「神道集」巻第四
出羽国羽黒権現事
そもそも出羽国鎮守、羽黒権現とは、三所の社並びたまへり。
中の御前は本地は請観音なり。
この菩薩は一面二手にして、蓮華を持へり。
[中略]
左は軍陀利夜叉明王これなり。
この明王は南方宝性仏の変化なり。
[中略]
右は妙見大菩薩なり。
東方阿閦如来の変作なり。
この仏は薬師顕教の不同なり。
[中略]
かの御山と申すは能除大師の草創なり。
日本の人王三十四代推古天王の御時に顕したまふ。
それより以来七百歳に及べりと云々。
「羽黒山縁起」
そもそも、当山は観音説法の道場、権現湧出の覚台也。
受用三身あり。
法楽三会を待。
山を羽黒と名付る事、奇瑞によると見えたり。
崇峻天皇第三の皇子を参払理の大臣と申せり。
勝照四年(乙巳(ママ))遁世、抖擻したまふ。
これを委尋るに、悪面限なく、身の色黒く、更に人倫の類ともおもへず。
悪音にして、其の声を聞く者、驚きさはぐ。
面は一尺九寸、鼻の高さ三寸余り、眼のほころひ頂上に入て髪毛の中に分入、口は広くして耳の脇に至り、耳の長さ一尺余、耳の穴は左右へ開透りて、払(ママ)を挿みけり。
元来、無学文盲にして仏法をしらず。
然れども、勝れたる道心、修行の志あり。
乙女の愛情を厭ひ、名利に交る事、益なしとて、抖擻修行の行者と成て、諸国を廻り給ふ。
同六月十一日、此の山に入給ふ。
深山林木、谷滋り、人の通ふべきにあらず。
爰に片羽八尺ばかりの烏一つ飛来り、木葉をくわへ、道を教へければ、それを指南として、茂る木の間を分け入りたまふ。
烏、椙にあがり、片羽を垂て居けり。
大臣、不思議に思し召し、三年を経給ふ。
烏、椙のもとに下り、また本のごとく居す。
大臣、怪く思ひ、木の葉を掻き除き見給へり。
正身の観世音に逢奉れり。
礼拝恭敬し、弥々木の下、退き給はず。
[中略]
崇峻天皇の御宇、瑞政五(癸子(ママ))年、上洛して上聞に達す。
故に庄内三郡附され、烏を名に呼んで、羽黒山寂光寺と宣下せられ、聖の所作を御用ひ、人の苦を能く除きたまへば、能除太子とせらる。
同年六月十五日より建立あり。
然に北海酒田の湊に浮木あり。
幸、桑の木なり。
夜毎に光をはなつ。
件の木を以て軍荼利・妙見、脇士の二像を加造し奉り、参払理の大臣、斧を取給へば三十二の妙相あり。
われ慈悲の眸り新たにて、連眼瞬くごとし。
一度削りて三礼し奉れば、既に木身額きたまへり。
伽藍に居奉り、羽黒三所権現と仰奉る者也。
上宿は聖観世音菩薩。
六所の明神、上宿に軒を継ぐ事は、諸神集会の道場。
ひがしの応化堂は三十三身の尊体、おのおの其しなしなを守護し、西には弁才天、南は大黒天。
福寿増長の守り。
本地堂は阿閦仏。
其の名を赤龍神と申す。
五所の明神御座す。
払川の不動は道俗の煩悩を洗はんため、八大堂は文殊・普賢・地蔵・弥勒の四菩薩也。
魔王降伏を司どる。
若王寺は六世の祖子、伊弉諾・伊弉冊の変化、六道の主。
峰は寂光浄土、無為霊場の地。
観音の浄土をあらはし給ふ。
太子、弥々信心を凝し、丹誠を抽給へば、現に天の告をかふむり、当山、本地は豊受両大神宮五世の苗裔、鸕鷀草葺不合尊の娘、伯禽嶋の姫。
聖観音とあらはれ、今、阿久谷に跡をたれ、惣じて四百九十九社の王子を倶し、南院・北院は金胎不二也。
両院は胎の大日、法・報・応の三身也。
汝、無智・無さいなれば、捨身を行じ、仏道に至るべし。
是より十三里南の峰に無量寿仏御座す。
峰より東十三里去て葉山薬師。
合して、弥陀・葉山・観音なり。
頂上に無量寿仏御座事、観音は師恩のために、宝冠に弥陀を戴く意也。
