『神道集』の神々

第一 神道由来之事

天地開闢の時、空中に一つの物が有った。 形は葦の芽のようで、化して神と成った。 これを国常立尊という。 次に国狭槌尊が現れた。 その次に豊斟渟尊が現れた。 以上の三神は乾(陽気)のみから生じた。
その次に埿土煮尊と沙土煮尊が現れた。 その次に大戸之道尊と大戸間辺尊が現れた。 その次に面足尊と惶根尊が現れた。 以上の三代六神は男女の姿は有ったが、夫婦では無かった。 その次に伊弉諾尊と伊弉冊尊が現れた。 この二神が始めて夫婦となった。 以上を天神七代という。
二神は天逆鉾を下して国の有無を探った。 その鉾の滴りが凝って島と成った。 今の淡路島である。 また、この世の主として一女三男を産んだ。 三男とは日神・月神・素盞鳴尊である。 一女とは蛭児命である。 二神は淡路島に幽宮を構えて住まわれた。

地神五代の最初は、伊弉諾・伊弉冊尊の太子の天照太神である。 即ち日神である。 父母神はこの子を生んで喜び、霊異の子であるとして天下を授けられた。
次は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊。 天照太神の御子で、天照太神が弟の素盞鳴尊と誓約して生まれた。 以上の二神は天に在った。
次は天津彦彦火瓊瓊杵尊。 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊の太子で、母は高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫である。 日向国高千穂峯に天下り、その後は日向国宇解山に住み、天下を治めること三十一万八千五百四十三年である。 この尊の御代に、三面の鏡と三本の剣が天下った。 三面の鏡の内、一面は伊勢太神宮に在り、一面は紀伊国日前社に在り、一面は内裏に留まる。 今の内侍所である。 三本の剣の内、一本は大和国布流社に在り、一本は尾張国熱田社に在り、一本は内裏に留まる。 今の宝剣である。 この二つは後に内裏守護の宝と成った。
次は彦火火出見尊。 天津彦彦火瓊瓊杵尊の太子で、母は大山祇神の娘の木花開耶姫である。 天下を治めること六十三万七千八百九十二年である。 御陵は日向国高屋山に在る。
次は彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊。 彦火火出見尊の太子で、母は海童の第二の姫の豊玉姫である。 天下を治めること八十三万六千四十二年である。 御陵は日向国吾平山に在る。 以上を地神五代という。 この尊の第四の太子を神武天皇という。

伊弉諾・伊弉冊尊の一女三男の内、第一は素盞鳴尊である。 悪神なので嫡子には立てず出雲国に流された。 今の出雲大社である。 第二は日神、今の伊勢太神宮である。 伊勢国度会郡五十鈴河上に鎮座している。 第三は月神、月弓霊尊という。 今は鎮西豊後国の本満宮に垂跡している。
一女は蛭児命である。 この御子は三歳の時に楠の椌船に入れて大海に捨てられた。 この船は浪に漂って自然と龍宮に下った。 龍神がこの子を養ってその由を尋ねたところ、天神七代の伊弉諾・伊弉冊尊の御子であると言った。 龍宮に留めるべきではないので、七・八歳の時にまた楠の椌船に乗せてこの国に返した。 蛭子は龍宮に何年もいたので、第八の外海を引出物として給わった。 龍王が「我は大海を領して陸に所領が無い。外海を与えるので大海の上に住むがよい」と云ったので、蛭子は住吉の洋に留まった。 今の世に西宮と云うのがこれである。 海人は盛大に秋の祭を行い、これを恵美酒と申している。

伊勢太神宮が天下った時、第六天魔王がこの国を滅ぼそうとした。 太神宮は魔王に向かい、「私は三宝の名を云わず、我が身にも近づけませんので、すぐに天上にお帰り下さい」と誓ったので、魔王は天に帰った。 この約束を違えぬよう、僧は御殿の近くには参らず、社壇では経を顕には持たない。 三宝の名も正しく呼ばず、仏を"立スクミ"、経を"染紙"、僧を"髪長"、堂を"木焼(コリタキ)"などと云う。 外には仏法を疎かにし、内には三宝を守護される故に、我が国の仏法は伊勢太神宮の守護に依るのである。

天照太神は素盞鳴尊が天津罪を犯した事を憎み、天岩戸を閉じて隠れたので、天下はたちまち暗闇に成った。 八百万の神々は悲しんで、天照太神を誘い出す為、庭に火を焚いて神楽を行った。 天照太神は御子神たちの遊びをゆかしく思い、岩戸を少し開けてご覧になると、世間は明るくなった。 大力雄神が御神を抱き留め、天岩戸に七五三(注連縄)を引き、この内に入れないようにしたので、ついに日月が天下を照らすようになった。 日月の光が当たるのも当社の恩徳である。

