『神道集』の神々

第一 神道由来之事

天地開闢の時、空中に一つの物が有った。 形は葦の芽のようで、化して神と成った。 これを国常立尊という。 次に国狭槌尊が現れた。 その次に豊斟渟尊が現れた。 以上の三神は乾(陽気)のみから生じた。
その次に埿土煮尊と沙土煮尊が現れた。 その次に大戸之道尊と大戸間辺尊が現れた。 その次に面足尊と惶根尊が現れた。 以上の三代六神は男女の姿は有ったが、夫婦では無かった。 その次に伊弉諾尊と伊弉冊尊が現れた。 この二神が始めて夫婦となった。 以上を天神七代という。
二神は天逆鉾を下して国の有無を探った。 その鉾の滴りが凝って島と成った。 今の淡路島である。 また、この世の主として一女三男を産んだ。 三男とは日神・月神・素盞嗚尊である。 一女とは蛭児命である。 二神は淡路島に幽宮を構えて住まわれた。

地神五代の最初は、伊弉諾・伊弉冊尊の太子の天照太神である。 即ち日神である。 父母神はこの子を生んで喜び、霊異の子であるとして天下を授けられた。
次は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。 天照太神の御子で、天照太神が弟の素盞嗚尊と誓約して生まれた。 以上の二神は天に在った。
次は天津彦彦火瓊瓊杵尊。 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の太子で、母は高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫である。 日向国高千穂峯に天下り、その後は日向国宇解山に住み、天下を治めること三十一万八千五百四十三年である。 この尊の御代に、三面の鏡と三本の剣が天下った。 三面の鏡の内、一面は伊勢太神宮に在り、一面は紀伊国日前社に在り、一面は内裏に留まる、今の内侍所である。 三本の剣の内、一本は大和国布流社に在り、一本は尾張国熱田社に在り、一本は内裏に留まる、今の宝剣である。 この二つは後に内裏守護の宝と成った。
此の国を日本と名づける事は、日天子が天下って神と成った故である。
次は彦火火出見尊。 天津彦彦火瓊瓊杵尊の太子で、母は大山祇神の娘の木花開耶姫である。 天下を治めること六十三万七千八百九十二年である。 御陵は日向国高屋山に在る。
次は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。 彦火火出見尊の太子で、母は海童の第二の姫の豊玉姫である。 天下を治めること八十三万六千四十二年である。 御陵は日向国吾平山に在る。 以上を地神五代という。 この尊の第四の太子を神武天皇という。

伊弉諾・伊弉冊尊の一女三男の内、第一は素盞嗚尊である。 悪神なので嫡子には立てず出雲国に流された。 今の出雲大社である。 第二は日神、今の伊勢太神宮である。 伊勢国度会郡五十鈴河上に鎮座している。 第三は月神、月弓霊尊という。 今は鎮西豊後国の本満宮に垂跡している。
一女は蛭児命である。 この御子は三歳の時に楠の椌船に入れて大海に捨てられた。 この船は浪に漂って自然と龍宮に下った。 龍神がこの子を養ってその由を尋ねたところ、天神七代の伊弉諾・伊弉冊尊の御子であると言った。 龍宮に留めるべきではないので、七・八歳の時にまた楠の椌船に乗せてこの国に返した。 蛭子は龍宮に何年もいたので、第八の外海を引出物として給わった。 龍王が「我は大海を領して陸に所領が無い。外海を与えるので大海の上に住むがよい」と云ったので、蛭子は住吉の洋に留まった。 今の世に西宮と云うのがこれである。 海人は盛大に秋の祭を行い、これを恵美酒と申している。

伊勢太神宮が天下った時、第六天魔王が之を見て、この国を滅ぼそうと天下った。 太神宮は魔王に向かい、「私は三宝の名を云わず、我が身にも近づけませんので、すぐに天上にお帰り下さい」と誓ったので、魔王は天に帰った。 この約束を違えぬよう、僧は御殿の近くには参らず、社壇では経を顕には持たない。 三宝の名も正しく呼ばず、仏を「立スクミ」、経を「染紙」、僧を「髪長」、堂を「木焼コリタキ」などと云う。 外には仏法を疎かにし、内には三宝を守護される故に、我が国の仏法は伊勢太神宮の守護に依るのである。

天照太神は素盞嗚尊が天津罪を犯した事を憎み、天岩戸を閉じて隠れたので、天下はたちまち暗闇に成った。 八百万の神々は悲しんで、天照太神を誘い出す為、庭火を焚いて神楽を行った。 天照太神は御子神たちの遊びをゆかしく思い、岩戸を少し開けてご覧になると、世間は明るくなった。 大力雄神が御神を抱き留め、天岩戸に七五三(注連縄)を引き、この内に入れないようにしたので、ついに日月が天下を照らすようになった。 日月の光が当たるのも当社の恩徳である。

すべては大海の大日如来の印文より起り、内宮・外宮は両部の大日如来である。 天岩戸は都率天であり、高天原とも云う。 真言の意では、都率天は内証の法界宮殿で、密厳浄土とも云う。 内証の都を出て日本に垂迹する。 故に内宮は胎蔵界の大日如来で、四重曼茶羅を象って囲垣・玉垣・水垣・荒垣と重々めぐらせている。 勝雄木は九本有り、胎蔵界(中台八葉院)の九尊を象る。 外宮は金剛界の大日如来あるいは阿弥陀如来である。 金剛界の五智を象って、月輪は五つ有る。 胎金の両部は陰陽を司り、陰は女、陽は男である。 八人の八女は胎蔵を象る。 五人の神楽男は金剛界の五智を象る。

また、御殿が萱葺である事も、御供が三杵ついた玄米である事も、人の煩いや国の費えを思召した故である。 勝雄木が真直ぐで、垂木が曲がらないのは、人の心を真直ぐにしようと思召した故である。 心が真直ぐで、民の煩いや国の費えを思う人は、神慮に叶う者であろう。

当神宮は自然に『梵網経』の十重戒を保っている。 人を殺すと追放されることは波羅夷罪、人を打擲・刃傷すると解官され、出仕を停止されることは軽罪と同じである。
当社における物忌は、他の社とは少し異なり、鵜羽屋(産屋)を生気として五十日の忌とする。 また、死を死気として同じく五十日の忌とする。 死は生より来て、生は死の始めなので、生死を共に忌むべしと申し伝えている。 不生不滅の毘盧遮那法身の内証を出て、愚痴顚倒の四生の群類を助けようと垂跡される本意は、生死の流転を止め、常住の仏道に入る事であり、生死を同じ忌とする。 愚苦を悲しみ、生死の悪業を造らず、賢妙なる仏道を修行し、浄土の菩提を願うべきである。

神明神道の本地を尋ねれば諸仏菩薩である。 諸仏菩薩の跡化は神明神道である。
問、何の義により諸仏菩薩は神道と顕れるのか。
答、諸仏菩薩は群生を済度するために種々の形を現し給う。 ただ無縁の慈悲であり、与物結縁の儀式である。

五濁悪世の衆生は後生の果報を恐れず、今生の栄花を深く望んでいる。 眼前の事だけを信じて、後生の事は思わないので、(諸仏菩薩は)衆生の為に己身の自性の光を和らげ、他身は雑類と同塵する。 一度瑞籬・囲垣を践み、二度和光の宝殿に歩みを運べば、それを因縁として、永く三悪道に堕さず、八相成道の未来まで厚く利生するのが、神道の垂跡である。
『悲花経』には「我滅度後、於末法中、現大明神、利益衆生」と云う。 『般若経』には「為未来世、濁世之時、即現大祠、神形利生」と云う。 真言教主は「大日如来、麁同類と為りて、権りに冥神と成るは、心嬰児に同ず」と云う。

問、神明を崇める事は我が朝に限るのか。
答、『観無量寿経疏』には、父王に子が無く、所々の神に求めたが、終に子を得られなかった話が有る。 『大智度論』には、樹の神に祈って子を得た事が見える。 漢土では、三皇五帝の往魂や七魂七星の霊廟等を始めとして、大小の神祇が多いと聞く。 我が朝はもとより神国である故に、百八十柱の神を始めとして、一万三千七百余所等はみな利益が素晴らしい。

問、ある人が云うには、『毘吠論』によると一度神を礼すると五百生は蛇身の報いを受けるという。 もしそうならば、神を礼すべきだろうか。
答、神道には権実が有る。 悪霊・悪鬼は物に取り憑いて人を悩ませる。 実者はすべて蛇や鬼などである。 権者の神は如来・菩薩が衆生を利益する為に和光垂跡し、八相成道の終りを論じる。 当然帰依すべきである。 ただし、実者の神といえども神として顕れているので、利益が無いわけではない。 日本は神国なので、総じて敬礼すべきである。 国の風習は凡愚であり、権実を弁別するのは難しい。 ただ神に随って敬い礼して、何の失が有るだろうか。 始めは実者だとしても、終いには権者の眷属と成るだろう。

問、大小権実の明神の本地が仏菩薩であるという事は、何を以て知ることができるのか。
答、これは不思議で、経文や論蔵には見えない。 本朝は辺州なので仏説・論判は無い。 仏菩薩は我朝に来て、明神の垂跡として人間界に応生する。 この神の託宣を以て内証とするのである。 衆生を利益されるため、日本には多くの神明が在る。 その本地が仏菩薩でないということがあろうか。

問、汚れを忌むのは方便である。 中でも女人の月水を忌むと聞くが、祭礼の時に魚鳥の類を祭供に用いる神社は多い。 皆これらは血の忌みの物であり、月水も血、魚鳥の類も血である。 然るに、女人の月水を忌み、魚鳥の類を祭供に備えるのは何故か。
答、『毘尼母経』には三種の浄肉を食することを説く。
仏法の習いでは、善縁が無ければ解脱し難い。 そこで、肉食を以て微少の善縁とし、畜生の苦を救う。 垂跡は仏菩薩の化現なので、腹の内に満足して広大な善根を成す。 (畜類は)生死に沈淪せず、遂に仏果を得ることが出来る。 此の故に祭供に肉食の類を用いる。 然るに、月水を忌むのは女人の不浄を顕し、出離の心を起こす為である。 肉を祭供に備えるのは、利生の方便である。 月水を忌むのも、済度利生の方便である。

問、鹿の肉食の忌みは百日である。 他の熊・猪等よりも忌みが深いのは何故か。
答、道宣律師の『諸経要集』に引用する経によると、仏は「鹿は我が身である。烏は阿難である」と言った。 『首楞厳経』によると、仏は阿難に「狩師が鹿を殺すと、狩師は鹿に生まれ、鹿は狩師に生まれる」と告げた。
問、仏が鹿の身に化すのは何の為か。
答、道宣の釈によると、釈迦如来は鹿と成って五百の猿猴を教化した。 (その鹿は)畜生と雖も、釈尊の内証外用の功徳を具えている。 鹿を殺して肉を食うと、内証外用の功徳を損なうので、鹿の肉を食う事は深く禁じられている。
問、狐等の忌みの深さはどうなのか。
答、烏は阿難の化身である。 狐は文殊の化身である。 菩薩・声聞は仏の弟子なので、その化身を殺生するのは、仏の化身の殺生には劣る。

問、垂跡の中にも権現・大菩薩・大明神の違いがある。 明神にも誦呪・誦経の法楽を奉り、権現・大菩薩にも此の法楽を捧げるのは如何なる事か。
答、権現・大菩薩・大明神はすべて仏菩薩の垂跡で、同じく法楽を受けられる。 ただ、三種の別が有り、一は権現、二は大菩薩、三は大明神である。 権者と実者は前に述べた通りである。
八幡大菩薩は天平勝宝元年に豊前国宇佐宮から男山に移られた。 八幡大菩薩は元は八幡大神と申された。 宇佐宮の本地は釈迦・弥陀・観音の三尊と顕れ、男山に移られた時、行教和尚の三衣の袂に弥陀三尊と顕れた。 和尚が大乗の仏菩薩の十戒を授け、「護国土霊験威力神通大菩薩」と号して以来、大菩薩と云うのである。
問、もしそうなら、大菩薩と名づける事は八幡に限るだろう。 他の神も大菩薩と名づけるのは何故なのか。
答、観音の在す所はみな大菩薩と名づける。 神に大乗の菩薩戒を授ける故に、大菩薩と名づける。

問、神明の霊所を一度でも践めば、三悪趣の苦を免れるのか。
答、『正法念経』には「七歩道場、永離三悪、一入伽藍、決定菩提」と説く。 道場も霊地も仏菩薩の霊地である。 仏と神は本跡は異なるが、心は同一である。 垂跡の霊地も仏菩薩の霊地も、参詣の力に依り得られる利益は同じである。 参詣の功酬により三悪道の苦を免れ、垂跡恭敬の力により菩提の果を得られる。

