『神道集』の神々

第五十 諏方縁起事

東海道の近江国二十四郡の内、甲賀郡に荒人神が顕れ、諏方大明神と云う。 此の御神の応迹示現の由来を委しく尋ねると、以下の通りである。
人皇第三代安寧天皇から五代の孫に、近江国甲賀郡の地頭・甲賀権守諏胤という人がいた。 奥方は大和国添上郡の地頭・春日権守の長女で、甲賀太郎諏致・次郎諏任・三郎諏方という三人の息子がいた。
父諏胤は三代の帝に仕え、東三十三ヶ国の惣追捕使に任ぜられた。 七十余歳になった諏胤は病床に三人の息子を呼んだ。 そして、三郎を惣領として東海道十五ヶ国、太郎に東山道八ヶ国、次郎に北陸道七ヶ国の惣追捕使の職を与えた。 諏胤は七十八歳で亡くなり、三十五日の塔婆供養の三日後に奥方も亡くなった。
父の三回忌の後、甲賀三郎は上京して帝に見参し、大和国の国司に任じられた。 甲賀三郎は春日郡の三笠山の明神に参詣し、春日権守の歓待を受けた。 そして、春日権守の十七歳になる孫娘の春日姫と巡り会った。 その夜、甲賀三郎は春日姫と夫婦の契りを交わし、近江国甲賀の館に連れ帰った。

ある年の三月、甲賀三郎は一千余騎を伴い伊吹山で巻狩を行った。 甲賀太郎は五百余騎、甲賀次郎も三百余騎を伴って加わった。 三郎は春日姫を麓の野辺の館に住まわせ、狩の様子を観覧させた。 八日目に上の山に二頭の大きな鹿が現れたと報告があり、三郎は上の大嶽に登って行った。
麓の館で春日姫が女たちに今様を歌わせていると、美しい双紙が三帖天下って来た。 春日姫がその双紙を見ていると、双紙は稚児に姿を変え、春日姫を捕らえて逃げ去った。 甲賀三郎は天狗の仕業だろうと考え、二人の兄と共に日本国中の山々を尽く探し回ったが、春日姫を見つける事は出来なかった。
そこで、三郎の乳母の子である宮内判官の助言で、信濃国笹岡郡の蓼科山を探してみる事にした。 そこには大きな人穴があり、春日姫が最後に着ていた着物の片袖と髪の毛が見つかった。
甲賀三郎は簍籠に八本の縄をつけ、それに乗って人穴に入っていった。 簍籠を降りて東の人穴を進むと、小さな御殿の中から春日姫が『千手経』を読む声が聞こえた。 甲賀三郎は春日姫を連れ出すと簍籠に乗り、家来たちに縄を引き上げさせた。 ところが、春日姫は祖父から貰った唐鏡を置き忘れてしまったので、甲賀三郎は引き返して再び人穴に入った。
甲賀次郎は弟を妬んでいたので、縄を切り落として三郎を人穴の底に取り残した。 そして、春日姫を甲賀の舘に連れ込み、宮内判官経方をはじめ三郎の一族二十余人を殺戮した。 残った家臣たちは次郎に臣従を誓った。 甲賀太郎は次郎が父の遺言に背いた事を知り、下野国宇津宮(宇都宮)に下って示現大明神として顕れた。
甲賀次郎は春日姫を妻と定め、政事を行った。 しかし、姫は次郎に従おうとしなかった。 怒った甲賀次郎は家来に命じ、近江の湖の北岸、戸蔵山の麓で春日姫を切らせることにした。 そこに宮内判官の妹婿である山辺左兵衛督成賢が通りかかり、春日姫を救い出して春日権守の邸まで送り届けた。 その後、春日姫は三笠山の奥にある神出の岩屋に閉じ籠ってしまった。

その頃、甲賀三郎は唐鏡を取り戻して簍籠の所に引き返したが、縄は切り落とされており、殺された一族の死骸が転がっていた。 三郎は地下の人穴を通って好賞国・草微国・草底国・雪降国・草留国・自在国・蛇飽国・道樹国・好樹国・陶倍国・半樹国など七十二の国を巡り、最後に維縵国に辿り着いた。
三郎は維縵国の王である好美翁に歓待された。 好美翁には、八百歳・五百歳・三百歳になる三人の姫君がいた。 三郎は末娘の維摩姫を妻とし、この国の風習に従って毎日鹿狩りをして過ごした。
十三年と六ヶ月の年月が流れたある日、三郎は夢に春日姫を思い出して涙を流した。 維摩姫は「あなたを日本にお送りしましょう。私もあなたの後を追って忍び妻となり、衆生擁護の神と成りましょう」と云った。
好美翁は甲賀殿への引出物として、鹿の生肝で作った千枚の餅・菅の行縢・三段に切った中紙(御玉井紙)・萩花・投鎌・梶葉の直垂・三葉柏の幡を授け、それらの財宝の使い方を教えた。 三郎は千枚の餅を一日一枚食べながら進み、契河・契原・亡帰原・契陽山・荒原庭・真藤山・真馴の池・暗闇の地などの難所を無事に通り抜け、髴月夜の原に到着した。 そこから真藤の蔓につかまって岩山をよじ登り、千枚の餅を食べ終えて信濃国の浅間嶽の巓に出た。

三郎は甲賀郡に戻り、父の為に造った笹岡の釈迦堂の中で念誦していると、子供たちが「大蛇がいる」と云って逃げた。 三郎は我が身が蛇になった事を知り、仏壇の下に身を隠した。
日が暮れた頃、十数人の僧たちが『法華経』を読誦し、甲賀三郎の話を物語った。 それによると、甲賀三郎が蛇身なのは維縵国の衣装を着ているためで、石菖を植えている池の水に入り、東向きで「赤色赤光日出東方蛇身脱免」、南向きで「南無南天南着脱身」、西向きで「南無無量寿衣免脱身」、北向きで「阿褥達池蛇身速出」と各三度唱え、水底を践んで上がれば、裸の日本人に成るという。 甲賀三郎はこの教えに従い、人身に戻った。 後には蛇の抜け皮が残されていた。 裸の甲賀三郎が御堂に戻ると、上座の老僧は白い唐綾の小袖と梶葉の直垂、左座の一番の老僧は烏帽子と腰刀、次の老僧は太刀と弓矢、右座の老僧は馬鞍と狩装束を奉り、姿を消した。 この老僧たちは白山権現・富士浅間大菩薩・熊野権現、他の僧は日吉山王・松尾・稲荷・梅宮・広田など王城鎮護の諸大明神だった。

