第十一 熱田大明神事
そもそも熱田大明神の本地に関して両説が有る。
熱田の本地は大日如来である。
神宮寺は薬師如来である。
八剣は太郎・次郎の御神で、本地は毘沙門天王・不動明王である。
日別・火神は三郎・四朗の御神で、本地は地蔵菩薩・阿弥陀如来である。
大福殿の本地は虚空蔵菩薩である。
後見の源太夫殿は文殊菩薩である。
記太夫殿は本地弥勒菩薩で、源太夫殿の兄である。
熱田大明神が最初に天下った時、記太夫殿は宿を借した人、源太夫殿は雑事(旅行の際の食事の世話)を行なった人である。
また、一説によると、熱田の本地は五智如来である。
尾張国の一宮は真清田大明神、本地は地蔵菩薩である。
二宮は太賢光明神、本地は千手観音である。
三宮は熱田大明神である。 ある人によると、熱田大明神は我朝の尾張国の第三宮であり、総じては閻浮提の内の第三宮である。
ある人によると(熱田大明神には)賀茂大明神が並び立っている。 ある女房が無実の罪を着せられ、大宮の御宝殿の傍の賀茂社の御前で、泣き泣き此の濡れ衣を晴らそうと歎くと、夢幻の中に賀茂大明神が御示現されて、
我憑む人徒に 成しはてゝ 又雲分て登る計そ
と御歌を詠まれた。 その後、此の女房は無事に大宮司の妻と成った。 御託宣の文に「本躰観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神」と有るのも理である。
熱田大明神
熱田神宮[愛知県名古屋市熱田区神宮1丁目]
祭神は熱田大神で、相殿に天照大神・建速素盞嗚尊・日本武尊・宮簀媛命・建稲種命を配祀。 通説では熱田大神は草薙剣を御霊代とする天照大神であるが、一説に日本武尊とする。
式内社(尾張国愛智郡 熱田神社〈名神大〉)。 尾張国三宮。 旧・官幣大社。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正一位 熱田皇太神宮」とある。
『日本書紀』巻第一(神代上)の第八段[LINK]に、
「素戔嗚尊、天より出雲国の簸の川上に降到ります。時に川上に啼哭く声有るを聞く。故、声を尋ねて覓ぎ往ましゝかば、一の老翁と老婆と有りて、中間に一の少女を置ゑて撫でつつ哭く。素戔鳴尊問ひて曰はく、「汝等は誰ぞや、何為ぞ如此哭く」とのたまふ。対へて曰さく、「吾は是国神なり。号は脚摩乳。我が妻の号は手摩乳。此の童女は是吾が児なり。号は奇稲田姫。哭く所以は、往時に吾が児、八箇の少女有りき。年毎に八岐大蛇の為に呑まれき。今此の少童、且臨被呑 むとす。脱兎 るるに由無し。故哀傷む」とまうす。素戔鳴尊、勅して曰はく、「若し然らば、汝、当に女を以て吾に奉らむや」とのたまふ。対へて曰さく、「勅の隨に奉る」とまうす。故、素戔鳴尊、立 ら奇稲田姫を、湯津爪櫛に化為して、御髻に挿したまふ。乃ち脚摩乳、手摩乳をして八醞酒を釀み、井せて仮麻 八間を作ひ、各一口の槽置きて、酒を盛れしめて待ちたまふ。期に至りて果して大蛇有り。頭尾各八岐有り。眼は赤酸醤の如し。松柏、背上に生ひて、八丘八谷の間に蔓延れり。酒を得るに及至りて、頭を各一の槽におとしいれて飲む。酔ひて睡る。時に素戔鳴尊、乃ち帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刄少しく欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一つの剣有り。此所謂草薙剣なり〈一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名づくるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と日ふといふ〉。素戔嗚尊の曰はく、「是神しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安けらむや」とのたまひて、天神に上献ぐ」
とある。
第八段一書(二)[LINK]に、
「素戔嗚尊、安芸国の可愛の川上に下到ります。彼処に神有り。名を脚摩手摩と曰ふ。其の妻の名をば稲田宮主簀狭之八箇耳と曰ふ。此の神正に在姙身めり。夫妻共に愁へて、乃ち素戔鳴尊に告して曰さく、「我れ生める児多にありと雖も、生むたび毎に輙ち八岐大蛇有りて来りて呑む。一も存きこと得ず。今吾産まむとす。恐るらくは亦呑まれむことを。是を以て哀傷む」とまうす。素戔嗚尊、乃ち教へて吾れ曰はく、「汝衆菓を以て酒八甕を釀め。吾当に汝が為に蛇を殺さむ」とのたまふ。二の神、教の随に酒を設く。産む時に至りて、必ず彼の大蛇、戸に当りて児を呑まむとす。素戔鳴尊、蛇に勅して曰はく、「汝は是可畏き神なり。敢へて饗せざらむや」とのたまひて、乃ち八甕の酒を以て、口毎に沃入れたまふ。其の蛇、酒を飮みて睡る。素戔鳴尊、剣を抜きて斬りたまう。尾を斬る時に至りて、剣の刃少しき欠けたり。割きて視せば、剣尾の中に在り。是を草薙剣と号く。此は今、尾張国吾湯市村に在す。即ち熱田の祝部が掌りまつる神是れなり。其の蛇を断りし剣をば、号けて蛇の麁正と曰ふ。此は今石上に在す」
とある。
第八段一書(三)[LINK]に、
「素戔嗚尊、奇稲田媛を幸さむとして乞ひたまふ。脚摩乳・手摩乳、対へて曰さく、「請ふ、先づ彼の蛇を殺りたまひて、然して後に幸さば宜けむ。彼の大蛇、頭毎に各石松有り。両の脇に山有り。甚だ可畏し。将に何以してか殺りたまはむ」とまうす。素戔鳴尊、乃ち計ひて、毒酒を釀みて飮ましむ。蛇酔ひて睡る。素戔鳴尊、乃ち韓鋤之剣を以て頭を斬り腹を斬る。其の尾を斬りたまふ時に、剣の刃、少しく欠けたり。故、尾を裂きて看せば、即ち別に一の剣有り。名けて草薙剣と為ふ。此の剣は昔素戔鳴尊の許に在り。今は尾張国に在り。其の素戔鳴尊の、蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(石上布都魂神社[岡山県赤磐市石上])の許に在り。出雲の簸の川上の山是なり」
