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							| 妹の気持ち 
 
 笙子が蔦子さまの異変に気づいたのは昨日のことだった。蔦子さまはそれについて何も言わないし、普段と特に態度が変わっているというようなこともない。だから、笙子はどう言いだしたものかわからず、何も聞けなかった。蔦子さまは撮影で校内のあちこちに、時には人知れず、時には堂々と出没するけれど、蔦子さまを見かけた人たちの中にはその異変に気づいている人もいるようだった。その中の一人が、今笙子の前に座っている。
 「笙子ちゃん、何か聞いてる?蔦子さんのこと」
 「いえ、何も」
 「そう」
 真美さまはちょっと困ったような顔をするけれど、
 「蔦子さんのプライベートなことって言えばそうなんだけど」
 真美さまは右の肘を太ももについて頬杖をつく。
 「わたしや笙子ちゃんには何か一言あってもいいと思わない?」
 「いえ、それは、蔦子さまにも何かお考えが」
 「本当にそう思う?」
 「・・・はい?」
 「だから本当はどう感じたか、って聞いてるのよね」
 「本当、ですか」
 「そう。ほんと」
 今度は笙子が困る番だ。写真部の部室の窓に目をやるけれど、カーテンが閉められていて外が見えない。
 「本当は、ですね」
 「うん」
 笙子は真美さまの目を見ないで話す。
 「ちょっと教えて欲しい、というのはあります」
 真美さまは背を反らせて、
 「やっぱりそう思うわよねぇ」
 「・・・はい」
 「わたしもそう思うもの」
 そう言ったきり、真美さまは黙り込んでしまう。真美さまは例によって原稿に煮詰まったので気分転換に写真部に来たのだが、今日は蔦子さまの件もあって勢いが違っていた。でも、蔦子さまは放課後の今、まだ姿を現していない。
 ポツリと、真美さまがつぶやく。
 「あれ、ロザリオ、よね」
 笙子が真美さまを見ると、今度は真美さまがどこか遠くを見ているが、視線の先には暗室のドアしかない。
 「銀色の鎖が、襟元からちょっと見えただけです」
 「あれがロザリオじゃないと?」
 「いえ・・・多分ロザリオだと思いますが、十字架を見た訳ではないので」
 「まあ確かにそうなんだけどね」
 真美さまはそのどこかを見つめたまま、
 「たとえば、昨日テレビで何見た、とかね、いつものとおり雑談はするのよ、蔦子さん。でもね」
 真美さまは笙子の顔を見る。
 「ロザリオの話は出てこなかった」
 「おかしいですよね。もらったならもらったと、一言くらいあってもいいですよね」
 「そうでしょう?」
 「そうですよ」
 真美さまが少し笑む。どうしてこのタイミングで笑うのか、笙子にはわからない。
 「蔦子さんの一番近くにいるのって、最近では笙子ちゃんでしょう?」
 「えっ?」
 「そうじゃないの?」
 「まっ真美さまだってクラスメイトですから近くなのでは?」
 「近く、にもいろいろあってね」
 また真美さまが微笑む。
 「でもそのことは話してくれない、と」
 「そうです・・・けど」
 「うん。だいたい判った」
 真美さまはどこからかメモ帳を取り出して、書き込むように手を動かすけれど、その手にはいつものシャープペンシルがない。
 「笙子ちゃんは、蔦子さんのことがちょっと気に入らない」
 「真美さま?」
 真美さまの手のひらは、ペンを持っているように指が曲げられているけれど、何も持たないままメモ帳の上を書き進んでいく。
 「それは、蔦子さんにスールができたっぽいのに何も言ってくれないから」
 「あの」
 「笙子ちゃんは、もし蔦子さんにスールができるなら自分が一番最初だと思っていたから」
 「真美さま?」
 真美さまはわざとらしく笙子を無視して手にしたメモを見ながら、見えないペンで書き込みながら読み上げる。
 「最近ずっと一緒だったのに、蔦子さんに近づけたと思ってたのに、肝心なこと、姉妹のことを話してくれないのかショックだった」
 それを聞いたとたん、笙子は真美さまの顔を見たまま動けなくなった。
 「まあ、こんなとこかしら、ね」
 真美さまはメモから目を上げて笙子を見て微笑む。
 「無理もないと思うけど、自意識過剰、かもしれないわよ」
 笙子は右の手のひらを握って、開く。大丈夫。ちゃんと動く。
 「真美さまだって不自然だって言ってたじゃないですか」
 「ああ、あれはちょっと言ってみただけ」
 笙子はまた動けなくなった。真美さまはそう言って立ち上がると、両手を笙子に差し出してみせる。何も書かれていないメモ帳と、何も持っていない開いた手のひら。
 「記録はしてないから」
 部室のドアノブに手をかけた真美さまは振り返っていたずらっぽく笑い、
 「面白い話が聞けて楽しかったわ。じゃあまたね、笙子ちゃん」
 と言って出て行ってしまった。ドアが勝手に閉まり、笙子はいつの間にか胸に手を当てている自分に気づく。「自意識過剰」。「ちょっと言ってみただけ」。真美さまの言葉が胸に響いている。心の壁に角度を変えて何度も反射しているように。笙子は胸から手を放し、手のひらを見る。そして真美さまの手のひらを思い出してみる。そのとき、笙子は気づいた。
 やられた。
 適当に調子を合わせただけの真美さまにいいようにしゃべらされてしまった。笙子は立ち上がって真美さまを追いかけようとしたが、白紙のメモ帳がフラッシュバックする。
 「真美さま・・・」
 蔦子さまの首に光るクロームの鎖にやりきれない思いを抱いていたけれど、具体的に言葉にしてみると、どうすればいいのかわかるような気がする。そうよ。聞いてみればいいのよ。それはなんですか、って。別に難しいことじゃない。そして笙子はもうひとつ気づいた。真美さまは新聞部で、言葉に関しては専門家だったんだっけ。もしかしたら、蔦子さまの首の鎖を見て、笙子の様子を見に来てくれたのかもしれない。それでやりきれない思いを言葉にすることで、気持ちが楽になるようにしてくれたのかもしれない。
 「ふう」
 笙子は深呼吸すると椅子に座り、蔦子さまの顔を思い浮かべてみる。そしてさっきまでここにいた真美さまの顔も。蔦子さまが只者じゃないことは良くわかっているけれど、真美さまもやっぱり只者じゃない、と思う。でもあの真美さまの笑みにはきっと、面白がってる成分がかなり含まれているんでしょうねぇ。
 