すべては大海の大日如来の印文より起り、内宮・外宮は両部の大日如来である。 天岩戸は都率天であり、高天原とも云う。 真言の意では、都率天は内証の法界宮殿で、密厳浄土とも云う。 内証の都を出て日本に垂迹する。 故に内宮は胎蔵界の大日如来で、四重曼茶羅を象って囲垣・玉垣・瑞垣・荒垣(瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣)と重々めぐらせている。 九本の鰹木は、胎蔵界(中台八葉院)の九尊を象っている。 外宮は金剛界の大日如来あるいは阿弥陀如来である。 金剛界の五智を象って、五つの月輪が有る。 胎金の両部は陰陽を司り、陰は女、陽は男である。 八人の八女は胎蔵を象る。 五人の神楽男は金剛界の五智を象る。

《以下、本地垂迹説に基づく神道理論が説かれるが、煩雑になるので省略する。 一例として、神道における権者・実者の議論の箇所を抜粋する》
問、毘吠論によると、一度神を拝めば五百生の間は蛇身の報いを受けると云う。 心有る人は神を拝むべきだろうか。
答、神道には権者と実者がある。
問、悪霊や悪蛇が物に取り付き、人を悩ませるのは。
答、実者はすべて蛇や鬼などである。 権者は如来や菩薩が衆生のために和光垂迹したもので、帰依すべきである。 ただし、実者の神といえども神と顕れて利益が無いわけではない。 凡愚には権者と実者を判別することは難しいが、ただ神に隨って拝んで間違いはないだろう。 始めは実者であったとしても、終いには権者の眷属と成るのである。

天神七代・地神五代

『日本書紀』(神代紀・第三段)[LINK]では国常立尊から伊弉諾尊・伊弉冉尊までを"神世七代"と称する。 一方、"地神五代"に相当する呼称は無い。

卜部兼方『釈日本紀』[LINK]は『日本書紀』の神代紀上下について「第一巻には天神七代之事を載す。故に神代上と曰ふ。第二巻には地神五代之事を載す。故に神代下と曰ふ」としている。

天津神である天照大神と天忍穂耳尊を"地神"とする事について、北畠親房『神皇正統記』[LINK]は「天照太神吾勝尊は、天上にとゝまり給へど、地神の第一二にかぞへ奉る。其はじめ天下の主たるべしとて生れ給しゆへにや」と記す。

一条兼良『日本書紀纂疏』は仏教の須弥山世界における空居天・地居天の概念を以って天神・地神を定位し、日天子(=天照大神)を須弥山中腹の地居天に位置付ける。
(参考文献 二藤京「『日本書紀纂疏』における帝王の系譜」、高崎経済大学論集、49、No.3&4、pp.139-152、2007)

淡路島

『日本書紀』(神代紀・第四段)[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊が下した天之瓊矛からの滴りが凝って一つの島と成った。 これを磤馭慮島と云う。 二神がこの島に降って大八洲国を生む時、先ず淡路洲を胞衣と為した。 「意に(よろこ)びざる所」なので"淡路洲"と名付けた。

『釈日本紀』[LINK]は、先ず悪子を生んだので"吾恥"と名付けたと解釈する。

一女三男

通説では"一女"は日神(天照大神)、"三男"は月神(月読尊)・蛭児・素盞鳴尊である。

『日本書紀』(神代紀・第五段)[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊は大八洲国および山川草木を生んだ後、天下の主たる者として日神(大日孁貴、天照大神、天照大日孁尊)を生んだ。 この子の光は世界を照らしたので、二神は喜んで「吾が息多なれども、未だかく霊異なる児はあらず、久しく此の国に留むべきにあらず、自らまさに早に天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」と云い、天に送った。 次に月神(月弓尊、月夜見尊、月読尊)を生んだ。 その光は日に次いだので、「日に配て治すべし」として、また天に送った。 次に蛭児を生んだ。 三歳になっても立てないので、天磐櫲樟船に乗せて放ち棄てた。 次に素戔嗚尊(神素戔嗚尊、速素戔嗚尊)を生んだ。 性質が荒々しく、泣き喚くと多くの人民が死亡し、青山が枯れた。 二神は「汝は甚だ無道、宇宙に君臨たるべからず、固にまさに遠く根国に適るべし」と云い、素戔嗚尊を放逐した。

