MADE IN JAPAN! in America by Y. Horiucci mail
過去日記INDEX 日付順:2007年 内容別:「日常・時事」 「読書」 「映画」 「旅行」 「寿司」 「笹田」


2007/05/25 「ボッコちゃん」、「ようこそ地球さん」

Amazon.co.jpに発注した星新一の文庫本5冊が届いた。まず、「ボッコちゃん」「ようこそ地球さん」を立て続けに読了。

若い頃読んだ本というのは忘れないなあ。いや、もちろん細かいオチなどは結構忘れているのだが、ラストのページを読んだ時に蘇ってくる感慨が、昔にも確かに経験したなという懐かしさなのであった。懐かしい落語を聞くようなものだろうか。

昔、印象に残った作品は、今再読してもハッキリ思い出せる。小品「悪魔」は、まるでよくできた欧州の民話のよう。人知を超えた力と、それを愚かに使う人間というのは、星新一の作品で何度も繰り返されるテーマでもある。

「おーい ででこーい」は、やはりシュールなSFの名作。「ツキ計画」は割とくだらない話なのであるが、昔、友達と回し読みして、この結末で爆笑したのを懐かしく思い出した。メディア時代の空虚を描く「証人」、一種のサイコ・ホラーである「暑さ」や、新人類誕生を描く「闇の目」、壮大な叙事詩を思わせる「最後の地球人」、心にそっと灯をともすような「小さな十字架」などなど、どれも最初に読んだ時の感慨が蘇ってくるかのよう。

社会制度やメディアに対するシニカルで冷静な目は、おそらく、「星新一 一〇〇一話をつくった人」にあるように、急逝した父親を継いだものの、失敗した会社経験からも来てるのかもしれない。しかし、彼のショートショートに、救いようのない陰惨さや悲惨さ、暗さがどこにもないのは、やはり、御曹司として何不自由なく育った著者のカラーであるかなとも思えるのだった。あと3冊あるので、まだだいぶ楽しめそうだ。

月曜はMemorial dayの祝日で3連休。土曜から、ボストンに出かける予定。



2007/05/24 夜間走行は、ハイビームが基本? 

日本では最近、夜間の車のライトはハイビームが基本だと警察が熱心に推奨してるのだそうである。これは茨城県警のお知らせだが、他の県警でも同様のキャンペーン・ページがある。しかし、「夜間はハイビームが基本」だというのは初耳だよなあ。

日本で運転してたころは、比較的ハイビームへこまめに切替していたほうだと思う。やはり暗い道だと先があまり見えないのは不安。安全を考えるなら使い分けるべきだ。ただ、先行車がいる場合はやはり遠慮していた。自分が前にいた場合、後続車がずっとハイビーム点灯して追いついてくるのは、なんだかムヤミに気に障る。「自分が嫌なことを他人にするな」という感覚から来る習慣というか。対向車のハイビームより、後続車のハイビームのほうが腹が立つなあ。はは。なんでだろう。

「ハイビームが基本」という運転が普及しないのは、もうひとつ、「対向車がある時はハイビームは違反」という現実があるんではなかろうか。「基本」といいながら、対向車がある時は違反だというのでは、全然「基本」じゃない。そういえば、昔の運転免許の筆記試験では、「夜の対向車がある道で、道路が暗く見通しが悪くて危険だったため、ハイビームにして運転した」などという汚いヒッカケ問題があったような記憶があるのだが。

一方、アメリカでの運転では、そういえば、あまりライトの上下を気にしたことがない。車のヘッドライトは自動点灯にセットしてあるから、そもそも自分でライトをつけたり消したりしない。このセンサーも、日本の感覚よりずっと早めに点灯するのだが、そもそも、昔から、アメリカでの車のヘッドライト点灯は、日本よりずっと早い。日本では、薄暮時になってもヘッドライトを点灯しないのが上手なドライバーみたいな風潮が、特に昔からの老年ドライバーにあった気がするが、そのへんはだいぶ違うな。

しかし、私の住んでる辺りでは、走り出してもあまりハイビームにする必要ないというか。そういえば、このへんでハイビームで走ってる車はあんまり見かけないかもしれない。。




2007/05/23 ICパスポート受領

Amazon.co.jpでは、何週間か納期かかるような記載だったのだが、「西洋美術解読事典」(河出書房新社)が到着。発注直後に入荷があったらしい。あちこち拾い読み。「サビーネの略奪」というのはそんなお話だったのかなど、恥ずかしながら始めて知った。彫刻や絵画でよくモチーフは目にしてはいても、注意しないと「自分が何を知らないか」ということには、なかなか気づかない。

本日は、朝からダウンタウンに出向いて総領事館で先週申請したパスポートを受領。今回から、IC旅券に切替。表紙のIC旅券のマークが、世界共通なのだそうである。ちょうど真ん中あたりにICチップを搭載した厚いページが挟み込んである。これが固いので意外にパスポート全体がかさばる印象。

海外でパスポートを更新するのは、前回駐在時に続いてこれで2回目。ただ、アメリカのビザ・シールは、無効となった昔のパスポートに貼付されたままであるから、今後は国外に出る時には、新しいパスポートと古いパスポートの両方持ち歩かないといけない。前回も経験したが、これが結構面倒なのである。ビザのページだけ切り取って、新しいパスポートに挟むと無効だろうか。まあ、変に試してダメだったら取り返しがつかないしなあ。




2007/05/22 「ハンカチ王子」〜佑樹は命がけで生んだ子です

今月号の文藝春秋に、「佑樹は命がけで生んだ子です」との記事。早稲田に進学した「ハンカチ王子」、斉藤佑樹投手の両親が、佑樹選手が、いかに「たのもしく」、「手がかからず」、「しっかりした」よい子であったかを、倦まずに堂々と語る記事。最近この両親は本も出したらしい。おそらく同じような内容なのだろう。

まあ確かに、親が子供の味方になってやらなくてどうする、徹頭徹尾、親バカで構わないのだ、と言われればその通り。しかし、本やら雑誌の記事で堂々と、いかに自分の子供が素晴らしいかを語られても、外野席としては少々辟易するのもまた事実。

斉藤選手もまだ大学に入ったばかり。人生の陥穽は、これから本格的に彼を待ち構えている。18歳の少年をここまで持ち上げて、逆に本人のためにならないのではという疑問を感じないでもないなあ。もっとも両親によれば、「いや、佑樹は、決して天狗になったりしない、素晴らしい子です」ということになるに違いないのだが、本当にこれからもずっと「素晴らしいよい子」でいられるのか。他人事ながらそこがちょっと興味深い。


2007/05/21 今田竜二PGA優勝を逃がす。/ 「臨死!! 江古田ちゃん」


日曜の夕方、何気なくTVをつけると、PGAツアーのAT&Tクラシックが最終日。なんと日本人が首位に立っている。今田竜二というらしいが、実に珍しい。2日目から首位に立って、本日も首位スタートだったらしい。ジョージア大学に留学してゴルフをやってたそうだが、なかなか落ち着いたプレイ。

しかし、終盤やや崩れて2位に。17番のバーディーチャンスを逃したのも痛い。マスターズに勝ったザック・トーマスが1打リードしてトップに立ち、先にホールアウト。今までPGAツアーで勝った日本人は、青木と丸山の2名だけですとTVの解説が。なんとか頑張ってほしいもんだが。

ロング・ホール18番の2打目はグリーンをオーバーするも、素晴らしいチップ・ショットでピン側に寄せ、短いパットを決めてバーディー。ザック・ジョンソンに最後のホールで並んでプレイオフに。

プレイオフはさっきと同じ18番。ただ、今田の1打目はあまり距離も出ず左のラフに。しかし、3番ウッドでグリーンを狙う模様。打ち下ろしだがグリーンは狭く手前は大きな池、残りは250ヤード以上ある。解説者は、「自分なら7番か8番で右にレイアップ(刻んで)して3打目の寄せに勝負をかける。本当に水に入れるリスクを取る意味がありますかね」と。そして、今田の2打目はやはり池ポチャ。これで勝負あった。今朝、Yahooで読んだ報道では、今田本人は、刻むことはまったく考えなかったと。最後まで攻めての敗北だから、本人としては納得か。もっとも、「あの時、刻んでいれば」という後悔は胸に去来したとしても不思議ではない。それにしても惜しかった。



 

上記2冊読了。「カラスヤサトシ」に、「ライバルは江古田ちゃん」、「打倒、江古田ちゃん」、「女の下ネタには勝てない」など、あちこちに言及があって同じ週刊誌の連載らしい。漫画週刊誌を読む趣味はないが、Amazonで検索すると単行本が出てたので(1)(2)とも購入。漫画なのですぐに読める。

田舎から上京し、江古田駅近くで一人暮らしするフリーター女性の日常を一人称で描く。著者は締め切りに追われる漫画家のはずだから、リアルタイムの実体験を描いている訳ではなかろう。しかし、水商売のバイトの悲哀や、フィリピン・パブでヘルプについた時の裏話、ヌードモデルのバイト経験、はずみで男と寝た後の深夜の布団での独白など、妙にリアルで真実味にあふれているから、やはり著者の実体験が色濃く投影されているのだろう。

カラスヤサトシは万人向けだが、こちらのほうは、下ネタも多くやや毒気がある。性別、年齢、境遇などによって結構好みは分かれそうで、子供にはあんまり向いてないかな。

私自身の個人的感想は、そうだなあ、単純に好きか嫌いかで言うと、それほど好きとはいえないか(笑)。しかし、天敵「猛禽類」への敵意は、なかなか笑えるし、女性ならではの鋭い視線に感心したり笑ったりする部分も多々あり。やや屈折した主人公の、あえて幸せに背をむける自虐、フィリピンから出稼ぎに来た女性達へ示すやさしさ、田舎にはもう帰らないという決意など、妙に心に響いてくる部分もまた多い。

そう、確かに我々はみんな大都会の砂漠に住んでいる。でも、しかたがない、他にどこにも行くところがないんだから。そんな不思議な諦観ともいえる共感が、胸をよぎる部分が確かにあるのだった。評判になる漫画というのは、やはりちゃんと理由がある。




2007/05/20 「星新一 一〇〇一話をつくった人」

「星新一 一〇〇一話をつくった人」(最相葉月/新潮社)読了。日本SFを牽引した巨星にして、ショートショートという小説分野を確立した星新一の没後、もう10年なのだそうである。この本は、著者が関係者に丹念に取材し、実業家にして政治家であった星一の息子として生まれた星新一が、いかにして小説家となったかの生涯を辿ってゆくノンフィクション。

星新一の単行本が売れたピークというのは、もう20年から30年以上前ではなかっただろうか。57歳でショートショート1001作目と称する短編を同時に複数の出版社に渡してからは、実質的に小説の執筆から引退していたのだそうである。確かに晩年はほとんど名前を聞くことはなかった。

私自身が最初に星新一のショートショートを読んだのは小学校高学年の頃。なぜだから忘れたが、親父が面白かったからと短編集を一冊くれたのであった。「ようこそ地球さん」だったか、あるいは「ボッコちゃん」だったか。それからずいぶんはまって、中学生の頃にはほとんど単行本を制覇。フレドリック・ブラウンなどの海外SF短編にはまったり、SFマガジンも読んで、小松左京や平井和正など日本SFもずいぶんなど読むようになっていた。