 
 
 「今日笙子ちゃんに会った?」
 「会ったわよ。朝」
 昼休み、クラブハウスに向かう廊下で、蔦子さんはそっけなく答える。
 「何か言ってた?笙子ちゃん?」
 「別に」
 「フォローしてあげたら?」
 「笙子ちゃんとは関係ない話よ」
 真美の問いかけに蔦子さんはにべもない。
 「まあ別に無理にとは言わないけど」
 蔦子さんは何も言わない。そのまま二人でしばらく歩く。
 「笙子ちゃんが見かけほどおとなしくないのは、蔦子さんのほうが良く知ってると思うんだけど?」
 真美の突然の問いかけに、蔦子さんは立ち止まる。
 「真美さん?」
 眼鏡のレンズごしに見る蔦子さんの瞳には、少し苛立ちのようなのが見て取れる。
 「わたしには姉も妹もいるから、蔦子さんの今の気持ち、わからなくもないのよ」
 蔦子さんは大きく息を吐くと肩を落として下を向き、そして顔を上げると真美の頭の上に右の手のひらを乗せる。
 「何?」
 「動かないで」
 蔦子さんは今度は向かい合って立つ真美の両肩に両方の手を乗せる。そのすぐ後、蔦子さんはしゃがんで真美の腰骨の辺りに左右の手をあて、一度だけちょっと力を入れると手を放し、立ち上がる。
 「後ろ向いて、真美さん」
 「なんなの?セクハラ?」
 「いいから」
 蔦子さんは妙に真面目な表情で、さっきの苛立ちはもうどこかへ去ってしまったようだ。真美はその場で180度向きを変え、背中を蔦子さんに向ける。
 「スカートめくったりしないでよ」
 「それは思いつかなかったわ」
 その言葉が終わるか終わらないうちに、蔦子さんが後ろから抱き付いてきた。
 「蔦子さん!」
 「そのまま、ね」
 真美より少し背の高い蔦子さんの腕が、肩の上辺りから前に回されている。蔦子さんは腕だけでなく、体全体を真美にぴったりとつけ、体重を預けるように抱きついている。新聞部の一年生が廊下を歩いてくるのが真美の目に入る。が、真美は振り払うのも悪いような気がしてそのまま立っている。
 「蔦子さん」
 真美が声をかけても耳元でかすかに息が聞こえるだけで、蔦子さんは真美に抱きついたまま何も答えない。一年生が真美の前で立ち止まる。
 「ごきげんよう真美さま」
 「ごごごきげんよう」
 「どうなさったのですか?」
 「ああうん、蔦子さんがね、ちょっとね、ちょっと疲れてるみたいなのよ」
 「大丈夫、なんでしょうか?」
 「いまちょっと休ませてるところだから平気。部室に行くの?」
 「はい」
 「大丈夫だから、先に行ってて」
 「はあ・・・」
 「大丈夫だから」
 「わかりました。それでは」
 「ごきげんよう」
 真美が無理やり笑顔を作ると、その一年生は後ろ髪を引かれるようにこちらを何度か振り返りつつ離れていった。
 「蔦子さん」
 返事がない。
 「蔦子さん、もうそろそろいい?」
 「ぷはー」
 蔦子さんは息を吐くと真美から離れる。
 「どうしたのよ」
 「ううん。なんでもない」
 と言って歩き出す蔦子さんからはさっきまでの陰がうそのようになくなっている。
 「何かした?」
 「何も」
 笑ってる。蔦子さんは笑っている。真美は並んで歩き蔦子さんの顔を見るが、なぜか蔦子さんはこちらを向かず、目を合わさない。
 「ねえ蔦子さん、変よ。なんなの?」
 「だから、なんでもないって」
 「なんでもないわけないでしょう」
 「ふふふ」
 蔦子さんは今にも歌いだしそうな勢いで、軽やかに歩いている。
 「ねえ蔦子さん」
 「なに?」
 「さっき、わたしで練習したでしょ?」
 「練習?」
 「そうよ」
 「違うわ。わたしはただ、心配性な真美さんが好きなだけ」
 「うそよ。絶対練習したでしょ」
 「ふふ」
 蔦子さんが吹っ切れたみたいなので、これはこれでよしと思う真美だが、うまく利用されたような気がしてなぜだか納得がいかない。
 「蔦子さん、これは「貸し」よ」
 蔦子さんは真美の目を見て微笑む。前髪が揺れ、レンズの縁が鈍く光る。そのレンズの向こうの黒い瞳は、いつもの冷静さを取り戻している。
 「ちゃんと返すわ」
 「やっぱりそうなんじゃない。で、本番はいつなの?」
 「教えてあげない」
 
 
 
