はい。ノロケます。
ノロケがうっとうしい方は、早く逃げてください。
あたしは、だーりんが好きです。
好きで好きで好きで好きで、そりゃぁもう好きで。(笑)
笑っちゃうくらい、泣きたいくらい好きです。
毎日、何しててもだーりんのことが頭にあります。
笑っちゃうし、恥ずかしい話ですが、好きはどんどん増えてます。
そりゃ、むかつくことは多々あるし、げんなりしたり、殴りたくなる時も数知れず。
別れちゃろっかな、とほんの少しだけ頭をかすめることもごくたまに。
夜、同じ布団で寝るのが、むっちゃくちゃ嫌なときもある。
一挙一動全て気に障る日もよくある。
でも、とってもとっても好きなんだなぁ。
本気で愛してる。
いつもべたべたとひっついてます。
不思議です。
頭のよさも、人間の大きさも、子供っぽいところも、えっちなとこもあれもこれもやれもそれも全部。
好きっ!
まだ子供がいないからかもしれませんが、まだ感覚としては、夫婦というより、恋人同士といった感覚です。
あたしの恋愛は、今までも結構長いものが多かったですが、大体途中で何度か倦怠期やら、本気で別れたい衝動やら、よそ見したい願望やら、ちょっとよそ見やらが訪れてます。
でも、だーりんと付き合い始めてから今までの3年弱であまりそういうものが訪れてないことに気づきました。
これから来るのでしょうか?
結婚したら、だーりんは変わりました。
でも、きっとあたしも変わりました。
なんで恋人だったときはあぁだったのにぃいいいっと思うことはたくさんありますが、向こうもきっと同じでしょう。
でも、それは付き合っててもあるけどね。
付き合い始めの頃は、あんなに優しかったのに、最近そっけないわっ。とか、えっち毎日してたのにっ。とか。
良く聞くよね。
そういう表面上の変化みたいなもの以上に、何か本質的な部分で変化するのが結婚だったりする。
無意識にどこかで縛られてるのか、安心してるのか。
よくはわからないけど。
付き合っていた期間が短かったので(1年ちょっとで結婚したからね)、二人の間に流れる空気みたいなものは完成されてなかった。
どういうことかと言うと。
付き合いが長くなるにつれて、二人の間に流れる空気が確立していってしまう。
あたしたちは、こういうもんだ。
この人はこういう人だ。
あたしの役割はこんな感じ。
でも、結婚すると、人は変わります。
男も女も。
変わってないようでも、気づいてないようでも変わります。
安心するのかダレルのか。
なぜなのか、なんなのか。
たかが紙切れ一枚。
されど紙切れ一枚なのかもしれません。
空気が確立しちゃってると、結婚してからの相手の変化に耐えられなくなっちゃうことがあるのかもしれない。
よくあるじゃん。
10年付き合ってたのに1年で離婚とか。
前は、なんで10年も付き合ったのに1年で離婚???
と、理解不能だったけど、結婚した今ならなんとなく分かる。
そう考えると、あたしたちは、まだ未知の部分が多いとお互いに思っているから、相手の違う面を見たとき、それを変化ではなく、発見と感じるのかもしれない。
人にはいろんな顔があって、いろんな役割を相手によって意識的にも無意識的にも使い分けてると思う。
付き合いが長くなると、相手を自分は知り尽くしてると勘違いする。
けどそれは。
思い上がりってもんだ。
ある環境で、ある相手に対して、のその人の顔というものが存在するわけで、環境が変わったり、相手が変われば、その人はまったくの別人にだってなりうる。
自分というものは、環境やとりまく人々と切り離すことはできない。
今の自分を作り上げている重要な要素だから。
ひとりで何もないところで育ってきたわけではないから。
もちろん、環境やとりまく人々で自分の価値が決まるわけじゃない。
あたしはあくまでもあたし。
だーりんはあくまでもだーりん。
子供はあくまでも子供。
分身でも所属品でも所有物でもなんでもない。
けど、どこで価値を決めるのかは、評価する相手次第。
環境や条件など、周りにペタペタくっついてるものを重視する人もいるだろう。
環境を取っ払った、本人そのもので判断する人もいるだろう。
1つの顔しか見えてない人ならば、そこでしか、相手に対しての価値を見出さないかもしれない。
所有物としか見てくれない人もいるだろう。
自分にとって不本意なところを評価の対象とする人がいることを、知ることはとても大切だけど、無理してくっついている必要はないと思う。
疲れるだけだ。
無理して疲れる道を選ぶ必要はない。
一緒にいて幸せだと思える、自分が自分らしく、好きな自分でいられる相手と過ごす。
そういう相手を選ぶ目が大切。
一緒にいると、どんどん自分を嫌いになっていってしまうような人と一緒にいたら、人間が曲がる。
顔もブサイクになる。
自分を自分が一番好きでいてあげなくて、一体誰に好いてもらえるというのでしょう。
自分が好き。
相手はもっと好き。
こうじゃなきゃ、その好きは長続きしない。
話がそれました。
顔の話に戻ります。
相手に興味があれば、好きという気持ちがあれば、他の顔を探したいと思うのではないだろうか。
相手の顔はそれだけだと思い込むほうがおこがましい。
自分と一緒にいるときだけが、世界の全てではないのだから。
周りにくっついてるものを全て取っ払ったその人と向き合いたいと思ったら、いろんな顔を探すべきなのではないだろうか。
いや、探したって見れない顔はたくさんあるから、いろんな顔があるということを受け入れるべきとでも言おうか。
友達の前での顔。
親の前での顔。
兄弟の前での顔。
会社での顔。
自分といるときの顔。
誰にも見せていない一人きりのときの顔。
たぶん、どれも違うはず。
だけど、どの顔も真実だ。
顔を変えることに嘘偽りがあるわけじゃない。
その全ての顔に意味がある。
二人でいる時間が長くなるにつれて、相手の顔が変わってきたのなら、二人の関係が変わってきたということだし、それによって、自分の顔も変わってるはず。
二人で生み出した空気を、あなた変わってしまったわ!許せない!と憤るのはおかしい。
それは、そのまま相手といる自分も変わったということ。
お互い変わっていくものなのだ。
いつまでも同じ環境で同じ自分であるわけがない。
変化していく自分を自然に受け入れているように、相手の変化も自然に受け入れるべきだ。
それが、できなくなったとき、二人の関係は終わるんだろう。
「変化」ではなく「新たなる発見」と思えば、相手のいろんな顔を見るたびに楽しく感じられると思う。
相手を好きであるならば。
好き、という気持ちはとても大切。
きっと、この世界で一番尊い気持ちだろう。
束縛したい気持ちも、独占したい気持ちも、相手の全てを知りたいと思う気持ちも、誰しもが持っている。
けれど、相手を好きで信じていたら、目の前のその人をしっかり見つめているなら、そんなことはほんとはどうでもいい。
それに、そんなのが実現しちゃったらつまらない。
知らない部分がたくさんあった方がたのしい。
自分のモノにならない部分がある方がもどかしくていい。
数々の相手に対する欲は、不安の裏返しなんだろうなぁ。
好きだから知りたい。
好きだから分かって欲しい。
好きだから一緒にいたい。
好きだから心配。
でも本当は。
好きだからずっと幸せであって欲しい。
できれば私と一緒に。
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