農業神、後に商業の神ともなって親しまれる。何気なく、新羅系の神を拝んでいるわけだ。さらに、風土記によると、大井浜(松江市)で陶器(すえもの)を造れりとあって、多くの古 0 0 隠岐の文化財 2 29 11 窯址が現存。そして、松江市の中央部鎮座の末次神社、それは須衛都久(すえつぐ)社で新羅系の陶器職人たちがまつったものであろう。そして、出雲国分寺址や風土記時代の新造院廃寺址出土の古瓦の文様は新羅古瓦に類に。また、出雲の古い仏 0 0 隠岐の文化財 2 29 16 食事 像は新羅様式のものだといわれている。さらに、ほんの最近まで美保神社の関係者たちは、鶏の肉もタマゴも食べなかった。その理由は−祭神のコトシロヌシが大の女好き。中海の向うの女神を毎夜に訪ね、夜明けを告げるオンドリの声で美保関へ 0 0 隠岐の文化財 2 29 22 と帰るがつね。ところが、ある夜オンドリが夜の明けないうちにトキを告げた。もう夜が明けたかと、コトシロヌシは大あわて。舟を漕ぐカイを忘れやむなく両足で水をかくうち、ワニザメに足をかまれて身障者。憎まれたのが鶏。そこで美保関び 0 0 隠岐の文化財 2 29 28 とは神様の身になって、鶏も飼わず、タマゴも食べなくなったという次第だ。もとよりこれはつくり話だが、鶏とタマゴをタブ−視しているところは、美保関町の浦々だけでなく、広瀬町宇波(うなみ)地区など案外大井。新羅の古名を鶏林(ケイ 0 0 隠岐の文化財 2 29 34 イン)という。慶州(キョンジュ)の松林に新羅の始祖が天降ったとき、白鶏がいてその降臨を伝えたという故事から、その松林を聖地として鶏林と呼び、進んでは国号にしたという。そこで新羅では鶏も神聖視されている。既述のように、出雲の 0 0 隠岐の文化財 2 29 40 沿岸地方は新羅人集団の渡来が多かっただけに、母国の故事を忘れずに、鶏に対する禁忌(きんき)の習慣を守り続けているうちに、もっともらしい理屈をつけたのでろう。それには、コトシロヌシがワニになって三島クミゾクイヒメのもとに通っ 0 0 隠岐の文化財 2 29 45 た話(書紀神話)と方足を曲げたコトシロヌシの反跏(はんか)像とがモチ−フになっているだろう。そのまたル−ツが朝鮮半島の弥靭菩薩反跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)である。そして、美保関びとは新羅の古都慶州の名刹(めいさ 0 0 隠岐の文化財 2 29 51 神楽 つ)仏国寺の名前にあやかって、わざわざ三明院(真言宗)を仏谷寺と改名している。また、隠岐島前神楽で長い白布を新体操よろしく振り回す布舞(ぬのまい)は、明かに韓国の民俗芸能に由来。正月行事の「とんどさん」も朝鮮半島から来てお 0 0 隠岐の文化財 2 29 56 り、島根半島ではいよいよ盛んである。以上、出雲びとは今日に至るまで、新羅の神や仏を大事にまつり、新羅の文化を守り育ててきた。それは一口に言って、出雲と新羅が古くからの親戚だったからである。(文中敬称を略したことをお詫びします)。 0 0 隠岐の文化財 2 69 1 「かなぎ」考。木村康信。一、かなぎ漁の昨今。二、つばき(椿)とかなぎ漁。三、かなぎの語源。四、かなぎ漁は縄文以前の太古の漁法。一、かなぎ漁の昨今。「かなぎ」という言葉が昨今では文化財としてお蔵入りしかかっていて、突然に話し 0 0 隠岐の文化財 2 69 9 かけられると中年以上の人でも一瞬おかないと話に乗ってくれない。何といっても「かなぎ漁」の最盛期は明治末から大正、昭和の中期頃迄で戦後急速な社会変動で若い者は皆都市へ、田舎は過疎、又これに加えてこの漁の生命線である沿岸の磯や 0 0 隠岐の文化財 2 69 15 、浅海が開発という事で埋立てられ、よしんばそれ等が残っていても排水、廃油、汚泥などで内湾などのアマモの浅海、これは海中生物の楽園であったがほとんどの生物は消えてしまった。後継者のいない「なかぎ」の名人達も老齢化する一方で少 0 0 隠岐の文化財 2 69 20 ない磯者はさざえ網、大小を問わず何でも一網でとる三枚網での乱穫で磯は荒廃してしまい漁穫者はほとんどない。その昔「ヤス」に継竿を加え深海の大魚を突刺すなどは思いのままにしたり、鮑、さざえ採りの名人達のことも昔語りとなってしま 0 0 隠岐の文化財 2 69 25 った。さてその「かなぎ」だが今となってはその呼び名も色々と変化し、西ノ島の中でも赤之江では「サオトリ」といい、県下で石見の津摩、鎌手あたりでは「磯見」。照明を使っての夜突も浜田あたりでは「なぎさ漁」という。四国の四万十川で 0 0 隠岐の文化財 2 69 31 は風変りな筒形の目鏡でやる漁を「かなつき漁」といっている。(昭和59、2、23、朝日新聞による)この「かなぎ」何故明治末から昭和にかけて最盛期をもたらしたか、それはこの漁で欠く事の出来ない海中をいつでも安定して覗き見る事の 0 0 隠岐の文化財 2 69 37 出来る「かがみ」と呼ばれる木製の箱の底に硝子をはめた道具が出来たからである。それまでは椿の実の油や、ゴマ油、エゴマ油、鯨の油、鮑の肝臓の油、などを口に含んで海中に吹きつけるなどして、その油が海面に広がると海中がよく見えるの 0 0 隠岐の文化財 2 69 42 で漁をしていた。この不安定な作業がこの「かがみ」(処によっては箱目鏡ともいう)が出来たので画期的に漁穫高を揚げる事が出来た。思い出せば隠岐は自然がいっぱいあった。磯に出れば朝凪夕凪の頃は素目で海底がよく見えた。アマモの茂み 0 0 隠岐の文化財 2 69 48 に「ぼら」の太いのがよく休んでいた。「とり貝」が口をあけ、時には「いたや貝」の乱舞も見られた。蛸の巣も貝殻を集めているのですぐに分かった。冬になると「いか」が寄せて来るのでその時季になると月の入り加減を計って浜に出て待つ。 0 0 隠岐の文化財 2 70 3 何千も拾った人の話はすぐに知れ渡る。浦郷の由良ノ浜は有名であった。時には鰯の大群が浜へ寄せて来る「かんこ船」一ぱいが五十銭、大正の時代である。赤之江では鯖の大群が寄せて来て網が揚がらなくなった話ももう昔話である。この頃のか 0 0 隠岐の文化財 2 70 9 なぎ漁は思いのままで豊漁つづき、子供が小学校を卒業して青年団に入るようになると、親は船とかなぎ道具一式を与える。子供達は集団で海に出る。先輩達から教わったり自分で見付けたりして上達する。親は兵役が終るまでは収入は子供まかせ 0 0 隠岐の文化財 2 70 14 で稼がせる。兵役が終って帰るとほとんどが一本立ちつる。勿論これ以外に船乗りになる者、他の飾につく者もあった。「かなぎ漁」は安定した職業であった。料理屋から注文を受けて必要な鮑もとれ必要な魚の数も揃えられるほどであった。舟も 0 0 隠岐の文化財 2 70 21 「ともど」舟から「かんこ」舟、木造動力付きの「かなぎモ−タ−」船、強化プラスチック製の小型船と変り、漁具もなまこなどは深海では石の重り付きの「おとし」と称する紐付きのヤスで突いてとるのが小型の底引網に変る。又船も片手で櫂を 0 0 隠岐の文化財 2 70 26 こぎながら船を動かし「かがみ」で漁穫物を探すのが最近では動力を脚で操作するなど便利になったが前述の通りで急速に衰えてしまった。二、つばきとかなぎ漁。順を追って書く必要から、前号の「隠岐と椿の物語」(参照していただきたい)と 0 0 隠岐の文化財 2 70 32 重なる事にもなるが「かなぎ」を解く必要上止むを得ない。「かなぎ漁」にとって海底の見える箱目鏡は大切な道具であるが、ガラス、ギヤマンと呼ばれた品物が庶民の手に入る迄は、漁師の口に含む油が大切な役目をしていた。しかし鯨などいつ 0 0 隠岐の文化財 2 70 38 でもとれるものでなく、ごま油にしても絞る事が出来てはじめて作れるし、椿の種子のように日本列島の本州ではほとんどどこにでもあるものは便利で唾の木として利用していた。その事は沖縄−九州−四国−本州の方言の分布からも知る事が出来 0 0 隠岐の文化財 2 71 2 る。但し、隠岐では椿は方言では「ベ−ロの木」で他とはちがい、又「かなぎ」には鮑の肝を使っていてこれを「凪腸」「なぎわた」と呼んで、ガラスが使われる迄使っていた。面白い興味のある事である。考えて見ると鮑などは磯にはどこにでも 0 0 隠岐の文化財 2 71 8 いて便利に使われた。椿の種子を使うよりこの方が便利であったからである。このつばきの語源が「かなぎ」と深いかかわりがある事がお分りの事と思う。この事からして「かなぎ」の歴史は一挙に1300年以上をさかのぼる古くからの漁法だと 0 0 隠岐の文化財 2 71 13 分った。三、かんぎの語源。前号でつばきの語源を見付けた時に、この「かんぎ」についての語源も只物でないとの直感があったが、解ける迄にはなかなかの曲折があった。一体「かんぎ」とは何か、名詞か動詞か、特異な用例をあげると宴席など 0 0 隠岐の文化財 2 71 19 で下戸でお酒を飲まないので食べる事に専念していると、上戸の方から声がかかり「かなぎ」ばかりしていないでさあどうぞと酒を勧める。時には「かなぐ」などともいう。それはそれと唾の木と対の仕事であるから、これも古語にちがいない。古 0 0 隠岐の文化財 2 71 24 石炭 語にちがいない。古語辞典を調べて見た。これによると三通りの事が出ている。一、鉗(かなぎ)刑具、首かせ。二、堅い木。三、石炭の異名。この内一、及び三は関係がないので除き、堅い木の方を尚さぐって見ると金属のようにかたい木の小さ 0 0 隠岐の文化財 2 71 32 な棒というのがあった。(岩波の古語辞典)これを見た時閃めくものがあったが、はやる心をおさえて全国方言に当って見た。「かなぎ」一、雑木(長野、静岡)二、木質の堅い木(岐阜、京都)三、「かなき」=落葉樹(飛騨)四、「ななぎっぽ 0 0 隠岐の文化財 2 71 39 う」=細い木(常陸)色々と調査しているうちに、祝詞の中に「天津金木本打切末打断」の言葉のある事も分った。金木とあるように堅い木の意味である。因みに隠岐では「かたぎ」又は「かたぎ山」というのは雑木、雑木山の呼び名であるが、古 0 0 隠岐の文化財 2 71 45 老に聞くと「かたぎ」とは樫の木の事だと明解に答えてくれた。隠岐では「かんぎ」に変化したようだ。戦時中南方に行った人達の話をきくと、向うの人達はこの名の通りに堅い細い木を利用して突刺す漁をしていたとの事であるが、「ヤス」(メメ) 0 0 隠岐の文化財 2 71 51 )の事について漁師に聞くと「ヤス」をくくり付ける木は樫の木で元木という。この元木を作るには樫の木の素性がいいのを池や溝などに漬けておいて、板にするのに反りかえらないように工夫する。櫓も櫂も主に樫の木が重宝がられる。素性のよ 0 0 隠岐の文化財 2 71 56 い板を細く引割り、これを削って細い棒にして元木が作られる。「かなぎ」の語源は堅い木の事で、漁の折には折れにくいこの堅い木を尖らせて突いたり、枝をかぎにして引っかけたりする漁の意味である。メメ(ヤス)の字も面白い。昔の矛と読解 0 0 隠岐の文化財 2 71 62 が出来る。これによってヤスも古い出土的な言葉だと分った。四、かなぎ漁は縄文時代いぜんの漁法。縄文時代の漁業(雄山閣、考古学選書)を見ると、この時代の漁業は既に大変な進歩をとげている。漁網もあり鹿角製の網針(あぐり)も長さ1 0 0 隠岐の文化財 2 71 68 0、7センチメ−トル、幅1、6、厚さ0、3センチメ−トルあって、現在のものと変りがない同型のものである。鹿角製の釣針や離頭式の銛なども出土している。勿論舟も独木舟が出土している。千葉県布瀬貝塚などの報告を見ると、内湾のハマ 0 0 隠岐の文化財 2 71 73 グリ、シオフキ、オキシジミ、ハイガイ、クロダイ、スズキ、ウナギ、フグなどは網漁以外に漁具として骨製のヤスを使ったらしくて、骨製のヤスも同時に多数出土しているとあり、その他茨城県椎塚、福田、千葉県大倉南貝塚があげられていて、 0 0 隠岐の文化財 2 72 3 骨製のヤスの形態も直線形でかりのない長さ15センチメ−トル、太さも大小あるが太いもので径1センチメ−トル位なものである。この本には刺突漁業と書いてあるが今回発表の「かなぎ」漁の事である。これで分かるように現代物が綱鉄製のヤ 0 0 隠岐の文化財 2 72 8 スになっている位で大したちがいがない。最近は動物などの生態もよく調べられていて、道具を使うのは人間だけでなく小鳥の一種などでもサボテンの刺とか木の小枝などを口にくわえて、木の中の虫などを突き刺して取り出して食うものとか、海 0 0 隠岐の文化財 2 72 14 ではラッコは貝を石で破って食うなど動物が道具を使う事が分かって来たが、さて人類が道具を使いだした時代は、、、これがすんなりと分るはずがないが、この縄文の時代に骨製のヤスが出土している事から、それ以前に使っていた「かなぎ」製 0 0 隠岐の文化財 2 72 20 のヤスもいつかは発見されるはずである。引っかけて取る、枝で作ったかぎもあるはずである。この如く太古依頼、簡素で時には豪快で清潔で公害のない一幅の絵にもなる美しい漁法が公民館の一隅に「かなぎ」道具として納まりつつあり。「かな 0 0 隠岐の文化財 2 72 26 ぎ」「ツバキ」「ヤス」は三つ揃いの古い古い古語でもある。 0 0 隠岐の文化財 2 73 1 「す」が立つとは何か。木村康信。一、再考の発端。二、発想の手がかり。三、「す」は収納の変化。一、再考の発端。本誌第9号に「島前の植物方言とれに関連する習俗について」を書いた。その中にこの「す」の事にふれ、書物の中でも同意権 0 0 隠岐の文化財 2 73 9 のものもあって安心していたが、その後研究の結果、訂正の必要が生じたので再びこれを取り上げる事にした。方言でも地名でも発生当時そのままでなく、色々な事柄から変化の上に変化を生じている事が多い。そこで語源などをさぐる必要が生ず 0 0 隠岐の文化財 2 73 15 る。その変化の原因は、先ず古代の日本語が文字を持たなかった事で変化ある。その文字のない日本語を漢字を当てはめる事で変化する。漢字で書かれた言葉はそれなりの生命を持って一人あるきをはじめる。そこで又変化する。例えば当地の地名 0 0 隠岐の文化財 2 73 20 で「おねまいどこ」というのを「鬼舞床」と書いてある。この為に尾根の手前の床地という事が分らなくなり、当字によるイメ−ジで動きだす。この近所の「大津」は土地の人に聞くと「おおち」である。漢字を当てるならば「大落」とか「大落谷 0 0 隠岐の文化財 2 73 26 」とでもすればよいところだ。昔の庶民は字を知らず、今の役人もだが現地も知らずに字を当てて書くからこのような混乱が生ずる。まだある、読む事が出来ないから耳から耳への聞伝えで変化する、変化が変化して迷宮入りする。これも西ノ島内 0 0 隠岐の文化財 2 73 32 の大山地区の入口の谷の名であるが「うこじ谷」、これには漢字は当てていたないが地名を告げる者と事情を知らずに地名を書く者との間の勘違い書きちがいである。この谷は別府湾の鵜が大山湾へ渡る時に、谷は低くてここは近道になるので鵜の 0 0 隠岐の文化財 2 73 37 通り道になっている。「鵜越谷」である。またこの地区に「東風長浜」「申酉」などがあって読むのに難儀する。「東風」はコチと読めて、土地の人に色々と聞くと長浜の此方側で分った。何の事はない「こっち長浜」の事らしい。次のは「さと」 0 0 隠岐の文化財 2 73 42 と読むらしいが意味は分らない。当字で分らなくなる例はいくらもある。昨秋の研修旅行の折にも滋賀で日吉神社へ参拝の時に、この宮の祭神は何かと疑問が生じたので同行の人に尋ねると「日吉」は比叡の事であると知らされて、なるほど「日吉 0 0 隠岐の文化財 2 73 48 」はヒエエと感心した。このいきさつを知らない者は字を見たら「ヒヨシ」である。今興味を持っている事の内に牛の神さんがあるが、軍越神と書いてある。これは壱岐ノ島にあって「クサゲ−さん」といわれている。当字の読は「クサゴエノカミ 0 0 隠岐の文化財 2 74 5 」軍がクサである。この事については稿をあらためる事にするが、本題についての例をとり上げるとこの如くである。二、発想の手がかり。「す」は単に隠岐だけの習俗でなく、どこにもある習俗であるのは何故か。これが再調査の発端である。日 0 0 隠岐の文化財 2 74 12 本民俗語大辞典からはよいヒントを得たが、全国方言辞典(東京堂出版)で「す」に関連のある言葉を拾いあげて見ると次のものがあった。一、「しの−」1収穫のこと。(奈良、大分、長崎、熊本)2麦大豆などを連枷(カラサオ)で打落すこと 0 0 隠岐の文化財 2 74 19 。(壱岐)二、「すの−」「しの−」1収穫(大分北海郡)2小作米を上納する定日。(滋賀県伊香郡)3最盛期、しゅん(越後)この如くである。先ず第1の鍵。これほど全国的に分布している言葉の浸透力は何であるか。昔の事で新聞、ラジオ 0 0 隠岐の文化財 2 74 28 、テレビなどのない時代に拡散して行った原動力は何か、無関心出羽浸透しない。強力な関心か、強力な興味か只事ではないと見当をつけて見た。収穫のことや脱穀のこと、最盛期、しゅんの事は百姓にとっての関心事であるが、奈良、滋賀、越後 0 0 隠岐の文化財 2 74 34 から大分、長崎、熊本と広範囲にわたって「しの−」「すの−」は申し合せたようで合点するわけにいかない。この裏に何かがあると目をつけた。滋賀県伊香郡に小作米を上納する定日というのがある。百姓が小作枚を上納する日。役人が百姓に小 0 0 隠岐の文化財 2 74 39 作米を収納するから持って来いという日である。この昔封建時代の事で、百姓と油は絞るほどとれるとかいわれるほどに絞り上げられた時代の百姓にとって、この告知は雷の如くきびしくいかめしく、非情で冷酷に身に浸みて聞こえたにちがいない 0 0 隠岐の文化財 2 74 45 。この非情な重圧がこの収納の言葉の推進力となり、文字を知らない庶民の耳から耳へ伝わり広がって行った。「しゅうの−」が「すの−」「しの−」に変化するのは時日を要さないし、「すの−」「しの−」は百姓の言葉として又独り歩きもする 0 0 隠岐の文化財 2 74 50 。収穫の事につかったり、脱穀になったり、最盛期や旬のことにもなったりする。時には次のような事もあって面白味がつきない。隠岐は言葉の坩堝だなどともいわれるほどの処であるが、その内に次のような事がある。昔流人が来ている、いわゆ 0 0 隠岐の文化財 2 74 56 る島流しの罪人であるが、これに政治犯などの者もかなりあって、島の人達から見ると文化人であっってこの人達から色々な事を教えられている。中でもこの人達の使う言葉に興味を持って自分達も使う。自分達の尊敬している人の言葉だからすん 0 0 隠岐の文化財 2 74 61 なりと使う。この人達が呼ぶ時に「お前」「お前が」「お前に」などといわれるので「お前」はいい言葉だと思っているので、上下の区別なしに使う。最上品なのが「お前さん」という本当の話がある。話が少し長くなったが、この如く上下転倒も 0 0 隠岐の文化財 2 74 67 する。上納日に「しゅうの」という言葉が使われるので自分のとり入れも「しゅうのう」とすんありといえたと思う。「しゅうのう」が「しの−」「すの−」に変化するのに手間暇はかからない。三、「す」は収納の変化語。さて本題にかえって、 0 0 隠岐の文化財 2 74 73 前に書いた通り全国的に分布した推進力は封建時代の強権力だとしたが、分布してしまうと庶民は又それぞれ自分なりに利用し強権力の面影のある言葉をいいかえると注意を引く言葉をうまく利用して使うのも巧みなものである。収納は収納でも納 0 0 隠岐の文化財 2 75 3 めさせられる方ではなく自分のものになる方にも使う。入合地のいわゆる山明とか海明とかの期日は張合があり希望のある収納日なので「しの−」「しの−」が使われた事は当然である。この「すの−」「しの−」が変化しだして「の−」が抜けた 0 0 隠岐の文化財 2 75 8 。「す」「し」となっていまった。ここまで来ると何の事もない、何だという事になるが、例はある西ノ島の2番目の高地に高崎山というのがある。この山は特異な地形をしていて同色物の分布も面白い処であるが、附近の地名も又面白い。まあそ 0 0 隠岐の文化財 2 75 14 の詳細は又の事にして、地名について関連のある事を取り上げると、山の北側に深い谷があってその名が松尾と地図にある。この谷の落ち込む東側に出鼻があって、土地の者は「と−の鼻」とよんでいる。松尾と地名はかいてあるが人々は「マト− 0 0 隠岐の文化財 2 75 19 」と呼ぶ。これは詳しくは地形が「メメ」=まち、の形していて長いので「尾」がついている。まちは着物の脇の下やズボンの股などに当てる三角形の布地の事で、谷の形がこの形をしているので「マチオ」である。書く者はこの事が分らず「マチ」 0 0 隠岐の文化財 2 75 25 が山地だから松にしてしまい松尾となった。土地の者は字に関係なく耳から耳へ「マチオ」が「マト−」となってしまい、例の出鼻の地名は「マチ−の鼻」が「マ」がいつしか抜けて「ト−」の鼻となってしまった。現在は谷の名も常に水気がある 0 0 隠岐の文化財 2 75 30 ので大水谷と呼ばれているので「マト−」の名は消える事になる。この如く自在とも思える変化を遂げるから不思議にもなる。これを調べているうちに、次のような不都合な事があった事も分った。和銅6年といえば諸国に命じて風土記を書かせた 0 0 隠岐の文化財 2 75 37 時代であるが、詔勅で「畿内七道の諸国は(一)郡、郷の名は好字を著けよ」又延喜式の中では「凡そ諸国の郷里の名は二字とし、必ず嘉名を取れ」官命によって日本の地命はこの事で本来の意味とまるで違う事ともなる大変化をとげるもととなっ 0 0 隠岐の文化財 2 75 42 たわけである。さて本題にもどって「す」はその通りとして、次の「立てる」「立つ」は何か。この語感がなんとなく異様な感じに思われるのは何故か、入合権のある所で一斉に物を収穫する事なら自分達御互の事で「触」「ふれ」でいいはず。牧 0 0 隠岐の文化財 2 75 48 畑の牛の牧替などがあると牧司が地下を「触」て廻った。「後山が明いたよ−」とこれは牧が明いたといっている。その他の事でも「○○の山明け」「○○の海明け」の触でよさそうなものである。「明日は海苔のすだよ−」とふれていて、これは 0 0 隠岐の文化財 2 75 53 薪 海苔の「す」が立ったという。考えて見ると牧が明いた場合では個々の都合でいつ放牧してもよいが海苔、薪、草刈、などの場は自分の都合のよしあしはいっておれない、その日にいかなければ、収穫する事が出来ない。このような時、場合、事柄 0 0 隠岐の文化財 2 75 59 の時にかぎって「すが立つ」といっている。これは「す」の浸透力となった強権力のもとではよく触れが「下知の札」として立てられたからで、これも例によって庶民は自分達の生活中に巧に取り入れて使い分けている。例の「お前さん」のように 0 0 隠岐の文化財 2 75 64 それが理にかわうかどんなかではない。雰囲気である自分達の暮しにも「札を立てた」のである。強調したのである。「明日は海苔のすだよう」と触れ役が触れて地下を廻ると、さあ海苔のすが立ったと準備しておいて早朝から家を出て浜へ向かう 0 0 隠岐の文化財 2 75 70 、一家から何人出てもよいから浜は大勢の集まりとなって蜂の巣をつついたようにもなる「すが立った」のである。自分達の集団のきめ事で「すを立てた」のである。その触役を「やくん」というが字を当てるなら役人と書く。この如く巧に生活の 0 0 隠岐の文化財 2 75 75 中へ適当に取り込んで暮している事が分って来た。今年は炬燵の取り上げがおそくて炬燵勉強に都合がよかった。岡目八目以上の如し。 0 0 隠岐の文化財 2 93 1 島前の植物目録(3)離弁花草本。木村康信。丹後亜興。▽和名は「日本原色植物図鑑草本編」(北村四郎ほか、保育社)及び「日本帰化植物図鑑」(長田武正、北隆館)のものを原則として使用した。▽(帰)は、帰化植物又は逸出したものを表 0 0 隠岐の文化財 2 93 9 わす。一時帰化種は省略した。▽樹木編のように種名を一字下げる表記はせず、必要事項はその都度注記した。<せり科>ノチドメ、他もチドメグサやヒメチドメもあると思うが調べていない。ツボクサ。ウマノミツバ。シャク。○ホタルサイコ、 0 0 隠岐の文化財 2 93 18 (少)海岸近くの岩場で時折見かける。中国地方では隠岐にしかないようである。ヤブジラミ。オヤブジラミ。ノラニンジン、(帰)海士(豊田)。ミツバ。ヤブニンジン。ヒカゲミツバ、(稀)西ノ島(高崎山)深い山の陰湿な谷沿いにある。セ 0 0 隠岐の文化財 2 93 28 リ。ハマゼリ。○セリモドキ、秋田から近畿までの日本海側と隠岐に分布する。島前三島共にあるが量は多くない。海士(豊田)壮大な一型があるが、これはまだ結論が出ない。ハマウド。シシウド。<うこぎ科>ウド、(帰)。トチバニンジン、 0 0 隠岐の文化財 2 93 39 (少)。<ありのとうぐさ科>アリノトウグサ。<あかばな科>アカバナ。メマツヨイグサ、(帰)。コマツヨイグサ(帰)。ミズタマソウ。チョウジタデ。<ひし科>オニビシ(稀)海士に数ケ所、知夫にもある。ヒメビシの可能性もある。<み 0 0 隠岐の文化財 2 93 51 そはぎ科>ヒメミソハギ(稀)海士(東)の休耕田で1個体を見たのみ。キカシグサ。ミソハギ(稀)西ノ島(浦郷)<すみれ科>ツボスミレ(稀)西ノ島。オオバタチツボスミレ(稀)西ノ島。典型的なものとやや事なり、同定に不安がある。ナ 0 0 隠岐の文化財 2 93 61 ガバノタチツボスミレ。タチツボスミレ。オトメスミレ、タチツボスミレの品種、純白のシロバナ−もある。スミレサイシン(稀)西ノ島。スミレ。シハイスミレ(少)西ノ島。<おとぎりそう科>コケオトギリ。オトギリソウ。<あおい科>イチ 0 0 隠岐の文化財 2 94 3 ビ(帰)<しなのき科>カラスノゴマ(稀)<ぶどう科>ヤブガラシ(少)。ノブドウ。<つりふねそう科>ツリフネソウ(稀)海士(保々見)<あわごけ科>ミズハコベ。<とうだいぐさ科>ヤマアイ。エノキグサ。ヒメミカンソウ(少)。コニ 0 0 隠岐の文化財 2 94 17 シキソウ(帰)。ニシキソウ(少)。オオニシキソウ(帰)海士(保々見)。トウダイグサ。○イワタイゲキ(稀)松島に知られていたが、大山、倉ノ谷、日ノ津の海岸にも点在する。暖地系の植物であるが、山口県から隠岐へとび、さらにとんで 0 0 隠岐の文化財 2 94 25 北陸に達する。<ひめはぎ科>ヒメハギ。<かたばみ科>タカバミ。ムラサキカタバミ(帰)。ミヤマカタバミ西ノ島。<ふうろそう科>ゲンノショウコ、隠岐は白花が多い。<まめ科>○クララ(稀)海士(東)隠岐ではごく稀。クサネム。ヤハ 0 0 隠岐の文化財 2 94 38 ズソウ。ネコハギ。メドハギ。ヤマハギ。ヌスビトハギ。マルバヌスビトハギ、島根県内では、隠岐に特に多いという。ヤブハギ。ミヤコグサ。ハマエンドウ。ヤハズエンドウ、シロバナもある。キバナカラスノエンドウ(帰)美田。カラスグサ。 0 0 隠岐の文化財 2 94 51 スズメノエンドウ。ナンテンハギ(少)知夫松島。クサフジ(少)西ノ島(船越)。ナヨクサフジ(帰)。ムラサキツメクサ(帰)。シロツメクサ(帰)。コメツブツメクサ(帰)クスダマツメクサ(帰)美田。ウマゴヤシ(帰)。コマツナギ(少 0 0 隠岐の文化財 2 94 60 )。ゲンゲ時に白花もある。ヤブツルアズキ。ホドイモ。ヤブマメ。ツルマメ。クズ。ノアズキ。タンキリマメ。<ばら科>キンミズヒキ。ダイコンソウ。ヘビイチゴ。オヘビイチゴ。キジムシロ(稀)松島。イワムシロ(帰)知夫(赤禿山)、珍 0 0 隠岐の文化財 2 95 11 品である。<ゆきのした科>ヤマネコノメソウ。○ホクリクネコノメ(稀)西ノ島。雄蘂が萼裂片より短く、ボタンネコノメソウの特徴も有する。コチャルメルソウ(稀)西ノ島と知夫それぞれ1ケ所で見たのみ。○アカショウマ、問題のある種で 0 0 隠岐の文化財 2 95 20 あるがアカショウマに一番近いと思う。隠岐には本土の対応種と微妙に形態の事成るものがままある。ダイモンジソウ。ユキノシタ。<べんけいそう科>○ツエレンゲ(稀)西ノ島(三度)島後にも知られておらず貴重。○キリンソウ(少)正規の 0 0 隠岐の文化財 2 95 29 発表はされていないが、カンザシキリンソウの和名が与えられた。○ミツバベンケイソウ(稀)西ノ島、海士。本州西南部では稀な種とも言われている。島根県本土側にもあり、アオベンケイとする説もあるが、少なくとも隠岐のものは本種と思わ 0 0 隠岐の文化財 2 95 37 れる。ヒメレンゲ。タイトゴメ。<あぶらな科>ハマダイコン(帰)。セイヨウアブラナ(帰)なずな。マメグンバイナズナ(帰)。ジャニンジン。タネツケバナ。ミズタネツケバナ。オオバタネツケバナ。ユリワサビ(稀)高崎山系、深山の谷川 0 0 隠岐の文化財 2 95 50 に育つ。ヤマハタザオ(稀)高崎山。ハマハタザオ。○フジハタザオ(稀)高崎山の一つの谷で見られるのみ。細分する説に従えば、シコクハタザオであろうか。島前のはケナシである。イヌガラシ(帰)。○メイヌナズナ(稀)知夫の赤禿山に群 0 0 隠岐の文化財 2 95 59 生する。イヌナズナの果実に毛のない品種で、日本では稀。<けし科>ヤマエンゴクサ(稀)高崎山。ムラサキケマン。○ミヤマキケマン(稀)西ノ島(美田)ぴったりしない点もあるがミヤマキケマンに一番近い。フウロケマンにも似ている。今 0 0 隠岐の文化財 2 96 2 後の課題である。キケマン(少)。<つづらふじ科>ツヅラフジ。アオツヅラフジ。<めぎ科>トキワイカリソウ、すべて白花。<きんぽうげ科>○ヤマシャクナゲ(稀)高崎山。ハンショウヅル。ボタンヅル。センニンソウ。○ニリンソウ(稀) 0 0 隠岐の文化財 2 96 15 高崎山。北方の植物で県下でも少ないのではないかと思われる。島後でもまだ見ていない。イチリンソウ(稀)高崎山系。アキカラマツ(少)。タガラシ。キツネノボタン。○シマキツネノボタン(少)西ノ島。台湾、琉球に多く、本州では、山口 0 0 隠岐の文化財 2 96 24 、島根の標本わずか数枚という稀少植物。<なでしこ科>カワラナデシコ、エゾカワラナデシコに見えるものもある。シロバナカワラナデシコ。○ハマナデシコ(稀)知夫。隠岐では他で知られていない。ナンバンハコベ、絶えたのか今回確認でき 0 0 隠岐の文化財 2 96 34 なかった。島後にはある。フシグロ。マンテマ(帰)。シロバナマンテマ(帰)。ツメクサ。ミミナグサ(少)。オランダミミナグサ(帰)。ウシハコベ。コハコベ。ミドリハコベ。ミヤマハコベ。ノミノフスマ。<すべりひゆ科>スベリヒユ。< 0 0 隠岐の文化財 2 97 6 ざくろそう科>ザクロソウ。ツルナ。<やまごぼう科>ヨウシュヤマゴボウ(帰)。ヤマゴボウ(帰)。<ひゆ科>ヒナタイノコズチ。イノコズチ。ホソアオゲイトウ(帰)。イヌビユ。<あかざ科>オカヒジキ。ハマアカザ。ホソバハマアカザ、 0 0 隠岐の文化財 2 97 20 他に1、2の帰化種があるが詳しく調べていない。ケアリタソウ(帰)最近特にふえた。シロザ。アカザ。<たで科>ヒメスイバ(帰)。スイバ。エゾノギシギシ(帰)知夫には特に多く、赤禿山には一面にある。コギシギシ、多くはない。ギシギ 0 0 隠岐の文化財 2 97 31 シ。アレチギシギシ(帰)。ミズヒキ。ミチヤナギ。アキノミチヤナギ(少)。イシミカワ(稀)海士(菱浦、北分)。ママコノシリヌグイ。ミゾソバ。アキノウナギツカミ(少)。ヤノネグサ(稀)海士(中里、御波)。シロバナサクラタデ。ヤ 0 0 隠岐の文化財 2 97 42 ナギタデ(少)白花もある。オオイヌタデ。ハナタデ。イヌタデ。シロバナイヌタデ。イタドリ。<うまのすずくさ科>○マルバウマノスズクサ(少)日本海側を山形から島根までと長野に分布するとされるが、中心は島根と長野のようである。こ 0 0 隠岐の文化財 2 97 52 の種のような長野、島根、朝鮮型の分布は他にもあって奇妙である。○ウスバサイシン(稀)高崎山。本来本州の東北、中部の植物。県下では奥出雲にもあるという。<いらくさ科>イラクサ。コバノイラクサ、西ノ島。托葉は離生するが疑問が残 0 0 隠岐の文化財 2 97 61 る。ムカゴイラクサ(少)。ミヤマイラクサ(稀)西ノ島。アオミズ。ウワバミソウ(少)。クサマオ。ナンバンカラムシ(帰)。アカソ(稀)焼火山。ナガバヤブマオ(少)西ノ島。ヤブマオ。オニヤブマオ。<くわ科>クワクサ。カナムグラ。 0 0 隠岐の文化財 2 98 13 <せんりょう科>ヒトリシズカ。フタリシズカ(少)西ノ島。<どくだみ科>ハンゲショウ(少)。ドクダミ。補遺(2)合弁花草本。<ごまのはぐさ科>ムシクサ(稀)海士(日ノ津)。<しそ科>フトボナギナタコウジュ(稀)国賀。 0 0 隠岐の文化財 2 100 26 十方拝礼 山王田楽之抄。先ツ中門口、次ニ四天出、次ニ小ざさら、次ニ惣おどりの次第、左右ながら舞出て、正面へ向テ先ツ左へ渡リ候也。又右へ渡リ候也。向合テ左右ながら正面えなびきして、又楽屋へなびきして又向合テすりちがいして、次に正面へ向 0 0 隠岐の文化財 2 100 32 十方拝礼 テ外をおがみ内をおがみ、又楽屋へ向テ外をおがみ内をおがみ、すりちがいして、座渡りして、我が座のごとくおどりて、又すりちがいして、まるく成て、順ニ渡りて人の座にてうつして、外にてあふぎをとり、ひらいて渡り候也。又我が座にてう 0 0 隠岐の文化財 2 100 37 十方拝礼 つして、もどして、内にてあふぎをおさめて、はら合、せな合して、向合テすりちがいして、次ニ順ニ立車、居車であとへ戻り候也。次ニ向合テすりちがいして、立わき、居わきして、又まわり合て、すりちがいして、笠合して、左右へのぞき合て 0 0 隠岐の文化財 2 100 43 十方拝礼 、又うしろ向テ、おい合テ次ニ立せきを正面へして、居せきを楽屋へあとさまへ引候也。寛永5年辰9月9日。浦郷山王御祭礼之時記之者也。田楽ならしの師美田邑龍沢寺住玄良入道。美田村長福寺住良快代田楽抄者、寛永4年8月吉日與(と)有 1628 909 寛永5年 隠岐の文化財 戊辰 2 100 50 十方拝礼 之候抄を元禄拾壱寅八月晦日ニ取寄見合をし所々少も相違無之御座候也。真野左京輔。右之抄寅八月晦日写之村尾安右衛門。右資料は、浦郷町誌の中にもあるが、不備なものであり今度「渡辺文書」(海士、崎)の中に完本が発見されたので資 0 0 隠岐の文化財 2 100 57 十方拝礼 料として複刻した。通常「十方拝礼(しゅうはいら)」といわれているが、文書では「田楽」となっている。踊りは同じことの繰返しであるのでこうのような骨子を記録して練習したものであろう。寛永4年(1627)元禄11年(1698)。 0 0 隠岐の文化財 2 100 62 十方拝礼 美田村龍沢寺は長福寺の末寺で、美田八幡宮田楽の中門口を勤める寺であったが今はない。真野左京輔は真野家(中原)、村尾安右衛門は村尾家(大上)の先祖。(松浦康麿) 0 0 隠岐の文化財 2 101 1 焼火 沙門良源勧進帖。松浦康麿。勧進沙門敬白。請特蒙十方旦那助縁之。隠州嶋前知夫利郡美多庄焼火山雲上寺。遂造営願望状。竊以当社権現。従神代至今石躰涌出。無年序知人。神託無疑。論迹。焼火権現尋本地地蔵薩地メメ也。毎日晨朝勤無懈怠。代 0 0 隠岐の文化財 2 101 1 焼火 火権現社の縁起書としては、同社に伝わる万治2年(1659)の奥書のあるもの、寛文7年(1667)の「隠州視聴合記」所収の「焼火権現縁起」などが知られる。このほか、「増補隠州記」(貞享5年=1688)や「諸国里人談」(寛保3 1659 0 万治2年 隠岐の文化財 己亥 2 101 8 衆生苦患。成無仏世界導師。教庶悪特善。現世海上船闇迷時者。燈立知方角。教息災安穏泊。繋纜礒メメ。当発撮メメ任力所。能津指棹夜光影移船子。引帆莚。内加言詞。商才福禄任意。此是非私力。只是神力至所也。後生放獄屋光明。引導受苦衆生。 0 0 隠岐の文化財 2 101 12 成八功徳池。同業衆生皆得無上忍。心蓮妙果鮮。頓證菩提速。倩安山躰。峯高表上求菩提。谷深顯下化衆生。樹林春花。憧形移表密厳国花蔵。春日出雲顯覚王妙躰。深山龝紅荘衣服玉玉錦。似安養界浄土。秋月指山端影。現大日尊躰。薫沈檀交芳。 0 0 隠岐の文化財 2 101 17 山中蒭蕘爭メメ行歩急。麓海上メメ弘誓深歴メメ不思議力。打岸波音漫々出四徳波羅密聲。爾則。後鳥羽院法皇。通此峯。詠詩句加金詞。門岳法師運此宮歩。奉和語。則有玉報。爰以当山為興隆。敲十方門戸。請貴賎男女合力。欲調権現造営。是故不輕一 0 0 隠岐の文化財 2 101 22 焼火 針一句さ。無撰半紙半銭。出内財。投外財。是帰依信仰メメ(トモガラ)。抜苦与楽得道起通。仍勧進之趣蓋以如件。于時天文九年今月今日本願敬白。隠岐島前(どうぜん)の焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)(焼火権現社別当寺)の現社地 1540 0 天文9年 隠岐の文化財 庚子 2 101 25 焼火 への造営にあたり、天文9年(1540)に沙門良源(焼火山二代)によってたためられた勧進状。1本の巻子に表装され、焼火神社に所蔵される。原本には判読不能の欠損部分が数か所あり、天明3年(1783)の圭快(焼火山十一代)の写本 1540 0 天文9年 隠岐の文化財 庚子 2 101 29 焼火 によってこれを補った。また、不正確な文字には で傍注を適宜ほどこし、原本にはない返り点、読点を天明本によって補った。内容は雲上寺造営(再建)の勧進にあたり、古来より、「海上の神火」として知られてきた焼火権現社の縁由や霊験 0 0 隠岐の文化財 2 101 33 が簡潔に述べられている当社が衆生済度、わけても航海者の導きの火としていかにその霊験が篤かったかが説かれ、雲上寺再興の浄財を広く衆庶に求めていたことがそこにうかがえる。したがって、本書は勧進状の形をとりながらも、縁起由来書の 0 0 隠岐の文化財 2 101 37 焼火 性格を合わせ持っていたともいえ、他の焼火権現の縁起類にはみられない記述も1、2散見される。たとえば「当社権現従神代至今石躰涌出……」の記述から、焼火権現の御神体が磐石であったことがうかがわれ、古代の磐座信仰の存在を想像させ 0 0 隠岐の文化財 2 101 41 焼火 る。たま、焼火権現の本地補と毛が地蔵菩薩であったことも記され、伯耆大山の本ととの対比もそこに推察される。これは、焼火権現が古来、大山権現とも称され、式内社大山神社の神体山として信仰されてきたとうする伝とも関わっていよう。焼 0 0 隠岐の文化財 2 102 4 焼火 年=1743)などにも焼火権現信仰の記事がみえる。しかし、これらの縁起や記事はいずれも江戸期以降のものであり、内容的にも本書と類似性が多いことなどから、年代的より古い本勧進状はそれらの基礎をなしていたとも考えられる。もっと 0 0 隠岐の文化財 2 102 9 焼火 も、隠岐の焼火山の御神火や焼火権現については、平安末期にすでにその名が知られていた。すなわち、「日本後紀」(巻8)承和5年(838)や「日本三代実録」(巻20)貞観13年(871)、さらには「栄華物語」(巻36)などにその 838 0 承和5年 隠岐の文化財 戊午 2 102 13 記事が散見されるので、本勧進状の霊験由緒の記述も、それらをもとにしていたであろうことは疑えない。そして中世になり、承久の変後の後鳥羽院の隠岐配流によって、その霊験はいやが上にも高められたものとみられる。本書λも「後鳥羽院法 0 0 隠岐の文化財 2 102 17 焼火 皇通是峯、詠詩句」とみえ、その一端がうかがわれる。すなわち、院が隠岐を目ざし、風波荒狂う海上に漂流していた折、雲間はるかの焼火の峯に突如御神火が現れた。そのとき院が詠じだのが、「灘ならば藻潮やくやと思ふべし何をたく火の煙な 0 0 隠岐の文化財 2 102 21 焼火 るらん」の歌であったとされる。そして、焼火の神の霊験あって風波は静まり、船は無事に隠岐の湊に導かれたという。こうした航海安全の焼火神の霊験譚が、その後近世以降にまで伝えられ、竜燈神事やお灯明の行事として伝承されてきたものと 0 0 隠岐の文化財 2 102 24 焼火 思われる。その背景には、焼火山の名称由来とあいまって、実際に火が焚かれてきたことをうかがわせる。漁師や航海者の「山アテ」伝承については古く各地にしられるところで、燈台以前の原始漁法や航海の目印がそこに必要とされてきた。海上 0 0 隠岐の文化財 2 102 28 からよくみえる峯の頂きや、ひときわ目立つ山頂の大杉などがアテとされることが通例だが、霊山には常夜燈や燈明台があって、元はそこに実際火がともされ航海の目標とされてきたらしい。とりわけ修験霊山では、常火をたやさずに燃やし続ける 0 0 隠岐の文化財 2 102 32 ことに最大の意味をみとめ、それによって聖なる神の力が象徴化された。厳島弥山や山寺立石てらの「消えずの火」、羽黒山荒沢寺の浄火など、近年にまで火を焚き続けてきたことはよく知られている。この、山の聖火と海上の信仰との密接なる関 0 0 隠岐の文化財 2 102 35 焼火 わりから、海の修験道となる存在をそこにみてゆかねばならないだろう。焼火山では火こそ焚かれなくなったが、山頂近くにある神社の常夜燈には今も電気のあかりがともされ、実際灯台の役目をはたしている。隠岐汽船が焼火山の下を通航する際 0 0 隠岐の文化財 2 102 39 焼火 には汽笛を鳴らすのが習わしで、そこには航海神としてのかつての焼火権現の信仰が、今なお息づいている姿をみることが出来る。なお、本勧進状の筆者の沙門良源は良賢とも称され、天明写本の奥書には薩摩国坊津(ぼうづ)の人とみえるが、そ 0 0 隠岐の文化財 2 102 43 の来歴の詳細は不明である。ただ、雲上寺は中世後期以降、紀州国の道玉により開山されたといわれるので、良源はその二代目として開山道玉と子弟関係にあったとも推察される。しかも開山道玉は、その伝承や遺物などから熊野の山伏であったと 0 0 隠岐の文化財 2 102 47 思われるので、良源もその系譜に連なる熊野系の修験者だったことが予想される。他方、中世室町期から江戸期にかけ、隠岐は天台系の本山修験たる京都住心院のもっとも有力な霞場であったといわれる。一般に天台系の本山山伏には熊野修験の影 0 0 隠岐の文化財 2 102 50 焼火 響が色濃くみられ、隠岐ノ島の場合にもその痕跡が多く知られる。古来、焼火権現の霊験を広く知られてきた雲上寺の良源が、中世末から近世初めにかけての隠岐修験みちの中心的役割を担った、熊野系の山伏あるいは聖的存在であったことは十分 0 0 隠岐の文化財 2 103 2 焼火 考えられるところであろう。なお、良源について追記すると、「美田邑来歴」(寛文2年頃の成立)に、美田村の内高崎山という焼火山に次いでの高山にあった「坊」(現在此処には山神祠がある)を兼帯し「不断の行法は魔法飯綱(いづな)を修 0 0 隠岐の文化財 2 103 6 行し」云々とあり、又遺物としては山伏姿の木像と同人使用のものと伝える錫杖と法螺貝が保管されている。本資料は「修験道史料集2(名著出版刊)に載せたものを転載した。 0 0 隠岐の文化財 3 0 1 焼火 表紙・口絵解説。隠岐・焚火ノ社 北斎漫画。隠岐島前の焼火権現の信仰は島内のみでなく、日本海航路の開発と共にその信仰圏は、日本海沿岸から東北の太平洋岸にまで及んでいた。この船人の信仰を、北斎・広重共に画いている。本図は 0 0 隠岐の文化財 3 0 3 焼火 北斎漫画(文化十一年から刊行十五編ある)七編の中にある「諸国名所絵」の中に画かれているもの。焼火信仰の特色は神火示現の信仰で、航海安全の神として船人の間に強い尊崇を受けていた。ここに画かれている図柄も北前船における海上平穏を祈る献灯の行事を 0 0 隠岐の文化財 3 0 7 画いたもので、この作法は明治初年頃まで行われていたという。葛飾北斎(1760〜1849)江戸本所割下水に生れ、90歳の長寿を保ち、うまずたゆまず画作につとめた人であるから、各時期に応じて画格に変化がある。北斎は数多くのいわゆる「名所絵」を画いているが、 0 0 隠岐の文化財 3 0 10 焼火 すべて現地に往き写生して画いたわけではなく(北斎、広重共に山陰にきた事実はないという)、想像によって画かけたものも多い。この「焚火ノ社」も江戸に於て焼火社の信仰の話を聞いて想像して画いたものであろう。話はちょっとそれるが、焼火権現から今も出している 0 0 隠岐の文化財 3 0 13 焼火 「神銭守(ぜにまもり)」は江戸時代年間相当多くの数を江戸に送って頒布していた記録もあるから隠岐を知らぬ江戸の庶民も「神銭守」を通じて焼火信仰の話を聞いたのであろう。神銭守の事は玩銭蒐集家の残した「板兜録」という記録の中にも出ている。 0 0 隠岐の文化財 3 0 16 焼火 また、この神銭守の事は「焼火山縁起」の中にも一項を設けてのべられている。なお、現在は「焼火」と書くのが普通であるが、江戸期には焚火、託日とも書れ、ちょっと変っているのは離火とも書かれているが、いずれも焼火の事である。(松浦康麿記) 0 0 隠岐の文化財 3 1 1 <書跡>紙本墨書、笠置家文書十八通。所在地、隠岐郡西ノ島町大字美田573(笠置家)。所有者、笠置真風。内容、一、正元元年潤十月二十五日八幡宮子々職補任状(1259)二、建治二年九月五日北条家下文(1276)三、建治三年四月 1259 1025 正元元年 隠岐の文化財 己未 3 1 12 □日北条家下分(1277)四、正中三年四月七日北条下分(1326)五、建武元年五月七日大山社社領打渡状(1334)六、暦応元年八月□日美多庄一分方公文補任状(1338)七、応安二年六月二十四日美多庄一分方公文職并浄蓮跡宛下 1338 800 延元3年 隠岐の文化財 戊寅 3 1 21 状(1369)八、康暦元年六月一日田地証文(1380)九、康暦元年六月一日田地証文(1380)十、応永三十四年卯月十六日沙汰状(1427)十一、文明十六年八月十五日三沢為清証状(1484)十二、文明十九年五月十五日三沢式部 0 0 隠岐の文化財 3 1 28 証状(1487)十三、永禄八年五月六日尼子義久証状(1565)十四、天正十年二年七日清家証状(1582)十五、天正十三年十一月一日簾宗二郎証文(1585)十六、天正十五年八月十七日簾宗二郎外連署証状(1587)十七、年不詳 1565 506 永禄8年 隠岐の文化財 乙丑 3 1 37 山中幸盛外連署証状。十八、年不詳中村彦兵衛外連署証状。(註以上十八通、名称は東大史料編集所の命名による)指定事由。笠置家は尼の村上家と共に中世依頼の在地豪族で、島内で一番多くの「中世文書」が保管されており、その中昭和50年 0 0 隠岐の文化財 3 1 42 4月には永禄から寛文に至る間のもの11通「隠岐島に於ける毛利政権の浸透と、それに伴う近世郷村社会の成立を知る史料」として県指定をうけた(島前の文化財5号参照)。今度の指定対象文書は、右のものより古い鎌倉、南北朝、室町前期の 0 0 隠岐の文化財 3 1 48 もの18通で、この中には、当時の為政者の所在地を伺うにたる資料、後醍醐天皇黒木御所行在所に関連あると思われる資料等も含まれている。内容については本書「新指定の笠置文書」を参照頂きたい。先に県指定のもの11通と、今度指定の1 0 0 隠岐の文化財 3 2 7 8通を合せると「笠置文書」の総てである。この外に同家には「系図」も保管されているが同家の意向もあり除いた。また内容に検討を要するものも含まれてはいるが、島内では数少ない「中世文書」であるのでその総てを指定する事にした。(松浦記) 0 0 隠岐の文化財 3 3 1 焼火 <書跡>紙本墨書、焼火山縁起書一巻。所在地、隠岐郡西ノ島町焼火神社。所有者、焼火神社(宮司、松浦康麿)。指定事由、焼火山縁起の近世に於ける集大成であり、奥書は万治二年秋八月とあり。作者は松江藩士で寛文年間隠岐郡代を勤め「隠 1659 800 万治2年 隠岐の文化財 己亥 3 3 10 焼火 州視聴合紀」を著した斎藤勘助豊宣で斎藤家の二代目である。この仁は隠州視聴合紀を著わすほどの人であるので、郡代勤務中たまたま焼火山へ登拝し、当時の別当より色々と縁起につて聞き、それをまとめたのが本縁起であろう。豊宣は「焼火山 0 0 隠岐の文化財 3 3 15 焼火 縁起」のみでなく、「文覚論」も書いており、そのいずれも視聴合紀の巻末に載せている。また、この外に「焼火山由緒記」もあり、この中には当時の龍灯祭の事に就いて記している。奥書、干時萬治二年秋八月。雲陽散儀生藤、弗纈緩子誌。とあ 1659 800 万治2年 隠岐の文化財 己亥 3 3 21 が弗緩子は豊宣の号である。現存のものは、「延宝九年」松江藩士静宇木子の筆になるもの。これは前期豊宣書のものが相当破損したので上書して巻子に仕立てたものである。島内にも縁起書の残った神社も数社あるが、半紙綴のものが多く、これ 1681 0 天和元年 隠岐の文化財 辛酉 3 3 27 らの代表として本縁起を指定した。(松浦記) 0 0 隠岐の文化財 3 5 1 焼火 <書跡>紙本墨書、沙門良源勧進帖一巻。所在地、隠岐郡西ノ島町焼火神社。所有者、焼火神社(宮司、松浦康麿)。指定事由、焼火神社は古来より日本海に於ける海上守護神とし、その霊験は顕著で、殊に江戸期に於ては日本海々路の開発と共に 0 0 隠岐の文化財 3 5 9 焼火 信仰圏は遠く東北の太平洋岸まで及んでいた。本勧進帖は天文9年の奥書のあるもので、島内では最も古いもの。筆者良源は、雲上寺別当二代目と伝え、薩摩国坊ノ津の産と焼火山過去帖には記されているが、詳細はわからない。唯同人の遺物とし 1540 0 天文9年 隠岐の文化財 庚子 3 5 15 焼火 て錫杖と法螺貝が保管されており、山伏姿の木像も残っている。焼火山雲上寺の開山は紀州国道玉とある処からすると、熊野系の修験者であったと思われる。後、江戸期に成る焼火山縁起の基礎をなしたものと思われ、焼火信仰を知る上で貴重であ 0 0 隠岐の文化財 3 5 21 る。本文は「隠岐の文化財」2号に復刻してあるので参照されたい。なお本文中に「後鳥羽院法皇、通此峯、詠詩句、加金詞。門岳法師運此宮歩奉和語」云々とある処よりして、門岳は文覚にあらざるかとの一家言をなした方もあった。(松浦記) 0 0 隠岐の文化財 3 6 1 <天然記念物>エドヒガン。所在地、隠岐郡西ノ島町大字美田小向区有林。所有者、小向区共有。山桜の一種エドヒガンは、本州、四国、九州、朝鮮半島(済州島)などに分布している。この桜は長寿で、現存するもので1800年(神代桜)、1 0 0 隠岐の文化財 3 6 9 200年(薄墨桜)、1000年(久保桜)、島後の世間桜は600年位といわれている。普通樹高は20メ−トル位で、幹も目通りの径が3メ−トル位にもなるものがある。その花もヒガン桜の如く小形ではあるが、有がで名木と称せられるもの 0 0 隠岐の文化財 3 6 14 も多い。勿論その材も貴重である。我が隠岐島では植林事業が極端にまで進み、この如き山桜はその数が僅かである。特に島前は古代から焼畑農、牧畑から植林と進み、只今に於てはエドヒガンは僅かにこの1本が残るだけに至っている。これも造 0 0 隠岐の文化財 3 6 20 林地の緑に萌芽木として残り、萌芽推定年齢は植林木より百年位と思われる。その高さ役17メ−トル、根周り2、3メ−トルで3本立となって目通りはそれぞれ1、4メ−トル、1、0メ−トル、0、8メ−トルあり、枝は箒状に伸びて樹勢は良 0 0 隠岐の文化財 3 6 29 好である。花の色も淡紅色で4月初旬に満開となる。(木村記) 0 0 隠岐の文化財 3 11 1 古代隠岐の郷里について。佐藤信。一、はじめに。子痔あの隠伎国は日本海諸国の中でも藤原宮跡、平城宮跡から出土する貢進物荷札木簡の例が多く、注目される。(1)それは、同じ日本海諸国に属する若狭国が8世紀には中央への塩の貢進地と 0 0 隠岐の文化財 3 11 6 としての性格を担った(2)のと同様、隠伎国が海藻の貢進地として「御食国」の役割を負ったことによるのであろう。