『神道集』の神々

第五十 諏方縁起事

東海道の近江国二十四郡の内、甲賀郡に荒人神が顕れ、諏方大明神と云う。 此の御神の応迹示現の由来を委しく尋ねると、以下の通りである。
人皇第三代安寧天皇から五代の孫に、近江国甲賀郡の地頭・甲賀権守諏胤という人がいた。 奥方は大和国添上郡の地頭・春日権守の長女で、甲賀太郎諏致・次郎諏任・三郎諏方という三人の息子がいた。
父諏胤は三代の帝に仕え、東三十三ヶ国の惣追捕使に任ぜられた。 七十余歳になった諏胤は病床に三人の息子を呼んだ。 そして、三郎を惣領として東海道十五ヶ国、太郎に東山道八ヶ国、次郎に北陸道七ヶ国の惣追捕使の職を与えた。 諏胤は七十八歳で亡くなり、三十五日の塔婆供養の三日後に奥方も亡くなった。
父の三回忌の後、甲賀三郎は上京して帝に見参し、大和国の国司に任じられた。 甲賀三郎は春日郡の三笠山の明神に参詣し、春日権守の歓待を受けた。 そして、春日権守の十七歳になる孫娘の春日姫と巡り会った。 その夜、甲賀三郎は春日姫と夫婦の契りを交わし、近江国甲賀の館に連れ帰った。

ある年の三月、甲賀三郎は一千余騎を伴い伊吹山で巻狩を行った。 甲賀太郎は五百余騎、甲賀次郎も三百余騎を伴って加わった。 三郎は春日姫を麓の野辺の館に住まわせ、狩の様子を観覧させた。 八日目に上の山に二頭の大きな鹿が現れたと報告があり、三郎は上の大嶽に登って行った。
麓の館で春日姫が女たちに今様を歌わせていると、美しい双紙が三帖天下って来た。 春日姫がその双紙を見ていると、双紙は稚児に姿を変え、春日姫を捕らえて逃げ去った。 甲賀三郎は天狗の仕業だろうと考え、二人の兄と共に日本国中の山々を尽く探し回ったが、春日姫を見つける事は出来なかった。
そこで、三郎の乳母の子である宮内判官の助言で、信濃国笹岡郡の蓼科嶽を探してみる事にした。 そこには大きな人穴があり、春日姫が最後に着ていた着物の片袖と髪の毛が見つかった。
甲賀三郎は簍籠に八本の縄をつけ、それに乗って人穴に入っていった。 簍籠を降りて東の人穴を進むと、小さな御殿の中から春日姫が『千手経』を読む声が聞こえた。 甲賀三郎は春日姫を連れ出すと簍籠に乗り、家来たちに縄を引き上げさせた。 ところが、春日姫は祖父から貰った唐鏡を置き忘れてしまったので、甲賀三郎は引き返して再び人穴に入った。
甲賀次郎は弟を妬んでいたので、縄を切り落として三郎を人穴の底に取り残した。 そして、春日姫を甲賀の舘に連れ込み、宮内判官経方をはじめ三郎の一族二十余人を殺戮した。 残った家臣たちは次郎に臣従を誓った。 甲賀太郎は次郎が父の遺言に背いた事を知り、下野国宇津宮(宇都宮)に下って示現大明神として顕れた。
甲賀次郎は春日姫を妻と定め、政事を行った。 しかし、姫は次郎に従おうとしなかった。 怒った甲賀次郎は家来に命じ、近江の湖の北岸、戸蔵山の麓で春日姫を切らせることにした。 そこに宮内判官の妹婿である山辺左兵衛督成賢が通りかかり、春日姫を救い出して春日権守の邸まで送り届けた。 その後、春日姫は三笠山の奥にある神出の岩屋に閉じ籠ってしまった。

その頃、甲賀三郎は唐鏡を取り戻して簍籠の所に引き返したが、縄は切り落とされており、殺された一族の死骸が転がっていた。 三郎は地下の人穴を通って好賞国・草微国・草底国・雪降国・草留国・自在国・蛇飽国・道樹国・好樹国・陶倍国・半樹国など七十二の国を巡り、最後に維縵国に辿り着いた。
三郎は維縵国の王である好美翁に歓待された。 好美翁には、八百歳・五百歳・三百歳になる三人の姫君がいた。 三郎は末娘の維摩姫を妻とし、この国の風習に従って毎日鹿狩りをして過ごした。
十三年と六ヶ月の年月が流れたある日、三郎は夢に春日姫を思い出して涙を流した。 維摩姫は「あなたを日本にお送りしましょう。私もあなたの後を追って忍び妻となり、衆生擁護の神と成りましょう」と云った。
好美翁は甲賀殿への引出物として、鹿の生肝で作った千枚の餅・菅の行縢・三段に切った中紙(御玉井紙)・萩花・投鎌・梶葉の直垂・三葉柏の幡を本鳥俵に入れ、それらの財宝の使い方を教えた。 三郎は千枚の餅を一日一枚食べながら進み、契河・契原・亡帰原・契陽山・荒原庭・真藤山・真馴の池・暗闇の地などの難所を無事に通り抜け、髴月夜の原に到着した。 そこから真藤の蔓につかまって岩山をよじ登り、千枚の餅を食べ終えて信濃国の浅間嶽の巓に出た。

三郎は維縵国の財宝を本鳥俵に入れて蓼科嶽に収め、近江国甲賀郡に戻った。 父の為に造った笹岡の釈迦堂の中で念誦していると、子供たちが「大蛇がいる」と云って逃げた。 三郎は我が身が蛇になった事を知り、仏壇の下に身を隠した。
日が暮れた頃、十数人の僧たちが『法華経』を読誦し、甲賀三郎の話を物語った。 それによると、甲賀三郎が蛇身なのは維縵国の衣装を着ているためで、石菖を植えている池の水に入り、東向きで「赤色赤光日出東方蛇身脱免」、南向きで「南無南天南着脱身」、西向きで「南無無量寿衣免脱身」、北向きで「阿褥達池蛇身速出」と各三度唱え、水底を践んで上がれば、裸の日本人に成るという。 甲賀三郎はこの教えに従い、人身に戻った。 後には蛇の抜け皮が残されていた。 裸の甲賀三郎が御堂に戻ると、上座の老僧は白い唐綾の小袖と梶葉の直垂、左座の一番の老僧は烏帽子と腰刀、次の老僧は太刀と弓矢、右座の老僧は馬鞍と狩装束を奉り、姿を消した。 この老僧たちは白山権現・富士浅間大菩薩・熊野権現、他の僧は日吉山王・松尾・稲荷・梅宮・広田など王城鎮護の諸大明神だった。

三郎は近江国の鎮守である兵主大明神に導かれて三笠山に行き、春日姫と再会した。
二人は天早船で震旦国の南の平城国へ渡り、早那起梨の天子から神道の法を授かった。 「高天原に神留り坐して末孫の神漏岐神漏尊以て」を授かり、虚空を飛ぶ身と成った。 「国内に荒振神達を神払に神払ふ」を授かり、魔事外道を他へ打ち払う通力を得た。 「科戸の風の天の八重雲を吹き払ふ事の如く」を授かり、居ながらにして三千世界を見る徳を得た。 「焼鎌の利鎌を以て茂木が本を打払ふ事の如く」を授かり、一切世界の有情無情が心の内に思う事を悟る徳を得た。 「大津辺に居る大船の舳解放艫解放大海底に押し放つ事の如く」を授かり、賞罰を新たにして衆生を育む徳を得た。
その後、日本国より兵主大明神の使者が平城国に来て、「本朝に帰って衆生守護の神に成って下さい」と願った、 甲賀三郎夫婦と使者は天早車に乗って信濃国の蓼科嶽に到着した。 梅宮・広田・大原・松尾・平野などの諸大明神も集まってお供をした。