峰の頂上の未申に当りて胎の大日御座す。
則、尋逢奉る物ならば、宿願成就すべしとて、都率天に上らせたまふ。
太子、有難く思し召し、推古天皇の御宇、吉貴元(癸丑)年四月八日、深山に分け入り給へば、補陀落の如来は、金色の光を放つて山林を照し。十方世界を浄土とし、山顛の阿弥陀は済度苦海の教主、三身円満の覚王也。
今の月山寺暮礼山是也。
月山は、能除、峰の頂上によぢのぼり給ふと等しく、如来来迎ありて、能除、意に思ひ差悪、過・現・未共に影向の光りにあらはる事、鏡に物の浮ぶがごとし。
此の時、四十八大願を授り給ふ。
鏡は月に似り。
殊更、夜を司る神なれば月山と号し、垂跡の神。
仍して奥院に銀鏡を崇ふ。
暮礼山は夜を主とる神にて、今に至りて、来迎も昼より暮るる迄也。
大日に逢奉らんと、谷の草深きを凌ぎ、光静に香識処を怪しく御覧すれば、有難き来迎、肝に銘じ、昼を主り給へば、今に至る迄、辰巳の間に来迎有り。
権現の尊像を拝さんと下り給へば、一つの嶮岨なる坂有り。
下るべくもなかりしに、光明頻に向ひ来て、少しも危ふからず。
今、此の坂を合向と書き、むなかいと読む事、秘事也。
権現に逢奉り給へば、御身より火を出し、能除太子の膚へに燃つき、煩悩・業・苦の三毒を消滅し給へば、火は則天に上りぬ。
権現の膚への火は、則、宝珠と成る。
此の玉を意に隨へて所作せよとて、或は暖湯滴り、思ひ侍るに五味を出し給ふ。
今に絶ざるによつて湯殿山とせらる。
其の時、太子、五味をあぢわひてより以来、湯殿別行をはじめ、一期の間、別火を用ひ、袈裟に四十八大願を結ひて掛け、ゆどの宗旨をひろめらる。
去程に、ゆどの別行と申すは、太子の跡を学び、羽黒の峰を行ひて、其の後、別行究むべし。
寺号は秘事也。
習べし。
或は火を出し、或は浄土・地獄をあらはし給ひて後、珠を太子にあたへ給ふ。
太子、珠を懐中有て、衆生利益のために荒沢に納め、不動と地蔵を本尊とし給ふ。
今の常火是也。
然に地蔵の善巧方便として、常火、容易に消る事を悲み、地蔵の額より火を出し給へば、不動の臂を切り、法火となし、火をとどめ給ふ。
今の切火是也。
常火とは刹那も消理せざる誓願也。
暫くも断絶有則は常火にあらずと也。
切火は法火にとどめて、仮初の行法に用ゆ。
湯殿山を月山・羽黒・葉山の三山の奥院として、秘所と定めらる。
其の後、山々峰々行ひ給ふ。
「羽黒山伝」
海陸宇府、本主、大霊験所、羽黒三社大権現。
┌ 月山
三社者┼〇羽黒 号三所大権現
└ 鳥海
空 過─弥陀─月山┐
中 現─観音─羽黒┤三所大権現
仮 来─薬師─鳥海┘
当社は、昔日、地神四代、彦火火出見尊、龍宮界に到り、龍王の息女豊玉姫と嫁たまひ、豊玉姫并その御妹伯禽洲姫と二人倶々具足し、此界へ帰府したまふ。
豊玉姫妊たまひ、鸕鷀草葺不合尊産たまふ。
産屋より直に龍宮へ帰戻たまふ。
伯禽洲姫、鸕鷀草葺不合尊を養育し玉ひ、後に鸕鷀草葺不合尊と嫁したまふ。
御子四人御坐。
第四の御子、神武天皇是也。
龍宮に於ては、伯禽洲姫と白す。
又、干珠・満珠両珠を常愛持たまふ故に玉依姫と白し。
又、龍宮のならはしにて、生死の汚穢を深く忌たまふ。
茲に因て、大物忌尊と奉り白す。
豊玉姫は龍宮に帰戻たまふ故に、崇めず、小物忌尊と奉り白す。
鳥海権現是也。
安曇磯良、二人の姫宮、此界へ出府し玉ひ、その御迹を慕ひ、此界へ出府し玉ふ。
月山権現是也。
若女一王子は天照太神を崇む。
下居権現は二柱の尊を崇む。
当社宮柱建初は蘓馬子大臣。
