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エンドレスゲーム

 バーンという激しい音が狭い空間 いっぱいに響くと、まるで自分の背中を蹴られたように彼らは ビクッと背筋を伸ばした。
 僕は薄笑いを浮かべていた。しかし本当はその激しい音に誰 よりも驚いていたのは僕自身だったのかもしれない。自分でも よく分からなかった。気がつくとトイレのドアを思いきり足蹴 にしていたのだ。
「どうしたの、そんなアナタ見たくないわよ」 ほとんどの客が意識的に目を逸らすなか、薄笑いの僕を見上 げて演出家の日高先生が言った。この一言で勝負はあっさりと 決まった。乱暴者が弱いと知ると周りの人間はとたんに強くな る。電車の中で見かけるケンカのようなものだ。
 僕は店を出た。酔っぱらってはいなかった。乗り心地が悪か ったのだ。
 八月最後の渋谷の夜は冷めきれない夏の暑さがまだ街中にう ようよしていた。
(僕はなぜあんなことをしたんだろう。何が気に入らなかっ たんだろう。いや、あれは正義だ。考え抜いた正しい衝動だ)
 山手線はあっという間に新宿駅に着いた。向かいのホームか ら黄色の最終電車が走り出そうとしていた。
(僕が正しければ、僕はあの電車に乗れる!)
 僕は走った。
(僕は乗れる! 僕は正義だ!)
 電車のドアが容赦なく右肩を挟んだ。負けるもんか。走り始 めた電車に僕は必死で体をねじ込んだ。セーフ、セーフ。
(ほらね、僕は、やっぱり正しい…)
 冷ややかな乗客の視線も気にせず、僕は僕だけにしか理解で きない微笑みを浮かべて流れる夜を眺めていた。

         *     *     *

「ふうーん、で続きはどないになるねん?」
 ワープロ文字で書かれた一枚の「原稿」を30秒ほど眺めると リカちゃんは妙な関西弁でそう尋ねた。
「読みたい?」
「ぜーんぜん」
「およよ、そうかなあ、結構いいと思うんだけどなあ」

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「悪いけど、つまんないわ。これって私小説のつもりなんでしょうけど、 結局何が書きたいわけ?」
「いや、それはリカちゃんさあ、全部読んでくれなきゃ」
僕はコーヒーを一口すすると、再び言葉を続けた。
「たとえば具体的にどの辺がつまんない? いいなあってと こ全然ない?」
「まあ、これだけで判断するのもなんだけどぉ…具体的って いうより生理的って感じかな」
大した評価などもちろん期待していなかった。でもアッサリ そう言われるとやはり少し寂しかった。  「ままま、そう言わずにさあリカちゃん、騙されたと思って もうちょっと読んでみてよ…」
「…騙せるの?」

         *     *     *

 電車は間もなく阿佐ヶ谷駅に着いた。改札を出た僕はまっす ぐ下宿には帰らず、そのままガード下を下宿とは反対の方向へ 歩いた。もちろん行くあては決まっていた。
 阿佐ヶ谷駅周辺は小さな飲み屋が密集している。あの太宰治 とか井伏鱒二といった酒好きの文豪たちからも愛された歴史あ る酔いどれの町だ。
『どら猫さん』はそんな小さな飲み屋の中でも僕が一番好き なところだ。ガード脇の古ぼけた建物の2階にあって、二十平 米くらいの狭い空間に5席のカウンターと2つのテーブルがあ って、ぎゅうぎゅうに詰めても二十人と入らない屋根裏部屋の ようなところだ。
 懐かしいブルースが流れ、壊れたピアノと窓辺には古いけど こちらは現役で活躍する暖炉があって、それに何よりもサルバ ドール・ダリを思わせる髭面マスターのシュールな雰囲気が最 高なのだ。
 いつもの急な階段を上ると、僕はこの町で一番好きな入り口 の扉を押した。錆びたチョウツガイの、ギューィというあの独 特の音、そしていつものように「いらっしゃいませ!」という マスターの声…。
 しかしその日の声はマスターではなかった。
 若い、女の声だった。
 カウンターの向こうで美しい顔がほほ笑んでいる。
 ひと目惚れしそうになった。捜し物が見つかったような気がして嬉