これまでに出土した隠伎国関係の木簡を整理すると表1隠伎国木簡一覧のようになる(3)。これらの隠伎国木簡はその形態、 0 0 隠岐の文化財 3 11 11 記載形式、記載内容のすべてにわたり豊富な歴史的内容を伝えてくれているが、その概要については別稿にゆずり(4)、ここでは隠伎国木簡にみえる地名についてといりあげ、とくにその郷里について、文献史料も合せて検討を加えてみることに 0 0 隠岐の文化財 3 11 15 したい。なお、1983年10月に隠岐島前、島後の各地を訪れて木簡貢進地の現地を一見する機会を得たが、その際に御世話になった島根県、隠岐島前島後の方々から多くの御教示を得ていることを記し、改めて御礼申し上げておきたい(5)。 0 0 隠岐の文化財 3 11 19 二、古代隠伎郡郷研究の歩み。古代隠伎の郷里の検討は、これまでにも幾多の研究が行われており、それに負う所が多いので、まずその概要を記しておきたい。古代隠伎の郡郷の全体について、特に現地比定をふくめて考察した研究には次の諸書が 0 0 隠岐の文化財 3 11 23 ある。(1)「大日本史」国郡志。(2)吉田東伍「大日本地名辞書第三巻中国、四国」(1900年)(3)邨岡良弼「日本地理志料」(1902年)(4)島根県「島根県史第四巻国司政治時代」(1925年)以上の諸説をまとめたものが表 0 0 隠岐の文化財 3 11 28 2隠岐の郷里木簡と郷里比定諸説である。(2)と(3)は詳細に郷の現地比定を行っているが、「和名類聚抄」の郷名をもとに比定した(2)と、郡名を冠した郷を「和名類聚抄」が脱簡したものとみて新たにその推定地を加えている(3)との 0 0 隠岐の文化財 3 11 31 間に相違点が大きい。これらの研究を参照しつつ、隠伎全域の各郡郷の位置について論及したものに、(5)島根県隠岐支庁「隠岐島誌全」(1933年)(6)永海一正「隠岐の歴史」(1965年)(7)中林保「隠岐国」(古代日本の交通路 0 0 隠岐の文化財 3 11 37 3」)(1978年)(8)田中豊治「隠岐島の歴史地理学的研究」(1979年)(9)「角川日本地名大辞典三二島根県」(1979年)とくに巻末の杉本邦太郎氏作成の図などがある。右の他、隠伎全域ではないが、各町村について古代の所 0 0 隠岐の文化財 3 11 42 属郷を検討した地元の史、誌として、(10)「浦郷町史」(1952年)(未見)(11)横山彌四郎編「知夫村誌」(1960年)(12)永海一正「黒木村誌」(1968年)(13)田邑二枝「海士町史」(1974年)(14)「西郷町 1968 707 昭和43年 隠岐の文化財 戊申 3 12 2 誌上巻」(1975年)等が挙げられる。また、郡郷の比定にかかわる「延喜式」神名帳所載の隠伎邦十六座の式内社の所在地をめぐっては、(15)「大日本史」神祇志(16)伴信友「神名帳考証」(「伴信友全集第一」)(17)志賀剛「式 0 0 隠岐の文化財 3 12 8 内社の研究第四巻山陰道編」(1981年)(18)式内社研究会編(隠岐は松浦康麿、半田彌一郎執筆)「式内社調査報告第二十一巻山陰道4」(1983年)などがある。古代隠伎の郡郷については以上の諸研究がすでに詳しく論じているが、 0 0 隠岐の文化財 3 12 13 その後木簡という第1次(同時代)史料が出現したことによって新しく得られる知見もある。そこで、以下改めて諸研究を整理するとともに、検討を加えてみることにしたい。三、古代隠伎の郷里。まず隠伎の国名からはじめて、各郡の郷里の検討 0 0 隠岐の文化財 3 12 17 に入ることにしよう。なお、本稿では国郡郷里名はできるだけ奈良時代の表記法に従うことにする。以下引用する隠伎国木簡については、表1、表2、および表3、木簡にみえる古代隠伎の郷里を参照されたい。また小字地名について、表4、表5 0 0 隠岐の文化財 3 12 21 隠伎の小字一覧を付載しておく。〔隠伎国〕古代隠伎の国名表記については、すでに永海一正氏の「旧国造時代には意伎、天平時代には隠伎、延喜以降は隠岐となっている(6)」という指摘がある。隠伎国木簡をみると、藤原宮木簡では国名を省 0 0 隠岐の文化財 3 12 26 いて評名、郡名から記載をはじめているため国名表記はわからないが、平城宮木簡ではすべて国名を「隠伎」をしている。これは天平5年(733)隠伎国政税帳など当時の同時代史料である正倉院文書にもみられる傾向であり、天平年間を中心と 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 3 12 30 した奈良時代に「隠伎」と国名が表記されたことは間違いない。六国史をみると、「続日本紀」(延暦13年〔794〕、同16〔797〕撰)では「隠伎」と「隠岐」の表記が相半ばするが、「日本後紀」(承和7年〔840〕撰)以降はほとん 794 0 延暦13年 隠岐の文化財 甲戌 3 12 34 ど「隠岐」に統一されている。すくなくとも奈良時代後半頃までは「隠伎」の国名表記が用いられたものと推測できる(7)。隠伎国の諸郡は天平5年(733)隠伎国正税帳では、智夫郡、海部郡、周吉郡、役道郡(隠地郡)と出雲国からの道程 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 3 12 37 の順に記されており、「延喜式」「和名類聚抄」でもそれは変らない。以下各郡はその順に、各郷里については「和名類聚抄」の記載順にとりあげることにしよう。「智夫郡」隠伎国木簡では知夫利評→知夫利郡→知夫郡→智夫郡という郡名表記の 0 0 隠岐の文化財 3 12 43 変遷がうかがえる。藤原宮木簡に「知夫利」と記されてるように、チブリと訓む郡名が、和銅6年(713)制による2字の好字を用いた郡名への統一化(8)によって「知夫」の2字表記に改められたのであろう。そしてそれ以降「智夫」の表記 713 0 和銅6年 隠岐の文化財 癸丑 3 12 46 が用いられたものと思われる。「日本後紀」(延暦18年[799]五月丙辰条)、「続日本後紀」(承和9年[842]9月乙巳条)には「智夫郡」とみえるが、「延喜式」「和名類聚抄」では「知夫」をとっている。〔宇良郷〕木簡にはまだこ 799 500 延暦18年 隠岐の文化財 己卯 3 12 51 宇良郷のものは出ていない。吉田東伍「大日本地名辞書」以下、諸説とも現在の島前西ノ島の浦郷ウラゴウを中心とする地域に推定しており、その範囲は別としてほぼ異論はない。〔由良郷〕藤原宮木簡にすでに「知夫利郡由良里」がみえ、平城宮 0 0 隠岐の文化財 3 13 2 は、智夫郡が養老令の戸令郡条(「令義解」)にいう小郡(3郷以下)ではなく、すくなくとも下郡(4〜7郷)に属していたことを示している。そしてこの事実は、天平5年(733)隠伎国正税帳に智夫郡郡司が大領、主帳とあって下郡以上の 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 3 13 4 木簡にも「智夫郡由良郷」とある。由良郷の地については、(一)知夫里島をあてる「大日本地名辞書」説(9)、(二)西ノ島東部の旧別府ベップ村をあてる「大日本史」国郡志説(10)、(三)西ノ島西部の域奈(イキナ)、赤之江シャクノ 0 0 隠岐の文化財 3 13 7 、美田部ミタベ、珍崎チンザキをあてる「島根県史」せつの三説が鼎立している。(一)説は宇良郷と三田郷が西の島に属することから残る由良郷を知夫里島とみたのであろう(11)。(二)説、(三)説は、智夫郡に「和奈類聚抄」の脱簡とし 0 0 隠岐の文化財 3 13 11 て他に知夫郷の存在を推定し、知夫里島をそれにあてるものである。(二)説は由良郷を西ノ島東部の別府村にあて、宇良郷=浦郷に今日所在する由良比女神社は後世由良郷から移転したものとみる。(三)説は(二)説と異なり別府を三田郷に属 0 0 隠岐の文化財 3 13 14 すると考え由良郷を西ノ島西部にもってくる。現在延喜式内社の由良比女神社が西ノ島浦郷の由良に存在することがここで問題となる。田中豊治氏は「延喜式」で由良比女神社に「元名和多須神」と注しており、訓が共通する現知夫村の渡津神社が 0 0 隠岐の文化財 3 13 19 もとの由良比女神社であり、それが後に宇良郷に移されたとする伝承も存在することから、もと由良比女神社は知夫里島にあったとして由良郷を知夫里島にあてられている(12)。しかし、「延喜式」の由良比女神社の注は次々項の海神社の注が 0 0 隠岐の文化財 3 13 22 混入したとする説(13)や浦郷の由良比女神社ももと「和多須神」と呼ばれたかもしれないとする説(14)もあり、未だ断案とはなっていない。伝承を神社故地推定の根拠に利用する点も若干問題を残しているといえよう。他方「和名類聚抄」 0 0 隠岐の文化財 3 13 26 の脱簡として知夫郷の存在を主張する((二)、(三)説)のは、その明証を欠いており、従いがたい。しかし、西ノ島に由良の地名と由良比女神社が現存することは動かせず、また木簡によって後述する大井里が知夫里島に存在したと推測される 0 0 隠岐の文化財 3 13 29 ことも考慮に入れる必要がある。ここでは、後考をまつことにして、「和名類聚抄」に記す、由良郷を知夫里島と西ノ島西部をふくむ広い地域の範囲内にすいてするにとどめておこう(15)。〔三田郷〕評里制時代(〜701)の藤原宮木簡にも 0 0 隠岐の文化財 3 13 34 「知夫利評三田里」とみえる。「和名類聚抄」では「美多」ミタと訓んでいる。今日の西ノ島の美田ミタを中心とした地に比定することで諸説異論はない。ただし前述の由良郷の比定如何によっては、別府、宇賀ウカの西ノ島東部の地をふくむか否 0 0 隠岐の文化財 3 13 38 か説の分れるところである。三田の郷名は屯田につながり、ヤマト王権の屯倉が設定されていたことに由来すると推測できる(16)。ただし、隠伎の屯倉は、屯田と称したとしても、水田よりも水産に重点を置くものであったと考えられる。なお 0 0 隠岐の文化財 3 13 42 田中豊治氏は、平城宮木簡の「知夫郡□□郷安吉里」を三田郷安吉(アキ)里として現在の大山明の地に比定している(17)。〔大井郷〕「和名類聚抄」には之っていない郷であるが、平城宮木簡からその存在が認められる。大井の地は明確では 0 0 隠岐の文化財 3 13 46 ないが、訓から知夫里島大江オオイの地をあてることができよう。そうすると、智夫郡の郡衙推定地である知夫村の郡コオリの地(18)に近く、さらに延喜式内社の天佐志比古命神社にも近接することが注目される。可能性としては、大井郷が智 0 0 隠岐の文化財 3 13 50 夫郡の郡衙所在郷であったかもしれない。以上、智夫郡の諸郷をみてきたが、大井郷の存在が木簡から知られたことにより、奈良時代の智夫郡には「和名類聚抄」にみえる3カ郷のみでなく、4カ郷(以上)が存在したことが明かとなる。このこと 0 0 隠岐の文化財 3 14 5 郡司構成をとっていることと符合するのである(19)。「海部郡」藤原宮木簡の「海評」から平城宮木簡の「海部郡」へと表記の変化がたどれる。訓はアマのまま、やはり和銅6年(713)の地名の2字好字表記の制による変化であろう。隠伎 713 0 和銅6年 隠岐の文化財 癸丑 3 14 10 国正税帳でも「海部郡」とあり、のち「続日本後紀」(承和9年〔843〕9月乙巳条)や「延喜式」「和名類聚抄」でも変らない(20)。〔布勢郷〕木簡には布勢郷の名はみえない。島前中ノ島東岸の大字御波ミナミの西方の字布施フセを中心 843 900 承和9年 隠岐の文化財 癸亥 3 14 15 に、知々井チチイ、太井タイ等の地域にあてることで諸説一致する。「大日本地名辞書」「日本地理志料」などは中ノ島南部の多井オオイや崎サキまでもふくめるが、崎、多井を後述するように「佐伎郷」にあてるとする(「島根県史」説)と、多 0 0 隠岐の文化財 3 14 19 井、崎をのぞいた布施付近の地を考えておく方がよいと思われる。〔海部郷〕藤原宮木簡に「海評海里」の貢進物荷札が多く出土している。郡名にならい、和銅6年(713)から神亀3年(726)頃にかけての地名の2字好字への統一化にとも 0 0 隠岐の文化財 3 14 23 なって海部郷の表記になったであろう(21)。「和名類聚抄」の訓は安末アマで、現在は「海士」アマと記している。旧海士村を中心とする、中ノ島北西部の比較的沖積地の存在する地域に比定されている。海部郷推定地中の郡山コオリヤマの地 0 0 隠岐の文化財 3 14 27 (22)、あるいは大字福井フクイの郡崎クンザキの地(23)に海部郡衙の所在が推定され、いずれにしても海部郷が郡衙所在地であることは動かない。〔佐作郷〕藤原宮木簡に「海評佐々里」がみえる。また平城宮木簡では、「海部郡作佐郷大 0 0 隠岐の文化財 3 14 32 井里」と作佐郷を作る。「大日本地名辞書」では訓をササカと推定、永海一正「隠岐の歴史」はサックリと訓んでいるが、藤原宮木簡からササノサトとすることができよう(24)。現在比定については、(一)中ノ島北東部の豊田トヨダ、宇受賀 0 0 隠岐の文化財 3 14 35 ウズカの地とする説(「大日本地名辞書」国郡志、「島根県史」等)と、(二)「佐作郷」を「佐伎郷」の誤りとして中ノ島南部の崎、多井等の地に佐伎郷をあてる説(「大日本史」国郡志、「島根県史」等)とがある。佐作郷と佐伎郷については 0 0 隠岐の文化財 3 14 39 、「作」と「伎」の文字の類似、木簡による両郷ともに大井里が属することなど、同一郷である可能性も大きいけれども、木簡に「佐々里」と「前里」があり、文字も「作佐郷」と「佐吉郷」「作伎郷」「佐岐郷」とで相違点が残ることから、しば 0 0 隠岐の文化財 3 14 42 らく別々にその存在を考察してゆくことにしたい。この見地からすると、後述の「佐吉郷」が崎の地にあてられるから、佐作郷は(一)説のような地に推定しなくてはならなくなる。(一)説の豊田、宇受賀説に従うと、海部郡所在の延喜式内社が 0 0 隠岐の文化財 3 14 46 2社(奈伎良比売命神社、宇受賀命神社)ともこの地区に入ることが注目される。〔神宅郷〕評里制時代(〜701)の藤原宮木簡に「海評三家里」がある。平城宮木簡にも「海部郡□宅(神力)郷□□里」とあるのは、神宅ミヤケ郷で同じ郷をさ 0 0 隠岐の文化財 3 14 51 すものと思われる。三家ミヤケはかつてヤマト王権の屯倉が置かれたことに由来する地名と考えられ、海部郡にも王権によって「御食国」としての隠伎支配の拠点が設けられたと推定できる。隠伎の貢進物荷札木簡中でも海部郡のそれが数多いのは 0 0 隠岐の文化財 3 15 3 、このことに関わるのであろうか。ただし先述のゆおに、隠伎の場合農業よりも水産業に関しての屯倉であったと思われる。この神宅郷の所在は末詳であるが、屯倉との関連から、海部郡衙ともそう離れない、海士の地域の一部であったのであろう。 0 0 隠岐の文化財 3 15 8 〔佐吉郷〕平城宮木簡では国郡里制時代(〜715)の「前里」、その後の「作伎郷大井里」「佐岐郷久良里」「佐吉郷」などがみえる(25)。いずれもサキノサトと訓め、今日の中ノ島南部の崎を中心として地にあてることができよう。したが 0 0 隠岐の文化財 3 15 12 って「作伎郷大井里」の大井里は、崎の東北にある多井オオイの集落に推定できる。「佐岐郷久良里」の方は未詳であるが、もし佐吉郷が大井里と久良里の2里に分けられたのだとすると、崎の集落自身とも考えられる。〔中□里〕藤原宮木簡に唯 0 0 隠岐の文化財 3 15 17 一「海評中□里」とみえ、田中豊治氏は「中之里」かと推測されている。推測し得る地名として海士の中里があるが、それ以上は未詳。以上海部郡には「和奈類聚抄」にみえる布勢、海部、佐作の3郷の他に、奈良時代にはすくなくとも佐吉郷、神 0 0 隠岐の文化財 3 15 21 宅郷だとの郷が存在した。したがって海部郡も養老戸令定郡条にいう小郡(3郷以下)ではなく、すくなくとも下郡(4〜7郷)であったことは間違いない。やはり木簡から右の事実が知られていたことによって、天平3年(731)と天平5年( 0 0 隠岐の文化財 3 15 25 733)の隠伎国正税帳に海部郡司として下郡以上に認められた「少領」がみえることが齟齬なく理解できるのである。「周吉郡」藤原宮出土の隠伎国木簡で、評制時代(〜701)には「次評」であったのが、郡制時代(701〜)には訓はスキ 0 0 隠岐の文化財 3 15 30 のまま「周吉郡」となる。大宝令による郡制施行(701)以降、和銅3年(710)の平城遷都までの間に表記の変化が行われたことが知られる。以後、「延喜式」「和名類聚抄」等でも「周吉」で一貫している。隠伎の国府は、「和名類聚抄」 701 0 大宝元年 隠岐の文化財 辛丑 3 15 34 が「国府在周吉郡」とするように、この周吉郡内に置かれた。国府推定地には諸説があるが、大きくは(一)甲ノ原説と、(二)稲益、横町説の2説に分れる(26)。(一)説は地名の甲ノ原コウノハラ(27)を「国府の原」と解して古くから 0 0 隠岐の文化財 3 15 37 となえられてきた説(28)で、西郷町下西シモニシの台地上に位置する。傍には甲ノ井コウノカワと呼ぶ井があり、隠伎の惣社玉若酢命神社も近接して西に鎮座している。一方(二)説は方四町程の国府域を想定する藤岡謙次郎氏の説(29)で 0 0 隠岐の文化財 3 15 40 、甲ノ原よりも北の八尾ヤビ川が形成した平野部への占地を考えるのである。現在でも、八尾平野は貴重な条里水田地帯であい、かつ地盤軟弱のため国府の立地は疑問とする(一)説(30)と、甲ノ原には古墳が存続していて国府の占地は疑問と 0 0 隠岐の文化財 3 15 44 する(二)説(31)との間に決着はついていない。前者は八尾川流域のボ−リング調査によって稲益、横町は地盤が軟弱で水を得るのが困難とする。また後者の方では、甲ノ原遺跡の発掘調査によって官衙的性格と思われる掘立柱建物群が検出さ 0 0 隠岐の文化財 3 15 47 れたものの、それを国庁と推定させるような資料は得られなかったことが(32)根拠となるのである。この両説については、さらに今後の発掘調査等に期待するほかないのが現状といえよう。〔賀茂郷〕藤原宮木簡に「次評鴨里」がみえる。やは 0 0 隠岐の文化財 3 16 2 り和銅6年(713)から神亀3年(726)頃にかけての地名の2字とされたものであろう。島後南部の加茂カモを中心とした地で、諸説とも蛸木タグギ、今津イマズまでふくめた地域を考えている。加茂には延喜式内社の加茂那備神社が鎮座し 0 0 隠岐の文化財 3 16 7 ている。〔奄可郷〕平城宮木簡に「周吉郡□□(奄カ)」という1点があるのみ。「和名類聚抄」では訓を「阿尤加(安武加)」アンムカとしている。現地の比定については、島後東部の大久オオクをアムカの転訛と考えてそこにあてることで諸説 0 0 隠岐の文化財 3 16 12 一致し、さらに大久を中心に島後東部の犬来イヌグ、釜カマ、卯敷ウシキ、布施フセなどの広い地域を推定している。なお、長岡京木簡にこの郷のものがある。〔新野郷〕「和名類聚抄」は「邇(尓)比乃」ニヒノと訓んでいる。藤原宮木簡に「次 0 0 隠岐の文化財 3 16 17 評新野里」がみえる。新野郷の現地比定には2説があり、(一)「大日本地名辞書」のように島後東南部の西郷湾に面して八尾平野をiする西郷町、下西、上西、平ヘイ、原田、有木アラキ、東郷、飯田等の地域を推定し、国府もこの郷に存したと 0 0 隠岐の文化財 3 16 20 する説、(二)「日本地理志料」説で、「和名類聚抄」が国府、郡衙の存した周吉郡周吉郷を脱しているとして、(一)説が新野郷にあてる地域を周吉郷とみて、さらに新野郷を島後北東部の中村ナカムラを中心とした地区に比定する説がある。し 0 0 隠岐の文化財 3 16 24 かし、強いて確証のない周吉郷の存在を補うよりも、(一)説のように考えて、後述のように中村の地域は役道郡(隠地郡)武良郷にあてて考える方が隠当であろう。「島根県史」以降の諸説が(一)説をとることに従いたい。そうすると、国府、 0 0 隠岐の文化財 3 16 28 国分寺、国分尼寺をはじめとして、周吉郡の延喜式内社のうち水祖神社、玉若酢命神社、和気能須命神社の3社がこの新野郷内に存在したことになり、さらに周吉郡衙もこの付近にあったと推定され(33)、まさに隠伎の中枢部の位置を占めたこ 0 0 隠岐の文化財 3 16 31 とになるのである。なお、平城宮木簡中に「□周岐里」という記載のあるものがる(表1の「参考」)。この周岐里は周吉郡と訓が共通するけれども、郷里制時代の神亀5年(728)の里であるため国郡郷名まで推定することはむずかしい。し 728 0 神亀5年 隠岐の文化財 戊辰 3 16 36 かし、木簡の形態、記載形式は隠伎国木簡に類似しており、□□郷周岐里が周吉郡に存在した可能性もある。〔上部郷〕平城宮木簡に2点、「周吉郡上マ里」周吉郡上部郷訓義里」がみえる。「和名類聚抄」にはいえない奈良時代の郷である。上部 0 0 隠岐の文化財 3 16 40 郷の地は、すでに田中豊治氏の指摘のあるように(34)、訓の一致(カンベ)から島後東南部の西郷湾に面下大字東郷の神米カンベを中心とした地域に推定できる。上部郷下の訓義里については未詳。〔山部郷〕平城宮木簡に2点「□郡山部郷市 0 0 隠岐の文化財 3 16 45 厘里」「周吉郡山部郷」がみえる。郷名の山部ヤマベはヤマト王権支配下の山林の民に由来するともとれるが、貢進物はいずれも海藻である。また山部郷の下に市厘里があるが、市厘即ち市の廛(みせ)に由来する地名とすれば、市の立地するよう 0 0 隠岐の文化財 3 16 49 な交通流通の要所にあったことになろう。なお市厘は同意の「市肆」がイチクラと訓まれた(35)ことからイチクラノサトであった可能性が濃く、その点「隠州視聴合記」に載せる神社中の「従四位上市倉神社」の社名と一致することが指摘でき 0 0 隠岐の文化財 3 16 52 る。この市倉神社は八尾平野近辺にあったと思われる(36)ので、その付近に山部郷を想定することができるのではなかろうか。そうすると、比較小と沖積地にめぐまれた八尾川下流域には新野郷、上部郷、山部郷などの諸郷が集まっていたと考 0 0 隠岐の文化財 3 17 4 えられるのである。また、右のほかに「周吉郡□□郷□原里」とあるのもみえるが、未詳である(37)。以上、周吉郡には上述2郡と同様、「和名類聚抄」に載せる賀茂、奄可、新野の3郷とともに奈良時代にはすくなくとも上部、山部などの郷 0 0 隠岐の文化財 3 17 9 が存在していたことが木簡により明らかとなった。したがって周吉郡の場合も、天平5年(733)隠伎国正税帳に下郡(4〜7郷)以上に置かれる大領が郡司としてみえることが合理的に理解できるのである。「役道郡」(隠地郡)天平5年(7 0 0 隠岐の文化財 3 17 14 33)隠伎国正税帳に「役道郡」とあり、平城宮木簡もすべて「役道郡」と記している。しかし、平城京南方の奈良県稗田遺跡出土の奈良時代の木簡には「隠地郡」という記載があり、奈良時代中に「隠地」へは訓のエンヂからオンヂへという変化 0 0 隠岐の文化財 3 17 18 で理解する説が妥当であろう。のち「続日本後紀」(承和9年〔842〕9月乙巳条)では「穏地郡」とあるが、「延喜式」や「和名類聚抄」では「穏地郡」で通っている。〔都麻郷〕平城宮木簡に「役道郡都麻郷真嶋里」「役道郡都麻郷」と記し 0 0 隠岐の文化財 3 17 23 たものがある。都麻郷は島後西南部の都万ツマを中心とする地域にあてて間違いなかろう。諸説とも都万に津戸ツド、那久ナグ、油井ユイなどをふくめて比定している。都万川の形成した沖積地に面して延喜式内社の天健金草神社が鎮座する。「河 0 0 隠岐の文化財 3 17 28 内郡」「和名類聚抄」では「加無知」カムチと訓んでいる。河内郷の貢進物荷札木簡は未だ出土していない。多くの説は、島後北西部の五箇村の中心地重栖オモス川上流の平野部に比定する。字では北方キガガタ、南方ミナミガタ、山田ヤマダ、郡 0 0 隠岐の文化財 3 17 32 コウリ、小路コウジ、苗代田ナハシロダ、那久路ナグジなどの地をあて、これに北の久見クミ(延喜式内社伊勢明神社がある)までふくめる説もある(38)。これに対し「日本地理志料」は例によって郡那と同じ名を冠する穏地郷の存在を想定し 0 0 隠岐の文化財 3 17 36 、旧郡村を穏地郷に、島後最北部の久見、伊後イゴ、代シロを河内郷にあてている。しかし、強いて穏地郷を想定するには確証がないので、これには従えない。郡の地は周吉郡中心部から谷筋の陸路が通じる地点でもあり、役道郡の郡衙の所在が推 0 0 隠岐の文化財 3 17 40 定される。同地には礎石や軒瓦が検出されている犬町イヌマチ廃寺があり、また近くに隠岐一宮の水若酢神社(延喜式内社)も鎮座している。〔武良郷〕ムラと訓める。木簡には未だ武良郷の名は出ていない。上述の「日本地理志料」を除き、諸説 0 0 隠岐の文化財 3 17 45 ほぼ島後北端の中村ナカムラ、伊後の地をあてており、これに従いたい。旧周吉郡中村は元屋グァンヤ、名村、湊ミナト、西村ニシムラの大字から成り、その後町村合併(1904)で旧穏地郡伊後村を併せている。中村を役道郡武良郷に比定する 0 0 隠岐の文化財 3 17 49 と、後世周吉郡に転入したと考えざるを得ないとことが気になるが、中村地方を「ムラ」と凡称したということから、右の推定に傾くのである。〔奈□郷〕以上の3郷のほかに平城宮木簡に「役道郡奈□□□□□」と記す1点があり、「奈□□」は 0 0 隠岐の文化財 3 18 3 郷名と考えられる。文字のはっきり読みきれないのが残念だが、現地の地名ちかかわらせて想像するならば、第1字の訓から島後南西部の那久ナクにあたる可能性があろう。以上、役道郡については木簡に都麻郷、奈□郷の2郷がみえ、「和奈類聚 0 0 隠岐の文化財 3 18 7 抄」にみえる都麻、河内、武良3郷と合せ考えて、奈良時代にはすくなくとも四カ郷は存在したものと考える。したがって、他郡の所見と同じように、天平5年(733)隠伎国正税帳に大領、少領という下郡(4〜7郷)以上の郡司構成が記され 0 0 隠岐の文化財 3 18 10 ていることと右の事実が対応するのである。四、木簡による郷里についての知見。以上、古代隠伎国の郷里について、比較的最近出土した木簡を利用して検討してきたが、ここで改めて隠伎国木簡によって得られた郷里についての知見をまとめ、合 0 0 隠岐の文化財 3 18 15 わせて問題点を指摘しておきたい。まず第1に、新しく奈良時代以前の評、里名や、奈良時代の郷、里名を知り得たことが挙げられる。従来古代隠伎国の郷名は10世紀成立の「和名類聚抄」によって知夫郡の宇良、由良、三田、海武郡の布勢、海 0 0 隠岐の文化財 3 18 19 部、佐作、周吉郡の賀茂、奄可、新野、隠知郡の都麻、河内、武良の計12郷が知られるのみであった。しかし第1次(同時代)史料である藤原宮、平城宮出土の木簡から、新たに智夫郡の大井郷、海部郡の神宅郷、佐吉郷、中□里(郷)、周吉郡 0 0 隠岐の文化財 3 18 22 の上部郷、山部郷、役道郡の奈□郷などの諸郷が奈良時代に実在したことが明確となったのである。さらに藤原宮木簡の中には、大宝令以前の7世紀代にさかのぼる知夫利評三田里、海評海里、中□里、三家里、佐々里、次評鴨里、新野里といった 0 0 隠岐の文化財 3 18 26 里(郷)名の古い形態を示す資料が存在する。また平城宮木簡中にも、郷里制時代(715〜740年)の郷の下の里名まで詳記したものがみられたのである(表2、表3)。第2に、これらの郷里名の新出によって、郷里の市比定についても新た 0 0 隠岐の文化財 3 18 31 な知見を加えることができ、本稿でもそれにふれた次第である。第3に、右のように新しい郷里名が確かめられたことにより、奈良時代の隠伎国各郡の様相についても新たな知見が得られている。その1例として、既に述べてきたことであるが各郡 0 0 隠岐の文化財 3 18 35 の等級の問題を挙げてみよう。郡の等級については、養老令の戸令定郡条と職員令の大郡条〜小郡条に規定があり、郡の大木さ−すなわち所属する郷の数に応じて郡司職員の構成がランク付けされていた。それをまとめると表6郡の等級と郡司の構 0 0 隠岐の文化財 3 18 40 成のようになる。この養老令制は、大宝令にさかのぼるかどうか、従来論及されていないようだが、郡の等級別の郡司構成を削減した天平11年(739)5月甲寅詔(「続日本紀」同日条)が同様の等級枠汲みを示していることから、大宝令でも 0 0 隠岐の文化財 3 18 43 同じ規定が行われていたとみて、ほぼ差支えないと考える。したがって、奈良時代には3郷までの小郡の郡司「郡領クラス」は領とされており、下郡(4〜7郷)以上が大領、少領をもつこととの間に明確な相異をもっていたのである。事実、小郡 0 0 隠岐の文化財 3 18 47 郡司の1例として、天平3年(731)の伊賀国名張郡−「和名類聚抄」で3カ郷−の郡司は「領外正ハ位下伊賀朝臣果安(39)」と記している。ところで、隠伎国の諸郡は「和名類聚抄」によると各々3カ郷から成っており、右の令制では小郡 0 0 隠岐の文化財 3 19 1 に位置付けられる範囲にあった。しかし、天平5年(733)隠伎国正税帳をみると、各郡郡司は智夫郡−大領、主帳。海部郡−少領。周吉郡−大領。役道郡−大領、少領。が記されており、しずれも下郡(4〜7郷)以上の郡司構成であったこと 733 0 天平5年 隠岐の文化財 癸酉 3 19 8 が知られる。従来この両者の間の齟齬は、疑問の侭残されたり、大領と少領のすずれか1名をもって郡領にあたるとする苦しい解釈を行ってきた(40)。しかし、上述してきたように新たな郷名を記した木簡の出現によって、奈良時代には隠伎の 0 0 隠岐の文化財 3 19 11 4郡はいずれも4カ郷以上の下郡(以上)であったことが明確となったので、右の疑問は氷解したのである。ただし、8世紀の木簡や正税帳と10世紀の「和名類聚抄」との間の相違はそれなりに問題を提示しているのであり、時代が降ることに従 0 0 隠岐の文化財 3 19 16 って郷数が減っていることは注目される。右の点は、「律書残篇」に記された8世紀の諸国郷数と「和名類聚抄」の郷数を比較すると多くの国で郷数が減少しえちるという傾向(41)と軌を1にしており、改めてその原因が課題となるであろう。 0 0 隠岐の文化財 3 19 20 最後に第4として、隠伎の郡郷全体のあり方について付言しよう。本稿では本来50戸で編成された郷(里)をあえて地域に比定しようと試みてきたが、かなりの郷里が地名等によって今日の各地域に比定できるようである。このこと自体が1つの 0 0 隠岐の文化財 3 19 23 注目すべきことと考えるが、さらに推考すると、小漁村がわずかに存在するような地まで律令制的な行政区画の網の目がかけられているということになろう(42)。郷里の制が隠伎の小漁村にまで行きとどいていたということであるが、これはま 0 0 隠岐の文化財 3 19 27 た逆に隠伎にとって歴史的な1つの特徴かもしれない。というのも、中央政府にとって海藻の貢進地として果した隠伎の役割は、隠伎国木簡に明瞭に表れているように思われるのである。五、おわりに。以上、新史料として隠伎国木簡をふまえて、 0 0 隠岐の文化財 3 19 32 古代隠伎国の郷里について検討してみた。郷里の現地への比定に関しては、これまでの諸説を整理し合わせて若干の試考を加えてみたが、もとより現地に不案内ゆえの誤解も多いと思われる。広く御教示を願う次第であり、本稿がこれからの古代隠 0 0 隠岐の文化財 3 19 36 伎の史的解明に一助ともなれば幸と考える(43)。<註>(1)佐藤信「木簡からみた古代日本海諸国」(「歴史公論」9巻3号、1983年)。(2)狩野久「御食国と膳氏」(「古代の日本5近畿」、1970年)。(3)佐藤信「隠伎国木 0 0 隠岐の文化財 3 19 41 簡とその特徴」(「隠岐の文化財」第1号、1983年)に所載した一覧を補訂した。(4)佐藤信註(3)論稿。(5)詳しくは、島根県教育委員会(当時)の勝部昭氏による「隠伎国木簡の現地調査に同行して」(「季刊文化財」第50号、1 0 0 隠岐の文化財 3 19 45 983年)参照。(6)永海一正「隠岐の歴史」(1965年)。(7)延長5年(927年)撰の「延喜式」では「隠岐」となっているが、九条家本の神名帳は「隠伎」と表記している。また「和名類聚抄」は「隠岐」で通している。(8)「続 0 0 隠岐の文化財 3 19 50 日本紀」同年5月甲子条に「制、畿内七道諸国郡郷名着好字」とある。また神亀3年(726)の民部省口宣に至って郷レベルの地名まで行政地名が2字の好字に統一化されたことは、野村忠夫「律令的行政地名の確率過程−ミノ関係の本簡を手掛 726 0 神亀3年 隠岐の文化財 丙寅 3 19 53 りに−」(「古代史論叢」中巻、1978年所収)参照。(9)「隠岐島誌」も由良郷を知夫村とする。(10)「日本地理志料」もこの説と同じ。(11)松浦康麿「由良比女神社」(「式内社調査報告」所収)がその趣旨を明示している。(1 0 0 隠岐の文化財 3 20 5 2)田中豊治「隠岐島の歴史地理学的研究」。(13)伴信友「神名帳考証」など。(14)註(11)松浦康麿論文、曽根研三氏説(志賀剛「式内社の研究、第4巻、山陰道編」所引)。(15)永海一正「黒木村誌」が西ノ島西半と知夫里島を 0 0 隠岐の文化財 3 20 9 宇良、由良2郷に比定しているのが、隠当な説と考える。(16)勝部昭「隠岐の古代遺跡」(歴史手帖」7巻12号、1979年)。(17)田中豊治、註(12)著書。(18)この推定には諸説異論がない。田中豊治、註(17)著書に詳論 0 0 隠岐の文化財 3 20 13 がある。(19)郡の等級をめぐっては4章で後述。(20)さらにのちの「吾妻鏡」(承久3年〔1221年〕8月5日条)では「阿摩郡」と記す。(21)神亀3年(726)民部省口宣による郷名の改訂は「出雲国風土記」にみえる。野村忠 0 0 隠岐の文化財 3 20 18 夫、註(8)論文参照。(22)石井悠「隠岐国海部の郡衙址について」(「季刊文化財」20号、1973年)。(24)田中豊治、註(12)著書は木簡の「佐々里」「前里」と「和名類聚抄」の「佐作郷」を同一のサキノサトと推定している 0 0 隠岐の文化財 3 20 23 。この考えは後述の「佐佐郷」を「佐伎郷」の誤りとする説に近い。(25)海部郡佐吉郷の木簡では、表1の(12)木簡のように、郷里制時代(715〜740)に入る木簡でも郷までしか行政地名を記さないものがあり、表1(17)、(1 0 0 隠岐の文化財 3 20 27 8)なども同様の例と考えられる。(26)この他(三)尼寺原説(国分尼寺の東方)、(四)原田説(八尾平野の奥部、「府中」の地名あり)も推定地とされているが、いずれも土地狭小とか氾濫原上の立地という理由で否定されている。近藤正 0 0 隠岐の文化財 3 20 30 「隠岐の国で国府を探る」(「季刊文化財」15号、1971年)参照。(27)億岐家(玉若酢神社神官)所蔵の慶長12年(1607)検地帳に早く「こう原」の地名がみえる(1983年10月29日調査)。(28)斉藤豊宣「隠州視聴合 0 0 隠岐の文化財 3 20 34 紀」(1667年)に「西郷の古府は矢尾村或書八尾の西下西村野東其山を甲尾と云」としており、「大日本地名辞書」「日本地理志料」もこれを引いて古国府を下西村としている。「隠州視聴合紀」にいう甲ノ尾コウノオ山でなく、甲ノ原に明確 0 0 隠岐の文化財 3 20 37 に国府を推定したのは、「島根県史」にはじまる。後藤蔵四郎「隠岐国府阯」(島根県史蹟名勝天然記念物調査報告第6輯」、1934年)も甲ノ原説を再論し、以後多くのこの説に従っている。(29)藤岡謙次郎「国府」1969年。(30) 0 0 隠岐の文化財 3 20 41 田中豊治、註(12)著書。(31)近藤正、註(26)論文。(32)「甲ノ原遺跡発掘調査概報」、同2、同3、同4、隠岐島後教育委員会、1980年〜1983年。(33)「島根県史」は周吉郡路行を加茂郷の「大字加茂字大領」の地に 0 0 隠岐の文化財 3 20 45 推定しているが、田中豊治、註(12)著書に従いしばらく国府所在郷に周吉郡衙も存在したものとみておきたい。(34)田中豊治、註(12)著書。(35)「新訳華厳経音義私記倭訓鈔」(「寧楽遺文」下巻)。(36)1870年からの「 0 0 隠岐の文化財 3 20 50 島後諸社取調雑録」(島根県総務部「隠岐国神社秘録」1953年所収)では下西村の小祠に「市倉之祠」がある。また「隠岐島誌全」に載せる1912年の無格社の中に中條村大字原田の「一蔵神社」がみえる。(37)田中豊治、註(12)著 0 0 隠岐の文化財 3 20 54 書では「新野郷小田里」読み込んでいるが、里名については従えない。(38)「島根県史第4巻国司政治時代」。(39)天平3年(731)伊賀国正税当(「大日本古文書」第1巻428頁)。(40)「西郷町誌」上巻(1975年)や永海 0 0 隠岐の文化財 3 20 58 一正「黒木村誌」(1968年)など。(41)池辺彌「和名類聚抄郡郷里駅名解説」(同氏「和名類聚抄郡郷里駅名考証」1981年)。(42)江戸時代前期(1667年)の史料であるが、「隠州視聴合紀」にみえる島前(4639人)島後 0 0 隠岐の文化財 3 21 1 (11272人)の人口を、仮に智夫郡4郷、海部郡6郷、周吉郡5郷、役道郡4郷として郷数で割ってみると、島前が1郷464人、島後が1郷1252人となる。島前の1郷464人は50戸1郷として1戸平均9人という、郷戸としてはかな 0 0 隠岐の文化財 3 21 4 り低い数字が出てくるのである。(43)今回の科学研究費の成果として、「延喜式」の隠岐関係記事をコンピュ−タ−によって検索した一つの結果が表7延喜式にみえる隠岐である。参照されたい。本論文は、奈良国立文化財研究所刊「古代にお 0 0 隠岐の文化財 3 21 9 ける水産物の生産と使途に関する研究」に発表されたものを、同研究所長並に佐藤氏のお許しを得て転載させて頂きました。同氏には本誌1合に「隠伎国木簡とその特徴」を執筆頂き、引続いて本論文を掲載出来ました事を厚く御礼申し上げます。 0 0 隠岐の文化財 3 21 13 本論文には、表1隠伎国木簡一覧、表2隠伎の郷里木簡と郷里比定諸説、表3木簡にみえる古代隠伎の郷里、表4隠伎の小字一覧、表5隠岐の小字一覧、表6郡の等級と郡司の構成、表7延喜式にみえる隠岐(コンピュ−タ−検索による)等の資料 0 0 隠岐の文化財 3 21 17 が付けられておりましたが、編集の都合上、割愛の止むなきに至り、筆者に対し申し訳ないのみでなく、大変貴重な資料でありますので、是非4号に載せる事をお許し頂きたく、なお表1は「隠岐の文化財」1号に掲載されておりますので参照頂き 0 0 隠岐の文化財 3 21 21 たい。但し本論文に掲載の表との相違は左記の通り。((平)16、10−上)隠伎郡海部郡佐岐郷久良里阿□□□、平城宮内裏東北東西溝(104)×26×3、039型式。G参考。((平)2081号)平城宮内裏外郭地壙。(1)□周岐里 0 0 隠岐の文化財 3 21 27 海部□調海藻六斤神亀五年(98)×29×2、039型式。右2点追加。周吉郡(10)□伎国周吉郡山部郷生壬部□奈門海藻六□の奈が「隠岐の文化財1号では祭となっていて訂正。(松浦記) 728 0 神亀5年 隠岐の文化財 戊辰 3 57 15 枕木山開山智元上人と長福寺。「三田村来歴」に、「夫当寺は行基菩薩の草創成。往昔行基当峯霊場なりと見て籠し給ふに生身の観音示現して行基に告て曰、是より北に当り渺々たる浦あり。奥に龍宮浄土より来りし嘉樹あり。斯を吾か像に刻さん 0 0 隠岐の文化財 3 57 20 で仏閣を建て安置せば、我又茲に住ん。夢裏(占)分明にして覚て彼浦に臨そんで磯をみわたすに一つの流木あり、是を取揚け千手、十一面の二仏を刻彫して千臂を当寺の本尊とせり。十一面は同州別府村飯田寺に安置し給ふとなん。此嘉樹の余木 0 0 隠岐の文化財 3 57 26 を執行者枕に用ひ出雲国枕木の霊地に詣するに、枕木の観音の御膝に月輪の如くなる窩竅(くわかん)の疵あり成就せざりしを修行者の枕を入あはせしに符合して成就せり(下略)」という長福寺縁起が記されている。一方「枕木縁起書」にこれと 0 0 隠岐の文化財 3 57 31 関連のある記述があるので次に抄出する。「(前畧)当山草創者、智元上人也。初号美田源太。出自王氏不遠。曽有故而、放遂於隠岐国、遂流落諸国(中畧、船中源太の祈願により神火示現してその方向に進み加左(カサ)浦に着岸、枕木山に登り 0 0 隠岐の文化財 3 57 38 ここを霊場として一寺建立の経緯が記述されている)「源太欲安置薬師。薬師之左膝折而不能安置、見左右無可安置之物、源太為兜時、弄一枕至老不離身是出枕安置薬師、後枕化而為膝メメ。因是号枕木山也(下畧)とあり、また「初源太之都万頻贈 0 0 隠岐の文化財 3 57 44 双鯉勧帰隠岐国」ともある。社寺縁起はその総てが真実というわけのものではないが、その中には真実の伝承も入っているもの。枕木山開山の智元上人は、美田源太といった事、長福寺には関係のなさそうな枕木山の伝承を特に書かなければならな 0 0 隠岐の文化財 3 57 50 かった事、また上人の妻が隠岐国に帰る事を勧めた事等々からしてみると、智元上人と美田との関わりが深いように思われる。長福寺草創は行基とあるが、これは各地の寺院でいわれる事で事実ではない事の方が多い。長福寺草創も行基よりむしろ 0 0 隠岐の文化財 3 57 56 焼火 智元上人と考えた方がよいではないか。そしてまた、智元上人はいわゆる修験の山伏といった性格が強いように思われる。他に傍証するような資料もないので想像の域を出ないが興を引く縁起である。(註)美田村来歴、焼火山松浦蔵本。枕木山縁 0 0 隠岐の文化財 3 57 62 起書、修験道史料集(2)による。これには全文掲載されている。(松浦康麿記) 0 0 隠岐の文化財 3 58 1 隠岐の牧畑の由来。木村康信。一、隠岐のクサゲの水と壱岐の軍越神の出合。二、隠岐のクサゲの水の分布。三、隠岐の牧畑の由来。一、隠岐のクサゲの水と壱岐の軍越神の出合。牛飼達の会合があって、そのあと会場(区の集会場)の縁側で3人 0 0 隠岐の文化財 3 58 10 ほどの者が声高に何か話している。内容はクサゲの水を浦郷の牛飼いが勝手に牧畑の柵を張り替えて、クサゲの水を半分に仕切ってしまった。というようなことであったが、クサゲの水とは今までも何となく耳にしたことがあるが、はっきりと意識 0 0 隠岐の文化財 3 58 16 したのははじめてで、何のことかと質問した。それによると、何でクサゲの水というかは分からないが、後山牧にある年中いい水のある牛の水呑場であるとのことであった。西ノ島町に合併される前は、この辺が旧浦郷村と黒木村の境界のあった所 0 0 隠岐の文化財 3 58 21 である。不案内のため現地を見る機会がなかったので、折々話が出るとクサゲの水のことを質問しても新しいことを知ることは出来ず頭の奥に温存されていた。その間に「椿の語源」についてとか、古代からの漁業「かなぎ考」などを書き、何とな 0 0 隠岐の文化財 3 58 27 なく隠岐と南方との関係が密であることが察せられた。そして、他の方面でこのことをたしかめようと心がけていたが、思いもかけず昭和56年病んで入院する羽目となって覚悟をきめ、つれづれの慰めにと1冊「漂民の文化誌」(葦書房)を買い 0 0 隠岐の文化財 3 58 33 、ベッドの上で暇にまかせて読んだ。この本の中に「海の秩序=コザ−」の項があって、コザ−とは禁漁区にしてある漁区のアワビを共同で獲って、お祭りの費用などの共同の経費に当てることであって……とあり。また海に決して潜っちゃならん 0 0 隠岐の文化財 3 58 39 日は正月の7日までと、4月28日のクサゲ−サン(軍越神、または牛の神様が海岸の瀬をまわる日)、祇園さん、お盆の3日、それにツカエの日(葬式)、こんな日はいまでも潜っちゃならんですもんの。そんな日に潜るやつは、たいてい海で事 0 0 隠岐の文化財 3 58 44 故に遭いますたい」(川辺清市さん)とある。ここで「クサゲ−サン」に出逢って温存されていたクサゲの水が発動しだしたのである。しかしこの軍越神とは何の神か、何と読むかが分からない。そして「または牛の神様」とあるので、牛の神様と 0 0 隠岐の文化財 3 58 50 は別神のようでもあり、海岸の瀬を巡る日とあるは、山の神が樹々を数へる日とよく似ていて、いよいよ分からなくなる。病院から帰ることが出来て、その道の人にお尋ねすると「クサゴエの神」とのことで、跳びはねたいほどの嬉しさであった。 0 0 隠岐の文化財 3 59 8 壱岐の人達も川辺清市さんも遠い昔からのことで、読みにくく軍越神はいい易いクサゲ−サンはいつしか分離してしまい、軍越神は意味不明となってしまい、何神かも分からなくなってしまった。自分一人嬉しがっても意味ないことなので説明を加 0 0 隠岐の文化財 3 59 13 える、倭言葉を漢字で書く場合たまたま起こるトラブルがある、魔の落し穴とか、天ノ邪鬼の仕業とも思われるほど、本末転倒したり。別な事柄にまぎれ込んだりもして、語源をさぐることは難物中の難物となっていることがあって大変こまる。こ 0 0 隠岐の文化財 3 59 19 んどの「軍越神」もその例である。解けば何でもない「軍」はクサでイクサの「イ」が抜いてある。「越」はコエがゲと読ませてある。すなわち、クサゲ−サンで隠岐のクサゲの水とドッキングが出来て牛の神様で、それにまつわる牛の呑水である 0 0 隠岐の文化財 3 59 24 ことが分かったわけである。二、隠岐のクサゲの水の分布。若い頃から隠岐の生物に興味を持って、いや生物でなく、はじめは具体的な蛇類とか貝類、蝉とか蝶、美しい花の植物、隠岐で珍しい何々とやっている内に生物というほどの範囲になった 0 0 隠岐の文化財 3 59 31 。これも岡目八目、研究して何にしようということはない、分布がわかればいいぐらいなもので、その内にこればかりは手を出すまいと思った範囲が地質であったが、これも持って生まれた野次馬根性というか、ついに手を出してしまった。いい地 0 0 隠岐の文化財 3 59 36 質学者が来られ、よい機会なので島前の地質図作りのことをお話ししたら作って頂くこととなった。その学者と十数年御供をして島前を調査することになって、地図を読むことも多くなり、各町村の地名で共通するものがあるのに気がついた。その 0 0 隠岐の文化財 3 59 42 一つがクサギの水、またはフサゲの水という地名で、植生調査で島後を歩いた時、布施村にもこの地名のあることに気がついた。諺に「かにの目に水が見える」というのがあるが、島前教委でこの話をしたら、同教委の前南紀美子さんが「その名前 0 0 隠岐の文化財 3 59 47 なら別府にもあり、それは元別府小学校裏のことです。」とのことで、この区の区長さん村尾富夫氏にお尋ねすると、確かにあると詳しいお話があった。その後工事が次々と行われ、写真の通りクサギの水は黒木保健所裏の排水溜枡に流入している 0 0 隠岐の文化財 3 60 1 。調べるとまだまだあるはずであるが、現在は5ケ所だけである。一人では限界のある仕事なので一応ここで報告の一文を作って、何かの手がかりになれば幸甚と思う次第である。西ノ島のクサゲの水のことについては前にも少し書いたが、もう少 0 0 隠岐の文化財 3 60 7 し地元の関係もあるので、詳しく説明する必要がある。国立公園天然記念物などに指定してある、国賀の摩天崖の東北の裏側の谷の斜面にある放牧牛馬の水呑場の名がクサゲの水で、フサゲの水と呼ぶ人もある所である。この裏側は旧黒木村に属し 0 0 隠岐の文化財 3 60 13 た土地で、斜面の谷を降りるとここは深い谷となっていて、この区域は「イザナギ」という名で呼ばれており、細かく谷や尾根に名称があり、中に「かくれ畑」など面白い地名のところもある。近年工事などがあって、その折土器の出土もあったと 0 0 隠岐の文化財 3 60 18 のことである。先住民がいてもなるごどとうなづけるほど深い入江に望み、海産物にも恵まれ、飲料水もあり水田、畑などもあっていいところである。この地区は、美田区内の人達にとっては重要な牧畑であって、後山牧(うしろやままき)といわ 0 0 隠岐の文化財 3 60 24 れている。隠岐でヤマと言うのは牧畑とか畠とかを指していて、昔の人達は山そのものには関心がなかったらしくて、山にはほとんど名がつけられていない。その代わり土地にはそれぞえれユニ−クな名がつけられていて、興趣をそそられる。美田 0 0 隠岐の文化財 3 60 29 湾側に住居を持つ住民が主であるため、ここから見た西側の斜面を向山(ンカヤマ)と書いてあるが、向かいの牧畑の意味であり、この牧畑の稜線の後側が後山で、背後の牧畑が空山(ソラヤマ)である。空とは上という意味の言葉で、昔は2階へ 0 0 隠岐の文化財 3 60 35 行けというのは、「それへあがれ」とも言っていた。今はこんな言葉を遣う人がいなくなった。さてそこで考えられることは、クサゲの水が牛の水呑場の名であるなら、各牧畑別に多数の水場が設けられているので、それをクサゲの水と言うが、そ 0 0 隠岐の文化財 3 60 41 れは否である。それでは黒木村も元は美田村、別府村、宇賀村が合併したものゆえに、各村1ケ所ずつならば宇賀村にもあるはずと、調査するが今は分からない。調査している内に気付いたことは、西ノ島では2ケ所共水場の名として残り、知夫里 0 0 隠岐の文化財 3 60 47 島では地名があって水場も残り、中ノ島では地名があって水場は消滅し、島後では布施村に地名は残っているが、それも消滅寸前となっていた。このことを考えると、具体的な1ポイントの水呑場が面にと拡散し地名化する、そしてその名前の由来 0 0 隠岐の文化財 3 60 52 が忘れられていく……。ついこの間まで、隠岐の輪転式牧畑、ことに島前各町村は盛んに営んでいた。しかし、肝心のクサギの水の意味が忘れられて地名だけとなり、地名もだんだん忘れられ消滅するは、隠岐の牧畑が古い年式のものの左証といっ 0 0 隠岐の文化財 3 60 57 てよいと思う。三、隠岐の牧畑の由来。前置が長くなって恐縮であるが、是非これだけは書いておかねばと思うことがあるので御批判を願いたい。今まで生物に色々と接し、ことに渡り鳥などを監察している内に教えられたことがある。つばめは、 0 0 隠岐の文化財 3 61 1 西ノ島町へ来るのに早ければ3月7日頃、平均で3月14、5日、おそくて3月24、5日頃となっている。(昭和8年以降)。また冬鳥のせぐろかもめも11月になれば飛来し、3月末から4月にかけて北へ帰って行く。つばめの帰るのを見たこ 0 0 隠岐の文化財 3 61 7 とはないが、せぐろかもめが北へ帰るようになるといつしか集団を作る。指揮者がいるのかいないのかは分からないが、何日かの間は蚊柱が立つように大空に弧を描いて翔び舞う。これはどうも気象観測のようである。この時季は春何番かの風が吹 0 0 隠岐の文化財 3 61 12 く頃でこれに乗って帰る。1回だけでなく、2回目も3回目にも帰るのがある。このような事柄を見ている内に、人間も同じ動物である。今は自然から浮き上がった生活をしているため、自然を読む力は失っているがその昔自然に近かった時代の人 0 0 隠岐の文化財 3 61 18 達は、この鳥達と同じような自然を読みとり、これに従って生活していた。そして鳥達が大空を渡って行くように、島の人達は大海を渡ったと思う。