マルタ・ベニャチコヴァー(メッゾ・ソプラノ)
東京音楽大学(女性合唱)東京音楽大学
新座少年少女合唱団(児童合唱)
久々にマーラーのシンフォニーを聴きにいく。しかも「大地の歌」を加えて11曲中最大のシンフォニー。指揮は小林研一郎。ということでかなり期待して向かったコンサートであったのだが。結果的には良いところと悪いところがあまりにも、交じり合っているため、なんとも印象をまとめあげにくい結果となった。マーラーの交響曲第3番といえば、全曲で100分に届こうという大構造物である。その約3分の1を占める、長大な第1楽章。小さな牧歌的なメヌエットとスケルツォ楽章を挟んで、メッゾソプラノ独唱と合唱を伴う第4、第5楽章が続く。第2楽章から第5楽章までは、「子供の不思議な角笛」にモチーフを持つフレーズが象徴的に登場する。そして弦楽合奏の壮大なクレッシェンドで構成される終楽章。初期のマーラーの作品らしく、屈託の無い賛歌として全曲が締めくくられる。さて今夜の日フィルの演奏はというと。
第1楽章。これは見事な出来だった。8本のホルンが提示する第1主題は、骨太でマーラーの指示通り荒荒しく、しかしよくコントロールされた音を聴かせてくれた。曲の最初から躓くことの多い日フィルとしては驚異的にすばらしい立ち上がりと思えた。管楽器の絡みによる牧歌的な中間部もなかなかチャーミングであったし、トロンボーンの独奏もソツのないものだった。予想以上の立ち上がりに非常に期待が高まったのだが、それはメヌエットで早くも瓦解。途端にアンサンブルが怪しくなりはじめる。3楽章のスケルツォ楽章はなんとか持ちこたえたものの、中間に登場する「角笛」の牧歌が滅茶苦茶。ここまでの貯金を食いつぶして、演奏の精度と集中度を台無しにしてしまう。角笛のパートを受け持つのはコルネットとウィンナホルンの中間的な楽器。(僕はこの楽器の名前がわからないが)音色はフリューガーホーンに近い。この楽器が、客席上部、パイプオルガンの前に位置して、ノスタルジックな旋律を奏でるはずだったのだが。
あまりに萎縮してしまったのだろうか。まったく「歌」に聞こえない演奏だった。牧歌である以上、「歌」つまりメロディが多彩なニュアンスで謳われなくてはならない。しかし、この演奏は酷かった。音色は綺麗で僕の好みだった。ビブラートの早さも。しかし、しかしである。この「角笛」が鳴るたびに演奏が壊れるという印象。これではホームコメディに挿入されるブラックジョークである。練習不足が最大の原因であることは、いつも指摘しているとおりおそらく図星であろう。しかし独奏者は、主役なのだ。せめてその気概を見せて欲しい。日フィルの演奏ではそう思わされることが非常に多いのだ。
例によって僕はこの辺りから思索に入ってしまった。どうしてこんな演奏になってしまうのだろうか。小林研一郎は、海外で最も評価の高い日本人指揮者のひとりだし。日フィルも酷いオーケストラとは思わない。しかし何といえばいいのだろうか、構築性の高い音楽を演奏する時、このオーケストラとこの指揮者の組み合わせは失敗が多いのだろうか。いやそうとも言えないはずだ。過去ブラームスのシンフォニーなどはすばらしい演奏を聴かせてくれたではないか。しかしこのマーラーは酷い。小林の曲作りは、例えて言うのならば割と細い線で輪郭を作り、その中に細部を描き込んでいくというイメージだ。僕はこの方法と日フィルが合っていないように思う。キチンとした土台を作り、決してバランスを崩さずに積み上げていくという手法を採る指揮者も日フィル定期には登場する。たとえばネーメ・ヤルヴィ。彼の演奏で聴いた同じマーラーの6番はなかなかすばらしい演奏だった。小林の引いた輪郭線が、おそらく日フィルのポテンシャルを超えているのだと思う。だから無理やりのフォルティッシモで輪郭の中を埋めなくてはならなくなるのだ。だから音楽の密度が希薄になるのだ。なんとなく結論めいたビジョンが頭の中でまとまるころ、美しい旋律で終楽章が導入された。ここまでくれば安心か。しかし、交響曲の演奏としてはブラームスのときは可能だった、集中が得られなかったし、満足のいく水準とは言い難い。そして、いつものように無理矢理のコーダで「感動的に」曲が締めくくられると、客席からは「ブラボー」の声がかかる。そしてお決まりの各パートへのお為ごかしの賛辞。そして最後にはおそらくマエストロが何か一説ぶつに違いない。僕は逃げるように客席を立った。そしてふとこんなことを思ったのだが。
日フィルの演奏って、日本サッカーに似てるんじゃないかな。要はベースの欠如と慢性的な決定力不足。独奏者がファンタジスタになれない。好きで演奏しているはずなのに、そういう空気が伝わってこない。何かやらされてる感じが付きまとう。そしてアジアの覇者にはなるものの、それ以上のものにはなれない。身内で誉め合ってどうするのだ。「ブラボー」という人は何がブラボーなのだ。僕は今夜の演奏はとてもブラボーなどではないと思う。敢えて言うのならば、マーラーの曲はブラボーだ。だがそれをもってブラボーなら、演奏会の意味は限りなく低いのではないか。ブラボーな曲をブラボーに演奏した場合のみブラボーを聞く権利があるのだと思う。それなのに、無意味なブラボーに応えるのはプロフェッショナルな演奏家とは言えないのではないだろうか。釈然としない思いが1日経った今も残っている。