『神道集』の神々
第三十二 吉野象王権現事
象王権現の本地は釈迦如来である。 摩耶夫人の胎内に入った時、白象の姿であったので象王と云う。権現として顕れた時は、本地は聖天である。 聖天は真言教主の大日如来であり、その教令輪身の大聖不動明王であり、無明界の教主の荒神大菩薩である。 一切障碍神の冥合した毘那耶伽天であり、一切衆生を哀み給う天である。
その本地を尋ねると大日如来である。 『普賢観経』には「釈迦牟尼仏、名毘盧遮那遍一切処、其仏住処、名常寂光土」と云う。 その自性輪身は十一面観音である。 その教令輪身は愛染大明王である。 その垂迹は麁乱神である。 大魔王となる時は常随魔である。 煩悩となる時は元品無明である。 総じて九億三千四百九十の王子眷属がいる。 夫婦合身の形で象頭人身の体である。 荒神として顕れる時は一面三目で二足の姿である。
『称揚勧請句』によると、象王権現は別しては象頭人身の歓喜天で、一面三目六臂である。 神足自在で、十二大天・諸毘那耶伽・九善鬼・八百部類は随喜納受し、民を哀れんで加護すると云う。 『天形星秘密心信陀羅尼経』によると、十二星宿とは、一は除伏天、二は随順天、三は水行天、四は天門天、五は断惑天、六は福恵天、七は官愛天、八は増命天、九は障善天、十は歓悪天、十一は歓喜天、十二は和合天と云う。 また、十二大天とは、一は伊舎那天、二は帝釈天、三は火天、四は炎摩天、五は羅刹天、六は水天、七は風天、八は多聞天、九は大梵天、十は持地天、十一は日天、十二は月天と云う。
垂迹 | 本地 |
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蔵王権現 | 釈迦如来(または釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩) |
聖天・毘那耶伽天・歓喜天
元来はヒンドゥー教の象頭人身の神ガナパティ(Gaṇapati)で、別名はガネーシャ(Gaṇeśa)。 単身像と双身像があり、双身像は象頭の男天と女天が抱擁した「夫婦合身の形」で表わされる。『密教大辞典』の歓喜天の項[LINK]には
聖天・大聖天とも云ひ、俗に天尊と称す。 梵名誐那鉢底又は誐尼沙(Gaṇeśa)。 誐那は群衆・団体の義にして大自在天の軍隊、鉢底は主又は所有者なるが故に、大自在天の軍を統帥する大将なり。 故に胎蔵現図曼荼羅には大自在天の化身たる伊舎那の眷属として、外院北辺東部にあり。 誐那と毘那夜迦(Vināyaka)とは元来別なれども、古くより同一視せられ、誐那鉢底を毘那夜迦の首領とせり」
聖天と名くるは、憬瑟の形像品[LINK]云、「此大聖天王大自在天変化自在天、故秘法云、六通自在故名二聖天一、智慧自在故名二大自在天一」と。 或は此尊は普通の毘那夜迦に非ずして、大日如来又は観自在菩薩の権化身なるが故に、その本身に就て聖と名く。
尚此尊の双身並に本地に就ては歓喜秘鈔・覚禅鈔・白宝口鈔等に種々の伝説を出せり。 その二三を挙ぐれば、同書の毘那夜迦の項[LINK]には
(1) 聖天は大自在天女の子なり、形貌心性暴悪なるに依り追下されて毘那夜迦山に住す。 時に男天ありて語を寄す。 女天答ふ、「我に夫あり軍荼利と号す、形貌太だ怖るべし」と、男天之を見て恐怖をなす。 女天云く、「汝愍性ならば我れ汝に随はむ」と、障難の心を変じて夫婦となる。