とある。
『平家物語』剣巻[LINK]に、
「次に宝剣と申すは神代より伝はれる霊剣二つありと見えたり。天叢雲の剣、天羽々切の剣なり。天の叢雲の剣は、代々帝の御守、即ち宝剣是れなり。天武天皇の御宇、朱島元年[686]六月に、尾張国熱田の社に籠られたり。又天のはゞ切の剣は、本は十握の剣と申しゝが、大蛇を截つて後は天羽羽切の剣と号す。大蛇の尾の名を、「はゞ」といふ故なり。「をろち」とも名づく。彼の剣、後には大和国石上布留社に納まれり。昔、素盞嗚尊は出雲の国に御座しける時、彼国の簸の河上の山に大蛇あり。尾首共に八つあり。時にほ八の尾八の谷に盤れり。眼は日月の如し。背には苔むして、諸の木草生ひたり。年々人を呑む。親を飲まれては子悲み、子を呑まれては親悲む。村南村北に哭する声絶えず。国中の人種皆取り失はれて、今は山神の夫婦、手摩乳、脚摩乳ばかり残れり。一人の娘あり、稲田姫と名づけて、生年八歳なり。是を中に置きつゝ、泣き悲む事限りなし。尊哀み給ひて、よしを加何にと問ひ給ふ。手摩乳答へて曰く、「我に最愛の娘あり、稲田姫と申すを、今夜八岐の大蛇のために呑まれん事を悲むなり」に申しければ、尊不便に思召し、「娘を我に得させば、大蛇を討ちてとらせんことはいかに」と宣へば、手摩乳、脚摩乳、大に悦ぶ見えて、「大蛇をだに討ち給はゞ、娘を進らせ候ふべし」と申しければ、尊大蛇を討ちふべき謀をぞ為し給ひける。床を高く掻き、稲田姫を厳しげに装束させて丱に湯津爪櫛を差して立てられたり。四方には火を焼き廻して、火より外に甕に酒を入れて、八方に置く。夜夜半に及びて、八岐大蛇来りつゝ、稲田姫を呑まんとするに、床の上にありと見れども四方に火を焼き廻したれば、寄るべき様なかりけり。時移るまで能く見れば、稲田姫の影、甕の酒に映り見えたりけり。大蛇これを悦び、八の甕に八の頭を打ち漬して、酒を呑みてげり。余りに飲み酔ひて、前後もしらず臥したりけり。尊、剣を抜き持ちて、大蛇を寸々に切り給ふ。其八の尾に至りて、剣のかゝはる処あり、怪みて是を見給へば、剣の刄白みたり。尾を裂きのけてこれを見るに、一の剣あり。是最上の剣なりとて、天照大神に奉る。天叢雲剣と名づく。此剣大蛇の尾に在りし時、黒雲常に覆ふ。故に天叢雲剣と名づけたり。此大蛇は尾より風を出し、頭より雨を降らす。風水龍王の天降りけるなり」
とある。
『日本書紀』巻第七の景行天皇四十年[110]十月条[LINK]に、
「冬十月の壬子の朔癸丑[二日]に、日本武尊、発路したまふ。戊午[七日]に、道を抂りて伊勢神宮を拝む。仍て倭姫命に辞 して曰く、「今天皇が命を被りて、東に征きて諸の叛く者どもを誅へむとす。故、辞 す」とのたまふ。是に倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく「慎め。な怠りそ」とのたまふ。是歳、日本武尊、初めて駿河国に至る。其処の賊陽 り従ひ、欺きて曰さく、「此の野に麋鹿 甚だ多し。気は朝霧の如く、足は茂林の如し。臨して狩りたまへ」とまうす。日本武尊、其の言を信けたまひて、野の中に入りて覓獣 したまふ。賊、王を殺さむといふ情有りて〈王とは日本武尊を云ふぞ〉、其の野に放火焼 。王、欺かれぬと知しめして、則ち燧を以て火を出して、向焼けて免るゝことを得たまふ〈一に云はく、王の所佩せる剣、叢雲、自ら抽けて、王の傍の草を薙き攘ふ。是に因りて免るゝこと得たまふ。故、其の剣を号けて草薙と曰ふ〉。王の曰はく、「殆に欺かれぬ」とのたまふ。則ち悉に其の賊衆を焚きて滅しつ。故、其の処を号けて焼津と曰ふ」
とある。
その後、日本武尊は相模の馳水(走水)から海を渡り、上総を経て陸奥で蝦夷を服従させた。 日高見国からの帰路は、常陸・甲斐・武蔵・上野・信濃・美濃を経て尾張に至った。
「日本武尊、更尾張に還りまして、即ち尾張氏の女宮簀媛を娶りて、淹しく留りて月を踰ぬ。是に、近江の五十葺山(伊吹山)に荒ぶる神有ることを聞きたまひて、即ち剣(草薙剣)を解きて宮簀媛が家に置きて、徒より行でます。胆吹山に至るに、山の神、大蛇に化して道に当れり。爰に日本武尊、主神の蛇に化れるを知らずして謂はく、「是の大蛇は必ず荒ぶる神の使ならむ。既に主神を殺すことを得てば、其の使者は豈求むるに足らむや」とのたまふ。因りて、蛇を跨ぎて猶ほ行でます。時に山神、雲を興し氷を零らしむ」
病身となった日本武尊は、尾張に還ったが宮簀媛の家には入らず、伊勢に移動して乙津浜から能褒野に到り、そこで亡くなった。
「既にして能褒野に崩りましぬ。時に年三十。〈中略〉伊勢国の陵に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化りたまひて、陵より出て倭国を指して飛びたまふ。〈中略〉即ち倭の琴弾原に停れり。仍りて其の処に陵を造る。白鳥更た飛びて河内に至りて、旧市邑に留まる。亦た其の処に陵を作る。故、時人、是の三陵を号けて白鳥陵と曰ふ。然れども遂に高く翔びて天に上りぬ。〈中略〉是歳、天皇践祚四十三年[113]なり」
『古事記』中巻[LINK]に、
