定期演奏会には休み無く行っているにもかかわらず、なかなか感想をアップする暇がなく半年も経ってしまった。このままではいけないという気持ちで最新のコンサートから感想を綴ってみよう。今回は久々に妻と二人でコンサートに行くことができた。気持ちのいい天気にも恵まれてバカナルで食事をしつつビールを一杯、さらにワインを2杯。と、そこまでは良かったのだが。

 この春シーズンから僕はP席をS席に変えた。指揮者をしっかり見ることができて楽しいP席ではあるのだが、やはり音楽が理解しやすいバランスで響かないことも多く、またコンチェルトの際、ソリストの演奏がよく聞こえないこともある。妻に音楽のありのままを聴かせたいなと思い、席を変えたのだ。というわけで、今宵のエルガーの弦楽セレナードはまことによい響き、ではあった。しかし、どうにもつまらない曲想と展開は作曲者の問題なのか、演奏の問題なのか。まったく惹きつけられることなく、演奏は終わってしまった。
 指揮者は藤岡幸夫さん。ヴァンサンカンなどの女性誌にもときおり登場するフォトジェニックな若手指揮者である。藤岡さんの指揮に触れるのはこれが初めて。印象どおりのカッコイイ指揮者なのだが、これもまた僕の感性にはピタッと来なかった。吉松隆さんの交響曲を世界に紹介し、シャンドスに連続してレコーディングを行うなど、意欲的な活動をしているし、その活動の趣旨にもその意欲にも敬意を表したいと思う。でも彼の演奏には一抹の軽さ、敢えて厳しい言葉を使うと軽薄さがつきまとうのだ。

 ベートーヴェンのコンチェルトから第1番を選択したのは正解だろう。初期のベートーヴェンには、らしい荘厳さと構築感もさることながら、モーツァルトばりの天衣無縫さが要求されるからである。その点で、藤岡&ラルスのコンビはよい演奏を聴かせてくれた。特にこのドイツから来た若いピアニストのテクニックには驚かされるものがあった。しかしバカテクというのではなく、彼の中の独自の音楽のビートが聞こえてくるような非常に個性的な演奏なのだ。長い前奏に続いて弾き出したこのピアニストは、ベートーヴェンをまるでジャズのようにゆらゆらと演奏するのだ。しかしそれが奇を衒ったものではなく、彼の中から自然に出てきている感じなのだ。このピアニストは面白い。今度レコードで再び同じ感覚が得られるか確かめてみよう。

 さて最後は、吉松隆の交響曲第3番である。面白い曲だ。断章としては。しかしこれが交響曲として僕には響かない。第1楽章は最も完成度が高いと思う。個々のパサージュもとても美しく、しかも日本人のノスタルジアを掻き立てるような旋律だ。特にオーボエに与えられた子守唄調の旋律は心に残った。中間の2つの楽章がスケルツォとアダージョで構成されているのは、ロマン派の交響曲を意識した結果と思われる。アダージョも完全な弦楽中心の楽曲ではなく、途中に変拍子を持つ独特なものだ。吉松さんはライナーノーツに「小賢しい知性の束縛を離れ、音楽への情熱を開放させるような曲を書きたかった」書いている。氏は特にシベリウスを意識しているのではなかろうか。スケルツォ楽章の旋律がオスティナートとして再現され、反復される上に高らかな金管のファンファーレが鳴り響くという具合に。
しかし、結果的に僕は氏が意図したであろう、シベリウスやチャイコフスキーの音楽から受ける興奮を得ることはできなかった。小賢しい知性の束縛を離れ、情熱を開放させるのに、やはり他人の形に乗っけない方がいいような気がする。もっと吉松隆流の直情径行な曲があってもいいのではないだろうか。氏の意図がいわゆるアマチュアのディレッタンティズムの言い訳になってしまったように感じる。特に藤岡幸夫さんという指揮者の特長と、日本フィルの特性を考えていくと、プロフェッショナルな演奏からは遠い形で情熱が開放されたとしか、僕には思えないのだ。時おり感じる、ステージとの距離感。近くなったはずが、遥か遠くにあるオーケストラを、僕はただ眺めていた。
藤岡幸夫(指揮)

ラルス・フォークト(ピアノ)
エルガー:弦楽セレナード

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番 ハ長調

吉松隆:交響曲第3番

●演奏
●演奏曲目
日本フィル第520回定期演奏会
2000年5月25日・サントリーホール)