『神道集』の神々

第四十九 北野天神事

菅相公是善の在世当時、その家の南庭を五・六歳くらいの小児が歩いていた。 相公はこの児は只の人ではないと思い、素性を尋ねてみると、「住処はありません。父母もいません。相公を父上にしたいと思います」と答えた。 その児(菅丞相)は幼い頃から詩文などの学問に優れた。 貞観八年十月、二十一歳の時には安恵和尚の『顕揚大戒論』の序文を著した。 寛平七年三月、春宮が十の詩題を出すと、一日で十首の和歌を詠んだ。 翌年には二十の詩題を出すと、わずか一時で二十首の和歌を詠んだ。
菅丞相は寛平九年六月に中納言になり、大納言に昇進し、さらに大将の宣旨を受けた。 同年十月、春宮は即位して延喜帝(醍醐天皇)と成った。 延喜帝の御代になって、菅丞相はますます重用され右大臣と成った。
昌泰三年正月三日、延喜帝と寛平法皇は菅丞相一人に政治を執らせようとした。 菅丞相は「上に左大臣がいるので慎むべきです」と辞退した。 しかし、左大臣藤原時平はこの件を察して憤り、陰陽師に冥官冥衆を祭らせて菅丞相を呪詛した。 そして、源光卿・藤原定国卿・藤原菅根卿・藤原時平大臣は延喜帝に讒言を申し上げた。
同四年正月二十五日、菅丞相は太宰権帥として筑紫に配流された。 菅丞相は無実の罪で流された事情を祭文に作り、高山に登って天道に祈った。 七日目に祭文は天に昇り、菅丞相は現身のまま七日七夜で天満大自在天神と成った。 菅丞相は都を出た頃は仏道に帰依していたが、配所に下った後は「悪神となって、怨みに報いよう」と決心したのである。
延喜三年二月二十五日、菅丞相は五十九歳にして大宰府の榎木寺で亡くなった。 筑前国の四堂に御廟所を設けようとしたが、途中で遺骸を運ぶ筑紫牛が動かなくなったので、その地を菅丞相の墓所とした。 現在の安楽寺である。

程なくして、延暦寺第十三代座主の法性房尊意僧正が三密行を修していたところ、中門辺りの妻戸を叩く音が聞こえた。 僧正が鍵を外すと、二月に亡くなった菅丞相がいた。
持仏堂に入れて用件を尋ねると、菅丞相は「雷と成って都を亡ぼそうと思い、梵天・四天王・焔魔大王・五道大神・冥官冥衆・司命司録等の許しを得ました。しかし僧正は法験が優れているから私を抑えることができるかもしれません。勅定があっても内裏へ参上しないで下さい」と云った。
僧正は「宣旨に背く事はできません。両度まではお断りしますが、三度目はそうもいきません」と答えた。 僧正が柘榴を勧めると、菅丞相はそれを噛み砕いて妻戸に吐きかけた。 柘榴は火焔となって板を三尺ほど焼き、僧正は灑水印を結び真言を唱えてその火を消した。
比叡山から黒雲が立ち上り、たちまち都に広がって震動雷電が荒れ狂った。 内裏から比叡山座主尊意僧正に使者を出したが、菅丞相との約束があるので僧正は参内しなかった。 使者は両三度に及び、ついに僧正は参内すると返事をした。
僧正が内裏に向う途中、賀茂川が増水して海のようになっていた。 僧正が牛車を川に入れると、水神の計らいか、車が一輛通れるように道が開けた。 僧正が内裏に到着して千手陀羅尼を誦すと、雷電は速やかに鎮まり、雲も消えて、空は晴れ上がった。

延喜八年十月一日、藤原菅根卿が神罰を蒙って亡くなった。
同九年三月三日、本院の大臣藤原時平は重病になった。 陰陽師に祈祷をさせたが効験は無く、医師を招いて療治をさせても効き目は無かった。 その頃、三善清行公の御子の浄蔵貴所は死者を生き返らせる事もできる名僧と評判だった。 四月四日に浄蔵を迎え、不動明王法を修した。 浄蔵は力を尽くして祈り、『般若心経』『薬師経』を読誦し、陀羅尼神呪を唱えた。 すると、病人の左耳から青色の毒龍が頭を出した。 毒龍は時平に対する怨みを述べ、浄蔵に無駄な事は止めるよう云うと、頭を引っ込めた。 浄蔵は出て行き、時平大臣は日暮れ前に四十九歳(三十九歳)で亡くなった。
時平大臣の娘の女御(褒子)や孫(甥)の春宮(保明親王)も亡くなった。
長男の八条保忠も若死し、三男の敦忠中納言も急死した。
次男の富小路右大臣顕忠卿は菅丞相を深く恐れたので、長生きして二位の大臣に成った。
仏道に入った人は許されたのか、三井寺の心誉・興福寺の淡海公(扶公)・岩蔵の文慶は一門でも無事だった。
敦忠の三男佐理卿も出家し、後生菩提を弔って過ごし、七十余歳で極楽往生した。

