Ermitage…。 彼女はそう言った。 パダの“壁”の外に広がる街区、その更に外れで出会った半妖精の女性は。 その時の私は人を訪ねた帰りだった。数ヶ月前…まだ冬になる前だ。所用でパダを訪れ、訪れたからには会っていこうかと思ったに過ぎない。遺跡群と住居群、その境界線が曖昧になる奇妙な場所だった。この辺りから手前は、とりあえずパダの街と呼んでも差し支えないかと思われる程度の、“街の外れ”。そしてこの辺りから先は空中都市レックスの遺跡と呼んでも怒る人間はあまりいないと思われる程度の“遺跡の飛び地”。 そこで出会った人物に少しばかり興味を惹かれたのは、そんな奇妙な場所だったからなのだろう。 なにせ、訪ねた先の人間は、穴熊を引退したという詩人で、かなりの変わり者だった。遺跡を憎みつつ、それでも遺跡の傍を離れたくないと、そんな場所に住居を構えるような人間だ。かと言って、そんな人間と交流のある自分は変わっていないのかと聞かれれば、黙り込むしかないのだが。 ともかくも、そんな場所である。その詩人の家を辞して街へ戻ろうとする私からすれば、人と出会うことはないのだ。レックスの遺跡に向かうなら別のルートのほうが便利だ。そして、かの詩人は人と交流することそのものを好まない性質ときている。ならば、私の真正面から、酒瓶をぶら下げて歩いてくるあの彼女は、いったい何処へ向かおうと言うのか。 小さな背負い袋を肩から提げて、左手には無造作に葡萄酒の瓶をぶら下げている。短い灰色のマントと、その中に着ている飾り気のない服装は、とてもシンプルなデザインだ。言い方を変えれば、シンプルとしか言いようのないデザインだ。肩から無造作に流れ落ちる薄い金色の髪はそのまま腰まで達している。近くで見たら、おそらくは服も髪も埃に汚れているのかもしれない。この路地(ここが路地と呼べるならの話だが)に吹く風が絶えず足元の土埃を舞い上げているのだから、それは当然と言える。どうせ、自分とて同じようなものだ。ろくに手入れもしていない黒い髪は、まとめるのも面倒でほったらかしてあるから、吹き付ける風に毛先が絡まっている。まとっている闇色のマントは、土埃が色を変えてゆく。今はまだかろうじて黒いマント、と言えるけれど。 ただ、私はその時、彼女を美しいと思った。 沈みきる寸前の陽が西側から黄金色の光を彼女に投げかける。色の薄い蜜色の髪は落陽に照らされた側だけが燃えるような茜色に染まっている。だが、そんな色の陽を受けてさえも透き通るような白い肌。仕事帰りかと思えるような、薄汚れた服装に包まれた肢体は、それでもしなやかさを主張している。か弱さゆえのものではない。細身で華奢なのに、どこか…そう、奥のほうからなにがしかの強さを伝えてくる。 私も、そして彼女の足取りも緩やかだった。互いの顔が見えるところまで近づいて、そうしてどちらからともなく立ち止まる。私が先ほど、観察したように、彼女も私を観察しているかもしれない。布に包んで手に持っている楽器は、月琴だと知れるだろうか。包まれた形状だけを見るならリュートと思われるかもしれない。伸ばしっぱなしの黒髪、片方は濁っている金茶色の瞳は、夕陽に照らされればどんな色に変わっているだろう。 「…この先は廃墟のようだが……どこへ?」 思わず、尋ねた。目の前の女は軽く首を傾げる。その動作で流れた髪が、今まで隠されていた耳を見せた。不意に納得したような気分になった。──半妖だ。あらためて見れば、その顔立ちも体つきも、確かに妖精の血が流れていると納得できる。 「そちらこそ。…廃墟から帰ってきたとでも言うのかい?」 面白がるような問い返し。わずかに笑いを含んだその声音に、返すこちらもおそらくは同じ色合い。 「ああ…似たようなものかもしれないな。廃墟に住んでいる変わり者を訪ねた帰りだ。……それはもしかすると、私自身も変わり者であると告白しているようなものかもしれないがね」 「ならば、そこへこれから向かう僕も変わり者かい? すぐそこの建物に人が住んでいたのは知っていた。まだ生きていたとは知らなかったが」 「知らなかったというなら、訪ねる先はその家ではないということになる。