持続可能な社会に向かって
(広告の可能性を探る)

1.「ソーシャル・アド」の活性化〜社会的存在としての企業像の模索〜

 政府行政及び地方公共団体や、自然保護団体等の非営利組織による社会性・公共性の高い広告が増えている。(平成6年度新聞広告で7.0%増/電通調べ)民間の広告出稿が軒並み落ち込む中での、相対的な現象と思われがちだが、TVにおいても同様の伸長を見せており、この傾向はかなり確実なものとなりつつある。
 一方で民間企業による社会性の高い広告も活発化している。地球環境問題やエネルギー問題等、年々関心が高まる社会問題に対するスタンスを訴える必要性を企業が認識し始めたと言ってよいだろう。「ソーシャル・アド」の活発化は、こうした意識の反映に他ならない。今、企業は、経済的存在としてのみ機能してきた歴史を回顧し、新しい社会におけるその存在価値を確立しようという意図で動きだしたのである。経済的存在としての企業から、社会的存在としての企業像の追求へ。広告の社会的役割も、こうした企業の変化ベクトルを認識した上で語られる必要があるだろう。

2.「ソーシャル・アド」に至るプロセス

 この「ソーシャル・アド」の活性化には2つの大きな背景と問題意識が影響を与えているように思う。以下にその2つを整理してみよう。

 1)今までのやり方でいいのか?という問題意識(新しい企業コミュニケーションへの演繹的帰結)

 現在に至るまで、また企業が経済的存在である以上、今後とも広告制作の基盤となるのは競争原理に基づき、競合商品に対する差異化・優位化をを目的としたマーケティング理論である。確かに技術的に目ざましいイノベーションが見られた80年代までは、このプロダクトマーケティングが効果的であり、全面的に有意味な時代であった。商品の豊富さが生活の豊かさに直結する、思えば夢のように幸福な時代だったとも言えるだろう。
  しかし90年代の消費者は、もはや物質的な豊かさのみを絶対視しているわけではない。彼らは生活の豊かさを、単純な商品の豊かさとは切り離して考え始めた。こうした消費者へ最も早く対応したのが大手量販店を中心とした流通業界である。リストラによる低価格の実現や、メーカーを主導して開発導入したプライベートブランドは、当初の食品やトイレタリーばかりでなく、コンピューター等の耐久消費財にまで、その領域を拡大し、実質志向化する消費者を捉えている。
 メーカー側もプロダクトライフサイクルの見直しという形で対応を始めている。自動車を例にとると、モデルチェンジの間隔を従来よりも長期化するなど、プロダクトのロングライフ化を図る方針が読み取れるだろう。
 こうした企業側の変化は、これまでのやり方では問題の抜本的な解決にはならない、というマーケティング万能論への問い直し意識の表出でもあり、社会的存在としての企業をどうコミュニケートしていくか、という課題への演繹的な帰結であると言うことができるだろう。

  2)今しなければならないことは?という問題意識(新しい企業コミュニケーションへの帰納的帰結)

