2004/02/29 今日の読書:「ガンダム・センチネル ALICEの懺悔」
なんか久々に読みたくなったので書庫(という名の段ボール箱)から引っ張り出してきた。高橋昌也著、14年前に出版されたガンダムの小説である。
全てのイラストをカトキハジメが行っているのだ。メカデザインの主流であった大河原デザインとは一線を画したインダストリアルデザインにも似たSガンダムに興奮したものである。懐かしい。
内容は何せ恐ろしいことにバリバリの「軍隊モノ」なので女性が一人も出てこない。F言葉も連発の実に男くさい小説だ。「萌え」よりも「燃え」を優先させた結果、一部のマニアックな人間にしか支持されなかった悲しい過去を持つシリーズだ。
連載そのものは88年から89年にかけて大日本絵画のモデルグラフィックス誌上でプラモデルとの連動企画でやっていた。オレも少ない小遣いをやりくりしてゼータプラスのプラモデルとかを買っていたものである。最近はバンダイがマスターグレードとかでプラモデルを出しているので嬉しい限りだ。
しかし、長らくこのセンチネルシリーズがガンダムの歴史上から「なかったこと」にされていたのは謎だ。当時は大日本絵画がサンライズのご不興を買ったから、という噂がまことしやかに流れたものだが、本当だったのだろうか?
2004/02/28 シリーズ戦国:鳥なき島のコウモリ
明日はアカデミー賞の発表である、頑張れ渡辺謙(挨拶
四国は土佐の長宗我部元親は晩年の蛮行をのぞけば、マイナーながらなかなか優秀な大名だった。元服前は色白で弱々しく家臣から「姫若子」とバカにされていたが、初陣で見事な働きをして以降、「土佐の出来人」と言われた。
それから土佐の七豪族や主筋の一条氏すら滅ぼして、わずか10年で四国を統一してしまったドラマティックな展開となる。ぜひ大河ドラマにしてほしいものだ。
さてそんな頃の元親は長男の弥三郎の烏帽子親(*1)を破竹の勢いで天下統一をすすける織田信長に依頼しようと思い立った。つまりは近畿地方に勢力を拡大し、中国地方にまで伸びつつある信長と同盟を結びたかったのである。
そこで中島可之助(*2)が使者として岐阜の信長の元に赴いた。使者を接見した信長は一言。
信長「元親はムチョウトウノヘンプクじゃな」
可之助「殿はホウライキュウノカンテンに候」
わけの分からん会話である。この部分の解釈については未だに諸説あって信長の言っていることは「無鳥島之蝙蝠」、つまり長宗我部元親は鳥(優れた者)がいない島(四国)で幅を利かせているコウモリみたいなもんだ、との意味である。
それに対して「蓬莱宮乃寛典(漢天)」で、元親は仙人の住む蓬莱宮のある島の夜空に広がる天の川のような人だ、ととっさに返答したのだ。漢天は天の川の見える空のことを言う。
信長はこの時の可之助の機転と豪胆さを喜び、元親の望み通り弥三郎の烏帽子親をつとめることを承知し、さらに自分の一字を与えた。これが後に22歳の若さで散る長宗我部信親である。
……と「土佐物語」には記されているが、実際のところ信長は返答の意味が分からなかったのではないか、と思う。だが機知の働く者を認める男でもあったため、可之助を褒めたという。
使者にはとっさの機転とウィットが必要なのだという現代でも通じる話である。
こういう優秀な家臣を抱えていた土佐の長宗我部元親は信長のいうとおり、「鳥なき島のコウモリ」だったのだろうか?
