「隠岐焚火ノ社」

初代広重              

     




二代広重

「焚火ノ社」の浮世絵は「北斎漫画」七編の中に出ているが、これは諸国名所 絵としては早い頃の作品であろう。北斎、広重は風景画の二大作家として有名 であるが、広重が「東海道五十三次」を発表してより以降は風景画の方は広重 の方が世にもてはやされるようになった。初代広重は諸国名所絵を何度も画い ているが、その一つである「諸国六十八景」は早い時期のもので、後に「六十 余州名所図絵」を画くが、そのいずれにも隠岐の代表ととして「焚火の社」を 選んでいる。本画は二代広重で「諸国名所百景」と題して初代広重に習って隠 岐では焚火社を画いた。焼火信仰の特色は「神火示現」の信仰でそれが為に航 海安全の神として船人等の強い信仰を受けていた。ここに画かれているのも北 前船に於ける海上安全を祈る「献灯」の行事である。ただし、北斎・広重共に 山陰を訪ねた証はないので恐らく江戸に於いて「献火」の事を聞いて画材とし たものであろう。二代広重も初代広重に習って構図をすこしかえて画いたと思 われる。 初代広重「焚火の社」 「焚火の社」は「六十余州名所図絵」のものでこの方は「献火行事」でなく舳 で御幣を振っている図になているが、このような行事があったかどうかは詳ら かでない。 (松浦記)『隠岐の文化財十三号』


隠岐・焚火ノ社

葛飾北斎

隠岐島前の焼火権現の信仰は島内のみでなく、日本海航路の開発と
共にその信仰圏は、日本海沿岸から東北の太平洋岸にまで及んでいた。この船
人の信仰を、北斎・広重共に画いている。本図は北斎漫画(文化十一年から刊
行十五編ある)七編の中にある「諸国名所絵」の中に画かれているもの。焼火
信仰の特色は神火示現の信仰で、航海安全の神として船人の間に強い尊崇を受
けていた。ここに画かれている図柄も北前船における海上平穏を祈る献灯の行
事を画いたもので、この作法は明治初年頃まで行なわれていたという。

葛飾北斎
(一七六〇〜一八四九)江戸本所割下水に生れ、九〇歳の長寿を保ち、うまず
たゆまず画作につとめた人であるから、各時期に応じて画格に変化がある。北
斎は数多くのいわゆる「名所絵」を画いているが、すべて現地に往き写生して
画いたわけではなく(北斎、広重共に山陰にきた事実はないという)、想像に
よって画かけたものも多い。この「焚火ノ社」も江戸に於て焼火社の信仰の話
を聞いて想像して画いたものであろう。話はちょっとそれるが、焼火権現から
今も出している「神銭守(ぜにまもり)」は江戸時代年間相当多くの数を江戸
に送って頒布していたので記録もあるから隠岐を知らぬ江戸の庶民も「神銭
守」を通じて焼火信仰の話を聞いたのであろう。神銭守の事は玩銭蒐集家の残
した「板児録」という記録の中にも出ている。また、この神銭守の事は「焼火
山縁起」の中にも一項を設けてのべられている。なお、現在は「焼火」と書く
のが普通であるが、江戸期には焚火、託日とも書れ、ちょっと変っているのは
離火とも書かれているが、いずれも焼火の事である。(松浦康麿記)『隠岐の
文化財十五号』


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