沖縄のサバニなどでも、風を受け波に乗れば相当のスピ−ドが出るとか、近頃の若者がサ−フィン 0 0 隠岐の文化財 3 61 23 とか、ウィンドサ−フィンを楽しんでいるのを見てつくづく思う。自然に逆わず無理なく風を読み、波に従ってスイスイとセ−リングするのを見るとたのもしくもなる。太古の先人達は気象を観測し、安全な日に安全な舟で、しかも渡り鳥のように 0 0 隠岐の文化財 3 61 29 夫婦が組んで最小限の所帯道具も持っていたと思う。よく冒険を考える人達もあるようだが、自然に逆って生活する生物は、死滅を招くだけである。ごく自然に今日につづく明日があるように普通のこととして、隠岐の先人達はぼつぼつとこのごと 0 0 隠岐の文化財 3 61 34 くに海上を渡って来たと思われる。経験が積まれたあとから来る者は、次々に文化をも運んで来たことであろうし、やがては大陸からの文化も運ばれたことと思う。さて牧畑の由来も考える必要がある。そのために隠岐先人達の渡来のことに触れた 0 0 隠岐の文化財 3 61 40 わけである。このことも長くなるのでおよそのこを述べる。隠岐は照葉樹林帯時代からのことを考えようと思う。今の隠岐は単純な松杉林に覆われた島に見えるが、この姿になったのはほとんどが敗戦後に造林されたためである。ことに島前3島は 0 0 隠岐の文化財 3 61 46 輪転式の牧畑が行われていて、山地のほとんどが頂上までだんだん畠で耕して天に至るといわれた。この牧畑の起源の古いことは分かるが史料がない。想像するに、おそらく南方から来た一部の人達が、熱心に山焼をして作物を作ったにちがいない 0 0 隠岐の文化財 3 61 51 。一部の人達は海かせきを専念したと思われる。もちろん兼業者もあったことと思う。山を焼く人達は、天気模様をよく観て共同で行ったと思う(島後では近年まで山焼きを行っていたが、夜安定した気象を見定めて行っていた)。焼畑は3年目ぐ 0 0 隠岐の文化財 3 61 57 らいで駄目になるので、次々と山焼を繰返す内に島前の山は樹木なしの牧畑の原形になったと思われる(山地の土中から炭が出る不思議もこれが原因)。原形の照葉樹林は、島の周辺へ焼畑に不向な岩石の多い山地などに残り、その一部は近年まで 0 0 隠岐の文化財 3 61 62 薪炭材の採取地として、各地区の共有や入合になり、それが萌芽林となってその昔の面影を残している。根拠になる物証に乏しいので、いくつかの習俗について書いてみる。「ヤマ」のことについてはすでに書いた通りである。畑と畠のちがいは畑 0 0 隠岐の文化財 3 62 4 はすんなりと分かる。朝鮮に火田民といわれる焼畑を行う山地民の現存するとか、すなわち縦書すると火田で、横に並べると畑である。畠はちょっと分かりかねるが、田の仕事でシロする、シロ掻きするというが、「シロ」とは動物のテリトリ−と 0 0 隠岐の文化財 3 62 9 同じことで領域を示し、早くいえば城と同じ意味である。縄を張ったり、石垣で囲んだりすることがシロで、当て字が白や代である。すなわち自家用のものが白田(シロハタ)で畠である。この根拠がいろいろと残っている。いわゆる家の廻りの畠 0 0 隠岐の文化財 3 62 15 は柵をしなければならぬ。柵がしっかりとせず牛などが入った場合は、畠の持主は文句がいえないのである。テリトリ−はしっかりとしなければならない。このことを考えると、また縄を張ることも縄張りという言葉通り勢力範囲を示すテリトリ− 0 0 隠岐の文化財 3 62 21 であり、シロの表示であることが分かる。いよいよ牧畑の起源にふれる段となったものの、その資料の不足はいなめないが述べることにする。牛馬を他より運んだが、島にもと住んでいたかが問題となるので調べてみた。脊椎動物大系哺乳類<黒田 0 0 隠岐の文化財 3 62 26 長禮著、三省堂>によって見ると、本邦の馬品種について南部駒(青森岩手地方)体型大で力が強い。仙台、三春、最上駒は南部駒より小さく乗用に適す。又対馬に対馬駒があって極めて小形で、肩胛の高さ1、21メ−トル、封津1、09メ−ト 0 0 隠岐の文化財 3 62 33 ル(隠岐馬も同じぐらいのものであった)。大隈薩摩地方にも小さい乗用の鹿児島駒があるが、純和種は年々減少しつつある。これらの馬は蒙古小馬や朝鮮小馬と同じく、その祖先は蒙古野馬である。又、我が国の和牛は(関西、近畿、中国、四国 0 0 隠岐の文化財 3 62 39 、九州)主とし毛色黒色。労役用黒色和牛、阿蘇牛(一名赤色和牛熊本産)、見島牛、朝鮮牛がある。また北陸館動物図鑑によると、我が国にも昔は野牛を産したる事確実なり、とある。又、朝日新聞社版週間世界動物百科、日本のウシ<上坂章次 0 0 隠岐の文化財 3 62 44 著>によると、日本うしの起源ははっきりしないが、地質時代の遺跡から牛属の角が発掘された事があるが、どの系統のものか分からない。牛が飼われるようになったのは大和民俗出現以降ではないか。乳牛の歴史、元明天皇(707〜715)が 0 0 隠岐の文化財 3 62 51 山城に乳牛を飼う50戸を設けたとある。和牛の歴史。顕宗、仁賢天皇(490)よほど牛馬が多かったが牛馬野を被うと記録がある。欽明天皇(531−571)朝牛の輸入がある。皇極天皇(641−645)耕作が行われる。天智天皇(66 0 0 隠岐の文化財 3 62 59 食事 1−671)牛馬の繁殖を奨励し、肉食した記録がある。天武天皇(673−686)仏教上肉食禁止令を出す。文武天皇(697−707)各地に牧場を作らせた。牛馬に関する法規を作る。宇多天皇(887−897)各地に牧場を作らせる。 0 0 隠岐の文化財 3 63 2 見島の黒毛和種。昔は小さな晩熟な牛であったらしく、その様相を今に伝えているのが見島牛である。山口県萩市の沖合にある弧島の日本在来の牛で、他からの血液の混っていない役200頭が天然記念物として保護されている。以上の記事がある 0 0 隠岐の文化財 3 63 8 、このことから考えると隠岐馬と共に隠岐牛のあったことは確実とみることができる。さて産していたとなればその歴史は顕宗、仁賢天皇(490)時代に牛馬野を被うというのが気になる。しかしながら、これ以上は手が届かないからやめにする 0 0 隠岐の文化財 3 63 14 。もう一つ気になる牧畑の仕組みに牧司(もくじ)がある。これの権力が相当に強く、牛馬の牧の入替、柵の修理や放牧牛馬の管理、牧の干草刈の「ス」の設定(収納日)、逃亡牛馬の措置などの仕事をする。このことは文武天皇時代のものか、ま 0 0 隠岐の文化財 3 63 20 たはその前の天智天皇時代の廐牧令に放馬牛の群ごとに牧子二人を置いた、とある。この牧子の変ったものか。古語事典によると、草飼い所(室町時代)まぐさを得るための知行所、草飼いは馬に草を与えること(鎌倉時代平家北国下向)などの職 0 0 隠岐の文化財 3 63 26 や言葉があることから、隠岐の牧畑も全国的牧場制度の中を潜って今に至ったことは間違いない。その中でも牧司とか、草飼いという言葉が残っている背景に何かがあるように思うが、今決定的なことは分かっていない。牛馬に綱をつけて道端など 0 0 隠岐の文化財 3 63 31 で草を食わせることを、当地で(美田区)では古いと思われる呼び名で草飼いというが、他ではほとんど引草するという。ちょっとした差のようだが、実はそうではなく永い年月の間に風化とか変化を遂げた結果である。道草の食いついでにもう少 0 0 隠岐の文化財 3 63 37 し食いつける。クサゲ−サンとクサゲの水は分かり易くするために当て字をしてみるなら、草飼の神。草飼いの水とするならばすんなりと意味も分かって落ち着くと思う。昔の人達は神作りの名人でいろいろな神を作っている。傑作の一つをあげる 0 0 隠岐の文化財 3 63 43 と、当美田地区に共有林があって植林しても兎の食害が多かったとみえ、林地の中に兎を祠ったところとして、「兎の神さん」の地名の残っているところがある。また智恵者がいたものと思われる。このごとくである。前にも書いた通り、壱岐の島 0 0 隠岐の文化財 3 63 49 の軍越神もこのような当て字をしていたので、字の読めない昔の一般の人達は、口伝えのクサゲ−サンと別のものと思うようになっていた。クサゲサンがあるならクサゲの水もあるはずである。そしてこのことは西からはやって来たことやら、東か 0 0 隠岐の文化財 3 63 55 らはやって来たことやら分からないが、何だか西からのような気がしてならない。今の内なら誰かが調べたらわかると思うが。今の牛の神産は当地では大山さん(鳥取の大山)、大日さん(仏さん)などで、クサゲサンは消えてしまっている。この 0 0 隠岐の文化財 3 63 61 ように今消失寸前となっている事柄であるので、知夫里島、中ノ島、島後ではただ一つ布施村のそれについて詳細を書き残したい。特に島後は本来牧などは資料にも残るほど有名なので、是非各町村を調べたいものである。知夫里のフサゲ水は仁夫 0 0 隠岐の文化財 3 64 1 里の西ノ牧に地名となっていて、行って見ると牛の呑水場も近代的に造成され、澄んだ冷水がこんこんと湧いて溢流し谷川の源流となっている。よく調べてみると、元のフサゲ水はずっと下の方にあったと思われ、下へ降ってみるとそこに小さい田 0 0 隠岐の文化財 3 64 7 があり、上岸に祠の趾もあるところがあった。現在は想像するしか方法がないが、このフサゲは水量が多く水源が上の方にあるので、それを利用して次々と上の方へと開田され、それに伴って水呑場は上方へと移動され現在に至ったものである。そ 0 0 隠岐の文化財 3 64 12 こで祠の趾であるが、色々と言われているようで(例えば山ノ神とか田ノ神とかだが、場所柄と習俗からしてなじまない)古さから、場所柄からクサゲ−サンに尤も相応しい場所なので軍越神の趾と断定したい。これで現在隠岐での牧場らしい牧と 0 0 隠岐の文化財 3 64 18 して、赤禿山の放牧地に新名所としてまた、その恵みを受けて牧畜の繁栄を祈りたい。現在隠岐に草飼いの神さんと草飼いの水、すなわちクサゲ−サンとクサゲの水の両方揃っているのは知夫里だけである。中ノ島のクサゲ水は、日本名水で有名な 0 0 隠岐の文化財 3 64 23 保々見天川(てんかわ。かわとは井戸のことである)の水のあるところの山添いの所に地名が残っている。この地区の水に恵まれたところであるが、肝心の水呑場は道路改修の放牧事業の衰退のため、消失してこのあたりかと見当づけができるぐら 0 0 隠岐の文化財 3 64 29 いでしかない。島後布施村にもフサギ水の地名はあるが、それも消滅寸前で本年春視察に行ったが、僅かにこのあたりかと想像出来るぐらいでしかなかったが、その後布施村のこの辺のことの詳しい方に逢うことができて聞くところによると、やっ 0 0 隠岐の文化財 3 64 34 ぱり南谷の発電所のダム上流左側の谷の奥に、祠跡の石積など残っているとのことである。島後は早くから放牧事業が衰えたので、各町村でのこのような痕跡は消えたのか?残念なことである。地名を見ると西ノ島がクサゲ、クサギ、フサゲ、フサ 0 0 隠岐の文化財 3 65 2 ギなどと呼び、知夫がフサゲ水、中ノ島でクサゲ水、布施がフサギ水となっている。重ねて言う、隠岐の牧畑はこのごとく太古の時代から先人達が自然と一体となって、隠岐特有の輪転式の牧畑を作り上げたものと思う。 0 0 隠岐の文化財 3 80 1 隠岐の古代製塩について。木村康信。昭和60年8月11日付、朝日新聞に「「アマが探る古代日本海文化」島根の製塩遺跡きょうから発掘。能登との交流裏付け目指す。」とあった。例によって例のごとく、手当り次第やっていたのが標題であっ 0 0 隠岐の文化財 3 80 7 たので、大変興味を持った。続けて新聞を見ると、何か土器を用いて製塩したらしい様子で土器の破片の写真が出ていた。さて隠岐で気付いたのは、火尻祠であった。これは島後の中村伊後の神様で、製塩の時火を沢山焚くので火尻即ち火のあと始 0 0 隠岐の文化財 3 80 13 末に禍ちないようにと祈っての神祠である。本年5月に行って見た。海岸に近い田圃の脇に、今は祠はなく大きな石が据えてあった。知夫里に日尻田の地名のあるところがある。察するに、これはやはり、製塩時の火の始末をする役付の田がもとと 0 0 隠岐の文化財 3 80 19 十方拝礼 なった地名と思われる。役付の田の例としては、美田八幡宮の祭の行事に十方拝礼がある。船越区の受持役に笛吹きの役があって、この役を演ずる者には笛吹田が与えられた。また、西ノ島の珍崎の氏神に聖神社があって、調べてと、元は聖ケ岩と 0 0 隠岐の文化財 3 80 25 いわれるところにあったのを、現地へ迎えたものとのことである。聖ケ岩のある地形を見ると、浜は弓形で穏やかなところで、製塩には適地と思われるところである。製塩のための焚火の鎮めとして、火尻祠がまつられたものと思われる。またこれ 0 0 隠岐の文化財 3 80 30 らとは別に、製塩のための釜場のあったところが地名として残っているところがある。西ノ島の美田湾に面したところに、釜屋の地名がある。中ノ島にも、諏訪湾に面下ところで、今は陸地となっているところに、清次ケ浜とか諏訪浜などの地名が 0 0 隠岐の文化財 3 80 36 残り、その奥に朝明(あさけ)がある浅処(浅海の意)、そのまた奥に、釜屋と呼ぶ地名がある。これも製塩に関係あるところと思われる。島後では、都万村に弓形のしおの浜があり、村の入口に釜谷がある。これは、元釜場のあったところと思わ 0 0 隠岐の文化財 3 81 2 れるところで、釜屋と書くべき地名のところであろう。このように、それぞれの地で製塩を行ったと思われるが、現に地名その他で残っているのは以上である。しかし、この地名の出来る時代は、大量の塩を必要としたために、組織的に共同で行っ 0 0 隠岐の文化財 3 81 8 たもので、古代製塩とは異質のものである。それでは、古代の隠岐での製塩はどのようにして行われたか。これについて考えてみるが「島前文化財第7号、西ノ島美田出土の石器」この石器と共に出土した楕円形の石が皆焼け目がついているのを見 0 0 隠岐の文化財 3 81 14 ると、どうも、土器での煮炊きよりも、焼石での煮炊きを巧にしていたように思えてならない。大正の初期頃、浜で餅などを焼く場合には、石の焼いたのを餅の上下において焼いたり、小貝を煮る場合でも、岩のくぼみに水を汲み、貝を入れて焼石 0 0 隠岐の文化財 3 81 20 を放り込んで煮た。子供のわるさぐらいなことでなく、古代の先人達の智が伝わっているようにも思える。製塩も、夏に浜の岩場へ行けば自然塩の出来たのが手に入る。細砂のある浜では、塩で固まった砂塩が手に入った。潮溜を利用して焼石を使 0 0 隠岐の文化財 3 81 25 えば、土器がなくても塩を作ることが出来た。もしそうであるならば、隠岐では、製塩用の土器の出土はないと思わねばならい。(昭和60年8月22日) 0 0 隠岐の文化財 3 82 1 隠伎木簡にある海産物あれこれに就て。木村康信。一、前書。二、軍布とか海藻とは何か。三、紫菜とは海苔のこと。四、鰒、蝮は鮑のこと。五、海松とは?六、嶋蒜とは?一、前書。本誌1号の佐藤信氏(奈良国立文化財研究所文部技官)「隠岐 0 0 隠岐の文化財 3 82 11 国木簡とその特徴」の御寄稿を読み、大変に興味をそそられ、例によって素人の好奇心で岡目八目をはじめることにした。木簡が発掘され、その中に軍布と書いたものがあるが何と読むか、何のことか、など質問を受けてからの宿題であった。暇に 0 0 隠岐の文化財 3 82 17 まかせて、思い出しては見当づけしているが、決定的に根拠がないままに、月日がたった。ままよと一文を下書きしてみたものの、心もとなく書きあぐんでいたら、棚からぼたもち式に、寛文版の和名類聚鈔を貸して頂いて、この難問を氷解するこ 0 0 隠岐の文化財 3 82 23 とが出来た。浅学菲才を地でゆく岡目八目も今回ばかり冷汗三斗の思いをした。少しずつ知恵づいてきたかと自笑した。友人は有難きかなと感謝しつつ、なお、諸賢の御叱正を是非共御願いいたしたい。二、軍布とか海藻とは何か。早速、和名類聚 0 0 隠岐の文化財 3 82 29 鈔を拝見すると、これは和漢三方図絵より古い書なので有難い。まず海藻があって「和名邇木米、俗用和布」とある。そして本草云海藻味苦酸寒無毒とあって、疑問は残るが和布とあるからしかたがない。昔は「にぎめ」といったことが分かる。そ 0 0 隠岐の文化財 3 82 35 の隣の行に「滑海藻」というのがあって、「阿良女」俗用荒布とある。このことを頭において頂きたい。今度は、後年に出た和漢三才図絵を見ると大変な進歩が見られる。単に海藻としたものは「うみのも」となっていて、「和布」は「石蓴」とあ 0 0 隠岐の文化財 3 82 40 って。今云和加米、とある。次をよく見ると、「対荒布日之弱布」とあって、荒布に対してわかめは弱布と日ふと書いてある。荒対弱と明瞭に対比してある。このことから推理すれば和布の字に対比するあらめは何と書くか、ここまでくれば軍布が 0 0 隠岐の文化財 3 82 46 何であるかは、おわかりの通りである。軍布はあらめのことであるから「あらめ」と読むべきである。余談になるが、壱岐の嶋に次のような神がある。「軍越ノ神」牛の神様であるが読めない。ところが、地元の人達はクサゲ−サンと呼んでいる。 0 0 隠岐の文化財 3 82 52 「軍」がクサすなわちイクサをクサとして「越」コエをゲと読ませクサゲ−サン。苦心もあろうが読者を泣かせる当て字ででもある。昔の人は今から見ると健康食品をよく食べている。この荒布など土佐日記を見ると正月料理のエッセンスとして書 0 0 隠岐の文化財 3 82 58 いている。その一節に、「芋茎も荒布も歯固めもなし」御承知の通りのいきさつで、船旅を重ねて大湊に泊り元日を迎えたわけで、常の料理のあろうはずがない。そこで、前記の歯固めもなしと書かれたわけです。今でいうなら「ずいき」「あらめ 0 0 隠岐の文化財 3 82 64 」歯固めは、寿命を延ばす正月料理の重点物で、大根、瓜、押鮎、煮塩鮎、猪または雉、鹿の肉などを歯固めといったようすです。今でも手本にしたいぐらいな献立だと思う。ところで荒布のことは、「滑海藻」と字が当ててある。これの語源は、 0 0 隠岐の文化財 3 83 5 荒布に粘液が多く、切ると葉枢から沢山の粘液がでるからである。その昔、大正から昭和にかえて当地でも沢山に刈り採られて「ヨ−ド」(薬品)の製造につかわれたことがあった。この頃になると、よく浜へ遊びに行き細竹の管に粘液を巻きつけ 0 0 隠岐の文化財 3 83 10 、これに小砂少々まぜ管を吹くと、顔ぐらいもある砂模様のシャボン玉ならぬ荒布玉が出来て、よく吹いて遊んだ。このように、漢字で日本語を表現するために、無理も生じて誤解やら本末転倒やら迷宮入りとなる。このことを調べるうちに、昔の 0 0 隠岐の文化財 3 83 17 人達の海藻への関心度などへも興味をもって調べて見た。和名類聚鈔、三才図絵に「莫鳴菜」というのが出ていて、「ななりそ」「なのりそ」と読む。漢語抄云神馬藻三字云奈乃里曽今案本文末詳但神馬莫騎之義也。三才図絵の方には、同じようで 0 0 隠岐の文化財 3 83 23 あるが、俗云穂俵、保太和良などとあり、和名抄に云々と同じように神馬のことが書いてあって面白い。横へ横へと途はそれるが、もう少し辛抱して頂くとして、東道太郎著の日本海藻図譜を見ると、和名の「ほんだわら」は「ほだわら」の音便で 0 0 隠岐の文化財 3 83 29 、穂俵の儀で新春に米俵形に束ねて飾りに用いたいものである。また「ななりそ」という古名がある。これは新井白石の東雅に「旧説に「ななりそ」というは、食する時はりはりと鳴るがむずかしければ、ななりそと制する意なり。」とあるように 0 0 隠岐の文化財 3 83 34 、食するとき噛むと発する音によって起きた名であろう。「ななりそ」が転じて「なのりそ」となった。「なのりそ」を詠じた和歌は多数ある。万葉集に莫語花、莫謂花、莫告藻、名告藻、名乗曽とあるは、皆「なのりそ」である。と書いてあって 0 0 隠岐の文化財 3 83 40 面白味がつきない。言葉が生まれると、命あるものように変化をつづけるものがる。さしづめ、この「ななりそ」など落語の三題噺めいて、岡目八目氏の銷夏の好材料である。「ななりそ」が「なのりそ」、これが乗るなと解されて「神馬藻」とな 0 0 隠岐の文化財 3 83 46 焼火 ったわけである。ともあれ、近年隠岐でも珍重され、任期が出ていて、その昔嫌われた歯切れのよい音は、かえって好まれているようで、時代が変われば嗜好も変るものと思われる。当町焼火神社の初詣りの折の膳に、神馬藻の酢物の料理は名物と 0 0 隠岐の文化財 3 83 51 なっている。三、紫菜とは海苔のこと。和名類聚鈔に和名無良佐木乃里俗用紫苔とある。和漢三才図絵にも和名阿末乃利とある。日本海藻図譜でみると、あまのりは特に繁殖の良好である所は河川の流入する湾内である。というから、これは俗にい 0 0 隠岐の文化財 3 83 59 う浅草海苔のことである。隠岐の荒海から採れたものは、「おにあまのり」「まるばあまのり」で、外海の荒磯で採れるので俗に岩海苔といわれるものである。これは、寒中に採れるものが最高で、黒々と艶があって製品になった時は、漆黒色とい 0 0 隠岐の文化財 3 83 70 のである。このように、海苔は吸湿性があって、吸湿したものは変質しやすく赤紫色になってしまう。その昔の船便では諸条件が悪いので、漆黒の隠岐の海苔も日数がかかると変質しかねない。そうだとすれば、紫菜の語源は……などど邪推したく 0 0 隠岐の文化財 3 83 75 なるわけである。ことのついでになるが、調べたことがあるので海苔摘みについて述べる。昔は指先で海苔の永いのをむしったり、乾いたのをはぎとったり、手のひらでもみとったりと思うが、いつの時代からかわからないが、海苔掻き道具に「い 0 0 隠岐の文化財 3 84 5 たや貝」を使っている。この貝を「つめけ」といっている。「つめ」は摘むのことで、「け」は貝である。この貝のふくらんだ方で海苔を掻いて採ったからである。また、これに柄をつけて杓につるなど、道具として便利に使った。それほどこの貝 0 0 隠岐の文化財 3 84 10 は、沢山にいたので湾内の泥土の中に埋っていて、改修工事の折沢山に出土し、また、第三紀層凝灰質の岩石の中からも化石として出土する。その「つめけ」も消長があったらしくて、鮑の殻も使い海苔掻き道具の名も「けんがら」となる。それが 0 0 隠岐の文化財 3 84 17 大正の時代になってから、「美保関の大野屋のお婆さんが、船越の堂の前の才爺さんに、上松印の石油缶のブリキでけんがらを作ることを教え、それが美田はやり出したものだ」と。(昭和60年2月、船越の玉木常太郎さん93歳談)現在は、ブ 0 0 隠岐の文化財 3 84 22 リキ製でも「けんがら」と呼ばれている。四、鰒、蝮は鮑のこと。この字を見て「あわび」と読める人は、古文書の読める玄人で、素人には読めない。蝮はまむしだから、鰒の誤字であろう。発見された木簡は、養老、天平年間のものといわれるか 0 0 隠岐の文化財 3 84 29 ら、今から千二百余年前の昔のこととなるからして、漁具、漁法が気になる。(本誌1号の隠岐と椿の物語、2号のかなぎ考を参照)大正の時代を思い出しても分かるように、隠岐の海は、自然そのままでいて魚貝類の豊庫であった。その昔、鰒は 0 0 隠岐の文化財 3 84 35 干したものを出荷するから、貝殻や内蔵は残る。貝は「けんがら」と言った。「け」は前の通り貝のことで「がら」殻のことであって、日常的な大事な道具として使われた。物入れ、掬い道具、土の穴掘具、煮炊用の小鍋などと便利な道具である。 0 0 隠岐の文化財 3 84 41 食料 内蔵は、これまた美味で滋養があるので、生食、煮物、塩蔵されたものは塩辛で、これは調味料として利用された。隠岐では、そのまま塩辛を食べることはしなかった。しかし、この内蔵は、磯漁の必要品で、隠岐ではこれを凪腸「なぎわた」とい 0 0 隠岐の文化財 3 84 46 う。磯漁の時に、口に凪腸を含んで海面を吹き散し、この内蔵の油分が海に拡がると、鏡のようになって海中が見えて漁をする。隠岐ではこの漁を「かなぎ」漁といっている。「かなぎ」漁とは堅い木、昔は金木といっているがその代表的な樫の木 0 0 隠岐の文化財 3 85 4 を使っている。この木は、隠岐のような照葉樹林帯では代表的な木である。太古より現代まで続いた漁法である。ところが所かわれば何とやらで、他の地方沖縄、九州、四国、太平洋岸志摩あたりでは、凪腸を使わず椿の種子を噛んで吐き散らして 0 0 隠岐の文化財 3 85 10 いた。昔、長崎にいたシ−ボルト、ツッカリニの書いた日本植物誌に椿の方言として、「唾の木」と書いている。その方言の分布を調べると、その通りになっている。これは新発見であった。最近でも、この椿の語源を貝原益軒などの有名人が、誠 0 0 隠岐の文化財 3 85 15 しやかに厚葉木だからとか、言海などの書までが津葉木と書くので、そのまま新聞などにも出ているが、間違いである。椿の語源は、この唾の木という意味で、庶民の生活の中から生れた名前である。ところが、この隠岐では凪腸を使ったので椿の 0 0 隠岐の文化財 3 85 22 名は別にある。本誌1号を見ると、椿の方言はベ−ロと言っている。これは、農作業用の連枷(からさお)の回転して打ちつける方の木を、この椿の細い木を利用して作るからで、この木のことをベ−ということからきている。どうも隠岐独特の方 0 0 隠岐の文化財 3 85 27 食料 言のようである。このような漁具漁法で海中に潜ることもせずに今に至ったことは、それほどに魚貝類の豊庫であったからである。夏になると子供達は皆、磯で遊んだ。遊びすぎて昼すぎになると、さざえ、あわびを採って食べた。親はあまり心配 0 0 隠岐の文化財 3 85 32 しない。大きい子が小さい子の面倒を見るからであり、腹が空けば磯物で腹ごしらえをするぐらいのことは経験済みのことである。この磯物の生の味は忘れられない。ことにあわびのあの甘味は、今も舌の先に残っている。磯にいる手の平ぐらいの 0 0 隠岐の文化財 3 85 38 あわびを持ち帰ると、親に叱られる。子供が採ってその場で食べるぐらいは、大目にみられた。今は、磯遊びしても何もない。今はさざえもあわびも惣菜の中へは数えない。採りつくしたというか、魚貝類の棲息地を破壊してしまったというか、残 0 0 隠岐の文化財 3 85 43 念なことに日常的な食品とは縁が遠く、高嶺の花というほどになってしまった。もちろん文化財的な「ななぎ」漁は、細々と老人達の手によって残ってはいるが、若者には魅力がない。後継者が出るような漁業の振興策は是非共必要である。五、海 0 0 隠岐の文化財 3 86 3 松とは?和名類聚鈔に和名美流とある。例の海藻図譜を見ると、「海松」は「みる」で、「みる」は古より食用に供せられ、また和歌俳句にも詠まれた海藻である。和歌俳句には「みるぶき」という名がつかわれている。また、海松模様というのは 0 0 隠岐の文化財 3 86 9 、本種の図案化したものである。隠岐では今は、食用としていないが、何とか利用ができないものかと思う。六、嶋蒜とは?和名類聚鈔に、嶋蒜阿佐豆木本朝式文用之とある。牧野植物図鑑で見ると、今は蔬菜として栽培すると書いてあるが、元は 0 0 隠岐の文化財 3 86 16 隠岐のよう海岸辺の岩の上の僅かな土の上に生育しているので、島蒜の字を当て、「あさつき」と呼んでいる。「あさつき」は、葉の緑の色が淡いという意味だといわれている。「つき」は葱のことである。今は健康食品ブ−ムで、当西ノ島でもこ 0 0 隠岐の文化財 3 86 21 れに気付いて、ぼつぼつと問い合わせがある。これは、その昔に貢進物にしたほどであるからかなりあるが、今、自然食品を右から左へと採って食べれば、すぐに消滅してしまう。作り易いので、作ってから食べることである。また、花も可憐であ 0 0 隠岐の文化財 3 86 27 るから鉢物にもなる。国立公園国賀などの群生地は見事なもので、ここらあたりは作物も牧草もない岩場なので、是非保護したい。 0 0 隠岐の文化財 3 94 18 隠岐の豆腐作りのル−ツは?この間、朝のテレビを見ていたら、沖縄の「ゆし豆腐」の事について東亜大学の大久保先生が話手おられた。「ゆし豆腐」とは隠岐弁で言うと「よせ豆腐」のことですが、しかしこの「よせ豆腐」も自家用としての豆腐 0 0 隠岐の文化財 3 94 23 作りをしなくなった今では、若い人達には何だか分からなくなっているから、大久保先生のお話を取り次ぎすると、沖縄では豆腐作りする日朝早く清浄な海水を汲み取り持ち帰って、この海水を布でこしてごみを除いておく。大豆は前から水漬けに 0 0 隠岐の文化財 3 94 29 しておいてたのを石臼で細かくひきくだく。このものを布袋に入れて袋の口をしめて、袋の中の大豆の成分を圧し出す。この液体を釜に入れて煮る、煮えたところへ汲んである海水を加えると大豆蛋白が塩分でかたまる。このものが「ゆしどうふ」 0 0 隠岐の文化財 3 94 35 で当地でいう「よせどうふ」である。豆腐製造の途中のもので温かいのを食べるのである。これを専用の箱に専用の布袋を入れて、この中へ汲み込んで蓋をして圧しておくと豆腐が出来上がる。ざっと豆腐作りを書きましたが、私がこれを取り上げ 0 0 隠岐の文化財 3 94 40 たのは理由があります。まえまえから隠岐の言葉と沖縄、九州あたりと関係のある事が分かっていて興味を持っていたからです。この大久保先生のお話ですと、この海水を利用した豆腐作りの方法は日本海側の各地に分布し、北は佐渡よいもっと東 0 0 隠岐の文化財 3 94 45 の海上にある飛島まで伝わっているとの事でした。これで隠岐と南方沖縄の関係が分ったわけです。隠岐でも豆腐製法は2法ありました。沖縄の製法は生絞りといいました。もう一つはひきつぶしたものを大釜に入れて煮たものを、袋に入れて絞り 0 0 隠岐の文化財 3 94 52 食料 出した液にニガリを加えて凝固させ、これを箱の袋に汲み込んで豆腐を作ります。これは煮絞りです。お分りのゆに、ニガリを入れる方法は近代になってから隠岐へはやって来たものです。これでも「より豆腐」を食べました。沖縄の言葉の発音は 0 0 隠岐の文化財 3 94 57 少々隠岐のと異なりますが、それが分るとよく似ています。今頃沖縄では「ア−サ」採りが盛んで、採ったのを簀干するとの放送がありましたが、この「ア−サ」は隠岐で「アオサ」といっています。学名は「ひとへぐさ」といいます。このように 0 0 隠岐の文化財 3 94 63 色々なことが南方に関係があり、ル−ツの方角を暗示しています。(木村記) 0 0 隠岐の文化財 3 95 1 新指定の「笠置文書」。笠置真風。(1)正元元年(1259)補任状。補任、八幡宮子々職事。僧幸源所。右以彼々子々メメ可補任但寺神社事ハ御式条如修理修造せサラレ(ママ)者於難相伝其職可カイ用修里溜幸源所ニ補任此於所々人名百姓等子 1259 0 正元元年 隠岐の文化財 己未 3 95 9 々以井つつ状如件。正元元年巳末潤十月二十五日(花押)。(2)建治二年(1276)北條家下文。下、袖判(佐々木泰清)隠岐国美多庄大山社袮宜職事僧慈蓮。右袮宜職者慈蓮溜重代相傅所職之処聯依令違背百姓等袮宜職并神田之内四段被召之 1276 905 建治2年 隠岐の文化財 丙子 3 95 17 被成御正作被令和与之上者如本処令還補也、恒例臨時之御神事不可有退轉、御祈祷可致丁寧、彼於神田畠等者、且任先例、且如亡父恒元法師、社務慈蓮可被沙汰付、至御正作者、以便宜田可被沙汰人、仍沙汰人百姓等宜承知、不可違失之状、下知如 1276 905 建治2年 隠岐の文化財 丙子 3 95 23 件。建治二年九月五日。(3)建治三年(1277)北條家下文。下、袖判(高岡宗泰)隠岐国美多庄住人慈蓮法師者八郎殿御殿人也、縦雖有罪科御代官沙汰人等無左右不可致其沙汰、若有其煩之時者、可申子細之状如件。建治衆年四月□日。(註 1277 400 建治3年 隠岐の文化財 丁丑 3 95 31 )宗泰は佐々木泰清八男なり。(4)正中三年(1326)北條家下文。下、袖判(隠岐守護佐々木宗清カ)隠岐国美多大山社袮宜職。蓮浄法師。右袮宜職者、蓮浄為重代相傅所職之間所宛行也、社務以下事、且任建治下知、且守先例可致其沙汰、 1326 407 嘉歴元年 隠岐の文化財 丙寅 3 95 38 仍庄家宜承知敢不可違失之状、下知如件。正中参季丙寅四月七日。(5)建武元年(1334)大山社社領打渡状。隠岐国美多庄内大山宮袮宜分。かうし料畠事。定補、袮宜所。いさなきのふん。一所六郎入道作。飯犬のふん。一所惣入道作。いい 1334 507 建武元年 隠岐の文化財 甲戌 3 95 49 やのふん。一所清太郎作。にくのふんうやさき。一所千手作。このはら。一所願成作。己上五所。右、於大山大明神宮かうし料畠者、五篭江一所宛在所を定、袮宜方へ可打渡候也地家御御代印公文所之任被仰下旨所渡如建。建武元年五月七日。御代 1334 507 建武元年 隠岐の文化財 甲戌 3 96 7 印沙袮西仏(花押)。公文僧道賢(花押)。(6)暦応元年(1338)補任状。補任、美多庄一分方国作公文給田事。僧能賢所。右於公文給田、下地者地頭方公文為進退、所当者領家公文方可弁之、国作田之事者、御論之最中、御沙汰乱(落)居 1338 800 延元3年 隠岐の文化財 戊寅 3 96 15 之程預置所依仰如賢。暦応元年八月日、沙袮(花押)。(7)応安二年(1369)宛下状。(花押)宛下、道賢所。隠岐国美多庄一分方公文職并浄蓮跡事右以者所宛下也、年貢以下任先例可令執進上者百姓等令存此旨敢以勿為異(違)失、仍宛状 1369 624 正平24年 隠岐の文化財 己酉 3 96 24 如件。応安二年六月二十四日。(8)康暦元年(1379)田地証文。隠州美多庄一分方安の木畠事、永代にかけあたう所無子細候也。康暦元年六月一日(花押)。(9)康暦元年(1379)田地証文。隠州美多庄一分方にしり畠事、公文円助か 0 0 隠岐の文化財 3 96 31 (に)けあたう所無子細候也。康暦元年六月一日(花押)(10)応永三十四年(1427)沙汰状。美多庄二分方公文事所申付也、任先例可致沙汰之状如件。応永三十四年卯月十六日(花押)良円御坊。(11)文明十六年(1484)三澤為清 0 0 隠岐の文化財 3 96 39 証状。今度者忠節神妙至申計なく候、然間八幡前二段田事為新給申付候、無相違可有知行候、弥懇可有本(奉)公者也、於子孫不可有相違候、仍状如件。文明十六年八月十五日、為清(花押)笠置宗右衛門殿。(註)右の文書は、笠置家に伝来する 0 0 隠岐の文化財 3 96 46 いわゆる笠置文書のうち「笠置」と明記してあるもの初出である。笠置氏が文明年代以前より在地武士化していることを知ることができるのである。この軍功はやはり京極守護方のものであろう。(12)文明19年(1487)三澤式部証状。抑 1487 518 長享元年 隠岐の文化財 丁未 3 97 2 今度働に依候て美多庄入手候、忠節至無申計存候、さ候間新給に八幡前かけさけ弐段分、此外四段小之年貢五斗代充にして、末代子々孫々に到まで不可有相違候、若我らか子孫におき候て難渋之儀申候者、以此証文御前の御沙汰に可被申候、仍為後 1487 518 長享元年 隠岐の文化財 丁未 3 97 7 日証文如件。文明十九年丁末五月十五日。三澤式部。中メメ(花押)笠置与三郎殿。進之候。(註)文明十九年には、すでに出雲、隠岐は尼子経久の支配するところで、三澤氏もまた尼子方の部将となっている。与三郎は、前出の笠置宗右衛門の子で 1487 518 長享元年 隠岐の文化財 丁未 3 97 16 あって、三澤氏と同じく尼子の被官となったのであろう。かくて笠置氏は、これから尼子滅亡に至るまで、隠岐における尼子方の支柱となるのである。(13)永禄八年(1565)尼子義久証状。今度篭城□鹿十神山在番殊敵動之節中井平三兵衛 1565 0 永禄8年 隠岐の文化財 乙丑 3 97 23 同前新丸在城神妙然者隠州之内荒木疋田左近亟抱分之事、為給所遣之候、向後全相抱、弥奉公可為肝要者也、仍状如件。永禄八年五月六日、義久(花押)(黒印)笠木与三左衛門殿。(註)笠置与三左衛門に隠州の内荒木(今、西郷町有木)疋田左 1565 0 永禄8年 隠岐の文化財 乙丑 3 97 30 近亟の抱分の地を給した沙汰状である。富田落城は永禄九年であるからこの感状は富田七年篭城中の功労に対するもので、文意も篭城中、十神新丸在番、中井平三兵衛等と共に奮闘したことをあげてある。笠置与三左衛門は永禄九年の富田離散後帰 0 0 隠岐の文化財 3 97 36 島したであろう。笠置家系図には与三左衛尉家綱とある。因に現有木、藤田家に400年来、石神塚の祠に笠置備中守を祀って毎年祭礼をしている。(14)天正十年(1582)清家証状。知夫利村半分代官之事笠木(置)助二郎方へ申付候條可 0 0 隠岐の文化財 3 97 43 有其心得、恐々謹言。天正拾年二月七日清家(花押)若林甚介殿。三郎兵衛殿。弥左衛門殿。(註)知夫里村は、近世に入っても一村二公文(庄屋)であった。単に風波の時渡海不自由であるとの理由からだけではなく、中世末期の知夫利(里)村 0 0 隠岐の文化財 3 97 51 半分代官にさかのぼる歴史をもっていたからであろう。(15)天正13年(1585)簾宗二郎証文。(端書)笠置宗右衛門殿、簾宗二郎。其方名儀之内、船越松木之下ほり之儀、先年之ことく相付候条、此由御あつけ候五郎兵衛方へ可被仰聞候 0 0 隠岐の文化財 3 97 57 、於向後者少しも相違有間敷候状如件。天正十三年拾一月一日、簾宗二郎吉政(花押)(註)天正十一年八月より隠岐は吉川元春の領するところとなって簾宗二郎が代官として渡島した。(16)天正十五年(1587)簾宗二郎外連署証埴。道蓮 0 0 隠岐の文化財 3 98 3 名屋敷分之義如先年之相付候条ちこん(自今)以後相違有間敷者也右如件。天正十五年八月十七日。簾宗二郎吉幸(花押)石塚源左衛門尉、助清(花押)笠置民部左衛門尉、吉綱(花押)笠置宗右衛門尉殿。参。(17)年不詳。山中幸盛外連署証 0 0 隠岐の文化財 3 98 13 状。(袖判)(尼子勝久)なく村之事、貴所に御代官被仰付候、御公用等早々被納可有御進上旨候、自然地下中又何れ之方より茂難渋のかた候者、以此折紙、堅可被仰付由御意候、為其被成袖御判候、十二月十五日、恐々謹言。多賀兵庫助、為佶( 0 0 隠岐の文化財 3 98 20 花押)山中鹿介、幸盛。中井平三兵衛尉久家(花押)立腹源太兵衛久綱(花押)笠木(置)与三左衛門殿。(註)隠岐は元亀二年(1571)六月までには完全に毛利の掌中に入っているのである。右の十二月十五日の文書は元亀二年と想定したの 1571 600 元亀2年 隠岐の文化財 辛未 3 98 28 は次ぎの上京にもとづくものである。永禄十二年尼子再興の義挙も空しく手足と頼む山中幸盛は末石城に僞って敵に降り勝久は終に再び隠岐へ落ちた、隠岐島後は旧交の地と云ひ猶、敗軍の将も勢力はあったであらう笠置与三左衛門は先代義久と富 1569 0 永禄12年 隠岐の文化財 己巳 3 98 35 田城最後の時まで奮戦して義久が毛利と和した時、隠岐荒木を代官して居たから勝久が敗れ帰った年、領内鎮撫として那久むらの代官を命じたものであらう。山中鹿介幸盛は姓名のみで署名がないのは前記の境遇で隠岐へ随従して居なかったものと 0 0 隠岐の文化財 3 98 41 考える、以上によって右の文書を元亀二年と想定したのである。(18)年不詳、中村彦兵衛外連署証状。美田村之儀如近年以来無相違被遂裁御馳走肝要候、於我等弐者、抛諸篇候不可等閑候、御納得尤候、恐々謹言。八月二十二日、中村彦兵衛尉 0 0 隠岐の文化財 3 98 47 春鋭(花押)内藤平左衛門尉、春保(花押)井頭九郎右衛門尉、春意(花押)十川孫右衛門尉、良親(花押)笠置善左衛門殿。(註)隠岐氏は内訌によって天正十一年滅亡し、隠岐は吉川元春の領するものであろう。意味はよく分からない点もある 1583 0 天正11年 隠岐の文化財 癸未 3 98 58 が、要するに美田村については近年の如く、以後も相違無く裁判を遂げられ、御馳走が肝要である、我等に於ては一切をお任かせするから、等閑にしないよう心掛けよ、と笠置善左衛門に対し、美田村公文職を安堵したものであろう。(註)文書の 0 0 隠岐の文化財 3 98 65 名称は東大資料編集所による。(註)建治二年文書より応永三十四年文書まで九通の解説は島前文化財12号に島根大学井上寛司助教授の「中世隠岐の公文」に所収。 0 0 隠岐の文化財 3 99 1 島前の植物目録(4)単子葉類。木村康信。丹後亜興。▽和名は「日本原色植物図鑑草本編」(北村四郎ほか、保育社)及び「日本帰化植物図鑑」(長田武臣、北隆館)のものを原則として使用した。▽(帰)は、帰化植物又は逸出したものを表わ 0 0 隠岐の文化財 3 99 9 す。一時帰化種は省略した。▽樹木編のように種名を一字下げる表記はせず、必要事項はその都度注記した。<らん科>○クマガイソウ(稀)西ノ島。○ヒナラン(稀)西ノ島。オオバノトンボソウ。○ヤマサギソウ(稀)海士、知夫。○ツチアケ 0 0 隠岐の文化財 3 99 17 ビ(稀)西ノ島。○ママトキソウ(稀)海士。キンラン。ギンラン(稀)。○ユウシュンラン(稀)海士、西ノ島。○クゲヌマラン(稀)海士(松島)で1個体を採集。筆者二人で見当したが距は無かった(痕跡のみ)。○カキラン(稀)海士。ネ 0 0 隠岐の文化財 3 99 26 ジバナ。アケボノシュスラン。ミヤマウズラ。○ベニシュスラン(稀)西ノ島。○クモキリソウ(稀)知夫。○ジガバチソウ(稀)西ノ島。ナツエビネ、西ノ島。エビネ。○キエビネ(稀)西ノ島。サイハイラン。○トケンラン(稀)西ノ島。コケ 0 0 隠岐の文化財 3 100 1 イラン、西ノ島。○マメヅタラン(稀)西ノ島。○セキコク(稀)西ノ島。○フウラン(稀)西ノ島、海士。シュンラン。<しょうが科>ミョウガ(帰)。<あやめ科>ヒオウギ。ニワゼキショウ(帰)。シャガ。キショウブ(帰)。<やまのいも 0 0 隠岐の文化財 3 100 13 科>ヤマノイモ。オニドコロ。カエデドコロ。<ひがんばな科>ヒガンバナ。キツネノカミソリ。スイセン(帰)。<ゆり科>ソクシンラン(少)。タチシオデ(少)。シオデ。サルトリイバラ。ヤブラン。シロバナヤブラン。ジャノヒゲ。エンレ 0 0 隠岐の文化財 3 100 29 イソウ(少)西ノ島。キチジョウソウ、海士(逸出?)。オモト。ユキザサ(少)。ホウチャクソウ。チゴユリ。ミヤマナルコユリ。ママドコロ。オオナルコユリ、ナルコユリは確認していない。○オオバスギカズラ、今はキジカクシの一型とされ 0 0 隠岐の文化財 3 100 40 ているが草姿はむしろクサスギカズラに似ている。能登から長門に至る日本海側沿岸に自生する。クサスギカズラは未確認。ツルボ。○ホソバノアマナ(稀)西ノ島。個体数の少ない植物と思われる。中国近県の植物誌には記載がない。ノビル。○ 0 0 隠岐の文化財 3 100 49 シロウマアサツキ、隠岐のものは花糸と花被が等長で、中部以北に自生する本種と見なされている。ヤマラッキョウ。シロバナヤマラッキョウ。ウバユリ。ササユリ。コオニユリ。○ナメルギボウシ、最近オオバギボウシの変種とされた。長野、新 0 0 隠岐の文化財 3 100 58 潟、富山に産する。ヤブカンゾウ。ノカンゾウ(稀)ヤマジノホトトギス、西ノ島。○ホソバシュロソウ(少)西ノ島。オオシュロソウとの中間的な型を示す。シライトソウ。○ハナゼキショウ、分布の片寄った珍しい植物の一つ。隠岐には多産し 0 0 隠岐の文化財 3 100 68 低地でも見られる。<いぐさ科>イ。ホソイ。コウガイゼキショウ、普通種であるが十分調べていない。他にもう1種あるようである。ヌカボシソウ。スズメノヤリ。ヤマスズメノヒエ。<みずあおい科>コナギ。<つゆくさ科>ツユクサ。イボク 0 0 隠岐の文化財 3 101 5 サ。<ほしくさ科>ヒロハイヌノヒゲ。<うきくさ科>ウキクサ。アオウキクサ。<さといも科>サキショウ。カラスビシャク。ウラシマソウ。マムシグサ、広義。コウライテンナンショウも含める。<かやついぐさ科>ホタルイ。カンガレイ。サ 0 0 隠岐の文化財 3 101 20 ンカクイ。フトイ。アブラガヤ(稀)。ウキヤガラ(稀)。マツバイ。ハリイ(稀)西ノ島(大山)。クログワイ。ヤマイ(稀)海士(知々井岬)。イソヤマテンツキ(稀)海士(松島)。ヒメテンツキ。ヒデリコ。ウシクグ(稀)。コゴメガヤツ 0 0 隠岐の文化財 3 101 32 リ。カヤツリグサ。タマガヤツリ。ハマスゲ。ミズガヤツリ。カワラスガナ。アゼガヤツリ(稀)。ヒメクグ。○ヒトモトススキ(稀)暖地性の植物で隠岐ではごく一部にしかない。アスクサスゲ。コウボウムギ(稀)西ノ島、海士。ショウジョウ 0 0 隠岐の文化財 3 101 44 スゲ。ヒカゲスゲ。○ホソバヒカゲスゲ(稀)西ノ島。ニシノホンモンジスゲ。ミヤマカンスゲ。ヒメカンスゲ。オクノカンスゲ(少)西ノ島。○ヒロバスゲ(稀)高崎山で採集。東北、北陸より北の植物。ヒゲスゲ(少)。アオスゲ。ハマアオス 0 0 隠岐の文化財 3 101 55 ゲ、海岸の岩上でよく見られるが、アオスゲかも知れない。ヒメモエギスゲ。ナキリスゲ。シラスゲ。ヒメシラスゲ。ジュズスゲ。ヤワラスゲ。コジュズスゲ。オオカサスゲ(稀)海士。本州中部以北、北海道に分布する。島後にもある。シオクグ 0 0 隠岐の文化財 3 101 67 (稀)知夫の渡津にはほとんど海中に生える見事な群落がある。コウボウシバ。アオゴウソ(稀)海士。<いね科>イヌムギ(帰)。キツネガヤ。ヒゲナガスズメノチャヒキ(帰)。スズメノチャヒキ。カモジグサ。アオカモジグサ。タチカモジ。 0 0 隠岐の文化財 3 102 9 ホソムギ(帰)。ネズミムギ(帰)。ドクムギ(帰)。ボウムギ(帰)。ヤマカモジグサ。ナギナタガヤ(帰)。ウシノケグサ、変異が多くはっきりしない。海岸岩上にごく普通。トボシガラ。オニウシノケグサ(帰)。カモガヤ(帰)。スズメノ 0 0 隠岐の文化財 3 102 19 カタビラ。ミゾイチゴツナギ。ナガハグサ(帰)。コバンソウ(帰)。ヒメコバンソウ(帰)。ドジョウツナギ。コメガヤ。カゼクサ。シナダレスズメガヤ(帰)。ニワホコリ。チョウセンガリヤス。オヒシバ。ギョウギシバ。カズノコグサ。ネズ 0 0 隠岐の文化財 3 102 34 ミガヤ(稀)西ノ島。ネズミノオ。○タンチク(稀)海士、西ノ島、暖地性の海岸植物。隠岐ではここにしかないようである。ヨシ。マコモ(稀)海士。カラムギ(帰)。カニツリグサ。ヒエガエリ。ヤマヌカボ。ムカボ。スズメノテッポウ。セト 0 0 隠岐の文化財 3 102 47 ガヤ(少)。アワガエリ(稀)最近ほとんど見られなくなった。ノガリヤス。シバ。チゴザサ。ヌカキビ。イヌビエ。タイヌビエ、ケイヌビエ、ヒメタイヌビエもあると思うが未調査。キンエノコロ。エノコログサ。ムラサキエノコログサ。ハマエ 0 0 隠岐の文化財 3 102 60 ノコロ。アキノエノコログサ。チカラシバ。チヂミザサ。スズメノヒエ、詳しく調べていない。帰化種もあるが不明。コメヒシバ。メヒシバ。アキメヒシバ。○アイアシ(稀)海士(豊田)海浜の湿地に生えるやや珍しい植物。他では未だ確認して 0 0 隠岐の文化財 3 102 72 いない。チガヤ。オギ(稀)海士(中里)。ススキ。ヒメアシボソ。ササガヤ。コブナグサ。アブラススキ。オオアブラススキ。セイバンモロコシ(帰)。ジュズダマ(帰)。<とちかがみ科>ミズオオバコ(少)。<おもだか科>ヘラオモダカ。 0 0 隠岐の文化財 3 103 9 オモダカ、葉の細いものが多いがアギナシは未見。<あまも科>アマモ。アゲアマモ。タチアマモ。オオアマモ。コアマモ。エビアマモ。<ひるむしろ科>ヒルムシロ。ホソバミズヒキモ。<がま科>ガマ。ヒメガマ。コガマ。補遺(2)合弁花草 0 0 隠岐の文化財 3 103 25 本。<はまうつぼ科>ハマウツボ(稀)西ノ島。<なす科>ヤマホロシ(稀)西ノ島。イガホオツキ(稀)西ノ島。(3)離弁花草本。<みぞはこべ科>ミゾハコベ。 0 0 隠岐の文化財 3 107 1 焼火 拓本解説。焼火山の鰐口。焼火神社は明治までは、いわゆる神仏習合の神社で、焼火権現と称した。随ってこの鰐口は拝殿正面に掛けられていたもの。明治以降は梵鐘と共に神社に保管されている。銘文。(表)焼火山大権現御宝前数人以志之竒( 1685 200 貞享2年 隠岐の文化財 乙丑 3 107 7 奇)附奉鋳者也。貞享三丙寅年二月吉日(註、一六八五)頭梁伯メメ(洲)川村之住人泊浦三宅勘三郎。(裏)同メメ鳥取之住冶工尾嶋勘兵衛尉藤原丹波守正次作。大きさ、直径38センチ、厚さ18センチ。冶工尾嶋正次については詳らかにしないが 1685 200 貞享2年 隠岐の文化財 乙丑 3 107 14 、因幡(鳥取)の冶工で鳥取県内には左記の作品が残っている(梵鐘、有福友著による)1鳥取市真教寺梵鐘、天和二年(1682)(戦時中供出、今なし)2岩美町本光寺梵鐘、元禄七年(1694)3鳥取市天徳寺梵鐘、正徳三年(1713) 0 0 隠岐の文化財 3 107 20 なお、正次は尾嶋姓と尾崎姓と二様あるが尾嶋姓の方が古いようである。(拓本/淀、解説/松浦) 0 0 隠岐の文化財 4 0 1 <口絵解説>近江屋おふで絵姿(西ノ島、小泉安雄蔵)。浦郷村に配流された一人に小泉栄十郎(文久3年卒)がある。この仁の身分や罪状については詳らかにしないが、古老の話によると、京都二條城の衛士であったとも、近江大津の神主であっ 1863 0 文久3年 隠岐の文化財 癸亥 4 0 5 たともいわれている。近江の人であったので、「近江屋」と名乗ったという。いずれにしろ身分のある人であったらしい古とは今に残る語草からも伺える。栄十郎は浦郷村で妻を娶ってここを永住の地と定めた。その妻との間に美しい娘があり、「 0 0 隠岐の文化財 4 0 8 おふで」といったが、13歳の時肉親に連れられ本家に会いにいったが、その折形見にとて絵姿3枚を画かせてそれぞれ京と隠岐に分配した。それがこの絵である。近年になって表具を仕直そうと出したついでに鑑定してもらった処「北斎画」でな 0 0 隠岐の文化財 4 0 11 いかといわれ驚いて持ち帰ったという。それは兎も角、当時似絵を画かせた事からしても栄十郎の京での暮らしも伺われて床しい。なお詳しくは「隠岐の流人」をみられたい。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 4 3 1 島前の火成岩。千葉とき子。隠岐諸島にみられる火成岩の大部分はアルカリ岩系に属する。これらの火成岩は後期中新世以降に形成されたもので、日本列島がユ−ラシア大陸から分離して間に日本海ができた後の火成活動の産物である。アルカリ岩 0 0 隠岐の文化財 4 3 7 系というのはソレアイト系、高アルミナ玄武岩系やカルク、アルカリ系とくらべてアルカリの含量が高く、造岩鉱物の種類や化学組成でも区別される(第1図)一連の岩石である。これら各系列の岩石をつくったもとのマグマはそれぞれ温度、圧力 0 0 隠岐の文化財 4 3 13 の異なる条件下(おもに上部マントルの深さの違った位置)でできたとされている。東北日本孤では現在、太平洋側から日本海側に向かってソレアイト系、高アルミナ玄武岩系、アルアリ岩系の順に南北にのびた帯状に火山が並んでいる。このよう 0 0 隠岐の文化財 4 3 19 な配列は深発地震の等深源線とほぼ平行している。さらに実験岩石額のデ−タからアルカリ玄武岩疾マグマの片がソレアイト玄武岩疾マグマより高温、高圧の条件下(上部マントルのより深い位置)でできることがわかっている。したがって隠岐の 0 0 隠岐の文化財 4 3 24 火成岩をつくったマグマは、太平洋プレ−トが東側からユ−ラシアプレ−トのあはるか下までもぐりこんだ先端部の上位にあたるユ−ラシアプレ−ト下部の上部マントル物質が部分融解してできたものであろう。