ちょうど高校の時、ある国語教師が、「君達も、星新一なんて幼稚な本を読むようではいかん」などと授業中に言ったのだが、私自身はすでに星新一は卒業していたものの、「まあ、高校国語教師のお前なんかよりも、ずっと立派なものを書くんだがなあ」と心中深く、この教師を軽蔑したものだった。教師というのもなかなか因果な商売である。

軽い自伝的エッセイである「きまぐれ星のメモ」やら、父親の伝記である「人民は弱し、官吏は強し」なども読んだことがあるのだが、この本で明らかにされる、星新一が作家の道を選ぶまでの前半生がなかなか興味深かった。星新一は、父親が創業した星製薬の御曹司。父親が急逝し、若くして社長としてその後をつぐ。しかし多大な借金をかかえた大会社の経営は、そもそも会社経営にあまり興味がなかった星新一の得意とするところではなく、結局のところ経営権と会社を手放してしまうことになる。この大きな挫折を抱えて、彼は小説家になる道を選択する。

日本SFの黎明期を支えた巨人として有名だが、シニカルに、一歩離れたところから皮肉やジョークを連発する性格は、やはり若い頃の挫折体験と無縁ではないだろう。江戸川乱歩や矢野徹との交流など、小松左京の自伝、「SF魂」に描かれたより、時代的にやや前にあたる日本SF創生期のエピソードが実に面白い。

ショートショート執筆に葛藤する姿もあれこれ描かれているのだが、毎回優れた短編を書くということは実に大変なことだ。連日深夜にわたり、アイデアと格闘し、焼き直しの誘惑と戦い、何段階にも渡る推敲の上で完成作品を仕上げる。そして、興奮して冴えきった頭を鎮めるために酒と睡眠薬に頼る生活。57歳で休筆してから急速に年を取ったようだとは本書にある夫人の感想だが、やはり精神と肉体を共に極限まで痛めつけていたのだろう。昔愛読したショートショートを久しぶりに読み返したくなった。


2007/05/19 突然の停電 

今週は、旅行の予定もゴルフの予定もなし。朝方、まだのんびりまどろんでいる時に、ピシっという鋭い異音がバスルームのほうから聞こえた記憶はあるのだ。起床してバスルームの照明スイッチを入れると明りがつかない。横のスイッチが換気扇なのだがこれも動かない。ベッドルームの明りはちゃんとついている。回線でもショートしたのか。

ブレーカーをチェックしたが異常なし。危ないので主電源を切ってから、壁のスイッチを取り外してみた。しかしよく考えてみると、2つのスイッチが両方同時に切れるということは、スイッチではなくもっと奥のほうの異常であって、素人の手に負えるようなもんではないだろう。電気屋呼ばねばならないとしたらウンザリだな。

とりあえず着替えるかとクロゼットを開けると明りがつかない。ブレーカーの区分を見る限り、バスルームとは別系統で電源が供給されているようなのだが、これはひょっとしてもっと大掛かりな異常か。漏電とかだと困るよな。だんだんと不安に。

リビングをチェックすると、TVも空調もつかない。キッチンでは冷蔵庫も電気切れ。不思議なことに、洗濯機は動かないのだが、乾燥機はスイッチを入れると一度動きかけてからダウンする。一部のACアウトレットはちゃんと生きているようだ。セカンドルームのバスルームでは、明りがちゃんとつく。全部停電という訳ではない。しかし、ベッドルームに戻って気づいたのだが、白熱灯の明りは普通よりもかなり暗く感じる。電圧が落ちているのだろうか。全ての電力が切れた訳ではないが、極端に電圧が落ち、器具によって動作しない物があるということか。どうもこの部屋だけの問題ではないようだ。

廊下に出ると、やはり明りが消えている。隣の部屋の住人が出てきて、やはり向こうでもあちこち電気がつかないという。困ったもんだね。とりあえず土曜朝の習慣で、道を隔てたビルにあるクリーニング屋にシャツを取りに。本当は使うべきではないのかもしれないが、ビルのエレベータはきちんと動く。なんらかの非常用電源があるのだろうか。

クリーニング屋も天井の明りが消えている。PCもラジオもコンセントからの電気供給が全部ダメになったとか。そうするとうちのブロックだけではなく、かなり大掛かりな停電だな。しかしドアのネオンサインはきちんとついている。一部系統だけ生き残っているというのも、実に不思議な感じだな。クリーニング屋の女主人の言うには、朝の8時前、2ブロックくらい離れたところで妙な光が走り、それと同時に天井の明りが消えたとか。「エイリアンが攻めてきたのかね」などとくだらない冗談を言ってシャツを受け取り。

おそらく何かの工事で電線を切断か何かしたのだろう。この一帯の全体の電気供給が不安定になってるのだから、まあ復旧を待つしかない。とりあえず、車で外に出てゴルフの練習に。その後、Forest Preserveでランニング。4マイルを36分。クールダウンに1マイルばかり歩いてから、スーパーに寄って買い物。昼前に部屋に戻ると、電気は正常通り復旧していた。電力というのも、存在するとまるで当たり前のように感じるが、停電すると実に不便だということがよく分かる。結局、原因は何だったのだろうか。


2007/05/17 画像で振り返るMoMA(NY近代美術館)編

昨日の続きで、今度は画像でふりかえるMoMA(NY近代美術館)編を。

その前に、「メトロポリタン美術館おまけ編」を2つばかり。


日本美術のコーナーにあり。15世紀、室町時代の信楽焼だそうだが、実に立派な壺。いったいどんな縁で、はるばると太平洋を超え、ここまでたどり着いたのか。面白いなあ。


中世ヨーロッパの甲冑がずいぶん展示されてたのだが、ヘルメットとしてはこれが一番気に入った。ま、勿論、気に入ったからどうという訳でもないんだが。被っても、スリットから結構外が見えるのだろう。

MoMA(NY近代美術館)編

さて、ここから先はMoMAで見た物の中からピックアップして。実はメトロポリタンでもう頭がだいぶ麻痺していたので、結構見逃してるものが多い。これまたいつか再訪しなければ。


The Sleeping Gypsyは、アンリ・ルソーの有名な絵。妹が昔、卒論の題材にルソーを選んだのだが、実家に帰った時、一緒に酒飲みながらルソーの画集を見て、あれこれ議論したことを思い出した。もうずいぶん昔の話だが、この絵は今でもはっきり覚えている。そうか、MoMAにあったのか。不思議な静寂と神秘に満ちた絵。これを書いた人物が、生前まったく画家として評価されずに亡くなったとは、今となればなんだか信じられないような気さえするのだが。


The Starry Night 「星月夜」。ゴッホの内面が表れているというより、彼の眼には、本当にこんな風に夜明け前の空が見えたのだろうと、なんとなくそんな納得がゆく絵。右上方に輝く月が、なんとも素晴らしい。糸杉の左側部分は、絵具が足らなかったか、まだ生のキャンバス地が見えている。



HOPE II は、クリムトの絵。自らの腹部に視線を落とす妊婦のその下には髑髏を配し、更に下には、なぜか悲嘆にくれたような同じ人物の横顔が複数。クリムトはやはり興味深い。


MoMaは、近年、自然光を取り入れた大胆な設計で生まれ変わったそうなのだが、確かにコーナーから普通に見えるミッドタウンのアパートメントなどが面白いアクセントに。芸術に倦んだら、NYの街を眺めることができるという趣向。



人間の背より大きい物体がフェルト地で作成されている。別にこれに限らず、おきまりの題名が「Untitled(無題)」。やはり、よく見ても、「はあ、そうですか」というだけで、よく分からんよなあ、現代美術は。形はなんだか、相撲の力士がつける「さがり」に似ている、そんな、おバカな感想しかわいてこないのであった。


2007/05/16 画像で振り返るメトロポリタン美術館〜剣と切断された男の首を持った女

シカゴ美術館も同様だが、メトロポリタン美術館も、館内での個人的な写真の撮影は自由。もっともフラッシュ使用は禁止。時折カメラの設定を間違えたか光らせて叱られている人あり。もっとも、特別展などで展示されている他美術館からの貸出品については所有権の関係か、撮影禁止になっている。

メトロポリタン美術館のサイトは大変に充実しており、所蔵品の画像も多数公開され検索も可能。記憶に残った作品と、その作者や題名をデジタルカメラで保存しておくと、後であれこれ検索して説明など再度読めて大変便利。当日取った画像から、いくつかピックアップして思いつくがままの感想など。


「Hagar in the Wilderness」 は、旧約「創世記」の物語。ユダヤの世祖アブラハムの子供イシュマエルを生んだ側女ハガルは、正妻に子供が生まれると荒野に追放される。しかしその荒野に彼らを救うべく守護天使が現れるのだ。イスラム教徒にもポピュラーな伝説。飛来する天使が遠景ながらやたらリアルなのが印象的。昔の人は、「天が割れ、下りてくる天使」をヨルダン川のほとりで本当にこんな風に見たのだろうか。山田正紀の「神狩り2 リッパー」冒頭に出てくる「天使の飛行」を思い出した。


Salome
新約聖書にあるエピソード。ヘロデ王の面前で舞った舞踏の褒美を訊かれ、預言者ヨハネの首を所望した女サロメ。ヨハネはこのためヘロデ王に殺される。ヨハネの首と一緒に描かれることが多いが、この絵は、首の代わりにお盆に載った剣が、この主人公がサロメであることを暗示している。くったくのなさそうに見える微笑の奥に潜む魔性。そう思って眺めると、この女性の目が蛇のごとく見えてくるから不思議だ。


剣と切断された男の首を持った女。中世の宗教画には、様々な記号論的約束があり、最後の晩餐であれば、ユダは金袋を持っているし、使徒ヨハネはキリストに寄り添う。磔刑のキリストは右胸に刺された傷がある。女がお盆に載った男の首と共に描かれれば、それは上の絵のようにサロメ。では、この絵の女性は誰か。そもそも宗教画としてのこのモチーフに、最初に気づいたのは、シカゴ美術館でこの絵を見て、いったい何なのかと不思議に思った時。一見、召使を連れた貴婦人だが、よく見ると手には剣を持ち、そして画面右下は、切断された男の首だ。そして、同じシカゴにあるこちらも明らかに同じ主題を描いている。

女性の名前から調べて分かったのは、これは、旧約聖書外典「Book of Judith」に出てくる「Judith(ユディト)」であること。ネブカドネザル王が差し向けた軍勢に攻められるユダヤの都市に住んでいたユダヤの女性。彼女は従者と一緒に敗北寸前の街を出て、敵の指揮官の元に出かける。そして、宴席の後眠りこけた指揮官ハロフェルネスの首を切り落とし、ユダヤ王国を救ったという伝説。シカゴにも2枚、メトロポリタンでもこの絵のほかに、もうひとつこのユディトの絵を発見。昔から画家の心を捉えてきた宗教的モチーフなのだ。


The Ascension of Christとは、いわゆる「キリストの昇天」。この16世紀の画家も、そんな霊的な出来事を、いったいどうやって描こうか、結構悩んだのではなかろうか。まあ、しかし最終的に選んだのが、この、まるでインドの行者が空中浮揚するような構図というのが、なんというか、まあ、微笑ましくも記憶に残るのであった。


