『神道集』の神々

第五十 諏訪縁起事

人皇第三代安寧天皇から五代の孫に、近江国甲賀郡の地頭・甲賀権守諏胤という人がいた。 奥方は大和国添上郡の地頭・春日権守の長女で、甲賀太郎諏致・次郎諏任・三郎諏方という三人の息子がいた。
父諏胤は三代の帝に仕え、東三十三ヶ国の惣追捕使に任ぜられた。 七十余歳になった諏胤は病床に三人の息子を呼んだ。 そして、三郎を惣領として東海道十五ヶ国、太郎に東山道八ヶ国、次郎に北陸道七ヶ国の惣追捕使の職を与えた。 諏胤は七十八歳で亡くなり、三十五日の塔婆供養の三日後に奥方も亡くなった。
父の三回忌の後、甲賀三郎は上京して帝に見参し、大和国の国司に任じられた。 甲賀三郎は春日郡の三笠山の明神に参詣し、春日権守の歓待を受けた。 そして、春日権守の十七歳になる孫娘の春日姫と巡り会った。 その夜、甲賀三郎は春日姫と夫婦の契りを交わし、近江国甲賀の館に連れ帰った。

ある年の三月、甲賀三郎は一千余騎を伴い伊吹山で巻狩を行った。 甲賀太郎は五百余騎、甲賀次郎も三百余騎を伴って加わった。 三郎は春日姫を麓の野辺の館に住まわせ、狩の様子を観覧させた。 八日目に上の山に二頭の大きな鹿が現れたと報告があり、三郎は上の大嶽に登って行った。
麓の館で春日姫が女たちに今様を歌わせていると、美しい双紙が三帖天下って来た。 春日姫がその双紙を見ていると、双紙は稚児に姿を変え、春日姫を捕らえて逃げ去った。 甲賀三郎は天狗の仕業だろうと考え、二人の兄と共に日本国中の山々を尽く探し回ったが、春日姫を見つける事は出来なかった。
そこで、三郎の乳母の子である宮内判官の助言で、信濃国笹岡郡の蓼科山を探してみる事にした。 そこには大きな人穴があり、春日姫が最後に着ていた着物の片袖と髪の毛が見つかった。
甲賀三郎は簍籠に八本の縄をつけ、それに乗って人穴に入っていった。 簍籠を降りて東の人穴を進むと、小さな御殿の中から春日姫が千手経を読む声が聞こえた。 甲賀三郎は春日姫を連れ出すと簍籠に乗り、家来たちに縄を引き上げさせた。 ところが、春日姫は祖父から貰った唐鏡を置き忘れてしまったので、甲賀三郎は引き返して再び人穴に入った。
甲賀次郎は弟を妬んでいたので、縄を切り落として三郎を人穴の底に取り残した。 そして、春日姫を甲賀の舘に連れ込み、宮内判官経方をはじめ三郎の一族二十余人を殺戮した。 残った家臣たちは次郎に臣従を誓った。 甲賀太郎は次郎が父の遺言に背いた事を知り、下野国宇都宮に下って神と顕れた。
甲賀次郎は春日姫を妻と定め、政事を行った。 しかし、姫は次郎に従おうとしなかった。 怒った甲賀次郎は家来に命じ、近江の湖の北岸、戸蔵山の麓で春日姫を切らせることにした。 そこに宮内判官の妹婿である山辺左兵衛督成賢が通りかかり、春日姫を救い出して春日権守の邸まで送り届けた。 その後、春日姫は三笠山の奥にある神出の岩屋に閉じ籠ってしまった。

