『神道集』の神々

第四十 上野国勢多郡鎮守赤城大明神事

人皇十八代履中天皇の御代、高野辺左大将家成は無実の罪で上野国勢多郡深栖郷に流される事になった。 その地で、大将と奥方の間に一人の若君と三人の姫君が生まれた。 若君が十三歳の時に、母方の祖父を頼って都へ上り、帝から仕官を許された。 奥方が亡くなった後、大将は信濃国更科郡の地頭・更科大夫宗行の娘を後妻とし、その間にも一人の娘が生まれた。
その後、大将は罪を許されて都へ戻り、上野国の国司に任命された。 家成は三人の姫君の婿を選び、娘の乳母たちに使いを出した。 これを知った継母は嫉妬して、弟の更科次郎兼光を唆して三人の姫君を殺害させようとした。
三人の姫君の内、姉姫は淵名次郎家兼に預けられ淵名姫、次の姫は大室太郎兼保に預けられ赤城御前、末姫は群馬郡の地頭・伊香保大夫伊保に預けられて伊香保姫といった。
更科次郎は巻狩と偽って淵名次郎と大室太郎を捕らえ、黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で斬り殺した。 次に、淵名の宿所に押し寄せて淵名姫と淵名の女房を捕らえ、大きな簍に入れて利根川の倍屋ヶ淵に沈めて殺害した。 続いて、大室の宿所に押し寄せたが、赤城御前と大室の女房は赤城山へ逃れた。 更級次郎は大室の宿所を三方から火攻めにし、人々を皆殺しにした。 有馬郷の伊香保大夫は九人の子と三人の聟を大将とし、城郭を構えて待ち受けた。 更級次郎も伊香保の宿所には押し寄せる事が出来ず、伊香保姫は無事だった。
大室の女房は赤城の山中を彷徨って大滝の上の横枕の藤井に辿り着いた。 谷の方から美しい女房が現れ、二人に果物を下された。 そこで七日七夜を過ごした後、大室の女房は亡くなった。 残された赤城御前は唵佐羅摩女に導かれて赤城沼の龍宮城に行き、その跡を継いで赤城大明神として顕れた。 大室太郎は姫君の擁護により夫婦共に龍宮へ参り、従神の王子宮として顕れた。

大将は上野国の国司に着任して東国へ下る途中、駿河国の洋津(興津)でこの悲報を知らされた。 大将が倍屋ヶ淵を訪ねると、波の中から神となった淵名姫が現れ、父に別れを告げると雲の中に姿を消した。 家成は淵名姫の跡を追って、倍屋ヶ淵に身を投げた。
伊香保大夫は足早で有名な羊太夫を呼び、二人の姫君の死と父大将の自害を伝える手紙を京三条室町の若君に送った。 羊太夫は申刻の半ばに有馬郷を発ち、日暮れに三条室町に到着した。 中納言になっていた若君は大いに驚き、主従七騎で東国に向かった。 この事を聞かれた帝は東山道・東海道の諸国に宣旨を下し、高野辺中納言を警固するよう命じた。 中納言の軍勢は徐々に増え、武蔵国に着いた頃には五万余騎となっていた。
上野国の国司となった中納言は更級次郎父子三名を捕らえさせた。 二人の息子は黒檜嶽の東の大滝の上の横枕の藤井谷で首を斬られ、更科次郎は倍屋ヶ淵に沈められて殺された。 継母とその娘は信濃国に追放され、更科山の奥の宇津尾山で雷に打たれて死んだ。

国司は父と淵名姫が亡くなった場所に淵名明神を祀った。 それから、赤城山に登って黒檜嶽の西麓の大沼の畔で奉幣を行なうと、障子返という山の下から一羽の鴨が泳いで来た。 鴨の左右の羽の上には御輿が置かれ、その御輿には淵名姫と赤城姫が一緒に乗っていた。 淵名の女房と大室の女房が姫達の後に従い、淵名次郎と大室太郎がお供をしていた。 二人の姫は兄の左右の袂にすがりつき、 「私達はこの山の主となって神通力を得ました。妹の伊香保姫も神道の法を悟って神と成るでしょう」と告げた。 亡くなった母御前も忉利天から下って説法した。 その後、母御前は天に昇り、二人の姫君も沼に姿を消した。 鴨は大沼に留まり小鳥ヶ島となった。
国司が大沼を出て小沼の畔に行くと、神となった父大将が現れた。 国司は大沼と小沼に神社を建てた。 小沼の沢に三日間滞在したので、この地は三夜沢と呼ばれた。

