立ち飲み屋の社会学
〜東京の地に足の着いた消費の姿〜

僕はここ数年「立ち飲み屋」に注目している。比較的小さな店舗に、ぎっしりと顧客を詰め込むために立ったままで飲食することを強要する空間が「立ち飲み屋」である。「立ち飲み屋」の立地は、基本的にビジネス街に隣接する地域である。丸の内に対する八重洲。霞ヶ関及び銀座に対して新橋或いは虎ノ門、浜松町。青山に対して渋谷。それに、我が田町近辺も「立ち飲み屋」カルチャーが席巻する地域である。

「立ち飲み屋」の顧客は言うまでも無くサラリーマン層である。しかもかなり年季の入ったコッテリしたサラリーマンの方々である。(そういう自分も一員ではあるが) 客単価は、店毎に差があるものの、おそらく¥2000〜¥2500程度と思われる。安い串焼きなどを肴にビールやチュウハイで一杯やるというのが基本的なスタイルである。

僕が「立ち飲み屋」に注目するのは、極めて地に足の着いた消費の臭いを感じるからだ。顧客はアルコールに踊らされることはあっても、決してイメージに踊らされてはいない。会社や家庭で(きっと)カッコ悪くても、ココで見かけるオジサマ群は結構立派な消費者だ。場合によっては高校生の娘よりも少ない可処分所得で、しかも多頻度の飲食を可能にするための「賢い選択」がこの「立ち飲み屋」に集約されているのだ。

僕が主に足を向ける「立ち飲み屋」は2軒。渋谷の「富士屋本店」、三田の「二合半」である。渋谷の「富士屋」は東急プラザ側の246を越えた先、池辺楽器の近くの地下にある。ここのリベラルな雰囲気は特殊である。ビールは生ビールが¥550、サッポロ黒ラベルの大瓶が¥500である。店内を見渡してみる。誰も生ビールを飲んでいない。そう、ここは徹底したコストコンシャスネスが通奏低音のように流れている店なのだ。何しろ酒の肴はその多くが¥150くらい。この店で一番高いのは¥350の「マグロ中落ち」なのだ。

そんな店だから、顧客のオジサマたちも何の心配もない。自信たっぷりに飲んでいる。しかもこの店は「ペイオンデリバリー・システム」を採用している。つまり、酒や料理が目前に来た際に支払うシステムなのだ。よってオジサマたちは、目の前にその日飲める分だけのお金(コインや¥1000札)を積んでいたりする。カッコイイ。まるでラテンの国みたいじゃないか。ここには、まさに等身大の日本人の消費がある気がする。

これが日本の真の姿だとすると、GDPはポルトガル程度、良くてもスペインどまりというところだろう。でもそれでもいいじゃないか。自分たちがどんなもんか、分かってからもっと美味いものを食べに行けばいいだけじゃないか。

「立ち飲み屋」のいい所は当たり前だが、「立って飲む」という点にある。人間「立って」いると、ポジティブになるから不思議だ。「立ち飲み屋」にいるオジサマたちはほとんどと言っていいほど、愚痴っていない。みんなシャンとして、前を見て、楽しそうに話をしている。それもこれも「無理していないから」だ。等身大で「立っているから」だ。

正直、めちゃめちゃ美味い「立ち飲み屋」なんか、そうはない。でも「立ち飲み屋」の空気は元気になる。かつて都市国家が歴史上に姿を見せ始めた頃、あれは誰の言葉だったろう。「都市の空気は自由にする」という言葉。東京という街の中で「都市の空気を呼吸したいから」僕は「立ち飲み屋」に行くのかも知れない。「立ち飲み屋」は動いている東京を肌で感じられる、数少ないリアルを僕に与えてくれる掛けがえのないサンクチュアリなのだ。