『神道集』の神々

第三十二 吉野象王権現事

象王権現の本地は釈迦如来である。 摩耶夫人の胎内に入った時、白象の姿であったので象王と云う。

権現として顕れた時は、本地は聖天である。 聖天は真言教主の大日如来であり、その教令輪身の大聖不動明王であり、無明界の教主の荒神大菩薩である。 一切障碍神の冥合した毘那耶伽天であり、一切衆生を哀み給う天である。
その本地を尋ねると大日如来である。 『普賢観経』には「釈迦牟尼仏、名毘盧遮那遍一切処、其仏住処、名常寂光土」と云う。 その自性輪身は十一面観音である。 その教令輪身は愛染大明王である。 その垂迹は麁乱神である。 大魔王となる時は常随魔である。 煩悩となる時は元品無明である。 総じて九億三千四百九十の王子眷属がいる。 夫婦合身の形で象頭人身の体である。 荒神として顕れる時は一面三目で二足の姿である。

『称揚勧請句』によると、象王権現は別しては象頭人身の歓喜天で、一面三目六臂である。 神足自在で、十二大天・諸毘那耶伽・九善鬼・八百部類は随喜納受し、民を哀れんで加護すると云う。 『天形星秘密心信陀羅尼経』によると、十二星宿とは、一は除伏天、二は随順天、三は水行天、四は天門天、五は断惑天、六は福恵天、七は官愛天、八は増命天、九は障善天、十は歓悪天、十一は歓喜天、十二は和合天と云う。 また、十二大天とは、一は伊舎那天、二は帝釈天、三は火天、四は炎摩天、五は羅刹天、六は水天、七は風天、八は多聞天、九は大梵天、十は持地天、十一は日天、十二は月天と云う。

象王権現

金峯山寺[奈良県吉野郡吉野町吉野山]
本尊は三体の金剛蔵王大権現。
金峯山修験本宗総本山。
文献上の初見は『義楚六帖』の「本国都城の南五百余里に金峰山有り、頂上に金剛蔵王菩薩有り、第一の霊異なり、[中略]菩薩は是れ弥勒の化身、五台の文殊の如し」。

「熊野権現事」には、
「金峯山の象王権現は、三十八所なり。御本地は、当来導師の弥勒慈尊これなり」
とある。

『道賢上人冥途記』〔皇円『扶桑略記』第二十五の天慶四年[941]三月条に引用〕[LINK]には、
「我は是れ牟尼(釈迦牟尼)の化身、蔵王菩薩也。此土は是れ金峰山浄土也」
とある。

文観『金峰山秘密伝』巻上の「金剛蔵王本地垂跡習事」[LINK]には、
「昔役優婆塞天智天王の御宇白鳳年中[660-683]に金山の大峯を開き而仏道を勤求し、末代相応の仏を祈、濁世降魔の尊を尋。時に大聖釈尊忽然として現前し護法の相を示し玉ふ。行者白して言く、「辺土の衆生は仏身を見るに堪ず、強強の衆生に応せざる所也。 願くは所応の身を示玉へ」と。時に釈尊忽然として現せず。更に千眼大悲の尊自然に即ち涌現す。行者亦白く、「今の尊は五部具成の仏大悲抜苦の尊也。 無双柔軟の形体を為すと雖も、尚悪世に応せざる所也」。時に大聖化滅して亦弥勒大慈の尊自然に影向し、行者亦白して言く、「大聖は此れ釈尊の補処、大慈与楽の尊也。此の土に縁深し。然りと雖も末代尚応せず。願くは降魔の身を顕し玉へ」と。其時宝石振動して磐石の中より金剛蔵王青黒忿怒の像にて忽然として涌出して、即ち磐石の上に住し玉ふ。時に行者大に歓喜し敬重し奉崇す。此れ其の元始なり。今の四尊の影現は此れ四生済土の表示、四海静謐の相也。此の四仏の中の前の三仏は能変の本身と為す。後の一仏は所変の一身と為す。初の三仏は此れ三世の仏体、即ち三密の尊像也。[中略]今の三尊差別を為と雖も、此れ即ち釈迦の三密一仏の万徳。此の一身に三密を具ふ。三仏即ち一心に帰す。故に三仏合して一身と現す。此れを金剛蔵王と為す也。即ち大聖釈迦の所変と為る也」
とある。
同書・巻中の「金剛蔵王名号習事」[LINK]には、
「当山は宣化天皇の御宇、僧聴三年[538]戊午八月十九日、霊山の巽の角崩落し飛び来て金峯山と成る。天智天皇の御宇、白鳳十一年[670]辛未正月八日、役行者始て金峯山に登て、蔵王の宝窟を開く。生身の御体を拝し、其の後行者柘楠草の霊木を以て、彼の生身の像を摸し奉り、行者自ら手づから之を造立し、八角堂を建立して之を安置せらる。此根本山上蔵王堂(現・大峯山寺)是也。云々。第三伝、行基菩薩、本堂の像を摸し奉り、即三世の蔵王を摸し、過去の釈迦、現在の千手、当来の弥勒、三世の蔵王を造立し、下山の蔵王堂(現・金峯山寺)に之を安置す」
とある。