三郎は近江国の鎮守である兵主大明神に導かれて三笠山に行き、春日姫と再会した。
二人は天早船で震旦国の南の平城国へ渡り、早那起梨の天子から神道の法を授かった。 「高天原に神留り坐して末孫の神漏岐神漏尊以て」を授かり、虚空を飛ぶ身と成った。 「国内に荒振神達を神払に神払ふ」を授かり、魔事外道を他へ打ち払う通力を得た。 「科戸の風の天の八重雲を吹き払ふ事の如く」を授かり、居ながらにして三千世界を見る徳を得た。 「焼鎌の利鎌を以て茂木が本を打払ふ事の如く」を授かり、一切世界の有情無情が心の内に思う事を悟る徳を得た。 「大津辺に居る大船の舳解放艫解放大海底に押し放つ事の如く」を授かり、賞罰を新たにして衆生を育む徳を得た。
その後、日本国より兵主大明神の使者が平城国に来て、「本朝に帰って衆生守護の神に成って下さい」と願った、 甲賀三郎夫婦と使者は天早車に乗って信濃国の蓼科山に到着した。 梅宮・広田・大原・松尾・平野などの諸大明神も集まってお供をした。

甲賀三郎は信濃国岡屋の里に諏方大明神の上宮として顕れた。 本地は普賢菩薩である。
春日姫は下宮として顕れた。 本地は千手観音である。
維摩姫もこの国に渡って来て、浅間大明神として顕れた。
甲賀三郎と兄たちは兵主大明神が仲裁した。
甲賀次郎は北陸道の守護神と成り、若狭国の田中明神として顕れた。
下野国宇津宮に下っていた甲賀太郎は、示現太郎大明神として顕れた。
父甲賀権守は赤山大明神として顕れた。
母は日光権現として顕れた。
本地は阿弥陀如来・薬師如来・普賢菩薩・千手観音・地蔵菩薩等である。

上野国の一宮は狗留吠国の人である。 《以下、上野国一宮事とほぼ同内容なので略す》

諏方大明神は維縵国で狩の習慣があったので、狩庭を大切にされる。 四条天皇の御代、嘉禎三年五月、長楽寺の長老・寛提僧正は供物について不審に思い、大明神に祈念して「権実の垂迹は仏菩薩の化身として衆生を済度されるのに、何故多くの獣を殺すのでしょうか」と申し上げた。 僧正の夢の中で、供物の鹿鳥魚などが金色の仏と成って雲の上に昇って行き、大明神が
 野辺に住む獣我に縁無くば 憂かりし闇になほ迷はしむ
と詠まれ、
 業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果
と四句の偈を説いた。 寛提僧正は随喜の涙を流して下向された。

諏方大明神

諏訪大社上社本宮[長野県諏訪市中洲宮山]
祭神は建御名方神。
諏訪大社下社秋宮・春宮[長野県諏訪郡下諏訪町]
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座〈並名神大〉)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本書紀』巻第三十の持統天皇五年[691]八月辛酉[23日]条[LINK]の「使者を遣はして、龍田風神・信濃須波・水内等の神を祭る」。
現在の諏訪大社は上社前宮[長野県茅野市宮川]を加えた二社四宮から成るが、前宮は明治二十九年[1896]までは上社本宮の境外摂社(上十三所の前宮大明神)であった。

「諏方大明神五月会事」によると、諏方の上宮は祇陀大臣、下宮は金剛女である。

『古事記』上巻[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は出雲国の伊那佐の小浜(稲佐の浜)に降り、十掬剣を波に逆さに突き立てその剣先に座し、大国主神に「天照大御神・高木神の命以ちて、問ひに使はせり。汝がうしはける葦原中国は、我が御子の知さむ国ぞと、言依さし賜はり。故れ汝が心は奈如にぞ」と問うた。 大国主神は「は得白さじ。我が子八重言代主神、是れ白す可き」と答えた。 天鳥船神を遣わすと、八重事代主神は「かしこし、此の国は、天神之御子に立奉りたまへ」と云い、船を踏み傾け、天の逆手を青柴垣に打ってお隠れになった。
「今汝が子事代主神かく白しぬ。亦白す可き子有りや」と問うと、大国主神は「亦我が子建御名方神有り。此を除ては無し」と申した。 建御名方神は千引石を持って来て、「誰ぞ我が国に来て、忍び忍び如此かく物言ふ。然らば力競為む。故我先づ其の御手を取らむ」と言った。 建御雷神が手を取らせると、その手は立氷(つらら)と成り、また剣の刃と成ったので、建御名方神は恐れて退いた。 建御雷神は建御名方神を引き寄せ、その手を若葦を取る様に掴み拉いで投げ放ったので、建御名方神は逃げ去った。 科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に追い詰めて殺そうとした時、建御名方神は「恐し、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。[中略]此の葦原中国は、天神御子の命のまにまに献らむ」と申し上げた。

『諏方上社物忌令之事』[LINK]は、諏訪大明神の前身を波提国主と伝える。
「当社明神は、遠く異朝の雲を分け、近くは南浮の塵に交わり、其の名を建御名方明神と申す。去は和光の古を尋るに、波提国の主として、文月未の比、鹿野苑の御狩の時、襲い奉る守屋逆臣か其難を遁れ、広大慈悲御座の名を得給へり」「其の濫觴を訪れは、或は他国応生の霊と称し、又は我朝根本の神と号す。南方波斯国に御幸し、悪龍を降伏し万民を救ひ、彼の国を治め、陬波皇帝と為る。東方金色山に至り、善苗を植へ仏道を成し給う。其後吾朝に移り給いて、摂州蒼海辺に跡を垂れ、三韓西戎の逆浪を鎮め、西宮に表る(広田神社の境外摂社・南宮神社[兵庫県西宮市社家町])。又濃州高山の麓に光を和らげ、百王の南面の宝祚を守り誓給ひ、南宮(南宮大社[岐阜県不破郡垂井町宮代])と申す。終には勝地を信濃国諏方郡に卜し垂跡し給ふ」

諏訪円忠『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)[LINK]には、
「爰に信州諏方大明神は、本地を訪へば普賢大士ノ応作。恒順衆生の願余聖にこえ、懺懈滅罪の益諸凡にかうぶらしむ。垂迹に付て異説あり。或は他国応生の霊、或我朝根本の神。旧記の異端凡慮はかりがたし云へども、旧事本記(旧事本紀)の説によらば、素盞烏尊の御孫大己貴神の第二の御子建御名方の神是れ也」「下宮は大慈大悲の薩埵千手千眼の示現也。泥梨には極り元にはかり、娑婆には無畏を施す。垂迹は又南天の国母、北極の帝妃、月氏の雲を出で、日域の塵に交り給ふ」
とある。

同書(諏訪祭巻第四)の六月晦日の条[LINK]は、藤嶋社(上社本宮の境外摂社)の由来として、諏訪大明神が当地に垂迹した時の洩矢神との争いを伝える。
「抑この藤嶋の明神と申は、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤枝を取りて是を伏し給ふ。終に邪輪を降して正法を興す。明神誓を発て、藤枝をなげ給しかば、則根をさして、枝葉をさかへ花蕊あざやかにして、戦場のしるしを万代に残す。藤嶋の明神と号する此故也」