国司は伊香保大夫の宿所を訪れて伊香保姫と再会し、自分は都に上って国司の職を妹に譲る事にした。 伊香保姫は兄の奥方の弟にあたる高光少将を婿に迎え、伊香保大夫の後見で上野国の国司を勤めた。 伊香保大夫は目代(国司代理)となり、自在丸という地に御所を建てた。 当国の惣社は伊香保姫の御所の跡である。

赤城大明神(大沼)

赤城神社[群馬県前橋市富士見町赤城山]
祭神は赤城大明神・大国主命・磐筒男神・磐筒女神・経津主神。
式内論社(上野国勢多郡 赤城神社〈名神大〉)。 上野国二宮(論社)。 旧・郷社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第八の承和六年[839]六月壬申[19日]条[LINK]の「上野国無位抜鋒神・赤城神・伊賀保神に並びに従五位下を授け奉る」であるが、この赤城神が何れの赤城神社(大洞、二宮、三夜沢)に該当するか定かでない。
総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第二位に「正一位 赤城大明神」とある。

赤城神社の「参拝のしおり」(『平成祭データ』所収)には、
「元神社は湖の南畔に鎮座し、神苑には老樹うっそうとして千歳の翠滴り、現在飛地境内地なり。三百五十有余年を経て社殿荒廃につき、昭和四十五年[1970]七月、小鳥ヶ島に改築す。赤城大神は上古より当国に鎮まります。創始は上古即ち崇神天皇の御宇、皇子豊城入彦命、毛野国に入るや天神地祇をまつり尚国土経営主神大国主命を奉斎し東国の経営を祈り、また疫病絶滅祈願のため初めて此の山に勧請し給う。元の社殿は、平城天皇の御宇即ち大同元年[806]の造営なり」
とある。

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には、
「赤城神社 山上の社なり、大沼の東崖にあり、社を大堂と云、別当は代田山法門院寿延寺、前橋代田村〈前代田と云、群馬郡に帰す、前橋城の南なり、寿延寺今は柿沼村にあり〉にあり〈天台宗長楽寺の末寺なり〉、摂社 日神 月神 飛鳥社五社〈山神、稲荷、雷神、蚣神、水神〉 大塔寮社 鴫島弁才天社 同蟹宮 本地堂〈千手観音〉 開山堂〈これ長楽の法照禅師に師とし事る了儒なるべし〉」
とある。 また、同書の三夜沢赤城神社の条[LINK]には、
「山上の宮は、三夜沢と同社にして、世に云奥の院と云ものならん」
とある。

古市剛『前橋風土記』下巻[LINK]には、
「赤城神社 勢田郡赤城山大沼の東の涯に在り。延喜式に云う、上野国勢田郡一座 赤城神社と。三夜沢の牌篇に云う、正一位赤城大明神と。神伝を按ずるに云わく、高野辺家成なる者あり、上野に守たり、後人祭りて赤城の神と称す。正一位の牌篇に拠りて之れを正すに、則ち大己貴太神ならんか。一書(『先代旧事本紀大成経』巻七十一)に云く、金橋宮天皇〈二十八代安閑天皇是なり〉の時、磐筒雄太神出現鎮座す、是れ赤城神社なりと」
とある。

奈佐勝皐『山吹日記』の天明六年[1786]五月十八日辛酉条[LINK]には、
「昔は黒檜の嶽の中程はかりに宮居をはしましけるを、明暦二年[1493]この所に遷し奉れりといへと、国史(『日本三代実録』巻第三十七の元慶四年五月二十五日戊寅条[LINK])に赤城沼の神とも記されたれは、よしや今の所ならすとも沼辺りにこそ古はおはしけめ」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『赤城皇太神宮御鎮座略本紀』[LINK]には、
「利根郡民沼田山中の産子老若山越を労り、湖水辺其地奇麗けなるを以、大同年中遥拝の社を経営、大洞社と祝号す」
とある。