小松天皇(光孝天皇)の孫で延喜帝の従父兄弟にあたる右大弁公忠という人がいた。 延喜二十二年四月に大酒を呑んで頓死したが、三日後に蘇生した。
公忠は参内して、延喜帝に申し上げた。 「焔魔王宮に衣冠をつけて正装した人がいて、延喜帝に怨みを報いたいと冥官に許しを求めていました。一人の冥官が改元前に怨みを報いなさいと云いました」
帝はこれを聞いて延長元年に改元した。

延長八年六月二十六日、清涼殿の西南の柱に落雷して内裏は騒動になった。
右大弁平希世朝臣・近衛忠兼・紀蔭連・大納言清貫卿をはじめ八十余名が雷火や毒気の犠牲になり、半死半生の者は数えきれなかった。 これは天満大自在天神の十六万八千の眷属中の第三使者・火雷火気毒王の仕業である。
帝も毒気に当てられて重態となり、第十一皇子の朱雀天皇に譲位し、九月二十五日に出家したが、それから十日も経たぬうちに四十六歳で崩御された。

その頃、日蔵という上人がいた。 元の名は道契だったが、金剛象王の御示現により改め、日蔵と号した。 承平四年四月十六日から大和国金峯山の笙の岩屋に参籠していたが、八月一日午刻に頓死し、十三日目に蘇生した。 その間、上人は金剛象王に導かれて三界六道を巡っていた。
上人が鉄窟地獄(等活地獄の別所)に来た時、火焔に焼かれている罪人たちの叫び声の中に延喜帝の声が有った。 上人は獄卒に頼んで火焔を止めてもらい、延喜帝の話を聞いた。 延喜帝は五つの罪を懺悔し、自分のために善根を積んでもらえるよう上人に頼んだ。 その後、獄卒はまた延喜帝を火焔の中に放り込んだ。
金剛象王は上人を西方浄土のような島に連れて行った。 その島には壮麗な寺院が有り、その北に一つの楼閣が有った。 その楼閣は日本国では菅丞相、冥界では大政威徳天王と呼ばれる貴人の住処だった。 菅丞相は上人に「我には十六万八千の眷属がいて、すべて鬼神である。その災厄を避けようと思ったら、南無大政威徳天王と唱えなさい」と告げた。

天慶五年七月三日、西京七条坊門に住む多治比の娘の阿夜故に「我は昔、右近の馬場で遊び、都の辺の閑勝の地に心を留めた。秘かに此の馬場に来るが、身を隠す宿が無いので、我の為に右近の馬場に茅の社を造って、心を休息させて欲しい」と託宣が有った。 多治比は身分が賤しいので遠慮して、右近の馬場ではなく自宅の近くに仮に透垣を結んで五年間を過ごしたが、神慮に叶わなかった。
重ねて託宣が有ったので、村上天皇の御代、天暦元年六月九日に北野に遷座した。 その託宣は、近江国平野宮の禰宜である神良種の七歳の童子に下ったものである。
「我が従者に老松・富部という者がおり、財物には仏舎利・玉帯・銀の太刀がある。大臣だった時、身体に松が生えて枯れる夢を見たが、これは流罪になる事を示していた。今一度、松の種を植えようと思う。もし私を信じない者がいたら、我が社の辺に従者を放ち、疫病や悪瘡で殺してしまおう。親を安心させる者は守護しよう。大臣の時に、寺院の建立や寄進をしなかったのは、我が生涯の恥である。また、天台山に奉献する燈油を留め、神になった今でも責苦を受けているので、私の為に法華三昧堂を建てて欲しい。『菅家後集』の「離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時時仰彼蒼」と「雁足黏将疑繋帛 烏頭点着思帰家」の二篇を詠じる人には喜びを与えよう」
良種はこの託宣を木札に記し、右近の馬場の朝日寺の住僧最鎮法眼に与え、僧たちに披露した。 鎮西の寺と相談している間に、一夜で千本の松が生えて松林と成った。 五畿七道を歩き回って天神の教えを広めたので、貴賤上下の人々が朝暮に参詣するようになった。
最鎮らは協力して社殿を建立し、天暦元年から天徳までの十四年間に五回改築した。 天徳三年には九条右大臣藤原師輔が社殿の増築や神宝の奉納をし、祭文を作って天神に子孫繁栄を祈った。 この人の末裔が今日まで繁栄しているのは、師輔公の信心と天満天神の御恵によるものである。