The Adoration of the Magiとの題名は、いわゆる「東方三博士の礼拝」。キリストの生誕を夜空に現れた星で知り、アジアから祝福に来たという伝説。これまた中世の宗教画では実にポピュラーな題材。Hieronymus Boschは他の絵を見ても、魔術的ギミックにあふれた実に奇妙な画家で、丹念に描きこんだ細部は、おそらく何らかのメタファーと思われるが、実に不思議なものばかり。左の塔の中が焼け残ったような窓。壁から顔を出す男。背景には、動物の骨やら、いろんなポーズの男や女たちが実に丹念に描きこまれている。それはすでに失われた、一種の呪術的背景を持っているのではないだろうか。ボッシュの絵は、いつまで見ても見飽きない。部屋に1枚欲しいもんである。はは。

なんだか宗教画ばかり選んでしまったが、このような絵を読み解くための、「西洋美術解読事典」(河出書房新社)を日本に置いてきてしまったのが痛恨の極み。Amazonで検索したらずいぶん納期がかかる。しかしやはり手元に置きたくなったので再度発注。届くのは6月中旬くらいか。日本でも大きな本屋なら、美術書の棚にはよく見かけたが。

さらにあれこれ美術関係の新刊を見ていたら、伊集院静の新刊、「美の旅人 フランスへ」(小学館)が目に留まり早速発注。グレコ、ゴヤ、ダリ、ベラスケス、ピカソ。綺羅星のような美の巨匠達に脈々と流れるスペインの熱き血を、現地取材の紀行と共に解き明かしてゆく前作、「美の旅人」は実に面白かった。。今回の本は、そのフランス紀行バージョン。ただ、写真満載とはいえ、結構な値段するもんである。この印税も、みんな著者の博打に使われて消えてしまうのだと考えると、諸行無常をつくづく感じるが。まあ、金は天下の周り物か。




2007/05/14 MoMA(ニューヨーク近代美術館)

土曜日のNY訪問記の続きを。メトロポリタン美術館は、いくら時間があっても足りないのだが、とりあえず3時過ぎに切り上げて、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に移動。古代のエジプトやギリシャ、ローマなどの美術を見る目的でなければ、近代に焦点を絞った美術館だけあって、ずっとコンパクトにまとまっている。印象派以降の絵画だけ見ても優れた美術館。


入ってすぐの吹き抜けは2階にあたるのだが、この中心に据えられた「ブロークン・オベリスク」という有名なオブジェがまた印象的。

時間があまりないので、とりあえず5階、4階の絵画を中心に。ゴッホ、ゴーギャン、スーラ、ルソー、ピカソなど有名な作品が次々と。これも凄い。

中世の宗教画も好きだし、ルネッサンス美術も結構。印象派も好きな絵が多い。Symbolist:象徴主義に分類される絵も大好きだ。しかし、いわゆる「現代美術」と呼ばれる作品になると途端に興味が失せる。ただ真っ黒に塗っただけに見えるキャンバス。あるいはアルファベットが切り貼りされただけに見える絵。キャンバスの中心から針金が飛び出したり、毛糸の塊を貼り付けたような絵。そして、決まって題名は「無題」。この手の作品には、どうも忌避する気持ちが先に立って、面白さをイマイチ理解することができない。分かりやすいものしか分からないというのは、実にお恥ずかしい話なのであるが。

このMoMAは、近代に限った作品が、だいたい時系列に置いてある。思い立って、個人的にどのあたりの作家から受け入れがたくなるかを考えつつ、作品の制作年代と作者の生年を参考にしつつ絵画を見て歩く。だいたい判明したのは、ルソーまでは大丈夫。ピカソも半分くらいは大丈夫なんだが、ミロからは、全然好きではなくなるということ。もちろんダリのような例外もあるのだが。自分の嗜好の境界線に対する面白い発見であった。



余談であるが、このMoMAは自然光を随所に取り入れた明るい美術館。それはよいのだが、時間と光線の具合が偶然にも悪かったか、このルソーの「The Dream」という大作については、絵の前にはめたガラスが、ちょうどプラズマTVの映り込みのようにテカテカ光って大いに興を削ぐ。これだけはちょっとよろしくなかった。


4階5階で大半の時間を費やしたのだが、まだ少々時間に余裕あり。6階の「Jeff Wall特別展」も回ってみる。Jeff Wallはカナダの写真家。明るいバックライトがついた大きなスライド写真の展示を特徴とする。偶然のショットではなく、映画のショットのように丹念に造り込んだ画面。都市に生きる不安、孤独、矛盾、そして空虚すら切り取って目の前に提示するかのようなショット。「The Flooded Grave」はインパクトあり、この前に立ったアメリカ人はみな一瞬言葉を無くし、そして連れとヒソヒソと話を始める。この特別展は、6月30日からは、Art Institute of Chicagoに巡回するらしいから、また再会するチャンスがあるだろう。

夜は「寿司田」こんどは「6丁目店」。日本酒を飲みつつ、朝からあまりにもたくさんの物を見た脳を解きほぐして。マディソン店と同じ系列であるが、素材や種、サービスなど、結構違うもんである。



2007/05/14 NY メトロポリタン美術館

先週の金曜日は年休取ってNYまで。今迄一度も行ったことのないメトロポリタン美術館とMoMA(NY近代美術館)を訪問するのが目的。

金曜午後に早くついて、まずMoMAを回ろうかと思っていたのだが、LGA行きのフライトがちょっと遅れてしまった。LGAは悪天候にも弱いのだが、前のフライトが遅れると、将棋倒しに次々とフライトが遅れる。

ホテルは、Unitedのサイトで適当に予約したWaldorf Astoria。眺めたことはあるが入るのは初めて。チェックインの後で、MoMAに行ってみたが、「Target Free Friday Nights」で午後4時から8時まで入場がタダになるということで、とんでもない長蛇の列。これを待って入る気はしないよなあ。土曜の夕方に来ることにして断念。夜は、「寿司田 マディソン店」にて一杯飲んで寿司など。

土曜の朝は、セントラル・パークをぶらぶらと散歩がてらメトロポリタン美術館まで。走る人、自転車に乗る人、スケートする人など様々。Chicago郊外のForest Preserveでも時折見かけるのだが、赤ん坊を乗せたカートを押してランニングして行く女性がいる。日本であんまり見かけない光景だが、メリケン人には本当に元気者が多いな。

9時40分くらいに到着したが、もうロビーにはかなりの人。アドミッション・カウンタでお金を払うと、赤い小さな金属のメダルをくれる。これを胸ポケットか襟に挟んで入場券代わり。そういえば、昔はChicago美術館もこの方式だったのだが、いつのまにか普通のチケットに替わってしまった。

全米では最大だし、世界でも最大級の美術館であることは知っていたが、想像を超える広さ。収蔵品の範囲も、絵画、彫刻、写真、工芸品など多岐に渡り、古代エジプトから近代まで、あらゆる時代を網羅したおよそ300万点の美術品を所蔵。国立ではなく、寄付や寄贈で持っている純然たる私立の美術館だというのだから、アメリカに集積した富の莫大さが分かる。

収蔵品については、ほとんど予備知識を仕入れていない。どこにどんな作品があるかはあまり気にせず、とりあえず一通り回ることが目的。アメリカに住んでるのだから再訪の機会は何度でもある。今回は、とりあえず美術館の全体像とボリュームを把握しようという計画。

それにしても、実に広い。昼過ぎにカフェでビール飲んで休憩したが、約5時間館内を歩き続けて、ようやく一巡。それも、さほど興味のないアメリカン・アートやら建築、室内装飾などスキップしてざっと見て回っての話。丹念に見て回ると確かに何日もかかる。しかし、どこに何があるかの位置関係はだいたい把握できた。

古代世界の美術については、今年に新装開店したギリシャ彫刻ゾーンは実に広々として、自然光を取り入れた展示が素晴らしい。エジプト関係の収蔵品も半端な数ではない。しかし、全体に、大英博物館のロゼッタ・ストーンやシュメールの出土品、ルーブル美術館のハムラビ法典や「サモトラケのニケ」などと比較して、真の「人類の至宝」と呼ぶべきホームランが無い印象なんだなあ。もっとも、そんな古代の至宝は、略奪やらドサクサに紛れて持って帰るなど、無茶な事が可能だった帝国主義の時代、あちこち植民地を持って好き勝手できたイギリスやフランスにして、はじめて獲得可能だったのに違いないのだが。

ざっと回っただけでも語るべきことはたくさんある。そして、まだ語るほどもゆっくり見れなかった美術品のほうが遥かに多いのも事実。全ての時代を網羅して、あらゆる地域、文明、分野に渡る作品を収集するという壮大さには脱帽。ヨーロッパの絵画、印象派だけに限るなら、Chicago美術館も十分に太刀打ちできるのだが。

そのEuropean Paintingsのゾーンにしても、あまりにも多くの部屋が連なっており、フラフラと見ていると自分がどこにいるのか分からなくなる。ゴッホの「Cypresses(糸杉)」も見れてよかった。そして、ルノアールの大作の、この泰然自若、堂々たるオプティミズムと豊穣はどうだ。眉に皺よせて芸術を語る人には、時として忌避されるかもしれない一種のポピュラリズムかもしれないが、それにしても素晴らしい。しかし、その名作すらも、この時間と空間を越えて形成された果てしない「美の迷宮」の中では、まったくのOne of themに過ぎないのであるが。

絵画だけでも頭がクラクラするくらい展示されてある。そんな中で、ひとつの絵が目に留まった。窓からの光線の具合や、壁にかかった地図のモティーフ、黒白の方眼になった床、ほう、これはフェルメールそっくりだな。似てる絵もあるもんだと思って横の解説パネルを見ると、「Johannes Vermeer」。「Woman with a Lute」という、フェルメールご本尊の絵であった。ははは。

その横にも2つ並んで本物が。何時間も回ってるとやはり、こちらの頭が麻痺してしまう。後でネットで調べるに、メトロポリタンにはフェルメールが5点あるそうである。しかし、この3つだけしか気がつかなかったな。まあ、また再訪しないと。駆け足ではあるが、どこか気になった作品は写真撮ったので、またおいおいと感想でも書きたい。



2007/05/10 パスポートをアメリカで更新する。

現在のパスポートは前回の駐在から帰国した直後に、神奈川県のパスポートセンターで交付してもらったもの。その前のパスポートは、サンフランシスコの総領事館で更新した5年物だったが、現有のは10年有効。しかし早いもので、もう来年の6月に期限が切れてしまう。

まあ、まだ1年以上あるので更新は特段あせることもないと思っていたのだが、I-94(米国滞在許可)の関係でちょっと気になることが生じた。

今年の正月に日本から再入国した時の入国管理官は、パスポートの期限とは関係なく、3年先まで有効なI-94をくれた。しかし、この3月に日本出張から帰国した際の入国管理官がくれたI-94を見ると、滞在許可は来年のパスポート期限になっている。たとえ役所の係員とはいえ、人によってやることが違うのは、アメリカではよくあることで。別に驚きではないのだが、果たして本当はどちらの処理が正しいのか。

