『神道集』の神々

第四十三 上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事

人皇二十代允恭天皇の御代、比叡山の西坂本に兄弟の僧がいた。 兄を近江竪者覚円、弟を美濃法印覚満といった。
その頃、天皇と上皇の間で争いが有り、世が乱れていた。 兄弟は引き籠って千部の『法華経』を読んでいた。 上皇は戦に破れ、天皇は上皇方の武士たちを死罪にした。 兄弟の父・三条藤左衛門も斬首の刑に処せられた。
覚円・覚満兄弟も召し捕られ、牢獄に入れられた。 七日後、宮中から検非違使に首を斬れという命令が下り、兄弟は三条の河原に連れ出された。 そこに二人の母が現れ、母子の別離を嘆いた。 その時、比叡山の頂上から紫色の雲が出てきて、僧たちの上に覆い被さった。
その頃、宮中で僧侶の処刑について協議していた。 そこに紫色の雲から結び文がひとつ落ちてきた。 天皇が不思議に思って開いてみると、 「『法華経』の読誦は常に仏が喜ばれ、梵天・帝釈・四天王も納受するところである。母子の永の別れの悲しみは堅牢地神もこれを嘆く。邪見を捨て、慈悲の床に住せよ」とあった。
天皇は二人の僧を呼び戻して「今後は千部経読誦の旦那になろう」と云い、近江国志賀郡を寺領に寄進した。 二人は法華堂を建立し、供養のために千部経を読誦した。
数年後、兄弟の母は亡くなった。 兄弟は志賀郡の寺領を返上して諸国修行の旅に出た。 その途中、伊予国三島郡で兄の覚円が大往生した。

その後、覚満は近江の兵主大明神に七日間参籠し、「慈尊の出世に会う程の利生を授け給え」と祈って『法華経』を読誦した。 満願の日、夢の中に兵主大明神が姿を現し、上野国勢多郡の赤城沼の岸で『法華経』を読むようお告げがあった。
覚満が赤城沼の東岸の黒檜嶽の西麓に着いて『法華経』を読んでいると、小鳥ヶ島から一人の美女が現れ、覚満に釈文の聴聞を希望した。 覚満が『法華経』二十八品の釈文を始めると、当国をはじめ他国の山神達も参集して聴聞した。 七日七夜の法会の五日目には更級の継母も山神の眷属と成って聴聞に来た。 大沼の赤城御前は小沼と大沼の間に俄に小山を作り、自分の姿が見えないようにした。 『日本記』には屏風山と名づけ、隔山と云うのもこの山である。 小沼の高野辺大将殿も怒って、更級の継母を追い返した。
七日間の法会が終わると、神々は自分の山に戻った。
赤城御前は釈文に随喜の涙を流し、大沼に留まった。
覚満は覚満大菩薩と号して赤城山の禅頂に立たれている。

赤城山三所明神は、大沼は赤城御前である。 今は赤城明神といい、本地は千手観音である。
小沼は父の高野辺大将殿である。 今は小沼明神で、本地は虚空蔵菩薩である。
山頂は美濃法印覚満で、本地は地蔵菩薩である。

覚満大菩薩は「我が山に眼を懸ける者は。此の歌を唱えれば、必ずそこに影向して、万事諸願を満足させよう」と誓願された。
「ちはやふる神風たえぬ山なれば みのりの露は玉となりけり」

赤城山三所明神

赤城神社[群馬県前橋市三夜沢町]
祭神は大己貴命(東宮)・豊城入彦命(西宮)。 一説に東宮の主祭神を日本武尊とする。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)。 上野国二宮(論社)。 旧・県社。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第二位に「正一位 赤城大明神」とある。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第八の承和六年[839]六月壬申[19日]条[LINK]
上野国の無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神に並びに従五位下を授け奉る。
であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するかは未詳。