『赤城年代記』の寛永十二年[1799]の条[LINK]には、
「今年三月、大洞千手観音、前橋にて開帳」
とある。 この開帳に関係して、神祇伯白川家から奉納の「上野国惣社大洞赤城神社」という額と、その添書二通のうちに記された「本宮」ということについて、三夜沢の赤城神社神職一同と大洞赤城神社の別当寿延寺との間に訴訟が起こされた。
三夜沢赤城神社の享和二年[1802]の訴状の中[LINK]には、
「寿延寺持大洞赤城明神之義者、先年沼田深沢之産子、老君之者共、当社江山越え参詣難所を厭ひ、慶長元丙申年[1596]山上に拝所を構、秀倉相立、漸弐百年来之社に而、当社之末社たる事歴然ニ御座候」
とある。
ただし、赤城山頂に祠を建てたことは慶長元年が最初ではなく、すでに『神道集』の文中にうかがえるのであって、ここに言う大洞赤城神社というのは、荒廃していて復興せしめたものを指すのだろう。
(『宮城村誌』、前編、第1章 赤城神社をめぐる村(尾崎喜左雄)、第6節 三夜沢での赤城神社、3 大洞の赤城神社との関係[LINK]

『富士見村誌』[LINK]には、
「由緒は詳かでないが、大同年間の勧請と伝え」
とある。 明治四十年[1907]九月二十八日に「本社境内末社四社(日神神社、月神神社、豊受神社、厳島神社)、字大洞小沼端の無格社豊受神社、大沼の内字小鳥ヶ島の無格社厳島神社、黒檜山山頂の無格社高於神神社」など近隣の多数の神社を大洞赤城神社に合祀した。

小沼明神

豊受神社
祭神は倉稲魂神・豊受大神。
旧・無格社。
元は小沼の畔に鎮座していたが、現在は大洞赤城神社に合祀されている。

『上野鎮守赤城山大明神縁起』[LINK]には、
「赤城御前本地は黒檜千手千眼大菩薩、伊香保姫君は小沼の嶽の虚空蔵大菩薩、淵名の御前は本地は丸の嶽の地蔵大菩薩也」
と異伝を記す。

『上野国志』[LINK]には、
「沼尻薬師 小沼虚空蔵 地蔵嶽地蔵堂 牛王堂 並に寿延寺(大洞赤城神社の別当寺)の香火を掌る所なり」
とある。

明治年間まで小沼の東の虚空蔵嶽(通称小地蔵嶽)に虚空蔵堂があり、衰退したので、そのうちに安置の虚空蔵銅像一躯を、其の東麓の勢多郡黒保根村大字上田沢(現・桐生市黒保根町上田沢)の古義真言宗湧丸山瑠璃院医光寺に移した。 同寺に客仏として現存している。 その銘文に「本主村上三光坊 上州赤城山 小治(小沼)本地虚空蔵菩薩」とある。 この虚空蔵堂が「小沼の御社」にあたるとも考えられる。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神[LINK]、尾崎先生著書刊行会、1974)
垂迹本地
赤城大明神(大沼)千手観音
小沼明神虚空蔵菩薩

唵佐羅摩女

不詳。
「日光権現事」で言及される唵佐羅麼を女神化した名称か。

従神の王子宮

不詳。
大室太郎に関しては、『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)に巻き込まれた断簡には、
「大室太郎家兼ハ本地文殊菩薩ト成シ大室三所明神祝成」
と異伝が見られる。

『室町時代物語集 第一』所収の岡田希雄「上野国赤城山御本地解説」[LINK]で八王を祀った「八王寺(八王子)権現」について
「今の八王子村と関係があらう。神道集の王子ノ宮に基づく名であらう」
と述べている。

増田淵そばの八王子聚落は、特に増田淵の聖儀に古くからかかわる所であり、八王子権現は二宮赤城社の末社的存在であったと推される。
同聚落は、二宮赤城社の氏子でもあり、二宮赤城社のかかわる水神の祭祀に深くかかわってきたようである。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成、第3節 『赤城山御本地』成立の背景[LINK]、三弥井書店、1984)

八王子権現は八柱神社と改称し、明治四十年[1907]十月に二宮赤城神社[群馬県前橋市二之宮町]に合祀された。 同社に相殿で祀られている五男三女神は元は八柱神社の祭神だったと思われる。

