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シェフィールドの瞳(2/6)  亜村有間 (HP)

   4

 黴の匂い。壁にひびの入った地下訓練場。
「お父さま…どうして、こんな訓練をしなくてはいけないの?」
「お前は、強くならなくてはいけない。もっと強く…何も傷つけないで済むぐらいに
強く」
「心配しないで、シーラ、あたしも一緒よ」
(…ジュディ…)

 書斎から漏れる本の匂い。中からこぼれてきた声に思わずノックしかけた手が止ま
る。
「許してくれ、シーラ。私が犯した過ちを。本当に、血で犯した過ちは、血で償わな
くてはいけなかったのか?」
「あなた、もう、過去を悔いるのはやめて。信じましょう、私たちの娘を…」
(…お父さま…お母さま…私に何を隠しているの?)

 血の匂い。視界に入るのは白い天井。
「申し訳ありません、旦那様! お嬢様に怪我をさせてしまうなんて…」
「いや、よくやってくれた。本気で闘わなければ、真の強さは身に付かない」
(ごめん…ジュディ。あたしは二度と訓練中に気を逸らしたりしない。)

「今までよく、私に仕えてくれた」
(やめて! まだ、ジュディに教えないで!)
「すでにシーラから聞いていることと思う」
(やめて!)
「18歳となった今日より、シーラは仕える者を自分で決める持つことになる」
(やめて!)
「むろん、シーラがお前を選ばないような愚か者だとは思わないが…」
(やめて!)
「もし、身の置き場に困るようなことがあれば一言私に相談してみるがよい」
(やめて…!)
「…はい、旦那様。すべてお嬢様より伺っておりますわ」
(私が…自分の口から言わなくてはいけなかったのに…)

「シーラ様? 明日の予定は如何致しましょうか?」
(二人きりの時に私をそんな風に呼ばないで!)