当山修験開基は人皇三十三代崇峻帝子也。
能除聖者。
[中略]
又、羽黒山三社権現の御本地は、
伯禽嶋姫宮
鸕鷀草葺不合尊第一之姫宮、母は海童乙女、玉依姫。
日向国宮崎五田之邑也。
丘陵無迹。
(委は神道直解集にこれ有り)
当山の大秘事也。
景行天皇十二年(辛未)六月十五日、
陸奥国北面海岸、大泉郷血原川上、手向之丘、羽黒山陵に社を崇む。
崇峻天皇二(己酉)歳、蘓馬子、建柱、羽黒権現と崇む。
若一王子、十二所之王子、三十六社也。
惣じて四百九十九社の王子、三社権現の明神と崇む。
山は月山とも号し、また羽黒山とも申す。
委は当代歳代直解集。
権現の御本地は、聖観音と申し伝へる也。
月山は鸕鷀草葺不合尊。
羽黒山は伯禽嶋姫宮。
下居は玉依姫宮。
「出羽国風土記」巻之一
殿舍なし
月山の南を経て遥に西へ下れは大なる沢あり
沢の辺に熱湯の沸出る所あり
是を湯殿大権現の宝前と云ふ
[中略]
祭神大己貴命少彦名命二柱を祭り大日孁尊を合せ祀る
社領社家なし
大網村に注蓮寺大日坊とて両別当あり
外に衆徒あり
注蓮寺は大日坊より草創久敷きにや
守札に根元執行別当と書す
山城醍醐報恩院の末寺とそ
一山の寺号を日月寺と称し月山の奥院と云ふ
[中略]
三山雅集に湯殿権現垂跡大山津見命也
或云大己貴命なり
又謂彦火々出見尊なりと
其中の正意は最初の説大山祇命也
羽源記曰湯殿山大日応身覚王也云々
又宝永年中鶴ヶ岡伊勢屋といへるもの板行したる名所旧跡伝来記に湯殿山の濫觴を尋来るに大日孁の尊神八大金剛童子御本地大日如来なりと有り
同巻之二
延喜式神名帳に田川郡伊氐波神社(並小)と有るは是也
羽黒山の寺家より出たる羽源記三山雅集等の諸説を合て考るに祭る神玉依姫命にして景行天皇二十一年六月十五日始て皇野に祠り其后阿久谷と云ふ所に鎮座し後世に至り今の大堂に移し本地仏と合一に祭しにや
阿久谷の渓洞を今に御鎮座の地とし三輪明神の如く本殿なく供祭は大堂にて行ふにや
又は往古は阿久谷の上に社有ける共云ふ
羽源記を考ふれは今の大堂は本地堂と見へたり
寺家今阿久谷を本羽黒といふを聞けは彼より今の羽黒へ遷座共見えたり
諸説同一ならす
[中略]
伊氐波神社も国中の式社なれは祭神往古は玉依姫の一座と見るへし
羽黒三所権現と称するは後世の事なるへし
義経記七の巻に羽黒権現の御正躰観音の霊と有り
此頃迄に三所と云ふ号なしと見へたり
今のことく羽黒湯殿月山三所にして弥陀大日観音也といはゝ義経記に何そ観音一躰を羽黒権現の御正躰といふへき能く思ふへき事也
今は皇神とも統野とも書
大堂の東北の下に有り
今は羽黒の領地に非すとそ聞侍れとも羽黒旧記の趣を以て爰に其名を出す而已
景行天皇二十年武内宿禰勅を受給ふて北陸道に神社を崇給ふ時由良の窟に至給へは伎楽の音あり
宿禰窟に入らんと仕給ふ時に忽然として老翁あらはれ何故に爰に来れるやとのたまへり
宿禰勅命の趣を答て神楽の音奇也とあれは
老翁答曰巽の嶽は葺不合尊鎮護の峯東の麓は玉依姫基瑞の霊場也
艮頂の豊玉姫の鎮座し給ふ湖水有り
於茲伎楽を奏し告終て去らせ給ふ
此趣を帝に奏して翌年六月十五日皇納賀原に三神の社を草創し給ふと有り
按するに巽の嶽とは月山の事にや
由良より此山巽に当るか
震麓とは羽黒山と云ふ
庄内の山伏諸神勧請の古本に羽黒権現の垂跡玉依姫と有り
新本には羽黒山大権現観音軍荼利妙見と有り
基瑞霊場といふは当山の火石水石をいふにや
火石と云ふは油こほしといふ坂の方に有り
夜中光を発する事有
海船等遥沖にて光りを見る事度々有と云ふ
水石は山奥に有りて水を出し耕作の用水となる
