『神道集』の神々
第三十五 白山権現事
白山権現は北陸加賀白山の雪山に垂迹された。 時期については二つの説がある。 一つの説は、第四十四代元正天皇の霊亀二年である。 もう一つの説は、第四十九代光仁天皇の宝亀二年、泰澄大師が顕されたというものである。白山権現の大御前の本地は十一面観音である。
小男地の本地は阿弥陀如来である。
別山大行事の本地は請観音である。
五人の王子がいるが、太郎は剣御前、本地は大聖不動明王である。
次郎王子の本地は虚空蔵菩薩である。
三郎王子の本地は地蔵菩薩である。
四郎王子は毘沙門天王で、毘沙門天王の本地は文殊菩薩である。
五郎王子の本地は弥勒菩薩である。
当社権現の五万八千の采女は皆鶏鳥である。
信濃の浅間も同じく此の御神である。
大御前
白山奥宮[石川県白山市白峰]祭神は白山比咩大神。 通説では菊理媛命であるが、一説に伊弉冊尊とする。
御前峰の山頂に鎮座する。
『白山之記』[LINK]には
加賀国石川郡味智郷に一つの名山あり。白山と号す。其の山頂を禅定と名づく。有徳の大明神住す。即ち正一位白山妙理大菩薩と号す。その本地は十一面観自在菩薩なり。一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す。とある。
虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第十八の白山明神の条[LINK]には
白山明神は伊弉諾尊なり。 そのさき泰澄法師、越前州の越知峯に棲み、常に白山を望て曰く、「彼の雪の嶺には必ず霊神の有ぬべし、我まさに彼に登りて顕なる応瑞を乞ふべし」と。 然るところに霊亀二年[716]に夢みらく、天女瓔珞身を厳り紫雲の中より出て曰く、「我が霊感時至れり、早く来るべし」と。この故に養老元年[717]四月一日には、泰澄すなはち白山の麓、大野隈筥河の東、伊野原(福井県勝山市猪野)に往て、乃ち心を専らにして持誦せり時にあたりて、前に夢みるところの天女身を現じて曰く、「此の地は大徳の母の産穢の所なりける、すでに結界の非ず。此の東の林泉(白山神社[勝山市平泉寺町平泉寺]の御手洗池)は吾が遊びとどまるところなり、師彼に移らるべし」と言ひ已りて形たちまち隠れたり。 其の時に泰澄は其所に到り、持念すること前のごとくなりしかば、天女又来て曰く、「我天嶺に在りといへども恒に此の林に遊びぬる。抑も此の林は我が中居する処なり。[中略]吾はこれ伊弉諾尊なり。今妙理大菩薩と号す。此の神岳白嶺は我が国を主りし時の都城なり。我は乃ち日域男女の元神なり。天照大神は我が子なり。[中略]吾が本地真身は彼の天嶺に在り、大徳往いてこれを見よ」と言ひ已りて、天女すなはち隠れたり。 其の時に泰澄乃ち白山天嶺の絶頂に登りつゝ、緑碧池(翠ヶ池)の側に居て持誦すること専注なりしかば、忽ち九頭の龍あり、池の面に出たりける。 泰澄の曰く、「是は方便の現躰、本地の真身にあらず」とて持念することいよいよ確しかゝりかれば、頃刻の間に十一面観自在菩薩、妙相端厳にて光彩熾に赫けり。 泰澄稽首し足を礼し白して曰く、「願はくは像末の衆生のために其の極苦を救ふ慈悲を垂れたまへ」と。 時に菩薩金冠を揺し蓮眼を瞬して許容ましましけり。 未だ三拝の数をだも畢らざるに、妙体すでに隠れたまへり。とある。
上記文中の「伊弉諾尊」については、「伊弉冊尊」の誤記とする説と、当時の白山神は伊弉諾尊だった(文中の「天女」は白山神ではなく、その神託を伝える巫女)とする説がある。
『加賀白山伝記之事』には
夫れ白山妙理大菩薩と申奉るは、本地は娑婆施無畏の主し遍在智満の菩薩にて、垂跡は伊弉冊尊となり。
