『神道集』の神々

第一 神道由来之事

天地開闢の時、空中に一つの物が有った。 形は葦の芽のようで、化して神と成った。 これを国常立尊という。 次に国狭槌尊が現れた。 その次に豊斟渟尊が現れた。 以上の三神は乾(陽気)のみから生じた。
その次に埿土煮尊と沙土煮尊が現れた。 その次に大戸之道尊と大戸間辺尊が現れた。 その次に面足尊と惶根尊が現れた。 以上の三代六神は男女の姿は有ったが、夫婦では無かった。 その次に伊弉諾尊と伊弉冊尊が現れた。 この二神が始めて夫婦となった。 以上を天神七代という。
二神は天逆鉾を下して国の有無を探った。 その鉾の滴りが凝って嶋と成った。 今の淡路嶋である。 また、この世の主として一女三男を産んだ。 三男とは日神・月神・素盞嗚尊である。 一女とは蛭児命である。 二神は淡路嶋に幽宮を構えて住まわれた。

地神五代の最初は、伊弉諾・伊弉冊尊の太子の天照太神である。 即ち日神である。 父母神はこの子を生んで喜び、霊異の子であるとして天下を授けられた。
次は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。 天照太神の御子で、天照太神が弟の素盞嗚尊と誓約して生まれた。 以上の二神は天に在った。
次は天津彦彦火瓊瓊杵尊。 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の太子で、母は高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫である。 日向国高千穂峯に天下り、その後は日向国宇解山に住み、天下を治めること三十一万八千五百四十二年である。 この尊の御代に、三面の鏡と三本の剣が天下った。 三面の鏡の内、一面は伊勢太神宮に在り、一面は紀伊国日前社に在り、一面は内裏に留まる、今の内侍所である。 三本の剣の内、一本は大和国布流社に在り、一本は尾張国熱田社に在り、一本は内裏に留まる、今の宝剣である。 この二つは後に内裏守護の宝と成った。
此の国を日本と名づける事は、日天子が天下って神と成った故である。
次は彦火火出見尊。 天津彦彦火瓊瓊杵尊の太子で、母は大山祇神の娘の木花開耶姫である。 天下を治めること六十三万七千八百九十二年である。 御陵は日向国高屋山に在る。
次は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。 彦火火出見尊の太子で、母は海童の第二の姫の豊玉姫である。 天下を治めること八十三万六千四十二年である。 御陵は日向国吾平山に在る。 以上を地神五代という。 この尊の第四の太子を神武天皇という。

伊弉諾・伊弉冊尊の一女三男の内、第一は素盞嗚尊である。 悪神なので嫡子には立てず出雲国に流された。 今の出雲大社である。
第二は日神、今の伊勢太神宮である。 伊勢国度会郡五十鈴河上に鎮座している。
第三は月神、月弓霊尊という。 今は鎮西豊後国の本満宮に垂跡している。
一女は蛭児命である。 この御子は三歳の時に楠の椌船に入れて大海に捨てられた。 この船は浪に漂って自然と龍宮に下った。 龍神がこの子を養ってその由を尋ねたところ、天神七代の伊弉諾・伊弉冊尊の御子であると言った。 龍宮に留めるべきではないので、七・八歳の時にまた楠の椌船に乗せてこの国に返した。 蛭子は龍宮に何年もいたので、第八外海(九山八海の内、最も外にある鹹水海)を引出物として給わった。 龍王が「我は大海を領して陸に所領が無い。外海を与えるので大海の上に住むがよい」と云ったので、蛭子は住吉の洋に留まった。 今の世に西宮と云うのがこれである。 海人は盛大に秋の祭を行い、これを恵美酒と申している。

伊勢太神宮が天下った時、第六天魔王が之を見て、この国を滅ぼそうと天下った。 太神宮は魔王に向かい、「私は三宝の名を云わず、我が身にも近づけませんので、すぐに天上にお帰り下さい」と誓ったので、魔王は天に帰った。 この約束を違えぬよう、僧は御殿の近くには参らず、社壇では経を顕には持たない。 三宝の名も正しく呼ばず、仏を「立スクミ」、経を「染紙」、僧を「髪長」、堂を「木焼コリタキ」などと云う。 外には仏法を疎かにし、内には三宝を守護される故に、我が国の仏法は伊勢太神宮の守護に依るのである。

天照太神は素盞嗚尊が天津罪を犯した事を憎み、天岩戸を閉じて隠れたので、天下はたちまち暗闇に成った。 八百万の神々は悲しんで、天照太神を誘い出す為、庭火を焚いて神楽を行った。 天照太神は御子神たちの遊びをゆかしく思い、岩戸を少し開けてご覧になると、世間は明るくなった。 大力雄神が御神を抱き留め、天岩戸に七五三(注連縄)を引き、この内に入れないようにしたので、ついに日月が天下を照らすようになった。 日月の光が当たるのも当社の恩徳である。

すべては大海の大日如来の印文より起り、内宮・外宮は両部の大日如来である。 天岩戸とは都率天であり、高天原とも云う。 真言の意では、都率天は内証の法界宮殿で、密厳浄土とも云う。 内証の都を出て日本に垂迹する。 故に内宮は胎蔵界の大日如来で、四重曼茶羅を象って囲垣・玉垣・水垣・荒垣と重々めぐらせている。 勝雄木は九本有り、胎蔵界(中台八葉院)の九尊を象る。 外宮は金剛界の大日如来あるいは阿弥陀如来である。 金剛界の五智を象って、月輪は五つ有る。 胎金の両部は陰陽を司り、陰は女、陽は男である。 八人の八女は胎蔵を象る。 五人の神楽男は金剛界の五智を象る。

また、御殿が萱葺である事も、御供が三杵ついた玄米である事も、人の煩いや国の費えを思召した故である。 勝雄木が真直ぐで、垂木が曲がらないのは、人の心を真直ぐにしようと思召した故である。 心が真直ぐで、民の煩いや国の費えを思う人は、神慮に叶う者であろう。

当神宮は自然に『梵網経』の十重戒を保っている。 人を殺すと追放されることは波羅夷罪、人を打擲・刃傷すると解官され、出仕を停止されることは軽罪と同じである。
当社における物忌は、他の社とは少し異なり、鵜羽屋(産屋)を生気として五十日の忌とする。 また、死を死気として同じく五十日の忌とする。 其の故は、死は生より来て、生は死の始めなので、生死を共に忌むべしという心である。 誠に不生不滅の毘盧遮那法身の内証を出て、愚痴顚倒の四生の群類を助けようと垂跡される本意は、生死の流転を止め、常住の仏道に入る事であり、生死を同じ忌とする。 愚苦を悲しみ、生死の悪業を造らず、賢妙なる仏道を修行し、浄土の菩提を願うべきである。

神明神道の本地を尋ねれば諸仏菩薩である。 諸仏菩薩の跡化は神明神道である。
問、何の義により諸仏菩薩は神道と顕れるのか。
答、諸仏菩薩は群生を済度するために種々の形を現し給う。 ただ無縁の慈悲であり、与物結縁の儀式である。 其の慈悲を尋ねると、『法花経』方便品には「舎利弗当知、……云何而可度」と云い、同経寿量品には「放逸着五欲、……速成就仏身」と云う。 本跡二門の仏意はこのようなものである。
非形非色の法身は、ある時は己身実仏を説き、ある時は他受用・応化身を現し、ある時は三乗・六道の形声を顕し、同塵して他身・他事を以て交わり、群生を引導される。 『法花経』寿量品には「或説己身、或説他身、或示己事、或示他事」と云う。 『法花玄義』第二には「悲生現生等是応身也。或説己身、即法身也、報身也。或説他事、即応身也」と云う。

問、報身は己身・他身に通じるのか。
答、自・他受用の分別が有る。 密教の意では、五部灌頂の中台の大日如来と申し、これを一仏とも云う。 次第に両部・三部・四種の法身が顕然とする。 顕教では、法身・自受用・他受用・応化身が己身・他身の分別である。 自性身は己身である。 自受用身は他身である。 これは勝応身と劣応身である。 和光同塵の結縁の始めは、他身・他事である。 自性・自受用の己身を隠し、等流変化の化身を現す。 雑化雑類の輩は、仏菩薩の形で利益しようとしても、罪業が深いので近付くことが出来ない。 『花厳経』教主の蓮華台上の盧遮那仏は宝玉の長者の姿で、報身は気高いので、二乗は近付くことが出来ない。 その時に如来が瓔珞細軟の上服を脱ぎ、麁弊垢膩の衣を着ると、二乗は漸く近づく事ができるのである。
神明の和光同塵もこれと同じである。 五濁悪世の衆生は後生の果報を恐れず、今生の栄花を深く望んでいる。 眼前の事だけを信じて、後生の事は思わないので、(諸仏菩薩は)衆生の為に己身の自性の光を和らげ、他身は雑類と同塵する。 一度瑞籬・囲垣を践み、二度和光の宝殿に歩みを運べば、それを因縁として、永く三悪道に堕さず、八相成道の未来まで厚く利生するのが、神道の垂跡である。 『悲花経』には「我滅度後、於末法中、現大明神、利益衆生」と云う。 『般若経』には「為未来世濁世之時、即現大祠神形利生」と云う。 真言教主は「大日如来、為麁同類、権成冥神、心同嬰児」と云う。

問、神明を崇める事は我が朝に限るのか。
答、『観経疏』には「父王有子事、所々神求、終得事不能」と云う。 『大論』には、樹神に祈って子を得た事が見える。 漢土では、三皇五帝の往魂や七魂七星の霊廟等を始めとして、大小の神祇が多いと聞く。 我が朝はもとより神国である故に、百八十柱の神を始めとして、一万三千七百余所等はみな利益がめでたい。

問、ある人が云うには、『毘吠論』によると一度神を礼すると五百生は蛇身の報いを受けるという。 もしそうならば、神を礼すべきだろうか。
答、神道には権実が有る。 悪霊・悪鬼は物に取り憑いて人を悩ませる。 実者はすべて蛇や鬼などである。 権者の神は如来・菩薩が衆生を利益する為に和光垂跡し、八相成道の終りを論じる。 当然帰依すべきである。 ただし、実者の神といえども神として顕れているので、利益が無いわけではない。 日本は神国なので、総じて敬礼すべきである。 国の風習は凡愚であり、権実を弁別するのは難しい。 ただ神に随って敬い礼して、何の失が有るだろうか。 始めは実者だとしても、終いには権者の眷属と成るだろう。

問、大小権実の明神の本地が仏菩薩であるという事は、何を以て知ることができるのか。
答、これは不思議で、経文や論蔵には見えない。 本朝は辺州なので仏説・論判は無い。 仏菩薩は我朝に来て、明神の垂跡として人間界に応生する。 この神の託宣を以て内証とするのである。 衆生を利益されるため、日本には多くの神明が在る。 その本地が仏菩薩でないということがあろうか。

問、汚れを忌むのは方便である。 中でも女人の月水を忌むと聞くが、祭礼の時に魚鳥の類を祭供に用いる神社は多い。 皆これらは血の忌みの物であり、月水も血、魚鳥の類も血である。 然るに、女人の月水を忌み、魚鳥の類を祭供に備えるのは何故か。
答、女人の事はしばらく置き、後で説明する。 次に肉類を祭供に備える事であるが、『涅槃経』には「示肉食現、此現云、其実不食、但有執見者、如来方便不解而偏執」と云う。 『毘尼母経』には「仏言、三種浄肉食事聴、又我訪云、如来自食、彼愚癡人大罪作、長夜闇堕無利益、諸如来大会声聞等、当法非当貯事法非受取、我不浄、真肉食非説、可食善破道諍、邪念謟曲、以自活求、亦見道障」と云う。 『文殊師利経』には「仏告文殊師利、衆生以慈悲力無殺害心起、此因縁為故、肉食誡、若能害心、大慈悲一切衆生教化為、有罪科事無」と云う。

問、利益の為には仏菩薩の慈悲神力は不可思議だが、肉食をすると云っても利益すべきか。
答、この疑問はもっともである。 罪根深重の輩には利益し難い。 畜類は闇鈍で無智卑賤なので利益し難い。 『大論』には「懺悔心無、堕畜生道」と云う。 『釈義』六には「恭敬心無、驕慢瞋念心以肉食、堕畜生道」と云う。 道宣律師の『諸経要集』には「衆生以故地獄堕、年窮、劫極、更別離苦具、復畜生中堕、諸牛猪羊鶏狗魚鳥成、人為被殺、命終後返事不得、死飾殖山、禽獣無量有生死、若微善無永出免期無」と云う。 仏法の習いでは、善縁が無ければ解脱し難い。 そこで、肉食を以て微少の善縁とし、畜生の苦を救う。 垂跡は仏菩薩の化現なので、腹の内に満足して広大な善根を成す。 (畜類は)生死に沈淪せず、遂に仏果を得ることが出来る。 此の故に祭供に肉食の類を用いる。 然るに、月水を忌むのは女人の不浄を顕し、出離の心を起こす為である。 肉を祭供に備えるのは、利生の方便である。 月水を忌むのも、済度利生の方便である。

問、鹿の肉食の忌みは百日である。 他の熊・猪等よりも忌みが深いのは何故か。
答、道宣律師の『諸経要集』に引用する経には「仏言鹿我身、烏是阿難」と云う。 『首楞厳経』には「阿難白仏、一切衆生何為六道輪廻、仏阿難告、有狩師鹿殺、狩師亦鹿生、鹿亦生狩師、如此間、其罪業造輪廻事無窮」と云う。 『諸経要集』が説くように鹿を殺す罪は重く、他の肉を食うより忌みは深いのである。

問、鹿が釈尊の化身ならば、其の肉を食った人は何の罪業を得るのか。
答、『大般若経』には「菩薩摩訶薩仮使有人来、或打、或擲、或割、或截、彼有情於意無分限、彼利益示作事」と云う。 『涅槃経』には「我如往昔者、半偈為故此身棄捨、以此因縁即超越事得、三劫具足、弥勒前在、阿耨多羅三藐三菩提成」と云う。

問、諸仏菩薩の禽獣等の身に化現するのは、悉く衆生を利益する為である。 しかし其の肉を食うことは重罪であるとは、利生の道理ではない。 如何なることか。
答、諸罪の中では五逆が最も重罪である。 五逆とは、一に父を殺すこと、二に母を殺すこと、三に阿羅漢を殺すこと、四に仏身より血を出すこと、五に和合僧を破すことである。 恩深い人を殺す故に重罪である。 『涅槃経』には「提婆達多不善仍起、自仏身血出、此悪作得、堕地獄、一切苦受」と云う。

問、仏が鹿の身に化すのは何の為か。
答、道宣の釈によると、釈迦如来は鹿と成って五百の猿猴を教化した。 (その鹿は)畜生と雖も、釈尊の内証外用の功徳を具えている。 鹿を殺して肉を食うと、内証外用の功徳を損なうので、鹿の肉を食う事は深く禁じられている。

問、狐等の忌みの深さはどうなのか。
答、烏は阿難の化身である。 狐は文殊の化身である。 菩薩・声聞は仏の弟子なので、その化身を殺生するのは、仏の化身の殺生には劣る。

問、仏菩薩の内証外用は、天等も皆慈悲の願旨に随って名号を称し、別願に依り音楽形相は各別である。 故に不動・降三世明王は忿怒の形を示して、魔界を降伏する。 観音・弥勒等は柔和忍辱の体を顕して、恣に大慈大悲の利益を施す。 垂跡の中にも権現・大菩薩・大明神の違いがある。 その住所を宮と云い、社と云い、霊験処と云うのは各別である。 明神にも誦呪・誦経の法楽を奉り、権現・大菩薩にも此の法楽を捧げるのは如何なる事か。
答、権現・大菩薩・大明神はすべて仏菩薩の垂跡で、同じく法楽を受けられる。 ただ、三種の別が有り、一は権現、二は大菩薩、三は大明神である。 権者と実者は前に述べた通りである。
古記に引用された為憲の伝によると、八幡大菩薩は天平勝宝元年に豊前国宇佐宮から男山に移られた。 八幡大菩薩は元は八幡大神と申された。 宇佐宮の本地は釈迦・弥陀・観音の三尊と顕れ、男山に移られた時、行教和尚の三衣の袂に弥陀三尊と顕れた。 和尚が大乗の仏菩薩の十戒を授け、「護国土霊験威力神通大菩薩」と号して以来、大菩薩と云うのである。

問、もしそうなら、大菩薩と名づける事は八幡に限るだろう。 他の神も大菩薩と名づけるのは何故なのか。
答、観音の在す所はみな大菩薩と名づける。 神に大乗の菩薩戒を授ける故に、大菩薩と名づける。

諸仏の御住所を霊所・聖霊所と名づける。 故に垂跡の御住所を霊験所と申す。 『文句』巻一に「霊鷲山前仏後仏皆此山住。鬼神此山住。既是聖霊居所」と云う。 保胤入道の比叡山の中堂の讃明句に「霊験殊勝の地、利益深妙の所なり」と云う。 菅三品の中堂の美明句に「日本無双の霊所なり」と云う。 これら考えると、諸仏菩薩の利益めでたき所を霊験所と云う。 次に宮とは、天竺には国王の内裏精舎を堂と名づけ、王宮と名づけ、仙洞と名づける。 諸仏菩薩の御住所は堂である。 国王の内裏の名を借りて堂と名づける。 また社とは、祭祀による詞である。 神とは世間の祖宗である。 祭祀する故に、御住所を社と云う。

次に明神・権現・大菩薩の三形の各別を云うと、皆共に仏菩薩の垂跡であり、法味を捧げる事も亦同じである。 法施のめでたき事は、『金光明経』に「財施不出三界、法施法身利益、法施能断無明」と云う。 和光同塵は衆生の利益の為に現れると云う。 一切の迷いを断じ、煩悩が無い。 此れは法身を証する理である。 (明神・権現・大菩薩には)皆同じく法味を捧げる。

問、法施はそうだが、財施に利益は有るのか。
答、『金光明経』に「財施只伏貪心」と云う。 一切衆生には煩悩が多いが、貪瞋癡の三毒を根本とし、其の中でも貪欲を上首とする。 垂跡は仏菩薩であり、衆生が皆貪欲に迷悶することを悲哀し、和光同塵の形を現す故に、財施を得て、貪欲の心を伏せるのである。

問、神明の霊所を一度践む事で、忝くも上人は三悪趣の苦を免れる事が出来るのか。
答、世間で申すには、この事は当然か。 故に太神宮には法師は入らず、宮人はこれを防ぐ。 これは三宝の中には僧宝なので、大罪を捨てるのである。 また、熊野等の社は、一度参詣すれば三世の願を成就すると申す。

問、これは不審である。 彼の御山で難行苦行し身命を顧みない行人は、貧窮孤露にして衣服は乏しく、苦を免れずに一生の願望を空しくする者が多い。 また、参詣の途中に山賊・海賊・頓死に合い、死んでしまう者も多い。 今生の望みは既に空しく、後生の頼みもまた難しい。
答、霊地を一度でも践んだ人は、必ず三悪趣の苦を免れる事が出来る。 『正法念経』には「七歩道場、永離三悪、一入伽藍、決定菩提」と云う。 道場も霊地も仏菩薩の霊地である。 仏と神は本跡は異なるが、心は同一である。 垂跡の霊地も仏菩薩の霊地も、参詣の力に依り得られる利益は同じである。 参詣の功酬により三悪道の苦を免れ、垂跡恭敬の力により菩提の果を得られる。