『諏訪信重解状』の「守屋山麓御垂跡事」[LINK]も、諏訪大明神と守屋大臣の争いを伝える。
「当砌は昔は守屋大臣の所領也、大神天降り御ふの刻、大臣は明神の移住を禦ぎ奉り、制上の方法を励し、明神は御敷地と為すべきの秘計を廻し、或は諍論を致し或は合戦に及ぶの処、両方雌雄を決し難し。爰に明神は藤鎰持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けて之を引く。明神即ち藤鎰を似て軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。而る間守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遥に数百歳の星霜を送り、久しく我神の称誉を天下に施し給ふ、応跡の方々是新なり。明神彼の藤鎰を似て当社の前に植えしめ給ふ。藤は技葉を栄え藤諏訪の森と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む、爾より以来当郡を似て諏方と名づく」

尊海『即位法門』によると、山王は父の素盞嗚尊から日本国を譲られたが、未だ稚かったので、叔父の天照大神に暫く日本国の知行を預けた。
山王には三人の王子がいた。 第一は十禅師、第二は知らず、第三は諏訪(原文では輙防)大明神である。 諏訪大明神は「我こそ山王の御子なれば、日本国をば知行すべし」と軍を起こし、天照大神を打てと命令した。 しかし、天照大神御方は多勢、諏訪大明神御方は無勢で敗北し、信濃国諏訪に押し籠められた。 諏訪大明神は軍を止め、信濃国を賜って諏訪郡に垂跡した。
(阿部泰郎『中世日本の王権神話』、第1部 儀礼と王権—即位灌頂と即位法—、第3章 慈童の誕生—天台即位法の成立をめぐって—、第6節 尊海『即位法門』、名古屋大学出版会、2020)

吉田兼倶『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「南方刀美 旧事記に云、大己貴命高志沼河姫を娶り一男児を生む、建御名方神、信濃国諏訪郡に坐す、諏訪上社是れなり。下社は片倉辺命、是れ手力雄命の男なり」
とある。

上社本宮には本殿がなく、幣拝殿の背後に上・中・下の三壇が設けられていた。
『諏方上社物忌令之事』[LINK]には、
「上壇には石之御座多宝塔、真言秘密閼伽棚、七千余巻之一切経、如法守護の十羅刹女、妙典を守護し給う。中壇には玉御宝殿、般若十六善神、並に出止明神(出早雄命)跡を垂れ、衆生八苦に替わり給う」「下壇にては山野之鳥鹿、江河の水魚に到る迄、業尽有生と救い給う、毎月御神事を取勤被所也」
とある。

また、『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)[LINK]には、
「社頭の躰、三所の霊壇を構たり。其上壇は尊神の御在所、鳥居格子のみあり、其の前に香花の供養を備ふ、普賢身相如霊空とも説き、普賢法事遍一切共述るが故に、法性無躰の実理を顕はし、依真面住の真土を示し給ふなるべし。中の壇には、宝殿経所計なり。法花一乗の弘通、併普賢四要の勧発なれば、本地を表するには似たり。下の壇は松壖柏城甍を並べ、拝殿廻廊軒をつらねたり。垂迹の化儀を専にして、魚肉の神膳を此所に供す」
とある。

上壇に祀られていた多宝塔は、神仏分離後は臨江山温泉寺[長野県諏訪市湯の脇]に移管されている。

諏訪大社には、上社と下社に計七ヶ寺の神宮寺が置かれていた(延宝七年[1679]の書き上げによる)。 上社に普賢神変山神宮寺(上神宮寺)、普賢秘密山如法院、七島山蓮池院、霊鷲山法華寺の四ヶ寺、下社には秋宮に海岸山神宮寺(下神宮寺)と松林山三精寺、春宮には和光山観照寺である。 このうち法華寺のみが臨済宗、他は真言宗で高野山金剛頂院末であった。 また諏訪大明神の本地仏は、上社は普賢菩薩、下社秋宮は千手観音、春宮は薬師如来とされ、各尊像が諸堂に安置されていた。
『諏訪神社上宮神宮寺縁起』によれば、上神宮寺は聖武天皇の勅願で、天平十五年[743]に橘諸兄が建立したという。 また諏訪大明神の本地仏たる普賢菩薩は伝教大師最澄の御作で、文殊菩薩とともに内陣檜皮葺御堂に安置されたという。
本地仏の普賢菩薩像と相殿の文殊菩薩像は廃寺により仏法紹隆寺[長野県諏訪市四賀]に移され現存する。
(福田晃・徳田和夫・二本松康宏編『諏訪信仰の中世—神話・伝承・歴史—』、小林崇仁「諏訪の神宮寺」、三弥井書店、2015)

秋宮の下社神宮寺については、寛保二年[1742]の「下社神宮寺起立書」[LINK]には、
「信州諏方湖北、海岸孤絶山者、諏訪法性宮、本地薩埵、千手千眼観音大士霊場也。仏殿者即法性院神宮密寺ト号ス、大坊者方丈ノ称也。宗祖弘法大師ノ開基タリ」
とある。
春宮の和光山観照寺については、「下諏訪寺社年中行事」[LINK]には、
「春宮本地長日毎朝薬師秘法修行、同じく護摩堂長日の修法観照寺之を勤め、天下泰平国土豊穣を祈り奉る也。長日毎朝の護摩は東光坊之を勤むる也」
とあり、本地堂に薬師如来が安置されていた。
(『下諏訪町誌』上巻、第4編 上代の下諏訪(伊藤富雄)、第12章 仏教の弘通と下諏訪、1985)
垂迹本地
諏方大明神上社普賢菩薩
下社千手観音

三笠山の明神

参照: 「春日大明神事」春日大明神

笹岡の釈迦堂

不詳。
兼家系の甲賀三郎譚では観音堂とし、伝本によっては大岡寺観音院[滋賀県甲賀市水口町]の名を挙げる。

白山権現

参照: 「白山権現事」白山権現

富士浅間大菩薩

参照: 「富士浅間大菩薩事」富士浅間大菩薩

熊野権現

参照: 「熊野権現事」熊野権現

日吉山王

参照: 「高座天王事」山王権現

松尾

松尾大社[京都府京都市西京区嵐山宮町]
祭神は大山咋神・中津島姫命。 通説では中津島姫命を市杵島姫命の異名とする。
式内社(山城国葛野郡 松尾神社二座〈並名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(上七社)。 旧・官幣大社。

『古事記』上巻[LINK]には、
「(大年神が)又天知迦流美豆比売に娶ひて、生みませる子、[中略]次に大山咋神、亦名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝山に坐す。亦葛野の松尾に坐す、鳴鏑になりませる神也
とある。

『秦氏本系帳』〔惟宗公方『本朝月令』に引用〕[LINK]には、
「正一位勲一等松尾大神の御社は、筑紫胸形に坐す中部大神(中都大神)なり。戌辰年(天智天皇七年[668]か)三月三日、松埼日尾〈又日埼岑と云ふ〉に天下り坐す。大宝元年[701]、川辺腹の男・秦忌寸都理、日埼岑より更に松尾に奉請し、又田口腹の女・秦忌寸知麻留女、始めて御阿礼平(御阿礼木か)を立て、知麻留女の子・秦忌寸都駕布、戌午年(養老二年[718])より祝と為り、子孫相承し、大神を祈祭す」
とある。