もちろん、来年の6月までには、何度かアメリカ国外に出る予定ではある。しかし、そのたびにパスポートの期限までしか滞在許可をくれないとしたら、どんどん合法滞在期間が短くなる。なにかのはずみで期限が過ぎると不法滞在になるから、ちょっと問題だよなあ。

早めにパスポートをアメリカの総領事館で更新して、期限を延ばせしたほうがよいよう気がしてきた。総領事館のwebページを見ると、普通は期限の1年前から更新なのだが、新しいICパスポートに切替する際には1年以上前からでも可能とのこと。だとしたら期限が迫ってバタバタするより、今のうちにICパスポートに切り替えておくか。

ただしE-2ビザのスタンプは現在のパスポートに押されており、パスポートを更新してしまうと国外に出る際、新しいのと、失効したがビザスタンプが押されている古いのと、両方のパスポートを持ち歩かないといけない。前回駐在の時もそうなったのだが、パスポート2冊持ち歩くのが結構面倒なのだ。もっとも来年の6月以降は、どうしたってそうなる訳で、早いうちに更新してもあんまり変わらないかとも思う訳であった。来週あたり総領事館に行ってくるか。



2007/05/09 TOTO の「Africa」を聞く。

先週のDallas出張で乗った飛行機は、結構小さな機体。エンジン音がやまかしく、Boseのノイズ・キャンセリング・ヘッドフォンがなかなか役に立った。離着陸の際「Please turn off every electronic devices」の際には、フライト・アテンダントから外してくれと言われた。やはりヘッドフォンでもダメか。3月の太平洋線では何も言われなかったのだが。

飛行中は、i-Pod Nanoで、ずっと懐かしのClassic Rockをあれこれ。ダウンロードして放置しておいたTOTOのアルバムを聞くと、実に久しぶりで懐かしい。その昔大ヒットした代表曲、「Africa」は、なぜか女性を待つ歌としか認識していなかったが、機内で何度か歌詞に注意して聞く直すうち、先日機内で見た映画、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」を突然思い出し、これはアフリカに医師として赴任した男のお話なのではないかと、天啓の如き(笑)ひらめきが。

だとすると、この歌で彼が待っているのは、たんに遊びに来る女友達ではない。アフリカでの医療に人生を捧げようとする彼と、人生を共にする決意で遥々とやってくる婚約者なのである。

もちろん、これは私の勝手な妄想だが、勝手にそんな補助線を引いて歌詞を再度聞くと、歌に描かれた主人公の崇高な使命感や気持ちの高ぶりが、実によく腑に落ちる気がするわけである。まあ、歌の歌詞というのは、どうとでもとれる部分が余韻となるわけで、これが決定版という翻訳はありえないのだが、試みに私の訳(訳詩)を上げておこう。国境なき医師団という感じもするが、あるいは医師でなくても、国連や赤十字の機関でアフリカに赴任して働いているという想定であっても成立する。セレンゲティの草原を吹き渡る風のようなシンセサイザー、そして、ドラムやギター、コーラスもまた素晴らしい。

TOTO Africa 

I hear the drums echoing tonight
(僕が響き渡るドラムの音を聞いているこの夜)
But she hears only whispers of some quiet conversation 
(彼女が聞いているのは、機内での静かな囁きだけ)
She's coming in 12:30 flight
(彼女は12時半のフライトでやってくる)
The moonlit wings reflect the stars that guide me towards salvation
(月明かりに照らされた翼は星を映し、僕を彼女へと導く)
I stopped an old man along the way
(道行く途中で老人を呼び止めたのは)
Hoping to find some long forgotten words or ancient melodies
(彼が、失われた古代の言葉やメロディーを口ずさんでいるように思えたから)
He turned to me as if to say, "Hurry boy, it's waiting there for you" 
(彼はまるで、こう言うかのように振り向いた。「急ぐのだ、すべてはそこでお前を待っている」)

It's gonna take a lot to drag me away from you
(僕はこれからはずっと君と一緒にいる)
There's nothing that a hundred men or more could ever do
(100人やそこらで、できることは何もないけれど)
I bless the rains down in Africa
(どうか恵みの雨がもっとこのアフリカに降りますように)
Gonna take some time to do the things we never had
(まったく新たなことをやりとげるには、時間がかかるのだから)

The wild dogs cry out in the night
(野犬たちは夜に吼える)
As they grow restless longing for some solitary company
(寂しさに相手をもとめて吼えるほど、増してゆくその渇望)
I know that I must do what's right 
(そう、僕がやらなければならないのは正しき事)
Sure as Kilimanjaro rises like Olympus above the Serengeti
(あのセレンゲティ草原の彼方、オリンポス山のごときキリマンジャロがそびえ立つように)
I seek to cure what's deep inside, frightened of this thing that I've become
(僕が目指すのは心の奥底からの癒し。その自分の使命に怯えも抱きながら)


(Chorus)
Hurry boy, she's waiting there for you 
(急げ少年よ、彼女はお前を待っている)
I bless the rains down in Africa
(どうか恵みの雨がもっとこのアフリカに降りますように)





2007/05/08 いつの間にか、もう10年も経ったとは。

「じぶん更新日記」を拝見して、ほう、もう10年も経ちましたか、などと感慨にふけったのだが、よくよく考えてみると、私自身のこのサイトも、最初にアップしたのが、(上記カウンタの右にあるように)1997年5月4日。そう、もう丸10年経過していたのであった。

いやはや、光陰矢のごとし。考えてみるとあっという間だった気もする。最初に「日記猿人」に「Web日記」として登録した当時は、そもそも「ブログ」なんて言葉すらなかった。まあ、いまでもこのページは別に「ブログ」ではないのだが。

サイト開設当時はアメリカ在住で、ほどなく日本に帰国し、そして10年経った今また、奇しくもアメリカ在住。当時はまたアメリカ赴任するなんて、考えてもいなかったなあ。「日記猿人」経由で、色んな人達と知り合いになり、何度もオフに行ったり、自分で幹事やった事もあった。そして、今でもずっと付き合いのある人達がいるのだから、ずいぶんと得るものも大きかった。そうか、いつの間にか、もう10年も経ったとは。懐かしく色んなことを思い出したりした。



2007/05/06 「陰謀論の罠 〜911テロ自作自演説はこうして捏造された」

日本では、ゴールデン・ウィーク終了ですな。もとよりアメリカは、連休ではないから関係ないのだが、本社から仕事のメールが届かない1週間というのは実に平穏。日系企業経験が長いアメリカ人だと、Golden Weekなんて名前まで知っていて、日本の連休をうらやましがったりもするくらい。まあ、終わってしまうとあっと言う間だ。

土曜日は会社の同僚とゴルフ。朝は気温低く、雨も降ってきて往生したが、昼前からは陽も差してよいゴルフ日和に。新兵器のテーラーメイドr7 SuperQuadは、練習ではよかったのだが、本番では不発多し。安定するまでにはもっと練習が必要。しかし、前のドライバーよりも明らかにスイングが安定して曲がりにくく、ミスが出にくい気がする。ラウンドの後、いったん帰宅してから、ランニング4マイル。やはりマイル9分かかるから、ブランクのせいでだいぶペースが落ちている。

本日も午前中にランニング。しかし右ひざに痛みが発生して3マイルでウォーキングに切り替え。心肺のほうは問題ないのだが足の筋肉が追いついてないというか。まあ、ボチボチとペースを戻さないと。その後、練習場でドライバーの打ち込み。木々の新芽が次々と新緑に色を変え、外で運動するのが爽快なシーズンになってきた。これが盛夏になると、むしろ暑すぎるくらいになるのが困り物なのだが。



「陰謀論の罠 〜911テロ自作自演説はこうして捏造された」(奥菜秀次/光文社)読了。

911同時多発テロを巡っては、「WTCセンタに衝突したのは軍用機だ」、「WTCは内部から爆破された」、「ユナイテッド93便は墜落していない(あるいは米軍に撃墜された 」など、アメリカ政府の自作自演を説く、様々な「陰謀説」がささやかれ、陰謀説を扱ったWebページも多く、DVDや本も出版されている。この本は、著者が、この陰謀説に反論し、いかに「陰謀説」が自説に都合のより事実だけを切り貼りし、オソマツな論理で根拠の無い主張を展開しているかを検証するもの。後半は「真珠湾陰謀説」などにもふれ、なぜ世界に陰謀説が絶えないのかの概説となっている。なかなか面白い。

以前、「The 9/11 Report:同時多発テロ調査委員会報告書」を読んだ時にも書いたのだが、このレポートを読むだけでも、陰謀説のいくつかについての根拠のなさを指摘することができる。

ところが著者によると、アメリカのジミー・ウォルターや、日本のきくちゆみなどの陰謀論者は、この「911レポート」すら読んでいなかったのだという。我田引水で自説を唱える人が多いのは知ってるが、これにはちょっと唖然とした。日本の本屋にも英文版が置いてあったし、webでも全文が読めるのに。ずいぶんとエー加減な輩が一生懸命に陰謀説を唱えているんだな。

昔から「陰謀論」の本は大好きで、有名なものはだいたい目を通している。しかし、この「トンデモ系」陰謀説に説得力を持たせるには、実はずいぶんと唱える人の知的力量が必要だ。凡百の「陰謀論」は、その真実味において、フィクションであるウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」をまず超えない。むしろ、被害妄想的「電波系」の書いた本の中には、読むに耐えないものまである。911陰謀論もその例外ではない。そのお粗末さを俯瞰した批判として、この本はなかなかまとまっており、読み応えがあった。

同じ著者の、「落合信彦 破局への道」も以前読んだことがある。naiveな落合信者にはちょっとショックな彼の実像を描き出した批判本。ただ、この本は、粘着質な落合批判があまりにも多く、個人攻撃に堕する部分も多々あり、読んでいてちょっと辟易するところがマイナス点。結果的にマイナーな著作に終わったのも、その読後感の悪さが原因ではないだろうか。ただ、今回のこの本の場合は、相手が「陰謀論」という抽象であり、著者の「粘着性」がよい方向に発揮されたような気がする。いや、よい「粘着」なんてあるのかと問われたら困るのだが。はは。




2007/05/03 Dallas / 高校野球特待生 / カラスヤサトシ(2)

今週は、Dallasに仕事で一泊出張。盛夏はとんでもなく暑いのだが、もうすでにムワーっと蒸し暑い雰囲気。まだ木々に緑が戻りかけたこちらに比べると、いたるところ満面の緑といった印象。ずっと英語の会議はやはり疲れるが、なんとか無事終了。水曜夕方、帰りのフライトは、サンダーストームが襲来する寸前に離陸できて実にラッキー。10分後の便に乗った部下は、飛行機がゲートを出た後でそのまま2時間の離陸待ちとなったらしい。飛行機が縦横無尽に連日飛び交ってるアメリカでは、まあ珍しいことではないのだが、やはり災難だよなあ。



高校野球は特待生問題で大モメ。日本学生野球憲章がスポーツ特待制度を禁止しており、違反が続々見つかったというのだが、誰しも感じる疑問は、別に野球だけではなく、他のスポーツでも、高校生に特待生制度が普通に存在してるのではということだろう。

