奥多摩物語「刻」

SEMI

時の轍
遠い過去から続く
時の車輪はかすかな音をたてて廻る
その音に耳を澄ませて聴き入る
伝えたかったであろう声が聞こえる
伝えたかったであろう姿が見えてくる



犬切峠

 多摩川水源の笠取山直下に位置する一之瀬部落と高橋部落に跨がる峠である。昔、陽が暮れかけた峠道でひとりの侍が自分をつけてくる者の気配を感じ、振り向きさまに刀を振ったところ手応えがあった。狼が逃げて行くのが見えたが、そこにはしっぽが落ちていたという言い伝えがある。古くは犬尾切り峠と呼ばれたが、いつしか言い伝えの通りに尾が取れて現在の名前になった。
最初にこの峠を訪れたのは1980年の雨振る9月の末であった。霧に煙るひどく静かで寂しい峠であった。


藁の馬

 藁で編んだ子供のおもちゃである。昔は藁で様々な日用品を編んだものであるが、多摩川源流域には稲作できるような平地は無く、藁も遠くから仕入れてきたものと思われる。子供の見た夢に出てきたのは、戦が終わり、跨がる主人を失って彷徨う馬であろうか?


鷹の目

 尾根の周囲の上昇気流に乗りながら鷹は獲物を探して弧を描く。彼が低空飛行で峠をかすめてゆくときにちらっと一瞬、私と目が合ったような気がした。


風は魂の戸を叩く

 1985年8月12日、夕刻、私は高橋部落の友人宅の軒先で夕暮れの空をバックに蜘蛛の巣の写真を撮ろうとしていた。その時、遠くにジェット機の機影を見た。それから数時間後、ラジオからは日本航空の羽田発大阪行き123便が相模湾上空で消息を絶ったことを報じていた。時間が経つにつれて長野・群馬県境付近で何かが炎上している情報が入り、ラジオはつけっぱなしにしておいた。友人はこの付近でも消防団から捜索活動の呼び出しがかかるかもしれないと言い、緊張感が高まった。夜が明けて123便の墜落地点は群馬県多野郡上野村の御巣鷹山と特定され、捜索の模様が時々刻々と報じられた。たまたま、在日米軍向けのFENに周波数を合わせると、緊急事態に対応する特別プログラムらしく、静かな音楽を流し続けていた。
 2日後に東京に戻り、テレビを見ていると123便の搭乗者名簿が繰り返し報じられていたが、その中に小学校の時の近所の幼なじみと同姓同名を見つけた。NHKに照会したところ、彼に間違いなかった。翌年の1986年5月、私は利根川水系の一つである神流川の源流である御巣鷹山に慰霊登山をした。墜落現場の足場の悪い尾根に立ち、123便が飛来した方角を望むと、奥秩父の三国峠が見え、その向こうは笠取山がある。
 この曲は犠牲になった幼なじみを含む520名の方々に捧げる鎮魂曲である。


旅人は黄色い夢を見る

 笠取山から更に西に奥秩父の背骨を行くと雁阪峠がある。ここは秩父往還の要所で古くから甲州と武州の行き来が盛んであった。昔人はどんな理由があって旅をしたのだろうか? 日本の村社会の中で、地域を又にかけて行き来するのは行商人か渡世人といったところだろうか? 中には旅の途中で病にかかり、行き倒れになる旅人も居たことだろう。悪寒に朦朧としながら見た夢はどんなものだったか?


眠る者に霜は降りる

 運悪く旅の途中で黄泉の国へ足を踏み入れた者からは温もりは去り、地面の土や草との区別は無くなり、霜は平等に降りるのである。


魂は峠で振り返る

 1986年5月の御巣鷹の尾根への登山は、車が入れる林道の終点から杣道を行くこと3時間を要した。神流川の源流も多摩川と似ており、深く険しかったが山桜やサツキが美しかった。帰途、私は小さな尾根を何度も越える度に、幼なじみが眠る方角を振り返った。


ひとさらい

 子供の頃、親から「言う事を聞かない子はひとさらにに連れていかれるよ」と言われ、夕暮れ時に怖いと思った笛の音はひとさらいが吹くものと思っていた。その笛があんまさんの笛と知ったのは高校生の頃である。


折れた樹

 晩秋の水源。木の葉をすべて落とした樹たちはおしゃべりをやめ、賑やかだった夏の季節の想い出に耽る。野分で幹を折られた樹は想い出すべき記憶も無く、ただ露頓木となるのを待っている。


逃がした鹿の目

 笠取山周辺を歩いていると、よく鹿に出くわす。縄文びとは槍や弓を手に鹿を追い詰めたであろうことを想像してみる。今日の獲物は彼らより少しばかり上手だった。取り巻く彼らを軽々と飛び越えて沢のさらに上流へ逃げて行った。途中でちらりとこちらの方を振り返ったその目は、猟る者、猟られる者、いずれに生まれてこようとも違いが無いように見える。

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Produced, Composition, Performing, Recording-Mixing, Cover Desing
By Isogawa, Shin-ichi
2009年制作


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