2006.11.5
アメリカ南部

 アラバマ、ルイジアナ、ニューオーリンズ、ミシシッピー川、バイヨー、南北戦争、奴隷、綿花、ナマズ、ザリガニ、ケイジャン料理、マルディグラ、人種差別、ジャズ、ブルース・・・・ アメリカのポピュラー音楽では避けては通れない必修科目であろうか。
最近少しづつ、アメリカ南部にまつわる情報が増えて来て、若かった頃になにげなく聴いていた"あの曲"の生まれた背景や、「こんなことを歌っていたのか」とか、「そういうことだったのか」という発見は少しずつだが自分の人生がちょっぴり豊かになったような気がする。 音楽や映画や旅行から得た"点"の情報が徐々に"線"で結ばれていくのが面白い。
中学生の時にイージーライダーで見た南部の景色は、物語りの雲行きが怪しくなるとともに重苦しく、主人公が旅をスタートさせたカリフォルニアへ戻りたい気にさせたが、フォレスト・ガンプで見た緑深きアラバマの景色は包容力と優しさに満ちていた。 99年に仕事でルイジアナ州バトンルージュを訪れたのは7月のことで、日本と同じように蒸し暑く、蝉の音が聞こえた。フォレストの家の玄関の扉が網戸である理由が良く判った。
フォレストガンプは50年代〜80年代にかけてのアメリカ現代史のダイジェスト版とも言える映画だが、音楽も当時のヒット曲がその時代の生き証人のように次々と出てくるのが嬉しかった。 中でもフォレストがヘリコプターでベトナムの戦場に到着するシーンではC.C.R.のFortunate Sonやジミ・ヘンドリクスのAll Arong The Watch Towerが歌詞の内容からしてズバリはまっていた。
 ところで、ロックの世界では南部出身というとオールマンブラザースバンドが良く知られているが、南部を志向していたC.C.R.やドゥービーブラザースはサンフランシスコ出身だし、スティーブン・スティルス率いるマナサスはロスアンジェルス。同じロスを拠点としていたポコのギタリストのポール・コットンも度々、南部への熱い思いを歌っていた。 ブリティッシュ系はあまり馴染みがなかったのだが、60年代前半頃からアメリカ本国より先にイギリスの白人がブルースに熱中していたというのもお遅れ馳せながら最近になって知ったものである。
そんなように、ミュージシャン達が磁石に引き付けられる砂鉄のようにアメリカ南部の方角を向いていたのだと判ってきたのはここ数年のことである。
いったいなにがそれほどまでに彼等を南部に駆り立てたのであろうか? フォレスト・ガンプを観ると、南部にはアメリカ人の郷愁を誘うなにかがあるようだが、それだけではないようだ。 自分達には無いものに惹かれるのだろうか?
小学生の頃、当時アメリカから来た子供向けテレビドラマで邦題「ちびっ子ギャング」という番組があった。 恐らく20〜30年代の頃のトーキー映画をテレビ向けにしたもので、弁士と音楽がアフレコされているものであった。 映写機の速さの関係で早送りで子供達が走り回るのが滑稽なのだが、黒人も白人も一緒になって悪戯に明け暮れている様子をギャグ仕立てにした内容であった。 登場する子供達の暮らしぶりは貧しいが、そんなものは跳ね飛ばすようなエネルギーだった。 遊びに行きたいのに親から赤ん坊のお守を言い付けられて、揺りかごを揺する役目を飼い犬に押し付け、こっそり遊びに行ってしまうシーンを良く覚えている。 そんな舞台は今思うと恐らくは当時の南部だったのではないだろうか?
けして美しいものではないのにほっておけない、また振り返りたくなる、仕舞にはやめられなくなる。
やはり歴史を抜きにしては考えられないということなのだろうか。 建国230年はけして長い歴史ではないのだが、その短い時の流れの中で起こっていた事件や人、自然の営みの振幅はとてつもなく大きかったということなのだろうか?
ハリケーン・カトリーナのように、この先の未来にも影響を与え続けるのだろうか?100年先のジャズやブルースはどうなっているだろうか?

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