高校で全国から有名選手を集める強豪が存在するスポーツといえば、野球以外にサッカー、柔道、ラグビー、バレーなど数々ある。野球だけに特待生制度があって、後の高校スポーツ選手に存在しないことは、ちょっと考えられない。だいたい、受験校として名前を売ろうとする新興の私立校が、学業優秀な学生に対して学費免除などするという話も普通に聞いたことがあるが、学業はよくて、野球はダメなのか。スポーツが得意な学生だって、学校と本人の都合が一致すれば、ある程度の経済的利益を保証して、その能力を伸ばしてやって何か悪いところがあるのだろうか。

プロ野球の契約金については、実は金額の上限を決めるのは独禁法違反などの疑いもあり、野球界が自分で勝手にルールを決めて勝手に騒いでいるという印象がある。そして、この「日本学生野球憲章」にしても、なんだか同じ気がするな。

野球選手に特待制度を設定していた学校は、高野連に奨学金の解約同意書を提出。野球部長は退任。利用していた選手は5月まで試合出場禁止なのだとか。高野連の、自らだけを絶対的正義とみなす他罰的傾向と、何にでも連帯責任を追求する旧日本帝国陸軍的体質は、「高野連警察が盛り場を巡回せよ」などの過去日記で何度も触れたことがあるのだが、いつもながら辟易して好きになれない。何十年も違反を見逃していて実に遺憾であるというのなら、大好きな「連帯責任」の論理を自らに適用して、まず高野連の会長以下のジイサマ幹部が全員辞めたらよろしい。今後も高校野球で不祥事があるごとに、高野連の役員が辞めるべきなのではないか。何年かしたらだいぶ体質も変わってゆくだろうに。






「カラスヤサトシ」は、(1)も大変面白かったが、(2)も発売されたので、早速Amazonで購入。この著者は、最近売れてきたようである。1巻のキャッチフレーズ、「キモカッコワルイがクセになる」は、本書の内容を表現してなかなか秀逸。この(2)も実に面白い。日常に潜むささいなことを見逃さないオタク的観察眼と、微妙な世間とのズレに対する自虐が織りなす不思議な味わい。こういうの好きだなあ。



2007/04/30 フランスは、やはり遠い国だ。

「フランスよ、どこへ行く」(山口昌子/産経新聞出版)読了。著者は、産経新聞パリ支局長。「グルメやモードという軟派のフランスとは異なる共和国フランスの本質と魅力の一端」を紹介すると帯にある。新聞の連載コラムを本にしたものであるから、1回の分量が短く、やや物足りない感もあるのだが、我々がいかにフランスという国を知らないかを思い知らされる事実が満載で、実に面白い。

実は好戦的な歌詞である国歌「ラ・マルセイエーズ」を愛する国民。サッカーの国際試合でも、国歌にブーイングが出ると国を侮辱されたと席を立つ大統領。しかし、市民革命の本家本元にして、イラク戦争にも反対したフランスは、決して右寄りの国ではないのである。

小学生まで原則として保護者が送り迎えしなければならない学校制度。バーゲンセールの回数や日曜営業まで制限する法律。結婚はしないが子供は生むカップルが増えて、今やヨーロッパ最高にまで達しようとしている合計特殊出生率などの世相も実に違うもんだなと面白い。ファッションや料理は別として、確かにフランスについては何も知らなかったなという、数々の新鮮な驚きを感じるエッセイ。

ひとつ思い出したのは、昔、読んだ、「フランス人 この奇妙な人たち」という本。これは、フランスに仕事で移住したアメリカ人の女性が、フランスについて、どれほどアメリカと違うかを異邦人の目から語ったエッセイだが、日本人ならこのアメリカ人著者が語るフランスへの違和感のほうに共感を覚えるに違いない。

個性を伸ばすより、社会に生きる論理を叩き込もうとする厳しい教育と、理数系を重視した、厳格な詰め込み主義。エコール・ノルマルやポリテクニークを卒業すると、一生食いっぱぐれがないほどの極端な学歴偏重社会は、まるで中国の科挙が現代に甦ったかのよう。自由の尊重と表裏一体となった徹底した個人主義。利益を上げるよりも論理的、技術的にすぐれたものを作ろうとする企業風土。階層間の移動性に欠けた厳然たる格差社会と、その頂点に君臨する高等専門学校で徹底的に数学と論理を叩き込まれた社会の支配層エリート達。

ややひねくれて考えると、このあたりの特徴の多くは、実はずっと昔、多分戦争前の日本にも似ている。しかし現在の我々日本人は、グルメやモード(そして一部の美術)以外はフランスのことを何も知らない。日本の文化がいかにアングロサクソン、というよりアメリカに極端な影響をうけているか、日本の西欧文化吸収史を再度勉強したくなるような興味深い本。



2007/04/29 テーラーメイドr7 ブラックフェイスのSuperQuadドライバー

土曜日は同じ社内の若手とゴルフ。朝こそ少し肌寒かったが、昼前には気温は摂氏で25度近くまで。3週間前に雪が降ったとは信じられない暖かさ。ただし、芝生はまだ本調子ではないのか、カートはパス・オンリー。上級者なら影響ないのだが、ボールが右に左に行く我々としては、あちらこちらに走るよい運動になる。前半は3発も池に叩き込むというオソマツなプレイ。後半は48と、ダブル・ボギー・ゴルファーとしてはまあまあの成績にやや持ち直し、トータルで104。まあ、シーズン序盤としてはこんなもんかな。

それにしても、ドライバーの調子がなかなか上がらない。使ってるのはキャラウェイのビゲスト・ビッグバーサだが、よく考えてみると、もう10年近くも使っていることになる。毎年のように新しいモデルが発表され、そのたびに「易しく、飛距離が出て、曲がらない」などと宣伝されている訳であるから、クラブを変えてみるとまた調子上がるのではないかと、つい物欲を起こし、土曜の夜、ネットであれこれ新しいクラブを検索。

最近は、まるで弁当箱をシャフトにつけたような、真四角の異形ドライバーも発売されている。フェイスの慣性モーメントを一定にして、当たり損ねを減らす効果があるらしい。NIKEのSUMOドライバーなるものもよいかなと思ったが、打球音が異様で、「木魚を力一杯叩いたような音がする」との評あり。ゴルフ場で木魚叩いた音はなあ、ということで、穏当に、今売れている、テーラーメイドのr7シリーズ。その中で一番新しい、ブラックフェイスのSuperQuadドライバーを購入することに決定。



本日ゴルフショップで購入したのが上記のドライバー。399ドル+タックス。クラブを買ったのも久しぶりだが、結構高いもんだ。しかし、寿司屋2〜3回分で何年も使えると思えば、むしろ安いような気もする訳であるのだが。シャフトはR、ロフトは11.5度という軟弱仕様を選択。4つの重りを入れ替えることによって、弾道をコントロールできるというのが売り物。

さっそく練習場にて打ってみる。460ccのヘッドは、今のキャラウェイより一回り大きいのだが、素振りをしても、明らかに今のドライバーよりもスムース。もともとスライサーではないのだが、打球は真直ぐ出てゆき、ほとんど曲がらない。デフォルトの重りもハイボール仕様になってたのだが、弾道も高めで安定。距離も前のドライバーよりも出ている。なかなかの優れ物である。もっとも、ゴルフ・クラブというのは、替えた当初だけは何故か当たるという伝説もあるので油断はできない。もうキャラウェイは捨て去って、こちらでずっと練習することにしよう。来週土曜はまたゴルフなので、本番で使って結果はどうでるか。

ゴルフの練習を終えてから、30分ばかりランニング。温度は急に上がっても湿度は低く、なかなか快適だった。

日本はゴールデン・ウィークか。いいなあ。アメリカは日本に比べて格段に祝日、連休が少ないのが困ったところである。明日からは通常通り仕事。一泊の出張も入っている。



2007/04/25 「ダメマンション」を買ってはいけない

「現役・三井不動産グループ社員が書いた! 「ダメマンション」を買ってはいけない」読了。Amazon.comで、徒然なるままに本を探してた時、なぜかポロっと目に留まったので発注したもの。

私自身は、もう借金背負って購入してしまったので、今更、自分の購入物件が「ダメマンション」に該当することが、この本読んで判明したとしても、時すでに遅しなのであるが、この手の本を読むのは妙に自虐的スリルがあったりする。

まあ、不動産購入にあたってはそれなりに研究したので、この本を読んでも目からウロコが落ちるほどの発見はない。しかし、不動産営業マンの本音を書いた部分はなかなか面白い。「実は誰にも来て欲しくない「抽選会」」の裏側など、漠然と知ってはいたが、実際にここまで本音で書かれると新鮮な驚きあり。

抽選会は、買いたい客を公平に扱うのではない。審査が下りなさそうな所得の低い客や、買い替えで面倒がかかりそうな客を落とし、問題なさそうな客を当選させるために、多数のダミー入れたりしてあれこれ八百長工作してやってるというのであるが。なるほどねえ。

そういえば、私が買う時も、営業マンは、抽選会は別に来て頂く必要ないですよと言ってたな。「他の申込者は、買い替えの方なんでねえ」、などとポロっと漏らしたりもしていた。外れたら外れたで、また別の物件探すかなんて気軽に考えてたのだが、休日出勤して仕事してる時に、あっさり「当選です」と電話が来たのであった。まあ確かに買い替えでもなし、面倒のない客であったのは事実だが。それにしても、グループ名も明かしてこんな本書いて、この人は今後も同じ職場で大丈夫なのだろうか。




2007/04/23 「寿司おたく、ジバラ街道をゆく」

Amazon.comに発注した、「寿司おたく、ジバラ街道をゆく」読了。

本の前半部分は、「ジバラ街道 テクニック編」と副題があり、自腹で寿司を食べ歩いた著者の、寿司の食べ方に関しての薀蓄があれこれ。

「お茶にするかお酒飲むか」、「箸でつまむか手で掴むか」、「つまみとるか握りだけにするか」、「何から頼むか」などについては、雑誌の寿司特集でも何度も取り上げられる実にポピュラーな話題。

ただ、これらは要するに客の好き好きであって、どこにも正解なし。自分の思うようにすればよいと思う。もちろん、店には店の個性や方針もあろうから、その使い方に合った店を適時選ぶ必要はあるだろうが、自分の食べ方に固執して他者に押し付ける性質のものではない。その点では、内容に関して、ところどころ意見の違う部分はあるものの、ま、色んな考えがあるよなと興味深く読める範囲内。目くじらたてて反論するようなほどのこともない。

ただ、面白いなと思ったのは、記載内容を通じて、「親方に気に入られたい」、「通だと思われたい」というトーンがひしひしと感じられるところ。全ての項目を通じてこの観点から、寿司屋における客としての「戦略(?)」があれこれ書きつらねてある。

個人的には、なぜそんなに気に入られたいか、なぜ通だと思われたいか、という心性に実に興味を感じる。そして、もしも、これらの「戦略」を真に受けて本気で実行する人がいたら、(実際、雑誌や本の特集に書いてあることを受け売りでそのままやってるなという人は時折見かけるのだが)ちょっと滑稽で、影で笑われるのではないかなと老婆心ながら余計な心配がわく。「銚子は「半分」、ビールは「小瓶」」やら、「ちょっと炙ってくれる」など、実行しても意味ないと思うのだが。