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しくなった。
 僕は水割りを一杯注文した。チョコレートも。
「よくいらっしゃるんですか?」
「ええ、ときどき…」
 きっと彼女は寂しかったのかも知れない。僕も寂しかった。
 カウンターを隔てて僕と彼女の物語はポツリポツリとつまら ない世間話から始まった。どんな話から始まったのかはもう思 い出せない。まあ先に進もう。彼女の話で印象的だったのはこ の店のマスターが『天井桟敷』というアングラ劇団に所属して いて、何と役者名がサルバドール・タリだという真実。ダリと 濁らずタリなのだ。さすがにこの話を聞いたときはおもしろ過 ぎて大声で笑ってしまった。
 そしてそのタリさんが地方公演を行う一週間の間、彼女はア ルバイトとして店を任されたというわけだった。
「キミも芝居を?」
「ううん、私はフツーの学生」
「そう、僕はフツー以下の学生だけど…」
 何となく嬉しかった。僕は劇団関係者とか芝居をしている連 中が生理的に好きではなかったから、彼女がそうでないことを 心のどこかで願っていたのかも知れない。

「きょうで二日目だから、アルバイトもあと五日だけど」
 水割りとチョコレートと楽しいおしゃべりで時計の針はあっ という間に午前2時を過ぎていた。テーブルの客が勘定を済ま すと、店は僕たち二人だけになった。
「店、何時までだっけ?」
 客が残したグラスや食器を片付けている彼女の方へ、僕はく るりと椅子を回転させながらそう尋ねた。
「何時でも…」
「えっ」
「何時でも、あなたが帰るまで…」

         *     *     *

「ラストオーダーになりますが、何かご注文はありますか?」
「え? ああ、はいはい。ねえリカちゃん、ラストだって」
「私はノーサンキュー。そろそろ帰るから」

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 ほんとに水だけ差してウエイトレスは不機嫌そうにそそくさ と去っていった。時計の針は11時30分、確かにリカちゃんはも うそろそろ終電の時間だ。
「出る?」
「もうすぐね。で何枚あるの?」
「……」
「なーに澄ましてんの。感想聞きたいんでしょ? いっぱい あるの?」
 乱暴な言い方をするけれど、それはリカちゃんの都会的でキ ュートな個性であることを僕は知っている。そう、そしていつ も最後には優しいのだ。それはリカちゃんが最初から優しい人 であるからだと僕は思っている。
「でへへ、実はあと5枚。残念ながらすぐ終わっちゃうの」
「バーカ、もったいぶらずに最初からそう言いなさい。ほら ほら、もうぜーんぶ渡さんかい」

         *     *     *

 ああ、なんと甘い囁きなんだろう。僕の心はまたひとつ驚き の扉を押してしまった…。
「朝までいても?」
「いいわ…」
(聞いたかい? 鍵を開けたのは彼女だよ…)
「ねえ?」
「ん?」
「ナマエ?」
「……」
「あなたの…」
 そうだ、僕らはまだ互いの名前を知らなかった。限られた空 間の中で、果たして二人の人間に名前はどのような意味を持つ のだろう。しかし彼女は目の前にいる僕の名前を知りたがって いる。特に意味はないのかも知れない。意味のないことを考え 過ぎるのは僕の悪いクセだ。それに僕だって彼女の名前を知り たいと実は思っていたのだ。僕の方から聞かなかったのは、さ っきまで居たあの若者グループをどこかで意識していたのかも しれない。彼らの前で彼女の名前を聞くのが

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恥ずかしかったのだ。
「そっか、まだ言ってなかったね。僕、牧山くん。キミは?」
「ワタシ、高橋洋子。どうぞよろしくネ」
 間の抜けた自己紹介に僕らは顔を見合わせて小さく笑った。 とりわけ彼女の〈どうぞよろしくネ〉がおかしくて、そして可 愛いくて僕は心の中で何度も繰り返してほほ笑んだ。
 僕らにはもう客とアルバイトという距離はなかった。たぶん そうに違いなかったと思う。事実、彼女はもうカウンターの向 こうではなく僕の隣りに座っていた。
「お店、いいの?」
「もう、誰も来ないわ…」

彼女、高橋洋子は僕に言わせるとフツーの学生ではなかった。 T外大でロシア語を専攻しているという、僕の偏差値ではとて もかなわないレベルの学生だったし、実家は麻布で開業医をし ている、いわゆるお金持ちのお嬢さんでもあった。もちろん僕 が質問したから彼女は事実を答えたまでだ。そして年齢は21才、 これも僕より一つ上級だった。
「どうして阿佐ヶ谷に?」
「不思議?」
「だって、自宅は麻布でしょう?」
 僕の質問に彼女は初めて思わせぶりな表情を見せた。
「実はね、家出してきたの…」
「……」
「ホントよ」
 僕は好奇心をいっぱいにして理由を尋ねた。
「とりとめのない理由なの…」
 彼女らしくない前置きだった。いや、彼女らしかったのかも 知れない。だって僕はまだほんの数時間しか彼女のことを知ら ないのだから。
 彼女はゆっくりと話しはじめた。
−−−−父が再婚したの。母が亡くなったのは私が中学2年生 のとき、胃ガンだった。父は医者だから母が助からないことは 普通の人以上にはっきりと理解できたでしょうし、それだけに 辛かったと思う。父と母は恋愛結婚、父がインターンのとき看 護婦だった母と大学病院で知り合ったの、よくある話ね。医者 なんて一人前になるまでけっこ

