『神道集』の神々

第二十四 宇都宮大明神事

宇都宮大明神は諏方大明神の舎兄である。
この明神には男体と女体がある。
俗体の本地は馬頭観音である。
女体の本地は阿弥陀如来である。

橋本七所大明神は御守である。
高尾神は大明神の一二の王子である。
この明神は千犬、千烏、千狐を眷属とする。

宇都宮大明神(男体)

二荒山神社[栃木県宇都宮市馬場通り1丁目]
祭神は豊城入彦命で、相殿に大物主命・事代主命を配祀。 一説に小野猿麻呂あるいは柿本人麻呂とする。
式内論社(下野国河内郡 二荒山神社〈名神大〉)。 下野国一宮(論社)。 旧・国幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第五の承和三年[836]十二月丁巳[25日]条[LINK]の「下野国従五位上勲四等二荒神に正五位下を授け奉る」であるが、この二荒神が現在の二荒山神社(宇都宮、日光)のどちらに該当するか定かでない。

『宇都宮大明神代々奇瑞之事』[LINK]には、
「凡そ当社の根元は、称徳天皇神護景雲元年[767]日光山に顕現す。其の後仁明天皇の御宇承和五年[838]戊午、温左郎磨、大明神を懐き奉りて、河内郡小寺峰に移し奉り、補陀洛大明神と号す。社壇の南面に道路有り、行人征馬無礼を致し、秋毫の誤り有らば、則ち神忽に瞋を成し、或は落馬し身を損じ、或は病を受け、或は夭に遇ふ、種々災難有り。仍て往反の貴賤輙く通り難きの間、則ち宮南の路を塞ぎ、山北の叢祠に移し奉ると云々。今の社壇是也。当国第一の宮也」
とある。

『日光山縁起』[LINK]には、
「其後一男太郎大明神は同国河内郡小寺山の上にうつりましまして、若補陀落大明神と号し奉る。社壇の南に大道あり、かしこを過る輩、下馬の礼をいたさず、もし秋毫の誤あれば、神明怒をなし刑罰しるしあり、仍瑞籬を北の山に遷し奉る」
とあり、日光三所の太郎大明神を遷座したものとする。

林羅山『二荒山神伝』[LINK]の大筋は『日光山縁起』と同様であるが、
「男神・女神・太郎、杉の上に降りたまひ、之を二荒山三所の神と謂ふ。今、其の迹を尋ぬるに、則ち所謂男体本宮は男神也、滝尾女体中宮は朝日姫也、新宮太郎明神は馬王也、宇都宮は猿麻呂也
とあり、宇都宮大明神を小野猿麻呂とする。

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「二荒山 事代主命」
とある。 また、『大日本国一宮記』[LINK]にも
「二荒山神社〈大己貴命の男、事代主神〉下野河内郡」
とある。

『宇都宮大明神由緒』[LINK]には、
「下野国河内郡宇都宮大明神 仁明天皇承和五戊午年日光山より之を遷す」 「神躰 事代主命・大国主命・津御名方命(建御名方命) 右三神相殿」
とある。

秋里籬島『木曽路名所図会』巻之五[LINK]には、
「宇都宮大明神 宇都宮市中にあり。祭神 大己貴命」
とある。

寺島良安『和漢三才図会』巻第六十五(地部)[LINK]には、
「宇津宮大明神 宇都宮城の艮に在り 社領千七百五十石 祭神 柿本人麻呂の霊」
とある。

槙島昭武『関八州古戦録』巻之二の「宇都宮尚綱野州早乙女坂合戦ノ事」[LINK]には、
「昔崇神天皇の皇子豊城尊東征として関左に下向ましまし此地に屯せらるゝ事三年にして近国の悪党三千余人を誅戮し庶民安堵の化をなさしめ然して大己貴尊・彦根〈大己貴の子〉・事代主〈上に同し〉・天種子命の四座を勧請して宇都宮大明神と崇め東国の鎮守たらしめ給ふ」
とある。

本居宣長『古事記伝』二十三之巻(水垣宮巻)[LINK]には、
「下野国河内郡、二荒山神社は、此の豊木入彦命を祭ると云り」
とある。

河野守弘『下野国誌』三之巻(神祇鎮座)[LINK]では
「さて祭神は〔大日本国一宮記〕に、大己貴命ノ男事代主ノ神と記し、〔神名帳〕頭註にも、同しくみえたり、然れとも是らはもとより信られぬものなり」 「〔和漢三才図会〕には、柿本人麻呂霊と記したり、是は当社の宝庫に、古き人麻呂の画像あれば、其をやがて神躰なりと思い違いし非事なるべし」「二荒神社と日光権現とは、もとより別神にして二荒神社は、上古より此所に鎮まりいましたこと明らけし」
と諸説を否定し、
「そもそも二荒の大神は、人皇十代崇神天皇の皇子豊城入彦命を祝い奉れる所にして、神躰は乃ち其御遺骸なりとぞ」 「一説には豊城命東国下向の刻、三諸山の大神を移し奉る所なりともいえり。然らば二現フタアラは、大物主神と、豊城命とを相殿に祀れるものか」
と述べる。