甲賀三郎は信濃国岡屋の里に諏方大明神の上宮として顕れた。 本地は普賢菩薩である。
春日姫は下宮として顕れた。 本地は千手観音である。
維摩姫もこの国に渡って来て、浅間大明神として顕れた。
甲賀三郎と兄たちは兵主大明神が仲裁した。
甲賀次郎は北陸道の守護神と成り、若狭国の田中明神として顕れた。
下野国宇津宮に下っていた甲賀太郎は、示現太郎大明神として顕れた。
父甲賀権守は赤山大明神として顕れた。
母は日光権現として顕れた。
本地は阿弥陀如来・薬師如来・普賢菩薩・千手観音・地蔵菩薩等である。

上野国一宮は狗留吠国の人である。 《以下、上野国一宮事とほぼ同内容なので略す》

諏方大明神は維縵国で狩の習慣があったので、狩庭を大切にされる。 四条天皇の御代、嘉禎三年五月、長楽寺の長老・寛提僧正は供物について不審に思い、大明神に祈念して「権実の垂迹は仏菩薩の化身として衆生を済度されるのに、何故多くの獣を殺すのでしょうか」と申し上げた。 僧正の夢の中で、供物の鹿鳥魚などが金色の仏と成って雲の上に昇って行き、大明神が
 野辺に住む獣我に縁無くば 憂かりし闇になほ迷はしむ
と詠まれ、
 業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果
と四句の偈を説いた。 寛提僧正は随喜の涙を流して下向された。

諏方大明神

諏訪大社上社本宮[長野県諏訪市中洲宮山]
祭神は建御名方神。
諏訪大社下社春宮/秋宮[長野県諏訪郡下諏訪町大門/武居]
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。

史料上の初見は『日本書紀』巻第三十の持統天皇五年[691]八月辛酉[23日]条[LINK]
使者を遣はして、龍田風神・信濃須波・水内等の神を祭る。

「諏方大明神五月会事」によると、諏方の上宮は祇陀大臣、下宮は金剛女である。

『古事記』上巻[LINK]には
此の二神(建御雷神と天鳥船神)、出雲の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り到きて、十掬剣を抜きて、浪の穂に逆に刺し立てゝ、其の剣の前に跌み坐て、其の大国主神に問ひたまはく、「天照大御神・高木神の命以ちて、問ひに使はせり。汝がウシハける葦原中国は、我が御子の知さむ国と、言依さし賜へり。故汝が心奈如にぞ」と問ひたまふときに、答白へまつらく、「は得白さじ。我が子八重言代主神、是れ白すべきを、鳥遊取魚為に、御大之前(美保関)に往きて、未だ還り来ず」とまおしき。 故爾に天鳥船神を遣して、八重事代主神を徴し来て、問ひ賜ふ時に、其の父の大神に、「カシコし、此の国は、天神之御子に立奉りたまへ」と言ひて、即ち其の船を踏み傾けて、天逆手を青柴垣に打ち成して、隠りましき。
故爾に其の大国主神に問ひたまはく、「今汝が子事代主神かく白しぬ。亦白すべき子有りや」ととひたまひき。 是に亦白しつらく、「亦我が子建御名方神有り。此を除ては無し」。 如此白したまふ間しも、其の建御名方神、千引石を手末に撃げて来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍び如此カク物言ふ。然らば力競為む。故我先づ其の御手を取らむ」といふ。 故其の御手を取らしむなれば、即ち立氷に取り成し、亦剣刃に取り成しつ。 故爾、懼れて退き居り。 爾に其の建御名方神の手を取らむと、乞ひ帰して取れば、若葦を取るが如、ツカみ批ぎて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。 故追ひ往きて、科野国の洲羽海(信濃国の諏訪湖)に迫め到りて、殺さむとしたまふ時に、建御名方神白しつらく、「カシコし、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。亦我が父大国主神の命には違はじ。八重言代主神の言に違はじ。此の葦原中国は、天神御子の命の随に献らむ」とまをしたまひき。
とある。

『先代旧事本紀』巻第四(地神本紀)[LINK]には
(大己貴神が)次に高志沼河姫を娶り一りの男を生む。 児建御名方神、信濃国諏訪郡諏訪神社に坐す。
とある。

諏訪円忠『諏方大明神画詞』(縁起上)[LINK]には
窺に国史の所説を見るに、旧事本記(旧事本紀)云、天照大神詔して、経津主〈総州香取社〉神・武甕槌〈常州鹿嶋社〉神、二柱の神を出雲国え降し奉て大己貴〈雲州杵築、和州三輪〉命問て宣く、「葦原中津国は我御子の知らすべき国也。汝ち正さに此国をもて天照大神に奉ん哉」。 [中略] 建御名方〈諏方社〉神、千引の石を手末に捧来て申さく、「是我国に来て忍にかく云は、而して力を比べせんと思ふ」。 先つ其の御手を取て即氷を成立、又剣を取来。 科野国洲羽海に至時、建御名方神申さく、「我此国を除ひては他処に行かじ」と云々。 是則垂跡の本縁也。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

同書(諏訪祭巻第一)[LINK]には
爰に信州諏方大明神は、本地を訪へば普賢大士の応作。 恒順衆生の願余聖にこえ、懺懈滅罪の益諸凡にかうぶらしむ。 垂迹に付て異説あり。或は他国応生の霊、或我朝根本の神。 旧記の異端凡慮はかりがたし云へども、旧事本記の説によらば、素盞烏尊の御孫大己貴神の第二の御子建御名方の神是れ也。
下宮は大慈大悲の薩埵千手千眼の示現也。 泥梨には極り元にはかり、娑婆には無畏を施す。 垂迹は又南天の国母、北極の帝妃、月氏の雲を出で、日域の塵に交り給ふ。
とある。

『諏方上社物忌令之事』[LINK]では諏訪大明神の前身を波提国主と伝える。
当社明神は、遠く異朝の雲を分け、近くは南浮の塵に交わり、其の名を建御名方明神と申す。 去は和光の古を尋るに、波提国の主として、文月未の比、鹿野苑の御狩の時、襲い奉る守屋逆臣か其難を遁れ、広大慈悲御座の名を得給へり。
其の濫觴を訪れは、或は他国応生の霊と称し、又は我朝根本の神と号す。 南方波斯国に御幸し、悪龍を降伏し万民を救ひ、彼の国を治め、陬波皇帝と為る。 東方金色山に至り、善苗を植へ仏道を成し給う。 其後吾朝に移り給いて、摂州蒼海辺に跡を垂れ、三韓西戎の逆浪を鎮め、西宮に表る(広田神社の境外摂社・南宮神社[兵庫県西宮市社家町])。 又濃州高山の麓に光を和らげ、百王の南面の宝祚を守り誓給ひ、南宮(南宮大社[岐阜県不破郡垂井町宮代])と申す。 終には勝地を信濃国諏方郡に卜し垂跡し給ふ。

諏訪円忠『諏方大明神講式』には
大明神は、本中天竺の国王也。 獅子頬王の玄孫と為り、貴徳大王の長子たり。 能く武徳を耀して魔軍を遐方に退け、普く仁政を施して皇化を隣竺に及す。 南のかた波尸国に幸して、悪龍を射て民黎を救ふ。 即ち彼の国を治て陬波皇帝と号す。

『陬波私注』[LINK]には
陬波と申事〈ナミシツカナリトヨメリ〉
蝦蟆カニタ〈カエルノ事ナリ〉荒神と成り天下を悩す時、大明神、之を退治し御坐し給ふ時、四海静謐の間、陬波と云々。
とある。
(金井典美『諏訪信仰史』、Ⅱ 史料篇、金沢文庫古書「陬波御記文」と「陬波私注」)