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う時間がかかるし、二人が結婚 したのは交際を始めてから10年後で父も母も38才のとき。医者 としては遅い結婚ではないけれど、女性としては遅い結婚だっ たと思う。結婚してから母は家に入って、そう、家はまだ開業 してなくて父もまだ大学病院に勤めてて、それから母は40才で 私を産んだの。「男の子じゃなくて残念だった」って、父は私 をからかうように笑いながら何度もそのころの話をしてくれた わ。私は何不自由なく育った。父にも母にもとても愛されたし 一人っ子ってこともあってほんとうに可愛がられて育った。で もね、父が再婚のことを私に相談したとき、私、そうしてほし いと思ったの。相手の女性は父より10才年下で、一度も結婚し たことのない女性。美人で感じのいい人、父が大学病院に勤め ていたときに知り合ったという人−−−−。
 滑らかに話していた彼女の言葉が、ここで少しとぎれた。 僕はテーブルの上に置かれているバーボンのボトルに目を移し た。そしてゆっくりと彼女の瞳に視線を戻しながら尋ね た。
「看護婦さん?」
 彼女は小さく首を振った。
−−−−患者さんだった人。父のいた病院でガンの手術をした の。母の手術よりもずっと前よ。彼女は助かったの、でも子宮 ガンだったから…。もう20年も昔のことらしいけど、彼女がず っと結婚しなかったのはきっとそんな体に対する負い目があっ たからだと思うの−−−−。
 再び彼女の言葉がとぎれた。
「それで?」
 僕は続きを促すように尋ねた。しかし彼女の言葉はもうそれ 以上続かなかった。
 僕は苛立った。
(それとキミの家出と、一体どう関係があるんだ!)
 心の中で僕がそう叫ぶと同時に彼女がクスッと笑った。
「ダメダメ、私、やっぱり才能ないなー」
「……」
「ごめんなさい、退屈だったでしょう?」
 いよいよ僕の頭は混乱した。
「あのね、今の話、ぜんぶウソなの」
「はあ?」
「ウソなの、作り話なの…」
 申し訳なさそうに微笑みながら、彼女はじっと僕を見つめて いた。

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         *     *     *

 ついにリカちゃんが最後の一枚をめくった。
 期待と不安で僕の心臓はドキンドキンと高鳴った。何故なら 最後の一枚というのは何も書いてない白紙原稿だったからだ。
「何よ、これ?」
「でへへ…」
「でへへ、じゃないの!」
「ごめん、実はさ、続きが書けなくて…」
 僕は大袈裟に頭を掻いた。
「それで感想を聞こうってわけ?」
「いや、実は…」
「実は実は週刊実話、なーんて言ったら殴るわよッ!」
   「ままま、聞いておくれよ」
「……」
「あのね、続きがどうしても書けなくてさ、それでリカちゃ んに相談しようと思ったんだ。リカちゃん、文学の才能ありそ うだから」
「からかってるの?」
「ま、真面目だよお。何かいいヒントもらえるかなって思っ たんだ」
 僕は不二家のペコちゃんみたいに唇をキュッと反らした。
「やーだもう気色悪い! わかった、わかったから普通のヘ ンな顔に戻って!」
「わかってくれた? 真面目なんだから」
「そう、真面目に、とにかく最後まで書きなさい。なんでも中 途半端でしょう?」
「でへへ…」
「終わるのが、キライなの?」

 時計の針が12時を回った。
 僕たちは話を中断すると大慌てで喫茶店を飛び出した。
 クリスマスを待ちきれず華やかに輝く渋谷の街を、僕とリカ ちゃんは走った。リカちゃんの白い息が僕のマフラーにからみ つく。
 終電に乗り遅れたら、リカちゃんは僕とホテルに行くだろう か。それが僕が書こうとしている最後のページなのだろうか。
 駅前の青い信号が点滅している。
 リカちゃんはニッコリほほ笑んで足を速めた。

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