幽宮

『日本書紀』(神代紀・第六段)[LINK]によると、国土修理固成の神功を終えられた伊弉諾尊は、淡路之洲に幽宮を構えてお隠れになった。

『釈日本紀』[LINK]によると、神名帳における淡路国津名郡の淡路伊佐奈伎神社である。

伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀)
祭神は伊弉諾尊で、伊弉冉尊を配祀。
式内社(淡路国津名郡 淡路伊佐奈伎神社名神大)。 淡路国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『新抄格勅符抄』大同元年[806]牒の「津名神 十三戸 淡路国」。

日向国高千穂峯

霧島連峰の高千穂峰、あるいは高千穂郷(現在の高千穂町一帯)に比定される。

高千穂峰の東麓(日向側)には霧島東神社(宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田)・東霧島神社(都城市高崎町東霧島)・霧島岑神社(小林市細野)、西麓(大隅側)には霧島神宮(鹿児島県霧島市霧島田口)が鎮座する。
また山頂には、霧島東神社の社宝である"天の逆鉾"が立っている。 『三国名勝図会』[LINK]によると、大己貴命が国土平定に用いた広矛で、国譲りの際に天孫に献上され、瓊瓊杵尊が高千穂峰に降臨した際に建てたものである。
霧島神宮の別当華林寺の記録[LINK]によると、欽明天皇の御宇[539-571]に慶胤上人が霧島山を開き、高千穂峰と火常峰(御鉢)の間の背門丘に霧島神宮と寺院を創建。 その後の噴火により寺社は焼亡。 天暦年間[947-957]に性空上人が背門丘から現社地に遷座して六所権現社と号した。 また、六観音を感見して本地とした。

『日向国風土記』逸文(『釈日本紀』に引用)[LINK]は日向国臼杵郡知鋪郷の二上峯を天孫降臨の地とする。
二上峯は槵触峯(宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井)に比定され、槵触神社が鎮座する。 同社は高智保皇神(国史現在社)の論社の一つで、槵触峯を神体山として祀る。

日向国宇解山

不詳。
『三国名勝図会』[LINK]によると、瓊瓊杵尊は高千穂峯に天降り、笠狭宮(鹿児島県南さつま市加世田)に居した後、神亀山(鹿児島県薩摩川内市宮内町)に皇居を移して高城宮と号した。 瓊瓊杵尊は崩御後、この地に葬られて、これを可愛山陵と称した。

伊勢太神宮

現在の正式な名称は"神宮"。 後述の内宮(皇大神宮)・外宮(豊受大神宮)をはじめ別宮・摂末社・所管社の総称であるが、ここでは特に内宮を指している。

日前社

日前神宮(和歌山県和歌山市秋月)
祭神は日前大神で、思兼命・石凝姥命を配祀。
式内社(紀伊国名草郡 日前神社名神大 月次相嘗新嘗)。 紀伊国一宮。 旧・官幣大社。
同一境内に国懸神宮と並び建っている。
史料上の初見は『日本書紀』(持統天皇六年[692]五月庚寅)の「遣使者奉幣于四所。伊勢・大倭・住吉・紀伊大神」。

『日本書紀』(神代紀・第七段の一書)[LINK]によると、天照大神が天石窟に入って磐戸を閉ざした際、思兼神は日像の鏡を造るために、石凝姥を冶工として先ず日矛と天羽鞴を作らせた。 それを用いて造り奉った神は紀伊国の日前神である。

『古語拾遺』[LINK]によると、思兼神が石凝姥神に日像鏡を鋳造させた際、最初に鋳造した鏡は少し意に沿わなかった。 これは紀伊国の日前神である。 次に鋳造した鏡は美麗であった。 これは伊勢の大神である。

『大倭本紀』(『釈日本紀』に引用)[LINK]によると、天孫降臨の際に斎鏡三面・子鈴一合が副えられた。 一つの鏡は天照大神の御霊で、名は天懸大神である(『紀伊続風土記』は、天懸大神を日前大神の別名とする)。 一つの鏡は天照大神の前御霊で、名を国懸大神と云い、紀伊国名草宮に祀られている。 一つの鏡と子鈴は天皇の御食津神で、今は巻向穴師社宮(奈良県桜井市穴師の巻向坐若御魂神社と穴師坐兵主神社)に祀られている。