伊勢大神宮に僧が入らない事であるが、天神七代の末の伊弉諾・伊弉冊尊の御子は、地神五代の始めの御神の天照太神である。 今の伊勢太神宮がこれである。 御本地は大日如来である。 その垂跡であるので、どうして僧を厭われるだろうか。
公任の伝によると、崇神天皇の御宇に伊勢大神宮より宝剣が天皇に授けられた。 即ち、天村雲剣(天叢雲剣)と云う。 その時に天皇の宣が有り、大神宮の祭主より神宮寺に衣冠束帯が下された。 この時より、(天照太神は)束帯で諸神を執領し、国家を鎮護されるようになった。 伊勢太神宮は束帯で鏡に浮ばれ、諸神を領し、国郡を争う為に、怖ろしげな姿で鏡に浮ばれた。 即ち、異国の軍を降伏する為である。
問、これは不審である。 仏法が王法を守り、王法が仏法を持する事は、天竺・震旦の習慣である。 日本も同様で、社内に仏法を安置し、法味・法楽を捧げ、王法を守れば、さらに素晴らしくなるが、如何だろうか。
答、高野山の伝によると、世界は日・月・星宿の所変である。 西天月氏国は月天子の所変である。 唐土震旦は、星宿の守護する国である。 此の州を日本と名付ける事は、日天子の所変である事に依る。 此の州は元は嶋も無く、潮だけが有り、天神七代の間は天に在った。 第七代の伊弉諾・伊弉冊尊が鉾を差し下して嶋が有るかと捜り、鉾を引き上げると潮の滴りが凝って嶋と成った。 今の淡路嶋がこれである。 その後、嶋が次第に広がり、六十余州と成った。 これらの嶋が出来た後は、天より地に下って住まわれ、地神五代と云う。 この五代の始めの御神は天照太神である。 今は忝くも伊勢太神宮と申し上げる。 この御神は即ち大日如来の所変であり、皇祖である。 太神宮に僧が入らないのは、大日如来の秘密の道場である事を示している。

問、権現・大菩薩・大明神の三種の内、明神に限って三熱の苦を受けると聞く。 これは何故か。
答、権現・大菩薩は三熱の苦を受けない。 何故かと云うと、垂跡の中には実者・権者が有り、仏菩薩が化現されたのは権者である。 (仏菩薩)の応化ではなく、神道の実業を以て神明の名を得たのは実者である。 仏菩薩の垂跡は苦を受けないが、実者は受けるのである。
問、仏菩薩は衆生利益の為に六道の苦を受けることが多い。 そして、身体の苦楽は本跡共に同じである。 調達(提婆達多)は不動賓迦羅菩薩の化身だったが、五逆の罪で地獄に堕ち、火炎の苦を受けた。 八大龍王の中には仏菩薩の化現が有るが、恵心の釈によると、諸龍は三熱の苦を昼夜休みなく受けるという。 どうして(権現・大菩薩は)三熱の苦を受けないのか。
答、『涅槃経』巻七によると、菩薩は一切衆生を哀れむ故に、阿鼻地獄に在っても第三禅の楽のようである。 『倶舎論頌疏記』巻二によると、霊山の頂に阿耨達池が有り、その中に龍王が住んでいる。 閻浮提の諸龍には三患が有るが、此の池の龍には三患が無い。 故に無熱池と称する。 龍王は権者なので、三熱の苦は無い。 三熱の苦を受けるのが実者で、受けないのが権者である。 ましてや、八幡大菩薩は応神天皇である。 平野大明神は仁徳天皇である。 二所権現は天竺の国王である。 このような御神たちは三熱の苦の器ではない。

天神七代

参照: 「天神七代事」

天逆鉾

『日本書紀』巻第一(神代上・第四段)[LINK]には「伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋の上に立たして、共に計らひて曰く、「底つ下に豈国無けむや」と宣ひて、廼ち天之瓊矛を以て、指し下して探る。是に滄溟を獲き。其の矛の鋒より滴瀝る潮、凝りて一つの島と成れり。名けて磤馭慮島と曰ふ」とある。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]では、磤馭慮島が出来た後に「則ち天瓊矛を以て磤馭慮島の上に指し立てて、以て国中の天柱と為す也」とある。

『倭姫命世記』[LINK]によると、倭姫命が奈尾之根宮で大田命に「吉き宮処有りや」と問うと、大田命は「宇遅の五十鈴の河上は、是れ大日本国の中に、殊に勝て霊地に侍るなり。其の中に、翁三十八万歳の間にも、未だ視知らざる霊物あり。照り耀くこと日月の如くなり」と答えた。 倭姫命が彼の地に往ってご覧になると、天照大神が昔に誓願して「豊葦原瑞穂国の内に、伊勢かさはや(風早)の国は、美き宮処有り」と見定められ、天上から投げ降ろされた天逆太刀・逆鉾・金鈴等があったので、大いに喜ばれて言上げされた。
同書によると、皇大神宮域内の酒殿[LINK]に「天逆太刀、逆鉾、金鈴、之を蔵納む」とある。

『大和葛城宝山記』には「天地開闢の嘗、水変じて天地と為りしより以降、高天海原に独化れるの霊物在り。其の形葦牙の如し。其の名を知らず。爾の時、霊物の中よりして神聖化生す。之を名けて天神と曰ひ、亦大梵天王と名け、亦尸棄大梵天王と称す。天帝の代に逮びて、霊物を名けて天瓊玉戈と称す。亦金剛の宝杵と名く。神人の財と為り、地神の代に至りて、之を天御量柱、国御量柱と謂ふ。茲に因りて、大日本の州の中央に興てて、名けて常住慈悲心王の柱と為す。此れ則ち正覚正智の宝に坐します也。故に心柱と名くる也。天地人民、東西南北、日月星辰、山川草木、惟是れ天瓊玉戈の応変にして、不二平等の妙体也」「夫れ天瓊玉戈は、亦は天逆矛と名く。亦は魔反戈と名け、亦は金剛宝剣と名け、亦は天御量柱、国御量柱と名け、亦は常住の心柱と名く。亦は忌柱と名くる也」とある。
また、その所在について「此の宝杵は、則ち常世の宮殿の内に納め奉る。俗に云ふ五百鈴川の瀧祭(皇大神宮域内の瀧祭神)の霊地、底津宝の宮是れ也。是れを龍宮城と名くる也。亦仙宮と号する也」と記す。

北畠親房『神皇正統記』[LINK]には「此の矛は伝へて天孫したがへてあまくだり給へりとも云。又垂仁天皇の御宇に、大倭姫の皇女天照太神の御教へのまゝに国々をめぐり、伊勢の国に宮所を求め給ひし時、大田命と云神まいりあひて、五十鈴の河上に宝物をまほりける処をしめし申しに、彼の天逆矛、五十の金鈴、天宮ノ図形ありき。大倭姫よろこびて、其所をさだめて神宮を立てらる。宝物は五十鈴の宮の酒殿におさめられきとも云。又、瀧祭の神と申は龍神なり。其の神あづかりて地中におさめたり共云。一には大倭の龍田神は、この瀧祭と同躰にます。此神のあづかり給へる也。よりて天柱国柱といふ御名ありとも云」と三処(酒殿、瀧祭神、龍田大社[奈良県生駒郡三郷町立野南])を挙げる。 しかし、「むかし磤馭慮島に持ちくだり給ひし事はあきらかなり。世に伝ふと云事はおぼつかなし」と疑念を呈し、「宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけん事や正説なるべからん」と述べた。

淡路島

『日本書紀』巻第一(神代上・第四段)[LINK]には、伊弉諾尊・伊弉冉尊が夫婦と為って洲国を産む時に「先づ淡路洲を以て胞とす〈意によろこびざる所なり。故、名けて淡路洲と曰ふ〉」とある。
卜部兼方『釈日本紀』巻第五(述義一)[LINK]は「先づ悪子を生む、故に之を吾耻島と名く也」と注す。

中世には磤馭慮島と淡路島が同体視されるようになった。 例えば、春瑜本『日本書紀私見聞』には「昔伊弉諾・伊弉冉の二神、始めて天降下りたまひて淡路嶋に住み給ふ。其嶋を磤釵慮嶋と名く」とある。
(参考文献 伊藤聡『神道の中世 —伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀—』、第8章 能と中世神道、中央公論新社、2020)

また、淡路島を「五角の島」とする言説も見られるようになった。 例えば、真福寺蔵『神祇秘記』には「此の国を大日本国と申す事は、伊弉諾伊弉冊、須弥を開き御座て、下界を見たまへば、本より国もなく島もなし。其の時天の逆鉾を指し下し捜したまいし其の滴り嶋と成り堅てअ(a)वि(vi)र(ra)हूं(hūṃ)खं(khaṃ)の五字を顕しけり。此の文字を不思儀の風吹き来て、五角の嶋となる。今の淡路嶋なり」とある。
(参考文献 小川豊生『中世日本の神話・文字・身体』、第2部 霊性と神学の十三世紀、第3章 性と虚円の中世神学——『瑜祇経』解釈学と「識」の霊性、森話社、2014)

一女三男

通説では一女は日神(天照大神)、三男は月神(月読尊)・蛭児・素盞嗚尊である。

『日本書紀』巻第一(神代上・第四段)の一書(一)[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊の二神は磤馭慮島に立てた天柱を左右から巡り、陰神は「あなにゑや、可愛少男えをとこを」、陽神は後から「妍や、可愛少女えをとめを」と云った。 二神は遂に夫婦と為り、先ず蛭児を生み、葦船に載せて流した。 次に淡洲を生んだ。 これもまた児の数には入れない。 二神が天に還って其の状を奏すると、天神は太占を卜して「婦人の辞、其れ已に先づ揚げたればか。更に還り去ね」と宣った。
この一書では、三神に先立って蛭児の誕生を伝えている。

同書(神代上・第五段)[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊は「何ぞ天下の主たる者を生みざらむ」と宣い、日神(大日孁貴、天照大神、天照大日孁尊)を生んだ。 この子の光は世界を照らしたので、二神は喜んで「吾が息多ありと雖も、未だかくくしびあやしき児有らず、久しく此の国に留めまつるべからず。自づから当に早に天に送りて、授くるに天の事を以てすべし」と云い、天に送った。 次に月神(月弓尊、月夜見尊、月読尊)を生んだ。 その光は日に次いだので、「日にならべて治すべし」として、また天に送った。 次に蛭児を生んだ。 三歳になっても立てないので、天磐櫲樟船に乗せて放ち棄てた。 次に素戔嗚尊(神素戔嗚尊、速素戔嗚尊)を生んだ。 勇み悍くて安忍いぶり(気吹の如く憤る)であり、泣き喚くと多くの人民が死に、青山が枯れた。 二神は「汝、甚だ道無し。以て宇宙に君臨たるべからず、固に当に遠く根国に適ね」と云い、素戔嗚尊を放逐した。

同段の一書(二)[LINK]によると、日月の次に蛭児を生んだ。 この児は三歳になっても脚が立たなかった。 伊弉諾尊・伊弉冊尊が柱を巡った時、陰神が先に喜ぶ言葉を発し、陰陽の理に違えたので、蛭児が生まれたのである。 次に素戔嗚尊を生んだ。 この神は性が悪しく、常に哭き恚くことを好み、多くの国民が死に、青山が枯れた。 父母は「汝此の国を治らば、必ず残ひ傷る所多けんとをもふ。故、汝は極めて遠く根国を馭すべし」と勅した。 次に鳥磐櫲樟船を生んだ。 此の船に蛭児を載せ、流れのままに放ち棄てた。

同段の一書(一)[LINK]によると、伊弉諾尊は「吾、御寓あめのしたしらすべきうづの子を生まむと欲ふ」と宣った。 左手に白銅鏡を持った時に化出した神を大日孁貴と云う。 右に白銅鏡を持った時に化出した神を月弓尊と云う。 首を廻らして顧眄した時に化した神を素戔嗚尊と云う。 大日孁貴と月弓尊は質性が明麗だったので、天地を照らし臨ませた。 素戔嗚尊は性が残酷で害することを好んだので、根国を治めさせた。

同段の一書(六)[LINK]によると、伊弉諾尊は黄泉から帰った後、筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至って禊除をした。 八十枉津日神などの九神を生んだ後、左眼を洗った事により生れた神を天照大神と云う。 また右眼を洗った事により生れた神を月読尊と云う。 また鼻を洗った事により生れた神を素戔嗚尊と云う。 伊弉諾尊は三子に「天照大神は、以て天下を治すべし。月読尊は、以て滄海原の潮の八百重を治すべし。素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」と勅したが、素戔嗚尊は長じても天下を治めず、常に啼き恚っていた。 伊弉諾尊が理由を問うと、「吾は母の根国に従はむと欲ひて、只泣くのみ」と申したので、伊弉諾尊は素戔嗚尊を憎んで放逐した。
以上の二種の一書では、蛭児とは別に三神の誕生を伝えている。

幽宮

『日本書紀』巻第一(神代上・第六段)[LINK]には「伊弉諾尊神功既に畢へたまひて、霊運当遷あつしれたまふ。是を以て、幽宮を淡路の州に構りて、寂然に長く隠れましき」とある。
『釈日本紀』巻第五(述義一)[LINK]は「神名帳に曰ふ、淡路国津名郡淡路伊佐奈伎神社〈名神大〉」と注す。

伊弉諾神宮[兵庫県淡路市多賀]
祭神は伊弉諾尊で、伊弉冉尊を配祀。
式内社(淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社〈名神大〉)。 淡路国一宮。 旧・官幣大社。
文献上の初見は『日本書紀』巻第十二(履中天皇五年[404]九月壬寅[18日]条)[LINK]で、天皇が淡路島で狩猟をした際、河内の飼部が従って轡を執った。 この時、飼部の黥(目先の入れ墨の傷)が治っていなかったので、島に居る伊弉諾神が祝に「血の臭に堪へず」と託宣した。