一条院の御代、貞元元年から天応五年までの七年間に内裏が三度も焼亡した。 番匠が南殿の裏板を葺くと、一夜の内に虫食で和歌が書かれていた。
 造るとも又も焼けなん菅原や 棟のいたまのあはん限りは
北野社の造営が決まり、院は筑紫の御廟所に一階を加え、従一位左大臣を追贈した。 延暦四年八月二十六日に勅使が安楽寺に参じて宣旨を読み奉ると、御廟の上に銘文を記した白石が出現した。 さらに、延暦五年には正一位太政大臣大相国が贈位された。 天神の御心は和らぎ、衆合地獄にいる小野道風に請文を書かせた。

大江匡衡は種々の供物や御幣を北野天神に奉り、「右天満自在天神、或は天下に塩梅として、一人を輔導し、或は天上に日月として、万民を照臨したまふ。中に就きて文道の大祖、風月の本主なり。翰林の人、尤も夙夜に勤労すべし」と奏状を書いた。 その夜の匡衡の夢の中で、天神が御殿の扉を押し開いて奏状の文章を誉め、「我が本地は十一面観音である。極楽世界では無量寿と称され、娑婆では北野天神として示現する」と告げた。 こうして、北野天神は観音の垂迹である事が知られたのである。

北野天神

北野天満宮[京都府京都市上京区馬喰町]
祭神は菅原道真公で、中将殿を相殿東座、吉祥女を相殿西座に配祀。
二十二社(下八社)。 旧・官幣中社。

『北野誌』(首巻 天)[LINK]には、
「その祭壇は、中央に公の神霊を鎮め奉り、東に中将殿、西に吉祥女を配祭せり、中将殿とは、公の第一の御子従五位上右少弁高視朝臣ともいひ、又醍醐天皇の皇弟三品兵部卿斎世親王〈即ち菅公の御婿君〉ともいひ、又従四位上右近衛中将源英明朝臣〈即ち斎世親王の御子菅公の御孫〉なりとも言伝へぬ、西殿の吉祥女と申すは島田氏宣来子菅公の御北方なり、これは都の西南吉祥院の里に住み給ひしよりの御名とぞ、又本殿の御裏には、従来舎利を祭りありしを、明治維新の際之を廃して、今は天穂日命、菅原清公卿及び是善卿を祭れり」
とある。

『諸社根元記』の北野の条[LINK]には、
「山城国葛野郡天神三座、東間 中将殿 阿弥陀、中間 菅丞相 十一面、西間 吉祥天女 毘沙門」
とある。

老松

本殿の背後に末社・老松社が鎮座する。 また、十二所末社中の老松社にも祀られている。
『北野誌』(首巻 天)[LINK]には、
「祭神島田忠臣又は当祭神御在世の時に牛飼にて、天神と顕はれ給ひて、天拝山に登り給ふとき、笏を御預り申して登り、天神御影向の所には、松の生するといへるは、松の種を此老松に持せて蒔給ふと言ひ伝ふ」
とある。