『国造家旧記』(『紀伊続風土記』に引用)によると、日像鏡は日前大神の御神体、日矛鏡は国懸大神の御神体である。 天孫降臨の際、三種の神宝と共に日像鏡・日矛鏡が副えられた。
神武天皇東征の時、紀伊国造の祖である天道根命に命じて日像鏡・日矛鏡を奉斎させた。 神武天皇が国々を経て即位前三年[B.C.663]に摂津国難波に到着した後、天道根命は日像鏡・日矛鏡を戴いて紀伊国名草郡毛見郷(和歌山県和歌山市毛見)に到り、琴浦の海の岩上に日前・国懸両大神を奉安した(社伝によると、創祀は神武天皇二年[B.C.659])。
崇神天皇五十一年[B.C.47]四月八日、豊鍬入姫命が天照大神を名草浜宮に遷祀した際、日前・国懸両大神も琴浦から同宮に遷されて並び祀られた。 同五十四年[B.C.44]十一月、天照大神は吉備の名方浜宮に遷祀されたが、日前・国懸両大神は名草浜宮に留められた。 垂仁天皇十六年[B.C.14]、日前・国懸両大神は名草浜宮から現在地の万代宮に鎮座した。

内侍所

『古語拾遺』[LINK]によると、崇神天皇の御宇に八咫鏡と草薙剣を宮中から遷祀する際、斎部氏に命じて石凝姥神の子孫と天目一箇神の子孫に神鏡と神剣の形代を造らせ、これを護身の御璽とした。
八咫鏡の形代は、平安時代には内裏の温明殿に奉斎され、女官の内侍が候したので"内侍所"と呼ばれた。
現在、八咫鏡(形代)は三種の神器の一として、皇居内の賢所に奉斎されている。

布流社

石上神宮(奈良県天理市布留町)
祭神は布都御魂大神・布留御魂大神・布都斯魂大神で、宇摩志麻治命・五十瓊敷命・白河天皇・市川臣を配祀。
式内社(大和国山辺郡 石上坐布都御魂神社名神大 月次相嘗新嘗)。 二十二社(中七社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』(神武紀)[LINK]によると、神武天皇は即位前三年[B.C.663]に熊野の荒坂津(和歌山県新宮市三輪崎)において悪神の毒気に倒れた。 熊野高倉下の夢の中で、天照大神が武甕雷神に「夫れ葦原中国は猶さやげりなり。宜く汝更に往きて征つべし」と命じたところ、武甕雷神は「予行かずと雖も、予が平国の剣を下さば、則ち国将に自ずと平がん」と答え、天照大神も承諾した。 武甕雷神は高倉下に「予が剣を号して韴霊(布都御魂)と曰ふ。今当に汝が庫の裏に置く。宜く取りて天孫に獻献るべし」と命じた。 目を覚ました高倉下が庫を開くと、夢の通りに剣が置かれていた。 高倉下が神剣を天皇に献上したところ、天皇と兵士たちは忽ち回復した。

『大和志料』[LINK]によると、布都御魂と布留御魂(天璽瑞宝十種)は宮中で物部氏に奉斎されていたが、崇神天皇七年[B.C.91]十二月に伊香色雄命に勅して大和国山辺郡石上邑の布留高庭(石上神宮拝殿後方の禁足地)の地下の石窟に奉蔵し、石上振神宮と号した。
また、布都斯魂(素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した天津羽々斬)は石上布都魂神社(岡山県赤磐市石上)に安置されていたが、仁徳天皇五十六年[368]十月に市川臣が勅命により石上布留高庭に遷し、布都御魂の東に埋斎した。

熱田社

熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区神宮一丁目)
参照: 「熱田大明神事」

宝剣

宮中に伝わった草薙剣の形代は、寿永四年[1185]に壇ノ浦の合戦で安徳天皇が入水した際に失われた。
『禁秘抄』[LINK]によると、後鳥羽上皇の御時には二十余年にわたり清涼殿の御剣が用いられた。 承元四年[1210]に土御門天皇が譲位された際、夢想が有って伊勢から剣が献上され、その後はこれを神器として用いている。
現在、三種の神器の草薙剣(形代)と八尺瓊勾玉は、皇居内の"剣璽の間"に奉斎されている。

日向国高屋山

彦火火出見尊の御陵に関する有力な伝承地としては、溝辺の神割岡(鹿児島県霧島市溝辺町麓)および内之浦の国見山(肝属郡肝付町北方)が挙げられる。

『薩隅日地理纂考』[LINK]によると、高屋山上陵は大隅国姶良郡溝辺郷麓村に在り、俗に神割岡と云う。 高千穂の西岳より真西に当り、直線距離で二里以下なので、『古事記』に「御陵は即ちその高千穂山の西に在り」と記載されているのと良く符合する。 また、神割岡より南の方、約七町の所に鷹屋神社がある。 上古は神割岡の頂に鎮座していたが、非常に荒々しかったので人々が神威を畏れ、現在地に遷座した(鷹屋神社の社伝によると、現在地への遷座は応永十八年[1411])。
明治七年[1874]、神割岡は高屋山上陵に治定された。