日向国高千穂峯

現在の宮崎県西臼杵郡高千穂または霧島山に比定される。

『日向国風土記』逸文〔『釈日本紀』巻第八(述義四)に引用〕[LINK]には「臼杵郡の内、知鋪郷。天津彦々火瓊々杵尊、日向の高千穂の二上峯に天降りましき。時に、天暗冥く夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに土蜘蛛あり、名を大鉏・小鉏と曰ふ。二人、皇孫の尊に奏言しけらく、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らし給はば、必ず開晴りなむ。時に、大鉏等の奏ししが如く、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らし給ふしかば、即ち、天開晴りて、日月照り光りき。因りて高千穂の二上峯といひき。後の人、改めて智鋪と号く」とある。

この二上峯は槵触峯に比定され、槵觸神社[宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井]が鎮座する。 同社は高智保皇神(国史現在社)の論社の一つで、槵觸峯を神体山とする。
『三国名勝図会』巻之三十三(大隅国 囎唹郡 曽於郡之一)の襲之高千穂槵日二上峯の条[LINK]には「日向国諸県郡、大隅国曽於郡に跨れる、大嶽にて、常に霧島山といふ、(中略)太古皇国開闢の初め、天照大神の皇孫天津彦火瓊々杵尊、天上より始て降臨し玉ひし、皇国第一の霊嶽也」「矛峯一名は、東峯、又本嶽といふ。矛峯とは、矛を絶頂に建つ。瓊々杵尊天降の時、斎し玉ひし神代の旧物なり。因て矛峯と名く。火常峯は、一に西峯と呼ふ。往古矛峯と並び聳へし一峯なりしが、中古以来、嶺頻に火を発し燃へ穿ちて、深坑となり、今僅に其峰形を存ず。常に火を発するを以て、火常峯と号す。此二嶺の根、相距ること、二町許、其中間凹にして、馬背の状の如し。因て其中間を背門丘セトヲと呼ふ」とある。

また、同書・巻之三十四(大隅国 囎唹郡 曽於郡之二)の西御在所霧島六所権現社(霧島神宮[鹿児島県霧島市霧島田口])の条[LINK]には「当社別当華林寺の記に云、欽明天皇の時[539-571]、慶胤上人なる者、此山を開闢し、当社及び梵刹を創建す。其後山上火を発し、寺社焼亡して、多くの星霜を歴たりしに、村上天皇の御宇[946-967]に、性空上人此山に登て、法華経を持誦すること若干年、当社を建立し、六所権現と号す。六観音を感見して、其本地とせり。初め上古の神社は、今の社地より東一里十町許に当る、当社の嶺矛峯と火常峯との中間、背門丘にありしが、天暦中[947-957]、性空背門丘より今の地に神社を遷し、併せて、別当寺を新建す」とある。

日向国宇解山

不詳。 可愛山の誤記か。

『日本書紀』巻第二(神代下・第九段)[LINK]には「天津彦彦火瓊瓊杵尊、崩りましぬ。因りて筑紫日向の可愛之山陵に葬りまつる」とある。

『延喜式』巻第二十一の諸陵寮の項[LINK]には「日向埃山陵。天津彦瓊瓊杵尊。日向国に在り。陵戸無し」とある。

その所在は諸説有るが、明治七年[1874]に新田神社[鹿児島県薩摩川内市宮内町]境内の神亀山が可愛山陵に治定された。
『三国名勝図会』巻之十三(大隅国 高城郡 水引之一)の八幡新田宮(新田神社)の条[LINK]には「天津彦々火瓊々杵尊、筑紫日向襲之高千穂峯に天降ありて、笠狭宮〈今の加世田(鹿児島県南さつま市加世田川畑)にあり〉に居給ひしが、又此地に皇都を建て、高城千台を起し〈千々の台を築き玉へる宮城の義なり〉、皇居を移し給ひ、高城タキ宮と号す。瓊々杵尊崩し給ひし後、此の地に葬る、是を可愛エノ山陵といふ」「此山に陵ある故に、後に神体を崇めて、千台新田宮、又八幡新田宮といふ」とある。

この他、宮崎県延岡市北川町長井俵野の可愛岳や、宮崎県西都市三宅の男狭穂塚古墳が陵墓参考地に指定されている。

伊勢太神宮

現在の正式名称は「神宮」。 後述の内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)をはじめ別宮・摂末社・所管社の総称であるが、ここでは特に内宮を指している。

紀伊国日前社

日前神宮[和歌山県和歌山市秋月]
祭神は日前大神で、相殿に思兼命・石凝姥命を配祀。 通説では日前大神は日像鏡を御霊代とする天照大神である。
式内社(紀伊国名草郡 日前神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 紀伊国一宮。 旧・官幣大社。
同一境内に国懸神宮と並び建っている。
史料上の初見は『日本書紀』巻第三十(持統天皇六年[692]五月庚寅[26日]条)[LINK]の「使者を遣して、幣を四所の伊勢・大倭・住吉・紀伊大神に奉る」。
『南海道紀伊国神名帳』には名草郡に「日前太神宮」とある。

『日本書紀』巻第一(神代上・第七段)の一書(一)[LINK]には「石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是れ即ち紀伊国に所坐す日前神なり」とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]には「思兼神の議に従て、石凝姥神をして日像之鏡を鋳さしむ、初の度に、鋳る所はいささか意に合はず〈是れ紀伊国の日前神也〉、次の度、鋳る所は其の状美麗〈是れ伊勢の大神也〉」とある。

『紀伊続風土記』巻之十三(名草郡第八)には「謹みて両大神宮の御霊宝を考ふるに、天照大神天ノ石窟に幽居坐しゝ時、諸神思兼ノ神の議に従い、石凝姥ノ神をして天照大神の御象をうつし造らる。初度先はじめ、日像之鏡及日矛之鏡を鋳る。其鏡少意に合はず、次度に又日像之鏡を鋳る。其鏡形美麗し。是、所謂八咫ノ鏡にて伊勢皇大神の御霊宝なり。初度に鋳たる日像之鏡は、即ち日前大神宮の御霊宝、日矛之鏡は即ち国懸大神宮の御霊宝なり。天孫天降り給ひし時、天神三鏡及種々の神宝を授け給ふ。皇孫尊日向国高千穂ノ峰に天降り坐し、日前・国懸の両御霊を斎鏡・斎矛として八咫ノ鏡と共に床を同しくて殿を共にして斎き祠らしめ給ふ」とある。

『大倭本紀』逸文〔『釈日本紀』巻第七(述義三)に引用〕[LINK]には「天皇の始めて天降り来たまひし時、共に護の斎鏡三面・子鈴一合を副へさせたまふ也。注に曰く、一の鏡は、天照大神の御霊、天懸神と名く也。一の鏡は、天照大神の前御霊、国懸大神と名く也。今紀伊国の名草宮に崇め敬ひ解祭す大神也。一の鏡及び子鈴は、天皇の御食津神、朝夕の御食、夜護日護に斎ひ奉る大神、今巻向穴師社宮(穴師坐兵主神社[奈良県桜井市穴師])に坐しまして解祭す大神也」とある。
『紀伊続風土記』では同文を引用して「按するに此文にては天孫の天降り給ふとき大神の授け給へる御霊宝の八咫鏡の外に三の鏡を相副て授け給へるなり。其三の鏡とは紀伊国名草宮の天縣大神と国縣大神と巻向穴師大神との三なりとの文也。天縣大神とは即日前大神なり」と解釈する。

『紀伊続風土記』には鎮座次第を「謹みて両大神宮鎮坐の始末を考ふるに、崇神天皇の御世、漸神威を畏み給ひ、天照太神の御霊宝、五十鈴宮・日前宮・国懸宮の三神鏡を更に鋳さしめ、宮中に斎き祠らせ給ひ、天孫の天降らせ給ひしより斎き奉りし三神鏡は、豊鋤入姫命に牽き奉らしめて、大和国より始めて諸国に鎮坐すへき地を覓給ひ、五十一年[B.C.47]四月八日に本国名草浜宮[和歌山県和歌山市毛見]に遷らせ給ひ、三年の間、宮を並へて共に住ませ給ふ。五十四年[B.C.44]伊勢大神は吉備国名方浜宮に遷らせ給ひ、日前・国懸両大神は猶名草浜宮に留まり坐し。垂仁天皇の御世、伊勢大神は伊勢国五十鈴川上に鎮坐し、日前・国懸両大神は名草浜宮より伊太祁曽大神の旧地名草万代宮に遷り鎮まり坐せり。是今宮の地なり」と記す。

『国造家旧記』〔『紀伊続風土記』に引用〕には「神日本磐余彦天皇東征の時、此の二種の神宝を以て天道根命に託して斎祭せしむる也。天皇国々を経て摂津国難波に到りたまふ。天道根命、此の二種の神宝を奉戴し、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の海底の岩上に安置し奉る。崇神天皇の御宇に至り、豊鋤入姫命、天照大神の御霊を奉載し、名草浜宮に之を遷したまふ時、日前・国懸両大神、海底の岩上を離れ、名草浜宮に移り、宮を並べて住みたまふ」とある。
『紀伊続風土記』では崇神天皇の御宇まですべての神宝が同殿共床されていたと述べ、この伝を否定する。

『紀伊続風土記』は神宮寺について「大神宮寺 社外東辺 本堂三間四方 本尊釈迦如来」「按するに元暦元年[1184]日前宮政所より坂田村浄土寺への置文に当寺者大神宮本地之伽藍釈迦善逝之御霊像と云ふ文あり。浄土寺は国造槻雄弘仁年中[810-824]建立するする所なれは当宮の本地といふもさる事なるへし」と記す。

内侍所

三種の神器の一つである八咫鏡(形代)を祀る場所だが、ここでは神鏡自体を指している。 平安時代には内裏の温明殿に奉斎され、女官の内侍が奉仕したので「内侍所」と呼ばれた。 現在は、宮中三殿の賢所に奉斎されている。

『日本書紀』巻第二(神代下・第九段)の一書(一)[LINK]には、天孫降臨の際に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ」とある。
同段の一書(二)[LINK]には「天照大神、手に宝鏡を持ちたまひて、天忍穂耳尊に授けて、祝きて曰く。吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡とすべし」とある。

『古語拾遺』[LINK]には「磯城の瑞垣の朝(崇神天皇の御宇)に至りて、漸に神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。故、更に斎部氏をして石凝姥神の裔・天目一箇神の裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、まもり御璽みしるしと為す。是れ、今践祚す日に、献る所の神璽の鏡・剣なり」とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には「手摩乳は、姫(稲田姫)の助かりたる事を喜び、尊(素盞嗚尊)を聟に取り奉る時、円さ三尺六寸の鏡を引出物に奉る」「蛇の尾より取り出でたる天叢雲剣、並に天羽々切剣、手摩乳が聟引出物の鏡、以上三種を天照大神に奉りて、不孝は許され給へり。かの聟引出物の鏡は、今の内侍所是なり。人皇第四代の帝、懿徳天皇の御時、天より三の鏡降れり、其中一は聟引出物の鏡なり」「聟引出物の鏡は内侍所なり。帝の御守にて、大内におはしますを、第十代の帝崇神天皇の御時、同殿しかるべからずとて、殿を作り鏡を鋳て、新しきを御守とし、古きをば天照大神に返し進らせ給ひけり」とある。

大和国布流社

石上神宮[奈良県天理市布留町]
祭神は布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神で、相殿に宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を配祀。
式内社(大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第三(神武天皇即位前三年[B.C.663]六月条)[LINK]によると、神武天皇は皇子手研耳命と軍を率いて熊野の荒坂津(和歌山県新宮市三輪崎)に至った。 丹敷戸畔という者を誅殺した時、神が毒気を吐いたので、兵士は病気になり、皇軍は進めなくなった。 そこに熊野の高倉下という者が居り、夜に夢を見た。 天照大神が武甕雷神に「夫れ葦原中国は猶さやげりなり。汝更に往きて征て」と命じたところ、武甕雷神は「予行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」と答え、天照大神も承諾した。 武甕雷神は高倉下に「予が剣、号を韴霊ふつのみたまと曰ふ。今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」と命じた。 目を覚ました高倉下が庫を開くと、夢の通りに剣が置かれていた。 高倉下が神剣を天皇に献上したところ、天皇と兵士たちは忽ち回復した。

