『神道集』の神々

第十 香取大明神事

香取大明神は下総国の一宮である。 本地は観世音菩薩である。
また、玉崎明神は二宮である。
香取も玉崎も同じく本地は十一面観音である。

香取大明神

香取神宮[千葉県佐原市香取]
祭神は経津主大神。 通説では伊波比主命と同神とする。
式内社(下総国香取郡 香取神宮〈名神大 月次新嘗〉)。 下総国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第三十四の宝亀八年[777]七月乙丑[16日]条[LINK]の「内大臣従二位藤原朝臣良継病む。其の氏神鹿島社を正三位、香取神を正四位上に叙す」。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第五段一書(六)[LINK]には、
「(伊弉諾尊が)遂に所帯せる十握剣を抜きて、軻遇突智を斬りて三段に為す。[中略]復た剣の刃より垂る血、是れ天安河辺に所在る五百箇磐石と為る。即ち此れ経津主神の祖なり」
とある。

第五段一書(七)[LINK]には、
「軻遇突智を斬る時に、其の血を激越そそきて、天八十河中に所在る五百箇磐石に染む。因りて化成る神を、号けて磐裂神と曰す。次に根裂神、児磐筒男神。次に磐筒女神。児経津主神
とある。

同書・巻第二(神代下)の第九段[LINK]には、
「磐裂・根裂神の子、磐筒男・磐筒女神が生める子、経津主神
とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]には、
「経津主神〈是れ磐筒女神の子、今、下総国、香取神、是れ也〉」
とある。

『天書』逸文〔卜部兼方『釈日本紀』巻第六(述義二)に引用〕[LINK]には、
「経津主神は天之鎮神也。其の先は諾尊より出る。初め、諾尊、温突(煜突かぐつちか)を斬リ、血、赤霧と成る。天下陰闇、直に天漢に達し、三六五度七百八十三の磐石と化為る。是れ、星度之積と謂ふ也。気、神と化為る。号して磐裂と謂ふ。是れ、歳星の精と謂ふ。裂、根去を生む。是れ、熒惑の精と謂ふ。去、磐筒之男を生む。是れ、太白の精と謂ふ。男、磐筒之女を生む。是れ、辰星の精と謂ふ。女、経津主神を生む。是れ、鎮星の精と謂ふ」
とある。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段[LINK]によると、高皇産霊尊は葦原中国の平定のために武甕槌神と経津主神を遣わした。 二神は出雲国の五十田狭小汀(稲佐の浜)に降り、十握剣を逆に地に突き立てその鋒先に座し、大己貴神に「高皇産霊尊、皇孫を降しまつりて、此の地に君臨はむとす。故、先づ我二の神を遣して、駈除ひ平定しずめしむ。汝が意如何。避りまつらむや不や」と問うた。 大己貴神は「まさに我が子に問ひて、然して後にかへりことまうさん」と答えた。 稲背脛が使者となって事代主神に高皇産霊尊の勅を伝えると、事代主神は「我が父、避り奉るべし。吾亦、違ひまつらじ」と答え、海中に八重蒼柴籬を造って去った。
使者が帰って報告すると、大己貴神は国土平定に用いた広矛を二神に献上し「吾此の矛を以て、卒に治功せること有り。天孫、若し此の矛を用て国を治らば、必ず平安さきくましましなむ。今我れ当に百不足の八十隈に、隠去れなん」と云ってお隠れになった。 その後、二神はまつろわぬ神々を誅して葦原中国を平定し、高天原に戻った。

第九段一書(二)[LINK]によると、天神は武甕槌神と経津主神を遣わして葦原中国を平定しようとした。 二神は「天に悪しき神有り。名を天津甕星と曰ふ。亦の名は天香香背男。請ふ、先づ此の神を誅ひて、然して後に下つて葦原中国を撥はん」と申した。 この時に、斎主神を斎之大人と云い、此の神は今は東国の檝取(香取)の地に在る。
二神が出雲国の五十田狭小汀に降り、大己貴神に「汝、将に此の国を以て、天神に奉らんやいなや」と問うと、大己貴神は「疑ふ、汝二神は、是れ吾が処に来せるに非ざるか。故、許さず」と答えた。 経津主神が高天原に戻って報告すると、高皇産霊尊は二神を再び遣わして「夫れ汝が治す顕露の事は、是れ吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし」と大己貴神に勅した。 大己貴神は国譲りに応じ、身に瑞之八坂瓊を付けてお隠れになった。 その後、経津主神は岐神に先導させて葦原中国を平定した。