一方、『拾遺都名所図会』巻一(平安城)[LINK]には、
「老松社 本殿の後にあり。祭る所は菅神御愛松老松の霊なり」
とある。

『北野宮寺諸神御本地次第』[LINK]には、
「老松 不動」
とある。

この他、本社中門内庭上にも摂社・老松社を祀る。
『北野誌』(首巻 天)には、
「往古は本社の壱町余東今老松町といふ所にあり、後ちこゝに遷坐」
とある。

富部

本殿の西方の八所末社中の福部社に祀られている。
『北野誌』(首巻 天)[LINK]には「祭神当祭神未た御在世の時の舎人、又十川能福ともいふ」とある。

『北野宮寺諸神御本地次第』[LINK]には「福部 毘沙門」とある。

この他、本社中門内庭上にも摂社・福部社を祀る。
『北野誌』(首巻 天)には「往古は本社より三町余東にありて、紅梅殿と称せしが、後こゝに遷坐」とある。

火雷火気毒王

『道賢上人冥途記』〔皇円『扶桑略記』第二十五に引用〕[LINK]では「火雷天気毒王」または「火雷大気毒王」と表記する。

天神信仰の初期には菅公の御霊自体が「火雷天神」として災厄を与えると考えられたが、「大政威徳天」と号する頃には災厄を統御し恩沢を与える仏尊に近づき、祟癘神的性格は眷属の火雷火気毒王(火雷天気毒王)が担うようになった。

北野の地では、天満宮以前から雷公の祭祀が行われていた。 例えば、源高明『西宮記』巻十四(臨時十二)[LINK]には、
「延喜四年[904]十二月十九日、佐衛門督藤原朝臣を使として、雷公を北野に祭らしむ」 「太政大臣昭宣公(藤原基経)、元慶中[877-885]年穀のために、雷公を祈り、感応あり、因りて毎年秋、之を祭る」
とある。

天満宮鎮座以降、雷公は末社・火之御子社に祀られている。
『北野誌』(首巻 天)[LINK]には、
「祭神当祭神荒御魂又御眷属火雷神ともいふ」
とある。

『北野宮寺諸神御本地次第』[LINK]には、
「火御子 降三世」
とある。

千本の松

「一夜松」あるいは「一夜千松」と呼ばれ、その霊は末社・一夜松社に祀られている。
『北野誌』(首巻 天)[LINK]には、
「祭神一夜松神霊、相殿野見宿禰、豊国大神也、一夜松は御鎮坐の時生出する処なれば、其霊を祀るといふ」
とある。

朝日寺

朝日山観音寺[京都府京都市上京区観音寺門前町]
本尊は十一面観音。
真言宗泉涌寺派準別格本山。

白慧『山州名跡志』巻之八(葛野郡)[LINK]には、
「観音寺 同き松(影向松)の西北に在り、寺門東向、世に東向の観音と称す、宗旨律、本尊十一面観世音、作菅神、桜梅の二木を合して刻たまふ也、開基不詳、建立主山本左大臣(藤原緒嗣)」
とある。

『東向観音寺縁起』には、
「抑当寺は桓武天皇の勅願によつて皇城鎮護のために御建立あり、朝日寺と号け給ふ、嘗菅丞相御在世の時は此地の閑静を愛し常に逍遥し給ひし旧地也、薨去の後天暦元年未[947]の三月江州比良の禰宜良種か子に託宣ありて当寺の住僧最鎮と諸共に奏聞を遂同年六月九日此北野に移し奉れり、其後応和元年[961]六月勅宣によつて此本尊を築紫の観世音寺より請し奉りぬ、是則天満宮の御愛木松梅を以て自ら営作し給ふ所の尊像也、是によつて世に二木の観音と称し奉りて則御本地仏也、其後応長二年[1312]中興開山無人宗師に当寺を給ふ、此宗師は天神の神託によつて出家し給ふ人也、往昔花園・後醍醐・光厳・光明御朝の天子叡信浅からすして此時に彼築紫の観世音寺に擬して朝日寺を観世音寺と改め給ふ」
とある。
(東向観音寺史料調査団「東向観音寺史料目録(一)」、東京大学日本史学研究室紀要、9号、pp.33-88、2005)
垂迹本地
本社中間(菅丞相)十一面観音
東間(中将殿)阿弥陀如来
西間(吉祥女)毘沙門天
老松不動明王
福部毘沙門天
火御子降三世明王

高山

天拝山[福岡県筑紫野市武蔵]
山頂には太宰府天満宮の境外摂社である天拝山社が鎮座し、その近くには菅原道真が天に無実を訴えたと伝わる天拝岩(おつま立ちの岩)が有る。

貝原益軒『筑前国続風土記』巻之九(御笠郡 下)[LINK]には、
「天拝山 或は天判山と云。〈中略〉頂に天神の社あり。世俗に云伝へ侍るは、延喜二年[902]菅公、此天判山にのぼりて罪なきよしを、天にうつたへさせおはしましければ、天帝より天満大自在天神といふ尊号を下し給しとかたや(或勅号とも神託とも云なり)。菅公の天を拝したまひし所、則此御社の地なり。石上にのぼりて天を拝したまひけると云。其石を天拝石と号し、御社の内にあり。此故に天拝山と号す」
とある。

