98.8.5
さわり雑感 人は何故さわりを付けるのか?

7月の終わりに武蔵野音楽大学の楽器博物館に見学に行った。 弦楽器を弾く人ならば必ず経験したことがあると思うが、左手の弦の押さえ方が悪いと指が隣の弦に軽く触れてしまい、ビ〜〜〜ンという濁った音色をだしてしまう。このビ〜〜〜ンという音色を嫌う人と、この音色に惹かれる人が居たことだろう。自分は幸か不幸か後者である。邦楽の世界ではこうした現象ををさわりと呼んで三味線や琵琶では指が触れなくても自然に鳴るように工夫されている。今までこうした工夫の存在は三味線や琵琶、インドのシタールやタンブーラしか知らなかったが、今回の見学で弦楽器に限らず打楽器、ピアノ、管楽器にまでさわりが付けられている事例を知って驚いた。

・ウィーンのJoseph Brodmann、1820年製作のピアノにはペダルを踏むと紙の帯が弦に軽く触れる装置がついている。
・アフリカンスリットドラムは木をくり貫いた木魚のような構造で、その内部に植物の茎を乾燥させたような?藁状のものが多数植え込んであり、叩くとそれがびびる。
・アフリカのサンザというサムピアノにも指ではじく鉄片に金属製の小さな輪っかが通してあり、びびる。
・アフリカの パラフォンというマリンバの祖先は共鳴筒(瓢箪をくり貫いたもの)に小さな穴を開け、そこに蜘蛛の粘膜を貼って「びびり」が出るようになっている。
・オセアニアの笛にも同じように穴に薄紙状の膜が張ってあるものがある。

人間はどうしてこんなにさわり=びびり、濁った音にこだわるのだろう?声にしてもそうだ。ヴォーカルでも感情がこもってくると都はるみみたいに「あんこ〜〜つばき〜は」と唸るし、アダモやルイ・アームストロングのハスキーな歌声もいいもんだ。物売りの「きんぎょ〜え〜きんぎょ」も韓国のパンソリという歌唱法もモンゴルのホーミーも濁っている。
そう考えてみるといわゆる西洋クラシック音楽の濁りの無い音色やベルカント唱法は味気なく思えてくる。本来は濁った音色が好きなのに、濁りを濾すことに努力してきたクラシック音楽の音色の方がむしろ特殊なものに思えてくる。(ただ、これは音をひとつの要素として扱い、構築したときに奇麗に響かせることを狙った、ひとつの姿である。)
純粋に手慰みの民族音楽から、たしなみ、教養としての音楽が生まれてくると、びりついた音、濁った音=下品という観念が働いたというのもあるのではないか?
アジア、アフリカからいくつかの擦弦楽器がヨーロッパへ渡り、バイオリンに変化していったが、初期のバイオリンは女性のヒステリックな声のようで、一部の社会では好まれなかった時代があったそうである。

限られた素材、環境の中で民族楽器は生まれた。その行為は自然の木や水や風が奏でる音とは一線を画す音を目指すものであったろう。木の実や果実の汁を飲むといった採取生活から出発して酒の作り方を編み出したように。
自然のままの素材で作った楽器の音色は混ざりものが多いが、それを少しずつ濾過(引き算)していこうという営みはまったく自然なものだと思う。(人類は醗酵して出来た酒を蒸留して最後にスピリッツを取り出したではないか。)人はその行為を洗練と呼ぶかもしれない。
暫らくは濾過された音色をいいなと感じていたが、ある日、なにか物足りなさを感じる。 そこでさわりのように何かを付け加えて(足し算)いこうとする営みも同じようにまったく自然なものだと思う。(人類はスピリッツの果汁割りやカクテルを発明したではないか)。この行為は創造と呼んでよいのではないだろうか?
こうして、祖先はまざりものを足したり、引いたり加減しながら音楽と酒を楽しんできたのではないだろうか?
付け足すと言えば、それ自体ではちっとも美味しくないが、料理に少し足すだけでいっそう美味しくなるスパイス。スパイスもさわりと言えまいか?。

物事はランダムな方向に向かっているものだ。(科学的にはエントロピーは増大してゆくと言う。蚊取線香の煙が立ち上り、暫らくすると部屋中にまんべんなく煙りが行き渡る等)
人間の営みのひとつに秩序を維持していこうとする行動がある一方、余裕が出来たり、その状態に慣らされてくると乱れを許容したり、わざと乱そうという意識が働くものらしい。
いつだったか、こんな話題をニュースでやっていた。
ある工場に機械部品を作る工員が居た。彼は同じ物が均一に出来るように努力する。しかしちょっと気を抜くと、不良品が出来てしまう。今まではそれを全て捨ててしまっていたが。最近時間的な余裕が出来、不良品の形が面白いのに気が付いた。それからは彼は面白い形の不良品が出てきたらコレクションするようになってしまっ た。そして社内の文化祭に展示することになった。

冒頭で紹介した弦に指が軽くふれてしまい、ビ〜〜ンと鳴ってしまった音も、最初は出てしまっては未熟な演奏だと思われる音色であったものだが、誰かがそれをいい音色だと感じ、積極的に出るようにしてしまったのだろう。もしこうした余裕が無かったら人間にとっての音楽はこんなに豊かなものにはならなかっただろう。

常識から外れたもの、周りとは異質なもの、乱れたものと時々仲良くすることで人類は延々と営みを続けてきたに違いない。さわりを付ける動機とはこんなところにもあったのではないだろうか?

Special Thanks To Ito,Mayumi

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