 一緒にお弁当を食べている間、蔦子さまはいつもと同じと言うよりは、いつもより明るいように見えたのだが、結局笙子は昼休みの間は言い出せなかった。そして放課後、笙子は撮影に出る予定を変更して、写真部の部室で蔦子さまを待った。部室の窓を見ると、昨日真美さまと話したいろいろなことが思い出される。クロームの鎖。白紙のメモ帳。存在しないペン。あのときの真美さまの言葉は、魔法のようだった。
 「ごきげんよう」
 不意に聞きなれない声とともにドアが開く。笙子は驚いてしまい、声を上げそうになる。声の主はゆっくりと部室に入ってきて、人懐こい顔で笑う。
 「部長!」
 「部長じゃなくて、薫さま。お久しぶり、笙子ちゃん」
 この人は写真部の部長で、名を「菫川薫(すみれがわ かおる)」という。無粋、という理由で「部長」と肩書きで呼ばれることを嫌っていて、必ず名前で呼ばせるのと、めったに顔を出さないのが特徴の人。写真の腕に関しては確かな人で、蔦子さまもこの人には頭が上がらない。
 「ごきげんよう、薫さま」
 もっと早く気づくべきだった。蔦子さまにロザリオを渡すのは、蔦子さまがロザリオを受け取るのは、この人しかいない。何事もなかったかのような蔦子さまの不自然な態度ばかりを気にして、全然周りが見えていなかった。薫さまは以前蔦子さまにロザリオを渡そうとしたのだが、蔦子さまが断ったのだ。それは、一部では有名な話だった。
 「笙子ちゃん、写真、楽しい?」
 「はい」
 「蔦子ちゃんがつきっきりっていう話だもんねぇ」
 薫さまは屈託なく笑う。
 「ええ、おかげさまで、ずいぶん上達しましたよ」
 今の言い方には、少し棘があったかもしれない。でもそれは、蔦子さまが本当のことを言ってくれないからであって、笙子は別に薫さまに嫉妬しているわけではない。と思う。・・・多分。
 「蔦子ちゃんがね、笙子ちゃんには教えがいがあるって言ってたわ。飲み込みが速いし、なによりセンスがあるって」
 薫さまはちっとも痛くないらしい。
 「薫さま、今日はどうしてこちらに?」
 「蔦子ちゃんの様子を見に来たのよ」
 大学も決まり、卒業を間近に控えた薫さまはもう自由登校になっているはずだ。それにロザリオを渡して妹にしたのに、様子を見るというのは少し変なのでは、と笙子は思うけれど、
 「笙子ちゃんは?撮影とか暗室作業のようには見えないけど?」
 「私も蔦子さまにお話があるんです」
 「ふーん。じゃわたしたちは同志なわけだ」
 薫さまは楽しそうに笑みを浮かべる。
 「一致協力して攻略してみようじゃないの」
 そう言って薫さまは右手を差し出す。
 「ねぇ」
 少しかしげた首の後ろを細く柔らかい髪が揺れる。細められた目の奥の瞳がとても優しい。
 どうも薫さまと一緒にいると調子が狂う。薫さまのペースに巻き込まれてしまう。確かさっきまで嫉妬を感じていたはずなのに、笙子は
 「こちらこそ、よろしくお願いします」
 と言って右手を差し出し、薫さまと握手している自分に気づく。薫さまは、よしよし、という感じにつないだ手を上下に振る。つないだ手から見上げていくと、そこには薫さまのとても綺麗な笑顔。
 二人が手を離すと部室のドアが開き、
 「ごきげんよう」
 入ってきたのは蔦子さま。
 「部長!」
 「部長じゃなくて、薫さま。ごきげんよう蔦子ちゃん」
 「薫さま、明日のはずでは・・・」
 「ちょっと様子見に来てみたのよ。笙子ちゃんもいるし、ちょうどいいんじゃない?」
 「しょ笙子ちゃんは今日は撮影じゃなかったっけ?」
 「ちょっと蔦子さまとお話したいことがありまして、予定変更です」
 「そ、そう」
 蔦子さまは笙子が座っているテーブルまで歩いてくるけれど、やっぱり挙動が不審だ。笙子の前ではほぼ完璧に何もなかったかのようだったが、さすがの蔦子さまも薫さまの前ではそうもいかないらしい。蔦子さまはテーブルに荷物を置くと、笙子と薫さまのちょうど中間あたりの暗室のドアに寄りかかる。と、薫さまは、
 「じゃ、わたしから。決まった?蔦子ちゃん?」
 「そ、それはまだなんとも」
 「明日までだよ?」
 「そのことも、ちょっと」
 「どうして?最低三日って言ってたじゃない」
 「いえやはり、三日では、なんとも」
 「じゃ何日ならいいの?」
 「それは・・・」
 薫さまは腕組みして上半身を蔦子さまに向けなおす。声の調子は柔らかく、問い詰めているような感じではない。強いて言えば、楽しみつつもあきれている、といったところか。
 「あと二週間もしたら、私は卒業しちゃうのよ?」
 笙子は薫さまと蔦子さまのやり取りが飲み込めない。薫さまは、もう蔦子さまにロザリオを渡したはずだ。姉妹の契りは終わったはずなのに、どうしてこんな話をしなければならないのだろう。
 「話すわよ」
 「え?」
 薫さまは笑んだまま、
 「全部笙子ちゃんに話すわよ。今ここで」
 「そっそれはちょっと部長」
 「部長じゃなくて、薫さま」
 「薫さま、それはご勘弁を」
 薫さまは立ち上がり、蔦子さまのほうに一歩進み出ると右手の人差し指を蔦子さまの額に当てる。蔦子さまの頭はその指に押されて、暗室のドアに押し付けられる。
 「つーたーこちゃん」
 「はい」
 前かがみになった薫さまは、指を当てたまま顔を蔦子さまの顔に近づける。
 「どうしよっか?」
 薫さまは最高に優しい笑顔を浮かべているんだけれど。
 「・・・わかりました」
 「どうわかったの?」
 「明日、明日お答えします」
 「よろしい」
 薫さまは上半身を起こして、両手を腰に当てる。
 「期待してるからね」
 「はあ」
 「はあじゃないでしょ。もともと蔦子ちゃんが言い出したんじゃない」
 蔦子さまは肩を落として、
 「それはそうですが」
 蔦子さまが笙子に何か隠し事をしていることははっきりしたが、それがなんなのか笙子には見当もつかない。薫さまは椅子に戻るとテーブルに肘を置いて頬杖になる。
 「私の話はおしまい。笙子ちゃん、次どうぞ」
 「はっ?!」
 突然話を振られて笙子は驚いてしまう。
 「話があるんでしょ?」
 「そっそうでした」
 「蔦子ちゃんもこっちに来て座りなさいよ」
 蔦子さまは薫さまに促されるまま、笙子と薫さまの間の椅子に座る。
 「じゃ笙子ちゃん、どうぞ」
 そう言われても、今のやり取りを聞かされた後では、何を話したらいいのかわからない。薫さまが来るまではいろいろ考えていたけれど、今となってはそういうことは意味がなくなってしまった。
