次へとっぷへ

シェフィールドの瞳(1/6)  亜村有間 (HP)

   1

 暗い森を抜けると、淡い光源に照らされた屋敷が闇の中に浮かび上がった。しかし、
少女の心はそれとは裏腹に沈み込んだ。
「ジュディもおそろいのドレスを着てきたらよかったのに…ねっ!」
 少女は本音の最後を冗談っぽく誤魔化した。けれど、脇に控える相手は、やはり困っ
たように微笑んで視線を反らした。
「シーラ・シェフィールド様でございますか?」
 話しかけてきた相手に答えるのは、止まった馬車から先におりたジュディの役目だっ
た。
「ごめん…ジュディ。あなたを困らせるつもりはなかったの…」
 シーラは誰もいない闇の中に向かってぽつりと詫びた。けれど、本当の気持ちは、
その闇にさえ打ち明けることが叶わなかった。
(でも、わかって、ジュディ。私にはあなたしかいないの…。私はもう、父さえ信じ
ることができない…。)

   2

 ピアノのアンコールに答えるのも疲れ、シーラはそっとパーティの中心を外れて歩
いていた。
『だめですよ、シーラ様。もっと他の方とのお付き合いもなさらないと…。』
ジュディは、シーラが他の人に認められることを切望しているのだ。シーラは、この
前、ピアノの発表会で入賞したときの、ジュディの誇りに満ちた笑顔を思い出した。
(あの顔を見られるのならば…私は何だってやるわ…。)
そう、決心したはずだった。
(じぁあ、どうしてあんなおざなりな演奏しかできないの?)
「あ…! ごめんなさい!」
 シーラは慌てて謝った。物思いにふけっていて、小さな女の子にぶつかりそうになっ
たのである。少女は、側に立っていた青年の後ろへと走り込んだ。
「いい演奏でしたね」
 ずきん、とシーラの胸は痛んだ。微笑んだ青年の何気ない一言が、痛烈な皮肉のよ
うに心に響いたのである。
「…いいえ」
 かすれた声でなんとか返事を返すと、シーラは足早にその場を去ろうとした。青年
とすれ違ったその瞬間である。
「…本当に、いい演奏だったな」
 シーラはその場で硬直した。低く呟いたその声には、明らかな悪意が含まれていた。
シーラはゆっくりと青年の方を振り返った。もはや、青年はその本性を隠そうとはし
ていなかった。その瞳は、シーラが今までにあったことのあるどんな男のものとも違
っていた。野性味に溢れ、容赦なく相手を切り裂くような鋭い瞳…。
「これが…あのシェフィールドの当主とはな」
「ほんと。あたしがっかりしちゃった」
 シーラは、あどけない可憐な顔立ちに似合わない嘲笑を浮かべる少女にぞっとした。
しかし、シーラの心の中で、二人に対する脅えよりも、今まで隠してきたやり場のな
い怒りの方がまさった。
「あなたに…あなたに何がわかると言うの!」
 無意識のうちに青年に向かって振り上げたシーラの手は、ぴたりと止められた。
「なっ!?」
(は…速い…。)シーラは息を飲んだ。
「…わかるさ」
 右手をしっかりと固定されたまま、シーラは青年と正面から向き合って、その瞳の
奥を覗き込まされていた。
「大事な奴が…守りたい奴がいるんだろう…?」
 青年の声は真剣だった。その瞳の奥には、深い慚愧の念と…そして強い意志があっ
た。
「『シェフィールドの瞳』…そう、『真実の瞳』にかけて」
 シーラは凍り付いた。
「な…なぜその名前を!」
 青年はシーラの詰問には答えず、ただ、じっとシーラの瞳の奥を覗き込んできた。
「だがな…だが、それだけじゃだめなんだよ、シェフィールド」
 しばしの沈黙の後、先に目を反らしたのはシーラの方だった。
「は…放して… 何をするの…」
「踊るんだろ? パーティなんだからな?」
 いつのまにか、青年の雰囲気が変わっていた。彼が浮かべた笑みは、思わず自分の
本心を吐露してしまったことに照れているような、いたずらっぽい笑顔だった。ぼん
やりとその顔を見つめているシーラを自然に引き寄せると、広間の中央までエスコー
トしていく。
 ふと、気が付くとすでに一曲が終わっていた。
「もう…お前と踊るのはこれが最初で最後だろうからな」
 シーラは不吉な言葉に息を飲んだ。
「ど…どういうことなの!?」
 青年は答えようとしなかった。ただ低く呟いた。
「お前は、お前の父親が何をしたか知っているか?」
「な…!?」
「ちょっとお兄ちゃん! いつまで踊ってるのよ!」
 シーラの追求を遮ったのはあの少女だった。
「…悪いな、ローラ。よし、今度はお前と踊るか?」
「ほんと!」
 少女は瞳を輝かせて頬を紅潮させた。その笑顔を見てシーラは初めて気付いた。邪
気をなくした少女の笑顔がどんなに魅力的かということに。
「ま…待って! まだ聞きたいことが!」
 青年はもう振り返らなかった。シーラは自分に相手を引き留めることのできる言葉
などなにもないことに気付かされた。
 身長差の大きな相手と踊るのは大変らしく、青年の動きは先ほどとはうってかわっ
てぎこちないものであった。また、ローラの方もダンスは不得手なようであった。し
かし、一生懸命なその様子は周囲から微笑ましく見守られているようであった。
 急に自分がどうしようもなく惨めな存在のように思えてならなくなった。シーラは
くるりと背を向けて、その場を走り去った。そう…すべてのものから逃げ出すかのよ
うに。