……やはり、廃墟に?」 「ふふ…僕の行き先が気になるかい? ただの月見さ。“壁”の外に、生き物のように増殖していくこの街は、今まで遺跡だったものを、ただの残骸に変えてゆく。目に見えない境界線のあたりは、街でもない…そしてすでに遺跡でもない。そんな場所で、生き物の気配を感じることなく月を見るのも面白いものだよ」 そう言って、彼女は、左手にぶらさげた葡萄酒の瓶を掲げてみせた。くすり、と笑んだその姿が、妖艶な…それでいて無邪気な。 「なるほど。月を見ながら酒を嗜むというわけか」 「そうさ。………ところでそちらは、詩人かな? その手にあるのは楽器だろう? 布に包まれている」 「ああ。月琴だ。それに、職業を尋ねられれば、冒険者というよりは詩人と名乗るほうが多いのも確かだな」 「月の琴、か。その音色は聴いてみたい。……どうだろう? 月見に付き合わないかい? 実はこの葡萄酒…馴染みの酒場の店主が、僕に対して失礼な物言いをしたものでね、それに少しばかり…そう、少しばかり抗議をしてやったら謝罪の印だと寄越したものなんだ。1人で飲むには多すぎる」 “壁”の中にとっている宿に帰るには、閉門までに内側に戻らなくてはならない。この誘いを受ければ当然、閉門には間に合わなくなるだろう。そんなことが一瞬、頭をよぎった。けれども、それはよぎっただけで消えていった。 「生き物の気配の薄い場所…というなら、精霊たちの声が少々やかましいかもしれないが…それはむしろ歓迎すべき事柄でもある。私でよければ付き合おう」 「おや、君も精霊を知る者か。偶然だ。僕もだよ」 微笑んで、彼女は歩き始めた。それに並ぶように私も街に背を向けて歩き出した。 「ああ…そういえば。どこへ向かうのかまだ聞いていなかった」 足は止めず、わずかに顔だけを振り向かせて彼女は答えた。 「Ermitage…」 辿りついた場所は、遺跡の残骸だ。もとが塔だったのかそれとも館だったのかも分からない。ただ、堅固な石壁の一部、そして輝きをなくした黒大理石の床。それだけだ。天井などはすでにない。わずかに、壁から繋がる梁の一部が残っているに過ぎない。壁も、とりあえず壁と言っても差し支えない程度に残っているのは二面だけだ。一面は跡形もなく、残る一面は壁の残骸が、壁のあった場所を教えるためにだけ積み上げられている。 「ここが?」 「そう。僕が気に入っている場所だよ。ここから……そう、東を見てみるといい」 彼女に言われて、視線をそちらへ向けた。 街の外れからここまでは、一刻も歩いてはいない。だが、落日の残照は既に無く、空は淡い青紫の色に染まりつつあった。そこに昇っているのは、細い細い弓のような月。 「ここから東を見ると、ちょうど右斜めの位置に高い塔が見えるだろう。“ウェルギナスの尖塔”と呼ばれる遺跡だ。あそこに潜るのはごめんだが…あの塔のフォルムは気に入っていてね。とくに、この位置から眺めるのがいい」 彼女の言葉通り、天を貫くかのような尖塔がそびえている。空中都市の落下に耐えきったのが不思議に思えるほどに、細く高い塔。その塔のやや左には似たようなデザインの…少し小さな塔が見える。見える…とは言っても、薄闇に支配されはじめた空、そして、今日は調子が良いとは言え、私の視力はお世辞にも誉められたものではない。ぼんやりと塔らしき形が視界に像を結ぶだけだ。 「その塔の左にあるのも…同じような遺跡なのか?」 「左にあるのは…確かにここから見れば、すぐ隣にあるように見えなくもない。けれど、実際は随分と離れた位置に建っているよ。あれは、“黒水晶の館”と呼ばれる遺跡の鐘楼部分だ。少し前までは、あの鐘楼の地下で火を吐く黒い犬が、館の名前の由来となった黒水晶を守っていた」 笑いを含んだ彼女の声は、耳に快い。飾り気のない物言い、言い淀むことなどないのではないかと思われる声音。 「随分と詳しいな。レックスを根城にして長いのか」 「さて…長いとも言えるし短いとも言える。