(2) 摩羅醯羅州に王あり、牛肉と大根のみを食ふ。 牛漸く少くして死人の肉を供す、死人少くして生人の肉を用ふ。 こゝに国中の大臣人民四兵を発して、此の暴王を害せんとす。 王は毘那夜迦王となり、空を飛びて去る。 その後国中に疾病行はる。 大臣人民等十一面観音を念ず、観音乃ち毘那夜迦女の形を現じ、彼の悪心を誘ふ、毘那夜迦王歓喜し即ち国中の疾病息み人民安穏なり。
(3) 大臣あり王后と密通し、王の知る所となりて、毒害せられむとせしに辛うじて脱れ、雪山の油池に浴して象頭の毘那夜迦となりたりと。
毘奈野迦・頻那夜迦とも書く。 是れ障碍・困難等の義、又は除障者とも訳す。 義訳して常随魔と云ふ。
蘇婆呼経上[LINK]によらば四種あり、一摧壊部、主を無憂大将と云ふ、二野干部、主を象頭と云ふ、三一牙部、主を厳髻と云ふ、四龍象部、主を頂行と云ふ。
金剛界曼荼羅外金剛部には五種の毘那夜迦あり、即ち四門の金剛摧砕(傘蓋毘那夜迦)、金剛食(華鬘毘那夜迦)、金剛衣服(弓箭毘那夜迦)、金剛調伏(把刀毘那夜迦)と二十天軌の伊舎那に代ふる毘那夜迦(歓喜天)なり。 或は更に北方の金剛面(猪頭)天をも加へて六種とす。四門の毘那夜迦は憬瑟の形像品[LINK]によらば、蘇婆呼経の無憂・厳髻・頂行・象頭にあたる。
歓喜天は誐那鉢底(Gaṇapati 衆団の主)なれども、此等毘那夜迦衆の首領なるが故に常に毘那夜迦王と称せらる。とある。
承澄『阿娑縛抄』巻第百四十九(歓喜天)[LINK]には
山有り、毘那夜迦山と名づく。 此に象頭山と云ひ、又障礙山と名づく。 其の中に多く毘那夜迦有り。 其の聖を歓喜と名づく。 其の眷属無量衆と倶なり。 大自在天の勅を受け、世界に往き大いに衆生の気を奪ひて、障難を作さんと欲す。 爾の時、観自在菩薩大悲心に薫じ、慈善根力を以て、化して毘那夜迦婦女身と為り、彼の歓喜王の所に現る。 時に彼の王此の婦女を見、欲心熾盛にして、彼の毘那夜迦女に触れ、其の身を抱かんと欲す。 時に障女、肯て之を受けず。彼の王即ち愛敬を作す。 是に於て、彼の女言はく、「我れ障女に似たりと雖も、昔より以来、能く仏の教を受け、袈裟衣を得。汝、若し実に我が身に触れんと欲さば、我が教に随ふべし。即ち我が如く、未来世を尽くすまで能く護法をなすや否や。又我に従つて諸の行人を護りて障礙をなさゞるや否や。又我に依りて已後、毒をなすなきや否や。汝是の如き教を受けば親支せん」と。 時に毘那夜迦言はく、「我れ縁に依りて今汝に値ふ。今より已後、汝等の語に随つて仏法を護らん」と。 時に毘那夜迦女、笑を含んで而して相抱く。とある。
荒神大菩薩
荒神は仏教・修験道系の民間信仰における神格で、多面多臂(三面六臂、三面八臂、八面八臂など)の鬼神形(三宝荒神)、一面六臂の菩薩形(如来荒神)、あるいは一面四臂の俗体形(子島荒神)などで表される。文献上の初見は源俊房『水左記』の承暦四年[1004]六月三十日辛酉条[LINK]の
夜未明に車に駕し大井河(大堰川)に行臨し、僧頼命〈摂州勝尾寺住僧云々〉をして荒神祓を修せしむ。
『荒神縁起』には
夫れ三宝荒神は、昔世界成国の始め、光音天より須弥山の辺に大海の水に来て遊戯す。 [中略] 仏の前、成国の始めに顕れたる神なる故に、仏兄と云ふ也。 影向を四海の間に垂れ、三朝の境に霊験を施す。
印度には昔、舎利弗尊者、善法を修行し、道場を建立せし砌、荒神を供して、悉地円満す。 舎衛国の祇園寺に一千人の僧、俄に驚恠す。 三宝の御前に祭祈れば、件の千余人の僧は忽に蘇生す。 又、呉の南国に聖人あり、金貴大徳と名づく。 件の聖人、宝弊を東方の多婆天に捧げて、三反礼拝せしかば、現身に悉地円満す。