近代領主の家士火石水石の事を謡に作り二ツ石と名付けて当山に奉納したりと聞侍へり
頂に豊玉姫の鎮座し給ふ湖水有りとは狩籠の池仏水池抔を云ふにや
羽源記六之巻に狩籠大明神といふ有り
今は新山権現と云社はなし
仏水池の事三山雅集に仏語を以て八大龍王の事を豊玉姫は海神の御姫なれは社伝もありて八大龍王の事を附合せしにや
東照権現の後に当りて谷有り
是を阿久谷と云
秘所と称して参詣を許さゝれは委地理をしるす
数年交侍る山伏に尋るに湯の沸出る所有りと云ふ
羽源記六之巻曰阿久谷か洞是は権現生身にて垂跡し給ふ
本地は久遠成道の大士和光日輪下生伯禽島媛地神五代葺不合尊第三の御媛胎蔵界の示現也と云々
下生とは下界に生るゝといふ事にや
按するに羽黒権現を一神とする説にや
同書に曰若一王子は天神七代伊弉諾伊弉冊尊にて地神五代の始天照太神の父母也
此神金貴元年(国史になき年号なり)正月八日弥陀大日観音の三尊と顕れ阿久谷渓洞に垂微妙而能除大師に告て曰と云々
若一王神祠伊弉諾石の上に有り
天宥の時代阿久谷より此所に移したるにや
別当を伊弉諾山若王寺と号す
此寺天宥の草創なり
所謂三尊中は金剛界上品上生之阿弥陀伊弉諾尊にして月山の頂上に出現と有り
左は胎蔵界大日にして伊弉冊尊湯殿山大日応身覚王也と有り
三山雅集に或説を引て湯殿山は大山津見命或大己貴命又彦火々出見尊なりといふ
羽源記三山雅集同山より出て同事ならす
湯殿山の事は同條の下に註し侍る
右は南方無垢世界観世音大士天照太神宮羽黒山権現普門得益之日輪天子也と有
久遠之昔大士之誓約有りしかは扶桑の王化を助んとて祖神と成給ふ
宿世の功益に催されて当初地神五代苗裔鸕鷀草葺不合皇女伯禽島媛と現し給ふ
今此阿久谷に垂跡し給ふ
星霜をふる事数万千歳と云々
此説を據とせは阿久谷は今に鎮座の地にして大堂は本地仏にして大衆会席の道場にや
諸説を集て考侍共仏法に附会し我国の神記に齟齬し侍れは逐一に了解し難し乍他日是を按するに寺家の説観世音を天照太神宮と現し天照太神又下界に於て伯禽島媛と現して阿久谷に鎮座し給ふと三世を立たる説にや
西南に向て十七間東北へ十三間有り
参詣の人内陣を見る者少し
寺家の噺を聞に内陣の奥に壇を構へ是を六間に仕切間毎に金具を以て戸を堅め開事なしとそ
又内陣に観音軍多利妙見の二像並上下の二龍有り
何れも運慶の作なりとそ
出羽守殿上龍の勢を誉め給ふ事羽源記に見えたり
翠簾の前に九曜と七曜にしたる神鏡高麗狗二ツ有り
内陣の左右に間を仕切て右には大黒の像を安置し権現の宝物を入置
右には熊野権現を勧請し左右に黒白の熊を置とそ
[中略]
同板の間に本地御正躰とて竪横八尺余唐金にて仏像三躰鋳付たる物有り
其内に額有り
南無羽黒山三所大権現と銘す
月山一名犂牛山と云
直立五千三百尺余
形状臥牛に似たり
四時雪を戴き極暑稍斑紋を見る
山脉起伏して本郡及最上村山の三郡に跨れり
頂上に祠あり
月読尊を祀る
此山郡中の最高にして湯殿山其半腹にあり
羽黒山是か麓なり
之を三山と称す
[中略]
羽源記を見れは金剛界上品上生之阿弥陀伊弉諾尊にして月山の頂上に出現と有り
塩土老翁武内宿禰へ告給ひしと云ふ文を見れは此峯に出現し給ふは葺不合尊にして神祠は皇野に建しと見えたり
按するに仏家葺不合尊は伊弉諾尊の再誕諾尊は弥陀の再誕なりと例の三世に附会したる説なるへし
「仏像図彙」
出羽湯殿権現
出羽国大梵字川の水上に和光して湯殿権現と顕れ玉ふ
本地法身大日也
[図]