淵名明神

大国神社[群馬県伊勢崎市境下渕名]
祭神は大国主命で、日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛命・真砥野媛命・竹野媛命・薊瓊入媛命の五媛を配祀。
式内社(上野国佐位郡 大国神社)。 旧・郷社。
総社本『上野国神名帳』の鎮守十社には含まれないが、群書類従本[LINK]には鎮守十二社の第九位に「従一位 大国玉大明神」、一宮本[LINK]には第十二位に「従一位 大国大明神」とある。

『伊勢崎風土記』下之巻[LINK]には、
「第五姫宮〈下淵名村に在り〉 延喜式神名帳に載する所の上毛十二社の一つにして、大国主命を祭る、故に大国神社とも称す。[中略]縁起の略に曰く、上毛国佐位郡淵名荘三十六郷の鎮守、大国五護宮大明神なるものは、風神級長津彦命の子大国主神を鎮座し奉る所なり。人皇第九開化天皇四十二年[B.C.116]乙丑九月、初めて丹波国穴太郡に鎮座し、第五姫の宮と号す。十一代垂仁天皇九年[B.C.21]庚子四月風雨順ならず、帝深く之れを憂いて、百済の車臨をして奉幣使として東国にかしむ。同十一年[B.C.19]壬寅九月上毛に来りて松樹の下に宿す。明旦、白頭翁の牛を前池にみずかいするを見る。臨問うて曰く、「おきなは何人なり」。翁の曰く、「吾は風神級長津彦命の子の大国主神なり、君は誰為らん」。臨曰く、「吾は百済の車臨なり、風雨順時の幣使を奉ず、願わくば叟の王事に黽勉せよ」と。翁唯々たり。また一翁の来る有りて曰く、「吾は大己貴命なり、吾もまたつとむるのみ」と。言下に雲霧咫尺を弁ぜず。翁飄として跡を消す。臨顧みて芒たり。牛に飲いし翁もまた去って冥々たり。須臾にして風巽より起り、甘雨霶霈たり。前池変じて淵と為る、因て号て淵名と曰う。以聞す。帝、車臨を賞して左臣の位を授け、且つ此の地を賜う。爾来其の所領を号て佐位郡と曰う。同十五年[B.C.15]丙午九月、丹波国五姫宮を上毛佐位郡淵名荘に遷す。車臨之れを奉行すと云う」
とある。

『神道集』には「利根河ノ倍屋ヵ淵ニ沈メケルコソ悲ケレ」「上野ノ国ノ国司ハ御父ト御妹ヲ亡下シ跡ヲ崇メ下テ淵名ノ明神トハ申ハ即是レ也」とあって、淵名明神は淵名庄内で、利根川の倍屋ヵ淵の近くに鎮座しているように思える。 下淵名字明神には『延喜式神名帳』記載の大国神社があり、淵名全村(上淵名・下淵名)の鎮守であった。 倍屋ヵ淵と称するような利根川の淵の沿岸の位置に当たるのは大国神社で、これを中世「淵名明神」と称したのではないかと考えられる。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神[LINK]

『上野国一宮御縁記』[LINK]には、
「淵名姫は大黒大明神(伝本によっては大墨大明神)と申すなり、本地は正観音にて御坐す」
とあるが、この「大黒」は「大国」から転じたものか。
福田晃は淵名明神を殖木宮赤城神社に比定した。

赤城神社[群馬県伊勢崎市宮前町]
祭神は磐筒男命・大己貴命。
旧・村社。

『伊勢崎風土記』下之巻[LINK]には、
「赤城社〈下植木村に在り。廟令井下氏〉 古昔人赤木社と称す。稲垣侯〈平右衛門長茂〉改めて赤城大明神と号け、神田許多を寄す。[中略]其の略縁起に曰く、安閑帝一夕、二神を夢みる。神奏して曰く、「吾は是磐筒男、磐筒女神なり、今魂を分けて、而して毛の上つ国に鎮座せんと欲す、夫れ毛の上つ国なるは五穀や桑や蚕食の上国なり、是の故に男神は赤城山に座し、女神は児持山に座し、以て陰陽を和順して、国土を鎮撫せんと、天皇必ず地を彼の国に開きて祭祀せよ」と。是に於て天使を遣して、女神を児持山に、男神を赤城山に祭る。赤城山中の大同〈或は云う、大同年時開く処、故に大同と呼ぶと〉を以て内殿と称し、三夜沢を以て前殿とする。天使また佐位郡殖木県に来りて、赤城の磐筒男神を移し祀ると云う」
とある。

