諏訪大社 長野県諏訪市中洲宮山(上社本宮)
長野県茅野市宮川(上社前宮)
長野県諏訪郡下諏訪町大門(下社春宮)
長野県諏訪郡下諏訪町武居(下社秋宮)
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)
信濃国一宮
旧・官幣大社
現在の祭神
上社本宮建御名方神
上社前宮八坂刀売神
下社秋宮八坂刀売神・建御名方神
[配祀] 事代主神
下社春宮八坂刀売神・建御名方神
[配祀] 事代主神
本地
上社本宮普賢菩薩
前宮如意輪観音
下社秋宮千手観音
春宮薬師如来

「神道集」巻第四

信濃国鎮守諏方大明神秋山祭事

そもそも信濃国の一宮をは諏方の上宮と申す。 本地は普賢菩薩これなり。
[中略]
二宮を諏方の下宮と申す。 本地は千手観音なり。 または大悲観世音と名づく。
[中略]
将軍は信濃国の内なる伊那郡の大宿といふ処に着たまふ。 殿原達も将軍もかの宿にて名残を惜ける。 梶の葉の水干の殿は、我はこれこの国の鎮守、諏方大明神なり。 千手・普賢の垂迹なり。 清水観音の計らひにて、将軍には随へり。

諏方大明神五月会事

そもそも諏方大明神と申すは、天竺舎衛国の波斯匿王の御娘に、金剛女の宮と申すは、天下第一の美人なり。
[中略]
金剛女の宮の隠処をは知らず。 この宮は仮の人にて御在す。 会者定離を示さんが為なり。 本地は千手観音なり。 後には日本国に渡りて住みたまふ。
つらつら事の心を思ふに、神武天王はこの宮の御子なり。 先祖は皆これ今宮の先祖にて有る上に、守護の為に御在ける。 熱田大明神と申すは、かの臣下の甥なり。 宇津宮の御子なり。 宇津宮は諏方大明神の御舎弟なり。 満清はかの大明神の烏帽子子なり。 その上は親なり。 古跡を尋ねて守護し給へり。 上下二所の諏方とはこれなり。 上宮は祇陀大臣なり。 本地は普賢菩薩なり。 下宮は昔の金剛女の宮なり。 本地は千手観音なり。 昔のことを忘れたまはず、神功皇后の新羅を迫たまふ時も、守護とぞ承る。

同巻第十

諏方縁起事

東海道の道初め、近江国二十四郡の内、甲賀郡といふ処より、荒人神と顕たまひし御神をは、諏方大明神とそ申しける。
[中略]
信濃国岡屋の里に立て、御名乗を諏方と申す間、諏方大明神とて上宮と顕れ給ふ。 諏方よりかたと書て諏方すわと読む故に、もとは岡屋の庄と呼びけるを、大明神の御名乗に依り、諏方郡とは申すなり。
春日姫は下宮と顕れ給ふ。
維摩妃はこの国に超て神と顕れ給ふ。
春日姫の御対面有て、互に別を嘆き合ひ、同き国に御社を定め立せ給ひぬ。 今の世に浅間大明神と申し奉るは即ちこれなり。
甲賀殿神と顕しかは、御舎兄達も御集して、兵主大明神の御計ひとして、御兄弟の中を和平せさせ給ひつつ、皆衆生擁護神道と顕れ給ふ。 中にも甲賀次郎は、先非の罪科を悔ひ悲て、御怠状有けれは、諏方は哀み進て、北陸道の守護神と成り給ひて、若狭国の田中明神とて立り給へり。
甲賀太郎もとより下野国宇津宮に御在けれは、示現太郎大明神と顕れ給ひぬ。
御父の甲賀権守は、赤山大明神と顕れ給ふ。
御母は日光権現と顕れ給ふ。
皆御本地弥陀・薬師・普賢・千手・地蔵等なり。
この御中に甲賀三郎諏方は上宮と顕れ給ふ。 本地普賢菩薩なり。
春日姫は下宮と顕れ給ふ。 本地は千手観音なり。
仏菩薩応迹に、我国に遊び給ひ、必身に苦悩を受て、衆生の歎を思ひ知り給ふなり。