伊勢大神宮に僧が入らない事であるが、天神七代の末の伊弉諾・伊弉冊尊の御子は、地神五代の始めの御神の天照太神である。 今の伊勢太神宮がこれである。 御本地は大日如来である。 (大日)如来は諸仏菩薩の本師で、一切三宝の智母である。 その垂跡であるので、どうして僧を厭われるだろうか。
公任の伝によると、崇神天皇の御宇に伊勢大神宮より宝剣が天皇に授けられた。 即ち、天村雲剣(天叢雲剣)と云う。 その時に天皇の宣が有り、大神宮の祭主より神宮寺に衣冠束帯が下された。 この時より、(天照太神は)束帯の姿で諸神を執領し、堅く国家を鎮護される。 また、天照太神は三の鏡に御影を浮ばれる。 紀伊の日前の霊所がこれである。 伊勢太神宮は束帯の姿で鏡に浮ばれ、諸神を領し、国郡を争う為に、怖ろしげな姿で鏡に浮ばれた。 即ち、異国の軍を降伏する為である。

問、これは不審である。 仏法が王法を守り、王法が仏法を持する事は、天竺・震旦の習慣である。 日本も同様で、社内に仏法を安置し、法味・法楽を捧げ、王法を守れば、さらにめでたくなるが、如何だろうか。
答、高野の伝によると、世界は日・月・星宿の所変である。 西天月氏国は月天子の所変である。 唐土震旦は、星宿の守護する国である。 此の州を日本と名付ける事は、日天子の所変である事に依る。 此の州は元は嶋も無く、潮だけが有り、天神七代の間は天に在った。 第七代の伊弉諾・伊弉冊尊が鉾を差し下して嶋が有るかと捜り、鉾を引き上げると潮の滴りが凝って嶋と成った。 今の淡路嶋がこれである。 その後、嶋が次第に広がり、六十余州と成った。 これらの嶋が出来た後は、天より地に下って住まわれ、地神五代と云う。 この五代の始めの御神は天照太神である。 今は忝くも伊勢太神宮と申し上げる。 この御神は即ち大日如来の所変であり、皇祖である。 太神宮に僧が入らないのは、大日如来の秘密の道場である事を示している。

問、熊野や二所等の社は二世の悉地を成すと云う。 その義の無い行人は数多い、如何だろうか。
答、今生の果報は善悪高下がある。 賢愚貧富、短命長寿、利鈍智恵、非時中夭、これらは皆前世の宿習に依るものである。 『増一阿含経』には「偸盗悪業因縁、命終後、地獄中生、経二百歳、畜生報畢後、餓鬼道生、飢渇苦悩受、亦経百千歳、其罪了、人中生、三種果報得、一者貧窮衣服形不覆、二者飲食口不満、又三者悪賊為被劫奪」と云う。 『罪応地獄経』には「衆生有、自生死、有児子無事孤立、何罪至処有、仏言、尤悪付罪福不信、百鳥乱時、諸島子失、諸鳥敢此罪獲」「又若衆生有、孤寒、父母兄弟有事無、他為長大、何人成、何罪至処、仏言、以前世人時、諸禽獣狩、常鳥憂悩、此報得」と云う。 『大集経』には「仏言、所有衆生、現世及未来世、当深仏法衆僧可信、彼衆生人天中、常勝妙果報得受」と云う。 『花厳経』には「若一句未曾有法聞、三千世界珍宝得勝」と云う。

問、果報めでたき衆生は、今生の行業を以て、今の勝妙の果報を生じるのか。
答、『正念法経』には「一者父、二者母、三者如来、四者読法時、若此四種供養人有、無量福得、現世人為被讃嘆、未来世能菩提得」と云う。 『法花経』には「若有衆生、恭敬礼拝、観世音菩薩、福不唐捐」と云う。 『薬師経』には「求長寿得長寿、求富饒得富饒、求官位得官位、求男女得男女」と云う。 これらの文には今生の行徳を以て今生に行果を得ることを説いている。

問、その証を得ていない行人が多いが、如何だろうか。
答、天台の釈には「以信行本」と云う。 身口の行を尽くしても、意業で信じなければ、証は得られない。 信力の堅固な行人は、前世で宿善の人なので、今生の善は盛んで、証を得るだろう。 今生に不信の心が有っても、法の如く修行すれば、必ず証利が有るだろう。 その故は何かというと、仏神は信心を哀み給うからである。 参詣の時、途中の横死・横病・山賊・海賊等の事は、或いは精進中の汚穢不浄に依り、或いは無宿の懈怠、不信の科に依る。 或いは親類縁者の死気・産などの汚れに依って、途中で難が有る。 こういった例は世に多いが、これらの科は皆行人の不信に依るものであり、仏神の親疎ではない。

問、仏神の助けにより、貧を転じて福となった人は有るのか。
答、後白河院の御宇に、八幡の前別当祐尊と平安京の八坂の貧女の例がある。 三年間、八幡に月詣をした功徳により、祐尊は本職に預かり、八坂の貧女は但馬国の目代藤助の妻となった。 この他、熊野・金峯山・二所・三嶋などの霊験はその例が多い。

問、権現・大菩薩・大明神の三種の内、明神に限って三熱の苦を受けると聞く。 これは何故か。
答、権現・大菩薩は三熱の苦を受けない。 何故かと云うと、垂跡の中には実者・権者が有り、仏菩薩が化現されたのは権者である。 (仏菩薩の)応化ではなく、神道の実業を以て神明の名を得たのは実者である。 仏菩薩の垂跡は苦を受けないが、実者は受けるのである。

問、仏菩薩は衆生利益の為に六道の苦を受けることが多い。 そして、身体の苦楽は本跡共に同じである。 調達は不動賓迦羅菩薩の化身だったが、五逆の罪を犯して地獄に堕ち、火炎の中に居る。 八大龍王の部類の中には仏菩薩の化現が有るが、三熱の苦が有る。 恵心の釈には「諸龍三熱苦交、昼夜無休」という。 このような部類に生れて、何故三熱の苦を受けないのか。
答、『涅槃経』巻七には「菩薩摩訶薩、憐憫一切衆生故、雖復処在阿鼻地獄、如第三禅楽」と云う。 『疏記』巻二には「霊山頂有池、名阿耨達池有、龍王其中住処、閻浮提諸龍、有三患、此池龍王、無三患、故名無熱池」と云う。 龍王は権者と云い、故に三熱の苦は無い。 則ち三熱の苦を受けるのが実者で、受けないのが権者である。 ましてや、八幡大菩薩は応神天皇である。 平野大明神は仁徳天皇である。 二所権現は天竺の国王である。 このような御神たちは三熱の苦の器ではない。

天神七代

参照: 「天神七代事」

天逆鉾

『日本書紀』巻第一(神代上)の第四段[LINK]には、
「伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋の上に立たして、共に計らひて曰く、「底つ下に豈国無けむや」とのたまひて、廼ち天之瓊矛を以て、指し下して探る。是に滄溟を獲き。其の矛の鋒より滴瀝る潮、凝りて一つの嶋と成れり。名づけて磤馭慮嶋と曰ふ」
とある。

第四段一書(一)[LINK]には、
「天神、伊弉諾尊・伊弉冉尊に謂りて曰はく、「豊葦原千五百秋瑞穂の地あり。汝往きて修すべし」とのたまひて、廼ち天瓊戈を賜ふ。是に、二の神、天上浮橋に立たして、戈を投して地を求む。因りて、滄海を画して、引き挙ぐるときに、即ち戈の鋒より垂り落つる潮、結りて嶋と為る。名づけて磤馭慮嶋と曰ふ」
とある。

第四段一書(二)[LINK]には、
「伊弉諾尊・伊弉冉尊、二の神、天霧の中に立たして曰はく、「吾、国を得ん」とのたまひて、乃ち天瓊矛を以て指し垂して探りしかば磤馭盧嶋を得たまひき。則ち矛を抜きて、喜びて曰はく、「善きかな、国の在りけること」とのたまふ」
とある。

第四段一書(三)[LINK]には、
「伊弉諾尊・伊弉冉、二の神、高天原に坐しまして曰はく、「当に国有らむや」とのたまひて、乃ち天瓊矛を以て、磤馭盧嶋を画り成す」
とある。

第四段一書(四)[LINK]には、
「伊弉諾尊・伊弉冉、二の神、相謂りて曰はく、「物有りて浮膏の若し、其の中に蓋し国有らむや」とのたまひて、乃ち天瓊矛を以て、探りて一の嶋を為す。名づけてば磤馭盧嶋と曰ふ」
とある。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]には、
「天祖、伊弉諾・伊弉冊二尊に詔して曰く、「豊葦原千五百秋瑞穂の地有り。宜しく汝往きて之を修すべし」。則ち天瓊戈を賜ひて詔寄ことよさし賜ひき也。伊弉諾・伊弉冊二尊、奉詔みことにまにまに、天浮橋の上に立して、共に計りて謂はく、「物有りて浮膏の若し。其の中に蓋し国有らむや」とのたまふ。廼ち天瓊矛を以て之を探りたまへば、是に滄海を獲たまひき。則ち其の矛を指し下して、因て滄海を画て、之を引き上げたまふ。時に矛の末より落垂滴瀝したたる潮凝り結りて嶋と為る。名づけて磤馭慮嶋と曰ふ。則ち天瓊矛を以て、磤馭慮嶋の上に指し立てて、以て国中の天柱と為す也」
とある。

『倭姫命世記』[LINK]には、
「(奈尾之根宮において)猨田彦神の裔宇治土公の祖、大田命参り相ひき。[中略]倭姫命問ひ給はく、「吉き宮処有りや」と。答へて白さく、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、是れ大日本国の中に、殊に勝て霊地に侍るなり。其の中に、翁三十八万歳の間にも、未だ視知らざる霊物あやしきものあり。照り耀くこと日月の如くなり。これ小禄おぼろげの物には在らじ。定めて主出現御坐さむか、爾の時献るべしとおもひて、彼の処に礼ひ祭り申せり」と。即ち彼の処に往到り給て、御覧じければ、これ昔大神誓願給ひて、「豊葦原瑞穂国の内に、伊勢加佐波夜(風早)の国は、美き宮処有り」と見定め給ひ、上天よりして投げ降し坐したまひし天之逆太刀・逆桙・金鈴等是れ也。甚に懐に喜びて、言上し給ひき」とある。
また、同書[LINK]に「酒殿 天逆太刀・逆鉾・金鈴、之を蔵納おさむ」
とある。

『大和葛城宝山記』[LINK]には、
「天地開闢の嘗、水変じて天地と為りしより以降、高天海原に独化れるの霊物在り。其の形葦牙の如し。其の名を知らず。爾の時、霊物の中よりして神聖化生す。之を名づけて天神と曰ひ、亦大梵天王と名け、亦尸棄大梵天王と称す。天帝の代に逮びて、霊物を名けて天瓊玉戈と称す。亦金剛の宝杵と名づく。神人の財と為り、地神の代に至りて、之を天御量柱、国御量柱と謂ふ。茲に因りて、大日本の州の中央に興てて、名けて常住慈悲心王の柱と為す。此れ則ち正覚正智の宝に坐します也。故に心柱と名くる也。天地人民、東西南北、日月星辰、山川草木、惟是れ天瓊玉戈の応変にして、不二平等の妙体也」
「以昔、日の子伊弉諾尊、月の子伊弉冊尊、皇天の勅宣に従ひて、天瓊玉戈を受けて山跡やまとの中央に立つ。国家の心柱と為て、八尋の殿を造る〈神祇峯是れ也〉」
「夫れ天瓊玉戈は、亦は天逆矛と名く。亦は魔反戈と名け、亦は金剛宝剣と名け、亦は天御量柱、国御量柱と名け、亦は常住の心柱と名く。亦は忌柱と名くる也」
「此の宝杵は、則ち常世の宮殿の内に納め奉る。俗に云ふ五百鈴川の瀧祭の霊地、底津宝の宮是れ也。是れを龍宮城と名づくる也。亦仙宮と号する也」
とある。

一条兼良『日本書紀纂疏』上第二[LINK]には、
「瓊矛は、神明の本、衆物の祖也。仏者の云く、此れ所謂金剛杵也。故に八州の地形、独鈷の如し。又伊勢内外宮の心御柱は、瓊矛の象也」 「旧説に曰く、天瓊矛は、瀧祭の仙宮に納めて在り。或人の云く、五十鈴宮の酒殿に納む。[中略]一に云く、瀧祭神と龍田神とは同体なり。故に龍田神を名づけて、天御柱と曰ふ、蓋し以て天逆戈を護るの縁也」
とある。

北畠親房『神皇正統記』[LINK]には、
「此の矛、又は天の逆戈とも、天魔あまの逆戈とも云へり」
と注す。
また、その所在について
「此の矛は伝へて天孫の順へて天降り給へりとも云ふ。又垂仁天皇の御宇に、大倭姫の皇女、天照太神の御教へのままに国々を巡り伊勢の国に宮所を求め給ひし時、大田命と云ふ神参り逢ひて、五十鈴の河上に霊物を守り置ける処を示し申しゝに、彼の天逆矛、五十の金鈴、天宮の図形ありき。大倭姫の命悦びて、其処を定めて神宮を立てらる。霊物は五十鈴の宮の酒殿に納められきとも云。又、瀧祭の神と申すは龍神也。其の神預りて地中に納めたりとも云ふ。一には大倭の龍田神は、この瀧祭と同躰にます。此神の預りとも云ふ。仍て天柱国柱と云ふ御名ありとも云ふ」
と三処(内宮の酒殿、瀧祭神、龍田大社[奈良県生駒郡三郷町立野南])を挙げるが、
「昔、磤馭慮嶋に持下り給ひし事は明らかなり。世に伝ふと云ふ事はおぼつかなし」 「宝山(葛城山)に留まりて不動のしるしとなりけん事や正説なるべからん」
と述べた。

淡路嶋

『日本書紀』巻第一(神代上)の第四段[LINK]には、伊弉諾尊・伊弉冉尊が夫婦と為って
「(児を)産む時に至るに及びて、先づ淡路洲を以て胞とす。意によろこびざる所なり。故、名づけて淡路洲と曰ふ。廼ち大日本豊秋津洲を生む。次に伊予二名洲を生む。次に筑紫洲を生む。次に隠岐洲と佐渡洲とを双生む。[中略]次に越洲を生む。次に大洲を生む。次に吉備子洲を生む。是に由りて、初めて大八洲国の号起れり」
とある。
卜部兼方『釈日本紀』巻第五(述義一)[LINK]には、
「先づ悪子を生む、故に之を吾耻嶋と名づく也」
と注す。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第四段一書(六)[LINK]には、
先づ淡路洲・淡洲を胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に伊予洲。次に筑紫洲。次に隠岐洲と佐渡洲とを双生む。次に越洲。次に大洲。次に子洲」
とある。

第四段一書(九)[LINK]には、
淡路洲を以て胞として、大日本豊秋津洲を生む。次に淡洲。次に伊予二名洲。次に隠岐三子洲。次に佐渡洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に大洲」
とある。
本伝および一書(六)(九)では、淡路洲を大八洲に含めない。

第四段一書(七)[LINK]には、
先づ淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に隠岐洲。次に佐渡洲。次に筑紫洲。次に壱岐洲。次に対馬洲」
とある。

第四段一書(八)[LINK]には、
「磤馭慮嶋を以て胞として、淡路洲を生む。次に大日本豊秋津洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に吉備子洲。次に隠岐洲と佐渡洲とを双生む。次に越洲」
とある。
一書(七)(八)では、淡路洲を大八洲に含め、その第一の洲とする。

第四段一書(二)[LINK]には、
「(伊弉諾尊・伊弉冉尊が)宮を同じくして共に住ひて児を生む。大日本豊秋津洲と号く、次に淡路洲。次に伊予二名洲。次に筑紫洲。次に隠岐三子洲。次に佐渡洲。次に越洲。次に吉備子洲。此に因りて、之を大八洲国と謂ふ」
とあり、淡路洲を大八洲に含め、その第二の洲とする。

第四段一書(十)[LINK]には、
淡路洲を生む。次に蛭児」
とある。

中世には磤馭慮嶋と淡路嶋が同体視されるようになった。 例えば、春瑜本『日本書紀私見聞』[LINK]には、
「昔伊弉諾・伊弉冉の二神、始て天降下りたまひ淡路嶋に住み給へり。其嶋を磤釵慮嶋と名づく」
とある。
(伊藤聡『神道の中世 —伊勢神宮・吉田神道・中世日本紀—』、第8章 能と中世神道、中央公論新社、2020)

一女三男

通説では一女は日神(天照大神)、三男は月神(月読尊)・蛭児・素盞嗚尊である。

『日本書紀』(神代上)の第五段[LINK]には、
「既にして伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議りて曰はく、伊弉諾尊・伊弉冉尊、共に議て曰はく、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり、何ぞ天下の主たる者を生みざらむ」とのたまふ。是に、共に日神を生みまつります。大日孁貴と号す〈一書に云はく、天照大神といふ。一書に云はく、天照大日孁尊といふ〉。此の子光華明彩みひかりうるはしく六合くにの内に照り徹る。故れ二神喜びて曰く、「吾が息多ありと雖も、未だかくくしびあやしき児有らず、久しく此の国に留めまつるべからず。自づから当に早に天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」。是の時に、天地、相去ること未だ遠からず。故、天柱を以て、天上に挙ぐ。次に月神を生みまつります〈一書に云はく、月弓尊、月夜見尊、月読尊といふ〉。其の光彩しきこと日にげり。以て日に配べて治すべし。故、亦天に送りたまふ。次に蛭児を生む。已に三歳になるまで、脚猶立たずき。故。天磐櫲樟船に載せて、風の順に放ち棄つ。次に素戔嗚尊を生みまつります〈一書に云はく、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊といふ〉。此の神、勇悍くして安忍いぶりなること有り。且常に哭き泣つるを以て行とす。故、国内の人民をして、多に以て天折なしむ。復使また青山を枯に変す。故、其の父母の二神、素戔鳴尊に勅したまはく、「汝、甚だ道無し。以て宇宙あめのした君臨きみたるべからず、固に当に遠く根国に適ね」とのたまひて、遂に逐ひき」
とある。

第五段一書(二)[LINK]には、
日月既に生まれたまひぬ。次に蛭児を生みたまふ。此の児年三歳に満ぬれども、脚尚立たず。初め、伊弉諾・伊弉冊尊、柱を巡りたまひし時に、陰神先づ喜の言を発ぐ。既に陰陽の理に違へり。所以に、今蛭児を生む。次に素戔鳴尊を生みたまふ。此の神、性悪くして、常に哭き恚むことを好む。国民多に死ぬ。青山を枯に為す。故其の父母、勅して日はく、「汝此の国を治らば、必ず残ひ傷る所多けんとをもふ。故、汝は極めて遠く根国を馭すべし」とのたまふ。次に鳥磐櫲樟船を生む。輒ち此の船を以て蛭児を載せて、順の流に放ち棄つ」
とある。

第五段一書(一)[LINK]には、
「伊弉諾尊の曰はく、「吾、御寓あめのしたしらすべきうづの子を生まむと欲ふ」とのたまひて、乃ち左の手を以て白銅鏡を持りたまふときに、則ち化り出づる神有す。是を大日孁貴と謂す。右の手に白銅鏡を持りたまふときに、則ち化り出づる神有す。是を月弓尊と謂す。又首を廻して顧眄之間みるまさかりに、則ち化る神有す。是を素戔嗚尊と謂す。大日孁貴及び月弓尊は、並に是、質性明麗ひととなりうるはし。故、天地を照し臨ましむ。素戔鳴尊は、是性そこなひ害ることを好む。故、下して根国を治しむ」
とある。