『諸社根元記』の松尾の条[LINK]には、
「松尾社 二座、大山咋神 市杵島姫神、本地 釈迦 十一面」
とある。

虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第九の日蔵伝[LINK]には、
「松尾の神祠に詣て持念をなし、本地垂跡をたしかに知らんと祈れしに、三七日に及びしかば、暴風雷雨よのつねならぬ気色にて、四方ことごとく冥闇になりけるところに、社壇の中に声ありて言く、「毘婆尸仏なり」と。日蔵この声を打聞より感歎恭敬斜めならずして出られたり」
とある。

稲荷

参照: 「稲荷大明神事」稲荷大明神

梅宮

梅宮大社[京都府京都市右京区梅津フケノ川町]
祭神は酒解神・大若子神・小若子神・酒解子神で、相殿に嵯峨天皇・橘嘉智子(檀林皇后)・仁明天皇・橘清友を配祀。 通説では酒解神は大山祇神、大若子神は瓊々杵尊、小若子神は彦火々出見尊、酒解子神は木花咲耶姫命の異名とする。
式内社(山城国葛野郡 梅宮坐神四座〈並名神大 月次新嘗〉)。 二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。
史料上の初見は『続日本後紀』巻第五の承和三年[836]十一月壬申[7日]条[LINK]の「無位酒解神に従五位上、無位大若子神・小若子神に並に従五位下を授け奉る。此の三前は山城国葛野郡梅宮社に坐す」。

『伊呂波字類抄』巻五の梅宮の条[LINK]には、
「仁明天皇の母、文徳天皇の祖母、橘太后の氏神也」「譜牒男巻下に云く。太后氏神円提寺に祭る〈此の神始めは、犬養大夫人三千代の祭る所の神也。大夫人の子藤原太后及び乙牟漏女王洛隅内頭に祭る。其の後相楽郡提山に遷祭す〉。此の神仁明天皇の為に祟りを成す。御卜に出づ。復官人に託宣して云く、我、今天子の外家神也、我、国家の大弊を得ず、是れ何の縁哉と云々。天皇之を畏み神社を盛立し、諸大社に准じて毎年崇壮令しめんと欲す。太后背せず曰く、神道遠くして人道近し、吾豈先帝外家を与え斉を得るか。天皇固く之を請く。太后曰く、但し恐らくは国家の為に崇を成す。仍て近く葛野川頭に移祭す、太后自ら幸拝し祭り焉んぬ。今梅宮祭是れ也」
とある。

『延喜式神名帳頭註』[LINK]には、
「梅宮 仁明帝母大皇太后橘嘉智子也。橘妙神也」
とある。

『二十二社本縁』の梅宮事[LINK]には、
「此社は井手左大臣橘諸兄の霊也。仍て今に至り橘家の長者管領するなり」
と異伝を記す。

『諸社根元記』の梅宮の条[LINK]には、
「山城国葛野郡梅宮坐神四座、第一 酒解神 本地 如意輪、第二 大若子 本地 聖観音、第三 小若子 本地 不空羂索、第四 酒解子 本地 信相菩薩」
とある。

広田

広田神社[兵庫県西宮市大社町]
本殿の祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大御神之荒御魂)。 一説に神功皇后とする。
第一脇殿の祭神は住吉大神。
第二脇殿の祭神は八幡大神。
第三脇殿の祭神は諏訪建御名方神。
第四脇殿の祭神は高皇産霊神。
式内社(摂津国武庫郡 広田神社〈名神大 月次相嘗新嘗〉)。 二十二社(下八社)。 旧・官幣大社。

『日本書紀』巻第八の仲哀天皇八年[199]九月己卯[5日]条[LINK]によると、天皇は橿日宮で熊襲征討の議を行った。 神功皇后に神が憑り「玆の国(熊襲)に愈りて宝有る国。譬へば処女の睩の如くにして、津に向へる国あり。眼炎く金・銀・彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、曾て刃に血ぬらずして、其の国必ず自づから服ひなむ」と告げた。 天皇が神託を疑うと、神はまた皇后に憑り「其れ汝王、如此言ひて、遂に信けたまはずば、汝、其の国を得たまはじ。唯し、今、皇后始めて有胎はらませり。其の子獲たまふこと有らむ」と告げた。 天皇はこれを信じようとせず、熊襲征討を強行したが、勝つことなく帰還した。 翌九年[200]二月五日に天皇は急病になり、翌日崩御された。

同書・巻第九の神功皇后摂政前年[200]三月条[LINK]によると、神功皇后は自ら神主となり「先の日(前年九月五日)に天皇に教へたまひしは誰れの神ぞ。願はくは其の名をば知らむ」と祈った。 七日七夜の後、「神風の伊勢国の百伝ふ度逢県の拆鈴五十鈴宮(皇大神宮)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」、「幡荻穂に出し吾や、尾田吾田節の淡郡(伊雑宮[三重県志摩市磯部町上之郷]などに比定)に所居る神」、「天に事代、虚に事代、玉籖入彦厳之事代神」、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、名は表筒男・中筒男・底筒男神」と神名を示された。
三韓(新羅・高麗・百済)を征伐した後[LINK]、皇后は新羅から帰還し、十二月十四日に筑紫で誉田天皇(応神天皇)を生んだ。 神功皇后摂政元年[201]二月条[LINK]によると、皇后は穴門豊浦宮で仲哀天皇の殯を行い、海路で都に向った。 これを知った麛坂王・忍熊王は謀反を起こした。 皇后の船は難波に向かう途中で進めなくなった。 務古水門(武庫の港)に還って占うと、天照大神は「我が荒魂をば、皇居に近づくべからず。当に御心を広田国に居らしむべし」、稚日女尊は「吾は活田長峡国(生田神社[兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目])に居らむと欲す」、事代主尊は「吾をば御心の長田国(長田神社[兵庫県神戸市長田区長田町3丁目])に祀れ」、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神は「吾が和魂をば大津の渟中倉の長峡(住吉大社[大阪府大阪市住吉区住吉2丁目])に居さしむべし。便ち因りて往来ふ船を看さむ」と託宣した。 皇后は神の教えのままに神々を鎮祭し、平穏に海を渡ることが出来た。

『諏方大明神画詞』(縁起上)[LINK]には、
「皇后御帰朝の後、摂州広田の社に鎮坐の時、五社を建立せらる、所謂本社〈皇后〉、八幡大菩薩〈応神〉、諏方・住吉二神及八祖〈皇后護持等〉宮是也。就中毎年正月九日、村民門戸を閉ち出入をやめて諏方社の御狩と号して山林に望みて狩猟を致す、猪鹿一を得ぬれは則殺生をやめ西宮の南宮(南宮神社[兵庫県西宮市社家町])〈本地普賢菩薩十羅刹等安置す〉にたむけ奉る」
とある。

