2025.12.7
映画 グランプリ考 その1

 1966年のハリウッド映画である。
筆者は公開当時、小学校5年生。 渋谷の東急文化会館の看板を見て知ってはいたが、見ていないのである。
新幹線やレーシングカーなど、世の中のカッコいいモノを知る年頃である。
お小遣いで買えるようなプラモデルが小学校の前の文房具屋に並んでいたが、当時は街中で見かける国産車のモデルはなく、外国のスポーツカーやレーシングカーが中心であった。
プラモデルはカッコ良さなる審美眼を養うのに大変な影響力を持っていたと言える。
グランプリとはF1の世界選手権であるという事も知らず、ただ葉巻型のカッコいいボディーに目を奪われたものである。
当時のブームは音楽はビートルズだったが、スロット・レーシングカーがあった。
こちらはお小遣いで買えるようなものではなく大人達のブームだったのである。
ボディーはプラモデルだが、中身は金属製のフレームに直流12Vモーターという、電池で動くおもちゃでは無かったのである。
当時の日本では駅前のパチンコ屋が一斉にスロット・レーシングカーのサーキット場に衣替えしていたのである。
そこで¥100を払うと15分間、自分のマシンを走らせることが出来、日曜になるとレースが行われるのであった。
米国からやってきたものだが、最初は大人の社交場のような雰囲気であり、子供にとっても大人への階段の第一歩と言えたかもしれない。
しかしながら、小学生にとっては所有欲に火を付け、スピードを競うという麻薬のような面も持っていた。
そうした事で直ぐに学校からサーキット場に行ってはいけません、という御触れが出てしまったのである。
幸い、筆者はブームに嵌ってしまう事は無かったが、BRMとフェラーリという名前を覚えたのである。
ネットで調べて判ったのだが、1965年頃に出回っていたスロット・レーシングカーは1964年シーズンのBRMはP-261、フェラーリは158をモデル化したもので、まだ排気量1.5Lの時代であった。
他にもロータスやブラバム、ポルシェなどがあったが、BRMとフェラーリはその葉巻の美しさが際立っていた。(と筆者は思っている)
一方、テレビでは外国の有名なレースを紹介する30分番組があり、筆者にとって唯一の情報源であった。
まだそういうジャンルの雑誌がある事も知らず、マシンとドライバーの名前はそこで覚えたのである。
グラハム・ヒル、ジョン・サーティーズ、リッチー・ギンサー、ジム・クラーク etc.
しかしながら、映画の看板は目にしていたのに見に行こうという気は起らなかったのである。
今にして思うと、BRMやフェラーリが疾走している映像では無く、止まっている姿をじっくり観察したかったのかもしれない。
これは美しい葉巻を自分で絵に描いてみたかったからである。

 さて、昨今、映画はネットで見れるようになったが、Youtubeで見てみた。
前置きが長くなったが、感想を記す。
3時間弱の長編なので、一回見ただけでは消化不良で計3回見てしまった。
レースシーンやそれ以外でも情報量が非常に多く、"あそこはどうだったけ?" と検証作業は続いた。
一言でいえば、BRMチームの二人のドライバーとフェラーリチームの二人、計4人のF1ドライバーの奮闘記という事になるが、ハリウッド映画だけあって、レースシーンだけでなく盛りだくさん具だくさんである。

 興味深かったのは、4人の主人公が実在のドライバーの誰に当たるかである。
ジェームズ・ガーナー演じる主人公ピート・アーロンは最初、BRMチームの1stドライバーなのでグラハム・ヒル。
シーズン最初のモナコでのチームメートとの接触事故を理由に解雇され、三船敏郎演ずる日本のヤムラチームのオファーを受けて移籍する。
これは当時のホンダチームのリッチー・ギンサーという事になる。
BRMでアーロンのチームメートだったスコット・ストッダードは当時新進気鋭のジャッキー・ステュワートと言う事になる。
フェラーリチームだが、イブ・モンタン演じるベテランエースドライバ、ジャン・ピエール・サルティはジョン・サーティーズ。
次期エースと目されるニーノ・バルリーニは、ロレンツォ・バンディーニという事になる。
更に面白いのは、要所要所で現役ドライバーがチラチラ登場するところである。
セリフもあってちゃんと演技しているのはグラハム・ヒル。
髭を蓄えた英国紳士然とした容姿は俳優顔負けである。

 さて、何と言ってもドラマとして欠かせない大きな要素はドライバ4人の女性関係であろう。
4人の中で最年長はサルティだが既婚である。
初戦モナコを制した優勝祝賀会で紹介されたアメリカの雑誌記者の女性と大人の付き合いを始める。
次に若いのはアーロンだが、配偶者は出てこない。
次はストッダードだが、元モデルの奥さんは彼が事故で入院中にアーロンに接近。
最も若いバルリーニは未婚だが恋人が居る。
恋人役はフランスのシンガーソング・ライター、女優でもあるフランソワ・アルディが演じている。

 そしてこの女性関係とF1ドライバーとしての生き方に明確なコントラストを付けている。
アメリカ人のアーロンは女性関係や言動はフランクだが一匹オオカミ。
フランス人のサルティは万事女性優先、恋に歳は関係ない。
イギリス人のストッダードは熱くなる事無く、何事にも配慮深い。
イタリア人のバルリーニは女性が居れば直ぐ口説く(礼儀だそうである)。

 さて、ドラマは山あり谷ありだが、この映画が力説しているのは、F1ドライバーは常に死と隣り合わせというところだろうか?
4人のうち、バルリーニを除く3人はレース中に事故を経験している。
美しい葉巻は無残な姿となり、観客をも巻き添えにする凶器と化す。
実際、F1グランプリに限らずレースに事故は付き物で、毎年ドライバーが亡くなっている時代である。
しかしながら、70年代に入るとドライバー自身でリスクを低減しようと言う動きが起きて、マシンやサーキットの安全性に意見するようになった。
この映画でも判るように、当時はシートベルトが無かったのである。
ヘルメットも顔面負傷のリスクを抑えるフルフェイス型では無い。
現代のF1マシンはカーボン繊維による軽量強靭な構造でクラッシュ時に最低限の生存空間を確保できるようになっている。
そうすると、当時のF1ドライバーの伴侶となる女性はある種の覚悟を持っていたのかもしれない。
主人公アーロンにはドラマを彩るロマンスが出てこないが、相手を悲しませる事はしたくないという思いがあったのかもしれない。
対照的にラストシーンは悲しむ女性の姿が描き出されるのである。


ここに描かれているレーシングカーは1966年シーズンのホンダRA273になっている。

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