第五段一書(六)[LINK]によると、伊弉諾尊は黄泉から帰った後、筑紫の日向の小戸の橘の檍原に至って禊除をした。 八十枉津日神などの九神を生んだ後、
「左の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて天照大神と曰す。復右の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊と曰す。復鼻を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔嗚尊と曰す。凡て三の神ます。已にして伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、以て天下を治すべし。月読尊は、以て滄海原の潮の八百重を治すべし。素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」とのたまふ。是の時に、素戔鳴尊、年已に長いたり。復八握鬚髯生ひたり。然れども天下を治さずして、常に啼き泣ち恚恨む。故伊弉諾尊問ひて曰はく、「汝は何の故にか恒に如此啼く」とのたまふ。対へて日したまはく、「吾は母の根国に従はむと欲ひて、只に泣くのみ」とまうしたまふ。伊弉諾尊悪みて曰はく、「情の任に行ね」とのたまひて、乃ち逐りき」
とある。
一書(一)(六)では日神・月神・素戔嗚尊だけで、蛭児の誕生は伝えない。

第四段一書(一)[LINK]では、最初に蛭児の誕生を伝えている。
「二の神、彼の嶋(磤馭慮嶋)に降り居して、八尋之殿を化作つ。又天柱を化竪つ。[中略]即ち天柱を巡らんと約束りて曰はく、「妹は左より巡れ、吾は当に右より巡らむ」とのたまふ。既にして分れ巡りて相遇ひたまひぬ。陰神、乃ち先づ唱へて曰はく、「妍哉あなにゑや可愛少男えをとこを」とのたまふ。陽神、後に和へて曰はく、「妍哉、可愛少女えをとめを」とのたまふ。遂に為夫婦みとのまぐはひして、先づ蛭児を生む。便ち葦船に載せて流りてき。次に淡州を生む。此亦児の数に充れず。故、還復りて天に上り詣でて、具に其の状を奏したまふ。時に天神、太占を以てト合ふ。乃ち教でて曰はく、「婦人の辞、其れ已に先づ揚げたればか。更に還り去ね」とのたまふ」
とある。

第四段一書(十)[LINK]には、
「陰神先づ唱へて曰く、「妍哉、可愛少男を」とのたまふ。便ち陽神の手を握りて、遂に為夫婦して、淡路洲を生む。次に蛭児
とある。

幽宮

『日本書紀』巻第一(神代上)の第六段[LINK]には、
「伊弉諾尊神功既に畢へたまひて、霊運当遷あつしれたまふ。是を以て、幽宮を淡路の州に構りて、寂然に長く隠れましき」
とある。
『釈日本紀』巻第六(述義二)[LINK]には、
「神名帳に曰ふ、淡路国津名郡淡路伊佐奈伎神社〈名神大〉」
と注す。

伊弉諾神宮[兵庫県淡路市多賀]
祭神は伊弉諾尊で、伊弉冉尊を配祀。
式内社(淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社〈名神大〉)。 淡路国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本書紀』巻第十二の履中天皇五年[404]九月壬寅[18日]条[LINK]の「天皇、淡路嶋に狩したまふ。是の日に河内飼部等、従駕へまつりて轡に執けり。是より先に、飼部のめさきのきず、皆差へず。時に島に居します伊弉諾神、祝に託りて曰はく、「血の臭に堪へず」とのたまふ。因りて、トふ。兆に云はく、「飼部等の黥の気を悪む」といふ」。

日向国高千穂峯

現在の宮崎県西臼杵郡高千穂または霧島山に比定される。

『日向国風土記』逸文〔『釈日本紀』巻第八(述義四)[LINK]に引用〕には、
「臼杵郡の内、知鋪郷。天津彦々火瓊々杵尊、日向の高千穂の二上峯に天降りましき。時に、天暗冥く夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに土蜘蛛あり、名を大鉏・小鉏と曰ふ。二人、皇孫の尊に奏言しけらく、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らし給はば、必ず開晴りなむ。時に、大鉏等の奏ししが如く、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らし給ふしかば、即ち、天開晴りて、日月照り光りき。因りて高千穂の二上峯といひき。後の人、改めて智鋪と号く」
とある。

この二上峯は槵触峯に比定され、槵觸神社[宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井]が鎮座する。 同社は高智保皇神(国史現在社)の論社の一つで、槵觸峯を神体山とする。
『三国名勝図会』巻之三十三(大隅国 囎唹郡 曽於郡之一)の襲之高千穂槵日二上峯の条[LINK]には、
「日向国諸県郡、大隅国曽於郡に跨れる、大嶽にて、常に霧島山といふ、[中略]太古皇国開闢の初め、天照大神の皇孫天津彦火瓊々杵尊、天上より始て降臨し玉ひし、皇国第一の霊嶽也」「矛峯一名は、東峯、又本嶽といふ。矛峯とは、矛を絶頂に建つ。瓊々杵尊天降の時、斎し玉ひし神代の旧物なり。因て矛峯と名づく。火常峯は、一に西峯と呼ふ。往古矛峯と並び聳へし一峯なりしが、中古以来、嶺頻に火を発し燃へ穿ちて、深坑となり、今僅に其峰形を存ず。常に火を発するを以て、火常峯と号す。此二嶺の根、相距ること、二町許、其中間凹にして、馬背の状の如し。因て其中間を背門丘セトヲと呼ふ」
とある。

また、同書・巻之三十四(大隅国 囎唹郡 曽於郡之二)の西御在所霧島六所権現社(霧島神宮[鹿児島県霧島市霧島田口])の条[LINK]には、
「当社別当華林寺の記に云、欽明天皇の時[539-571]、慶胤上人なる者、此山を開闢し、当社及び梵刹を創建す。其後山上火を発し、寺社焼亡して、多くの星霜を歴たりしに、村上天皇の御宇[946-967]に、性空上人此山に登て、法華経を持誦すること若干年、当社を建立し、六所権現と号す。六観音を感見して、其本地とせり。初め上古の神社は、今の社地より東一里十町許に当る、当社の嶺矛峯と火常峯との中間、背門丘にありしが、天暦中[947-957]、性空背門丘より今の地に神社を遷し、併せて、別当寺を新建す」
とある。

日向国宇解山

不詳。 可愛山の誤記か。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段[LINK]には、
「天津彦彦火瓊瓊杵尊、崩りましぬ。因りて筑紫日向の可愛之山陵に葬りまつる」
とある。

『延喜式』巻第二十一(諸陵寮)[LINK]には、
「日向埃山陵〈天津彦瓊瓊杵尊。日向国に在り。陵戸無し〉」
とある。

その所在については諸説有るが、明治七年[1874]に新田神社[鹿児島県薩摩川内市宮内町]境内の神亀山が可愛山陵に治定された。
『三国名勝図会』巻之十三(大隅国 高城郡 水引之一)の八幡新田宮(新田神社)の条[LINK]には、
「天津彦々火瓊々杵尊、筑紫日向襲之高千穂峯に天降ありて、笠狭宮〈今の加世田(鹿児島県南さつま市加世田川畑)にあり〉に居給ひしが、又此地に皇都を建て、高城千台を起し〈千々の台を築き玉へる宮城の義なり〉、皇居を移し給ひ、高城タキ宮と号す。瓊々杵尊崩し給ひし後、此の地に葬る、是を可愛エノ山陵といふ」 「此山に陵ある故に、後に神体を崇めて、千台新田宮、又八幡新田宮といふ」
とある。

この他、宮崎県延岡市北川町長井俵野の可愛岳や、宮崎県西都市三宅の男狭穂塚古墳が陵墓参考地に指定されている。

伊勢太神宮

現在の正式名称は「神宮」。 後述の内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)をはじめ別宮・摂末社・所管社の総称であるが、ここでは特に内宮を指している。

紀伊国日前社

日前神宮[和歌山県和歌山市秋月]
祭神は日前大神で、相殿に思兼命・石凝姥命を配祀。 通説では日前大神は日像鏡を御霊代とする天照大神である。
式内社(紀伊国名草郡 日前神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 紀伊国一宮。 旧・官幣大社。
同一境内に国懸神宮と並び建っている。
史料上の初見は『日本書紀』巻第三十の持統天皇六年[692]五月庚寅[26日]条[LINK]の「使者を遣して、幣を四所の伊勢・大倭・住吉・紀伊大神に奉る」。
『紀伊国神名帳』[LINK]には名草郡の筆頭に「日前太神宮」とある。

『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段一書(一)[LINK]には、
「石凝姥を以て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。又真名鹿の皮を全剥ぎて、天羽鞴に作る。此を用て造り奉る神は、是れ即ち紀伊国に所坐す日前神なり」
とある。

斎部広成『古語拾遺』[LINK]には、
「思兼神の議に従て、石凝姥神をして日像之鏡を鋳さしむ、初の度に、鋳る所はいささか意に合はず〈是れ紀伊国の日前神也〉、次の度、鋳る所は其の状美麗〈是れ伊勢の大神也〉」
とある。

『大日本国一宮記』[LINK]には、
「日前国懸宮〈天児屋の孫、石凝姥〉紀伊名草郡」
とある。

『紀伊続風土記』巻之十三(名草郡第八)[LINK]には、
「謹みて両大神宮の御霊宝を考ふるに、天照大神天ノ石窟に幽居坐しゝ時、諸神思兼ノ神の議に従い、石凝姥ノ神をして天照大神の御象をうつし造らる。初度先はじめ、日像之鏡及日矛之鏡を鋳る。其鏡少意に合はず、次度に又日像之鏡を鋳る。其鏡形美麗し。是、所謂八咫ノ鏡にて伊勢皇大神の御霊宝なり。初度に鋳たる日像之鏡は、即ち日前大神宮の御霊宝、日矛之鏡は即ち国懸大神宮の御霊宝なり。天孫天降り給ひし時、天神三鏡及種々の神宝を授け給ふ。皇孫尊日向国高千穂ノ峰に天降り坐し、日前・国懸の両御霊を斎鏡・斎矛として八咫ノ鏡と共に床を同しくて殿を共にして斎き祠らしめ給ふ」
とある。
また、『大倭本紀』逸文[LINK]
「天皇の始めて天降り来たまひし時、共に護の斎鏡三面・子鈴一合を副へさせたまふ也〈一の鏡は、天照大神の御霊、天懸大神と名づく也。一の鏡は、天照大神の前御霊、国懸大神と名く也。今紀伊国の名草宮に崇め敬ひ解祭す大神也。一の鏡及び子鈴は、天皇の御食津神、朝夕の御食、夜護日護に斎ひ奉る大神、今巻向穴師社宮(穴師坐兵主神社[奈良県桜井市穴師])に坐しまして解祭す大神也〉」
を引用し、
「按するに此文にては天孫の天降り給ふとき大神の授け給へる御霊宝の八咫鏡の外に三の鏡を相副て授け給へるなり。其三の鏡とは紀伊国名草宮の天縣大神と国縣大神と巻向穴師大神との三なりとの文也。天縣大神とは即日前大神なり
と解釈する。

同書の鎮座次第[LINK]には、
「謹みて両大神宮鎮坐の始末を考ふるに、崇神天皇の御世、漸神威を畏み給ひ、天照太神の御霊宝、五十鈴宮・日前宮・国懸宮の三神鏡を更に鋳さしめ、宮中に斎き祠らせ給ひ、天孫の天降らせ給ひしより斎き奉りし三神鏡は、豊鋤入姫命に牽き奉らしめて、大和国より始めて諸国に鎮坐すへき地を覓給ひ、五十一年[B.C.47]四月八日に本国名草浜宮[和歌山県和歌山市毛見]に遷らせ給ひ、三年の間、宮を並へて共に住ませ給ふ。五十四年[B.C.44]伊勢大神は吉備国名方浜宮に遷らせ給ひ、日前・国懸両大神は猶名草浜宮に留まり坐し。垂仁天皇の御世、伊勢大神は伊勢国五十鈴川上に鎮坐し、日前・国懸両大神は名草浜宮より伊太祁曽大神の旧地名草万代宮に遷り鎮まり坐せり。是今宮の地なり」
とある。
また、『国造家旧記』より
「神日本磐余彦天皇東征の時、此の二種の神宝を以て天道根命に託して斎祭せしむる也。天皇国々を経て摂津国難波に到りたまふ。天道根命、此の二種の神宝を奉戴し、紀伊国名草郡毛見郷に到り、琴浦の海底の岩上に安置し奉る。崇神天皇の御宇に至り、豊鋤入姫命、天照大神の御霊を奉載し、名草浜宮に之を遷したまふ時、日前・国懸両大神、海底の岩上を離れ、名草浜宮に移り、宮を並べて住みたまふ」
を引用するが、
「天孫の天降り給ひし時持給へる神宝は、皆崇神天皇の御世まて宮を共にし殿を同くし給ひし」
と述べ、『国造家旧記』の伝を否定する。

同書の東西社僧の条[LINK]には、
「大神宮寺 社外東辺 本堂三間四方 本尊釈迦如来」「按するに元暦元年[1184]日前宮政所より坂田村浄土寺への置文に当寺者大神宮本地之伽藍釈迦善逝之御霊像と云ふ文あり。浄土寺は国造槻雄弘仁年中[810-824]建立するする所なれは当宮の本地といふもさる事なるへし」「百練抄に安元元年[1175]日前宮熱田御本地無所見仍只被用鏡とあり。是らを以て考ふれは宮地に仏舎を建て本地仏なとを置しは安元の頃より稍後の事なるへし」
とある。

内侍所

三種の神器の一つである八咫鏡(形代)を祀る場所だが、ここでは神鏡自体を指している。 平安時代には内裏の温明殿に奉斎され、女官の内侍が奉仕したので「内侍所」と呼ばれた。 現在は、宮中三殿の賢所に奉斎されている。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段一書(一)[LINK]には、
天孫降臨の際に「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊に、八坂瓊曲玉及び八咫鏡・草薙剣、三種の宝物を賜ふ」
とある。

第九段一書(二)[LINK]には、
「天照大神、手に宝鏡を持ちたまひて、天忍穂耳尊に授けて、祝きて曰く。吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡とすべし」
とある。

『古語拾遺』[LINK]には、
「磯城の瑞垣の朝(崇神天皇の御宇)に至りて、漸に神の威を畏りて、殿を同くしたまふに安からず。故、更に斎部氏をして石凝姥神の裔・天目一箇神の裔の二氏を率て、更に鏡を鋳、剣を造らしめて、まもり御璽みしるしと為す。是れ、今践祚す日に、献る所の神璽の鏡・剣なり」
とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には、
「手摩乳は、姫(稲田姫)の助かりたる事を喜び、尊(素盞嗚尊)を聟に取り奉る時、円さ三尺六寸の鏡を引出物に奉る」 「蛇の尾より取り出でたる天叢雲剣、并に天羽々切剣、手摩乳が聟引出物の鏡、以上三種を、天照大神に奉りて、不孝は許され給へり。かの聟引出物の鏡は、今の内侍所是なり。人皇第四代の帝、懿徳天皇の御時、天より三の鏡降れり、其中一は聟引出物の鏡なり。[中略]聟引出物の鏡は内侍所なり。帝の御守にて、大内におはしますを、第十代の帝崇神天皇の御時、同殿然るべからずとて、殿を作り鏡を鋳て、新しきを御守とし、古きをば天照大神に返し進らせ給ひけり」
とある。

大和国布流社

石上神宮[奈良県天理市布留町]
祭神は布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神で、相殿に宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を配祀。
式内社(大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第三の神武天皇即位前三年[B.C.663]六月条[LINK]には、
「天皇独、皇子手研耳命と軍を帥ひて進みて、熊野の荒坂津〈又の名は丹敷浦〉に到ります。因りて丹敷戸畔といふう者を誅す。時に神、毒気を吐きて、人物咸に瘁えぬ。是に由りて、皇軍復振ること能はず。時に、彼処に人有り。号を熊野の高倉下と曰ふ。忽に夜夢みらく、天照大神、武甕雷神に謂りて曰はく、「夫れ葦原中国は猶さやげりなり。汝更に往きて征て」とのたまふ。武甕雷神対へて曰さく、「予行らずと雖も、予が国を平けし剣を下さば、国自づからに平けなむ」とまうす。天照大神の曰はく、「諾なり」とのたまふ。時に武甕雷神、高倉に謂て曰はく、「予が剣、号を韴霊ふつのみたまと曰ふ。今当に汝が庫の裏に置かむ。取りて天孫に献れ」とのたまふ。高倉、「唯唯」と曰して寤めぬ。明旦に、夢の中の教に依り、庫を開きて視るに、果して落ちたる剣有りて、倒に庫の底板に立てり。即ち取て進る。時に天皇、適く寐せり。忽然にして寤めて曰はく、「予何ぞ若此長眠しつるや」とのたまふ。尋ぎて毒に中りし士率、悉に復醒めて起く」
とある。

『先代旧事本紀』巻第五(天孫本紀)の宇摩志麻治命の条[LINK]には、
「凡そ厥の神剣の韴霊の剣刀は、亦の名は布都主神魂刀、亦は佐士布都と云ひ、亦は建布都と云ひ、亦は豊布都神と云ふ」
とある。
また、同巻の伊香色雄命の条[LINK]には、
「磯城瑞籬宮御宇天皇(崇神天皇)御世、大臣(伊香色雄命)に詔して神物をわかたしめ、天社・国社を定め、物部八十手が所作れる神祭りの物を以て、八十万の群神を祭りたまふ時、建布都大神の社を大倭国山辺郡石上邑に遷したまふ。則ち天祖の饒速日尊に授けたまひて、天より受け来し天璽の瑞宝も、同じく共に蔵め斎ふ。号づけて石上大神と曰ふ」
とある。

『大和志料』[LINK]には、
「古は布都御魂〈一に韴霊に作る〉・天璽瑞宝・天津羽々斬の三霊を祭る」
「布都御魂は一に佐士布都又建布都・甕布都と称し太古建甕槌神中洲平定の際帯ふる所の霊剣にして所謂十握剣是なり、神武帝東征するに当り熊野の高倉下の手を経て献進せしか裁定の後ち天璽瑞宝と共に帝室の鎮護として宮中に奉斎せる」
「天璽瑞宝は瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死返玉、足玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品々物比礼なり、通して十種神宝と称す、これ物部氏の遠祖饒速日尊の天祖より賜はりたるのものに係り其用法は一二三の神語を唱ひこれを振ひ魂を鎮め寿を保たしむるもの即ち鎮魂祭に供する神器なり、宇摩志麻治の帰順するに及ひ之を朝廷に献して宮中に奉斎し天孫の為めに鎮魂法を修め宝算の長久を祈りしものにしてこれを振御霊と称す」
「此の布都御魂と布留御魂とは神武帝より崇神帝まて十代の間は宮中に安置し物部氏之を奉斎せしか帝の世に至り神威を涜さんことを恐れ物部の伊香色雄命に詔して別にこれを移し祭らしめ之を石上振神宮と称す、[中略]是当社の創始にして即ち崇神帝即位七年[B.C.91]十二月に係れり、所謂高庭とは地を深く穿り石窟を作り二種の霊宝を奉蔵し其上に高く土を盛れるを以て名づけたるものにして古はこれに杉を栽え以て神木となし剣を倒植するに象れり」
「是より先き素戔烏尊の彼八岐大蛇を斬してふ十握剣〈一名天津羽々斬又蛇之麁正又布都斯魂〉は備前国赤坂郡(石上布都魂神社[岡山県赤磐市石上])に奉斎せられしか、仁徳帝五十六年[368]十月に至り布都氏の祖市川臣に詔してこれを高庭の地に移し祭らしむ」
とある。