「山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告 第11輯」
一 羽黒山三所大権現の懸仏
当山の史実は之より漸く資料多くなり、文献並に遺物の見るべきものあるが、羽黒の古代記録である暦代記の記事は真偽混淆にして判定頗る困難である。
その中で顕著なる例を挙ぐれば黄金堂は鎌倉初期に土肥実平の建立、五重塔は天慶中平将門又は北條高時の建立とあるも、今日之を建築学上又は文献上より見るに、何れも当室町期の建築である。
羽黒山上の三所権現堂は最も重要の本堂であるが、その創建は元より詳らかで無く、長年月の間屡々火災に遭ひ屡々改築された。
修築年月の確実となつたのは慶長十年以降からである。
三山の山神の本地仏は当山の修験道の創始と同時に定められたと思ふが、之が確実なる記録に現はれたのは当時代である。
次に羽黒山上の本社又は本堂の名称は何んと云つたかは、之亦当時代に至りて始めて明かに知ることができたが、之に安置する本地仏は羽黒山の本地仏の外に月山神・湯殿神の本地仏であつた時には、本社又は本堂の名称は何れが妥当であるか。
以上の実質的問題は当時代に入りて始めて発生したのであつて、当山に在りては最も重要なる事である。
三山雅集に永享二年八月一日将軍足利義教の管領細川時之の寄進した大懸仏の絵を載せてある。
この懸仏は寛政八年二月十五日夜の火災にて焼失したが、諸記録によりてこの懸仏に対する諸家の意見を知ることができる。
先づこの懸仏の大さは径八尺で、中央は聖観音、右座は阿弥陀、左座は大日である。
この三尊は三山神の本地仏であつて、観音は羽黒山、大日は湯殿山、阿弥陀は月山の本地仏で、之を同懸仏内の額銘に南無羽黒山三所大権現と題してある。
[中略]
(出羽風土略記)
伊氐波の神社も中の式座なれば、祭神往古は玉依姫命一座と見るべし。
羽黒三所権現と称するは、後世の事成るべし。
義経記七巻に羽黒権現の御正躰ハ観音にておわしますとあり、此頃までは三所と云事なしと見へたり。
今の如く羽黒・湯殿・月山三所にして、弥陀大日観音なりといはゞ、何ぞ義経記に観音一躰を羽黒権現の御正躰といふべきや、能々思慮すべき事也。
三百三十二年前永享二年の納物に羽黒山三所権現とあれは、近代の事とも見へず、然れとも三所は羽黒一山の内ニおゐて別々にありて同殿に祭るの号にはあらずにや、たとへば熊野三所権現と一連に称すれども同殿にはあらず、本宮新宮那智格別也。
近くは吹浦両所も同殿にはあらす格別也。
羽源記を見るに、大堂御手洗の前ニ建並へたる堂社の内ニ月山大権現・湯殿山大権現あり、是を以見れば羽黒大権現と同殿ニ月山湯殿両権現を祭るにはあらず、巨細の事は末に記す。
(同書)
内外陣の上に本地御正躰とて、竪横八尺余にて唐金にて仏像三躰鋳付たるものあり、其内に額あり南無羽黒山三所大権現と銘す。
二行ニ大将軍義教大檀那細川持氏永享二年八月一日本願律師とあり、永享ハ百三代後花園院の年号にして、当年まで三百三十二年〈○出羽風土略記の著は宝暦十一年〉義経記七巻弁慶か詞ニ羽黒山権現の御正躰観音のおわしますにとあり、然れは御正躰とて仏像を用る事も久しき事也。
大堂にかけ置たる御正躰と云ものも観音なりとぞ、元禄十七年東叡山一品公弁法親王の書せ玉ふ額に、羽黒山三所大権現とあり。
世人是を拝して羽黒月山湯殿三所の神躰同殿に御鎮座也と思へり。
