MADE IN JAPAN! in America by Y. Horiucci (メールは、xwindtown@lares.dti.ne.jpまで(先頭のxを手作業で消去して送付ください))
(Since May 4, 1997)
カウンタゲットの記録は、別ファイルに。
6/29/2007より、MADE IN JAPAN! ブログ版に移行しました。
過去日記INDEX 日付順:2007年 内容別:「日常・時事」 「読書」 「映画」 「旅行」 「寿司」 「笹田」


2007/08/07 猿人昔話 その1

久々にこっちも更新してみるか(笑)。

ちょっと前、日記才人回顧ネタの、はせぴぃの日記で、「日記猿人」1997年6月から9月の得票Top10が掲載されていた。これで突然思い出したのだけど、このあたりは私がweb日記書き始めて、日記猿人に登録した直後。そして、その直後に妙な不正投票を巡るトラブルに巻き込まれて、いきなりアクセスも得票も増えた頃だったんだ。

でもって、97年の7月と8月は、私の日記が月間得票のトップになった訳であった。打倒「とほほ日記」で頑張ってた頃だ(笑)。まあ、当時は日記登録者も、見てる人も少なくて、まさしく「ムラ社会」のような感じ。そう、今でいう、「ブログ炎上」も、「祭り」も、原型は、すべてここで経験した。

でもって、8月のランキングを見ると分かるのだが、猿人登録番号600番台の同期(笑)、673番の私のちょっと前、631番の「ちゃろん日記」がすでに直後につけており、この頃から人気爆発。97年9月にスコーンと追い抜かれて、それ以来たった一度も私の日記の得票が「ちゃろん日記」を上回ることはなかった。いや〜、懐かしい。

そういえばその後、日本帰国後の「猿人オフ」で、「いや、私の日記だって、昔、猿人の月間得票ランキングで1位になったことがあったんだ」と回りの参加者に言ったら、「ウソだ」、「何考えてんですか」、「夢でも見てたんじゃないスか」、「あの頃は『ちゃろん』がずっと一位でしたよ」などボロカス言われて、まったく信じてもらえず、まさにガリレオ・ガリレイのような気分になった事があったなあ。

ま、しかし、ちゃんと「はせぴぃ」先生の客観的データで記録に残って満足である。まあ、今となってはどっちでもよいのだが。ははは。しかし、「ちゃろん日記」が無くなってからの猿人得票ランキングなんて、ほとんど興味無くなったのも事実。 ななゑ嬢には、何度かオフでお会いした。繊細な造りで、しかし吹け上がりの早いピーキーな2ストローク・エンジンを思わせる心の持ち主。実に素敵な女性だったね。さて、今はどこでどうしておられるのか。幸せでいてほしいな。



2007/07/14 まだ動いてるね。

おお、日本時間では日曜の朝のはずだけど、日記才人はまだ動いている。もう取り壊し寸前と聞いて、懐かしい人達が突然に復活して更新報告したのも、その昔の「日記猿人」であった「カラ更新祭り」とか、手動更新故のあれこれを思い出して、実に懐かしかった。日本は強い台風が横断中だそうで、皆様お気をつけて。

(追記)

なんて書いた後で、さっきアクセスしたら、もうページは表示されなくなっていた。日本時間で日曜の午前中に閉鎖となったようだ。古い建物が取り壊された後の更地を眺めると、「こんな狭い場所にあんな建物があったんだ」と感慨にふける時がある。

「Internet Explorer ではこのページは表示できません」という無機質な表示をみて感じる、不思議な喪失感。




2007/07/13 この週末でついに閉鎖か。

日記猿人は(つい「猿人」と書いてしまうな。「日記才人」よりまだずっと馴染みがある名前)いよいよこの週末で閉鎖か。前の駐在でアメリカにいる時にこのページを登録して、初めて同じweb日記なんて書いてる人に現実世界で会ったのは、そう、Bostonだった。後に猿人の管理者になる遠藤さん。日本に帰国してからも、大阪までオフ行ったり、新宿でのオフにもずいぶん参加した。ここの過去ログを内容別に整理する際、日記関係の記述は割愛してしまったのだが、ローカルに残ったログを読み返すと、実にホロ苦くも懐かしい気分。リンク張った日記の多くが、もうすでに削除されている。

さて、「マイ日記」のブックマークをクリックして、「File Not Found」になった時の喪失感てのは、果たしてどんなものか。この世に常なるものは何もない。そんなことはとっくの昔に分かっていたはずなのだが。




2007/07/04 「裏日記」

その昔、日記猿人華やかなりし頃は、猿人登録日記以外に「裏日記」なんて書いてる人が結構いたもんだが、私自身はさすがにそんな余裕なくて、書いてたのはこのサイトだけ。(まあ、公正を期すために書いておくと、昨年4月のアメリカ再駐在後は、mixiにもページを持っておりますが)

しかし、10年以上を経過して遅ればせながら、先月から本家ページをMADE IN JAPAN! ブログ版に移行。

過去ログは、こちらに残しつつ、こちらへの人の訪問が閑散としてきたら、好き勝手書く「裏日記」にするかなどと思ってたのだが、まだこのurlへのアクセスも、連日、結構な件数がある。え〜っと、申し訳ございませんが、こちらでは毎日の更新は行いません。ブックマークは、お手数ですが、ブログ版のほうにお願いします。でないと、こちらで裏日記書けないので。←って、なんじゃ、そのお願いは。

まあ、こんなラチもないこと書いて、こっちのページを更新するからいけないのだが。



2007/07/01 ブログ移転したのに、こっち更新してどうする(笑)

先週末から、ブログに移行して、むこうで更新しているのだが、やはりローカルでテキストファイルを書いて、それを使って更新するという手順。いったん下書き保存してから修整もできるようだが、推敲するにはやはり不便。テンプレートにもよるが、まあ、今までのこの日記で書いてる分量というのは、ブログにそのまま打ち込むことを考えるなら長すぎたんだな。とはいえ、まあ、今更戻る訳にもゆかんし。<って、またこっちを更新してどうする。はは。


2007/06/29 ページ移転のお知らせ

今更ながらですが、このページから引っ越してブログに移行しようと思います。新アドレスはこちら。基本的に今後の更新は向こうで行う予定でおります。

まあ、向うも試行中なので、ページ・デザインなど、まだあれこれ変わると思いますが。もっとも、使い勝手悪ければ、すぐに戻ってきたりして。はは。このページはこのまま置いておきます。ま、ブログのほうにも、こっちの過去ログへのリンクを貼ってますので、自由に行き来できて不便はないかと。では、今後ともよろしくお願いいたします。




2007/06/28  ブログ・サービスへの移行検討

実は、私自身は、だいぶ前から、ごく補完的に使ってはいたのだが、はせぴぃに、「整備不良はてなアンテナ」と宣告を受けてしまった。追加、訂正を、才人閉鎖宣告のあとであわててやったので、ま、確かに(笑)。あれでも、だいたいは使えるんです。はは。



さて、このサイト自身は、HyperEditというエディターを使ってHTMLタグを打ち、DTIのサーバーに自分でFTPしてアップしている。10年前、「日記猿人」でweb日記が盛り上がってた頃には、だいたい皆同じようなことをやってたはずなんだけど、無料ブログ・サービス全盛の今、個人の日記サイトを維持するには、まるで絶滅寸前のネアンデルタール人のような手法かもねえ。

日記才人閉鎖に伴い、あちらへの手動更新報告も止めてしまったし、そろそろブログ・サービスなるものに、このページを移行してもよいのではないかと思い立ち(←思い立つのが遅いっちゅーの)、あちこちのサービス内容を検討。

比較サイト見ても、たいして変わらない印象なのだが、Yahooブログはとんでもなく遅い時がある印象。Livedoorブログってのは、もうそろそろつぶれるんじゃないか(←オイ)ということで、この2社除くサイトから1社を選定・登録。慣らし運転がてら、ちょっと使い勝手をテストすることにした。過去ログを2件ほど移植したテスト・ページがこちら

やはり、書いた文書がローカルに残らないというのが、実に頼りない感じ。もっとも、たとえ自分のデータであっても、自分のPCではなく、ネットワークの向こう、サーバー側にあるのが当たり前というのがweb2.0の考えであるとするなら、まあ、これでよいのだが。きっと私の感覚のほうが古いのだろう。

あとは、mixiもそうだが、ページ更新の入力欄に直接文章を打つのも、実にせわしなく落ち着かない。テキスト・エディターでローカルに作成し、推敲をしてから、入力欄にコピーしたくなる。ただ、本来のブログの使い方としては、適当でもよいからまずサーバー側に文章を置き、必要な時に呼び出して推敲、編集し、そして最終版ができたら公開するというのが、ツールとしての正しい使い方なのだろう。これまた私自身が単に使い方に慣れてないということか。