その頃、甲賀三郎は唐鏡を取り戻して簍籠の所に引き返したが、縄は切り落とされており、殺された一族の死骸が転がっていた。 三郎は地下の人穴を通って好賞国・草微国・草底国・雪降国・草留国・自在国・蛇飽国・道樹国・好樹国・陶倍国・半樹国など七十二の国を巡り、最後に維縵国に辿り着いた。
三郎は維縵国の王である好美翁に歓待された。 好美翁には、八百歳・五百歳・三百歳になる三人の姫君がいた。 三郎は末娘の維摩姫を妻とし、この国の風習に従って毎日鹿狩りをして過ごした。
十三年と六ヶ月の年月が流れたある日、三郎は夢に春日姫を思い出して涙を流した。 維摩姫は「あなたを日本にお送りしましょう。私もあなたの後を追って忍び妻となり、衆生擁護の神と成りましょう」と云った。
三郎は好美翁から鹿の生肝で作った千枚の餅をもらい、それを一日一枚づつ食べながら日本に向った。 契河・契原・亡帰原・契陽山・荒原庭・真藤山・杉原・真馴の池・暗闇の地・おぼろ月夜の原を経て、千枚の餅を食べ終えて信濃国の浅間山に出た。
三郎は甲賀郡に戻り、父の為に造った笹岡の釈迦堂の中で念誦していると、子供たちが「大蛇がいる」と云って逃げた。 三郎は我が身が蛇になった事を知り、仏壇の下に身を隠した。
日が暮れた頃、十数人の僧たちが法華経を読誦し、甲賀三郎の物語を語った。 それによると、甲賀三郎が蛇身なのは維縵国の衣装を着ているためで、石菖を植えている池の水に入り四方に向いて呪文を唱えれば脱ぐ事ができるという。 三郎はその話に従って蛇身を脱して人身に戻った。 僧たちは白山権現、富士浅間大菩薩、熊野権現などの神々であった。
三郎は近江国の鎮守である兵主大明神に導かれて三笠山に行き、春日姫と再会した。 二人は天早船で震旦国の南の平城国へ渡り、早那起梨の天子から神道の法を授かって神通力を会得した。 その後、兵主大明神の「日本に戻って衆生守護の神に成って下さい」という求めに応じ、天早車に乗って信濃国の蓼科山に到着した。

甲賀三郎は信濃国岡屋の里に諏訪大明神の上宮として顕れた。 本地は普賢菩薩である。
春日姫は下宮として顕れた。 本地は千手観音である。
維摩姫もこの国に渡って来て、浅間大明神として顕れた。
甲賀三郎と兄たちは兵主大明神が仲裁した。
甲賀次郎は北陸道の守護神と成り、若狭国の田中明神として顕れた。
甲賀太郎は下野国宇都宮の示現太郎大明神として顕れた。
父甲賀権守は赤山大明神として顕れた。
母は日光権現として顕れた。
本地は阿弥陀如来・薬師如来・普賢菩薩・千手観音・地蔵菩薩等である。

上野国の一宮は狗留吠国の人である。 《以下、上野国一宮事とほぼ同内容なので略す》

諏訪大明神は維縵国で狩の習慣があったので、狩庭を大切にされる。 四条天皇の御代、嘉禎三年[丁酉]五月、長楽寺の長老・寛提僧正は供物について不審に思い、大明神に祈念して「権実の垂迹は仏菩薩の化身として衆生を済度されるのに、何故多くの獣を殺すのでしょうか」と申し上げた。 僧正の夢の中で、供物の鹿鳥魚などが金色の仏と成って雲の上に昇って行き、大明神が
 野辺に住む獣我に縁無くば憂かりし闇になほ迷はしむ
と詠まれ、
 業尽有情、雖放不生、故宿人天、同証仏果
と四句の偈を説いた。 寛提僧正は随喜の涙を流して下向された。

諏訪大明神

上宮は諏訪大社の上社本宮(長野県諏訪市中洲宮山)。
祭神は建御名方神。
下宮は諏訪大社の下社で、秋宮(諏訪郡下諏訪町武居)・春宮(同町大門)の二宮から成る。
祭神は八坂刀売神・建御名方神で、事代主神を配祀。
式内社(信濃国諏方郡 南方刀美神社二座並名神大)。 信濃国一宮。 旧・官幣大社。
史料上の初見は『日本書紀』(持統天皇五年[691]八月辛酉)の「使者を遣はして、龍田風神・信濃須波・水内等の神を祭る」。
なお、現在の諏訪大社は上社前宮(茅野市宮川)を加えた二社四宮から成るが、上社前宮は明治二十九年[1896]までは上社本宮の境外摂社(上十三所の前宮大明神)であった。