『大和志料』[LINK]には「古は布都御魂〈一に韴霊に作る〉天璽瑞宝天津羽々斬の三霊を祭る」とある。
主祭神の布都御魂については「布都御魂は一に佐士布都又建布都甕布都と称し太古建甕槌神中洲平定の際帯ふる所の霊剣にして所謂十握剣是なり、神武帝東征するに当り熊野の高倉下の手を経て献進せしか裁定の後ち天璽瑞宝と共に帝室の鎮護として宮中に奉斎せる」とある。
また、布留御魂については「天璽瑞宝は瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死返玉、足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品々物比礼なり、通して十種神宝と称す、これ物部氏の遠祖饒速日尊の天祖より賜はりたるのものに係り其用法は一二三の神語を唱ひこれを振ひ魂を鎮め寿を保たしむる」「之を朝廷に献して宮中に奉斎し天孫の為めに鎮魂法を修め宝算の長久を祈りしものにしてこれを振御霊と称す」とある。
石上神宮の創建については「此の布都御魂と布留御魂とは神武帝より崇神帝まて十代の間は宮中に安置し物部氏之を奉斎せしか帝の世に至り神威を涜さんことを恐れ物部の伊香色雄命に詔して別にこれを移し祭らしめ之を石上振神宮と称す」「是当社の創始にして即ち崇神帝即位七年[B.C.91]十二月に係れり、所謂高庭とは地を深く穿り石窟を作り二種の霊宝を奉蔵し其上に高く土を盛れるを以て名けたるものにして古はこれに杉を栽え以て神木となし剣を倒植するに象れり」と記す。
もう一座の布都斯魂については「是より先き素戔烏尊の彼八岐大蛇を斬してふ十握剣〈一名天津羽々斬又蛇之麁正又布都斯魂〉は備前国赤坂郡(石上布都魂神社[岡山県赤磐市石上])に奉斎せられしか、仁徳帝五十六年[368]十月に至り布都氏の祖市川臣に詔してこれを高庭の地に移し祭らしむ」とある。

『諸社根元記』(石上)[LINK]には「大和国山辺郡石上布瑠神、崇神天皇御宇鎮座、本地 十一面 文殊 不動」とある。

尾張国熱田社

参照: 「熱田大明神事」

宝剣

三種の神器の一つである草薙剣(形代)を指す。 現在は、八坂瓊曲玉と共に皇居内の「剣璽の間」に安置されている。

崇神朝に造られた「神璽の鏡・剣」の内、剣は寿永四年[1185]に壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水した際に失われた。
順徳天皇『禁秘抄』[LINK]によると、後鳥羽上皇の御時には二十余年にわたり清涼殿の御剣が用いられた。 承元四年[1210]に土御門天皇が譲位された際、夢想が有って伊勢から剣が献上され、その後はこれを神器として用いている。

『平家物語』剣巻[LINK]には「其比或人の夢に見けるは、草薙剣は、風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞嗚尊に害さられ、持つ所の剣を奪はる。この風水龍王は、伊吹大明神たるに依りて、不破関に蛇となりて、日本武尊の伊勢大神宮より天叢雲剣を賜はりて、東夷のために下国しけるを、留め取らんとし給ひけるも協はず、御上りの時待ち儲けて、奪ひ返さんとし給ひけるも、殺されけり。生不動、八歳の皇(安徳天皇)と顕れて、本の剣は叶はねども、後の宝剣を取り持ちて、西海の波の底にぞ沈み給ひける。終に龍宮に納りぬれば、見るべからずとぞ見えたりける」とある。

『源平盛衰記』第四十四巻の「老松若松尋剣事」[LINK]には「宝剣は必しも日本帝の宝に非ず、龍宮城の重宝也。我が次郎王子、我が不審を蒙り海中に安堵せず、出雲国簸川上に尾頭共に八ある大蛇と成り、人をのむ事年々なりしに、素盞烏尊、王者を憐み民を孚み、彼の大蛇を失はる。其の後此の剣を尊取り給て、天照太神に奉る。景行天皇御宇に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神より厳宮を御使にて、此の剣を賜ひて下し給し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇と成て此の剣をとらんとす。去れ共尊心猛おはせし上、勅命に依て下り給ふ間、我を恐れ思ふ事なく、飛び越へ通り給しかば力及ず、其後謀を廻しとらんとせしか共叶はずして、簸川上の大蛇安徳天皇となり、源平の乱を起し龍宮に返し取る」とある。

日天子

日天子はインド神話の太陽神スーリヤ(Sūrya)またはアーディティヤ(Āditya)を仏教に取り入れた尊格である。

中国・日本では日天子は観世音菩薩の化身と見なされた。
例えば、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』序品第一にある「復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り」の一文について、 智顗『妙法蓮華経文句』巻二下[LINK]は「名月は是れ宝吉祥にして、月天子、大勢至の応作なり。普香は是れ明星天子にして、虚空蔵の応作なり。宝光は是れ宝意にして、日天子、観世音の応作なり」と釈している。

中国撰述の偽経『須弥四域経』逸文〔道綽『安楽集』に引用〕には、阿弥陀如来が宝応声・宝吉祥の二菩薩を遣わし、伏犠(伏羲)・女媧となって日月星宿を造った事を説く。 また、『天地本起経』逸文〔慧沼『十一面神呪経義疏』に引用〕には「応声菩薩は日を作り、吉祥菩薩は月を作る也。応声菩薩は即ち観世音菩薩也。吉祥菩薩は即ち大勢菩薩也」とある。

亮禅『白宝口抄』巻十二(薬師法第一)には「須弥四域経云」として「帰命日天子 本地観世音 為度衆生故 普照四天下」と四句の偈を記す。
また、『天地霊覚秘書』には「花厳経云」として「帰命日天子 本地観世音 為度衆生故 普照四天下 一称一礼者 滅罪除苦悩 臨終住正念 往生安楽国」と八句の偈を記す。
伊勢神宮祠官の荒木田守晨が書写した『日天子作法』には、同作法中に太陽に向かって唱える偈句として上記の華厳経偈と類似のもの(第七・八句を「現受無比楽 速証無上道」とする)が見える。
(参考文献 伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第2部 変容する天照大神——同体説の諸相、第1章 天照大神・十一面観音同体説の形成、法蔵館、2011)

日向国高屋山

『日本書紀』巻第二(神代下・第十段)[LINK]には「彦火火出見尊、崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる」とある。

『延喜式』巻第二十一の諸陵寮の項には「高屋山上陵。彦火火出見尊。日向国に在り。陵戸無し」とある。

その所在は諸説有るが、明治七年に鹿児島県霧島市溝辺町麓の神割岡が高屋山上陵に治定された。
『薩隅日地理纂考』十六之巻の高屋山上陵の条[LINK]には「此山陵溝辺郷当村に在りて俗に神割岡と云ふ、高六十間許なり」「固より高千穂の西岳より真西に当りて直径二里に過されは、古事記に御陵者即在高千穂山之西也とあるに能く符合せり、又神割岡より南の方約七町許に鷹屋神社あり、上古彼の神割岡の頂に鎮坐ありしを御荒ひ甚しく土人其神威を懼畏み往古今の地に遷坐ありしよし伝称せり」とある。
一方、鹿児島県肝属郡肝付町の国見岳を高屋山上陵とする説も有力であった。
『三国名勝図会』巻之四十九(大隅国 肝属郡 内之浦)の高屋山上陵の条[LINK]には「高屋山上陵 小串村(鹿児島県肝属郡肝付町北方小串)、高屋山上にあり、峻嶒たる一峯の頂き、古壇一区、清浄を凝らし、老樹万年、翠華を含み、山巒環拱して、独り尊厳なり、是れ彦火火出見尊の御陵にして、陵上に自然の御蔭石を安厝す、地を出ること一尺余、周廻八尺許り、即ち尊を葬むり奉りしところにて、上へに小廟を建つ、此山一名国見嶽、因て俗に国見陵とも称し奉り、廟を国見権現と号す」とある。

この他、鹿児島神宮の元宮である石体宮にも彦火火出見尊の御陵とする説がある。

日向国吾平山

『日本書紀』巻第二(神代下・第十一段)[LINK]には「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、西洲の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平山上陵に葬りまつる」とある。

『延喜式』巻第二十一の諸陵寮の項には「吾平山上陵。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。日向国に在り。陵戸無し」とある。

その所在は諸説有るが、明治七年に鹿児島県鹿屋市吾平町上名の鵜戸窟が吾平山上陵に治定された。
『三国名勝図会』巻之四十八(大隅国 肝属郡 姶良)の吾平山陵の条[LINK]には「姶良町村の山窟にあり、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵にて、俗に此山を鵜戸山といひ、窟を鵜戸窟といふ」「窟に入こと九間余の所に、高さ四尺一寸、廻り三丈九尺許土を盛り、其根には、人力動すべからざるの盤石を以て、斜に掩ふ、是即ち玉体を葬奉し所にて、其の土半は自然と岩石に化し、(中略)其土岩の前に、石坂を壇とし、上に小社を建つ、中に古鏡数面が納む、此社古へは山上にあり」「又其土岩より東の方三尺許を距て、是亦土を盛り、其の根盤石を伏たる円き塚あり、(中略)是葺不合尊の后妃、玉依姫の御陵といふ伝ふ」とある。
山窟の北の傍、約三十六歩の所に鵜戸六所権現廟(鵜戸神社[鹿児島県鹿屋市吾平町麓])が祀られている。
この他、鵜戸神宮[宮崎県日南市鵜戸]の近くの速日峰が陵墓参考地に指定されている。
『鵜戸山之縁起』には「鵜戸山大権現は地神第五葺不合尊、母は海童之大女豊玉姫也。此尊は海童之宮にて御入胎有り。御誕生は此窟也。此窟に住給ふ事、八十三万六千四十二年也。御児神武天皇四十五之庚午年[正しくは甲寅年、B.C.667]四月三日に日本仁王之代を御渡有て葺不合尊は崩。日本紀神代之巻に曰、日向国吾平山葬峯陵と是此山の事也。庚申之年[B.C.661]也」とある。

地神五代

参照: 「地神五代事」

出雲大社

出雲大社[島根県出雲市大社町杵築東]
祭神は大国主大神で、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇摩志阿斯訶備比古遅神・天之常立神を御客座に配祀。
式内社(出雲国出雲郡 杵築大社〈名神大〉)。 出雲国一宮。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第二(神代下・第九段)の一書(二)[LINK]によると、葦原中国の平定のために武甕槌神と経津主神が遣わされた。 二神が出雲国の五十田狭小汀に降り、「汝、将に此の国を以て、天神に奉らんやいなや」と問うと、大己貴神は「疑ふ、汝二神は、是れ吾が処に来せるに非ざるか。故、許さず」と答えた。 経津主神が高天原に戻って報告すると、高皇産霊尊は二神を再び遣わして「夫れ汝が治す顕露の事は、是れ吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は即ち高く太く、板は即ち広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋浮橋及び天鳥船、亦造りまつらむ。 又天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主むは、天穂日命、是なり」と大己貴神に勅した。 大己貴神は「敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」と国譲りに応じ、身に瑞之八坂瓊を付けてお隠れになった。

『古事記』上巻[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、大国主神に「天照大御神・高木神命以ちて、問ひに使はせり。汝が領ける葦原中国は、我が御子の知らす国ぞと言依さし賜ひき。故れ汝が心は奈何に」と問うた。 大国主神は「僕は得白さじ。我が子、八重言代主神、是れ白すべし」と答えた。 天鳥船神を遣わすと、八重事代主神は「此の国は、天津神の御子に奉り給へ」と云い、天の逆手を青柴垣に打ってお隠れになった。
「今汝が子、事代主神かく白しぬ。また白すべき子ありや」と問うと、大国主神に「また我が子、建御名方神あり。これを除ては無し」と申した。 建御名方神は建御雷神に力競べを挑んだが、敗れて科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に逃れた。 建御雷神が殺そうとした時、建御名方神は「此の処をおきては、あだし処に行かじ」と誓い、「この葦原中国は、天津神の御子の命のまにまに奉らむ」と申し上げた。
大国主神は「この葦原中国は、命のまにまに既に献りぬ。ただ僕が住所は、天津神の御子の天津日継知らしめさむ、とだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱太しり、高天原に氷木高しりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隱りて侍らひはむ」と申してお隠れになり、出雲国の多芸志の浜に天之御舎が造られた。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]には「御鼻を洗たまひし時、所成せる神を建速素戔烏尊と名く。出雲国の熊野・杵築の神宮に坐す」とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には「素盞烏尊は、御意荒しとて出雲国に流され、後には大社となり給へり」「素盞烏尊は分領なしとて、御兄達と度々合戦に及ぶ。これに依て不孝せられて雲州へぞ流されけり」とある。

中世の杵築大社は素戔嗚尊を祭神としていた。 例えば、建武三年[1336]の国造出雲孝時解状土代写には「謹みて旧記を検ずるに、当社(杵築大社)大明神は伊弉諾・伊弉冉の御子、天照大御神の弟、天下社禝の神素戔烏尊これなり。十束の利剣を振るいて、八咫の毒蛇を割き、八目の鏑箭をもって呉国の凶徒を射、国域の太平を致す。而してなお戎敵を防がんため、神殿を高大に建て、或は四海を守り、不慮を警す。故に、これを矢蔵明神と号す。或は浮山を留めて垂れ潜む。故に、これを杵築大社と号す」とある。
また、大社と密接な関係を有した浮浪山鰐淵寺[島根県出雲市別所町]の縁起を記す鰐淵寺僧某書状断簡には「当寺(鰐淵寺)は最初西天鷲嶺の艮の隅、欠けて浮浪し流れ来るを、素戔嗚尊繋ぎ留め玉う。故に浮浪山といふ。麓には霊祇利生の大社を建て、諸神降臨の勝地を定め、峯には権現和光の社壇を構へ、仏天影向の結界を示す。(これ)夜半毎に大明神飛瀧の社地に歩を運び、仏法を護り国家を持し盟誓を成し玉ふ所以なり。ここをもって、杵築と鰐淵二にして二ならず、並びに仏道・神道も相離るる事なし」とある。
(参考文献 『大社町史 通史編』上巻、第3編 歴史、第3章 中世、第3節 簸川平野の開発と大社祭神の転換、第3項 大社祭神の転換と中世「出雲神話」の成立、1991)