『諏訪信重解状』の「守屋山麓御垂跡の事」[LINK]では諏訪大明神と守屋大臣の争いを伝える。
当砌は昔は守屋大臣の所領也。 大神天降り御ふの刻、大臣は明神の移住を禦ぎ奉り、制上の方法を励し、明神は御敷地と為すべきの秘計を廻し、或は諍論を致し或は合戦に及ぶの処、両方雌雄を決し難し。 爰に明神は藤鎰持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けて之を引く。 明神即ち藤鎰を似て軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。 而る間守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遥に数百歳の星霜を送り、久しく我神の称誉を天下に施し給ふ、応跡の方々是新なり。 明神彼の藤鎰を似て当社の前に植えしめ給ふ。 藤は技葉を栄え藤諏訪の森と号す。 毎年二ヶ度の御神事之を勤む、爾より以来当郡を似て諏方と名づく。

『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第四)の御田植神事の条[LINK]では諏訪大明神垂迹時の洩矢神との争いを伝える。
抑この藤嶋の明神と申は、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤枝を取りて是を伏し給ふ。 終に邪輪を降して正法を興す。 明神誓を発て、藤枝をなげ給しかば、則根をさして、枝葉をさかへ花蕊あざやかにして、戦場のしるしを万代に残す。 藤嶋の明神と号する此故也。

尊海『即位法門』によると、山王は父の素盞嗚尊から日本国を譲られたが、未だ稚かったので叔父の天照大神に日本国の知行を預けた。
次に、山王に三人の王子御坐す。 第一は、十禅師〈地蔵也〉、二男、〈之を知らず〉、三男、輙防(諏訪)大明神、是れ也。 輙防大明神、思ひ玉はく、「我こそ山王の御子なれば、日本国をば知行すべきに、此処に、叔父にても御坐せ、天照大神之を奉り玉ふ事、遺恨次第也」とて、軍を起して、天照大神を打ち奉らんと令せらる。 爾と雖も、天照大神の御方は多勢也。 輙防大明神の方は無勢也。 仍て、軍に打ち負けて、信濃国輙防に押し籠められて、既に打たるべしと有る時、カウを乞て、「今は軍を止め候はん。此の信濃国バカリを賜ひ候て、かくて居住し候はん」と申さる故に、さて信乃国を賜ひ、輙防の[ママ]に垂迹御坐す者也云々。
(阿部泰郎『中世日本の王権神話』、第1部 儀礼と王権—即位灌頂と即位法—、第3章 慈童の誕生—天台即位法の成立をめぐって—、第6節 尊海『即位法門』、名古屋大学出版会、2020)

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
南方刀美 旧事記に云、大己貴命高志沼河姫を娶り一男児を生む、建御名方神、信濃国諏訪郡に坐す、諏訪上社是れなり。 下社は片倉辺命、是れ手力雄命の男なり。
とある。

上社本宮には本殿がなく、幣拝殿の背後に上・中・下の三壇が設けられていた。
『諏方上社物忌令之事』[LINK]には
上壇には石之御座多宝塔、真言秘密閼伽棚、七千余巻之一切経、如法守護の十羅刹女、妙典を守護し給う。 中壇には玉御宝殿、般若十六善神、並に出止明神(出早雄命)跡を垂れ、衆生八苦に替わり給う。
下壇にては山野之鳥鹿、江河の水魚に到る迄、業尽有生と救い給う。 毎月御神事を取勤被所也。
『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)[LINK]には
社頭の躰、三所の霊壇を構たり。 其上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり。 其の前に香花の供養を備ふ。 普賢身相如霊空とも説き、普賢法事遍一切共述るが故に、法性無躰の実理を顕はし、依真面住の真土を示し給ふなるべし。 中の壇には、宝殿経所計なり。 法花一乗の弘通、併普賢四要の勧発なれば、本地を表するには似たり。 下の壇は松壖柏城甍を並べ、拝殿廻廊軒をつらねたり。 垂迹の化儀を専にして、魚肉の神膳を此所に供す。
とある。

小林崇仁「諏訪の神宮寺」には
延宝七年(1679)の書上げによれば、上社と下社に計七ヶ寺の〈神宮寺〉が置かれていた。 つまり上社に普賢神変山神宮寺(以下、上神宮寺)、普賢秘密山如法院、七島山蓮池院、霊鷲山法華寺の四ヶ寺が、下社には秋宮に海岸山神宮寺(以下、下神宮寺)と松林山三精寺、春宮には和光山観照寺の三ヶ寺があった。 このうち法華寺のみが臨済宗、他は真言宗で高野山金剛頂院末であった。 また諏訪大明神の本地仏は、上社は普賢菩薩、下社秋宮は千手観音、下社春宮は薬師如来とされ、各尊像が諸堂に安置されていた。
上神宮寺預かりの諸堂として、まず本地仏を祀った「普賢堂」が挙げられる。 [中略] 本地仏の普賢菩薩像と相殿の文殊菩薩像は、廃寺により仏法紹隆寺(諏訪市四賀)に移され現存する。
さらに神社内の内陣には、諏訪大明神の御神体とされた「鉄塔」があった。 上社如法院では毎年『法華経』を書写し、これを鉄塔に奉納するのが務めとされた。 鉄塔というものの実際には石造で、全高九尺の多宝塔であった。 現在は温泉寺(諏訪市湯の脇)に移される。
秋宮の「千手堂」は天正二年(1574)から三年(1575)にかけて武田信玄・勝頼によって再興された。 [中略] 堂内には惣高一丈二尺檜皮葺の宮殿に、秋宮本地仏の千手観音像と脇立の不動明王・毘沙門天像が祀られた。
とある。
(福田晃・徳田和夫・二本松康宏編『諏訪信仰の中世—神話・伝承・歴史—』、「諏訪の神宮寺」、三弥井書店、2015)

垂迹本地
諏方大明神上社普賢菩薩
下社千手観音

三笠山の明神

参照: 「春日大明神事」春日大明神

笹岡の釈迦堂

未詳。
兼家系の甲賀三郎譚では観音堂とする。

兵主大明神

兵主大社[滋賀県野洲市五条]
祭神は八千矛神。 一説に天照大神あるいは素戔嗚尊とする。
式内社(近江国野洲郡 兵主神社〈名神大〉)。 旧・県社。

史料上の初見は『日本三代実録』巻第六の貞観四年[862]正月二十日己丑条[LINK]
近江国の従五位上勲八等兵主神に正五位下を授く。

『兵主大明神縁起』[LINK]には
夫近江国野洲郡八崎浦に兵主大明神と申奉るは、養老二年〈戊午〉[718]十月上旬に此所に現はれ給ふ。 その初三ヶ夜、金色の異光有て十八郷を照らすこと、さながら白日のごとし。 人民不思議の思ひをなして驚き貴みあへず。 中にも五條播磨守資頼と云ふ人、希代の思をなして信心肝に銘ぜしかば、如何なる神の影向ぞと、酉刻に及びて八崎浦に参向。 しばしば行きつつ道に迷ひ、情を定むる程、とある所に立寄り少し微睡む内に、衣冠正しきかたちを現じおはしまして、「我は兜率天の主不動明王也。衆生を済度せんが為に一百二十年前に矜迦羅使者を薬師如来と現し、制多迦童子を愛染明王と変化して天下ります。則ち二大明神これなり。われ今降臨して兵主大明神と現はれんために、二童子を予て降す所也。汝が館に行かん。教えにまかせば霊験を見せしめむ。北斗を右眼の上に見て向かへ」と示し給ひて夢醒めぬ。 則ち天上を見れば衆星歴歴たり。 御告の如く北斗を拝して行くに、程なく平砂渺々たる処あり。 見れば大亀東に向かふ。 白蛇甲に乗り、群鹿守護し奉る。 神霊疑ひなしと、感涙を流して拝し奉り、扇を開き「うつらせ給へ」と祈精しければ、やがて扇の上に乗せ給へば、大亀は海中に入り、群鹿は雲に入去ぬ。 又南斗[ママ]を右眼上に見て帰れば、明星出現して、天すでに明ぬ。 五條の西平なる所に、忽に林木を連ねてその陰森々たり。 中に奇異の柏樹一株あり。 先づ神霊の白蛇をしばらく此枝にうつし奉り、急ぎ仮殿を造り、夢中の神託にまかせて、兵主大明神宮と崇め奉る。
とある(引用文は一部を漢字に改めた)。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』中巻[LINK]には
祭神 大己貴命 一説天照大神を祀る(秘説)といひ、又素戔嗚尊を祀る〈神名帳考証〉ともいふ。 社伝によれば欽明天皇の御宇[540-571]大己貴命大亀に乗り湖上に出て八ツ崎に上陸し給ひ、鹿に乗りて現社地に至り鎮り給ふと云へり。
とある。