何百と用意された既成のデザイン・テンプレートから選択すれば、あっという間にブログ・デザインが変更になる。背景色や項目の配置、フォントのカラーが変わると一瞬にしてサイトの印象が変わる。面白いのであれこれ試してみる。ほお〜。月別やカテゴリー別のアーカイブに自動的にタグがついて収納されるし、後からの修正も自在。機能について知ってはいたが、実際に試してみるとやはり感心。素晴らしいねえ。

もっとも、どんなテンプレートを使っても、ああ、「どこかで見たような」と思うし、そして自分のサイトではないような、妙によそよそしい気がするのも確かなのだった。

このページの右上にある内容別過去ログは、私が手作業でファイルを切り出し、名前をつけ、サーバーにアップして、これまた手作業でリンクを張るという、涙ぐましいというか、今となっては「何やってんだお前」という、全時代的な手作業により維持されていたのだが、ブログ移行したらこれらの作業がすべて不要になる。いやまあ、これまた素晴らしいなあ、と思いながらも、しかし、このページを捨てるのもなあ、などと考えているところであった。




2007/06/26 RIMOWAのスーツケースを購入

NYへの出張中、仕事が終わって買い物に行き、スーツケースを購入した。

飛行機の旅行では、機内持ち込みできるキャリーオン・バッグだけでどこでも旅行する人もいるだろうが、私自身はある程度以上の長さの旅行であれば、ハードケースに荷物を入れてチェックインするほう。2〜3日のビジネス・トリップなら機内持ち込みにするが、どうしてもそうしなければいけないほど重要とは思わない。

持ってく荷物を絞りに絞るのも手間がかかるし、空港内を搭乗口までトロリー・バッグずっとひきずって移動するのも面倒、満席の時は機内で収納場所を見つけるのも難儀する。5日以上にわたる旅行の場合には、だいたいスーツケースをチェックインする慣わし。「旅なれた人間なら、荷物は機内持ち込み、座席はAisle(通路側)」という、(誰が言い出したか知らない)定説もあるのだが、窓側の座席も落ち着いて意外に好きだなあ。そういえば「スーツケース持って旅行するのは日本人だけ」なんて極論も聞いたことあるのだが、アメリカの空港、バゲッジ・クレームのターンテーブルには、どこでもゴロゴロとスーツケースが回っている。ま、旅行の流儀は好き好きだが。

ここ数年、5泊以上の旅行用にはサムソナイトのハードケースを愛用してたのだが、最初に考えなしに適当に買ったもので、ライトブルーの色がどうも気にいらない。もうひとつは鍵の問題。「911」以降、アメリカで飛行機に荷物をチェックインする際、ケースに鍵をかけてはいけないことになっているのだが、これがやはり気持ち悪い。近年TSAロックというものが開発されており、このロックがついたスーツケースなら鍵をかけてチェックインしてもよいのである。これはTSA(アメリカ運輸保安局)が認証したロックで、専用鍵はTSAの職員だけが持ち、インスペクションが必要な場合にはこの専用鍵で開けることができるので、ユーザーが施錠してもOKなのだ。最近のスーツケースはこのTSAロック付きがあり、これに買い換えれば心置きなく鍵をかけた荷物をチェックインできるという算段。

あれこれ事前にネットで見て検討したが、ポリカーボネイト製のRIMOWAが気に入った。しかし、ドイツ製だからか、アメリカでは結構置いてある店が少ない。日本のほうが扱い店は多いかもしれない。RIMOWA本家のWebページで検索するに、ちょうど出張予定だったマンハッタン、Madison Ave.に「Hides In Shape」という扱い店舗があることを発見。金曜に仕事が終わった後で寄ってみた。

店員のオバチャンに、「あんまりバカでかくない、RIMOWAのポリカーボネイトのLuggageを見せてもらいたいんだけど」と頼んだが、この店は地下のスペースもあり、スーツケース類の品揃えが豊富。ジュラルミン製もずいぶん売れてるというのだが、やはり少々重い気がする。赤や青のケースも旅行用では有名だが、あれこれ考慮して、四隅に補強が入ったシルバーの「Samba」26インチに決定。TSAロック付き。

念のために値引きについて聞くに、「もともと正規値1000ドル以上を700ドル代にしてますから、ちょっと無理です」と。まあ、通販サイトで見た値段と比較しても、やや安かったから、その値段で購入。しかし、後日、日本の通販サイトをチェックすると、RIMOWAの専門店みたいなのがあって、アメリカでの販売値よりかなり安い値を提示したりしている。RIMOWAは、日本で買うほうが安いとは知らなかったなあ。

NY行きのフライトはガーメントバッグを機内持ち込みしたが、帰りはスカスカの新しいスーツケースをLGAでチェックイン。Priorityのタグ貼ってくれた効果もあったか、バゲージ・クレームは妙に順調。バゲージ・クレームのターンテーブルに到着するのとほぼ同時に出てきた。毎回こうだと素晴らしいんだがなあ。




2007/06/25 「伊丹十三の映画」

先週号の週刊文春、「阿川佐和子のこの人に会いたい」には宮本信子が登場。松山に「伊丹十三記念館」がオープンしたことを語っていた。 四国の街はどこも、ポカーンと突き抜けたような明るさがあるが、一度訪問した松山も、静かな街並みに光が宿ってるような美しい場所だった。機会があれば、この記念館にも行ってみたいなあ。

同じくして、Amazon.co.jpに発注していた、「伊丹十三の映画」(新潮社)が到着したので、これまた一気に読了。以前に出た「伊丹十三の本」は、人間伊丹十三の全体像にスポットを当て、子供時代の思い出から、俳優時代、そして映画製作に乗り出した時代と、実に様々な角度からその人間像を再現するものであったが、この本は特に「伊丹映画」に関わった関係者達が、映画監督、脚本家、演出家としてのトータルな「映画人」伊丹十三を語りつくす企画。

セリフの一字一句まで練り上げられた脚本と、俳優の息継ぎにまで注文を出す丹念な演技指導。ベスト・ショットを掴み取るまで何度でも繰り返されるテストと、完成された画面への執拗なまでのこだわり。「伊丹十三DVDコレクション BOX」に収録された「メイキング・ビデオ」でも、随所に監督としてのいかにも「伊丹」ブランドらしいこだわりを見ることができた。そして、この本に収録の、山崎努、津川雅彦、宝田明、大地康男などの俳優のインタビューは、製作の現場で一緒に映画を作った者達の証言として、実に生き生きと伊丹流演出術の深さを語り、これが実に面白い。

巻頭の口絵ページには、映画撮影風景など写真が数多く掲載されているのだが、その中に、「マルタイの女」の主題歌として宮本信子のために伊丹十三が作詞した歌詞が掲載されている。結果的にこの映画に主題歌は作られず未発表に終わったのだが、これがどことなく寂しいものなのだ。その一部にはこうある。
でも
いつか別れの時がやってくる
ありがとう
僕なしで
しあわせな人生を
つかまえるんだよ
「マルタイの女」は、伊丹十三が自殺する直前に完成し、結果的に遺作となった映画。この歌詞は、宮本信子が手元に置いていたのだが、没後10年を経てこの本で初公開。同映画の中の津川雅彦の台詞にも、、「人生は実に中途半端な、そう、道端のドブのようなところで終るもんだよ」という、本人の自殺を投影しているかのような一節がある。自殺へと収斂していった彼の心象風景が、この歌詞にも投影されているのだとしたら、なんとも遣る瀬無いような、あるいは痛ましいような気のする話である。





2007/06/24 最近のUnited航空はずいぶん愛想がよい。

NY出張で一番印象に残ったのは、なんといっても昨日書いた、タクシーでの忘れ物を運転手が自らゲートまで届けに来てくれたという、ちょっと信じられないような素晴らしい出来事であった訳だが、その他、乗ったフライトの感想など追記。

LGA行きのフライトは1時間半程度。別にエコノミー・プラスの座席で文句はないのだが、500マイルEアップグレイドの有効期限もあるので、オンラインでアップグレイド申し込んでいたら、72時間前にクリアされファーストクラスに。

木曜午後のORDはなぜか結構セキュリティが混雑。登場前のゲートで乗り込む前の機長がマイクを持って、当日のフライト予定についてアナウンスするという、今まで見たことないようなパフォーマンス。機内に入ると、またその機長が立っており、Boeing757のカードをくれて、一人一人に、「本日は、ようこそUnitedのフライトに」と歓迎。普段のUAのサービスに慣れてると、「キミ達どうかしたのか」とちょっと心配になるような歓待ぶり。このところUAは、サービス向上のための顧客満足度調査のキャンペインを繰り広げており、フライトのたびにメールで質問など送ってくる。その点数カサ上げのためか、FA(フライト・アテンダント)も妙に愛想がよい。機長の愛想もそれと関係あるのかね。