榎木寺

榎社[福岡県太宰府市朱雀]
太宰府天満宮の境外末社(御旅所)で、境内には浄妙尼社が鎮座する。

『筑前国続風土記』巻之八(御笠郡 中)[LINK]には「浄妙寺 今は榎寺と号す。此寺は菅丞相太宰帥にて、此所におはしましける地なり。後一條院の御時、治安年中[1021-1024]都督惟憲卿、彼跡をかなしみ、伽藍を一宇建られけるとかや。今纔に仏堂一宇残りて、八月廿三日天神の御輿此所にわたらせ給ふ御旅所なり。〈中略〉此堂三間四面なり。釈迦、多宝二仏を安置す」とある。

安楽寺

太宰府天満宮[福岡県太宰府市宰府4丁目]
祭神は菅原道真公。
旧・官幣中社。

『菅家御伝記』[LINK]には、
「安楽寺学頭安修の奏状に云、太宰府安楽寺は、贈大相国菅原道真公喪薨の地、十一面観世音大菩薩霊応の処也。延喜五年八月十九日、味酒安行神託に依て神殿を立て、称へて天満大自在天神と曰ふ」
とある。

『筑前国続風土記』巻之八(御笠郡 中)[LINK]には、
「天満宮 天神の御庿地を安楽寺と云。天原山庿院と号す。則菅丞相を葬りし所也。菅公の御社安楽寺ありし所に立し故、後迄天満宮を安楽寺と云」「延喜五年[905]八月十五日、安楽寺に始て菅公の神殿を立らる。味酒安行といひし人是を奉れり。其後藤原仲平相続て是を奉行し、同十九年[919]に至て作り終れり。是菅公を始て神とあがめまいらせし時、作りそめし神殿なり。其初は猶矮小なりしが、年を経てやうやく壮麗をませり。かくて菅公をば天満大自在天神とは号し奉りける」
とある。

尊意

虎関師錬・恵空『元亨釈書和解』巻第十の尊意伝[LINK]には、
「釈尊意は、姓は丹生氏にして、平安城の人なり。〈中略〉年六七になりしより早く書を読ことを好んで、肉五辛のたぐひを口に嘗ず、魚鳥を少しも害することなかりければ、隣の僧はこれをみて「これこそ釈氏を紹すべき器によく生まれつきたる人なり」としも思へりき。さる程に大悲神咒をさづけゝれば、尊意よくこれを持て誦ぜられたり。されば京都の北山に度賀尾寺と云あり。然るに尊意はかの道場において昼夜に咒を誦じて、家に帰らざること三年の間なりけり」
「元慶三年[879]におよんでは、天台山にのぼりて、習学のつとめ諸方に其聞へを得らる。やふやく十七歳にもなれば髪を剃り、二十一歳にして座主円珍を礼し受戒あり。すでに一紀の間に台教を究らる。又両部密法を増全にうけ、蘇悉地を玄昭につたへらりき」
「延長三年[925]の夏にいたりて、はげしく旱しければ、延暦寺に於て雨の祈の法を修せしたまひけるが、その時に尊意は六人の僧を率て仏頂尊勝の法を修せられしに、四日の間の行にて雨たゞちに降ければ、朝廷こぞりて喜悦嗟嘆せらる」
「叡山に在し時、ある日の事なりしに、菅丞相変化して来り。語りて曰く、「我すでに梵天・帝釈の許容をうけて、昔日の怨ある方を報ひ償はんと欲する事なり。願くは師の道力を以て降伏することなかるべし」とありしかば、尊意の曰申さるゝ事、「最さあるべき子細ながら、然りとはいへども、率土の浜は皆王の民にてあるぞかし。我もし皇帝の詔を承はらば、何とでいなとは申すべけんや」と答へられけるに、菅丞相は色をかへて、折節柘榴を薦たりしを、これを食して口より吐在し所を起れければ、すなはち柘榴化して火焔になりて、坊の戸みな煙を騰ぞ、すさましかりける。かゝりし時に、尊意は瀉水の印を結でこれに攝られしかは、其火たやすくも滅て見へざりしとはいへども、其焼痕はなを遺り、歴然として在しぞ、おそろしげなる。それより後に、はげしくも雷の雨のふり降り、やふやく一旬にとをりかれば、鴨河大ひに漲り、人馬もかつて通る頃を得ず。是において、帝尊意に詔したまひ、宮に趣かしめおはしますけるに、尊意の車、河の浜まで到りしかば、猛くいきおひ来れる浪もそのまゝ流れを止めて二つに分れ、其水にも車の輪はかつて濡ざりけり。かゝる時に尊意はたやすく宮にまいりて、持念誦咒の勤を勵されしに、帝の夢の中に不動明王の見へたまひ、火焔さかんに燃あがり、声を勵して咒を誦じ、玉躰を加持したてまつりければ、夢覚て後までも其音の余は耳の底にひゞきて絶へざりしをよくよく聞たまひぬれば、これ即かの尊意の陀羅尼を誦ずる声にぞありける」
「これより先延長四年[926]の五月には延暦寺の座主に任ぜられき。其後天慶三年[940]二月二十三日に沐浴して髪を清め、〈中略〉二十四日にもなりぬれば、少しの疾もなく逝せられたり。年は七十五なり」
とある。