次、漢土には、昔伏義(伏羲)の御代に、廿人(女人)有り、荒御前に百味の珍菓を備へ祭れば、大国の大王の后と成り、太子を生す。 又、摩騰・法蘭、白馬に文を負せ天竺より持渡り給ふ時に、大唐陽門州白馬寺にて、三宝荒神御前を祭り始め奉る也。
次、日域には、摂津国勝尾寺、神亀四年〈丁卯〉[727]、善仲・善算両人の聖人、三月の比、勝尾寺に攀登す。 [中略] 紺紙金字如法書写の願を発す。 清浄の山頂を卜し、一基の石塔を建て、経行場と為し、日夜に勤苦す。 [中略] 時に、桓武天皇第五王子開成聖人、去る天平神護元年〈乙巳〉[765]正月一日に此の霊雲を見、尋ね彼の峯に登り、二聖の草庵に至て、感謁礼敬、忽ちに師資と成る。 其の後、二聖の願を以て、皇子に付属し畢へて、西に向ひ飛び去りぬ。 皇子眷を受付て懃め、如法書写の願を果遂せんと欲す。 宝亀五年[774]二月十一日夜、皇子夢みる。 八面八臂の大鬼王、数千の眷属を引率し、道場に乱入し、六百巻の紺紙を手毎に取持て、山林に分散す。 皇子問て云ふ、「汝は何者ぞ」と。 答て云ふ、「我は三宝荒神と号す。汝は十五夜神の恩を忘れ、崇祭せざるが故に、此の大願を妨ぐ」云々と。 皇子大に驚て、種々の礼奠を設け、祭祀畢へて七日七夜祈り、冥助を乞ふ。 八幡大菩薩は泥の料の金を賜ふ。 信州の諏訪明神は天竺の白鷺池の水を汲み、硯水に加へ奉る。 [中略] 此の如く冥助を蒙て、王子六ヶ年の間、昼夜を論ぜず、一筆書写す。 宝亀六年〈己卯〉[775]七月十三日に之を奉納す。
慈覚の伝に云く、天地開闢の時、天には摩醯首羅天は弁才天女を娶り、一切の天衆の依正の二報を出生す。 是れ則ち、三界所有の衆生の父母、三世常恒大日、胎金両部の始め也。 南閻浮提中天竺に来下る時は、四梵王と毘富貴(伝本によっては毘富欠)冥合して、一切の衆生の依正の二報を出生す。 唐土には、富貴(伏羲)と女果(女媧)二人来下し陰陽を始て依正の二報を出生す。 日本には、伊弉那(伊弉冉)・伊弉諾尊と出て、天の岩戸を開き、男女の道を示し、我国の依正の二報を出生す。 [中略] 有情無情を出生する事、皆荒神の所行也
自性所生障の縁起とは、秘経(『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』)[LINK]に云く、「於一散乱心〈乃至〉自性所生障」と説く。 此の自性障とは、一切衆生無始より以来、実の如く自心を知らざる故、自性障と云ふ也。 此の障、漸く麁に現して来れば、六臂端厳の形(如来荒神)を示し、或は八面憤怒の相(三宝荒神)を現する也。 一散乱心とは、此又実の如く心を知らざるなり。 妄想顚倒の心、今麁乱荒神是れ也。 或る秘書に云く、衆生荒神は、胎・卵・湿・化の四生、是れ則ち元品無明の体也。 亦、性徳の菩薩也。 『四種毘那耶伽経』に云く、「大荒神は色界四禅に居す。名づけて摩醯首羅天と曰ふ。欲界第六天にては毘那耶伽神と曰ふ。妻をは号して宇賀神と曰ふ。是れ一切衆生の福智の二厳也」。 亦、『宇賀神王福徳円満陀羅尼経』に云く、「多婆摩醯首羅天とは、一切衆生の無始本有所具の元品無明王是れ也」とある。
(高橋悠介『禅竹能楽論の世界』、第2章 荒神の縁起と祭祀、翻刻『荒神縁起』、慶応義塾大学出版会、2014)