『役公徴業録』[LINK]によると、大宝元年[701]に役公が大峯山を辞す時、「後五百歳、吾の跡を慕ひ、此の山に入る者多からん」と神明の扶助を祈念した。 最初に弁財天女が降臨した。 役公は「威有れども亦女身也。非也」と云い、天女は天河(天河大弁財天社[奈良県吉野郡天川村坪内])に去った。 次に地蔵菩薩が出現した。 役公は「温にして厲ならず、何以て悪魔を制するや」云い、菩薩は芳野の川上(金剛寺[奈良県吉野郡川上村神之谷])に去った(一説に伯耆の大山に去ったと云う。また、弥勒・観音の二大士が出現したと云う)。 その時に天地が震動して忿怒相の金剛蔵王権現が地から湧出した。 釈迦・観音・弥勒の三仏の合した体であり、役公は欣喜して神の威徳を讃えた。

『大峯縁起』下には、
「金峯山の金剛蔵王は、天照太神の七代の孫子也。天より降り、中天竺の波羅奈国の金輪聖王の七代の孫子也。率濁天王の女の胎内に宿る。率渇大王と名づく。また金剛蔵王と云ふ」
とある。

『熊野山略記』巻第一[LINK]には、
「金峯山金剛蔵王は、中天竺波羅奈国、金輪聖王の末孫、率渇大王と名づく。また金剛蔵王と曰う」 「蔵王権現は、熊野権現と同日同刻(神武天皇五十八年戊午[B.C.603]冬十二月晦夜半)に雅顕長者の勧請に依て、吉野山金峯山に湧出し給ふ」
とある。

『麗気記』巻第十(神号麗気記)[LINK]には、
「法起大王、(金剛山の)最頂の峯に至りて、金剛宝柱を修行し、金剛宝菩薩と成りたまふ。今は宝喜菩薩と曰す。金峯山に於ては金剛蔵王と名づく。化して伊弉諾・伊弉冊の二柱と成る。中つ御玉の天を照らし、地を明らし、天地の宝と成るを、宝喜蔵王如来と名く。天地を照らし数多に交るを天照太神と名く。此には大日孁貴と曰ふ」
とある。

近世の文献では、金峯山の蔵王権現は安閑天皇または少彦名命とされた。
例えば、林羅山『本朝神社考』中巻[LINK]には、
「世に伝ふ、金峯山の権現は、勾大兄国押武金日の天皇(安閑天皇)なり」
とある。
また、天野信景『塩尻』巻之十一[LINK]には、
「大和国金峯山蔵王権現は吉野に立、安閑天皇皇陵也。蔵王権現は宣化帝三年[538]吉野に現すといへり。此山弥勒仏の出世と云々。金山なり、金峯山と号す。文武帝大宝年中[701-704]役行者建立。亦、或書に云、金峯山の神は金剛蔵王菩薩といふ。安閑天皇を祀るといふ是ならず。諸社考、和爾雅に金峯山の神は少彦名命と記せり」
とある。

『先代旧事本紀大成経』巻第二十九(帝皇本紀上巻上)には、
「宣化天皇三年秋八月、勾大兄天皇、魂を金峯山に現じ、吉野国県主物部吹荒子に告て曰く。我は是れ勾大兄丸なり。元は戸科外天内津宮明津宮に在り。昔は天皇と成りて国政を取れり。今は此の山の神と成る。吾は是れ権現神にして、宝祚を護り民の願を叶ふ」
とある。