まあ、UAの太平洋線でのFAのサービスなどは、日本人観光客には、あんまりウケがよろしくないようだが、もともとUAのFAは、日系キャリアのフライトアテンダントのような無駄な愛想はない。しかし、必要な時にちゃんとこちらが主張すれば向こうもきちんとやる。いや、というか、もともとアメリカンな彼らは、根本的にはフランクでフレンドリーなのだが、日本人の客は仏頂面で黙ってるのが多いから、アメリカ人のFAとしても、愛想のふるいようがないというほうが正しいのかもしれない。アメリカ人の旅慣れた客なんか見てると、搭乗するとまずFAに一発ジョークなどかまして大笑いして、それに横の席の奴も乗ってきて、ずいぶん和気藹々とやっている。まあ、文化の違いもあるのだなあ。

機長が操縦室に座った後も、プッシュバックの寸前まで操縦席のドアは開いており、子供に操縦席を見学させたりしている。911以降、フライト中のセキュリティはうるさくなったようだが、このあたりは昔も今も結構エー加減である。もうひとりのパイロットは髪の長い女性。今まで、アメリカ国内線で、女性のパイロットが操縦席にいた経験は何度もあったが、いわゆる「機長のアナウンス」という奴が女性の声だったことは一度もない。女性パイロットは、副機長までしかいないのか、あるいは機長であっても、アナウンスは男性がやることにしているのか、それとも私が経験したことないだけか。おそらく機長だっているはずだが。たまには女性機長のアナウンスも聞いてみたいもんである。




2007/06/23 NYのタクシーに落とした忘れ物が戻ってきた。

金曜日にNYで会議があるため木曜午後から出張。金曜の夜もむこうでステイ。夜は「寿司田」NYで一杯。歩いてホテルに戻れるとなるとつい酒が進むなあ。それにしても、NYはホテルが高い。Sheraton Manhattanは、他のホテルよりも安かったので予約したのだが、あの程度の部屋で一泊300ドル以上するというのが信じられない。インターネット接続は別料金で、これまた14ドルというのも理解に苦しむよなあ。

本日の朝、ホテルからタクシーでLGAまで。清々しい気温で快適な朝、道は空いておりスイスイと。チェックインを済ませ、Red Carpetで一休みしたのが搭乗開始の30分前。アタッシェ・ケースからPCを取り出す際に、中に入れていたi-Pod Nanoが見当たらないことに気づいた。Boseのノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンはちゃんとあるのだが。

ホテルの部屋に忘れたはずはないんだが。まてよ、そういえば、タクシーの中で、一度手帳を取り出すためケースを開けたな。ひょっとしてあの時に落としたか。NYのタクシーには全て、アルファベットを含む固有の4桁番号が振られており、空港からタクシーに乗る時には係員がその番号を控えた紙をくれる。しかし、ホテルから乗ったし、そんな番号は覚えていない。運転手はインド系のような感じだったのだが。もはや確認するすべはないなあ。

困ったもんだとは思ったものの、とりあえず搭乗時間が迫ってきたのでゲートに向かう。セキュリティの前で、ボーディング・パスと運転免許証を係員に見せていると、「Excuse me mister?」と後ろから呼びかける声がする。振り返ってみるとインド系の男。「これを車に落とされたのでは」と手に持ったi-Podを私に示す。これにはビックリ。さっき乗ったタクシーの運転手であった。

「そうそう、無くしたのにさっき気づいてどこに落としたかと思ってたんだよ」というと、空港のタクシー溜まりに行ってから座席をチェックすると見つけた。まだ間に合うかと持ってきたのだという。便名まで分からなかったので、必ず通るセキュリティ前でしばらく待ってたと。LGAはRed Carpetがセキュリティの前にあり、そこでしばし時間をつぶしたからちょうどよかったが、ゲートに直行してたら、彼が来る前にセキュリティを通過してたかもしれない。幸運でもあったが、しかし、なんて正直な運転手なんだ。素晴らしい。NYのタクシーが一気に好きになった。ははは。

丁重に御礼を述べ、i-Podを受け取る。感謝の気持ちですと20ドルのチップを渡して、握手して笑顔で別れた。確かに真面目そうな中年の男。移民でこちらに来たのだろうか。幸運をもらったが、彼の今後の幸運も祈りつつ。朝から実に気分のよい出来事であった。



2007/06/20 古く懐かしいこの場所から、いよいよ立ち去る時が来た。

このページを登録して、手動で更新報告もしてた日記リンクサイト、「日記才人」が7月で閉鎖なのだという。前身の「日記猿人」に、このページを登録してからでもちょうど10年。そう、あの頃もアメリカ在住だったんだな。

私の登録番号は673番で、今にして思えばとんでもなく古いが、登録当時は、100番台くらいまでに元気な古参日記者がゴロゴロして、私なんか新参の部類だったなあ。しかし、時はあっけなく流れるもんである。So it goes. ブログなんて言葉すらない頃から、web日記と称したテキスト・サイトのリンク集として、参加者の不思議な縁と連帯感を紡いできたサイト。一頃はオフもずいぶん参加した。数え切れないほどの貴重な思い出が残っている。歴代の管理者諸氏には、本当に深く感謝したい。

現在でも「マイ日記才人」の更新リストを使ってるのがちょっと困ったこと。いずれこの日が来ようとは予想して「はてなアンテナ」を併用してはいたのだが、完全に同期が取れてる訳ではない。リストが消える前に「はてなアンテナ」のほうに移行しなければならないのだが、日記才人の更新リストも、昨年5月頃に大きく壊れ、「マイ日記」データはだいぶ失われてしまった。

そもそも今のバージョンにリニューアルした際、ずいぶん利用者が減った気がする。今にして思えば、あれが終焉の始まりだったのか。こう言ってはなんだが、ここ数年は、昔は栄えた店がだんだんと寂れて廃屋になってゆくのを、ずっとカウンタの定位置に座って飲みながら見つめていた古い常連といった気分。

目端の利いた客は、とっくの昔にもっと賑やかな店を探して移動してしまった。オーナーもマスターも変わり、昔馴染みの客も大勢すでに去っている。では、なんで壊れかけたこの店の、昔の定位置に座ってずっと飲んでたのかというと、ま、ひとつは河岸を変えるのが面倒だということもあるが、忘れ去られたかのようなこの場所に、時折、ポロっと、実に懐かしい人が戻ってきたりもしたから。しかし、もうそんなこともなくなる。

なんにでも潮時はあって、本当は、立ち去るべき時はもうとっくに過ぎていたのかもしれない。あちこちに思い出が残った古いこの店が、取り壊されるのを見るにはしのびない。最後の瞬間まで残る意味もないだろう。だから更新報告するのはこれで最後。最後の一杯を飲んだら、これで立ち去ることにしよう。古い知り合いの皆さんも、どうかご機嫌よう。このページ自体は続けるので、またどこかで会えるでしょう。

さて、ドアを開け、こんどはどこに行こうか。しかし、そんなあては、なぜかひとつも思いつかないのだった。





2007/06/19 「今世紀で人類は終わる?」

「今世紀で人類は終わる?」(マーティン・リース/草思社)読了。

著者は、大英科学振興協会の元会長で宇宙物理学の世界的権威。原題は「Our Final Century?」。科学の進歩は人類を滅亡させるのではないかという観点から、科学と人間のかかわりについて語る科学エッセイ。

昔、オウム真理教は、武器となるエボラ・ウイルスを求めてアフリカに採集部隊を派遣したといわれている。しかし現在では、エボラ・ウイルスの遺伝子情報は解析後データベース化されており、世界には市販のDNA鎖を利用してエボラ・ウイルスを合成する技術を持った人間は何千人といると著者は述べる。一個人が大災害を引き起こす、悪意のバイオ・テロは、決してありえない話ではないのだと。

1937年全米科学アカデミーは、今後行われる科学上の大発見についての調査を行った。しかし、原子力、抗生物質、ジェット機の開発、ロケットによる宇宙開発、トランジスタ集積回路、コンピュータの出現等、20世紀後半の世界を大きく変えた大発見については、まったく予測できなかった。

だとすると、今後100年の科学の進歩について、現時点で果たしてどれだけの予想が可能だろうか。そして、めざましい科学の進歩そのものによって、現時点では誰も想像していない、個人が人類を滅亡に追い込むような恐ろしい技術が生まれてくるのではないか。そのような科学の進歩と人間は、いったいどのように共存してゆくべきか。

科学技術発展に潜む負の側面に触れながらも、科学の持つ可能性や今後の人類の発展についても俯瞰し、題名から来る深刻な印象とは裏腹に、割と気軽に読むことができる本。

しかし、もしも地球上の人類が今世紀で終わっても、他の恒星系に知的生命が幾多も存在するのなら、宇宙的にはその影響は比較的小さいということになる。「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由―フェルミのパラドックス」も随所で思い出した。




