2015.1.31
音のエッセイ その4:ボートが波を食む音

 子供の頃の遊び場だった多摩川の河原の記憶。
丸子橋のすぐ下にはボート乗り場があった。多摩川の河口から六郷の渡し、矢口の渡し、丸子の渡しと三番目の渡しである。
川遊びと言えば釣りを初め、野球、サッカー、ラジコンボートに飛行機等々、色々あるが、子供の遊びだけではなく大人の遊びのメッカでもある。
丸子橋は河口に近く、流れは緩やかなので危険は少ない。子供の頃にここでボートを漕いだ経験は無いのだが、岸辺に沿って自転車を転がしてボート乗り場に来るといつも見かけたのは男女のふたり乗りであった。
"大人もボート遊びするんだ"、当時はそう思っていたのだが、同時に脳裏に滲み込んでいたのは岸辺に並んだボートが波を食む音である。
擬音語にするならば、”ふたふた”、”たぼたぼ” と言った極めて柔らかい音である。小学校高学年くらいだったろうか、”あのふたり乗りの男女もこの"ふたふた"を聴いているんだろうか?” 思考はそこで終わっていた。

 今はその思考の続きである。このボートが波を食む音というのは、まろやかで癒される音である。春の陽の"ふたふた"も良いが、真冬の木枯らしの"ふたふた"は、これまた心に灯をともすような音である。
ボート乗り場の岸辺を往来する人物のいろいろな事情に合わせて、"ふたふた"になったり、"さぶさぶ"になったりするのだろう。
学生の頃にこんなことが脳裏に浮かんだ。この音は胎児が母親の子宮の中で聴いていた音なのではないだろうか?
羊水にくるまれている胎児がどんな音に曝され、知覚しているかは確かめようがない。カプセルに仕込んだ超小型マイクロフォンで母親の胎内の音を探る技術はあるが、それはマイクロフォンが”聴いた”音であり、胎児が聴いた音ではないからである。
しかしながら、自分には羊水の中で聴いた音の記憶は無いのに、今でもこうして岸辺を歩いてボートが波を食む音を耳にすると癒される。羊水の"ふたふた"とボートの"ふたふた"は同じゆらぎ方をしているのかもしれない。胎内回帰と呼べばよいのだろうか?

 ボートを降りたあとの男女の行方は小説家に任せるにして、遠い羊水の音の記憶はこうして紡がれるのかもしれない。


関連リンク:
丸子の渡し 外部リンク:"写真が語る沿線"より

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