隠岐諸島の島前と島後のアルカリ系 0 0 隠岐の文化財 4 3 30 火山岩は岩石の種類は同じで、形成時期もそう違わない。岩石の種類としてはアルカリ玄武岩から流紋にいたる広い組成範囲の火山岩がみられる(第1表)。これらのアルカリ火山岩類はほとんどがカリウムに富む系列(Na2O重量パ−セント− 0 0 隠岐の文化財 4 3 35 1・5重量パ−セントがK2O重量パ−セントより小さい)である。深成岩の場合には石英、アルカリ長石、斜長石の量比と有色鉱物(橄欖石、輝石、角閃石、黒雲母、磁鉄鉱など)の量によって岩石名が決められるが、火山岩の場合にはガラス質 0 0 隠岐の文化財 4 3 40 であるとか、造岩鉱物が微細すぎて量比が判定できないことが多いため、化学組成(SiO2の量とアルカリ量との関係、第1図)による分類が考えられる。カリウムに富む系列のアルカリ火山岩については粗面安山岩、トリスタナイトなどの用語 0 0 隠岐の文化財 4 3 46 も使われてきたが、近年、第1図に示した岩石名を使うよう国際岩石名検討委員会(火山岩部門)から提案が出された。これまでトリスタナイトや粗面安山岩とされてきた岩石はラタイト、ショショナイトとなり、両者をまとめて粗面安山岩と呼ん 0 0 隠岐の文化財 4 4 3 でもよいということになった。以下に島前にみられるアルカリ岩をいくつか紹介する。一、石英閃緑岩。アルカリ長石を主とする深成岩。肉眼では白色〜淡緑色のアルカリ長石と濃緑色の角閃石と黒雲母が識別できる(第2図の1)。偏光顕微鏡下 0 0 隠岐の文化財 4 4 9 ではその他に斜長石、石英、磁鉄鉱、チタン鉄鉱を含み、燐灰石ジルコン、褐簾石を少量伴なう。(化学組成は第1表の1)二、アルカリ玄武岩。斜長石と輝石を主とする火山岩。肉眼では(第3図の1)茶色の変質した橄欖石は(新鮮な橄欖石は 0 0 隠岐の文化財 4 4 15 黄緑色)、暗緑色の輝石、四角ばった白色の斜長石の斑晶がみえる。球状あるいは不定形の白色の部分は方解石、鏡下では(第3図の2)斑晶の間の細粒の結晶として斜長石、輝石、磁鉄鉱、アルカリ長石がみられる。橄欖石、黒雲母、燐灰石がわ 0 0 隠岐の文化財 4 4 21 ずかに含まれる。(化学組成は第1表の2)三、ハワイ岩。斑晶は橄欖石だけ。斜長石の斑晶を含むことはない。肉眼ではアメ色をした橄欖石しか識別できない。(第4図の1)鏡下では(第4図の2)マトリクス部分に斜長石、橄欖石、輝石、磁 0 0 隠岐の文化財 4 4 27 鉄鉱が認められる。黒雲母と燐灰石を微量含む。(化学組成は第1表の3)四、粗面玄武岩。斜長石と輝石、橄欖石の斑晶が多い玄武岩(第5図の1)。磁鉄鉱の斑晶を少し含む。鏡下では(第5図の2)マトリクス部分の斜長石が柱状で局部的に 0 0 隠岐の文化財 4 4 33 平行に配列している。マトリクスの構成鉱物は斜長石、輝石、磁鉄鉱が主である。微量の橄欖石、燐灰石、アルカリ長石、黒雲母を伴う種々の沸石や方解石ができている晶洞を含むことがある。(第5図の4と5)(化学組成は第1表の4と5)。 0 0 隠岐の文化財 4 4 40 五、ショショナイト。斜長石、輝石、橄欖石、黒雲母、磁鉄鉱の斑晶を含む(第6図の1)マトリクスは斑晶と同じ鉱物を主とするが、アルカリ長石、燐灰石を伴う。(化学組成は第1表の6)六、ラタイト。斑晶は少なく、小さな斜長石、黒雲母 0 0 隠岐の文化財 4 4 46 、輝石、磁鉄鉱、橄欖石の斑晶がわずかにみられる。(第7図の1)マトリクスは斜長石が大部分を占め、他にアルカリ長石、輝石、磁鉄鉱、黒雲母、燐灰石を伴なう。(化学組成は第1表の7)七、粗面岩。斑晶もマトリクスもアルカリ長石が主 0 0 隠岐の文化財 4 4 52 体をなす。ときには斑晶として斜長石、ナトリウムに富む輝石(第8図の3と7)や角閃石、黒雲母、磁鉄鉱を含む。マトリクスにはアルカリ長石のほか、微量の輝石、磁鉄鉱、石英がみられる。(化学組成は第1表の8と9)八、流紋岩おもにア 0 0 隠岐の文化財 4 5 6 ルカリ長石と石英からなる。斑晶としていられるのは石英とアルカリ長石(第9図の1)の他、ナトリウムを多く含む輝石(第9図の2)と磁鉄鉱である。マトリクスはガラス質で偏光顕微鏡下でも識別が困難なほど微細な針状結晶が流理を示して 0 0 隠岐の文化財 4 5 12 並んでいる。(化学組成は第1表の10)これまでたびたび隠岐島前を訪れてアルカリ火山岩の調査をしてきたが、島前教育委員会、島前各島の役場の方々にいろいろ御援助頂いた。また西ノ島の木村康信氏、中ノ島の田中公氏、田邑二枝氏、知夫 0 0 隠岐の文化財 4 5 17 里島の渡部喜代一氏、故渡部辰雄、永見六郎両氏には野外査のお手伝いをして頂いた。ここに記して厚く御礼申し上げます。 0 0 隠岐の文化財 4 6 1 第3図の2、第3図の3、第4図の1、第4図の2、第4図の3、第5図の1、第5図の2、第5図の3。 0 0 隠岐の文化財 4 7 1 第5図の4、第5図の5、第6図の1、第6図の2、第6図の3、第7図の1、第7図の2、第7図の3。 0 0 隠岐の文化財 4 8 1 第8図の1、第8図の2、第8図の3、第8図の4、第8図の5、第8図の6、第8図の7、第8図の8。 0 0 隠岐の文化財 4 9 1 第9図の1、第9図の2、第9図の3、第9図の4。 0 0 隠岐の文化財 4 10 1 図のキャプション。第1図〜9図。第1図。アルカリ岩系火山岩のなかのカリウムに富む系列(括孤内はナトリウムに富む系列の岩石名(LeMaitreによる)。点線より上部はアルカリ岩、下部は非アルカリ岩(ソレアイト系やカルク、アル 0 0 隠岐の文化財 4 10 7 カリ系)の領域(久野による)。黒丸は第1表の化学分析値から水分を除いて100%に再計算してプロットしたもの。数字は第1表の試料番号を示す。第2図。一、石英閃長岩、西ノ島大山。二、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみた石英閃緑 0 0 隠岐の文化財 4 10 14 岩。中央部の劈開(へきかい)の線がみえる結晶は角閃石。薄茶色の結晶は黒雲母。黒い結晶は磁鉄鉱。汚れたように見える部分はアルカリ長石。透明な部分は石英。三、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−)でみた石英閃長岩。二と同一部分。アルカリ長 0 0 隠岐の文化財 4 10 19 石の結晶粒の境界がよくわかる。第3図。一、アルカリ玄武岩。西ノ島通天橋上方。二、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみたアルカリ玄武岩。中央部の丸みをおびた斑晶は橄欖石。その左側の麦わら色をした斑晶は輝石。左上方のあまり大きく 0 0 隠岐の文化財 4 10 26 ない透明な部分とマトリクスの透明な部分は斜長石。マトリクスの黒色の結晶は磁鉄鉱。少し黄色がかった結晶は輝石。三、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−)でみたアルカリ玄武岩。左上方の斜長石が双晶しているのがわかる。第4図。一、ハワイ岩。 0 0 隠岐の文化財 4 10 33 中ノ島能田。灰色のマトリクスの中にアメ色をした橄欖石の斑晶が点在する。二、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみたハワイ岩。左側下方の柱状あるいは右側よりのコロッとした多角形の斑晶が橄欖石。結晶の周縁部が黄色味がかっているのは 0 0 隠岐の文化財 4 10 39 変質しはじめているため。不定形の透明な部分は穴。三、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−のみ)でみたハワイ岩。第5図。一、粗面玄武岩。西ノ島赤灘灯台北西。アメ色をした橄欖石。暗緑色の輝石、白色の斜長石が斑晶として散在する。二、偏光顕微 0 0 隠岐の文化財 4 10 46 鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみた粗面玄武岩。透明な角ばった斑晶が斜長石。右側より劈開のある、麦わら色の柱状の斑晶は輝石。真黒な細かい結晶は磁鉄鉱。三、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−)でみた粗面玄武岩。斜長石の双晶しているのがわかる。 0 0 隠岐の文化財 4 10 53 左上方の斜長石と輝石斑晶の間に黄色に光っているのは変質した橄欖石。四と五、粗面玄武岩。西ノ島国賀。晶洞(透明あるいは白色の結晶が詰まった球状体)が多い。晶洞のなかにはレビ沸石(中央左側よりの透明な板状結晶)、菱沸石(サイコ 0 0 隠岐の文化財 4 10 59 ロ状結晶)、方解石(犬牙状結晶)ができる。第6図。一、ショショナイト。西ノ島国賀。白色の斜長石の斑晶が多く、暗緑色の輝石の斑晶は少ない。二、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみたショショナイト。左側の透明な長い結晶は斜長石。 0 0 隠岐の文化財 4 10 66 右側より暗赤褐色の縁どりをもつ結晶は変質した橄欖石。右側上方の真黒い結晶は磁鉄鉱。三、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−)でみたショショナイト。斜長石斑晶は累帯構造が顕著で、結晶の右側と左側では化学組成の変かが均等でないことがわかる 0 0 隠岐の文化財 4 10 72 。大きな橄欖石は変質斑晶にみえるが数個の結晶がまとまっているのであって、上下に二分する灰色の部分には燐灰石の結晶が数個ならんでいる。第7図。一、ラタイト。知夫里島小瀬棚南方白色柱状の斜長石斑晶と黒色柱状の輝石と黒雲母の斑晶 0 0 隠岐の文化財 4 11 2 がわずかにみられる。二、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみたラタイト。無色透明な柱状結晶が斜長石。下方右側より劈開のみえるやや緑がかった色の結晶が輝石、うす茶色の柱状の結晶が黒雲母、黒色の結晶が磁鉄交。三、偏光顕微鏡(直交 0 0 隠岐の文化財 4 11 8 ポ−ラ−)でみたラタイト。第8図。一と二、粗面岩。西ノ島波止。白色のアルカリ長石斑晶がかなり多い。三、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみた粗面岩。無色透明な不規則な外形をもつ結晶はアルカリ長石と斜長石。左側下方の淡緑色の結 0 0 隠岐の文化財 4 11 15 は角閃石。黒色にみえるのは磁鉄交。四、偏光顕微鏡(直交ポ−ラ−)でみた粗面岩。中央右側よりの丸味のある長石の結晶は双晶と累帯構造が顕著なので斜長石であることがわかる。五と六、粗面岩。西ノ島蔵谷〜宇賀。板状節理が発達している 0 0 隠岐の文化財 4 11 22 。薄いアメ色をしたアルカリ長石と暗緑色の輝石の斑晶が認められる。七、偏光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみた粗面岩。無色透明な部分がアルカリ長石。中央左側よりの劈開のある淡緑色の結晶は鉄に富む輝石。黒い結晶は磁鉄鉱。八、偏光顕 0 0 隠岐の文化財 4 11 29 微鏡(直交ポ−ラ−)でみた粗面岩。第9図。一、流紋岩。知夫里島キサネ。柱状節理の発達した流紋岩の岩脈。二、白い斑点としてみえるのは石英とアルカリ長石の斑晶。マトリクス部分は濃緑色と淡緑色の部分が縞模様をつくっている。三、偏 0 0 隠岐の文化財 4 11 36 光顕微鏡(下方ポ−ラ−のみ)でみた流紋岩。上部のコロッとした結晶は石英の斑晶。中央部の劈開のある淡緑色の結晶はナトリウムを多く含む輝石。マトリクス部分には微細な針状結晶が斑晶をとりまいて流れたように配列する。四、偏光顕微鏡 0 0 隠岐の文化財 4 11 42 (直交ポ−ラ−)でみた流紋岩。マトリクス部分はガラス質なため、ほどんど真黒にみえる。 0 0 隠岐の文化財 4 35 1 隠岐国維新変動並廃仏概要誌。野津徳重。変動概要。隠岐ハ絶海ノ孤島ニシテ古来殆ント豪族ノ割拠ナク封建ノ世ニ及テ亦幕府ノ直轄ニ属シテ曽テ藩属タラス島民淳朴専ラ農漁ニ衣食シ道学ノ如キ殆ント存スル処ナシ然レトモ往昔後鳥羽上皇ノ遷幽 0 0 隠岐の文化財 4 35 8 後醍醐帝ノ潜幸ハ数百載ノ下霊蹟ヲ留メテ愴父野老亦道義ノ念ヲ冥々ノ中ニ養ヒ徳川幕府ノ末年ニ及テハ則チ慷慨勤王ノ志気海島ノ天地ニ磅メメ鬱結シ隠然将サニ機ニ投セントスル所アリ中沼了三ハ隠岐中邑ノ人ナリ文化三年ヲ以テ生レ幼ニシテ父兄 1806 0 文化3年 隠岐の文化財 丙寅 4 35 14 ニ従テ漢学ヲ修メ才気衆ニ超絶ス年十五帶刀京師ニ遊ヒ鈴木某ノ門ニ入テ漢学ヲ修ムル「数年遂ニ儒ヲ以テ帷ヲ京師ニ張リ諸生ヲ集メ大ニ道学ヲ講シテ大義名分ヲ唱道ス尋テ小松宮聖護院宮等ニ出仕シテ進講スル「久シク其後又大和ノ十津川ニ於テ 0 0 隠岐の文化財 4 35 19 私塾ヲ興シ門生ヲ教道スル「数年而メ是時徳川幕府政衰ヘ網弛ミ内ニハ列藩ノ向背ヲ[スルアリ外ニハ米艦ノ開港ヲ逼ルアリ天下ノ志士京摂ノ間ニ出没横議シテ幕府制スル能ハス其失政ト文学ノ興隆トハ益々勤王論ヲ熾ニシ諸藩ノ青年教ヲ了三ノ門 0 0 隠岐の文化財 4 35 25 ニ請フ者日ニ多ク鹿児島藩山口藩大和ノ十津川等ノ豪壮屯集以テ道義ヲ講談ス既ニシテ了三今上帝ノ侍講ヲ奉スルニ及テ名声大ニ振ヒ四方ノ志士頼テ以テ朝廷ニ出入スルモノ少カラス隠岐人ニシテ学ニ志ス者亦多ク其熟ニ遊ヒテ志士ト交ハリ常ニ天 0 0 隠岐の文化財 4 35 30 下ノ形勢ヲ談シ全島亦自ラ風ヲナシテ盛ニ皇漢ノ学ヲ講シ内憂外患ノ時ニ処シテ勤王ノ大義ヲ唱道スル「愈々切ナリ是ヨリ先幕府諸藩ニ令シテ海防ヲ厳ニセシムルアリ松江藩亦其令ヲ奉シテ藩兵ヲ隠岐ニ駐屯セシメ新陣屋ト称シ軍監高橋伴蔵ヲシテ 0 0 隠岐の文化財 4 35 37 農兵ヲ島民ニ募集セシム志士相メメフテ応シ其数四百八十人ト称ス然リ而メ駐屯ノ藩士ハ日夜放メメ遊逸以テ海防兵備ヲ異トセス農兵ノ教練ヲ行ハス武術ノ講窮ニ志ス者アレハ反テ之ヲ阻セントシ其心事甚タ陋劣ナルモノアリ是ニ至リテ島民ハ直ニ其安 0 0 隠岐の文化財 4 35 42 危ニ関スル国防ノ事ヲ以テ放綻無頼ノ藩兵ニ委スルヲ欲セス物論メメ々タリ会々志士中西毅男等京師ヨリ帰テ天下ノ形勢ヲ論シ文武講窮ノ要ヲ説ク時恰モ朝廷攘夷ノ令ヲ発スルアリ是ニ於テ同志相謀テ松江藩候松平出羽守ニ文武館設置ノ事ヲ請フ時ニ 0 0 隠岐の文化財 4 35 48 慶応三年六月ナリ郡代庁ヲ西郷ニ置キ陣屋ト称ス山郡宇右衛門上書ヲ斥ケテ上達セス大ニ嘲罵シテ曰ク漁農何ソ剣メメヲ弄スルヲ之レ為サント庄屋職ヲ召集シテ鎮圧ヲ試ヌ庄屋職井上甃助列メメノ中ニ国防ノ為メ農兵ヲ隠岐ニ募集セシ主旨ニ及ヒ以テ郡 0 0 隠岐の文化財 4 35 54 代ノ措置ヲ論難シ意気激昴言々メメ切痛快ヲ極ム代官忽チ辞窮シ左右ニ命シ井上ヲ捕ヘテ乱撃セシメ同志益々憤激ス其後同志更ニ軍監高橋伴蔵ニ願書ヲ致シテ懇請スル所アリシモ亦阻セラセテ意ヲ通スルヲ得スメメニ其憤慨ヲ極ム隠岐ハ素ト幕府ノ直属 0 0 隠岐の文化財 4 35 60 ニシテ親伴松江ニ附託セラレシモノ今ヤ幕府ノ為政日ニ非ニシテ松江藩亦因循苟且同志皆両者ノ以テ頼ルヘカラサルヲ察シテ竟ニ大ニ機ヲ誤ルラン「ヲ恐レ遂ニ相謀テ私カニ文武館ヲ数処ニ興シ各其処在并附近部落ヲ以テ一団トナシ団々各其館ニ就 0 0 隠岐の文化財 4 35 66 テ文ヲ講シ武ヲ練リ以テ隠然松江藩ト相抗ス而メ横地官三郎等同志十一人京師長州ノ動静ヲ覗ヒ機ニ乗シテ勤王正義ノ徒ニ投セント欲シ明治元年正月密カニ船ニ乗シテ福浦ヲ出テ海上風波ニ阻セラレ船浜田ニ入ル是ヨリ先幕府長州ヲ征討シテ敗績シ 1868 100 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 4 36 4 浜田ハ既ニ長藩ノ領スル所タリ長藩ノ検船メメ神田拙造振武隊長々沼千熊等横地等ヲ疑ヒ数々鞠問ス横地等告クルニ實ヲ以テシ且メメ左ヲ示ス長沼千熊曰ク今ヤ賊軍敗走江戸城ニ據レリ京摂ノ間又何ノ為ス所ソ况ンヤ松江藩ノ意未タ知ルヘカラサルモノ 0 0 隠岐の文化財 4 36 10 アリ速ニ帰テ徐ニ事ヲ謀ルニ如カスト横地等乃チ之ヲ領シテ浜田ヨリ帰ヘル帰テ而メ郡代山村宇右門ノ処分ヲ議シ未タ決セス会々山陰道鎮撫使西園寺公望山陰各藩ノ去就ヲ問ヒ巡シテ伯耆ノ米子ニ到リ隠岐公文メメニ密書ヲ飛ハシテ其ノ朝廷ニ帰シタ 0 0 隠岐の文化財 4 36 15 ルヲ論シ因テ其田園租税戸口牛馬等従来出雲ニ徴セシ所ヲ録シテ上スヘキヲ告達ス而メ松江藩私ニ先ツ之ヲ開披セシ為同志等大ニ怒リ元年三月十九日大ニ多衆ヲ糾合シ大城屋山ニ據テ問罪書ヲ作リ失政数條ヲ挙ケ使者ヲ以テ郡代山郡宇右衛門ニ逼ル 1868 319 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 4 36 21 書辞極メテ激烈聴カスンハ事ヲ干戈ニ訴ヘン「ヲ以テス郡代屈服倉皇帰藩屯兵亦従テ還ル是ニ於テ京都西園寺鎮撫使役所ニ馳セ事情ヲ具シテ以テ指揮ヲ請ヒ陣屋ニ会議所ヲ設ケテ老功者ヲ評議ノ任ニ当ラシメ別ニ総会所ヲ置キ仮ニ忌部正弘ヲ以テ総 0 0 隠岐の文化財 4 36 27 指揮職トナシ以テ政務ヲ処理ス又成兵義勇押刀ノ三局ヲ置キ各局交替入直ヲ以テ壮士四五十人ヲ置キ以テ警戒ニ充テ庄屋メメ亦交番諸事ヲ処弁シ各文武館ノ修道ハ為メニ益々盛ナリ。正義党ハ此同志ノ称ニシテ当時皆隠岐島後ニ在テ正義ヲ唱ヘ以テ此 0 0 隠岐の文化財 4 36 33 挙ニ出テシナリ又私ニ松江藩ニ内応スル出雲党アリ一ニ之ヲ因循派ト唱ス是レ松江藩ニ阿附スルノ僧侶陰ニ其宗教ニ因テ之ヲ誘導連tスルモノナリ四月二十日松江藩番頭役斉藤藻左衛門部下精錬ト唱スルモノ二十ヲ率テ島前ヨリ来リ其威ヲ張テ正義 0 0 隠岐の文化財 4 36 39 党ト相對シ尋テ藩士乙部勘鮮由書記妹尾謙三假郡代鈴村祐平等兵一千ヲ率イ来テ陣ヲ西郷ノ市街ニ布ク是ニ於テ正義党野津亦一郎ヲ以テ正使トナシ其来意ヲ問ヒ因テ帰藩セシメント欲ス藩士等曰ク隠岐ハ我藩ニ附託セラレシモノ我藩ハ之ガ守備且統 0 0 隠岐の文化財 4 36 44 治ニ当ラサルヘカラサルモノナリ且西園寺役所ノ命我藩ニ下ルアリ宣シク亟カニ公庁我ニ致スヘシト野津曰ク事令我ヨリ西園寺役所ヘ稟申中ニ係レリ土ハ既ニ朝廷ノ領タリ西園寺役所復タ何ヲ苦ンテ貴藩ヲ煩ハサンヤト往復数次論弁末タ決セス五月 0 0 隠岐の文化財 4 36 50 十日早且藩兵操連ト称シ陣屋ヲ囲ミ以テ戦ヲ擬ス正義党朝命ヲ待テ敢テ動カス会々會々乃木守吉横地旦三郎井上甃助等京師ヨリ還テ舟福浦ニ入ル西郷ノ危機切迫スルヲ聞キ直ニ使ヲ馳セ其ノ頃告ニシテ来ルヘキヲ報シ且告クルニ朝命未タ下ラサルノ 0 0 隠岐の文化財 4 36 55 今日決シテ我ヨリ動クヘカラサルヲ以テ時巳ニ藩兵戦意ヲ示シテ正義党ニ逼リ陣屋ヲ去ラン「ヲ求ムルニ再三正義党退テ朝命ヲ待チ徐ニ事ヲ謀ラント欲スト雖モ其少壮気鋭ノ輩進撃決戦ヲ期シ議論粉々老成者百方之ヲ制シテ藩兵忽チ発砲シ四面射撃 0 0 隠岐の文化財 4 36 61 弾丸雨注ス正義党防戦方ナク陣屋ヲ舎テ、潰走シ死者十四人横地官三郎井上甃助等来テ西郷ニ入ラントシ道ニシテ衆皆潰走スト聞キ切歯憤慨シテ回ス深夜藩兵大閧陣屋ニ入テ傷者ヲ虐殺シ更ニ仏徒ノ内応先驅ニ依テ正義党ノ余類ヲ索メ其家屋ニ侵入 0 0 隠岐の文化財 4 36 66 シテ貨財ヲ掠奪ス初メ藩兵ノ隠岐ニ渡来スルヤ同志急使ヲ馳セテ鳥取藩及長藩ニ援ヲ請フ是ニ於テ鳥取藩藩士景山龍造ヲ遣ス十二日龍造舟先ツ津戸ニ達シ十三日西郷ニ抵リ松江藩士ニ会シテ之ヲ諭シ暴行ヲ禁シ縛者ヲ解放セシム長藩亦山田顕義ヲ遣 0 0 隠岐の文化財 4 36 72 ス十四日顕義会津征討ノ途次艦船三隻ヲ率イテ西郷港ニ入リ松江藩ノ船ヲ囲ム而メ事巳ニ鎮ニ帰シタルヲ以テ後事ヲ景山龍造ニ託シテ去リ四方逃竄ノ同志相尋テ帰来ヲ見ルニ至レリ初メ十日ノ変報京師ニ達スルヤ朝廷直ニ監察使土肥謙造副使椋木弥 0 0 隠岐の文化財 4 36 78 助ヲ差遣ス正義党ノ重栖怒平村上松栄中西毅男等随従シテ還レリ六月二十八日監察使来テ直ニ変事ヲ按シ審判ヲ遂ゲ暴行者ヲ厳責シ其椋奪ノ貨財ヲ出シテ原主ニ還附セシメ秩序因テ復スルヲ得タリ然レトモ島前は未タ松江藩ノ治ヲ脱スルニ至ラス正 0 0 隠岐の文化財 4 37 5 義党人ヲ派シテ之ヲ説カシメ其帰順ニ因テ海士ニ監察使出張所ヲ設ケ別府ニ検船メメヲ置キ島後ノ同志其監督ニ当リ島前ノ壮者警備ニ当リ島後羽帝ノ陵廟ヲ修理シテ守衛ヲ附セリ是ニ於テ松江藩全ク隠岐統治ノ権ヲ失ヒ隠岐ハ因テ同志村同志係ヲ相絶 0 0 隠岐の文化財 4 37 11 ツ再来正義党ハ之ヲ本同志村同志本壮士、村壮士ニ分チ師ヲ聘シテ益文武ノ修道ニ奪励セリ。十一月太政官、鳥取藩ニ隠岐ノ管轄ヲ命シ尋テ二年二月隠岐県ヲ置キ県庁ヲ西郷ニ定メ其出張所ヲ別府ニ設ケ壮士ヲ改称シテ県兵トナシ同志ヲシテメメ業ニ 1869 200 明治2年 隠岐の文化財 己巳 4 37 17 就カシメ依テ事総テ定マル。四年五月刑部省ハ事変連累者ノ罪状ヲ審判シテ松江ノ家老、乙部勘鮮由ヲ禁錮一年半ニ処シ以下罪ノ軽重ハ従テ各処断シ隠岐同志総代ニ至テハ免カルルヲ得タリ。廃仏概要。隠岐ノ同志正義党勤王ノ大義ヲ唱ヘ国防ノ急 1871 500 明治4年 隠岐の文化財 辛未 4 37 25 務ヲ論シ文ヲ修メ武ヲ講シ慷慨壮図苦メメ経営遂ニ以テ松江半ノ治ヲ脱シテ而メ意気益々軒昴余憤ノ勃発スル所尊王愛国ノ大義ニ據テ将サニ勢ニ乗シ進デ為ス所アラントス其論ニ曰ク我帝国ハ神代以来皇統聯綿シトテ萬世一系ノ天皇之ヲ統御シ其宇内 0 0 隠岐の文化財 4 37 30 無比至高不抜ノ国體ハ以テ君臣ノ分ヲ明カニシテ敢テ或ハ乱ル、「ナク千古不易ノ国教因テ以テ存セリ吾人臣民タルモノ宣シク国教ニ則リ道ヲ修メ業ヲ励、進ンテ義勇公ニ奉シ以テ祖宗ノ威霊ニ事ヘ以テ帝国ノ隆運ヲ扶翼スヘシ復タ何ソ外来ノ教義 0 0 隠岐の文化財 4 37 36 ヲ容レンヤ然リ而メ近者仏僧ノ幣毒ヲ流ス獨リ隠岐ニ止マラス全国ニ及テ益々甚シキモノアリ僧侶国恩ヲ忘レテ国教ヲ外トニシ巧ニ民財ヲ収斂シテ国用ノ不給ヲ意トセス徒ラニ寺院ヲ荘厳ニシテ愚夫愚婦ニ傲リ其素行ニ至テハ放縦自ヲ戒飾スル「ヲ 0 0 隠岐の文化財 4 37 42 知ラス悪ゾ其ノ衆生ヲ教化済度スルニ財ランヤ僧侶ハ實ニ国家ノ蠹毒今ニシテ仏ヲ絶滅セスンバ是レ患ヲ千載ニ貽スモノニシテ国家ヲ慮ル者ノ忍フヘカラサル所ナリ况ンヤ陰ニ松江藩ノ兵士ニ予シテ吾同志ノ正義ニ敵抗シ計図ヲ破壊シ藩兵ヲ幇助先 0 0 隠岐の文化財 4 37 48 導シテ同志ノ家屋ニ侵入シ貨財ヲ掠奪シタル隠岐ノ仏徒ニ於テ大ニ先ツ之カ掃蕩ヲ計ラスシテ可ナランヤ隠岐ニシテ能ク先ツ廃仏ヲ断交スルニ至レハ以テ之ヲ全国ニ及ホスヘク隠岐廃仏ノ断行ハ今ヤ一日モ猶予スヘキニアラサルナリト然レトモ同志 0 0 隠岐の文化財 4 37 53 中温和ト急激トノ二派ヲ生セリ温和派ノ説ニ曰ク廃仏ノ事宜シク先ツ僧侶ニ論シテ改心帰俗セシメ之ニ自活ノ道ヲ授クヘシ新ニ徒弟タラント欲スル者ノ如キハ宜シク戒メ之ヲ禁スヘシ而メ是レ予メ之ヲ官ニ稟申シ以テ命ヲ待ツヘキノミト而メ急激派 0 0 隠岐の文化財 4 37 59 以為リ数百千年来ノ幣事ヲ掃蕩スルハ王政維新ノ今日ヲ以テ其時トナス成功ハ果断ニアルノミト両派ノ議論容易ニ決セス是時ニ於テ僧侶中巳ニ或ハ仏体器具ヲ擁シテ出奔スル者アリ或ハ改心還俗ヲ申メメスルモノアリ警護ニ附スル所アラントシテ会々 0 0 隠岐の文化財 4 37 64 僧侶中民俗ト争端ヲ起スモノアリ同志憤激ノ余路傍ノ石仏ヲ顛倒蹴毀シ勢ニ乗シテ寺院ニ闖入シ仏像ヲ破壊ス是ニ至テ村々戸々忽チ響ニ応して相起チ寺院トナク自家トナク苟モ仏像祭器ハ以テ汚穢物トナシ各自先ヲ争フテ之ヲ河海ニ投シ之ヲ毀滅焼 0 0 隠岐の文化財 4 37 70 盡シ夫ノ非正義因循派ニ向テハ則チ強制以テ之ヲ廃毀セシメ竟ニ復タ一物ヲメメメス是レ實ニ明治二年三月ヨリ数月ニ及ヒ茲ジ隠岐四十六寺仏ノ廃滅ヲ遂ケシナリ。正義ノ同志既ニ廃仏ノ事ヲ達成シ寺院所属ノ物件ヲ誉ケテ之ヲ官ニ納レ其ノ私利ヲ営 1869 300 明治2年 隠岐の文化財 己巳 4 37 77 ムニ出テタルモノニアラサル「ヲ表シ且書キ上テ罪ヲ待ツ而メ官措テ問フ所ナシ乃チ寺院ノ朽廃ニ属ズルモノハ或ハ焼棄シ或ハ觧去シ其堅牢ナル者ハ之ヲ文武館ニ充テ後ニ及テ之ヲ小学校舎ニ轉用シ其梵鐘銅鑼鉦メメ等ノ金属物ハ存シテ大砲鋳造ノ用 0 0 隠岐の文化財 4 38 5 ニ充テシト雖モ後ニ及テ売却シ其他雑貨物ハ之ヲ還俗者ニ附与シ或ハ之ヲ其施主ニ還附シ或ハ之ヲ役棄売却シ而メ田圃散理等ハ一且特ニ之ヲ官ニ納レシナリ。明治四年十一月浜田県廃仏事変ノ審判ヲ行ヒ主謀横地官三郎ヲ徒刑一年半ニ忌部正弘ヲ自 1871 1100 明治4年 隠岐の文化財 辛未 4 38 11 宅謹慎一年ニ他九名ヲ百杖刑ニ処シ五年隠岐鳥取県ニ属スルニ及テ隠岐無寺院公認ノ令アリ爾来星霜ヲ経ルニ従ヒ漸ク又仏教ノ入来寺院ノ再興ヲ見ルニ至リシトメメモ皆微々トシテ振ハス大社教黒住教等ノ神道隆盛ヲ致シ旧正義蕩ノ人士ノ如キハ大抵 0 0 隠岐の文化財 4 38 16 此ニ信依ストイフ。十二年時ノ郡長高島士駿隠岐教育基本ヲ造ル為メ政府ニ請フテメメ者官没ノ地ヲ下附セラレ爾来大ニ之カ整理ヲ行ヒ一定ノ管理法ヲ設ケテ之ヲ管理ス今隠岐島司ノ管理ニ属スル隠岐総町村組合有財産価格役十万円此レナリ又現今隠 1879 0 明治12年 隠岐の文化財 己卯 4 38 22 岐町村立小学校地ハ大抵メメテ寺院地タリシモノナリ還俗者ニ至テハ当時各自活ノ道ヲ授ケシモノナリトメメモ官没地ノ下附アルニ及テ各耕地五反ヲ分与セリ。結尾。其変動ト云ヒ廃仏ト云フ者之ヲ大観スレハ則チ誠ニ区々タル一小事ノミ敢テ世運ノ得 0 0 隠岐の文化財 4 38 29 失ニ関スル所ナキカ如シトメメモ当時其尊王憂区に慷慨悲憤ノ精神碩儒中沼了三ノ啓発助長ニ因テ全島ニ充満横溢シ其壮烈未曽有余光今ニ及テ世道人心ヲ照ラシ文化風教ニ裨補スルモノ小少ナラサルニ至テハ夫ノ中沼了三ノ功徳ト相待チ相倚ルモノニ 0 0 隠岐の文化財 4 38 35 シテ以テ並ヒ称シテ没スヘカラサルモノナリ。蓋維新ノ際大和十津川ニ亦変事アリメメテ中沼了三塾ヲ此ニ張リ道学ヲ講セシ事歴ト深ク相因縁シ幾ント隠岐ト其揆ヲ一ニスルモノアリト云フ則其一言一行能ク人心ヲ奮興シ天下ノ志士ヲ驅テ維新ノ大業 0 0 隠岐の文化財 4 38 41 ヲ賛セシメタルモノ何ゾ獨リ一孤島ノミト曰ハンヤ。あとがき。これは祖父亦一郎が重宝と表記した桐箱の中に書や古文書の類ト一緒に保存されていたもので、ガリ版刷りの和紙十枚の綴帖である。明治の末年頃のものであろうか、筆者もこれを刊 0 0 隠岐の文化財 4 38 48 行した目的も不詳、結尾の文章などにより彼れ是れ推測するのみである。(文体仮名遣い原文のまま)。 0 0 隠岐の文化財 4 49 1 島前出土の車輪文系叩き痕をもつ須恵器について。三宅博士。はじめに。昭和56年の3月所用で渡島し、海士町を回った後、西ノ島町の松浦泰麿宅で一夜の宿をおねがいした。いつのころからか隠岐の島前での宿は同氏宅と勝手にきめている。そ 0 0 隠岐の文化財 4 49 9 れは御当主から御尊父の収集された資料の放しをうかがうのを何よりの楽しみにしているからであった。いつものことながら、あいさつをすませ、お茶をいただいていると、やおら「珍しいものがあるので……」と、一片の須恵器片を出された。そ 0 0 隠岐の文化財 4 49 16 れが今回ここに紹介しようとする資料である。また後日、筆者の上司を介して松浦氏から、さらにもう一片の須恵器片がとどけられた。それもあわせここに記することとした次第である。ところで須恵器という一種の陶器は古墳時代中期以降、西日 0 0 隠岐の文化財 4 49 22 本において不遍的にみられるものであるが、その生産技術は朝鮮半島からの渡来人によって我区にに伝えられたとされている。それらの土器の内外面には各種の叩き工具の痕跡が認められる。この叩きと云う作業は「片手に持った当て具を土器の内 0 0 隠岐の文化財 4 49 28 面に当がい、他方の手に持った叩き具で土器の外面を叩くことによっておこなう。」(1)もので、この作業による効用については以下のような指摘がなされている。つまり「粘土と粘土のつなぎ目の接着がよくなり、粘土中の気泡が追い出され、 0 0 隠岐の文化財 4 49 34 器壁の厚みは平均化される。叩き締めによって器壁が薄く延ばされると、土器の表面積がひろがり、土器の形にも変化が生じるので、叩き方を適当に加減すれば、土器を意図する形に近づけることが可能である」(2)とされている。あて具はこれ 0 0 隠岐の文化財 4 49 39 までの出土例からすると木製(3)や、陶製(4)のものが知られているが、いずれも茸形を呈すもので、土器面にあたる面には同芯円を刻むのが一般的である。また叩き具は縦木取りの羽子板状の板で、木理と直行する刻みを無数に入れたもの等 0 0 隠岐の文化財 4 49 44 がある(5)。このようにあて具や叩き具には様々な刻みがありそれが土器の内外面に転写されることとなる。この刻みが施される理由については土器を叩いた際に表面の粘土が横に逃げるのを防ぎ、叩き締めの弘化を高めるものとされている(6 0 0 隠岐の文化財 4 50 4 0)。ともあれ二つの須恵器片の内面には一般的にみられる同芯円文ではなく、花弁を思わせる特異な文様(7)が認められた。須恵器片の監察。松浦氏の教示によった須恵器片は二片あって図2−1(1)は昭和40年頃に隠岐郡知夫村多沢で渡 0 0 隠岐の文化財 4 50 10 辺氏が採集されたものとのことであった。これは8・5メ−トル、6センチメ−トルの方形を呈し、器壁は厚い部分で7ミリメ−トルを測る破片で焼成はきわめて良好である。外面には全面に1ミリメ−トル間隔のきめ細かいカキ目が施されており 0 0 隠岐の文化財 4 50 16 、その上に淡緑色の自然メメが全面に付着し、美しい。内面は淡灰色を示し中央に弧をえがいて擬口縁がみられ、それを境にして上半に車輪文叩きが認められる。下半は素文となっているが、目の細かい布目と指紋がみられる。器壁は上半に比較する 0 0 隠岐の文化財 4 50 22 と5ミリメ−トルとやや薄くなっている。この部分が成形時の円形孔をふさいだ痕跡であることは明かで、孔の径は推定約7センチメ−トルと考えられる。これらの監察からすると提瓶の甲張する部分であるろうと推定された。問題の車輪文叩きは 0 0 隠岐の文化財 4 50 27 直径4・8センチメ−トルを測る三重輪の中に放射状に花弁ともみえる▽状の凹が頂点を中央に向け、8個めぐらされている。図2−(2)は昭和30年頃、古海において横山氏が採集されたもので12センチメ−トル・8センチメ−トルを測る板 0 0 隠岐の文化財 4 50 27 状を呈す、メメ胴部破片である。器壁は1センチメ−トルで、全体に均一となっている。外面は淡褐色を示し縦方向に平行線叩き目が認められ、各平行線の間隔は約4ミリメ−トルを測る。内面は淡灰色を示し、9ケ所にわたって放射状文が認められ 0 0 隠岐の文化財 4 50 33 た。これは径約4センチメ−トルを測る円痕の中央から12本の条痕が放射状に広がるものである。条痕間の一部で、それに直行する年輪と思われる細い条痕が見られる。ところでこの破片の破面はいずれも火を受けていることが注意される。あて 0 0 隠岐の文化財 4 50 39 具使用の復原。これまで二つの須恵器片にみられる叩き目について記してきたが以下その痕跡から各工具の形態等を推定してみることにしたい。図−1(1)には円孔を、それよりもやや広い円板状の粘土でふさいだ痕跡がみられるが、この円孔は 0 0 隠岐の文化財 4 50 45 、外面からの叩きに対応し、あて具を握った手を入れて作業した痕である。各種須恵器のうちでこのような形成痕を残すものは横瓶・平瓶・提瓶に限定されよう。この破片は、形態・器壁の厚み等から提瓶の一部であろうと推定された。以下提メメの 0 0 隠岐の文化財 4 51 4 製作肯定を模式的に示すと図3の如くなる。@粘土ひもを鉢形に輪積みにする。Aこの鉢形の内壁にあて具をそえ、外面を叩き具で叩き締めながら成形する。(あて具を操作するための円孔に注意)Bこの円孔をそれよりもやや広い円板状の粘土で 0 0 隠岐の文化財 4 51 12 ふさぐ。この時用いる円板状の粘土は円柱状の粘土塊として準備されていたと考えられる。そしてこの工程に至った時点でヘラか糸等で薄く切りはなされ、円板状の粘土となる。この円柱状の粘土塊は乾燥を防止するため常時湿らせた布によってお 0 0 隠岐の文化財 4 51 23 おわれていたと推定される。つまり内面の一部にみられる布目痕はその時についたものと解される。C円孔をふさいだ後、外面はロクロと櫛状工具を併用してカキ目調整を行う。以上が各破片にみられる成形から調整までの工程である。この後D漏 0 0 隠岐の文化財 4 51 32 斗状の頚部を接合するための円孔を刻り抜く。E提るための両耳を接合し、F乾燥・焼成を経て完成に至る。ところで(1)の須恵器片内面にみられるあて具痕は直径4・8センチメ−トルを測る三重輪内に花弁様の陰刻とし認められるので、あて 0 0 隠岐の文化財 4 52 6 具の刻みは陽刻され、法量は1割(8)ほど大きいものであったと推定される。(2)の内面に残る放射状文は(1)のあて具が陽刻であったのに対し、陰刻であったことがうかがえる。このあて具痕には放射線の他に年輪がみられることから、こ 0 0 隠岐の文化財 4 52 11 れまで直径4・5センチメ−トル前後の木の切断面(木口)があて具として使用され放射線状に広がる条痕は生木が乾燥することによって生じ亀裂と考えてきた。しかし同様な形態の木炭でも類似した痕跡が転写されるとのことであった(9)。木 0 0 隠岐の文化財 4 52 17 炭を使用すること木口の亀裂に粘土が詰り、用をはたさなくなった場合その面を切り取れば新しいあて具の面が即でき、亀裂内の粘土を楊子のごときものの先で掘り出すようりもはるかに早いという。あて具痕が木の木口か、木炭の木口か即断しえ 0 0 隠岐の文化財 4 52 23 ないが、いずれにしろ特別な加工を施さず自然に生じた亀裂をそのまま利用しているところに特徴があるといえよう。まとめにかえて。今回個々に紹介した資料はいずれも表採であるため遺跡の性格や所属時期(10)については明確にしえないき 0 0 隠岐の文化財 4 52 29 らいがあるが、近年車輪文叩き目、とか放射状文叩き目とかわれるものの一例を加えた点は注目に値しよう。ところで、(2)の須恵器片の破面には火を受けた形跡があり、これが採集前、地表面に出ていて山焼きなどのため火を受けたとか、採収 0 0 隠岐の文化財 4 52 34 後何らかの事情で火を受けるといったことがなかったとするならば注意すべきものといえる。つまり、このように火を受けた形跡のある須恵器片は須恵器窯跡の周辺で普遍的に見られるものであって、あるいはこの破片が未に明らかになっていない 0 0 隠岐の文化財 4 52 40 隠岐における須恵器生産の一端を示すものである可能性も大きいからである。これまで島内で生産されたと断定するにたるものはきわめて少ないが西郷町尼寺原遺跡から出土している土師器片がある。これは古墳時代後半に属するとみられる土師器 0 0 隠岐の文化財 4 52 46 の小片で破面に黒曜石片が入っていた(11)。おそらく土師器製作時の粘土中に黒曜石片が混入するというような事情があったのであろう。しかしこの例をもって島内でも土師器が生産されているから、須恵器も生産されたとするわけにはいかな 0 0 隠岐の文化財 4 52 52 い問題がある。つまり土師器と須恵器の窯構造や両者の焼成温度にはかなりの差があり、さらに耐火度の堅い粘土の入手という点が未解決のままである。その点で、ここに紹介した須恵器片のもつ意味は、珍しい叩き痕が認められるということにと 0 0 隠岐の文化財 4 52 58 どまらず、島内須恵器生産を示唆する興味深いものである。たとえ島外持ち込みの土器であったとしても特徴的な叩き痕をもつ須恵器であるから注意すれば製産地をつきとめることがあるいはできるかもしれない。仮にそのようなことができたなら 0 0 隠岐の文化財 4 52 63 ば古代隠岐とその地をむすぶ海上の道が浮びあがり、この二片の須恵器片のもつ意味もさらに大きなものとなるといえよう。<注>(1)「須恵器の叩き目」「九州大学文学部史淵」第百十七輯横山浩一(昭和55年)(2)(1)に同じ。(3) 0 0 隠岐の文化財 4 52 71 愛媛県久米窪田U遺跡「愛媛県史」原始古代T(昭和57年)(図1はこれによった)(4)岐阜県美濃須衛古窯址群「須恵器大成」田辺昭三(昭和56年)(5)(1)に同じ。(6)(1)に同じ。(7)類似した文様については卜部吉博氏が 0 0 隠岐の文化財 4 53 2 「小松古窯跡群範囲確認調査報告書」島根県八束郡宍道町教育委員会(昭和58年)に島根県下出土のものを集成されている。(8)焼成によって約1割強は焼き締まるものとされる。(9)八束郡八雲村在住の陶芸家石倉一弘氏の教示による。( 0 0 隠岐の文化財 4 53 10 10)(7)で古いものほど原体が小さく、丁寧な作りであることが指摘されている。図1の(1)は外面に淡緑色の自然釉が付着しており、このような傾向は山陰の須恵器では古いものに多い。(11)昭和54年島根県教育委員会が発掘調査を 0 0 隠岐の文化財 4 53 15 行ったもので、他数の掘立柱建物等が検出された。問題の土師器については松本岩雄氏の教示によった。付記。この稿を記すにあたり九州歴史資料館の亀井明徳、島根県教育委員会卜部吉博、松本岩雄、島根県教育文化財団柳浦俊一、八束郡八雲村 0 0 隠岐の文化財 4 53 21 在住の陶芸家石倉一弘の諸氏から貴重な教示を得た。またこの稿を記す機会をあたえて下さった松浦康麿氏に記して感謝の意をあらわすものである。 0 0 隠岐の文化財 4 57 1 隠岐区に概况取調書の紹介。若林久。本書は明治29年に隠岐島庁第1課庶務係で、調整筆記したものであることは、表誌の記載によってわかる。全文、46項からなっている。その項目の頭部に、1位置、1幅員、1著名ナル山岳等「一つ書き」 0 0 隠岐の文化財 4 57 8 となっている。その中で「人情風俗及習慣」の項の中に、漁業、農業等8小項目があるが、これは本書によると「重(主か)ナル業務ニ就キ其習慣ノ大要ヲ挙グ」ということである。なお、本書の記述は、文語文、カタカナ、歴史的漢字、かな使い 0 0 隠岐の文化財 4 57 14 で、明治体の疑古文である。できるだけ原文に忠実に伝えることとしたいが、当時の慣用的略字等については、印刷の関係飢えからも当用漢字とした。また、濁点、句読点については公用文の慣行どおりとし補うことをしなかったので判読してほし 0 0 隠岐の文化財 4 57 20 い。明治期の隠岐の状況が、おそらく島外からの赴任であろう人たちの眼に、リアルに捉えられていて、興味深く、ここに紹介させて頂いた。隠岐国概況。1位置。島後ハ島前ノ前北ニ在リ東部ヲ周吉郡トシ西部ヲ穏地郡トス。島前ハ島後ノ西南ニ 0 0 隠岐の文化財 4 57 20 い。明治期の隠岐の状況が、おそらく島外からの赴任であろう人たちの眼に、リアルに捉えられていて、興味深く、ここに紹介させて頂いた。隠岐国概況。1位置。島後ハ島前ノ前北ニ在リ東部ヲ周吉郡トシ西部ヲ穏地郡トス。島前ハ島後ノ西南ニ 0 0 隠岐の文化財 4 57 29 在リ知夫里島中ノ島西ノ島ノ総称ニシテ中ノ島ヲ海士郡トシ知夫里島西ノ島ヲ知夫郡トス。西経6度21分38秒ニ起リ6度48分1秒ニ終ル北緯35度59分30秒ニ起リ36度20分11秒ニ終ル。1幅員。東西9里25町南北8里20町。面 0 0 隠岐の文化財 4 57 37 積21方里8歩9厘。1著名ナル山岳。周吉郡。摩尼山一名大満寺山ハ国中ノ峻山ニシテ海面ヲ抜ク事2030尺ナリト云フ郡ノ東北ニ雄峙シ海ヲ隔テ、遥カニ泊耆ノ大神山ト相対セリ鷲ケ峰葛尾ノ二山ハ其西北ニ並立シ共ニ郡中ノ高峰ナリ。穏地 0 0 隠岐の文化財 4 57 45 焼火 郡。大峰山ハ郡ノ北隅ニ屹立シタル高山ニシテ時張横尾高尾ノ諸山之ニ亜ク。知夫郡。焼火山ハ美田村ノ南方ニ突出セル高山ニシテ海面ヨリ高キ事1493尺ナリト云フ。1著名ナル河川。八尾川ハ幅20間延長7560間ニシテ源ヲ横尾山ヨリ発 0 0 隠岐の文化財 4 57 54 シ原田川ト合シ西郷ニ至リ海ニ入ル。元屋川ハ幅4問延長2700余間ニシテ源ヲ葛尾山ヨリ発シ中村川ト合シテ海ニ注ク重栖川ハ幅5間延長4320間ニシテ源ヲ大峰山ヨリ発シ郡山田小路ノ三派ト合シテ海ニ入ル。1気候。全島ノ寒暖ハ経緯度 0 0 隠岐の文化財 4 57 62 ノ位置ニ比スレハ夏ハ清涼ニシテ冬ハ温暖ナリ蓋シ四面海ヲ環メメスルニ起因スヘシ而シテ其寒暖ノ度ハ華氏寒暖計35度ヨリ95度ノ間ヲ昇降セリ往昔ニ在リテハ積雪軒ヲ埋没スルコトアリシト伝聞セシモ漸次減少セリ夏日ノ驟雨ハ稀少ニシテ島前 0 0 隠岐の文化財 4 58 3 ト島後ヲ比スレハ島後ニ3回アレハ島前ニ僅カニ1回アリ是レ高山樹木ノ有無ニ因リテ然ルモノノ如シ降霜ノ早晩其他ノモノヲ郡別スレハ概ネ左ノ如シ。周吉郡、降霜始10月15日頃終4月10日頃。降雪始11月5日頃大雪2尺終3月15日頃 0 0 隠岐の文化財 4 58 8 小雪1尺5寸。降雨最多6月10月最少7月8月。恒風春東北風、夏南風西風、秋西北風、冬北風。越智郡、降霜始11月5日終4月5日。降雪始11月15日頃大雪1尺5寸終3月7日頃小雪2寸。降雨最多6月10月最少7月8月9月。恒風春 0 0 隠岐の文化財 4 58 9 東北風、夏南風西風、秋西北風、冬北風。海士郡、降霜始1月15日頃終3月5日頃。降雪始11月12日頃大雪1尺終1月25日頃小雪1寸。降雨最多6月7月最少8月9月。恒風春東北風、夏南風西風、秋西北風、冬北風。知夫郡、降霜始12 0 0 隠岐の文化財 4 58 11 月15日頃終4月2日頃。降雪始12月5日頃大雪1尺終2月15日頃小雪5分。降雨最多6月7月最少9月10月。恒風春東北風、夏南風西風、秋西北風、冬北風。1旧跡。周吉郡西郷西町ノ西ニ甲ノ尾山アリ古国府ヲ置ケル所後弘治中佐々木清 0 0 隠岐の文化財 4 58 14 政宮田ヲ転シテ比ニ城クト云フ。宮田ノ城址ハ周吉郡東郷村ニ在リ嘉元年間源頼泰治ヲ比ニ置ケリト云フ。後鳥羽上皇ノ陵廟ハ海士郡ノ中央勝田山ニ在リ後鳥羽神社ト称フ地殊ニ幽静ニシテ青苔舗テ積ノ如シ明治6年勅シテ神主ヲ迎ヒ更ニ摂津国鳥 1873 0 明治6年 隠岐の文化財 癸酉 4 58 21 上郡水無瀬宮ニ斎祀セラレ今巳ニ廃址トナル傍ニ方池アリ勝田池ト云フ又池辺ニ老松アリ土人之ヲ音ナシノ松ト云フ明治7年ノ頃腐朽シ僅カニ朽根ヲ余ス耳海士郡海士村ニ承久ノ故事ヲ伝フ古刹アリ源福寺ト云フ19年間ノ行宮ナリ当時詔シテ号ヲ 1874 0 明治7年 隠岐の文化財 甲戌 4 58 27 隠岐院ト賜フト海士郡豊田村ノ左岸野田ニ小野篁謫居ノ遺址アリ。海士郡崎村ニ美保神社アリ相伝フ承久ノ狩龍舟初メテ此地ニ着シ一夜ノ行在所トナシ茅メメ(1)の月ニ対シ給ヒ感慨ノ御詠アリシ所ナリト。黒木山ハ知夫郡別府ノ東慨願ニアリ方4 0 0 隠岐の文化財 4 58 33 0間余満山松樹蓊蒼タリ元弘ノ行在所ニシテ之ヲ国府御所或ハ黒木御所ト云フ山上ニ小社アリ。天皇ノ尊霊ヲ祀リ黒木神社ト称ス山北ノ田圃ニ御茶屋局屋敷等ノ名アリ当時佐々木清高府ヲ比地ニ開キ全国ヲ治ス後周吉ノ八尾ヲ以テ本府トシ之ヲ別府 0 0 隠岐の文化財 4 58 39 ト名ケシト云フ。知夫郡美田村ノ内大山明ノ山南ニ嵒(2)窟アリ広サ1丈余相伝ツ僧文学貶謫(3)ノ日比窟ニ於テ修法シ帰京ヲ祈レリト。海士郡海士村北部ノ里ニ屋号鍛冶屋敷ト称スル家アリ現今ノ戸主ヲ梶谷九四郎ト云フ家ニ鞴(4)ヲ蔵ス 0 0 隠岐の文化財 4 58 46 ル長サ凡(5)2尺4寸幅凡6寸高サ凡1尺2寸伝云フ。後鳥羽上皇ノ源福寺ニ在スヤ番鍛冶ヲシテ刀ヲ鍛エシム当時用フル所ノモノ是ナリト同人ノ居宅ハ古来曽テ移転セシ事ヲ伝ヘス且従来免租地ナリシカ地租改正以来有租地トナリシト云フ鞴ノ 0 0 隠岐の文化財 4 58 52 外画ハ明治21年篭手田島根県地事之ヲ作リ蔵セシムル所裏面文アリ其顛末ヲ記セリ。知夫里島赤平山ノ近傍字赤禿ノ地ニ往時寺院二宇アリ一ヲ願成寺(古海坊ト称ス)ト云ヒ一ヲ松養寺(仁夫里坊ト称ス)ト云フ相伝フ松養寺ハ元弘ノ年。後醍醐 1888 0 明治21年 隠岐の文化財 戊子 4 58 58 帝ノ播遷(6)ニ当リ一時行在所トナル後チ検林(7)火ヲ発シテ寺院亦烏有ニ帰シ願成寺ハ字寺原ニ松養寺ハ字日尻田ニ移リシカ後更ニ願成寺ハ字西大谷ニ松養寺ハ字天神原ニ移転シ今尚ホ存セリ古文書仏具等ノ如キハ戌辰破仏ノ挙ニ際シ入札仏 0 0 隠岐の文化財 4 58 63 ニ付シテ今存セルモノナシト云フ。知夫里島郡ノ里天佐志比古神社域内ニ一小石アリ伝云フ。後鳥羽帝ノ腰掛石是ナリト知夫里島郡ノ里ノ後山字文覚ノ地ニ僧文覚ノ墓アリ碑石累々傍ニ一松樹アリ墓前小祠ヲ安ス伝云フ往年紀州田部ノ小名安藤帯刀 0 0 隠岐の文化財 4 58 70 逃レテ知夫里島ニ来リ僧文覚ト善シ文覚窟ニ在リテ法ヲ修ス帯刀ハ字宇菅ニ在リ文覚曽テ帯刀ニ謂テ曰ク我窟ニ在ル日々煙ヲ揚ケ以テ消息ヲ通スヘシ烟揚ラサルノ曰ク即チ我カ人寂ノ時ナリト一日烟ナシ帯刀及チ往ク文覚果テ寂セリ依テ遺骸ヲ擁シ 0 0 隠岐の文化財 4 59 2 テ去リ遂ニ知夫里島ノ山嶺ニ葬ル後人比ノ地ヲ呼テ文覚ト云フ尓来帯日刀日々字菅ノ山上ニ登リ香ヲ焼エ遥拝ス後人又比地ヲ呼テ香カ峯ト云フ文覚の祠爾来安藤家ノ修スル所ニ掛ル帯刀ノ後裔今尚ホ在リ現今ノ戸主ヲ安藤安太郎ト云フ毎年4月3日 0 0 隠岐の文化財 4 59 8 比祠ノ祭儀ヲ為ス蓋シ文覚ノ忌日ナリ。1地形地質。山岳多クシテ平地少ナクソノ比例ハ概ネ八部山ニシテ二部平地トス地質ハ概シテ善良ニシテ普通作物ニ適ス之ヲ郡別スレハ左ノ如シ。周吉郡、壌土435、粘度350、砂礫土215。穏地郡、 0 0 隠岐の文化財 4 59 17 壌土440、粘度420、砂礫土140。海士郡、壌土400、粘度600、砂礫土0。知夫郡、壌土300、粘度700、砂礫土0。1耕地及ひ土壌。耕地ハ都(8)テ瘠痩ニ属シ下等ナリトス而シテ其ノ5歩ハ牧畑ニシテ3歩ハ畑2歩ハ田トス 0 0 隠岐の文化財 4 59 23 土壌ノ如キハ地質ノ部ニ掲ルヲ以テ茲ニ畧ス。1鳥獣ノ種類。鴈、鳬(10)、鷺、朱鷺、鴫(11)、水鶏(12)、メメ(13)、鴎、鷲、鷹、烏、鳩、鳶、鵯(14)、雀、山雀、四十雀、メメ(15)、啄木鳥、メメ眼児(筆者注不明)、鶉(1 0 0 隠岐の文化財 4 59 28 6)、杜鵑(17)、鶺、鴒(18)、鷦鷯(19)、梟(20)、ミミズク(21)、百舌鳥、翡翆(22)、鴛鴦(23)、燕、兎、鼬、田鼠、海驢(25)、水獣。1家畜。牛、馬、鶏、犬、猫、鶩(26)、等ナリ。1隠岐国管轄沿革。維 0 0 隠岐の文化財 4 59 34 新前ハ旧藩領ニシテ松江藩之ヲ預リ西郷(周吉郡)及別府村(知夫郡)二陣屋ヲ設ケ郡代々官ヲシテ之ヲ管理セシム。明治元年12月鳥取県ノ預ル所トナリ西郷ニ出張所ヲ置テ管理セシム。明治2年2月隠岐県ヲ置カレ隠岐全国ヲ管理ス。明治2年 1868 1200 明治元年 隠岐の文化財 戊辰 4 59 41 8月隠岐県ヲ廃シ大森県石見国ニ合併ス。明治3年正月大森県ヲ浜田石見国ニ移シ浜田県ト改称セラレ以前同県ノ管理スル所ナリ。明治3年11月島根県ヲ置カレ同県ノ管理ニ属ス。明治3年12月島取県ノ管理ニ属シ西郷ヘ支庁ヲ置キ之ヲ管理セ 1870 100 明治3年 隠岐の文化財 庚午 4 59 48 シム。明治9年8月島取県ヲ廃シ島根県ニ合併セラレ西郷ニ支庁ヲ置キテ之ヲ管理セシム。明治12年3月郡区改正ニ付支庁ヲ廃シ西郷ニ周吉穏地海士知夫郡役所ヲ置キ之ヲ管理ス(一時別府村ニ郡書記ヲ派出シ諸進達モノノ取締メ督促実地検査等 1876 800 明治9年 隠岐の文化財 丙子 4 59 53 ノコトヲ掌ラシメタル事アリ)明治21年6月周吉穏地海士知夫郡役所ヲ廃シ置き島庁ヲ置カレ全島ヲ管理ス。1廃仏。明治2年隠岐国有志者相謀リ仏教ハ皇国固有ノ宗教ニ非スシテ無用ノ贅物タルノミナラス大ニ民心ヲ迷ハス事甚シキヲ以テ水戸 1888 600 明治21年 隠岐の文化財 戊子 4 59 60 薩州藩等ノ例ニ傚ヒ断然之ヲ廃セン事ヲ決シ僧侶ニ諭シテ還俗セシメ之ニ応スルモノニハ其筋ヘ申立該寺院所有地ノ内ヨリ田畑ヲ号セ5反歩ノ土地ヲ僅々タル払下代金ヲ課シテ下付シ応セサルモノハ自然他国ヘ退去スル事トナレリ而テ後有志ハ其筋 0 0 隠岐の文化財 4 59 65 ヘ向テ謹テ待罪書(27)ヲ差出セシカ構ヒナシトノ指令ヲ受ケタリ寺院ノ建造物ハ学校又ハ道場トナシタリシカ間ニハ解除セシモノモアリ仏像仏器ノ如キハ焼却セリ。1戸数。明治23年ヨリ明治27年マテ。5ケ年平均。7113戸内周吉郡2 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 59 71 798戸穏地郡1329戸海士郡1243戸知夫郡1743戸ナリ。1人口。35365人周吉郡13580人穏地郡6339人海士郡6508人知夫郡8938人ナリ。1士族。同右。戸数44戸ニシテ人口206人アリ内周吉郡30戸131人 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 3 穏地郡2戸13人海士郡4戸20人知夫郡8戸42人ナリ。1人種。人種ハ其元祖ヲ知ルニ由ナシトメメモ雲伯ト同種ナルヘシ。1家屋。家屋ハ身代ニ応セス大ナル方ニシテ其構造ハ一種ノ古風ヲ存シ木材等ハ数百年ニ耐ヘ得ヘキヲ目的トス間取ハ分 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 11 外ニ広クスルノ習慣アリ是冠婚葬祭アルニ当リ多人数ヲ招待スルニ起因スルナラン。1社寺。神社。国幣社1、県社1、郷社4、村社128、境外無格社85、教会所12、計231。寺院。真宗本願寺派2、真宗大谷派1、真言宗6、浄土宗4、 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 20 曹洞宗5、設教所17、法務所5、合計40。1人情風俗及習慣。隠岐国ハ北海ニ孤立セル島嶼ニシテ従来内地トノ交通最モ不便ヲ極メ為ニ人智ノ開発甚タ遅緩ナリ而シテ其ノ人情風俗ニ於ケル各地大同小異ニシテ古来失朴ノ美風間々存スト雖トモ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 26 之ヲ細別スレハ其ノ島後ハ頑ニシテ陋(29)其ノ島前ハ頑ニシテヤヤ黠共ニ公利公益ヲ図ルノ志念乏シク官ノ諭示誘導ニ応スルモノ亦随ツテ少シ唯旧来偸児(31)乞メメ(32)ノ絶無ナル夜間門戸ヲ鎖サスシテ安眠スルヲ得ルカ如キ実ニ他地方 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 31 ニ多ク見聞キセサル所タリ然ルニ先年(57年前)世間謂ル三百代言ナルモノ渡来民心ヲ攪動シ濫リ(33)ニ訴訟ヲ起サシムル等ノ事アリテ幾分カ人心ヲシテ狡猾ナラシム又近年航通ノ便稍開ケシヨリ奸商猾徒ノ徒来スルモノ多ク為メニ漸ク軽躁 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 36 浮薄ニ浸染スルノ傾アリテ間ニ窃盗博徒ノ輩出スルアリ商工業者ノ猾手段ヲ行ヒ不正ノ私利ヲ営ムアリ且文化ノ普カサル概ネ進取ノ気象ニ乏ク頑然旧習ヲ固守スルノ風未タ脱セス元旦盆会其他諸取引等ハ勿論日常月日ヲ唱フルカ如キ皆陰暦ニ由ラサ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 42 ルハナシ以テ其他ヲ推知スルニ足ルヘシ今重ナル業務ニ就キ其習慣ノ大要ヲ挙クレハ左ノ如シ。漁業。