一方、『三国名勝図会』[LINK]によると、高屋山上陵は大隅国肝属郡内之浦郷小串村の高屋山上にある。 彦火火出見尊の御陵で、陵の上には自然の御影石が安置されている。 この石は地上に一尺余出ており、周囲は約八尺である。 彦火火出見尊を葬り奉った所で、上に小廟が建っている。 此の山は一名を国見嶽と云うので、陵を国見陵、廟を国見権現と称する。

この他、鹿児島神宮の元宮である石体宮(霧島市隼人町内)にも彦火火出見尊の御陵とする伝承がある。

日向国吾平山

鸕鷀草葺不合尊の御陵に関する有力な伝承地としては、姶良の鵜戸窟(鹿児島県鹿屋市吾平町上名)および鵜戸神宮(宮崎県日南市鵜戸)の速日峰古墳が挙げられる。

『三国名勝図会』[LINK]によると、吾平山上陵は大隅国肝属郡姶良郷の姶良町村の山窟にある。 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵で、俗に此の山を鵜戸山、窟を鵜戸窟と称する。 窟に入って九間余の所に、高さ四尺一寸、周囲約三丈九尺の塚がある。 これは不合尊の玉体を葬った所である。 この塚の前に、石坂を壇としてその上に小社が建っており、中には古鏡数面が納められている。 そこから東の方、約三尺の所に、円形の塚がある。 高さ三尺、周囲二丈三尺三寸で、これは不合尊の后妃の玉依姫の御陵と伝わっている。 昔は社壇の下は井戸のように深い穴であったが、慶長九年[1604]の洪水により土砂で埋まった。 山窟の北の傍、約三十六歩の所に鵜戸六所権現廟(鵜戸神社)が祀られている。
明治七年[1874]、鵜戸窟は吾平山上陵に治定された。

『鵜戸山之縁起』によると、鵜戸山大権現は地神第五代の不合尊で、日向国那珂郡鵜戸山の御窟で誕生し、八十三万六千四十二年をこの御窟に住み給われた。 神武天皇四十五歳庚午年[正しくは甲寅年、B.C.667]四月三日に日本人王の代を譲られた。 『日本書紀』に云う日向国吾平山陵とは此の山の事で、崩御されたのは庚申年[B.C.661]である。
明治二十九年[1896]、速日峰古墳は陵墓参考地に指定された。

出雲大社

出雲大社(島根県出雲市大社町杵築東)
祭神は大国主大神で、御客座五神(天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇摩志阿斯訶備比古遅神・天之常立神)を配祀。
式内社(出雲国出雲郡 杵築大社名神大)。 出雲国一宮。 旧・官幣大社。

『日本書紀』(神代紀・第九段の一書)[LINK]によると、葦原中国の平定のために武甕槌神と経津主神が遣わされた。 二神が大己貴神に「此の国を以て天神に奉らんやいなや」と問うと、大己貴神は「汝二神は是れ吾が処に来せるにあらざるか。故れ許すべからず」と答えた。 経津主神が高天原に戻って報告すると、高皇産霊尊は二神を再び遣わして「夫れ汝が治す顕露の事、宜しく是れ吾孫治すべし、汝は則ち以て神の事を治すべし、又汝は天日隅宮に住むべし、(中略)又汝が祭祀を主らん者は天穂日命是なり」と大己貴神に勅した。 大己貴神は「吾が治す顕露の事は、皇孫まさに治めたまふべし、吾は将に退きて幽れたる事を治めん」と国譲りに応じ、身に瑞之八坂瓊を付けてお隠れになった。

『古事記』[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、大国主神に天孫に国を譲るよう申し入れた。 事代主神が先ず国譲りに応じ、青柴垣に身を隠した。 建御名方神は国譲りに抵抗して建御雷神と争い、科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に逃れてついに国譲りに応じた。 事代主神と建御名方神が帰順した後、大国主神は「この葦原の中つ国は、命のまにまに既に献む。ただ僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知しめさむ、とだる天の御巣なして、底津岩根に宮柱太しり、高天の原に氷木高知りて治め給はば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍らひなむ」と国譲りに応じ、出雲国の多芸志の浜に天之御舎が建立された。