「諏訪大明神絵詞」

爰に信州諏方大明神は、本地を訪へば普賢大士ノ応作。 恒順衆生の願余聖にこえ、懺懈滅罪の益諸凡にかうぶらしむ。 垂迹に付て異説あり。 或は他国応生の霊、或我朝根本の神。 旧記の異端凡慮はかりがたし云へども、旧事本記の説によらば、素盞烏尊の御孫大己貴神の第二の御子建御名方の神是也。 父兄の御心に随て孝順の道を顕し給ふ。 持統天皇は勅使を遣して祭礼を始められ、弘仁聖主は霊夢を感じて本地を覚りましましき。 下宮は大慈大悲の薩埵千手千眼の示現也。 泥梨には極り元にはかり、娑婆には無畏を施す。 垂迹は又南天の国母、北極の帝妃。 月氏の雲を出で、日域の塵に交り給ふ。 この上下両社は、世俗に准て陰陽の儀を表す。 また是定慧の法門なり。
[中略]
社頭の躰、三所の霊壇を搆たり。 其上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり。 其前に香花の供養を備ふ。 普賢身相如霊空とも説き、普賢法事遍一切共述るが故に、法性無躰の実理を顕はし、依真面住の真土を示し給ふなるべし。 中の壇には、宝殿経所計なり。 法花一乗の弘通、併普賢四要の勧発なれば、本地を表するには似たり。 下の壇は松壖柏城甍を並べ、拝殿廻廊軒をつらねたり。 垂迹の化儀を専にして、魚肉の神膳を此所に供す。

「諏方上社物忌令之事」[PDF]

面見おもんみれは、当社明神は、遠く異朝の雲、近くは南浮の巷狭を分け、其の御名を武御名方明神と申す。 されは、和光の古を尋に、波提国主として、文月未の比、鹿野苑之御狩守屋逆臣を制し奉り、其難を遁れて広大慈悲之名を得給えり。 委く御本地を訪えば、西方補処之薩埵の影を秋津洲之波に浮べ、一陰一陽の威、豊葦原の風に振う。
[中略]
南方波斯国に御幸に成り、悪龍を降伏、万民を救い治めて、彼国で諏方皇帝と申せり。 東方金色山に到り、善苗を植て仏道を成し給ふ。 其後我朝に移り給いて、接州蒼海に顕し、三韓西戎之逆浪に垂跡、諏ては西宮に顕す、又は豊前高山の麓に和光、百王の南面を護り、宝祚を誓給いしを南宮と申也。 終には勝地信濃国諏方郡に垂跡、彼所に金剛碧瑠璃之地を移し給い、或は本品の台を顕じ、三壇三折之地形を表す。 上をば上品、上中下生。 中をば上品、上中下生。 下をば上品、上中下生を顕し、上壇には石之御座、多宝塔、真言秘密閼伽棚、七千余巻之一切経、如法守護の十羅刹女、妙典を守護し給う。 中壇には玉御宝殿、般若十六善神、並に出止(イデハヤ)明神跡を垂れ、衆生八苦に替わり給う、夜三時昼三時之御悩、御身より出る御汗、御宝殿に余り、軒端の雨と降成。 五衰三熱之御苦、察し奉り感涙押え難し。 下壇にては山野之鳥鹿、江河の水魚に到る迄、業尽有生と救い給う、毎月御神事を取勤被所也。
[中略]
御柱と申すは行を致すに、口壇に認め行う。 五古・三古・独古とて三具足有り。 五古は仏と衆生と木火土金水の姿。 三古は天と地と人の姿也。 独古は悪魔を禦ぎ人を安穏に成す姿之故、四之御柱は独古の姿也。
[中略]

上十三所名帳

一番 所大明神(阿弥陀 女神)
二番 前宮大明神(如意輪観音)
三番 磯並大明神(千手観音)
四番 大歳大明神(地蔵菩薩)
五番 荒玉大明神(弁才天)
六番 千野河大明神(文殊)
八番 若御子大明神(勝軍)
七番 柏手大明神(虚空蔵)
九番 楠井大明神(薬師 女神)
十番 溝上大明神(聖観音)
十一番 瀬大明神(弥勒)
十二番 玉尾大明神(愛染 女神)
十三番 穂謨大明神(釈迦如来)

中十三所名帳

一番 藤嶋大明神(不動)
二番 内御玉殿(大日)
三番 鶏冠大明神(薬師)
四番 酢蔵大明神(大日)
五番 習焼大明神(不動)
六番 御座石(大日)
七番 御飯殿(毘沙門)
八番 相本(如意輪 虚空蔵)
九番 若宮(神宮寺 阿弥陀)
十番 大四御庵(十一面)
十一番 山御庵(虚空蔵)
十二番 御作久田(宝生仏)
十三番 闕尾(弁才天)