(*1)
烏帽子親(えぼしおや)、武家が元服する際に頼む仮の親。鎌倉時代には烏帽子を被る加冠の式が行われ、その際に有力者を烏帽子親とした。擬似的親子関係となることで一種の同盟を締結していたのだ。
通例として、実の親から一字、烏帽子親から一字をもらって成人名を名乗ったため、鎌倉武士は名前を見ればたいてい、実の親と烏帽子親が推測できるのである。
(*2)
中島可之助(なかじまべくのすけ)、生没年不明。長宗我部家臣。信長への使者を勤めた以外とりたててエピソードの少ない人物だがこの妙な名前については逸話がある。
彼は若い頃身分が低かったため、せめて名前だけでも上位になってやろうと(名簿を作れば「可」という字は順序からいけば一番上になるのだ)この珍しい名前にしたという。
2004/02/27 内容の濃い一日
体調をなんとか取り戻した(挨拶
気合の入っている時とそうでない時の日記の文章量の落差が激しいオレである。そうそう人生にネタなんかないのだ。
まあそれはさておき、今日は出稼ぎに行く日である。社会復帰を目指してリハビリの一歩だ。信長の野望で大宝寺(*1)で全国統一をやっている場合ではないのだ。
朝:
いつもの通りに起床。飯を食って出動。出掛けにおつかいを頼まれていたので秋葉原で下車。愛三電機へ向かう。まだ朝早かったため、ほとんどのショップはまだ開いていなかった。朝方の帝都はなかなか好きな雰囲気だ。
目的地はケーブル類の専門店でちと素人には入りにくい雰囲気である。目的のものを探すのが面倒だったので、いきなり店員に聞く。
「カテゴリー5のLANケーブル、10mでフラットのやつおくれ!」
愛想のいい店員さんがあっさり探してきてくれて終了。滞在5分。今までの最短記録かもしれん。
昼〜夕方:
中央線に乗って東京を横断。目的地に到着。あとは指示に従ってせっせと働く。とりあえず要求された水準はクリアしたかと思う。
あまりお役に立てず申し訳ない>雇い主の方
夜:
再び秋葉にトンボ帰り。またぞろメッセサンオーの前に行列ができていた。元気がいいのはあの業界だけだなぁ。
その後は久々に和泉師と会って酒を交えつつ歓談。今更ながら明かされる驚愕の事実などもあり、人生について考えさせられた。
深夜:
鼻歌を歌いながら帰宅。さすがにスケジュール満載の一日でちと疲れた。さっさと眠ってしまうとしよう。残り物のご飯でお茶漬けなんぞを作って流し込み、シャワーを浴びて布団に潜り込んだ。オヤスミナサイ……。
(*1)
大宝寺氏(だいほうじし)、奥羽地方大浦の小大名。飛騨の姉小路、蝦夷の蠣崎、房総の里見と並んでシナリオ開始後2〜3ターンで滅亡するのが常。こいつらをプレイするのは上級者のマニアックプレイとされる。
2004/02/26 我ながらヤワな体だ
またまた赤い水星卿に迷惑をかけてしまった。大いに反省(挨拶
ここのところ少し暖かくなってきたので油断したのと、冷蔵庫に残っていた賞味期限のヤバめなものを食べたのが裏目に出て、風邪と腹痛のダブルアタックで倒れている最中。
明日はちと出稼ぎの予定なので、体調を整えてなんとかしたいところなのだが、体調が悪いと文章も振るわないとは。しかし起き上がらなくとも布団の中からノートPCで更新できるのは便利だ。
……大人しく一眠りします。
2004/02/25 M&A点描
まさかマッド・ハウスが買収されるなど夢にも思わなかった(挨拶
慌てて方々に電話をかける始末だ。まあ、その、知り合いもいることだしな。
企業体のM&Aはよく行われるが、買収後会社のカラーが変わったり、製品そのものの存在が消えてしまうことはよくある。Voodooをブッ潰したnVIDIAのようなマネだけはして欲しくないものである。
さて、様々な業種があるこの日本経済において、現在最も淘汰の激しい業界がある。それは製紙業界だ。何せここ2、3年ほどで大手を除きほとんどが新聞の株式情報欄から消えてしまっている。
なにせあの業界は――詳しく書くとオレが東京湾に沈められてしまう――簡単に言うと価格競争がない。どこから仕入れても業務用のロール紙の値段は同じだ。しかも性質の悪いことに値上げをする時は業界内で示し合わせてやるのだ。
まあ、同じことは酒造業にもいえるが、あっちは法律でガチガチに縛られ、ある時は保護されているので仕方がないといえば仕方がない。他にもカメラのフィルムメーカーも寡占状態である。最もデジタルカメラの普及によって今更あの業界に参画しようという物好きがいるとは思えないが、不思議といえば不思議だ。
ある種資本主義経済の定義に反しているような気もするが、そういうものを孕みながら日本経済は発展し、挙句現在では停滞している。そろそろツケが回ってきたということだろうか?