飯塚久敏『諏方旧跡志』[LINK]では兵主神(蚩尤)を建御名方神の異名の一つとする。
如此て兵主神は建御名方命と知得べき也。 今一証を引かん。 春日古記〈大和名所記に所引也〉云 兵主明神は諏方明神をまつれる也とあれば、いかにも據とすべき書也。 此古記は春日社内に兵主神坐して、其神体は諏方神なりと申す筆記なれば、有の儘にて巧みしにも非ねば可用に足れり。

宮地直一『諏訪神社の研究 後篇』[LINK]には
兵主神は、その由来を漢土に求むべきで、我が古典に於ける諸神とは出自を異にする。 然るに之を我国の神祇に当てゝ建神とする説も、一部の間を支配したと見え、春日の末社に於ける兵主社につき「建御名方命也、信濃国諏訪明神也」といふ註が寛文三年[1663]作の春日神社記に載せられ、此後之に據るものが尠くない。
とある。

貴志正造は現代語訳『神道集』(平凡社・東洋文庫)の「諏訪縁起の事」の注で
近江の国の鎮守神で、甲賀の氏神という記事は、春日・甲賀・諏訪を結ぶ信仰圏を暗示する。
と指摘している。

浅間大明神

浅間山は信濃・上野の国境に聳える活火山で、浅間明神は両国に祀られている。

信濃国には浅間明神を遥拝する里宮として遠近神社[長野県北佐久郡軽井沢町長倉]・追分浅間神社[北佐久郡軽井沢町追分]・塩野浅間神社[北佐久郡御代田町塩野]などが鎮座している。 これらの神社では現在は磐長姫命を主祭神としているが、これは後述の平田篤胤の説によると考えられる。

浅間山の信濃国側には真言宗の浅間山別当真楽寺[長野県北佐久郡御代田町塩野]がある。
『北佐久郡誌』の小沼村の社寺の条[LINK]には
浅間山真楽寺 大字塩野字大沼に在り京都智積院の末派たり。 創建年月不詳(用明帝御宇[585-587]の創建なりと云へ伝ふ) 往古より浅間山別当にして本寺なかりしも、延宝四年[1676]辰年宇治報恩院の末寺となり、僧俊静を中興開基となす。 後明治二十七年[1894]十月智積院の末寺たり。 普賢菩薩を本尊とす。
仁王門の右側に大沼池あり。 一大湧泉あり。 伝へ云ふ「諏訪明神出現の池なり」と。
とある。
この真楽寺境内には水分神社(諏訪社)が鎮座する。 同条[LINK]には
水分神社 無格社にして大字塩野字大沼真楽寺境内に在り。 祭神健御名方命、寛永六年[1629]十二月創建祭日五月八日。 [中略] 元諏訪社と称せしも明治三十四年[1901]今の社号に改む。
とある。

山田弁道「大浅間神社の遺跡を捜索る議」[LINK]には
古史伝三十の巻[LINK]に、浅間岳も石長比売命、其主神には座せず、必ず佐久夜毘売命も坐せる事、彼力を合せて坐給ふ謂を以て悟るべし、斯て上古は御社も盛なりしと聞えたるか、如何なる事にや此社の事をば、神名帳にも載せられすと言はれたり。
玉襷[LINK]に浅間岳にも古く社の有けるを、去ぬる天明三年に山の焼たりし時に失せたる儘にて、今は麓に朽たる鳥居のみ残れりと見え、〈此巻の考の発端の処に言へると合せ考ふべし〉 又古史伝〈三十の巻〉[LINK]に、少けき石宮あるのみと言はれたるは然る事ながら、其は彼の大焼前の事にて、其後はなかりける。
天明以前に社の有つるは、吾妻郡蒲原村の上に見えたるを彼の大焼の時に失せて其後は見えず、〈此は此村の天台寺別当たりしを今は今井村吉本院といふ山伏兼帯たる由に聞えたりき〉 又塩野村〈延喜式馬寮に塩野牧と見えたる所なり〉の産土神とて七月廿七日に隣の八幡村に住める宮沢某祭主にて、其日鳥居に注連を懸け、拝殿の奧庭に竈を築き、大釜を以て探湯す、元より本社は有らすて峰の煙を神実と見立て、祭りけりとなん〈此村にては峰の煙正しく見えかねるを其社地のあたりはいとよく見ゆれば実にしかりしならん〉 村人等詣てゝ、彼御湯また神酒等たうへて祭りせしを、其処なる蘭若何時の頃よりか、別当の名は犯せれど巳うしはく社なければ、境内の涌出水の辺に諏訪神を祭りて、諏訪神始め此涌出水より現坐なと云ひて、其後庭中に移転して、こゝに初めて相殿に浅間神社とて開耶姫命を祝ひて、四月八日に祭れり。
諏訪明神本地由来記と題号したるものに、教照天皇の御宇に、近江国甲賀権頭ちふ者の第三子甲賀三郎頼方ちふ者由有りて、遊井万国てふに到り、其処なる長者の娘遊井万姫に娶しか、後に本国に帰らん意発して、已に出立けるが、終に浅間岳の麓なる大沼の池に出たりとなん、是諏訪明神なりと見え、彼遊井万姫夫の頼方を慕ひ来りて、共に等しき彼境内の涌出水の大沼に出て、浅間明神に祝はれたりとしるせり。 彼父権現は後に近江国にて白髪明神と呼ぶ由なり。 彼遊井万国は蛇国なれば、頼方其国に到りてより蛇となり、此国に帰りてさへ其形を改めさりし由、されば遊井万姫たる浅間明神は、殊更に蛇なる事明らけし。 然るに此写本に二種あり、一本には涌玉姫ちふ者も、彼の頼方をしたひ来りて、此大沼より東のわたりの清水に出たりとて、是を涌玉の清水といふ由なり。
又真楽寺の記に、奉崇大明神は木花開耶姫命本地正観音にて、人皇第五孝照天皇の御宇、武美名方命本地普賢にて、同じく浅間山の陽に出現鎮座すと見えたり。 然故に彼産土社も諏訪郡諏訪社の祭日と等しく、七月二十七日に祭れりとは言はずして、俗に思はせたるものなり。 彼故此寺の本尊は正観音と普賢そとなり。 彼諏訪明神本地由来記に、教照天皇とあるは真楽寺の記の孝照天皇とあるに同じかるものなり。
とある。
(小諸尋常高等小学校編『浅間山』、第4編 浅間神社考、田中書籍出版部、1910)

平田篤胤『古史伝』三十一之巻[LINK]には
さて又神名式には載れねど、信濃国浅間山に磐長姫命の鎮坐由、世に知人も多く、且其辺なる古老の伝にも、上代に、近江の湖と、諏訪の湖と一夜に出来て、浅間山と富士山とを涌出し、甚く荒たりしかば、時の天子驚せ給ひ、八百万神を集て問給に、伊勢国浅久間(朝熊)の地に坐す、大山祇神告くは、「我に二女あり、姉を磐長姫、弟を木花開耶姫と云ふ、此の女等を住せる為に、我が力にて、二の山を造り、姉をば信濃の山に、妹をば駿河の山に居らしめむ」。
とある。
上野国では総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第十位に「従一位 浅間大明神」とある。
また、同書[LINK]には吾妻郡に「従三位 浅間明神」とある。