 主婦層の都市廃棄物への高い関心や、ハリウッドランチマーケットのバッグをリサイクルする女子高生の環境問題への感覚など、一般消費者は企業の変化に先んじて、その行動を変化させてきた。人為的構造物である企業よりも、人間という生き物の持つ皮膚感覚の方が先に問題の重要性を理解しているということだろう。本来ならば社会の公器であるべき企業が、経済的存在としてのみ機能したことが、今日の行き過ぎ(Overshoot)を招き、熱帯雨林の砂漠化、フロンガスによるオゾン層破壊、地球温暖化や酸性雨等、多くの環境問題を現出させたのは疑い難い事実である。
 ひとつ身近な例を引くと、「中国市場」の問題が挙げられる。世界人口の1/4を占めるこの巨大市場に対し、近年、各国各産業がこぞって参入を図っている。私も上海でのフィジビリティスタディを行った経験から、この市場の巨大さ、この市場での製品普及の持つ意味を知って愕然とした。今この国では、自動車やクーラーが爆発的に売れている。しかし、その世帯普及率は現状では非常に低い。経済的存在としての企業の論理から、この市場を開拓することは当然だが、その場合、更に当然の帰結として、大気汚染や地球温暖化は進行するであろうし、現在南極大陸の約1.5倍の大きさと言われるオゾンホールはより巨大になるだろう。「グローバル化」が言われて久しいが、今必要な真の「グローバル化」とは、地球規模に経営を拡大することではなく、地球規模から俯瞰して、何をすべきかを決断する経営のことに他ならない。
 中国市場の例に限らず、自動車や生活家電等の領域では、既に地球規模で総量をコントロールする必要が感じられる。今後そう遅くない時期に、そうした動きが具体化するに違いないだろう。企業が自由競争を旗印に経営を謳歌できた幸福な時代は去った。今後は企業の戦略自体に、ある種の社会的責任や消費者の日常とかけ離れることのない倫理観が求められてゆく。最近施行された製造者責任を問う法律(PL法)や、ヴァルディーズ原則という、1989年のアラスカ原油流出事故を契機として生まれた、企業から環境保護運動への資金援助と情報提供を求める運動等、経済的存在としての企業が、社会的存在として目覚めるのを待つだけでなく、周囲がそのように導いて行くことの重要性が認識され始めている。こうした周囲の環境変化が、企業をその社会的存在価値の模索へと駆り立てている。これが地球規模の問題意識による新しい企業コミュニケーションへの帰納的帰結である。
 演繹的帰結と帰納的帰結。ふたつの帰結によって、企業コミュニケーションは変わろうとしている。「ソーシャル・アド」はこうした変化の表出であり、新しい時代の広告の役割の一方向を暗示している。

3.広告の社会的役割へのひとつのビジョン〜「企業戦略のビークル」から「理念のビークル」へ〜 企業が経済的存在から社会的存在へのベクトルを示し始めた現在、当然それに伴って広告の役割も変化を余儀なくされている。広告の役割はどう変わるのだろうか。
 広告の社会的役割について、私にはひとつのビジョンがある。それは、広告はビークル(乗物)である、という明確なビジョンである。より私のイメージに近い表現をすれば、広告は「情報を載せて消費者のもとへ向かう船」に例えられる。こうしたビークルが無数に頭上を飛び交っているのが、私にとって現代社会のビジョンなのである。この広告という名のビークルは、載せる情報の種類によって以下の2つの役割を果たす。
 ひとつは商品情報・企業情報提供、すなわち「企業戦略に関する意志」を伝達する役割、プロダクトマーケティングの出口としての「企業戦略のビークル」である。この船には以下の二つの情報が乗ることになる。

 1)企業と消費者にとって必要な商品情報
 2)企業イメージ向上のための情報

 現在、ほとんどの広告はこの2つのうちのいずれかの情報を提供する「企業戦略のビークル」と言えるだろう。かつてのメセナ活動告知や、現在展開されている「ソーシャル・アド」の多くは、企業イメージ向上のための社会的情報提供に終始している。すなわち上記2)の情報を載せた「企業戦略のビークル」である。このレベルでは本来、真の「ソーシャル・アド」とは呼べないと思う。言わば「準ソーシャル・アド」である。今後、こうした「準ソーシャル・アド」が氾濫すれば、消費者はより具体的な社会貢献度や事実情報の提示を求めるようになるだろう。その場合、企業イメージ向上のために環境問題に触れる安易な「準ソーシャル・アド」は減少し、「企業戦略のビークル」としての広告は、商品イメージアップのための広告と、より商品情報に特化したベネフィット訴求型(アメリカ的なクーポン広告や“Save40%”等)の内容が主流になると予想される。現在の広告の役割は「企業戦略のビークル」中心であり、それは今後とも重要であろう。しかし、もうひとつの役割の重要性が、今後より認識されるようになると思われる。
 今後更に重要となる、広告のもうひとつの役割とは、社会的に合意する必要がある事項・情報の提供、すなわち「社会的に有意義な理念」を伝達する役割。プロダクトマーケティングに対する「ソーシャル・マーケティング」の出口としての「理念のビークル」である。この船には、普及すべき「理念や価値観」が乗ることになる。「理念や価値観」の提示主体と提示パターンには以下の3つが想定できる。