「爾に(景行)天皇亦頻きて倭建命に、「東方十二道の荒夫琉神、またまつろはぬ人等を言向け和平せよ」と詔りたまひて、〈中略〉故命を受けたまはりて、罷り行でます時に、伊勢大御神宮に参入りまして、〈中略〉「天皇既 く吾を死ねと所思ほすらむ〈後略〉」とまをして、患ひ泣きて罷ります時に、倭比売命、草那芸剣を賜ひ、亦御嚢を賜ひて、「若し急事有らば、茲の嚢の口を解きたまへ」となも詔りたまひける。故尾張国に到りまして、尾張国造の祖、美夜受比売の家に入り坐しき。乃ち婚さむと思ほししかども、亦還り上りたらむ時にこそ婚さめと思ほして、期り定きて、東国に幸して、〈中略〉相武国に到りませる時に、其の国造詐り白さく、「此の野の中に、大沼有り、是の沼の中に住める神、甚く道速振 神也」とまをす。是に其の神を看行に、其の野に入り坐しつれば、其の国造、其の野に火をなも著けたりける。故欺かえぬと知ろしめして、其の姨倭比売命の賜へる御嚢の口を解き開け見たまへば、其の裏に火打ぞ有りける。是に先づ其の御刀以て草を刈り撥ひ、其の火打を以ちて、火を打ち出で、向火を著けて、焼き退けて、還り出でまして、其国造等を皆切り滅し、即ち火を着けて焼き給ひき。故、今に焼遺(焼津)とぞ謂ふ」
とある。
その後、倭建命は走水から海を渡り、荒ぶる蝦夷や山河の荒神を服従させ、帰路は足柄・甲斐・科野(信濃)を経て、尾張に還って美夜受比売と再会した。
「其の御刀の草那芸剣を、其の美夜受比売の許に置きて、伊服岐能山(伊吹山)之神を取りに幸行しき。〈中略〉其の山に騰ります時に、山辺に白き猪逢へり。其の大きさ牛の如くなりき。爾言挙為て詔りたまはく、「是の白き猪に化れる者は、其の神の使者にこそあらめ。今殺らずとも、還らむ時に殺してむ」とのたまひて、騰り坐しき。是に大氷雨を零らして、倭建命を打ち惑しまつりき」
病身となった倭建命は、当芸野・尾津前・三重村を経て、能煩野(能褒野)に到り「倭は くにのまほろば たたなづく あをかきやま ごもれる 倭し うるはし」と詠んだ。
「此の時御病甚急 。爾に御歌曰を、「をとめの とこのべに わがおきし つるぎの大刀 その大刀はや」と歌ひ竟へて即ち崩りましぬ。〈中略〉是に八尋白智鳥に化りて、天に翔りて、浜に向けて飛び行ましぬ。〈中略〉故其の国より、飛び翔り行まして、河内国の志幾に留まりましき。故其地に御陵を作りて、鎮まり坐さしめき。其の御陵を、白鳥御陵とぞ謂ふ。然れども亦其地より更に天翔りて、飛び行ましぬ」
『尾張国風土記』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第七(述義三)に引用〕[LINK]に、
「熱田の社は、昔、日本武の命、東の国を巡歴りて還り給ひし時、尾張連等が遠祖宮酢媛命を娶して、その家に宿り給ひき。夜頭に厠に向き、身に帯ばせる剣を桑の木に掛け、遺れて殿に入りましき。すなはち驚きて更に往きて取り給ふに、剣に光なす神ありて、把り得給はず。すなはち、宮酢媛に謂り給ひしく、「此の剣は神の気あり。斎ひ奉りて吾が形影とせよ」と宣り給ひき。因りて社を立て、郷によりて名となしき」
とある。
『釈日本紀』は先師(卜部兼文)の説として
「熱田社は、日本武尊、其の形影を天叢雲剣に留め、此を神体と為す。日本武尊の垂跡と謂ふべし」
と述べる。
『尾張国熱田太神宮縁記』[LINK]に、
「日本武尊奄忽として仙化の後、宮酢媛は平生の約を違へず、独り御床を守り神剣を安置したまふに、光彩日に亜 げり。霊験著に聞こゆ。若し祷請の人有らば、観応は影と響きとに同じ。是に於て宮酢媛親旧を会ひ集め、相議して曰はく、「我が身衰耄し、昏暁に事を期し難し。須く未だ瞑らざる前に社を占ひて神剣を奉遷すべし」と。衆議之れを感じて、其の社の処を定む。楓の樹一株有り、自然に火焼け、水田の中に倒れども、光焔銷 へず。水田尚熱すれば、仍ち熱田の社と号す」
「天命開別(天智)天皇七年[668]、新羅の沙門道行此の神剣を盗て、本国に移さんと為す。竊に神社に祈り、剣を取て袈裟に裹み、伊勢に逃げ去れども、一宿の間にて、袈裟より脱けて、本社に還り著きたまふ。道行更に亦た還へり到て、錬禅祷請して、又た袈裟に裹み、摂津国に逃げて到て、難波津より纜と解き国に帰らんとするに、海中に度を失ひ、更に亦た難波津に漂ひて着く。〈中略〉道行中心に念を作く、「若し此の剣を棄てば、将に投搦めの責めを免れん」と。則ち神剣を抛つて棄てんとするに、神剣身を離れたまはず。道行が術尽きて力も窮り、拝手して自ら肯つて、遂に斬刑に当る」
「天渟中原瀛真人(天武)天皇、朱鳥元年夏六月己巳朔戊寅[十日]、天皇の御病を占ふに、草薙剣の祟りと為し、即ち有司に勅し、尾張国熱田社に還し奉る」
とある。
『平家物語』剣巻[LINK]に、
「十二代の帝、景行天皇四十年の夏、東夷多く御政を背きて関東静らず。帝の第二の皇子、日本武尊、御心も武く、御力も勝れて御座しければ、彼皇子遣して平げしに、同年冬十月に道に出でて、先づ大神宮に参り給ふ。やまと姫の尊をして、天王の命に隨ひて、東攻に赴く由を申されたりければ、崇神天皇の時、返しおかるゝ天叢雲剣を出し給ふ。日本武尊是を帯きて、東国に下り給ふに、道に不思議あり。出雲国にて素盞鳴尊に害られたりし八岐大蛇天降り、無体に命を失はれ、剣を奪はれしし憤散ぜず、今、日本武尊の帯て東国に赴給を、せき留て奪帰さんそのために、毒蛇となりて、不破関大路を伏塞たり。尊、事ともし給はず、躍り越えてぞ通られける。尾張国に下て、松子の島といふ所に、源太夫と云者の家に泊り給へり。大夫に娘あり。名を石戸姫といひけり。眉目貌好りければ、尊是を召て幸ひし給ふ。一夜の契深くして、互に志浅からず」