『諸社根元記』の石上の条[LINK]には、
「大和国山辺郡石上布瑠神、崇神天皇御宇鎮座、本地 十一面 文殊 不動」
とある。

尾張国熱田社

参照: 「熱田大明神事」熱田大明神事

宝剣

三種の神器の一つである草薙剣(形代)を指す。 現在は、八坂瓊曲玉と共に皇居内の「剣璽の間」に安置されている。

崇神朝に造られた鏡・剣の内、剣は寿永四年[1185]に壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水した際に失われた。
順徳天皇『禁秘抄』の宝剣・神璽の条[LINK]には、
「(宝剣は)而して寿永に海に入りて紛失す、後院(後鳥羽)御時以降、廿余年清涼殿の御剣を用ゐらる、仍て璽を以て先と為す、而して承元(土御門)譲位の時[1210]、夢想有りて、伊勢より進ぜらる、已来宝剣に准へ剣を以て先と為す也」
とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には、
「其比或人の夢に見けるは、草薙剣は、風水龍王、八岐大蛇と変じて、素盞嗚尊に害さられ、持つ所の剣を奪はる。此風水龍王は、伊吹大明神たるに依りて、不破関に蛇となりて、日本武尊の伊勢大神宮より天叢雲剣を賜はりて、東夷のために下国しけるを、留め取らんとし給ひけるも協はず、御上りの時待ち儲けて、奪ひ返さんとし給ひけるも殺されけり。生不動・八歳の皇(安徳天皇)と顕れて、本の剣は叶はねども、後の宝剣を取り持ちて、西海の波の底にぞ沈み給ひける。終に龍宮に納りぬれば、見るべからずとぞ見えたりける」
とある。

『源平盛衰記』第四十四巻の「老松若松剣を尋ぬる事」[LINK]には、
「宝剣は必ずしも日本帝の宝に非ず、龍宮城の重宝なり。我が次郎王子、我が不審を蒙り、海中に安堵せず、出雲国簸川上に尾頭共に八ある大蛇と成り、人をのむ事年々なりしに、素盞烏尊、王者を憐み民を孚み、彼の大蛇を失はる。其の後、此の剣を尊取り給て、天照太神に奉る。景行天皇の御宇に、日本武尊東夷降伏の時、天照太神より斎宮を御使にて、此の剣を賜ひて下し給し、胆吹山のすそに、臥長一丈の大蛇となりて、此の剣をとらんとす。されども尊心猛おはせし上、勅命に依て下り給ふ間、我を恐れ思ふ事なく、飛び越へ通り給しかば力及ばず、其後謀を廻しとらんとせしかども叶はずして、簸川上の大蛇安徳天皇となり、源平の乱を起し龍宮に返し取る」
とある。

日天子

日天子はインド神話の太陽神スーリヤ(Sūrya)またはアーディティヤ(Āditya)を仏教に取り入れた尊格である。

中国や日本では日天子は観世音菩薩の化身と見なされた。 例えば、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』巻一(序品第一)[LINK]
「復、名月天子、普香天子、宝光天子、四大天王有り、其の眷属万の天子と倶なり」
について、智顗『妙法蓮華経文句』巻二下[LINK]では
「名月は是れ宝吉祥にして、月天子、大勢至の応作なり。普香は是れ明星天子にして、虚空蔵の応作なり。宝光は是れ宝意にして、日天子、観世音の応作なり」
と釈している。

日本では『須弥四域経』〔亮禅『白宝口抄』巻十二(薬師法第一)に引用〕[LINK]の偈句として
「帰命日天子 本地観世音 為度衆生故 普照四天下 帰命月天子 本地大勢至 為度衆生故 普照四天子」
が説かれた。 『天地霊覚秘書』では『華厳経』に仮託して
「帰命日天子 本地観世音 為度衆生故 普照四天下 一称一礼者 滅罪除苦悩 臨終住正念 往生安楽国」
の偈句が説かれ、伊勢神宮祠官の『日天子作法』『日天子月天子礼文』や御流神道・修験道の印信類でも同様の偈句が唱えられた。
(伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第2部 変容する天照大神—同体説の諸相、第1章 天照大神・十一面観音同体説の形成、法蔵館、2011)

中世の神道説では、天照大神は日天子と同体とされた。
『造伊勢二所太神宮宝基本記』裏書[LINK]には、
「日天子 天地未だ割れず、陰陽分かれざる以前、是を混沌と名づく。万物の霊、是を虚空神と名づく。亦、大元神と曰ふ。亦、国常立神。亦、倶生神と名づく。希夷視聴の外、氤氳気象の中、虚にして霊有り、一にして体無し。故、広大の慈悲を発す。自在神力に於て、種々の形を現し、種々の心行に随って、方便利益を為す。顕はす所の名を大日孁貴と曰ふ。亦、天照神と曰ふ。万物の本体と為て、万品を度す」
とある。

『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』[LINK]には、
「興玉神、託て宣く。天照坐皇太神は則ち大日孁貴なり。故に日天子と号く。虚空を以て正体と為す。故、天照太神と曰ふ。亦、止由気皇太神は則ち月天子なり。故、金剛神と曰ふ。亦、天御中主神と名づく。水徳を以て万品を利ふ。故、亦名づけて御饌都神と曰ふ」
とある。

日向国高屋山

『日本書紀』巻第二(神代下)の第十段[LINK]には、
「彦火火出見尊、崩りましぬ。日向の高屋山上陵に葬りまつる」
とある。

『延喜式』巻第二十一(諸陵寮)[LINK]には、
「高屋山上陵〈彦火火出見尊。日向国に在り。陵戸無し〉」
とある。

その所在については諸説有るが、明治七年に鹿児島県霧島市溝辺町麓の神割岡が高屋山上陵に治定された。
『薩隅日地理纂考』十六之巻の高屋山上陵の条[LINK]には、
「此山陵溝辺郷当村に在りて俗に神割岡と云ふ、高六十間許なり」「固より高千穂の西岳より真西に当りて直径二里に過されは、古事記に御陵者即在高千穂山之西也とあるに能く符合せり、又神割岡より南の方約七町許に鷹屋神社あり、上古彼の神割岡の頂に鎮坐ありしを御荒ひ甚しく土人其神威を懼畏み往古今の地に遷坐ありしよし伝称せり」
とある。
一方、鹿児島県肝属郡肝付町の国見岳を高屋山上陵とする説も有力であった。
『三国名勝図会』巻之四十九(大隅国 肝属郡 内之浦)の高屋山上陵の条[LINK]には、
「高屋山上陵 小串村(鹿児島県肝属郡肝付町北方小串)、高屋山上にあり、峻嶒たる一峯の頂き、古壇一区、清浄を凝らし、老樹万年、翠華を含み、山巒環拱して、独り尊厳なり、是れ彦火火出見尊の御陵にして、陵上に自然の御蔭石を安厝す、地を出ること一尺余、周廻八尺許り、即ち尊を葬むり奉りしところにて、上へに小廟を建つ、此山一名国見嶽、因て俗に国見陵とも称し奉り、廟を国見権現と号す」
とある。

この他、鹿児島神宮の元宮である石体宮にも彦火火出見尊の御陵とする説がある。

日向国吾平山

『日本書紀』巻第二(神代下)の第十一段[LINK]には、
「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、西洲の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平山上陵に葬りまつる」
とある。

『延喜式』巻第二十一(諸陵寮)[LINK]には、
「吾平山上陵〈彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。日向国に在り。陵戸無し〉」
とある。

その所在については諸説有るが、明治七年に鹿児島県鹿屋市吾平町上名の鵜戸窟が吾平山上陵に治定された。
『三国名勝図会』巻之四十八(大隅国 肝属郡 姶良)の吾平山陵の条[LINK]には、
「姶良町村の山窟にあり、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵にて、俗に此山を鵜戸山といひ、窟を鵜戸窟といふ」「窟に入こと九間余の所に、高さ四尺一寸、廻り三丈九尺許土を盛り、其根には、人力動すべからざるの盤石を以て、斜に掩ふ、是即ち玉体を葬奉し所にて、其の土半は自然と岩石に化し、[中略]其土岩の前に、石坂を壇とし、上に小社を建つ、中に古鏡数面が納む、此社古へは山上にあり。[中略]又其土岩より東の方三尺許を距て、是亦土を盛り、其の根盤石を伏たる円き塚あり、[中略]是葺不合尊の后妃、玉依姫の御陵といふ伝ふ」
とある。
山窟の北の傍、約三十六歩の所に鵜戸六所権現廟(鵜戸神社[鹿児島県鹿屋市吾平町麓])が祀られている。
この他、鵜戸神宮[宮崎県日南市鵜戸]の近くの速日峰が陵墓参考地に指定されている。
『鵜戸山之縁起』には、
「鵜戸山大権現は地神第五葺不合尊、母は海童之大女豊玉姫也。此尊は海童之宮にて御入胎有り。御誕生は此窟也。此窟に住給ふ事、八十三万六千四十二年也。御児神武天皇四十五之庚午年[正しくは甲寅年、B.C.667]四月三日に日本仁王之代を御渡有て葺不合尊は崩。日本紀神代之巻に曰、日向国吾平山葬峯陵と是此山の事也。庚申之年[B.C.661]也」
とある。

地神五代

参照: 「地神五代事」

出雲大社

出雲大社[島根県出雲市大社町杵築東]
祭神は大国主大神で、天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇摩志阿斯訶備比古遅神・天之常立神を御客座に配祀。
式内社(出雲国出雲郡 杵築大社〈名神大〉)。 出雲国一宮。 旧・官幣大社。
『出雲国神名帳』には第四位に「杵築大明神」とある。

『古事記』上巻[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、十掬剣を波に逆さに突き立てその剣先に座し、大国主神に「天照大御神・高木神の命以ちて、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知さむ国ぞと、言依さし賜はり。故れ汝が心は奈如にぞ」と問うた。 大国主神は「は得白さじ。我が子八重言代主神、是れ白す可き」と答えた。 天鳥船神を遣わすと、八重事代主神は「かしこし、此の国は、天神之御子に立奉りたまへ」と云い、船を踏み傾け、天の逆手を青柴垣に打ってお隠れになった。
「今汝が子事代主神かく白しぬ。亦白す可き子有りや」と問うと、大国主神は「亦我が子建御名方神有り。此を除ては無し」と申した。 建御名方神は千引石を持って来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍び如此かく物言ふ。然らば力競為む。故我先づ其の御手を取らむ」と言った。 建御雷神が手を取らせると、その手は立氷(つらら)と成り、また剣の刃と成ったので、建御名方神は恐れて退いた。 建御雷神は建御名方神を引き寄せ、その手を若葦を取る様に掴み拉いで投げ放ったので、建御名方神は逃げ去った。 科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に追い詰めて殺そうとした時、建御名方神は「恐し、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。[中略]此の葦原中国は、天神御子の命のまにまに献らむ」と申し上げた。
更に「今汝が子等、事代主神・建御名方神二神は、天神御子の命の随に違はじと白しぬ。汝が心は奈如にぞ」と問うと、大国主神は「僕が子等二神の白せる随、僕も違はじ、此の葦原中国は、天神御子の命の随献らむ。唯僕が住所をば、天神の御子の天津日継知らしめさむ、とだる天之御巣如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて、治め賜はば、僕は、百足らず八十坰手に隠りて侍ひなむ」と申してお隠れになり、出雲国の多芸志の浜に天之御舎が造営された。

『日本書紀』巻第二(神代下)の第九段一書(二)[LINK]によると、葦原中国の平定のために武甕槌神と経津主神が遣わされた。 二神が出雲国の五十田狭小汀に降り、「汝、将に此の国を以て、天神に奉らんやいなや」と問うと、大己貴神は「疑ふ、汝二神は、是れ吾が処に来せるに非ざるか。故、許さず」と答えた。 経津主神が高天原に戻って報告すると、高皇産霊尊は二神を再び遣わして「夫れ汝が治す顕露の事は、是れ吾孫治すべし。汝は以て神事を治すべし。又汝が住むべき天日隅宮は、今供造りまつらむこと、即ち千尋の栲縄を以て、結ひて百八十紐にせむ。其の宮を造る制は、柱は即ち高く太く、板は即ち広く厚くせむ。又田供佃らむ。又汝が往来ひて海に遊ぶ具の為には、高橋浮橋及び天鳥船、亦造りまつらむ。 又天安河に、亦打橋造らむ。又百八十縫の白楯供造らむ。又汝が祭祀を主むは、天穂日命、是なり」と大己貴神に勅した。 大己貴神は「敢へて命に従はざらむや。吾が治す顕露の事は、皇孫当に治めたまふべし。吾は退りて幽事を治めむ」と国譲りに応じ、身に瑞之八坂瓊を付けてお隠れになった。

『出雲国造神賀詞』[LINK]には、
「高天の神王、高御魂・神魂命の皇御孫命に天下大八嶋国を事避さし奉らしし時に、出雲臣等が遠祖天穂比命を、国体見せ遣はしゝ時に、天八重雲を押別て天翔り国翔りて、天下を見廻て返事申給はく、「豐葦原の水穂国は、昼は五月蠅なす水沸き、夜は火瓮なすかがやく神在り、石根・木立・青水沫も事問て、荒ぶる国在り、然れども鎮め平て、皇御孫命に安国と平けく知ろしめし坐さしめむ」と申して、己命の児天夷鳥命に布都怒志命を副へて、天降し遣して、荒ぶる神どもを撥ひ平げ、国作しゝ大神(大己貴神)をも媚び鎮めて、大八嶋国の現事・顕事、事避らしめき。乃ち大穴持命の申し給しはく、「皇御孫命の鎮まり坐さむ大倭国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて倭大物主櫛𤭖玉命と御名を称へて大御和の神奈備(大神神社[奈良県桜井市三輪])に坐せ、己命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備(高鴨神社[奈良県御所市鴨神])に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提(河俣神社[奈良県橿原市雲梯町])に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備(飛鳥坐神社[奈良県高市郡明日香村飛鳥])に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて八百丹杵築宮に静まり坐しき」」
とある。

『先代旧事本紀』巻第一(陰陽本紀)[LINK]には、
「(伊弉諾尊が)御鼻を洗たまひし時、所成せる神を建速素戔烏尊と名づく。出雲国の熊野・杵築の神宮に坐します」
とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には、
「素盞烏尊は、御意荒しとて出雲国に流され、後には大社となり給へり。さて伊弉諾・伊弉冊尊は、国をば天照大神に譲り、山をば月読尊に奉り、海をば蛭子領し給へり。、素盞烏尊は分領なしとて、御兄達と度々合戦に及ぶ。これに依て不孝せられて、雲州へぞ流されける」
とある。

『太平記』巻二十五の「伊勢より宝剣を進る事 附黄梁夢の事」[LINK]には、
「素盞烏尊は、出雲の大社に御坐す。此尊草木を枯し、禽獣の命を失ひ、諸々荒くおはせし間、出雲の国へ流し奉る」
とある。

存覚『諸神本懐集』[LINK]には、
「天照大神をは日本国の主と為し奉り給ふ、今の伊勢大神宮これなり。素盞烏尊をは日本国の神の祖と為し奉り給ふ、今の出雲の大社これなり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]には、
「素戔烏の命とは出雲大明神也。金神也。金は物を切破るを以て徳とす。此命、金の性にて心たけくして悪神を語らひ天照大神と軍をする也」 「尊(素戔烏尊)常に軍を発て日神を打奉むとす。此時、日神尊を賺さむか為に、をねみの命(嶋根見命)を使として、一説には片倉辺尊を使とも云う、素戔烏の陣へ遣し給ふ。汝我子と成たらば一年に十月を譲り出雲石見の両国をとらせんと言ふ。是にふけりて天照大神の養子と成て、譲得により子の神と云されは、十月には諸神出雲に行て仕へ奉るなり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

建武三年[1336]の国造出雲孝時解状土代写には、
「謹みて旧記を検ずるに、当社(杵築大社)大明神は伊弉諾・伊弉冉の御子、天照大御神の弟、天下社禝の神素戔烏尊これなり。十束の利剣を振るいて、八咫の毒蛇を割き、八目の鏑箭をもって呉国の凶徒を射、国域の太平を致す。而してなお戎敵を防がんため、神殿を高大に建て、或は四海を守り、不慮を警す。故に、これを矢蔵明神と号す。或は浮山を留めて垂れ潜む。故に、これを杵築大社と号す」
とある。
また、大社と密接な関係を有した浮浪山鰐淵寺[島根県出雲市別所町]の縁起を記す鰐淵寺僧某書状断簡には、
「当寺(鰐淵寺)は最初西天鷲嶺の艮の隅、欠けて浮浪し流れ来るを、素戔嗚尊繋ぎ留め玉う。故に浮浪山といふ。麓には霊祇利生の大社を建て、諸神降臨の勝地を定め、峯には権現和光の社壇を構へ、仏天影向の結界を示す。(これ)夜半毎に大明神飛瀧の社地に歩を運び、仏法を護り国家を持し盟誓を成し玉ふ所以なり。ここをもって、杵築と鰐淵二にして二ならず、並びに仏道・神道も相離るる事なし」
とある。
(『大社町史 通史編』上巻、第3編 歴史、第3章 中世、第3節 簸川平野の開発と大社祭神の転換、第3項 大社祭神の転換と中世「出雲神話」の成立、1991)

本満宮

不詳。
福田晃は「『神道集』は、巻一では豊後、巻五では筑紫と国が変わるが、「本満宮」とする。これは宇佐八幡のことかとも考えられるけれども、月神を宇佐八幡宮に比定すると、同書中の「宇佐八幡事」の内容との間に齟齬を来たすために変更したのだろうか」と述べている。
(福田晃「物語唱導の系譜(承前)」、伝承文学研究、40、pp.1-30、1991)

一女三男のうち、天照大神(伊勢の皇大神宮)・蛭子(西宮神社)・素戔嗚尊(出雲大社)は鎮座地が定まっているのに対し、月読尊に関しては以下の様に異説が多い。
『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]には「月神と云は鹿嶋大明神、是は水神也、水は智也、智は善悪を分別する心有、故に月神は諸事を得心て天照大神の後見として国土の事を計給、是を天児屋尊と云也」(引用文は一部を漢字に改めた)とある。
『塵滴問答』[LINK]には「(伊弉諾・伊弉冉の)二男は春日の大明神、摂政殿下の御先祖也」とある。
『平家物語』剣巻[LINK]には「月神と申すは、月読尊、高野丹生大明神と号す」とある。
尊海『即位法門』には「第四月神、女体、ツキヨミノ宮〈伊勢サイ宮也、後見也〉」とある(同書は一女を月神、三男を素盞嗚・日神・蛭児とする)。
『朗詠注和談抄』には「三は月神、月読尊と申、今の宇佐大明神也」とある。
『古今集註』には「月神とは、天忍穂耳尊なり。伊勢月よみの社、是なり。他流は、筑紫宇佐宮、此神といへり。これ僻事か」とあり、宇佐八幡説を否定して天忍穂耳尊と同体とする。
(伊藤聡・門屋温監修『中世神道入門 —カミとホトケの織りなす世界—』、第2章 中世の神々、第1節 古典神の変貌、勉誠社、2022)

西宮・恵美酒

西宮神社[兵庫県西宮市社家町]
第一殿の祭神は蛭児大神。
第二殿の祭神は天照大神で、大国主大神を配祀する。
第三殿の祭神は須佐之男大神。
旧・県社。
文献上の初出は『伊呂波字類抄』巻十の広田の条[LINK]における「夷〈毘沙門〉」「三郎殿〈不動明王〉」。
元は広田神社の浜南宮の社地に祀られた摂社であったが、明治五年[1872]に同社から分離した。

『平家物語』剣巻[LINK]には、
「蛭子は三年まで足立たぬ尊とて御座ければ、天石櫲樟舟に乗せ奉り、大海が原に推し出して、流され給ひしが、摂津国に流れ寄りて、海を領する神となりて、夷三郎殿と顕れ給ひて、西宮におはします」
とある。