当国ハ四島嶼ニ分レ周囲皆海ニシテ海産ニ富ミ就中(34)烏賊(35)ノ利其ノ九歩ヲ占メ中等以下ニ在ラハ概ネ以下漁ヲ以テ一家ノ生系ヲ為 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 49 セリ故ニ之カ期節(5月ヨリ翌年1月ニ至ル)ニ至レハ暴風雨ヲ除クノ外海夕出漁セサルハナシ実ニ力ムト言ウヘシ以下ニ亜(36)クヘシモノハ鯖シイラ(37)鮑海鼠(38)海藻ニシテ鯖シイラノ両漁ハ場区ニ限リアリテ漁民一般ニ従事スル 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 53 能ハス鮑海鼠ノ二品ハ産額僅少ニシテ其利益甚タ乏シク海藻ニ至テハ価格低廉ナリトメメモ産額メメ多ナルヲ以テ採取ニ従事スルモノ多ク殊ニ島前地方ニアッテハ農漁ノ閉暇ニ際シ肥料トナスヘキ海藻ヲ採取シテ之ヲ伯州地方ヘ輸出スルモノ尠カラス其 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 59 他ノ漁業ニ至テハ実ニ絶無稀有ト云フヘシ今其原因ヲ探求スレハ有益魚藻ノ生産セサルニアラスト雖モ鮮魚ノ販路乏シキノミナラス之カ製法ヲ知ラサルト新タニ網メメ(39)等ニ若干ノ資金ヲ要スルヲ厭フニアルモノノ如シ又烏賊漁ノ如キ漁具ニ資 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 65 金ヲ要セサルノミナラス大漁ニ際スレハ一夜ノ漁獲ヲ以テ一ケ月数口ヲ糊スルヲ得ルモ亦一大原因ナルヘシ然レトモ漁夫ノ常トシテ竜々(40)大漁ニ際スレハ俄カニ衣類飲食等ニ浪費シ復タ他日ヲ慮リテ貯蓄ヲ為スカ如キ念慮アルナシ故ニ不漁数 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 60 70 月ニ渉ルカ如キコトアレハ専業漁民ノ困難実ニ言フヘカラサルモノアリ尤モ冨有者若クハ商人等ヨリ浜賃ト唱ヒ将来漁獲シ得ヘキ烏賊ヲ引当ハ一時之ニ依テ糊口スルヲ得ルモ一朝漁獲アルニ際スルハ其宿債ヲ弁償セサルヘカラス更ニ困難ニ極ム。農 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 1 業。非沿海村落ニアリテハ専ラ農業ヲ以テ生計ヲ営ミ敢テ耕耘ニ力メサルニアラサルモ其ノ方法拙劣ニシテ収穫甚タ少シ其沿海ニアリテハ漁業ヲ専ラトシ農業ニ力ヲ尽スモノ至テ乏シ若シ一朝烏賊ノ大漁ニ遭遇スルアレハ男女挙テ之カ製造ニ従事シ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 7 何作ヲ問ハス施肥手入ノ期ニ債スルモ概ネ措テ顧ミサルモノニ似タリ畢竟農業一作ノ以テ漁業数夜ノ利ニ及ハサルコトアレハナリ抑モ当国ハ漁業ノ利ニ冨ムヲ以テ耕地地盤ニ比シ人口甚タ多ク即チ田ハ一人ニ付平均四畝歩ニシテ畑ハ同壱反八畝拾五 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 13 食料 歩ニ当リ加之(40)農作拙劣ナルカ為メ所産ノ米麦ハ以テ島民常食ノ半ニ足ラス現ニ米ハ粳糯(42)共一人ニ付キ平均四斗二升四郷六夕七才麦ハ大小裸麦共同上四斗七升五合八夕八才ニ相当セリ此ヲ以テ其過半ハ之ヲ雲伯因ノ諸国ヨリ輸入ヲ仰 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 19 食料 クヲ常トセリ而メ産米ノ少キニモ拘ハラス島後地方ニ在テハ麦飯雑飯ヲ喫スルモノハ中等以上ニシテ相当ノ耕地ヲ所有スルモノニ多ク漁家ハ勿論農民トメメモ中等以下ニ至テハ概ネ米飯ノミヲ常食トス是則チ他ヨリ輸入スルモノハ概ネ米穀ノミナレハ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 24 食料 ナリ島前ニ在テハ水田最乏シキ牧畑ニ冨メルラ以テ甘薯及麦ノ産額メメ多アリテ凡ソ半年ノ常食ハ甘薯ニテ足ルト云フ故ニ米價非常ノ騰貴ニ際シ細民ノ困難ヲ感スル事島後ニ多クシテ島前ニハ最モ少シト云フ。知夫里島多澤ノ里ニ往時大空藤助ト云フ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 30 モノアリ諸国ヲ回暦シタル際薩摩ヨリ甘薯ノ種子ヲ得テ帰ル是レ隠岐国ニ甘薯アルノ始ナリト云フ現今ノ戸主ヲ大空甚八ト云フ藤助五代ノ孫ナリ今尚ホ藤助ノ遺物負ヒ櫃扣キ鐘(44)及ヒ富士山ノ石竹生島弁天ノ像等ヲ蔵セリ。商業。土地ノ狭少 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 38 ナルト道路ノ不便ナルトニ因リ凡壱万円以上ノ資本ヲ運転シテ商業ヲ営ムモノナク且単純分業ノ商業ヲナスモ販路狭少遅鈍ニシテ頗ル降りトス故ニ反物小間物金物其他数種ノ物品ヲ混淆シテ店頭ニ陳列スルカ如キ実況ニシテ百般ノ商業甚タ不振ナリ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 44 是ヲ以テ沿海ニ居住シテ稍資力アルモノハ船乗ヲ業トスルモノ多ク間ニハ三四艘乃至六七艘ノ日本形商船ヲ有スルモノアリトメメモ是又一艘二千石以上ヲ搭載スヘキモノ及西洋型商船等ヲ運転スルモノナシ。職工。醸造物製造或ハ鍛冶染物職ノ如キ其 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 50 他凡器械場所等ヲ要スルノモノ外大工木挽石工左官畳刺等ノ職工ニ在テハ資本ヲ有シテ受負事業ヲナスモノナク多クハ被雇人ニシテ一般ニ頗ル怠惰ヲ極メ却テ賃金ヲ貧ルノ悪幣アリ甚シキハ夏季長日トメメモ一日五時間以上ノ労働ヲナササルモノアリ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 56 近来偶々他国ヨリ来ル職工アリテ一時勉励シテ稍悪幣ヲ矯正スルノ模範トナルヘキモノアルモ土地ニ馴ルルニ随ヒ終ニ比悪幣ニ陥リ易シ。山林。周吉穏地両郡ハ天然松樅ニ冨ミ又今ヲ距ル凡百七十年前ヨリ人造林即チ杉樹ヲ裁植シ年々木材ヲ輸出ス 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 63 ルモノ尠カラス(周吉郡布施村ヲ最トス)其一年ノ産額ヲ挙レハ杉板拾万千五百五十七間明治二十三年寄り同二十七年マテ五ケ年平均松板弐万九千八百三十間ニシテ就中長崎ヘ回漕スルモノ多クハ支那ヘ輸出シ鯣(45)ニ亜クノ物産タリ而テ従来 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 67 厳ニ濫伐ヲ戒メ植継ヲ力ムルノ良習アリ若シ不心得ノモノアリテ一時濫伐ヲ為シ又ハ植継ヲ怠ルノモアル時ハ親戚故朋ノ之ヲ責ムル最厳ナリ然ルニ維新後一時価格ノ騰貴ニ際シ稍濫伐ノ傾アリ又植継ヲ惰ルノ幣ヲ生セシカ近年ニ至リ大ニ旧慣ヲ回復 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 61 73 セルモノノ如シ而テ輸出ノ木材ハ高瀬木造船用材板材丸太多クハ柱木ハ搏木(46)杉皮ノ類トス然ルニ近年製法粗造ニ流レ間々寸尺厚分等ニ不正ノモノアリテ大ニ価格ニ影響ヲ及ホシ有志者等之ヲ憂ヒ木材製造組合ヲ設ケ粗造濫造ノ弊ヲ矯メン事 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 1 ヲ企図セリ。牛馬。海士知夫両郡鯣ニ亜クヘキ物産ハ牛馬ニシテ其ノ一年ノ産額牛ハ九百七十八頭明治二十三年ヨリ同二十七年マテ五ケ年平均馬ハ百六十二頭同上トス蓋シ古来該両郡ハ山林ニ乏シク山野ハ概ネ牧畑ニシテ毎村野ヲ数区ニ畫(48) 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 7 シ輪転ニ耕牧ヲ為シ牛馬ノ産出ニ稍力ヲ尽スモノノ如シ而シテ其牛馬ニ於ル性質最モ善良ナリトメメモ四時牧場ニ牧養シ自由交尾ニ放任シ去ルヲ以て躯幹ノ矮少ナリト毛色ノ悪シキ(牛ノ如キハ概ネ黒白ノ斑毛)カ為価格甚他低廉ナルヲ以テ近年県庁 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 12 ノ奨励ト有志者ノ奮励トニ依リ或ハ種馬ヲメメ入シ或ハ斑毛ノ種牛ヲ交尾セシメス明入ハ組合ヲ設ケ地方税ノ補助ヲ仰キ種牛ヲ購入スル等ノ為メ稍改良ノ端緒ヲ開キタルモノノ如シ。宗教。宗教ニ至リテ明治ノ初年当国ハ一般廃仏ニ帰シ爾来概ネ神道 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 19 大社教ニ帰依シ間ニハ黒住派ヲ信スルモノアリ近年ニ至リ仏教ヲ信シ真宗ニ帰依スルモノアリ其ノ他浄土禅宗ノ如キ信者ナキニアラストメメモメメ々トシテ振ハス而シテ中等以上ノ霊祭ニ際シテハ親戚故朋ハ勿論一村或ハ一里中ノモノヲ招キ無益ノ飲食 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 25 衣服 ニ耽ケルノ習慣アリシカ近来稍其ノ弊ヲ減少セルニ至レリ。男女婚姻ノ式。媒酌人嫁娶ノ約ヲ整ヒタル時ハ婦女ノ家ヨリ夫ニ贈進スルニ礼服上下扇子箱及白米ヲ以テシ夫家ニアリテハ帯ヲ以テシ其ノ期日ニ至リ男子ハ親戚ノ重立タルモノ二名及迎女 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 32 二名ヲ携ヒ女子ノ家ニ至リ其父母ニ娶嫁ノ挨拶ヲナシ比ノ時之斗杯ノ献酬ヲナシ嫁女夫ニ挨拶ヲ告ケ終テ之ヲ自邸ニ迎ヒ親戚一同祝杯ヲ挙クルニ先チ紹介人ハ夫婦ヲシテ杯ノ献酬ヲナサシム而シテ三日目ニ至リ夫婦婦女ノ生家ニ至リ又此親戚等一同 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 37 祝杯ヲ挙ク其后日ニ至リ姑舅ハ女婿ノ家ニ到リ祝杯ヲ挙ク新婦ノ用具箪笥等ノ類及夜具等ハ其ノ持込時期ヲ定メス。中等以下ノモノニ在テハ婚姻ノ正式ニ依ラサルモノアリ俗ニ「ヌスム」ト称ス(是ハ契約ノ成立チカキヲ慮カル場合ニオイテ多シ) 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 43 之ヲ迎フルニアタリ女子ハ自家ヲ避ケ近隣ニ在リ紹介者比ニ至リ共ニ連レ帰リ畧其式ニヨリ祝杯ヲ挙ケ先ツ一場ノ結婚ヲ了ル後紹介者ヲシテ女子ノ家ニ就キ前段ノ次第ヲ語リ婚儀ノ整頓ヲ請求セシメル一回ニシテ整ハサレバ幾年ニ至ルモ之ヲ請求ヲ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 49 ナシ契約整フ時ハ更ニ正式ニヨリ婚儀ヲ行フ又整約ニ至ラサル時ハ終ニ其式ヲ行ハサルモノアリ。前二項ノ如ク婚姻ヲ行フトメメモ数年ヲ経テメメ老ノ見込立チ或ハ懐胎ラ見ルニアラサレハ戸籍上ノ手続ヲナササルモノ多キニヨリ随テ無効ノ婚姻メメ多ナ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 55 ルヲ知ルヘシ。婚姻式アルニ際シ其町村ニ於ケル若者仲間ト称スル者終夜瓦礫ヲ門戸ニメメケ或ハ石仏石塔ノ類ヲ門戸ニ横ツク如キノ習慣アリ而シテ前者ハ西郷市街ニ多ク後者ハ村落ニ多シ其ノ石仏石塔ヲ運フヤ途中ヨリ故サラニ啼泣ノ声ヲ発シテ其 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 61 ノ門前ニ至ル蓋シ新人ノ能クメメ老ノ約ヲ結テ百歳ノ後遂ニ其家ノ仏トナラン事ヲ祝スルニ在リト云フ其ノ瓦礫ヲ投スルハ未タ何等ノ旨趣ニ出ルヲ知ラス。淫風。西郷港ノ淫風私通甚シキ他地方多ク聞カサル所ナリ下等人民ニ在リテハ男女トモ年齢十 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 69 六七ニ至レハ自宅ニ寝ネス出テテ泊リ宿ト称スルモノニ宿シ夜遊ヲナスノ習慣アリ故ヲ以テ女児婚姻前情夫ノナキモノ甚タ少ク其婚姻ニ於ル間々媒人ヲ要セス私通ノ末漸ク両親ノ承諾ヲ受けクルモノアリ其最モ甚タシキニ至テハ両親ノ承諾ヲ俟タス 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 62 74 私ニ情夫ノ家ニ嫁キ后両親ニ承諾ヲ乞フモノアリト云フ又下婢ヲ雇入ルルモノノ如キ夜間ハ常ニ在ラサルヲ以テ雇主ノ不便言フヘカラサルモノアリ且春秋両期北国商船ノ寄泊スルモノ多キニ方リテハ従来密売淫最モ多カリシカ近年取締ノ厳密ナルヨ 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 63 2 リ貸席ヲ設ケ娼妓ノ鑑札ヲ受クルモノアルニ至レリ然レトモ一時商船ノ輻湊スル場合ニアリテハ今尚ホ密売淫ヲ為スモノ多シト云フ。人狐。海士郡ニ悪風アリ人狐持ト唱ヒ他人民ノ之ヲ厭嫌スル最甚シク縁組交際等ヲササルハ勿論互ニ敵視シテ住々 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 63 9 争論ヲ惹起スル事アリ其ノ弊議員ノ選挙及公共事業等ニ及ヒ施政上ノ妨害ヲナスコト往々之レアリ而シテ其ノ人狐持ト称セラルルモノハ概ネ財産家ニシテ稍事理ニ通シ近年彼輩一致シテ人狐ナルモノ世間メメ(49)テナキモノナリ然ルニ人狐持ト唱 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 63 15 ヒ疎外セラルルハ抑人ノ名誉ヲ毀損スルモノナリトテ大ニ忿怒シ之ヲ厭嫌スルモノ亦細民ノミナラス中等以上ニシテ稍事理ニ通スルモノアリテ陰ニ之ヲ煽動シ其極ニ固執シテ一歩モ譲ラス其ノ間官民ノ調停ヲ試ムルアリト雖モ未タ氷解スルニ至ラス 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 4 63 22 。(未刊)<補注>(1)茅メメ:ボウエン。メメ=檐(家のノキ)かやぶきの軒。(2)メメ:ガン。嵒。厳に同じ。(3)貶謫:ヘンタク。官位をおとして流すこと。(4)鞴:フイゴ。鍛冶家で火を起す道具。(5)凡:凡、およそ。(6)播遷: 0 0 隠岐の文化財 4 63 30 ハンセン。移ること、また移すこと。(7)検林:検地と同じく考えては(8)都テ:すべて(9)瘠痩:セキソウ。身体のやせていること。(10)鳬:カモ(11)鴫:シギ(12)水鶏:クイナ(13)メメ:ウノトリ(14)鵯:ヒヨ(15 0 0 隠岐の文化財 4 63 39 )メメ:ウグイス(16)鶉:ウズラ(17)杜鵑:ホトトギス(18)鶺鴒:セキレイ(19)鷦鷯:ミソサザイ(20)梟:フクロウ(21)鴟メメ:ミミヅク(22)翡メメ:カワセミ(23)鴛鴦:オシドリ。鴛オス、鴦メス。(24)田鼠:モ 0 0 隠岐の文化財 4 63 48 グラ(25)海驢:アシカ(26)鶩:アヒル(27)待罪書:タイザイ書。罪を認め罰を受けることを待つ書類。(28)メメ:雖の略、いえども。(29)陋:ロウ、せまくいやしい。(30)黠:ガツ、悪がしこく腹黒い。(31)偸児:ト 0 0 隠岐の文化財 4 63 56 ウジ、物を盗む子。偸盗と連ねるとチュウトウと読む慣用がある。(32)乞メメ:コツキツ、おしとどめて物ごいすること。乞食と大意的には同じ。(33)濫リ:みだり。(34)就中:なかんずく(35)烏賊:イカ(36)亜ク:ツぐ(37 0 0 隠岐の文化財 4 63 64 )メメ:シイラ(38)海鼠:ナマコ(39)網メメ:モウコ、あみ(40)竜々:往々と同意か(41)加之:これに加え(42)粳粳:ウルチモチ、普通のコメとモチゴメ。(43)負ヒ櫃:オヒビツ。物を入れて背に負う道具。(44)扣キ鐘: 0 0 隠岐の文化財 4 63 72 タタキガネ、打ってならす鐘。(45)鯣:スルメ(46)搏木:原文にはクレとかながふってある。辞典にてはまるめる、束ねる、垂れる、垂れるの意が出ている。(47)毎村:毎年の誤りか(48)畫:カク、境をする。分ける等の意。(4 0 0 隠岐の文化財 4 63 79 9)メメ:ほろぶ、メメ絶、ビンゼツ、ほろびたえること。 0 0 隠岐の文化財 5 0 1 焼火 <表紙解説>焼火神社本殿。隠岐郡西ノ島町焼火山鎮座の古社で、焼火山の中腹(標高約350米)の平担地に絶壁を背に本殿、幣殿、拝殿を階段状に結合し、南面して建てられている。本殿の規模(1間社流造、側面2間)は小さいが、巧徴壮麗 1732 0 享保17年 隠岐の文化財 壬子 5 0 5 を極め県下の神社建築でこれに勝るものはない。享保17年(1732)の軸立てで大工は大阪北御堂前浄光寺町鳥居甚兵衛である。最近になって関西大学工学部建築学科の永井氏が、この宮大工の鳥居氏に着目、調査しておられるが、寛文11年 1732 0 享保17年 隠岐の文化財 壬子 5 0 8 (1671)より享保にかけて滋賀県内を主として13社(内現存のもの8社)を建立しており、同資料によると当社のものが最晩年の作品のようであり円熟した作品であろう。社伝によると、大阪にて仕上げたものを当方に運び組立てたものと伝 0 0 隠岐の文化財 5 0 10 えており、当時の仕様書の控えが保管されている。昭和57年島根県有形文化財として指定された。(島前の文化財12号参照)(松浦記) 1982 0 昭和57年 隠岐の文化財 壬戌 5 1 1 隠岐島前の指定文化財。<天然記念物>おおばやどりぎ。やどりぎ科。所在地、隠岐郡西ノ島町別府。所有者、(寄生木ゆずりは)玉川武久。(寄生木つばき)森増美。当西ノ島を北限とする暖地性の常緑樹。革質で広楕円形の葉で裏面は赤褐色、 0 0 隠岐の文化財 5 1 9 よく枝分れし、おおばぐみとよく似た寄生木で常緑広葉のしい、かし、やぶにっけい、ゆずりは、つばきなどに着生するが、時には杉、桑などにも寄生する事がある。この木の繁殖には小鳥のキレンジャク、ヒレンジャクが関係しているが近年森林 0 0 隠岐の文化財 5 1 15 の変革と共にこれら鳥類の飛来する事もなくなり、寄生という特異性のためその数が少なくなり近年になっては絶滅したかと思われていたが、思いもかけず住宅内のゆずりはの古木、及び椿(推定年齢240年)に寄生しているのが相ついで発見さ 0 0 隠岐の文化財 5 1 20 れた。生態など特異であり分布上も注目すべき貴重な植物である。(木村記) 0 0 隠岐の文化財 5 2 1 隠岐諸島の津波の歴史。都司嘉宣(つじよしのぶ)。一、はじめに。1983年5月26日の正午過ぎに秋田県、青森県の西方海域に発生した日本海中部地震による津波は、震源から約700kmも離れた島根県の隠岐諸島にも達し、ここで住家の浸 1983 526 昭和58年 隠岐の文化財 癸亥 5 2 8 水、田畑の冠水(13、25ha)、漁船被害(254隻)、橋の流失等の被害を生じた。国土庁の数字によると島根県全体で負傷者5、床上浸水141、床下浸水277、船舶被害319等となっているが、これらの被害の大部分、殊に家屋浸水 1983 526 昭和58年 隠岐の文化財 癸亥 5 2 13 被害のすべては隠岐諸島で出たものである。島根県は震源から遠いにもかかわらず、秋田、青森、北海道に次いで第4番目に大きな被害を出した県となった。日本海の東縁は、三陸沖や南海沖ほどではないにしても、しばしば津波を伴う大きな地震 0 0 隠岐の文化財 5 2 20 の発生してきた海域であることは既に指摘されているところである。筆者(1985)は以前、日本海東縁に生じた津波は各大地震の震源近くの海岸だけではなく、能登半島先端付近、隠岐諸島、韓国江原道などの限られた特定の地点では、どの津 0 0 隠岐の文化財 5 2 25 波の時にもいつも周辺の海岸よりも高い波となって現れることを事例を挙げて検証し、それが解析的にも、また数値計算の結果からも肯定しうることを論じた。隠岐諸島の北方に延び、日本海中央にそびえる大和堆に連なる海底山脈が津波のエネル 0 0 隠岐の文化財 5 2 31 ギ−を収束させ、隠岐諸島に誘導するのである。隠岐諸島は、1833年(天保4)の山形県沖津波、1940年(昭和15)神威岬沖津波、1964年(昭和39)の新潟地震津波に襲われていることが知られており、いずれも多少の被害が記録 1833 0 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 2 42 されている。1833年の山形県沖の地震による隠岐諸島の津波記録は、日本海中部地震の直後の史料調査中に検出されたものであるが、筆者は1986年春に隠岐諸島を訪問し、古記録の記載を現地照合する機会を得た。本稿では、日本海中部津 1833 0 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 3 3 波など、近代の津波と対比する形で天保4年の津波の隠岐諸島での状況を論じてみよう。なお、隠岐諸島の寺院関係の記録は明治初期の排仏毀釈政策によって、ほぼ完全に失われた。隠岐諸島は、島根半島の沖合約60kmの所に東西2群に分れて 1833 1207 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 3 9 配置する島群である。西の群は、西ノ島(全島西の島町)、中ノ島(海士(あま)町)、知夫里島(知夫村)の3つの有人島が内海を取り囲んでおり、隠岐国島前(どうぜん)と総称される。東の群は島後(どうご)の大島と付属の無人島からなり 0 0 隠岐の文化財 5 3 15 、島根県支庁のある西郷町および島北西部の五箇村、南西部の都万(つま)村、北東部の布施村に行政区分されている。隠岐諸島の地図の標高は東京平均海面(TP)ではなく、西郷湾平均海面を基準として表示されている。SPと呼ぶことにする 0 0 隠岐の文化財 5 3 21 。津波高さは、この基準によるものである。二、日本海中部地震の津波。まず、日本海中部地震の津波の隠岐諸島での状況を概略みておく。図2は証言、水浸痕跡に基づいて測定された各地点での津波高さ(m)である。西ノ島船越の切り通しの運 0 0 隠岐の文化財 5 3 27 河の北の入り口付近で3、0mが記録されている。黒丸は著しい被害を生じた場所である。隠岐諸島のなかでも中ノ島、知夫島および島後北西部五箇村の被害が重い、といえる。住家家屋浸水数を床上をx、床下をyとして(x、y)と表わすと、 0 0 隠岐の文化財 5 3 33 中ノ島の菱浦(40、130)西(0、2)、中里(0、8)、北分(2、4)、豊田(0、1)、保々見(15、3)、御波(3、9)であって、島全体では(60、170)となり、浸水を受けた家の総数は230戸であって、全世帯1144 0 0 隠岐の文化財 5 3 39 戸(昭和58年6月30日現在)の20・1%にも及んでいたことになる。中里付近、諏訪湾の干拓水田3・3ha、畑0・5haが冠水した。知夫里島は郡(17、12)、大江(22、5)、多沢(13、11)、薄毛(0、6)で、合計(5 1983 630 昭和58年 隠岐の文化財 癸亥 5 3 44 2、34)となり、このほか非住家47が浸水している。住家浸水を生じたのはすべて島の南と西の外海に面した海岸であって、内海に面した来居と古海の集落は無被害であった。同村広報には、14時30分頃津波到着と記されている。西ノ島で 0 0 隠岐の文化財 5 3 51 は運河のある船越で(7、36)がでた。同島では浸水被害はこの集落のみであった。運河付近に津波第1波がきたのは14時40分頃であった。津波は運河北側と、南の内海側との双方からきたが、被害は主として後者によって出た。島後は島前 0 0 隠岐の文化財 5 3 58 よりは被害密度は小さかった。西郷町では島北部の中村地区で二人が海に転落し、このうち一人が負傷した。また、ここでは漁船が中村川に沿って逆流し、河口から約300mの所にある月出橋という木橋に衝突して、橋が落下、流失した。漁協の 0 0 隠岐の文化財 5 4 4 建物が床下浸水した。同町で住家の浸水の最大の侵害を生じたのは、島の南部の加茂地域で(10、7)の浸水が起きており、付近の水田1・0haが冠水した。同町での冠水被害はここだけであった。町全体では(13、25)の合計38戸の住 0 0 隠岐の文化財 5 4 9 家浸水を出している。島後の北西部に位置する五箇村での住家浸水は、重栖、久見、代、福浦で、合計7・2haの冠水があった。この村の住家浸水は久見で(6、9)、最大水位発生時刻は14時から14時15分の間であった。北方地区重栖で 0 0 隠岐の文化財 5 4 15 は(5、5)であって、五箇村総計は(11、14)であった。島後の南西部を占める都万村では村役場のある都万地区釜谷で浸水があり、ここで3戸の床下浸水を出し、また、その東隣の集落津戸と合せて5・7haの田畑が冠水した。島後の北 0 0 隠岐の文化財 5 4 20 東部、布施村は、田畑がわずかに浸水しただけでほとんど無被害であった。三、新潟地震の津波。1964年(昭和39年)6月16日の新潟地震の津波も隠岐諸島を襲っているが、被害は少なく、わずかに西ノ島船越などで浸水が起き、床下浸水 1964 616 昭和39年 隠岐の文化財 甲辰 5 4 27 1、一部破損38を出したにとどまる。この津波のきろくは、筆者の訪問した島根県庁、隠岐諸島の西ノ島町役場、西郷町役場などにもなく、また筆者が隠岐滞在中の約5日間に面会した20人余の人々の記憶にも、ただひとりを除いてなかった。 0 0 隠岐の文化財 5 4 33 この津波を証言して下さったただひとりの人というのは、浸水が生じた西ノ島船越の「沖光金物店」の主人、原寛氏であって、同氏の店は、日本海中部地震の津波では店のコンクリ−ト床面上約60cm(SP0・9m)までであって、店内にまで 0 0 隠岐の文化財 5 4 40 は海水は浸水しなかった。また、同氏の店の背後(西側)は作業場の庭先を隔てて船越運河の護岸に続いているが、ここも完全に浸水した。新潟地震(6月16日13時01分、M=7・5)の翌々日の6月18日の朝日新聞島根版によると、隠岐 0 0 隠岐の文化財 5 4 46 諸島では津波は16日15時頃から約60回にわたって西郷湾、重栖湾、都万村などに押し寄せ、西ノ島、西郷両町で水田が5ha冠水、田畑合計19ha冠水であった。最大被害地となった西ノ島船越では、19時半から約2mの高波(2mは全 0 0 隠岐の文化財 5 4 51 振幅であろう)が10分おきに押し寄せ、床下浸水、ワカメ、材木が流失した。波は21時頃おさまった。ところで、津波警報は14時45分に解除されていた。つまり津波警報が解除されて約3時間後に、津波が本格的に襲い始めたわけである。 0 0 隠岐の文化財 5 4 57 紙面には「気象庁のとんだ誤算?」という見出しがついている。隠岐諸島では、一般に日本海東縁の震源から最短距離でやってくる初期波よりも、その約2倍の伝播時間のかかる本州の陸棚斜面に沿って伝わってくるエッジ波性の津波成分、あるい 0 0 隠岐の文化財 5 4 63 は北朝鮮およびソ連沿岸州の海岸からの反射波成分の方が高い波となって現れることが明らかになってきた。つまり、いずれの理由にしろ、最高波は長い距離を遠回りしてきた波の成分であったために、最短距離に基づく予測時間より大幅に遅れて 0 0 隠岐の文化財 5 4 68 津波被害を生じたのである。日本海中部地震の時には山陰地方だけは津波警報の解除が遅くなされたのは、このような事情による。四、神威岬沖地震津波。1940年(昭和15年)8月2日、0時08分に、北海道西方、積丹半島の神威岬の西北 0 0 隠岐の文化財 5 4 75 海域で起きた神威岬沖地震津波は、天塩川河口で10人の溺死者を出し、また朝鮮半島まで伝わって、三メメ、漁大津などで船舶に小被害があったことは以前紹介したことがある(都司ら1984)。渡辺(1985)によると、この津波は隠岐諸島 0 0 隠岐の文化財 5 5 4 にも西郷で浸水家屋47戸、浸水田畑7町歩(ha)、材木流失などの被害を生じた。この津波被害を検証するため、島根県立図書館、東大新聞研究所などに所蔵されている。この当時の地方進分を調べてみたが相当する記事を見い出せなかった。 0 0 隠岐の文化財 5 5 11 五、天保四年、山形県沖地震による津波。天保4年10月26日(1833年12月7日)の15時頃、山形県沖に起きたM7・4と見積もられている地震による津波は、1983年日本海中部地震津波、1741年(寛保元年)の北海道、渡島大 1833 1207 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 5 17 島津波とならんで日本海の3大津波と呼ばれる。筆者は日本海中部地震の発生後、同様の例が過去になかったのか調査を行ったことがある。そのとき、寛保津波が韓国の江原道に家屋浸水被害を生じているという「朝鮮王朝実録」中の記載とともに 0 0 隠岐の文化財 5 5 23 、「新修、島根県史、史料編、近世上」の中に天保、山形県沖地震津波の隠岐諸島の被害を記した古文書があるのを検出した。その文書というのは、中ノ島中里の村上重子所蔵の「隠岐御役人御更代覚」である。原写本は現在島根県立図書館λ保存 0 0 隠岐の文化財 5 5 28 されている。表紙には「堀尾帯刀様御時代ヨリ以来当国御役人御更代覚」と記され、内容は慶長4年(1599)から天保6年(1835)までの隠岐の主な出来事を編年体に記録したものである。出雲の本土から何年かの交替で隠岐諸島にやって 0 0 隠岐の文化財 5 5 34 くる支配役人に、この島の歴史をてっとり早く教える教科書の役割を果たしたものとみられる。その天保4年の項目の末尾に次のような記事がある。「10月26日は、申刻時分よりにわかの大潮ニ、一統薄氷のおもひをなし気遣い之央、頻に海辺 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 5 40 の田地江満て込、暮におよぶ程満干音高く、山も崩るるばかり。灘辺の人家満水に相成り、別して入江浦潮勢い強く、当所御制札場前、江ノ橋往還の道際まで満水いたし、右橋の下も舟作取(「取り付き」の意か)一二ケ所これあり、彼ノ往還の際 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 5 58 江浮き流れ」申刻というのは現在の午後4時頃に相当する。「にわかの大潮」と表現されているのは、山形県西方隠岐海域で15時頃発生した地震の津波波源から、最短距離のコ−スをとって約1時間でやってきた津波の初期波であるとみて間違い 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 6 5 あるまい。「御制札場」は現在の海士町役場から約300mほど西南西にあり、たま「江ノ橋」は役場庁舎のすぐ北東、中里から北分に行く道のすぐの所にある。いずれも、役場のすぐ向かい側にあった旧庄屋、村上家から直接見わたせるほとの位 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 6 10 置にある。すなわち上の文の筆者は、現在の役場のある中里の集落の中にあって、目前の諏訪湾に押し寄せる津波を自分の目で見て、上の文を記したものと判断される。16時頃きた初期波は海辺の田畑にじわじわと浸水する程度であったが、日暮 0 0 隠岐の文化財 5 6 16 れに(厳密には日没の36分後をいう、この日の隠岐の日没時刻から17時32分が「日暮れ」となる)初期波がきてから約2時間ほどして山も崩れるばかりの最大波がやってきた。川に侵入してきた津波のために運ばれた舟は、この文の筆者の自 0 0 隠岐の文化財 5 6 21 宅のすぐ前の「江ノ橋」まできて、この橋にぶつかり、海水は北分へ行く道路ぎわまで浸水した、というのである。海士町役場の人の協力を得て、「江ノ橋」付近往還際での津波高さを役場前の3・0mの水準点を基点として測定したところ、2・ 0 0 隠岐の文化財 5 6 27 2mとなった。古文書は次のように続く。「且つ西分は前田辺、福井往来際迄、一面に海となり、かんこ船田中江流れよう候」西分、福井は現在の地図にもある。この間の田が浸水したことを示している。やはり2m強の程度の浸水高さと考えて状 0 0 隠岐の文化財 5 6 33 況が説明できる。「北分唯浦、山根屋は床の上に潮あり、家具過半濡れ通り、殊の外難渋」さて記述は、中里のごく近くの状況から、その約1km北方にある北分の消息を伝える。唯浦というのは、北分に向かって入り込む入り江の名である。山根 0 0 隠岐の文化財 5 6 40 屋という屋号の家は現在北分地区の公民館となっている。その床の高さを唯浦の水面から測定し、潮位補正して、さらに「床におかれていた家具浸かれ」の状況を床の上40?と解する(その置吉の1・0m上方)と、ここでの津波浸水高は2・6 0 0 隠岐の文化財 5 7 4 mとなった。「美田村の内、船越浦人家70余軒の処、無難之者よふやく10軒これある由。同所味噌屋は先年の火災にて当時は仕出新地の長屋に仮住いゆえ、別して潮入り込み強き由。おりから鰮塩等買い入れ置きこれある由の処、残り無し、な 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 7 10 なびに家具、衣類に至るまで多く濡れ通り、殊に秋刈入れの稲、大小豆、いもなど、庭中の品損減少すくなからず」ここから古文書の視点は中ノ島を離れる。隠岐諸島の西ノ島、船越(江戸時代は、南隣の小向等と合せて美田村と称した)の消息を 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 7 16 伝えている。古文書全体の筆勢からして、ここが隠岐諸島中で最大の被害地と見られるのである。船越の集落は当時70軒余り。そのうち60軒ほどが被災し、ようやく10軒余りが無事であった。船越の集落は、江戸時代も今もほとんど家並みが 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 7 21 変らない。一筋貫く県道の道路面の高さは新潟地震津波のところでふれたように0・9mである。日本海中部地震の時にはこの高さプラス60?であったが、天保津波の記述は明かにこれより大きな被害を生じている。「味噌屋」というのは、船越 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 7 27 の集落の南端付近にひときわ大きな邸宅を構えている安達和良氏の家の屋号である。ただし現在の建物が天保津波当時のものではないことは、上の文に「先年の火事で津波のときは仕出新地(あらたに海を埋め立てて張り出した土地、の意味であろ 0 0 隠岐の文化財 5 7 32 焼火 う)に仮住いしていた」とあることから知られる。この火災については、船越の南約6kmにある波止の松浦康麿氏所蔵記録の「焼火山(たくひやま)近世年表」の文政9年(1826)の項目に、「2月23日、未申(南西)の風激。小向宮崎よ 1826 223 文政9年 隠岐の文化財 丙戌 5 7 38 り出火。舟越村中焼失」と記載されている。これは、津波のあった天保4年(1833)の7年前のできごとである。とにかく、この津波によって家具、衣類が水びたしとなり、庭に積んであった農作物がたくさん流失してしまった。なお文末の「 1826 223 文政9年 隠岐の文化財 丙戌 5 7 44 由」の一字は、この古文書の筆者の直接の体験証言ではなく、なんらか伝聞記事であることを表している。一般には、このような伝聞記事は確実性が劣るとされるが、中ノ島と西ノ島とは川のような狭い内海を隔てるだけで、日常交通はきわめてひ 0 0 隠岐の文化財 5 7 50 んぱんである。現に、西ノ島のある寺の壇家が中ノ島にある、という例がある。津波時には船越の現場に居なかった、という意味では伝聞ではあっても、直接証言に準ずる確実さを認めるべきであろう。船越の水位に関する記載が続く。「大体屋根 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 7 57 下一尺ぐらいこれあるの処迄満水致し候。当島内その外村々格別の損処これなし」仮住いの「仕出し新地」の地場面を現在の県道の海側の家の敷地高とみて90?、「仮住まいの家の屋根下一尺」の高さを敷地面上1・5mとみれば、平均海面上2 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 8 2 ・4mとなる。この船越は天保、新潟、日本海中部の3度の津波高が揃って判明している隠岐諸島唯一の場所である。そして、どの津波に対しても、この地点が隠岐諸島最大の被災地点となっていることはほぼ確かであろう。船越の天保津波の高さ 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 8 8 焼火 に関する別個の記録がある。前述の「焼火山近世年表」である。その天保4年の項目に「10月26日夜、洪波。舟越辺満潮八尺」、とある。この「八尺」は満潮(みちしお)であるから、平均海面よりの水位昇量と解すべきものであろう。八尺は 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 8 14 約2・4mであるから村上氏の古文書から推定したものと一致している。「夜」の一字に注意。ここで津波高が最大となったのは、山形県沖で地震が発生してから少なくとも3時間以上たってからであった。当島(西ノ島)では船越以外の場所では 1833 1026 天保4年 隠岐の文化財 癸巳 5 8 19 、格別の被害はなかった、と記されている。日本海中部地震津波との類似性は注目に値する。古文書の記述は、さらに島後に及ぶ。「島後辺加茂村過半難渋の風聞に候。右満水連れて魚など田中江あがり候間、決して津波と申もの哉と風聞致し候」 0 0 隠岐の文化財 5 8 26 「風聞」である、としながら、島後加茂村(現西郷町加茂)の過半数が被災したことを書き留めている。日本海中部地震津波でも加茂は、五箇村の重栖、久見などとならんで、島後での著しい浸水家屋被害を出した地区の一つであった。加茂での津 0 0 隠岐の文化財 5 8 31 波高は日本海中部地震と津波高と同程度、あるいは、それより高かったとみられる。古文書はこのあと「満水につれて魚が田へあがったので、これがあの津波というものか、と噂した。これが秋の収穫の後でよかった、と皆喜んだ。もし初秋の刈入 0 0 隠岐の文化財 5 8 37 れ前だったら飢餓がおきるところであった」と記している。家具や衣類が濡れても「この程度ですんだ」と喜び合う、江戸時代の民衆のしたたかさに驚かされる。古文書の末尾は次のように締めくくられている。「浦々満ち潮刻限遅速の処、多分こ 0 0 隠岐の文化財 5 8 42 れあり、未聞のことゆへ、あらまし筆記す」。浦によって最大の水位の現われた時刻に差があった。津波警報は、隠岐諸島を含む山陰地方に対しては他の海岸より長い時間出しておかねばならぬ。古文書はちゃんと後世の我々に教訓を与えてくれて 0 0 隠岐の文化財 5 8 48 いたのである。なお、島後五箇村にある隠岐郷土館の史料中に、加茂村(現在西郷町の一部)庄屋、井上家の御用留記録があったが、大変残念なことに、この記録の天保4年の部分は津波のあった10月26日の前後がたまたま落丁しており(11 0 0 隠岐の文化財 5 8 54 月以降の記録はある)、その様子を知ることができない。六、むすび。隠岐諸島は幸いなことに、すぐ近くの海域で津波を伴う海洋性の大きな地震が発生することはまずない。歴史的にもそのことは言えるし、また最近のプレ−トの理論研究結果か 0 0 隠岐の文化財 5 8 61 らも、そのことは肯定される。しかし不幸なことに、隠岐諸島の北ないし北東に延びる海底の峯は、日本海東縁で発生する津波のエネルギ−を隠岐諸島に向けて集中、誘導するのに「適した」配置となっている(図1)。このため、震源から遠いわ 0 0 隠岐の文化財 5 8 66 りに高い津波に見舞われるということを繰り返してきた。震源海底から隠岐諸島に到達するまでに、大陸側海岸による反射波成分やエッジ波成分など、かなりの「遠回り」の波が遅れて襲ってくる、ということも特徴の一つである。これらのことか 0 0 隠岐の文化財 5 8 72 ら、隠岐諸島では地震発生後津波がくるまでに1時間以上の時間的余裕があり、十分な直前対策をとることができるはずである。このような条件は、秋田、青森、北海道、等震源に近い海岸に住む人たちからみれば大変「うらやましい」ことと言え 0 0 隠岐の文化財 5 8 77 る。しかし一方、津波の警戒時間は、他の地方の海岸よりも長く取らねばならぬことも心得ておかねばならぬ。さらに、同じ隠岐諸島の中でも被害の出やすい場所は大体決っているらしいことも了解できたであろう。中ノ島諏訪湾、西ノ島船越、島 0 0 隠岐の文化財 5 9 6 後西郷町加茂地区などである。このような法則性は、津波研究者の理論研究の好テ−マであるとともに、隠岐諸島での防災事業の担当者にとって必須の知識である。ここで取り上げたのは、わずか2件の古文献にすぎないが、古文書のおかげで津波 0 0 隠岐の文化財 5 9 12 現象の法則性が初めて見い出され、あるいはよりハッキリしてくる、ということが実感される。地震、津波、あるいは洪水などの自然災害の研究に古文書が重視されるゆえんである。謝辞:この研究を進める上で、隠岐諸島の方々に多くの御支援を 0 0 隠岐の文化財 5 9 18 焼火 頂いた。ここには、西ノ島波止の焼火神社の神官、松浦康麿氏、西ノ島町長、岡田昌平氏、隠岐島消防署、消防士長、渡部俊久氏の御名前を挙げるにとどめさせて頂くが、もちろんお世話になったすべての人に感謝の意を表したい。参考文献「1」 0 0 隠岐の文化財 5 9 25 郡司嘉宣:防災科学技術センタ−研究報告、35、277〜297(1985)。「2」郡司嘉宣、白雲變、秋教昇、安希沫:月刊海洋科学、16、527〜537(1984)。「3」渡辺偉夫:「日本被害地震総覧」、東京大学出版会、203 0 0 隠岐の文化財 5 9 31 頁(1985)。昭和58年(1983)5月の大津波のあった後に、東京大学地震研究所の郡司先生が、天保4年(1833)の津波に関する資料が当方にあることに気付かれ、急遽調査のため御来島になられた。その調査をまとめられ、「地球 1983 500 昭和58年 隠岐の文化財 癸亥 5 9 37 」誌に発表なられたものの抜刷りが届けられましたので、是非島の皆様にも知って頂き度く、転載方をお願い致しましたところ、先生には「地球」の発行所「海洋出版」の方にも転載許可を頂いて下さったりお手数を煩わしました。先生並出版社の 0 0 隠岐の文化財 5 9 42 御好意に心から御礼申し上げます。こうした津波はめったいある事ではありませんが、知っておられると、不時の対策に益することもあろうかと一読をおすすめいたします。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 5 9 47 北前船。隠州隠岐視聴合紀の筆者。隠州視聴合紀は既に何回か刊行されているが、「日本庶民生活資料集成二十巻」に石塚尊俊氏が校訂復刻してたものが善本である。ところが「筆者に就いては明かでない」としておられるがこれは亡父が後藤蔵四 0 0 隠岐の文化財 5 9 53 焼火 郎氏に問合せたその返信が残っているので紹介しておく。この事を問合せたのは「焼火山縁起」の作者が「斉藤弗緩子」とのみあるところから調べて頂いたもので、結局この子孫の方が東京の松平邸に勤めておられる事をつきつめられ斉藤家より返 0 0 隠岐の文化財 5 9 59 信を頂いたものである。斉藤家はいずれも「彦右衛門」と名乗っており、二代彦右衛門、斉藤勘助豊宣、弗緩子と名乗っている。同家からの返信によると、「斉藤勘助豊宣、寛文七丁未未年月不詳隠岐郡代やめし時の年月不詳」とあり、後藤氏は、 0 0 隠岐の文化財 5 9 67 「斉藤家二代目にて視聴合紀の筆者に候、其養子彦右衛門豊仙は三代目にて雲陽誌を書きしもの」云々とあります。この三代目は蒲生忠兵衛弟と同家の家譜にあるとのこと。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 5 54 1 隠岐国土産。木村康信。一、隠岐名産の書いてある昔の本。二、隠岐名産のいろいろ。三、現在正体不明の無名異(むみょうい)。一、隠岐名産の書いてある昔の本。温故知新という言葉も大分古くなってきましたが、この言葉通り昔の書物を取り 0 0 隠岐の文化財 5 54 8 出して見るのもなかなか面白い事が分かるものであす。これが書いてある書物は1712年に出来た倭漢三方図絵で、今でいうなら、さしずめ百科事典で色々の事が出ていますが、標題のような事は日本各地について書かれていて、隠岐についても 0 0 隠岐の文化財 5 54 14 書かれています。二、隠岐名産のいろいろ。隠岐の特産名品としてこの本に取り揚げられているものは、「わかめ、あわび、するめ、あしか、桐材、桑寄生、無名異」の8品目で、さすがは島国で海産物の豊富さがうなづけます。只「あしか」と書 0 0 隠岐の文化財 5 54 20 いてあるものは海獣の「とど」の事だと思います。それは、大正の戸時代迄は西ノ島周辺及び竹島あたりに回游する「あしか」類は「とど」という主に北海道以北に棲む全長3m〜4mで体重50kgもの大形のもので、西ノ島の三度地区裏の「矢 0 0 隠岐の文化財 5 54 26 走の二六穴」という海洞の多い絶壁(国賀海岸の名称)の海洞に棲みつき、ここで捕獲される事がありましたが、近年はこのような事はなくなりました。桐材についての詳細は第12号に書きましたので見て下さい。注目したいのはこの本に書いて 0 0 隠岐の文化財 5 54 32 ある書き方です。桐材称島桐木理美としてあります。これは隠岐の桐材は島桐といわれ木目が美しいとの事です。だが近年は隠岐の桐材は堅くて木目も黒味があってなどと不評で造林もされていません。隠岐では島桐とは呼ばず山桐と土産のものを 0 0 隠岐の文化財 5 54 37 呼び、島外から購入した桐苗は「よそ桐」と呼んで区別して、これは早く太って色が白いといっています。隠岐へ入っている桐の種類は山桐、内地物、台湾桐の3種のようですが、隠岐在来の山桐は今でも山地添いに残っています。早くその値打の 0 0 隠岐の文化財 5 54 43 見なおされる事を祈っています。次の桑木は大木になる「ケグワ」で、隠岐でも布施の奥山あたりに多かったが近年は少なくなりました。島前では西ノ島に若干残っていますが、切り出されて衝立(ついたて)を作っているのを最近見ましち。木目 0 0 隠岐の文化財 5 54 48 が美しいので細工物などを作ります。桑寄生は「やどりぎ」の事で、隠岐でのやどりぎは普通には「さかき」「ひさかき」などによく寄生する「ひのきばやどりぎ」が多く、ここに書いてあるものは榎などの落葉木に寄生する遠目に見ると薬玉のよ 0 0 隠岐の文化財 5 54 54 うに丸く、径が50?以上になるものもあります。現在は桑木に寄生しているのを見る事はありませんが、昔はあったと思われます。島前にはありませんが島後では五箇村、布施村の山地では未だ見る事が出来ますが大変少なくなりました。造林が 0 0 隠岐の文化財 5 54 60 進んでいわゆる雑木林がなくなったためです。島根県庁の前庭の博物館との中間の榎の大木に、無数の桑寄生がついています。出松の折、御覧下さい。桑寄生はその昔、島後の中村あたりに多かったとみえ、薬草として珍重され、特に役所から指定 0 0 隠岐の文化財 5 55 1 保護され、その状況を報告するなど厳重な取り扱いを受けていたとの事です。余談になりますが、島後には尚珍しい暖地の寄生木の「まつぐみ」が時折に見つかっています。島前では「おおばやどりぎ」これも暖地のもので島前のが北限になってい 0 0 隠岐の文化財 5 55 7 ます。これは観察保護が充分出来る処にあるので、島前教育委員会で天然記念物として指定しています。この特異な生態を持った植物も隠岐の環境辺かのため消えようとしています。簡単に申しますと、造林が進み雑木葉や志賀なくなり、木の実を 0 0 隠岐の文化財 5 55 13 食う鳥が来なくなったためです。木の実を食う「きれんじゃく」など戦前迄は大群で渡っていたのが、近年はほとんど見られません。このような鳥が見を食べると糞と一緒に種子が排泄され、種子に付いている粘液で適当な木に付着した種子が発芽 0 0 隠岐の文化財 5 55 18 するという特異な生態のため、だんだん少なくなってしまいました。三、正体不明の無名異。無名異。何というか奇妙な名前の物もあるのもだと思いました。調べて見ると日本名でなく中国の名前のようです。この本で見ると凡そ次のように書いて 0 0 隠岐の文化財 5 55 26 あります。無名異に仮名がつけて「むみょうい」と読ませています。解説を見ると無名異は鉱物で、大きさは榎の実位の大きでそれより大きなものは稀れで、中国の四川、広州に多く、小さくて黒い石である。また用途は主に外用薬として使ったよ 0 0 隠岐の文化財 5 55 31 うで、次のようにも書いてあります。昔々ある処で山鳥(やまどり)が網にかかって足を痛めていたが、網から逃げ、一つの石を啣へて痛めた足をさすったら山鳥の足の傷が治った。そこで人々が語り伝えて金瘡、打傷の痛み止めなどに使いだした 0 0 隠岐の文化財 5 55 36 と。尚また注目して頂きたいのは、この無名異が豆州銀山及び隠岐のものは良と書いてある事です。前巻に書いた隠岐緑といい無名異といい、書物に取りあげられ、しかも有名としてあるものが現地の隠岐では誰も知らないとは不思議なこともある 0 0 隠岐の文化財 5 55 42 もの、この鉱物無名異にも注目され、これの解明に御力添えを御願いします。この無名異の正体が分れば、新しく隠岐の名物がまた一つ生まれる事となります。ところが別の書物広事林(金沢庄三郎著)で見ると無名異、佐渡に産する褐色の粘土。 0 0 隠岐の文化財 5 55 47 無名異焼、佐渡国より産出する陶器。其の国の特産なる無名異を原料に配合して作るが故に此の名あり。細密の彫刻または白土の象嵌を施し頗る雅致あるを以て賞せらる。とあって、これは隠岐産のものと異なるようですので別の書物、岩波書店の 0 0 隠岐の文化財 5 55 53 広辞苑を見ると無名異、佐渡に産する赤褐色の粘土で硫化鉄の酸化したもの、中国では呉須の別称。無名異焼、弘化年間佐渡相川で伊藤甚兵衛が無名異を陶土に入れて盃、茶碗などを焼いた。と出ていて、次の無名丹の項には江戸で有名であった。 0 0 隠岐の文化財 5 56 2 打ち身や傷の薬と書いてあるのが始めに書いた隠岐の無名異の効能が一緒で興味があります。そこで大槻文彦著の言海で調べて見ると、無名異(1)過酸化満俺(マンガン)(2)呉須の名(3)久しく炭を焼きたる地下に黒色の塊を生じたるもの 0 0 隠岐の文化財 5 56 9 薬稀膠(4)倭の−土様酸化鉄。銀山の石上に褐色にして土の如く着きたるを水飛して採る。血止めの薬とす。石見銀山、佐渡鉱山等より産す。血止め石。と書いてあります。このように同じ無名異でも、黒くて小さい石。炭焼場に出来る薬木膠。 0 0 隠岐の文化財 5 56 15 赤色の粘土中国で呉須といわれているもの。過酸化マンガンなどと違いがあります。そこでまた言海で満俺の項を見ると鉱物の元素、常には過酸化満俺の称、形円大なるは一分計小さな黍、粟の如く鉄黒色にして光る。酸素塩素または漂白粉の製造 0 0 隠岐の文化財 5 56 20 等に供す(無名異)とあって、隠岐に産すといわれる無名異と合致したします。呉須の名も出ていますので言海で調べると極素、呉須(蛮語なりともいう)(1)中古支那舶来の染付即ち青画の磁器の名。コバルト鉱物の名。多く支那より舶来の染 0 0 隠岐の文化財 5 56 26 付即ち青画の磁器の名、コバルト鉱物の名、多く支那より舶来す。砂の如く黒して青緑を帯ぶ云々。長々と御紹介いたしましたが、現在分っている事は、佐渡や石見大森銀山跡などで無名異といわれ焼物に用いられているのは赤褐色の粘土埴のもの 0 0 隠岐の文化財 5 56 32 で、写真のものは大森銀山産のものです。佐渡、大森共に産出するものは少なくて高価なものと聞いております。