金峯山寺は役行者により開かれた後、寛平六年[894]に醍醐寺の聖宝(理源大師)により中興されたと伝えられ、熊野と共に修験道の根本道場として隆盛した。 永承四年[1049]に興福寺の円縁が金峯山検校となって法相宗に帰属。 慶長十九年[1614]には天海が学頭となって天台宗(山門)に帰属した。
明治初年の神仏分離により金峯山寺は廃され、下山蔵王堂は金峯神社口之宮、山上蔵王堂(天川村洞川)は同奥宮となった。 明治十九年[1886]に両蔵王堂は修験寺院として再興。 下山蔵王堂は現在の金峯山寺の本堂となり、昭和二十三年[1948]に大峯修験宗(後に金峯山修験本宗と改称)として天台宗から独立。 山上蔵王堂は大峯山寺と改称して単立寺院となり現在に至る。

『神道集』では蔵王権現を摩耶夫人の懐胎伝説および象頭人身の聖天と結びつけて象王権現と表記する(「北野天神事」では金剛象王)が、この表記はあまり一般的ではない。
垂迹本地
蔵王権現釈迦如来

聖天・毘那耶伽天・歓喜天

元来はヒンドゥー教の象頭人身の神ガナパティ(Gaṇapati)で、別名はガネーシャ(Gaṇeśa)。
単身像と双身像があり、双身像は象頭の男天と女天が抱擁した「夫婦合身の形」で表わされる。

『密教大辞典』の歓喜天の項[LINK]には、
「聖天・大聖天とも云ひ、俗に天尊と称す。梵名誐那鉢底又は誐尼沙(Gaṇeśa)。誐那は群衆・団体の義にして大自在天の軍隊、鉢底は主又は所有者なるが故に、大自在天の軍を統帥する大将なり。故に胎蔵現図曼荼羅には大自在天の化身たる伊舎那の眷属として、外院北辺東部にあり。誐那と毘那夜迦(Vināyaka)とは元来別なれども、古くより同一視せられ、誐那鉢底を毘那夜迦の首領とせり。[中略]聖天と名くるは、憬瑟の形像品[LINK]云、此大聖天王大自在天変化自在天、故秘法云、六通自在故名聖天、智慧自在故名大自在天と。或は此尊は普通の毘那夜迦に非ずして、大日如来又は観自在菩薩の権化身なるが故に、その本身に就て聖と名く」
とある。
また、毘那夜迦の項[LINK]には、
「毘奈野迦・頻那夜迦とも書く。是れ障碍・困難等の義、又は除障者とも訳す。義訳して常随魔と云ふ。[中略]蘇婆呼経上[LINK]によらば四種あり、一摧壊部、主を無憂大将と云ふ、二野干部、主を象頭と云ふ、三一牙部、主を厳髻と云ふ、四龍象部、主を頂行と云ふ。[中略]歓喜天は誐那鉢底(Gaṇapati 衆団の主)なれども、此等毘那夜迦衆の首領なるが故に常に毘那夜迦王と称せらる」
とある。

成蓮寺記「聖天法縁起」〔心覚『別尊雑記』巻第四十二(聖天)[LINK]に引用〕によると、毘那夜迦山(別名は象頭山、障礙山)という山が有り、多くの毘那夜迦が居る。 その主の名を歓喜と名づけ、眷属無量の衆と共に大自在天の勅を受け、世界に往って衆生の生気を奪い、障難を作す事を欲していた。 その時、観自在菩薩は大いなる慈悲の心を興し、毘那夜迦の婦女身に化して王の所に往った。 王はこの婦女を見て欲心が熾盛となり、毘那夜迦女に触れてその身を抱こうとした。 毘那夜迦女は「我は障女に似たりと雖も、昔より以来能く仏教を受け、袈裟衣を得たり。汝若し実に我が身に触れんと欲さば、我が教えに随ふべし」と言った。 毘那夜迦王は「今より已後、汝等の語に随ひ、仏法を修持す」と云った。 毘那夜迦女を抱いた毘那夜迦王は歓喜して「我等今は、汝の勅語に依り、未来に至り仏法を護持し、障礙を行はずして已む」と云った。
(高橋悠介『禅竹能楽論の世界』、第1章 申楽と翁/荒神信仰、慶応義塾大学出版会、2014)

荒神大菩薩

荒神は仏教・修験道系の民間信仰における神格で、多面多臂(三面六臂、三面八臂、八面八臂など)の鬼神形(三宝荒神)、一面六臂の菩薩形(如来荒神)、あるいは一面四臂の俗体形(子島荒神)などで表される。
文献上の初見は源俊房『水左記』(承暦四年[1004]六月三十日辛酉条)[LINK]の「夜未明に車に駕し大井河(大堰川)に行臨し、僧頼命〈摂州勝尾寺住僧云々〉をして荒神祓を修せしむ」。

