今夜ほど期待とマッチした演奏会もそうはない。外来オーケストラと有名指揮者の組み合わせなど高いお金を出して聴きに行くと「なんだかなあ」という演奏会でも「まあ、よかったよな。あそこの対旋律の歌わせ方なんかな、…」などと合理化機性が首をもたげちゃうのが常なのだが、今夜はちょっと違う。小林研一郎さん指揮のブラームスの1番、2番とくりゃ、フィナーレの盛り上りを期待しない音楽ファンは少ないはずだ。そして彼と日本フィルは期待通りの演奏を見事に纏め上げてくれた。
プログラムは当初、第1番、第2番の順で告知されていたため、どんな演奏会になるのか不安もあったのだが、当日サントリーホールに足を運ぶと「指揮者の希望により、プログラムの曲順を第2番、第1番の順にさせて頂きます」との表示がされている。やっぱりそうだよな、聞き手はそれを望むよな、と僕は納得。演奏は小林研一郎さんらしい、熱のこもった演奏で2番、1番ともに日本フィルとしても快心の演奏ではないかと思う。特に第1番のフィナーレ、あの有名な歓喜の主題の前、ホルンが高らかに角笛のメロディを吹き鳴らし、フルートがそれに応える部分など、ちょっと日本のオーケストラの演奏会では聴けないような、ピンと張り詰めた空気がホールを満たしていた。久しぶりにコンサートで胸が熱くなった。残念ながら、妻と一緒じゃなかったのだけれど。
音楽は音楽会は演奏者と聴衆で作るものだと僕は思っている。これはもちろん、僕だけでなく、フルトベングラーもその著書『音と言葉』の中で書いている。そう、音楽を享受するという意味では、演奏者も聴衆も同じ地平に立っていると僕は思う。 小林研一郎さんの演奏会ではたびたび聴衆を相手にしたパフォーマンスが見られる。僕の知っている限り、マーラーの交響曲第1番のフィナーレや、ストラヴィンスキーの「火の鳥」の終結部分でホルンをベルアップさせた情景が思い起こされる。そうしたことをアマチュア的な行為、ディレッタンティズムだと思う人も多いだろう。だが、僕は決して彼をアマチュア的な要素を持った芸術家だとは思っていない。小林研一郎さんは、聴衆を大事にする演奏家だと思うのだ。彼のパフォーマンスは単なるパフォーマンスでなく、聴衆と一緒に創造する音楽の不可欠な欠片なのだ。アマチュアのパフォーマンスが終始、自分たちの、つまり演奏者のためだけのものであるのに対して。
演奏は期待に応えて、それ以上の素晴らしいものだった。期待に応えることってスゴイ。ここでホームラン打って! っていう局面で本当にホームラン打てる人ってそんなにいないものだ。
演奏後、拍手を遮って、彼は聴衆に語りかけた。
「今日の演奏は素晴らしいものでした。日本フィルも大変素晴らしい演奏をしてくれた。どうもありがとう。こんな大曲を2曲も振るともう立てないくらいに疲れてしまいます。だから、これでカーテンコールを終わりにしてください。どうもありがとうございました。」
素晴らしい演奏会だったと思う。聴衆の理解者たる、一人のマエストロ、今夜はどうもありがとう。ゆっくりお休みください。