久しぶりにコンサート記録を書いてみる。(随分長いこと、記していない)今回のコンサートは2001年冬季プログラムの棹尾を飾る尾高忠明氏指揮によるもの。僕としては湯浅譲二氏による内触覚的宇宙Vを最大の関心事として、サントリーホールを訪れた。この曲は日本フィルによる委嘱作品で、同オーケストラの創立45周年を記念して創造された。僕は湯浅譲二氏の作品には並々ならぬ感動を受けている。先に記したとおり、木村かをりさんのリサイタルで聴いた「内触覚的宇宙IV 〜ピアノのための」との邂逅である。ピアノを「楽器」と捉えず「リゾネータ」と捉えるという発想そのものがこの作品の面白さの核であり、事実、今までにない響きを聴衆に体験させた。湯浅氏はこの「内触覚的」という言葉について、ライナーノーツの中で次のように述べている。「<内触覚的>という言葉は、ハーバート・リードの著作『イコンとイデア』から引用している。そこでリードは“新石器時代になると、後にヨーロッパ美学の規範となった<シンメトリー>の概念が現出してくるが、それ以前の旧石器時代のロスコーやアルタミラの洞窟絵画では、そうした美的規範によらず、<内触覚的に>宇宙が捉えられていた”と言っている。私は20代の時から音楽の発生の場やイメージを、人間や文化発生の時点に求めてきたので、音楽の進化や歴史を踏まえた上で、過去にとらわれない音楽を作っていこうとする態度が、この題名を選ばせていた。この題名の曲、それぞれの楽器こそ違うが、そこに通底するものは、人間と宇宙の交感であり、宗教発生の場といった原初的、始原性の表出である」……………

 原初的な人間がどのように世界を知覚していたのか、僕には知る由もない。原初の人間は、どのような精神的発展レベルに会ったのだろうか。それは現代人の精神になぞらえることが可能なものなのだろうか。子供の精神の発展成長は、人類の発展プロセスを映したものだとする言説を読んだことがある。生まれて間もない子供のうち、人は自分と世界とを分かちがたく同一に認識しているという。この世界感或いは宇宙感を「ウロボロス的宇宙」と言う。ウロボロスとは古代神話に登場する「自分の尾を飲みこもうとする蛇」の名であり、自他の区別無く連続する物事の表象である。僕が湯浅氏の言う「内触覚的宇宙」から想起するものは、このようなウロボロス的な原初性、自他の区別という最初の意識が取り去られた状態を想像し、その世界感と共鳴する「響き」というものだ。以前に聴いたピアノのための作品は、僕の持つイメージに重なり、かつ多様な響きそのものが魅惑的であった。今回のオーケストラのための作品では、原初的な宇宙感を「和太鼓」に代表される土俗的な打楽器によるある種のバーバリズムとして表現しようとしていた。しかし僕には、ピアノのための作品が醸していたものよりも、遥かに時代感が近づいているように、原初というよりはずっと最近の、原始文明の匂いを感じられた。それはこの作品にとっては好ましいものではなく、結果として、邦人作品に多用される種類の土俗的舞曲の側面が強調されてしまったのではないか。そこここにハッとさせられる美しさが散りばめられてはいたが、ピアノ作品で受けた感動はここにはなかった。

ブラームスの協奏曲はあまりにも退屈であり、それに続くエルガーを聴くモチベーションを失わせるものだった。英国での研鑚の長い尾高忠明氏のエルガーに若干の逡巡を残しながら今日は自宅に戻り、シノーポリによる録音を聴きながら酒でも飲むことにしよう。
尾高忠明(指揮)

アーロン・ローザンド(ヴァイオリン)
湯浅譲二:内触覚的宇宙V 〜オーケストラのための

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

エルガー:交響曲第1番 変イ長調

●演奏
●演奏曲目
日本フィル第537回定期演奏会
2001年1月17日・サントリーホール)