『荒神式』[LINK]には、
「一切衆生の心上にअ{a}हूं{hūṃ}の二字有り、変じて八葉の蓮華と成る。是れ則ち善悪親疎の起り也。然れば則ち咲へば八葉中台の尊神、瞋れば八大荒神也。聊か仏陀には大日尊と名づけ、薩埵には観世音と名づけ、天等には弁才天と名づけ、神等には麁乱神と名づけ、魔王には常随魔と名づけ、鬼神には飢渇神と名づけ、煩悩には根本無明と名づく」
とある。

運敞『寂照堂谷響集』第九[LINK]の荒神の項には、
「旧記を按ずるに、本朝示現の神にして三国相伝に非ず。昔役優婆塞葛城の峯に宴坐し、東北方の山を望むに紫雲靉靆有り、往いて謁見し神と語論す。神自ら言はく、悪人を治罰すること有り、故に麁乱荒神と称す。又三宝を衛護す、故に三宝荒神と号す。九万八千の夜叉眷属あり」
とある。

『荒神縁起』によると、三宝荒神は世界成国の始めに出現した。 仏より前に顕れた神なので仏兄と云う。
印度では、舎利弗尊者が善法を修行し道場を建立しようとした砌、荒神を供養して悉地円満した。
また、呉の南国に金貴大徳という聖人がいた。 東方の多婆天に宝幣を捧げて三反礼拝して、現身に悉地円満した。
日本では、摂津国勝尾寺に最初に現れた。 神亀四年丁卯[727]三月、善仲・善算の両聖人が勝尾寺に攀登し、『大般若経』の紺紙金字如法書写の願を立てた。 天平神護元年乙巳[765]、桓武天皇の第五皇子の開成が両聖人の草庵に至り、その弟子となった。 両聖人が西方に去った後、皇子は如法書写の願を遂げ果たそうとした。 宝亀五年[774]二月十一日の夜、皇子の夢に八面八臂の大鬼王が現れ、数千の眷属を率て道場に乱入し、六百巻の紺紙を山林に投げ散らした。 皇子が何者かと問うと、「我は三宝荒神と号す。汝は十五夜神の恩を忘れ、崇祭せざるが故に、此の大願を妨ぐ」と答えた。 皇子は大いに驚き、種々の礼奠を設け、七日七夜祈って冥助を願った。 皇子は昼夜を問わず書写し、宝亀六年己卯[775]七月十三日にこれを奉納した。
また、慈覚の伝によると、天地開闢の時、天では摩醯首羅天は弁才天女を娶り、一切天衆の依正二報を出生した。 これは三世常恒の大日で、胎金両部の始めである。 南閻浮提の中天竺では梵王と毘富貴(伝本によっては毘富欠)が冥合し、一切衆生の依正二報を出生した。 唐土では伏羲・女媧、日本では伊弉冊・伊弉諾命が依正二報を出生した。 有情・非情を出生する事は、全て荒神が行う所である。
秘経(『瑜祇経』第七品)には「於一散乱心……自性所生障」と説く。 此の自性所生障とは、一切衆生は無始以来「不如実知自心(実の如く自心を知らざる)」故に「自性障」と云う。 この障は六臂端厳の形(如来荒神)を現し、或は八面憤怒の相(三宝荒神)を現す。 「一散乱心」とは、これもまた「不如実知自心」である。 妄想顚倒の心は今の麁乱荒神である。
四種毘那耶伽経によると、大荒神は色界四禅に居しては摩醯首羅天と名づけ、欲界第六天では毘那耶伽神と云う。 妻を宇賀神と号す。 これは一切衆生の福智の二厳である。

荒神は仏教や陰陽道の様々な尊格と結びつくが、中でも聖天(歓喜天)との習合は早い段階から確認できる。 高野山大学図書館蔵『歓喜鈔并講式』の「歓喜抄下」には「成蓮抄ニ聖天ハ荒神ト一躰也ト云々、荒神ノ事ハ勝尾寺ニ初テ出来セル法也」とみえる。 心覚も『別尊雑記』巻第四十二(聖天)において、「成蓮寺記」として聖天法縁起(上述)を記し、「私云、凡そ人身に影の如く離れず障礙を作す神、荒神と名づく、是れ毘那夜迦也」として障碍神たる荒神が毘那夜迦に相当するとしている。
(高橋悠介『禅竹能楽論の世界』、第2章 荒神の縁起と祭祀)