そういえばオレが前に勤務してた会社も資金投入とか買収が大好きだったなぁ。会社がどこかに買われない限り末端社員には単なるお偉方のマネー・ゲームであって、全く関係がない話だったが、ふと懐かしくなった。
2004/02/24 シリーズ戦国:若くして散った男達
toyuune師んとこの8000番を踏み損ねた(挨拶
さて、歴史にIFはない。そういうパターンは出版界の産業廃棄物であるところの仮想戦記モノに任せておけばいい。だが、その「もし」が許されるならその後の展開がどうなったのか、そう考えさせられることはある。
今回は可能性を秘めながら、惜しくも戦場の露と散った若い男達について語ってみたい。この間長寿をやったので、今度は短命だ。
・織田信忠 享年25歳
織田信長の嫡男。父の強烈な印象に隠れているが、地味ながら確実に父と家中の信頼を勝ち取っていった男。長篠の合戦敗北後、風前の灯火となった武田勝頼を追い詰め、ほとんど独力で武田家を滅ぼしている。この頃になると信長は戦場に出ることはなく、信忠が織田家総大将として戦場を疾駆するという図式が見られる。
本能寺の変において、信忠は妙覚寺に滞在していた。謀反を知って父を救助しようとしたが叶わず、自身も二条御所の誠仁親王を脱出させたあと、ここに籠もり光秀軍と激烈な包囲戦を展開した後、自刃した。
信長の弟、長益(後の有楽斎)は二条御所からの脱出に成功していることから、逃れることは可能だった。しかし彼は結局死を選んだ。もし存命だったなら織田家惣領としての存在感から、その後の清洲会議の展開が大きく変わったことは想像に難くない。
・長宗我部信親 享年22歳
長宗我部元親の嫡子。優しく穏やかな性格で家中の信頼も厚く、また大柄な体格にも恵まれ、武勇にも優れていた。当時同盟関係だった織田信長から「信」の一字を与えられ、信親と名乗った。
優れた後継者を得て、長宗我部は安泰かと思われたが、秀吉の九州征伐に従ったことが全てを狂わせていく。
豊後・戸次川をはさみ、島津軍と対峙していた豊臣軍が、無謀な渡河作戦を決行。島津の伏兵攻撃によって豊臣軍は壊滅状態となり、四国勢も乱戦に巻き込まれる。22歳の若武者は父を脱出させたあと、死闘の中、討ち死にする。父、元親はこの息子を溺愛していたため信親の死を知って馬上で泣き続けたという。
これ以降、長宗我部は後継者争いのため家中は分裂していく。あれほど分別のあった元親が諫言する家臣を罰する暴君と化してしまったのだ。結果、徳川の世に長宗我部の家名が残ることはなかった。
・島津豊久 享年31歳
島津四兄弟の末弟、家久の嫡男。早世した父に代わって朝鮮出兵などで活躍した。彼の最大にして最後の戦いは関が原の戦いである。
叔父、島津義弘に従って戦場に赴いたものの、石田三成との確執から島津勢は参戦せず、そうこうするうちに戦の決着が着いてしまった。
島津勢は無謀とも思える敵陣中央突破を敢行し、家康の本陣に向かうと見せかけて方向を転じ、戦場からの離脱を図った。しかし、数で勝る追撃部隊についに豊久は義弘の陣羽織を着て「捨て奸(がまり)」となった。「捨て奸」とは薩摩独自のもので、殿の部隊が死戦して主力を逃がすという苛烈な戦法である。
豊久らは乱刃の中に倒れたが、義弘ら10数名は無事に薩摩に帰ることができた。帰国後、島津の所領が安堵されたことを知った義弘は憮然としてこう言ったという。
「豊久の恨み、末代までには晴らそうぞ」
彼ら薩摩兵が徳川家を執拗に追い詰めるのはそれから300年後の戊辰戦争でのことであった。
2004/02/23 心の奥底に
眠れない夜が多く(決して銀河英雄伝説オンラインのクローズドβテストに落ちたのが原因ではないぞ)、ちと寝酒を嗜む日々である。
それにしてもラフロイグの10年を飲み干したあと、サントリーローヤル12年からサントリー白角への没落は実に早かった。要は金がないのだ。