浄蔵貴所

『元亨釈書和解』巻第十の浄蔵伝[LINK]には、
「釈浄蔵は洛城の人なり。諫議大夫殿中監善清行の第八の子にして、母は弘仁帝(嵯峨天皇)の孫女なりける。然るに母の夢に天人来りて臥たる寝の内に入しと見けるより、やがて懐胎の身となれり。さる間、寛平三年[891]にいたりて生れけるに、聡敏なること世に双もなかりける」
「七歳に及んで出家ならんと求められかれば、殿中戯れて曰く、「汝、三宝の数に堕いらでかなはぬ道ならば、一つの霊応なることを作て見せ侍るべし。さもなき事ならば、先祖の家業を失ひて、様を易なんもなを無益の事なり」とありしかば、〈中略〉折節春の初にて庭に梅盛に発きてありけるに、児そのまゝ戸の外に出て、神人を召出し、かの梅の一枝を折来らしめてこれを献じたりければ、殿中はふかく感じ怪みて、只黙然としてぞ居られける。この上は牽止ることもなりがたくて、思ひのままになりければ、児はすなはちこれよりもあまたの勝地にもまふでゝ、修練の事をおこたらず」
「さて十二歳なりし、その時に松尾神の祠より還りける比しも、寛平上皇(宇多法皇)西の方の郊野に幸したまへる折節、中途において浄蔵を見て、喜んで弟子にしたまひ、勅して叡山に上らしめ、登壇受戒せしめをはします。又玄照法師に宣旨ありて密教を稟しめたまひ、又大慧法師にしたがひて悉曇章を学ばしめおはしましけり」
「延喜九年[909]なりし時、左僕射藤時平は菅丞相の霊気の誅を受て難病に沈み、久しく愈がたりければ、浄蔵に請て持念せしめられしに、白昼に二つの龍の青色なるもの、僕射の左右の耳より頭を出して、善諫議(三善清行)に諗て曰く、「我、天帝に告して讒者の怨を報ずるところに、貴辺の子浄蔵公の法力を以て我を抑留めらるゝが故に所願を成就することを得ず。乞望らくは父の厳なる異見を加へてたまはるべし」とありしかば、諫議はこれをきかるゝより、浄蔵に内通して、ひそかに立去らしめけるに、わづかに門の外に出ると、そのまゝ僕射は即薨じにけり」
「さて又天暦年中(天暦二年[948])にあたりて、浄蔵は八坂寺(現・法観寺)に寓り居られしに、折節官人おほく集りて塔を見て申されしは、およそ塔の傾きゆがめる方には、やゝもすれば凶事ありと聞伝へたりけるに、今此塔を見れば、王城の方に傾き向かへる〈中略〉其夜において、浄蔵はたゞ大地の上に坐し居つゝ、塔に向ひて持念を作て、すでに我房にかへられしに、弟子仁璫といへるありて、たまたま庭に出にければ、西北の方より風そよそよと吹来りしが、〈中略〉明朝これを見れば、其塔は昨日にひきかへて立なをりしこそ奇特なれ」 「康保元年[964]十一月二十一日にもなりぬれば、雲居寺において遷化をとれり。寿七十四歳なりけり」
とある。
また、浄蔵が日頃語っていた物語として
「殿中監といひけるは朝廷の才臣たり、儒林の望士たり、亦我ために厳父なりける。然る間、我熊野に詣たりし比、殿中は薨背しかるところに、中途にいたる折節、喪の事を告し書状の来りければ、いそぎ馳帰るに及んでは、すでに世をまかりて五日を経たりといへども、我を待ていまだ殻をもおさめざりしゆへ、我その時に至て冥衆を動し加持せしかば、たちまち穌息になりにけり。其時に殿中は位階の朝服を著て、我を拝して後七日を過つゝ永く逝し去れり」
と伝える。