2007/06/18 世界最高齢は、男女とも日本人。

アメリカ Yahooのニュースでも、「田鍋友時さんが男性世界最高齢と「ギネスブック」認定」の記事が大々的に。111歳。

「アルコールを飲まないのとタバコを吸わないのが長寿の秘訣だ」と述べたとか。そうか、アルコールは長寿の敵か。「幾つまで生きたいか」と訊かれて、「死にたくない」と答えたというのも笑えるなあ。日本語のやりとりは分からないのだが。

住んでるのは南九州、都城。確かに自然にあふれ、実にのどかな場所。まあ長生きできる場所という気もする。同じ記事によると、世界最高齢の女性、宮川よねさんも九州在住だとか。長生きしたいなら余生は九州の田舎で送るのがベストだ(笑)。

このニュースを読んで、昨日のゴルフ全米オープン中継で流れたCMを思い出した。ずいぶん高齢、もはやヨボヨボに見えるアメリカ人女性が、フェアウェイでクラブを振るのだ。ちょっとヨロヨロしているのが、クラブはカチンとちゃんとボールを捉える。そこにこんなキャプションが重なる。「彼女が始めてホールインワンを記録したのは、102歳の時。何事も、始めるのに遅すぎることはない」と。確か全米ゴルフ協会のCMではなかったか。アメリカにも元気者がいるもんですなあ。ひょっとすると、これもギネス記録だろうか。



2007/06/17 ゴルフUSオープンに勝利したのは、アルゼンチン出身、ツアー初優勝の37歳。

午前中まだ涼しい内に、6マイル50分のランニング。その後、ドライビング・レンジでアイアン・ショットの打ち込み。ゴルフというのもなかなか難しい。その昔、年寄りのゴルファーが、キャラウェイの7番ウッド、ヘブンがよいなどと言ってたが、ミドル・アイアンの調子が悪いと、やはりそんなものなのかねと思ってきたり。昼前には気温はまた華氏90度を超えた。お昼は近くの中華で、青島ビール飲みつつ、ローストダック入りワンタンメンなど。澄んでアッサリしたスープに香港風の細い麺。前回駐在時からのお気に入りである。炎天下で運動した後の昼ビールは実に美味いなあ。

午後は、ゴルフ、USオープンの中継を。ウッズは2打差の2位スタート。今までのメジャーで、最終日1位でスタートしたウッズは必ず優勝しているのだが、2位以下でスタートして優勝したことは一度もないのだとか。ウッズは確かに図抜けた実力を持っているのだが、やはり調子の波もある。3日間終わってトップに立ってない時は、よほど調子が悪いということで、さすがのウッズも、そんな時に波に乗った選手には勝てない。逆にウッズが調子よい時は、どんなに好調な選手が束になってかかっても、決して勝つことはできない。この統計はそんなことを示しているように思える。

3日目終わっての一位、オーストラリア、メルボルン出身のAaron Baddeleyは、2位のタイガー・ウッズと一緒に、最終組のスタート。しかし、いきなり大叩きして1位の座から滑り落ち、戻ることはなかった。気の毒になあ。しかし、ウッズも調子よくない。ショットがブレて、ようやくパーを拾ってなんとか上位をキープしているような出来。本人が一番フラストレーションを感じていただろう。

途中からトップに立ったのは、アルゼンチン出身の、Angel Cabrera、37歳。あんまりアスレチックな感じがしない小太りの体型、ラウンド中にはタバコを吸って、最近タバコ吸うプレイヤーも珍しいですよね、などと解説が。日本のゴルファーは、ジャンボ尾崎を筆頭にスモーカーが多いが、アメリカ・ツアーでタバコ吸うプレイヤーは確かに珍しいかもしれない。

1打差で先にホールアウトした後、クラブハウスのソファに踏ん反りかえって、後続のジム・フュリックやタイガーをTV観戦。TVキャメラが映すと、帽子に描かれた、スポンサーであるPingのロゴをアピール。普通、一位で先にホールアウトすると、万一のプレイオフに備え、ストイックに練習場でボール打つ選手が多いのだが、このへんが南米出身のオプティミズムか。なかなか面白いオッサン・プレイヤーである。今年の賞金獲得は、たった20万ドル、アメリカ・ツアーで初の優勝が、このUSオープンなんだとか。もっとも本日のこのカプレラは、確かに実に素晴らしいショットを連発していた。勝利の女神も、なかなか興味深い裁定であった。


2007/06/16 華氏90度を超える中、ゴルフなど。

本日は、朝7時半スタートでゴルフ。前回駐在の時にも何度か来たCantigny Golf Club。カート込みで107ドル。日本と比べれば安いが、アメリカの水準ではずいぶん高級。しかし、入り口からクラブハウスまでの並木道はなかなか立派だし、門を入ってからのバッグドロップではちゃんとキャディがバッグを受け取ってカートに積んでくれるし、コースも手入れよく、美しい。

来月には、「2007 U.S. Amateur Public Links Championship」をホストするのだそうである。スターターのオヤジの言うには、すでにラフを伸ばしつつあるので、難しいが楽しいはずだと。確かにラフに行くと結構苦労した。グリーンも手入れよくピカピカ。2段グリーンの下につけて、弱気のパットが傾斜を上りきらず、またスルスルと打った近くまでというのを2度も。その昔、何かの大会で、トム・カイトがやってたよなあ。

ドライバーはそこそこ当たったのだが、やはり2打目でグリーンを狙うミドル・アイアンが上下左右にブレて、これではアカんと納得。まあ、もっと練習しないとお話にならない。今日は気温も高く、途中から華氏90度を超えており、ずいぶん暑かった。

ホールアウトしたのが12時ちょっと過ぎ。部屋まで戻ってきても1時前だったから、日本でゴルフするよりずっと恵まれた環境ではある。ただカートで回っただけで、ちょっと運動足りない気がしたので、再び着替えてからForest Preserveで、ランニング4マイル。木陰のトレイルだけを走ったのだが、やはり気温高く消耗し、後半はだいぶスローダウン。気温が90度越えると、バイクやローラー・ブレードで走ってる人もかなり少ないようだ。

帰宅してシャワー浴びて一休み。夕方は、PGA USオープンの中継を。途中までトップを走っていたワトソンが、グリーン回りからの寄せのショットでザックリとショート。次のチップ・ショットはカチンとトップしてグリーン反対側にこぼれるほど何十ヤードもオーバーして、結局トリプル・ボギー。プロでも、まれには、まるで今朝の自分と同じようなことやるんだなあと、妙に感心したり。タイガー・ウッズも上位にいるが、コースが稀に見る難しいセッティングで、オーバー・パーに大勢ひしめいている。最終日も大混戦になるのでは。明日は中継を昼過ぎからずっとチェックするか。



2007/06/14 来るまでは時間かかるが、来たら意外に早い。そう、アメリカ風味だ。

部屋の壁にとりつけてあるSmoke Detectorが鋭いアラーム音を間歇的に鳴らすようになったのは、1ヶ月半くらい前だったか。特段、煙も熱も無いのだから何かの異常に違いない。部屋のオーナーに連絡したり、ビルの管理会社に電話したり、電気工事の会社に電話したり。結局、バッテリーの消耗が原因と分かり、自分やったほうが早いので自分で解決したのだが、それまでにあちこち電話しては回答がなく、たらいまわしにされるわ無為に待たされるわ、実にエライ目にあった。ま、アメリカではそういうものだ。

何らかのメンテナンス・サービスを呼んで、大概はすぐにキチンとしたプロのワーカーが時間通りに現れる日本のほうが珍しいかもしれない。日本の詰め込み教育と規則で縛った集団生活は、ある意味モラルが高く質の高い労働力の確保に有効だった。まあ、昨今は日本の教育のタガも外れてしまい、ワーカーの質はそのうちアメリカと同じレベルに転落してゆくだろう。ま、そういうものだ。



でもって、ちょうど同じ頃、やはり部屋のオーナーから電話があり、ヴィレッジの(そうそう、このあたりはcityではなくて、village)規則が変わり、今までのSmoke Detector以外にCO Detector(一酸化炭素の検知器か?)をベッドルームに設置しなければいけなくなった。ついては手配は自分がする。そのうち工事会社から連絡があると思うので、その際は工事のために部屋に入れてやってくれとのこと。

別に連絡待つのは何の手間でもないから喜んで。「でも、一度や二度手配しただけでは、きっと工事会社は連絡してこないと思いますがね、だって、ここはアメリカだから」と返事しておいた。オーナーはもちろんアメリカ人だから釈迦に説法か。むしろ気分を害したかな。ははは。

で、まあ、そのうち連絡あるだろと気にもせずにいた訳だが、昨日の夕方、会社に電話があって思い出した。オーナーが手配してから、もうなんだかんだで1ヶ月半だよ。ま、別に私が困ってた訳でもないからよいのだが。いやはやずいぶんかかるね。