(泰澄大師が)又人皇四十四代元正帝霊亀二〈丙辰〉年、加賀の国舟岡山に移り妙法の岩窟に住居して、白山権現に霊験を祈り給ふところに一夜夢中に権現貴女の姿を現して、白馬に騎りて今の下白山拝殿の前の平岩の上に止まりて、大師につげてのたまわく、「我れは白山の真霊なり。昔し葦原国始て成りしより以来此の舟岡山に住みなれ、西河の深淵に遊ひ、時節因縁を待て、汝が出世の結界荘厳の道場を建立せんと事を相待こと既に久し」とのたまひて、ついに隠れたまふと見て忽ち夢さめたり。 大師奇特の思に任して安久濤の淵にのぞみ瀧の辺に向ひて礼仏祈念したまふ時に、貴女又紫雲の中に身を現してのたまわく、「霊感時至れり。早く修行すべしと云々」。 又養老元〈丁巳〉年四月に右の貴女直に身を現してつけたまわく、「我はこれ昔は伊弉冊尊となり。天照大神の王母なり。今は白山妙現(白山妙理権現)と名けたり。彼の白山の嶺は我れ国を主とる時の都城とする処なり。[中略]我が本地の真身は雲嶺の絶頂にあり。安久濤の流れを越へ源をたづね登り拝すべし」と宣いて、妙体忽ちに隱れたまふ。 大師喜悦の思ひに任して貴女の告けに任せて、同年六月白山の絶頂に登り、転法輪の岩室に入り緑の池に向ひて観念したまへば、池の中より九頭の龍王出現せり。 大師これを御覧して、「それは方便の示現なり。本地の真身にあらず」と深く祈念したまへは、十一面観世音大慈大悲の玉体速にあらわれたまふ。 妙相眼を遮り光明身を耀すなり。 大師稽首帰命してのたまわく、「舟岡山にては垂跡貴女の霊体を拝し、今白山絶頂縁りの池にては本地救世の玉体を拝する事宿縁限になし。仰ぎ願わくは末世の衆生を救度利盆したまへ」と。 その時観世音金冠を揺し慈眼を瞬して納受したまいて、玉体忽に隠れたまふ。とある。
『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には
抑白山七社と申すは、先禅頂の正殿は伊弉冊の尊。 本地十一面観音・日天子・越知娘。 下白山は垂跡貴女の御質、即ち泰澄大師是也。 七星の内には巨門星是也。とある。
神吽『八幡宇佐宮御託宣集』王巻十四(馬城峰部)[LINK]には
白山権現の事。とある。
八幡大菩薩の太祖権現なり。 第四十二代文武天皇大宝元年〈辛丑〉、泰澄和尚〈又は古志の大徳と云ふ〉神融は、人間に生れ、空中に飛ぶ。 第四十四代元正天皇、養老年中、越前国と加賀国の境に高巌有り。 白山と号く。 宝池有り、緑水を湛ふ。 常ならざる処、已に奇異なり。 和尚此の池に於て、心水を澄し、経呪を誦念し、法味に備へ奉る。 祈つて言く、「定て仏神の居たるか。色身の体を拝したてまつらん」と。 爰に洪波の心より、大蛇の身を現す。 和尚云く、「此は是れ垂迹か。仰で願はくは、本地を現すべし」と。 其の時に阿弥陀如来の色相、波の上に耀く。 次に十一面観世音菩薩の光明、水底に徹る。 然して言く、
「我、昔日本国を利せんが為に、天神第七代の伊弉諾・伊弉冊尊と現れ、今此の峯に住み、一切の衆生を利んと欲ふと」已上。
弥陀は陽神の本地なり。 観音は陰神の本地なり。 今の白山妙理権現是れなり。 観音身を現し説法する山なり。 此の尊神は、応神天皇廿一代の大祖なり。
小男地
境外摂社・大汝神社祭神は大己貴命。 一説に伊弉諾尊とする。
大汝峰の山頂に鎮座する。
『白山之記』[LINK]には
北に並て高峯峙つ。 其の頂に大明神住し、高祖太男知と号す。 阿弥陀如来の垂迹なり。 一間一面の宝殿を建立して、五尺の金銅の像を安置す。とある。
『元亨釈書和解』[LINK]には
泰澄又右の峯に昇りて、一りの奇き衣服せし老翁を見る。 神宇きはめて閑雅なり 。語りて曰く、「我はこれ妙理大菩薩の弼なりける。名を大己貴と曰ふ。西刹の主(阿弥陀如来)なり」と言ひ已りて又隠れたまふ。とある。
『加賀白山伝記之事』には
高祖太汝と申奉るは、本地は安養能化の如来超世願王の善逝なり。 垂跡は大己貴の命と権現輔弼の神なり。とある。
『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には
(白山七社の)第二は越南地、伊弉諾尊、本地阿弥陀如来、月天子、即ち香集世界の主、正法明如来と号す。 石動山にては垂跡金色太子とあらはれ玉ふ。 弥陀如来と虚空蔵分身示現の躰、太己貴・石動山霊所各所の儀に有らず。 故に大鏡之巻の第二に、越南地石動山尾と云々。 太己地の峯続是を思へば、能登の嶋より来る臥之行者則ち太己貴の分身也。 貪狼星也。とある。
別山大行事
境外摂社・別山神社祭神は大山祇命。 一説に天忍穂耳尊とする。
別山の山頂に鎮座する。
『白山之記』[LINK]には
南に十数里去りて高山あり。 其の山頂に大明神住し、別山大行事と号す。 是れ大山の地神なり。 聖観音の垂迹なり。 一間一面の宝殿あり。五尺の金銅の像を安置す。