『先代旧事本紀』(陰陽本紀)[LINK]によると、建速素戔烏尊は出雲国の熊野(松江市八雲町熊野)・杵築に坐す。

中世の出雲大社は素戔嗚尊を祭神とし(例えば、建武三年[1336]の『出雲国造孝時解状土代写』に、「当社大明神は伊弉諾・伊弉冉の御子、天照大御神の弟、天下社禝の神、素戔烏尊」と記されている)、浮浪山鰐淵寺(出雲市別所町)と密接な関係を有した。 同寺の縁起によると、天竺の霊鷲山の東北の隅が欠けて流れ来たのを、素戔嗚尊が繋ぎ留めたのが浮浪山の由来であり、その麓に出雲大社、峯上には鰐淵寺が建立された。 また、鰐淵寺に祀られる蔵王権現や摩多羅神は、素戔嗚尊と同体とされた。
この状況は寛文の造営の頃まで続き、寛文六年[1666]に毛利綱広が寄進した銅鳥居の銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記されている。
(参考文献 斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化 ―<中世神話>の世界―』、吉川弘文館、2012)

本満宮

不詳。

西宮・恵美酒

西宮神社(兵庫県西宮市社家町)
第一殿の祭神は蛭児大神。
第二殿の祭神は天照大神で、大国主大神(大国主西神社)を配祀。
第三殿の祭神は須佐之男大神。
旧・県社。
文献上の初出は『伊呂波字類抄』の広田神社の項における「夷(毘沙門)、三郎殿(不動明王)」。

『平家物語』剣巻[LINK]によると、蛭子は三年まで足が立たなかったので、天石橡樟舟に乗せて大海に流された。 摂津国に流れ寄って海を領する神となり、夷三郎殿として顕れて西宮に祀られている。

『古今和歌集序聞書三流抄』によると、蛭子は火神で、南を司る神である。 海に捨てられたが、龍神が「天神の御子なれば」と養子にして、三歳の時に始めて足・手・目・鼻が出来た。 その後、兄の天照大神の御前に参じた時に「親に捨てられ玉て下位の龍神が子となれり。されば、汝は下主を守る神となれ」と命じられて、摂津国西宮の夷三郎となった。

『大倭神社註進状並率川神社記』裏書[LINK]によると、椎根津彦命が難波で魚釣りしていたところ、天の光が海上で磐橡樟船を照らしているのを見つけた。 椎根津彦命はこの船を武庫浜に引き上げて神社を建て、蛭児神の御神体として祀った。 広田西宮の三郎殿がこれである。

社伝によると、鳴尾の漁夫が武庫の海で夜漁りをしていると、網に神像のような物が懸かった。 それを遺棄した後、和田岬の辺で網を曳くと、先程の神像が再び網に懸かったので、その神像を自宅に持ち帰って祀った。 ある夜、漁夫の夢に神託が有り、鳴尾の西の方の宮地に戎社の仮宮を造って神像を奉斎した。

元は広田神社(西宮市大社町)の境外摂社・浜南宮(南宮神社)に属する末社であったが、明治五年[1872]に広田神社から分離した。

大日如来の印文

『塵滴問答』[LINK]によると、我が国は海底の大日の印文から始まった密教相応の国である。 大日の印文とは鑁(vaṃ)字である。 これは金剛界大日如来の種子で、五大の中では水大輪の主である。 万物の成長も水大の徳である。 鑁(vaṃ)字から始まった大地は阿(a)字である。 これは胎蔵界大日如来の種子で、五大の中では地大輪の主真智である。 従って密教相応の国であり、大日本国と名付ける。

御流神道の『八十通印信』は「海底印信」と題して無所不至印の印相を描く。

『御流神道竪印信』の「印文至極大事」によると、我が国の衆生は機根未熟であるので、大日如来は八万宝蔵を金剛合掌印の内に入れて下総国の印盤浦(印旛沼)の底に納めた。 これは三千年に一度湧出する。

光宗『渓嵐拾葉集』の「金輪法事」によると、大日の印文とは三輪の金光である。 国常立尊が天宮に御座して天鉾を下し、「此下に国あからめや」と云って大海の最底を探った時、金の三輪が見つかった。 この三輪とは密教の三部(仏部・蓮華部・金剛部)であるので、大日の印文と云うのである。
(参考文献 伊藤聡「大日本国説 ―密教化された神国思想―」、『中世天照大神信仰の研究』所収、法藏館、2011)

第六天魔王

六欲天の最高位である他化自在天を住処とし、仏道修行を妨げる天魔の王で、名を波旬(Pāpīyas)と云う。 仏伝によると、修行中の釈尊は魔王を降して悟りを開いた(降魔成道)と伝えられる。 日本では、色界の最高位である色究竟天に住する大自在天(摩醯首羅天)あるいは伊舍那天と混同される事もある。