『古今和歌集序聞書』(三流抄)[LINK]には、
「蛭子と申は二神三男なり。是は火神也。火は礼なり。礼は物を敬まふ義なり。今此蛭子生れて骨も無く練貫の如く也。二神海に打入給ふ。竜神是を取奉りて天神の子なれば養子とす。三歳の時始て足手目鼻出来す」 「扨蛭子兄の天照大神の御前に参たり。大神の言く、汝は親に棄てられ奉りて、下位の竜神か子と成されば、汝は下主を守る神になれとて、今津国西宮にいわゝれて、ゑひす三郎殿と云る。是は二神三男なる間、三郎とは云也。此人同し兄弟なれとも下臣と成て、兄に弟の敬す故に礼の神と云、是火神南を司さとる也」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『大倭神社註進状並率川神社記』裏書[LINK]によると、椎根津彦命は難波に遊行し、魚釣りを楽しみにしていた。 ある夜、海原を望むと、天の光華が海原を照らしていた。 椎根津彦命が怪しんで其処に行くと、磐橡樟船が有ったので、これを引き上げて浜に置いた。 翌日の夜、光華が其の浜を照らした。 椎根津彦命は武庫浜に宮代を建て、磐橡樟船を蔵めて蛭児神の神躰として奉斎した。 広田西宮の三良殿(三郎殿)がこれである。

神吽『八幡宇佐宮御託宣集』名巻二(三国御修行部)[LINK]には、
「大帯姫異国を降伏せんがため、四王寺の峯に於て、諸天善神を驚し奉る時、地神第五主の彦波瀲尊の霊、夜来りて言く、「汝我が婦と為らば、祈る所を成すべきなり」と。大帯姫言く、「我懐妊れり。平産の後を期べし」と。仍ち同心せしめ、異国に渡り、三韓を伐ち、本朝に帰り、筑前国蚊田郡に於て、皇子(八幡)を生み、貴約に任せ、夫婦と成りたまふ。九月和多御崎(和田岬)に於て、此の御子を海浜の砂の中に隠し、七日の後、行きて見給ふ。体の色鮮にして、容顔美しきなり。手に入れて養ふ。日を逐つて神しきなり。摂津国西宮の浜の御前是れなり。広田の社は、御母大帯姫なり。殊に此の御子を愛したまふ故に、西宮に近く、迹を垂れしめ坐す」
とある。

三浦浄心『慶長見聞集』巻三の「上総浦にて黒船損する事」[LINK]には、
「忝くも夷三郎と申は、伊弉諾の御子、惣して一女三男と申て、四人の子をはします、日神・月神・素盞嗚・蛭子是なり。天照大神よりも三番めにわたらせ給ふ御弟なり。御名をば三郎殿と申奉る。又西の宮と申き、本地阿弥陀如来にまします」
(引用文は一部を漢字に改めた)とあり、江戸時代には境内に本地阿弥陀堂が在った。

『摂津名所図会』巻之七[LINK]には、
「大国主西神社 西宮市庭町にあり。西宮太神宮と称す。〔延喜式〕に曰く、鍬靫、菟原郡に載す」
とある。 西宮神社を式内の大国主西神社に比定する説が有り、明治六年[1873]に西宮戎社から大国主西神社に改称した事も有った。 現在は本地阿弥陀堂の跡地に鎮座する境内社を大国主西神社としている。

西宮市武庫郡神職会『神社と史蹟』[LINK]には、
「口碑伝ふる所に依れば、昔鳴尾の浦の漁夫武庫海の沖にて夜漁せる時、其の網の常よりも甚重かりければ悦びて引上げしに魚はなくて奇しき神像様のもの懸れり。漁夫何の心もなく呟きつゝそを海に投げやり尚も漁を続けゝるに和田岬に至りぬ。其沖合にて又網を引きしに先に武庫海にて捨てたる神像又もや上り来りぬ。此に於てこは唯事にならじと俄に尊崇の念を起し、船に納め家に帰りて斎き祀れり。或夜の夢に神誨あり。吾は是蛭児神なり。国々を廻りて今此処に来れり、是より西の方に好き宮地あり、彼の所に居らんと欲す。汝よく図らば幸を与へむと。漁夫驚いて夢の様を村人に告げ相計りて神像を輿に乗せ、西の方指して幸せしに御前浜に来れる頃神像自ら止まりければ、仮に停め置き此里の人々にも計り、遂に宮代を建てゝ鎮め奉れり。此即ち今の宮居なりと言ひ伝へたり」
とある。

第六天魔王

「第六天魔王之を見て~浄土の菩提を願ふべきなり」は、無住『沙石集』巻第一の第一話「大神宮の御事」[LINK]とほぼ同様の内容である。

第六天魔王は六欲天の最高位である他化自在天を住処とし、仏道修行を妨げる天魔の王で、名を波旬(Pāpīyas)と云う。 仏伝によると、修行中の釈尊は魔王を降して悟りを開いた(降魔成道)と伝えられる。
日本では大自在天=摩醯首羅天(Maheśvara)あるいは伊舍那天(Īśāna)と同一視される事もある。 例えば、安然『真言宗教義時』巻第四[LINK]には「入大乗論に云ふ、摩醯首羅に二種有り。一は伊舍那摩醯首羅、二は毘遮舎摩醯首羅。前は是れ第六天魔也。後は是れ第四禅天王也」とある。

『中臣祓訓解』[LINK]には、
「天地開闢ひらきはじめし初め、神宝日出でます時、法界法身心王大日、無縁悪業の衆生を度せんが為に、普門方便の智恵を以て、蓮花三昧の道場に入り、大清浄願を発し、愛愍の慈悲を垂れ、権化(天照大神)の姿を現じ、跡を閻浮提に垂れ、府璽を魔王に請ひ」
とある。

『通海参詣記』巻下[LINK]には、
「仏法を忌む事は、昔伊弉諾・伊弉冉尊の此国を建立せんと思給て、第六天の魔王に乞請け給しにて、王(魔王)の申て云く、「南閻浮提の内、此所に仏法流布すべき地也。我仏法の仇なるに依て、是を許すべからず」と申しかば、伊弉諾尊、「然らば仏法を忌むべき也」とて、乞請け玉しによりて、仏法を忌む也と申し伝へたり」
とある。

『平家物語』剣巻[LINK]には、
「天神七代のはじめ、国常立尊、此下に国なからんやとて、天瓊矛を降して、大海の底を搜り給ふに、国なければ鋒を引上げ給ひけるに、矛の滴落ち留り、凝まり、島となりにけり。吾朝の出で来るべき前表にて、大海の浪の上に、大日といふ文字浮べり。文字の上に鋒の霤留りて島となるが故に、大日本国と名づけたり。淡路国は是日本のはじめなり。[中略]さて天照大神は、日本を譲り得給ひながら、心のまゝにも進退せず。第六天の魔王と申すは、他化自在天に住して、欲界の六天を我儘に領せり。しかかも今の日本国は、六天の下なり。我領内なれば、我こそ進退すべき処に、此国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。是よりして、人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住せず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせんとて免さずありければ、天照大神力及ばせ給はで、三十一万五千載をぞ経給ひける。譲をば請けながら、星霜積りければ、大神魔王に逢ひ給ひて曰く、「然るべくは、日本国を譲の任を免し給はゞ、仏法をも弘めず、僧法をも近づけじ」とありければ、魔王心解けて、左様に仏法僧を近づけじと仰せらる。疾々奉るとて、日本を始めて赦し与へし時、手験にとておしてを奉りけり。今の神璽とはこれなり」
とある。

『太平記』巻第十六の「日本朝敵の事」[LINK]には、
「爰に第六天の魔王集て、「この国の仏法弘まらば、魔障弱くして其力を失ふべし」とて、彼の応化利生を妨んとす。時に天照太神、彼が障礙を休めん為に、「我三宝に近づかじ」と云ふ誓をぞなし給ひける。之れに依つて第六天の魔王忿りを休めて、五体より血を出し、「尽未来際に至るまで、天照太神の苗裔たらん人を以て、此国の主とすべし。若し王命に違ふ者あつて、国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属、朝にかけり夕べに来て、其罰を行ひ其命を奪ふべし」と堅く誓約を書いて、天照太神に奉る。今の神璽の異説是れ也」
とある。

前田家本『水鏡』巻上の神武天皇条[LINK]には、三剣(草薙剣、天蝿斫剣、韴霊)の由来を
「此の三の剣は源を尋ば、天照太神の父の御神、伊弉諾の尊、此日本国の始て国と成給し時、彼第六天の魔王我管領と思、大海を神国と成されたる事を安からず思て、彼后の伊弉冉の尊の一女三男の四神の御子のうつり、第五の御子其名字火神カグツチ、みかどと孕まれ、さて生し時、其母并其類火の焼失に、此の開白の日本国を悉皆焼払て本の大海に成したりき。是を後に彼父の御神伊弉諾さとり座して怒りを成して十握の剣を抜持、雲の上忉利天の高天の原、天の八十河の浮橋の上にて、此第五の皇子第六天の魔王の変作を、父の王直に斬り給し時、御怒りの御力を強く出し給し故に、彼の十握の御剣より三の剣分散じき。此三の剣伝りて今代まで日本に有れば、神代より伝りたる剣三有りとは申也」
(引用文は一部を漢字に改めた、以下同)と記す。

同書の神功皇后条[LINK]には、神璽の由来を
「古へ日本国を第六天魔王と天照太神と争論し給し時、海の上の舟軍の与力には、根本として春日大明神こそ御身づから(自ら)甲冑をめされ、天の布留の剣を抜持ち給、魔王の軍兵を多く亡し給時、魔王遂に随ひ奉て、日本国の去状名判を居て奉き。其を今に至まで、日本の宝の三種の神祇(神器)の第一の神璽と申御宝是れ也」
と記す。

伊弉諾尊を伊舍那天(魔王)と同一視する説も有った。
東密安祥寺流の秘伝『小皮子』[LINK]には、
「此日本国は大日の本国也。天照大神は大日如来也。天照大神父母をはイサナキ・イサナミの尊と申すなり。是れ則ち伊舍那天・伊舍那后と習ふ也。此魔王、此島には仏法ひろまり無為界に入る物おほかるべしと歎き給し時、大日如来、魔王の御子となり給て、我此国の主として、我子孫を此国の主となして仏法をいむべしと申て、此国に化て垂れ給ふ。真実には魔王の御心となりて、一切衆生を出離せしめ給はむ為也」
とある。

三宝の名

『延喜式』巻第五(神祇五・斎宮)[LINK]には、
「凡そ忌詞は、内の七言は、仏をば中子と称ひ、経をば染紙と称ひ、塔をば阿良良岐アララキと称ひ、寺をば瓦葺と称ひ、僧をば髪長と称ひ、尼をば女髪長と称ひ、斎をば片膳カタジキと称ひ」 「又別の忌詞に、堂をば香燃コリタキと称ひ、優婆塞をば角筈と称へよ」
とある。

仏の忌詞は「中子」とするのが通説だが、『伊勢公卿勅使部類記』の「弘長元年十二月九日公卿勅使記」には、
仏は立強タチスクミと云、経は染紙と云、寺は古利瀧コリタキと云〈又瓦葺と云〉、塔は阿良々畿と云、僧は髪長と云」
とある。 また、『天照大神儀軌』には、
「誓文に云、仏をは立強タチコハルと名づけ、法は染紙と名け、僧は髪長と名け、塔をは維瀧コリタキと名づく」
とある。
(伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第5部 天照大神信仰と僧徒—その言説形成を担った人々、第3章 無住と中世神道説—『沙石集』第一巻第一話「大神宮御事」をめぐって)

天岩戸

参照: 「御神楽事」天岩戸

天津罪

『延喜式』巻第八(神祇八・祝詞)の六月・十二月晦の大祓詞[LINK]には、
「天の益人等が、過犯しけむ雑雑の罪事は、天津罪と、畔放、溝埋、樋放、頻蒔、串刺、生剥、逆剥、屎戸、幾許の罪を、天津罪と法別けて」
とある。

素戔嗚尊が犯した天津罪について、『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段[LINK]には、
「天照大神、天狭田・長田を以て御田としたまふ。時に素戔嗚尊、春は則ち重播種子シキマキ(頻蒔)し、且畔毀アナハチ(畔放)す。秋は天斑駒を放ちて、田の中に伏す。復天照大神の新嘗しめす時を見て、則ち陰に新宮に放𡱁クソマる(屎戸)。又天照大神の、方に神衣を織りつつ、斎服殿に居しますを見て、則ち天斑駒を剥ぎて(生剥)、殿の甍を穿ちて投げ納る」
とある。

第七段一書(一)[LINK]には、
「稚日女尊、斎服殿に坐しまして、神之御服織りたまふ。素戔嗚尊見して、則ち斑駒を逆剥ぎて、殿の内に投げ入る」
とある。

第七段一書(二)[LINK]には、
「日神尊、天垣田を以て御田としたまふ。時に素戔嗚尊、春は渠填(溝埋)め畔毀(畔放)す。又、秋の穀已に成りぬるときに、則ち冒すに絡縄を以てす。且日神の織殿に居します時に、則ち斑駒を生剥にして、其の殿の内に納る」「日神の新嘗しめす時に及至びて、素戔嗚尊、則ち新宮の御席の下に、陰に自ら送糞る(屎戸)
とある。

第七段一書(三)[LINK]には、
「素戔嗚尊、妬みて姉の田を害る。春は廃渠槽毀ヒハガチ(樋放)、及び埋溝(溝埋)毀畔(畔放)、又重播種子(頻蒔)す。秋は捶籤(串刺)し、伏馬す」
とある。

大日如来の印文

大日如来の種子・真言・印相・独鈷など諸説有る。

『塵滴問答』[LINK]には、
「吾国は海底に大日の印文として始る国也。密教相応すへしと聞るは何様なる事そ哉」「此のवं(vaṃ)字の形にして水所生の体也。自性清浄にして染着なし。वं(vaṃ)字は金剛界大日の種子。五大の内には水大輪の主なり。万物の生長も水大の徳也。されはवं(vaṃ)字より始たる大地。अ(a)字の大地は胎蔵界の大日の種子。五大の内には地大輪は主真智なり。是故に相応と云ふ。仍国を開き名付て大日本国と云ふ」
とある。

京大本『古今集註』には、
「伊弉諾伊弉冉尊は天神七代の末の神也。いまの素盞烏尊の祖父也。しかるに、天にてわれに陰陽あり、天あり、あにこの底下に地なからんやとて滄溟を見給ひしに、胎金両部大日如来の印明うかべり。いはゆる智剣印(智拳印)定印、唵婆佐羅駄都婆(唵嚩日囉駄覩鑁)阿備羅吽剣(阿毘羅吽欠)、これ也。是を見給ひて、われに陰陽あり、滄溟に胎金両部をあらはす、天のみありて地なからやとて天坂鉾くだしさぐり給へりし。そのほこの潮のしたゝりのあはこりて国となれり」
とある。
(片岡了「第六天魔王の説話」[LINK]、文芸論叢、44号、pp.1-13、1995)

『熱田の神秘』[LINK]には、
「この二人の神(伊弉諾・伊弉冉尊)宣ひけるやうは、そもそも、これより下に、国無き事はあらしとて、天の逆鉾をさし下ろし、探り給ひしかば、鉾の雫、葦の葉の上に留まり、砂長して、巌となりしかば、これぞ国の初めなりける。されこそ我が朝を、葦原国と名づけけれ。国は有り、名をは何というべきと、御誓ひあり、彼の国の中にあたりて、大日如来の智拳印を結び給ひてさし給ふ。これを御覧して、さればこそ、この国は三身相応の国なり、末代決法、成就の地なり。めでたき国なれば、いかにもして仏法を弘めむとて、大日さし給ふ国なれな、大日本国と名づけたり」
(引用文は一部を漢字に改めた)とある。

『御流神道竪印信集』の「印文至極之大事」[LINK]には、
「夫れ大海の底は則ち印盤浦(印旛沼)の事。大日如来、我が朝の未熟の機根の前には、八万法蔵を掌中に入れて、大海の底に納む。三千年に一度、涌出あり。これを拝するなり。人間の眼には珍なり。其の印相は合掌という。之に依りて諸印の通用なり。故えに印字を金剛合掌と習ふ也。印字の姿は金剛体なり。これ納めるを以て印文と云ふ也。茲より下総国の内、印西、印東、印庄と云ふ。此の所に始めて此の印出生す。三千年に一度出る也」
とある。

『御流八十通』の「海底印信(日本国図)」には無所不至印を示し、
無所不至印
「これは下総国印盤浦に、三千年に一度あて顕われ出ずるという印これなり」「今は深秘にして無所不至の印にしてバアンクと唱え、印の中に宝珠(三弁)を観ず。これは日本の形なり」
と注す。
(稲谷祐宣『真言神道集成』、青山社、1993)

光宗『渓嵐拾葉集』巻第四(神明等事)[LINK]には、
「我国劫初に大海の最低に大日印文これ有り。三輪の
金光是れ也。図形は独古也。種子はहूं(hūṃ)也。蘇悉地の義也。四劫の中の成劫は蘇生の義なる故也」とある。

同書・巻第六(山王御事)[LINK]には、
「問、我国の大海の最低に大日の印文有る事如何」「答、国常立尊の天逆鉾を降て此の下に国無しと云ひ、捜し給ふ時、海底に三輪の金光有りと云々。是れ其の印文有りと云へり云々。此は山王三聖の表示なりと云々。又三部三密の表示なりと云々。口伝更に問ふべし。又伝に云ふ。大日の印文は独古と也云々。我国は独古の形なる故也」
とある。

また、同書・巻十七(第四金輪法事)[LINK]にも
「尋云、我国劫初に大海最低に大日の印文有云々、其相如何」「所謂其印とは三輪の金光也。国常立尊天宮に御座して天鉾を下して此の下に国アカラメヤと云て大海最低を探り給し時、金の三輪即山王也。故に山王金輪一体と習也。此三輪は即ち密教の三部也」
とある。

『走湯山縁起』巻第五[LINK]には、
「昔此の国未発の前、海中に法身印文有り。中心は独鈷輪なり〈国常立尊は、此の杵の顕迹なり〉。東は円鏡、南は宝珠、西は蓮花、北は羯磨杵なり」「海底大日印文五箇口伝。中心は伊勢大神宮、内は胎蔵大日、外は金剛界大日〈已上中台〉。南方は高野丹生大明神〈宝珠〉。西方は熊野〈蓮花〉。北方は羽黒〈羯磨〉。東方は走湯権現〈円鏡〉。日本は是れ大日如来の密厳花蔵の浄刹なり。四仏は四方に安んじ、天照大神は中心に処す。此の海底印文は、皆大龍の背に在すなり」
とある。

『神祇秘抄』上の御鎮坐事の条[LINK]によると、大和姫(倭姫)皇女は伊勢国二見浦から山奥に入り、一人の翁に導かれて瑞光を放つ大木の辺に至った。
「此の大木の辺に至り、落葉を払ひて之れを見給へば、一の馬脳(瑪瑙)の石座有り。是れ則ち天上より探り給ひし大日の印文、是れなり。仍りて御筮給ふに、此の所に安置すべしと云々。而して此の石上に宮柱広敷立て、三種の神器を安置し奉る。以来、伊勢大神宮と号す」。

『日本得名』[LINK]には、
「彼の国(伊勢国)に浦有り、俗に誤て二見浦と云ふ、実には札見也。札とは彼の底に金札の独古有り、三十七尊の種子を列す、彼の札の上に大日本国と銘す。[中略]我が国大海の底に大日如来の印文有りとは、即ち此の御札の御事也」
とある。

『神祇秘抄』下の神道与密教一致事の条[LINK]には、
「住吉の事。彼の神は、八葉蓮花の体、本有所縁の義、法花を以て其の体を示すと云々。之に依りて、葛木山を以て、彼の神と同体と習ふ。本来不生の山、海底の印文なり」
とある。

内宮

皇大神宮[三重県伊勢市宇治館町]
祭神は天照坐皇大神で、天手力男神を相殿の東座、万幡豊秋津姫命を西座に配祀。 一説に、天児屋根命を東座、太玉命を西座とする。
式内社(伊勢国度会郡 太神宮三座〈相殿坐神二座 並大 預月次新甞等〉)。 二十二社(上七社)