普段はチーズなどの乾き物でちびちび飲っているわけだが、たまに何か一品作ったりしている。オレの隠れた特技は料理なのだ。
で、料理への欲求がたまってくるとくろい虎師のとこへお邪魔して腕を振るうことになる。
最近はスーパーも夜11時とかまで営業しているので、非常にありがたい。「えどれん」御用達の新小岩西友は1時まで営業しているしな。
ちなみに先週末に作ったのはこの4品。
・麻婆茄子
・広東風煎り卵
・肉もやし炒め
・鶏肉団子鍋
とまあ節操のないメニューである。まあなんだ。ご飯のおかずよりも酒のあたりを作るほうが得意なのだ。まあ、作る時は大皿でどかっと作ったほうが材料費も安いので、とりあえず友人のO師とマコちんを呼び出して4人で臨時の宴会とあいなった。
ここからが本題。
料理というのも手馴れてくると意外と無意識下の作業になる。特に大量の茄子なんかを切ってたりすると特にそうだ。
アニメだのドラマだので女の子が厨房に立って料理をしながら鼻歌を歌う、という場面がよくある。オレも”何か”の歌を口ずさみながら揚々と包丁を振るっていたのだが、たまたま台所にやってきたマコちんが、
「何の鼻歌を歌ってるかと思えば、『バトルフィーバーJ』か」
と指摘したので、何の歌だったかが判明した。ちょうど2番の「♪悪を撃て さあ今だ ペンタフォ〜ス」のとこだったらしい。どうやらオレは無意識のうちにバトルフィーバーJの主題歌を歌うようである。そういえばガキの頃、さんざん見たなぁ。
(いかん、これじゃまるっきり変なヤツではないか)
三つ子の魂百までというか、オレの深層意識下に何があるのか、考えるのも恐ろしい(バカらしい?)気がする。
2004/02/22 本物は一つでいい
更新が遅れたのは決して「藍より青し」のDVDを見ていたからではないことを最初にお断りしておく(挨拶
さて、ここのところどうも寝付けない夜が多い。布団に入ってもごちゃごちゃとロクでもないことを考えるのと、目下頭を悩ませている問題が一つあるためだ。
まあ、こいつに関しては近々決着が着くはずなのでご心配なきよう。
さて、帝都は秋葉原においていつも疑問に思うことがある。それは絵画のキャッチだ。なんで電気街で絵を売っているのか分からないが、オレが知っているだけでも四店舗ある。
路上でオネーチャンが絵葉書を渡しつつ、「お願いしまーす」とか言っているが、あれこそが要注意で、葉書を受け取ろうものなら、たちまちこちらの反論を許さないほど話しかけられてしまう。意志の弱い人は気が付くとクレジットカードにサインをさせられる羽目になるので、無視するにこしたことはない。
そもそも彼女達が売ろうとしているのはクリスチャン・R・ラッセンやウイリアム・デシャゾーのエアブラシで書いた絵のシルクスクリーンリトグラフである。
シルクスクリーンとは孔版印刷、早い話がプリントゴッコなのだ。
だいたい、ああいう絵の下には鉛筆で「98/200」とか書かれていて、200枚刷ったうちの98枚目とかを意味する。これは「エディッション」といわれて、建前上は暗号が若いから品質がいいということはない、とされているが、元々の版が化学繊維なので、枚数を刷ると劣化が始まる。そのため、最初の版のほうが質が高いのは自明の理なのだが、一桁代なんか売りに出すわけも無い。
そのくせそんなもので30万とか40万とか言われるのだからふざけている。人間が嫌いでイルカになりたがっている画家なんぞの作品は真筆でその値段で十分だ。
オレに言わせれば、もしその金額で絵を買うなら骨董屋で松村呉春とかの掛け軸の真筆を買ったほうがいい。小幅なら買えるし、間違いなく本物なら価値もある。
誤解されがちなのだが、日本画の軸物はよほど有名な画家でない限り安いのだ。無名の画家でも良い絵はある。そういうものでも2万円くらいでおつりが来てしまう。