電話かけてきたオバチャンは、「じゃあ、今晩6時半に行くから」と言うのだが、一ヶ月半も放置して、いきなり電話してきて今夜来ると言われても、こっちだって予定がある、「今日は都合悪いからダメだ」と言ってやると、「では、明日の朝はどうだ」と。「8時前には出勤するからダメだ」というと、「では、7時から7時半の間では?」とのこと。時間は10分で済むという。いずれは来てもらわねばオーナーも困るだろうし、まあ、よいかと承諾。

それが今朝だったのだが、よく考えてみると朝7時から人を部屋で待つというのも迷惑な話であった。もっとも電話してきたオバチャン本人が、工具と台を持参で7時キッカリに来訪。もう50歳はとっくに越してるようなご年配。しかしなかなか元気で、すぐにリビングの壁に検知器を取り付け始める。

なるほど、ファイヤ・アラームには接続せず、バッテリーでスタンド・アローンで動くアラームに過ぎないから設置が早いのか。壁に釘を打って検知器を取り付けて終了。アラームの音によって煙なのか一酸化炭素なのか分かるデモをして完了。「ほら、言った通り10分で終わったでしょ。Have a nice day!」とウインクして、風のごとく出て行った。

来るまでは時間かかるが、来たら意外に早い。このへんがアメリカ風味だ。もちろん出来なかった場合、その諦めも早いのだが。





2007/06/13 「表舞台 裏舞台──福本邦雄回顧録」

「表舞台 裏舞台──福本邦雄回顧録」(講談社)読了。

「政界の世界を知り尽くし「最後のフィクサー」と呼ばれた男が全てを語った、3年間19回に及ぶ迫真の証言録」と宣伝にある。福本邦雄という名前は知らなかったが、戦前の日本共産党の理論的指導者であった福本和夫の長男で、産経新聞記者から、岸内閣の椎名悦三郎官房長官の秘書官となる。彼が見た政界の内幕をインタビューしてまとめたもの。

福本邦雄自身は、表舞台で踊った主役ではなく、黒子のように舞台の脇で佇んでいた歴史の証人であるが、政界の内部にいた人間にしか知らないような事実があれこれとあけすけに語られており実に面白い。もっとも、もうだいぶお年の人に3年もかけて話を聞いたせいだろうが、同じ話の繰り返しはやはり多い。話も割と脱線するのだが、脱線のほうはこれで座談特有の味わいとがあって面白い。

田中角栄とは、それほど近しくなかったようなのだが、竹下登元首相については、思い出をあれこれ語っており、これが興味深い。竹下元首相は、政治家全員の年齢と当選回数を表にしたものを常に持っており、自分が何番目にいるかを常に把握していた。選挙の都度、年寄りが引退、落選するから、10人ずつくらい順番が上がるのだと語っていたという。

そして、政治家のキャリアについても、閣僚歴と党務歴をそれぞれ、「幹事長をやったら何点、大蔵大臣だと何点」と全て点数化し、個人の持ち点を換算して、実に丹念な順位表を作っていたのだという。いわば竹下流「勤務評定表」だ。

大平派の順位をつけると、派閥の長、大平元首相の次は鈴木善幸。竹下がその順位表を大平に見せて、次に誰に派閥を渡すんですかと聞いたら、大平は、「鈴木なんぞに渡すものか、彼に国政は任せられない」と怒ったらしい。しかし、鈴木善幸はその後総理大臣にまで登り詰めるのだから、この「竹下勤務評定表」は、永田町での評価を実によく反映していたことになる。もっとも、鈴木善幸は後に「暗愚の帝王」と呼ばれるようになるのだから、やはり大平の言うとおり国政の長に立つ器ではなく、この「評定表」は、本人の能力を現すものではない。政界での立身出生だけを一心に希求した竹下登が発見した、あくまでも永田町の常識で見た序列をきちんと現す道具だったのである。他の本で書かれて、知っている話も多いのだが、政界のドラマの裏面を知る男が語ったドキュメントとして一読の価値あり。





2007/06/11 アメリカから日本の選挙に投票する。

本年6月1日から在外選挙制度が改正に。海外居住の日本人でも日本の選挙に投票できる制度。以前は海外居住者が投票できるのは比例代表議員選挙だけだっが、衆議院小選挙区、参議院選挙区選挙についても、在外公館等で投票できるようになったらしい。

しかし、国外転出届を出して日本国内には住所が無い訳で、選挙区といってもどこの選挙区に投票できるのだろうか。外務省のページで調べてみると、 「平成6年(1994年)5月1日以降に日本を出国した」場合には、最終住居地の市区町村選管が管轄する在外選挙人名簿に登録されるのだとか。94年以前に日本を出国している場合は「本籍地」だという。選挙人名簿とチェックするようだから、名簿の保存期間と関連しているのだろうか。

在外選挙投票をするには、事前に在外選挙人証というものが必要らしい。その登録には、こちらに手続きし、日本へ連絡して選挙人証が届くまで2ヶ月程度かかるらしい。先月、パスポートの更新に行った時、一緒に手続きしておけばよかったのだが、すっかり失念していた。総領事館はダウンタウンにあり、なかなか開館している平日に行く機会がない。今度の参議院選挙には多分、間に合わないなあ。話の種に海外で投票してみようかと思ったが、ちょっと残念。




2007/06/10 ゴルフ日和の週末。

土曜日は仕事の関係でゴルフ。雲一つない青空。気温もそれほど高くなく、絶好のゴルフ日和。お昼前のスタートだったので、朝にちょっと練習場で打ち込み。起伏の多いコースで、フェアウェイ、グリーンともに狭く、クリークや池がなかなか嫌なところに配置されている。グリーンがこれまた難物で、アンジュレーションに富み、ピンがまた妙なところに立っている。前半は3パット連発、ロスト・ボールもあったりで50後半の大叩き。後半は若干持ち直して48。

夕方は、いつもの日本食レストラン寿司カウンタで一杯。親父と話してると、「ああ、あそこのコースは難しいけど面白いよね」と。まあ、上手な人には面白いコースなんだな。新調したドライバーは、後半よく当たったが、前半はだいぶ当たりそこねあり。やはりまだ練習が必要か。考えてみるとアイアンもすでに10年近く使っている。アイアンの進歩も凄いから、買いなおすとスコア改善に役立つだろうか。などと余計な無駄使い構想がふくらんでゆくのであった。

本日は、のんびり起床。ゴルフ練習場でしばし昨日の反省をもとに打ち込んでから、Forest Preserveでランニング6マイル。木陰を走る分にはよいのだが、日差しの中を走るとちょっと暑いくらいの気候になってきた。6マイル中2マイルは日差しをさえぎるものの無い道だから、真夏にはちょっとコースを考えないといけないかもしれない。冬場からすると1キロばかり体重が落ちて、BMIも依然として19台をキープ。来週前半は仕事がちょっと立て込むので、本日午後はのんびり休息。そうだ、たまった本も片付けなくては。





2007/06/08 「バチカン・エクソシスト」と、ヨハネ・パウロ2世の「悪魔祓い」

「バチカン・エクソシスト」(トレイシー・ウィルキンソン)読了。週刊誌の小さな広告で見かけてAmazon.co.jpに発注。

映画「エクソシスト」原作小説には、「悪魔祓い」の実在について聞かれた神父が、「タイムマシンに乗って16世紀にでも行くんですな」という場面があるのだそうだ。しかし、「悪魔祓い」は、カトリックの教義の一部として実際に公認されており、現代のイタリアにも、バチカン公認のエクソシストが数百人も存在し、神父として活動している。これは、LAタイムズのローマ支局長である著者がレポートする、現代のイタリアに存在する「エクソシスト」についてのノンフィクション。

実際にはいわゆる「悪魔祓い」の対象は、映画「エクソシスト」で描かれたような、超自然的な現象を引き起こす「悪魔憑き」だけではない。原因不明の体調不良や、精神の錯乱などにおいても、医学に頼らず宗教にすがる人も多数おり、これに対する神霊的対処も「エクソシズム」と呼ばれる範疇なのだそうである。その点では、この本で扱う「エクソシズム」は、一種、精神医療で言うセラピーに似ており、治療として何度も繰り返す場合も多いという。しかし、プロローグで実際に描かれた「悪魔に憑かれた」女性は、映画の「エクソシスト」そっくりで実に印象的。

「悪魔憑き」は女性に多いのだという。中世の「魔女」裁判にかけられた対象には男性もいるらしいが、圧倒的多数は女性。ギリシャの神託にある古代の巫女も女性。日本では、「金光教」、「踊る神様」あるいは「大本教」など、大正から昭和初期の振興宗教の教祖も女性が多かった。悲惨な境遇で辛酸をなめた女性が突然神懸かりになり、「神様」の言葉を語り始める。いったい誰の言葉をしゃべってるのかにもよるが、いわゆる「憑き物」とあまり違わないのではないだろうか。まあ、しかし、依代として神霊の言葉を語る能力があるのは、やはり女性という気がするな。そして、「創世記」の昔から、悪魔に誘惑される対象としても、女性が象徴になってきたのだ。