「駿河国富士の裾野に到る。其国の兇徒、「此野に鹿多く候、狩して遊ばせ給へ」と申しければ、尊即ち出で遊び給ふに、兇徒等野に火をつけて、尊を焼き殺し奉らんとしける時、佩き給へる天叢雲の剣を抜きて、草を薙ぎ給ふに、刈草に火つきて、脅したりけるに、尊は火石、水石とて、二の石を持ち給へるが、先づ水石を投懸け給ひければ、即ち石より水出でゝ消えてげり。又火石を投懸け給ひければ、石中より火出でゝ、兇徒多く焼死にけり。其よりしてぞ、其野をば天の焼そめ野とぞ名づけゝる。叢雲剣をば、草薙剣とぞ申しける。尊、振り捨て給ひし岩戸姫のこと、忘れ難く心にかゝりければ、山覆り江覆るといふとも、志のよしを彼の姫に知らせんとて、火石水石の二の石を、駿河の富士の裾野より尾張の松子の島へこそ投げられけれ。彼所の紀大夫といふ者の作れる田の、北の耳に火石は落ち、南の耳に水石は落つ。二の石留る夜、紀大夫の作りける田一夜が内に森となりて、多くの木生ひ繁りたり。火石の落ちける北の方には、如何なる洪水にも水出づることなく、水石の落ちたる南の方には、何たる旱魃にも水絶ゆる事なし。是火石水石の験なり。尊は是より奥へ入り給ひて、国国の兇徒を平げ、所々の悪神を鎮め、同五十三年(四十三年の誤記)尾張へ帰り、又岩戸姫に幸ひし給へり」
「都へ上り給ひけるに、草薙剣をば記念せよと岩戸姫に渡し給ひしを、「我れ女の身なれば剣持ちて何かせん、只持ちて上り給へ」と申されければ、存ずる旨ありとて、桑の枝にかけて、尊は上り給ひにけり。さる程に八岐の大蛇、伊吹大明神は、尊に跳り越えられて、え留めぬ事を本意なく思ひて、前よりも尚大に高く顕れて、大路をぎ給へり。尊は猶も事ともし給はず、走り越えて通り給ひけるに、引き給ひける足の先、大蛇にちと障りたりければ、其より頓てほとぼり上りて、五体身心忍び難く、打伏しぬべくおぼせども。心強におはしける程に、悩みながら近江国まで越え給ふ」
「尊は猶近江国千の松原といふ所に、悩み臥し給ひけるが、松子の島に宿り給ひし岩戸姫は、尊の余波を惜みつゝ、在りもあられぬ心地して、尋ね上り給ひけるが、近江の千の松原に御座しけり。尊は悩みながら思ひ出されて、恋しく思しける処に、岩戸姫来り給ひければ、あまりの悦ばしさに、「あは妻よ」とて、大に悦び給ひけり。其よりして東国をば、吾妻とぞ名づけたる。かくて日数を送り給ふ程に、尊は御悩重くならせ給ひて、終に失せ給ひにけり。白鳥となりて、南を指して飛び給ふ。岩戸姫は尊の別を悲しみて、悶え焦れ給へども、其甲斐なき事なれば、泣々尾張国へ帰り給ひけり」
「草薙剣をば桑の枝に懸け置き給ひしを、岩戸姫此を取り、紀大夫が田、一夜の内になりたる社の杉に靠け置かれたりけるが、夜々剣より光立ちければ、彼の光、杉に燃えつきて、焼け倒れにけり。田に杉の焼けて倒れ入りたりければ、田も熱かりけるといふ心に、熱田とぞ名づけたる。日本武尊は、白鳥にて飛び落ち給ひて神になる、今の熱田大明神これなり。岩戸姫もあかで別れし中なれば、即ち神とあらはれ、源大夫も神となり、紀大夫も同じく神とぞあらはれける」
とある。
「上野国児持山之事」に、
「抑当社大明神(熱田大明神)と申は、御本地は十一面観音にて御在す。我朝現国の時は、紀太夫殿に宿を借せ給し」
とある。
吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]に、
「熱田 人皇十二代景行帝十四男小碓尊、後の名は日本武、此の神の垂跡なり。大宮は日本武、東は素戔烏、南は宮簀姫、今の氷上明神なり、西は伊弉冊、北は倉稲尊、中央は天照大神、已上六社」
とある。
深田正韶『尾張志』[LINK]に、
「当宮はかけまくもかしこき草薙神剣を日本武尊の御霊代として斎祭る神宮也。〈中略〉上代は一座にましましけむを、今は五柱神相殿に座これを正殿と称て西の方にまし、神剣は渡用殿〈土用殿とも書来れり〉と称て東の方に並る神殿に坐り」
とある。
『尾張名所図会』巻之三[LINK]に、
「御本社正殿 〔延喜神名式〕に熱田神社〈名神大〉と記せり。祭神五座にして、中殿に日本武尊、西殿二間に天照大神・素盞烏尊、東殿二間に宮簀媛命・建稲種命を祀れり」「土用殿 正殿の東に並びて草薙の宝剣を安置す」
とある。
『熱田大神宮御鎮座次第神体本記』[LINK]に、
「熱田皇大神一座〈尾張国吾湯市郡江崎松姤島千竈郷に在り〉伊弉諾尊御子、大日孁貴と謂ふ、伊勢国に鎮座して名を天照坐皇大神と号し、尾張国に鎮座して名を熱田皇大神と号す〈亦天御柱国御柱神と曰ひ、亦国常立尊と曰ふ〉。土用殿に坐す御正体は瓊矛(瓊は玉なり、矛は草薙剣なり)、正殿に坐す神璽は御筥なり」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「神体は日本武尊の和御魂なる草薙剣とす、此剣は素盞嗚尊が八岐大蛇を斬りて獲たるものにして、本名を叢雲剣と云へり、初め正殿に在せしを、何時の頃にか土用殿〈一名を渡用殿〉に徒して、正殿には五座の神を斎祀したりしが、明治に至り、土用殿を廃して、五座の神と相殿となす」
とある。
八剣
別宮・八剣宮
祭神は本社と同じ。 一説に素盞嗚尊の和魂とする。
式内社(尾張国愛智郡 八剣神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正一位 八剣名神」とある。
『平家物語』剣巻[LINK]に、
「(新羅の)帝、生不動といふ将軍に、七の剣を持たせて、日本へぞ渡しける。生不動既に尾張国まで攻め来る。熱田の神宮悪き奴かなとて、蹴殺し給ひにけり。所持の七の剣を召取りて、草薙剣に加へて、宝殿に祝はれたり。今の八剣の大明神とはこれなり」
とある。
『熱田の神秘』[LINK]に、
「新羅の帝、剣をは取りへすして、道行をは殺し給へぬ、腹を立ゝせ給ひて、天竺より、生身の七不動を、祈り下して、日本国、押し寄せ、熱田明神を、討ちまいらせんとし給ふ時、明神、この由を、天照大神へ、申させ給ふ、力を合すへしとて、九万八千の軍神を以て、御戦い有りしかは、大明神喜ひ給ひて、さて、七不動を奪ひ取り、七不動剣と元の剣に相副へ、八剣の明神と、祝はれ給ふ」