スーパージャンプで連載している「ゼロ」という作品がある。主人公のゼロは本物を作り出す贋作者なのだが、彼の決め台詞はこうだ。
「――本物は一つでいい」
今度絵画のキャッチに捕まりそうになったら、この台詞で撃退することをお勧めする。
2004/02/21 シリーズ戦国:長生きの秘訣
Columに1件追加。ThinkPad 600Eを緊急手術。あとVenちゃんさん、暖かいお言葉ありがとうございます。
織田信長がいみじくも「人間五十年」と敦盛を好んだように戦国時代は人の寿命が短かった。まあ、暴力の支配する時代故に戦場で歿したりするわけだが、普通に生きていてもそれほど長くはない。
上杉謙信49歳、武田信玄52歳、豊臣秀吉63歳、加藤清正50歳。現代の我々から見れば、まだ壮年期の人間だっている。
まあ、謙信は酒の飲みすぎ、信玄は結核、秀吉は女遊びが過ぎ、清正も同じく女遊びから梅毒。自業自得もいいところである。
信長は本能寺で自刃したが、あの性格である。父と同じく高血圧で頭の血管が切れて早々に死んだのではないだろうか。
だが、何事にも例外はあって、時に長寿を誇る武将だっていた。
特にすさまじい戦国時代の「ヨーダ」は間違いなくこの3人。人生を2倍生きた、当時としては脅威の長生きである。
北条長綱(ほうじょうながつな) 享年97歳
龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね) 享年93歳
真田信之(さなだのぶゆき) 享年93歳
北条長綱は北条早雲の三男で「北条幻庵」のほうが通りがよいかも。早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の俗に言う「北条五代」を全て見てきた男。
北条家の外交面を担当し、風雅の道にも長けていた。歴代の「御意見番」であったわけだ。だが、彼の死から8ヶ月後に北条氏は滅亡する。
龍造寺家兼は水ヶ江龍造寺氏の祖。竜造寺隆信の祖父である。
少弐氏の被官として勢力を拡張したが、少弐家の家臣、馬場頼周の謀略によって一族の男子がことごとく暗殺されたため老体に鞭打って頼周と少弐家を滅ぼした。見事、お家再興なったのは92歳の時。化け物である。
真田信之はあの真田幸村の兄。父昌幸の深慮遠謀で関が原、大阪の陣ともに家康についた。これはどちらが勝っても真田の命脈を残す非情の方法だったが、信之は忠勤に励み、上田から松代へと移封され善政を行った。後に「真田騒動」とされたお家騒動をご隠居の貫禄で鎮めて大往生した。
有名どころでは徳川家康75歳、毛利元就75歳、島津義弘85歳などである。
徳川家康は美食を避け、適度な運動(鷹狩が大好きだ)をして、女にも溺れなかった。また医術と漢方薬のマニアでもあった。
毛利元就は酒を一滴も飲まなかった。父が33歳、祖父が39歳、兄が24歳といずれも大酒のため早死にしたのを見て、禁酒を誓ったという。
島津義弘も質素な生活を貫いた。この人には面白い逸話がある。晩年彼は恍惚の人になっていたのだが、食事の時、側の者が「おかかり召されい!(攻撃開始!)」と叫ぶと背筋が伸び、お膳のものをパクパク食べたという。さすが人生の大半を戦場で過ごしただけのことはある。
さて、「プレジデント」などのビジネス誌を見ると、家康などは大人気である。どだい企業の社長さんなどは短命な天才よりも長命な凡才を好むようで、短いが苛烈な生涯を送った武将よりも徳川家康が好きなのだ。
「家康に見る健康法」なんてのもあって(さすがに家康のもう一つの健康法、若い女と床に入るときは感染症を防ぐため処女にしろ、なんてのは書いてないが)世の社長さんの考えることが浅ましく思える。
まあ己が長生きして「大御所」になりたいのだろうが、企業体が大きくなっていくとたちまちそれが「老害」となっていくのだが……。
しかしここにその家康ほど健康に気をつけなくても長生きしてしまった者達がいる。