代表的白身の味の判別方法にしても、まるで受験勉強の暗記物のように分類までしないと分からんもんかねという素朴な疑問あり。もっとも、著者が「寿司初心者」に対して講釈するというのが本のコンセプトであり、親切心で一種の「コーチング」として書いているとも受け取れる。しかし、余計な講釈は時として諸刃の剣となる。信じ込んでその通りやると、逆に失敗する危険性が潜んでいるようにも思うのであった。まあ、何によらず物事は、結局のところ自分で感じて、自分で考えるしかない。

後半部分は著者が選んだ名店紹介。「東京編」の店の選択は、ほぼ評価の定まった有名で無難な店ばかり。驚きはないというか、新店開拓のガイドとしてはやや物足りない。ただひとつ例外は、浅草の「久いち」。最近急速にメディアに露出しているが、他の掲載店とのバランスからすると、この一店だけなんとも奇異に感じられるのは事実。まあ、店と客の相性の問題だが、著者もよほど肩入れしているものとみえる。

東京以外の地方店の案内が充実しているのもひとつの特徴。日本全国津々浦々に、寿司屋も色々あるもんだなと感心すると共に、ある種の「寿司紀行」として読むと、それぞれの店に特色があって面白い。、都内の江戸前寿司の店とは明らかに違った基準(酒飲んで長居できる)で評価されているところも、一種の旅情重視の寿司紀行文と考えればある意味納得。

店評価の本ではなく、著者のお勧め寿司店の紹介であるから、どの店も誉めてあるのは当然といえば当然か。まあ、悪口ばかりの本に比べれば読後感はよろしいように思われる。それにしても、早く日本に帰って寿司屋行きたいものである。



2007/04/22 人生の時間を費やす

土日は急に気温が上昇。日中は一時、華氏で80度を超えた。いくら4月も後半とはいえ、これはちょっと異常に暖かい。春を通り越して初夏のごとし。芝生は一面の緑だし、冬の間、まるで立ち枯れていたように見えた木々が、一斉に芽吹いてきた。

土日の午前中は2週間ぶりに軽くランニング。気温は高いのにあまり汗が出ないのは、やはりまだ新陳代謝が活発になってないからだろうか。4マイル走る予定が3マイルちょっとで大幅にスピードダウン。マイル8分の目算だったが、やはり9分程度かかる。まあ、冬場のブランクは、ぼちぼち戻してゆかないと。

その後、ゴルフの練習に。先週の土曜日にも気づいたのだが、アイアンの打球が微妙にフェードする。調子がよい時は軽いドローの球筋だから、およそ半年に渡るインターバルで、おそらく何かが狂っている。そして何が狂っているか自分では分からないのがヘボ・ゴルファーの悲しさである。ドライバーはもっとボロボロ。ゴルフというのは、人生の時間をかなり継続して費やさないと上手にならないと思われるのだが、人生にはゴルフの練習以外に楽しいことが一杯ある。それが問題なんだなあ。



2007/04/20 Virginia Tech Shootings

日本での報道は、直後に起こった長崎市長狙撃事件に若干かすんだ面もあるようだが、Virginia Techでの銃乱射事件は、アメリカ犯罪史上最悪の大量殺人として、こちらでは連日の報道が続いている。

犯人が、朝2名を殺してからの2時間半の間に、NBCに自分の写真やらビデオメッセージを送付していたことが判明し、MSNBCがその映像を頻繁に流したのも実にショッキングな出来事。YouTubeにも大量にアップされている。犯人が正常の範囲を大きく逸脱していることは明らか。しかし、こういうものを放送するのもどうかと思うがなあ。もちろん放送の是非は論争になっている。

ビデオの中身は、拳銃を持つ犯人が、社会や金持ちに対する呪詛を述べるもの。「世界がオレを除け者にする」という典型的被害妄想が満載。MSNBCの解説者も、「me against world」的コメントであると述べていた。日本では、当初、犯人を「韓国人留学生」などとしていた一部メディアがあったが、8歳でアメリカに家族と移住し、グリーンカードを持ち、大学に通っていた犯人は「留学生」というより、「韓国系アメリカ人」と呼ぶべきだろう。

「彼はほとんど誰とも目を合わさなかった」、「笑顔を見たことがない」、「ほとんど誰ともしゃべらなかった」との報道は、それだけ聞けば、アメリカに慣れないアジア系留学生の陥った疎外感からの悲劇のように思えるのだが、実際には彼は、人種は違っても、過去でアメリカで大量殺人鬼になった白人達と同じ、典型的「少数者」「疎外者」の系譜に連なっている存在であると感じる。

社会からの疎外感が他者への攻撃に結びつくところは、アジア的メンタリティーというより、むしろ極めてアメリカナイズされた異常に思えるのだ。それは例えば、「ボウリング・フォー・コロンバイン」や、「アメリカは恐怖に踊る」に描かれたように。

犯人の家庭は貧しく、子供の頃から劣等感を感じていたとの報道もある。アジア系のアメリカ移民では、韓国系は比較的新興勢力で、経済的基盤が確立した層が多いとは言えない。私の住んでる辺りでは、クリーニング屋はほとんど韓国系であるが、いくらチャンスの国アメリカとはいえ、クリーニングの仕事だけ頑張っても、そこから掴み取る成功はたかがしれている。むしろ、彼らは自分達の子供の世代にアメリカできちんと教育を受けさせ、子供の代を成功させるために異国で頑張っているのだ。日本からそんな夢を抱いて移民してくる世代はもういない。しかし、韓国にはまだそんなハングリーさが残っている。息子がきちんと教育を受け、Virginia Techで学んでいるということは、両親には誇らしいことだったに違いない。犯行のこの日までは。

生徒に窓から逃げる時間を与えるため、自ら教室のドアを押さえ続け、最後に犯人に射殺された76歳の教授がいたとのこと。彼はルーマニア出身のユダヤ人で、第二次大戦ホロコーストの生き残りだったのだそうだ。死線を越えた経験があるからこそできた行為なのだろう。イスラエルで行われる埋葬が大きく報道されていたのにも、複雑な感銘を受けた。



2007/04/19 Chicago downtown and music

日曜日は、日本からお客様を迎えてdowntownなど案内。昔、西海岸にいた頃はアテンドで San Francisco市内を巡ることが多かった。Golden Gate Bridge, Lombard Street, Coit Tower, Union Squere, Treasure Island, Fisherman's Warf, Chinatown。観光には実に適した美しい街で、独自に開発した色んなコースがあった。しかし、考えてみると、Chicago downtownというのは、あんまり車で回るような名所が無いのだよなあ。

一応、手始めに、John Hancock Center 96階の展望台に上がってみたり。何度か来たが、ミシガン湖畔に近いせいもあり、こちらのほうがSears Towerのスカイ・デッキよりずっと眺めがよい気がする。ミシガン湖は確かにまるで大洋のごとし。周りに何もさえぎるものがなく地平線と水平線だらけの、なかなか壮大な眺め。

グラント・パークも、夏場散策すると実に気持ちよいのだが、外はまだいくぶん寒し。公園内のバッキンガム噴水は、夏場など何十メートルも水を噴き上げて壮大で素晴らしいのだが、シーズン外で水がスッカラカンに抜かれている。あとはアドラー・プラネタリウムのほうに回って、湖畔側からのシカゴ市内を見たり。美術館や自然博物館を別にすると、市内はさほどの見所ないなあと、今更ながら。あとは市内ループ、頭上に「L」が走ってるところがよく映画に出てくるくらいか。

火曜日の夜、お誘いを受けてdowntownのコンサートに。ビル内の駐車場に車を止め、夕方のdowntownの街角を歩くと、「Brother、小銭を恵んでくれ」などと紙コップ持って寄って来る、うっとおしい奴などがいて、これはこれで懐かしい。白人ばかりの郊外で暮らしていると危険を察知する能力がだんだん減退してゆく。やはりたまにdowntownに来ないと、都会で生きるということがどういうことなのか忘れてしまう。

Symphony Centerは、ちょうど美術館の斜め向かい。Classicにはサッパリうといもので、恥ずかしながら、こんなところに素晴らしいコンサート・ホールがあるとは知らなかった。20世紀初頭に建てられたのだそうであるが、全米だけでなく世界的にも大変評判の高い、Chicago Symphony Orchestra(CSO)の本拠地。これまた、全然知らずにお恥ずかしい話である。ステージを見るに、バイオリンやビオラ奏者にはアジア系と思しい女性が何名か。パンフレットで確認すると、日本人の名前が何名も。

この夜は、「Silk Road Chicago」と称して、Yo-Yo Maと、「Silk Road Ensemble」を迎えたコンサート。純粋なクラッシックではなく、むしろアジアンテイストを入れたフュージョン的コンサートか。最初の曲で出てきた、どこかモンゴル風の衣装を着た女性ボーカルが印象的。ボーカルというより、何か楽器のような声。ビブラートというより微妙なトレモロが効いている。そう、あれはコンサート・ホールではなく、風の吹き渡る草原に向いた声なのだ。

そして、プログラムに(Pipa)と載っている中国琵琶も興味深かった。ピッキングに使う右手の使い方が面白い。三味線やギターではなく、やはり琴の一種なんだなと思わせる指使い。シングル・ノートだけでなく、コードを弾く演奏技法もある。そして、ギターで言う、いわゆる「ハーモニック奏法」もあるんだなと、あれこれ分かり、中国琵琶の表現力に実に感銘を受けた。その昔、大勢集まって、ベンベケベンベケとユニゾンで引く「中国女子十二なんとか」は、商売の香りを感じて、ひとつも面白いと思ったことなかったが。はは。

Yo-Yo Maの演奏について、何か語れるような人間ではないのだが、チェロ自体のあの深みのある音色は素晴らしい。そういえば、昔々、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアが、「引退したらチェロ奏者になる」などと語ってるのを読んだなあ。ストラトキャスターの中音域の弦を使い、ひっかけた小指でボリュームを調整して、ピッキングの音を消しながらピックアップのボリュームを上げてゆくと、本当にチェロを弦で弾いているような音がする。むしろバイオリンよりもチェロのほうが官能的な音色という気がする。「誰がヴァイオリンを殺したか」なども思い出しつつ。

最後の「Rose of the Winds」は、「Silk Road Ensemble」と交響楽のためにアルゼンチン出身の作曲家が書き下ろした曲。バグパイプ、中国琵琶、尺八、各種パーカッションなど、実に賑やか。めくるめくような、素晴らしいChicagoの一夜であった。駐車場を出たのは10時半過ぎ。しかし、北西に向うI-90に乗ると、道はさすがに空いておりスイスイと。30分ちょっとで帰宅できる。せっかくここに住んでいるのだから、もっとdowntownに出て色んな文化に触れなければとも再度痛感したり。




2007/04/18 ま、そういうものだ。

カウンタのほうは昨日、昔、新宿の「ぷろくらオフ」で一緒になり、今は定年され悠々自適のWさんから、「1,234,566」と「1,234,568」ゲットしたとご報告を頂いた。その他、近隣の番号のご報告も他の方から何通か。実は自分で記念に取るかと思ってたのだが、一晩寝て起きたらすでに下3桁が700を超えていたのであった。

ログを見るに、下3桁が500を超えた頃から急にアクセスが増えているのだが、結局のところ、ピッタリの番号を取った人からは何の連絡もなし。

ま、そういうものだ。So it goes.