金剛智訳『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』一切如来大勝金剛心瑜伽成就品第七[LINK]によると、金剛手の説法の会中に「障」(障碍をなす存在)が忽然と現れ、これは一切衆生が生まれながら本来的にもっている障である(一切衆生の本有障は、無始無覚の中より来たる。本有倶生障、自我所生障、無始無初際の本有倶本輪なり)と明かされる。 そしてこの障は忽然として金剛薩埵の形を現じる。 この経文中には荒神の名は見られないが、注釈の中で、この「障」は毘那耶迦とも荒神とも解釈された。
例えば、澄豪談・光宗筆録『瑜祇経口決抜書』には「無始無覚ハ無明。本有倶生障ハ思惑。自我所生障ハ見惑。惣シテ見・思・無明三惑ヲ以テ障者ノ体ト為ス。此ノ三惑ハ衆生ノ無始本有所具ニシテ即チ本有也」「此ノ障トハ毘那耶伽也。是レ即チ荒神也。大日経義釈ニ毘那耶伽ヲハ、衆生ノ念念荒神〈妄心〉ト釈セリ。此ノ毘那耶伽トテ障礙ヲ成ス者、行者念念所起ノ心也」等とある。
(高橋悠介『禅竹能楽論の世界』、第2章 荒神の縁起と祭祀、7. 荒神の図像と『瑜祇経』注釈の世界)
『神道雑々集』の「荒神之事」によると、舎利弗が善法を修行し道場を建立しようとしたが、常に魔のために破壊され成就しなかった。 舎利弗が歎き怪しみ、隠れて伺い見ると、八面八臂の長大なる者が、八人の眷属を率いて現れた。 舎利弗が「汝は誰」と問うと、「我は是れ三宝荒神・毘那夜迦也。亦の名は那行都佐神也。我は是れ仏兄也」「我を敬せざる故、善法を破壊せしむ也。我を敬祭せざる人、貧窮にして無福短命にして病患多し。一切の災難に今相遭す」と答えた。 舎利弗が「今より以後恭敬すべし。其の名号を今に知らせ給へ」と宣うと、「我は那行都佐神、また毘那夜迦也。即ち従類九億四万三千四百九十の荒神也」と答えた。 舎利弗が百味の供物を備えて荒神を祭ると、万願が成就した。
また、『仏説大荒神施与福徳円満陀羅尼経』[LINK]によると、過去世の空王如来に三人の使者(飢渇神・貪欲神・障礙神)がおり、末世に荒神として顕現し財物や福徳を奪う誓願を発した。 三人の鬼王が出現すると、仏は「慈悲と忿怒とは譬へば車輪の如し。一輪を闕く時、人を度すことを得ず。荒神の君は惟れ如来の権身にして、仏法を保たんが為に仮に明神と称す。那行都作・多婆天王・毘那耶迦・正了智等護法善神十八神王皆悉く是の如く一身分名なり。不信の衆生に強信を発さしめ、懈怠の群類に精進せしめんが為なり。[中略]昔日の三人は大日如来・文殊師利・不動明王にして、亦貪・瞋・痴なり。今日の三鬼は亦復是の如し。意荒立つ時は三宝荒神、意寂なる時は本有の如来なり」と説いた。
(山本ひろ子『異神 —中世日本の秘教的世界—』、第3章 宇賀神—異貌の弁才天女、I 宇賀神経と荒神祭文、平凡社、1998)
運敞『寂照堂谷響集』第九の荒神の条[LINK]には
旧記を按ずるに、本朝示現の神にして三国相伝に非ず。 昔役優婆塞葛城の峯に宴坐し、東北方の山を望むに紫雲靉靆有り、往いて謁見し神と語論す。 神自ら言はく、「悪人を治罰すること有り、故に麁乱荒神と称す。又三宝を衛護す、故に三宝荒神と号す。九万八千の夜叉眷属あり」とある。
『三宝荒神祭文』[LINK]には
荒神の御前は其の本地を尋れば、或は文殊菩薩として大空三昧の風に無相法身の用を磨き、或は不動明王として大智勇猛の火に有為妄執の薪を焼く。
心荒立つ時は三宝荒神と為り、心寂なる時は本有の如来と為る。とある。
『荒神式』[LINK]には
一切衆生の心上にअ{a}हूं{hūṃ}の二字有り、変じて八葉の蓮華と成る。 是れ則ち善悪親疎の起り也。 然れば則ち咲へば八葉中台の尊神、瞋れば八大荒神也。 聊か仏陀には大日尊と名づけ、薩埵には観世音と名づけ、天等には弁才天と名づけ、神等には麁乱神と名づけ、魔王には常随魔と名づけ、鬼神には飢渇神と名づけ、煩悩には根本無明と名づく。とある。