日蔵

元の名は道賢。 一説に三善清行の弟と伝わる(『二中歴』第十三[LINK]に「説に云う、善相公三家に伝う、舎弟日蔵は醍醐説なり」とある)。

『元亨釈書和解』巻第九の日蔵伝[LINK]には、
「釈日蔵は洛城の人なり。延喜十六年[916]二月に金峯山の椿山寺(現・竹林院)に入りて髪を剃り、その時年は十二なりける。然るところに穀物および塩を絶て、精進修行すること六年が間なりしに、母の重病につかれしときゝて、はじめて山を出て洛都にかへり、その母の床を見舞て対面を遂げらる。すでに東寺に居して密教を学問せしかども、金峯山に思をよせてたびたび往来をなせり」
「天慶四年[941]の秋にもなれば、かの金峯山に於て三七日をかぎり断食無言して秘密供を修せらる。さる程に八月一日午時にあたりて、修法の間たちまちに舌かはきて、気ふさがる事ありし比、〈中略〉息もすさと絶へたりしが、俄の程に一つの窟の前と見へたる処へそのまゝ至りつきぬと覚へられける。時に日蔵はその窟の中を見られけるに、沙門の躰相なる人の住居せられしが、手に金の缾を持て、その瓶の水を傾け出し、日蔵にあたへて飲しめられしを、すなはち取てこれを飲めば其味至りて甘美なりけり。その時沙門名乗て曰く、「我は是執金剛神にてあるなり。常に此窟の中に住居して、釈迦仏の遺法を護り申す事なり。然るに、我上人の行の殊勝なるを感ぜしが故に、たちまち雪山に往て、八功徳の水を取て、師の喉の渇を救ひてまいらせけるなり」といへり」 「一人の大徳の和尚来りて、左の手を伸べ、日蔵の手を執て西の岩に上りしに、〈中略〉北の方には金の山の見へしが、その山の中に七宝の高座あり。先の和尚たゞちに其座に坐せり。さて和尚の曰く、「我は是れ釈迦牟尼の応化にして蔵王菩薩と名るなり。抑此処を金峯山浄土と曰り。然るに汝が余命久しからず、早く光陰を競ひて善事を修行すべし」と告げらければ、日蔵白して言く、「我身命をおしむことなく仏道を求むることなり。然りとはいへども、ここに一つの道場を草創いたしかけぬるところに、いまだ成就にも及ばざりし事なれば、此のみ心懸に存じくらし候ふ。もしも我命をして今しばらく延しむることは叶まじきことなりや」と問れければ、その時和尚は短き札を取寄せて、それに八字を書て賜はりけるが、其文には「日蔵九九年月王護」と見へたり」 「又大政威徳天の来られしを観たり、〈中略〉日蔵は大政天に問て曰く、「金峯菩薩、我に短札の八字を賜はりけるところに、又少しばかりはその註釈を示りとはいへども、しかも未だ委き義理をしらず、願しくは大政天これを解たまひて、我に聞しめおはせよかし」と申されたりかれば、大政天の曰く、「それ日といふは大日なり、蔵とは胎蔵なり、九九とは八十一なり、年とは八十一年なり、月とは八十一月なり、王とは蔵王なり、護とは守護なり。此言の意をいはゞ、大日如来に帰命して胎蔵の法を修せば延命八十一歳なるべし。〈中略〉急速に本の名を替たらんこそ菩薩の尊意にはかなふべけれ」とありしかば、是よりさきには道賢と名づけたりといへども、その時よりはじめて今の日蔵には改められたり」 「又金峯菩薩は日蔵をして地獄の苦相を見せしめたまへり。かくて一つの鉄の窟を看るに、其中に人四人ありけるが、〈中略〉その中にも衣のありし人、たゞちに日蔵を招ひて曰く、「我は是大日本国の主、金剛覚大王の子(宇多法皇の子、醍醐天皇)なり。かゝる鉄の窟の中に入て、たぐひなき苦患を受る事にて候ふなり。〈中略〉汝はやく本国に帰て、国主および宰輔に奏聞しつゝ、一万の卒都婆を造り立て、我苦厄を抜てあたふべし」と告られたりしが、かくて日蔵は凡十三日の程を過て、やふやく穌息よみがへりぬることを得たり」
「其後、室生の龍門寺に移り居られしに、霊妙なる感応はななだ以ておほかりける。或時、たまたま土を掘りて鈴と杵とを得られければ、すなはちこれ前の生に持し道具なりしことをいちじるしくも知れり。〈中略〉帰寂なりし後に、其屍いづこかへ失けん。見へざれば、人みな奇怪に思ひにける」
とある。