(引用文は漢字に改めた)とある。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「正一位八剣神社 本社の南三丁にありて、日割御子神社の西に当れり。即下の宮と称し、熱田摂社七所の一社なり」「和銅元年[708](戊申)九月九日の御鎮座にして、多治見真人池守・安倍朝臣〈実名を脱せり、されど〔続日本紀〕には宿奈麿と見えたり〉を勅使とし、新造の宝剣を納め給ひて八剣宮と称し奉り、別宮として年中の祭祀本社のごとしと、〔熱田正縁起〕に見えたり」「本社 祭神十座。神秘にして其の何れの神たる事をしらず」
とある。
また、同書・巻之三の木津山神宮寺大薬師の条[LINK]に、
「不動堂 本堂の側にあり。此堂もと八剣宮の境内にあり。不動明王の像は弘法大師の作にて、八剣宮の本地仏と称せしを、元禄年中再興の時こゝにうつし、不動院これを守る」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「八剣宮十座〈大八洲之安国知食す大耳尊、西皇大神素戔烏尊、東佐曾良比の生ます神四座、姫大神、已上御霊形御筥にして坐す、古へ清御原朝に神約を立て、百王鎮護の祈り有り、是に以て和銅元年に至り、始て此の宮を祭る也〉」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「本国神名帳集説には素盞嗚尊の和魂となす、神社問答雑録には「問、当社祭日、神饌十前を供すと、何の神ぞや、答、社伝に云、大宮の五座と当宮の五座と合て十前也、但台盤は五脚にして、神饌は十前也」とあり、熱田神体伝も略之と同説なり」
とある。
また、同書の不動院の条[LINK]に、
「弘仁二年[812]、空海勅を奉じて神宮に千日間の参籠をなすや、修法の余暇、八剣宮の本地仏として不動尊の像を彫刻し、一堂を建てゝ之を安んず」
とある。
【参考】高蔵社
摂社・高座結御子神社[愛知県名古屋市熱田区高蔵町]
祭神は高倉下命。 一説に仲哀天皇あるいは成務天皇とする。
式内社(尾張国愛智郡 高座結御子神社〈名神大〉)。
史料上の初見は『続日本後紀』巻四の承和二年[835]十二月壬丑[12日]条[LINK]の「尾張国日割御子神・孫若御子神・高座結御子神、惣て三前を名神に預り奉る。並に熱田大神の御児神也」。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 高蔵名神」とある。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]に、
「高蔵結 日本武の第二子仲哀天皇なり」
とある。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「高座結御子神社 新はたや町東なる田野にあり。社地甚広く古木繁茂し、遠望するにもいと尊く神さびたり。熱田摂社七所の一社なり。高蔵宮と称す。〈中略〉本地仏に毘沙門天を安置せしも、今は社人の家に納む。しかれども例年正月三日には、当社の神供所にて此像を開扉し、諸人に拝せしむ。神像は弘法大師の彫刻なり」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「高蔵結御子宮三座〈国常立尊(正哉吾勝々速日)、天照地照神(天忍穂耳尊)、天御柱国御柱神(天穂日尊)、已上御霊形御筥にして坐す、日代宮(景行天皇)御宇[71-130]之を祭る、一に云ふ、清御原宮(天武天皇)御宇[673-686]之を祭る〉」
とある。
『熱田神体伝』[LINK]に、
「熱田に於ては四社の大社の内なり、祭神、或説に云、高皇産霊尊、左吾勝尊、右栲幡千千姫云々、亦一説に、中央天御柱国御柱神、左素盞嗚尊、日本武尊云々、鎮座次第記曰、高蔵結御子神社三座、国常立尊、天照地照神、天御柱国御柱神、已上御霊形御筥而坐、日代宮御宇祭之、一云、清御原宮御宇祭之、云々、又一説に、吾勝尊を本主として、天照大神、素盞嗚尊を祭ともいへり、続日本後紀云、承和二年位を給、所謂熱田大神之御児神也、云々、御児とも云に付説々あり、吾勝尊を祭て御子結と云付、高皇産霊尊、天照大神三座と云り、然れども正説は中央に仲哀天皇、左成務天皇、右神功皇后と云々、高蔵と称するは高位を結と云義とぞ、因て本主に仲哀天皇を祭なり」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「又他に諸説あり、或は仲哀天皇〈社伝、熱田神体伝、尾張志、尾張国式社考、神祇宝典、熱田旧記、尾張視聴合記、熱田雑記、神社問答雑録、熱田諸社略記〉、或は成務天皇〈熱田宮略記〉、或は成務天皇、仲哀天皇相殿〈尊名記集説〉、或は高倉下命、一名天香具山命〈神宮祭神記〉とす、此神は大宮司尾張家の祖神なり」
とある。
熱田七社に数えられる重要な摂社であるにもかかわらず、『神道集』には高蔵社の名が見えない。 『熱田宮秘釈見聞』の「八剣宮不動明王、高蔵毘沙門」と比較すると、『神道集』の「八剣は太郎・次郎の御神にて、本地は毘沙門・不動明王なり」は高蔵・八剣の両社に関する記述(高蔵社の名が欠落)ではないかと思われる。
日別
摂社・日割御子神社
祭神は天忍穂耳尊。 一説に武鼓王、稲依別王、軻遇突智神、日本武尊所帯の天火徹燧、あるいは日前饒穂命とする。
式内社(尾張国愛智郡 日割御子神社〈名神大〉 )。
史料上の初見は『続日本後紀』巻四の承和二年[835]十二月壬丑[12日]条[LINK]の「尾張国日割御子神・孫若御子神・高座結御子神、惣て三前を名神に預り奉る。並に熱田大神の御児神也」。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 日割名神」とある。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]に、