   5

「おや、お目覚めになりましたか?」
 シーラは、がばっ、と上半身を起こした。
「うっ…」
 微かに痛む頭を抑える。あながち、先ほどまで見ていた悪夢のせいだけではないら
しい。そのままぼんやりと前を見つめる。
「で?」
 マリアが軽く問いかける。一瞬自分かと思ったが、彼女が話しかけていたのはシー
ラの後ろであった。そこには、顔を仮面で隠した男が立っていた。
「はて?」
 男は首を傾げて逆に問い返す。
「自己紹介をする必要はないんでしょ? …こちら側からは」
 男は気取った仕草で一礼した。
「これは失礼しました。私のことはハメットとお呼び下さい、マリア・ショート様、
えーと…」
「彼女は、シーラ・シェフィールドよ」
 マリアの言葉に、ハメットは小さな呻き声を上げる。
「…なんと…ご友人の方を巻き添えにしたとは思っていましたが、まさかシェフィー
ルド家の方とは…面倒なことをしてくれましたね」
 ハメットはドアの方を振り返った。シーラは息を飲んだ。そこに立っていたのは、
例の、鋭い目をした青年だったのである。青年は無言を貫いた。
「あんたも大変ね」
 マリアの言葉に、軽く肩をすくめるハメット。
「これも、ビジネスですからね。…つまらない仕事ですが」
「ビジネスね…じゃ、こちらもビジネスライクに単刀直入に行きましょうか。要求は
経済的困難の解消ってことね?」
「まあ、そういうことですな」
 シーラは、きびきびと会話を進めるマリアを感心して眺めていた。気品あるお嬢様
とも、無邪気で明るい少女とも違う…これが、財閥の後継者としての彼女の第三の顔
なのだろうか?
「無理な要求じゃないわね。円滑な取引のための条件としては二つ。一つは取引時に
あたしを解放すること」
「当然ですな」
「もう一つは、シーラ・シェフィールドを即時解放すること」
「なっ!」
 声を上げたのはシーラの方だった。ハメットはただ一瞬沈黙し、静かに尋ねた。
「我々がその要求に従わなければならない理由は?」
「彼女が誘拐されたとなると…公機関が動くわ」
「それはあなただって同じことでしょう?」
「確かに、ショートは公機関を動かすことが『できる』わ。でも、彼女の場合は公機
関が『動く』のよ。事件が発覚次第即座にね。…格が違うのよ」
「ふむ…」
「だいたいね、さっきの会話で、彼女を扱いかねてるのはとっくにわかってるわけで
しょ?」
「それはそうですが…」
「もう一つ。ゲストが誘拐されたなんてことじゃ、ホスト側としては、メンツが立た
ないわ。ショートとしても公式に総力を動員して解決にかからざるを得ないでしょう
ね」
「ホスト側の令嬢本人が誘拐されたことは恥にならないとでも?」
「何言ってるのよ」
 マリアは、くすっ、と小悪魔的な笑いを浮かべてみせた。
「ショートの令嬢が誘拐されるなんて不祥事が起こるわけないじゃない」
「え…?」
 シーラはぽかんとして尋ね返した。ハメットはしばらく無言でいたが、急に大きな
声で笑い出した。
「なるほど…内々で事を納めて頂けるとすれば、これは確かに考慮してもよい好条件
ですな。よろしいでしょう。今すぐ検討致しますので、しばし、くつろいでいていた
だけませんかな?」
「いいけど、あなたにはあまり時間はないわよ」
 ハメットはその言葉には肩を竦めただけで、さっさと部屋を出ていってしまった。
ドアが閉まり、外側から鍵がかけられる音がする。
「マリア…」
 そう言いかけたシーラはいきなり抱きついてきたマリアに言葉を途切れさせた。
「ごめ…ちょっとだけ…」
 シーラは自分の胸に顔を埋めた少女の体が震えているのを感じ、無言のまま、二つ
年下の少女の体を強く抱きしめた。そして、決心を固めた。静かな声で相手に告げる。
「ねえ、マリア。巻き込まれたのはあなたの方かもしれないわ」
 マリアは、きょとんとした顔でシーラを見上げた。
「え、どういうこと?」
 シーラはパーティで青年と交わした会話をマリアに伝えた。自分の気持ちは胸に秘
めたまま、ただ、相手の不審な振る舞いだけを伝えた。話が終わると同時にマリアは
きっぱりと断言した。
「作戦を考え直さなくちゃだめね」
「ええ、やっぱり私だけが逃げるわけには行かないわ」
 マリアはぶんぶん首を振った。
「その反対よ。シーラには今すぐに逃げてもらわなきゃ!」
「えっ!?」
「だって、その男って、シーラに恨みがあるんでしょ? もしかすると、あのハメッ
トでさえ、その計画を利用されただけかも知れないじゃない。お金目当てで誘拐され
たマリアよりシーラの方がずっと危険だよ!」
「マリア」
 シーラは静かに首を振った。
「それはわかっているけど…いいえ、わかっているからこそ、あなたを危険な目に会
わせるわけにはいかないわ」
「ま…待ってよ!」
 シーラの意志が堅いのを知ったマリアは慌てた。
「あのね、マリア、こう見えても魔法が得意なんだよ! 攻撃魔法だって…!」
 シーラは、悲しげな微笑みを浮かべて、マリアの言葉を、穏やかに、しかしきっぱ
りと遮った。
「違うのよ、マリア。私は、真実を知らなきゃいけないの。ううん、知りたいの。父
が、そしてシェフィールド家がいったい何をしてきたのかを。そう、私はずっと逃げ
続けていた。この『真実の瞳』がもたらすすべてのものから…。でも、もう、私は逃
げたくないの!」
 シーラは胸の奥のペンダントをぎゅっと握りしめて、ゆっくりと扉の方へと歩いて
行った。
「シーラ…。どうするつもりなの?」
「本当は…あなたには知られたくなかった。シェフィールドの名を継ぐものはね、幼
い頃からずっと鍛錬を続けてくるものなの。きっと…あの人やあの子も同じ…。そう…
シェフィールドの親族なのであれば…」
(あの人は、『シェフィールドの瞳』の名を知っていた)
「鍛錬って…なんの鍛錬を?」
 恐る恐る問いかけたマリアの言葉に、シーラは一瞬動作を止め、静かに振り返って
口を開いた。
「人を殺すための鍛錬よ」
 バンッ!
凄まじい破壊音にマリアは一瞬目をつぶった。もうもうと立ちこめる埃が揺らめいて
薄くなると、その中にシーラの姿と、粉々に砕け散った扉が見えてきた。
「合板で良かったわ。…これで、あなたを無事に逃がしてあげることができる。」
 振り返ったシーラと目があって、硬直していたマリアは、びくっ、と身を縮めた。
(…当然よね…。)
 相手が脅えていることを悟ったシーラは悲しそうに微笑んで、廊下へと歩みだした。
「待って!」
 背中から抱きついてきた相手に驚いて、シーラは振り返った。
「マリア…」
「逃げるわけじゃ…ないの。マリアも…マリアのできるやり方で闘うことにしたの。
必ず…必ず助けに来るから、無事でいてね、シーラ!」
 最後の方は嗚咽に紛れて不明瞭になっていたが、シーラにははっきりと聞き取れた。
「ありがとう…信じているわ、マリア」
 マリアがそっと手を離すと、シーラはしっかりした足取りで廊下を歩き始めた。そ
の先から騒ぎを聞きつけた男達が駆けつけてくる音がする。マリアはぎゅっ、と拳を
握りしめると、反対の方向に向かって足音を潜めて走り出した。

   6

「おい、貴様!」
 掴みかかってきた男たちを、シーラは厳しい表情で睨み付けて静かに息を止めた。
「何っ?」
 先頭の男が跳ね飛ばされたのに愕然として、後続の男達は一瞬足を止めた。
何が起こったのかわからずに、もう二人ばかりが突進する。
「うぐっ!?」
「ぐおっ!?」
 三人の犠牲を出して、ようやく男達は信じられない現実を把握した。表情も変えな
い相手に、圧倒されて後ずさる。
「…くっ、このやろう!」
 緊張に耐えられなくなった若い男が、震える手つきで剣を抜いて襲いかかる。
「ぐおーっ!」
 男もまた素手の少女に投げ飛ばされて、壁際に倒れ込む。
「うっ…」
 シーラを取り巻いていた男たちは打つ手をなくして立ちすくんだ。
「あ…」
 しかし、突然シーラの表情が変わった。恐怖に目を見開いて震え始める。
(血…。そうか…殺しちゃうかもしれないんだ…)
最後に倒した男が、自分の刀で自分の腕を傷つけてしまっていたのである。
「…? 今だ、かかれ!」
 訳は分からないながらも勝機を見いだした男達が、一斉に襲いかかった。
(闘わなきゃ…でも、体が動かない…。ごめん、マリア!)
 シーラは堅く目を閉じた。
「うおっ!?」
 予想外の声に、シーラは、驚いて目を上げた。見れば、男達は再び後ずさっており、
座り込んだシーラの目の前には、こちらに背を向けてすっくと立ちはだかる人影があっ
た。
「シーラ様に手をかけようなどと身の程知らずなことを…。この私が来た以上、シー
ラ様にはもう、指一本も触れさせません!」
「ジュディ!」
 シーラは歓喜の声を上げた。

<つづく>


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