鎮西豊後国の本満宮

不詳。

西宮・恵美酒

西宮神社[兵庫県西宮市社家町]
第一殿の祭神は蛭児大神。
第二殿の祭神は天照大神で、大国主大神を配祀。
第三殿の祭神は須佐之男大神。
旧・県社。
文献上の初出は『伊呂波字類抄』(諸社 広田)における「夷〈毘沙門〉、三郎殿〈不動明王〉」。
元は広田神社の浜南宮の社地に祀られた摂社であったが、明治五年[1872]に同社から分離した。

『平家物語』剣巻[LINK]には「蛭子は三年まで足立たぬ尊にて御座ければ、天石櫲樟舟に乗せ奉り、大海が原に推し出して、流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給ひて、西宮におはします」とある。

『大倭神社註進状並率川神社記』裏書[LINK]によると、椎根津彦命は難波に遊行し、魚釣りを楽しみにしていた。 ある夜、海原を望むと、天の光華が海原を照らしていた。 椎根津彦命が怪しんで其処に行くと、磐橡樟船が有ったので、これを引き上げて浜に置いた。 翌日の夜、光華が其の浜を照らした。 椎根津彦命は武庫浜に宮代を建て、磐橡樟船を蔵めて蛭児神の神躰として奉斎した。 広田西宮の三良殿(三郎殿)がこれである。

神吽『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)には「大帯姫異国を降伏せんがため、四王寺の峯に於て、諸天善神を驚し奉る時、地神第五主の彦波瀲尊の霊、夜来りて言く、「汝我が婦と為らば、祈る所を成すべきなり」と。大帯姫言く、「我懐妊れり。平産の後を期べし」と。仍ち同心せしめ、異国に渡り、三韓を伐ち、本朝に帰り、筑前国蚊田郡に於て、皇子(八幡)を生み、貴約に任せ、夫婦と成りたまふ。九月和多御崎(和田岬)に於て、此の御子を海浜の砂の中に隠し、七日の後、行きて見給ふ。体の色鮮にして、容顔美しきなり。手に入れて養ふ。日を逐つて神しきなり。摂津国西宮の浜の御前是れなり。広田の社は、御母大帯姫なり。殊に此の御子を愛したまふ故に、西宮に近く、迹を垂れしめ坐す」とある。

三浦浄心『慶長見聞集』巻三の「上総浦にて黒船損する事」[LINK]には「忝くも夷三郎と申は、伊弉諾の御子、惣して一女三男と申て、四人の子をはします、日神・月神・素盞嗚・蛭子是なり。天照大神よりも三番めにわたらせ給ふ御弟なり。御名をば三郎殿と申奉る。又西の宮と申き、本地阿弥陀如来にまします」(引用文は一部を漢字に改めた)とあり、江戸時代には境内に本地阿弥陀堂が在った。

『摂津名所図会』巻之七[LINK]に「大国主西神社 西宮市庭町にあり。西宮太神宮と称す。〔延喜式〕に曰く、鍬靫、菟原郡に載す」とあるように、西宮神社を式内の大国主西神社に比定する説が有り、明治六年[1873]に西宮戎社から大国主西神社に改称した事も有った。 現在は本地阿弥陀堂の跡地に鎮座する境内社を大国主西神社としている。

西宮市武庫郡神職会『神社と史蹟』[LINK]には以下の社伝を記す。
 蛭児大神の此地鎮座の事は元来詳かならざれども、口碑伝ふる所に依れば、昔鳴尾の浦の漁夫武庫海の沖にて夜漁せる時、其の網の常よりも甚重かりければ悦びて引上げしに魚はなくて奇しき神像様のもの懸れり。
 漁夫何の心もなく呟きつゝそを海に投げやり尚も漁を続けゝるに和田岬に至りぬ。 其沖合にて又網を引きしに先に武庫海にて捨てたる神像又もや上り来りぬ。 此に於てこは唯事にならじと俄に尊崇の念を起し、船に納め家に帰りて斎き祀れり。
 或夜の夢に神誨あり。吾は是蛭児神なり。国々を廻りて今此処に来れり、是より西の方に好き宮地あり、彼の所に居らんと欲す。汝よく図らば幸を与へむと。 漁夫驚いて夢の様を村人に告げ相計りて神像を輿に乗せ、西の方指して幸せしに御前浜(西宮海岸)に来れる頃神像自ら止まりければ、仮に停め置き此里の人々にも計り、遂に宮代を建てゝ鎮め奉れり。 此即ち今の宮居なりと言ひ伝へたり。

第六天魔王

「第六天魔王之を見て~浄土の菩提を願ふべきなり」は、無住『沙石集』巻第一の第一話「大神宮の御事」[LINK]とほぼ同様の内容である。

第六天魔王は六欲天の最高位である他化自在天を住処とし、仏道修行を妨げる天魔の王で、名を波旬(Pāpīyas)と云う。 仏伝によると、修行中の釈尊は魔王を降して悟りを開いた(降魔成道)と伝えられる。
日本では大自在天=摩醯首羅天(Maheśvara)あるいは伊舍那天(Īśāna)と同一視される事もある。 例えば、安然『悉曇蔵』巻第一[LINK]には「入大乗論に云ふ、摩醯首羅天に二種有り。一は毘遮舎摩醯首羅、是れ第四禅の王。二は伊舍那摩醯首羅、是れ第六天王なり」、同巻の別の箇所[LINK]には「摩醯首羅に亦三種有り。一は四禅の主を毘遮舎と名く。此れ乃ち金剛頂経に、仏初て成道して、不動尊をして三千界の主大我慢を降伏せしむるは是れ也。二は初禅の主を商羯羅と名く。此れ乃ち大日経の中に、商羯羅天は一世界に大自在有り、三千界の主に非ずと云ふは是れ也。三は六天の主を伊舍那と名く。此れ乃ち寿命経の中に、仏須弥に下て、降三世をして強剛難化の天王・大后を降伏せしむるは是れ也」とある。

『中臣祓訓解』には「法界法身心王大日、無縁悪業の衆生を度せんが為に、普門方便の智恵を以て、蓮花三昧の道場に入り、大清浄願を発し、愛愍の慈悲を垂れ、権化の姿を現じ、跡を閻浮提に垂れ、府璽を魔王に請ひ」とある。 ここで、「権化の姿」は天照大神と考えられる。

『通海参詣記』巻下[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊がこの国を建立しようと第六天魔王に請い受けた時、魔王は「南閻浮提の内、此所に仏法流布すへき地也。我仏法の仇なるに依て、是を許すべからず」と云った。 伊弉諾尊は「然れば仏法を忌むべき也」と誓って請い受けたので、神宮では仏法を忌むと申し伝えている。

『平家物語』剣巻[LINK]によると、国常立尊が「此下に国なからんや」と天瓊矛を降して大海の底を捜し、その矛を引き上げると滴りが凝り固まって島となった。 大海の浪の上に「大日」という文字があり、その上に滴りが落ちて島となったので大日本国と名付けた。 天照大神は伊弉諾・伊弉冉尊から国を譲られたが、第六天魔王は「この国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」と許さなかった。 三十一万五千年を経た後、天照大神が魔王に「日本国を譲りの任に免し給はば、仏法をも弘めず僧・法をも近付けじ」と誓ったので、魔王はこれを許して手験としておしてを奉った。 これが今の神璽である。

『太平記』巻第十六の「日本朝敵の事」[LINK]によると、天照大神が伊勢に鎮座しようとした時、第六天魔王は「此の国の仏法弘まらば、魔障弱くして其力を失うべし」と妨げようとした。 天照大神が「我三宝に近付じ」と誓うと、魔王は怒りを休めて五体から血を流し「尽未来に至るまで、天照大神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。もし王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と堅く誓約を書いて天照大神に奉った。 今の神璽の異説である。

前田家本『水鏡』巻上の神武天皇条[LINK]には、三剣(草薙剣、天蝿斫剣、韴霊)の由来を「此の三の剣は源を尋ば、天照太神の父の御神、伊弉諾の尊、此日本国の始て国と成給し時、彼第六天の魔王我管領と思、大海を神国と成されたる事を安からず思て、彼后の伊弉冉の尊の一女三男の四神の御子のうつり、第五の御子其名字火神カグツチ、みかどと孕まれ、さて生し時、其母并其類火の焼失に、此の開白の日本国を悉皆焼払て本の大海に成したりき。是を後に彼父の御神伊弉諾さとり座して怒りを成して十握の剣を抜持、雲の上忉利天の高天の原、天の八十河の浮橋の上にて、此第五の皇子第六天の魔王の変作を、父の王直に斬り給し時、御怒りの御力を強く出し給し故に、彼の十握の御剣より三の剣分散じき。此三の剣伝りて今代まで日本に有れば、神代より伝りたる剣三有りとは申也」(引用文は一部を漢字に改めた、以下同)と記す。

同書の神功皇后条[LINK]には、神璽の由来を「古へ日本国を第六天魔王と天照太神と争論し給し時、海の上の舟軍の与力には、根本として春日大明神こそ御身づから(自ら)甲冑をめされ、天の布留の剣を抜持ち給、魔王の軍兵を多く亡し給時、魔王遂に随ひ奉て、日本国の去状名判を居て奉き。其を今に至まで、日本の宝の三種の神祇(神器)の第一の神璽と申御宝是れ也」と記す。

三宝の名

『延喜式』巻第五(神祇五)[LINK]には「凡そ忌詞は、内の七言は、仏をば中子と称ひ、経をば染紙と称ひ、塔をば阿良良岐アララキと称ひ、寺をば瓦葺と称ひ、僧をば髪長と称ひ、尼をば女髪長と称ひ、斎をば片膳カタジキと称ひ」「又別の忌詞に、堂をば香燃コリタキと称ひ、優婆塞をば角筈と称へよ」とある。

仏の忌詞は「中子」とするのが通説だが、『伊勢公卿勅使部類記』の「弘長元年[1261]十二月九日公卿勅使記」には「仏は立強タチスクミと云、経は染紙と云、寺は古利瀧コリタキと云〈又瓦葺と云〉、塔は阿良々畿と云、僧は髪長と云」とある。 また、『天照大神儀軌』には「誓文に云、仏をは立強タチコハルと名け、法は染紙と名け、僧は髪長と名け、塔をは維瀧コリタキと名く」とある。
(参考文献 伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第5部 天照大神信仰と僧徒——その言説形成を担った人々、第3章 無住と中世神道説——『沙石集』第一巻第一話「大神宮御事」をめぐって)

天岩戸

参照: 「御神楽事」

天津罪

『延喜式』巻第八(神祇八)の六月・十二月晦の大祓詞[LINK]には「天の益人等が、過犯しけむ雑雑の罪事は、天津罪と、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸、幾許の罪を、天津罪と法別けて」とある。

素戔嗚尊が犯した天津罪について、『日本書紀』巻第一(神代上・第七段)[LINK]には「天照大神、天狭田・長田を以て御田としたまふ。時に素戔嗚尊、春は則ち重播種子シキマキ(頻蒔)し、且畔毀アナハチ(畔放)す。秋は天斑駒を放ちて、田の中に伏す。復天照大神の新嘗しめす時を見て、則ち陰に新宮に放𡱁クソマる(屎戸)。又天照大神の、方に神衣を織りつつ、斎服殿に居しますを見て、則ち天斑駒を剥ぎて(生剥)、殿の甍を穿ちて投げ納る」と記す。
同段の一書(一)[LINK]には「稚日女尊、斎服殿に坐しまして、神之御服織りたまふ。素戔嗚尊見して、則ち斑駒を逆剥ぎて、殿の内に投げ入る」とある。
同段の一書(二)[LINK]には「日神尊、天垣田を以て御田としたまふ。時に素戔嗚尊、春は渠填(溝埋)め畔毀(畔放)す。又、秋の穀已に成りぬるときに、則ち冒すに絡縄を以てす。且日神の織殿に居します時に、則ち斑駒を生剥にして、其の殿の内に納る」「日神の新嘗しめす時に及至びて、素戔嗚尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る(屎戸)」とある。
同段の一書(三)[LINK]には「素戔嗚尊、妬みて姉の田を害る。春は廃渠槽毀ヒハガチ(樋放)、及び埋溝(溝埋)毀畔(畔放)、又重播種子(頻蒔)す。秋は捶籤(串刺)し、伏馬す」とある。

大日如来の印文

大日如来の種子・真言・印相・独鈷など諸説有る。

『塵滴問答』[LINK]には「吾国は海底に大日の印文として始る国也。密教相応すへしと聞るは何様なる事そ哉」「此のवं(vaṃ)字の形にして水所生の体也。自性清浄にして染着なし。वं(vaṃ)字は金剛界大日の種子。五大の内には水大輪の主なり。万物の生長も水大の徳也。されはवं(vaṃ)字より始たる大地。अ(a)字の大地は胎蔵界の大日の種子。五大の内には地大輪は主真智なり。是故に相応と云ふ。仍国を開き名付て大日本国と云ふ」とある。