さて隠岐の無名異はこれと異なり薬用の金瘡、打傷を治すといわれた過酸化満俺のように思われますが、それにしても隠岐のどこから 0 0 隠岐の文化財 5 56 38 産出されたのでしょうか。隠岐産のものは良しと書いてあるので隠岐緑(隠岐より産出される緑青のこと。前巻参照)と共に京の都でもて囃されたものと思われますが如何でしょうか。隠岐緑同様にこの無名異も島後のどこからか産出されていたの 0 0 隠岐の文化財 5 56 43 ではないでしょうか。皆さんの御教示を御願いいたします。 0 0 隠岐の文化財 5 56 46 北前船。地名伝説(3)隠岐。「鳥取地方では黄金以上に尊ばれた黒曜石を求めて、海士二十里に近い日本海をわたっていった当時の人々の「オキへ行こう、オキへ行こう」という合言葉がやがて、この島を隠岐と呼ぶ因になった。」と、因伯民俗 0 0 隠岐の文化財 5 56 53 主幹の佐々木新太郎は隠岐民俗走見記の冒頭に書いています。ところで、江戸時代の隠州往古以来諸式年代略記(宝暦11、1761)には「高サ四十余丈の木有り、比木ヲ天照大神御覧アリテ、美シキ御木ト名附ケ給フ」とあり、これがおきと言 1761 0 宝暦11年 隠岐の文化財 辛巳 5 56 59 う名前の由来だと伝えています。また、隠岐古記集(文政6、1823)には、神武天皇が大木(おき)とおっしゃてから遠岐となったが、宣化天皇の時に、その木は枯れたとあります。なお、現在の隠岐の文字になるまで、古書により、種々の文 1823 0 文政6年 隠岐の文化財 癸未 5 56 65 字を伝えています。日本書紀(億岐)古事記(隠伎)正税帳(隠伎)国造本紀(意岐)(現国造家は億岐)<奈良>延喜式(隠岐)和名抄(隠岐)<平安>(若林久)。 0 0 隠岐の文化財 5 59 39 北前船。隠岐の長者。民謡どっさり節の中に「大山お山から隠岐の国見れば島が四島に大満寺中の小島に長者ありサノエ−」とあるのあはよく知るところである。この長者は海士の村上家のことであるが、どれ位の経済力をもっていたであろうか。 0 0 隠岐の文化財 5 59 47 これを江戸期に出された「日本持丸長者鑑」によってみてみよう。天保7年のものには、大関鴻池善右衛門、関脇住友吉治郎、小結天野助九郎とある。同じ天保のものでも前頭三枚目に天野助九郎と出ているものもある。また村上家にある写本には 1836 0 天保7年 隠岐の文化財 丙申 5 59 54 関脇天野助九郎となっており大関は三井である。ところが文化14年のものとなると行司のところに天野助九郎と出ている。村上家の近世の全盛期は文化文政頃といわれているが、三井、鴻池、住友等と肩を並べた程の時代もあったのである。これ 1817 0 文化14年 隠岐の文化財 丁丑 5 59 61 は主に海運によって産をなしたものであろうか。この時代は「天野助九郎」といわれていたようで天野は海士である。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 5 63 1 隠岐国概況取調書の紹介(2)。若林久。1民間貧富ノ状況。当国ノ地タル北海ニ孤立セル一小島ニシテ農工興(50)ラス商業振ハス専ラ漁業ヲ以テ一国ノ経済ヲ維持セリ故ニ従来豪農冨商ト称スルモノナシ現ニ直接国税拾五円以上ヲ納ムルモノ 0 0 隠岐の文化財 5 63 8 即チ衆議院議員選挙ノ資格アルモノ僅カニ百十三名(明治28年現在百円以上ノ地租ヲ納ムルモノ壱名)所得税ヲ納ムルモノ五拾八名(明治23年ヨリ同27年迄五ケ年平均内ニ寄留官吏アリ)ニ過キス以テ冨裕者ノ乏キヲ推知スルニ足ルヘシ然レ 1895 0 明治28年 隠岐の文化財 乙未 5 63 12 モ(51)各郡皆海ニ接シ漁業ノ利アルヲ以テ島民ノ生計ニ於ケル甚タ困難ト云フヘカラス故ニ未タ曽テ公ノ救助(罹災者ニシテ備荒儲蓄ノ救助ヲ除ク)ヲ仰キシモノナキノミナラス平素親戚其他ノ扶助ヲ受クルニアラサレハ糊口シ能ハサルカ如キ 0 0 隠岐の文化財 5 63 17 モノ亦タ甚タ乏シ今郡村ニ就キ業務生計ノ難易ヲ述ヘンニ海士知夫両郡ハ各村海ニ接シテ漁業ノ利アリ山野ノ概ネ牧畑ニシテ麦甘薯等ノ産出ニ乏カラス(米穀ノ過半ハ他ヨリ輸入ヲ仰クモ)其ノ業務タル甚タ困難ナラスシテ生計上亦概シテ易シキカ 0 0 隠岐の文化財 5 63 22 食料 如シ故ニ米価ノ騰貴ニ際スルモ困難ヲ感スル事最モ少シ周吉穏地両郡中沿海各村ハ専ヲ漁業ヲ以テ生計トナシ傍ラ農業ヲ兼ルモノ多ク平素ノ生計上敢テ海士知夫両郡ニ数歩ヲ譲ラスト然ドモ耕地僅少ニシテ常食物ノ過半ハ他ノ輸入ヲ仰クヲ以テ不漁ニ 0 0 隠岐の文化財 5 63 28 際スレハ大イニ困苦ヲ為スノ状態ナリ。周吉穏地両郡中山間ノ各村即チ中筋(52)五箇ノ如キハ専ラ農業ヲ以テ生計ヲ営ミ平素農業ノ余暇或ハ山林ニ入リテ薪ヲ採リ遠ク之ヲ西郷ニ鬻(53)キ或ハ他人ノ木材ヲ搬出シテ僅少ノ賃金ヲ得ル等其ノ 0 0 隠岐の文化財 5 63 34 困難ナル沿海各村ノ比ニアラス随テ生活ノ度最モ低シ畢竟耕地ノ僅か少ナルニ由ル西郷ニ至テハ稍資産アルモノハ商業ヲ営ミ其他ハ概ネ専業漁家ニシテ漁業烏賊漁ニ力メサルニアラサルモ不時ノ大漁恃ミ(54)平素余業ヲ為スモノ絶テ之レナク( 0 0 隠岐の文化財 5 63 40 僅少ナル小売商ヲナスモノアルモ)故ニ府漁数付ニ渉ルカ如キコトアレハ其ノ困難容易ナラス且漁民ノ常トシテ一時若干ノ金員ヲ懐ニスルトキ(55)ハ飲食等ニ消費シ復タ他日ヲ慮リ不漁ニ備タルカ如キ念慮アルナシ要スルニ当国ノ冨裕ト云フヘ 0 0 隠岐の文化財 5 63 45 カラサルハ勿論ナリト然ドモ赤貧洗フカ如キモノ甚タ稀ニシテ下等人民ノ生計上ハ稍易キモノノ如シ現ニ他地方ヨリ資金ヲ所持セス来リテ相当ノ生活ヲ為シ或ハ若干ノ余裕ヲ得テ帰国スルモノアリ故ニ沿海ニアリテハ烏賊ノ外他ノ漁業及製造法ニ熟シ 0 0 隠岐の文化財 5 63 50 大漁ニ際シテハ幾分ノ貯蓄ヲナシテ不漁ニ備エ漁業ノ余暇ニハ他ノ職業ヲ力メ其ノ山間ニ在テハ農業ノ方法ヲ改良シ養蚕其他有益ノ余業ヲ力ムルニ於テハ其利益今日ノ比ニアラス随テ不漁若クハ物價ノ騰貴ニ際シ狼狽困苦ノ憂ヲ免ルルニ至ルハ敢テ 0 0 隠岐の文化財 5 63 56 至難ノ業ニアラサルヘキヲ信スルナリ。一道路。隠岐苦にノ最大道路ト渉スノモノハ周吉郡西郷ヨリ穏地郡北方村ニ達スル則チ島後ノ中央ヲ貫通スル凡五里余ノモノナリ然ルニ両郡ノ境界ニ字中山ノ嶮アリテ牛馬ノ通行煩ル困難ナリ且平坦ノ地モ破 0 0 隠岐の文化財 5 63 63 漬凹凸牛馬ノ通行モ容易ナラス他ノ小道路ニ於テハ坂路嶮峻狭隘ニシテ歩行モ亦甚タ困難其状況実ニ名状スヘカラサリシ茲ニ於テ明治二十五念度以来之カ改修ニ着手セシカ今ヤ殆ント竣工ニ至リ人馬ノ通行大ニ便利トナレリ而シテ他道路ニ於テモ改 1892 0 明治25年 隠岐の文化財 壬辰 5 64 1 修ノ必要ヲ感シ己ニ着手シ或ハ改修ノ計画ヲナスモノアリ。島前ハ一層ノ小島ナルノミナラス又三島ニ分散スルヲ以テ凡ソ三里ニ超過スル道路ナク山モ随テ大ナラサルニヨリ稍通行シ易シト然ドモ一里ニ達スル平坦ノ地ナク且舟楫ノ便アル等ニヨリ陸 0 0 隠岐の文化財 5 64 7 運ノ必要ヲ感スル事薄カリシカ世ノ進歩ニ随ヒ各村間交通ノ不便ヲ感シ明治二十七年福井村海士村豊田村宇受賀村ヨリ知夫郡浦郷村ニ達スル道路ニ於テモ改良ノ計画ヲナスモノアリ。一運搬。沿岸ノ地ハ船ヲ利用スルヲ以テ聊カ(56)便ナリト然ド 1894 0 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 64 15 モ之ニ反シ山部ニ於テハ平坦ノ地ナキヲ以テ車ヲ利用スルヲ得ス専ラ牛馬ヲ以テ運搬ス然ルモ道路狭隘坂路嶮峻ニシテ最モ不便ナリシカ周吉郡西郷ヨリ穏地郡北方村ニ達スル道路改修工事殆ト竣工セシニヨリ稍運搬便利トナレリ。一、飲料水。明治 0 0 隠岐の文化財 5 64 22 十五年三月本懸無号告示ヲ以テ飲料水ノ注意ヲ与ヘラレタルモ兎角当国ニ於ケル井泉ノ構造尚ホ不完全ナルヲ免スレ故ニ毎年定期(臨時)清潔法施行ノ際ハ派遣吏員ヲシテ必ス之カ改良方ヲ注意セシモ旧来ノ慣習上容易ニ其実行ヲ見ルニ至ラサリシ 0 0 隠岐の文化財 5 64 27 然ルニ明治二十七年八月中本県ヨリ派遣セラレタル分析委員ノ検査ヲ遂ケシ飲料水ノ成蹟ニ徴スルニ井水ノ数は弐百拾弐ニシテ内飲料ニ適スルモノ百0六ナリキ如斯不良水ノ多キハ全ク井戸ノ構造粗悪ナルニ外ナラス依テ翌二十八年二月中各戸長ヲ 1894 800 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 64 33 水・井戸 召集シ飲料水改良方法ヲ諮問セシニ其局(58)在来ノ井戸ニシテ飲料水ニ適スルモノハ一定ノ日限ヲ定メ木材ヲ以テ井戸側ヲ作リ切石ヲ以テ其周囲ヲ疂マシメ其罅隙(59)ヲ適当ノ処置ヲナシ井戸流シ下水ヲ完全ニシ以テ汚水ノ浸透ヲ防キ且覆 0 0 隠岐の文化財 5 64 39 蓋ヲ設置セシムル事トナリ直ニ之カ実行ヲ促シタリ然ルニ目今(60)ノ場合日尚ホ浅キヲ以テ未タ一般改良ノ効ヲ見スト然ドモ現ニ之カ実行ヲ遂ケタル村落モ数多クアリ数年前ニ比スレハ大ニ面目ヲ一洗シタリ。一体格。体格ハ概シテ不良ナリ 0 0 隠岐の文化財 5 64 45 トス今ソノ原因ヲ詳ニスルヲ得スト然ドモ当国ハ絶海ノ地ニシテ同族結婚ノ風アリ又人民ノ大半ハ漁獲ヲ以テ生計ヲ営ミ夜間海上ニ於テ風雨ニ暴露シ栄養不全ノ業ヲナスカ為メ身体ノ健康ヲ害スル実ニ少カラス又民間猥メメ(61)ノ悪習アリテ梅 0 0 隠岐の文化財 5 64 51 毒ニ感染シ身体ヲ害スルモノ亦少シトセス是即身体発育上大ナル関係ヲ及ホスヘシ而シテ其ノ身長等ヲ丁年者(63)ニ徴スルニ体格健全ノモノエヲ甲種(64)トシ之ニ亜クモノヲ乙種トシテ疾病畸形ノモノヲ丙種トシ其ノ比例ヲ算スレハ百人ニ 0 0 隠岐の文化財 5 64 56 付甲種五十人余乙種十八人余丙種三十壱人余ノ率ニ当ル身幹ハ壱人平均凡ソ五尺一寸四分(65)体重は凡ソ拾弐貫目トス他ノ婦女子等ニ在テモ或ハ懶惰ノ風アリテ滋養乏カラサルモ必要ノ動作ヲメメキ体育全カラサルニ由リ其体格不良ナリ。一疾病 0 0 隠岐の文化財 5 64 62 。従来流行セシ伝染病ハ虎列拉(66)赤痢(67)腸窒扶斯(68)ニシテ明治二十七年ノ如キハ赤痢病非常ノ猖獗ヲ極メ患者総数弐千参百五拾九人(内死亡百十九人)ノ多キニ至リ其惨状曽ツテ見サル所ナリ然ルモ此ノ大流行アリシカ為メ人民 1894 0 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 64 67 伝染病ノ大ニ恐レヘキヲ覚知シ爾来清潔法飲食物等ニ一層ノ注意ヲ加ヘ伝染病予防法大ニ進歩セリ。島内地方病ヲ概記スレハ胃加谷児(69)肺労腺病(70)梅毒僂广質斯(71)間歇熱気管支炎脚気等ナリ内多キハ梅毒胃加谷児脚気症トス其原 0 0 隠岐の文化財 5 64 73 因タルヤ梅毒ノ如キハ船舶ノ交通頻繁ナルヲ以テ猥褻(72)ノ風最モ甚シキニヨルナラン又脚気ノ如キハ島民ノ営業多クハ水主漁夫等ニテ水上ニ起臥(74)シ又飲料水ノ不良等ニ起因セシモ人家群衆ノ村落ハ道路溝渠等不潔ヲ極メ海岸河辺ハ多 0 0 隠岐の文化財 5 65 2 ク塵芥ヲ投奔スルヲ以テ殊ニ甚シカリシカ近年伝染病非常ノ流行アリシカ為メ概シテ清潔法ニ注意スルニ至レリ。一医師。島内ニ於テ目下開業セルモノノ総数ハ五拾四名アリト然ドモ過半ハ漢法医ニシテ洋医ノ如キハ僅カニ十二名ニ過キス又穏地海 0 0 隠岐の文化財 5 65 8 士両郡内ニハ医師最モ僅少ニシテ伝染病流行ノ際ハ大イニ医師ノ欠亡ヲ告ケ為メニ治療ノ時期ヲ誤ル等ノ不都合ヲ視ルニ至レリ其ノ人員ヲ郡別スレハ即チ左表ノ如シ。明治二十八年十二月現在。周吉20、穏地13、海士10知夫14、計57。一 1895 1200 明治28年 隠岐の文化財 乙未 5 65 16 産婆。明治二十四年ノ頃ニアリテ営業セルモノ僅ニ五名ナリシカ爾来誘導ノ末産婆講習所ニ入リ卒業ノ上開業セルモノ明治二十八年末ニ於テ二十二人ナリ島内概シテ産婆ヲ称シテ巧者婆ト云フ又畧シテ単ニ功者ト呼フ。知夫島ニ於テハ従来産婦臨産 1895 0 明治28年 隠岐の文化財 乙未 5 65 22 ノ際男子ノ壮者ヲ雇ヒ産婦ノ腹部ヲ圧シテ出産セシメルノ悪習アリ間々産婦ノ危殆ニ陥ルモノアリト然ドモ明治二十六年産婆営業者ヲ置キシ以来該(75)悪習漸ク洗除スルニ至レリ。一兵事。当国ハ交通不便ノ一孤島ナルヲ以テ人民概シテ質朴ニ 1893 0 明治26年 隠岐の文化財 癸巳 5 65 29 シテ詐術ヲ施シ兵役ヲ遁レントスルモノナシ然レドモ明治二十年以前ニ於テハ法律上種々免役猶予等ノ條項アルニヨリ之ヲ利用シ兵役ノ義務ヲ遁レルモノ多ク一般ノ感情兵役ハ一種賎シムヘキモノトナシ財産家又ハ教育アル子弟ノ兵役ニ就クモノ甚 0 0 隠岐の文化財 5 65 34 タ稀ナリ在郷予備後備兵ノ如キハ徴兵戻リト唱ヘ無頼漢ノ如ク之ヲ擯斥(76)シ共ニ伍スルヲ嫌厭セリ二十年改正徴兵令ハ右等免役猶予の条項ヲ削除セラレ斉(77)シク兵役ノ義務ヲ負担スル事トナリシヲ以テ一般ノ感情一変シ兵役ハ決シテ嫌 0 0 隠岐の文化財 5 65 40 厭スヘキモノニアラサルヲ識(78)レリ日清戦争後ハ軍人ヲ尊敬シ壮少者ハ奮ツテ兵役ニ就クを企望セリ。一戸籍。当国各戸長役場備置戸籍ハ明治四年太政官布告ニ基キ同五年編制メメ后(79)数十年使用セシヲ以テ遺漏錯メメ一見戸主ト家族ノ続 1871 0 明治4年 隠岐の文化財 辛未 5 65 46 柄等識別シ難ク従テ住民ト戸籍トハ始終メメメメヲ生セリ人民ニ於テハ出産養子等送迎スルニ当リ容易ニ届出ヲ為サス同十九年内務省ヲ以テ戸籍登記書式届出期限等規定セラレシ際従来届出ヲ怠リシモノヲシテ届出サシメタルト然ドモ未タ周到セス戸籍 0 0 隠岐の文化財 5 65 52 上ト実際ノ生計等相違アルモノ多クアルモ人民其ノ手数ヲ厭ヒ容易ニ訂正ノ手続キヲ為サス未タ戸籍ノ重スヘキヲ知ラス明治二十五年本県ノ認可ヲ得十九年内務省令ニ基キ戸籍簿改正其ノ際一洗右等誤診ヲ訂正シ大ニ整理セリ然レドモ人民未タ諸届 0 0 隠岐の文化財 5 65 58 出ヲ等閑ニ付スル幣習脱シ難シ。一教育。到国ハ渺々タル北海ニ孤立セル四個島嶼ニシテ内地トノ交通不便ノ為メ人民概ネ進取ノ気象ニ乏シキヲ以テ世ノ風潮ニ後ルルハ獨リ教育ノミナラスト然ドモ明治二十一年以来人民ノ志念漸ク歩ヲ進メ教育ノ 0 0 隠岐の文化財 5 65 65 忽聡煤(80)ニ付スヘカラサルヲ識得シ殊ニ二十六年現行小学校令実施著シク其ノ歩ヲ進メ尋常科ヲ履習シ尚ホ高等科ヲ修ムルモノ年一年ニ造かシ到ル処校舎ヲ新築シ教育ヲシテ益隆盛ノ域ニ達セシメントスルノ傾向アリ故ニ今ヤ教員其人ヲ得進 1893 0 明治26年 隠岐の文化財 癸巳 5 65 71 ンテ就学ヲ勧誘セハ廃疾不具及極貧者ヲ除ク外就学セサルモノナキニ至ルハ期シテ待ツヘキノ状況ナリ。周吉郡高等1、尋常13、同分教場6。穏地郡尋常高等2、尋常6、同分教場3。海士郡尋常高等1、尋常5、同分教場3。知夫郡尋常高等1 0 0 隠岐の文化財 5 65 74 、尋常9。計高等1、尋常高等4、尋常33、同分教場12。就学歩合。周吉郡外三郡。25年学齢100人に付64人1歩強。26年同じく69人8歩強。27年同じく78人6歩強。平均70人8歩強。28年ニ於テハ殆ント90人ニ達セシモ 1892 0 明治25年 隠岐の文化財 壬辰 5 66 5 ノト考フルモ未タ調査未済。一海陸産重ナルモノノ一ケ年産額。明治二十三年ヨリ同二十七年マテ五ケ年平均。米15019石、価格107836円、1石7円18銭。麦16830石。価格5284円、1石3円14銭。甘薯970249貫。価 1894 0 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 66 10 格29107円、1貫3銭。大豆2923石、価格13492円、1石4円65銭。小豆1219石、価格6150円、1石5円97銭7厘。蕎麦2345石、価格5863円、1石2円50銭。鯣697563斤、価格67664円、1斤9銭7 0 0 隠岐の文化財 5 66 14 厘。鮑5753斤、価格1237円、1斤21銭5厘。海参4947斤、価格1375円、1斤27銭8厘。鯖105276貫、価格10212円、1貫9銭7厘。鰤15776貫、価格3912円、1貫24銭8厘。メメ9623貫、価格1636 0 0 隠岐の文化財 5 66 19 円、1貫17銭。鰛27575貫、価格2378円、1貫8銭6厘。和布56489貫、価格2655円、1貫4銭7厘。海苔384920枚、価格1054円、1枚3厘。海藻906107貫、価格6342円、1貫7厘。荒布28080貫、価 0 0 隠岐の文化財 5 66 24 格449円、1貫1銭6厘。石花菜4573貫、価格1189円、1貫。杉高瀬724本、価格2378円、1本3円28銭4厘。杉十四丈32671本、価格2908円、1本8銭9厘。杉丸太12557本、価格3352円、1本26銭。杉板 0 0 隠岐の文化財 5 66 29 101557間、価格20311円、1間20銭。杉皮8503間、価格1455円、1間3銭。松角90529メメ、価格543円、1メメ6厘。松板29830間、価格8800円、1間29銭3厘。椴板14481間、価格2795円、1間19 0 0 隠岐の文化財 5 66 33 薪・木炭 銭3厘。榑木(81)9771挺、価格801円、1挺8銭2厘。薪炭2220151貫、価格33302円、1貫1銭5厘。椎茸9422斤、価格18906円、1貫20銭5厘。牛978頭、価格7352円、1頭7円51銭7厘。馬162頭 0 0 隠岐の文化財 5 66 38 、価格2074円、1頭12円80銭。一牛馬数周吉郡牛1281、馬156。穏地郡牛1098、馬124。海士郡牛844、馬163。知夫郡牛2543、馬565。計牛5766、馬1008。一国税、明治22年ヨリ同26年度マテ、五ケ 1894 1200 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 66 43 年平均。金15402円。内訳。金9286円地租、金351円所得税、金2654円酒造税、金537円自家用料酒鑑札料、金6円醤油、金174円菓子税、金229円煙草税、金7円売薬税、金2066円船税、金7円車税、金50円牛馬売買 1893 0 明治26年 隠岐の文化財 癸巳 5 66 56 免許税、金35円獣猟税。一地方税。明治22年度ヨリ26年度マテ、5ケ年平均。金9078円。内訳。金2409円地租割、金2051円戸数割、金1924円営業税、金2694円雑種税。一町村費。金19348円。内訳。金1150円地 1889 0 明治22年 隠岐の文化財 己丑 5 66 68 價割、金18049円戸別割、金15418円戸長管理ニ属スルモノ、金2631円島司同上、金149円営業割。一、備荒メメ蓄法ニ依リ救助ヲ受ケタル者。明治23年ヨリ同27年マデ、5ケ年平均。金357円。内訳。金152円小屋掛料人員 1890 0 明治23年 隠岐の文化財 庚寅 5 67 1 32人。金40円農具料人員9人。金33円食料人員66人。金132円種穀料人員76人。一土地売買価格。上田ハ地價ノ凡ソ二倍半。中田ハ凡ソ二倍三歩。下田ハ凡ソ一倍三歩。畑ハ平均凡ソ二倍半。土地売買ノ状況ヲ見ルニ近年収穫ノ充分ナ 1894 0 明治27年 隠岐の文化財 甲午 5 67 11 ラサルカ為メ収支ノ実益ヲ得ル事難ク且金融ノ便メメナルカ為メ自然多分ノ土地ヲ引当借入金ヲ為スモノ看々其ノ金額ノ増殖ヲ来シ弁償ノ方法ヲ立ルヲ得サルニ至リシモノ売買ニナセシモノ多キニ至ルカ如クニシテ他ノ事業ヲ企図するか為メ又ハ間接 0 0 隠岐の文化財 5 67 16 ニ利潤ヲ得ルヲ目的トシテ売買ヲナスモノノ如キハ絶テナキモノノ如シ。一人民ノ常業。沿海ノ地ハ西郷地方ヲ除クノ外農業ト漁トヲ兼ネ其ノ他ノ地方ニ於テハ農耕山林ノ業ヲ営ムヲ常トスレドモ島ノ前後又其ノ趣ヲ異ニス則チ島後ニ於テハ樹木ニ 0 0 隠岐の文化財 5 67 23 冨ムノ故ヲ以テ農業ヲ為スノ傍ヲ山林ノ業ヲ営ムモノ多ク島前ニ於テハ樹木ナキニヨリ傍ラ牧畜ヲナスモノ多シ。一闘牛。闘牛ノ実況ハ宛モ相撲ノ如ク東西ニ別レテ大関関脇小結等ノ別ヲ立テ三歳ト四歳ハ四歳ト取組マシムルヲ以テ通例トナセドモ 0 0 隠岐の文化財 5 67 31 六歳ノ秋ニ至レハ七八歳ノモノト取リ組マシムルヲ得又大関関脇小結等ハ全ク相撲ノ取組ミノ如ク各牛ニ一定ノ名称ヲ附シ其ノ名称ヲ旗ニ書シテ之ヲ後ヨリ人ノ立ツルアリ或ハ牛ノ背部ニ挿ムアリ何レモ五色ノ紐ニテ鉢巻ヲ前ヨリ角ニ当テテ後ニ結 0 0 隠岐の文化財 5 67 36 繋シ其両端ニ房ヲ殆ト地上ニ達スル位垂下シ所謂綱取ナルモノ双方ヨリ各自ノ牛ヲ土俵ニ牽キ入レ其角ト角トヲ合セ夫(82)ヨリ牛ノ相争闘スルニ任スト然ドモ其間綱取ハ牛ノ綱ヲ放ツコトナク牛ノ働ク尽ニ従ヘリ牛ノ綱ハ堅靭ナル鼻輪ヨリ連続 0 0 隠岐の文化財 5 67 42 セル太キ麻ノ紐ニシテ長サハ六尺モアルヘシ綱取リハ之ヲ右方ヨリ左方ニメメシ左耳ノ下ニ右手ニテ堅ク握リ其残リハ輪ニシテ之ヲ左手ニシテ牛ノ闘争スルドモ手加減シテ綱ノ伸縮ヲ自在ニスル事甚タ妙ナリ然レドモ時トシテハ綱取ノ手ヲ傷ツケタル 0 0 隠岐の文化財 5 67 48 事アリト云フ如斯シテ闘争スルコト数分時ニ至レハ勝敗一決ス敗ヲ取ルノ牛ハ更ニ抗スルノ気力ナク闘争セントシ勝ヲ得ルモノハ勢ニ乗シテ之ヲ追ントスルモノナリ比際双方ニ負傷セシメサル様之ヲ引キ分クルハ綱取ノ巧者ナル所ナリ而シテ其勝利 0 0 隠岐の文化財 5 67 54 ヲ得タル牛ヲ有スル村民ハ其鉢巻ヲ振リ回しシテ之ヲ誇リ一頭ノ牛ニ五人モ六人モ或ハ背ニ或ハ腰ニ尾ニ或ハ綱ニ取付テ之ヲ其ノ勝ヲ取レル場所ニ牽キ至リ大声ヲ発シテメメ歌ヲ発スルモノニヤ其ノ勝利ヲ唱フル事甚タ喧シキモノナリ。闘牛ハ島内各 0 0 隠岐の文化財 5 67 60 地ニ行ハルルト然ドモ其盛ナルハ海士郡海士村ヲ最トス傅云フ後鳥羽上皇曽テメメ牛ノ牧場ニ在リテ相戯ルヲ御覧セラレ叡慮ヲ慰メ玉ヒシニ依リ村民相謀リ終ニ叡覧ニ供セシカ為メ老牛ヲ闘ハシメシヲ以テ権輿(83)トナスト。一大人小児ノ遊戯。 0 0 隠岐の文化財 5 67 66 大人ハ絃歌飲酒ノ外ナシ小児ニアリテハ独樂手毬羽子其他種々運動遊戯ヲ為ス。一金員貸借ノ状況。金員ノ貸借ハ一口ニシテ千円ニ昇ルモノ稀ナリ返納期限長キハ一ケ年短キハ一ケ月トス抵当ハ多ク不動産ヲ書入レ稀レニ家屋ヲスルモノアリ而シテ 0 0 隠岐の文化財 5 67 73 数月間ノ貸借ハ抵当ヲ要スルモノ少ナク確実ナル保証人ヲ立ツルモノ多シ利子ハ金額ノ多少ト期限ノ長短ニ依ルコトナリト然ドモ其程度ハ一ケ月三分ヨリ一ケ年一割二分ノ間トス。一寝起。夏期ハ午後十時乃至十一時ニ寝ネ午前四時乃至五時ニ起ク 0 0 隠岐の文化財 5 68 2 尤六月ヨリ八月ノ間ニ於テハ二自家員或ハ三時間ノ午睡ヲナスモノアリ冬期ハ午後十時乃至十一時ニ臥シ午前六時乃至七時ニ起ク。一頭髪。男子ハ概シテ斬髪ナレドモ年齢五十以上ノモノハ往々結髪ノモノアリ通シテ之レカ比例ヲ挙クレハ斬髪ハ八 0 0 隠岐の文化財 5 68 9 衣服 歩結髪トス。女子ハ年齢十二三マテハ種々ノ子供束髪イチョウカヘシ島田等ノ髷(84)ヲナシ中年以上ニ至レハ上等ノ人ニ在リテハ丸髷中等以下ニ在リテハ種々ノ結髪ヲナス。一、衣服履物等。男子共総テ綿布ヲ以テ常衣トシ盛装ト然レドモ上等 0 0 隠岐の文化財 5 68 16 衣服 ノ人ニアラサレハ絹布ヲ用フル事少シ蓋シ稍財産ヲ有スル家ノ婦女ニ在リテハ絹布ノ衣服数種ヲ製シ終身秘蔵シテ栄トス又手織ヲ貴ムノ風アリ。土地ニ依リ小異アリト然レドモ多クハ草履木履ニシテ菅緒ヲ用ヒ上等ノ人ニアラサレハ革緒及ヒ表付下 0 0 隠岐の文化財 5 68 22 衣服 駄等ヲ用ユルモノ少シ特ニ西郷地方ニ於テハ市街ナルヲ以テ稍上等ノ履物ヲ用ユ漁夫ノ業ヲ執ルヤ頭ニ手巾ヲ冠リ身ニ襤褄ヲ纒ヒ雨雪ニ遇フモ蓑笠ヲ用ヒス農夫ハ雨天ニ際シ蓑笠ヲ着スト然レドモ道路ヲ往来スルニ土人多クハ傘ヲ用ヰス毛布或ハ衣 0 0 隠岐の文化財 5 68 28 類ヲカンムリリテ歩行セリ。一言語。言語ハ概ネ野卑ニシテ貴賎尊卑ノ区別ヲ知ラス而シテ其ノ発音ハ大体伯耆出雲地方ニ近シ又国語ノ他ニ異ナルモノ一二ヲ譽クレハ左ノ如シ。中等以上ノ戸主ヲ「トツッアン」以下の戸主ヲ「テツッアン」「テテ 0 0 隠岐の文化財 5 68 35 」「チャンチャ」「チヤチヤ」ト云フ子ヨリ父ヲ呼フモ亦同シ。中等以上ノ細君ヲ「カカサン」以下ノ細君ヲ「カカ」上等ノ新婦ヲ「ゴレンサン」夫ノ方目上ナル親戚之ヲ尊称スルトキハ「ゴリヤウニン」ト云フ。上中下トモ巳ノ夫凡ソ四十年以下 0 0 隠岐の文化財 5 68 42 食事 ナルマテ「アニサマ」又ハ「アニ」ト呼フ沢山又ハ大ナル事ヲ「テンポ」ト云フ。一飲食物。島後地方ハ米麦ヲ以テ常食トシテ島前地方ハ米麦甘薯ヲ常食トス而シテ沿海地ハ山村ヨリ幾分ノ上等飲食ヲナシ飲酒等モ随テ多シ其ノ常食物ノ歩合ハ左ノ 0 0 隠岐の文化財 5 68 49 如シ。島後米7歩、麦3歩、甘薯0。島前米4歩、麦3歩、甘薯3歩。(完)。第4合で始めに紹介したように、本書は明治29年の隠岐島庁庶務係の手になるものである。おそらく、本土から赴任した士族出身者であろう人の、冷徹な隠期島民の 1896 0 明治29年 隠岐の文化財 丙申 5 68 58 観察に、改めて興味深く読み返した。また古文や現代文学とも異なる、明治期の文体にも、内容とは別の面で、魅せられる処が多く、原文と近い形にさせて貰った。若い方々にも読んで頂こうと、補注も多くした。印刷関係の方にも、御迷惑と思っ 0 0 隠岐の文化財 5 68 64 たが、意のあるところを諒とされたい。(完)。<補注>前号から通し番号とする。(50)メメラス:興ラス。(51)メメ:然れども。(52)中筋:明治37年町村制施行により中条となるが、それまで中筋の通称があったようである。(53) 0 0 隠岐の文化財 5 68 74 鬻キ:ひさぐ・粥(かゆ)から転じて生活する。生活の為に物を売ること。(54)恃ミ:たのみ・あてにして。(55)メメ:とき・時。(56)聊カ:いささか。(57)如斯:かくの如く。(58)其局:そのキョク、その結果。(59)罅隙 0 0 隠岐の文化財 5 69 6 :カゲキ、かけたるすきま。(60)目今:今のところ。(61)猥メメ:ワイヨウ、みだりがましい、不純。(62)梅毒:バイドク、性病。(63)丁年者:兵役に服ふべき年齢の者、満二十歳。(64)甲種:徴兵検査の成績を、甲種、乙種の 0 0 隠岐の文化財 5 69 14 合格、丙種、不合格とした。(65)五尺一寸四分:約1メ−トル56センチ、体重十二貫は約45キロ。(66)虎列拉:コレラ。(67)赤痢:セキリ。(68)腸窒扶斯:チョウシフス。(69)胃加谷児:イカタル。(70)肺労腺病:労 0 0 隠岐の文化財 5 69 22 咳、ろうがい、肺結核の漢法名。(71)僂广質斯:リュ−マチ。(72)猥褻:ワイゲイ、みだりがましい。(73)水主:かこ、舟をあやつる人。(74)起メメ:起臥、キグヮ。(75)メメ:該の略字。(76)擯斥:ヒンセキ、しりぞけのけ 0 0 隠岐の文化財 5 69 29 る。(77)斉シク:ひとしく。(78)識レリ:し、れり。(79)尓后:爾後、じご。(80)忽諸:コッショ、おろそかにする。(81)榑:クレギ、薄板で、桶、樽材料のこと。(82)夫ヨリ:それより。(83)権輿:ケンヨ、物の始 0 0 隠岐の文化財 5 69 37 めの意。(84)髷:マゲ。 0 0 隠岐の文化財 5 75 7 焼火 北前船。焼火山「銭守」のこと。焼火神社の特殊の御守に「銭守(ぜにまもり)」がある。これを江戸末期頃まで、江戸に於て頒布していた記録がある。御尋申上候一札之事。松平出羽守様御屋舗深造院内不動尊脇へ焼火山之写ヲ拵へ御相殿ニ被為 1845 200 弘化2年 隠岐の文化財 乙巳 5 75 14 成、是メ江戸隠州方ヨリ神銭御望ノ儀申来候節、其ヨリ仰聞候ニ付差出運送(中畧)同所ニ於テ御取扱ナサレ候由ノ処、以来ハ右神銭深造院へ請込ミ諸方望ノ仁へ相伝候様ニ相成候テモ差障ノ儀ハ無之ヤノ旨御尋ナサレ候処、右両様共差障ノ儀御座 1845 200 弘化2年 隠岐の文化財 乙巳 5 75 20 焼火 ナク候此段御請申上候以上。隠州焼火山別当、雲上寺(印)弘化二年八月。御役所。また、弘化3年「御尋ニ付申上候演説之覚」の1札もある。この内容は神銭の授与料についてであり、12銅で授与しているが、その内6銅は今まで通り深造院の 1845 200 弘化2年 隠岐の文化財 乙巳 5 75 28 方で取り6銅を当方に送る。また「神銭壱万銅位宛御望ノ儀申来候ニモ差支ノ儀無之」云云とあるところからすると年間江戸で1万体以上の神銭を授与していたようである。この神銭については当社の縁起書にも書かれており、それによると「山上 1845 200 弘化2年 隠岐の文化財 乙巳 5 75 34 ニ壱壷アリ神銭涌出ス」云々「二銭ヲ投シ一銭ヲ得」とあるように二銭をあげて一銭を頂いて御守としたようである。霊験の方は「水難ヲノガレ疾ヲ避ク」とあるが、江戸のメメ銭好事家の記録「板メメ録」には「火難、盗難除の守」となっている。当 1845 200 弘化2年 隠岐の文化財 乙巳 5 75 40 方に「天保三年、年中御札守員数」という資料があり、年間の集計が個所をあげると、1神銭7900銅、御供1240、疱瘡守17160枚、牛壬1500余、大御影1600余、小御影3900とある。右の神銭の数は江戸に送ったものも含ま 1832 0 天保3年 隠岐の文化財 壬辰 5 75 45 れているかどうかはわからない。右によってその時代の振興の内容も伺われて興味深い。疱疱守17000余は驚きである。今は殆どみなくなったが、旧字には正月に疱瘡神を祀るヒモロギ様の小さい台があったのを覚えている。神銭守は今でも神 0 0 隠岐の文化財 5 75 51 社で出しているが往昔のように受ける人は数える程しかいない。こちらでは、錠が海底にかかって取れない時とか網が掛って取れない時、おもしろいのは猫にばかにされた時神銭(1文銭)の穴からのぞくとよいなどといわれている。神銭が通貨で 0 0 隠岐の文化財 5 75 57 あるのも特徴である。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 5 87 9 北前船。隠岐島前の五輪塔群。島前各地に点在する「五輪塔群」については昭和43年刊の「隠岐」に「隠岐に於ける石造美術−主として五輪塔を中心として−斉藤孝氏が発表しておられるものが尤もくわしい。その後伊藤菊之輔氏が「隠岐の石造 0 0 隠岐の文化財 5 87 16 美術」(44年刊)の中で「隠岐の五輪塔について」という1項をあげて見解を述べておられる。これらをみておられる方は既に御承知のことであり、またそれ以降この方面の研究は深められていない。今ここで取り上げたのは最近の観光用パンフ 0 0 隠岐の文化財 5 87 22 にこの島前の「五輪塔群」の写真を掲げて「流人の墓」として説明がつけられておることである。渡しもそれは間違いであることを指摘して改めるようにいっているが一向に改める気配はない。隠岐の流人についてはさきに横山弥四郎氏の「隠岐の 0 0 隠岐の文化財 5 87 28 流人」があり、またふるさと文庫として近藤泰成氏編の「流人秘帖」があるが、近藤氏にして何かの感違いからと思うが「流人の墓」として「五輪塔群」(47ペ−ジ)の写真を出しておられる。大体この五輪塔は古いもので鎌倉期、新しいもので 0 0 隠岐の文化財 5 87 34 も室町期のものでそれ以降は徐々に現在のような石碑型になるのである。右のように一寸考えるとわかりそうな事だが隠岐の宣伝に流人を紹介するのはよろしいが、この時代には近世の如く多くのるにんのあった時代ではない。随ってあの如く多く 0 0 隠岐の文化財 5 87 39 の五輪塔が流人の墓として残っているわれはない。在地の豪族といわれる家の墓にも五輪塔は数基あるのみで、旧家の墓地にもあるところはすくない。この「五輪塔群」が誰の墓であるのか、今のところはっきりしない。しかし「流人墓」であると 0 0 隠岐の文化財 5 87 46 いうのは間違いである。流人墓ではっきりしえちるものは島内に数基あるが、いずれも石碑型のものばかりである。(松浦記)。 0 0 隠岐の文化財 5 88 1 島前の植物目録(5)羊歯植物。木村康信。丹後亜興。▽和名は「新日本植物誌シダ編」(中池敏之、至文堂)のものを使用した。▽筆者未確認の数他ねについて、南敦氏と佐野俊和氏の報告を引用させて頂いた。いずれも「日本シダの会会報」に 0 0 隠岐の文化財 5 88 8 よる。▽研究不足で確信の持てない種については、その旨を記した。原則として雑種は省略した。<ひかげのかずら科>トウゲシバ。ヒカゲノカズラ。<いわひば科>クラマゴケ(稀)西ノ島。美田地区で1ケ所、数個体を見たのみで、胞子のう穂 0 0 隠岐の文化財 5 88 17 は調べていない。イワヒバ(少)。○ヒメタチクラマゴケ、西ノ島(波止)南敦氏による。隠岐ではあまり聞ない暖地性のシダ。<とくさ科>スギナ。<はやすり科>フユノハナワラビ。オオハナワラビ(少)。ナツノハナワラビ(稀)西ノ島美田 0 0 隠岐の文化財 5 88 27 地区に数本生える場所がある。島後ではときどき見かけるが、群生することあはない。ヒロハハナヤスリ(少)。<ぜんまい科>ゼンマイ。<かにくさ科>カニクサ。<うらじろ科>コシダ。ウラジロ。<こけしのぶ科>コウヤコレソノブ(稀)西 0 0 隠岐の文化財 5 88 40 ノ島(大山)。アオホラゴケ(稀)西ノ島(美田)。ウチワゴケ(稀)西ノ島。ハイホラゴケ(稀)西ノ島(別府)ヒメハイホラゴケとの区別が微妙ですっきりしない。<わらび科>イヌシダ(少)島前三島でそれぞれ1ケ所、島後でも1回しか出 0 0 隠岐の文化財 5 88 48 っていない。奇妙に少ないシダである。フモトシダ(稀)海士(須賀)、西ノ島(美田)島後ではまだ見ていない。ホラシノブ。イワヒメワラビ。ワラビ。オオバノイノモトソウ。○マツザカシダ(稀)西ノ島耳裏のものは、はっきりとした斑が入 0 0 隠岐の文化財 5 88 58 焼火 る。隠岐はこのシダの北限自生地である。イノモトソウ、奇妙に人家の近くで見られるシダ。少ないけれど必ずある。オオバノハチジョウシダ(稀)焼火山大山側にごく小量ある。イワガネゼンマイ(稀)西ノ島のみ、それも絶滅寸前であるが、島 0 0 隠岐の文化財 5 88 66 焼火 後では前種同様普通である。イワガネソウ。タチシノブ。クジャクシダ(稀)高崎山系で見られる。海士にもわずかに残る。<きじのおしだ科>キジノオシダ(稀)焼火山系。オオキジノオ(稀)焼火山系。<おしだ科>イヌガンソク。イワデンダ 0 0 隠岐の文化財 5 89 9 (稀)高崎山系、隠岐では低山地にも見られ、垂直分布の幅が拾いシダのようである。ジュウモンジシダ。サカゲイノデ(稀)西ノ島。○ツヤナシイノデ、知夫。佐野俊和氏による。1株のみ。イノデ。アイアスカイノデ、稀ではない。オニヤブソ 0 0 隠岐の文化財 5 89 18 テツ。ミヤコヤブソテツ。ヤマヤブソテツ、ヤブソテツ、ミヤコ、ヤマ、三者の境界が筆者らには不明瞭で、更に数多く調査したい。○コバノカナワラビ(稀)西ノ島と海士の一部にある。群馬県が北限の自生地とされるが隠岐もそれに近い。島後 0 0 隠岐の文化財 5 89 27 焼火 では知られていない。ホソバカナワラビ。リョウメンシダ。○イワヘゴ、知夫(仁夫里)佐野俊和氏による。隠岐では初めての記録と思われる。オシダ(稀)焼火山系。オクマワラビ。クマワラビ。ミヤマイタチシダ。オオイタチシダ。ヤマイタチ 0 0 隠岐の文化財 5 89 38 シダ。○ヒメイタチシダ、知夫。佐野俊和氏による。日本海側では少なく、貴重な報告である。トウゴクシダ、典型的な形の良いものは島後では少ない。ベニシダ、西ノ島耳浦には、ごくメメ性の1群があって面白い。オオベニシダ。ゲジゲジシダ。 0 0 隠岐の文化財 5 89 48 ハシゴシダ(稀)。コハシゴシダ、ハシゴシダは稀であるが本種は普通に見られる。ヒメワラビ。ミゾシダ。ホシダ。ヤマイヌワラビ、イヌワラビ様の巨大なものが本種と思われる。イヌワラビ、典型的な形をしたものは知夫で多く見かけた。カラ 0 0 隠岐の文化財 5 89 58 クサイヌワラビ、知夫、佐野俊和氏による。ヒロハイヌワラビ、知夫(薄毛)佐野俊和氏による。サキモリイヌワラビ(稀)海士、島後には多い。カラクサ或いはヒロハと思えるものを、金光寺山で1株見たことがある。○ホソバイヌワラビ、知夫 0 0 隠岐の文化財 5 90 3 (仁夫里)佐野俊和氏による。隠岐ではあまり知られていないシダで、島前にあるとは驚きである。以前筆者は大満寺山で採集しているが、現在その場所には見当らない。シケシダ。ナチシケシダ、西ノ島。南敦氏による。筆者の知らないシダであ 0 0 隠岐の文化財 5 90 11 焼火 る。シケシダと混合しているのかも知れない。ホソバシケシダ、数年前、焼火神社参道で見ただけである。島後では時々見かける。シケシダの中に1見本種のような形をしたものもある。ミヤマシケシダ(稀)高崎山。オオヒメワラビ(稀)西ノ島 0 0 隠岐の文化財 5 90 19 大山の奥に立派な群生がある。島後では大満寺山で数株見たのみ。ヘラシダ(少)能登半島が北限のようであるが、隠岐の緯度では珍しいものの一つである。ノコギリシダ(稀)ヘラシダと似たような分布の暖地のシダ。海士町須賀に見事な群落が 0 0 隠岐の文化財 5 90 27 ある。島後では聞いていない。<ししがしら科>シシガシラ。コモチシダ(稀)海士ではあちこちで見かけるが、他では見たことがない。どういう理由か分らない。<ちゃせんしだ科>チャセンシダ。トラノオシダ。コタニワタリ。<うらぼし科> 0 0 隠岐の文化財 5 90 39 ○オオエゾデンダ、隠岐を代表するシダである。日本では極めて珍しいもので、北海道、青森、鳥取の一部、隠岐という異常な分布をする。氷河時代の残存植物である。西ノ島には特に豊富で、このシダの研究者が幾度か訪れている。○タクヒデン 0 0 隠岐の文化財 5 90 66 ダ、オオエゾンダとオシャグジデンダの雑種である。片親のオシャグデンダは、現在島前から絶えてしまっているが、古い時代にできたものなのであろう。他の地域から報告がないのは、両種の胞子の熟期や生育環境が異なり、雑種ができにくい所 0 0 隠岐の文化財 5 90 73 焼火 以と思われる。ノキシノブ。マメヅタ。クリハラン(少)焼火山系。○ヤノネシダ(稀)隠岐が日本の北限自生地である。焼火山南麓の一部にしかなく、絶滅が心配される。ビロ−ドシダ(稀)西ノ島、知夫日本での分布を見ると、日本海側低山地 0 0 隠岐の文化財 5 91 9 では珍しい。○ヒトツバ(稀)海士、崎と北分に大きな群落があるが、隠岐の他地域からの報告はない。ヒトツバの自生地としては隠岐は北限に近い。○ヌカボシクリハラン(稀)焼火山系。現在のところ生育状況は良好である。暖地のシダで、本 0 0 隠岐の文化財 5 91 16 州では山口県、紀伊半島、伊豆半島等、太平洋岸の一部に産するのみである。西ノ島がとびぬけた北の自生地で、筆者の一人木村康信により発見された。ミツデウラボシ。<さんしょうも科>オオアカウキクサ。補遺。(2)合弁花草本。<あかね 0 0 隠岐の文化財 5 91 27 科>ヨツバムグラ、海士。(3)離弁花草本。<すみれ科>ノジスミレ(少)。(4)単子葉類。<いね科>ヤマアワ(稀)西ノ島(大山)なお補遺で椎かした<しそ科>のフトボナギナタコウジュは、誤認であったので削除する。付記。当初予告 0 0 隠岐の文化財 5 92 5 した「蘇苔類」については、調査が不充分であるので他日を期したい。蘇此類や地衣類は研究者も少なく、フロラの解明が遅れている分野である。隠岐の調査など皆無に近い。この分野を研究する同志の出現を望む。 0 0 隠岐の文化財 5 92 11 北前船。オキノアザミ、誕生。昭和61年5月18日にオキノアザミが命名されました。名付親は村田源、小山博滋の両氏で学会の野外研究会が島後で行われ、御一行は31名で研修観察中五箇村黒瀧岩の海岸をまわり、深浦の瀧あたりで発見され 1986 518 昭和61年 隠岐の文化財 丙寅 5 92 18 たものであす。会報の記事を見ますと「道端に葉が濃緑色で光沢があり、裂片は鋭い刺針があって上下に屈曲し、頭花はやや散房状に集合する傾向があって総苞片には鋭い刺針のあるアザミが花ざかりである。四国の高山に知られているトケアザミ 0 0 隠岐の文化財 5 92 24 に比べると全体強壮で、くも毛が少ない。Cirsiumjaponicumの新変種と認めて、オキノアザミと命名する」とあります。この名は隠岐野薊の意味で、隠岐のどこにもある野薊ですが、島外にある野薊に比べると説明にあるように、 0 0 隠岐の文化財 5 92 29 茎も葉もがっしりとしていて目立つは鋭い刺、艶があって濃緑の葉とよく映える紅紫色の花は独特の風情があります。ちょうどこの頃咲き誇るオキタンポポとは好一対で、未だ隠岐の環境の健全さを示す指標になる植物ですから、いついつまでも御 0 0 隠岐の文化財 5 92 35 愛顧をお願いいたします。(木村康信記) 0 0 隠岐の文化財 9 72 35 観光・交通 ・・当時瀬戸内海の汽船は客室の簡素化を企て、並等、特等の二階級としたものが多かったのであるが、吾が隠岐国は名所旧跡多く貴顕紳士、資本家、観光団等歓迎のためには壱等室、貴賓室、喫烟室等の施設の必要ありと考えたので、船体は関釜連絡船型を縮小した 1927 500 昭和2年 隠岐の文化財 丁卯 9 72 41 観光・交通 ものとし、機械は客室の容積を広くする必要上デ−ゼルエンジンを希望したが、三菱では千屯以上の大型船にはタ−ビン又はデ−ゼルエンジンの船はあるが小型船では現在大阪商船会社にデ−ゼル船三隻あるのみでそれも成績は香ばしくない、殊に機関士も稀であるか 1927 500 昭和2年 隠岐の文化財 丁卯 9 72 47 観光・交通 ら故障の場合等田舎では修理も困難であろうから在来の蒸気機関の船が良いという話であった。・・ 1927 500 昭和2年 隠岐の文化財 丁卯 9 73 24 観光・交通 ・・八月一日には此の隠岐航路の画期的新造船は其の雄姿を西郷湾頭に浮かべ、三星章も一層鮮やかに見えたのであった。(三星章は隠岐国の三つ子島を意味すると同時に松浦家の紋章を形どったものである)。着港直ちに祝賀会を催し、二日島後廻島、三日島前各寄 1928 801 昭和3年 隠岐の文化財 戊辰 9 73 30 観光・交通 港地を経て境港着、四日美保関を経て安来港に至り、島根鳥取両県の官庁関係者及有志者を招待して祝賀の宴を催し、五日の処女航海には大阪毎日新聞社主催の観光団客を満載して西郷港に帰港する等其の盛況は筆舌に尽くしがたく隠岐島民の歓呼と当事者の喜悦は正 1928 801 昭和3年 隠岐の文化財 戊辰 9 73 36 観光・交通 に絶頂に達した観があった。前述の如く此の造船関係者は何れも著名なる斯界の権威者揃いなりしため「おき丸」は今尚優良船として斯界の高評を博しているのである。・・ 1928 801 昭和3年 隠岐の文化財 戊辰 1 1 1 発刊の辞。安藤剛。「都会にあこがれて」といふやうな軽い心持ちで、故郷を飛び出すやうなものは今時あらふはづはない。皆最も真剣な出稼での意味であらふ。土地の産業の盛衰に関するだけ、活動力の大部が他に移動することを思ふ時、村として 0 0 くろぎ 1 1 6 ここに考慮するは当然の事である。若しそれ雨につけ風につけ故郷にために異郷に奮闘している子等を思ふ父老の愛情や友を偲ふ友情等に至り、更に切なるものあるは申すまでもないことである。昭和三年村は出稼者のために若干の経費を予算に計上 1928 0 昭和3年 くろぎ 戊辰 1 2 2 していたが、種々の都合で何等実施を見ず昨四年度に於てはその第一着手として相互のれんらくを図るために小冊子を発行することになっていた。出稼者対策を講ずべき事は私共のかねて高唱していたところ、偶々私は昭和四年九月末村長に就任する 0 0 くろぎ 1 2 6 ことになったので、何は置いても、これは早くせねばならぬと考へて資料を蒐め発刊をいそいだのだが、何分繁忙な村吏員の手でははかどりかねて気をもんでいる時、村青年団は大会に置いて団報告発行の決議あり、実行委員は種々熟議の結果目的に 0 0 くろぎ 1 2 6 於て何等異なる点はないのだから、青年団は編輯委員を選任し村の事業を分担する意味で其の任にあたつてくれることになつた。此の点特に村青年団に対し敬意を表する。村は唯この冊子発刊の一事を以て、足れりとするものではないが、これ等によ 0 0 くろぎ 1 3 4 り、互に連絡をとり内外相呼応し、一致協力村の親展を図らんことを祈るものである。希くば先輩諸賢は幸に吾人の意を諒せられ、後進を指導誘掖以てこの目的を達成に応援せられんことを。 0 0 くろぎ 1 4 1 就任の挨拶。安藤剛。私は不適任であることを自覚しながら、切なる勧告を強いて辞しかねて昨年九月末村長に就任しました。ついては早速御挨拶申上げ将来の御援助を御願ひしたいのでした。けれども萬事意に任せざるを遺憾としていました。甚だ 0 0 くろぎ 1 4 6 失礼ながら此の紙上にて挨拶させて頂きます。どうぞ、将来一層御愛顧下さいまして御援助下され職責を完了させて頂きますやう特に御願致します。時恰も春寒料峭の候各位愈々御自愛自重、故国のために益々御奮励あらんことを祈ります。昭和五年三月八日。 0 0 くろぎ 1 5 1 希望。福真助役。島に住む人は郷土に執着する念が強いと他国人が批評する。或は然らん、否なさうらしく思はれる之れは都会人から見たらおかしく思ふであらうし且亦こちらでも兎角自ら卑下する傾きがありはせぬかさりとては笑止の沙汰である。 0 0 くろぎ 1 5 7 何も都会人ばかりが必ず偉くなる訳もなく、又土地にしても何れが勝つて居るかと言へば、風光其他天恵に富むを却て優るやの感があるであらふと云ふと「御国自慢に聞へるが彼の「わしが国さで見せたいものは」と謡ふ自負心は何とはなく発展の底ロ 0 0 くろぎ 1 5 10 力が含まれて居るやうに感ずる何処いづくでも、里心に変りはあるまいが、島の人が人一倍に郷土心が強いと云ふのは、夫れは土地が孤立して其中に住む人は恰も一家族の状態であるから、そこに都会人の味ふをの出来ぬ温情がある。如斯平和な世界 0 0 くろぎ 1 5 15 は他に求め難いから其故郷に憧れる事は当然の事であらふ。そして此の愛着心こそ実に大切だと思ふ。これは永久に没却してはならぬ。仮令現今の如く沢山な人達が他国へ出て活動されても郷土を思ふ念が確かりと足だまりをきめて居れば、其の上で 0 0 くろぎ 1 5 20 村の産業なども自ら別な型体によつて対策を建て手をつないで発達せしめ得ると思ふから今日農本意の我村が労力減退で、差当り困惑はして居るが、幸ひ出稼諸士の奮闘によって土着稼業に倍加さる収益を納むるをによつて、其の欠陥を補ふ意気込で 0 0 くろぎ 1 5 25 内外呼応して進んで行ったならば、各戸は漸次富を増し随つて一村を優良ならしめ得るをと信じます。そこになるとどううしてもお互いに連絡をとつて進むをが必要である。本誌を発刊する蓋し此の趣旨に外ならずである。此の際具体的に言及したい 0 0 くろぎ 1 5 30 事は沢山ありますがそれは後日にゆづり茲に諸君の御健康を祈る次第であります。 0 0 くろぎ 1 6 1 発刊に際して。小林勝太郎。我等の愛誌「くろぎ」号の誕生!それは何といふ嬉しい音律を我等の棟に伝えることでせう。天資に恵まれざる絶海の孤島に生まれ、大なる希望と覚悟を以て故郷を出でし人々の雨につけ風につけ一日として忘れる事なき 0 0 くろぎ 1 6 7 は故郷の風物でせう、別れ来し父母兄弟友人の事でせう。そして何よりの慰安になるものは故郷よりの便りでありませう。郷土にある者の心も亦他出者を憶ふ情にかはりなく静寂なるあれくれにみなさんの成功と健康を祈らぬ日とてなく待たるるもの 0 0 くろぎ 1 6 12 は亦郵便さんの姿でありませう。かうした個々の愛情は黒木といふ大きな団楽の中に満ち満ちて昔から平和を誇りとされてをります。それでこの一家であり父母の懐とも做な可き村の人々が他出者を思ふ余り、多年御努力の上もくろみられたのが郷土 0 0 くろぎ 1 6 17 通信の発刊であります。他出者の皆さんがかうした物を要望する事のより以上切なるものである事は去る二月九日の村青年大会に於て、別にかうした案の議事として表はれるや、久ぶりに故郷に帰り此の会に列席した喜びに打たれ敬虔なる心持で沈黙 0 0 くろぎ 1 6 22 続けていた私の口を自ら開かせ、熱情を在の諸兄に燃へさせたのであります。此の霊感とも云ふべきものによって、私の口よりほとばしり出たるみなさんの熱情は、在郷青年諸兄の熱情と相合し、満場一致実に涙ぐましい情景の下に可決されたもので 0 0 くろぎ 1 6 27 あります。その後実行委員の手により、かねて計画中の村当局と折衝して村青年団員の手により茲に最も意義深き名「くろぎ」と命名して初号発刊の生声を挙げたる事をみなさんと共に欣ぶものであります。併し我々はただ之を喜びおくのでなくかく 0 0 くろぎ 1 6 32 して生れ出た我等の愛児を、将来に立派に育てねばならない重い責任をもたねはなりません。之は必ずや皆さんの熱情によつてなしとげられる事と思ひます。かくの如く此の誌は実際に於て私等の誌である故郷在外物をとはず、何事でも思ふ事を遠慮 0 0 くろぎ 1 6 37 なくのべられ、之により一層親睦をはかり共に手を連れて、難局と称えられる現社会に進まうではありませんか。発刊の声の嬉しさに禿筆を呵して、茲に平和なる地に育まれたる我が「くろぎ」の先途を祝して併せて皆さんの御健闘を祈って擱筆致し 0 0 くろぎ 1 7 3 ます。出立の日郷土にて(昭和5、2、19) 0 0 くろぎ 1 7 6 青年会婦人会。黒木村青年団沿革。明治45年2月各部落設置ノ青年会ヲ統一シ黒木村青年会ヲ組織シツイデ大正10年1月黒木村青年団ト改称シ各部落ニ分団ヲ置キ今日ニ至ル。黒木村婦人会沿革。明治44年1月黒木村学事会ニ於テ、各部落ニ婦 1912 200 大正元年 くろぎ 壬子 1 7 13 人会ヲ設クルコトヲ議決シ、準則ヲ発スツイデ、大正4年11月16日各部落ニ婦人会ヲ統一シテ黒木村婦人会ヲ創立シ、各部落ニ支会ヲ置キ以テ、今日ニ至ル。大正11年11月10日島根県隠岐教育会展覧会ニ於テ施設優秀ノ故ヲ以テ壱等賞金拾 1915 1116 大正4年 くろぎ 乙卯 1 7 18 円ヲ受ク。大正12年2月11日会員共同一致ヨク修養ニ務メ其成績見ルベキモノアル故ヲ以テ金弐拾円ヲ受ク。 0 0 くろぎ 1 7 21 青年団便り。塚本岩夫。昭和4年2月本青年団大会に於て、団長木村勘市氏、副団長浜根渡氏満期退任につき改選の結果図らずも、私が団長に、森下安則氏が副団長に当選致し不肖の身を以て浅学韮才も憚らず就任する事に相成りましたにつき劈頭謹 0 0 くろぎ 1 7 27 みて御挨拶申上げます。曩に当青年団に於きましても近時出郷者が青年団員である事に鑑み、これとの連絡の必要を痛感し、是が実行方法に付凝議した事もありましたが、種々の事情に沮まれて、其の緒につくに至らず僅か船越分団に於て手を染めた 0 0 くろぎ 1 8 3 けれども、之とて永続せず常に脾肉の歎を発して居た折柄、村の事業として諸君等出郷者との連絡機関が完成される事に就いては、私にとりて禁ず能はざる喜であると共にお互の為満腔の祝意を表するものであります。本村青年団の沿革は古く明治4 0 0 くろぎ 1 8 8 5年2月各部落に設置されて居た青年会を統一して、黒木村青年会を組織し、次いで大正10年1月黒木村青年団と改称して各部落に分団を置き今日に至つたものであります。団則第1条には本青年団は団員協同一致健全なる国民善良なる公民たるの 1921 100 大正10年 くろぎ 辛酉 1 8 13 修養をなすを以て目的とする旨昭示し、本団存立の意義を明瞭にしてあります。そして其のもくてきに沿ふ為に種々の方法を講じて各自が努めて居りますが、伝統的精神とも云ふべき穏健着実の美風は如何なる場合にも矯激華美に趨る事なく、常に理 0 0 くろぎ 1 8 18 想に向つて健実なる歩みを続けつつあります。