 1)政府行政或は任意団体から提示される「理念や価値観」
 2)「理念や価値観」の普及を目的としたビジネス(エコロジービジネス/福祉ビジネス等)
 3)「理念や価値観」の普及への企業協賛


 1)や2)のような公共的な団体から発信される「理念のビークル」としての広告出稿が増加していることは前述のとおりである。それに加え、経済的存在から社会的存在への新たな変化ベクトルを持った企業から発信される「理念のビークル」が、今後の社会での広告の位置付けとして有力になるだろう。そして「ソーシャル・アド」も現在のような企業イメージアップを目的としたものではなく、上記3)のように「理念や価値観」への支持を表明するものへと、その質を変えていく必要がある。
 しかし、新しい広告の社会的役割のうち、こうした「社会的に有意義な理念や価値観」普及への企業協賛が、従来のメセナやフィランソロピーとどう異なるのかを明確にしておく必要があるだろう。ここで社会的存在としての企業像を追求する先端的な企業のケースを引いて、今後あるべき企業コミュニケーションの方法について考えてみよう。

4.新しい企業コミュニケーションの姿 〜ケーススタディから〜

 社会性の高い企業コミュニケーションを行っている数社の活動ケースは、現在以下の3つに類型化することができる。

 1)ドネーションプログラム告知

アメックス:
カード業界は、その利用の多くを旅行というシチュエーションに負っているが、その基盤である世界各地の観光地で、名所旧跡の保存及び復元活動を積極的に支援している。
ベネトン:
世界各地から集めた学生に対して奨学金と生活費を支給するという、大胆なシステムによるアートスクール「ファブリカ」を1994年に開校している。
コカコーラ:
至極最近のケースとなるが、ロスアンゼルスドジャース野茂投手の奪三振1個につき100ドルを小児AIDS基金に寄付することを発表し、話題となった。

 2)リサイクル特化イメージ形成

ボディショップ:
他に先駆けた簡易包装はもとより、容器の回収や、詰め替えサービスを利用した顧客に対し、間接的なキャッシュバックを行う等、リサイクルという一貫した切り口で早期から環境問題に対応している。
パタゴニア:
ペットボトルを再利用した新素材繊維で作ったジャケット等を、環境に対する意識の高いターゲットに販売している。

3)コーズリレーテッド(公共問題関連)マーケティング

パタゴニア:
アウトドア関連の衣料・用具ブランドであるパタゴニアは、自らの商品が活躍するフィールドの積極的な保存に努め、売り上げに対するパーセンテージによって、その援助額を決定するなど、従来の余剰利益を社会貢献に振り向ける手法から一歩踏み込んだ、先端的な、しかし日常の感覚から生まれた活動を展開している。

 これら3つの企業コミュニケーション手法はいずれも、何らかの社会性の高い活動への関与とその実態を告知し、企業の社会的存在意義を訴求するとともに、グッドウィルとロイヤリティの形成を図るものである。ここに引いたケースは、その活動告知自体が「理念のビークル」として企業を社会に位置づける力を持っているように思う。
 この中で最も注目すべきは3)のコーズリレーテッドマーケティングであろう。これは商品の利益の一部或いは全部を指定の社会的活動に提供し、同時に、その商品が支持する社会的活動の意図を広告するという手法であり、製品の利益構造に当初から社会還元が考慮されている点で、日本で特にバブル期に見られた余剰資金によるメセナやフィランソロピー活動とは根本的に発想が異なっている。リサイクルに特化したボディショップのイメージ形成戦略や結果的に利益を社会還元しようとするアメックスのドネーションプログラムよりも先進的な手法と言えるだろう。
 パタゴニアのケースからは、商品が事実を提供して理念を裏付けることにより、小規模ながら広告が「理念のビークル」として機能し、企業を社会的存在として位置づけている様子が見て取れる。ここに、新しい時代の企業コミュニケーションが、ゆっくりとその姿を現し始めている。