 「わたしがいると言いにくい?」
 「いえ、そういうわけでは」
 「そうよねぇ、やっぱり」
 と言うと薫さまは立ち上がり、自分のかばんを持ち上げる。
 「じゃわたしはこのへんで。蔦子ちゃん、しっかりね」
 「薫さま」
 「ごきげんよう。また明日ね!」
 そう言って薫さまは部室を出て行ってしまった。微妙な空気が漂う中、蔦子さまと笙子が部室に残される。
 ふと蔦子さまを見ると、机の上に転がっているフィルムのケースを見ているようで、こちらを見ない。こんなふうに二人きりで気恥ずかしくなるときは、今までも何度かあった。笙子が声を出そうとしたとき、蔦子さまが顔を上げる。
 「笙子ちゃん」
 「蔦子さま」
 二つの声が重なる。蔦子さまと目が合う。蔦子さまは微笑むけれど、下を向いてしまう。蔦子さまの隠し事は、薫さまからロザリオをもらったことではない。それ以外の何か、笙子に直接関係のある何かであることに違いない。蔦子さまはまた顔を上げて、こちらを見る。
 「ええと、話したいことがあるんじゃなかったっけ?」
 こんなに紅潮した蔦子さまの顔を見るのは初めてだ。笙子はつられるように耳が熱くなるのを感じる。
 「いえ、薫さまのお話を聞いていたら、話すことがなくなってしまいました」
 「そう」
 そしてまた二人は無言になってしまう。決して重い空気じゃない。そうじゃないんだけれど、ただ静かに時間が流れるだけで。なんだか恥ずかしいような気がするだけで。自分は何かを期待しているのだろうか?
 「あのう、笙子ちゃん」
 「はっはい」
 声が裏返っちゃった。
 「お願いがあるんだけど」
 蔦子さまはこちらを見ずに、机のどこかを見ながら言った。
 「いっいいですよ、何でも」
 蔦子さまはこちらを見て笑う。とてもやさしい微笑み。その微笑を見た笙子は、恥ずかしくなって下を向いてしまう。
 「まだ何も言ってないわ」
 「そ、そうですね」
 「あのね、笙子ちゃん」
 心臓が破裂してしまいそうだ。
 「私の後ろに立ってくれる?」
 「へ?」
 「変かな?」
 「へっ変じゃありませんよ」
 「じゃ、ちょっと」
 「はい」
 部室の椅子には背もたれがないし、蔦子さまが深く座りなおすので、後ろに立つと体が触れてしまいそうだ。
 「もっと、近く」
 「こうですか?」
 笙子は半歩前に出て、座っている蔦子さまのすぐ後ろに立つ。両腕を前にまわしていたので、手の甲が蔦子さまの背中に触れる。蔦子さまは座ったまま振り返ると笙子の右手をとった。
 「こうして、ね」
 蔦子さまは笙子の右腕を蔦子さまの肩の上から体の前に回す。
 「あの」
 蔦子さまは反対を向いて、笙子の左手を同じように肩の上から体の前に回し、蔦子さまの胸の前で笙子の左右の手を組ませる。
 「こうするの」
 「蔦子さま」
 「もう一つお願いがあるんだけど」
 「はっはいわかりました」
 「まだ何も言ってないわよ」
 「そっそうですねっ」
 「あのね」
 「はい」
 「変かな」
 「変じゃないです」
 「ごめん、まだ何も言ってなかった」
 「全然平気です」
 もう何がなんだかよくわかんない。
 「抱きしめて、くれる、かな?」
 「はいっ?」
 「い嫌なら別にいいのよ」
 「そんなことは」
 「そう」
 今蔦子さまに「抱きしめてくれ」と言われたような気がする。どうすればいいんだろう。とりあえず笙子は、蔦子さまの肩越しに前に回した腕を引き寄せる。腕全体が蔦子さまの体に触れる。
 「うん」
 蔦子さまがそうつぶやくのを聞いた笙子は、思い切って腕に力を入れた。
 「っがっ!」
 今なんか変な声が聞こえたような気がするけど。
 「ちょっ、笙子ちゃん、苦しい」
 「はっ?」
 「くっ首」
 そう言われて笙子は我に返り、蔦子さまのあごの下にがっちり食い込んでいた腕を開いた。
 「すっすみません蔦子さま」
 「ちょっとびっくりしたけど」
 笙子は座っている蔦子さまの後ろに立ち、後ろから腕を回しているのだから、かがまずに立ったまま腕だけ絞めれば蔦子さまの首が絞まってしまうのは当然のことなのだった。
 笙子はどうしたらいいか判らず、そのまま無言で立ち尽くすばかり。蔦子さまは座ったまま、何も言わない。どうしよう。
 「ふふ」
 蔦子さまの笑う声が聞こえてくる。
 「あのう、蔦子さま、怒っているのでは?」
 「怒ってるわけないじゃない」
 そう言って蔦子さまは体をひねって笙子のほうを見る。
 「なんだかね、わたしたちらしいな、ってね、そう思ったの」
 「わたしたち、らしい、ですか?」
 「何と言うか、今の笙子ちゃんの様子がね、ここ二、三日のわたしと同じだなって思ったのよ」
 体を前に向けなおすと、蔦子さまは両手を上に挙げて伸びをする。蔦子さまは前を向いたまま、つぶやくように、
 「何が問題か、わかった」
 「あのう、蔦子さま」
 蔦子さまは立ち上がって振り返る。
 「なあに?」
 「わたしには、全然わかりません」
 蔦子さまは笑って、
 「大丈夫。笙子ちゃんはもうわかってる。問題は、わたしの中にあるの。でもそれは、たぶんもう終わり」
 そう言って蔦子さまは笙子の頭に手のひらを乗せる。
 「だから、不安になることはないのよ」
 蔦子さまは手を戻すと、テーブルに置いたかばんを持ち上げる。
 「今日はこれで帰るわ。また明日ね」
 笙子の目の前に立った蔦子さまは両手を笙子の背に回し、一回だけ力を入れて抱きしめる。
 「笙子ちゃんのおかげよ」
 耳元でささやかれた笙子は、何も言うことができなくて。ただ抱きしめtられて、そこに立っているのがやっとで。
 「ごきげんよう」
 蔦子さまは部室を出て行った。一人残された笙子は、今までこの部室で何があったのか、よく思い出せないでいる。確か、薫さまが来て、蔦子さまと話していたけれど、ロザリオを渡したにしては様子が変だった。そのあと蔦子さまに「抱きしめてくれる?」と言われて、首を絞めてしまったのだけれど、それが蔦子さまにとって何か鍵になったらしい。
 「明日・・・」
 薫さまも蔦子さまも、明日、と言っていた。そう言ったときの二人の表情を思い出すと、少なくとも事態は悪い方向に動いているわけではないことがわかる。結局蔦子さまに直接聞くことはできなかったけれど、明日を待ってみようと笙子は思う。
 
