2007.4.1
失神する音楽

 週末、FMを聴いていたら番組の中でDJが、「ゴスペルコンサートの素晴らしい声の波に打たれて失神した人が居たと」いう話をしていた。思い出したのは10年ほど前に観た、北米はアパラチアン山脈地域の音楽文化を紹介したビデオである。広いアメリカ合衆国の中でも地域によって多彩な文化があることを教えてくれる内容であったが、興味深かったのは、教会のミサがカントリーミュージックのライブそのままという様子を紹介したものである。
牧師さんがボーカルで、バンドのメンバーは教会関係者や信者が務めている。歌は良く知られたゴスペルナンバーなのだが、所々、牧師さんの説教が混じっている。もともとカントリーミュージックの素材には賛美歌や聖書の言葉をそのまま用いた宗教歌が少なからずあるので、なるほどとうなずけるのだが、興が乗ってくるにつれて、ミサに参加している信者がひとり、またひとりと失神して倒れてゆくのである。周りの信者も別に慌てる様子も無く、椅子に座らせる手助けをする程度で、皆、手を頭の上に突き上げて、身体を揺すりながら牧師の歌に合わせて歌っている。仕舞にはバンドのメンバーもフラフラしだして演奏から脱落してゆく。最後に牧師さんは汗びっしょりになって意識もうろうとなりながらもなんとか説教で締めくくっている。ビデオは「どこか原始宗教の儀式のようだが、まぎれもない、これも現代のアメリカの一文化なのである」というような結び方をしていた。
日本でも1960年代後半、ビートルズやグループサウンズのライブで失神するファンや、演奏者が居たものである。そんな様子を見て、「ビートルズは宗教と同じだね!」、「ロックなんぞ見に行ったら停学だ!!」と眉をひそめていた当時の大人のコメントも今となっては懐かしい。
京都の天台宗のお寺で声明に参加しているお坊さん曰く、「自分で声を出していると、だんだん気持ち良くなって意識がもうろうとしてくる」と言う話を聞いた事がある。
音楽は人間を恍惚とさせる側面があることを、いにしえ人は祭礼や儀式を通じて経験的に知っていたのだろう。 恍惚な状態をして神との交信ができたと考えたり、「今日のジミー・ペイジのギタープレイは神懸かり的だった」などと言ったりする。一方、同じアパラチアン地域の中にも音楽は人を惑わすとして音曲を禁じるキリスト教の宗派が少数派ながら、今も存在するということを先のビデオでも紹介していた。
ところで、ヘビメタバンドを標榜していた聖飢魔IIのデーモン小暮が彼らのデビュー目的を悪魔教の布教と称し、ファンを信者、ライブをミサ、CDを教典と呼んでいたのは音楽の本質を突いた心憎いブラックユーモアではないか。
さて、自分は音楽を聴いたり演奏していて失神した経験はないのだが、自分は音楽を自己プロデュースしてゆく立場なので、客観的に醒めた状態で音と接しがちで、どうしても分析的に聴いてしまう癖が抜けきれないのである。
死ぬまでに一度でいいから失神するまで身も心も音楽に酔ってみたいものである。

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