『群馬県吾妻郡誌』[LINK]には
従三位浅間明神は長野原町大字古森諏訪神社説、嬬恋村大字大前浅間神社説、坂上村大字萩生浅間神社説とあり、その何れが真なるやは未だ定説なし。
とある。

浅間山の上野国側には天台宗の浅間山別当延命寺[群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原]があった。 『上州浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起』[LINK]には
こゝに上野国吾妻郡鎌原邑浅間嶽と申奉るは、現在地獄の火宅を見、漠々靉煙常にたえす、衆罪消滅の名巒なり。 則ち浅間大明神と崇奉る御本地虚空蔵大菩薩并鬼神堂地蔵菩薩の縁起を尋鑑るに、人王五十六主清和天皇第三の皇子に貞元親王四代の後胤鎌原石見頭源幸重此所に居住す。 [中略] 人王六十九主後朱雀院御宇長暦三〈己卯〉[1039]卯月八日に初て此の山嶽に攀昇り、四方を顧みれば、北に当て大成深窟有り。 幸重獣あらば狩慰めんと思ひ大音声を上叫びノノシりければ、奥より鬼形の異類顕れ、「家々ワレワレは昔神武御宇に鬼界嶋押渡、日本を覆んと擬する処に、此山の主虚空蔵菩薩に深く封し籠られ、此峯を叵出イデガタク、命を助け給らば善鬼と成て御山を守護せん」と悲歎の泪を流しければ、「有左右者サウアラバ案内をせよ」迚、善鬼を先達て、八龍頭の際に至る。
爾ル所に世僧弐人忽然と顕れ、「汝不浄の身にして斯る麗潔の勝峯に致る事不可思議なり。[中略]今日卯月八日、なんじ初て踏切る。則八日を縁日と定め貴賤の輩を運ばせ、罪果を消滅させよ。去り乍ら閏年の年は必不凶イムベシ」と教ゑ御座して壱人は虚空蔵大菩薩と現じ、壱人は六道能化地蔵大菩薩と顕れ、紫雲に乗じ光明赫耀たり。 幸重奇異の思をなし、麓に下り浅間山円乗院延命寺を造立し、行基菩薩の御作虚空蔵を安置す。 又山の中宮に鬼神を伴、門岩を穿ち、石を畳み大木古木を伐り集、御堂一宇建立成、則ち慈覚大師御作延命寺菩薩を安置す。 鬼神の建し御堂なれば、今爾イマニイタツテ今其名を鬼神堂と号す。
サテ又信濃国上諏訪を勧請したる旧地有り、諏訪の社を建、浅間大明神と崇奉る。 [中略] 此謂によつて氏子共四足弐足を食しても直ちに浅間に参詣す。
とある。 天明三年[1783]の大噴火で、延命寺は鬼神堂や浅間社と共に流失した。

田中明神

六社神社
祭神は天児屋根命・応神天皇・伊弉冊尊・玉依比売命・大山咋命。
旧・無格社。
現在は広嶺神社[福井県三方上中郡若狭町日笠]に合祀されている。

『若狭国神名帳』[LINK]には遠敷郡に「正五位田中氏明神」とあり、伴信友『若狭国神名帳私考』[LINK]には
正五位田中氏明神 日笠村の老人の云く、己が里内に田中氏の民数家あり、其宗家を別て上田中と呼へり。 遠祖の事は詳ならねど、いと古くより家門を続来れり。 さて其上田中が世々伝へもてる山の麓に、むかし遠祖を祭りて建たりと云伝へたる神祠ありて、田中明神といへるを、今は六所大明神と申す。
さて安居院が神道集と云ふ書に、甲賀権守諏胤が子に、甲賀太郎諏致、甲賀二郎諏任、甲賀三郎諏方とて、三人の兄弟あり。 [中略] 二人の兄は信主明神の計によりて、三郎と中睦まじくなりて、衆生擁護の神となる。 中にも二郎は先非を悔て、若狭国にて田中明神となる趣を記せり。 そもそも此神道集は、すべては論ふにも足らぬ謾説ながら、甲賀次郎が田中神となれりとしも云へるは、元来甲賀某と云ひし人の由縁ありし古伝説を、下心ありてかく作りなしたるものときこえたり。
とある。

『若狭遠敷郡誌』[LINK]には
広嶺神社 指定村社にして同村(三宅村)日笠字大谷口にあり。 俗に山王と称し又祇園天王社、牛頭天王社等と称し来り。
明治四十一年[1908]に合併せられたるもの二社あり。 五王神社は祭神不詳にして字西山にあり。 六社神社は元六所大明神社とも称し、祭神は天児屋根命、応神天皇、伊弉冊尊、玉依比売命、大山咋命にして字山田森下にあり。
とある。

示現太郎大明神

参照: 「宇都宮大明神事」宇都宮大明神(男体)

赤山大明神

参照: 「赤山大明神事」赤山大明神

日光権現

参照: 「日光権現事」日光権現(女体)

上野国一宮

参照: 「上野国一宮事」抜鉾大明神

『神長守矢満実書留』[LINK]では諏訪の神使について
誠に当社御神の王子にて外県両人は上野一宮御腹、内県、大県四人は下宮御腹にやとらせ給、御誕生うたかひなし。 御左口神と申も十三所と申も当社の王子御一体。
と記す。

『諏方旧跡志』の神系略図[LINK]では、建御名方命の御子神を挙げる中に
内県神 御母八坂入姫命
外県神 御母上野一宮
大県神 御母前八坂刀売命
 以上三神流鏑馬の祖神也
とある。

早那起梨の天子

未詳。
四部合戦状本『平家物語』巻五には
賀茂の保憲が早那起梨の天子に合い奉り、大仲臣経を習ひし劫夜殿は、州津王の為に滅ぼされ
とある。
(高橋貞一「四部合戦状本と平家打聞」[LINK]、人文学論集、4号、pp.25-82、1970)

神道の法

早那起梨の天子が授けた「神道の法」とは「中臣祓」で、その祓詞の当該個所は以下の通りである。
高天原タカマノハラ神留カムヅマリマス皇親スメムツ神漏岐カムロギ神漏美カムロギミコトモチ
国中クヌチ荒振アラブル神達カミドモをば、神問カムトハしにトハタマヒ神掃カムハラヒハラヒタマヒ
科戸シナトカゼアマ八重雲ヤヘグモ吹放事フキハラフコトゴト
彼方ヲチカタ繁木シゲキモト焼鎌ヤキガマ敏鎌トガマモチ打掃事ウチハラフコトゴト
大津辺オホツベ大船オホブネを、舳解放ヘトキハナチ艫解放トモトキハナチて、大海原オホウナバラ押放事オシハナツコトゴト