(白山奥宮の)西に小社有り。 別山の本宮なり。 権現に譲り奉り、南山に渡り給ふなり。とある。
『元亨釈書和解』[LINK]には
泰澄又左の澗に渡り孤峯に上れば、一りの器量ゆゝしき丈夫に値へり。 手には金の箭を握り、肩に銀の弓を横たへて、笑みを含み曰く、「我れこれ妙理大菩薩の輔佐なり。名を小白山別山大行事と曰ふ。大徳当に知るべし、聖観自在の変身なり」と言ひ已りてすなはち隠れたまへり。とある。
『加賀白山伝記之事』には
別山大行事と申奉るは、本地は南方補陀落世界の尊容入重玄門の大士にて、垂跡は菊理媛の尊と権現輔佐の神なり。とある。
『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には
(白山七社の)第三は別山大行事小白山権現は、地神第二の尊、天照太神の御子天忍穂耳尊と号す。 二神の輔佐の神即正観音・明星天子也。 浄定行者即ち是分身也。 七星の内には禄存星是也。とある。
垂迹 | 本地 | |
---|---|---|
白山三所権現 | 大御前(妙理大菩薩) | 十一面観音 |
大汝 | 阿弥陀如来 | |
別山 | 聖観音 |
太郎王子(剣御前)
金剱宮または佐良早松神社に比定される。金剱宮[石川県白山市鶴来日詰町]
祭神は天津彦火瓊瓊杵尊。 一説に天照大神の分身応現とする。
旧・県社(白山比咩神社の元・境外摂社)。
剱ヶ峰の神霊を祀り、白山本宮・三宮・岩本宮(岩本神社)と共に本宮四社に数えられる。
『白山之記』の白山七社本地垂迹事の条[LINK]には
金剱宮〈白山の第一の王子なり〉 本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀はかせ給ふ。とある。
『加賀白山伝記之事』には
第四剣の宮と申奉るは、本地不動明王、垂跡は地神第三の神瓊瓊杵の尊となり。とある。
『源平盛衰記』巻第二十九の「砥並山合戦の事」[LINK]には
金剱宮と申すは、白山七社の内、妙理権現の第一の王子に坐す。 本地は倶梨伽羅不動明王なり。 国土を守り魔民を降せんが為とて、弘仁十四年[823]に此の砌に跡を垂る。とある。
『諸社根元記』の金剱宮の条[LINK]には
天照大神の分身応現也。〈光明寺と号す〉 崇神天皇の御宇に天降り垂跡し給ふ也。 天皇三年[B.C.95]三月に社を立つ。
本地不動〈俗体、天照大神現、白山妙理権現の第一皇子也、妙理権現は伊弉冊尊〉とある。
『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には
(白山七社の)第四よりは下も四社。 金剱宮は地神第三の尊、天津彦々火瓊々杵の尊。 本地不動明王。天の七十二星棟梁の神。 七星の内には文曲星是也。とある。
『石川県石川郡誌』の金剱神社(鶴来町)の項[LINK]には
当社は崇神天皇の御宇の創始なりといひ、所謂白山七社の一にして比咩神社と殆ど其の創立年代を一にするが如し。とある。
佐良早松神社[石川県白山市佐良]
祭神は鸕鷀草葺不合尊。 一説に天忍穂耳尊とする。
旧・村社(白山比咩神社の元・境外摂社)。
中宮(笥笠中宮神社)・別宮(白山別宮神社)と共に中宮三社に数えられる。
『白山之記』[LINK]には
又一の宝社あり。 佐羅大明神と名づく。 本地は不動明王なり。 天元五年〈壬午〉[982]始て宝殿を造る。とある。 また、白山七社本地垂迹事の条[LINK]には
佐羅宮 本地は不動明王なり。 垂迹は金剱宮の如し。とある。
『加賀白山伝記之事』には
第六勝佐良の宮と申奉るは、本地は聖観音、垂跡は地神第五鸕鷀草葺不合の尊となり。とある。
『白山禅頂御本地垂迹之由来私伝』[LINK]には
(白山七社の)第六佐羅の宮、鸕鷀草葺不合尊。 越前国荒地中山にて誕生し玉ふ。 天地の最初の道也。 七星の内には武曲星也。 本地正観音也。とある。
『石川県石川郡誌』の佐良早松神社(吉野谷村)の項[LINK]には
当社創立は円融天皇の天元五年五月なりといふ。 白山比咩神社境外摂社中の一社なり。