5.マーケティングコミュニケーションの地殻変動

 80年代を中心に、企業の経済的存在としての側面を支えてきたマーケティングコミュニケーションにも地殻変動が見られる。コトラーによる「ソーシャル・マーケティング」発表がそれである。経済的存在ではない、非営利組織のマーケティングについては、80年代から前出のコトラーを始め、多くの著作が見られたが、この「ソーシャル・マーケティング」はその対象を非営利組織に限定せず、行政団体はもちろん一般企業に拡大して解釈可能な点で、より現状に即した今日的なものとなっている。
 従来のマーケティング理論における主要なマーケティング対象は言うまでもなく「プロダクト=商品」であり、競争市場におけるその相対的なポジショニングとターゲット設定を最適化することで、ビジネスを拡大する手法であった。これに対し、「ソーシャル・マーケティング」のマーケティング対象は「社会的プロダクト」である。「社会的プロダクト」とは、社会的に合意し、普及する必要のある「意志・信念・価値観、或いは習慣」である。また、これを普及することによるターゲットの態度や行動の抜本的変革が「ソーシャル・マーケティング」の目的となる。「ソーシャル・マーケティング」において、広告はまさに「社会的プロダクト(=理念)を載せたビークル」なのである。

 具体的に従来のマーケティングと「ソーシャル・マーケティング」の違いを考えてみよう。こう言えば分かりやすいだろう。例えば「洗剤を買う」という既存の行動の中で、特定のブランドを選択するように操作するのが、マーケティングである。これに対し、ターゲットに「合成洗剤を買わない」という態度を定着させるのが「ソーシャル・マーケティング」であり、この場合「合成洗剤ではなく天然洗剤を」というメッセージが「社会的プロダクト」ということが出来る。
 このように「ソーシャル・マーケティング」は既存の行動の中でどう選択するか、ではなく、行動自体を抜本的に捉え直そうとする思想から生まれている。その意味で社会環境から要請される帰納的帰結の一端とも考えられるだろう。
 もう少し冷静に「ソーシャル・マーケティング」について考えてみる。行政団体や自然保護団体から提出される「社会的プロダクト」はまだ理解しやすい。「交通渋滞解消のための行動へ」や「希少な動植物保護のための行動へ」というメッセージが想像できる。一方の民間企業から提出される「社会的プロダクト」とはどんな形態をとるのだろうか。
 社会的に有意義で、多数合意が必要と思われる理念、例えば「地球資源を大切にしよう」というメッセージを「社会的プロダクト」として提出する企業は「地球にやさしい」という安易なイメージ形成をしている企業と何等変わらないと言えるだろう。控え目に言っても、メセナブームのときに多くの企業が美術や音楽をサポートしたことと、大きな違いがあるとは思えない。(私が思うに、美術や音楽はそれ自体が「社会的プロダクト」としてのパワーを持っている)

 「地球にやさしい」企業は、実際にどういう活動を行ない、どんな投資を地球環境に対してしているのか、を明示する必要がある。事実、イギリスでは具体的根拠を示さなければ(しかも数年に渡って)、この種の広告は出稿することすらできない。その点で、現在日本で活発化している「ソーシャル・アド」の多くは、その不完全さを指摘されるべきだろう。
 企業を社会的存在として位置付ける、新しい企業コミュニケーションが成立するには、その企業の経済活動の中心である「プロダクト=商品」の実態において、「社会的プロダクト=理念」を裏付ける事実を明示する必要がある。そして、「プロダクト=商品」における事実の明示には、パタゴニアのケースで紹介したコーズリレーテッドマーケティングの手法が有効な回答を与えている。

 「理念のビークル」としての広告による社会的存在価値の訴求とコーズリレーテッドマーケティングを用いた、商品による理念の具現化。この2つの結合が、新しい企業コミュニケーションのひとつの理想像を指し示すことになるだろう。