『日本書紀』巻第一(神代上)の第七段一書(二)[LINK]には、
「鏡作部の遠祖天糠戸者をして、鏡を造らしむ」「日神、方に磐戸を開けて出でます。是の時に、鏡を以て石窟に入れしかば、戸に触れて小瑕つけり。其の瑕、今に猶存。此れ即ち伊勢に崇秘る大神なり
とある。

『古語拾遺』[LINK]には、
「石凝姥神〈天糠戸命の子、作鏡遠祖也〉をして、天香山の銅を取りて、以て日像之鏡を鋳さしむ」「初の度に、鋳る所はいささか意に合わず〈是れ紀伊国の日前神也〉、次の度、鋳る所は其の状美麗〈是れ伊勢の大神也〉
とある。

『倭姫命世記』[LINK]には、
「天照皇太神一座〈大日孁貴〉。御形は八咫鏡に坐します〈八咫と謂ふは八頭也〉。相殿神二座〈左、天児屋命、形は弓に座します。右、太玉命、剣に座します〉。一書に曰く、天手力雄神、万幡豊秋津姫命」
とある。

『麗気記』巻第五(天照大神宮鎮座次第)[LINK]には、
「大悲胎蔵一曼荼羅の中に四百十尊有り、表体は御形文也」 「天王如来(大梵天王である毘盧舎那如来)、衆生を度せんが為に上去下来し、飛空天より下は大八州に至る。大日本伊勢度会郡宇治郷の五十鈴の河上に御鎮座したまふ」 「密号は遍照金剛。神体は八咫鏡に坐ます也。火珠所成の珠、本有法身の妙理也。亦辺津鏡と名づく。亦真経津鏡と名く。亦白銅鏡と名く」
とある。 また、相殿の二神[LINK]について、
「相殿に座す神 左は天手力男命〈亦靡開神と名づく。宝号は辰多摩尼尊。金剛号は持法(持宝)金剛〉神体は八葉霊鏡。下に八葉形二重。神宝は弓にて座す。太刀にて座す。右は栲幡豊秋津姫命〈亦慈悲心王と名く。是群品母儀破賀尊にて座す也。神体前に並ぶ也〉」
と記す。

『日本書紀』巻第五[LINK]は内宮の創建を以下のように伝える。
天照大神・倭大国魂神の二神は天皇の大殿の内に祭られてきたが、崇神天皇六年[B.C.92]に天照大神を豊鍬入姫命に託けて倭笠縫邑に祭り、磯城の神籬を立てた。
また、同書・巻第六[LINK]によると、垂仁天皇二十五年[B.C.5]三月に天照大神を豊鍬入姫命から離し、倭姫命に託けた。 倭姫命は鎮座の処を求めて、菟田の筱幡(奈良県宇陀市)、近江国、美濃国を巡り、伊勢国に到った。 ここで、「是の神風の伊勢国は、常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜し国なり。この国に居らむと欲ふ」と天照大神の託宣が有り、五十鈴川上に斎き宮を建立して磯宮と称した。 則ち、天照大神が始めて天より降られた処である。

『倭姫命世記』は内宮の創建を以下のように伝える。
崇神天皇六年九月[LINK]倭笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照太神と草薙剣を遷し、皇女豊鋤入姫命が奉斎した。
同三十九年[LINK]に但波(丹波)の吉佐宮に遷座。 この年、豊宇介神(豊受神)が天下り、御饗を奉った。
同四十三年に倭国の伊豆加志本宮、同五十一年に木乃国(紀伊国)の奈久佐浜宮、同五十四年に吉備国の名方浜宮に遷座。
同五十八年に倭の弥和(三輪)の御室嶺上宮に遷座。 この時、豊鍬入姫命は姪の倭姫命を御杖代に定めた。
同六十年に大和国の宇多秋宮、次に佐佐波多宮、同六十四年に伊賀国の隠市守宮、同六十六年に同国の穴穂宮に遷座。
垂仁天皇二年[B.C.28]に伊賀国の敢都美恵宮、同四年に淡海国(近江国)の甲可日雲宮、同八年に同国の坂田宮、同十年に美濃国の伊久良河宮、次に尾張国の中島宮に遷座。
同十四年[LINK]に伊勢国の桑名野代宮に遷座。 国造の大若子命が参上し、共に天照太神に仕えた。
次に鈴鹿国の奈其波志忍山宮、同十八年に阿佐加の藤方片樋宮、同二十二年に飯野高宮、そこから船に乗って佐々牟江宮に遷座。
同二十五年三月[LINK]伊蘇宮に遷座。 倭姫命は宮処を求めて大若子命を南の山の方に遣し、自らは天照太神を奉斎して小船に乗り、各地を幸行した。
船は美き地(瀧原の国)に到り、其処に瀧原宮を造って遷座した。 しかし倭姫命は「此の地は皇太神の欲給ふ地にはあらず」と悟り、さらに各地を幸行した。
大若子命が倭姫命を迎えに参上し、「宇遅の五十鈴の河上に、吉き御宮処在り」と報告した。 そこから二見国に幸行した後、矢田宮家田田上宮奈尾之根宮に遷座。
ここで、猿田彦神の裔宇治土公の祖大田命が参上した。 倭姫命は大田命に吉き宮処を尋ね、宇遅の五十鈴河上に往ってご覧になった。
二十六年[B.C.4]十月[LINK]、天照太神を五十鈴河上に遷し奉り、社地・社殿を整え神宝・大幣を備えた。 その時、皇太神が倭姫命の夢に現れ「我れ高天原に坐して、甕戸に押し張り、むかし如見みそなはりみあらはしまきし国の宮処は、是の処にある也。鎮り定り給え」と告げた。 朝廷に倭姫命の夢の状を奏上すると、天皇は大鹿嶋命を祭官に、大若子命を神の国造兼大神主に定め賜った。 また、五十鈴河上の大宮の側に斎宮を立て、倭姫命はそこに住まわれた。

『麗気記』巻第六(豊受太神鎮座次第)[LINK]には鎮座次第を以下のように伝える。
「天照皇大神、皇御孫の杵独王、三十二柱を従神として、筑紫日向高千穂の槵觸之峯に天降りましまし、三代に以逮るまで、歴年治合すこと一百七十九万二千四百七十余歳なり。神武天皇より開化天皇に至るまで九代、歴年六百三十余歳なり。帝と神と其の際未だ遠からず。同じ殿に座す。崇神天皇六年〈己丑〉歳、漸く神威を畏て同殿安からずして、倭の笠縫邑に就いて、殊に神籬を立てて之を祭る。垂仁天皇即位二十五年〈丙辰〉、天照大神の正体を、倭姫命をして之を戴き奉り、伊勢国の宇治の五十鈴河の際、伊蘇宮に坐す。明年〈丁巳〉冬十月甲子、天照大神を度遇の五十鈴川の上に奉遷する也」

外宮

豊受大神宮[三重県伊勢市豊川町]
祭神は豊受大神で、相殿に御伴神三座を配祀。 一説に、御伴神三座の内、瓊瓊杵尊を東座、天児屋根命・太玉命を西座とする。
式内社(伊勢国度会郡 度会宮四座〈相殿坐神三座 並大 月次新嘗〉)

『古事記』上巻[LINK]には、天孫降臨に供奉した神々の中には、
「次に登由宇気神、此は外宮の度相に坐す神なり」
とある。

『止由気宮儀式帳』[LINK]によると、大長谷天皇(雄略天皇)の御夢に天照坐皇太神が現れ、「吾は高天原に坐して見しまぎ賜ひし処にしづまり坐しぬ。然れども吾一所にのみ坐すは甚苦し。しかのみならず大御饌も安く聞こし食さず坐すが故に、丹波国比治の真奈井に坐す我が御饌都神、等由気太神を我が許に欲す」と告げた。 天皇は驚悟されて、すぐに丹波国から等由気太神に行幸いただいて、度会の山田原に社殿を建立した。 こうして御饌殿を造り奉って、天照坐皇太神の朝夕の大御饌の儀を始めた。

『倭姫命世記』[LINK]には、
「豊受太神一座〈元より丹波国与謝郡比冶山の頂、麻奈井原に坐します。御饌都神、又倉稲魂と名づくるは是れ也。大自在天の子。御霊の形は真経津鏡に座します。円鏡也。神代の三面の内也。天御中主霊。御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)即位三十九年[B.C.59]七月七日に天降ります〉。相殿神三座〈大の一座は、天津彦彦火瓊々杵尊。形は鏡に坐します。前の二座は、天児屋命と太玉命。形は笏に座します。宝玉に座します。大は左の方に座します。前の二座の右の方に座します〉」
とある。

同書の崇神天皇三十九年条[LINK]「但波の吉佐の宮に遷幸なりまして、四年を積て斎き奉る。此より更に倭の国を求め給ふ。この歳、豊宇介神天降りまして、御饗を奉る」とある。
雄略天皇二十一年[477]十月[LINK]、倭姫命に「皇太神吾一所にのみ坐さば、御饌も安く聞こし食さず。丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す、道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神、止由居太神を我が坐す国へと欲ふ」と夢告が有った。 大若子命が使者となって朝廷に奏上し、天皇の勅により宝殿を建立した。 翌年七月七日、丹波国与佐郡真名井原より度会の山田原に止由気皇太神を迎え奉った。

中世の神道説では、豊受大神は天御中主尊と同体とされた。
『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』[LINK]には、
「豊受皇太神一座。天地開闢の初、高天原に成ませる神也。一記に曰く、伊弉諾、伊弉冊尊〈古語に曰ふ、伊舎那天、伊舎那天妃〉先づ、大八洲を生む。次に海神を生む。次に風神等を生む。以降、一万余歳を経廻と雖も、水徳未だ露はれずして、天下飢餓やはしかりき。時に二柱神、天之御量事を以て、瑞八坂瓊曲玉を九宮おほそらに捧げて所化なりませる神、名は止由気皇太神と号き。千変万化、一水の徳を受けて、続命の術を生ず。故名づけて御饌都神と曰ふ也。古語に曰く、大海の中に一物有り。浮べる形葦牙の如し。其の中に神人かみ化生あれます。天御中主神と号く。故、豊葦原中国と号く。亦、因りて以て、止由気皇太神と曰ふ也」
とある。 また、止由気宮に崇祭する神鏡[LINK]について
「崇神天皇御宇、止由気皇太神天降り座して、天照皇太神と一所に双び座しき。時に天上より御随身之みにそへたまふ宝鏡是れ也。神代天御中主神の授けたまふ所の白銅鏡也。是は国常立尊所化なりませる神天鏡尊、月殿に居まして鋳造る所の鏡也」
と伝える。

『神皇系図』[LINK]には、
「天御中主尊〈神風伊勢百船度会の山田原の太神にて座します〉 元気の化する所、水徳変成して、たねと為りこのみと為る。而して露るる所を天御水雲神と名づく。水徳に任せて、亦御気都神と名づく。是れ水珠の成る所、即ち月珠是れ也。亦大葦原中津国主豊受皇神と号す也」
とある。

『伊勢大神宮瑞柏鎮守仙宮院秘文』には、
「大八州中神風の伊勢国に天照し座す二所の皇太神とは是れ天地開闢の元神故、一大三千界の主に座す也。尸棄大梵天皇〈此を天御中主と云ふ。亦名づけて伊勢国に天照し坐す豊受大神宮と曰ふ是れ也〉。光明大梵天皇〈此を大日孁貴と云ふ。亦名けて伊勢国に天照し坐す皇太神宮と号く是れ也〉」
とある。

『麗気記』巻第四(豊受太神鎮座次第)[LINK]には、
「(外宮の)正殿は成身会を以て鎮座と為す。五大月輪の五智円満の宝鏡、実相真如の五輪の中台、常住三世浄妙法身の大毘盧遮那仏なり。亦は法性自覚尊と名づく。亦は熾盛大日輪と名くる也。金剛号は遍照金剛。神号は天御中主尊。神体は飛行自在天。説法談義の精気也。水珠所成の玉、常住法身の妙理也。御正体は輪の中に五輪有り。中の輪の長さは六寸、余の四輪は長さ四寸也。是御正体と名く。輪は二尺四寸、径八寸也」
とある。
相殿の四神[LINK]について、
「相殿に座す神 右は皇孫尊・天上玉杵命の二柱一座。宝号は観自在王如来。金剛号は蓮華金剛。神号は天津彦彦火瓊瓊杵尊。亦は独一尊王と名づく。亦は杵独王と名く。亦は示法神と名く。亦は愛護神と名くなり。亦左は天神上玉杵命。宝号は阿逸多王如来。金剛号は奮迅金剛。神体は八葉形の霊鏡、無縁円輪の御霊鏡也。右は天児屋命・太玉命。天児屋命の宝号は曼珠師利菩薩。金剛号は利剣金剛。亦は閻曼金剛。神号は天児屋命。亦は天八重雲剣神と名く。亦は左右上下神と名く。亦は頭振女神と名く。亦は百大龍王命と名く也。神体は切金方笏の御霊鏡。太玉命の宝号は普賢菩薩。金剛号は円満金剛。神号は太玉命。亦は大日女荒神と名く。亦は月絃神と名く。亦は月読命と名く。神体は二輪の御霊鏡なり」
と記す。

同書・巻第一(二所太神宮麗気記)[LINK]には外宮の創建を、
「二十二大泊瀬幼武〈雄略〉天皇二十一年〈丁巳〉十月朔、倭姫命教覚りたまひて、明年〈戊午〉秋七月七日、大佐々命を以て布理奉る。三十二番の供奉の神等・従神の若雷神、天八重雲の四方に薄靡て垣と為り蓋と作る。丹波の吉佐宮より倭国宇太乃宮に遷幸して一宿す。伊賀の穴穂宮に二宿す。渡相の沼木平尾に遷幸して行宮を興て七十四日。同九月十七日、山田原の新殿に遷幸して、鎮坐し奉りて以降、豊受皇太神祭始奉る」
と記す。

同書・巻第四(豊受太神鎮座次第)[LINK]には鎮座次第を、
「豊受皇太神は人寿四万歳の時、淡路国三上嶽に御降臨坐す。次に布倉に遷坐す。次に八輪嶋に遷坐す。次に御間城入彦五十瓊殖天皇の御宇に、丹波乃国与謝郡比治山の頂に麻井原にて、天照大神と一所に座し給ふ。其の後、竹野郡奈具宮(奈具神社[京都府京丹後市弥栄町船木])に坐す。時に奈具神、朝御気を奉り、御贄と為す。[中略]山田原造営の間、沼木の高河原離宮木丸殿に御座す」
と記す。

また、同書・巻第三(降臨次第麗気記)[LINK]には鎮座の年数を、
「豊受皇太神 時に大日本国淡路三上嶽に天降りましまして、三十二の大眷属を率て、庚申の年より春秋を送ること五十五万五千五百五十五年」「布倉宮に遷して丙申より年月を送ること五十六万六千六百六十六年。八輪嶋宮に戊申に遷して年を積むこと五十七万七千七百七十七年。八国嶽に庚申の歳に遷して五十八万八千八百八十八年。丹波国与謝之郡比治山の頂麻井原に壬申の歳に遷して五十九万九千九百九十九年。与佐宮に庚申の歳に遷して六十一万千百十一年」
と記す。

近世の地誌では、三上嶽を先山に比定する。
例えば、仲野安雄『淡路常盤草』巻之八の先山の条[LINK]には、
「東の別峯を三上岳と称す。三上は即先山の旧名なるへし。天地麗気記に曰く。豊受大神、天より淡路国三上嶽に降り、三十二神之に従ふ。後に丹波国与謝郡真名井宮に遷す。春秋二百九十万六千百七十年也。倭姫命又之を伊勢国度遇宮に移し坐します」
とある。
垂迹本地
内宮胎蔵大日如来
外宮金剛界大日如来(または阿弥陀如来)

両部の大日

『造伊勢二所太神宮宝基本記』裏書[LINK]には、
「古人の秘伝に云、伊勢両宮は則ち胎金両部の大祖也」
とある。

『麗気記』巻第六(豊受太神鎮座次第)[LINK]には、
「今、両宮は則ち両部の大日、色心和合して一体と成る」
とある。

天岩戸・高天原・都率天

外宮の神域にある高倉山にはいくつかの石窟が存在する。 その中で最大の石窟(「高倉山古墳」の横穴式石室)は「天岩戸」と称され、また「高天原」に比定されていた。

『渓嵐拾葉集』巻第六(山王御事)[LINK]には、
「弘法大師秘決に云、太神宮に高社(多賀宮)と云ふ宮れ有り。其後に岩屋有り。空に十八切石を並べたり。其形は天柱の如し。是れ則ち十八梵天王を表す。是れ金剛界の曼荼羅也。地に十三石を並べたり。是れ則ち胎蔵界の十三大院是れ也。之を以て天岩戸と名づく」
とある。

『高庫蔵等秘抄』の「石窟本縁記」には、
「神祇供秘文に曰ふ、天宮を開き、浮橋に於て下海を示し、日本に降る。伊勢の天照神是れ也。而して第二の山は高庫蔵、是れ五蔵中の大蔵也。故に万宝の種を納む」「記に曰ふ、高庫蔵は名て天小宮と曰ふ。亦、天磐座と名づくは是れ也」
とある。
高庫蔵(高倉山)を「天ノ小宮」と名づくとは、『日本書紀』に見える「日之小宮」に由来するもので、天宮(高天原)の謂だろう。
(山本ひろ子「心の御柱と中世的世界(11) 度会氏の北辰信仰—『高庫蔵等秘抄』をめぐって(上)」、春秋、314号、pp.48-53、1989年12月)

『渓嵐拾葉集』巻八十九(安養都率事)[LINK]には、
「海大師入定所所示現事 一には高野奥院、二には高野仏生国、三には宀一山、四には高倉岩屋、立都率天〈已上口伝〉」
とあり、地上の兜率天として、奥院・高野山・室生山と並んで「高倉岩屋」が挙げられている。
(伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第2部 変容する天照大神—同体説の諸相、第4章 外宮高倉山浄土考—伊勢神宮における弘法大師信仰)

囲垣・玉垣・水垣・荒垣

『天下皇太神本縁』には、
「大日本伊勢度会郡宇治郷の五十鈴の河上に御鎮座したまふは、秘密大乗法・法入法界宮・自性三昧耶・根本大毘盧遮那・神変加持・胎蔵界法性心殿・入仏三昧耶・法界生・妃生眼・転法輪所・八葉中台真実覚王・金剛不壊大道場・周遍法界心の所伝図十三院也」
と記し、内宮曼荼羅が描かれる。 本殿としての中台八葉院を中心に、遍智院(仏母院)・五大院を荒垣、虚空蔵院・文殊院を玉垣、外金剛院を瑞垣に見立てている。
(伊藤聡『中世天照大神信仰の研究』、第1部 天照大神と大日如来の習合、第1章 天照大神・大日如来同体説の形成)

『神道集』には「四重曼荼羅を方取りて、囲垣・玉垣・水垣・荒垣とて重々なり」とあるが、現在の内宮では御正殿を囲んで内から外へ、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣と四重の御垣がめぐらされている。
これと対応させると、胎蔵曼荼羅の十三院は以下の様になるだろうか。
・正殿:中台八葉院
・瑞垣:遍知院・持明院(五大院)
・内玉垣:釈迦院・虚空蔵院・蓮華部院・金剛手院
・外玉垣:蘇悉地院・文殊院・地蔵院・除蓋障院
・板垣:外金剛院

勝雄木

「鰹木」「堅魚木」などとも書き、屋上に棟と直角になるように平行に並べられた円筒形の木を指す。
『神道集』には「(内宮の)勝雄木も九つ有り、胎蔵の九尊を方取る」とあるが、内宮の鰹木は十本、外宮の鰹木は九本である。