『古今集註』(序注第四)には「伊弉諾伊弉冉尊は天神七代の末の神也。いまの素盞烏尊の祖父也。しかるに、天にてわれに陰陽あり、天あり、あにこの底下に地なからんやとて滄溟を見給ひしに、胎金両部大日如来の印明うかべり。いはゆる智剣印(智拳印)・定印、唵婆佐羅駄都婆(唵嚩日囉駄覩鑁)・阿備羅吽剣(阿毘羅吽欠)、これ也。是を見給ひて、われに陰陽あり、滄溟に胎金両部をあらはす、天のみありて地なからやとて天坂鉾(天逆鉾)くだしさぐり給へりし」とある。
(参考文献 小川豊生『中世日本の神話・文字・身体』、第3部 秘教的世界と神話の建立、第3章 神話表象としての〈大海〉——中世叡山における大日印文説の生成)

『御流神道類聚集』上(竪印信)の「印文至極の大事」には「大日如来、我が朝の未熟の機根の前には、八万法蔵を掌中に入れて、大海の底に納む。三千年に一度、涌出あり。これを拝するなり。人間の眼には珎なり。その印相は合掌という。これによりて諸印の通用なり。ゆえに印字を金剛合掌と習うなり。印の姿は金剛体なり。これ納めるをもって印文という。これによって下総国の内・印西・印東・印庄という。この処に始めて、この印、出生す。三千年に一度、出るなり」とあり、「バン字の形なり。日本紀などに自凝おのころ島を指すは後の縁起なり。実は今の習いの如く、下総国の印盤浦(印旛沼)をさす。今は郡名とす。則ち蓮花三昧院の壇所なり」と注す。
また、『御流八十通』の「海底印信(日本国図)」には無所不至印を示し、
無所不至印
「これは下総国印盤浦に、三千年に一度あて顕われ出ずるという印これなり」「今は深秘にして無所不至の印にしてバアンクと唱え、印の中に宝珠(三弁)を観ず。これは日本の形なり」と注す。
(参考文献 稲谷祐宣『真言神道集成』、青山社、1993)

光宗『渓嵐拾葉集』巻第四(神明等事秘秘極極)には「我国劫初に大海の最低に大日印文これ有り。三輪の金光是れ也。図形は独古也。種子はहूं(hūṃ)也。蘇悉地の義也。四劫の中の成劫は蘇生の義なる故也」とある。
同書・巻第六(山王御事)には「問、我国の大海の最低に大日の印文有る事如何」「答、国常立尊の天逆鉾を降て此の下に国無しと云ひ、捜し給ふ時、海底に三輪の金光有りと云云。是れ其の印文有りと云へり云云。此は山王三聖の表示なりと云云。又三部三密の表示なりと云云。口伝更に問ふべし。又伝に云ふ。大日の印文は独古と也云云。我国は独古の形なる故也」とある。
また、同書・巻十七(第四金輪法事)にも「尋云、我国劫初に大海最低に大日の印文有云云、其相如何」「所謂其印とは三輪の金光也。国常立尊天宮に御座して天鉾を下して此の下に国アカラメヤと云て大海最低を探り給し時、金の三輪即山王也。故に山王金輪一体と習也。此三輪は即ち密教の三部也」とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には「昔此の国未発の前、海中に法身印文有り。中心は独鈷輪なり〈国常立尊は、此の杵の顕迹なり〉。東は円鏡、南は宝珠、西は蓮花、北は羯磨杵なり」「海底大日印文五箇口伝。中心は伊勢大神宮、内は胎蔵大日、外は金剛界大日〈已上中台〉。南方は高野丹生大明神〈宝珠〉。西方は熊野〈蓮花〉。北方は羽黒〈羯磨〉。東方は走湯権現〈円鏡〉。日本は是れ大日如来の密厳花蔵の浄刹なり。四仏は四方に安んじ、天照大神は中心に処す。此の海底印文は、皆大龍の背に在すなり」とある。

内宮

皇大神宮[三重県伊勢市宇治館町]
祭神は天照坐皇大神で、天手力男神を相殿の東座、万幡豊秋津姫命を西座に配祀。 一説に、天児屋根命を東座、太玉命を西座とする。
式内社(伊勢国度会郡 太神宮三座〈相殿坐神二座 並大 預月次新甞等〉)。 二十二社(上七社)

内宮の御神体である八咫鏡は、天石窟から天照大神を誘い出す為に造られた品と伝わる。
『日本書紀』巻第一(神代上・第七段)の一書(二)[LINK]には「鏡作部の遠祖天糠戸者をして、鏡を造らしむ」「日神、方に磐戸を開けて出でます。是の時に、鏡を以て石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存。此れ即ち伊勢に崇秘る大神なり」とある。
同段の一書(三)[LINK]には「上枝には、鏡作の遠祖天抜戸が児石凝戸辺が作れる八咫鏡を懸け」とある。
『古語拾遺』[LINK]には「石凝姥神〈天糠戸命の子、作鏡遠祖也〉をして、天香山の銅を取りて、以て日像之鏡を鋳さしむ」「初の度に、鋳る所はいささか意に合わず〈是れ紀伊国の日前神也〉、次の度、鋳る所は其の状美麗〈是れ伊勢の大神也〉」とある。

『日本書紀』巻第五[LINK]は内宮の創建を以下のように伝える。
天照大神・倭大国魂神の二神は天皇の大殿の内に祭られてきたが、崇神天皇六年[B.C.92]に天照大神を豊鍬入姫命に託けて倭笠縫邑に祭り、磯城の神籬を立てた。
また、同書・巻第六[LINK]によると、垂仁天皇二十五年[B.C.5]三月に天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命に託けた。 倭姫命は鎮座の処を求めて、菟田の筱幡(奈良県宇陀市)、近江国、美濃国を巡り、伊勢国に到った。 ここで、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜し国なり。この国に居らむと欲ふ」と天照大神の託宣が有り、五十鈴川上に斎き宮を建立して磯宮と称した。 則ち、天照大神が始めて天より降られた処である。

『倭姫命世記』[LINK]には「天照皇太神一座〈大日孁貴。此れをば於保比屡咩能武智オホヒルメノムチと云ふ〉。御形は八咫鏡に坐します〈八咫と謂ふは八頭也〉。相殿神二座〈左、天児屋命、形は弓に座します。右、太玉命、剣に座します〉。一書に曰く、天手力雄神、万幡豊秋津姫命」とある。
崇神天皇六年九月[LINK]倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照太神と草薙剣を遷し、皇女豊鋤入姫命が奉斎した。
同三十九年[LINK]に但波(丹波)の吉佐宮に遷座。 この年、豊宇介神(豊受神)が天下り、御饗を奉った。
同四十三年に倭国の伊豆加志本宮、同五十一年に木乃国(紀伊国)の奈久佐浜宮、同五十四年に吉備国の名方浜宮に遷座。
同五十八年に倭の弥和(三輪)の御室嶺上宮に遷座。 この時、豊鍬入姫命は姪の倭姫命を御杖代に定めた。
同六十年に大和国の宇多秋宮、次に佐佐波多宮、同六十四年に伊賀国の隠市守宮、同六十六年に同国の穴穂宮に遷座。
垂仁天皇二年[B.C.28]に伊賀国の敢都美恵宮、同四年に淡海国(近江国)の甲可日雲宮、同八年に同国の坂田宮、同十年に美濃国の伊久良河宮、次に尾張国の中島宮に遷座。
同十四年[LINK]に伊勢国の桑名野代宮に遷座。 国造の大若子命が参上し、共に天照太神に仕えた。
次に鈴鹿国の奈其波志忍山宮、同十八年に阿佐加の藤方片樋宮、同二十二年に飯野高宮、そこから船に乗って佐々牟江宮に遷座。
同二十五年三月[LINK]伊蘇宮に遷座。 倭姫命は宮処を求めて大若子命を南の山の方に遣し、自らは天照太神を奉斎して小船に乗り、各地を幸行した。
船は美き地(瀧原の国)に到り、其処に瀧原宮を造って遷座した。 しかし倭姫命は「此の地は皇太神の欲給ふ地にはあらず」と悟り、さらに各地を幸行した。
大若子命が倭姫命を迎えに参上し、「宇遅の五十鈴の河上に、吉き御宮処在り」と報告した。 そこから二見国に幸行した後、矢田宮家田田上宮奈尾之根宮に遷座。
ここで、猿田彦神の裔宇治土公の祖大田命が参上した。 倭姫命は大田命に吉き宮処を尋ね、宇遅の五十鈴河上に往ってご覧になった。
二十六年[B.C.4]十月[LINK]、天照太神を五十鈴河上に遷し奉り、社地・社殿を整え神宝・大幣を備えた。 その時、皇太神が倭姫命の夢に現れ「我れ高天原に坐して、甕戸に押し張り、むかし如見みそなはりみあらはしまきし国の宮処は、是の処にある也。鎮り定り給え」と告げた。 朝廷に倭姫命の夢の状を奏上すると、天皇は大鹿嶋命を祭官に、大若子命を神の国造兼大神主に定め賜った。 また、五十鈴河上の大宮の側に斎宮を立て、倭姫命はそこに住まわれた。

吉田兼倶『二十二社註式』[LINK]には「天照大神一座〈謚して皇親神漏伎と号す。日本書紀に云、伊勢国磯宮大神、此の御名也〉。相殿神二座〈左天手力雄神、右万幡豊秋津姫。或は云、左天児屋根命、右太玉命〉。皇太神宮、此以前に筑紫日向国に天降り座す。人皇第一神武天皇以後、九代は宮中に坐す。第十代崇神天皇、大和国宇多郡に幸遷す。第十一代垂仁天皇廿五年〈丙辰〉、伊勢に鎮坐す。是を磯宮と謂ふ。同天皇廿六年〈丁巳〉十月〈甲巳〉、度会宮に遷す」とある。

『麗気記』巻第三(天照太神宮鎮座次第)[LINK]によると、内宮は大悲胎蔵界である。 胎蔵曼荼羅の四百十尊は内宮の御形文に表れている。 また、「天王如来(大梵天王である毘盧舎那如来)、衆生を度せんが為に上去下来し、飛空天より下は大八州に至る。大日本伊勢度会郡宇治郷の五十鈴の河上に御鎮座したまふ」「密号は遍照金剛。神体は八咫鏡に坐ます也。火珠所成の珠、本有法身の妙理也。亦辺津鏡と名く。亦真経津鏡と名く。亦白銅鏡と名く」とある。
相殿の二神について「相殿に座す神 左は天手力男命〈亦靡開神と名く。宝号は辰多摩尼尊。金剛号は持法(持宝)金剛〉神体は八葉霊鏡。下に八葉形二重。神宝は弓にて座す。太刀にて座す。右は栲幡豊秋津姫命〈亦慈悲心王と名く。是群品母儀破賀尊にて座す也。神体前に並ぶ也〉」と記す。

同書・巻第四(豊受太神鎮座次第)[LINK]には鎮座次第を「天照皇大神、皇御孫の杵独王、三十二柱を従神として、筑紫日向高千穂の槵觸之峯に天降りましまし、三代に以逮るまで、歴年治合すこと一百七十九万二千四百七十余歳なり。神武天皇より開化天皇に至るまで九代、歴年六百三十余歳なり。帝と神と其の際未だ遠からず。同じ殿に座す。崇神天皇六年〈己丑〉歳、漸く神威を畏て同殿安からずして、倭の笠縫邑に就いて、殊に神籬を立てて之を祭る。垂仁天皇即位二十五年〈丙辰〉、天照大神の正体を、倭姫命をして之を戴き奉り、伊勢国の宇治の五十鈴河の際、伊蘇宮に坐す。明年〈丁巳〉冬十月甲子、天照大神を度遇の五十鈴川の上に奉遷する也」と記す。

外宮

豊受大神宮[三重県伊勢市豊川町]
祭神は豊受大神で、相殿に御伴神三座を配祀。 一説に、御伴神三座の内、瓊瓊杵尊を東座、天児屋根命・太玉命を西座とする。
式内社(伊勢国度会郡 度会宮四座〈相殿坐神三座 並大 月次新嘗〉)

『古事記』上巻[LINK]には、天孫降臨に供奉した神々の中に「次に登由宇気神、此は外宮の度相に坐す神なり」とある。

『止由気宮儀式帳』[LINK]によると、雄略天皇の夢に天照坐皇太神が現れ、「吾れ高天原に坐して見しまぎ賜ひし処にしづまり坐しぬ。然れども吾一所にのみ坐すは甚苦し。しかのみならず大御饌も安く聞こし食さず坐すが故に、丹波国比治の真奈井に坐す我が御饌都神、等由気太神を我が許に欲す」と告げた。 天皇は驚悟されて、すぐに丹波国から等由気太神に行幸いただいて、度会の山田原に社殿を建立した。 こうして御饌殿を造り奉って、天照坐皇太神の朝夕の大御饌の儀を始めた。