土岐頼芸(ときよりあき) 享年81歳
今川氏真(いまがわうじざね) 享年77歳
武田信虎(たけだのぶとら) 享年80歳
宇喜多秀家(うきたひでいえ) 享年83歳
土岐頼芸は美濃の守護。「鷹を描かせたら日本一」と言われたが、大名の器ではなくマムシこと斉藤道三に国を追われた。その後は越前、甲斐、上総を放浪。最期は稲葉一徹に迎えられ、故郷の美濃で死んだ。
今川氏真は今川義元の息子。義元死後、徳川家康と武田信玄によって国を維持することが困難になり、国を追われた。京で蹴鞠の師をやったりして細々と生きた。
武田信虎は信玄の父。信玄のクーデターで国を追われた。今川家に預けられ、息子の信玄よりも長く生きた。
宇喜多秀家は関が原で西軍の中核として戦ったが敗れて八丈島に流罪。しかし辺境の八丈島で長生きをし、彼が亡くなったのは四代将軍家綱の頃。家康の孫の家光より長く生きた。
彼らに共通することは何か? それは「敗者」なのである。争いに敗れ、リタイア後は悠々の人生を送った。身を削る必要もなく、そりゃ彼らだって長生きをする。
長寿の秘訣は仕事をしないでさっさとリタイアしてしまうこと――。
ビジネス誌が決して書かないであろう、隠れた真実である。
2004/02/20 不思議な料金体系
挨拶のネタが尽きた(挨拶
不思議な話、というのはあるもので……といっても怪奇現象の類ではなく、例えば電流の向きと電子の移動方向が逆なのに数百年間誰もそれを是正しないのはなぜだとか、そういう素朴なものだ。
最近オレが感じていることに、情報通信の料金というのの奇妙さがある。
我が家はADSLの8MBプランで、ADSLモデムから適当なルーターをかましてハブに接続され、3-4台のPCがぶら下がっている。で、アパートの裏側の橋を越えたところに基地局があるらしく、4.8-5MBくらいの速度が出ている。昔誰かが「おー、恵まれてるなぁ」と言っていた。
そりゃあまあ、それなりの知識を持っているつもりなので、今となってはどういう理論で通信ができているのか、というのは分かっているが(*1)、知識のない人は8MBで契約したら、8MBの速度が出るものだと思わないのだろうか?
路上のキャッチや広告でやれ25MBだの光ファイバで100MBだの言ったところで、基地局の隣に住んでいる人間も基地局から遠い人間も同じ料金を払わねばならないのは少々不思議な気がするのだ。
最高時速が200kmの車を買ったら、限界でも時速30kmしかでませんでした、では顧客は怒ってしまう。受けるサービスの多寡によって料金を変動させる――つまり通信速度に合わせた料金体系にして、ADSL8Mプランなら8MBの速度が出たときを最大とし、速度が遅くなるに従って徐々に月額の通信料を下げる。つまり、実測4MBなら半分でよいとかだ。
……となればオレの懐も助かるという妄想なのだが、インターネットサービスプロバイダなどどこを選んでも同じようなもの。結局は速度のアドバンテージを「売り」にしていくしかないのかもしれない。
(*1)
それでふっと思い出した余談だが、今となっては、どこぞのオネーチャンに「インターネットできる?」とか聞かれても「うん」と答え、あまつさえ自宅のセッティングでもしようものなら尊敬のマナザシ(ちと大げさか)がもらえるが、オレがパソコンにハマったころはV30 CPU全盛の頃で、「パソコン通信」をやっていて、「Niftyのフォーラム」に出入りしていることが発覚しようものならオタクの魔女狩り状態であった……オタクという言葉もなかったな。「ネクラ」とか言われ、石もて追われたものだ。
まさに隔世である。
2004/02/19 シリーズ戦国:三たび、謙信
「熱風海陸ブシロード」は何もわかっちゃいねぇ!(挨拶
♪信長秀吉家康をだせばいいってもんじゃないことを肝に銘じてくださーい!