「日割御子 日本武の五男武鼓王なり。母は吉備穴戸武姫、吉備武彦の女」
とある。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「日割御子神社 大福田社の南隣にあり。熱田摂社七所の其一社なり」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「日剖御子宮四座〈日前饒穂命、手栗彦命、已上御霊形御筥にして坐す、一に云ふ、燧にして坐す、秋津島宮(孝安天皇)御宇[B.C.392-B.C.291]之を祭る〉」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「祭神は日本武尊の御子武鼓王とも〈神名帳兼倶頭註、尾張志、尾張国明治神名帳〉、稲依別王とも〈尾張国式社考、参考本国神名帳集説、熱田神体伝、熱田社伝〉、軻遇突智神とも〈熱田尊命記集説、張州府志、熱田宮略記〉、日本武尊所帯の天火徹燧とも〈社伝、厚見草などに見ゆ、百録によれば燧を此社の下に鎮めたりと云ふ〉、日前饒穂命とも云へり〈熱田宮鎮座次第記、尾張志にはいかなる神にか、ものに見当らずと記す〉」
とある。
火神
摂社・氷上姉子神社[愛知県名古屋市緑区大高町]
祭神は宮簀媛命。 一説に両道入姫命とする。
式内社(尾張国愛智郡 氷上姉子神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「従三位 氷上姉子天神」とある。
『尾張国熱田太神宮縁記』[LINK]に、
「宮酢媛下世の後、祠を建てこれを崇め祭り、氷上姉子天神と号す。其の祠愛智郡氷上邑に在り」
とある。
『延喜式神名帳頭註』[LINK]に、
「氷上姉子 両道入姫命なり。日本武の姉なり。仲哀の母と為る」
とある(『日本書紀』によると、両道入姫命は垂仁天皇の皇女で、日本武尊の叔母である)。
『尾張名所図会』巻之六[LINK]に、
「氷上姉子神社 同村[大高村]にあり。今氷上神社と称す。熱田七社の一なり。〈中略〉抑当社は、仲哀天皇の御宇、社を沓脱島に遷し〈是を元宮と称す〉、同帝の四年[195]に又今の地に遷し給ふ」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「氷上宮二座〈宮簀媛命、豊浦宮(推古天皇)御宇[593-628]之を祭る、広野姫天皇(持統天皇)御宇に至り、火高に遷し奉る。此の時合祭神日本武尊也、二坐御霊形御筥一箇坐す〉」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「祭神は宮簀姫命とす、寛平熱田縁起によれば、此地は尾張氏の旧里にして、宮簀姫も此地に在せしなり〈姫の事績は大宮司の條下に述べたり〉、其縁故にて薨後こゝに祀らる〈仲哀天皇四年の鎮座と称す〉、其後持統天皇の時、氷上宮の元宮と云ふ所に徒し、同四年[690]また今の宮地に遷すと云ふ」
とある。
源太夫殿
摂社・上知我麻神社
祭神は乎止与命。
式内社(尾張国愛智郡 上知我麻神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 千竈上名神」とある。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「上知我麻神社 市場町通伝馬町の西にあり。俗に源太夫社、又智恵の文殊ともいふ。熱田摂社七所の一社なり。〈中略〉祭神小豊命は尾張氏の遠祖、また当国の国造にて、〔旧事記〕の国造本紀に、「尾張国造志賀高穴穂朝(成務天皇)天別天火明命の十世孫小止与命を以て国造を定め賜ふ」と見えたり」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「上千竈宮六座〈地主神小豊命、左猿田彦神、天鈿女命、右足那槌神、手那槌神、已上御霊形御筥にして坐す、又白幣六前御扉の外に安ず〉」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「祭神は尾張氏の祖小豊命、尊命記集説に曰く「此神は熱田の地主にして、宮酢姫の命の御父也、社家の説に東海道守護の神也と云へり、実に東国に往来する者、皆此神前を過らざることなし、宜しく敬して旅行の不詳を祓ふべきこと也、云々」」
とある。
記太夫殿
摂社・下知我麻神社
祭神は真敷刀婢命。 一説に玉媛命を配祀して二座とする。
式内社(尾張国愛智郡 下知我麻神社)。
『尾張国内神名帳』[LINK]には愛智郡に「正二位 千竈下名神」とある。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「下知我麻神社 鎮皇門の北の築地の外にあり。熱田摂社七所の一社なり。紀太夫殿と称す。〈中略〉国造小止与命の妃真敷刀婢命と、建稲種命の妃玉媛命二座を祭れり」
とある。
『熱田宮鎮座次第』[LINK]に、
「下千竈宮六座〈真敷刀婢命、左天道姫命、穂屋姫命、右玉姫命、櫛稲田姫命、宮簀姫命、已上御霊形御筥にして坐す〉」
とある。
『名古屋市史 社寺編』の神宮寺の条[LINK]に、
「夢違観音堂〈千竈社本地堂〉」
とある。
大福殿
末社・大幸田神社
祭神は宇迦之御魂神。 一説に天忍穂耳尊とする。
『尾張名所図会』巻之四[LINK]に、
「大福田社 南新宮の南に隣れり。もと神宮寺の境内にありしを、元禄十六年[1703]こゝにうつせり。熱田摂社七所の其一社にして、〔本国帳〕に大福田菩薩とあるはこれなり。朱雀院の御宇、相馬将門叛逆せしかば、追討使を下され、勅して熱田社に御祈願あり。神輿を星崎にふり出し奉りて祈祭す。故なくして忽神輿血に染みしが、将門其時刻に秀郷・貞盛が為に誅せらる。是大神の示し給へる先兆なり。然るに其輿血に汚れて、本宮に還座なしがたく、新に一祠を建てゝ是を収め、大福田社と号す。祭神は正哉吾勝命なり」