『中臣祓訓解』によると、大日如来は無縁悪業の衆生を済度するため、権化の姿(天照大神)を現して閻浮提に垂跡し、魔王に府璽を請うた。

無住『沙石集』の「大神宮の御事」[LINK]によると、この国が未だ無かった頃、大海の底に大日如来の印文が有るというので、天照大神が鉾を下して探った。 鉾からの滴りが露のように成った時、第六天魔王がこれを見て「この滴国と成りて、仏法流布し、人倫生死を出べき相あり」と考え、破壊しようと天下った。 天照大神は魔王に向かい、「われ三宝の名もいはじ、我身にも近づけじ、とくとく帰り上給へ」と誓ったので、魔王は天に帰った。 そのため、神宮では外には仏法を忌みながら、内には三宝をお守りになるのである。

『通海参詣記』[LINK]によると、伊弉諾尊・伊弉冉尊がこの国を建立しようと第六天魔王に請い受けた時、魔王は「南閻浮提の内、此所に仏法流布すへき地也。我仏法の仇なるに依て、是を許すべからず」と云った。 伊弉諾尊は「然れば仏法を忌むべき也」と誓って請い受けたので、神宮では仏法を忌むと申し伝えている。

『平家物語』剣巻[LINK]によると、国常立尊が「此下に国なからんや」と天瓊矛を降して大海の底を捜し、その矛を引き上げると滴りが凝り固まって島となった。 大海の浪の上に"大日"という文字があり、その上に滴りが落ちて島となったので"大日本国"と名付けた。 天照大神は伊弉諾・伊弉冉尊から国を譲られたが、第六天魔王は「この国は大日といふ文字の上に出で来る島なれば、仏法繁昌の地なるべし。これよりして人皆生死を離るべしと見えたり。されば此には人をも住ませず、仏法をも弘めずして、偏に我が私領とせん」と許さなかった。 三十一万五千年を経た後、天照大神が魔王に「日本国を譲りの任に免し給はば、仏法をも弘めず僧・法をも近付けじ」と誓ったので、魔王はこれを許して印を奉った。 これが今の神璽である。

『太平記』[LINK]によると、天照大神が伊勢に鎮座しようとした時、第六天魔王は「此の国の仏法弘まらば、魔障弱くして其力を失うべし」と妨げようとした。 天照大神が「我三宝に近付じ」と誓うと、魔王は怒りを休めて五体から血を流し「尽未来に至るまで、天照大神の苗裔たらん人を以て此国の主とすべし。もし王命に違ふ者有て国を乱り民を苦めば、十万八千の眷属朝にかけり夕べに来て其罰を行ひ其命を奪ふべし」と堅く誓約を書いて天照大神に奉った。 今の神璽の異説である。

内宮

皇大神宮(三重県伊勢市宇治館町)
祭神は天照坐皇大神で、天手力男神・万幡豊秋津姫命を相殿に配祀。
式内社(伊勢国度会郡 太神宮三座相殿坐神二座 並大 預月次新甞等)。 二十二社(上七社)

『日本書紀』(神代紀・第七段の一書)[LINK]によると、天照大神が天石窟に入って磐戸を閉ざした時、諸神はこれを憂いて、鏡作部の遠祖・天糠戸に鏡を、忌部の遠祖・太玉に幣を、玉作部の遠祖・豊玉に玉を作らせた。 また、山雷に五百箇の真坂樹の八十玉籤を採らせ、野鎚に五百箇の野薦の八十玉籤を採らせた。 これらの物を集めて、中臣の遠祖・天児屋命が神祝くと、日神は磐戸を開いた。 この時に鏡を石窟に入れると、磐戸に触れて小さな疵が付き、その疵は今も残っている。 これは伊勢に崇秘する大神である。

同書(神代紀・第九段の一書)[LINK]によると、天照大神は天忍穂耳尊に宝鏡を授けて、「此の宝鏡を視ること、当に猶吾を視るがごとくすべし。与に床を同じくし殿を共にし、以て斎の鏡と為すべし」と神勅を下した。 その後、天忍穂耳尊の子の瓊瓊杵尊が生まれたので、天忍穂耳尊の代りに天降らせた。