『倭姫命世記』[LINK]には「豊受太神一座〈元より丹波国与謝郡比冶山の頂、麻奈井原に坐します。御饌都神、又倉稲魂と名くるは是れ也。大自在天の子。御霊の形は真経津鏡に座します。円鏡也。神代の三面の内也。天御中主霊。御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)即位三十九年[B.C.59]七月七日に天降ります〉。相殿神三座〈大の一座は、天津彦彦火瓊々杵尊。形は鏡に坐します。前の二座は、天児屋命と太玉命。形は笏に座します。宝玉に座します。大は左の方に座します。前の二座の右の方に座します〉」とある。
豊鍬入姫命遷幸の崇神天皇三十九年条[LINK]には「但波の吉佐の宮に遷幸なりまして、四年を積て斎き奉る。此より更に倭の国を求め給ふ。この歳、豊宇介神天降りまして、御饗を奉る」とある。
雄略天皇二十一年[477]十月[LINK]、倭姫命に「皇太神吾一所にのみ坐さば、御饌も安く聞こし食さず。丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す、道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神、止由居太神を我が坐す国へと欲ふ」と夢告が有った。 大若子命が使者となって朝廷に奏上し、天皇の勅により宝殿を建立した。 翌年七月七日、丹波国与佐郡真名井原より度会の山田原に止由気皇太神を迎え奉った。

『二十二社註式』[LINK]には「豊受太神宮一座。相殿神三座〈左大一座、天津彦々火瓊々杵尊。右前二座、天児屋根命、右太玉命〉。人皇二十二代雄略天皇廿一年〈丁巳〉、天照大神の御託宣に偁く。我が御食津神を丹波国与佐郡真名井原より迎へ奉れ。彼の神は我が朝御食・夕御食を調へ備ふべし。又、我を祭り供を奉る時、先づ豊受神を祭り奉るべき也云々。同廿二年〈戊午〉秋七月、与佐郡真名井原より、伊勢国度会郡山田原に遷坐す。内宮鎮座の後十代を経て四百八十四年に及ぶ鎮坐也」とある。

『麗気記』巻第四(豊受太神鎮座次第)[LINK]によると、外宮は金剛界である。 金剛界曼荼羅の九会に分かつと、正殿は成身会に鎮座する。 また、「五大月輪の五智円満の宝鏡、実相真如の五輪の中台、常住三世浄妙法身の大毘盧遮那仏なり。亦は法性自覚尊と名く。亦は熾盛大日輪と名くる也。金剛号は遍照金剛。神号は天御中主尊。神体は飛行自在天。説法談義の精気也。水珠所成の玉、常住法身の妙理也。御正体は輪の中に五輪有り。中の輪の長さは六寸、余の四輪は長さ四寸也。是御正体と名く。輪は二尺四寸、径八寸也」とある。
相殿の四神について「相殿に座す神 右は皇孫尊・天上玉杵命の二柱一座。宝号は観自在王如来。金剛号は蓮華金剛。神号は天津彦彦火瓊瓊杵尊。亦は独一尊王と名く。亦は杵独王と名く。亦は示法神と名く。亦は愛護神と名くなり。亦左は天神上玉杵命。宝号は阿逸多王如来。金剛号は奮迅金剛。神体は八葉形の霊鏡、無縁円輪の御霊鏡也。右は天児屋命・太玉命。天児屋命の宝号は曼珠師利菩薩。金剛号は利剣金剛。亦は閻曼金剛。神号は天児屋命。亦は天八重雲剣神と名く。亦は左右上下神と名く。亦は頭振女神と名く。亦は百大龍王命と名く也。神体は切金方笏の御霊鏡。太玉命の宝号は普賢菩薩。金剛号は円満金剛。神号は太玉命。亦は大日女荒神と名く。亦は月絃神と名く。亦は月読命と名く。神体は二輪の御霊鏡なり」と記す。

同巻には鎮座次第を「豊受皇太神は人寿四万歳の時、淡路国三上嶽(兵庫県洲本市上内膳の先山)に御降臨坐す。次に布倉に遷坐す。次に八輪嶋に遷坐す。次に御間城入彦五十瓊殖天皇の御宇に、丹波乃国与謝郡比治山の頂に麻井原にて、天照大神と一所に座し給ふ。其の後、竹野郡奈具宮(奈具神社[京都府京丹後市弥栄町船木])に坐す。時に奈具神、朝御気を奉り、御贄と為す」「山田原造営の間、沼木の高河原離宮木丸殿に御座す」と記す。
また、同書・巻第六(降臨次第麗気記)[LINK]には鎮座の年数を「豊受皇太神 時に大日本国淡路三上嶽に天降りましまして、三十二の大眷属を率て、庚申の年より春秋を送ること五十五万五千五百五十五年」「布倉宮に遷して丙申より年月を送ること五十六万六千六百六十六年。八輪嶋宮に戊申に遷して年を積むこと五十七万七千七百七十七年。八国嶽に庚申の歳に遷して五十八万八千八百八十八年。丹波国与謝之郡比治山の頂麻井原に壬申の歳に遷して五十九万九千九百九十九年。与謝宮に庚申の歳に遷して六十一万千百十一年」と記す。

同書・巻第二(二所太神宮麗気記)[LINK]には外宮の創建を「二十二大泊瀬幼武〈雄略〉天皇二十一年〈丁巳〉十月朔、倭姫命教覚りたまひて、明年〈戊午〉秋七月七日、大佐々命を以て布理奉る。三十二番の供奉の神等・従神の若雷神、天八重雲の四方に薄靡て垣と為り蓋と作る。丹波の吉佐宮より倭国宇太乃宮に遷幸して一宿す。伊賀の穴穂宮に二宿す。渡相の沼木平尾に遷幸して行宮を興て七十四日。同九月十七日、山田原の新殿に遷幸して、鎮坐し奉りて以降、豊受皇太神祭始奉る」と記す。
垂迹本地
内宮胎蔵大日如来
外宮金剛界大日如来(または阿弥陀如来)

天岩戸・高天原・都率天

外宮の南に高倉山と呼ばれる山が有り、その最高峰(日鷲山)の山頂には「高倉山古墳」などの石窟が有る。 この石窟は天岩戸に擬せられていた。

『沙石集』巻第一の第二話「笠置の解脱上人太神宮参詣の事」[LINK]によると、笠置の貞慶上人は夢の中で外宮の南の山(高倉山)を越えて太神宮に参詣した。 その山上の光景は、高倉山が一種の浄土世界と考えられていたことを示している。

『高庫蔵等秘抄』の「石窟本縁記」には「神祇供秘文に曰く、天宮を開き、浮橋に於て下海を示し、日本に降る。伊勢の天照神是れ也。而して第二の山は高庫蔵、是れ五蔵中の大蔵也。故に万宝の種を納む」「記に云ふ、名けて高庫蔵は天小宮と曰ふ。亦天磐座と名くは是れ也」とある。
これと関連して、『中臣祓訓解』には「高天原〈色界の初禅、梵衆天也。三光天。南贍浮樹の下、高庫蔵是れ也。五蔵中の大蔵也。故に万宝の種を納む〉」という記述がある。 『訓解』の「高庫蔵」が高倉山を意味するか即断できないが、色界初禅天の高天原と、閻浮樹の下にある「高庫蔵」が、天地を隔てて対偶するものと把握されている。
『高庫蔵等秘抄』では「高庫蔵」は高倉山を意味しており、天宮(高天原)を開いて天照大神が地上(高倉山を擁する伊勢神宮の地)に降臨する事を述べている。 「天小宮」は「天宮」(天の高天原)に対する「小宮」(地の高天原)の意味であろう。 また、「天磐座」は高倉山の石窟を天岩戸と見た呼称と考えられる。

『沙石集』の「大神宮の御事」には「天岩戸といふは都率天也。高天原とも云なり」とある(『神道集』も同様)。 これは、高倉山=高天原=兜率天とする説を踏まえた物言いではないだろうか。
『渓嵐拾葉集』巻八十九(安養都率事)には「海大師入定所所示現事 一には高野奥院、二には高野仏生国、三には宀一山、四には高倉岩屋、立都率天〈已上口伝〉」とあり、地上の兜率天として、奥院・高野山・室生山と並んで、「高倉岩屋」が挙げられている。
また、『高庫蔵等秘抄』の「高倉岩屋秘儀」には「岡崎宮伝記に曰ふ、一大所化霊鏡〈内観世音、外弥勒尊〉」と外宮が弥勒に配当されており、外宮全体を兜率浄土とする理解も有ったらしい。
『沙石集』の説話は、以上のような兜率浄土としての高倉山の姿を語ったものと見なしうる。
(参考文献 伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第2部 変容する天照大神——同体説の諸相、第4章 外宮高倉山浄土考——伊勢神宮における弘法大師信仰)

囲垣・玉垣・水垣・荒垣

『天下皇太神本縁』には「大日本伊勢度会郡宇治郷の五十鈴の河上に御鎮座したまふは、秘密大乗法・法入法界宮・自性三昧耶・根本大毘盧遮那・神変加持・胎蔵界法性心殿・入仏三昧耶・法界生・妃生眼・転法輪所・八葉中台真実覚王・金剛不壊大道場・周遍法界心の所伝図十三院也」と記し、内宮曼荼羅が描かれる。 本殿としての中台八葉院を中心に、遍智院(仏母院)・五大院を荒垣、虚空蔵院・文殊院を玉垣、外金剛院を瑞垣に見立てている。
(参考文献 伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第1部 天照大神と大日如来の習合、第4章 曼荼羅としての伊勢神宮)

『神道集』には「四重曼荼羅を方取りて、囲垣・玉垣・水垣・荒垣とて重々なり」とあるが、現在の内宮では御正殿を囲んで内から外へ、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣と四重の御垣がめぐらされている。
これと対応させると、胎蔵曼荼羅の十三院は以下の様になるだろうか。
・正殿:中台八葉院
・瑞垣:遍知院・持明院(五大院)
・内玉垣:釈迦院・虚空蔵院・蓮華部院・金剛手院
・外玉垣:蘇悉地院・文殊院・地蔵院・除蓋障院
・板垣:外金剛院

勝雄木

「鰹木」「堅魚木」などとも書き、屋上に棟と直角になるように平行に並べられた円筒形の木を指す。
『神道集』には「勝雄木も九つ有り、胎蔵の九尊を方取る」とあるが、内宮の鰹木は十本、外宮の鰹木は九本である。

中世の神宮では、鰹木は星宿の象徴と解釈された。
『造伊勢二所太神宮宝基本記』[LINK]には「堅魚木は、衆星の形也。天下を奄ひ守りて、列星に比す」とある。
『神風伊勢宝基珍図天口事書』には「堅魚木は星象に坐す。其の数十九は、大日孁尊、十方を照す誓ひ也。九は、五大成身尊の光、九洲の群生を済す光明を表す也」とある。

『大宗秘府』逸文〔『高庫蔵等秘抄』などに引用〕には「心御柱咒字明々あかあかなり。上には則ち金星、慧星、輪星、鬼星、水星、風星、南斗北斗五鎮大星、一切国主星、三公星、百官星、是くの如き諸星各々応護し坐す。変成形勝奥義あらはれたるかたちをかつおぎ是れ也」とあるように心御柱の上には金星以下多くの星々が守護しており、その変成の形が「勝奥義」であると説かれた。
(参考文献 山本ひろ子「心の御柱と中世的世界(12) 度会氏の北辰信仰——『高庫蔵等秘抄』をめぐって(下)」、春秋、315号、pp.45-51、1990年1月)

月輪

中世の神宮では、天照大神・豊受大神は日天子・月天子と同体視された。
例えば、『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』[LINK]では興玉神の託宣を「天照坐皇太神は則ち大日孁貴。故に日天子と号す。亦止由気皇太神は則ち月天子也。故に金剛神と曰ふ。亦天御中主神と名く。水徳を以て万品を利す。故に亦名は御饌都神と曰ふ」と記す。

内宮・外宮の御正殿の妻の宇立の左右にわたした「丁」字形の板には文様が刻されており、これを「御形文」と称した。 この御形文は日天子・月天子を象徴する図形と解釈された。
『豊受皇太神宮御鎮座本紀』[LINK]には「宝宮棟梁天表あまつしるしの御形文 天照太神宮の御形、日天の尊位を象り坐す也。止由気太神宮の御形、月天の尊位を象り坐す也」とある。
『造伊勢二所太神宮宝基本記』[LINK]には「棟の文形の事。皇太神宮は日天の図形なり。六合の中に心体独存せり。天真に任すが故に、明白也。五行の中の火性にして、五色の中の白色なり。故に白銅を以て之を錺り奉る。豊受宮は月天の図形なり。八洲の中に平等円満するの心体の縁なり。五行の中の水性にして、五色の中の赤色なり。故に金銅を以て之を錺り奉る」とある。

外宮の御形文五月輪形を連続して布置したものである。 『神道集』には「金剛界の五智に方取りて、月輪も五つ有り」とあるが、この「月輪」とは五月輪形のことだろう。
『宝基御霊形文図』逸文〔度会家行『類聚神祇本源』巻八(形文編)に引用〕には「山田原宮の御霊形は、五位の円形に坐ます成。是れ則ち五常円満の智光の表理也」とある。
『伊勢大神宮瑞柏鎮守仙宮秘文』には「豊受皇大神は則ち金剛界の天曼荼羅、御形文図五行の中の水輪五智位、故に五月輪有る也」とある。
(参考文献 山本ひろ子「心の御柱と中世的世界(22) 神宮の象徴図像学(三) 御形文の秘密」、春秋、336号、pp.34-39、1992年2・3月)