とある。
神宮寺
熱田神宮寺(木津山神宮寺大薬師)
本尊は薬師如来。
『尾張名所図会』巻之三[LINK]に、
「木津山神宮寺大薬師 海蔵門の外二十五挺橋の西なる片町にあり。当寺は仁明天皇の勅建にして伝教・弘法両大師の開基なり。社僧如法院の寺務たりしよし、承和十四年[847]三月七日の太政官符に見えて、おぼろげならぬ霊区なりしが、累年の兵乱に衰微頽廃せしかば、右大臣豊臣秀頼公再興し」 「元禄九年長久寺の住僧隆慶、江戸護持院僧正隆光に法縁あるにより、隆光吹挙して将軍家に達し、神宮寺再建の御免許を得しかば、国君も許容し給ひ、同十五年[1702]堂宇を修造し、不動院愛染院を外より境内へ移し、医王院を再建して住持を立てられ、旧観に復せしめ給へり。山号もとは亀頭山なりしを、近頃今の文字にあらたむ。亀頭・木津同音なるうへ、承和十四年三月七日の官符に「神宮寺別当を置く。蔭孫正八位下御船宿禰木津山」とあるに據れり」
とある。
また、本尊について
「本尊 薬師如来の坐像。台座より後光まで高さ二丈一尺八寸の大像なり。腹内には弘法大師真作の薬師仏を収むといへり」
とある。
『名古屋市史 社寺編』[LINK]に、
「神宮寺は亀頭山と号す、熱田神宮海蔵門外御饌殿の西南に在り、神宮寺縁起によるに、弘仁二年、空海勅を受けて、神宮に参籠すること千日、始めて大宮北林の中に香堂一宇を建立して、奥ノ院と号し、自ら愛染明王像を刻して之を安んじ、大宮の本地仏となし、次いで不動明王〈八剣宮本地仏〉、大黒天像〈大福田社〉、地蔵菩薩〈日割社の本地、白鳥山の本尊と云ふ〉等を作ると云ふ、是れ神宮寺の起源なり、承和十四年三月七日、勅に依りて神宮寺一区を置き、蔭孫正八位御船宿宿禰木津山〈亀頭山の山号は是れにより転化せしもの〉を以て別当となす」
とある。
明治元年に廃寺となったが、同三十六年[1903]に木津山不動院が愛知県名古屋市熱田区高蔵町に再興された。
五智如来
光宗『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]に、
「尋ね云ふ、熱田社を以て五智如来と習ふ方如何。答ふ、熱田明神とは金剛界の大日也。故に五智を以て本智(本地)と習ふ也。或は又真言三部経を以て本地と為す。或は又宝剣を以て神体と為す。皆是れ金剛界智門の表示也」
とある。
『熱田宮秘釈見聞』[LINK]に、
「熱田大明神の本地は北天竺の和伊露羅国の主なり。彼の国に岩屋あり、名をは仏生石と云ふ。高さ四十里、広さ六十里也。其の岩の中に八葉の蓮花の座あり、其の座と云ふは花蔵世界(蓮華蔵世界)也。五智の大日如来御坐す、故に密厳浄土と名づく。東方大円鏡智、南方平等性智、西方妙観察智、北方成所作智、中央法界躰性智也。然りと雖も、衆生化度の為、日本国尾州愛智郡に垂跡し給ふ。東方阿閦仏の因位はソサノヲノ(素戔嗚)尊。南方宝生仏は宮酢姫、今の氷上宮也。又聖観音と現れ給ふ。西方弥陀はイザナミ(伊弉冊)。北方尺迦(釈迦)は稲種尊也。中央大日は天照大神也。今現はれ給ふ天藂雲剣は、此れ大日なり。天照大神とも、又熊野権現とも化現し給ふなり。然り則ち、熊野権現、伊勢太神宮、熱田大明神とは、一躰分身也。剣は国常立尊の造り給ふ也」
とある。
『熱田の神秘』[LINK]はほぼ同内容だが、熱田大明神の本地を迦毘羅衛国の主、北方の釈迦如来を稲田姫とする。
賀茂社
現在の熱田神宮には該当する摂末社は存在しないが、『尾張名所図会』巻之三[LINK]に、
「賀茂祠 立田祠の北にあり」
とあり、『神道集』を引用して
「此歌は〔新古今〕および〔袋草子〕等其外の歌書どもに、只かもの御歌とのみ記したれば、山城の賀茂の御歌と皆人思へど、此の〔神道集〕に確に其女が大宮司の妻になりたる由までを誌したれば、当社の摂社なる賀茂の御示現なりしこと疑べからず」
と述べる。 また、同書の「熱田大宮全図 其二」[LINK]でも、本殿の東に「立田」と並んで「上加茂」が描かれている。
『新古今和歌集』巻第十九(神祇歌)[LINK]に、
「我れ頼む人いたづらになしはてば 又雲わけてのぼるばかりぞ」(賀茂の御歌となむ)
を載せる。
参考文献『熱田宮秘釈見聞』
垂迹 本地 熱田大明神 大日如来 相殿五座 天照大神 大日如来 建速素盞嗚尊 阿閦如来 宮簀媛命 宝生如来 伊弉冊尊 阿弥陀如来 建稲種命 釈迦如来 八剣宮 不動明王 高座結御子神社 毘沙門天 日割御子神社 地蔵菩薩 氷上姉子神社 聖観音(または阿弥陀如来) 源太夫殿(上知我麻神社) 文殊菩薩 記太夫殿(下知我麻神社) 十一面観音(または弥勒菩薩) 大福田社(大幸田神社) 虚空蔵菩薩
真清田大明神
真清田神社[愛知県一宮市真清田1丁目]
祭神は天火明命。 一説に国常立尊あるいは大己貴命とする。
式内社(尾張国中嶋郡 真墨田神社〈名神大〉)。 尾張国一宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十七の承和十四年[847]十一月癸酉[11日]条[LINK]の「尾張国無位大縣天神・真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る」。
『尾張国内神名帳』[LINK]には中嶋郡に「正一位 真清田大明神」とある。
佐分清円『真清探桃集』巻之第一[LINK]に、