下十三所名帳

一番 [八]剣明神(弁才天)
二番 小坂鎮守(観音)
三番 鷺宮明神(大威徳 手長)
四番 荻宮明神(文殊 足長)
五番 達屋明神(不動 香鼻大明神)
六番 酒室明神(弥勒)
七番 下馬明神(馬頭 高部)
八番 御室明神(荒神 巳宿宇賀神)
九番 御賀摩明神(弁才天)
十番 磯並山神(日月神)
十一番 武居会美酒(蛭子)
十二番 神殿中部屋(弁才天)
十三番 長廊大明神(馬頭 多宝仏)
[中略]

陬波六斎日精進之日記

南無皈命頂礼、大日本正一位諏方南宮法性大明神上下二宮。 十三所王子御左口神。 慚愧懺悔六根罪障。
六済日、同六道、菩提、御左口神御本地六観音。
十六日 地獄道之主、第一御左口神本地千手観音。
[中略]
二十三日 餓鬼道之主、第二御左口神本地正観音。
[中略]
晦日 畜生道主、第三御左口神本地馬頭観音。
[中略]
一日 修羅道ノ主、第四御左口神本地十一面観音。
[中略]
八日 人道ノ主、第五御左口神本地准胝観音。
[中略]
十五日 天道ノ主、第六御左口神本地如意輪観音。
名称比定社本地仏鎮座地
上十三社所大明神所政社阿弥陀茅野市宮川(前宮)
前宮大明神前宮如意輪観音茅野市宮川(前宮)
磯並大明神磯並社千手観音茅野市宮川高部
大歳大明神大年社地蔵茅野市仲町
荒玉大明神荒玉社弁才天茅野市宮川(前宮)
千野河大明神千野川社文殊茅野市西茅野
若御子大明神若御子社勝軍地蔵茅野市宮川(前宮)
柏手大明神柏手社虚空蔵茅野市宮川(前宮)
楠井大明神葛井神社薬師茅野市ちの上原
溝上大明神溝上社聖観音茅野市宮川(前宮)
瀬大明神瀬社弥勒茅野市宮川高部
玉尾大明神玉尾社愛染茅野市宮川高部
穂謨大明神穂股社釈迦茅野市宮川高部
中十三社藤嶋大明神藤島社不動諏訪市中洲神宮寺
内御玉殿内御玉社大日茅野市宮川(前宮)
鶏冠大明神鶏冠社薬師茅野市宮川(前宮)
酢蔵大明神達屋酢蔵神社大日茅野市ちの横内
習焼大明神習焼神社不動諏訪市湖南
御座石御座石神社大日茅野市ちの本町
御飯殿退転毘沙門諏訪市中洲宮山(本宮)
相本相本社如意輪・虚空蔵茅野市宮川
若宮若宮社阿弥陀諏訪市中洲神宮寺
大四御庵大四御庵社十一面富士見町富士見
山御庵御射山社虚空蔵富士見町富士見
御作久田退転宝生仏諏訪市中洲神宮寺
闕尾闢廬社弁才天原村室内
下十三社八剣明神八剣神社弁才天諏訪市小和田
小坂鎮守小坂鎮守神社観音岡谷市湊4丁目
鷺宮明神先宮神社大威徳諏訪市大和
萩宮明神荻宮社文殊諏訪市四賀
達屋明神達屋酢蔵神社不動茅野市ちの横内
酒室明神酒室神社弥勒茅野市宮川坂室
下馬明神下馬社馬頭茅野市宮川高部
御室明神御室社荒神茅野市宮川(前宮)
御賀摩明神退転弁才天茅野市宮川(前宮)
磯並山神磯並山社日月神茅野市宮川高部
武居会美酒蛭子社蛭子諏訪市中洲神宮寺
神殿中部屋中部屋社弁才天諏訪市中洲神宮寺
長廊大明神退転馬頭・多宝仏諏訪市中洲宮山(本宮)

「仏像図彙」

三十番神

諏訪大明神(二日)

信濃国諏訪郡に鎮座
本地普賢
[図]

「諏訪市史」上巻

上社と仏教

 神仏習合・本地垂迹説の理論は、平安時代末から鎌倉時代にかけて基礎を固めた。 そして全国の名神大社の多くは、本地仏が決定された。 上社の本地仏は普賢菩薩、下社秋宮は千手観音菩薩、春宮は薬師如来となったのもこの影響によるものである。
 神社の宮寺として神護寺とか、神宮寺が各地の神社で創建されるのは八世紀代といわれる。 神宮寺の創建理論は「救われない神の世界を仏法により救済する」というのものであった。 上社の神宮寺は、社伝によると空海創建によるといわれている。 正応五年(1292)神宮寺奥殿として普賢堂が建立された。