三所明神の成立について、『宮城村誌』[LINK]では以下の様に推定している。
伊勢崎市宮前町(下植木)の赤城神社には、弘長四年(1264)二月十三日銘の青銅製毛彫千手観音座像の懸仏がある。 それには「二大明神御正躰一面有志者為藤原是員所願成就也」と刻されている。 二大明神の御正躰の一面であるというので、更に一面あった筈である。 同じ神社の境内に貞治五年(1366)丙午仲冬日銘の多宝石塔があって、「敬白奉造立殖木宮石塔事」という書出しで、堂々とした銘文があり、その中に「三所明神」という言葉が入っている。 この赤城神社は旧称下植木にあり、殖木宮はすなわちこの赤城神社を指す。 この神のために石塔を造立したのであり、「三所明神」とは赤城神を指している。 前の御正躰すなわち懸仏には「二大明神」とあって、これも赤城神を指しているのである。 約100年の間に「二大明神」が「三所明神」に変ったことになる。
延文三年(1358)頃の編修であろうとされている安居院作の『神道集』という説話集には、赤城神についての説話が二篇載っている。 その一は「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」(同書巻七)、その二は「上野国赤城山三所明神内覚満大菩薩事」(同書巻八)である。 その一では大沼、小沼を神格化しているのであり、その二では大沼神に千手観音、小沼神に虚空蔵菩薩をあて、これに覚満すなわち地蔵菩薩を加えている。 地蔵菩薩は中央火口丘の地蔵岳を神格化したものである。
『年代記』の至徳三年[1386]の条[LINK]に、「今年三月御造立、宝堂共三所成就」とあり、応永十三年[1406]の条[LINK]に、「東社地蔵一千躰、西社虚空蔵千手観音五百躰ツヽ、当国邑楽郡庄司寄進、七月一日滝沢不動尊造立、大洞地蔵岳地蔵当国佐貫庄司又太郎藤原沙弥道広(慶カ)」とある。 ここにはじめて東社、西社という言葉が出てくるのであり、それに滝沢不動、大洞が出ている。このうち
 東社 地蔵一千躰
 西社 虚空蔵五百躰 千手観音五百躰
というのは、東西両社が存在し、西社には虚空蔵、千手観音を、東社には地蔵を祀っていることを示したもので、三所とはこの両者を併せてのものである。 また、虚空蔵は小沼神、千手観音は大沼神の本地仏であり、地蔵は新たに加わったものであるので、東社は地蔵信仰と共に成立した社であり、新興の社である。
右の記事は恐らくこれらの仏像の造立銘から補記されたものであろう。 更にこの千体仏は当国邑楽郡庄司寄進としてあり、その庄司は大洞の地蔵像寄進の佐貫庄司又太郎藤原沙弥道広と見られる。 沙弥道広とあるが、これは道慶の写し誤りであろう。 佐貫道慶は日光の二荒山神社の社領管理にも関与していたのであり、佐貫庄司としての有力者である。 したがって応永十三年において、赤城神社は東西両社に分れていたことになる。 然も、東社は地蔵を祀っているのであり、地蔵岳を対象としている。 地蔵信仰によって成立したものである。 [中略] 三所明神として表現された時には、地蔵のみの信仰によって、東社が成立していたと見ねばなるまい。 暦応五年には六地蔵信仰がすでに存在している。 これが小沼系統の月田の近戸神社に残っているのである。 すでに地蔵信仰が赤城信仰にとりいれられた後のことになろう。 してみると、東社の成立は暦応五年(1342)以前のことにもなろう。
(『宮城村誌』、前編、第1章 赤城神社をめぐる村(尾崎喜左雄)、第5節 仏教化された赤城神)

毛呂権蔵『上野国志』の赤城神社(三夜沢)の条[LINK]には
赤城神社 赤城山南麓三夜沢にあり。
先代旧事本紀(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)曰、金橋宮天皇〈用明[ママ]天皇〉時、磐筒大神出現鎮坐。
祭神異説あり。 或云、大己貴大神と。 今吉田家に用此説。
三夜沢の社弐社あり。 東の宮これ本宮なり、奈良原氏が祝る所なり。 西の宮これ別殿なり、増田氏神主たり。
とある。 また、
又諸社根源記に云、赤城大明神、上野国覚満大菩薩事、人皇第廿代允恭天皇御宇、比叡山西坂本二人僧、兄云近江竪者覚円、弟云美濃法印覚満、今は覚満大菩薩号赤城禅定給。 [中略] 後人此説を誇張して、赤城縁起を妄説して、祭高野辺大将家成と云。 根源記の説甚無稽孟浪なり。 允恭帝の時、仏法未渡、叡山未開、豈僧者あらんや。
と諸社根源記(神道集)の内容を批判する。

古市剛『前橋風土記』下巻の三夜沢神社の条[LINK]には
三夜沢神社 赤城山の東南に在り。 地を名つけて三夜沢という。 牌篇に正一位赤城大明神というは、疑うらくは是れ赤城の前殿か。 神伝に云わく、家成〈即ち赤城の神〉の嫡子赤城山に来り、新に神殿を製す。 殿成りて此の地に止ること三日夜、故に名つくと。
とある。