伊藤聡『神道の形成と中世神話』には
「中臣祓」の起源について、中世には神話的起源とは別に外来説が説かれるようになった。 承澄『阿娑縛抄』巻八十六「六字河臨法」[LINK]に次のようなくだりが見える。
〇中臣祓は日本の祭文なり。 伊勢太神宮、天石戸閉じ給ひし時、中臣氏此禊を造りて、読みて誘らへ奉る。 [中略] 但し宗明云く、諸祓啓請祭法の語は董仲舒と云ふ文にこれ有り。 皆唐土より有る事なり。 只だ其の言、国に隨ひ改むる許りなりと云々。 然れば、唐の国、此の法を修するの時、此の如く祭文を読み加ふかと云々。
〇問ふ。大師大唐に於て、此の法を受くと云々。 然れば、何ぞ此の朝の七瀬祓を相ひ加ふるや。 答ふ。誰か大唐に此祓無しと謂ふか。 凡俗の体、恒沙の法、皆天竺より大唐に伝はり日本に伝ふ。 然れば中臣祓の文言の倭語なることは、彼の文勢を以て和語に書き成せるか。 吉備大臣在唐日記の如くは、其の本文有るに似たり。 然るを中臣祓と云ふは、此の国にて始めて此の姓の人、之を習ひ伝ふるか。 況や「禊祓」の字、已に唐に之れ有るにおゐてをや。
〇仁平三年[1153]四月日、中宮御産の間、六字御念誦の次で、大納言伊通、明玄闍梨に問ひて云く、河臨法は、慈覚大師、大唐より一定将来か。 明(玄)答へて云く、然なり、と (大)納言又云く、爾れば、中臣祓唐言に非ざるはいかん。 明云く、祓の唐より度れたりと云ふ事、古より児女子の説なり。 此の朝にて和語と成ること、更に難とすべからず。 況んや吉備大臣度したること、世以て知るなり。 就中、隆国卿の抄記、其の旨炳然なりと。 [以下略]
右に言及される吉備真備による中臣祓将来のことについて承澄は、「吉備大臣在唐日記」「隆国卿抄記」にはそのことは見えないが、自分が母から聞いたとして、次のように記す。
〇大臣於大唐、乗鬼夜行之間、件祓を焼鉤利キ鉤ヲ以テ打放コトノゴトクト云フ所ニテ、焼タル鉤多出テ飛合タリケレハ。鬼キラレヌヘクテニゲニケリ。大臣、件語ヲ聞テ、自始件所マデヲ書付テ置タリケリ。 明朝、唐人等来見後、其正文、授大臣云々。(原文)
「焼鉤利キ鉤ヲ以テ打放コトノゴトク」とは、中臣祓の「彼方ノ繁木本ヲ 焼鎌ノ敏鎌テ 打掃事の如く」の一節を指すらしい。 文意がいささか取りづらいが、大略次のような話である。 真備が在唐中、夜中鬼に出会った。 (同行の者?)が祓辞を唱えると「焼鉤利キ鉤ヲ以テ打放……」のところで、実際にたくさんの焼けた鎌が出現し、鬼は斬られ逃げ去った。 真備はこれを聞いて、その箇所まで書き付けておいた。 翌朝、唐人等がやって来て、全文を彼に授けた、とのことである。
国学院大学河野省三文庫蔵『大中臣祓同註』には、また別の中臣祓将来譚を載せる。 同書は中世末期書写の中臣祓の注釈書である。 [中略] 最後に
須弥山の中腹に、四王天・梵天帝尺・天衆・四大天・炎羅天・五道大臣・泰山府君・一大三千大世界大小神祇冥道進み来たり、南閻浮提の一切衆生身に来るべき病患を除く。 一切の呪詛悪念、非時中の夭短命、怖畏の難を祓ひ、一切悪魔・悪神・汚穢不浄の懈不信の罪過を除滅し、一切衆生に随ひて福寿増長の悦びを授く為に作り出し給ふなり。
と追記し、中臣祓が須弥山にて天衆と冥府の諸神によって行われたものであるとする。
続いて、日本伝来の経緯と、日本において広まった由来が記される。
羅什三蔵、天竺より唐土へ伝へ給ふ。 慈覚大師、入唐の時、唐の南天(ママ)に参りて陰れ居りて見給ふに、疫病発る時、陰陽師に占はしむる時、日本の行人陰れ居り、祓を致せと云々。 [中略] 其の時之を伝ふ。 天平神護三年〈壬午〉[767]、日本の慈覚大師、三衣の箱に入れて渡し給ふ。 時に近江国に栗木有り。 美濃国・近江州・大和州に影覆カゲヲホふ。 此の木を三ヶの国人と寄り合ひて来れども、本の如く切り口合す。 [中略] 慈覚大師を請じ奉り、大中臣祓を致す。 其の時、切り口癒合イヘアヘず切られ畢ぬと云云。 夫より以来、大中臣祓を以て祭るを日本一の祈祷に、之を用ゆるなり。
すなわち、鳩摩羅什によってインドから中国にもたらされ、円仁によって天平神護三年(もとより、円仁の在世期間とあわない)、日本に伝えられた。
(伊藤聡『神道の形成と中世神話』、第2部 中世の本地垂迹思想、第3章 中世における祝詞と和歌の習合、吉川弘文館、2016)

『神道集』において甲賀三郎夫妻が平城国で「中臣祓」を伝授されるのも、外来説の一種と考えられる。

長楽寺

筑土鈴寛「諏訪本地・甲賀三郎」[LINK]では
この長楽寺は、始め天台で法然上人の高弟隆寛のいた寺で後時宗になった山城のそれ(黄台山長楽寺[京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町])かと思われるし(或は十三天狗の首領である岩間山別当長楽寺[茨城県石岡市龍明]という山伏の寺か)
と推定している。
(筑土鈴寛『中世藝文の研究』、「諏訪本地・甲賀三郎」、有精堂出版、1966)

これに対し、福田晃『神道集説話の成立』では
『神道集』巻十の「諏訪縁起事」は、東国方面の素材によっているとすれば、これは上州世良田の天台寺院の長楽寺[群馬県太田市世良田]をあてるのが妥当だろう。
と推定している。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—、三弥井書店、1984)

毛呂権蔵『上野国志』の長楽寺の条[LINK]には
長楽寺 世良田郷に在り、世良田山真言院と号す。 昔は臨済宗にて、台密を兼ぬ。 今は天台宗にて権大僧正なり。 御朱印三百石。 開山栄朝禅師。
此寺承久三年〈辛巳〉[1221]九月廿八日落成す、開基大檀越徳川四郎源義季、法名栄勇大禅定門、これ新田家の御氏寺なり
とある。

世良田長楽寺は赤城信仰とも関りが深い。 同書は長楽寺什宝の一つとして、
赤城碑文 或は秘文とも、赤城の神筆なり、函中に封緘して、永く人の拝見することを許さず。
を挙げる。 また、同寺六世・法照禅師(月船琛海)伝の中[LINK]に、
粤に赤城山に一練行の人有り。 三十余年影山を出でず、木食澗飲す。冰雪凍らず、神異あり。無数の天狗と友善たり。 所謂天狗は魔界也。 然れども恠力を好まず、唯務めて忍進す。 遇ま師(法照禅師)赤嶠に渉る。 霊区に従容たり。練行の人出迎ひ、拝足して曰く、「弟子師の道徳を仰ぐこと久し。然れども願あり、故に此山を下らず。幸にして神足を降すを見る、是れ我が千載の一遇也。願くは戒法を受けて勝因を結ばん」と。 師乃ち木叉並に衣盂を授け、号して了儒と云ふ。
上野一州の師の道を学ぶ者を赤城門徒と称へ、彼の儒翁を以て祖と為す。 儒の肖像、現今赤峯(大洞赤城神社の開山堂)に在り。 時の人神の如く以て尊ぶ也。
と記す。

長楽寺の長老とされる寛提僧正については未詳。
「御神楽事」では、良観上人(越後国の出湯の長老)の逸話とする。

四句の偈

『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)の蛙狩神事の条[LINK]には
さて御手洗河に帰りて漁猟の儀を表す。 七尺の清瀧氷閇て一機の白布地に敷けり。 雅楽数輩、斧鉞を以て是を切砕けば、蝦蟇五つ六つ出現す、毎年不闕の奇特なり。 壇上の蛙石と申事も故有る事にや。 神使小弓小矢をもて是を射取て、各串にさして捧もちて生贄の初とす。 凡そ当社生贄の事浅智の疑殺生の罪去り堅きに似たりと云とも、業深有情、雖放不生、故宿人身、同証仏果の神勅をうけ給れは、実に慈悲深重の余りより出で、暫属結縁の方便をまうけ給へる事、神道の本懐和光の深意弥信心をもよをす物也。
とある。

諏訪大社では鹿食を許可する鹿食免を発行し、その中に「諏訪の勘文」(四句の偈)を記していた。
『新編会津風土記』巻之三[LINK]に所載の鹿食免(天正十八年丙申[1590]、諏訪下社の大祝金刺氏が発行)の写しに
諏方法性大明神鹿食御許之事
 奈尽有情 雖放不生 故宿人身 同証[ママ]
と記されている。