『古事記』[LINK]によると、天照大神は建御雷神と天鳥船神を葦原中国に遣わした。 二神は大国主神に天孫に国を譲るよう申し入れた。 事代主神が先ず国譲りに応じ、青柴垣に身を隠した。 建御名方神は国譲りを拒んで建御雷神に力競べを挑み、破れて科野国之洲羽海(信濃国の諏訪湖)に逃れた。 建御名方神は「此の処をおきては、あだし処に行かじ」と誓い、「この葦原の中つ国は、天つ神の御子の命のまにまに奉らむ」と国譲りに応じた。

『諏方上社物忌令之事』[LINK]によると、波提国主は七月に鹿野苑の御狩において守屋逆臣を制し、その難を逃れて広大慈悲の名を得た。 南方波斯国に御幸して悪龍を降伏し、万民を救い治めて陬波皇帝と呼ばれた。 東方金色山で仏道を成した後に日本に移り、海上に顕現して神功皇后の三韓征伐を守護。 その後は西宮や豊前高山の麓に顕れ、最後は信濃国諏方郡に垂跡した。

『諏訪信重解状』の「守屋山麓御垂跡事」によると、当所は元々は守屋大臣の所領であった。 大神が天降られた時、大臣はその居住を妨げようとした。 争論・合戦が起きたが、両者の雌雄は決し難かった。 そこで、明神は藤鎰、大臣は鉄鎰を此所に懸けて引き合った。 明神は藤鎰を以て勝利し、守屋大臣を追罰した。 藤鎰を当社の前に植えると、藤の枝葉が生い茂ったので、藤諏方の森と云い、当郡を"諏方"と称するようになった。
垂迹本地
諏訪大明神上宮普賢菩薩
下宮千手観音

三笠山の明神

参照: 「春日大明神事」

白山権現

参照: 「白山権現事」

富士浅間大菩薩

参照: 「富士浅間大菩薩事」

熊野権現

参照: 「熊野権現事」

兵主大明神

兵主大社(滋賀県野洲市五条)
祭神は八千矛神で、手名椎神・足名椎神を配祀。
式内社(近江国野洲郡 兵主神社名神大)。 旧・県社。

早那起梨の天子

不詳。
概要では省略したが、早那起梨の天子が授けた神道の法の内容は「六月晦大祓」の祝詞の一部である。

浅間大明神

浅間神社(長野県北佐久郡御代田町塩野)
祭神は磐長姫命。

浅間山山頂の浅間神社の里宮で、塩野の産土神。 神仏分離以前は浅間山真楽寺を別当としていた。 同寺参道下の大沼の池は、甲賀三郎が維縵国から帰還し、蛇身となって出現した場所と伝えられている。

示現太郎大明神

参照: 「宇都宮大明神事」

赤山大明神

参照: 「赤山大明神事」

日光権現

参照: 「日光権現事」

田中明神

六所神社(福井県三方上中郡若狭町日笠)か?
『若狭国神名帳』所載社(遠敷郡 正五位 田中氏明神)。

伴信友『若狭国神名帳私考』[LINK]によると、日笠村の田中氏の宗家(上田中)の遠祖を祀った神祠で、六所大明神と称した。
明治四十一年[1908]に同村の広嶺神社に合祀。

長楽寺

世良田山真言院長楽寺(群馬県太田市世良田)
天台宗。
本尊は釈迦如来。

新田義季を開基、栄朝を開山として、承久三年[1221]に創建。 臨済禅と台密を兼修し、臨済宗の関東十刹に数えられた(江戸時代に天台宗に転宗)。
同寺の長老とされる寛提僧正については不詳。