『出雲国造神賀詞』[LINK]には、
「高天の神王、高御魂・神魂命の皇御孫命に天下大八嶋国を事避さし奉らしし時に、出雲臣等が遠祖天穂比命を、国体見せ遣はしゝ時に、天八重雲を押別て天翔り国翔りて、天下を見廻て返事申給はく、「豐葦原の水穂国は、昼は五月蠅なす水沸き、夜は火瓮なすかがやく神在り、石根・木立・青水沫も事問て、荒ぶる国在り、然れども鎮め平て、皇御孫命に安国と平けく知ろしめし坐さしめむ」と申して、己命の児天夷鳥命に布都怒志命を副へて、天降し遣して、荒ぶる神どもを撥ひ平げ、国作しゝ大神(大己貴神)をも媚び鎮めて、大八嶋国の現事・顕事、事避らしめき」
とある。

『常陸国風土記』の信太郡の条[LINK]には、
「天地の権輿、草木言語ひし時、天より降り来りし神の名を、普都の大神といふ。葦原の中つ国を巡り行でまして、山河の荒梗あらぶるかみの類を和平け給ひき。大神、化道已に畢へて、心に天に帰らむと存し、やがて身に随ひし器杖〈俗にいつのといふ〉・甲・戈・楯・剣、執らしゝ玉珪、悉皆に脱屣ぎて、茲の地に留め置ぎて、すなはち白雲に乗りて、蒼天に還り昇り給ひき」
とある。

『香取神宮小史』[LINK]によると、正和五年[1316]の香取古文書には、
「謹考旧貫、当社者神武天皇御宇十八年戊寅[B.C.643]、自立始神柱以降、至于今年正和五、一千九百五十九年也云々」
とある。

伊弉諾・伊弉冊尊を鹿嶋・香取大明神とする説がある。
存覚『諸神本懐集』[LINK]には、
「天神七代をは伊弉諾・伊弉冊と申しき。伊弉諾尊は男神なり、今の鹿嶋の大明神なり。伊弉冊尊は后神なり、今の香取の大明神なり
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。
また、『三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集』巻三の神上吉日の条[LINK]には、
「壬申は二柱の神、高天原より天の逆鉾を差下し、自凝島を得造り、筑波山に落下し、男体女体と顕れ、鹿嶋香取大明神と現れ給ふ日也」
とある。
垂迹本地
香取大明神十一面観音

玉崎明神

玉崎神社[千葉県旭市飯岡]
祭神は玉依姫命で、日本武尊を配祀。
旧・郷社。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』上巻[LINK]には、
「創建は社伝に據るに、景行天皇の御宇、日本武尊東征の時、海上難に逢ひ、妃弟橘姫命海中に入り、依りて無事着岸させられたるが、尊、御船印を当社に留め給ふと云ふ、然れば其以前の創建なるべし」
とある。

『飯岡町史』に引用する「玉ヶ崎明神行幸元由記」[LINK]には、
「当社は人王十二代景行天皇の御子日本武尊東夷御征討に付、相模走水より上総国に渡らせ給ふ。其時御船海上にて暴風逆浪に逢ひ殆んど覆沈せんとす。愛妃橘媛命曰く、之れ海神のなす所なりと王に替りて、入水す。故に風浪穏に上総国に上陸す。夫より又海上下総芦の浦を経て玉の浦を横切り、陸奥え渡らせ給ふ。其神験を賽し大綿積命の御女玉依媛命を此の玉ヶ崎え斎き奉る。因て玉ヶ崎明神と尊称す」
とある。

また、玉崎神社の由緒[LINK]には、
「当神社は景行天皇紀の四十年[111]日本武尊の東夷征討の砌、海上安穏夷賊鎮定の為、玉の浦の東端玉が崎に海神玉依姫命を御祭神として創祀せられたと伝えられる御社であって、竜王岬の地名は即ちこれによって起っている。降って戦国争乱の世の天文二年[1533]、積年の海触を避けて神域を現在の地に移した」
とある。
垂迹本地
玉崎明神十一面観音