「下諏訪町誌」上巻

仏教の弘通と下諏訪

 諏訪の宮寺は、上社に神宮寺、如法院、蓮池院、法華寺の四ヵ寺があり、下社に神宮寺、三精寺、観照寺の三ヵ寺があつた。 うち法華寺だけは臨済宗であつたが、他はみな真言宗であつた。 これらの寺院はみな創建の時代を異にするものであろうが、審かになし難い。 うちそれぞれに支配的勢力を持つていたのは上下の神宮寺である。 上社神宮寺の最古の史料は、鎌倉時代永仁五年の鐘銘に「宮あり諏方宮と称し、寺有り神宮寺と名く」とあるもので、下社神宮寺の初見は「諏訪大明神絵詞」(祭記)に「二月十五日ハ下宮、同神宮寺ニシテ、常楽会舞楽アリ」とある記録である。
[中略]
神宮寺の起源については、江戸時代寛保二年の「下社神宮寺起立書」には次の如く書いている。
信州諏方湖北、海岸孤絶山者、諏訪法性宮、本地薩埵、千手千眼観音大士霊場也。 仏殿者即法性院神宮密寺ト号ス、大坊者方丈ノ称也。 宗祖弘法大師ノ開基タリ。 宗ハ真言新義ノ学侶、法ハ秘密仏乗、中院一流、累代伝燈の密刹ナリ。 其ノ流布ノ幽元、已ニ紀州高野山金剛頂院ノ附法タリ。
これによればこの寺の開基は弘法大師になつている。 この点上社の神宮寺と同趣である。
[中略]
 平安朝の末期、本地垂跡説が一般に信ぜらるるに及び、仏教の勢力は社会を風靡するに至つた。 本地とは本源の意味で、「仏は衆生を済度せんがために、仮に人間界に化現して神と顕れる。故に我国の神祇は、その本源を尋ねれば皆仏菩薩で、神は仏の跡を垂れたものである」という説である。 上社の本地仏が普賢菩薩であり、下社の本地仏が春宮薬師如来・秋宮千手観音であるのは、皆この本地垂跡説により生まれたものである。 下社の本地仏が千手観音であることは、既に鎌倉時代の「宴曲拾菓集」に見え、また「諏訪大明神絵詞」にも説かれているから、その成立はやはり平安朝末期と思われる。 この本地仏の尊像を安置するのが本地堂である。 秋宮の千手堂は即ち本地堂で、それは秋宮入口の右手にあり、神宮寺の管掌するところであつた。 「起立書」(下諏訪年中行事條)によると、江戸時代にあつては、毎朝千手堂において千手秘法を修し、また節分に当つては、この堂で追儺の式を挙げている。
[中略]
 和光山観照寺は下の原和田峠登り口右手にあつた寺である。 宗旨は真言宗、春宮の別当寺で、神宮寺の勢力下にあつたが門徒九坊を有する大寺であつた。
[中略]
「下諏訪寺社年中行事」に、
春宮本地長日毎朝薬師秘法修行、同じく護摩堂長日の修法観照寺之を勤め、天下泰平国土豊穣を祈り奉る也。 長日毎朝の護摩は東光坊之を勤むる也。
とある。 東光坊は観照寺の門徒である。 春宮の本地堂には薬師如来が安置されていた。 その遺跡は春宮裏手の薬師平である。

小林崇仁「諏訪の神宮寺」

はじめに

 江戸末期に至るまで、各地の有力な神社の多くには、その境内や付近に寺院が置かれ、本地仏などを安置して供養し、社僧が神祇のために修法や読経を務めていた。 その寺号は様々あるが「神宮寺」と称されることが多く、神社に附属して営まれた寺院を総称して〈神宮寺〉と呼ぶのが一般的である。
 諏訪神社(現諏訪大社)も例外ではなく、延宝七年(1679)の書き上げによれば、上社と下社に計七ヶ寺の〈神宮寺〉が置かれていた。 つまり上社に普賢神変山神宮寺(以下、上神宮寺)、普賢秘密山如法院、七島山蓮池院、霊鷲山法華寺の四ヶ寺が、下社には秋宮に海岸山神宮寺(以下、下神宮寺)と松林山三精寺、春宮には和光山観照寺である。 このうち法華寺のみが臨済宗、他は真言宗で高野山金剛頂院末であった。 また諏訪大明神の本地仏は、上社は普賢菩薩、下社秋宮は千手観音、春宮は薬師如来とされ、各尊像が諸堂に安置されていた。
[中略]
 また諏訪大明神の本地仏については、天台宗の光宗(1276-1350)が応長元年(1311)から貞和四年(1348)に集録した『渓嵐拾葉集』に「八王子・三宮、諏訪明神也」とあり、また天台僧で神書にも通じた慈遍が元弘三年(1333)に著した『天地神祇審鎮要記』にも「八王子并三宮与諏訪同体、而本互異」とある。 山王七社の八王子の本地仏は千手観音、三宮の本地は普賢菩薩とされ、両書は諏訪社の本地仏が千手・普賢とされていたことを示唆する。