 
 
 蔦子さんに呼び出された真美は、クラブハウスの裏にある銀杏の木まで歩いていくと、蔦子さんのほうに振り返って話し始める。
 「聞こえたわよ、申し訳ないけど」
 「何が?」
 「ガッ!、って」
 蔦子さんが呼び出したんだから蔦子さんが話し始めるのを待つのがスジだとは思うけれど、やっぱり気になるものは気になる。それに、これがなかったら真美は呼び出しを断っていたかもしれない。新聞部の部室は写真部の隣なので、話し声が聞きたくなくても聞こえてしまうことがあるのだ。
 「説明が難しいけど」
 蔦子さんは下を向いている。流れる前髪の向こうに眼鏡のレンズが見える。
 「何やってたの?」
 「だから、説明するのが難しい」
 「転んだとか?ケガはしてないんでしょ?」
 「極めて難しい」
 真美は笑いながらため息をつき、
 「わかったわ。で、用件はなんなの?」
 「つかぬ事をきくんだけど、いい?」
 「内容によるわね」
 蔦子さんは顔をあげて、真美の目を見る。
 「じゃ大丈夫だと思うから聞くね」
 「どうぞ」
 「姉と妹が同時にいるって、どんな感じ?」
 「なにそれ」
 「だから、どんな感じ?二言三言で言うと」
 何を聞いてくるかと思えば。ということは、覚悟した、ってことなんだろうか。にしては、ちょっと飛躍が大きいような気がするけど。蔦子さんの場合、姉妹になった後のことより、なるときのことをまず考えなきゃいけないと思うんだけど。
 「蔦子さん、ロザリオ受け取ったの?」
 「一応」
 「写真部の部長から?」
 「まあそんなところ」
 「ふーん。それで一気に笙子ちゃんも妹にしよう、っていうわけ?」
 「それはまだちょっと先、多分」
 「そうなの?」
 「深い事情があるのよ、これには」
 そうは言うけれど、蔦子さんはあまり深刻なようには見えない。
 「それなら詳しく聞かないけど」
 「質問しているのは、わたし」
 と蔦子さんが言うので、真美は手のひらを蔦子さんの頭に載せる。
 「これは何?」
 「気にしない。で、姉と妹が同時にいるって話だっけ」
 「そう」
 「とは言っても、別にこれといってないなぁ」
 真美は手を戻し、近くの木の幹によりかかる。
 「もう慣れたし」
 「ナチュラルに修羅場になったりしない?」
 蔦子さんの言葉があまりにも意外だったので、真美は声を出して笑ってしまった。
 「真美さん」
 「ごめん。あまりに意表をついてたから」
 「で、どうなの?」
 蔦子さんは一歩真美のほうに歩み寄る。顔は真剣だけど、目はどこか笑っているようだ。妙な余裕が感じられる。
 「お姉さまとのお付き合いのほうが長いから、お姉さまの考えてることはよくわかるけど、日出実も新鮮でかわいいわねぇ。まあ確かに、わたしを挟んで妙な雰囲気になることはあるけど。上級生だからお姉さまの発言力は強いけど、変なこと言い出したらやめさせるし、日出実は下級生だけどいいこと言ったらちゃんと拾ってあげる」
 真美は蔦子さんの目を見るが、言葉をはさむでもなく真剣に聞いているようで、いつもの蔦子さんとは少し違うような気がする。だから真美はこのまま続けることにした。
 「お姉さまとはやっぱり特別な感情があるわ。強い信頼関係とか、思い入れみたいなね。でもね、日出実もね、わたしのことを頼ってくれるし、それには応えていきたいと思うの。日出実とは現在進行中だから、今後どうなっていくか自分でも楽しみにしているのよ」
 蔦子さんは表情を変えず、
 「こんなに示唆に富んだおのろけを聞いたのは初めてだわ」
 棒読みの蔦子さんがやっぱり面白いので、真美はまた笑ってしまう。
 「真美さん!」
 「あはは。別におのろけじゃないって。日常よ。普通の」
 「そういうもの?」
 「そういうものよ」
 蔦子さんの顔にいまいち腑に落ちない、というような表情が流れる。でも真美はあることに気づいた。
 「示唆に富む、ってのは重要よね」
 「どうして?」
 「一週間前の蔦子さんだったら、今の話はただのおのろけ、だけのはずでしょ。それ以上関心持たないでしょ」
 蔦子さんは何も言わない。
 「示唆に富む、って言うんだから、他人事じゃなくて、当事者になっているんでしょ。おのろけのね」
 蔦子さんは何も気がつかないフリをしているけれど、今のでとどめを刺されたと思う。多分。
 「蔦子さん」
 「何?」
 「おめでとう」
 「何が?」
 「こっちの世界にようこそ」
 「だから、何が?」
 と言う蔦子さんだけど、蔦子さんの頬が、口元がゆっくり緩んで笑みに変わっていく。真美は追い討ちをかけることにした。
 「この幸せ者め」
 照れ笑いを隠し切れなくなった蔦子さんは下を向き、そして振り返って後ろを向いてしまう。真美は蔦子さんがなぜ今になって写真部の部長からロザリオを受け取ったのか、どうしてすぐに笙子ちゃんを妹にしないのか、詳しい事情はわからない。もし聞いたとしても蔦子さんは教えてくれないだろう。それでも、真美は蔦子さんの決断がうれしかった。写真部でけなげな笙子ちゃんを見るたびに、少し胸が苦しくなることがあったから。もちろん、蔦子さんには蔦子さんの考えがある、ということはわかっているんだけれど。
 「お祝いに、いちご牛乳おごってあげる。行こ」
 真美は蔦子さんの手を荒っぽくつかむ。
 「ちょっと、真美さん」
 「もう帰るつもりだったんだからいいでしょ?付き合ってよ」
 ミルクホールに向かって歩き始める真美に、蔦子さんは手を引かれてついてくる。付き合ってくれるらしい。引っ張られて後ろを歩いていた蔦子さんが、追いついて真美の横に並んで歩く。
 「貸しじゃなくて、おごってくれるの?」
 「お祝いだから。でもこの前の貸し一つは、まだ時効じゃないからね」
 「ちゃんと憶えてるんだ」
 「あたりまえよ」
 蔦子さんの顔を見ると、さっきの照れ笑いは消えていて、やわらかな微笑みに変わっている。少し伸びた後ろ髪が揺れている。蔦子さんはこちらを見て、
 「真美さん」
 そう言って蔦子さんの目は一瞬下を見たが、すぐまた真美の目を見る。蔦子さんは穏やかな声で言った。
 「ありがとう」
 