   3

 シーラは、人気のない暗いバルコニーへと走り出た。しばらく闇の中に佇んでいる
と、ようやく心が落ち着いてきた。
「どうかしてるわ…私…」
 そう呟いて、夜空を見上げる。溢れんばかりの輝きが一面に広がっている。
「ちょっと…休んでいこう…。何!?」
 体が反射的に動いて、両手でそれぞれ受け止めた二つの物体を確認したシーラは唖
然とした。
「は…ハイヒールぅ!?」
 広間の中から裸足の足を床に力任せに叩きつける音が近づいて来た。
「庭に落ちちゃったかなぁ、あーっ、もういいや、だって、あんなの履いてられない
もん、だーったくやってらんないわよ、ホント…ふぇぇぇーっ!?」
 中から現れた人影は、硬直しているシーラに気付くと、飛び上がった。ひきつった
笑顔を浮かべ、極めて不自然な姿勢で硬直して、こちらを凝視している。
「…あ…あの…」
 恐る恐るシーラが声をかけると、いきなり相手は変貌した。
「いかがかしら? 今夜のパーティは楽しまれて?」
 その微笑みを見てようやく、シーラは相手が誰なのかを思い出すことができた。マ
リア・ショート。本日のパーティの主催者である。当然、パーティの最初の挨拶の時
に顔を合わせているのだが、あまりにも印象が違いすぎて最初はわからなかったので
ある。
「…え、ええ、もちろん…」
「ほんとうに? うれしいですわ。我がショート家も成り上がりなもので、シェフィー
ルド家のような名家の方に楽しんで頂けたのならば、本当に光栄ですわ」
「い、いえ、そんなこと…。…あ、あはは、はは、やだ、どうしよう止まらない、あ
ははははは…」
 化けの皮が剥がれたお嬢様は仏頂面になって頭を二、三回かくと、バルコニーにだ
らしなくもたれかかって夜空を仰ぎ、シーラが笑いやむのをしばし待った。
「あーあ、せーっかく開会挨拶は成功したと思ってたのに、油断しちゃったなあ…。
これで、賭はマリアの一人負けかあ…。ま、腹立たしいことにオッズが低かったから、
ママもパパも侍女連も大した儲けにはならないのがザマミロだけど」
(これだけ本気で笑ったことなんて、何ヶ月ぶりだろう…)
 シーラは、まだくすくす笑いながら、涙を拭いて相手をなだめた。
「心配しないで、このことは誰にも言わないから」
「ホント!?」
 マリアは、ぱっ、破顔した。
「ありがと。あんた、いい人ね」
(こっちの笑顔の方が、さっきの取り澄ました微笑みよりもずっといい…。)
相手の生き生きとした表情に心を奪われていたシーラは、ふと、その胸に下がってい
る青い輝きに目を移した。
「あ、これ? …そうそう、どう思う、これ?」
 マリアは、なぜか、いたずらっぽい笑顔を浮かべると、胸にかかったペンダントを
シーラに向かって突き出した。シーラはしばらくそれを見て戸惑った表情を浮かべた。
「これは…きれいだとは思うけど…でも…その」
「ふーん、目はあるわけね。でも人をバカにしたりはしないと」
「え、それじゃ、あなた知ってて!?」