『下野国一の宮国幣中社二荒山神社略記』[LINK]には、
「御祭神は上毛野君及び下毛野君の始祖と仰がるゝ第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命で、第十一代垂仁天皇の皇兄に当り、非常に勇武の御方であらせられたので天皇寵愛深く、その四十八年[B.C.50]四月十九日初めて東国を治ろしめされたのである」「第十六代仁徳天皇の御世、毛野国を上下に別ち、命の四世孫奈良別王が初めて下野の国造に任ぜられた。そこで二荒ふたあら山の北丘に鎮まります祖神豊城入彦命を国社として今の摂社下宮の所在地なる荒尾崎より之を拝し、報本反始の誠を效すと共に、祭政一致の政治を行ふはれたのが本社の起源で、この王の子孫が長く奉仕せられたわけである」「第五十四代仁明天皇承和五年社殿を二荒山の南丘なる下宮より、此の北丘の現地に遷座し奉つた。〈中略〉北丘が御祭神の御墓であることも忘れられて、之を開拓し今の地に遷し奉つたものであらう」
とある。
荒尾崎の下之宮については
「摂社下宮は昔の本宮の址に祀られてある。平安朝の末より宇都宮氏が社務職となり、日光別当職を兼務して居た頃、此の本宮の址に建てられた日光宮は全盛を極め、延宝年間[1673-1681]の地図[LINK]にも尚日光堂名を存しているが、下宮として今の如く復旧したのは恐らく天正十三年[1585]罹災後間もないことであろう。此の当時日光堂のある所から小寺山ともいつて居つたらしい」
とある。

笠間時朝の私撰歌集『前長門守時朝入京田舍打聞集』には、
「宇都宮大明神、御本地馬頭観音、等身泥仏につくりまいらせて、彼神宮寺に安置したてまつりて、正嘉三年[1259]正月廿九日供養し侍りついでに、御宝前に参てよみ侍る、
 きみがよもわがよもつきずあけらけき 神のちかひにまもらざらめや」
が収録されており、宇都宮大明神の本地仏として馬頭観音が神宮寺に安置されていた事がわかる。
(『宇都宮市史』第3巻、第4章 宇都宮歌壇の誕生、第1節 宇都宮歌壇の展開[LINK]、1981)

宇都宮大明神(女体)

末社・女体宮
祭神は三穂津姫命。

田代善吉『宇都宮誌』[LINK]には「仁徳天皇の御代に奈良別王を以て下毛野国造に任ぜられし時其祖豊城入彦命を祀りて国社となし、大物主命、事代主命、三穂津姫命の三神を合殿に祀りたれど後世三穂津姫命を女体宮と称し別殿に祀れり」とある。
垂迹本地
宇都宮大明神男体馬頭観音
女体阿弥陀如来

諏方大明神の舎兄

「諏方縁起事」には、
「(甲賀太郎は)下野国宇津宮と云ふ処へ打下りつつ、今は神と顕れて、示現大明神と申すは即ち是れなり」 「甲賀太郎は本より下野国宇津宮に御在ければ、示現太郎大明神と顕れ給ふ」
とある。

橋本七所大明神

不詳。
中世における明神の神事祭礼の役割分担を描いた『造営日記』[LINK]『慈心院造営之日記』[LINK]等の史料からは、慈心院・不動院・高尾神・池上坊・橋本坊・蓬莱坊等の存在が窺え、これらは明神の祭礼に関わる主要な寺社であったと考えられる。
(渡辺康代「宇都宮明神の「付祭り」にみる宇都宮町人町の変容」[PDF], 歴史地理学, 44巻, 2号, pp.25-44, 2002)
橋本七所大明神はこの橋本坊に祀った神だろうか。

高尾神

上記の史料に高尾神の名も見られる。
「高尾神」は小字の地名として残っており、『宇都宮市地誌』[LINK]には、
「高龗神社 今泉字高尾神 明治四十年[1907]二月七日今泉字富士山神社へ合祀」
とある。

千犬・千烏・千狐

不詳。