『赤城皇太神宮御鎮座略本紀』[LINK]には
日本武尊東征日此山に登到りたまい山奇く感させたまい三夜まで屋とり(宿り)たまふ。 故地名を三夜沢と曰う。 猶此山に化現たまふ神誓あり故に麓に吾嬬山あり。 夫れ上毛野国は水土の気柔和にして天長地厚く肥饒の地故に往昔去来穂別(履中)天皇。 統天庚子年〈天皇元年[400]〉下津磐根に大宮柱敷立る。 両宮は東の御正殿は日本武尊。左、大己貴命。右、少彦名命。 西の御正殿は豊城入彦尊。左、天照太神。右、大山祇命。
とある。

奈佐勝皐『山吹日記』の天明六年[1786]五月十八日辛酉条[LINK]には
いにしへ日本武の東の夷を討ち従へ給はむとて下らせ給ひし時、此山を見そなはしめてさせおはしましてこの所に三夜留まらせ給ひしより三夜沢と名付けたるとそ。 又或説に、神主の記録を引きて、大君の子の大神を初めて祝ひ祀り、御社の出で来しを見て、三日三夜留まり給へりけれはしか名付けたりと記せしは、三諸別王御父豊城の命を祀り給へるなめりと言へる。
後の磐余の稚桜の宮(履中天皇)の御世、庚子の年初て社を立てゝ崇め奉り赤城の神と申。 柏原の帝(桓武天皇)の御世詔ありて今の所に遷し奉る。 元の宮居ありし所はいま本三夜沢と呼て、是より一里はかり東の方に有。 東の宮なるは日本武尊、左は大己貴命、右は少彦名命を祀り奉れり。 西の宮中は豊城入彦尊にて相殿二座、左は天照大神、右は大山祇命になんまします。
とある(引用文は一部を漢字に改めた、以下同)。
また、五月十九日壬戌条[LINK]には
先つ西の社に参る。神宝をとうてゝみせぬ。 神鏡は八菱にて、径四寸はかり、裏に唐草あり、是は此方様ならぬものなり。 今一つは丸くて径三寸はかり、裏に鳥あり、是は我国の古き鏡ならん、昔小沼より出たりとかや。
とあり、西宮が小沼に対する信仰に発する事を示している。

三夜沢赤城神社の享和二年[1802]の訴状[LINK]にも
当社之義ハ人王十八代履中天皇之御宇御鎮座に而、今之宮地より東に太敷立、人王五十代桓武天皇之御宇延暦年中[782-806]今之宮地江遷座に而、旧地を元三夜沢と号候。
とある。

赤城神社の社伝[LINK]には
創立年月不詳と雖蓋崇神天皇の御宇[B.C.97-B.C.30]とす。 天皇の皇子豊城入彦命を奉し東国を綏撫す。 此時天下疫癘大に行はる。 天皇憂懼、乃ち大己貴命を奉祀し且天神地祇を祭る命聖旨の在る所を察し、地を赤城山の南麓なる此処に相し篤く大己貴命を斎祀す。 既にして疫熄み年豊に東国亦皇沢に霑ふ。 後彦狭島王の子御諸別王東十五国都督と為る。 王は豊城入彦命の曽孫なり。 赴任して叛を征し服を撫し威徳盛に行はる。 百姓豊城入彦命を追慕し其情甚だ切なるを視、乃ち此祠に配享し以て庶民の望に従へり。 其後安閑天皇二年[535]御諸別王の第二子下野国造奈良別王命の裔佐知彦王の子多気丸倍彦兄弟を以て上野赤城大神の斎主と為し此年始めて祈年祭を行ひ爾来毎歳七月一日執行するを例とせり。
とある。
(『宮城村誌』、後編、第9章 宮城村の神と仏、第1節 宮城村の神社)

『赤城年代記』の慶応四年[1868]の条[LINK]には
社持修験大に復飾し、神職に相成、天台・真言寺も同。
とあり、翌明治二年[1869]の条には
同二月、神光寺・龍赤寺廃寺に成、相済。
とある。 東宮の龍赤寺、西宮の神光寺はその各宮の神宮寺であったのが廃寺となった。
(『宮城村誌』、前編、第1章 赤城神社をめぐる村(尾崎喜左雄)、第6節 三夜沢での赤城神社、4 三夜沢赤城神社の神仏分離[LINK]

明治に入って東西両宮が合併した。
明治十年頃の『上野国郡村誌』第二巻の三夜沢村赤城神社の条[LINK]には
祭神 大己貴命 豊木入彦命。
相殿 天照大御神 少彦名命 磐筒男命 磐筒女命 級津比古命 級津比女命 日本武命 大山祇命。
とあり、両宮合併後には十柱の神が祀られていた事が判る。