顧問に村長を、相談役に村内三学校長を推し、常務幹事は助役福真岩之助氏が十年一日の如く熱心に盡瘁され共に懇切なる御指導を仰いで居ります。而して団務を分担して努力せらるる各分団長の氏名は 0 0 くろぎ 1 8 23 次の通りであります。船越分団長板橋亜夫君、小向分団長油井増市君、大津分団長橋本高市君、波止分団長淀川長太郎君、大山分団長浜根渡君、美田尻分団長八幡忍君、別府分団長近藤博君、物井分団長小沢菊次郎君、倉ノ谷分団長新谷義光君、宇賀 0 0 くろぎ 1 8 33 分団長下問熊一君。年一会の大会は主として旧正月前後に行はれます。本年は2月17日に別府校に於て開催されました。溌剌たる元気と若人の誇りを面上に湛へた団員が全部集合して、名士の閤演に各自の演説討論に又福引浪花節其の他の娯楽に依 0 0 くろぎ 1 8 38 つて修養に心掛けると共に意思の疎通を図る等最も意義のあるものでありまして諸君にして万一帰郷の自由を有せらるる人若しくは何等がの機会に帰省せられる人は時期を繰合せて、本大会に参列される様切望致します。陽春の候も去り初夏に入ると 0 0 くろぎ 1 9 3 、行啓記念体育会があります。我々は黒木御所に参拝する毎に、今を去る6百年元弘の昔を偲ばずには居られません。往古を顧みて恨みは尽ず、轉々感慨無量なるものがあります。黒木山上不断の松籟はそも何かを語るでせう。黒木御所は本村の中心 0 0 くろぎ 1 9 8 にして他郷にある諸君に尚戀々の思あらしむる処、松の緑は弥濃く其の下の広場で生気溢るる青年が勇躍するのであいます。今年は6月4日は一同黒木村に参拝して体育会は中止し7月7日(雨天の為9日)に挙行しました。浦郷村の参加なきは聊か 0 0 くろぎ 1 9 13 淋しい感がないではなかつたが青年の意気は天に冲し折からの、雨にもめげず大接戦を演じて栄光の一日を些の紛争もなく無事終了しました。結果は才之神以東の勝利に帰し、二千米個人優勝の分は船越分団川端広作君が優勝致しました。越えて88 0 0 くろぎ 1 9 19 22日には初めての試である。弁論大会を美田校講堂で開催し、各出演者の熱弁に満堂を唸らせて近来にない盛会でした。審査の結果メタル受領者は左の諸君であります。小向分団服部治作、大山分団浜中龍麿、柳谷宗一、別府分団中山筆保、物井分 0 0 くろぎ 1 9 32 あり、次代の担当者であります。されば我黒木村の将来如何はかかつて我々の双肩にあると云はねばなりません。然るに其の中大部分は諸君等出郷者であります故に諸君に対する郷党の期待は甚だ大なるものがある事を忘れないで、常に自重愛して下 0 0 くろぎ 1 9 37 さい。不日諸君が錦衣帰郷の際には無情の木石すらも喜び迎へる事でせう。况んや私等に於てをや。終わりに望み諸君の御健康をお祈り致します。 0 0 くろぎ 1 10 1 村青年団総会状況。開会、旧正月9日午前10時30分より宇賀校にて君が代合唱、勅語捧読、団長訓示、団務報告。分団状況報告本年中止の動議成立意議なく可決す。来賓講演。出稼に就て、美田校松本校長。感謝せよ、所讃寺山阪寛静氏、議論時 0 0 くろぎ 1 10 8 代と実行時代、新谷先生、青年訓練に就て、農会服部技術員。等有益なる御講演ありて、団員一同に感激を与へた。タイム既に0時30分昼食再開、午後1時次いで団員意見発表に移る。プログラム左の如し。一、所感、物井分団中谷伊太郎。一、人 0 0 くろぎ 1 10 15 格、船越分団小松国市。一、所感、物井分団正木重由。一、節約時代、宇賀分団、永海政雄。一、竿頭一歩の努力、小向分団奥田武吉。一、所感、倉ノ谷分団新谷義光。一、地蔵様かかへ、小向分団山尾敬市。一、太平洋上日本の優越感、物井分団安 0 0 くろぎ 1 10 21 田貞信。何れも若人の舌端よりほとばしる雄叫びに血をわかし拍手喝采のどよめき終らぬ中に議事に進む。議題一、議事法制定の件(近藤博君提案説明)議題二、団則改正の件(淀川長太郎君説明)議題三、団歌制定の件(近藤博君説明)議題四、雑 0 0 くろぎ 1 10 27 誌発行の件(淀川長太郎君提出説明)近藤房吉より団長に対し青年団将来の事に関し質問あり尚中山筆保君の提出による(出稼すべきや否やの問題)を討論せしも、題目漠然たる為め討論とならず終る。最後に余興として宇賀高等児童劇大高源吾同青 0 0 くろぎ 1 10 32 年の模擬裁判ありて盛会裡に6時間閉会した。(終り) 0 0 くろぎ 1 11 1 黒木村婦人大会状況。(昭和5年2月8日)会場、宇賀尋常高等小学校。午前10時半開会時刻までは満場花をもってかざられた如き会場に百六十名の会員が見えていた。先づ宇野常務幹事代理の開会の挨拶によって幕は切りおとされた。君が代、勅 0 0 くろぎ 1 11 7 語捧読、終つて尾関会長の会員に対しての訓辞、それから会務報告といふ順席で、プログラムは進んだ。山坂氏、新谷氏、服部氏、永海氏、田村氏、近藤氏、長府氏の講演があった。会員は感激そのものの様にして聞いていられた。余興には別府校の 0 0 くろぎ 1 11 13 勧進帳の劇、宇賀校の桜井の駅、リヤ王天のはごろもの劇に会員の福引があった。有益に楽しい一日を送った会員の方々は尾関会長の閉会の挨拶と共に名残惜しげに会場を去られた。そしてかくささやきながら「我々の会のために、村のために、大き 0 0 くろぎ 1 11 18 く国のために努力しなければならない」と、、、会長、尾関貞。各支会長、船越、森下安則。小向、佐々木武雄。大津、船見甚太郎。波止、日向偉志雄。大山、浜根渡。美田尻、田村清一。別府、倉並キク。物井、佐渡新太郎。倉の谷、近藤博。宇賀 0 0 くろぎ 1 11 31 、宇野俊三郎。 0 0 くろぎ 1 11 32 美田尋常高等小学校便り。「ボ−ッ」と威勢よく汽笛をあげて浦郷港に進み行く船の甲板から先づ目を引くものは、狭い瀬戸口の奥鏡のやうに静かに遠く広がっている水をへだてて緑濃い老松の立ち並ぶ鎮守の森の麓灰白色に彩られた二階三十間の建 0 0 くろぎ 1 12 1 物に左につづいて十三間の一棟が静かな水面に陰をひたしている姿である。これが教育第一をモット−として来た我村が数万の経費を投じて建日た村人たちの誇りである。なつかしの我が学校でる。 0 0 くろぎ 1 13 2 児童。第2学級、第2学年、男12、女17、計29 0 0 くろぎ 1 13 3 児童。第3学級、第3学年、男21、女12、計33 0 0 くろぎ 1 13 4 児童。第4学級、第4学年、男16、女12、計28 0 0 くろぎ 1 13 5 児童。第5学級、第5学年、男18、女23、計41 0 0 くろぎ 1 13 6 児童。第6学級、第6学年、男26、女22、計48 0 0 くろぎ 1 13 7 児童。第7学級、高第1学年、男15、女11、計26 0 0 くろぎ 1 13 9 波止分教場、尋一年より四年まで、計25、合計286 0 0 くろぎ 1 13 11 児童は気風もよくなり態度も真摯になつて来た。此の上はその創造力を助長せしめんがために、特に算術、理科、手工、図画等に力を注ぎ実験実則は殊に大切であるので之れが設備の完成を期している。女児のためには特に補習学校と共同して裁縫家 0 0 くろぎ 1 13 15 事の設備を完成し、裁縫室、家事実習室を整備しこれが実習につとめている。女児の性格に合っているのか喜々として働いている。児童の向学心も相当盛んである。しかし女児は男児に比してやや劣っている。女子教育の向上は、今更呶々を要しない 0 0 くろぎ 1 13 21 が漸次家庭の自覚によって入学率の上つてゆくをはよろこばしい現象である。三年度尋常科卒業生中男児は一名を除いて全部女児は十九名中十一名高等科に入学した。 0 0 くろぎ 1 13 25 学校記事。篤学真摯で学校の内外から慕はれていた渡部喜代一先生は四月本郷小学校へ轉任された。先生の生まれ故郷であるので、継ごうがよろしいでせう後任は木下一夫先生です数学が得意で、六ケ敷いものを勉強しておられる。六月二十三日に海 0 0 くろぎ 1 13 31 士村菱浦グランドで島前庭球大会があつた。本校からも選手を出したが遺憾ながら惜敗した。しかし全校に漲る庭球熱は非常なものだ。遠からず桂冠を得る期も来るだらう。七月十三日県の家事視学員草光先生が来校されて島前の家事科研究会があつ 0 0 くろぎ 1 14 5 た。石倉先生の指導で高等科二年と補習科女児の料理の実習をなし終了後来会者に試食して頂いた。松本校長は県の命令で十月二十日から二週間の予定で静岡、東京、長野、石川、各府県の学事視察に出られた。 0 0 くろぎ 1 14 11 暦代校長。学校長として直接学校の施設経営の任に当り今日の隆盛に導かれた方は、初代、伊藤勇氏、在職5年6ケ月退職死亡。2代、岩佐剛氏、在職25年5ケ月。明治33年師範学校卒業以来大正14年8月退職されるまで25年5ケ月間終始一 0 0 くろぎ 1 14 17 貫本校で教育に従事されその半生を本校否本村教育のために尽くされた。9月本村長に就職されてこれから又本村政のために尽くして頂くことになつた。3代、斎藤亀雄氏、在職3ケ年、現在五ケ村小学校長。4代、松本和雄氏、現在。 0 0 くろぎ 1 14 25 本校卒業記念事業。新校舎の改築と関連して生れ出たのは本校卒業生記念事業である。これは本校の歴史に永久に特筆大書すべきものである。詳細は近く記念事業団の方から報告することになつているから茲にはその概要を記して卒業生諸兄姉に満腔 0 0 くろぎ 1 14 30 の感謝の意を表したい。大正10年初秋母校の改築にあたつて謝恩記念として校地拡張の目的を以て広く出身者諸兄姉の賛同を求め募金を募った。爾来9ケ年その間管理者安藤剛氏の徳望と熱誠なる尽力と実行委員諸氏の不断の努力により、期せずし 0 0 くろぎ 1 14 35 て母校愛に燃ゆる諸兄姉の尊きしかも美しき募金は西から脾餓死から年一年と集り来つて驚くべし総額金1577円50銭也これが人員424名に達した。その後利倍増殖の方法を取つて本年2月1日現在で金2477円88銭也となつた。ここに当 0 0 くろぎ 1 14 40 初の目的を達すべき機会が来た。昨年11月委員会の決議によつて校地に接続せる上脇屋敷155坪余を坪当り金7円60銭也で購入することになつた。土地管理者塚本委したろう氏の特別なる好意によつて事の容易に運んだこと感謝して止まない。 0 0 くろぎ 1 15 6 これを従来の運動場450坪に加へると約600坪で児童一人当り約2坪となりよほどゆつくりすることにあるので、将来は運動場に当てるのであるが本年は工事費其他種々の都合で此を開墾して実習地につることにした。人夫を傭つたが工費を少く 0 0 くろぎ 1 15 10 するために職員児童総掛で助成したので立派なものになつた。今は広い畠に宮重大根と津田蕪が一面に青々となしている、児童は実習地が広くなったとよろこびながら、毎日畠で働いている残金1240余円は更に利倍増殖して第2期拡張に充てやう 0 0 くろぎ 1 15 15 としている。しかし一面には之れを村に寄付して村の力によつて一気に所期の目的を達してはとの議もあるが、さりながら本記念事業は永遠に存続して卒業生との連絡を計るため、幾許かの資金を残し置きたいとの話もある。何としても皆卒業生諸兄 0 0 くろぎ 1 15 21 姉の尊き賜のいたすところで、本校に職を奉ずる職員一同の感謝措く能はざる所で、かかる学校に学ぶ児童の幸福はいふまでもないことである。茲につつしんで感謝の意を表すると共に諸兄姉が益々健勝にして一家の為に又我が愛する郷土のためにも 0 0 くろぎ 1 15 26 愈々御奮闘あらんことを祈って筆を擱く。 0 0 くろぎ 1 15 28 黒木村実業補習学校便り。本村は戸数800人口3800本島では比較的大村であり、全村農を以て生計を立つるといつてもよい。そんな関係で従来補習教育として季節的ξものがあつたが、あまり実績があがらなかった。殊に従来本村小学校卒業児 0 0 くろぎ 1 15 33 童中上級学校への入学者は他町村に比して少い傾向がある。これには種々の原因もあらうが、人物養成上甚だ遺憾であるとの感を懐くものが漸次多くなつて来た。大体に本村小学校卒業児童の大部分は直ちに京阪神及関門方面に職を求め独立を以て身 0 0 くろぎ 1 16 2 を立てんとするのである。これ等児童に小学校教育以上に将来実業に従事するに起いての智識技能をより多く得させやうとして生れ出たのが黒木村実業補習学校である。本校は昭和2年4月の開校で美田小学校に附設してある。人学資格は高等2学年 1927 400 昭和2年 くろぎ 丁卯 1 16 7 卒業程度で常設のものである。学科は高等3年程度で英語代数幾何の初歩を加へ実業科目は農業科で専任教員を置きこれが指導に当らしめ、実習智は従来の100坪に別記の記念事業費で購入した土地150坪を開墾して、これにあててある。女子の 0 0 くろぎ 1 16 12 ためには特に実際的方面に力を注ぎ家事実習用具を整備し、裁縫にはミシン一台を購入した。生徒は真面目で本春卒業生は特に成績良好であつた一般父兄の理解によりて年々生徒数の増加して行くことは本村教育上慶賀すべきことである。 0 0 くろぎ 1 17 1 別府村尋常高等小学校。明治24年7月別府尋常小学校が乾燥場の所に創設されてから、田原が丘のこの校舎に新築された今日になるまで約40年その間、色々と変遷して来たがその間卒業生を出すを尋常科、男593、女338、計931。高等科 1891 700 明治24年 くろぎ 辛卯 1 17 7 男235、女84、計319。その中で上級学校に入学した者卒業したものは、卒業者、男36、女23、計59。現在在学者、男8、女8、計16。先生方も沢山かはられたが校長先生として直接?校の経営に尽くされた方は1福原善之助氏(9年 0 0 くろぎ 1 17 13 間)病気退職、死亡。2山本忍氏(3年間)退職後本村収入役就職、死亡。3中山義範氏(2年間)現在西郷小学校に勤務。4山本徹氏(3年間)本校から浦郷、中條等に奉職して居られたが現今九州戸畑に商業に従事して盛にやつて居られるそうで 0 0 くろぎ 1 17 21 す。5木村良市氏(2年間)現在では農業経営に熱心で又村会議員として、村政に尽くしておられる。6岩佐義男氏(16年間)今大阪市の小学校に奉職。7尾関貞次氏(現在)大正15年就職。その他の先生で永らく勤められた方は1新谷市若先生 0 0 くろぎ 1 17 29 、前後17ケ年其後宇賀校校長に約10年美田校に約4ケ年間、30数年間本村の学校教育社会教育に尽されて大なる功績を挙げられたが、昭和2年秋退職、今物井に安穏なる生活をして居られる。2柘メメ儀先生、14ケ年間大正12年島根県米子市 0 0 くろぎ 1 17 35 明道小学校に轉任、今至極壮健に務めて居られる。現在児童は尋常133、高等42、計175。先生は高村ヒロ先生、昭和4年4月赴任尋1、2年担任。宮部周蔵先生、大正15年赴任、尋5、6年担任。田村清市先生、昭和4年4月赴任、尋3、 0 0 くろぎ 1 18 6 4年担任。尾関貞次先生、高等担任。中山筆保先生、昭和2年赴任、高等科増置(宇賀校兼務)以上の様に現在では170余人の児童と5人の先生とが元気に愉快に学業に努め、成績の向上に励んでいる。玄関入口に新しく揚げらあれた我が黒木村大 0 0 くろぎ 1 18 14 山が産んだ名僧天野快道師の肖像並に筆跡を努力の目標にして!体育については宮部先生が特に熱心に指導して下され児童も至極まじめにやるので、非常に進歩して来た庭球、ピンポン、ドッヂ、野球、何んでもやるが今盛んに練習しているのは「バ 0 0 くろぎ 1 18 19 レ−」「バスケット」で大分上達して来たけれども、他校にまで練習している所がないので腕試をやる機会がないのが遺憾である。6月4日と7月7日は黒木村民の忘れてはならぬ大切な記念日であるが、卒業生諸君は又特に忘れ難い思ひ出深い日だ 0 0 くろぎ 1 18 25 らうと思ふ。本年は6月4日の体育会には「普通競技」と「続走」と優勝旗を2本付けたが格段の差を以て本校の得る所となつた。10月20日は西郷の女学校で尋常科女児の体育会が催されたが丁度日曜だつたので参加した。参加校は少なかったが 0 0 くろぎ 1 18 30 選手の努力によつて幸に優勝し、第1回の「優勝杯」を獲得して帰つた。大正4年の御大典を記念して「児童文庫」を設けております。これは児童の少額の醵金と卒業生諸君の書籍絵画等の寄贈によつて経営して居ります。そして卒業生諸君からぼつ 0 0 くろぎ 1 18 35 ぼつこれらの寄贈がありますで児童も職員も感謝いたして居ますが、この上共多数諸君が母校の為に諸君の後輩である本校児童指導の意味に於て諸君が読み古しの書籍、雑誌或は絵葉書絵画の如き又はその地方に於ける珍らしき産物等の御寄贈又はそ 0 0 くろぎ 1 18 40 の地方或は旅行先の事情等の御通信下さる様此際特に御願ひいたします。折角諸君の御健闘と御成功を祈って擱筆します。 0 0 くろぎ 1 19 3 宇賀尋常高等小学校便り。加藤生。▽或日。中秋半も過ぎて今日は10月25日。朝からドンヨリ曇つて降るみ降らずみの天気模様、風が吹く度に校庭の桜の葉が舞ひ落ちて落葉の瀬をなしている。流石に3本の大ポプラは青々として天空にメメえてい 0 0 くろぎ 1 19 11 る午後の授業が始まる少し前であっちが突然「軍艦が来た」と2、3の子供が叫んだと思ふと、校庭にいた子供は全部土手に集つた。「また来た」やあやあ両手をあげる者、大きな声でよろこぶ者、笑ふ者、いやはやにぎやかなこと。「また1艘」「 0 0 くろぎ 1 19 16 又1艘」と7艘も別府湾へはいつて来たと子供いつていた。驅メメ鑑であつたらう。しばらくすると又「飛行機だ」と一斉に叫ぶ。先生達も庭へ出てみる2台、凄まじい勢で飛んでいるこどもはもうのぼせてしまつて窓から見るもの、入口からとんで出 0 0 くろぎ 1 19 21 る者、海に陸に、にはかに此の地が重要の地であるかの様に思はれた。今明日中此の隠岐付近で海陸連合の大演習が行はれるのであつた。夕方に巡洋鑑戦艦とおぼしくて3、4艘はいつて来た日は暮れて海は真黒になつた。然し軍艦の停泊している処 0 0 くろぎ 1 19 27 だけは明々としてまるで一大俊のやう。大分風が強くなつて雨さへ加はつて来た。 0 0 くろぎ 1 19 29 ▽職員交迭。学校長岩佐久寿氏。多年本校こうちょうとして児童教育に社会教育に、凡ての方面に尽瘁せられ児童及父兄の信望厚く氏に期待するもの多かりしに、本年4月海士村中小学校長として轉任せられました。高村先生。児童教育に御熱心にし 0 0 くろぎ 1 20 2 て殊に音楽教授については追従をゆるさぬ程の伎メメとお待ちになつていた先生はやはり4月に別府校へ御轉任になりました。長府先生(女師二部卒業)高村先生といりかはりに中小学校からこの学校へ来て頂くことになりました。先生は人も知る隠岐 0 0 くろぎ 1 20 7 高等女学校御卒業の才媛で頭脳明晰凡てこの事に健実な方で児童のよろこびは一方ではありません。尋常1、2年を世話して頂きます。永海政雄先生。昨年からおいでの方です。高等科御担任で、特別に御熱心です。殊に図書については、余程造詣深 0 0 くろぎ 1 20 13 い方です。近藤博先生。皆様より御存じ。相変らず快活で熱心。ところがこの5月運動練習中アキレス腱を切断されましたことは返す返すも惜しいことをしました。然し今は余程よくなつています。中山筆保先生。本年5月から別府兼務で当校へも来 0 0 くろぎ 1 20 21 て貰っています。物井に居て頂くことになつて父兄の喜は又格別です。角屋のおばあさんのうちの二階をかりてをられます。 0 0 くろぎ 1 20 24 ▽御挨拶(加藤瀧之亮)。岩佐校長の後へ私が参ることになりました。いたつてつまらぬ者であります、が然し学校教育は勿論凡ての事に切実な真剣さと出来得る限りの努力を以て、地味に正直にやつて行きたいと思ひます幸に御指導下さいまして御 0 0 くろぎ 1 20 29 利用下さいますれば甚だ光栄に存ずる次第であります。因に私は書がっこう時代美田校で岩佐剛先生の下に教を受けたものであります。従って其当時の同期生たる宇賀の角新君、物井の下中君、角丸君、蔵武君などが今は校下の中堅人物として活躍さ 0 0 くろぎ 1 20 35 れていますので何につけても好都合であります尚十景の安藤利男さん、別府近藤敏さん、東京の中熊さんなども同期の方です。 0 0 くろぎ 1 21 1 ▽児童の状況。本校児童数、男、女。第1学級、高等科1、2学年。級長、澤正太郎、副級長、村上政寛、担任、永海訓導。第2学級、尋常科5、6学年、級長、松浦繁男、副級長、中山陽、担任、加藤訓導。第3学級、尋常科3、4学年、級長、中 0 0 くろぎ 1 21 7 谷、副級長、宇野、担任、近藤訓導。第4学級、尋常科1、2学年、級長、副級長、担任、長府訓導。中山訓導は高等科の国史農業其他担任。 0 0 くろぎ 1 21 16 ▽校舎。村会議員の方及村当局の方々の細心なる注意により御真影室の外側に非常の際にそなへる為非常口ともいひ得る所が出来ました。玉垣も造られ外観も美事です。控所の床板が大分古くなつていましたので全部新しくして頂きました。職員室の 0 0 くろぎ 1 21 23 戸棚も便利になりました。只高等科の教室が不十分なので、早く立派になるΤとを希望しています。 0 0 くろぎ 1 21 26 宇賀里から。秋晴れの空に銀鈴に似たやさしい歌声の旋律が起る。小高い丘の上にある浄土説教所の庭からだ。恵まれた小春枇よりの1日を大師参りに暮らす若い女達が口にする御詠歌の流れだ里に寺と名のつくものはない。此処では時折りこうした 0 0 くろぎ 1 21 31 人達の口誦みを耳にする外念仏らしいものを聞くのは、極く稀れだ何か知ら有難い様な気分にひたされる。此の御詠歌の声も近頃では、ほんの時たま、而かも20人30人と続いた以前のそれに比べてひどい寂れ方だ潮のように押し寄せて経済苦のは 0 0 くろぎ 1 21 36 しやぎが、こうした閑かな1日をさへ見出させないまでに、若い娘や老いた人達を雨さへなければ山へ畑へ風さへ凪げば海へ磯へと追ひ出す今の世の姿だらう。里をはなれて、西へ34町磯づたいの道を行けば、ビワの浜左の山道を少し登ったところ 0 0 くろぎ 1 22 5 に、比奈真治姫命神社が昨秋遷された木の香も新しい宮桂若い男松の林が後に続く。寺のない里では老いた人達が可愛い孫の手を引いて御参りするのはここばかり、、。10月の始め伊勢神宮式年遷宮式の夜里の人達一同参拝遥拝の式が行はれた。1 0 0 くろぎ 1 22 11 、戸数人口其他。戸数=46、人口219(昭和4年10月23日)点燈戸数44、燈数47。今夏小中又市氏が組長辞任されて、小梨菊次郎氏が後任当選された。副組長は浜本峯太氏である。又7月1日に村会議員改選にあたり当村からは小中又市 1929 1023 昭和4年 くろぎ 己巳 1 22 18 氏当選なされた。2、出生、死亡、婚姻(1月−10月)イ、出生、中澤(女)小梨屋(女)小浜(男)上脇(女)京屋(女)小藤屋(男)ロ、死亡、小新市五郎、小新鶴松、小梨定男、宇野ミワ、小浜キヨ、吉本友次郎、吉本茂八。ハ、結婚、浜本 0 0 くろぎ 1 22 26 大次郎=木谷クメ嬢。3、生業。農業、夏作、大麦90石。小麦25石。夏豆8石4斗。秋作、大豆50石。小豆8石8斗。粟4石。芋7500貫。米130俵。農作物中、大豆は本年増収の結果を得たけれども、粟、芋等は年々減退、原因は近年益 0 0 くろぎ 1 23 1 々繁盛を極めつつある蚕業に押へられたる結果、年々畑は桑園に変るもの多し。当里小麦中、江島小麦と称するものの中に欧州産なる毒麦と称するものの混育せらるる珍現象あり。4、5年前小仲又市氏の発見するところとなれり。尚豌豆は開花期に 0 0 くろぎ 1 23 6 於ける虫害の為殆ど其影を没せんとす。 0 0 くろぎ 1 23 8 ▽養蚕業。春蚕、掃立83、収繭526貫。夏蚕、掃立10、収繭45貫。晩秋蚕、掃立70、収繭350貫。陽産業は漸次隆盛桑園の増加と共に、掃立枚数収繭高も増加す春蚕に於ける掃立枚数は昨年より15繭増加、夏蚕の掃立わきは畑作物及漁 0 0 くろぎ 1 23 14 業の関係にて止むを得ず秋蚕に於ける掃立枚数は予定よりも減少10数枚。6月以降の旱魃による桑樹発育不良桑不足の結果、買先簸川製糸大部飼養法としては在来の篭高多くしてたまたま新奇なるものもあり。春蚕に於て小中又市氏は照明育により 0 0 くろぎ 1 23 20 好成績を挙ぐ同法は温度上昇による期間短縮の効果あり。同時に桑不足の状態におちいらぬ様用心肝要の由。 0 0 くろぎ 1 23 23 ▽ 牧畜。牛120頭。馬5頭。鶏70羽。産卵8000。 0 0 くろぎ 1 23 27 ▽漁業。ノベワカメ、2000貫。絞ワカメ、200貫。テングサ、500貫。海苔(玉ノリ)50貫。スキノリ、80貫。螺蠑、2500貫。アワビ、200貫。やず取り、300貫。綱取、1200貫。本さとの和布販売法は他村のものと異り所 0 0 くろぎ 1 23 37 謂漁師の共同荷造法によるものなり。技術も漸次優秀島内第一の称あり簸川日御碕より出ずるものに劣らず。海苔の風味は良好なるも素質に欠点ありスキ海苔としての上品なるものには適せず尚海には多大なる荒布の繁殖するものあれども、不景気の 0 0 くろぎ 1 24 6 ▽漁舟の数。発動舟1。大型漁船3。小漁舟40。 0 0 くろぎ 1 24 10 宇賀分団状況。黒潮がさつと岩をかみ岸辺に花を咲かす所、我が宇賀であります。そして黒木村の東部の一角からやがて大きい建設を目ざしている青年団こそ、我らが団であります。他出者が多くて現在、在郷者は9名であります。団長は下問熊市、 0 0 くろぎ 1 24 16 副団長が屋牧安市です。団員である木谷米美の死亡は実に残念であります。 0 0 くろぎ 1 24 18 宇賀婦人会。「盆が来て仏様が帰へらつしやる頃」都に居た乙女様他地が一人二人と帰へつて来られます。今年の盆頃は、小中カネ嬢、角丸律子嬢。平田オリ嬢、木谷ハナ嬢、山根ヅグ嬢、まだ他に45名でした。盆の17日の晩でした。婦人会員の 0 0 くろぎ 1 24 25 全員と小中の若い衆と島後の黒坊様と(新徳屋方)別府のチンバで踊りましあT。小向の山も崩づしました。山が崩づれて後始末には閉口だつたそうです。何分その小向の山が小中のかどまでだからね。秋が来て自然が淋しさにみたされて来る頃、山 0 0 くろぎ 1 24 30 の紅葉が夕陽と相映じながら、1枚2枚と落ちる頃、懐しい故郷をあとに巣立たれる小鳥の様な乙女達がもうすつかり行ってしまはれました。秋、、、自然、、、寂漠、、、達者で時に御様子を御知らせ下さい。宇野久子様が東京からおかえりになりました。 0 0 くろぎ 1 25 1 物井しらせ。今回本誌が発刊される事になりました。愛郷をあとに故郷の名誉のために、御奮闘なさっておられる他出諸君が一メメをあたへて下さる事がと喜びの胸をとどろかせペンを取りました。現在新しい理想郷即ち今の言葉でいふユ−トピアに向 0 0 くろぎ 1 25 7 ひつつある我が物井は新進気鋭の組長佐渡新太郎氏の下に、副組長新宅与市氏あり。又小組長には山根敬次郎氏、中畑兼若氏、村上甚市氏、新川長太郎氏、中島亀次郎氏、澤熊次郎氏、新宅岩次郎氏であります。里議員には新宅市太郎氏、島津正雄氏 0 0 くろぎ 1 25 12 、鼻田市氏、山木吉太郎氏、角丸貞男氏、田中嘉太郎氏、下中和夫うじであります。役員の諸氏は里愛よりのほとばしる慎重に審議して総てを決せられ平和な発展振りに里民はよろこびにみたされつつメメ々として働いています。敬神の念深き我が里民 0 0 くろぎ 1 25 18 一同は氏神様の本殿の屋根の葺き替拝殿新築には各其労力法師を惜しまず、しかして新しい美しい宮を拝することが出来ました。そして本年夏例祭の日を以て賑かな遷宮祭がいとなまれ赤き真心に燈えた氏子一同は華やかな乱舞の一夜を過したのであ 0 0 くろぎ 1 25 23 ります。氏子の誠意が届いたものか神の御庇護は我が里にも漏れず、産業に於ても只ならぬ進展を見、殊に養蚕に於ては例年にその比を見ない盛夏の旱魃にもさしたる被害を見ず、多大の収繭高を示し、尚下中和夫氏は新しく蚕種製造業を開始し好評 0 0 くろぎ 1 25 28 嘖々たるものを見、我物井里否広く隠岐島蚕業のために貢献せられつつあるは喜ばしいことであります。漁業四ツ張綱も例年にない豊漁でありました。昨年御即位の大典にちなんで里民啓発の修養機関として称するものは新谷市若氏を会長とし、宇野 0 0 くろぎ 1 25 34 常一郎氏を副会長に。未だ日浅きに会を重ねる度少からぬ発展振りを示し共存共栄の実を挙げつつあります。十有七年米国に活躍し、此の間錦衣帰郷した中畑哲美君は今回中元クマ譲と華燭の典を挙げられ今や新しき家庭への歩みを始められました。 0 0 くろぎ 1 26 1 物井分団状況。大字宇賀の4在所の中では物井が青年団員の郷里にいる者の数が一番多い。従って山の事海のこと養蚕凡て中堅となつて働いている。11月3日の明治節には小学校連合の運動会を行ひリレ−其他に活動した。其晩我等が中心になつて 0 0 くろぎ 1 26 7 メメ審制による模擬裁判を行ひ好評を博した。尚修養会及修養雑法発刊等について目下研究している。役員には団長小澤菊次郎氏、副団長山木新市氏、幹事新宅信一氏、会計佐藤成美氏であります。在郷団員数21名です。 0 0 くろぎ 1 26 13 物井婦人会。在郷会員の多い事はなんといつても物井であります。現在在郷会委員数は20名です。先日宇賀校在職の中山先生が本会の会長に就任なさいました。これで一層の発展が期待されています。先般会員の中元クマ様が御結婚なさいました会 0 0 くろぎ 1 26 18 員として同慶の至りで御座います。中島さんが大阪からかえられました。山崎クマ様がお母様の御看病に今夏おかえりになりました。山木クマ様が御病気で休んでおられます。鼻シゲ様が永い間御病気でしたが、遂に黄泉の旅に、、、ほんとうに残念 0 0 くろぎ 1 26 24 なことで御座います。近日い中に、料理裁縫の講習をする様に話し中であります。 0 0 くろぎ 1 26 27 倉ノ谷状況。人口=男80、女83、計163。戸数=51。役員、組長福田善太郎。同氏は蚕業組合委員問屋をも兼ねらる。副組長福島福次郎。小組長蛙又作市、由良三郎、福田伊勢太郎、福島次男。以上4氏は4存所議員たり。里評議員、宇野幸 0 0 くろぎ 1 27 4 太郎、中村弥太郎、新谷万一、中山福一。出生。小板屋(男)脇田(男)板屋 福島屋(男)死亡。福島寿、蛙子安市、板谷、小梨繁美。結婚。宇野秋吉=石塚スズ子。 0 0 くろぎ 1 27 12 ▽養蚕。春蚕64繭、収繭量270貫、単価76銭。夏蚕7繭。収繭量30貫、単価50銭。晩秋繭50、収繭量20貫、単価70銭。▽牧畜。牛86。鶏40。▽漁業。ラングサ240円。ノベワカメ70円100匁18銭。ノリ40円100匁60銭。舟数23。 0 0 くろぎ 1 27 24 倉ノ谷青年分団状況。団員の大多数は出郷各地に活動なさつて居られることは誇りとすべきでありますが。その半面に在郷団員少数といふことになりまして何等見るべきもののないのは遺憾に堪えないところであります。現在家に在る団員総数4名。 0 0 くろぎ 1 28 1 新谷昌弘氏分団長。此のように少数ではありますが「三人寄れば云々」の例我々の全エ−ナジ−を傾注して微力ながらもあらゆる方面に突進する覚悟であります。然して共々に進みつつあつた団友小梨重美君並に福島寿君が病魔の誘ふところとなつて 0 0 くろぎ 1 28 6 不帰の客となつたことは団員だけでなく、里民一同の遺憾とするところであります。 0 0 くろぎ 1 28 9 倉ノ谷婦人会。孤独の悲哀を感するといふわけでもないでせうがもとから倉ノ谷婦人会一人一党主義でした。現在でも徳島タケさんが一人沈黙を守って居られます。やがて大きい建設をと考えておられるでせう。なんといつても、さみしいことにまち 0 0 くろぎ 1 28 14 がいは御座いません。ときどきはおかへりなつてうちの様子を御覧下さい。ああ忘れていました先日花屋の千代子様がかえられました。会員数一躍、倍になつたこと御報告申し上げます。 0 0 くろぎ 1 28 19 別府だより。今回他郷にある皆さんに郷土の状況を通信する施設が出来ましたので、別府に於ける昭和4年中にあつた主な事柄を別記したします。▽氏神様。御大典記念事業の一つとして氏神様の参道の改修を計画して居りましたが、愈々7月の大祭 0 0 くろぎ 1 28 25 までに是非完成して仕舞ふと氏子一同の協議により1戸5日許り宛人夫に出て工事をやりました。氏神様の前の田の中を拝殿の正面から真直ぐになる様に、殆ど一直線に幅2間の立派な参道が出来上りました。海辺にあつた鳥居を県道の所へ移転し尚 0 0 くろぎ 1 28 30 ほ他郷にあるお方に寄附を御願ひして、唐獅子及び石の大燈篭を拵いて奉納してましたので大変よりなりました。 0 0 くろぎ 1 28 33 ▽所讃寺。予て計画中でありました所讃てらの移転、本堂改築も愈々着手することになり、12月には敷地の地形基礎工事及本堂建築の入札をし基礎工事は飯田かじや本堂建築は大津安木屋と契約をしました。3月一杯には立派なお寺が出来ることと 0 0 くろぎ 1 29 4 思ひます。但し庫裡のいてんは少し遅れることと思ひます。(現在の乾燥場元の学校屋敷−へ移転する。) 0 0 くろぎ 1 29 7 ▽耳道。里民が希望して居りました耳浦へ通ずる道路が改修さるることになり第1期工事をして「フナエゴ」「ビ−ワ」の溜池の上いトンネルをつけることになり目下工事中であります。 0 0 くろぎ 1 29 12 ▽人事。6月1日の村全議員総選挙に別府から前田さんと安藤(猪太郎)さんとが当選されました。安藤(剛)さんが9月に本村の村長になられました。結婚。西名田屋へ小向から嫁さん。尾張屋へも小向から嫁さん。石橋へも小向から嫁さん。前吉 0 0 くろぎ 1 29 22 やみかさんが菱へ嫁さん。出生。中屋敷に松子さんが。松野屋に和代さんが。前田屋に庚五さんが。鶴屋(清若さん)に幸枝さんが。松岡屋に邦男さんが。飯田かじやに昇さんが。小木屋に静子さんが生れましたが死亡。玉川屋に葉月さんが生れまし 0 0 くろぎ 1 29 31 たが死亡。坂栄屋に喜代江さんが。死亡。中吉屋のイシ子さんが。中尾の建市さんが。鍛冶岡の友次郎さんが。今出屋の角若さんが。西屋のかかさんが。 0 0 くろぎ 1 30 1 別府青年団状況。「颯々身にしむ松風に、建武の昔忍ばるる黒木の御所を拝しては、、、」こうした会歌を奏し胸には星に赤の「青」のマ−クを付けた我が団の黄金時代も既に過去になつてしまつたけどれも、霊地に深くそしてすつかりと根をおろし 0 0 くろぎ 1 30 7 ている我々の団こそ更に新しく輝かしい希望に向つて猛進を、、、そうです。我々の先輩が愛と汗いよつてきずいた団ですもの、、、他郷に在る青年諸君団結を、、、心から再び黒木の丘に輝しい星の光に包まれたマ−クの姿を書き出そうではありま 0 0 くろぎ 1 30 12 せんか。東の子供は黒木山へ、中の子供は尾代橋へ、西の子供は役場の松の木の下へ。在郷団員20名。他出団員40名。他出者の諸君は或は北海道に或は地中海をそれぞれ希望をもつてでも何時も心を通ふものは、あの黒木の山の下でせう。 0 0 くろぎ 1 30 19 ▽青年団の役員。団長近藤博。副団長坂栄秀男。会計主任吉田国義。幹事前田悦夫、小谷龍夫。1、読書と発表。表彰記念図書館に毎月書籍購入団員は、それを読書し通常会に感想発表をなす。2、勤倹。桑園栽培。安藤氏より5年無賃借地、収入甚 0 0 くろぎ 1 30 26 大の見込。節約貯金、毎月1回実行。3、社会奉仕。道標設立。副団長の手にて制作近日中設立の見込下駄の緒箱。東は中畑の前、西は会場の前に。掲示板。従来のは余りに小さいのでもつと大きいのを作り社会掲示をする予定。4、通常会。14日 0 0 くろぎ 1 30 35 講演、議事、意見発表。28日会費及貯金取立、娯楽。5、基本金。貯金350円。杉の植林。6、今年7月5反幟を作った他出者諸君の後援助を本紙を通じて感謝します。(10円)前田延幸君、(5円)前田敦君、(3円)吾妻常男君、(3円) 0 0 くろぎ 1 31 5 木村邦市君、(2円)坂栄光儀君、(2円)山本鶴松君、(2円)吉田忍君、友金正君、中林英夫君、中林節夫君、大原石太郎君、吉田勇君。7、他出者消息。京谷忠太郎君63連隊下士志願。島田静一君扶桑艦第7分隊、御壮健勤務の由池田静夫君 0 0 くろぎ 1 31 12 兵庫県から度々御通知があります。 0 0 くろぎ 1 31 13 別府婦人会。毎月10日と28日の2回開会して精神修養に関する講演や作法の実習につとめ、冬期には裁縫や料理の講習を開く現在会員は74名だが、其の多くは他出者で在郷は僅か19名其の内でも種々の継ごうのために、出席しない人が多いの 0 0 くろぎ 1 31 18 で毎例会には出席者至って少ない作法実習には小学校児童も見学会員として出席させている。倉並先生は不変肥つて元気に村の処女達に作法や裁縫の指導に専心努めて居られる。支会長は宇野松太郎氏もう大へん永い事して居られるので会のためにも 0 0 くろぎ 1 31 24 世話して下さるし会員も大へんに親しんで会の向上発展を期している。 0 0 くろぎ 1 31 26 美田尻十景状況。▽美田八幡神社遷宮。昨年の8月から改築のために起工されていた我八幡神社も愈々本年の9月に至って、竣工し同月の13日14日の雨日に互つて盛大な遷宮祭が挙行された建築費其他之に要した費用約6000円(内2000円 0 0 くろぎ 1 31 31 十方拝礼 は他部落の寄附による)人夫約6000人。13日が出遷宮14日が、上棟式に入遷15日が午前中は恒例の十方拝礼で、午後余興の島前の力士のメメを集めて相撲大会が催された。此の相撲は非常な人気で参観者約6000人だと或人の推算であつた。 0 0 くろぎ 1 32 4 場所は神社の向つて右側凹んだところで場所はよし文字通りに立錐の余地もなかつた。3日3晩は十景美田尻はおろか別府辺から近在は上を下へのお騒ぎ神社の周囲は売店が軒を連ね西郷からは此の土地に稀な芸妓を輸入して、一般の求めに応ずるや 0 0 くろぎ 1 32 8 境の方からもそれらしいものもきていた。実に此の不景気をよそに近年にない賑かさであつた。 0 0 くろぎ 1 32 11 ▽戸主会。戸主会は毎月14日に開催していて区の種々な問題について相談している。最近増屋の前に火防タンクをこしらへて萬一火災の際に備へることになつている。 0 0 くろぎ 1 32 16 ▽稲。今年は隠岐の何処もであるが、夏の旱天のために稲の出来が至って悪いと言つているが、我が里でも普通平生作の三分か四分かで五分も出来れば上出来の方である。今年は農かの崇り年である。 0 0 くろぎ 1 32 21 ▽繭。稲の不作から唯一つの頼りにしているのは養蚕で今年は割合に上出来で、これによる収入が約6000円。▽出生。今年になつて生れたものは安藤はぎ子(大崎)橋本サダ子(崎の浜)村尾光枝(栄屋)小西強(増見屋)。▽死去。今年になつ 0 0 くろぎ 1 32 29 て死去されたかたは仲谷林太郎、仲谷義市(仲屋)谷口亀次郎(谷口)向井初枝(上田屋)。▽結婚。今年になつて結婚された方は安藤サル子さんが小向の木村勘一さんに。岩佐フサ子さんが十景の犬谷唯美さんに。坂ヤナさんが犬谷石太郎さんへ。 0 0 くろぎ 1 32 37 地徳喜三郎さんが別府の西脇ヨシ子さんを。今木ヤス子さんが々後の池田といふところへ。何れみ既に華燭の典を挙げられ睦しい新婚生活を送って居られる。▽入隊。川上岩雄君は徴兵検査に目出度合格なされ明年の1月には入隊され、軍隊生活を送 0 0 くろぎ 1 33 6 られることになつている。 0 0 くろぎ 1 33 8 美田尻十景青年団状況。▽団員。在郷団員が至って少ない。然し在外団員数を合すると30人ばかりになる。▽例会。例会は毎月1回やつている。年に一度大懇親会を正月の月に開いて会員奏後の親睦を図ることにしている。▽団長。八幡忍氏が専ら、 0 0 くろぎ 1 33 14 其の任にあたつて精励されている。▽其他。今迄は規約貯金の励行をしていたが、一時中止しているが又復活の叫びがあげられている。毎年区から10円づつの補助を貰って経営の経費にあてている。基本財産としては先輩が残している山林がある。 0 0 くろぎ 1 33 21 美田尻婦人会状況。▽会員数。今頃16人いる。▽例会。3月までは、毎月一回づつ開会していたが会長が転任になつたりして久しく開会しなかつたが10月に入つてから久し振りに開いた。その結果今後毎月2回づつ例会を開くことに決定した。▽ 0 0 くろぎ 1 33 27 其他。昨年頃までは村の補助があつたために、講師はそれによつて依頼されていたがその補助が村会に於て削られたため、以後は専ら女先生によつて指導されていたが、種々区の方へも依頼して其の財源を求めて他からも講師を依頼して作法以外料理、 0 0 くろぎ 1 33 32 生花等の講習をやることになつた。 0 0 くろぎ 1 34 1 大山里だより。「場所だ場所だよ、大山は場所だ、出船入船船場所だ。と唄はれた程に上り船下り船の必ずや錨を落しすさびし海上生活の疲れを慰めたあの賑やかなりし時代も早や過去の夢か、世の無常な風にはどううしても打勝つ事が出来得ないの 0 0 くろぎ 1 34 8 か、今は波の訪れるのみ。戸数70余戸。現住人口270人余。組長さんはまだ若い非常に真摯な坂本大次郎氏だ。其の他の役員の方々も皆真面目な世話好きな真に里の事を我が事の如く思ふて下さる方々なので、其の平和な事といつたらありません 0 0 くろぎ 1 34 13 皆の者が協同一致して、共存共栄の実を挙げんものとそれぞれ職務に精出しています。去る7月1日村会議員の改選の際には新人菊谷房造氏立候補し見事に当選なされた事は、如何に里の人々が菊谷氏を信じ如何に堅く団結しているかを雄弁に物語る 0 0 くろぎ 1 34 19 ものであります。氏の議場に於ける活躍が「天晴村政のために」と大いに将来を期待し喜びに堪へません。御承知の如く梅雨期の雨量少く、其の後旱天続きしため折角植付けた稲も如何ともする事が出来ません殊に下が砂地で土質が悪いと見え、幾許 0 0 くろぎ 1 34 24 もなくして地震の割れ目のそれの如く大割目が出来たる田は続出しために、南の方の田等は殆ど全体を通じて、平年の4分の1のお米がとれるやらどうやらわかりません。真に悲惨そのものです。然し養蚕家は年々その数を増し掃き立枚敷の如きも年 0 0 くろぎ 1 34 31 一年多くなり今年など春秋通じて、150枚余の多きに植えり、総金5500円余とる事が出来ました。土地が養蚕に適するのか、技術の進みしためか知らず我が里の繭の出来ばえは非常なとのでその道の人々の感歎するところです。我が里開闢以来 0 0 くろぎ 1 34 36 のにぐはひであつたであらう所の八幡宮の遷宮祭世は、不景気とはいへ、たまにお祭どとの人々の心は喜びに燃え早や、1ケ月余以前から己にお祭の気分は里中に充満していました。待ちに待つた日が来ました。9月13日御神体を載せた御船は2艘 0 0 くろぎ 1 35 4 の大きな帆船と1艘の発動機船が並んで横つなぎにつながれマストの上より船の舳から艫まで麗々しく、万国期に装飾せられ赤い丸い提灯に飾られ十艘余もの渡船の発動機船にひかれつつ、月の明るい金波銀波のくだける海上に影を落しつつ船唄勇ま 0 0 くろぎ 1 35 9 神楽 しく太鼓の音神楽の手びょうし面白く、入りたる時など浜辺は見物人は黒山を築きました。その勇壮なりし其の壮観たりし実に筆舌に尽す事が出木ません。 0 0 くろぎ 1 35 13 結婚。浜中斌氏は物井新谷市若人氏女トミ子氏と華燭の典をあぐ。出産。橋本愛子(橋本虎次所氏次女)板脇福市(板脇源太郎氏四男)川西利一(川西三次郎氏長男)萬田三樹雄(満田茂氏長男)高井サツ子(高井金市氏二女)川本某(川本臺次郎氏 0 0 くろぎ 1 35 22 二女)死亡。山本クニ、中西トヨ、蛭子サク、蛭子幸十、和泉安太郎、大津萬太郎。 0 0 くろぎ 1 35 26 大山青年分団だより。焼火山から風の吹き下す度毎に丸つこい港の見ずの面には小波が静に立ちます鳥が鳴きつつねぐらをさして帰る頃には、家々の空窓から白い煙がりつちはじめます。この静寂な里こそ。我等の分団が成長しつつあるところです。 0 0 くろぎ 1 35 32 現任団員数は42名で其の中約30名余は出郷他郷で或は海上生活に或は商業を目的に巡査に大工さんに等々それぞれ職について活躍しています。他は在郷者で大方は農業に従事しあつぱれ農村青年振りを発揮しています。なんと申しましても郷里に 0 0 くろぎ 1 36 2 在る人が極少数ですので平生は非常にさびしゆうございます。でも月には1回の例会を開きまして色々協議をなすべき事はなし時事問題につきまして、意見の交換発表をいたしまして或は政治的な或は経済的な宗教的な智識の向上をはかつています。 0 0 くろぎ 1 36 7 親密なるが上に親密なるべき出郷団員との連絡が殆んどとれていない事を一同非常に遺憾に思っていました。そこで本年の初会に於て機関雄誌「狼火」を発行する事により近況を思想的交換をお互になす事にいたしました。巳に去る7月創刊号を出し 0 0 くろぎ 1 36 11 ましたところ、意外な出来ばえに異状な歓迎を受けました大いにそのの宿志を達する事を得ました。内容は論文、創作、小説、詩、短歌、近況、愚感等々なんでもかまひませんあらゆる方面にわたつていますので非常に面白いものでございます。年4 0 0 くろぎ 1 36 17 回発行する事にあんつていますので、近々第2号が出る事になつています。去る月に黒木村青年団第1回雄弁大会が美田校々堂で開催せられました。本分団より3名の弁士をおくり、5人の審査員の厳正なる審査の結果、全体を通じて5人の入賞者中 0 0 くろぎ 1 36 22 我等の弁士浜中龍麿君、柳谷宗市君の2君を見事その中に入れました事はこの上もなく愉快に嬉しく、むしろ痛快に感じました。又八幡神社遷宮の際の大相撲には、木下臺次郎君は我が分団を代表して出場し、見事敵の大男を2度までも土俵外に気味 0 0 くろぎ 1 36 27 のいい程ほふり出しいやが上にも我等の血をおどらせました。出郷の皆様続々此のお目出たをお喜が下さいませ。▽役員。分団長浜根渡。副団長川本臺次郎。会計係橋本敏雄。評議員山根正男、藤本国市。 0 0 くろぎ 1 37 1 大山婦人会だより。名は婦人会でございますが、お嫁さんに行かれた人来られた方々は一人も出ません。精々20歳以下の者ばかりの独身者むしろ処女会といつた方が適当の如く思うはれる位でございます。本年の3月頃までは講師倉並先生を招きま 0 0 くろぎ 1 37 6 して、月1回の例会はどんな事があつても開いていました。そして裁縫に作法に其の他有益なるお話も聞きなどして、他支会の人々からうらやまれる位でした。然し村当局の経済的たちばから中止すべく余儀なくせられました。文化の風にめぐまれざ 0 0 くろぎ 1 37 11 る田舎人でも将来は皆良妻賢母となり、夫を助け子供を教育すべき重大なる任務を持てる卵です。どうして修養なしに行けませう修養こそ大事です。支会長は一層痛切に之を感じたのか、種々尽力し里当局の援助により一策を案出しました。即ちお隣 0 0 くろぎ 1 37 16 の美田尻十景の婦人会とお互に手を取り援けつ援けられつ、一緒になつて講師をやとひ、月々の例会は勿論冬季の農閑期を利用して裁縫料理及び精神的の修養に努むる事にいたしました。近々或る人を講師といただいて早速実行につとむる事になつて 0 0 くろぎ 1 37 21 います。支会長は美田校に職を奉じています浜根渡です。 0 0 くろぎ 1 37 23 波止便り。▽昭和4年改暦と共に、波止里規約を作成し、新たに組長、副組長及評議員等の里役員選挙、当選就任左記の通り。1、組長松浦安市君。2、副組長浜崎藤太郎君。3、小組長評議員氏名省略。▽波止婦人改は、2月20日(旧正月11日 1929 0 昭和4年 くろぎ 己巳 1 37 30 )婦人改開催組合楼上は開会前老若婦女によりて満され午後8時日向支会長の挨拶によりて開会福真助役松本美田校長の講演あり。10時福引を行ひ盛会裡に閉会引続き会員の料理実習による来賓招待、来賓としては、福真助役、松本美田校長及里役 0 0 くろぎ 1 37 35 員有志等十余名会員の手による献立調理は非常なる好評を博し、宴酣にして福真助役の講評ありて、閉会は午前1時尚来賓諸氏より10余円寄贈ありて、会員の作法料理の実演は有効に終了せり。▽波止分教場。昭和4年3月24日、本校に於て証書 0 0 くろぎ 1 38 6 授与式挙行あり。全部進級成績良好にて受賞せしもの9名。皆勤賞6名、昭和4年度入学児童在籍25名。▽お目出度。浜崎長市君は、市部笠置サワさんと結婚同伴門司行。赤井虎市君はお隣の藤森デンさんと結婚、嫁さんは夫君の許へ行き新世帯。 1929 401 昭和4年 くろぎ 己巳 1 38 13 ▽逝かれた人々。小泉内室様。梶屋子供さん。中上老母様。日向先生母堂。吉屋主人様。亀古屋老人様。宮本老母様。▽里冲。7月1日村議候補2名中村田平治氏当選。▽旧盆には例年の通り156日2晩会場にて、下元気をつけ老若男女の盆踊が深 0 0 くろぎ 1 38 18 更迄賑やかに行はれた。▽八幡宮の拝殿改築落成の奉祝角力に、当里青年分団より、梶田乙一君吉田政太郎君を飼立て、出場せしめた。乙一君は崎村某力士と取組んで鮮やかな2番勝。吉田君は遺憾ながら相手力士がなくて取組めなかった。この飼立 0 0 くろぎ 1 38 23 角力に世話係として吉浦政由君が熱心に指導せられたが祝賀宴の翌々日遂に長逝せられた。未だ春秋に富む氏を失ひ痛惜に堪えず。氏は非常なる信仰家で当里産土神社境内の石垣改築をなし100余円の寄附せられた。▽産土神社の社掌松浦氏は、都 0 0 くろぎ 1 38 28 合上今回辞任された。▽10月14日、午後8時20分頃村田平治氏宅失火面屋全焼家具商品の大部分を焼失された。損害約1000余円。当夜は稀な凪であつたのと役員会で里の主だつた人達は会場に集つて居られたので、「火事だ」の一声に飛出 0 0 くろぎ 1 38 33 して、直に現場へ駈付けて、荷片付けをするもの消防機を取出す者、と調子よくいつたので軒々相接する場所なるに、他へ延焼しなかつたのは不幸中の幸であつた。而しかかさん達の活動も目醒しいものであつた。対岸の珍崎消防隊は、第1着に来援 0 0 くろぎ 1 39 1 消火に努めつづいて美田より、2台浦郷、赤之江、古渡、別府といふやうに67台の消防機と駈付けし民衆で一時は非常な雑踏であつたが、全く鎮火したのは11時であつた。▽波止出稼者諸君!私が当分教場に参りましてから既に満2年になります 0 0 くろぎ 1 39 6 が未だ1回も帰省なさらない方もあるやうに思ひます。而し大方の人とは知合であると思つて居ります。私は当分教場へ参つたといふよりも帰って来たやうな気持で居ます。分教場には現在1年から4年まで25名の可憐な児童が居ります。貴君たち 0 0 くろぎ 1 39 12 の後輩が一心に勉強しています。教具や運動具の不自由の学校を親しみ慕って学び遊んでいるのです。諸君帰られたら一度は是非学校へ遊びながら見に来て下さい。終わりに諸君の御健康と御奮闘を祈ります。(昭和4、1。日向生記)▽青年団も婦 0 0 くろぎ 1 39 18 人会も在郷会員が僅少で、他部落も同様で大した奮ひません。事業としても別段之れといつてやつて居りません。婦人会は昨年の御大典から規約貯金を始めて毎月10銭づつやつて居ります。あなた達の中でも希望がありましたら一人でも多いのを望 0 0 くろぎ 1 39 23 んで居ります。料理及裁縫短期講習も旧節季から正月にかけて始めます。 0 0 くろぎ 1 39 25 市部便り。平和なる我が郷土市部里は区民もそのやうにゆつたりしている。区民は一致して、平和でいいが然しそれで発展的共同事業と言ふやうなものもあまり起つて来ないやうだ。あまりに平和すぎる位だ。