『神道集』の神々
第四十五 釜神事
人皇二十八代安閑天皇の御代に、釜神が日本に弘まった。近江国甲賀郡の由良の里から一人の男が年貢を納めに都に上った。 その帰路、甲賀の山中の大木の下で寝ていると、故郷の方から大なる光り物が飛来して木の枝に止まった。
木の下から「今夜は何事か有るか」と声がして、光り物は「由良の里で東西軒並に同時にお産が有った。すぐ名を付けて七歳以前に命を取ろうとしたが、親が賢くて胎内にいる内に名を付けたので、力が及ばなかった」と答えた。 下から「果報はどうか」と問うと、上の光り物は「男の子は「箕を作り門々を売り廻るべし」という文字、女の子は「作らずして万福来る」という文字を手に持って生まれた」と答えた。 地底の物が「別の村里へ走り廻り、急いで名を付けて多くの小児を取り集めよ」と云うと、光り物は承知して西の空に飛び去った。
その男が帰ると、家では男の子が生まれていた。 その隣家では女の子が生まれていた。 男は隣家の娘を息子の許嫁とした。
二人の子は成人して夫婦となり、両家の財宝を相続して裕福に暮らしていた。 しかし、男は遊女にうつつを抜かしたので家運は衰え、女房に去状を取らせて追い出した。
女房は二人の童女を連れて由良の里を出て、伊勢国浦野の伯母を訪ねようとした。 その途中、錦木の里で雨宿りをしている時、一人の男と出会った。 その男は三年前に妻を亡くし、『法華経』を読誦して供養を終えたところだった。 女房はその男と再婚し、福運により不自由の無い身の上となった。
一方、女房を離別して福運を失った男は、零落して箕売りになった。 男は女房の家とは知らず箕を買ってもらい、女房と再会して自分の身を恥じて死んでしまった。
男は釜屋の後に埋められ、翌日から毎朝、女房は小蓋の御料を供え、人に聞かれると釜神の御料だと云った。 これを世間で聞き伝え、小蓋の御料を釜神に供えるようになった。 昔は元の夫の御料だったが、今は本当に釜神の御料となったのである。
此の男は終いには釜神と成り、女房が世に有る間は釜屋を守護した。 こうして、釜神の小蓋の御料は近江国甲賀郡から始まった。 また、諏方大明神も甲賀郡から始まった。
由良の里
甲賀郡内には「由良の里」という地名は見当たらない。柳田國男「炭焼小五郎が事」[LINK]には
由良は通例海辺の地名であるから、近江は誤で無いかとも思ふが、何かなほ此方面に人の霊を火の霊として崇拝する、昔の理由が隠れて居るようにも思ふ。とある。
(柳田國男『海南小記』、「炭焼小五郎が事」、大岡山書店、1924)
福田晃が推測したように釜神本縁譚の源流が甲賀の飯道山にあったとすると、飯道山の麓の由良谷川が流れる村里(針・夏見など)を指すとも考えられる。

福田晃「神道集巻八『釜神事』の背景」[LINK]より
釜神
『古事記』上巻[LINK]には とあり、神道では奥津日子神・奥津比売命を竈神として祀る。『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の土公変化之事の条[LINK]には とあり、陰陽道では土公神を竈神として祀る。
子登『和漢真俗仏事編』の「荒神を竈神と為す」の条[LINK]には とあり、仏教・修験道系の民間信仰では三宝荒神を竈神として祀る。
井沢蟠竜『広益俗説弁』正編巻四(神祇部)の「三宝荒神の説」[LINK]には とあり、竈神の出自を甲賀の由良の里としている。
福田晃「神道集巻八『釜神事』の背景」[LINK]では釜神本縁譚の源流を甲賀の飯道山と推測している。
(福田晃「神道集巻八『釜神事』の背景」、日本文學論究、21号、pp.23-31、1962)
村山修一『日本陰陽道史総説』には とある。
(村山修一『日本陰陽道史総説』、11章 室町期公武社会の陰陽道、戦国時代の陰陽道と庚申・福徳信仰、塙書房、1981)