音楽の現在〜海外の潮流・中国特集〜管弦楽
1999年8月28日・サントリーホール)
●演奏曲目
陳怡(チェン・イ)
《モメンタム(動勢)》〜オーケストラのための(1998)日本初演

盛中亮(ブライト・シェン)
《はがき》 (1998)日本初演

陳其鋼(チェン・キガン)
《五行(水・木・火・土・金》〜オーケストラのための (1999)日本初演

陳遠林(チェン・ユァンリン)
序曲―ラプソディ〜オーケストラのための (1999)世界初演

譚盾(タン・ドゥン)
ウォーターパーカッションとオーケストラのための協奏曲〜武満徹の思い出に(1999)日本初演
●演奏
譚盾(指揮)

クリストファー・ラム(打楽器・ニューヨークフィルハーモニック主席)

東京都交響楽団(管弦楽)

 今日は7夜続いたサントリー音楽財団30周年記念サマーフェスティバルの大団円の前日である。明日<20世紀の名曲展・管弦楽>でシェーンベルクの『グレの歌』が演奏され、この企画の幕が降りる。今日は<音楽の現在>と題された新進作曲家の作品が演奏される夜だ。今宵のプログラムは中国にルーツをもつ若手作曲家たちの作品。そのリーダー格とも言える譚盾がプログラムをコーディネート、自身が東京都交響楽団を指揮しての演奏会となった。
 譚盾を除いて、僕はどの作曲家も知らない。しかし、演奏された作品は或いはエネルギッシュであり或いは繊細であり、十分楽しめるものだった。まずサントリーホールに集まった聴衆はいつもと違っていた。おそらく自国のアート作品を確認しようという在日の中国の学生。そして同時代の日本の学生。若く、奇抜なイメージの聴衆がサントリーに集まっていた。面白い。演奏への期待も高まった。

 中国、って実は僕、縁が深い。この1年というもの、何度中国に行ったことか。中国の現在、というものについて僕はある程度知っているし、それを少しは語る資格があると思う。現代中国に限らず、中国人のユニバーサル感覚って凄いなと思うことがよくある。中国人である一定以上の経済力を持つ人々は、まず間違いなく、家族を西洋社会のあちらこちらに留学させるだろう。中国人の裕福な老人と話すと、シアトルにいる娘の話、ボストンにいる孫の話など、世界各地に親戚がいるのだということを自慢気に語る。これは彼らお得意の経済感覚によるリスク分散なのだろうか。とにかく世界は中国人にとってはそう広くはないようだ。
今夜の主役である若い中国人作曲家たちも例外無く、今では西洋社会の住人だ。歌劇団で編曲をしていた20歳の時、初めてベートーヴェンの第5シンフォニーを聴いて作曲家を目指したと言う譚盾はニューヨーク在住。その他の作曲家たちもアメリカやヨーロッパで活動している。

 さて今夜最初のプログラムは広州生まれの女流、陳怡(チェン・イ)の《モメンタム》である。全般に土俗的な香りの強い作品である。金管の低音強奏が随所に用いられており、シュミット等少し東欧の現代作曲家との共通点が見出される。土俗的舞曲風のリズムにエネルギーは感じながらも、この曲が僕の心に迫るということはなかった。
 続いて演奏されたのは盛中亮(ブライト・シェン)の《はがき》である。この作品は遠くにいる知人へ当てた「絵葉書」をイメージした「音はがき」である。つまり非常に描写性の高い楽曲といえるだろう。描写性ということでは、リヒャルト・シュトラウスやリムスキー・コルサコフが思い浮かぶが、この作曲家の作品が持っている凝縮性というか、作品のスケールが決して小さいというわけではなく、宝石のような強い内向性、内に向かう力を感じさせる音楽は、ディーリアスに共通するのではないか。そんなことを思った。