本年市部里近辺の林野の村有であつたの 0 0 くろぎ 1 39 30 が、今度個人の所有に変った所がある為めに若干金は区有の財産となつた。此れが事業を引出す糸口だらう。区民の望みとしていた波止場は上脇から笠岡矢近辺の埋立で、木材運搬の際に或は船着きに便を計って、此れが設置の計画となつていたが愈 0 0 くろぎ 1 39 35 々今年の秋の取入れでも終つた後は着手でも出来るかも知れん。これが若干金管理者の考へらしいが、区会に於ても此の議題は勿論パスする事と思ふ。事業としては此れ等が大きなもので他に別にありません。 0 0 くろぎ 1 40 4 青年団。我が市部里に於ては数年前から団員の小数なるため市部分団としては、置かれて居ない。此れを以前の盛んであつた時代のそれに比ぶれば僅かに6人といふ物淋しさである。現今何れの人にも言はれる如く青年は社会発展の中心となるべきも 0 0 くろぎ 1 40 10 のだと思ふ。人数から言へば数10人で他里に負けぬ人数を持っている。然し大多数の諸君は美しい大都市を背景に生活している。平和な我市部里は半面には物足らぬものがひそんではいないかと思ふ。桐の一葉落ちて天下の秋を知るとやら、人間凋 0 0 くろぎ 1 40 15 落しかかつた意味を現はす有名な諺である。然し乍れ桐に一葉落せばやがて他葉も落して葉はなくなつてしまふが、別に樹が凋落しかかつたものではありません。人間が見て枝許りの桐に同情を寄せましても桐は不思議そうな顔して笑ふであらう。実 0 0 くろぎ 1 40 20 に此の時桐は充分の養分を貯蔵し、来春猛烈な勢で繁栄すべき潜勢力を養ふて静座している所である。希望に充ちた動前の静である。既に一段落死後とをかたづいて次の仕事の準備も出来静に其の時期の到来を待つている程愉快な事がありませうか。 0 0 くろぎ 1 40 25 葉を落す事は準備を完全にするが為で決して落ちぶれる前兆ではない此れが恰も我が市部里の現在に当る状勢ではあるまいかと思ふ。然し諸君はそうした美しい大都市を背景にして、生活されれば郷土の農民は如何にも、社会の下層の構造である。い 0 0 くろぎ 1 40 31 やらしき農と見る様になつでせう。成る程そうかも知れない。然し其の下層の構造こそ基本社会の基礎たる物質的生産であつて見れば生産の必然的傾向を重視する異常これ等の下層の構造たる。郷土の平和なる農民等こそ社会の否国家の中堅粱脊では 0 0 くろぎ 1 40 36 あるまいかだから農なるものを各国の賢君名相に依つて、重大視せられた所以であるまいか。私は今ここに哲人「ベ−コン」が此の點に於て1隻眼を開き英王ヘンリ−7世王(1456−1509)年の社会経済上に於ける治続を賞賛せる句を書く句 0 0 くろぎ 1 41 4 の中に曰く英王ヘンリ−7世は農園農家を保護して帰属の蚕食を免れしむる事に努力した彼は一定の標準を立てて農家を維持し之をして優に生活し得べき田園の所有者をして、来耜を自家の手に振りて単に備工たるの地位に堕落せしめなかった云々。 0 0 くろぎ 1 41 10 此れは農民の自己保存、自己充実、自己延長である何んたる尊農思想の鼓吹、さては農民愛撫の赫たる実績でありませう。諸君こうした農なるものを愛視し、そして平和な我が市部里、まるで眠っている如くに桐の葉の落ちて、物淋しい秋の如くであ 0 0 くろぎ 1 41 14 るが、その裏面には、将来の潜勢力となるべき青年諸君よ郷土を愛してもらい度い。愛する事即ちそうした潜勢力を強くして帰つて来る事だ。俺は青年団の事にあたつて、いつも淋しい反面にそうした、楽しいものが胸にひそんでる。眠れる我が里も 0 0 くろぎ 1 41 19 諸君の帰って来た時は、再び市部小在所でも不思議事に花が咲く云々。となるであらう。 0 0 くろぎ 1 41 22 婦人会。婦人会も同じ様に会員の少い為め、会も甚だ振つていない冬期2週間裁縫の練習があり、料理講習作法の練習が別に1日ある講師は学校の女先生を御招きしている。2、3年前迄は40歳しめた主婦迄が熱心に出席して如何にも会らいし市部 0 0 くろぎ 1 41 27 婦人会は近頃至って不振になつて来た。殊に副会長、村尾房、幹事三角里和子2氏は辞職され、後任もまだ定つていないらしい。笠置さわ子、堺さたさんが縁づかれて今年2名の会員を失ふた。 0 0 くろぎ 1 41 32 産業人事。本年四ツ張、1300円。養蚕、2600円。此の外区として米作若干が大きいもので他は別にない。殊に本年米作の旱害は我が市部里は美田中でも害を受けた甚だしいもので竹田を除く外約200俵は例年に比して減作だつたそのために 0 0 くろぎ 1 42 1 は内地米の輸入を仰ぐ外はあるまい。200俵の輸入すると否とによつて其の差約4000円である。四ツ張と養蚕の3900円ではくとして収入の程度が余りにもと云ふが多収でない。然し要産に於ては他里に優つて繭買から見ても売値から視ても 0 0 くろぎ 1 42 6 常に春秋最高価をしめている。昭和4年3月組長堺相次郎氏から岸田善次郎氏に変った。前村会議員堺相次郎氏は本年から宅にて至極達者で農園に繁げるメメ菜を眺めてはこつこつとその栽培にいそしんで居られます。氏は20数年間其の職にあつて此 0 0 くろぎ 1 42 12 れ迄例の無長年月の勤続者で、近い内村から表彰式が催される筈になつています。氏は60歳と云ふ長年を重ねて居られますが、氏の後任として我が里から1名の議員の出す事の出来ないのは残念な事だった。前村長竹田才吉氏は本年9月を以て職を 0 0 くろぎ 1 42 17 はなれ現在宅にて愛馬の御楽しみです。本年10月島根県畜産品評会に於て1等賞の賞旗を握られ、近くは島前畜産品評会が浦郷村で開催された。其の際も前と別馬でこれも又1等賞を得られ、おだやかな微笑を見せて居られます。 0 0 くろぎ 1 42 23 ▽人家転宅。岸田善二郎は元浜口屋敷へ。浜口才二郎は元新宅屋敷へ。新宅は大行屋敷へ。板屋は岸田善二郎宅へ転宅開店。此れで市部里話の色々を終りました。 0 0 くろぎ 1 43 1 大津便り。今回黒木号発刊に際し我が里の状況の大体を左に記し以て諸君の御参考に供せん。我大津里は戸数100に近き村中大部落の部に属するとメメも地勢の関係上か生産至って僅少にして近来の不景気はいやがうえにも里民一般の生活状態に及ぼ 0 0 くろぎ 1 43 7 し、この際何等か策を講ぜざればメメを千歳に残すならんと心ある者密に心痛の結果、昨年里会にて協議の結果本年2月より一般的消費軽減の目的を以て、里共有金より資金600円を投じ穀類及び酒類の販売をなし殆ど元値に近き値を以て之が提供を 0 0 くろぎ 1 43 11 なさんとし目下経営中成績良好にして、所期の目的を貫徹するも近き将来ならん。又昨年冬より寄々協議の結果里民の賛成を得て或る一部の人々と里との共同事業として、鯵敷網を経営し今夏中之が操業に力を至せども不幸にして、従事者の不熟練な 0 0 くろぎ 1 43 16 ると近来稀れなる潮流激しかりしため結果、は至って面白からず止むなく経営中途未だ最善の努力を至さずして之が経営を断念するの止むなきに至りたるは甚だ遺憾の極なり。きされど我が里は古来より伝統せる円満主義により之等不遇にも屈せず今 0 0 くろぎ 1 43 21 秋より里海岸源一帯にわたる海面埋立及桟橋改築工事をなす事となり目下之が工事に着手併せて一方村道寺坂切下げ工事を村費の補助を得て着手し、双方共来年早々工事竣工の見込なり。之が完成の暁は海岸一帯には千余坪の広場と堅牢なる。石造桟 0 0 くろぎ 1 43 26 橋とは美田湾内1美観とならん。又目下我が村に於て御大典記念事業として之が設立を急ぎつつある信用組合加入の如きも里会の決議により其加入人員は里一般に及ぼすべく共有金を以て各人一口を加入せしむることに決定せり。其他宮他にの造林事 0 0 くろぎ 1 43 31 業及び之が手入等は年々怠らず之を行ひ、最早新規造林の余地なきに至りたるが如き状態なり。 0 0 くろぎ 1 44 1 左に青年団状況を列記せん。現在役員。分団長橋本高一。副団長佐原数一。幹事橋本才二郎。団員。尾崎喜一、尾崎才之進、岩井弥太郎、湯浅吉雄、太田政一、向原武、新浜若松、西当広、八幡吉夫、安木武夫(10名)旧正月他木者4名。開会毎月 0 0 くろぎ 1 44 11 12日を通常会とし臨時会5回。▽本年度適齢資格者。新浜茂喜、福岡清二郎、紺谷成章、桶谷元市、田畑又一。 0 0 くろぎ 1 44 15 榾火に集る時期ではあるが木メメをやつてメメない今でも、青年会場に集つて天井へ届く様な焼火をする事も稀である団員数の多い割合に、他出者が多くて何時も者寂しい感じがする。分団も旧ボン以来尾崎喜一君七類君湯浅君向原君新浜松若君等の帰郷 0 0 くろぎ 1 44 19 にて可成にぎやか。11月歩兵63連隊を退営した吉岡松若君を発動機船浦島丸で浦郷迄出迎汽船某の乗組員U君より分団へ修養読本2冊寄贈難有御芳志の程本誌を通じて感謝す。これ迄収入の甚大であつた。墓地付近の桑園も笹薮にメメらして殆ど収 0 0 くろぎ 1 44 24 入無しの状態であつたが、最近之が回復奉公を考査中である。 0 0 くろぎ 1 44 26 小向便り。1、役員。顧問木村良市、木村亀雄。組長松浦兵太郎。副組長小林金市。小組長兼評議員油井増市、奥田菊市、木村由若、新田才次郎、寺下由若。評議員原角次郎、寺下秀太郎、高梨竹次郎、中島熊次郎、服部留次郎。農会総代奥田菊市。 0 0 くろぎ 1 45 11 養蚕委員寺下友次郎。村会議員木村良市。1、事業。家畜共進会年1回。農作物品評会。農事研究会。敷地埋立。山林経営。1、資金。山林、杉、松、桧、アスナロ雑木約14町歩。基本金。890円。埋立地400坪、3000円。昭和3年度経費 0 0 くろぎ 1 45 19 総額。支出350円。収入355円60銭。産業状態。農作物年に減退、養蚕遂年発達。昭和4年度収繭量400貫、価格2400円。畜産業。遂年発達、昭和4年度出生頭数、売上高2000円。造林遂年増殖して牧場に影響大なり。漁業衰頽。 1929 0 昭和4年 くろぎ 己巳 1 45 29 出生並に死亡者(昭和4年度)浜田常次郎長女出生。松浦玉次郎長女出生。間政次郎次男出生。中島熊次郎長女出生。死亡者。安田ツル。結婚者。木村勘市、安藤サル子。 1929 0 昭和4年 くろぎ 己巳 1 45 33 小向青年分団状況。団員総数40名。他出者26名。在郷者14名。役員、団長油井増市、副団長加木貞雄、会計服部治作、幹事寺下重市、新田登良市。団の資産。山林1段歩、杉雑木、時価200円。勧業債券10円2枚。基本金、郵便貯金35円 0 0 くろぎ 1 46 3 80銭。1、事業。山林経営、図書館設置、農閑期農事研究会、演説会、剣術、娯楽会。1、他出者との連絡法。青年賀状交換。他出者より書籍及名産物の寄贈。団よりは年1回乃至2回の団の状況並に里の状況報告。1、昭和4年度開会度数。通常 0 0 くろぎ 1 46 12 会8回、通常会は毎月15日と定む。臨時会5回、出席延人員135名。4年11月末迄に於ける経費総額。148円50銭支出額、会員の会費並に寄附15円50銭収入。基本金、他出者寄贈、金5円富田亀次郎、金5円木村康信、金4円野津清松。 0 0 くろぎ 1 46 20 船越放送局より。風光明媚な船引運河!ゆきかふ魚舟の姿も楽しげにやがて3町の潮流に押されて舟は洋々たる大海に出づ海水浴場をもって天下に称わる外浜、白砂、青松波静かなる、なぎさに戯れ遊ぶ童の声も賑はしく高田山のおろしにはぐくまれ 0 0 くろぎ 1 46 25 その麓に育つ我古里よ自然に恵まれ平和そのものの中に暖かい柔らかい春風にそよがれ和気靄々たる空気のみなぎる懐かしのパラダイスよ私達は何時までもこの恵まれた土地に生活を続けてゆくのかと思へば、何とも云へぬ感謝の念にひたるのである 0 0 くろぎ 1 46 30 「働くは人間の本分なり」を、モット−として、野らに鍬とり、海底をあさり斯くてこうした区民の専心努力によつて、いやが上にも進歩し発展してきたとは実に欣にたえない。今を去る40年の昔、荒神山の松林を売り6000円といふ巨額の資本 0 0 くろぎ 1 46 35 によつて、金融機関を作り低利で区民に貸与して、大いに便益を図り尚山林はネグ山に有名な瀬戸山がある。海岸の波止場の修築道路の改善何れもこの宝庫の賜である。次に本区の物産額を挙げよう。海苔1500円。若布1000円。天草1000 0 0 くろぎ 1 47 4 薪・問屋 円。さざえ、あはび500円。四ツ張網3000円。大小豆メメ600円。養蚕2000円。以上は問屋の手を経し売却した総額である田地は最近増加して約40石薪以上と云はれ年額2000俵といはれている。 0 0 くろぎ 1 47 12 青年団。本分団は毎月17日通常会(但し4月より9月まで臨時会)を開き議事5分演説を行ふとなつている。あの楽しいお正月と盆荷は地方もどりの若い人たちとお互ひに打ちとけて、親しく語らう友の懇親会がある。やがて夏さり秋のかぜ落葉落 0 0 くろぎ 1 47 17 葉のかさなりて霜おく頃をいになれば、夜学会この機会になつての若人の勉強ぶりは目覚ましいものだ。尚毎月修養雑誌を購入して常識養成に資している。など随分設備が行き届いている。御承知の通り当里は村でも随分有福な方だ補助金も、年々2 0 0 くろぎ 1 47 22 0円は下らないし之に団費を加へて、経費は充分にあるつもりだで将来はおなじみのラデオを備付け、一般公衆に供せんものとまで話が進んでいるから素的だ。又月18日には仕事を休み、撃剣(出稼人の寄贈による)をしたり娯楽として畜音機(川 0 0 くろぎ 1 47 27 崎吉太郎氏寄贈)をならして慰安をもとめている。 0 0 くろぎ 1 47 29 婦人会状況。Y、M生。明治44年1月15日呱々の声を挙げた吾が婦人会其後年を閲すると茲に20年、再来異常な発展振を示し好成績を示している事は周知の事実であります。例年の催として冬期(旧正月)を利用し(村及里補助により)料理講 0 0 くろぎ 1 47 35 習を実行しつつあるが、会員(現在40名)一同極めて熱心に受講する為め効果大いに見るべきものがあります。然るに緊縮だ節約だと叫ばれる今日猶も区民一同の切なる希望のもとに、多大の講演を得まして現に兩講習を行ふ事の出来たのは、誠に 0 0 くろぎ 1 48 4 里のため大婦人会諸君の為に欣ばしいことだと思ひます。この歴史ある立派な婦人会の会長を今回私が其の重任に当る事になりました。何分にふつつかものですが何分によろしく御援助の程を誌上をもって御願致す次第でございます。終にのぞみ皆様 0 0 くろぎ 1 48 10 方の益々御相健で御精励あらん事をお祈り致します。(昭和5年2月28日記) 0 0 くろぎ 1 49 1 他出者住所欄。▽島前。知夫村古海小学校、宇賀、岩倉吉次郎。 0 0 くろぎ 1 49 2 海士村菱浦若狭屋、物井、中田由松。 0 0 くろぎ 1 49 3 海士村菱浦郵便局、別府、木村邦一。 0 0 くろぎ 1 49 4 海士村菱浦大字東、別府、吾妻常男。 0 0 くろぎ 1 49 5 海士村中小学校、美田尻、岩佐久壽。 0 0 くろぎ 1 49 6 海士村菱浦小学校、大山、山本郁子。 0 0 くろぎ 1 49 7 菱浦、大山、門野伊勢吉。 0 0 くろぎ 1 49 8 浦郷村本郷、大山、川西才次郎。 0 0 くろぎ 1 49 9 海士村菱浦、大山、浜中斌。 0 0 くろぎ 1 49 10 海士小学校、市部、笠置真風。 0 0 くろぎ 1 49 11 海士小学校、小向、木村康信。 0 0 くろぎ 1 49 12 菱浦杉山丸船員、別府、山本乙次郎。 0 0 くろぎ 1 49 13 菱浦若狭屋、別府、大原石太郎。 0 0 くろぎ 1 49 14 菱浦小学校、別府、前田敦。 0 0 くろぎ 1 49 15 菱浦小学校、美田尻、川上駿。 0 0 くろぎ 1 49 16 菱浦岡田造船所、大津、山根吉次郎。 0 0 くろぎ 1 49 17 菱浦岡田造船所、大津、奥本只一。 0 0 くろぎ 1 49 18 菱浦岡田造船所、大津、里弥太郎。 0 0 くろぎ 1 49 19 菱浦岡田造船所、大津、山根喜代次郎。 0 0 くろぎ 1 49 20 菱浦岡田造船所、大津、山根正男。 0 0 くろぎ 1 49 21 菱浦小松屋発動機船員、美田尻、安部千代吉。 0 0 くろぎ 1 49 22 知々井、大津、浜田ハル。 0 0 くろぎ 1 49 23 知夫村、別府、浜タケ。 0 0 くろぎ 1 49 24 慶長丸、美田尻、小西才次郎。 0 0 くろぎ 1 49 25 慶長丸、美田尻、地徳石守。 0 0 くろぎ 1 49 26 慶長丸、美田尻、橋本才次郎。 0 0 くろぎ 1 49 27 慶長丸、美田尻、地徳伊太郎。 0 0 くろぎ 1 50 1 慶長丸、美田尻、川上百松。 0 0 くろぎ 1 50 2 慶長丸、美田尻、前南久次郎。 0 0 くろぎ 1 50 3 慶長丸、大山、浜根幸次郎。 0 0 くろぎ 1 50 4 金剛丸、大山、吉田倉次郎。 0 0 くろぎ 1 50 5 金剛丸、美田尻、犬谷唯美。 0 0 くろぎ 1 50 6 金剛丸、大津、小東勝次郎。 0 0 くろぎ 1 50 7 栄徳丸、美田尻、坂上角松。 0 0 くろぎ 1 50 8 住吉丸、大山、門野善太郎。 0 0 くろぎ 1 50 9 住吉丸、美田尻、中板竹次郎。 0 0 くろぎ 1 50 10 住吉丸、大山、和泉赳信。 0 0 くろぎ 1 50 11 島後。周吉郡西郷町指向、宇賀、青木ハル。 0 0 くろぎ 1 50 13 穏地郡五ケ村郡小学校、宇賀、岩倉静夫。 0 0 くろぎ 1 50 14 西郷西町、宇賀、伊勢千代松。 0 0 くろぎ 1 50 15 西郷中町、宇賀、鍛治秀次郎。 0 0 くろぎ 1 50 16 西郷西町、宇賀、近廻友若。 0 0 くろぎ 1 50 17 西郷西町、宇賀、近廻増太郎。 0 0 くろぎ 1 50 18 西郷西町、宇賀、宇野藤市。 0 0 くろぎ 1 50 19 西郷西町、宇賀、宇野長太郎。 0 0 くろぎ 1 50 20 西郷西町、宇賀、吉田清。 0 0 くろぎ 1 50 21 西郷西町ミソギヤ方、宇賀、木谷ハナ。 0 0 くろぎ 1 50 22 西郷西町、宇賀、みつぐや一族。 0 0 くろぎ 1 50 23 西郷町、物井、蛭子清貞。 0 0 くろぎ 1 50 24 中條村原田、別府、近藤保市。 0 0 くろぎ 1 50 25 隠岐高等女学校、別府、尾関八重子。 0 0 くろぎ 1 50 27 西郷指向、別府、秋田ヨキ。 0 0 くろぎ 1 50 28 西郷町、別府、宇野龍麿。 0 0 くろぎ 1 50 29 西郷西町、別府、毛利千太郎。 0 0 くろぎ 1 50 30 隠岐高等女学校、別府、毛利咲子。 0 0 くろぎ 1 50 31 西郷西町、別府、池田吉次郎。 0 0 くろぎ 1 50 32 西郷中町、中條屋方、別府、広瀬千代子。 0 0 くろぎ 1 50 33 隠岐商船水産学校、美田尻、近藤重治。 0 0 くろぎ 1 50 34 穏地郡五ケ村、美田尻、井上勘市。 0 0 くろぎ 1 50 35 隠岐高等女学校、美田尻、小西寿美江。 0 0 くろぎ 1 50 36 隠岐高等女学校、美田尻、岩佐智恵子。 0 0 くろぎ 1 51 1 隠岐商船水産学校、美田尻、大谷英寿。 0 0 くろぎ 1 51 2 西郷町、美田尻、谷口重太。 0 0 くろぎ 1 51 3 隠岐高等女学校、美田尻、渡部次子。 0 0 くろぎ 1 51 4 隠岐高等女学校、大山、浜根郁代。 0 0 くろぎ 1 51 5 西郷西町、別府、西市五郎。 0 0 くろぎ 1 51 6 西郷中町藤本屋商店、別府、米村亥太郎。 0 0 くろぎ 1 51 7 周吉郡中條村池田、市部、杉本ヒロ。 0 0 くろぎ 1 51 8 西郷町指向吉田建築部方、市部、梅谷ヨシ。 0 0 くろぎ 1 51 9 西郷町指向松前屋方、市部、堺秀松。 0 0 くろぎ 1 51 10 西郷町指向松前屋方、市部、岸田甚太郎。 0 0 くろぎ 1 51 11 西郷東町小川屋方、市部、笠置森吉。 0 0 くろぎ 1 51 12 隠岐高等女学校寄宿舎、小向、藤田ユキ子。 0 0 くろぎ 1 51 13 西郷西町、別府、宇野家治。 0 0 くろぎ 1 51 14 西郷西町、別府、宇野政雄。 0 0 くろぎ 1 51 15 西郷西町、別府、宇野重雄。 0 0 くろぎ 1 51 16 五ケ村、美田尻、井々博。 0 0 くろぎ 1 51 17 商船水産学校練習生、美田尻、板谷繁一。 0 0 くろぎ 1 51 18 西郷西町、別府、三田富次。 0 0 くろぎ 1 51 19 西郷西町、大山、奥本オワキ。 0 0 くろぎ 1 51 20 西郷華頂女学院、別府、前田光枝。 0 0 くろぎ 1 51 21 西郷西町、別府、大原佐市。 0 0 くろぎ 1 51 22 西郷西町、宇賀、宇野長次郎。 0 0 くろぎ 1 51 23 西郷西町、宇賀、小梨徳若。 0 0 くろぎ 1 51 24 西郷西町西一五郎方、宇賀、小浜文次郎。 0 0 くろぎ 1 51 25 西郷西町松之前屋方、市部、岸田甚太郎。 0 0 くろぎ 1 51 26 西郷西町松之前屋方、市部、堺秀松 0 0 くろぎ 1 51 27 島根県。松江市和田見町慈専寺内、近藤チカ。 0 0 くろぎ 1 51 28 松江市新雑賀町島田様方、蛭子光子。 0 0 くろぎ 1 51 29 松江市外中原町田下貫次郎方、小向、岡島梅造。 0 0 くろぎ 1 51 30 松江市南田町高谷治子方、大津、板脇ヨシ。 0 0 くろぎ 1 51 31 松江市外乃木村吉木木野福市方、物井、新谷静代。 0 0 くろぎ 1 51 32 松江市米子町37、物井、早田安太郎。 0 0 くろぎ 1 51 33 松江市米子町37、物井、早田嘉太郎。 0 0 くろぎ 1 51 34 松江農林学校、美田尻、村尾量作。 0 0 くろぎ 1 51 35 松江農林学校、小向、木村正行。 0 0 くろぎ 1 52 1 松江師範学校、別府、近藤恒雄。 0 0 くろぎ 1 52 2 松江師範学校、別府、伊藤専一。 0 0 くろぎ 1 52 3 松江63連隊、物井、木野福市。 0 0 くろぎ 1 52 4 松江63連隊、物井、山崎理市。 0 0 くろぎ 1 52 5 松江63連隊、美田尻、大中良市。 0 0 くろぎ 1 52 6 松江63連隊3中隊、小中政雄。 0 0 くろぎ 1 52 7 松江63連隊5中隊、野津仙吉。 0 0 くろぎ 1 52 8 松江63連隊9中隊、屋敷光吉。 0 0 くろぎ 1 52 9 松江中学校内、安達勇。 0 0 くろぎ 1 52 10 米子中学校内、安達考。 0 0 くろぎ 1 52 11 63連隊、美田尻、川上岩次郎。 0 0 くろぎ 1 52 12 北堀15、大山、坂本ナリ子。 0 0 くろぎ 1 52 13 松江63連隊、大山、柳谷宗一。 0 0 くろぎ 1 52 14 堅町中島屋呉服店、大山、上田正一。 0 0 くろぎ 1 52 15 京店菓子店、大山、近藤龍男。 0 0 くろぎ 1 52 16 苧町藤井軍一方、大山、浜直行。 0 0 くろぎ 1 52 17 外中原月照寺町石川製材所、大山、板脇ヨリヨ。 0 0 くろぎ 1 52 18 新雑賀町島田方、大山、蛭子光子。 0 0 くろぎ 1 52 19 北殿町柏木純一方、大山、上田千代子。 0 0 くろぎ 1 52 20 南田町、美田尻、川上清子。 0 0 くろぎ 1 52 21 殿町、美田尻、川上良。 0 0 くろぎ 1 52 22 米子町早田安太郎方、浜根久枝。 0 0 くろぎ 1 52 23 出雲今市町出雲絹糸工場、志田多ナツ。 0 0 くろぎ 1 52 24 出雲今市町製糸株式会社、木下ワキ。 0 0 くろぎ 1 52 25 出雲今市高女、勝部梅子。 0 0 くろぎ 1 52 26 出雲大社町奥谷町小林茂好方、宇野岩夫。 0 0 くろぎ 1 52 27 今市町出雲製織株式会社、三澤アサノ。 0 0 くろぎ 1 52 28 浜田水産試験場内、藤見俊治。 0 0 くろぎ 1 52 29 浜田水産試験場内実習部八十島丸、平木藤太郎。 0 0 くろぎ 1 52 30 浜田水産試験場内実習部八十島丸、梶田岩松。 0 0 くろぎ 1 52 31 浜田水産試験場博多出張所、小原福太郎。 0 0 くろぎ 1 52 32 簸川郡メメ冶村吉田千代蔵方、大上キン。 0 0 くろぎ 1 52 33 八束郡片江村惣津森脇徳太郎方、原秋治。 0 0 くろぎ 1 52 34 八束郡美保関町五本松旅館、山崎ミツ子。 0 0 くろぎ 1 52 35 島根県木炭検査所江津出張所、美田尻、川上登。 0 0 くろぎ 1 52 36 石見、吾妻謙吉。 0 0 くろぎ 1 52 37 美濃郡益田町、平野保一。 0 0 くろぎ 1 53 1 鳥取県。境町小松旅館、物井、真野ヨシ子。 0 0 くろぎ 1 53 3 境町真野旅館、物井、真野冬子。 0 0 くろぎ 1 53 4 境町真野旅館、物井、鼻スイ。 0 0 くろぎ 1 53 5 境町油屋旅館、波止、村田ツヤ。 0 0 くろぎ 1 53 6 境町岡田汽船会社鮮洋丸、物井、下中登美。 0 0 くろぎ 1 53 7 境町岡田汽船会社鮮洋丸、市部、富谷岩夫。 0 0 くろぎ 1 53 8 境町岡田汽船会社玄洋丸、物井、坂口福太郎。 0 0 くろぎ 1 53 9 境町岡田汽船会社玄洋丸、宇賀、柳谷重美。 0 0 くろぎ 1 53 10 境町岡田汽船会社玄洋丸、宇賀、柳谷竹雄。 0 0 くろぎ 1 53 11 境町岡田汽船会社円洋丸、大山、水口貞男。 0 0 くろぎ 1 53 12 米子市博愛病院、別府、吾妻タカ。 0 0 くろぎ 1 53 13 米子市美吉545、別府、近藤修三。 0 0 くろぎ 1 53 14 米子市茶町和田国造方、市部、山本オイシ。 0 0 くろぎ 1 53 15 米子市内町中村金物店、市部、梅谷ハル。 0 0 くろぎ 1 53 16 米子市加茂町大明館、市部、浜口ナツ。 0 0 くろぎ 1 53 17 米子東倉吉町桔梗屋呉服店、市部、梅谷房吉。 0 0 くろぎ 1 53 18 米子東倉吉町桔梗屋呉服店、大津、柳谷ツギ。 0 0 くろぎ 1 53 19 米子市遠藤商店、大津、柳谷アキ。 0 0 くろぎ 1 53 20 米子市四日市町瀬尾糸店、船越、平井サク。 0 0 くろぎ 1 53 21 米子市富士見町渡辺方、船越、竹谷リン子。 0 0 くろぎ 1 53 22 米子市富士見町渡辺方、美田尻、柘植儀。 0 0 くろぎ 1 53 23 米子市渡部菊方、船越、澤井キク。 0 0 くろぎ 1 53 24 境町岡田汽船鮮洋丸、大山、木村歳一。 0 0 くろぎ 1 53 25 境町岡田汽船鮮洋丸、物井、山崎浅次郎。 0 0 くろぎ 1 53 26 境町岡田汽船鮮洋丸、物井、山崎武夫。 0 0 くろぎ 1 53 27 境町高梨竹次郎方、大山、植田甚市。 0 0 くろぎ 1 53 28 日野郡福栄村福塚実業補習学校、美田尻、村尾富夫。 0 0 くろぎ 1 53 29 吉方村温泉、別府、村井リレ子。 0 0 くろぎ 1 53 30 米子市傘製造工場、宇賀、近廻リツ子。 0 0 くろぎ 1 53 31 米子市傘製造工場、宇賀、伊勢ヒナ子。 0 0 くろぎ 1 53 32 境町京町25、大山、三代治一。 0 0 くろぎ 1 53 33 境町八木橋店、市部、石塚フデ。 0 0 くろぎ 1 53 34 境町八木橋店、船越、道野なを。 0 0 くろぎ 1 53 35 境町角正一方、大津、木下ヨネ。 0 0 くろぎ 1 53 36 境町山本伯雲軒、小向、寺下由市。 0 0 くろぎ 1 53 37 境町駅前三ツ葉屋旅館、物井、坂口ヨネ子。 0 0 くろぎ 1 53 38 境町駅前三ツ葉屋旅館、物井、坂口ウメ。 0 0 くろぎ 1 54 1 境町坂口ウメ方、物井、坂口武夫。 0 0 くろぎ 1 54 2 渡村小野製糸場、小向、岡田ハン。 0 0 くろぎ 1 54 3 境町堀田石油店、大山、水口チヨ子。 0 0 くろぎ 1 54 4 境町万洋丸、物井、新宅秀夫。 0 0 くろぎ 1 54 5 境町白洋丸、物井、新宅岩夫。 0 0 くろぎ 1 54 6 境町白洋丸、宇賀、蔵谷オト。 0 0 くろぎ 1 54 7 境町白洋丸、美田尻、岩佐臺次郎。 0 0 くろぎ 1 54 8 境町白洋丸、大山、萬田亜雄。 0 0 くろぎ 1 54 9 境町川店、波止、村田ヨネ。 0 0 くろぎ 1 54 10 境町植村硝子店、市部、三角雪枝。 0 0 くろぎ 1 54 11 駅前通り岡田旅館方、市部、笠置ナミ。 0 0 くろぎ 1 54 12 駅前通り堀田石油株式会社、大山、水口カヨ。 0 0 くろぎ 1 54 13 米子市中町市役所通り脇田病院、船越、菊池コスギ。 0 0 くろぎ 1 54 14 米子市四日市町瀬尾糸店、船越、平井とめ。 0 0 くろぎ 1 54 15 米子市駅前木根村直二郎方、大津、桜内キク。 0 0 くろぎ 1 54 16 米子市日本製糸工場、大津、角市フデ子。 0 0 くろぎ 1 54 17 米子市内町中村金物店、大津、七類年春。 0 0 くろぎ 1 54 18 米子市糀町2丁目、大津、岡崎博子。 0 0 くろぎ 1 54 19 米子市角盤町、市部、山根オハツ。 0 0 くろぎ 1 54 20 米子市中町、市部、山根トキノ。 0 0 くろぎ 1 54 21 米子市内町中村方、大津、桶谷サク。 0 0 くろぎ 1 54 22 赤碕駅鳥取県稚場所、別府、西脇コウ。 0 0 くろぎ 1 54 23 米子市茶町豊後旅館方、船越、但馬キク。 0 0 くろぎ 1 54 24 米子市西町、大山、横棚和多利。 0 0 くろぎ 1 54 25 米子市内町、出羽昌恵方、市部、平木トシ。 0 0 くろぎ 1 54 26 境港幸町真木料理店、大津、梶本ナカ。 0 0 くろぎ 1 54 27 境港本町坪内院内、大津、新浜トヨ。 0 0 くろぎ 1 54 28 境港日之出町32里見封栄方、大津、中田ハル。 0 0 くろぎ 1 54 29 米子道笑町シンガ−裁縫女学院、物井、坂口フミ子。 0 0 くろぎ 1 54 30 佐伯郡渡村本庄司方、宇賀、高梨ゲン。 0 0 くろぎ 1 54 31 米子市倉吉町東京屋呉服店内、市部、田中久吉。 0 0 くろぎ 1 54 32 境大正町岡田汽船会社鮮洋丸、市部、富谷岩雄。 0 0 くろぎ 1 55 1 門司市庄司町6丁目下間浅一方、藤田徳太郎。 0 0 くろぎ 1 55 2 門司市税関港務部安達丸、吉本貞夫。 0 0 くろぎ 1 55 3 門司市税関港務部鐵メメ丸、塚本仙一。 0 0 くろぎ 1 55 4 門司市内浜町1丁目上組合資会社豊丸、吉野留一。 0 0 くろぎ 1 55 5 門司市宝来町3丁目安達吉次郎方、安達才次郎。 0 0 くろぎ 1 55 6 若松市本町2丁目三菱支店胡蝶丸、中山忠。 0 0 くろぎ 1 55 7 若松市海岸通り栃木商事会社千鳥丸、笠置辧一。 0 0 くろぎ 1 55 8 福岡市博多千歳町3丁目大成組、向原久一。 0 0 くろぎ 1 55 9 門司市祝町2丁目帝国サルヴェ−ジ会社、宮前秋雄。 0 0 くろぎ 1 55 10 門司市内本町2丁目八幡洋服店内、澤ツル子。 0 0 くろぎ 1 55 11 門司市上町2丁目、福田スイ子。 0 0 くろぎ 1 55 12 門司市久保町1丁目、船越、安達吉次郎。 0 0 くろぎ 1 55 13 門司市久保町1丁目安達吉次郎方、船越、安達義男。 0 0 くろぎ 1 55 14 門司市浜町1丁目上組合資会社豊丸、船越、平木松次郎。 0 0 くろぎ 1 55 15 門司市浜町1丁目上組合資会社豊丸、船越、吉野富市。 0 0 くろぎ 1 55 16 門司市宝来町3丁目安達商店内、市部、山根豊吉。 0 0 くろぎ 1 55 17 門司市宝来3丁目浜崎長市方、市部、笠置サワ。 0 0 くろぎ 1 55 18 門司市宝来3丁目浜崎長市方、波止、柳本長作。 0 0 くろぎ 1 55 19 門司市宝来3丁目浜崎長市方、波止、浜崎長市。 0 0 くろぎ 1 55 20 門司市旧門司井戸澤井善之丞方、大津、中田石太郎。 0 0 くろぎ 1 55 21 門司市陸軍運輸部門司出張所鶴丸、波止、東好松。 0 0 くろぎ 1 55 22 福岡市博多海岸通り一、物井、真野伊三郎。 0 0 くろぎ 1 55 23 福岡市千歳町3丁目島根水産株式会社大福丸、小西半太郎。 0 0 くろぎ 1 55 24 福岡市千歳町3丁目島根水産株式会社大的丸、大津、神原善太郎。 0 0 くろぎ 1 55 25 福岡市千歳町3丁目島根水産株式会社ことぶき丸、大津、神原松若。 0 0 くろぎ 1 55 26 福岡市千歳町3丁目島根水産株式会社大的丸、大津、神原喜代市。 0 0 くろぎ 1 55 27 西戸崎ライジングサン石油会社セ−ル丸、波止、小原臺次郎。 0 0 くろぎ 1 55 28 福岡市博多大浜海岸通り4丁目徳田様方、波止、福田善吉。 0 0 くろぎ 1 55 29 若松市浜ノ町山崎商店内、大津、紺谷成章。 0 0 くろぎ 1 55 30 若松市海岸通2丁目飯野商事会社大島丸、宇賀、浜本大次郎。 0 0 くろぎ 1 55 31 若松市戸畑市、宇賀、倉谷鐵郎。 0 0 くろぎ 1 56 1 若松市三井物産社会藤本丸、宇賀、蔵谷熊次郎。 0 0 くろぎ 1 56 2 下関奈良原海運店赤賀丸、別府、尾関才吉。 0 0 くろぎ 1 56 3 下関岬之町東洋捕鯨株式会社第1大正丸、美田尻、澤才太郎。 0 0 くろぎ 1 56 4 下関彦島町海上メメ29、大津、板脇才太郎。 0 0 くろぎ 1 56 5 下関彦島町海上メメ29、板脇セイ子。 0 0 くろぎ 1 56 6 下関彦島町海上メメ29、板脇成幸。 0 0 くろぎ 1 56 7 下関関釜連絡船昌慶丸、森下石太郎。 0 0 くろぎ 1 56 8 下関丸山町河本修一郎内、木下兵太郎。 0 0 くろぎ 1 56 9 下関関釜連絡船、浜田雄二。 0 0 くろぎ 1 56 10 下関大坪町233ノ2宇野方、宇賀、宇野みや子。 0 0 くろぎ 1 56 11 下関新地町73、宇賀、吉本弥次郎。 0 0 くろぎ 1 56 12 下関岬之町出光高会内松寿丸、宇賀、川上忠太郎。 0 0 くろぎ 1 56 13 下関西宗鮮魚部方大黒丸、物井、山木信市。 0 0 くろぎ 1 56 14 下関長崎町2229、船越、川上勝太郎。 0 0 くろぎ 1 56 15 戸畑市大渡通り山本収商店内、大山、萬田茂。 0 0 くろぎ 1 56 16 下関丸山町板谷百様方、別府、浜田才次郎。 0 0 くろぎ 1 56 17 門司市祝町帝国サルベ−ジ株式会社布引丸、大山、安木栄作。 0 0 くろぎ 1 56 18 若松市五段町1丁目、大山、水口菊次郎。 0 0 くろぎ 1 56 19 戸畑市大渡町241ノ1山本牧方、大山、山本幡雄。 0 0 くろぎ 1 56 20 戸畑市大渡町241ノ1山本牧方、大山、山本勉。 0 0 くろぎ 1 56 21 門司市畑田町2丁目、泉谷鶴松。 0 0 くろぎ 1 56 22 門司市水上警察署おほたか丸、波止、赤井保雄。 0 0 くろぎ 1 56 23 門司市旧門司井戸、船越、澤井善太郎。 0 0 くろぎ 1 56 24 門司市旧門司真光寺町4丁目、倉ノ谷、吉田幸一。 0 0 くろぎ 1 56 25 門司市久保町3丁目、倉ノ谷、中千代一。 0 0 くろぎ 1 56 26 門司市桟橋路通り8番地向山丸、倉ノ谷、大野久夫。 0 0 くろぎ 1 56 27 門司市祝町2丁目帝国サルヴエジ会社海元丸、倉ノ谷、福田熊次郎。 0 0 くろぎ 1 56 28 門司市三星倉庫会社瀬戸丸、倉ノ谷、吉本武夫。 0 0 くろぎ 1 56 29 門司市東庄司、宇賀、下問浅市。 0 0 くろぎ 1 57 1 門司市東庄司、宇賀、下問秀松。 0 0 くろぎ 1 57 2 門司市陸軍運輸部門司出張所鶴丸、宇賀、吉本住盛。 0 0 くろぎ 1 57 3 門司市新町3丁目船本栄二郎方、市部、中村節夫。 0 0 くろぎ 1 57 4 下関市外彦島西山彦島製煉所彦島丸、波止、小原喜義。 0 0 くろぎ 1 57 5 門司市税関港務部大白山丸、別府、佐々岡勇作。 0 0 くろぎ 1 57 6 下関市西大坪町、別府、石塚イト。 0 0 くろぎ 1 57 7 下関市西山町、別府、板谷トヨ。 0 0 くろぎ 1 57 8 若松市海岸通り1丁目山九運輸株式遼陽丸、別府、佐々岡金松。 0 0 くろぎ 1 57 9 戸畑市築路町2丁目橋本海員部、別府、宇野鶴松。 0 0 くろぎ 1 57 10 若松市美中板才若下関市岬之町東洋捕鯨株式会社第1大正丸、別府、太田伊勢太郎。 0 0 くろぎ 1 57 11 若松市彦島老区281、大山、板脇才太。 0 0 くろぎ 1 57 12 福岡県戸畑市太池町2丁目、大山、山本徹。 0 0 くろぎ 1 57 13 福岡県戸畑市大渡通り241ノ1、大山、山本牧。 0 0 くろぎ 1 57 14 福岡県戸畑市大渡通り241ノ1山本収方、大山、萬田茂。 0 0 くろぎ 1 57 15 福岡県戸畑市大渡通り241ノ1山本収方、大山、萬田久子。 0 0 くろぎ 1 57 16 門司市税関港務部桜丸、別府、吉田忍。 0 0 くろぎ 1 57 17 門司市税関港務部安達丸、別府、坂栄光儀。 0 0 くろぎ 1 57 18 門司市桟橋通り1丁目橋本商店明丸、別府、吾妻成松。 0 0 くろぎ 1 57 19 門司市幸町7丁目吉本灘吉方、別府、京谷乙若。 0 0 くろぎ 1 57 20 門司市畑田町2丁目宇賀、泉谷サイ。 0 0 くろぎ 1 57 21 福岡市博多馬出上町3丁目11、市部、前田鐵男。 0 0 くろぎ 1 57 22 福岡市石城町3丁目松浦昌三方、波止、平野精一。 0 0 くろぎ 1 57 23 福岡市石城町3丁目、波止、松浦昌三。 0 0 くろぎ 1 57 24 八幡製鐵所構内商事会社八幡丸、船越、梅谷乙市。 0 0 くろぎ 1 57 25 福岡市博多市千歳町3丁目島根水産株式会社、宇賀、小新喜吉。 0 0 くろぎ 1 58 1 若松市浜ノ町栃木造船所第三相生丸、宇賀、川崎村市。 0 0 くろぎ 1 58 2 若松市海岸通り2丁目飯野掃除会社、宇賀、木谷クメ。 0 0 くろぎ 1 58 3 下関市大坪町安部吉太郎方、倉ノ谷、吉田ハナ。 0 0 くろぎ 1 58 4 下関市西大坪町幸町、倉ノ谷、大野伝一。 0 0 くろぎ 1 58 5 下関市彦島町老区、船越、宇野条太郎。 0 0 くろぎ 1 58 6 下関市彦島町老区、船越、宇野友太郎。 0 0 くろぎ 1 58 7 下関市岬之町櫛谷栄助様方第5鴨丸、波止、藤森岩吉。 0 0 くろぎ 1 58 8 下関市園田町208大空様方、波止、村田定義。 0 0 くろぎ 1 58 9 下関市長崎町桑ノ内228、波止、泉金太郎。 0 0 くろぎ 1 58 10 下関市彦島江ノ浦大阪鐵工所、波止、小原才作。 0 0 くろぎ 1 58 11 大阪府。大阪市西淀河区大仁東2丁目三村清方、大津、岩井ユキ。 0 0 くろぎ 1 58 13 鴫野鐘紡社宅252、大津、岩井等。 0 0 くろぎ 1 58 14 港区石だ町岡田支店内、大津、福岡フデ。 0 0 くろぎ 1 58 15 港区石だ町岡田支店内、大津、福岡清二郎。 0 0 くろぎ 1 58 16 港区石だ町岡田支店内、大津、福岡幸吉。 0 0 くろぎ 1 58 17 此花区江成町128程野商店内、船越、小西豊一。 0 0 くろぎ 1 58 18 西区本田3番町192生駒カナ方、船越、吉野徳次郎。 0 0 くろぎ 1 58 19 南区安堂寺橋通り1丁目山木汽船株式会社遼東丸、市部、梅谷又由。 0 0 くろぎ 1 58 20 港区古川町10上川祐次郎方、市部、梅谷乙一。 0 0 くろぎ 1 58 21 港区八幡屋浮島町2丁目223木村久太郎方、倉ノ谷、大上治。 0 0 くろぎ 1 58 22 港区北境川町29真野福一方、倉ノ谷、宇野房松。 0 0 くろぎ 1 59 1 大阪府中河内郡英田村吉田、宇賀、宇野栄。 0 0 くろぎ 1 59 2 大阪市港区幡尾町2ノ248酒井方、宇賀、尾敷良夫。 0 0 くろぎ 1 59 3 此花区新家町24有馬在吉方、宇賀、宮前増市。 0 0 くろぎ 1 59 4 北区天神橋筋4丁目17近藤方、倉ノ谷、本田邦松。 0 0 くろぎ 1 59 5 東淀川区今里町25芦森綱所、倉ノ谷、本田頼光。 0 0 くろぎ 1 59 6 三島郡芥川町35、別府、加藤石馬。 0 0 くろぎ 1 59 7 東成区北生野町1ノ24岩佐義男方、美田尻、岩佐清四郎。 0 0 くろぎ 1 59 8 北区宗是町1番地大阪ビルデング6階岡田海運紹介社信洋社、大山、木村臺吉。 0 0 くろぎ 1 59 9 北区宗是町1番地大阪ビルデング6階岡田海運紹介社信洋社、大山、上田勝成。 0 0 くろぎ 1 59 10 大阪市、別府、千田長二郎。 0 0 くろぎ 1 59 11 大阪市、別府、水口才若。 0 0 くろぎ 1 59 12 北区天神橋筋6丁目片桐富太郎方、別府、近藤英行。 0 0 くろぎ 1 59 13 北区市之町22斎藤方、別府、島田光夫。 0 0 くろぎ 1 59 14 西成区南吉田町30番地天野方、別府、羽山貞夫。 0 0 くろぎ 1 59 15 港区古川町28、別府、小西力太郎。 0 0 くろぎ 1 59 16 港区池島町1丁目三本松自動車工作所、別府、小西伝市。 0 0 くろぎ 1 59 17 港石田呉服町3丁目146ノ2山口喜代吉方、別府、中田円次郎。 0 0 くろぎ 1 59 18 港区古川町56、別府、近藤倍蔵。 0 0 くろぎ 1 59 19 港区千代見町4丁目26坪坂方、別府、近藤秋子。 0 0 くろぎ 1 59 20 尼ケ崎汽船正吉丸、別府、木村鐵一。 0 0 くろぎ 1 59 21 西区本田三番町兼松方、別府、近藤梢。 0 0 くろぎ 1 59 22 此花区四貫島春日出町1丁目村尾晋作方、別府、近藤清子。 0 0 くろぎ 1 59 23 東成区鴫野町33、美田尻、村尾重美。 0 0 くろぎ 1 59 24 東成区北生野町1丁目24、美田尻、岩佐義男。 0 0 くろぎ 1 59 25 東区両替町1丁目29由利石鹸製造所、美田尻、下中亜雄。 0 0 くろぎ 1 59 26 東区鴫野町709、美田尻、大上トモ。 0 0 くろぎ 1 60 1 岸和田市下野町8048ノ14、拾、大上寿一。 0 0 くろぎ 1 60 2 大阪商船会社姫川丸、拾、大上シゲ。 0 0 くろぎ 1 60 3 東成区鴫野町709、拾、大上タケ。 0 0 くろぎ 1 60 4 港区市岡町2丁目16富田カネ方、拾、大上スズ子。 0 0 くろぎ 1 60 5 北区中之島7丁目池田商事会社クロガネ丸、拾、岡崎才吉。 0 0 くろぎ 1 60 6 大阪商船株敷会社利根川丸、大山、橋本角一。 0 0 くろぎ 1 60 7 港区千代見町4丁目22、大山、坪坂浦太郎。 0 0 くろぎ 1 60 8 港区天保町11野村与三郎方、大山、坪坂サイ。 0 0 くろぎ 1 60 9 西成区鶴見橋通り47新谷儀三郎方、大山、蛭子寿雄。 0 0 くろぎ 1 60 10 東区材木町31浜田一松方、大山、森岡音吉。 0 0 くろぎ 1 60 11 港区八雲町4丁目31、大山、中西松次郎。 0 0 くろぎ 1 60 12 此花区春日出町大同電力会社長仁丸、船越、川崎曠。 0 0 くろぎ 1 60 13 泉南郡北掃村守礎上綿業部内、船越、道野マツ。 0 0 くろぎ 1 60 14 北区堂島仲1丁目17南辰之助方、 0 0 くろぎ 1 60 15 北区板橋登同大阪商船株式会社朝熊丸、船越、安達賢次郎。 0 0 くろぎ 1 60 16 港区八幡屋町中通り3丁目110番地、小向、富田兵太郎。 0 0 くろぎ 1 60 17 港区八幡屋町中通り3丁目110番地、小向、富田亀次郎。 0 0 くろぎ 1 60 18 港区八幡屋町、小向、福島由信。 0 0 くろぎ 1 60 19 港区鶴通階島商会事務所、小向、中島政市。 0 0 くろぎ 1 60 20 西成区玉出町通り4丁目36、小向、奥田才次郎。 0 0 くろぎ 1 60 21 西成区新町南通り3丁目5番地、小向、奥田島太郎。 0 0 くろぎ 1 60 22 西成区桜通り横井清太郎方、小向、藤田才次郎。 0 0 くろぎ 1 60 23 西区靱上通り1丁目藤井商店内、小向、鹿島ナツ子。 0 0 くろぎ 1 60 24 西区江戸堀61番地中西百蔵方、小向、鹿島トメ子。 0 0 くろぎ 1 61 1 港区八幡屋町中通り3丁目110、大津、平木福一。 0 0 くろぎ 1 61 1 港区八幡屋町中通り3丁目110富田兵太郎方、市部、堺力雄。 0 0 くろぎ 1 61 2 港区八幡屋町中通り3丁目97、大津、平木宝一。 0 0 くろぎ 1 61 2 港区田中本町1丁目149久保田友一方、市部、梶田乙一。 0 0 くろぎ 1 61 3 港区八幡屋町中通り3丁目110、大津、佐原亀若。 0 0 くろぎ 1 61 3 岸和田市外津田東津麻糸会社内、波止、東ヒロ子。 0 0 くろぎ 1 61 4 港区9條通り1丁目96番地五坂ヒサ方、田畑安吉。 0 0 くろぎ 1 61 4 西淀川区大仁本町16木村テル方、波止、富谷イソ。 0 0 くろぎ 1 61 5 西区北堀江上4ノ2藤友商店徳川丸、大津、岩井岩次郎。 0 0 くろぎ 1 61 5 港区泉屋町上通り3丁目11番地松浦周一方、波止、松浦ヒロ。 0 0 くろぎ 1 61 6 大阪商船株式会社早靱丸、大津、川井市太郎。 0 0 くろぎ 1 61 6 神楽 港区石田神楽町36番地築地藤平方、波止、倉田岩市。 0 0 くろぎ 1 61 7 西淀川区大仁東2丁目1ノ33村清方、川井善市。 0 0 くろぎ 1 61 7 北区堂本町内外莫大小製造販売小松儀一方、波止、平野源之助。 0 0 くろぎ 1 61 8 西淀川区海老江町下1丁目31、大津、新浜勝。 0 0 くろぎ 1 61 8 港区石田町18岡田育店方<エ37号、波止、倉田八郎。 0 0 くろぎ 1 61 9 港区古川町20番地川上方、大津、新浜茂喜。 0 0 くろぎ 1 61 9 東成区鴫野町199番地崎山孫一方、波止、倉田忠。 0 0 くろぎ 1 61 10 此花区西九條上通り、大津、桶谷元一。 0 0 くろぎ 1 61 10 港区田中元町1丁目149久保田友市方、波止、渡作太郎。 0 0 くろぎ 1 61 11 此花区大同電力株式会社第2長力丸、大津、福岡忠雄。 0 0 くろぎ 1 61 11 港区八幡屋町334、波止、川井才次郎。 0 0 くろぎ 1 61 12 港区八幡屋町雲井町、大津、岡田安一。 0 0 くろぎ 1 61 12 大阪市外大軌線布施駅前ヒバリヤ書店内、波止、村田敏夫。 0 0 くろぎ 1 61 13 東淡路町1丁目大手橋1丁目西詰大木合名会社大阪支店、大津、佐倉清。 0 0 くろぎ 1 61 13 港区市場通り正木堅造方、宇賀、屋敷行之進。 0 0 くろぎ 1 61 14 港区古川町20番地川上祐次郎方、大津、新浜松若。 0 0 くろぎ 1 61 14 港区抱月町6番地小浦若松方、宇賀、島根タカ。 0 0 くろぎ 1 61 15 港区古川町20番地川上祐次郎方、大津、新浜定雄。 0 0 くろぎ 1 61 15 大阪商船賀部式会社天保山支店那智丸、宇賀、小新歳雄。 0 0 くろぎ 1 61 16 泉南郡春木町礎之上綿業部、市部、山本カネ。 0 0 くろぎ 1 61 16 此花区新家町1丁目24藤澤方、宇賀、岩倉敏雄。 0 0 くろぎ 1 61 17 泉南郡春木町礎之上綿業部、市部、山本マツ子。 0 0 くろぎ 1 61 17 港区八幡屋町大通1丁目166張磨伝之助方、宇賀、小新トメ。 0 0 くろぎ 1 61 18 泉南郡春木町礎之上綿業部、市部、堺ナリ。 0 0 くろぎ 1 61 18 大阪商船株式会社安南丸、倉ノ谷、由良吉次郎。 0 0 くろぎ 1 61 19 西区北堀江通り平見歯科病院内、市部、出石キサ子。 0 0 くろぎ 1 61 19 港区八幡屋1丁目、倉ノ谷、徳島菊次郎。 0 0 くろぎ 1 61 20 東淀川区豊菅原町38益富方、市部、浜口勘一。 0 0 くろぎ 1 61 20 港区音羽町3丁目8鍛治春市方、倉ノ谷、谷谷敷定雄。 0 0 くろぎ 1 61 21 港区八雲町4丁目中西松次郎方、市部、竹谷米松。 0 0 くろぎ 1 61 21 此花区福島北4丁目47明石一郎方、倉ノ谷、大野繁美。 0 0 くろぎ 1 61 22 港区辰巳町3丁目下田中和堂書籍文具店内、市部、三角国市。 0 0 くろぎ 1 61 23 東成区鴫野町495大場芳川方、市部、山本秋太郎。 0 0 くろぎ 1 62 22 南区道頓堀松屋町角柏木洋服店、物井、大上長太郎。 0 0 くろぎ 1 63 1 天王寺区上本町5丁目15番地一井国造方、物井、山木重由。 0 0 くろぎ 1 63 2 浪速区岡平町1013番地高橋哲造方、物井、新川ツヤ。 0 0 くろぎ 1 63 3 港区市場通り3丁目2ノ2、物井、上百太郎。 0 0 くろぎ 1 63 4 北区中之島町7丁目池田商事会社クロガネ丸、物井、上房市。 0 0 くろぎ 1 63 5 港区市場通り3丁目2ノ2上百太郎方、物井、上直市。 0 0 くろぎ 1 63 6 港区市場通り3丁目2ノ2上百太郎方、物井、上テフ。 0 0 くろぎ 1 63 7 北区宗是町大阪ビル内攝津商船会社運天丸、物井、山根武美。 0 0 くろぎ 1 63 8 東成区鴫野町木村洋服店、物井、真野甚太郎。 0 0 くろぎ 1 63 9 港区千代見町22坪坂浦太郎方、物井、真野権市。 0 0 くろぎ 1 63 10 天王寺区上本町5丁目15、物井、島津庄一。 0 0 くろぎ 1 63 11 天満波1丁目26宅間方、物井、川上作一。 0 0 くろぎ 1 63 12 南区道頓堀筋二ツ井戸松屋町角方、物井、中島林太郎。 0 0 くろぎ 1 63 13 東淀川区豊橋通り2丁目76中村方、物井、鼻久市。 0 0 くろぎ 1 63 14 港区南通り1丁目760松山与市方、物井、鶴谷千代野。 0 0 くろぎ 1 63 15 東成区鴫野町木村洋服店方、物井、真野冬子。 0 0 くろぎ 1 63 16 浪浪浪速区円手町1012高橋哲造方、物井、新川高吉。 0 0 くろぎ 1 63 17 港区富島町尼ケ崎汽船会社天正丸、物井、油井春雄。 0 0 くろぎ 1 63 18 東淀川区南浜町3丁目10山田敬次郎内、倉ノ谷、吉田長次郎。 0 0 くろぎ 1 63 19 四条通り3丁目32川口登美方、宇賀、浜本万市。 0 0 くろぎ 1 63 20 大阪商船株式会社室戸丸、宇賀、浜本長若。 0 0 くろぎ 1 63 21 大阪商船株式会社北羅夫丸、宇賀、浜本春吉。 0 0 くろぎ 1 63 22 大阪商船株式会社福州丸、宇賀、平田静次郎。 0 0 くろぎ 1 63 23 東淀川区天神橋筋9丁目34、宇賀、平田鉄男。 0 0 くろぎ 1 64 1 西淀川区大仁本町3丁目416、宇賀、牧田マツ。 0 0 くろぎ 1 64 2 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、屋敷キヌ。 0 0 くろぎ 1 64 3 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、山根オクン。 0 0 くろぎ 1 64 4 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、宮前オキン。 0 0 くろぎ 1 64 5 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、山根スエ子。 0 0 くろぎ 1 64 6 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、澤ツル。 0 0 くろぎ 1 64 7 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、蔵谷ブン。 0 0 くろぎ 1 64 8 三島郡島本村山崎絹糸工場、宇賀、木谷ツイ。 0 0 くろぎ 1 64 9 三島郡島本村山崎絹糸工場、