2007/04/16 カウンタ「1,234,567」

このページ左上のカウンタが、そろそろ「1,234,567」に達する。一桁小さい123,456通過は1999年のこと。ずいぶん昔の話だ。これは誰が踏んだか分からなかった。どう考えても、もう一桁上の「12,345,678」になるまでページが続く可能性はないから、この並びは実に珍しいということになる。もしも、たまたまヒットした人がいたら、記念にスクリーン・ショット送っていただきたいなあ。




2007/04/13 カート・ボネガット死去

アメリカ人作家、カート・ボネガット氏が死去。84歳。

その昔、「スローターハウス5」を読んで鮮烈な衝撃を受け、他の作品もずいぶん読んだ。ハヤカワ文庫から出てたのだったか。翻訳もなかなかよかった。再び購入するかとAmazon.comを検索すると、在庫切れで5〜7週間待ちだとか。訃報を聞いて思い出した人がずいぶん発注したのかもしれない。

「スローターハウス5」は、著者の半自伝的作品ともいわれる。トラルファマドール星、第二次大戦のドイツ、ドレスデンの大空襲、そして現代。時空を超えて生と死が交錯する不思議な物語。すべての時間の切片に同時に存在し、すべてを俯瞰して存在できることになった主人公。哀しみをたたえた諦観のなかに、人間性への深い洞察が満ちている。全てを相対化し、静かなユーモアをたたえて、主人公が人生の無常、悲劇を語るたびに文末は、「そういうものだ」という、一種なんともいえない不思議な詠嘆で締めくくられる。英語の原文では、「So it goes」。そうそう、この本にあった祈りの文句も、いまでも覚えている。

"God grant me the serenity to accept the things I cannot change, (主よどうか、私に、変えられないことを受け入れる心の平安と)
courage to change the things I can, (変えられるものを変える勇気と)
and wisdom always to tell the difference (そしてその2つを見分ける知恵をお授けください)"
これはボネガットの創作ではなく、serenity prayerとして有名な句らしいが、これまた人生を生きるにあたり、覚えておくべき印象的な箴言だ。

「スローターハウス5」が好きだった読者は、著者の訃報を聞いて、みんな心の中でそっと呟いたに違いない。So it goes. 




2007/04/11 「サイバラ茸6」読了。

今朝起きると横殴りの雪。すでに1インチほど積もっている。気温は華氏で35度程度だから道が凍りついたりはしないだろうが、この時期に雪が降るのも珍しい。4月になったばかりの頃は、暖冬で去年より芝生が緑になるのがずっと早いなどと言っていたのだが、最後にちょっと調整が入ったか。予報では、明日も土曜日も小雪模様だとか。まあ、雪は夕方には止んで、もうだいぶ溶けているのだが、それにしてもかないませんな。

3月27日発売の「サイバラ茸6」をAmazon.comに発注したのが4月6日。昨日10日に届いた。結構早く太平洋を越えてくるもんである。さっそく読了。

1コマの挿絵漫画など、割と小品が多いのでスイスイ読める。ただ、全体に(まあ、もともと丁寧な仕上げとは無縁の漫画ではあるのだが)だいぶ絵が荒れている気がする。鴨志田穣との離婚、その鴨志田のアルコール治療閉鎖病棟への入院、その後の闘病生活支援と実質的復縁など、プライベートで大荒れの時期であったのは確かで、なんらかの形で仕事に影響があったとしても不思議はない。

しかし、この本収録の作品に一番多く出てくる人物が、その鴨志田穣。サイバラの中で彼が占めていた大きさ、重さというのがよく分かる。彼が腎臓ガンで亡くなったのがこの3月20日。ちょうどこの本がその追悼の書となるだろうか。

「酔いがさめたら、うちにかえろう」には、彼がひどいことを言って何度も妻を傷つけ、泣かせたことが書かれている。しかし、サイバラは自らを、ダメな夫を虐待する鬼嫁として描く。「好きになってしまったんだから、もう仕方ない」というある種の不思議な諦観が、この本の随所に現れているようなところが、著者の健気なところであるという気がするのだった。



2007/04/10 「1976年のアントニオ猪木」

週刊誌の書評で読んで発注した「1976年のアントニオ猪木」(柳沢健/文芸春秋)が届いた。一気に読了。

その昔、力道山が活躍した日本プロレスの黎明期には、誰もがプロレスは真剣勝負だと信じていた時代が確かにあった。しかしやがてそのベールは剥がれ落ち、「プロレスは筋書きの決まったショーである」という事実を誰しも知るところとなる。しかし一方では、「プロレス最強伝説」、「アントニオ猪木最強伝説」なるものが存在するのも事実。アントニオ猪木が行った異種格闘技戦が全て真剣勝負であったと信じる人もいるだろう。

この著者は、関係者への丹念な取材を積み重ね、アントニオ猪木が、1976年に3試合だけ「リアル・ファイト」を行っているが、それ以外の試合は全て「プロレス」であったと述べ、そしてこの「特異点」とも呼べる3試合の「リアル・ファイト」が、その後の日本の総合格闘技の発展にどのような影響を与えているかを考察する。1976年という一瞬の断面だけに光を当てた独特のルポルタージュであり、アントニオ猪木という異形のレスラーの伝記としても興味深く成立している。

猪木がたった3試合だけ行った「リアル・ファイト」とは、モハメド・アリ戦、韓国のパク・ソンナン戦、パキスタンのアクラム・ペールワン戦だと著者は語る。著者が取材によって明らかにする「なぜショーではない真剣勝負になったか」の背景が、これまた実に興味深い。

モハメド・アリはエキシビジョンのつもりで来日した。ヘビー級チャンプがプロレスラーに本気で勝っても得るものは何もない。しかし、猪木は本気でアリを倒すつもりだった。それを知ったアリ陣営の硬化と、そこから始まった競技ルールの徹底的議論。半分ハメられたにも関わらず、最後まで戦ったアリの勇気。そして、猪木に「ある」テクニックがあれば試合の結果が変わっていたかもしれない、という著者の分析もなかなか面白い。

そして因果は繰り返す。アクラム戦において逆にハメられたのは猪木であった。招待を受け、「プロレス」をやるつもりでパキスタンに降り立った猪木は、試合直前にアクラムは本気で「ノー・ルール」の真剣勝負をしようとしている事を知る。マネジャー新間の目には、リングに上がった猪木の足が震えているように見えたという。しかし当時の猪木は、本当のファイティング・スピリットを持っていた。グラウンドで執拗にアクラムのスタミナを消耗させ、カメラの死角で指をアクラムの目に突き入れる。そして最後は肩を脱臼させ、この「リアル・ファイト」に勝利を収めたのだ。この辺りの経緯についても、著者の取材は的確で一読の価値あり。

アリがもともとプロレス好きであり、ビッグマウスは、ゴージャス・ジョージ、ブラッシーから学んだこと。UWFやリングスも、実は事前に打ち合わせが行われたショーであったこと。モンスターマン戦以降の猪木の異種格闘技戦も、事前に打ち合わせがされた「プロレス」であったこと等、サラリと触れられている細部がまた興味深い。著者がプロレスの世界にどっぷりつかった記者ならば、逆に制約が多すぎておそらく書けなかっただろう。

戦いの場を演出し、観客のエモーションを的確にコントロールしてカタルシスに導く天才的なパフォーマー。しかし、経営者としては、会社を私物化し、巨額の借金を重ね、結局のところ自ら築き上げた新日本プロレス帝国をも破壊してしまう。たった3試合の「リアル・ファイト」とその後に焦点を絞ることにより、アントニオ猪木の実に奇妙な横顔とその伝説の真実に迫った、印象的なノンフィションだった。




2007/04/08 マスターズ

アメリカに住んでよいところのひとつは、スーパーボウルとか、マスターズとか、アメリカで開催されるスポーツの世界的イベントを、同じ時間帯でライブで見ることができるところ。前回の駐在時には、まだスタンフォードの学生だったタイガー・ウッズが、最後になる全米アマに勝利するところをTVで見たのがずいぶん印象に残っている。

本日は、全米マスターズ選手権をCDT1時半からずっと観戦。タイガー・ウッズは、昨日ちょっと盛り返して第二位につけたものの、決して調子はよくない。前半から短いアイアンの距離感がまったく合わず、パターもいまひとつ。スタートしてしばらくして一瞬トップに立つも、沈滞気味。チップ・インやらロング・パット決めたりした選手が上位に行ったり落ちたりの慌しい展開。ウッズも、途中のロングホールでイーグル取り、一時は盛り返すかと思われたのだが、2打差でトップを追う後半最後のロングで2打目を池に入れ、この時点でほぼ勝負が決まった。

後半で抜け出し、トップを維持して勝利した Zach Johnsonというのは全然知らなかった。アメリカ人にしては小柄な割りに前傾が強く、フラットなスイング。しかしショットは正確。最後は崩れるかと思ったが、なんとか踏みとどまってそのまま優勝。あわただしい混戦で、あまり顕著なドラマはなかったが、意外な伏兵の優勝は、なかなか面白かった。




2007/04/06 「サイバラ茸6」

「酔いがさめたら、うちにかえろう」再読。著者の死を知ったのは日本出張中のこと。ガンであったことが発覚した後、アルコール中毒治療病棟で行われた、著者の体験発表(自らがアル中になった経緯を人前で発表し、全員で話し合うカウンセリングの一種)が何度読んでも凄まじい。本人の資質や成育環境もあるだろうが、カメラマンとしての壮絶な戦場体験が、かなりの部分で著者が壊れてしまった原因なのは明らかなように思われる。開高健は、ベトナム特派員として南ベトナム政府軍に従軍、200名中生還者は17名だけという反政府ゲリラの攻撃に遭遇し、奇跡的に生き残ったのだが、その極限体験は、『輝ける闇』などの作品に結実した。ただ、彼も浴びるほど酒を飲んで、58歳で死去したのであったが。

鴨志田氏が闘病生活を描いたエッセイを連載していたサイトでは、未完の原稿が置かれ、連載終了のお知らせ。西原理恵子公式サイト鳥頭の城では、「故・鴨志田穣お別れ会」と共にしばらく仕事を休止する旨のお知らせが。

同じページに、「サイバラ茸6」発売のお知らせがあったので早速Amazonで注文。

3月27に発売されたばかりらしい。Amazonから、時折妙なお勧めメールは来るのだが、「サイバラ茸5」もAmazonで買ったのに、なんで「6」の発売はお勧めメールとか来ないのかね。メールでお勧めするのはロング・テイル系だけで、売れるのが予想されてる本は特にお勧めするまでもないのだろうか。どんなロジックで何を「お勧め」してるのか、なかなか興味深い。