『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)の奥書には、
「中納言殿淵名姫君ノ為メニ、植木ノ郷ニ社ヲ立テ、同ク淵名ノ女房ト乳母三人ヲ神ト祝ヒ奉ル也」
とある。 またこの縁起に巻き込まれた断簡には、
「其ノ後、国司ハ植木ノ郷ニ社ヲ立、淵名ノ姫君」 「本地正観音ト顕、垂迹赤城大明神祝ナリ」
とある。
淵名氏全盛の鎌倉期の淵名庄は、後の淵名郷よりずっと広範囲におよぶもので、赤石(伊勢崎)郷や植木郷などもその中に含まれるものであった。 それ故に『神道集』の採った原縁起の編者は、植木の宮を淵名の庄の赤城社の意味で淵名明神と記したものと思われる。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成、第1節 赤城山縁起成立の民俗的基盤[LINK]

高野辺左大将家成

『山吹日記』の天明六年五月十九日壬戌条[LINK]には、
「其家(三夜沢赤城神社の神主・増田成宥の家)にて、古き十一面観音の木像を拝む。是は昔、高野辺左大将家成といふ人のいますかりけり。この所に流離ひおはして、延元元年[1336]に失せ給ひける。その十三年は北の貞和四年[1348]にて、この人の十三回の忌にあたりけれは、その菩提に供へんとて十一面観音の像千体を作りて、この社に納め奉る。今も数多おはしまし、この里人の家に伝へ持ちたるもまた多かりと語れり。立像は長八寸余り、下の方に延元十三年と、朱もて記したり。座像は五寸余り、高野辺左大将の十三回忌によりて、その菩提にすゝめんと、作りたる由を記せり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『赤城年代記』の延文二年[1357]の条[LINK]には、
「今年、高野辺十三回忌仏像を刻」
とある。

羊太夫

多胡碑[群馬県高崎市吉井町池]の碑文
「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給成多胡郡和銅四年三月九日甲寅宣(弁官の符に、上野の国片岡郡、緑野郡、甘良郡并びに三郡の内三百戸を郡と成し、に給ひて、多胡郡と成すとあり。和銅四年三月九日甲寅の宣なり)」
の「羊」が人名と解釈され、様々な伝承が語られた。

吉田東伍『大日本地名辞書』の多胡郡羊太夫碑の項[LINK]には、
「羊が事績は、今も其国の伝説に、極めて足疾き人にて、一日の内に都に往来して、朝に仕へ奉れり、其賞に多胡郡を賜へる由語伝ふ」 「名跡志云、羊太夫縁起に「小幡太郎太夫勝定の一子、羊太夫宗勝、朱鳥九未年、未月未時生る、駿馬に乗り、奈良の朝廷へ日々参内す 」云々」 「神保村に八束山と云あり、羊の太夫居城の跡と伝ふ、八束軍記に「羊の太夫駿馬にのり、日々参内す、八束小脛と言う童を供す、小脛両の脇下に羽あり、昼寝せし時、羊見て怪羽を抜く、依て供不叶、参内怠る、翅なくても早道なるべきをや、不参内は叛ける也とて、官軍下り、羊の太夫討死す、首飛て池村にいたる、其所に碑を建る」とある」
と記す。
また、神保の項には、
「八束山は神保村の上にて、東権現の祠あり、伝へて羊大夫の墟といふ」
とある。

伊香保姫

伊香保姫の後日譚は「上野国第三宮伊香保大明神事」に述べられている。

深栖郷

現在の群馬県前橋市粕川町深津に相当する。

『上野国郡村誌』第二巻の深津村近戸神社の条[LINK]には、
「近戸神社無格社村の丑寅に位す[中略]祭神大己貴命、村老の口碑に赤神(赤城)大神旧三夜沢社は室沢村の北野に在りしを二ノ宮村に遷幸の時本村其途次なるが故神輿休憩ありし其地に建立せしもの是なりと、村中百廿余戸の産土神と崇仰す、総て本村及大胡村月田村の三所に同社あるを里俗称して三近戸と謂ふ」
とある。