この本で、もうひとつ印象的なのは、ヨハネ・パウロ2世もエクソシズムを行ったという記載。2000年に、イタリアのとある村からバチカンを訪問した若い女性。彼女は背骨が曲がっており、歩くこともやっとという状態でヨハネ・パウロ2世の広場での一般謁見に参列したのだが、突然卑猥な言葉を喚き散らして暴れだした。警備の人間が彼女を排除しようとしたが、ヨハネ・パウロ2世はそれを止め、その後別室で、彼女に祈祷を捧げ、祝福を与えた。しかし翌日、彼女の口からよく響く低い声で「教皇すらもおれを倒すことはできない」と言葉が出るのを聞いた神父がいたのだと。もしも「エクソシスト」を再び映画でリメイクするなら、最後に使いたいようなシーン。

イタリアは、カトリックの総本山。荘厳なドゥオモを中心に持つ古い都市、ミラノやフィレンツェを訪れた際には、確かにイタリアに生まれてカトリックにならないのは至難の業だと深く感じ入った。あまりにも深く民衆の生活に根ざしているがゆえに、個々の人間の精神の葛藤の全ての場面に、キリスト教が深く反映されているのだろう。




2007/06/07 国民総背番号制を導入しておけばよかったんじゃないか。

公的年金は、ちょっと前に未納問題でさんざんモメたと思ったら、納付記録のほうもボロボロだったことが判明。該当者不明の年金徴収記録が5000万件も。更に1400万件も未入力の記録があることも追加で分かったとか。しかし、社会保険庁の仕事も実に杜撰だなあ。民間の生保や損保なら、保険金だけ取っておいて「実はデータ無くしたんで払えません」で通用するはずもないのだが、お役人の無責任体質は、やはり治らない。

もっとも、このオソマツな名寄せ作業の停滞について、やや同情の余地があるのは、1970年代に遡る「国民総背番号制度」の導入に関して、当時の野党やメディアが「導入すれば民主主義が滅ぶ」かのごとくヒステリックに反対し、この制度を葬ってしまったこと。もしも、この時点で国民一人一人に固有の年金番号がふられていれば、さすがに「名寄せ作業」も、もっと効率化しただろう。

「基礎年金番号」というものができたのは1997年だそうだが、これですら、必ずしも一個人に生涯ひとつという訳でもないらしい。コンピュータも整ってなかった70年代から80年代にかけて、記録を名寄せするには、名前の読みと生年月日だけがキイ。日本人の名前はムヤミに種類が多いし、しかも読みにもずいぶんバリエーションがある。背番号無しで、手作業で名寄せを完全に行うのは、実質的に不可能に近かっただろう。

その面では、もっとも責められるべき厚生省の怠慢は、名寄せが完遂できなかった事よりも、「きちんとした名寄せは不可能です」と声を上げてバンザイしなかったことなのだろう。しかし、失敗や責任取る事を嫌うお役人体質は、この事実を封印してしまった。今になってパンドラの箱が開いたのだが、6400万件の記録を、果たしてどうするつもりなのだろうか。

アメリカでは、個人にふられたSSN(Social Security Number:年金番号)があって、銀行預金口座やクレジットカード、運転免許証などにもリファーされている。税金の申告にも共通に使われる番号だ。確認してないが、おそらく訴訟や犯罪記録にも参照されていると思うのだが。

同様の番号を日本に導入したとしても、おそらく給与生活者はひとつも困らない。困るのは、脱税したり年金払ってない人間だけなのでは。社会的なコストとリスクのトレードオフを考えても、国民総背番号制度を導入してもよいと思うがなあ。逆に、実に中途半端な「住基ネット」など、数年前に大騒ぎで導入したが、あの番号は一体何だったか。自分の番号すらどこに記録してあるか覚えていないし、何ひとつ生活が便利になった気がしなかったのだが。



2007/06/06 Canada出張とI-94 / A.C.クラークのプールで泳ぐ 

月曜火曜は、カナダ、Torontoに出張。事前のEasy-Checkinではボーディングパスが表示されず、International Cardなるものが出力されて、Service Representativeに必要書類と一緒に見せろ書いてある。国内線と同じゲートから出発するといえ、一応は国際線なのでカウンタでチェックするのだろうか。

アメリカでは、そもそも日本のように役所が行う出国審査はなく、「去る者は追わず」というか「勝手に出てゆけ」という雰囲気。出国といっても航空会社の窓口でI-94を外すだけ。カナダに行く時はI-94外したっけな。UAカウンタでチェックインする際に質問すると、1日だけの滞在なら、そのままつけておいてよいのだと。日本やヨーロッパ行きなら必ず外すのだが。まあ、担当によって言うことが違うのがメリケンの常であるから、本当かどうか。



フライトは1時間半程度。エンジンの騒音を軽減するフライトの必携品、Bose QuietControl3のバッテリー充電を失念しており、フライトの途中で電池切れというお粗末な失敗。機内誌にも広告載ってるせいか、最近、機内でこのヘッドフォンしている客を、特にファーストクラスで多数見かける。

Toronto空港には定刻通り到着。以前来たのは4年前だが、空港が様変わり。ピカピカの巨大ターミナルになっている。迎えに来てもらったカナダ人社員に聞くと、つい最近新しくオープンしたばかりとのこと。それにしても実に立派な空港。

夜はカナダ現地法人の社員と会食。元々はWales出身で、今はカナダ在住というGMは、昔、スリランカにも住んでいたのだという。大英帝国の昔の栄華が偲ばれるような話だな。「スリランカというと、SF作家のA.C.クラークが住んでたよねえ」と話を振ると、「知ってるも何も彼の近所に住んでたし、クラーク邸のプールで泳いだことだってあるんだよ」という。これにはビックリ。意外にスリランカの英国人社会というのも狭いのかも。しかし、「クラークの"Childhood's End"は真のmasterpieceだよなあ」と同意を求めると、「いや〜、残念だけど彼の本は"2001"しか知らない」と。

スリランカでクラークの近所に住み、家に遊びに行ったこともあるのに「幼年期の終わり」も読んでないという、なんだか残念な話。もっとも、人生というのは往々にしてそうしたものなんだな。まだネットなど無い頃から、原稿をワープロで打って、サテライト経由で出版社に伝送してたんだよなあ、そうそう、もう80歳など優に超えてるはずだが、など、小説とは関係なく交わした瑣末なクラーク話もなかなか面白かった。



火曜は朝からずっとカナダ人と会議。夕方5時過ぎにすべての予定を完了して空港まで。出発のターミナルも、新しく実に広々としている。UAのカウンタには新しい自動チェックイン機がずらりと並ぶ。これでチェックインできるかとトライ。パスポートも読み取るし、ビザ・ページを差し込むとちゃんとビザ情報が表示される。米国内住所も付属のキーボードから打ち込んで。しかし、最後にボーディングパスが出てくるかと思ったら、「Service Representativeのところに行け」と表示が出て終わり。なんじゃこれは。結局、有人カウンタでチェックインして、パスポート見せて、米国住所もまた口頭で申告。まったくの2度手間で実にけしからんが、非居住ビザ持ち外国人のアメリカ入国には多分使えないんだろう。無駄な時間だったなあ。

カナダ発アメリカ行きのフライトでは、カナダ側でUSの入国審査が行われる。これは10何年前から同じ。しかし、新装なったトロント空港は、実に広々として、あまり混雑なし。米国入国審査前に、I-94の用紙が置いてあるので、パスポートにまだ前のが添付されてるものの再度記入。入国審査では、「OK, I'll give you new one」とのことで前のI-94を外し、今回記入のものに2年間の滞在期限を記入して再発行してくれた。古いままでよいと言えば、そのままでもよかったのだろうか。ICパスポートに変わってから、初めて押された米国入国のスタンプ。



2007/06/03 もうすっかり夏の香り

木曜の朝、起床した時に首筋に違和感あり。寝違えたようで痛みがあり、首があまり回らない状態に。帰宅して気づくも、部屋には買い置きの湿布薬などなく、一晩眠ればだいぶ回復するかとそのまま就寝。人間寝てる時に、結構寝返りをうつもので、そのたびに、痛ててて、と首筋の痛みで目が覚める。金曜の起床時には、木曜朝よりも悪化した状態。普段は気づかないが、人間の頭は意外に重い。ふとした動きで首筋に力がかかるととズキンと痛みがでるので、体全体の動きをゆっくりと。

車の運転というのも、結構首を回す場面が多く、これにも結構支障あり。金曜に消炎鎮痛湿布薬を買って首筋に。仕事のほうはなんとか終了。金曜夜、時折寝返り打つときにはやはり気になったのだが、土曜朝にはやや好転。もっとも寝床から起き上がる時にはやはり、痛てて、となる訳だが。

予約入れてたので午前中は理髪店に。首筋が痛いと洗髪の時など大変かと思ったが、そこはやはり店も一応プロ故に、姿勢変える時は、ちゃんと首を支えたりしてるんだなと感心。普段はそんなこと気づかなかったが。