「正殿 国常立尊。兼熙一宮記に云ふ、大己貴命也。〈中略〉当宮正縁起に曰く、人皇十代崇神帝の朝、王城より東方に当り、紫雲靉靆として、天に聯連し、地に充満す。而して国土変じて紫色也。帝遙かに之れを眺望し、即ち占者に勅して詢卜し玉ふ。占者勘奏して曰ふ、「此の紫気現前するは、これ即ち天墜の元本主国常立尊此の地に降り座す。豊秋津大八洲宝祚鎮護の神を崇め奉るべし」と。〈中略〉帝占者の辞に因つて、仍ち勅使を簡 て、斎敬して此地に下向す。神区を窺ひ覩るに、青桃之丘山、東西に龍窟有り。時に紫雲靉靆の地に就て、六葉の若松三本を雨ふらす。一老翁有りて、勅使を導き諭へて曰ふ、「此の地はこれ万代不易、大祖尊神鎮座の霊区也。将に此の松一本を留めて此の地に植ゆべし」と。〈中略〉帝大ひに叡感有りて、即ち百寮に命じたまひ、此の地の下津岩根に八尋宝殿を経営し、天津高坐を設け、爰に大神の魂を祭り奉りたまふ。 〈中略〉尊神鎮座の時、八頭八尾の大龍に乗りたまふ、当国を以て八郡に割分するは、亦此の八尾に因み候。八尾に各剣を備ふ。即ち此の魂を祭り、当宮の武神と崇めたまふ」
とある。
同書・巻之五[LINK]に、
「一宮号 神記に云ふ。崇神帝勅して曰く、尾張国に限れる一宮に非ず、摠て是れ日本第一の宮と号す者也。尊神は開闢第一の神なり。乃ち天元の一水を生じて無辺の神沢を施したまふ。又鎮座の初め、松を降らすの瑞有りて、神人勅使を示し導きたまふ。帝便ち之れに命ずるに、一宮号を以て神徳の霊符に応じたまふ」
「金剛珠玉殿号 神記に云ふ。応神帝正一位光厳珠玉殿の号を賜ふ。又金剛殿と曰ふ。又金剛地と称す。同記に云ふ。大神降臨の頭 、八頭八尾の大龍に乗りたまふ。又大龍の魂を以て、八金剛神と名づく。是れ即ち大神の分魂也。御鎮座伝記に因るに、興玉神託して曰く、止由気皇大神、便ち日天子(月天子の誤記)也、故に金剛神と曰ふ。金剛は、是れ陰神水徳の号を称へ奉りたまふ。両部家は此の神を以て金剛大毘盧舎那仏に配す。毘盧舎那は便ち大日也」
とある。
『真清田宮御縁起』[LINK]に、
「何なる神哉と尋ね奉るは、本覚本身毘盧遮那仏国常立、 是摩訶毘盧遮那一身万形所変して、 国土建立して、彼の国に結縁の衆生を利生して、 仏果を得せしむ為也」
とある。
『大日本国一宮記』[LINK]に、
「真墨田神社〈真清田大明神此れ也。大己貴命〉尾張中島郡」
とある。
『尾張名所図会後編』巻之一[LINK]に、
「正一位真墨田神社 一之宮村に立たせ給ふ。当国の一の宮と称す」 「夫当社の鎮座は、年歴久遠にして、詳ならずといへども、社説に、神武天皇三十三年癸巳[B.C.628]三月三日、松降荘青桃丘(今の一の宮村なり)に御鎮座なりといへり。抑此御神は、天神七代のはじめ、百王太祖の国常立尊にて坐す。尊神常に天地の中に独立ちて、万物を化育て給ふにより、天御中主尊とも称し奉りて、天地の間、生きとし生けるもの、此御神の霊徳に洩るゝはなし」
とある。
また、祭神について
「本社 祭神は卜部兼凞の〔大日本国一宮記〕に、真墨田神社は真清田大明神是れ也。大己貴命。尾張国中島郡と見えたり。社説には、国常立尊・天照大神・月読尊・大己貴命・大龍神を合せ祭るといへり。されども〔神祇宝典〕に国常立尊。当社二神を祭る。所謂天神七座・地神五座也とかゝせ給へるを誠の祭神とすべし。真清田清円が〔探桃集〕に、尊神鎮座之時、八頭八尾の大龍に乗りたまふと見えたり。合殿に大龍神を祭ることは、これによるにや。又僧惟高が〔臥雲日件録〕にも、嵯峨天皇の御宇、弘法大師雨を龍神に祈りし時、彼龍神、尾張国真清田宮森木の中に居らん事を乞ひて、此宮に飛び来る。弘法曾てこゝにおいて秘法を行ひしよししるせり。これらの縁によりて合せ祭れるか」
とある。
吉見幸和『宗廟社稷問答』〔平田篤胤『古史伝』九之巻に引用〕[LINK]に、
「真墨田社を、一宮記に大己貴命と為たるは非なり。尾張氏の上祖、歴世当国に住りしかば、其遠祖を祭れる社、三十余座あり。中に、天照国照彦火明命は、中島郡真墨田神社に祭りて、一宮と称す。天之香山命は、同郡尾張神社に祭る」
とある。
垂迹 本地 真清田大明神 地蔵菩薩(または毘盧遮那仏)
太賢光明神
伝本によっては太覚光明神と表記される。
大縣神社[愛知県犬山市宮山]
祭神は大縣大神。 一説に国狭槌尊または大荒田命とする。
式内社(尾張国丹羽郡 大縣神社〈名神大〉)。 尾張国二宮。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第十七の承和十四年[847]十一月癸酉[11日]条[LINK]の「尾張国無位大縣天神・真清田天神の二前に並びに従五位下を授け奉る」。
『尾張国内神名帳』[LINK]には丹羽郡に「正一位 大縣大明神」とある。
『尾張名所図会後編』巻之六[LINK]に、
「大縣神社 二ノ宮村にあり。俗に二之宮大明神と称す」 「垂仁天皇二十七年[B.C.3]の御鎮座にて、天武天皇朱鳥元年[686]、勅して再建し給ひ」「本社 祭神国狭槌尊・活目入彦五十狭茅天皇・国常立尊・豊斟渟尊を合せまつれり」
とある。
また、
「本宮山 大縣神社のうしろ、社より東北にありて、真神山・真霊山・二宮山ともいふ。二の宮の本宮をいつき祭るゆゑに此名あり」 「本宮 大縣神社の本宮にして、山の頂上にあり。祭神国狭槌尊荒魂」
とある。
『尾張志』[LINK]に、
「二宮村にます。大縣はオホアガタと訓へし。今は二宮大明神と申す。延喜神名式に丹羽郡大縣神社〈名神大〉、本国帳に正一位大縣大名神とある是れ也。大縣は此地の旧名なれとも二宮といふ称のおこれるよりうつりて社号にのみ地名を残せり、扨此処は旧事紀に邇波県と見えたる地にてすなはち邇波県君祖大荒田命を祭れるにもやあらむ。大荒田命は同紀五巻尾張氏の世系を書る條に「十二世孫建稲種命此命邇波県君祖大荒田命女子玉姫為妻生二男四女」とあるに明し」 「社説に垂仁天皇二十七年の勅建なるよしいひ伝へたるは古く尊し」
とある。
垂迹 本地 太賢光明神 千手観音