赫い月に魅入られて……

晴れた午後、紅茶の美味しい喫茶店にいつもの仲間が集まった。私も、
私の縁もゆかりも無い妹(以下:<妹>)もその中に居た。

仲間と語らううちに今日は月蝕だという話になった。そのまま話の流れで、
月を見に神奈川県の北の方にある、宮が瀬の湖畔のカフェバーまで行こうと
言う話になった。何故か<妹>の他には誰もついては来なかったが。

道中美しい満月を見ながら(湖に写る月の美しさと言ったら! )、店に着いた。
湖畔といってもダム湖なので水辺と言うわけではない。湖を取り巻く道路に
面してこぢんまりとその店は佇んでいる。幸いにも客は少なく、月を見るのに
手頃なテーブルにつくことができた。食事をオーダーし、月の欠けるのを待つ。

ほどなく月が欠け始めた。ふと、圏外になっている自分の携帯電話を<妹>が
恨めしそうに見ているのに気付いた。苦笑しながらも私の電話を貸してやる。

嬉しそうに彼氏に電話を掛けて楽しそうに様子を話す<妹>を見ていて、私も
誰かに月蝕を教えたい衝動に駆られた。<妹>から携帯電話を取り戻すと
前に一度だけ、一緒にお酒を飲みにいった女性に電話を掛けていた。

残念ながら彼女は電話に出なかったけれど、できれば月蝕が終わらない中に
聞いてくれることを期待して留守電に吹き込む。<妹>はがっかりしている私に
気が付かない振りをしてくれていた。


月の蝕まれていく様子は店の中から食事をしていてもよく見えた。
その姿はまさしく月が病魔に冒されていくような、そんな妖しさがあった。
双眼鏡で見ると地球の影が月面に落ちていると言うことには合点が行く。
だが、その輪郭が綺麗な円弧ではなくて、歪んで見えることが不思議だった。

そうこうするうちに食事も終わり、後数分ほどで皆既になるという頃には
店内から見るには月が昇り過ぎていた。そこで、店員に断って店の駐車場に
移動する。偶々22時になったからなのか気を利かせてくれたのか、定かでは
ないが駐車場の照明を落としてくれる。店の明かりは私の車の陰に入れば
全く気にならない。

暗さに慣れてきた目に僅かに残っていた光も穏やかな闇の中に吸い込まれて
消えていき、そして静寂の中、眩かった月に取って代わって赫い月が現れた。


思わず感動して、<妹>と顔を見合わせた。我知らず、涙が流れていたのかも
知れない。それほどに感動していた。傍らにいる女性を抱き締めたくなって、
人の温かさを感じたくなって、それでもそれが誰かに気付いて、手を止めた……

半ば魅入られた様に赫い月を見ていた私の耳に、話し声が遠くから聞こえる。
店員が表に出てきて我々と同じ月を見ながら誰かに電話していたのだった。

そこにげんちゃりに乗った若者の集団が通過。<妹>と二人で「おまえら、
この素晴らしい光景を見なくてどうする。」と叫ぶ(微笑)。
店員がこちらを見てにやりと笑った、そんな気がした。

「素晴らしい」とはしゃぎ回る<妹>に「でも彼氏と見たかったんじゃない?」
と聞いてしまう。少し淋しそうに微笑んでからそれでも私の心境を察してか、
「いや、連れてきてくれたことを感謝してるよ、兄貴。」と茶化してくれた。


いつまでもそこに居るわけにもいかないし、道が順調なら皆既が終わる頃には
家に着くだろうと、車を出す。

帰り道の途中で、彼氏に電話を掛けた<妹>は家に着いても話し続けている。
月は未だ皆既。未だ暫くは月に光が戻らないことを彼女に告げたら意外にも
直ぐに電話を切る。いつもはこちらにお構いなしに話し続けるのに。

その癖、テンションは上がりっぱなしで取り付く島もありはしない。
その少し前に、ふっと真顔で名前を呼んでしまった私に対する牽制だとは
考え過ぎなのだろうか……

その<妹>に見送られ、私は自分の家へと向かった。途中、抜け道に利用した
人里離れた田舎道に車を止め、半ばうつらうつらしながら光を取り戻す月を
飽きることなく眺めていた。
なんだか寂しい気がしていたけれど、不思議と悲しくはなかった。

・作者から一言('00/11)

実はこの話、実話なんです。勿論心理描写などは創作ですが。
だから場所に関しても情景に関しても、ほぼ実際の通りです。

月蝕を見に行った日の印象と、ラストシーンを絵にしたくて
書いたんですが、果たして私の文章で絵が浮かぶでしょうか……

私のサイトで先行公開をしていましたが、成瀬さんに素敵な
壁紙を探していただいたので、これで安心して削除できます♪


・追加('01/09)

残念ながら成瀬さんの「蒼の館」は休館になりましたので、
こちらで掲載。雰囲気を残すために壁紙を引き継ぎました。
そのついでにちょっとだけ修正。ほんの二、三の言葉だけ。


・更に追加('02/02)

レイアウト及び、タグをちょっとだけ整理。ついでにリンクも整備。