 
 
 確かに言い出したのは蔦子なのだが、どうしてこんなことをやる気になったのだろう。追い詰められたから、という気もしないではないが、嫌々やっているわけでもないので追い詰められた、と言うのは適切ではないだろう。むしろ、機が熟した、とでも言うべきか。出会いが人を変える、ということや、人はいつも変わっていて、一年前の自分の何パーセントが今の自分に残っているのか、などと言うようなことはよく聞くし、部長もとい薫さまもそんなことを言っていた。姉妹を持つことで自分の芸術性に影響が出ると言うのも、今考えると思い上がりのように感じられないこともない。姉妹を持ってみないとわからないことがあるのではないか、と考え付いたときから、全てが始まっているのだ。それで薫さまに失礼なお願いをしたわけだが、薫さまはいやな顔一つせずに受け入れてくれた。
 蔦子は放課後の部室のドアノブに手をかける。かすかに話し声が聞こえる。笙子ちゃんとは今朝も昼休みも会ったが、別に変わったところはなかった。薫さまからもらったロザリオのことはあえて伏せていたが、おそらく笙子ちゃんは気づいていて、その上で話題に出さないのだろう。
 「ごきげんよう」
 ドアを開けると、人影が二つ。部長と笙子ちゃんだ。二人は何か話しこんでいた様子だったが、蔦子がドアを開けるのに気づくと、
 「蔦子ちゃん、待ってたよ」
 「ごきげんよう蔦子さま」
 二人の声は明るい。蔦子はテーブルまで歩いていき、かばんを置いて薫さまの隣に座る。さっそく薫さまから声がかかる。
 「蔦子ちゃん、答えは用意してきたの?」
 「ええ、まあ」
 「じゃあ早速聞かせてもらおうかしら」
 ふと笙子ちゃんを見ると、明るい笑顔を浮かべている。昨日心配は不要と言ってはあるけれど、笙子ちゃんの前では少し問題があるような気がする。しかし、出て行って、というわけにも行かない。蔦子は今日三度目の覚悟を決めた。蔦子は一回深呼吸してから、
 「お受けします」
 「って、それで終わりなの?」
 「は?」
 「蔦子ちゃんには風情がないのよ」
 「いえですから答えを」
 「そうじゃなくて、これは姉妹の契りなのよ。儀式なのよ。そんなにそっけなくていい訳がないじゃない。やり直し。まったくいきなり言うんだから」
 そう言うと部長は立ち上がり、蔦子の手をつかむ。そして蔦子を立たせ、部室の真ん中あたりまで連れて行く。部長は振り向いて、蔦子と向かい合って立つ。
 「ロザリオ見せてくれる?」
 蔦子は襟元からロザリオを取り出す。一昨日部長からもらったロザリオだ。銀色の十字架がクロームの輝きを放ち、はめ込まれた青く透明な石が空のように光る。部長は蔦子の手をとって蔦子の手ごとロザリオを引き寄せ、半歩前に出る。蔦子の手と、部長の手に包まれたロザリオが、ちょうど二人の中央にある。部長が息を吸った。
 「蔦子ちゃん」
 蔦子は思わず目をそらし、笙子ちゃんの方を見てしまう。笙子ちゃんは満面の笑みを浮かべて、座って二人を見ている。笙子ちゃんは少し動揺するのではと思っていたが、この落ち着きようはどうだろう。
 「よそ見しない」
 「すっすみません部長」
 「部長じゃなくて薫さま」
 「薫さま、笙子ちゃんに何か話しましたか?」
 「それはメインイベントだからちゃんととってあるわよ。さあ蔦子ちゃん、私の目を見て」
 言われるままに視線を戻すと、そこには黒くて、深くて、優しい薫さまの瞳。こうして瞳を見て、初めて薫さまの本当の優しさが、蔦子に実感として伝わる。全身を包み込んでくれるような、深くて広い優しさ。蔦子はロザリオを受ける、と言い出した自分の動機の拙さを思い知らされる。
 「すみません、薫さま」
 「どうしたの?何を謝る必要があるの?」
 「わたし」
 「いいって。気にしない。動機は何でもいいのよ。蔦子ちゃんがその気になってくれれば。絆を表現する方法に気づいてくれれば」
 「薫さま」
 「表現しないと、伝わらないからね」
 「薫さま」
 「さて、汝武嶋蔦子は、この菫川薫のロザリオを受けるなりや?」
 蔦子の胸に熱いものが込み上げてくる。
 「・・・はい、お受け、いたします」
 薫さまはロザリオの鎖の輪を広げ、蔦子の首にかける。薫さまの微笑みはとても優しい。そうか。姉妹って、こういうことなんだ。
 「ありがとうございます、薫さま」
 「いいって言ったじゃない」
 薫さまは蔦子をふわりと抱き寄せる。そして一瞬強く抱きしめると、ゆっくりと蔦子から離れる。拍手の音が聞こえてくる。笙子ちゃんがまばらに手をたたいている。薫さまはそのまま笙子ちゃんの隣に座り、
 「次は本日のメインイベントね」
 「薫さま、それは」