寺家衆徒も又如是にや、また秘伝等もあるにや、予按るに月山大権現ハ月山の頂に社あり、湯殿山には社なしといへども、湯出る所を神躰とし、別当も別山にして東叡山の御支配にあらず、大堂の内に祭る月山湯殿の二所は奈良の春日を諸国に祭て、春日の社と云が如きか、俗是を勧請の社と云、此例に准すれは羽黒権現ハ…………より移坐したる一社にして、二神は後代の勧請と見へたり。
天宥以前荒沢経堂院の草案したる羽源記を見るに、月山湯殿両権現を勧請したる神殿は別殿に二柱あり末に注す。
月山湯殿の両山は高山深沢にして夏月ならでは参詣ならず、故に朝日拜礼の為に勧請せしと見へたり。
然れとも大堂の内に二山の神を勧請とはゞ又別殿に二山の神を勧請するには及ばざる事歟、又二山の祠別殿にあれば、大堂のうちに両山を勧請には不及事にや、是を按るに羽黒三所と書は、羽黒一山の内別に社ありて大堂は三所の神の本地仏を建並べて大衆会席の道場にや
(中略)
古は神祠と本地堂格別也しにや
(中略)
大堂に向つて右に六所の社弁才天の堂地蔵堂東照権現山神の堂薬師堂鐘撞堂愛染堂観音堂大黒堂あり、左には天宥の遺影堂役ノ行者堂能除堂弁才天稲荷の社あり。
御手洗の前に慈覚大師堂庚申堂弥陀堂虚空蔵堂五智如来堂釈迦堂月山大権現あり、其数堂舍数多あれども繁けれは略之
出羽国風土略記の著者進藤重記は吹浦両所宮の祠官であつて熱心なる神道家で、此書は宝暦中の著である。
前記の重記の意見の要旨は羽黒山祭神を玉依姫としたのは吉田神道に據れるものにして、且つ月山神・湯殿山神を羽黒本社に勧請し三所権現と称した。
然るに三尊仏をも本社に三神の外に安置して三所大権現と云つたこともあつたでないかと云つてゐる。
之について著者の私見を述ぶるに、羽黒山上の本堂に本地仏の観音を安置することは当然である。
次に月山・湯殿山の本地仏を羽黒本堂内に三体並べて安置したのは、月山・湯殿山は高山深沢にして夏期の外は参詣できない、又老幼婦女の参詣は夏期とてもできぬ、依て羽黒本堂内に安置して、広く民衆の参詣に便にしたに過ぎぬのである。
山上の堂庭及び参道筋に諸多の堂塔を建立し、其中に月山又は湯殿山の祠堂あるも、之等は時代の民衆の信仰に迎合せんが為めに隨時に建てたもので深く穿議するに及ばぬことゝ思ふ。
羽黒本堂に三山の三尊仏を安置したからして、懸仏内の額銘にあるやうに羽黒山三所大権現と云つたのは妥当である。
只この名称は元享二年の懸仏に始まつたものにあらずして、之より前の名称であつたに相違無いが、其起元は吉田神道である。
依て本堂の名称は羽黒山三所大権現であつて、之を略して羽黒権現堂と云つたのである。
[中略]
二 吉田神道と羽黒山縁起
この懸仏の三尊仏並に額銘文は前に掲げた如くであつて、三尊仏は観音大日阿弥陀の鋳出しで、この懸仏の内にある額銘に羽黒山三所大権現と鋳出してある、即ちこの三尊仏を権現としたのである。
従来の本地仏垂神説では神が垂跡で権現であつたのが、この懸仏では本地神垂跡仏であつて、吉田神道と一致するものである。
恰もこの懸仏を鋳造寄進した元享二年は吉田神道の発生時期に相当するのであれば、この懸仏は同神道の影響を受けたことは明かである。
次に当時代の記録に羽黒山縁起と睡中問答あり、縁起は本地神垂仏説にして、睡中問答は本地仏垂神説であつて、当山に於ける神道家と仏教家との経緯が窺知される。
先づ縁起を見るに、その本地神垂仏説は吉田神道と一致し、又仏権現説は元享二年の懸仏と一致するものである。
その本地神は三山の神にして未だ神代の神を配祀したもので無い。
[中略]
平安中期以降我国は本地仏垂神説隆盛を極め、当山も同じであつた。