『神道雑々集』の「荒神之事」によると、舎利弗が善法を修行し道場を建立しようとしたが、常に魔のために破壊され成就しなかった。 舎利弗は歎き怪しみ、密かに隠れて伺い見ると、八面八臂を有する長大な者が、八人の眷属を率いて現れた。 舎利弗が「汝は誰」と尋ねると、「我は是れ三宝荒神・毘那夜迦也。亦の名は那行都佐神也。我は是れ仏兄也」「我を敬せざる故、善法を破壊せしむ也。我を敬祭せざる人、貧窮にして無福短命にして病患多し。一切の災難に今相遭す」と答えた。 舎利弗が「今より以後恭敬すべし。其の名号を今に知らせ給へ」と宣うと、「我は那行都佐神、また毘那夜迦也。即ち従類九億四万三千四百九十の荒神也」と答えた。 舎利弗が百味供物を備えて荒神を祭ると、万願が成就した。

また、『仏説大荒神施与福徳円満陀羅尼経』[LINK]によると、過去世の空王如来に三人の使者(飢渇神・貪欲神・障礙神)がおり、末世に荒神として顕現し財物や福徳を奪う誓願を発した。 三人の鬼王が出現すると、仏は「慈悲と忿怒とは譬へば車輪の如し。一輪を闕く時、人を度すことを得ず。荒神の君は惟れ如来の権身にして、仏法を保たんが為に仮に明神と称す。那行都作・多婆天王・毘那耶迦・正了智等護法善神十八神王皆悉く是の如く一身分名なり。不信の衆生に強信を発さしめ、懈怠の群類に精進せしめんが為なり。[中略]昔日の三人は大日如来・文殊師利・不動明王にして、亦貪・瞋・痴なり。今日の三鬼は亦復是の如し。意荒立つ時は三宝荒神、意寂なる時は本有の如来なり」と説いた。
(山本ひろ子『異神 —中世日本の秘教的世界—』、第3章 宇賀神—異貌の弁才天女、平凡社、1998)

龍泉寺[三重県松坂市愛宕町]から伝来したと推定される荒神曼荼羅(現在は個人蔵)は、三宝荒神を主尊として那行都作神・多波天王(多婆天王)などの眷属神が描かれる。 その主尊の荒神像は、忿怒相で赤肉身・八面八臂二足で右膝を高く上げる邪立走勢を取る。 類例として阿名院[岐阜県郡上市白鳥町長滝]蔵の八面八臂忿怒尊像が有り、「蔵王権現の姿態を借りた荒神像の異形」と考えられている。
蔵王権現と荒神を結び付けた説は、荒神の儀軌・次第等の諸書にはみえないことから、修験の限られた環境で成立した特殊な説と思われる。 『神道集』では荒神を一面三目二足とする点、この荒神曼荼羅は『神道集』と直結する図像とは言えないが、荒神と蔵王権現との習合説が背景にある蓋然性は高い。
(高橋悠介「個人蔵・荒神曼荼羅について」、金澤文庫研究、339、pp.37-46、2017)

麁乱神

通説では荒神と同義とする。

『諸山縁起』によると、役行者が大峯を出て、愛徳山に参詣する間、発心門に一人の老者がいた。 老者は「吾は百済国の美耶山に住む香蔵仙人なり」と名乗り、「熊野の本主は麁乱神なり。人の生気を取り、善道を妨ぐる者なり。常に忿怒の心を発して非常を致すなり。時々山内に走り散りて、人を動かし、必ず下向する人のその利生を妨ぐ。その持する事は、檀香・大豆香の粉なり。面の左右に小く付くれば、必ず件の神遠く去る。その故に南岳大師の御弟子一深仙人の云はく、「人、もろもろの麁乱神を招き眼を奪ふことあらば、檀香・豆香を入るれば皆悉く去り了りんぬ」と。その故に、大豆を粉に作して面に塗れば、必ず障碍する者遠く去るなり。その処は、一に発心門、二に滝本、三に切目なり。山中に何の笠をば尤もにせん。那木(梛)の葉は何ぞ。荒れ乱るる山神、近く付かざる料なり。金剛童子の三昧耶形なり。而るに不祥なるは松の木なり。この事を能く知り、末代までの人に伝へ御せ」と説いた。

