2015.10.17
人物エッセイ その3 Stephen Stills考

 スティブン・スティルス 1945年1月3日、北米はテキサス州ダラス生まれ。
バッファロー・スプリングフィールド、CS&N、マナサス等のバンド、およびソロ活動で知られるマルチプレイヤー、シンガーソングライターである。

 軍人の家庭に生まれ、父親の勤務地の関係で幼少期をフロリダ、ルイジアナ、中米はコスタリカ、パナマ、エルサルバドルで過ごしている。そのため、ブルース、フォーク、ラテンミュージックを子守唄代わりに聞いて育ったことが彼の源泉になっているようだ。フロリダ大学を中退し、音楽の道に進もうとしたとのことだが、未だ明確なビジョンは定まっていなかったようで、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズのようなフォークシンガーが注目されていた時勢に押されて、グリニッジ・ビレッジやCafe Au Go Goと言ったフォークミュージックの登竜門的なコーヒーハウスからキャリアをスタートさせている。

 多くのミュージシャンの例に洩れず、ハイスクール時代にはギターをバリバリ弾いていたようだが、スティブンらしさはバッファロー・スプリングフィールドの1967年リリースの2枚目のアルバム ”Again” で突然変異的に現れたようである。いつ頃そのようなアイデアを思いついて練習していたのか興味は尽きない。”Bluebird” という曲である。ここで聴くことができるアコースティックギタープレイには様々な風味が隠されている。アパラチアン山脈のいわゆるマウンテンミュージックの中でもマイナーペンタトニックなものから、ミシシッピーブルース、インドのシタール、沖縄民謡のようなエスニックなものまで多彩である。オープンチューニングを施したギターを抱えて日々試行錯誤していた様子を想像してしまう。
 細野晴臣のように様々なエスニックミュージックを聴いていると、民族、言語は異なっていてもうっすらと4度5度の通奏音(ドローン)が聴こえてくる経験はないだろうか? スティブンのドローン重視と半音下げて弦の緩い張力を活用した大胆なビブラートは日本の琵琶と通じるところがある。スティブン自身が言うようにジミ・ヘンドリクスにも共通項を感じていたようである。
 何かに覚醒されたり、閃く者というのは凡人には理解し難いところがある。いや、旅先で食す現地の食べ物に舌鼓を打つのは凡人でも出来る。そのようなものかもしれない。ほんの少し違うとしたら、やはり幼少期に摂取した様々な音楽的なゆらぎが味覚の幅を少しだけ広げたのかもしれない。

 バッファロー分裂後、時は1969年。次の活動準備に入っていたスティブンに映画音楽のオファーが来た。俳優、ピーター・フォンダからのテーマ曲依頼であった。イージーライダーである。この映画のDVDのメイキング編でのピーターの回顧によると、スティブンに編集中の試写を見てから引き受けてくれるか否か決めて欲しいと依頼した。スティブンは試写を観終わってからかなり衝撃を受けたようで、用意して来たギターケースを開けようともせず、無言でその場を出て行ったとのこと。
 この映画の生まれた背景をよく表したエピソードだと思うが、封切り後、主人公のピーター・フォンダとデニス・ホッパーの2人がニューオーリンズ郊外でライフルで撃ち殺されるラストシーンでは南部の州の観客は喝采したとのこと。カリフォルニアからバイクでやってきたヒッピーのような風体の若者に南部の人が露骨に拒否反応を示す劇中のシーンが現実のものであることが証明されてしまったのである。
 スティブンは自分の身に降り掛かってくるかもしれない恐怖を感じたのだろうか? 幼少期を南部で過ごしていることもあって、劇中のライフルを構えた南部の人の気持ちをなんとなく汲むことができたのだろうか? いずれにしても複雑な心境だったようである。
(次にボブ・ディランに依頼が行ったが、数行の歌詞をメモに書き留めたものの、断っており、最終的にByrdsのロジャー・マッギンがそのメモの続きを補作して ”Ballad Of Easy Rider” となった)

 CS&N結成のいきさつはスティブン曰く、お互いに面識のあった3人だったが、ある友人の家で3人が集った機会に試しにハモッってみたらとても良い感じだったとのこと。居間やスタジオのように自分と相手の声が聞き取れる環境なら申し分無いのだが、これがロックのような大観衆を前にしたライブステージでは勝手が違って来る。彼らがデビューした1969年当時はボーカルマイクの音声はアンプで増幅されてステージから観客に向けて放たれていたが、自分が発する声はやはりアンプで増幅された自分たちの楽器の音にかき消されて殆ど聴こえないものである。この為、ハモれているのか外れているのか判らず、自分のキーを信じて歌うしか無いのである。
 ウッドストックで初めて大観衆を前に披露する ”Suit Judy Blue Eyes” をスティブンのアコースティックギター1本で臨んだのは、たとえレコードバージョンのような楽器アンサンブルで演奏したとしても、自分たちへのボーカルの”返し”が無いので3声ハーモニーに不安を感じたのではないだろうか? 
 CSN&Yとしての初のライブアルバム ”4 Way Street” では、4人はレコードバージョンにおける自分のパートから逸れたりすることがある。スティブンはそれが甚だしいように感じる。当初はライブならではのアドレナリン作用なのかと思ったりもしたのだが、故意にパートを外して、他のメンバーが歌っているキーとズレていないかを確認したかったのかもしれない。
 恐らく彼らが”返し”を強く望んだことで、今では不可欠となったPAシステムが生まれるきっかけになったのではないだろうか? ステージ上にボーカル専用のモニタースピーカーが用意されるようになったのは1974年頃だったろうか。

 CS&N、CSN&Yのレコーディングではスティブンが殆どの楽器を多重録音していることが知られているが、サウンドの明確なビジョンがあったのだろう。ただ、この頃には何曲かに録音のピークレベルがオーバー気味で歪んで聴こえるものがある。グルーブ優先でそうしたことには目をつぶったのだろうか?
 また、スティブン自身が拘ったのか、ミキシングエンジニアの裁量に任せていたのか判らないが、バッファロー分裂後のPOCOのクリアなトーンとは異なっていた。リバーブ処理に頼らないドライなトーン、同時期のByrdsやBandのようなトーン、カラっとしたカリフォルニアではなく、高温多湿の南部指向と言ったらよいだろうか?
 3声ハーモニーの低域がこもりがちな部分も散見されるが、3人の個々のボーカルトラックで低域を削るなどのイコライジング処理をしなかった様子が伺える。あまりいじりまわすのはお気に召さないのかもしれない。
 一方、スティブンのトレードマークのようになってしまった、ボーカルやギターの1トラックを疑似ステレオ化する処理はお気に入りだった様子。これはリスナーにも好き嫌いが分かれたようである。あの時代のスタジオ録音ではエレキギターの扱いは大方、定石が見えていたのに対し、スティーブンのようにアコースティックギターを前面に押し出す、奇麗に録音して聴かせるというのは試行錯誤だったのではないだろうか? CS&NのファーストアルバムよりCSN&Yの ”Deja Vu” の方がクリアなトーンになっているところをみると、なにか良い方法を探し出したのかもしれない。

 16チャンネルのマルチトラックレコーダーが登場し、スティブンだけがスタジオで ”残業” を繰り返したことが語られているが、CとNの ”スティブンの好きなようにやらせていた” というコメントから彼のパーソナリティを伺い知れるようだ。

"STEPHEN STILLS" by Stephen Stills 1970

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