八咫鏡は天照大神の御霊代として宮中に奉斎されていたが、崇神天皇六年[B.C.92][LINK]に豊鍬入姫命が御杖代となって大和国笠縫邑に遷祀した。 その後、垂仁天皇二十五年[B.C.5]三月[LINK]に豊鍬入姫命に替って倭姫命が御杖代となった。 倭姫命は鎮斎地を求めて、菟田の筱幡(奈良県宇陀市)、近江、美濃を巡り、伊勢国に到った。 ここで、「この神風の伊勢の国は常世の浪の重浪帰する国なり。傍国の可怜国なり。この国に居らむと欲ふ」と天照大神の託宣が有り、五十鈴川上に斎き宮を建立して磯宮と称した。

『倭姫命世記』[LINK]によると、豊鍬入姫命は鎮斎地を求めて、大和国笠縫邑から丹波国吉佐宮、大和国伊豆加志本宮、紀伊国奈久佐浜宮、吉備国名方浜宮と遷座し、崇神天皇五十八年[B.C.40]に大和国御室嶺上宮に到った。 豊鍬入姫命に替って倭姫命が御杖代となり、宇多秋宮、佐佐波多宮、伊賀国隠市守宮、穴穂宮、敢都美恵宮、淡海国甲可日雲宮、坂田宮、美濃国伊久良河宮、尾張国中島宮、伊勢国桑名野代宮、奈其波志忍山宮、阿佐加藤方片樋宮、飯野高宮、佐々牟江宮を経て、垂仁天皇二十五年三月に伊蘇宮に遷座した。 さらに、瀧原宮、矢田宮、家田田上宮、奈尾之根宮と遷座し、同二十六年[B.C.4]十月[LINK]に五十鈴河上宮に鎮座した。

なお、『神道集』や『沙石集』には「九本の鰹木」とあるが、現在の内宮の鰹木は十本である。

外宮

豊受大神宮(三重県伊勢市豊川町)
祭神は豊受大神で、御伴神三座を相殿に配祀。 一説に、御伴神三座の内、東の一座を瓊瓊杵尊、西の二座を天児屋根命・太玉命とする。
式内社(伊勢国度会郡 度会宮四座相殿坐神三座 並大 月次新嘗

『古事記』[LINK]には、天孫降臨に供奉した神々の中に「次に登由宇気神、此は外宮の度相に坐す神なり」とある。

『止由気宮儀式帳』[LINK]によると、雄略天皇の夢に天照坐皇太神が現れ、「吾れ高天原に坐して見しまぎ賜ひし処にしづまり坐しぬ。然れども吾一所にのみ坐すは甚苦し。しかのみならず大御饌も安く聞こし食さず坐すが故に、丹波国比治の真奈井に坐す我が御饌都神、等由気太神を我が許に欲す」と託宣した。 天皇は驚悟されて、直ぐに等由気太神を丹波国から度会の山田原に勧請して御饌殿を造り奉り、天照坐皇太神の朝夕の大御饌の儀を始めた。

『倭姫命世記』[LINK]によると、豊受大神は天御中主尊の霊で、元は丹波国与謝郡比冶山頂麻奈井原に鎮座していた。 御饌都神、又の名を倉稲魂と云う。 御霊代は真経津鏡である。 これは円鏡で、神代の三面の鏡の一である。
崇神天皇三十九年[B.C.59]七月七日に天降り、丹波国吉佐宮に遷幸された天照大神に御饗を奉った。
雄略天皇二十一年[477]十月[LINK]、天皇の夢に倭姫命が現れ、「皇太神吾一所にのみ坐さば、御饌も安く聞こし食さず。丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す、道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神、止由居太神を我が坐す国へと欲ふ」と託宣した。 翌年七月七日、丹波国与佐郡真名井原より止由気皇太神を度会の山田原の宝殿に勧請した。
垂迹本地
内宮胎蔵大日如来
外宮金剛界大日如来(または阿弥陀如来)

八女・神楽男

八女(八乙女、八少女、八乎止女)は舞を奉仕する巫女、神楽男は神楽を奏する神人。

『神道雑々集』の「八人ノ八人女・五人ノ神楽男ノ事」によると、天照大神が天岩戸に籠った時、伊弉諾尊・磐裂命・磐筒男命・経津主命・武甕槌命の五神は、五色の幣帛を捧げて五龍王に奉り、大地を平らにして釜を作った。 また、伊弉冊尊・遊小日活目命・鬼姫命・滝津姫命・市杵嶋姫命・磐筒女命・建御雷姫・栲幡千千姫命の八女神は、その釜で御湯を立て、千草を以て大地を洗い清めた。
(参考文献 山本ひろ子「大神楽「浄土入り」」、『変成譜 ―中世神仏習合の世界―』所収、春秋社、1993)