ただ、あの館に関して僕が詳しいのは、その黒水晶を館から持ち去ったのが僕と仲間たちだったからだよ」 ![]() 深まりゆく闇に対抗するかのように、彼女は小さく囁いて光霊を呼び出した。光霊が投げかける透明な光の輪の中で、瓶の中の葡萄酒が少しずつ減ってゆく。 不思議な時間だと…そう思った。私の手の中で、馴染みきっているこの月琴も同じことを思っているのかもしれない。いつもよりも音が澄んでいるように思えるのは、錯覚だろうか。 「そういえば、先刻、エル…なんとかと言っていたな。この場所のことを。あれは…?」 「ああ、すまない。エルフ語だよ。Ermitage…共通語の発音に近づけるなら、エルミタージュ」 「意味は?」 「隠者の庵…とでも言うか」 その返事を聞いて、私はあたりを見回した。闇の中、光霊の柔らかな輝きに照らされる500年前の壁。満たす空気は、一夜を外で過ごすにはあまり適さない晩秋の冷たい夜気。だが、その空気は冷たさ故に澄明だ。 「貴女自身が、隠者だと?」 そう尋ねた私に、彼女は笑った。天井すらないこの“庵”では、声は反響しない。すずやかな笑い声を、風霊にさらわれるにまかせて、彼女は髪をかき上げた。 「隠者? 僕がかい? そんな高尚な者ではないよ。そしてそんな愚かな者でもない。僕は穴熊だ。レックスに住みつく穴熊…それ以上でも以下でもない」 「ならば、安心したな」 「安心? 何故だい?」 「先ほどから、ひょっとして貴女は風の精の化身ではないかと思っていたからな」 「ふふ…それは光栄だね。さすがに詩人だ。口がうまいじゃないか」 「口べたで無愛想だと言われたことなら数え切れないが、口がうまいと言われたことはあまりないな。…それに、詩的だというなら、この廃墟を“隠者の庵”と名付ける貴女のほうが十分に詩的だ」 「僕が名付けたのではないよ。……昔の知り合いだ。もういないけれどね」 微笑んだその後に、ふっと真顔になる。いや、真顔…というのは適さないかもしれない。何かを思い出すような、忘れるような。この世ならぬものを見つめる顔だ。壁につけた背も、座り込んだ腰も、体を支えるように床に伸ばされた手も、晩秋の夜気に冷え切っているだろうに、それすらも感じていないかのような表情だ。彼女の顔の右半分を、光霊が遠慮がちに照らしている。 「まぁ、昔の話さ。見ての通りの半妖だ。昔の話が1つや2つあったところで驚かないだろう?」 一瞬前までの表情を綺麗に消して、柔らかく微笑みながら、彼女は指で髪を梳いた。今まで髪に隠れていた右耳があらわになる。ふと、そこに違和感を覚えた。 「……その耳は?」 「ああ、これかい? これも昔の話だよ。……そうだ、名乗っていなかったね。僕は“片耳”と呼ばれている。由来は言わなくてもわかるだろう?」 葡萄酒の最後の一滴を飲み干して、彼女は立ち上がった。 「さて……さすがに冷えてきたね。宿は“壁”の内側かい? ならば、夜を過ごすのにここよりも幾らかましな酒場を知っている」 “壁”の外にも、治安や上品さを求めないならば、酒場も宿も幾らでもある。1人でそれを探すことを億劫だと思うほど、私も“隠者”ではない。だが、彼女についていくのも面白そうだと思った。 「天井と壁があるなら、どこでもいい。ああ、私も名乗っておこう。ケルツという。オランの街なかにいることが多い。放浪癖がおさまっているうちは、の話だが」 「では行こうか、ケルツ。他の歌も聴いてみたい」 歩き始めた彼女を追うように、私も立ち上がって歩き始めた。光霊は彼女の招きに応じて、今は彼女の手元に移動している。 ふと、振り返ってみた。 糸のように細い月が投げかける光は、その月の形同様、銀糸のように細く頼りないものでしかない。闇を照らすのにふさわしい光ではない。今まで私たちが座っていた場所には、銀糸のような月光は届かず、ただ闇に沈んでいた。だが…ひょっとすると、月が満ちたとしても光はあの場所へは届かないのかもしれない。 主のいない“隠者の庵”は、陽光はもちろん、月光さえも頑なに拒んでいるように見えた。 「ケルツ。……闇に喰われたいというなら、止めはしないよ?」 その身に光と風をまとう、“隠者”ではない、庵の主が私を呼んだ。 |