 陳其鋼(チェン・キガン)の《五行(水・木・火・土・金》は実に楽しめる音楽だった。物質世界の5つの基本要素、木・火・土・金・水を作曲家の自由なイメージでこの順番に並べなおし、更に、各段を2分、計10分で演奏される短さ、分かりやすさを持つ楽曲に構成した。最初の音が奏でられた瞬間、僕はライナーノーツを確認した。やはり。彼はフランスで学んだメシアン最後の弟子だったのだ。不思議なもので、フランスの響きは遠いアジアから学びに来た学生の血肉となって、今ここにその姿を現しているのだ。ドビュッシーにも通じる軽さと明るさ。快活な木管のパッセージ。東京都交響楽団の演奏も十分に作品の魅力を伝えてくれたと思う。
 続いて演奏された陳遠林(チェン・ユァンリン)の序曲―ラプソディ〜オーケストラのための、は世界初演。つまり、記念すべき場所と時間を僕は共有したわけである。作曲家の陳遠林(チェン・ユァンリン)も姿を見せた。拍手も大きかった。しかし、僕の心に記憶されたのは文字データだけなのである。どんな魅力的な音響構成があったのか、どんなに美しいパッセージがあったのか、まったく覚えていない。そして総合的な記憶すら僕にはないのである。これはある種の不幸だが、現実である。どこかでまた幸福な出会いがあるといいのだが。

 最後の曲は指揮者の譚盾の作品。ウォーターパーカッションのための協奏曲である。ウォーターパーカッションはおそらくこの曲のために、打楽器奏者のクリストファー・ラムと譚盾が共同で作り上げた楽器である。大きな、そう1メートル弱ほどの直径を持つボールに頑丈な足がついた楽器に水が満たされている。これがステージ中央、ピアノ協奏曲でピアノが置かれる辺りに設置されている。ステージ左右には、若干小振りな同様の楽器が置かれ、2人の打楽器奏者がこれを担当する。
 実際には真っ暗にされたホールに不気味な音を奏でながら、打楽器奏者が入場してくるところから楽曲が始まる。音の主は金属の楽器、トロンボーンのミュートくらいの大きさの三角形の塊をおそらくヴァイオリンの弓で擦って音を発している。この音がどこからともなく聞こえ、やがて奏者の姿とともにオーケストラが姿を現す。先に触れた大きなボールのようなウォーターパーカッションは、水面に照明が当てられるように設置されており、光の反射がホールの天井や壁に複雑な波紋を映す。それすらも作品の一部なのだ。

 演奏は、水を湛えたボールをいろいろなツールや手で叩いて水音を発し、それとオーケストラが絡むことによって、音楽が複雑性を呈して行く。最初、僕は非常に面白いなあと感じ、引き込まれて行ったのであるが、徐々に醒めていく自分を抑えることができなかった。これは何なのだろう。形式の崩壊。形式の刷新。形式の創造。或いは形式の忌避か。しかし、これはコンサートなのか。音楽作品なのか。これが面白くないかと問われれば、文句無く面白いのだ。しかし、何かの違和感、或いは危うさのようなものを僕は感じ取っている。そしてこの危うさは、例のスティーブ・ライヒの“THE CAVE”からは感じられない危うさなのだ。

 タイプライターのような言葉の発し方とビデオの組み合わせという奇抜なスタイルのライヒにもある種の安定感があった。そうスタイルがあったのだ。しかし、今聴いているこの曲には何もない。この曲を形作っていく「芯」が無い。僕にはそう思えた。面白ければいいのか。確かにこの曲は面白い。面白いけれども、それではライブ・パフォーマンスにしかなり得ないのではないか。これは保存されるべき、時間を超えるべき音楽作品なのだろうか。それとも即時的なインスタレーションなのであろうか。或いは、ナンセンスなパフォーマンスなのであろうか。譚盾にはもちろん狙うところが明かであり、それがまんまと実現できた演奏会だったのかも知れない。しかし、僕には大きな大きな「?」が残ってしまった。今日は眠れそうにない。