白山権現

参照: 「白山権現事」白山権現

富士浅間大菩薩

参照: 「富士浅間大菩薩事」富士浅間大菩薩

熊野権現

参照: 「熊野権現事」熊野権現

日吉山王

参照: 「高座天王事」山王権現

松尾

松尾大社[京都府京都市西京区嵐山宮町]
祭神は大山咋神・中津島姫命。 通説では中津島姫命を市杵島姫命の異名とする。
式内社(山城国葛野郡 松尾神社二座〈並名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。

『古事記』上巻[LINK]には
(大年神が)又天知迦流美豆比売に娶ひて、生みませる子、奥津日子神、次に奥津比売命、亦の名は大戸比売神。此は諸人の以ち拝く竈神也。 次に大山咋神、亦名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝山に坐す。亦葛野の松尾に坐す、鳴鏑になりませる神也
とある。

『秦氏本系帳』〔惟宗公方『本朝月令』に引用〕[LINK]には
正一位勲一等松尾大神の御社は、筑紫胸形に坐す中部大神(中都大神)なり。 戌辰年(天智天皇七年[668]か)三月三日、松埼日尾〈又日埼岑と云ふ〉に天下り坐す。 大宝元年[701]、川辺腹の男・秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹の女・秦忌寸知麻留女、始めて御阿礼平(御阿礼木か)を立て、知麻留女の子・秦忌寸都駕布、戌午年(養老二年[718])より祝と為り、子孫相承し、大神を祈祭す。
とある。

稲荷

参照: 「稲荷大明神事」稲荷大明神

梅宮

梅宮大社[京都府京都市右京区梅津フケノ川町]
祭神は酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神で、嵯峨天皇・橘嘉智子(檀林皇后)・仁明天皇・橘清友を配祀。 通説では酒解神は大山祇神、大若子神は瓊々杵尊、小若子神は彦火々出見尊、酒解子神は木花咲耶姫命の異名とする。
式内社(山城国葛野郡 梅宮坐神四座〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。

史料上の初見は『続日本後紀』巻第五の承和三年[836]十一月壬申[7日]条[LINK]
無位酒解神に従五位上、無位大若子神・小若子神に並に従五位下を授け奉る。 此の三前は山城国葛野郡梅宮社に坐す。

『伊呂波字類抄』巻五の梅宮の条[LINK]には
仁明天皇の母、文徳天皇の祖母、橘太后の氏神也。
譜牒男巻下に云く。太后氏神円提寺に祭る。〈此の神始めは、犬養大夫人三千代の祭る所の神也。大夫人の子藤原太后及び乙牟漏女王洛隅内頭に祭る。其の後相楽郡提山に遷祭す〉 此の神仁明天皇の為に祟りを成す。 御卜に出づ。復官人に託宣して云く、「我、今天子の外家神也。我、国家の大弊を得ず、是れ何の縁哉と」云々。 天皇之を畏み神社を盛立し、諸大社に准じて毎年崇壮令しめんと欲す。 太后背せず曰く、「神道遠くして人道近し、吾豈先帝外家を与え斉を得るか」。 天皇固く之を請く。 太后曰く、「但し恐らくは国家の為に崇を成す」。 仍て近く葛野川頭に移祭す。 太后自ら幸拝し祭り焉んぬ。 今梅宮祭是れ也。
とある。

『延喜式神名帳頭註』[LINK]には
梅宮 仁明帝母大皇太后橘嘉智子也。 橘妙神也。
とある。

『二十二社本縁』の梅宮事[LINK]には
此社は井手左大臣橘諸兄の霊也。 仍て今に至り橘家の長者管領するなり。
と異伝を記す。

広田

広田神社[兵庫県西宮市大社町]
本殿の祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大御神之荒御魂)。 一説に神功皇后とする。
第一脇殿の祭神は住吉大神。
第二脇殿の祭神は八幡大神。
第三脇殿の祭神は諏訪建御名方神。
第四脇殿の祭神は高皇産霊神。
式内社(摂津国武庫郡 広田神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(下八社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第八の仲哀天皇八年[199]九月条[LINK]には
秋九月の乙亥の朔己卯[5日]に、群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ。 時に神有して、皇后に託りて誨へまつりて曰く、「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや。玆の国に愈りて宝有る国。譬へば処女の睩の如くにして、津に向へる国あり。眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曾て刃に血ぬらずして、其の国必ず自づから服ひなむ。復、熊襲も為服ひなむ。其の祭りたまはむには、天皇の御船、及び穴門直踐立の献れる水田、名けて大田といふ、是等の物を以て幣ひたまへ」とのたまふ。 天皇、神の言を聞しめして、疑の情有します。
時に、神、亦皇后に託りて曰く、「天津水影の如く、押し伏せて我が見る国、何ぞ国無しと謂ひて、我朝廷を誹謗りたまふ。其れ汝王、如此言ひて、遂に信けたまはずば、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎ハラませり。其の子獲たまふこと有らむ」とのたまふ。 然るに、天皇、猶し信けたまはずして、強に熊襲を撃ちたまふ。 得勝ちたまはずして還る。
九年[200]の春二月の癸卯朔の己未[5日]に、天皇、忽ちに痛身ナヤみたまふこと有りて、明日、崩りましぬ。 時に年五十二。 即ち知りぬ、神の言を用ゐたまはずして、早く崩りましぬることを。
巻第九の神功皇后摂政前年[200]三月条[LINK]には
三月の壬申の朔[1日]に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。 則ち武内宿禰に命して琴撫かしむ。 中臣烏賊使主を召して、審神者にす。 因りて千繪高繪を以て、琴頭尾に置きて、請して曰く、「先の日に天皇に教へたまひしは誰れの神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」とまうす。 七日七夜に逮りて、乃ち答へて曰く、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮(皇大神宮)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」と。 亦問ひまうさく、「是の神を除きて復神有すや」と。 答へて日はく、「幡荻穂に出し吾や、尾田吾田節の淡郡(伊雑宮[三重県志摩市磯部町上之郷]か)に所居る神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「天事代虚事代玉籖入彦厳之事代神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「有ること無きこと知らず」と。 是に於て審神者曰く、「今答へたまはずして更後に言ふこと有しますや」と。 則ち対へて曰く、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男神有り」と。 問ひまうさく、「亦有すや」と。 答へて日はく、「有ることとも無きこととも知らず」と。 遂に且神有すとも言はず。 時に神の語を得て、教の随に祭る。
神功皇后摂政元年[201]二月条[LINK]には
爰に新羅を伐ちたまふ明年春二月に、皇后、群卿及び百寮を領ゐて、穴門豊浦宮に移りたまふ。 即ち天皇の喪を収めて、海路よりして京に向す。
時に皇后、忍熊王イクサを起して待てりと聞しめして、武内宿禰に命せて、皇子を懐きて、横に南海より出でて、紀伊水門に泊まらしむ。 皇后の船、直に難波を指す。 時に、皇后の船む海中を廻りて、進むこと能はず。 更に務古(武庫)水門に還りましてトへたまふ。 是に天照大神誨へまつりて曰く、「我が荒魂をば、皇后(または皇居)に近づくべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」とのたまふ。 即ち山背根子が女葉山媛を以て祭はしむ。 亦稚日女尊誨へまつりて曰く、「吾は活田長峡国に居らむと欲す」とのたまふ。 因りて海上五十狭茅を以て祭はしむ。 亦事代主尊誨へまつりて曰く、「吾をば御心の長田国に祀れ」とのたまふ。 則ち葉山媛の弟長姫を以て祭はしむ。 亦表筒男・中筒男・底筒男、三の神、誨へまつりて曰く、「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」とのたまふ。 是に、神の教の随に鎮め坐ゑまつる。則ち平に海を度ること得たまふ。
とあり、広田神社・長田神社[兵庫県神戸市長田区長田町3丁目]・生田神社[神戸市中央区下山手通1丁目]・住吉大社[大阪府大阪市住吉区住吉2丁目]の創祀を伝える。