八女・神楽男

八女(八乙女、八少女)は舞を奉仕する巫女、神楽男は神楽を奏する神人。

『神道雑々集』の「八人八人女五人神楽人事」は、その由来を以下のように説く。
「天祖、索盞烏(素盞烏)の尊を悪み天岩戸に閉籠給、此時国の中は常暗にして諸の談火弁を以。諸の神之暗き事を悲み、索盞烏の尊を出雲へ損い遣り奉て、随て思兼の命の謀、庭火を焚き、伊弉諾尊・磐裂命・磐筒男命・経津主命・武甕槌の命〈以上五人〉五色の幣帛を捧げ、五龍王に奉り、大地を乞うに平け釜を塗給歟。伊弉冊尊・遊小日活目命・鬼姫命・滝津姫命・市杵嶋姫命・磐筒女命・建御雷姫・栲幡千千姫命の〈以上八神〉此神達御湯を立て、千草を以て大地を洗い清め給は是縁也」
(参考文献 山本ひろ子『変成譜 —中世神仏習合の世界—』、第2章 擬死と再誕 大神楽「浄土入り」——奥三河の霜月神楽をめぐって、春秋社、1993)

悲花経

北涼の曇無讖訳『悲華経』を指すと思われるが、後述のようにこの語句は見られない。

『渓嵐拾葉集』巻十七(第四金輪法事)には、釈尊が滅度の衆生の為に三密をこの世に留め、その中の身密としては舎利を遺すということについて、「悲花経に云く」として「於我滅度後、分布舎利也、常隠諸相好、変身為此呪」「汝勿啼泣、我滅度後、現大明神、度衆生」とあり、釈尊の遺身である舎利は三身即一の金輪भ्रूं(bhrūṃ)であるとしている。 また、同書・巻四(神明等事)にも「現大明神、広度衆生」とある。 これらの語句には「大明神」の語が使われており、仏が神としてこの世に顕現しているという、いわゆる本地垂迹説を率直に述べた記が、既に仏典の中に明記されている事を示したもので、鎌倉末期以降の神道の典籍に広く見られる。 しかし、実はこの語句は『悲華経』の中には見出せない。
何れの経典からの変改であるかというと、二つの典拠が考えられる。 第一は承澄『阿娑縛抄』巻第五十八(熾盛光 本)[LINK]などに「末法経云」として「於我滅度之後、分布舎利已、常隠諸相好、変身為此呪」と記している。 この『末法経』とは唐の宝思惟訳『大陀羅尼末法中一字心呪経』であって、神道の典籍に見える『悲花経』の引文は、その変改であろうと考えられる。 変改の第二の典拠は秦代失訳『大乗悲分陀利経』巻五(大師立願品第十六・立願舎利神変品第十七)である。 この二つの典拠には共通して、釈尊が般涅槃して後、その舎利が分布され、その神変の功徳によって、末世の衆生が済度される事を説く。
(参考文献 三崎良周『台密の研究』、第2編 三部の密教とその形成、第7章 蘇悉地の源流と展開、第4節 神仏習合と一字金輪、創文社、1988)

毘吠論

不詳。 存覚『諸神本懐集』[LINK]では『優婆夷経』(不詳)の文言とする。
「優婆夷経には「一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福報更不来、後生必堕三悪道」といへり。この文のこころは、もろもろの神をひとたびも見、ひとたびも礼すれば、まさしく蛇身を受くること五百度、現世の福報はさらに来たらず、後生には必ず三悪道に堕つとなり」

実者・権者

本地垂迹思想が広まった中世において、全ての神々が仏菩薩の垂迹と見なされていたわけではなかった。
例えば、『諸神本懐集』[LINK]では「第一に権社の霊神を明かして、本地の利生を尊ぶべき事と教へ、第二に実社の邪神を明かして、承事の思ひを止むべき旨を勧め」と説く。 前者については「和光同塵は結縁の初め、八相成道は利物の終りなり。是れ即ち、権社と云ふは、往古の如来、深位の菩薩、衆生を利益せんが為に、権に神明の形を現じ給へるなり」、後者[LINK]については「生霊・死霊等の神なり。もしは人類にもあれ、もしは畜類にもあれ祟りを為し、悩ます事有れば、これを宥まんが為に神と崇める類有り」「たとひ人に祟りを為すこと無けれとも、我が親・祖父等の先祖をはみな神と祝いて其の墓を社と定むる事またこれ有り。この類はみな実社の神なり」(引用文は一部を漢字に改めた)として権実を峻別し、実社に対しては神祇不拝の態度を取った。

一方、『神道集』でも「神道に権実あり」とするが、「実者の神と云へども、神と顕はれたまへり。利益無きに非ず」「日本は本より神国なり。総じて敬礼すべし」として、実者神への信仰を容認している。

『古事談』巻五(神社仏寺)に記す賀茂神の本地感得譚[LINK]には「範兼卿は賀茂社に奉仕する人なり。参詣の度毎に心経を書き参らせけり。而して此の事によりて三熱苦を免れるるの由、示現の後、金泥にて書かれけり。(中略)本地は何にて御坐すぞと申す時、等身正観音の蓮花持たしめ給ひたるに変ぜしめ御して、即ち火炎に焼けしめ御して、くろぐろと成らしめ御す」とある。
「三熱の苦」とは龍蛇の苦であるから、賀茂神は蛇身と見なされており、藤原範兼の捧げた『般若心経』の法楽によって抜苦を得たことになる。 一方、神が観音を本地とすることが明かされているが、本地として現れた観音は三熱の炎に焼かれる神の姿を表しており、権社神的性格と実社神的性格とが同一神格の中に併存している。
(参考文献 伊藤聡『神道の形成と中世神話』、第2部 中世の本地垂迹思想、第1章 本地垂迹思想の展開、吉川弘文館、2016)

権現・大菩薩・大明神

本篇の議論では、基本的に権現・大菩薩を権者、大明神を実者としている(ただし、『神道集』の他篇では権者の大明神も多い)。
実者の大明神は三熱の苦を受けるので、その抜苦の為に誦呪・誦経の法楽を奉る。 一方、権者の権現・大菩薩に対しては本地供を修するが、実者の大明神と同様に法楽も受けられる事を説いている。

宇佐宮

参照: 「宇佐八幡宮事」

男山

石清水八幡宮[京都府八幡市八幡高坊]
祭神は応神天皇・比咩大神(多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐津比売命)・神功皇后。
国史現在社。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第五(貞観三年[861]五月十五日戊子条)[LINK]の「使者を京に近き名神七社に遣り、幣を奉りて雨を祈りき。告文に曰く、天皇が詔旨と掛けまくも畏き八幡大菩薩の広前に申し賜へと申さく」

『石清水八幡宮護国寺略記』[LINK]によると、行教は貞観元年[859]四月十五日に筑紫豊前国の宇佐宮に参宮し、一夏の間、昼は大乗経典を読誦、夜は真言を念持して、三所大菩薩に廻向し奉った。 九旬(九十日)の行を畢えて都に戻ろうとすると、七月十五日夜半に「吾深く汝が修善に咸応す。敢て思い忘るべからず。須らく近都に移坐し国家を鎮護せん。汝祈り請うべし」と大菩薩のお告げが有った。 行教は大いに歓喜し、同月二十日に都への帰路に就いた。
八月二十三日に山崎離宮(京都府乙訓郡大山崎町大山崎)に於て「吾近都に移坐するは、王城を鎮護せんが為なり」と神託があった。 行教は何処に宝躰を安置し奉るかを示現するよう祈った。 その夜に「移坐すべき処は石清水男山の峯なり。吾将に其処に現れん」と神託があった。 夜中に南方に向かって大菩薩を百余遍礼拝すると、山城国の巽の方の山頂に和光の垂瑞があった。 翌朝、行教はその山に参拝して三日間祈念し、御示現された処に草庵を結んだ。
この件を録して奏聞すると、朝廷は九月十九日に勅使を派遣して実検・点定をさせた。 次に木工寮に宣旨を下し、権允橘良基に六宇の宝殿(三宇の宝殿、三宇の礼殿)を造営させた。 完成後、三所の御躰を安置し奉った。

『都名所図会』巻五(前朱雀)[LINK]には「当山の御鎮座は貞観二年[860]六月十五日、和州大安寺の沙門行教和尚神殿を造営しけり。行教は筑紫宇佐八幡宮に一夏九旬の間参籠して、昼は大乗の経を読み、夜は真言を誦して法楽せしに、八幡宮御託宣あり。 われ王城の近きに遷坐して、鳳闕を守護し、国家を安泰なさしめんとのたまひ、その夜行教の三衣に阿弥陀の三尊現じ給へり」「本地堂 疫神堂の西に隣る。極楽寺と称す。本尊は阿弥陀仏、脇士は観音、勢至を安置す。この三尊は本殿の御正体なり」とある。

なお、天平勝宝元年[749]は東大寺の鎮守(現・手向山八幡宮[奈良県奈良市雑司町])として平城宮南の梨原宮に八幡神が勧請された年である。 『神道集』の編者はこれを石清水八幡宮の創建と混同したのだろうか。
垂迹本地
石清水八幡宮応神天皇阿弥陀如来
神功皇后観音菩薩
比咩大神勢至菩薩

護国土霊験威力神通大菩薩

"土"は衍字と思われる。
参照: 「宇佐八幡宮事」護国霊験威力神通大自在王菩薩

行教和尚

生年不詳。 紀朝臣魚弼の子として備後国に誕生。 弟は真言宗の益信(本覚大師)。 大安寺[奈良県奈良市大安寺二丁目]に住し、三論と密教を学んだ。

『大安寺塔中院建立縁起』によると、行教は入唐帰朝の際に宇佐宮に一夏九旬の間参籠した。 そこで『大般若経』を転読して神託を受け、大同二年[807]八月十七日に大安寺の東室第七院石清水房に八幡大菩薩を勧請した(大安寺八幡宮の前身)。

『石清水八幡宮護国寺略記』には「貞観五年[863]正月十一日 建立座主大安寺伝燈大法師位行教」と署記があり、石清水八幡宮の勧請後に伝燈大法師位に任ぜられたと思われる。 また、『日本三代実録』巻第二十七(貞観十七年[875]三月二十八日辛亥条)[LINK]には「故伝燈大法師位行教」と記されている事から、その間に没したと思われる。

行教が八幡大神に大乗の十戒(十重禁戒)を授けたという説は、管見の限り他に見ない。

平野大明神

平野神社[京都府京都市北区平野宮本町]
第一殿の祭神は今木皇大神。 一説に日本武尊とする。
第二殿の祭神は久度大神。 一説に仲哀天皇とする。
第三殿の祭神は古開大神。 一説に仁徳天皇とする。
第四殿の祭神は比売大神。 一説に天照大神とする。
式内社(山城国葛野郡 平野祭神四社〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第三十七(延暦元年[782]十一月丁酉[19日]条)[LINK]の「田村後宮の今木大神を従四位上に叙す」。

『一代要記』の桓武天皇条には延暦十三年[794]に「今年始て平野社を造す」とあり、平安遷都時に平城京の田村後宮から平野の地に遷座したと推定される。

『二十二社註式』(平埜)[LINK]には「第一今木神、日本武尊、源氏氏神 第二久度神、仲哀天皇、平家氏神 第三古開神、仁徳天皇、高階氏神 第四相殿比売、天照大神、大江氏神」とある。 また、摂社・県神社の天穂日命(中原、清原、菅原、秋篠、已上四姓氏神)と併せて「八姓の氏神」と称された。

『諸社根元記』(平野)[LINK]には「本地 第一 大日、第二 聖観音、第三 地蔵、第四 不動、第五県社 毘沙門」とある。

慈円『慈管抄』巻一の仁徳天皇条[LINK]には「此御門は平野大明神也」とある。
また、『二十二社本縁』(平野事)[LINK]にも「平野の社、常には仁徳天皇の垂迹と申す」とある。 ただし、当社は源氏の長者が管領する氏神であるが、仁徳天皇は源氏の祖ではないので、「或は又仁徳の御弟とも云へり」「若隼総別の皇子か、是は応神第八の御子、継体天皇の御高祖父也」と異説を記す(ただし、継体天皇の高祖父は通説では稚野毛二派皇子である)。

伴信友は『蕃神考』[LINK]で今木神を百済系帰化人の祖神とする説を唱えた。
「さて今木神は、和氏の祖の百済より帰化れるはじめ、其今木に住て、〈此和氏の祖の百済人を、安置給へる地なるが故に、今来と呼べりしにやあらむ〉、祠を建てその遠祖神を祀り、やがて今木神と称ひて、世々崇め来りけむを、其氏人和乙継の女、新笠姫命たゞ人にて、光仁天皇いまだ二世の諸王にておはしましける時、御妻となり給ひけるが、夫王の御位に即せ給へるにあはせて、〈光仁天皇は、天智天皇には御孫、施基皇子の御子にて、御寿六十二の時に、御位に即せ給へり〉、后となり給へる御歓の賽に、御住せ給ひける大和の田村の後宮に移祭たまひ」
また、「其平野の神は、上に挙たる百済の純陀太子即位して、聖明王と云へるに当れり」と主張したが、純陀太子(高野新笠の祖)を聖明王とする史料は見当たらない。

二所権現

参照: 「二所権現事」