2008.3.15
長沢 勝俊のこと

 2008年1月10日、敬愛する作曲家、長沢 勝俊が亡くなった。1923年生まれの84歳であった。
私が初めて氏の作品を知ることになった一枚のレコードがある。 1974年の初頭にNHK-FMの" 現代の音楽"という番組で放送された日本音楽集団による三木稔の作品、"ダンスコンセルタント"によって邦楽器によるアンサンブルというものを知り、自分の中でぼんやりと思い描いていた弦楽アンサンブルへのヒントになったのであった。日本音楽集団について調べていると、長沢 勝俊という作曲家が立ち上げに関わったことを知り、氏の作品を探してレコード店を訪ねるのだが、なかなか見つからなかった。なるべく大きなレコード店で現代音楽>邦人作曲家という絞り込みで探してゆくのだが、黛、芥川、武満という名前はすぐ見つかるのだが、長沢はなかなか出てこない。半年ぐらいたっただろうか、渋谷駅南口の東急プラザ4階のレコード店で遂に見つけたのは、RCAから出ていた”人形風土記”と”子供のための組曲”を収めた作品集*1であった。家に急ぎ、早速聴いてみての感想は、“大当り!"。その後、生涯の愛聴版になるのであった。愛聴版の中には最初はそれほどではないが、何回か聴く毎にじわじわと好きになってくるレコードもあるのだが、一回聴いただけで好きになってしまう。いや、そうではない。音楽の方から「あなたのことが好きでした」と告白されたかのような目眩を感じた。これはそういうレコードだったのである。

 ところで、私が子供の頃、お世話になったのがウィークデーの毎日夕方6時から放映されていたNHKテレビの連続人形劇。チロリン村とくるみの木や、ひょっこりひょうたん島が懐かしいが、1973〜75年は南総里見八犬伝を題材にした”新八犬伝”であった。出演する人形の顔や衣装が魅力的で、音楽に邦楽器が使われていたこともあって、当時18歳の私も毎日欠かさず見ていた。それに続いて1975~77年放映の"真田十勇士"では日本音楽集団が音楽を担当していたこともあって、氏が人形劇と供に歩んでこられた道のりが想像できるのと同時に、単なる劇判音楽ではなく、演劇・美術のようなビジュアルなものと対等にコラボレーション出来る音楽の有り様を実感させられたものだ。

 氏は私の父と同じ生まれ年である。父からは戦争体験と終戦後の苦難を聞かされてきたのだが、氏が機関誌*2で述べられていた次のような言葉は、音楽が身の回りに溢れ、好きな音楽を自由に選び穫ることができる時代に私は育ち、今、自分が歩いている道はどれも先人が切り開いた道であることを思い知らせてくれる。

「ぼくらは音楽にまず飢えていて、それから自分のものを探すのに長い時間がかかりましたからね。」

*1:"人形風土記" 1972年版 RCA JRZ-2523

*2:"音に命を吹き込む・・長沢音楽のすべて 日本音楽集団40周年記念"より

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