『天照太神口決』[LINK]には、
「但し外宮は九つ置たり、是の両方の切り口に金を入たり、二九十八の鏡なり、是は十八梵天の表す所也」「内宮は鰹木を十を置たり、是の両方の切り口は二十なり。是はअ{a}、金剛部の二十天を表す也」
とある。

中世の神宮では、鰹木は星宿の象徴と解釈された。
『造伊勢二所太神宮宝基本記』[LINK]には、
「堅魚木は、衆星の形也。天下を奄ひ守りて、列星に比す」
とあり、『神風伊勢宝基珍図天口事書』[LINK]には、
「堅魚木は星象に坐す。其の数十九["九"は衍字]は大日孁尊の十方を照すの誓也。九は五大成身尊の光九州の群生を済ひたまふ光明の表也」
とある。

『大宗秘府』逸文〔『高庫蔵等秘抄』などに引用〕には、
「心御柱咒字明々あかあかなり。上には則ち金星、慧星、輪星、鬼星、水星、風星、南斗北斗五鎮大星、一切国主星、三公星、百官星、是くの如き諸星各々応護し坐す。変成形勝奥義あらはれたるかたちをかつおぎ是れ也」
とある。 心御柱の上には金星以下多くの星々が守護しており、その変成の形が「勝奥義」であると説かれた。
(山本ひろ子「心の御柱と中世的世界(12) 度会氏の北辰信仰—『高庫蔵等秘抄』をめぐって(下)」、春秋、315号、pp.45-51、1990年1月)

月輪

内宮・外宮の御正殿の宇立の左右に亘した「丁」字形の板には文様が刻されており、これを「御形文」と称した。 内宮の御形文は丁字の竪板・横板を三区(または四区)に分けて円形(弧状)の模様内宮の御形を刻んだ図柄、外宮の御形文は外宮の御形形の刻文を連続模様として布置したものであった。

『両宮形文深釈』上巻[LINK]には、
「大和姫皇女は天の詔命を承て、梵宮を移して伊勢の内外両宮社を造る。造体一なりと雖も、其の文各別なり。豊受皇大神は五大転輪に座ます。天照皇大神は八葉開花に座ます。亦夫れ一味平等にして内心一つ也。天御量柱を黄金の宝座に興て奉りて、御形を棟梁に表し奉る」
とある。

中世の神宮では、内宮・外宮の御形文は日天子・月天子を象徴する図形と解釈された。
『造伊勢二所太神宮宝基本記』[LINK]には、
「棟文形の事。皇太神宮は、日天の図形なり。六合の中、心体独り存せり。天真に任すが故に明白也。五行の中には火性、五色の中には白色。故に白銅を以て之を飾り奉る。豊受宮は、月天の図形なり。八洲の中は、平等円満の心体たるの縁なり。五行の中には水性、五色の中には赤色。故に金銅を以て之を飾り奉る」
とある。

『豊受皇太神宮御鎮座本紀』[LINK]には、
宝宮おほみやの棟梁天表あまつしるしの御形文。天照太神宮の御形、日天の尊位を象り坐す也。止由気太神宮の御形、月天の尊位を象り坐す也」
とある。

『神風伊勢宝基珍図天口事書』[LINK]には、
「天照の珍図うずは、心神華台中、天地九尊(または八尊)の円鏡に坐す。豊受の珍図うずは、天地父母の二儀之中、五大尊の光の照します金鏡に坐す。俗に常に金鏡を以て明道に喩ふ」
とある。

『天口事書』[LINK]には、
「棟梁の形。皇太神は、日天の図形。地として照らさざること無し。故、正殿の宇立の左右、横竪の板、華台の形有り。華台の中に天地八尊の円鏡坐す。白銅を以て之を錺り奉る也。止由気太神は、月天の図形、物として至らざること無し。故、正殿の宇立の左右横竪の板上に各月輪の形有り、月輪の形之間に月天尊位の円鏡坐す。金銅を以て之を錺り奉る也」
とある。

『宝基御霊形文図』〔度会家行『類聚神祇本源』巻八(形文編)に引用〕[LINK]には、
「五十鈴宮の御霊形は、天瓊玉杵の象表也。是れ天地の初て発けし万像の根本也」「山田原宮の御霊形は、五位の円形に坐ます也。是れ則ち五常円満、智光の表理也」
とある。

『伊勢大神宮瑞柏鎮守仙宮院秘文』には、
「天照坐皇太神は則ち胎蔵界地曼荼羅、御形文図は五行の中の火輪、即ち独𦙶形に坐す也。豊受皇太神は則ち金剛界天曼荼羅、御形文図は五行の中の水輪五智位、故に五月輪有る也」
とある。

『神道集』には「金剛界の五智に方取りて、月輪も五つ有り」とあるが、五つの「月輪」とは御形文外宮の御形のことであり、金剛界大日如来の「五智」の表象とみなされている。
(山本ひろ子「心の御柱と中世的世界(22) 神宮の象徴図像学(三) 御形文の秘密」、春秋、336号、pp.34-39、1992年2・3月)

八女・神楽男

八女(八乙女、八少女)は舞を奉仕する巫女、神楽男は神楽を奏する神人。

『神道雑々集』の「八人八人女五人神楽人事」は、その由来を以下のように説く。
「天祖、索盞烏(素盞烏)の尊を悪み天岩戸に閉籠給、此時国の中は常暗にして諸の談火弁を以。諸の神之暗き事を悲み、索盞烏の尊を出雲へ損い遣り奉て、随て思兼の命の謀、庭火を焚き、伊弉諾尊・磐裂命・磐筒男命・経津主命・武甕槌の命〈以上五人〉五色の幣帛を捧げ、五龍王に奉り、大地を乞うに平け釜を塗給歟。伊弉冊尊・遊小日活目命・鬼姫命・滝津姫命・市杵嶋姫命・磐筒女命・建御雷姫・栲幡千千姫命の〈以上八神〉此神達御湯を立て、千草を以て大地を洗い清め給は是縁也」
(山本ひろ子『変成譜 —中世神仏習合の世界—』、第2章 擬死と再誕 大神楽「浄土入り」—奥三河の霜月神楽をめぐって、春秋社、1993)

『梵網経』の十重戒

鳩摩羅什訳『梵網経盧舎那仏説菩薩心地戒品第十』巻下[LINK]には、
「十重の波羅堤木叉あり。若し菩薩戒を受けて、この戒を誦せざる者は菩薩に非ず。仏種子に非ず」
とあり、その第一には、
「もし自ら殺し、人を教へて殺さしめ、方便して殺し、讃歎して殺し、作すを見て随喜し、乃至呪して殺さば、殺の因、殺の縁、殺の法、殺の業あり。一切の命ある者を、故に殺すことを得ざれ。これ菩薩は応に常住の慈悲心、幸順心を起し、方便して一切衆生を救護すべし。しかるを自ら恣なる心、快き意にて殺生するは、これ菩薩の波羅夷罪なり」
と殺戒を説く。
以下、第二は盗戒、第三は婬戒、第四は妄語戒、第五は酤酒戒、第六は説四衆過戒、第七は自讚毀他戒、第八は慳惜加毀戒、第九は瞋心不受悔戒、第十は謗三宝戒である。

三皇五帝

三皇について、司馬遷『史記』秦始皇本紀第六[LINK]には、
「古、天皇有り、地皇有り、泰皇有り、泰皇最も尊し」
とある。
同書・三皇本紀(司馬貞による補巻)[LINK]には以下の様に記す。
「太皥庖犧氏は風姓なり。燧人氏に代り、天に継ぎて王たり。母を華胥と曰ふ、大人の迹を雷沢に履みて、庖犧を成紀に生む。蛇身人首、聖徳あり」
女媧氏もまた風姓なり。蛇身人首にして、神聖の徳有り。宓犧に代りて立つ、号して女希氏と曰ふ」
「炎帝神農氏は、姜姓なり。母を女登と曰ふ、有嬌氏の女なり。少典の妃と為る、神龍に感じて炎帝を生む。人身牛首なり」
また、
「一説に、三皇とは、天皇地皇人皇を謂ひて三皇と為す」
と付記する。

五帝について、同書・五帝本紀第一[LINK]には以下の様に記す。
黄帝は少典の子なり、姓は公孫、名は軒轅と曰ふ。[中略]神農氏に代る。是を黄帝と為す」
「黄帝崩ず。橋山に葬る。其孫にして昌意の子なる高陽立つ、是を帝顓頊と為す」
「帝高辛は、黄帝の曽孫なり。高辛の父を蟜極と云ひ、蟜極の父を玄囂と云ひ、玄囂の父を黄帝と云ふ」
「帝嚳、陳鋒氏の女を娶り、放勛を生む。娵訾氏の女を娶り、摯を生む。帝嚳崩じ、摯代わりて立つ。帝摯立ちて、不善なり、崩ず。而して弟放勛立つ。是を帝と為す」
「堯立ちて七十年にして舜を得、二十年にして老し、舜をして天子の政を摂行せしめ、之を天に薦む。[中略]天子の位を践む。是を帝と為す。虞舜は、名を重華と曰ふ。重華の父は瞽叟と曰ひ、瞽叟の父は橋牛と曰ひ、橋牛の父は句望と曰ひ、句望の父は敬康と曰ひ、敬康の父は窮蝉と曰ひ、窮蝉の父は帝顓頊と曰ひ、顓頊の父は昌意と曰ふ。以て舜に至るまで七世なり」

七魂七星の霊廟

七魂は不詳。 道教に説く三魂七魄を指すか。
葛洪『抱朴子』内篇巻十八(地真)[LINK]には、
「師の言に長生せんと欲せば、勤めて大薬を服すべく、神に通ずるを得んと欲せば、まさに金水もて形を分つべし。形分るれば自らその身中の三魂七魄を見て、天霊地祇も皆接見すべく、山川の神も皆使役すべしと」
とある。

七星は北斗七星を指すと思われる。 道教では神格化して北斗星君(または北斗真君)と呼ばれる。

実者・権者

本地垂迹思想が広まった中世において、全ての神々が仏菩薩の垂迹と見なされていたわけではなかった。

『諸神本懐集』[LINK]では
「第一に権社の霊神を明かして、本地の利生を尊ぶべき事と教へ、第二に実社の邪神を明かして、承事の思ひを止むべき旨を勧め」
と説く(引用文は一部を漢字に改めた。以下同)。
前者については
「和光同塵は結縁の初め、八相成道は利物の終りなり。是れ即ち、権社と云ふは、往古の如来、深位の菩薩、衆生を利益せんが為に、権に神明の形を現じ給へるなり」
とするが、後者[LINK]については
「生霊・死霊等の神なり。もしは人類にもあれ、もしは畜類にもあれ祟りを為し、悩ます事有れば、これを宥まんが為に神と崇める類有り」「たとひ人に祟りを為すこと無けれとも、我が親・祖父等の先祖をはみな神と祝いて其の墓を社と定むる事またこれ有り。この類はみな実社の神なり」
として権実を峻別し、実社に対しては神祇不拝の態度を取った。

一方、『神道集』でも「神道に権実あり」とするが、「実者の神と云へども、神と顕はれたまへり。利益無きに非ず」「日本は本より神国なり。総じて敬礼すべし」として、実者神への信仰を容認している。
(伊藤聡『神道の形成と中世神話』、第2部 中世の本地垂迹思想、第1章 本地垂迹思想の展開、吉川弘文館、2016)

権現・大菩薩・大明神

本篇の議論では、基本的に権現・大菩薩を権者、大明神を実者としている(ただし、『神道集』の他篇では権者の大明神も多い)。
実者の大明神は三熱の苦を受けるので、その抜苦の為に誦呪・誦経の法楽を奉る。 一方、権者の権現・大菩薩に対しては本地供を修するが、実者の大明神と同様に法楽も受けられる事を説いている。

宇佐宮

参照: 「宇佐八幡宮事」宇佐八幡宮

男山

石清水八幡宮[京都府八幡市八幡高坊]
祭神は応神天皇・比咩大神(多紀理毘売命・市寸島比売命・多岐津比売命)・神功皇后。
国史現在社(石清水八幡大菩薩宮)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第五の貞観三年[861]五月十五日戊子条[LINK]の「使者を京に近き名神七社に遣り、幣を奉りて雨を祈りき。告文に曰く、天皇が詔旨と掛けまくも畏き八幡大菩薩の広前に申し賜へと申さく」

『石清水八幡宮護国寺略記(貞観五年正月十一日石清水建立縁起)』[LINK]によると、行教は貞観元年[859]四月十五日に筑紫豊前国の宇佐宮に参宮し、一夏の間、昼は大乗経典を読誦、夜は真言を念持して、三所大菩薩に廻向し奉った。 九旬(九十日)の行を畢えて都に戻ろうとすると、七月十五日夜半に「吾深く汝が修善に咸応す。敢て思い忘るべからず。須らく近都に移坐し国家を鎮護せん。汝祈り請うべし」と大菩薩のお告げが有った。 行教は大いに歓喜し、同月二十日に都への帰路に就いた。
八月二十三日に山崎離宮(京都府乙訓郡大山崎町大山崎)に於て「吾近都に移坐するは、王城を鎮護せんが為なり」と神託があった。 行教は何処に宝躰を安置し奉るかを示現するよう祈った。 その夜に「移坐すべき処は石清水男山の峯なり。吾将に其処に現れん」と神託があった。 夜中に南方に向かって大菩薩を百余遍礼拝すると、山城国の巽の方の山頂に和光の垂瑞があった。 翌朝、行教はその山に参拝して三日間祈念し、御示現された処に草庵を結んだ。
この件を録して奏聞すると、朝廷は九月十九日に勅使を派遣して実検・点定をさせた。 次に木工寮に宣旨を下し、権允橘良基に六宇の宝殿(三宇の宝殿、三宇の礼殿)を造営させた。 完成後、三所の御躰を安置し奉った。

『都名所図会』巻五(前朱雀)[LINK]には、
「当山の御鎮座は貞観二年[860]六月十五日、和州大安寺の沙門行教和尚神殿を造営しけり。行教は筑紫宇佐八幡宮に一夏九旬の間参籠して、昼は大乗の経を読み、夜は真言を誦して法楽せしに、八幡宮御託宣あり。 われ王城の近きに遷坐して、鳳闕を守護し、国家を安泰なさしめんとのたまひ、その夜行教の三衣に阿弥陀の三尊現じ給へり」「本地堂 疫神堂の西に隣る。極楽寺と称す。本尊は阿弥陀仏、脇士は観音、勢至を安置す。この三尊は本殿の御正体なり」
とある。

なお、天平勝宝元年[749]は東大寺の鎮守(手向山八幡宮[奈良県奈良市雑司町]の前身)として平城宮南の梨原宮に八幡神が勧請された年である。 『神道集』の編者はこれを石清水八幡宮の創建と混同したのだろうか。
垂迹本地
石清水八幡宮応神天皇阿弥陀如来
神功皇后観音菩薩
比咩大神勢至菩薩

護国土霊験威力神通大菩薩

"土"は衍字と思われる。
参照: 「宇佐八幡宮事」護国霊験威力神通大自在王菩薩

行教和尚

生年不詳。 紀朝臣魚弼の子として備後国に誕生。 弟は真言宗の益信(本覚大師)。 大安寺[奈良県奈良市大安寺2丁目]に住し、三論と密教を学んだ。

『大安寺八幡大菩薩御鎮座記并塔中院建立縁起』[LINK]によると、行教は入唐帰朝次に筑紫豊前国宇佐宮に一夏九旬の間参籠した。 『大般若経』を転読して理趣分に至った時、御宝帳が開いて「汝と共に上洛し、釈迦の教跡を擁護し、百王の聖胤を保護せん」と託宣が有り、和尚の衣の袖に釈迦三尊が顕現した。 大同二年[807]八月十七日、大安寺の東室第七院石清水房に御幸洛が有った時、行教和尚の袖上に放光が在った。 天皇は大いに驚いて和気清麻呂を召され、行教和尚と共に宝殿寺院を造営すべしと宣われた。 和気清麻呂は勅を承り、東脇に宝殿を造って御正躰と三面御鏡を安じ、西脇に堂楼を建立して楼の上繒に八幡大菩薩の御正躰を安置した(元石清水八幡宮[奈良県奈良市東九条町]の前身)。

『石清水八幡宮護国寺略記』[LINK]の末尾には「貞観五年[863]正月十一日 建立座主大安寺伝燈大法師位行教」と署記があり、石清水八幡宮の勧請後に伝燈大法師位に任ぜられたと思われる。 また、『日本三代実録』巻第二十七の貞観十七年[875]三月二十八日辛亥条[LINK]には「故伝燈大法師位行教」と記されている事から、その間に没したと思われる。

行教が八幡大神に大乗の十戒(十重禁戒)を授けたという説は、管見の限り他に見ない。

日・月・星宿の所変

『日諱貴本紀』[LINK]には、
「三光降て精神うるはしのまこと出づ。其の苗は皆王と為す。胡天(天竺)は月孫故、月氏と号す。漢宮は星子、仍ち晨旦と謂ふ。本朝の貴祖たふときみことは之れ日精也、故に日本国と名づく」
とある。

『麗気制作抄』の三光事の条[LINK]には、
「天竺有情の始は光音天に降る。月の尊なるが故に月氏国と申す。唐土は盤古王有情の始也。是れ星の尊なるが故に辰旦国と云ふ也。我朝のは日の尊なるが故に日域と云ふ也」
とある。

祐尊・八坂の貧女

『八幡宮巡拝記』巻下の第五十三条「無縁の修行者八幡宮寺別当にならんとする事」[LINK]には、
「中比無縁なる修行者、三季を限り参籠しけり。[中略]若し生を人界に受けば、八幡の寺務別当となさせましませ、生涯の思出これにありとて、[中略]或夜の夢に御示現あり、「長き世の苦しき事をなげゝかし、何思らん仮の此世を」」
とある。 別当祐尊の出世譚は本説話のヴァリアントと思われる。
八坂の貧女の婚姻譚は同じく第四十七条「女房八幡に祈りて利生の事」[LINK]の「身のうさは中々なにと石清水思心はくみて知らん」と詠んだ貧しき家の娘の説話に関わるもののようである。
(徳田和夫「『神道集』 —神々の物語—」、国文学:解釈と鑑賞、751号、pp.127-132、1993年12月)

熊野

参照: 「熊野権現事」熊野権現

二所

参照: 「二所権現事」箱根権現
参照: 「二所権現事」伊豆権現

金峯山

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

三嶋

参照: 「三嶋大明神事」三嶋大明神(伊予国)
参照: 「三嶋大明神事」三嶋大明神(伊豆国)

調達・不動賓迦羅菩薩

調達はデーヴァダッタ(Devadatta)の音写で、提婆達多とも表記される。 阿難の兄弟(釈尊の従兄弟)とされ、当初は釈尊に従って出家したが、後に敵対して五逆罪(破和合僧、出仏身血、放狂象、殺蓮華色比丘尼、十爪毒手)を犯し、阿鼻地獄に堕ちたと伝えられる。

不動賓迦羅菩薩は大賓伽羅菩薩の誤記と思われる。 堅意菩薩造・道泰等訳『入大乗論』巻下[LINK]には、
「提婆達多は是れ大賓伽羅菩薩にして、衆生の逆罪を起すを遮せんが為の故に、二業を現作し、地獄に堕す」
と説く。