直立して動くには特段の不都合もないので、午前中はランニング。最初の2マイルは16分半。その後はややペースを落として4マイル。トータルで6マイル走行。天気もよく汗かくのが気持ちよかった。 日曜朝には、首筋の寝違えもだいぶ好転。午前中に、ランニング6マイル。このところ、だんだんと日焼けしてきた。

この土日は、住んでる町のダウンタウンで、「Promenade of Art」と称し、絵画、写真、アクセサリーなど、200以上のアート系テントショップが道路に並ぶフェスティバル。しばしブラブラと散策、あちこちの店をひやかして歩く。絵は、あんまり買う気になるようなもの無し。金属系の置物、オブジェなど、結構面白いなと思うものもあるのだが、かさばるし、買って日本に持って帰ろうとまで思うものはあんまりないような。午後に突然のにわか雨。雨上がりにまた強い陽が差すと、あたり一面、もうすっかり夏の香り。



2007/06/01 「蟲師」を8巻まで一気に購入。

とある方に、メールで実に面白いと薦めて頂いたコミック、「蟲師」を、8巻まで一気にAmazon.co.jpで「オトナ買い」(笑)。

今週届いたので、まず4巻まで一気に読了。いや、しかしこれは凄いね。既に作品は幾多の賞に輝いており、この第一巻もすでに33刷。いまさら私が誉める必要などないのだが、それにしても実によくできている。

作品の舞台は作者によれば、「江戸期と明治期の間にある架空の時代」、どこか懐かしい気がする昔の日本。「蟲」とは、普通の動物や植物と、無生物の間に存在する、「生」のエネルギーの原初的な形であり、例えば妖怪や物の怪に類する存在。普通の人間には感知できない「蟲」を見ることができ、その対処術を知る「蟲師」が、日本各地の放浪で様々な「蟲」と人間とのドラマに立ち会うさまを描く。

一種の幻想・伝奇ファンタジーなのだが、「蟲(むし)」という、ある種超自然な架空の存在を外挿することにより、逆にストーリーに独特な深みが生じ、破綻の無い見事な世界観を構築して作品が成立している。この手のお話では、「ああ、そういえば、こんな話が柳田國男にあったな」など、割と元ネタの推測がついたりする場合も多い のだが、この著者の、細部にまで肌理細やかにこだわった、オリジナリティあるイマジネーションには脱帽した。一話完結の続き物だが、どのエピソードも、虚無的なアンハッピー・エンドに陥らず、どこかに救いが用意されている。そんな繊細で心温まるストーリー運びにも好感が持てる。確かに素晴らしかった。

大友克洋監督で、本原作による実写版の映画も最近公開されたらしい。ただ、大友克洋の漫画家としての素晴らしい才能は認めるが、果たして実写版で映画にする監督としてどうか。コミックとして成立した素晴らしい作品は、逆に実写版にするのは大変な困難だろう。昔からあんまり成功したことがないような。




2007/05/31 Boston美術館 その3 番外編

ボストン美術館には、興味深い展示物はいくらでもあって、感想を書き始めるとキリが無いのだが、ちょっと毛色の変わった番外編を最後に。



Ravine。渓谷を描いたゴッホの絵。サン・レミに移った後で描かれている。うねるような独特の分厚いタッチは確かにゴッホなのだが、寒色系の色使いが珍しい印象。



「Blood of the Redeemer」。このキリストの磔刑画では、右脇から出た血が、蛇の絡みつく聖杯に降りかかっている。実に奇妙な構図と記憶に残った。しかし、「西洋美術解読事典」をひもとくに、頭蓋骨や蛇が登場し、それに血がかかる構図は磔刑画にずいぶんあるらしい。ほほう。

地面に頭蓋骨が転がっている磔刑図は結構見たことがある。単純に、「ゴルゴダの丘とは、しゃれこうべの丘という意味である」との福音書記述を暗喩しているだけと思っていたが、本事典の解説によると(もちろん、「ゴルゴダ」の暗喩でもあるのだが)、中世には創世記のアダムの頭蓋骨(あるいはエデンの蛇)を磔刑図に描き、キリストの磔刑が人間の原罪からの「救済」であるとの教義を描くことが盛んに行われたとか。なかなか新鮮な驚き。今後、あちこちで磔刑図を見る時に参考にするか。まあ、人間実に色んな事を象徴として考えるもんだよなあ。ただ、この聖杯の上で、血を飲むように見える鳩はいったい何の意か。分からないことはまだまだ多い。



中国古代の酒器なのだそうであるが、いかにもゴツゴツして過剰装飾なところが気に入った。家にひとつくらい欲しいもんである。



これは古代ギリシャのコーナーにあった取っ手付きの壺。側面に描かれた顔が、なんというか、諸星大二郎風というか、吉田戦車風というか。現代でいう、「ヘタウマ」系のアートまで思い出したりして、なんだか妙に面白い。何を考えて、こんな容器を作ったのか。



オリエント文明のコーナーの片隅にあったウサギの形をした壺。何気なく説明を読むと、放射性炭素年代測定で、製作年が紀元前6400年と測定され、おそらくこの美術館の所蔵品で一番古い物だとか。いまのシリアの辺りで出土したらしいが、シュメール文明に先行する文化の遺物。今から8000年以上前である。凄いものが残ってるよなあ。


このレリーフは、今のイラン、ペルセポリスからの出土。ライオンに襲われる牛。紀元前4世紀。 これだってずいぶん古いのだが、考えてみると、前出のウサギの形をした壺から、すでに6000年経っている。悠久の時の流れには頭がクラクラするほど。

古代の焼き物や装身具、レリーフに壁画、彫刻。どれも製作者が誰だったのか、もう知るすべはない。無名の彼らが残した芸術だけが何千年の時を経て、ただひっそりと、各国の美術館に集められて残っているのだ。



2007/05/30 Boston美術館 その2 絵画の名作を巡る

ボストン美術館は、印象派絵画の品揃えだけで勝負するなら、あるいはシカゴ美術館の後塵を拝するかもしれない。しかし、古代エジプト、ギリシャ・ローマ等の文物、中国やオリエント、日本の美術まで、時代と地域、多岐にわたった収集物のバランスがなかなかよくとれており、館内を巡っても目先が変わって飽きない。しかし、何を見たいかというポイントを決めないと、結局のところ目から入る情報がオーバーフローして大変に疲れるのはメトロポリタンと同様かも。やはり、日本の美術館だって本当はそうなのだが、メンバーになって、時間のある時に何度も再訪すべき場所なんだな。

絵画だけに限っても名作がたくさんあり、目が眩んでなかなか印象がまとまらないが、いくつか感想など。



「Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going?」。「我々はどこから来たか、我々は何者か、そしてどこへと行くのか」 これは、人間がはるか古代から答えを捜し求めてきた問い。ゴーギャンがタヒチで自殺未遂を起す前に書き上げた、遺書ともいえる大作。実際に目にしてみるとこれが実に大きな絵。これを書き上げるのも、並大抵の苦労ではあるまい。

日曜画家だったゴーギャンは、株式仲買人としての職を捨て、プロの画家となる際にも、自分の成功を寸分も疑っておらず、妻子とは生活基盤が確立するまでいったん別居するだけで、すぐにもとの家庭に戻ることができると考えていたのだという。しかし絵は売れず、ゴッホとのアルルの生活もすぐに破綻する。フランスを捨て楽園を求めたタヒチで、病苦と貧困に苦しみ、結局のところ最後まで妻子と元のサヤに戻ることすらかなわなかった。こんなゴーギャンの半生は、確か小林秀雄が書いていたのを読んだのだっけ。ゴーギャンが流転の一生で捜し求めた物とは何だったのか。人間というあやうい存在の過去、現在、未来を俯瞰し、画面に描こうとした執念の力作。



これも有名な、La Japonaise  「着物を着たモネの妻」。クロード・モネも実に多作な人で、どこの美術館に行っても多くの作品を見かける。アメリカの富豪にはフランス印象派が大好きな人が多く、財力に物言わせて大量に買い集めたということもある。もちろんメリケン人は、国際標準からいうと「偉大なる田舎者」であるからして、騙されてずいぶんトンデモない物も買っただろうが、きちんと名作も大量にアメリカに渡って来ているのであった。

しかし、10年前のボストンでこの絵を最初に見た時には、印象派が画壇に現れた当時のフランスにおける「日本趣味(ジャポネズム)」の流行などまったく知らなかったから、この絵はいったい何なのかと、実に不思議に思ったものだった。後で知るのだが、ゴッホの作品にもちゃんと浮世絵の模写などが残っている。この着物の表現が実に華麗。分厚い刺繍は文楽人形か。妙にモコモコして、まるで動き出すかのような立体感。しかし、この「キモノ」は裾の処理からして日本産のようにも思えないのだが。他のモネ作品とはだいぶ毛色が違うのだが、実にインパクトがあって面白い。余談だが、だいぶ前、hitomiの「サムライドライブ」という曲のCMとか見た時に、この絵を思い出したなあ。