室町初期に至り吉田神道起るに及んで、本地神垂仏説は大なる勢力を以て行はれ、元享二年の羽黒山三所大権現の懸仏は幕府の管領細川持之より納められた所以である。
次にこの縁起を見るに大日弥陀陀観音の三尊仏を以て三所権現と称した。
只懸仏は三山の垂跡仏を三所大権現とし、縁起には羽黒山の正観音と脇士妙見軍荼利を以て三所権現とした差あるばかりで仏を権現としたことは同じである。
(中略)
この羽黒山より湧出したのが即ち観音であつて、山ノ神が観音となりて現はれたので、本地神垂跡仏である。
依て脇士と合せて三所権現と云つた。
当山の修験道を熊野又は吉野より独立して、羽黒修験道の一派を立てたのは此の時代ではあるまいか。
之を要するに当縁起の主旨は本地神垂跡仏であつて、開山は蜂子皇子とした。
羽黒の三所権現について懸仏は三山の垂跡仏、縁起では観音妙見軍荼利であつて一致せぬことゝなつたが、之れは一般に本尊に脇士を付くることが普通である。
又細川持之が寄進した懸仏は、三山仏を一枚の懸仏に鋳せしめて三山に寄進したものであつて、三体別々の意志であつた。
然るにこの一枚の懸仏を安置する場合に羽黒権現堂に安置したから羽黒に三山仏を合祀した形となつたので無いか、縁起にある如く本尊観音に脇士二体を附隨せしむることは普通行はるゝ所であつて、本尊脇士を合せて三所権現とすることは寧ろ当然である。
三山雅集の懸仏絵図の傍らに本地御正躰図と題したのは、雅集編者の所為であつて額銘と一致しない、本地御正躰とは本地仏のことである。
[中略]
三 羽黒山の本地仏と権現神
当山の最古の文献は前編に述べた羽黒山縁起であつて、之に次ぐものは睡中問答である。
この書は羽黒山学頭尊増の著であつて、尊増は文明六年四月の示寂である。
依つて懸仏縁起と睡中問答は三四十年の間にできたもので同時代である。
この書は問答躰十葉内外であつて、其主旨は本地仏垂神説で、本地を観音、垂跡神を伯禽州姫(シナトリシマヒメ)とした。
本地仏垂神説は唯一神道の羽黒山縁起に反してゐるが、我国の神代の神を垂跡神としたのは、この書が始めてであつて、羽黒山に神を配祀した創始である。
斯く山に神代の神を配祀したのも吉田神道の刺戟の受けた結果であると思ふ。
[中略]
この睡中問答は自問自答であつて、文章拙劣主旨透徹せざる所多く、只本地仏垂神説であることは明かである。
吉田神道の本地神垂仏説では従来の羽黒修験道を根底より崩すことゝなるので、之に反対説を主張する必要が起つたことであらう。
次に従来羽黒山の山ノ神を神として来たのを伯禽州姫を以て山神としたのは、睡中問答に於て始めて見ることができた。
之れは吉田神道の刺戟によるもので、自然崇拝より人格神の崇拝に移つたのは此時である。
羽黒山の本地仏は観音で、垂跡神即ち権現は伯禽州姫となつたが、羽黒本堂に何れを本尊に安置したかは明かでない。
睡中問答には観音堂とあれば観音を安置したやうに見ゆる。
戸川安章『日本の聖域(9) 出羽三山と修験』
出羽の信仰と歴史
三関三渡の修行
羽黒山・月山・湯殿山を三権現とか、三山というようになるのは元亀・天正(1570-92)頃からである。
それ以前は羽黒山・月山・葉山をもって三山とし、湯殿山を「総奥之院」としていたのである。
葉山は月山の東15キロ、標高1462メートル、本地を薬師如来と仰ぐ。
『延喜式』に「名神小・白磐神社」とあるのがそれであるとされている(*)。
葉山山麓の醍醐(寒河江市)の慈恩寺は早くから葉山の祭祀権を掌握していたらしく、山上の大円院もその支配下にあったことは、慈恩寺に残る『舞童帳』(山形県文化財)からも推測される。
