SHADOWS NORTHERN PILGRIMAGE
今回の「試み」によせて


 思えば,今世紀初めにデュシャンが" 泉" と題して展示した実物の「便器」のような,いわゆる「オブジェ」(目に見える物体・客体)といわれるものに代表される強烈な「個性」が,20世紀芸術の価値観の主流になったのであろう。20世紀が終わろうとする今,作品という対象(オブジェ)がもつその固有性が喪失している。



都市文化に奉仕するアート

 私たちの現実空間は,都市化,コマーシャリズム,電子メディア,自然の観光化など,ますます人工化している。芸術もまた,都市的なネットワークの管理下にあり,美術館や画廊という産業に組みこまれている。彫刻は,屋内では産業デザインに囲まれたインテリアのなかで肩身がせまい存在であり,片や野外では形だけを大きくして現代建築のアクセサリーとして台座の上に安置されている。公園や都市空間に置かれている野外彫刻, いわゆる「パブリックアート」は,無機的な都市空間に「親しみやすさ」を生み出し,そのそばを通るものに心の余裕さえあれば,日常と違う何かを感じさせるキッカケになるにちがいない。しかし,そうしたオブジェは,結局は管理された都市機能の一部に組みこまれ,都市文化に奉仕する機能化されたアートにすぎない。それらは作者が自分の生き方としてどうしてもそこに置きたいという衝動が始めからない。



衝動が創る非日常の風景

 作家の「名」や作品の「個性」を復権させよう,といっているいるのではない。また,「自然に帰ろう」と,叫んでいるのでもない。 たとえば.集団的ネットワークを可能にする電子メディアでは,すでに読者がだれでも小説のストリー展開に「参加」できる試みがなされいる。そこにはもはや「作者」と「読者」の境界線がない。一方,映像としての電子メディアでも,ヴァーチャルレアリティとして「虚」そのものが「現実」となり, 虚を前提にした「もうひとつの風景」がそこに存在している。 一方,クリストに代表される「アースアート」の冒険者たちは,自然保護を呼びかけているわけではない。ニューメキシコ州の人をよせつけない雄大な平原にステンレス鋼のポールを400本たてて稲妻を誘発させたデ・マリアは,だれもこなくても,たったひとりでも,大自然に「参加」して超自然的なアウラに浸りたかったのだろう。コロラド州ライフル渓谷にダムのように巨大な赤い布を張ったクリストは,人間の存在が小さい分それだけ想像力を大きくして,荒々しい大自然の造形と相撲をとってみたかったのであろう。 このようなかれらの「行為」には,作品の固有性に執着する題名もない,いわば「匿名の存在」として,かれらの行為が現実にそこにある。しかも,現実でありながら非現実的なまぎれもないもうひとつの「風景」を創りだしている。宇宙と共鳴したいという欲求,自分の生きざまとしてのインスピレーションと衝動の強さがかれらの膨大なエネルギーを生み,非日常的な風景を具現する「風景化」を可能にしたのであろう。



             

宇宙に捧げる供物

 私にとっての宇宙は,以前いたアルジェリアの砂漠とその空の青さであり,また,オホーツクの流氷に閉ざされた海とその冷気なのだ。それらの風景は,静寂であり,無であり,無限であった。そこにたたずみこの宇宙に対峙するとき,私は底知れぬ孤独と不安に満たされ,畏怖の念に打ち倒されながら,しだいに無と化し,石と化し,一片の氷になり果てる。そのままおしまいにしてもいい。心がそういうのを聞きながら,転生を幾度となくくりかえし,現実へと回帰する。自然の静寂と自分の存在との不安な関係をどうとりもったらいいのか。。私の実在は,引き裂かれ虚ろにされるのだ。 この内包された分裂の救済を希求するなかで,孤独な人間存在と宇宙との感応の場としての「風景」のイメージが浮かび上がる。自らの手で育てあげたこのオホーツクの「人物たち」は,そうした自己存在と彼岸を結ぶ「かけはし」である。その風景の創造が,宗教にも似た祈りを込めながら,旅人たちの群像を人身御供にさしだす救済の行為なのだ。それらは,個性を具現化しようとする対象ではなく,人間存在と宇宙の感応点であり,日常と非日常との見えない境界の象徴である。これらの異邦人がたたずむ風景を見るものは,その風景に自らもたたずむことによって,「自分の影」を,つまり,もう一つの風景を見るのではないか。

長 崎  歳

1996年10月 札幌

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