『諏方大明神画詞』(縁起上)[LINK]には
皇后御帰朝の後、摂州広田の社に鎮坐の時、五社を建立せらる、所謂本社〈皇后〉、八幡大菩薩〈応神〉、諏方・住吉二神及八祖〈皇后護持等〉宮是也。 就中毎年正月九日、村民門戸を閉ち出入をやめて諏方社の御狩と号して山林に望みて狩猟を致す、猪鹿一を得ぬれは則殺生をやめ西宮の南宮(南宮神社[兵庫県西宮市社家町])〈本地普賢菩薩十羅刹等安置す〉にたむけ奉る。
とある。

大原

参照: 「鹿嶋大明神事」大原大明神

平野

参照: 「神道由来之事」平野大明神

【参考】『甲賀三郎兼家』

諏訪縁起(甲賀三郎譚)は、諏方とする伝本と主人公の名を兼家とする伝本に大別される。 前者は「諏方縁起事」と同類の内容だが、後者は以下に記すようにかなり内容に異同が有る。

後者の『甲賀三郎兼家』[LINK]の概要は以下の通りである。
天竺波羅奈国の大臣が国を追われて日本に渡り、近江国の甲賀郡を知行して甲賀権守兼貞と号した。 権守には、甲賀太郎兼正・次郎兼光・三郎兼家の三人の息子がいた。 権守の没後、所領は三人の息子に等分された。
兄弟は「山と海の何れに恐ろしき魔王が棲むか」を論じ、諸国の山々を巡った。 三郎は若狭の高懸山で鬼輪王を討ち、岩屋の奥の地底から姫君を救い出した。 姫君の鏡を探す為に三郎が再び地底に降ると、二人の兄はすかりの縄を切った。
三郎は地底を彷徨い、維縵国(根の国)で鹿を追う翁と出会った。 翁は三郎に日本に帰る方法を教え、「恋しくはとひても来ませ大和なる 三輪の山もとに杉立てる門」と記した姫君への文を託した。
三郎は日本の信濃国の浅間嶽の「なきの松原」に出て、近江国の甲賀の館に帰った。 そこで三郎は自分が大蛇と成ったこと知り、観音堂(三郎の嫡子が父の三十三回忌に建立)の縁下に隠れた。
三郎は観音堂で老僧(観音)と新発意(地蔵)の問答を聞き、その教えに従って維縵国の着物を脱ぎ捨てた。 人間の姿に戻った三郎は妻子と再会した。 その後、三郎は太郎・次郎の館に押し寄せ、二人の兄は差し違えて自害した。
三郎が館に帰ると、岩屋で救い出した姫君が現れた。 三郎が鏡と翁の文を渡すと、姫君は「大和の杉立てる門に尋ねておはしませ」と言った。 三郎は妻子と別れ、自らは現人神と成って、三輪山に姫宮大明神を尋ねた。 現人神と姫宮大明神は天竺に行き、日本に戻って「なきの松原」に住み、そこで三人の御子を儲けた。
現人神は太郎王子・次郎王子に「良き処尋ねてまいらせ」と命じた。 しかし、二人の王子は佐久郡の下之郷に止まり、父神には知らせなかった。 三郎王子は諏訪郡で上の御射山・下の御射山を見つけ、父神に「御屋敷処は見たてゝ候」と申した。
現人神は上の御射山に鎮座し、本地は普賢菩薩である。 姫宮大明神は下の御射山に鎮座し、本地は千手観音である。
(金井典美『諏訪信仰史』、Ⅱ 史料篇、吉田本「甲賀三郎兼家」御由来記、名著出版、1982)

【参考】伊賀の甲賀三郎譚

菊岡如幻『伊水温故』[LINK]には敢国神社[三重県伊賀市一之宮]の祭神・神体を
少彦名命の神体 仙人の影像也。
金山比咩の神体 蛇形蟠容儀。
相殿甲賀三郎霊儀 十一面観音座像。
とし、以下の甲賀三郎譚を記す。
六十一代醍醐天皇御宇[897-930]に信濃国望月の明府を諏訪源左衛門源重頼勇兵にして朝廷に任える。 息三人有、嫡男太郎を後に望月信濃守重宗と号す、次郎を望月美濃守貞頼、三男三郎を望月隠岐守兼家、各源姓にして秀逸の名誉有。 其遠祖をいへば大己貴第二健御名方命〈諏訪明神〉の苗裔也。 時に若狭国高懸山に鬼輪王と云外道有、彼を追討の宣旨を蒙り、兄弟三士若狭国に発向し、兼家進て鬼輪王を殺す。 舎兄等兼家を妬み龍穴に突落す。兄両輩己が高名に陳じて是を奏し、帰領地安堵す。 兼家は幽穴に墜て一旦絶息すといえども蘇生し、追日帰本所。 舎兄二人世の人口を恥て忽然と自亡すれば、諸跡悉兼家に附属す。 承平二年[932]相馬将門逆謀の節、朱雀院の勅命に依り東関に下向し、他に勝たる軍功有り、江州半国の守護と成て甲賀郡に居住す。 依て甲賀近江守と称し、追年伊陽の国守となり、千歳佐那具の衢に造館閣寛栖し、近江と伊賀を跨て大領を務けるとかや。

『三国地誌』巻之六十(伊賀国 阿拝郡)の敢国神社の条[LINK]には
六所権現〈本社の東 瑞垣の内〉 是、故郡司甲賀三郎兼家が霊を祀るとも云。 観音大士の像を安ず。 又、二尊、日月の神、蛭児、素尊を祭とも云。
とある。

福田晃『神道集説話の成立』には
伊賀国一の宮敢国神社には甲賀三郎兼家が祀られていた。 『伊水温故』は[LINK]は本宮三座として、少彦名命(杣人ノ影像也)、金山比咩(蛇形蟠容儀)、相殿甲賀三郎霊儀(十一面観音座像)を挙げる。 いま『伊水温故』に記された甲賀三郎譚をみると、下田慶円寺所蔵「諏訪氏系図」などの伝承と全く同じである。 『広益俗説弁』[LINK]『伊勢参宮名所図会』[LINK]などは、これと同内容の伝承を「伊賀地志甲賀家伝を引いて曰く」と記している。 甲賀家伝なるものは諏訪・望月家などの系図類を言うにちがいないから、二者の伝承が一致するのは当然のことなのであろう。
本宮相殿に祀られていた甲賀三郎も、『伊賀一宮敢国津社記』『三国地誌』[LINK]などの時代になると、摂社六所権現の観音像がこれに当てられるようになった。 今『一宮敢国津社記』を引いてみる。
六所権現〈本社東在瑞籬内〉所祀神未詳。 古老伝云、祭故郡司甲賀三郎兼家。 以観音大士像為主、今安此社内者即是。 今按所謂六所応配祀六座神。 而除大士像之外莫考奉鎮何神。
ところが『敢国拾遺』には次のように記されている。
今殿内本社の御神体の外に御鏡一面神体筥に納む、いかなる御神体といふ事社家に伝説なし。 土俗の伝来に本社は諏訪とともに三座なりと云なれは、恐らく是兼家のうつしいはへる諏訪の御神体なるへし。 昔は神膳に鹿を体薦せし事を云伝へ、且今宍を食ふものは百日神拝をはゝかる、故に此社人に諏訪のゆるしをうくる事あり。 敢国南宮に其いはれある事を聞かす、諏訪のゆるしと口碑にに残れるはかゝる由縁なるへし。 しかのみならす、兼家の霊をもいはふとて、ありし世に信する観音像を神体とせしなといふ。 今六所権現の社中に十一面観音をおさめん。 是なん其霊のしるしなるか。
「諏訪のゆるし」とは諏訪社の鹿食免のこと、諏訪神の信仰が、甲賀三郎の伝承とともに、敢国社内に定着してことを明らかにしている。
とある。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—)