『諸社根元記』の広田の条[LINK]には、
「摂津国武庫郡広田社一座、広田者大神宮御同体也、式文ノ如ハ一座也、今現在五社也、後人之勧請乎、一殿 住吉明神 本地聖観音、二殿 広田 本地阿弥陀、三殿 八幡 本地高貴徳王、四殿 南宮松尾 本地阿弥陀、五殿 八祖神 本地薬師」
とある。

兵主大明神

兵主大社[滋賀県野洲市五条]
祭神は八千矛神。 一説に天照大神あるいは素戔嗚尊とする。
式内社(近江国野洲郡 兵主神社〈名神大〉)。 旧・県社。
史料上の初見は『日本三代実録』巻第六の貞観四年[862]正月二十日己丑条[LINK]の「近江国従五位上勲八等兵主神に正五位下を授く」。

『兵主大明神縁起』[LINK]によると、養老二年[718]十月上旬の初三ヶ夜、金色の異光が白日の様に兵主十八郷を照らした。 五条播磨守資頼がこれを神の影向と考えて、八崎浦(野洲市吉川の八ヶ崎)に参向すると、微睡の夢の中で「我は兜率天の主不動明王也。衆生を済度せんが為に一百二十年前に矜迦羅使者を薬師如来と現し、制多迦童子を愛染明王と変化してあま下ります。則二大明神これなり。われ今降臨して兵主大明神とあらはれんために、二童子をかねてくだす所也。汝が館にゆかん。おしえにまかせば霊験を見せしめむ。北斗を右眼の上に見てむかへ」と神示が有った。 お告げに従って行くと、大亀の甲に白蛇が乗っており、鹿の群れが守護していた。 資頼は神霊の白蛇を扇の上に乗せ、五条の西平に出現した森の中の、奇異なる柏樹の枝に移し、仮殿を造って兵主太神宮と崇め奉った。

明治神社誌料編纂所『府県郷社 明治神社誌料』中巻[LINK]には、
「祭神 大己貴命 一説天照大神を祀る(秘説)といひ、又素戔嗚尊を祀る〈神名帳考証〉ともいふ、社伝によれば欽明天皇の御宇[540-571]大己貴命大亀に乗り湖上に出て八ツ崎に上陸し給ひ、鹿に乗りて現社地に至り鎮り給ふと云へり」
とある。

宮地直一『諏訪神社の研究 後篇』[LINK]には「兵主神は、その由来を漢土に求むべきで、我が古典に於ける諸神とは出自を異にする。然るに之を我国の神祇に当てゝ建神(建御名方神)とする説も、一部の間を支配したと見え、春日の末社に於ける兵主社につき「建御名方命也、信濃国諏訪明神也」といふ註が寛文三年[1663]作の春日神社記に載せられ、此後之に據るものが尠くない」とある。
貴志正造は現代語訳『神道集』(平凡社・東洋文庫)の「諏訪縁起の事」の注で「近江の国の鎮守神で、甲賀の氏神という記事は、春日・甲賀・諏訪を結ぶ信仰圏を暗示する」と述べた。

大原

参照: 「鹿嶋大明神事」大原大明神

平野

参照: 「神道由来之事」平野大明神

浅間大明神

浅間山は信濃・上野の国境に聳える活火山で、浅間明神は両国に祀られている。

信濃国には浅間明神を遥拝する里宮として遠近神社[長野県北佐久郡軽井沢町長倉]・追分浅間神社[北佐久郡軽井沢町追分]・塩野浅間神社[北佐久郡御代田町塩野]が鎮座し、現在は磐長姫命を主祭神としている。
江戸時代を通じて浅間大明神は木花開耶姫命であり、地蔵・虚空蔵両菩薩が浅間山本地として崇められていたが、明治以降は一斉に磐長姫命(石長比売命)に変更された。 これは平田篤胤『古史伝』(後述)の影響と考えられる。
(岡村知彦『浅間山信仰の歴史 —火の山の鬼と仏と女神たち—』、第7章 平田門の招いた女神、信濃毎日新聞社、2013)

浅間山の信濃国側には真言宗の浅間山別当真楽寺[長野県北佐久郡御代田町塩野]がある。
『北佐久郡誌』の小沼村の社寺の条[LINK]には、
「浅間山真楽寺 大字塩野字大沼に在り京都智積院の末派たり。創建年月不詳、(用明帝御宇[585-587]の創建なりと云へ伝ふ)往古より浅間山別当にして本寺なかりしも、延宝四年[1676]辰年宇治報恩院の末寺となり、僧俊静を中興開基となす。後明治二十七年[1894]十月智積院の末寺たり。普賢菩薩を本尊とす。[中略]仁王門の右側に大沼池あり。一大湧泉あり。伝へ云ふ『諏訪明神出現の池なり』と」
とある。
この真楽寺境内には水分神社(諏訪社)が鎮座する。 同条[LINK]には、
「水分神社 無格社にして大字塩野字大沼真楽寺境内に在り、祭神健御名方命、寛永六年[1629]十二月創建祭日五月八日[中略]元諏訪社と称せしも明治三十四年[1901]今の社号に改む」
とある。

小諸尋常高等小学校編『浅間山』所収の山田弁道「大浅間神社の遺跡を捜索る議」[LINK]には、
「(浅間山別当の)境内の涌出水の辺に諏訪神を祭りて、諏訪神始め此涌出水より現坐なと云ひて、其後庭中に移転して、こゝに初めて相殿に浅間神社とて開耶姫命を祝ひて、四月八日に祭れり」
「諏訪明神本地由来記と題号したるものに、教照天皇の御宇に、近江国甲賀権頭ちふ者の第三子甲賀三郎頼方ちふ者由有りて、遊井万国てふに到り、其処なる長者の娘遊井万姫に娶しか、後に本国に帰らん意発して、已に出立けるが、終に浅間岳の麓なる大沼の池に出たりとなん、是諏訪明神なりと見え、彼遊井万姫夫の頼方を慕ひ来りて、共に等しき彼境内の涌出水の大沼に出て、浅間明神に祝はれたりとしるせり」 「又真楽寺の記に、奉崇大明神は木花開耶姫命本地正観音にて、人皇第五孝照天皇の御宇、武美名方命本地普賢にて、同じく浅間山の陽に出現鎮座すと見えたり」
とある。

平田篤胤『古史伝』三十一之巻[LINK]には、
「さて又神名式には載れねど、信濃国浅間山に磐長姫命の鎮坐由、世に知人も多く、且其辺なる古老の伝にも、上代に、近江の湖と、諏訪の湖と一夜に出来て、浅間山と富士山とを涌出し、甚く荒たりしかば、時の天子驚せ給ひ、八百万神を集て問給に、伊勢国浅久間(朝熊)の地に坐す、大山祇神告くは、我に二女あり、姉を磐長姫、弟を木花開耶姫と云ふ、此の女等を住せる為に、我が力にて、二の山を造り、姉をば信濃の山に、妹をば駿河の山に居らしめむ」
とある。
一方、総社本『上野国神名帳』[LINK]には鎮守十社の第十位に「従一位 浅間大明神」とある。