『山家要略記』によると、麁乱神は十禅師と同体である。

常随魔

含光『毘那夜迦誐那鉢底瑜伽悉地品秘要』[LINK]には、
「恒常に一切有情に随逐してその短を伺求す。然し天魔・地魔は爾らず、唯だ時には来りて障難を作す。毘那夜迦は常に随いて障難を作す。故に常随魔と名づく也」
と説く。

元品無明

『織田仏教大辞典』の元品無明の項[LINK]には、
「中道実相の理に迷ふものを無明と名け、其の無明に浅深麁細の別あれば、天台の別教は之を十二品に分け、円教は四十二品に分つ、其中最も微細深遠なる元本の品類を元品と云。是れ一切衆生の迷ひの元初根本なれば根本無明と云ひ、此の無明真如の無始と共に無始なれば無始無明と名く。されば此の元品無明が無始生死の根元なり」
とある。

金剛智訳『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』一切如来大勝金剛心瑜伽成就品第七[LINK]によると、金剛手の説法の会中に「障者」が忽然と現れた。 仏が金剛手及び諸菩薩に「一切衆生の本有障は、無始無覚の中より来たる。本有倶生障、自我所生障、無始無初際の本有倶本輪なり」と告げると、「障者」は忽然と身を現して金剛薩埵の形となり、遍身より光を放って会中の諸大菩薩を照らした。 金剛手は仏の聖旨を承けて「自性障の金剛頂法」を説き、「自性障」は此の語を聞き終えて忽然と消えた。
天台宗では一切の惑を「見思惑」「塵沙惑」「根本無明」に分類し「三惑」と称する。 安然は『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経修行法』巻上[LINK]で「障者」について「一切衆生其れ迷惑する所にして無始の無明住地を倶本輪と名づく。本有の思惑を倶生障と名づく。本有の見惑を自我障と名づくと。諸経論に煩悩障・所知障と云う。煩悩障とは見・思の惑と名づく。所知障とは事を障るを塵沙と名づけ、理に障るを無明と名づく」と解釈し、「自性障」のうち、「本有倶生障」を「思惑」、「自我所生障」を「見惑」、「無始無初際本有倶本輪」を「根本無明」に配した。
(大鹿眞央「東台両密における『瑜祇経』解釈の伝承と展開 —安然の自性障解釈を中心に—」[LINK]、智山学報、69、pp.309-325、2020)

『瑜祇経』の経文中には荒神の名は見られないが、注釈の中で、この「障」は毘那耶迦とも荒神とも解釈された。 例えば、澄豪談・光宗筆録『瑜祇経口決抜書』には「無始無覚ハ無明。本有倶生障ハ思惑。自我所生障ハ見惑。惣シテ見・思・無明三惑ヲ以テ障者ノ体ト為ス。此ノ三惑ハ衆生ノ無始本有所具ニシテ即チ本有也」「此ノ障トハ毘那耶伽也。是レ即チ荒神也。大日経義釈ニ毘那耶伽ヲハ、衆生ノ念念荒神〈妄心〉ト釈セリ。此ノ毘那耶伽トテ障礙ヲ成ス者、行者念念所起ノ心也」とある。
(高橋悠介『禅竹能楽論の世界』、第2章 荒神の縁起と祭祀)

「元品無明」としての荒神は、しばしば「多婆(多縛)天王」の名で呼ばれた。
例えば、『仏説宇賀神王福徳円満陀羅尼経』には、
「荒神の上首多婆天王は元品無明是れ也。三神の使者は貪・瞋・痴の三毒也」
と説き、『荒神縁起』には、
「宇賀神王福徳円満陀羅尼経云、多婆摩醯首羅天とは、一切衆生の無始本有所具の元品無明王是れ也」
とある。
また、光宗『渓嵐拾葉集』巻三十六(弁財天法秘決)[LINK]には、
「三世の諸仏は衆生の為に福智を施すと雖も、荒神上首多縛天王は瞋を成し、三神を遣し衆生の福恵を奪はしむ。三神とは貪欲・飢渇・障礙等の三悪の使者是れ也。多縛天王とは元品無明是れ也」
とある。

九善鬼

不詳。

十二星宿

不詳。

『普賢観経』

曇摩蜜多訳『観普賢菩薩行法経』[LINK]には、
「釈迦牟尼仏、名毘盧遮那遍一切処、其仏住処、名常寂光(釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる。其の仏の住処を常寂光と名づく)」
と説く。

『称揚勧請句』

不詳。

『天形星秘密心信陀羅尼経』

不詳。
「祇園大明神事」における『天形星真秘密』と同一か。