白山七社とは中宮、別宮、佐羅、岩本、金剣、下白山、三ノ宮にて、佐羅は即ち本社なり。 佐羅大明神とも称へ、長保元年[999]に至り仏閣を建立す。とある。
次郎王子
加宝神社[石川県白山市尾添]祭神は太玉命。
旧・村社(白山比咩神社の元・境外末社)。
『白山之記』[LINK]には
次に宝社有り。 加宝と名づく。虚空蔵菩薩の垂迹なり。とある。
『石川県能美郡誌』の加宝神社(尾口村)の項[LINK]には
元と白山に属せしものにして、加宝宮又は加宝神宮といへるを、維新の後今の名に改めたるなり。 本社に有する所の木像虚空蔵菩薩、同地蔵菩薩、金銅十一面観世音は蓋し往時のものなるべし。とある。
三郎王子
檜の新宮[石川県白山市尾添]祭神は大山祇命・大己貴命。
白山比咩神社奥宮の元・境外末社。
『白山之記』[LINK]には
次に又一つの霊験ある宝社あり、檜の新宮と号す。 垂迹は禅師権現にして、本地はこれ地蔵菩薩なり。 建立の人は乃美郡軽海郷の松谷澄に住む如是房と言う人なり。 崇め奉る後二百歳に及べり。 錬行の輩、此の所に来集して精進し、この宝社に勤行す。 夏衆の勤行、注し尽くことかたし。とある。
『石川県石川郡誌』の白山比咩神社(河内村)の項[LINK]には
奥宮境外末社檜新宮は、能美郡白山嶺字檜ヶ宿に在り。 大山祇神、大己貴神を祀る。
尾添村より山道三里の所に在りしも、今亦社殿を存せず。とある。
昭和五十九年[1984]七月、北陸電力株式会社が尾添発電所を建設するにおよび地元尾添区の懇請により再建された。
五郎王子
未詳。由谷裕哉『地方修験の宗教民俗学的研究』[LINK]では
五郎王子・弥勒は、『白山記』[LINK]の新しい室堂の計九宇のうち、所蔵仏が記されていない堂宇に祀られていたのかもしれない。と推定している。
(由谷裕哉『地方修験の宗教民俗学的研究』、第2部 地方修験の展開、Ⅰ 白山修験、第1章 中世前半における加賀側中宮の修験、1998)
垂迹 | 本地 | |
---|---|---|
五人王子 | 太郎王子(剣御前) | 不動明王 |
次郎王子 | 虚空蔵菩薩 | |
三郎王子 | 地蔵菩薩 | |
四郎王子 | 文殊菩薩 | |
五郎王子 | 弥勒菩薩 |
五万八千の采女
未詳。『元亨釈書和解』[LINK]には
妙理菩薩の曰く、「我が山中一草一木まで我が眷属の居所にあらざることなし。一万の眷属は妙徳(文殊菩薩)の降迹、十万の金剛童子は遍吉(普賢菩薩)の垂化、五万八千の采女は堅牢女天の変作なり」とある。
信濃の浅間
参照:「諏方縁起事」浅間大明神泰澄大師
白山修験道の開祖。『泰澄和尚伝記』[LINK]によると、白鳳二十二年[682]六月十一日、越前国麻生津の三神安角の次男として誕生。 大化元年[695]、十一面観音の夢告を受けて出家、法澄と名乗って越知山で修行を積んだ。 大宝二年[702]、伴安麻呂が勅使として越前に派遣され、鎮護国家の法師に任ぜられた。 養老元年[717]に白山を開き、同三年まで一千日の修行を行った。 同六年[722]、弟子の浄定行者と共に内裏に召され、元正天皇の病気平癒の祈祷を行った。 その効験あって禅師の位を授けられ、神融禅師と号した。 天平八年[736]に玄昉から『十一面経』を授けられ、翌九年に都で流行した疱瘡を十一面法により鎮めた。 その功により大和尚の位を賜り、泰澄と号した。 天平宝字二年[758]に越知山に戻り、神護景雲元年[767]三月十八日に入定。
白山権現
白山比咩神社[石川県白山市三宮町]祭神は白山比咩大神(菊理媛命)・伊弉諾尊・伊弉冊尊で、三宮媛神を配祀。
式内社(加賀国石川郡 白山比咩神社)。 加賀国一宮。 旧・国幣中社。
『加賀国内神名帳』[LINK]には石川郡に「正一位、白山比咩明神」とある。
史料上の初見は『日本文徳天皇実録』巻第五の仁寿三年[853]十月己卯[22日]条[LINK]の
『白山之記』[LINK]には とある。 また、白山七社本地垂迹事の条[LINK]には とある。
配神の三宮媛神については、同条[LINK]には とある。
『大日本国一宮記』[LINK]には とある。
『石川県石川郡誌』の白山比咩神社(河内村)の項[LINK]には とある。 その後、
とあり、本宮の鎮座地は三宮に定められた。