また、同書[LINK]には吾妻郡に「従三位 浅間明神」とある。
『群馬県吾妻郡誌』[LINK]には、
「従三位浅間明神は長野原町大字古森諏訪神社説、嬬恋村大字大前浅間神社説、坂上村大字萩生浅間神社説とあり、その何れが真なるやは未だ定説なし」
とある。

浅間山の上野国側には天台宗の浅間山別当延命寺[群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原]があったが、天明三年[1783]の大噴火で鬼神堂や浅間社と共に流失した。
同寺に伝わった『上州浅間嶽虚空蔵菩薩略縁起』[LINK]は「浅間大明神と崇奉る御本地虚空蔵大菩薩并鬼神堂地蔵菩薩の縁起」を以下のように説く。 清和天皇の第三皇子・貞元親王の四代の後胤である鎌原幸重は殺生を好み、山野で猪・鹿・熊を狩っていた。 長暦三年[1039]卯月八日に初めて浅間嶽に登攀すると、北側の窟の奥から鬼が現れて「昔神武御宇に鬼界嶋押渡、日本を覆んと擬する処に、此山の主虚空蔵菩薩に深く封し籠られ、此峯を叵出いでがたく、命を助け給らば善鬼と成て御山を守護せん」と悲歎の涙を流した。 助けた善鬼を先達として噴火口の近くに至ると、地獄の峯と剣の峯の間から黒煙が噴出し、石を飛ばし火を降らせていた。 幸重が思わず弥陀の宝号を唱えると煙は忽ち消失した。 そこに二人の僧が現れて「(四月)八日を縁日と定め貴賤の輩を運ばせ、罪果を消滅させよ」と教えた。 二人の僧は虚空蔵菩薩と地蔵菩薩であった。 幸重は麓に下って延命寺を造立し、虚空蔵菩薩を安置した。 また、山の中宮に鬼神を連れて御堂を建立させ、延命寺菩薩を安置して鬼神堂と号した。 また、信濃国上諏訪を勧請した旧地が有り、諏訪社を建て浅間大明神と崇奉った。 この(諏訪社には鹿食免が有る)故に氏子は四足・二足を食しても直に浅間に参詣する。

示現太郎大明神

参照: 「宇都宮大明神事」宇都宮大明神(男体)

赤山大明神

参照: 「赤山大明神事」赤山大明神

日光権現

参照: 「日光権現事」日光権現(女体)

田中明神

六社神社[福井県三方上中郡若狭町日笠]
祭神は天児屋根命・応神天皇・伊弉冊尊・玉依比売命・大山咋命。
旧・無格社。
『若狭国神名帳』[LINK]には遠敷郡に「正五位田中氏明神」とある。

伴信友『若狭国神名帳私考』[LINK]には、
「正五位田中氏明神 日笠村の老人の云く、己が里内に田中氏の民数家あり、其宗家を別て上田中と呼へり、遠祖の事は詳ならねど、いと古くより家門を続来れり、さて其上田中が世々伝へもてる山の麓に、むかし遠祖を祭りて建たりと云伝へたる神祠ありて、田中明神といへるを、今は六所大明神と申す」
「さて安居院が神道集と云ふ書に、甲賀権守諏胤が子に、甲賀太郎諏致、甲賀二郎諏任、甲賀三郎諏方とて、三人の兄弟あり。[中略]二人の兄は信主明神の計によりて、三郎と中睦まじくなりて、衆生擁護の神となる。中にも二郎は先非を悔て、若狭国にて田中明神となる趣を記せり。そもそも此神道集は、すべては論ふにも足らぬ謾説ながら、甲賀次郎が田中神となれりとしも云へるは、元来甲賀某と云ひし人の由縁ありし古伝説を、下心ありてかく作りなしたるものときこえたり」
とある。

『若狭遠敷郡誌』[LINK]には、
「広嶺神社 指定村社にして同村(三宅村)日笠字大谷口にあり。俗に山王と称し又祇園天王社、牛頭天王社等と称し来り」 「明治四十一年[1908]に合併せられたるもの二社あり。五王神社は祭神不詳にして字西山にあり。六社神社は元六所大明神社とも称し、祭神は天児屋根命、応神天皇、伊弉冊尊、玉依比売命、大山咋命にして字山田森下にあり」
とある。

早那起梨の天子

不詳。
四部合戦状本『平家物語』巻五には、
「賀茂の保憲が早那起梨の天子に合い奉り、大仲臣経を習ひし劫夜殿は、州津王の為に滅ぼされ」
とある。
(高橋貞一「四部合戦状本と平家打聞」[LINK]、人文学論集、4号、pp.25-82、1970)

神道の法

早那起梨の天子が授けた「神道の法」とは「中臣祓」で、その祓詞は、正しくは以下の通りである。
「高天原に神留り坐す皇親神漏岐神漏美の命以て」
「国中に荒振神等を神問しに問し賜ひ神掃ひに神掃ひ賜ひて」
「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く」
「彼方の繁木が本を焼鎌の敏鎌以ちて打掃ふ事の如く」
「大津辺に居る大船の舳解き放ち艫解き放ちて大海原に押し放つ事の如く」

「中臣祓」の起源について、中世には神話的起源とは別に外来説が説かれるようになった。
例えば、承澄『阿娑縛抄』巻八十六(六字河臨法)[LINK]は、承澄が母から聞いたとして以下の逸話を記す。 吉備大臣(吉備真備)が在唐中、夜中鬼に出会った。 (同行者が)祓辞を唱えると「焼鉤利鉤以打放コトノゴトク(焼鎌の敏鎌以ちて打掃ふ事の如く)」の箇所で多数の焼けた鎌が飛び出し、鬼は斬られて逃げた。 吉備大臣は聞いた語を最初からその箇所まで書き付け、翌朝に唐人から全文を授けられた。
また、『大中臣祓同註』によると、「中臣祓」は須弥山の中腹において四王天・梵天・帝釈天・天衆・四大天・炎羅天・五道大臣・泰山府君などの神々が作り出したものである。 鳩摩羅什三蔵が天竺から唐土に伝え、慈覚大師が天平神護三年[767]に三衣の箱に入れて日本に伝えた。 その頃、近江国に栗の巨樹があり、美濃・近江・大和の三国を影が覆った。 三国の人がこの木を切っても、切り口が元通りになってしまう。 ある夜、鬼神が切り口を呪力で直しながら「比叡山の慈覚大師が唐より伝えた中臣祓を使えば切られてしまうのに」と話すのを陰陽師が聞き、大師に請いて大中臣祓を行うと、切り口は元に戻らなかった。 それ以後、大中臣祓を以て日本一の祈祷とする。
(伊藤聡『神道の形成と中世神話』、第2部 中世の本地垂迹思想、第3章 中世における祝詞と和歌の習合、吉川弘文館、2016)

