2001.1.7
耳の文化と舌の文化

楽器の音色というのはなかなか一筋縄ではいかないものだ。文化というものを引き摺っているからだ。たとえばシタールが使われた音楽を聴くとどうしてもインドを連想してしまう。
ジャワカレーのCMにガムランを使ったり、ポテトチップスのCMにバンジョーを使ったりするという発想を責めることは出来まい。ところでチェロの音色は紅茶とか、高級車とか、そういうCMによく登場する。お茶づけのCMにチェロは似合わない。

自分が音楽を制作するときにギターやチェロが都合が良いと思うのは民族楽器ほどには文化を引き摺っていないからである。(もちろんひとことでは片付けられない各々の文化はあるのだろうが)音色としての普遍性を獲得していると思う。
ところがそこへひとたび民族楽器を入れるとやっかいになる。バンジョーを入れれば、自分もそうだし、聞き手も恐らくはバンジョーが使われる音楽を連想してしまうだろう。
いつも自分に言い聞かせている(こじつけているのかもしれない)のは、「だってバンジョーを入れると美味しくなるんだから...」ということである。この際文化は置いといて、「今のこのお膳がいかにしたら美味しくなるか・・・なんだから」。でも口に合わないという方には御免なさい。
自己弁護するようだが、お好み焼きにマヨネーズをかけるようになったではありませんか。良く考えればお好み焼きのベース素材は洋の東西には無関係だし、むしろそこに付け加える揚げ玉とかタレのようなオプションに文化が入り込んだのだと思う。お好み焼きが日本のものだと思う方が無理があるのかもしれない。どこかの文化圏でも同じものを楽しんでいるのではないか?

自分が製作し、聴かれる音楽というのはそういう文化が渾然一体となっている状態でありたいと思う。ことさら自国や他国の民族音楽をアピールするのではなく、自分が馴染んで来た味で自然に響けば良いと願っている。そして舌のように敏感であらゆる文化に適応(あるいは鈍感な?)できるような耳を持ちたいものだと思う。

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