The Sewer。「種まく人」。これもミレーの有名作だが、なぜか別の作品の上方に展示してあり、絵の具の退色も進んでいるのか、暗くてあまり絵がよく見えない。このカメラでの画像はコントラストを自動調整しているからか、むしろ肉眼よりもよく細部が分かる印象。ミレーはゴッホが敬愛した画家であり、ゴッホも同じモティーフで絵を描いている。ただ、上記MFAの説明によると、この絵はゴッホの生まれる前に売却されてボストンに来ており、ゴッホ自身は本物を目にしていないのだとか。なるほど。



Rape of the Sabine Women。幾多の絵画、彫刻に取り上げられた「サビーニの略奪」のモティーフをピカソが書くとこうなる。現代の戦争への恐怖も投影されているのかもしれない。これまた、展示の前で、多くの人が立ち止まっていた絵。



歩き疲れたので、ちょっと早いが館内のカフェで一休み。せっかくのボストンなので、地元のビール、サミュエル・アダムスなど飲みつつ、クラム・チャウダーを。「Edgar Hopper Fare」なるメニューを頼むと、要するにレタスとベーコンのサラダである。まあ、アメリカンといえば実にアメリカンな組み合わせ。しかし、1時頃には席を待つ長蛇の列になってたから、早めに行ってよかった。

という訳で、次回、その3に続くのであった。



2007/05/29 Boston美術館 その1 「Edward Hopper展」

昨日の夜、ネットのニュースで松岡農相の自殺を知り、ちょっとびっくり。鈴木ムネヲの盟友であり、金と利権を巡る黒い噂が絶えなかった政治家だが、あの悪漢面からしてそもそも党人政治家だと思っていたら、林野庁のお役人出身だったのだと。地域のボスから叩きあげた、根っからの「利権屋」なら、これほどまでに脆い面はなかったのではないか。もっとも、自殺するような人間には見えなかったがなあ。「還元水」程度の政治資金問題が根本の原因なはずはない。おそらく、何かもっと大きな暗い闇が、この人物の自殺の向こうには広がっているのだろう。



週末に訪問したボストン美術館の記録を。開館は朝10時。ボストンを縦横に走る地下鉄「T」に乗ると、美術館のすぐ横まで行ける。開館5分ほど前に到着。ここに来るのも10年ぶりくらいか。



正面入り口から入って階段を上がったロビーの頭上には、ヨーロッパの教会のような立派な天蓋と天井絵画が。


そしてそこを直進すると、ヨーロッパ古典絵画の展示。ちょっとルーブル美術館にも似ている。しかし、ルーブルのほうは、同じような中世の宗教画の展示室が、これでもかとばかり何室も続くのだが、Bostonでは、さすがにそこまでの規模はなし。この先は18世紀、19世紀の絵画、印象派の展示と部屋が別れる。

ざっと絵画を見たが、まず、「エドワード・ホッパー特別展」のほうを先に見ることに決定。入場の列こそないものの、特別展スペースの中は、アメリカ人の観客で結構混んでいる。朝一番で来た地元の観客も多いようだ。常設展入口に並んでた観客には、ずいぶん日本人もいたのだが、こちらではほとんど見かけない。まあ、アメリカの画家で、日本ではそれほどの知名度ないかもしれない。

ホッパー最大の有名作、「Nighthawks」は、昨年見て、2006/06/27の日記で感想を書いた。このChicago美術館の所蔵品も、こちらの特別展に貸し出されている。Bostonでの再会も感慨深い。

そして、上記特別展ページの先頭を飾る「Chop Suey」も目玉展示であって、Hopperの代表作。Cafeで対面する女性客2名。「Chop Suey」とは日本ではほとんど聞かないが、その昔、アメリカに中華料理が上陸した頃に流行った、中華風ごった煮、中華丼の具みたいなアメリカン・チャイニーズ・ディッシュ。今や、ちゃんとしたチャイニーズで、このメニューを置いてあるところはない。逆にこれは1929年の絵画であるから、当時は東海岸でちょっとスノッブな料理であったろうか。

Wikipediaでこの絵の項目を読むに、この絵で女性が対峙しているのは自分のドッペルゲンガーだという説があると書かれている。

この絵だけの情報からそれを読み取るのは困難だが、こちらのページにあるHopperの作品を眺めるなら、彼が好んで描いたモティーフが、アメリカの大都会の豊かさと賑やかさの中に存在する、都市生活者の人知れぬ孤独であり、それを密かな観客として盗み見するような構図であったことがよく分かる。「Hotel Room」、「New York Movie」、「Morning Sun」などの作品世界を下敷きにするなら、この「Chop Suey」が、たった一人でCafeに座る女性の心象風景を描いたものといっても不思議ではないかもしれない。

そして、このBoston美術館の「ホッパー特別展」、出口前に掲げられた最後の作品は、「Sun in an Empty Room(陽の差す空虚な部屋)」。著者が80歳を超えた最晩年の作品。そこにはもはや、盗み見するように描かれる室内の人物も、家具も、何の物語の痕跡も残されていない。物語が最後に回帰してゆくこの空虚。誰もがこの絵の前でしばし立ち尽くす。Hopperは、ある意味なかなか恐ろしい。この特別展は、Chicago、San Franciscoと巡回するらしいので、また再訪しなければ。



2007/05/28 Boston散策 

こ Memorial Dayの3連休はBostonに行ってきた。以前、仕事でボストンには2週間ばかり滞在したし、当時は会社のオフィスもあったので、何度も出張に来た。あれからもう10年か。航空券は往復で188ドルと格安。ダメ元でアップグレイド予約していたら、仕事の客が少ない週末だからか、往復ともファーストに。距離短いからどっちでもよいのだが、隣にアメリカンなデブが来てものんびりできるのがよい。

仕事で訪問した以前は、だいたい郊外が目的地で、いつも空港でレンタカーをピックアップしていたが、今回はボストン美術館を見るのが目的。車があってもかえって面倒なので、「T」と呼ばれる地下鉄を利用。空港からダウンタウンまでは実に近い。午後に到着したので、ボストン・コモン近くのHyattにチェックインして荷物を置いてから、Bostonのダウンタウンをブラブラと。覚えている場所も覚えの無い場所もあり。


昔、Bostonに一緒に出張に来たアメリカ人に、「ボストン・コモン」のCommonとは、米語ではあまり使わないが、イギリスでは普通に「公園」を指す言葉なのだと教えてもらった。ここがアメリカ最古の公園というから、やはりイギリスの影響が残ったのだろう。「R」の発音があまり巻舌ではなく、むしろ破裂音のように聞こえるボストン・アクセントも、イギリスの影響が強い。公園では、なにやら中国系の人のお祭りだ。仏陀のバースデイと看板にあるが、だとしたら中国の人じゃないのかね。


すぐ近くにはチャイナタウン。ここに来るのは初めて。全米の中ではそれほど大きな規模ではないが、ちゃんと門まである。まあ、米国でジャパン・タウンと称するところもそうなのだが、やはりどことなく懐かしい場末感が漂う。


話だけは聞いて一度も歩いたことがなかった、ボストン市内の史跡を巡る「フリーダム・トレイル」なるものを歩いてみることに。ボストンは、アメリカの中ではイギリスの影響が色濃い歴史ある街並みが残り、郊外の交差点などにも、「ターン・アラウンド」というイギリス方式がところどころ残っているくらいだが、ボストンでもっとも古い旧州会議事堂の回りは、さすがに近代的なビルが進出。

 

トレイルの目印には、このような赤ペンキや舗装道では赤レンガがしかれており、チャールズタウン・ブリッジの上にもちゃんと赤いラインが。これを頼りに歩いて行くのだが、旧跡を回る都合が、時折急に道路を横断したりしていて、回りの風景を見ながらボンヤリ歩いてると見失うのであった。

ここが終点のバンカー・ヒル・モニュメント。独立戦争の有名な戦いにちなむ。新しいように見えたがもう建築後100数十年経っているらしい。中が階段になっており登れるらしいのだが、さすがにそこまでは意欲なし。

全部歩いて回ったのだが、だいたい4キロくらいだろうか。以前来た時は、レンタカーを街の中心に置いて、回りをちょっと歩いただけだったから、初めて観る建物や史跡が多く、なかなか面白かった。しかし、アメリカ独立史にはとんと疎いので、説明読んでも何のことや分からない場所が実に多い。本当はきちんと予習してゆくべきなんだな。そもそも、高校の時の世界史の授業では、アメリカ独立戦争の辺りまで辿りつかなかった記憶があるぞ。まあ、授業でやってたとしてもきっと何も覚えなかっただろうけど。

日曜のボストン美術館訪問は、また次回更新予定。