甲賀三郎夫妻が平城国で「中臣祓」を伝授されるのも、外来説の一種と考えられる。

長楽寺

筑土鈴寛は「この長楽寺は、始め天台で法然上人の高弟隆寛のいた寺で後時宗になった山城のそれ(黄台山長楽寺[京都府京都市東山区八坂鳥居前東入円山町])かと思われるし(或は十三天狗の首領である岩間山別当長楽寺[茨城県石岡市龍明]という山伏の寺か」と述べている。
(筑土鈴寛『中世藝文の研究』、「諏訪本地・甲賀三郎」[LINK]、有精堂出版、1966)

これに対し、福田晃は「『神道集』巻十の「諏訪縁起事」は、東国方面の素材によっているとすれば、これは上州世良田の天台寺院の長楽寺[群馬県太田市世良田]をあてるのが妥当だろう」と比定した。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—、注(38)[LINK]、三弥井書店、1984)

毛呂権蔵『上野国志』[LINK]には、
「長楽寺 世良田郷に在り、世良田山真言院と号す、昔は臨済宗にて、台密を兼ぬ、今は天台宗にて権大僧正なり、御朱印三百石、開山栄朝禅師」 「此寺承久三年[1221]辛巳九月廿八日落成す、開基大檀越徳川四郎源義季、法名栄勇大禅定門、これ新田家の御氏寺なり」
とある。
同書[LINK]によると、大洞赤城神社の別当寿延寺[群馬県前橋市六供町]は長楽寺の末寺であり、同社の開山堂には月船琛海(長楽寺第五世住職、諱は法照禅師)の高弟・了儒(赤城門徒の祖)が祀られていた。

長楽寺の長老とされる寛提僧正については不詳。
「御神楽事」では、良観上人(越後国の出湯の長老)の逸話とする。

四句の偈

『諏方大明神画詞』(諏訪祭巻第一)の蛙狩神事の条[LINK]には、
「蝦蟇五つ六つ出現す、毎年不闕の奇特なり、[中略]神使小弓小矢をもて是を射取て、各串にさして捧もちて生贄の初とす、凡そ当社生贄の事浅智の疑殺生の罪去り堅きに似たりと云とも、業深有情、雖放不生、故宿人身、同証仏果の神勅をうけ給れは、実に慈悲深重の余りより出で、暫属結縁の方便をまうけ給へる事、神道の本懐和光の深意弥信心をもよをす物也」
とある。

諏訪大社では鹿食を許可する鹿食免を発行し、その中に「諏訪の勘文」(四句の偈)を記していた。
『新編会津風土記』巻之三[LINK]には、天正十八年[1590]に諏訪下社の大祝金刺氏が発行した鹿食免の写し「諏方法性大明神鹿食御許之事 奈尽有情 雖放不生 故宿人身 同証払[仏]果」が記載されている。

【参考】甲賀三郎兼家

諏訪縁起(甲賀三郎譚)は、主人公の名を兼家とする伝本と諏方とする伝本に大別される。 後者は『神道集』と同類の内容だが、前者(石川タモ氏蔵『諏訪御由来絵縁起』など)は以下の様にかなり内容に異同が有る。
天竺波羅奈国の内大臣が讒言によって国を追われ、舟で本朝の博多に着き、近江の甲賀郡を知行して甲賀権守兼貞と号した。 権守には、甲賀太郎兼正・次郎兼光・三郎兼家の三人の息子がいた。
権守の没後、兄弟は海と山の何れに恐ろしい魔王がいるかを論じ、日本国の山々を巡る事になった。 信濃の黒姫明神の教えに従って若狭の高懸山を訪れると、魔王が出現して太郎・次郎はその犠牲となった。 三郎は魔王の腕を射落し、兄たちを蘇生させた。 魔王の足跡を追って岩屋に入ると、魔王は八面十六眼の本体を現じ、麒麟王と名告って襲いかかった。 三郎は剣の法を結んで麒麟王に投げかけ、その首を寸切りにした。 岩屋の中には深穴があり、三郎は「すかり」(網の袋)に乗って地底へ降った。 そこには美しい姫君が囚われており、一条大納言の嫡女と名乗った。 三郎は姫君を救って地上に戻ったが、姫君が忘れた唐鏡を探しに再び地底に降った。 太郎は姫君を奪おうと考え、次郎と共に「すかり」の縄を切った。
三郎は地底の人穴から更に降り、根の国に到着した。 そこで鹿を追っている翁と出会い、翁の代わりに大鹿を射殺した。 翁は三郎に熊野権現の道をたどって日本に帰るよう教えた。 また、日本にいる姪(姫君)に届けよと、「恋しくはとひても来ませ大和なる 三輪の山もとに杉立てる門」の歌を渡した。 三郎は六月一日に信濃の浅間の麓なぎの松原に出現し、十六日の夜半に甲賀の館に帰着した。 夜が明けると人々が三郎を見て、人蛇よと責め立てるので、三郎は観音堂(嫡子の小太郎が三郎の三十三回忌に建立)の縁下に入った。 その夜、観音堂で新発意(地蔵の化身)と老僧(観音の化身)が問答し、人間に復するには根の国の着物を脱ぐべきことに及んだ。 これを聞いた三郎は根の国の着物を脱いで人間に復し、妻子と再会して今までの出来事を物語った。 三郎は太郎・次郎の館に押し寄せ、二人の兄は差し違えて果てた。
岩屋の地底から救い出した姫君(実は三輪の姫宮大明神)が現れ、三郎から唐鏡を受け取って、「大和の杉立てる門を訪ねよ」と告げて去った。 三郎は妻子と別れて三輪の姫宮を訪ねた。 二人は一旦天竺に赴いた後に日本に戻り、上の御射山・下の御射山に神として現じた。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第1章 諏訪縁起・甲賀三郎譚の源流—その話型をめぐって—、第3節 『諏訪の本地』『諏訪縁起物語』の話型[LINK]
滋賀県甲賀市甲南町一帯は、戦国の頃には望月氏一統の領するところであった。 この望月氏の氏神は塩野の諏訪社で、諏訪の祭に参列していた家々は甲賀三郎の裔を称し、望月姓を名告っていた。

甲南町柑子に伝わる望月惣左衛門家所蔵系図(滋野三家望月正統系図)には、望月家の祖である重俊には、
「望月三郎信濃佐久郡望月郷城主。三男。法名城向院殿。東噋庵主諡 前大将軍行大納言正三位兼信濃守始テ賜滋野朝臣姓。善淵王。近江国甲賀郡、戦功在、六万石余領之。重俊甲賀江分地す。一称甲賀三郎源重俊。後改望月甲賀三郎源兼家云。次男重為に杣庄にて拾六ヶ村を分地す」
と記し、その子の兼重には、
「望月治郎 近江国甲賀郡塩野村に居城す。父兼家此所ニ奉勧請諏訪大明神池ヶ原杣を、則兼利重為造営之。甲賀望月惣社。杣之庄拾六ヶ村領之」
と記す。