垂迹本地
西社大沼千手観音
小沼虚空蔵菩薩
東社禅頂(地蔵岳)地蔵菩薩

覚満大菩薩

赤城山の禅頂(地蔵岳の山頂)に安置された地蔵菩薩を指す。

『上野国志』[LINK]には
地蔵嶽 大沼の南に在り。 山上に小堂有り、銅像の地蔵を安置す。 長二尺余、銅釜を以て座と為す。
沼尻薬師 小沼虚空蔵 地蔵嶽地蔵堂 牛王堂 並に寿延寺(大洞赤城神社の別当寺)の香火を掌る所なり。
とある。

『上野鎮守赤城山大明神縁起』[LINK]には
赤城御前本地は黒檜千手千眼大菩薩、伊香保姫君は小沼の嶽の虚空蔵大菩薩、淵名の御前は本地は丸の嶽の地蔵大菩薩也
と異伝を記す。

『山吹日記』の天明六年五月十八日辛酉条[LINK]には
(赤城山の)頂に至れり。 四方の山々みな目の下にあり。 石を積み集めたる中に、地蔵菩薩の座し給へる像おはす。 昔この嶽に明神の神宝御襲とも蔵めたれはとて所の人神倉嶽(神庫岳)と呼たりしを、後にはこの仏像を置くことになりにけるとかや。 されとそも無下に近き世のことにあらす。 応永十三年八月の十三日に武蔵[ママ]国佐貫庄妻塚村なる浄土寺より安置しけるとそ。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

『勢多郡誌編纂資料展覧会出品目録(下)』[LINK]には
赤城山地蔵岳の頂上に、応永十三年八月十三日武蔵[ママ]国佐貫庄妻塚村浄土寺より納めたる銅製の地蔵尊を安置してありしが、明治維新神仏混淆を禁ぜらるゝに及び之を投棄せしを拾ひ得て、前橋寿延寺境内に安置す、然るに何時の間にか尊躰盗難に遭ひ、跡に左右両手のみ取落しあり、依て『手ばかり地蔵』と称し今前橋市紅雲町に保管す。
とある。

『勢多郡誌』の「勢多の伝説」[LINK]には
地蔵ヶ岳の釜蓋 地蔵岳の頂には明治の初迄銅の釜が伏せてあり、その上に地蔵がのせてあった。 八月一日の釜の口あきの日は柿の宮(前橋の赤城別当寺寿延寺のある処)の人達が登山して地蔵を下して釜を上向にし、十六日には又釜を伏せて地蔵を上に安置した習があつたという。
とある。

赤城御前・高野辺大将殿

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」

兵主大明神

参照: 「諏方縁起事」兵主大明神

小鳥ヶ島

参照: 「上野国勢多郡鎮守赤城大明神事」小鳥ヶ島・障子返

【参考】覚満淵

現在の赤城山で「覚満」の名を冠した地名としては、大沼から南東の方に位置する覚満淵がある。
『上野国赤城山御本地』[LINK]では、その名称の由来を以下の様に伝える。
仁王十七代仁徳天皇の御宇に当て、上野国主をば、高鍋之左大将家成卿迚おはしけるか、くわほふ勇々敷ましまして、姫君三人持給ふ。 一は十六夜之上と申、其次は弥生、御妹の御名をば桜御前と申。 何れも幼稚にましましとも、御形いつくしく、父母の寵愛限りなし。 家の後見に、浅間坊覚満とて、大力武勇の法師也。 それより伊香保の蔵人定俊、野田の三郞重俊、大胡の兵太元晴、大室形部勝国、善の六郞友氏、山上源内近春とて、何れも仁義之勇士にて、君を敬ひ奉る。
履中三年壬寅[402]六月十五日、(家成卿は)御年四拾八才にて御逝去とげさせ給ふ。 哀といふも限りなし。 御供の人々も、闇夜に燈を失ひし如也。 あきれ果てぞおはします。 中にも浅間坊覚満は、野田・伊香保を近付て、「ソレガシは君の御供仕、冥途へ急き申也。貴殿達は片時も早く立帰り、我君の御遺言晴して」宣と、有池辺に立寄、己か首をかき切て、彼の池中に飛入、終にはかなく也給ふ。 我が君の御死骸は、直に土中に埋奉り、彼覚満か死骸をば、水葬にしたりける。 去るに依て此池を、覚満淵とぞ名付ける。