一 通史と歴代寺務

①上神宮寺

 上神宮寺に関する資料の多くは廃寺とともに散逸したが、縁起書として諏訪市博物館寄託の『諏訪神社上宮神宮寺縁起』(以下『上神宮寺縁起』)が存在する。
[中略]
 本書によれば、当寺は聖武天皇の勅願で、天平十五年(743)に橘諸兄が建立したという。 また諏訪大明神の本地仏たる普賢菩薩は伝教大師最澄(767-822)の御作で、文殊菩薩とともに内陣檜皮葺御堂に安置されたという。

二 境内地と伽藍

①上神宮寺

 上神宮寺預かりの諸堂としては、まず本地仏を祀った「普賢堂」が挙げられる。 正応五年(1292)に知久敦幸が寄進したとされ、大工は南都東大寺の藤原備前守、小工は四十人ほどであったという。 正面八間奥行六間半の規模で、四方に縁をめぐらしていた。 本尊の普賢菩薩像と相殿の文殊菩薩像は廃寺により仏法紹隆寺(諏訪市四賀)に移され現存する。 普賢像の台座上面の銘より、祐元の代の文禄二年(1593)に矢嶋長久を願主として造立されたことが確認される。
[中略]
 また『上神宮寺縁起』によれば、上神宮寺は普賢と文殊の霊場として世に知られ、境内の山桜と古鐘が有名であった。 知久氏寄進による古鐘は音色が格別に良く、三里余り離れた塩尻峠まで聞こえ、また普賢桜と称された山桜は見事で、花の盛りには人々が市をなす賑わいであったという。 そして本地仏の普賢菩薩と相殿の文殊菩薩は、子孫繁栄・所願成就・二世安楽の霊験があるとされ、参拝者も多かった。

②下神宮寺

 秋宮の「千手堂」は天正二年(1574)から三年(1575)にかけて武田信玄・勝頼によって再興された。 東西七間南北八間の規模で、堂内には惣高一丈二尺檜皮葺の宮殿に、秋宮本地仏の千手観音像と脇立の不動明王像・毘沙門天像が祀られた。 「観世音」の扁額は享保十三年(1728)が寄進し、宝鏡寺宮理豊女王(1672-1745)の筆であった。 本尊は平安末から鎌倉期の作とされ、脇立とともに照光寺(岡谷市本町)に移される。
[中略]
 また春宮の社務所付近に観照寺があり、社内には薬師堂・護摩堂・子安堂・役行者堂などがあった。

「中世諸国一宮制の基礎的研究」

信濃国

Ⅰ 一宮

1 諏訪大社。 『日本三代実録』では建御名方富命神社、『延喜式』では南方刀美神社、『左経記』では須波社、『吾妻鑑』では諏方南宮上下社・諏訪上社・下社・諏方宮とみえる。 室町時代の「諏方大明神縁起」では諏方南宮・諏方大明神とある。 戦国時代には諏方法性大明神・南方法性大明神等と呼ばれた。 江戸時代には上社・明神様・諏訪神社と呼ばれたが、昭和23年から諏訪大社と改称された。
5 中世の祭神は、上宮の諏訪大明神と下宮の姫大明神が夫婦の契約をなしたとする(信重解状)。 諏方大明神・法性南方大明神とするものもある(絵詞)。
本地仏は、上社、普賢菩薩。 下社、千手観音菩薩。 春宮、薬師如来。 宝治3年(1249)の「信重解状」や延文3年(1358)の『神道集』にみえる。 正応5年(1292)知久敦幸入道行性が諏訪上宮神宮寺の普賢堂を建立しているが、神宮寺に伝来した本地仏の仏像は明治の廃仏毀釈以後から現在まで不明。 わずかに上社神宮寺如法院旧蔵の普賢菩薩騎象像が、諏訪市仏法紹隆寺に伝来する。 下社神宮寺の本地仏千手観音像の伝来については不明となっている。
6 上社本社別当神宮寺(真言宗)、別院如法院・蓮池院・法華寺・寺家18防。 下社秋宮別当神宮寺(真言宗)、三精寺・寺家4坊。 春宮熱湯観照寺(真言宗)、寺家2坊(信濃諏訪神社神仏分離事件調査報告書)。