望月惣左衛門家所蔵系図は、信州側の滋野氏系図(信州滋野氏三家系図)に、甲賀側の伝承(甲賀三郎の物語)を挿入して成立したものである。 滋野氏系図によれば、将門の乱の軍功によって、始めて善淵王に滋野姓が与えられ、滋野氏の紋七九曜もこの人に始まるという。 そして望月氏の祖として、望月姓を始めて名告ったのは、望月三郎広重と伝えている。 望月惣左衛門家所蔵系図では、善淵王を系譜上に記さず、ただ望月の祖重俊の別名と注記とした。 望月氏の系図と甲賀三郎の物語が邂逅し、「一称甲賀三郎源重俊。後改望月甲賀三郎源兼家」と、望月の始祖と甲賀三郎が結合した。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—、第1節 甲賀望月氏系図の成立[LINK]

甲南町寺庄の望月清兵衛家に伝わる系図では、重俊で一旦筆を断ち、空欄をおいて重良には、
「望月信濃守滋野源重良 清和天皇廿九代孫、人王九十七代(「後」脱カ)村上天皇御宇、近江国甲賀内杣之庄にて拾六ヶ村領す。勧請諏訪大明神塩野村平尾に」
と記し、その子の重則(良仙)には、
「信濃大夫重運入道良仙 応永三拾[1423]癸卯歳、祀神祖父信濃守重良ヲ。諏訪大明神左社是也」
と記す。
重良は杣庄十六箇村を領し塩野に諏訪社を勧請し、良仙によって諏訪社の左に(御子神として)祀られた、甲賀望月氏の人々から始祖的存在として仰がれてきた人物といえる。 望月惣左衛門家所蔵系図では、塩野に諏訪社を勧請したのは甲賀三郎兼家、杣庄十六箇村を領したのは兼家の次男兼重であった。 甲賀望月氏の始祖重良の伝承上の事蹟が、彼等の祀る諏訪明神甲賀三郎の事蹟に投影されたのである。

『甲賀由緒概史略』には、
「甲賀三郎之事 伊勢山田之地主大己貴命第弐の御子建御名方命苗裔、是諏訪望月之祖也。信濃ノ国之住人諏訪源左衛門尉重頼子三人有。嫡男望月信濃守重宗、次男諏訪美濃守貞頼、三男望月隠岐守三郎兼家。此三男三郎兼家と申者、智仁有て勇猛豪傑也。常に観世音を信仰し、日夜山野を馳廻り、狩人は至極名人なり」 「天慶二年[939]朱雀院ノ御時、下総国相馬郡平将門謀反、[中略]兼家先陣して下総国相馬の逆内裏ゑ押寄せ、将門を討て、猿嶋平定して、貞盛秀郷は究竟親の仇成就也。兼家其軍功に依て、当甲賀郡六万石を賜ふれ、近江守転任す」
「望月信濃守重則後沙弥良仙と号す。応永三十一年[1424]甲辰十一月二日、同郡小杣路村の内平尾の地に、諏訪大明神を建立し、禁中御番相勤。当今塩野村之事、翌年水口岡山ニ願仏の観世音を勧請す。竜王山大岡寺と称す。甲賀古士の守神は、塩野村諏訪大明神也。祭礼は七月二十七日、本地仏者水口大岡寺観音也」
とある。

『甲賀郡志』の「塩野」の項[LINK]には、
「室町時代六角氏の麾下望月重則杣荘内数村を領し、城を茲地に築き応永年間一社を建て諏訪明神を勧請す。是其祖信濃国諏訪の産なるを以てなりと云ふ」
とある。 また同書「諏訪神社」の項[LINK]には、
「信州望月に住する望月隠岐守三郞兼家、醍醐天皇の御宇京都に上り当郡を領し、延喜年間京都諏訪町に奉祀する諏訪社の分霊を勧請す。これ当社の創始なり云ふ。再興は応永三十一年十一月二日望月信濃入道沙弥良仙にして是則ち当所に居住する古士望月弥作は末裔なり」
ともある。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—、第3節 塩野諏訪社勧請の諸伝承[LINK]
甲賀三郎は伊賀国の敢国神社[三重県伊賀市一之宮](または本社東の摂社・六所社)にも祀られていた。

菊岡如幻『伊水温故』[LINK]には敢国神社の祭神・神体を
「少彦名命の神体 仙人の影像也。金山比咩の神体 蛇形蟠容儀。相殿甲賀三郎霊儀 十一面観音座像」
とする。
また、甲賀三郎兼家について
「六十一代醍醐天皇御宇[897-930]に信濃国望月の明府を諏訪源左衛門源重頼勇兵にして朝廷に任える。息三人有、嫡男太郎を後に望月信濃守重宗と号す、次郎を望月美濃守貞頼、三男三郎を望月隠岐守兼家、各源姓にして秀逸の名誉有。其遠祖をいへは大己貴第二健御名方命〈諏訪明神〉の苗裔也。時に若狭国高懸山に鬼輪王と云外道有、彼を追討の宣旨を蒙り、兄弟三士若狭国に発向し、兼家進て鬼輪王を殺す。舎兄等兼家を妬み龍穴に突落す。兄両輩己が高名に陳じて是を奏し、帰領地安堵す。兼家は幽穴に墜て一旦絶息すといえども蘇生し、追日帰本所。舎兄二人世の人口を恥て忽然と自亡すれば、諸跡悉兼家に附属す。承平二年[932]相馬将門逆謀の節、朱雀院の勅命に依り東関に下向し、他に勝たる軍功有り、江州半国の守護と成て甲賀郡に居住す」
と伝える。

『三国地誌』巻之六十(伊賀国 阿拝郡)の敢国神社の条[LINK]には、
「六所権現〈本社の東 瑞垣の内〉 是、故郡司甲賀三郎兼家が霊を祀るとも云、観音大士の像を安ず。又、二尊、日月の神、蛭児、素尊を祭とも云」
とある。

『敢国拾遺』には、
「今殿内本社の御神体の外に御鏡一面神体筥に納む、いかなる御神体といふ事社家に伝説なし、土俗の伝来に本社は諏訪とともに三座なりと云なれは、恐らく是兼家のうつしいはへる諏訪の御神体なるへし、昔は神膳に体薦せし事を云伝へ、且今宍を食ふものは百日神拝をはゝかる、故に此社人に諏訪のゆるし(鹿食免)をうくる事あり、敢国南宮に其いはれある事を聞かす、諏訪のゆるしと口碑に残れるはかゝる由縁なるへし、兼家の霊もいはふとて、ありし世に信する観音像を神体とせしなといふ、今六所権現の社中に十一面観音をおさめん、是なん其霊のしるしなるか」
とある。
(福田晃『神道集説話の成立』、第2編 諏訪縁起の成立、第2章 甲賀三郎譚の管理者(1)—甲賀三郎の後胤—、第6節 伊賀の甲賀三郎譚[LINK]