金剛象王

参照: 「吉野象王権現事」象王権現

金峯山寺境内には、天徳三年[959]九月五日に日蔵が創祀したと伝えられる威徳天満宮(吉野八社明神の一)が鎮座する。

阿夜故

通常は文子と表記する。 その自宅の場所は右京七条二坊十三町と伝えられる。 自宅の近くに祀られた叢祠は文子天満宮と呼ばれ、後に西ノ京に遷された。
『拾遺都名所図会』巻一(平安城)[LINK]には、
「文子社 西京御供所の南にあり。初天満神七條文子に神託ありて、其宅に鎮坐し奉る。後世其由縁をこゝにうつし、祠をいとなむ」
とある。

現在、文子天満宮は北野天満宮の境内末社として祀られ、西ノ京の旧址(京都市上京区北町)はその御旅所となっている。
『北野誌』(首巻 天)[LINK]には、
「祭神菅原大神。伝へいふ、天慶五年七月十二日に、大神の神託を蒙りて、私に祀る処にして、元西の京北町文子の宅址にありしを、明治六年[1873]七月こゝに遷坐」
とある。

平野宮

天満神社[滋賀県大津市北比良]
祭神は菅原道真公。
旧・村社。
通称は比良天満宮。 北比良の鎮守で、樹下神社(南比良の鎮守)と並立して鎮座する。

寒川辰清『近江国輿地志略』巻之三十(志賀郡第二十五)[LINK]には、
「天満宮社 北比良村にあり。祭る所菅丞相の霊なり。其縁起略にいはく、江州志賀郡比良天神は、天慶五年七月十三日、文子という女にかゝり、御託宣あつて、山城国北野右近馬場に鎮座の地を構よとありけれども、身貧賤にして社を営事もならず、竹の籬に注連引崇めたてまつる。同九年三月十五日、近江国比良の禰宜三好良種が子、太郎丸と云七歳の児にかゝりて御託宣有り、先に西京の文子といふものによつてしめすといへども、人々信ぜず、我居せん所には松の種をうゆべしと。良種こゝにおいて西京に至り、文子をよび朝日寺の僧最鎮に告しめし、ともに講官営社。其夜北野に千株の松を生ず。又比良村に松を生ず。因茲二処に建社」 「臣按ずるに、当社は北野社鎮座より以前と見へたり」
とある。

最鎮

『菅神初瀬山影向記』[LINK]によると、村上天皇の御宇[946-967]に僧最珍が有り、霊夢を得て筑紫から大和長谷寺に参詣した。 観音堂で七日七夜祈念したところ、七日目の結願の時に宝殿から声が有り、「隠らくの 初瀬の寺の 仏こそ 北野の神と 顕れにけり」と和歌を詠んだ。 最珍はこれを聞いて菅神の本地は十一面観音であると知った。 京師の右近馬場に行き、七条の文子と力を勠せて北野神祠を造り、その側の朝日寺に居した。

大江匡衡

天暦六年[952]生まれ。 文人・儒者として知られ、式部大輔・文章博士・侍従・丹波守を兼官した。 寛弘九年[1012]五月に体調を崩し、同年六月二十五日に北野天満宮に御幣・上紙百帖・供物二(長櫃・中折櫃)・色紙絵馬三疋・走馬十列を献上し、病気平癒を祈ったが、同年七月十六日に没した。 「右天満自在天神、或は天下に塩梅として……」はその際に読まれた祭文(『本朝文粋』巻第十三[LINK])で、弟子の中原長国の代作である。