6.『持続可能な社会』というモデル
〜期待される広告の社会的役割=変革のための「理念の方舟」〜

 広告の社会的役割を考察するには、当然、背景となる社会をも考察対象とする必要がある。この小論では、可能な限り多角的に現代社会を捉えようとしたつもりだが、考察を進めるに従い、あるひとつの社会モデルが浮かび上がってきた。脱マーケティング志向、ソーシャル・マーケティング、環境問題への関心の高まり等、すべては80年代以降顕著になる『持続可能な社会』というモデルを指向しているのである。
 『持続可能な社会』モデルは、1972年にローマクラブが著した『成長の限界』によって提出された。詳細は省くが、ここで述べられている趣旨は「全ての資源は有限であり、よってあらゆる成長には限界がある。また、地球規模で各種のエレメントをコントロールすることによって『持続可能な社会』への移行を行う必要がある」というものである。『持続可能な社会』というモデルは、人為的営みの多くを規定する、究極の帰納論である。よって成長拡大を前提する現在の社会システムと正面衝突を起こすことになる。私は敢えて、このモデルをベースに論理を展開してきた。このモデルは社会システムの変革を前提としており、そのためにマスメディアの持つパワー、広告の持つパワーが有効だと考えたからである。メディアの多様化によるマスメディアの影響力低下が叫ばれているが、来るべき21世紀、それでもマスメディアは大きな力を持つと私は思う。
 一方でコンピューターネットワークは、電子の神経細胞となって「グローバル.ブレイン=地球の脳」を形成し始めている。例えばインターネット上に、イギリスのある大学の研究室のコーヒーポットをただリアルタイムに映し出すだけのサイトがある。誰かが飲めば減り、つぎ足せば増える。ただそれだけのサイトである。ここで私は考える。これがもし、「夢の島」や熱帯雨林のリアルタイム映像だったら、どんな影響を人々に与えるだろうか、と。

 「理念のビークル」としての広告と、広告的なるモノの可能性は、マスメディアばかりでなく、草の根的に拡大しているのである。今、全地球規模で、何らかの「理念」に反応するための準備は既に整いつつある。そうなると今度は「理念」を発信する側の資質が問題となる。
 「理念のビークル」としての広告が機能するためには、制作の技術以前に、経営者の哲学、企業としての社会問題への取り組み姿勢、そして商品開発等における活動の実態が問われることになる。それだけに、事業戦略の設定にも、広告戦略の設定にも、より高い戦略的視座とより広い戦略的視野が必要になる。広告会社にも意識改革が要請される。ここでは「理念のビークル」としての広告を制作し世に問う、すなわち「理念のデザイン」を可能にするだけの見識が求められる。しかし逆に「理念のビークル」としての広告がその役割を全うした場合、広告はそれ自体の存在価値を深め、社会的なポジションとパワーをより強固なものとできるだろう。これまで、広告は期せずして社会の舵を取ってきたこともある。しかし「理念のビークル」としての広告は、常に社会を導く役割を帯びている。広告は社会変革への「理念の方舟」なのである。


【脚注】

1)「ソーシャル・アド」という呼称は、日経広告手帳(1995年8月号)の特集「普及する企業のソーシャル・アドバタイジング」(電通総研/岡田芳郎)を参考にさせていただいている。
2)狙った水準を越えること。特に環境の持続可能な収容力を越えることを意味する。
3)1989年3月の大型タンカー「エクソン・ヴァルディーズ号」による原油流出事故に伴う海洋汚染を教訓として生まれた倫理則。企業が環境問題について、どんな判断基準を持つべきかを示したもので、1989年9月、アメリカの環境保護グループERESが発表した。
4)アンコールワット遺跡の保存修復、パリ・エッフェル塔の修復工事、自由の女神の修復工事、日本における宮大工の復興支援などに寄付を行っている。
(5)ピーター・ラッセルは主著『グローバル・ブレイン』の中で、胎児の脳の発達と地球におけるコミュニケーション手段の発達を関連づけている。情報伝達手段の発達が、脳発達における「細胞」増殖の時期を終えて、相互連結の時代に入り、全地球を取り巻くあらゆる情報手段であるコミュニケーションネットワークが神経細胞となって、グローバル・ブレイン(地球の脳)を形成し始めていると指摘している。


【参考文献】
・「広告白書平成6年版」日経広告研究所編、1994
・「ソーシャル・マーケティング〜行動変革のための戦略」フィリップ・コトラー+エデュアルド・ロベルト、ダイヤモンド社、1995
・「限界を越えて」メドウズ+ランダース、ダイヤモンド社、1992
・「グローカル・マネジメント〜地球時代の日本企業」伊丹敬之、NHKブックス、1991
・「企業戦略としてのエコロジー」ブレーン編集部編、誠文堂新光社、1992
・「日経広告手帳」日本経済新聞社、1995、8月号