阿耨達池

阿耨達は阿那婆達多とも表記する。 アナヴァタプタ(Anavatapta)の音写で「無熱悩」を意味する。

『望月仏教大辞典』の阿耨達龍王の項[LINK]には、
「八大龍王の一。阿耨達の池に住し、四大河を分出して閻浮提を潤ほし、一切馬形の龍王として其の徳最も勝れたりと称せらる。長阿含経十八[LINK]に依るに、阿耨達の宮中に五柱の堂あり、阿耨達龍王は恒に中に於て止まる。閻浮提の有ゆる龍王に尽く三患あるも、唯だ阿耨達龍王には之れ無し。三患とは一に熱風熱沙の為に身を吹かれて皮肉骨髄を焼かる。二に悪風起りて龍宮を吹く時、宝飾の衣失して龍身自ら現わる。三に宮中に在りて娯楽する時、金翅鳥来たりて捕撮し、或いは生まるゝ時、為に害せらる。故に諸龍怖懼して常に熱悩を懐くと雖も、唯此龍王は都べて此等の諸患なし。故に阿耨達と名づくと云へり。又大智度論巻七[LINK]に「北辺の雪山中に阿那婆達多池あり。是の池中に金色の七宝の蓮華あり、大きさ車蓋の如し。阿那婆達多龍王は是れ七住の大菩薩なり」と云ひ、大唐西域記巻一[LINK]に、八地の菩薩は願力を以って龍王と化し、其の中に潜宅すとあり。之に依るに、此の龍王は菩薩の化身として尊崇せられたるを見るなり」
とある。

平野大明神

平野神社[京都府京都市北区平野宮本町]
第一殿の祭神は今木皇大神。 一説に日本武尊、または内膳司の忌火の竈神とする。
第二殿の祭神は久度大神。 一説に仲哀天皇、または大炊寮の大八島の竈神とする。
第三殿の祭神は古開大神。 一説に仁徳天皇、または内膳司の庭火の竈神とする。
第四殿の祭神は比売大神。 一説に天照大神とする。
式内社(山城国葛野郡 平野祭神四社〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『続日本紀』巻第三十七の延暦元年[782]十一月丁酉[19日]条[LINK]の「田村後宮の今木大神を従四位上に叙す」。

『一代要記』の桓武天皇条[LINK]には延暦十三年[794]には、
「今年始て平野社を造す」
とあり、平安遷都時に平城京の田村後宮[奈良県奈良市四条大路付近]から平野の地に遷座したと推定される。

『二十二社註式』の平埜の条[LINK]には、
「第一今木神、日本武尊、源氏氏神 第二久度神、仲哀天皇、平家氏神 第三古開神、仁徳天皇、高階氏神 第四相殿比売、天照大神、大江氏神」
とある。 また、摂社・県神社の天穂日命(中原、清原、菅原、秋篠、已上四姓氏神)と併せて「八姓の氏神」と称された。

『諸社根元記』の平野の条[LINK]には、
「本地 第一 大日、第二 聖観音、第三 地蔵、第四 不動、第五県社 毘沙門」
とある。

慈円『慈管抄』巻一の仁徳天皇条[LINK]には、
「此御門は平野大明神也」
とある。

『二十二社本縁』の平野事[LINK]にも
「平野の社、常には仁徳天皇の垂迹と申す」
とある。 ただし、当社は源氏の長者が管領する氏神であるが、仁徳天皇は源氏の祖ではないので、
「或は又仁徳の御弟とも云へり」 「若隼総別の皇子か、是は応神第八の御子、継体天皇の御高祖父也」
と異説を記す(ただし、継体天皇の高祖父は通説では稚野毛二派皇子である)。

『平野神社祭神考』[LINK]には、
「今木神は、内膳司なる忌火の御竈の御霊なり。この忌火の御竈は、神今食、新嘗等の御祭に、神饌調進の御竈にて、多かる御竈の内にても、最尊き御竈なり。今木と申す御名義は、即今食イマケにて、世俗に、稲をモミにて貯へ置たるを、新に磨て米にしたるを今磨イマズリと云、その意にて、今磨の御饌の義なるべし。[中略]その御食を焚く竈なる故に、忌火の御竈の御霊を、今木神と申奉るなり」
「久度とは、烟抜の穴のある竈神の御霊にて、大炊寮にて、これを大八島と云。この大八島の竈の御霊が、即久度神なり」
「古開と申し奉る御名義、たしかには知られねど、試にいはゞ、庭火の御竈にて、こは内膳司に置れたり」
「今木・久度・古開の三座は、ともに竈の御霊におはしまし、比売神の一座は炊爨の事を掌る神にておはします故に、竈神の合殿に祀れるものなり」
とある。

伴信友『蕃神考』[LINK]で、
「さて今木神は、和氏の祖の百済より帰化れるはじめ、其今木に住て、〈此和氏の祖の百済人を、安置給へる地なるが故に、今来と呼べりしにやあらむ〉、祠を建てその遠祖神を祀り、やがて今木神と称ひて、世々崇め来りけむを、其氏人和乙継の女、新笠姫命たゞ人にて、光仁天皇いまだ二世の諸王にておはしましける時、御妻となり給ひたりけるが、夫王の御位に即せたまへるにあはせて、后となりたまへる御歓の賽に、其住せたまへける大和の田村の後宮に移祭たまひ」
と主張し、更には、
「其平野の神は、上に挙たる百済の純陀太子即位して、聖明王と云へるに当れり」
と推考したが、純陀太子を聖明王とする史料は見当たらない。

二所権現

参照: 「二所権現事」

『法花経』

鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』巻第一(方便品第二)[LINK]には、
「舎利弗当知 我以仏眼観 見六道衆生 貧窮無福慧 入生死険道 相続苦不断 深五於欲著 如犛牛愛尾 以貪愛自蔽 盲瞑無所見 不求大勢仏 及与断苦法 深入諸邪見 以苦欲捨苦 為是衆生故 而起大悲心 我始坐道場 観樹亦経行 於三七日中 思惟如是事 我所得智慧 微妙最第一 衆生諸根鈍 著楽痴所盲 如斯之等類 云何而可度(舎利弗当に知るべし、我仏眼を以て観じて、六道の衆生を見るに、貧窮にして福慧無し、生死の険道に入りて、相続して苦断えず、深く五欲に著すること、犛牛の尾を愛するが如し、貪愛を以て自ら蔽い、盲瞑にして見る所無し、大勢の仏及び断苦の法を求めず、深く諸の邪見に入りて、苦を以て苦を捨てんと欲す、是の衆生の為の故に 而も大悲心を起しき、我始め道場に坐し、観樹し亦経行して、三七日の中に於て、是の如き事を思惟しき、我が所得の智慧は、微妙にして最も第一なり、衆生の諸根鈍にして、楽に著し痴に盲いられたり、斯の如きの等類、云何して度すべきと)」
と偈を説く。

巻第六(如来寿量品第十六)[LINK]には、
「放逸着五欲 墮於悪道中 我常知衆生 行道不行道 隨応所可度 為説種種法 毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身(放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん、我常に衆生の道を行じ道を行ぜざるを知りて、応に度すべき所に随ひて、為に種種の法を説く、毎に自ら是の念を作さく、何を以てか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得しめんと)」
と偈を説く。

同じく巻第六(如来寿量品第十六)[LINK]には、
「或説己身、或説他身、或示己身、或示他身、或示己事、或示他事(或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す」
と説く。

巻第八(観世音菩薩普門品第二十五)[LINK]には、
「若有衆生、恭敬礼拝、観世音菩薩、福不唐捐(若し衆生有りて、観世音菩薩を恭敬し礼拝せば、福唐捐ならじ)」
と説く。

『法花玄義』

智顗『妙法蓮華経玄義』巻第五[LINK]には、
「又非生現生等是応身也。或示己身即法身報身。或示他身即報應矣(また「非生現生」等は是れ応身なり。「或示己身」は即ち法身と報身なり。「或示他身」は即ち報応なり)」
と釈す。

『悲花経』

曇無讖訳『悲華経』を指すと思われるが、後述のように当該語句は見られない。

『渓嵐拾葉集』巻十七(第四金輪法事)[LINK]には、釈尊が滅度の衆生の為に三密をこの世に留め、その中の身密としては舎利を遺すということについて、「悲花経に云く」として「於我滅度後、分布舎利也、常隠諸相好、変身為此呪」「汝勿啼泣、我滅度後、現大明神、度衆生」とあり、釈尊の遺身である舎利は三身即一の金輪भ्रूं(bhrūṃ)であるとしている。 また、同書・巻四(神明等事)[LINK]にも「現大明神、広度衆生」とある。 これらの語句には「大明神」の語が使われており、仏が神としてこの世に顕現しているという、いわゆる本地垂迹説を率直に述べた記が、既に仏典の中に明記されている事を示したもので、鎌倉末期以降の神道の典籍に広く見られる。 しかし、実はこの語句は『悲華経』の中には見出せない。
何れの経典からの変改であるかというと、二つの典拠が考えられる。 第一は承澄『阿娑縛抄』巻第五十八(熾盛光 本)[LINK]などに「末法経云」として「我滅度之後、分布舎利已、常隠諸相好、変身為此呪」と記している。 この『末法経』とは唐の宝思惟訳『大陀羅尼末法中一字心呪経』[LINK]であって、神道の典籍に見える『悲花経』の引文は、その変改であろうと考えられる。 同経は「一字転輪王呪भ्रूं(bhrūṃ)」を説く経典である。
変改の第二と考えられる典拠は、秦代失訳『大乗悲分陀利経』巻五、大師立願品第十六に[LINK]に「欲般涅槃、我当身舎利、如半芥子、為衆生故」とあり、また立願舎利神変品第十七に「令彼舎利、乃至金輪上住、……又般涅槃後、衆生以我舎利神変、発阿耨多羅三藐三菩提心者、……如是般涅槃後、舎利、於爾所時、為是苦切衆生、現如是種種若干神変、以彼舎利神変、我等初悟阿耨多羅三藐三菩提」とある。
この二つの典拠には共通して、釈尊が般涅槃して後、その舎利が分布され、その神変の功徳によって、末世の衆生が済度される事を説く。
(三崎良周『台密の研究』、第2編 三部の密教とその形成、第7章 蘇悉地の源流と展開、第4節 神仏習合と一字金輪、創文社、1988)

『般若経』や真言教主も同様の変改と思われる。

『毘吠論』

不詳。
『諸神本懐集』[LINK]では『優婆夷経』(不詳)の文言とする。
「優婆夷経には「一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、 現世福報更不来、後生必堕三悪道」といへり。この文のこころは、諸々の神をひとたびも見、ひとたびも礼すれば、まさしく蛇身を受くること五百度、現世の福報はさらに来たらず、後生には必ず三悪道に堕つとなり」(引用文は一部を漢字に改めた)

『観経疏』

善導『観無量寿仏経疏』巻第二[LINK]には、
「元本父王、無有子息、処処求神、竟不能得(元本父王、子息有ること無し。処処に神に求むるに、竟に得ること能はず)」
と説く。

『大論』

龍樹菩薩造・鳩摩羅什訳『大智度論』を指すと思われるが、当該記述は見られない。

吉伽夜・曇曜訳『付法蔵因縁伝』巻一[LINK]によると、摩竭国に婆羅門が有り、名を尼倶律陀といった。過去世に於いて勝業を修し、多くの財宝を有していたが、子供が無かった。 其の舎の側に樹林神が有ったので、婆羅門は子供を求めて祈請したが、年月を経ても何の効験も無かった。 尼倶律陀は大いに怒り、樹神に「今当に七日至心に汝に事うべし、若し復験無ければ必ず相ひ焼剪せん」と云った。 樹神は四天王に、四天王は帝釈天に、帝釈天は梵天王にこの事を申し上げ、婆羅門は子供(後の迦葉尊者)を得る事が出来た。

『涅槃経』

『大般涅槃経』巻第四(四相品第七之上)[LINK]には、
「為度衆生示現食肉、雖現食之其実不食(衆生を度せんが為に食肉を示現す。之を食するを現ずと雖も、其の実は食せず)」
と説く。 その後の「但有執見者、如来方便不解而偏執」は『大般涅槃経』には見られないが、道世『諸経要集』巻第十七(食肉縁第三)[LINK]には、
「但諸衆生有執見者、不解如来方便説意、便即偏執」
と付記する。

巻第十三(聖行品第十九之下)[LINK]には、
「如我往昔為半偈故捨棄此身、以是因縁便得超越足十二劫、在弥勒前成阿耨多羅三菩提(我が往昔半偈の為の故に此の身を捨棄するが如く、是の因縁を以て便ち超越十二劫に足ることを得、弥勒の前に在りて阿耨多羅三藐三菩提を成す)」
と説く(半偈とは羅刹の説いた「生滅滅已、寂滅為楽」)。

巻第十五(梵行品第二十之二)[LINK]には、
「令彼聞已生於瞋恨起不善心出仏身血、提婆達多造是悪已、如来復記当堕地獄一劫受罪(彼をして聞き已りて瞋恨を生じ、不善心を起して仏身の血を出さしむ。提婆達多是の悪を造り已りて如来復記す、当に地獄に堕して一劫罪を受くべし)」
と説く。

巻第二十五(師子吼菩薩品第二十三之一)[LINK]には、
「菩薩摩訶薩憐憫一切諸衆生故、雖復処在阿鼻地獄如三禅楽(菩薩摩訶薩一切の諸の衆生を憐憫するが故に、復阿鼻地獄に処在すと雖も三禅の楽の如し)」
と説く。

『毘尼母経』

『毘尼母経』には当該記述は見られないが、『諸経要集』巻第十七(食肉縁第三)[LINK]には、
「毘尼局教、言仏聴食三種浄肉、亦謗我言、如来自食、彼愚癡人成大罪障、長夜堕於無利益処、亦不得見現在未来賢聖弟子、況当得見諸仏如来、大慧諸声聞人等常所応食、米麺油蜜等能生浄命、非法貯畜非法受取、我説不浄、尚不聴食、何況聴食肉血不浄耶、非直食肉壊善障道、乃至邪命諂曲以求自活、亦是障道」
とある。
同集では出典が明示されていないが、菩提流支訳『入楞伽経』巻第八(遮食肉品第十六)[LINK]には、
「若有説言仏毘尼中説三種肉為不聴食非為聴食、[中略]亦謗我言如来自食、彼愚癡人成大罪障、長夜堕於無利益処無聖人処不聞法処、亦不得見現在未来賢聖弟子、況当得見諸仏如来、大慧、諸声聞人等常所応食、米麺油蜜種種麻豆能生浄命、非法貯畜非法受取、我説不浄尚不聴食、何況聴食肉血不浄」
と説く。

『文殊師利経』

僧伽婆羅訳『文殊師利問経』巻上(菩薩戒品第二)[LINK]には、
「仏復告文殊師利、以衆生無慈悲力懐殺害意、為此因縁故断食肉、若能不懐害心、大慈悲心、為教化一切衆生故、無有過罪」
と説く。

『諸経要集』

道宣ではなく道世の撰。 「衆生以故地獄堕……若微善無永出免期無」は同書には見えない。

『諸経要集』巻八(背恩縁第三)[LINK]に引用した支謙訳『仏説九色鹿経』には、
「時九色鹿我身是也、烏者阿難是也(時に九色鹿は我が身是れ也。烏は阿難是れ也)」
と説く。

『大般若経』

玄奘訳『大般若波羅蜜多経』を指すと思われるが、当該記述は見られない。

『首楞厳経』

般刺密帝訳『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』を指すと思われるが、当該記述は見られない。

『文句』

智顗『妙法蓮華経文句』巻一上[LINK]には、
「前仏今仏皆居此山、若仏滅後羅漢住、法滅支仏住、無支仏鬼神住、既是聖霊所居、総有三事、因呼為霊鷲山(前仏、今仏皆此の山に居す。若し仏の滅後には羅漢住し、法滅には支仏住し、支仏無ければ鬼神住す。既に是れ聖霊の居する所に総じて三事あり。因りて呼んで霊鷲山と為す)」
と説く。

『金光明経』

義浄訳『金光明最勝王経』巻第三(滅業障品第五)[LINK]に法施の五勝利として
「一者法施兼利自他、財施不爾、二者法施能令衆生出於三界、財施之福不出欲界、三者法施能浄法身、財施唯増長於色、四者法施無窮、財施有尽、五者法施能断無明、財施唯伏貪愛(一には法施は自他を利することを兼ね、財施は爾らず。二には法施は能く衆生をして三界を出でしむ、財施の福は欲界を出でず。三には法施は能く法身を浄む、財施は唯色を増長す。四には法施は窮り無し、財施は尽くることあり。五には法施は能く無明を断ず、財施は唯貪愛を伏す)」
と説く。

『正法念経』

瞿曇般若流支訳『正法念処経』を指すと思われるが、「七歩道場……決定菩提」は同経には見えない。

巻第六十一(観天品之四十 夜摩天之二十六)[LINK]には、
「有四種恩、甚為難報、何等為四、一者母、二者父、三者如来、四者説法法師、若有供養此四種人、得無量福、現在為人之所讃歎、於未来世能得菩提(四種の恩有り、甚だ報じ難しとす。何等をか四とす、一には母、二には父、三には如来、四には説法の法師なり。若し此の四種の人を供養すること有れば、無量の福を得。現在には人の為に讃嘆せられ、未来世には於ては能く菩提を得)」
と説く。

『増一阿含経』

『増一阿含経』には当該記述は見られないが、『諸経要集』巻第十四(偸盗縁第二)[LINK]には、
「増一阿含経云、[中略]以偸盗悪業因縁、命終之後生地獄中、猛火焼身、融銅灌口、鑊湯鑪炭刀山剣樹、煻灰糞屎磨磨碓擣、受如是等種種諸苦、酸楚毒害痛不能称計、百千万歳脱出無期、地獄罪畢、生畜生中、象馬牛羊駝驢犬等、経百千歳、以償他カ、畜生罪畢生餓鬼中、飢渇苦悩不可具言、初不聞有漿水之名、経百千歳受如是菩、悪道罪畢出生人中、若生人中、得二種報、一者貧窮、衣不蓋形、食不充口、二者為王賊火水及以悪賊劫奪」
と説く。

『罪応地獄経』

安世高訳『仏説罪業応報教化地獄経』[LINK]には、
「第十八復有衆生、従生至老無有児子孤立独存、何罪所致、仏言、以前世時坐為人暴悪不信罪福、百鳥産乳之時。斎持瓶器循大水渚、求拾鴻鵠鸚鵡鵝雁諸鳥卵、擔帰煮瞰、諸鳥失子悲鳴叫裂眼中血出、故獲斯罪。第十九復有衆生、少小孤寒無有父母兄弟、為他作使辛苦活命、長大成人橫羅殃禍、県官所縛繋閉牢獄、無人追餉飢窮困苦無所告及、何罪所致、仏言、以前世時坐喜捕拾鵰鷲鷹鷂熊羆虎豹枷鎖而畜孤此衆生、父母兄弟常恒憂念、悲鳴叫裂哀感人心、不能供養、常苦飢餓骨立皮連求死不得、故獲斯罪」
と説く。

『大集経』

那連提耶舍訳『大方等大集経』巻第五十三(月蔵分第十二呪輪護持品第十五)[LINK]には、
「所有衆生於現在世及未来世応当深信仏法衆僧、彼諸衆生於人天中当得受於勝妙果報」
と説く。

『花厳経』

実叉難陀訳『大方広仏華厳経』巻第二十四(十地品第二十二之三)には[LINK]には、
「若得一句未曾聞法。勝得三千大千世界満中珍宝(若し一句の未だ曾て聞かざる法を得ば、三千大千世界の中に満てる珍宝を得るにも勝らん)」
と説く。

『薬師経』

玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』[LINK]には、
「求長寿得長寿、求富饒得富饒、求官位得官位、求男女得男女(長寿を求め長寿を得、富饒を求め富饒を得、官位を求め官位を得、男女を求め男女を得)」
と説く。

『疏記』

遁麟『倶舎論頌疏記』巻十一[LINK]には、
「言無熱池者、梵云阿那婆答多池也、昔云阿耨達池訛也、謂此池龍離三熱悩(無熱池と言ふは、梵に阿那婆答多池と云ふ也。昔は阿耨達池と云ふは訛也。謂く此の池の龍は三の熱悩を離る)」
と説く。