二宮赤城神社から三夜沢赤城本社への神幸祭では、旧四月初の辰の日と旧十二月初の辰の日の二度、二宮を発した御神体が真っ直ぐ北上し、大胡赤城神社を経由して三夜沢赤城本社に達し、ここで衣替えをして下山する。 古くは粕川流域の元三夜沢に向かって神幸がなされ、この深津の近戸神社、及び同じく粕川流域の月田の近戸神社を経由していた。
(福田晃『安居院作『神道集』の成立』、第2部 『神道集』の成立、第1章 『神道集』原縁起攷—巻七「赤城大明神事」「伊香保大明神事」の場合、三弥井書店、2017)

黒檜嶽

『上野国志』[LINK]には、
「黒檜山赤城最高峰也、神祠あり〈此山を千眼と云ふ、千手千眼なり、別当は荻原の普応寺、天台宗なり〉」
とある。

『上野鎮守赤城山大明神縁起』[LINK]には、
赤城御前本地は黒檜千手千眼大菩薩、伊香保姫君は小沼の嶽の虚空蔵大菩薩、淵名の御前は本地は丸の嶽の地蔵大菩薩也」
と異伝を記す。

大滝・横枕・藤井谷

『上野国志』[LINK]には、
「瀑布〈小沼の東南に在り、直下十余丈、南に流れ糟川と為る〉 横枕 藤井谷〈并に瀑布之上の名なり〉 不動堂〈瀑布の南に在り、糟河の旁、銅像の不動を安ず、此の像甚だ神霊なり〉」
とある。

粕川は赤城山上の小沼を源流とし、赤城山の南麓を流れ下る。 途中には落差約32メートルの不動大滝(滝沢の不動滝)が在り、その下流には滝沢不動堂が現存する。 不動大滝の上流にある銚子の伽藍は、粕川が外輪山の尾根を侵食した渓谷で、藤井谷に該当すると考えられる。

「横枕」は常に日当たりの悪い横に長い地形の谷間、「藤井谷」はいつもじめじめとしてそれ故に藤のはびこる谷間を意味する。 常に水の涸れることなく、藤の花の咲きぼれる「横枕藤井谷」は水神のいます所であり、横死者の霊を鎮める祭儀の行われる所であったらしい。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成、第1節 赤城山縁起成立の民俗的基盤[LINK]

『神道集』には「黒檜山の東」とあるが、不動大滝や銚子の伽藍は黒檜山の南に位置する。

倍屋ヶ淵

不詳。
『赤城山御本地』は二宮赤城神社の南1kmの八王子の下にある、荒砥川の増田淵を当てている。 二宮赤城社と関わる雨乞の行儀を今に伝える場所である。
『赤城大明神縁起』(三夜沢赤城神社蔵)の奥書では、倍屋ヶ淵を「波志江屋坂ノ下」(現・伊勢崎市波志江町八坂地区の下流)としている事から、増田淵より少し下流をさしていることになる。 また、『勢多郡誌』の「勢多の伝説」[LINK]では、荒砥川が広瀬川に注ぎ込む龍宮淵を昔増田淵といったと記している。
(福田晃『神道集説話の成立』、第4編 上信地方縁起の生成、第2章 赤城山縁起の生成、第1節 赤城山縁起成立の民俗的基盤[LINK]

地図
福田晃『神道集説話の成立』[LINK]より

龍宮淵付近には龍宮神社[群馬県伊勢原市宮子町]が鎮座し、同社の縁起『口口相承龍宮本紀』[LINK]には、
「人皇十八代履中天皇の御宇、高辺左大将家成卿深津の郷に住玉ひて此の淵に来り玉ひ岩に遊び給ふに美女ひとり来りて、此の岩窟は龍神の正殿なり疎意有るまじと消失せけり、家成慎敬して退去し給ふ、此の時より龍宮と敬拝す」
とある。

小鳥ヶ島・障子返

『上野国志』[LINK]には、
「大沼 黒檜の西に在り、[中略]沼中に洲有り、小鳥島と名づく、東岸は障子返と曰ふ」
とある。

大洞赤城神社の旧拝殿は大沼を背にして建てられており、本殿を通して小鳥ヶ島を拝する位置に在った。 小鳥ヶ島に現存する多宝石塔(赤城塔)には応安五年[1372]八月の銘があり、この頃には小鳥ヶ島は聖地と考えらえていた。
(尾崎喜左雄『上野国神名帳の研究』、第4章 古文献に見える上野国の諸神、第4節 『神道集』にあらわれた上野国の諸神[LINK]