龍泉寺[三重県松坂市愛宕町]から伝来したと推定される荒神曼荼羅(現在は個人蔵)は、三宝荒神を主尊として那行都作神・多波天王(多婆天王)などの眷属神が描かれる。 その主尊の荒神像は、忿怒相で赤肉身・八面八臂二足で右膝を高く上げる邪立走勢を取る。 類例として阿名院[岐阜県郡上市白鳥町長滝]蔵の八面八臂忿怒尊像が有り、「蔵王権現の姿態を借りた荒神像の異形」と考えられている。
蔵王権現と荒神を結び付けた説は、荒神の儀軌・次第等の諸書にはみえないことから、修験の限られた環境で成立した特殊な説と思われる。 『神道集』では荒神を一面三目二足とする点、この荒神曼荼羅は『神道集』と直結する図像とは言えないが、荒神と蔵王権現との習合説が背景にある蓋然性は高い。
(高橋悠介「個人蔵・荒神曼荼羅について」、金澤文庫研究、339号、pp.37-46、2017)
麁乱神
『諸山縁起』には大峯より役行者出でて、愛徳山に参詣の間、発心門に一人の老者あり。値ふ。 「何人ぞ」と問ふに、答へて云はく、「吾は百済国の美耶山に住む香蔵仙人なり」と。 云はく、「公、数万劫、法を求むること久しく御坐す。今この国の行人叶はざるか。然りといへどもこの峯ここに種々の主あり。知らず御すや。如何。熊野の御山を下向する人のその験気の利生を奪ひ取る者三所あり。未だ知らざるや。何」と。 行者、「知らず」と答ふ。「我に教へ給へ」と。 云はく、「熊野の本主は麁乱神なり。人の生気を取り、善道を妨ぐる者なり。常に忿怒の心を発して非常を致すなり。時々山内に走り散りて、人を動かし、必ず下向する人のその利生を妨ぐ。その持する事は、檀香・大豆香の粉なり。面の左右に小く付くれば、必ず件の神遠く去る。その故に南岳大師の御弟子一深仙人の云はく、「人、もろもろの麁乱神を招き眼を奪ふことあらば、檀香・豆香を入るれば皆悉く去り了りんぬ」と。その故に、大豆を粉に作して面に塗れば、必ず障碍する者遠く去るなり。その処は、一に発心門、二に滝本、三に切目なり。山中に何の笠をば尤もにせん。那木(梛)の葉は何ぞ。荒れ乱るる山神、近く付かざる料なり。金剛童子の三昧耶形なり。而るに不祥なるは松の木なり。この事を能く知り、末代の人に伝へ御せ」と。云はく「滝尻の上の御前は常行の地にして、善生土と云ふなり。諸仏と共にこの山に住する山人、歳久しく常に麁乱神の遊ぶを知らず。余の恠あらず。毎月一度の供、善生に返るか」と云ひて、隠れ了んぬ。とある。
『山家要略記』によると、麁乱神は十禅師と同体である。
常随魔
含光『毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要』[LINK]には常随魔とは云何。 恒常に一切有情に随逐してその短を伺求すと謂ふ。 然し天魔・地魔はしからず、唯だ時々来りて障難を作す。 毘那夜迦は常に随ひて障難を作す。故に常随魔と名づく也。と説く。
元品無明
『織田仏教大辞典』の元品無明の項[LINK]には中道実相の理に迷ふものを無明と名け、其の無明に浅深麁細の別あれば、天台の別教は之を十二品に分け、円教は四十二品に分つ、其中最も微細深遠なる元本の品類を元品と云。 是れ一切衆生の迷ひの元初根本なれば根本無明と云ひ、此の無明真如の無始と共に無始なれば無始無明と名く。 されば此の元品無明が無始生死の根元なり。とある。
「元品無明」としての荒神は「多婆(多縛)天王」の名で呼ばれた。
『仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経』には
荒神の上首多婆天王は元品無明是れ也。 三神の使者は貪・瞋・痴の三毒也。と説き、光宗『渓嵐拾葉集』巻三十六(弁財天法秘決)[LINK]には
三世の諸仏は衆生の為に福智を施すと雖も、荒神上首多縛天王は瞋を成し、三神を遣し衆生の福恵を奪はしむ。 三神とは貪欲・飢渇・障礙等の三悪の使者是れ也。多縛天王とは元品無明是れ也。とある。
九善鬼
未詳。十二星宿
未詳。『普賢観経』
曇摩蜜多訳『観普賢菩薩行法経』[LINK]には釈迦牟尼仏、名毘盧遮那遍一切処、其仏住処、名常寂光と説く。
(釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名づく)
象王権現
吉野山から山上ヶ岳まで一連の峰続きを金峯山、そこに建立された修験寺院を金峯山寺と総称し、山上一体・山下三体の蔵王権現が祀られた。大峯山寺[奈良県吉野郡天川村洞川]
本尊は金剛蔵王権現(山上一体の蔵王権現)。
単立寺院。
金峯山寺[奈良県吉野郡吉野町吉野山]
本尊は金剛蔵王権現(山下三体の蔵王権現)。
金峯山修験本宗総本山。
文献上の初見は中国(後周)の『義楚六帖』巻二十一の日本国の条[LINK]の
藤原道長が寛弘四年[1007]の御嶽詣の際に金峯山経塚に埋納した経筒の願文[LINK]には とあり、「蔵王権現」の尊名が確認できる。
「熊野権現事」には とある。
『道賢上人冥途記』〔皇円『扶桑略記』第二十五の天慶四年[941]三月条に引用〕[LINK]には とある。
文観『金峰山秘密伝』巻上の「金剛蔵王本地垂跡習事」[LINK]には とある。
同書・巻中の「金剛蔵王名号習事」[LINK]には とある。
『役公徴業録』[LINK]によると、役公が大峯山を辞す際に神明の扶助を祈念した時、 とある。 ここで、天河は天河大弁財天社[奈良県吉野郡天川村坪内]、川上は金剛寺[奈良県吉野郡川上村神之谷]を指す。
『金峰山創草記』の「諸神本地等」[LINK]には とある。
『大峯縁起』下には とある。
『熊野山略記』巻第一[LINK]には とある。
『麗気記』巻第十(神号麗気記)[LINK]には とある。
近世の文献では、金峯山の蔵王権現は安閑天皇または少彦名命とされた。
例えば、林羅山『本朝神社考』中巻[LINK]には とある。
また、天野信景『塩尻』巻之十一[LINK]には とある。
『先代旧事本紀大成経』巻第二十九(帝皇本紀上巻上)には とある。
金峯山寺は役行者により開かれた後、寛平六年[894]に醍醐寺の聖宝(理源大師)により中興されたと伝えられ、熊野と共に修験道の根本道場として隆盛した。 永承四年[1049]に興福寺の円縁が金峯山検校となって法相宗に帰属。 慶長十九年[1614]には天海が学頭となって天台宗(山門)に帰属した。
明治初年の神仏分離により金峯山寺は廃され、下山蔵王堂は金峯神社口之宮、山上蔵王堂は同奥宮となった。 明治十九年[1886]に両蔵王堂は修験寺院として再興。 下山蔵王堂は現在の金峯山寺の本堂となり、昭和二十三年[1948]に大峯修験宗(後に金峯山修験本宗と改称)として天台宗から独立。 山上蔵王堂は大峯山寺と改称して単立寺院となり現在に至る。
『神道集』では蔵王権現を摩耶夫人の懐胎伝説および象頭人身の聖天と結びつけて象王権現と表記する(「北野天神事」では金剛象王)が、この表記はあまり一般的ではない。