羽黒山が月山の北の端山であったように、葉山は月山の山脈が東に伸びた端山である。
この三山を抖擻する修行を三関三渡といった。
羽黒山の観音・月山の阿弥陀・葉山の薬師の加護と引導により、現在・過去・未来の三関を渡り越え、真如実相・即身成仏の妙果を証する。
これが羽黒修験の夏峰修行の極意であるというのである。
もう少しくわしく説明すると、羽黒山は観音の補陀落浄土で現在、月山は過去世に成仏して衆生を引摂し給う阿弥陀如来の極楽浄土、葉山は未来永劫にわたって衆生の苦悩を除き給う薬師如来の瑠璃光浄土、湯殿山は法身常行の大日如来のいます密厳浄土である。
[中略]
湯殿山を三山の総奥之院というのは、月山には採燈森、羽黒山には荒沢、葉山には白磐神社のあるところを奥之院といったように、それぞれに奥之院があるのだが、それら三山の神奥本源の霊域こそ湯殿山であるとされたもので、湯殿山の御深秘については問うな、語るな、問われても答えるな、語られても聞くな(不問不言不聞不説・有語無聞)の霊場とされたのである。
しかし、戦国動乱の時代には三山抖擻の行も衰えたため、葉山との交流も薄れた。
[中略]
そういうことから、羽黒山の支配下修験の護持する鳥海山(2230メートル)が薬師如来を本地仏とするのを幸いに、これを三山の中に包含しようとするこころみもなされた。
しかし、各登山口との関係が十分に調整されていなかったのと、山と山の間に庄内平野が横たわるため、山林修行の緊張感がそこで中断される危険をはらんでいること、それを避けるために強いて山岳地帯に道を求めようとすれば、どうしても尾根から沢へ、沢から尾根への登り下りが多いなど、いろいろの悪条件があったことから、湯殿山に近い薬師岳(1262メートル)を加えて三山とするに至ったのである。
しかし、実際には薬師岳に入峰することはほとんどなく、姥月光からこれを遥拝して湯殿山に駆けいるようになった。
そのため三関三渡の教説にあわせて薬師岳の薬師如来を湯殿山に勧請合祀したのである。
このようにして湯殿山を三山の中にいれるとともに、三山総奥之院に位置付けたりもしたのである。
* 白磐神社は式外社(国史現在社)である。
羽黒山と出羽神社
平安・鎌倉以来、羽黒山の名は羽黒山大権現や羽黒山伏とともに、文書・記録・小説などにあらわれるようになるが、出羽または伊弖波神社の名はほとんどみえず、羽黒山に鎮まる神は羽黒彦命と玉依姫命および鸕鷀草葺不合尊の娘である伯禽州姫命とされ、羽黒彦命は倉稲魂命の異名で、九頭竜王の御子神とされ、この三神を羽黒山大権現と崇め、本地は観世音菩薩(伯禽州姫命)・軍荼利明王(羽黒彦命)・妙見菩薩(玉依姫命)としたが、縁起書といわず、教義書といわず、諸書にさまざまの説がでていて、判断に苦しむのである。
湯殿山
湯殿山は標高1504メートル。
湯殿山大権現の御神体と仰がれる一大巨岩は、その300メートルほど下を流れる清川(梵字川の上流)に臨んで屹立し、岩塊の至るところから温度52,3度の温湯を噴き出し、大小二つの頭をもっている。
その泉質は食塩含有炭酸鉄泉で、御神体岩は水酸化鉄の沈殿によって形成された赤褐色の噴泉塔であるが、いつもあやしく光り輝いている。
二つの頭のうち、やや低くて小さい方を金剛界大日如来、少し高くて大きい方を胎蔵界大日如来と仰ぎ、二つの頭をもつ岩が一つに結ばれているところから、羽黒山の先達は胎金一致の大日如来と拝し、真言四ヶ寺の行人は金胎両部の大日大霊権現と崇める。