 驚いたシーラは、マリアの瞳をまともに覗き込んだ。澄んだエメラルドグリーンの
瞳がいたずらっぽくきらきらと輝いている。
「ただの偽物じゃないのよ。ショートの最新技術を駆使した、最高傑作なんだから!
…パパのプレゼントなの。相手が、ショートの名に惑わされずに真実を見抜く目を持っ
ているか…。そして、何よりも、人をモノで判断しない、真っ直ぐな目を持っている
か、それを見抜くための手助けにしなさいって…。えへへ、試されているのはマリア
の方だよね」
「…いい、お父さんね」
 少女は、シーラがその言葉に含めた複雑な感情までは、読みとれなかったようであっ
た。ただ、素直に照れて真っ赤になると、慌てて手を振る。
「や、やだなあ、そんなことないよ。あ、そうそう、これはね、ある伝説の宝石にち
なんでいるのよ。時さえ越え、すべての真実を見抜く、不思議な力を秘めた謎の秘石、
その名は…」
「『真実の瞳』」
「えっ?」
 静かに呟いたシーラに、マリアは言葉を途切れさせた。
「…でも、それさえも仮の名に過ぎないわ。一族の者しか知らない、その隠された本
当の名前は…『シェフィールドの瞳』」
 シーラは胸に隠し持っていたペンダントを、静かに取り出すと、マリアに手渡した。
「こ…これは…」
 マリアはその深紅の煌めきに目を奪われたまま、震える手で、そっと顔の前まで持
ち上げた。
「こんなの…値段が付けられないよ…」
「私には、あなたのペンダントの方が素敵に見えるわ」
 シーラは指差しただけだったが、マリアの手はそれから逃げるように動いた。そん
な自分の無意識の行動に気付いてぎょっとしたマリアは、何とか自分を取り戻すと、
苦笑を浮かべた。震える手つきのまま、ペンダントを返す。
「いーなー。こんな綺麗な赤色…みたことない」
「でもね…これは血に染まっているのよ。そして…」
「え?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないの」
「ふーん…。ま、いいや。でも、あんたこんなもの毎日持ち歩いてるの?」
 シーラは静かに首を振った。
「シェフィールドの当主が直接これを持つことはないわ」
「それじゃ、どうして…」
 マリアの声は途中で消えた。シーラの顔に、微かに憂いの影が差すのを見てとった
のである。
 そのとき、突然、シーラが、がばっ、と顔を上げた。
「何か…何か変だと思わない?」
 マリアはきょとんと目を丸くした。
「え…何が?」
「屋敷の周りで見張りをしている人がいたはずなのに…静か過ぎる!」
「まさか!」
 マリアも息を飲んで真剣な表情になった。
「あ、マリアっ!」
 もし、マリアの背後に現れた人影に気を取られていなければ、シーラが遅れをとる
ことはなかったかも知れない。
(しまっ…た!)
 シーラは口に布が押し当てられるのを感じた。染み込まされていた薬品のために意
識が遠のいていく中で、闇の中にあの青年の姿を見た気がした。

<つづく>


次へとっぷへ