 「蔦子ちゃんは、どうしてわたしの妹になろうと思ったか、動機を笙子ちゃんに話さなきゃいけないでしょ」
 蔦子が答えないでいると、
 「そうよねえ、笙子ちゃん」
 「はい」
 「ちょっと、笙子ちゃん、どこまで聞いてるの?」
 「いえ、薫さまからは、心配しなくていい、とだけしか」
 「だから、蔦子ちゃんが自分で言うから意味があるのよ」
 そう言われれば確かにそうだが、笙子ちゃんに面と向かっては、非常に言いにくい。極めて言いにくい。恥ずかしいだけじゃなくて、言う資格が無いような気がする。
 「薫さま」
 「薫さまじゃなくて、お姉さま」
 「お、お姉さま」
 「何かな?」
 「お願いしていいですか?」
 薫さまは笙子ちゃんと顔を見合わせて笑う。
 「やれやれ。これも姉の務めか。いきなりだけどねぇ」
 「お願いします」
 「わかった。じゃ蔦子ちゃんも座ったら?」
 蔦子が薫さまの隣に座る前に、薫さまは話し始めた。
 「簡単に言うとね、笙子ちゃん」
 「はい」
 「蔦子ちゃんは、笙子ちゃんを妹にするに当たって、まずね、妹、がどんなものか知っておきたいと思ったんだって」
 笙子ちゃんの表情が驚きに変わる。
 「そうじゃないと妹の気持ちがわからないからって。それで、手っ取り早い方法は、妹になることだって思い当たって、わたしのところに来たのよ」
 蔦子は下を向いて聞いている。
 「蔦子ちゃん何て言ったと思う?「ロザリオを貸してくれ」って言うのよ。少しの間首にロザリオの重さを感じていれば何かわかるかもしれないって。でもそんなのありえないから、わたしは、妹になるなら、ちゃんと受け取れって言ったのよ。そしたらね、蔦子ちゃんは、三日だけ時間をくださいって言うのよ。結局、蔦子ちゃんはロザリオの重さをわかってない。だから、三日間首に下げたら、その後受け取るか、きちんと返すか、覚悟するなら渡す、これは軽い気持ちじゃない、ということで話を決めたのよ」
 妹の気持ち―――今は蔦子にもそれがよくわかる。薫さまに話してもらってよかった。
 「ということでね笙子ちゃん、蔦子ちゃんはあなたを妹にしたいそうよ。わたしはいいように利用されただけみたい」
 「かっ薫さま、それは」
 「薫さまじゃなくて、お姉さま」
 「お、お姉さま、それは」
 薫さまは怒っても、あきれてもいない。ただ優しく笑っている。
 「わかってるわよ、蔦子ちゃん。大丈夫よ。ちょっと言ってみただけよ。だって悔しいじゃない」
 「お姉さま」
 「大丈夫だって」
 薫さまは蔦子の頭に手を載せ、髪をくしゃくしゃとなでる。
 「さて」
 唐突に薫さまは立ち上がり、かばんを手にとって持ち上げる。
 「今日は無事に蔦子ちゃんを妹にしたことだし、わたしはそろそろ帰るわ」
 そう言って薫さまは部室のドアのほうに歩いていく。
 「蔦子ちゃん、これからわたしのことは、お姉さまって呼ぶのよ」
 「はい、お姉さま」
 「よろしい。笙子ちゃん」
 「はい」
 「蔦子ちゃんって意外と弱いところもあるから、面倒見てやってね、悪いけど」
 「はい!」
 「薫さま!それは!」
 そこで薫さまは腕を伸ばし、人差し指を立て、
 「お姉さま」
 と笑って言うと腕を下ろし、
 「じゃ、蔦子ちゃん、笙子ちゃん、ごきげんよう」
 そう言い残して薫さまは部室を出て行った。薫さまがいなくなるとあたりは妙に静かになり、昨日のように蔦子と笙子ちゃんが部室に残される。蔦子は、この三日間のことを思い返してみる。薫さまの言うように、無茶な思い付きだったが、言い出してよかったと思う。薫さまの妹になってよかったと思う。
 「笙子ちゃん、ごめんね。驚いたでしょう?」
 「いいえ、蔦子さま、いいんです」
 笙子ちゃんはテーブルのどこかを見たまま答える。
 「これから十日ぐらいしかないけど、妹、をやってみるわ。だから、今すぐ、というわけにはいかないけど」
 「・・・いいんです。いつでも、お待ちしています」
 「ありがとう、笙子ちゃん」
 「いえ、こちらこそありがとうございます、蔦子さま」
 少し頬を赤くして笙子ちゃんが微笑む。
 それから二人ともしばらく無言だったが、昨日のように気恥ずかしくはならない。少しして、笙子ちゃんが言った。
 「姉妹になったら、姉は妹を呼び捨てにするんですよね」
 「そう」
 「薫さま、「蔦子ちゃん」って言ってましたよね、最後まで」
 そう言われれば確かにそのような気がする。
 「蔦子ちゃん、じゃなくて、蔦子、ね」
 「そうです」
 「明日会ったら言ってやるわ。薫さま、じゃなくてお姉さまに」
 「そうですね」
 笙子ちゃんは髪を揺らして笑う。
 