三夜沢

現在の前橋市三夜沢町ではなく、元三夜沢を指す。

『山吹日記』の天明六年[1786]五月十八日辛酉条[LINK]には、
「柏原の帝(桓武天皇)の御世詔ありて今の所に遷し奉る。元の宮居ありし所はいま本三夜沢と呼て、是より一里はかり東の方に有」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『上野国郡村誌』第二巻の室沢村古跡の条[LINK]には、
「赤城山神社跡本村の北方字御殿と云所にあり」 「赤城神社の三夜沢への御遷座は桓武天皇御代の頃と言伝へあり、年号干支詳かならす」
とある。

1965年11月の山火事により、赤城山中に平安時代(9世紀後半~12世紀初頭)の山岳寺院跡(宇通遺跡)が発見された。 尾崎喜左雄による発掘調査では、仏堂と神社建築が混在する遺跡として赤城神社西宮の故地と推定された。 しかし、その後の粕川村調査では、一部を除きすべての建物跡が仏堂と考えられている。
『宇通遺跡 —発掘調査報告書 資料編—』(粕川村教育委員会、1991)[LINK]では、宇通遺跡と元三夜沢の関係について
「ここから南に200mほど下ったところには、密教法具「鐃」の鋳型(9世紀後半)を出土した御殿遺跡がある。この集落遺跡は宇通の寺院に関連した集団によって形成された可能性がある。また、この御殿遺跡に隣接する湯之口地区にも礎石建物の存在が知られている。そこは元三夜沢と通称されているところ。多分、赤城神社の伝承として残る西宮の故地とはこの湯之口地区に違いない。宇通遺跡と湯之口の遺構は延暦寺における山王社の関係にあったとも考えられる。すなわち平安寺院に伴う鎮守社の可能性は大きいだろう」
と考察している。

惣社

参照: 「上野国九ヶ所大明神事」総社

【参考】赤城山御本地

『神道集』の赤城山縁起を継承する呼ばれる一群の語り物系統の物語(赤城山御本地)が伝わるが、その内容は『神道集』とはかなり異なっている。
その伝本の一つである『上野国赤城山御本地』[LINK]によると、仁徳天皇の御代[313-399]の上野国主は高鍋之左大将家成(他の伝本では高野辺左大将家成)であった。 家成には十六夜・弥生・桜御前という三人の姫がおり、家の後見には浅間坊覚満・伊香保蔵人貞蔵・野田三郎重俊等がいた。 奥方の没後、家成は信濃国主の更科次郎の妹を新たな奥方に迎え、八王という若君が生まれた。 家成が伊香保・野田を供に上洛中、奥方は郎党の根津・望月に命じて三人の姫を増田淵に沈めて殺害しようとした。 しかし、三人の姫は千手観音・虚空蔵・地蔵の化身であったので、龍神に命を救われた。
都から戻った家成は、奥方から姫が天狗にさらわれたと聞かされ、軍兵を率いて赤城山に登った。 その時、山中の谷間に三日間逗留した場所を、今は三夜沢社と云う。 家成が赤城山中を捜索していると、黒檜山の天狗が現れ、継母の計により姫君が増田淵に沈められた事を告げた。 これを聞いた家成は口惜しく思い、履中天皇三年[402]六月十五日に四十八歳で亡くなった。 浅間坊覚満は主君の後を追って自害し、覚満を水葬にした池は「覚満淵」と名付けられた。
八王は母の邪慳を嫌って出家し、増田淵で姉たちの菩提を弔ったが、十四歳で亡くなり、八王寺(八王子)権現として祀られた。
伊香保・野田は軍兵を率いて深津を攻め、根津・望月を滅ぼした。 奥方は信濃に逃げ、更科山に棄てられた。 そこに家成が十丈程の百足に乗って天下り、岩石を投げつけて奥方を微塵にし、赤城山に飛び去った。
三人の姫は父の跡を尋ねて赤城山に登り、湖畔の御廟所に辿り着いた。 そこに家成が昔の姿で出現し、姫たちに故郷に帰って衆生を守護するよう宣った。 その後、三人の姫は二宮に住み、七月十五日に揃って亡くなった。
伊香保・野田は上洛して帝に奏聞し、帝は左大将家成を赤城山大明神、三人の姫を二宮三躰明神と祀るよう宣旨を下された。 同天皇四年[403]二月十二日に社殿が建立され、正一位赤城大明神の勅額が下された。