2007/04/06 ギタリスト成毛滋

ギタリストの成毛滋さんが死去。その昔、初めて買ったエレクトリック・ギターは、別にグレコの物ではなかったのだが、友達に、この人の(グレコギターのおまけでついてた)教則本とカセットを貸してもらって、ずいぶん練習に励んだものだ。リズムを取るためのいわゆる「空ピック」やら、左手の小指をきちんと使う運指など、「なるほど、そうなのか」とずいぶん新鮮な驚きを覚えたのを今でも覚えている。この成毛演奏理論を知ってからプロの演奏を映像などで見ると、例えば、ジミー・ペイジは、3本指しか使ってなくて、リズムのバラけた探り弾きで、どうも大したことないなと思ったり、実に興味深かったが。

もともとは、お金持ちの家に生まれて留学もした趣味人だったと聞いたことがあるが、当時としては卓越した技能を持ったギタリスト。それにしても、まだ60歳だったのか。ご冥福をお祈りしたい。



2007/04/05 「主人公は僕だった」 / 「ロッキー・ザ・ファイナル」 / 「デジャブ」 

日本往復の機内で見た映画について、一部書き忘れてたので追加。

「Stranger Than Fiction」

映画にあるナレーションというのは、考えてみると不思議なもので、映画の登場人物には聞こえず、映画の観客にだけ場面の状況を説明する、いわば「神の声」である。この映画の着想が面白いのは、このナレーションが映画内の主人公にも聞こえているということ。この声の正体を探るうち、彼は、自分自身がある作家の書きかけの本の主人公であり、聞こえてくる声はこの作家の書きかけの本の記述、そして作家はそのラストを彼の死で締めくくろうとしていることに気づく。

文章で書くと面倒なシチュエーションだが、映画は冒頭から、一種SFのような、あるいはミステリーのような、独特のシュールな緊張感をたたえ、淡々したタッチで進行する。ところどころに挿入される不条理劇のようなシークェンスも面白い効果あり。主演のWill Ferrellは、なかなか軽妙な演技で、映画にある種の明るさと落ち着きを与えている。どこかで見たと思ったら「Elf」に主演していたのであった。そもそもは「Saturday Night Live」にも出演していたコメディ畑の俳優。

真面目で堅物のIRS職員が税務調査に行ったベーカリーで、自由に生きるオーナーの女性と恋に落ちるというサブ・ストーリーも、結末の盛り上がりにうまく結びつき、効果的に成立している。脇役で出たダスティン・ホフマンも印象的。原題は、「小説より奇なり」という意味だが、日本では公開予定あるのだろうか。ネットで検索すると、「主人公は僕だった」という邦題で5月に公開予定だとか。日本語の題名はなかなか上手い。「日比谷みゆき座他」という公開館はマイナー感漂うが。なかなか面白い映画なのだが。


「Rocky Balboa」

日本では、「ロッキー・ザ・ファイナル」という題名で今月公開予定。ロッキー・シリーズの最終作。ボクサーを引退したロッキーは、愛妻エイドリアンを亡くし、イタリアン・レストランのオーナーとして、フィラデルフィアで暮らしている。しかし、胸にくすぶるボクシングへの情熱。コンピュータ・シミュレーションにより、過去の名チャンプを戦わせるというTVの企画で、現チャンピオンより全盛時のロッキーが強いということになる。怒った現チャンプがロッキーにエキシビジョンでの挑戦状を叩きつけ、ロッキーは最後のリングに上がることになるという筋書き。

ロッキーについたトレーナーは、スピードが衰え、膝の関節もスリ切れて動けないロッキーは、一発のパンチの重さを鍛えるしかないと分析して、パワーをつけるトレーニングをさせる。トレーニング・シーンはロッキー・シリーズの定番中の定番だが、やはり印象的。実物のシルヴェスター・スタローンは、1946年生まれだから、もう60歳。顔は確かに老けたが、分厚い胸板や筋肉は、とてもそんな年に思えないのが凄い。昔と比べて重量を増した体型は、ジョージ・フォアマンがカムバックしたのよう。

試合の顛末については、あえて書くまでもないだろう。定番のロッキー節。しかし、実に単純な物語だけに、心にストレートに響く力を持っているのも事実なのであった。

「デジャブ」

この映画は日本でちょうど劇場公開中。フェリーが何者かに爆破され、テロリストの関与を前提とした捜査本部が設置される。デンゼル・ワシントンがこの捜査に加わるプロローグを見て、ごく普通の犯罪捜査物だと思ったが、ストーリーはどんどん奇妙な方向に転がって行く。最終的にはSFとも呼ぶべき展開に。巨大な装置を使った捜査には、奇妙な「制約」が存在するのだが、それが物語後半を展開する鍵にもなっている。着想はなかなか面白い。

最後まで物語の軸となるヒロインが、まず最初に死体として登場するというのも、物語の核となるアイデアと密接に結びついている。死に顔がアップで延々と写された時、てっきりハル・ベリーかと思ったが、これは新人女優なんだそうで。それにしてもよく似ている。

ストーリーは、随所にわたりご都合主義的、アラもあるのだが、物語の展開にスピード感があり、あれよあれよという間にストーリーが進行。意外にボロが目立たない。大きなスクリーンで見たら、もっと面白かったかもしれない。



2007/04/03 「日本一江戸前鮨がわかる本」

帰国前、銀座旭屋書店で、「日本一江戸前鮨がわかる本」(早川光/ぴあ)を購入。帰りの機内で読了。著者は、銀座に「水谷」として戻る前の「次郎よこはま店」を取材した、「江戸前ずしの悦楽」や、「きららの仕事」原作(これは実は読んだことない)、各種雑誌の寿司関係記事などでもおなじみ。

著者の長年の寿司食べ歩き経験から、江戸前寿司の魅力を語り、その楽しみ方と名店を紹介する本。「日本一わかる」というのはこれまた気宇壮大な話であるが、語り口も平易で、随所に著者の深い食べ歩き経験も伺える。気楽に読めてなかなか面白い。

「江戸前鮨の楽しみ方」として挙げてある事項に関しては、必ずしも全てに同意する訳ではないのだが、「お決まり」についての認識、常連になるための「ランチ」の使い方、「薀蓄は嫌われる」こと、「鮨職人を応援する楽しさ」など、全体として、実に真っ当なことが書いてあると思う。

素人グルメが店に点数つけるサイトをたまに覗くと、お昼に一度行って「お決まり」頼んだだけで、「評価できません」、「再訪はありません」などなど、修行を積んだ職人に対する敬意のヒトカケラもないようなお門違いコメントも多く、金払った客だから何言ってもいいという考えの裏に潜む一種の浅ましさ、傲岸不遜さに辟易する時がある。この本は、これから寿司屋巡りをしようとする人が、店を楽しむために知っておくべきことについて、ある種なかなか有益な示唆を与えている。もちろん、何やるのも自己責任であり、必ずしもこの本の通り行動する必要もないのではあるが。

「江戸前鮨の名店紹介」の部。行ったことのある店に関しては、細かい寿司種の評価に対し、ところどころ意見を保留したい部分あるものの、大筋の店の評価では著者に大きな異論なし。築地の「つかさ」は、私も大好きな店だから、著者の評価に全面的に同意。おそらく行ったことのない店についても、割とガイドとして信頼するに足るのではないかと考える次第。次回の帰国時には新店開拓に使ってみようか。この本以外にあちこち書いてる記述を総合して、なぜか「鶴八系」はお好きではないようにお見受けするが(いや本当はどうか知らないが)、これはこれで、寿司という食べ物に対する個々人の嗜好の奥深い多様性を感じさせて、まあ興味深い部分。

本の後半部分、寿司店の歴史に関する部分も、新たな知見はないものの簡潔にまとまって面白い。ただ、伝説の職人「藤本繁蔵」は、果たしてそこまで神格化されるべきものなのか、ここには少々疑問を感じた。

余談であるが、「きよ田」を職人として引き継いだ新津武昭は、色んな意味で実に興味深い「ひかない魚〜消えてしまった「きよ田」の鮨」という本において、店のオーナーの存在と自分の立場については注意深く言及を避け、自身の修行経験についても、誰にも教わらずひとりでにすべての技術を身につけたかのように語っている。このあたりの事情には、なんだか野次馬的な興味がわく。新津氏もご健在で復活されたようであるから、藤本繁蔵を扱うという評伝で、著者がこの辺りも扱ってくれると面白いんだが。ま、お前に関係なかろうと言われれば、まさしくその通りなのだが(笑)。



2007/04/01 あっという間に4月。/ 「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」

あっという間にもう4月。実に早い。3月後半は暖かく、もうForest Preserveの芝生はすっかり緑に。去年の4月1日にアメリカ到着した時は、芝生の色はまだまだこんな感じではなかったから、やはり今年は全体に平年よりかなり気温が高いのだろう。もう春だなあ。

土曜は実に久しぶりにランニング。やはり冬場ずっと怠けていたせいか、2マイル走ると息が上がる。1マイルウォーキングして呼吸を整えて、更に2マイルをランニングで。呼吸や心拍を感じつつ、快適と感じるレベルでしか走ってないのだが、前半の2マイルも後半の2マイルも18分。昨年秋口は、だいたいキロ5分、マイル8分で走って快適な一汗という感じであったから、だいぶ衰えたな(笑)。ま、元に戻すのはもう少し必要かもしれない。

本日も同じペースでランニング。やはりマイル8分ペースはしんどいそうなので無理せずに4マイル、36分。後半は雨が降ってきた。BMIはまだ20を割ってるのだが、冬場の間にだいたい1.5キロばかり体重が増えた。これから段々と運動量を上げ、ちょっと落としてゆくか。そういえば、4月になるとゴルフ場もオープン。ゴルフ・クラブはまだ片付けたままなのだが。



昔々、日記猿人のリンク頼りであれこれweb日記を読んでた頃は、4月1日になると冗談でウソ日記をアップする人が結構いて楽しませてもらった。最近のブログでも、結構あちこちで、エイプリル・フール・ネタで更新する人がいるのには、人間考えつくことは変わりないよなと妙な感心。



「最悪の事故が起こるまで人は何をしていたのか」読了。その昔、柳田邦男の航空機事故のドキュメントは何冊も読んだ。原発事故関係の本もずいぶん読み漁った。日経ビジネスの「敗軍の将、兵を語る」なんかも面白い。思うに、人間が引き起こす失敗、そして巻き込まれる事故の報告には、後になって分かる示唆がたくさんあり、もとより実に興味深いものなのだ。

チェルノブイリ原発事故、スリーマイル島原発事故、チャレンジャー号爆発、インド殺虫剤工場大爆発、コンコルド墜落などなど、メディアで大々的に報道された有名事故も、この本で初めて知った事故もあるが、語られるエピソードはどれも興味深い。

大きなシステムを制御しようとすると、必ずなんらかのヒューマン・エラーが起こるのは防ぎようがない。しかしその連鎖が巨大な事故を引き起こさないよう、どんなフェイル・セイフ・システムが組み込まれているか、あるいは異常に対処する所期の人間の反応によっていかに結果が変わってくるか、それぞれのケースで語られる物語は、事実にしかない重みに満ちている。ただ、この著者の、ひとつのエピソードが終わる前に次々思いついたケースを並べ立てるような語り口は少々読みづらいのだが。もっとも取り上げられているケースが実に多種多様で、拾い読みしても飽きないのがよいところか。