 
 
 今日の日出実は、妙に譲らない。記事の内容の書き直しを指示したのだが、いつもなら言うことをきくような内容としか思えないのだが、反論してくる。どうしたのだろう。真美はいつものように指示したつもりだが、なぜか主張が食い違い、まとまらない。こんなことじゃ、編集作業が進まない。日出実、どうしたんだろう。もうすぐ二年生になるからいろいろ自覚が出てきたのかなあとか、夏休みが終わったらわたしも引退だなあ、とか、考えがあちこちに飛んで余計にまとまらない。新聞部の部室のドアが何の前触れも無く開き、
 「真美!真美、いる?!」
 お姉さまだ。無事に大学に合格したのはいいのだけれど、それでもう禊は済んだ、とばかりに連日スクープを持ち込んでくる。お姉さまは真美の席の前に小走りでやってくる。
 「スクープよっ!聞いた?」
 「ええ」
 ここ連日のことなので真美は適当にあしらう。
 「聞いてないじゃない」
 「今別件で打ち合わせてますので、少し待っていただけますか?」
 今の言葉は日出実の口から出たもので、これには真美も少し驚く。
 「日出実ちゃん、あなた」
 「三奈子さま、申し訳ありませんが」
 お姉さまは咳払いをして、
 「蔦子さんのことなんだけど、知ってる?」
 「ですから、三奈子さま」
 なんだか面倒なことになってきた。ただでさえ編集作業が滞りがちなのに。真美は昨日蔦子さんが言っていた「ナチュラルな修羅場」という妙なフレーズを思い出す。わたしも今日はなんだか調子が悪いな、と真美が思ったとき、ドアがノックされて、開く。誰だろう。誰でもかまわないが、これ以上この場を複雑にしないで欲しいと思うばかりだ。
 「ごきげんよう」
 蔦子さんの声だ。真美がドアのほうを見ると、蔦子さんと笙子ちゃんがこちらに歩いてくるところで、
 「つ、蔦子さん!?」
 あまりのタイミングのよさにお姉さまが驚いている。蔦子さんは歩きながら制服の襟元に手をやり、銀色の鎖を少しだけ引っ張り出してみせる。
 「三奈子さま、この件については少しお話が」
 「そ、そうなの?」
 「ここでは人目がありますので」
 「わかった」
 「真美さん、三奈子さまとちょっと話してくるね」
 「え、あ、そうなの?」
 あまりの展開の速さに驚く真美だったが、蔦子さんがウィンクしてよこすので、それなら真美も思い当たることはある。
 「お姉さま、蔦子さんのお話を聞いてきていただけませんか?」
 「わかったわ真美。じゃ、あとで」
 そう言って出て行くお姉さまと蔦子さんの後姿に真美はひらひらと手を振る。
 「笙子さん、今取り込んでいるので」
 と日出実は言うが、笙子ちゃんは落ち着き払っていて、
 「お二人ともお疲れのように見えますので、休憩なさったらどうです、真美さま?」
 「いいこと言うわね、笙子ちゃん」
 「真美さま」
 「休憩休憩。一休みは重要よ、日出実」
 「それはそうですが」
 「笙子ちゃん、一緒に行きましょう。決まり」
 「はい」
 蔦子さんと笙子ちゃんがいいタイミングで入ってきてくれたので助かった。でもちょっと考えればわかることだが、これは怪しい。真美は立ち上がって日出実と笙子ちゃんと歩き出すが、
 「あ、そうだ、日出実、先に行ってて。すぐ行くから」
 「お姉さま、何か?」
 「いいから」
 「わかりました」
 「笙子ちゃん、ちょっと」
 「はい」
 日出実は一度振り返ったが、一人で部室を出て行く。真美は小声で笙子ちゃんに聞く。
 「聞こえてた?」
 「ええ、実は」
 「やっぱり」
 「珍しく日出実さんの声が大きかったものですから、行こうということになって。廊下に出たらちょうど三奈子さまが駆け込んで行ったところで、三奈子さまのスクープが蔦子さまがらみということは、ドアの前で聞こえたんです」
 「そういうことね。蔦子さん、ほかに何か言ってた?」
 「これでチャラ、だと」
 「チャラ、ね」
 昨日話した「貸し」のことだ。まったく、抜け目が無いというか、なんというか。真美はドアに向かって歩きだした。笙子ちゃんは隣をついて歩いてくる。
 「コーヒー牛乳おごる、とも言ってましたよ」
 「それはいい話を聞いたわ」
 ドアを開けると日出実が廊下で待っていた。蔦子さんと笙子ちゃんが結局どうなったのか、真美は聞かなかった。聞かなくても、お姉さまが何かしら聞いてくるはずだし、今の蔦子さんや笙子ちゃんの様子を見れば、もはや心配する必要はないことがわかる。
 「ミルクホール行きましょう、日出実。笙子ちゃんも一緒にね」
 「少し遠くありませんか?」
 と日出実がたずねてくるけれど、
 「どうもね、聞いたところでは、いいことがあるらしいわよ」
 そう言って真美は笙子ちゃんを見る。笙子ちゃんの微笑みはとても穏やかだ。
 
 
 
 (おしまい)
 
 
 
 
 あとがき
 
 ここまでお読みいただきありがとうございました。
 今回は、蔦笙というか、真美笙です。菫川薫さま再登場で、「蔦子ちゃんをよろしく」の続きになるんでしょうか。ちょっとしばらく宇宙方面に行ってましたのでしばらく間が空きましたが、ちまちま書いてはいたんです。2ヶ月ぶりぐらいでしょうか。
 またちまちま書いていきますので、よろしくおつきあいください。
 それでは、ご意見ご感想をお待ちしております。
 ごきげんよう。
 
 
 
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