一向一揆起こしますよー!! (by 本願寺)
さて、toyuune師がこのコーナーを気に入っていただけているようなので、調子に乗って継続である。
上杉謙信は武だけではなく、「好学の武人」しての側面も持っていた。いくつか有名な書を残している。例えばこの手紙だ。
「入心さひ音信、ことに為祈念まほり巻数、よろこひ入候。爰元やかて隙うけ帰府のうえ可申候。返々、細々いんしんよろこひ入候、手弥あかり候へは、手本まいらせ候、以上」
『手紙をありがとう。陣中の私の無事を祈って巻数(かんず)を送ってくれたのはことのほか嬉しかったです。戦が一段落しだい帰国する予定ですから、またお話をしましょう。
かさねて、かさねて心づくしの手紙、喜び入りました。
それにしてもまた字がうまくなりましたね。さらに上達するように、私がお手本を書いてあげましょう』
これは上杉謙信が幼い養子、喜平次(景勝)に宛てた手紙の返信である。彼の文章にしては仮名が多いのは子供にあわせてのことだろう。
訳文は不肖、マ大佐である。ここでいう巻数(かんず)とは神仏に祈祷したしるしとして依頼者に送る文書のことで、短冊状で木の枝につけて送った。
戦陣の中、息子の手紙に目を細めて喜ぶ様が目に浮かぶ、愛に溢れた文章である。
この時書き送ったとされる折本の「伊呂波尽(いろはづくし)」は現存し、能筆の行書体の一字一字に右側には音読み、左側には訓読みが記されている。
謙信の書は御家流(おいえりゅう)と呼ばれる青蓮院流(しょうれいいんりゅう)で、武将にしては繊細で流麗である(ちなみに一番字が汚い武将は……当然ながら豊臣秀吉だ)二度の上洛の際に上方の公家書の影響を受けたものだろう。
また謙信は和歌もよくしたが、謙信没後の家督相続争いである「御館の乱」でその大部分が焼失してしまったため、伝わっているものは少ない。ただ、上杉神社に伝わる「祈歌」というのが残っていて、これは謙信の恋の歌である。
つらかりし 人こそあらめ 祈るとて 神にもつくす 我が心かな
訳すのは無粋だろう。ただ、「神にさえも尽くす」男が「つらかりし」と心情を吐露し、愛した女性は一体誰だったのだろうか? 上記の手紙といい、武将、謙信は意外と愛に溢れた男だったのかもしれない。
他に謙信の作とされるものに、あまりにも有名な七言絶句がある。中学校の時にこいつを暗誦して教師を驚かせたものだ。
霜満軍営秋気清 (霜は軍営に満ちて 秋気清し)
数行過雁月三更 (数行の過雁[かがん] 月三更[さんこう])
越山併得能洲景 (越山あわせ得たり 能洲の景)
遮莫家郷思遠征 (さもあらばあれ 家郷の遠征を思う)
『見渡す限り真っ白な霜が、我が陣営いっぱいに満ちて、秋の気配がすがすがしい。幾列もの雁の群れが空を飛んで行き、真夜中の月が白々と照り映えている。越後、越中の山々に、手中にした能州を併せたこの光景はまことに素晴らしい。故郷では遠征のことを案じていることだろうが、ままよ、今夜はこの美しい十三夜の月を静かに賞でようではないか』
九月十三夜陣中作とされ、天正五年(1577年)に能登の七尾城を陥落させた時に詠まれたといわれる。
……が、困ったことに紹介されたのが江戸時代の歴史トンデモ本「日本外史」であったために、著者の頼山陽(らいさんよう)が作ったものであるという説があるのだ。
頼山陽の手が入っていることは確実だが、原型はおそらく謙信であろう。出だしの「霜」が「霧」になっていたり「秋気清し」が「秋気寒し」になっていたりする史料もあるので、ここいらのフレーズをいじったものと思われる。
前半で風景の雄大さを詠い、後半に武将としての征服感を清々しく表現している。この七絶などを見ると武将というよりは詩人だ。
朱子学の創始者、藤原惺窩(*1)はとかく武将への評価が辛かった。彼が評価したのは「戦場にあっても文を忘れなかった武将」で、上杉謙信、高坂昌信、小早川隆景、直江兼続、赤松広通の5人しか認めていなかった。
「吾妻鏡」の愛読者で数々の出版をプロデュースした徳川家康、城攻めの最中に「太平記」1冊をコピった吉川元春は含まれていない。自ら詩作や執筆を行わなかったことがマイナス評価だったようだ。
書を嗜み、詩作をし、それでいてあれだけ戦場を疾駆していたのだから、そのエネルギーには驚かされる。当時流行った連歌も教養人の趣味だったわけで、そう滅多には「マッチョで歌詠み」はいなかったのだ。現代で言うならば、さしずめサッカーのワールドカップに出場しつつ、副業で弁護士とアーティストをやっているようなものである。
――文章は時に人の心を写す。
オレの書く駄文は自分の心の何を写すのだろうか?
(*1)
藤原惺窩(ふじわらせいか)、戦国末期の学者、思想家。戦を繰り返す日本に絶望し、明国渡海を企てて失敗。京都に隠棲した。
上記の5人の武将のうち、赤松広通は惺窩のパトロンだったのでこれは義理だろう。近世朱子学の祖とされ、石田三成、直江兼続、木下勝俊、赤松広秀、林羅山、松永尺五などが門下にいる。徳川家の仕官の話を断り、より俗物的な弟子の林羅山を推挙した。
2004/02/18 今日はグチグチと
燦緒へ。今日もこの島に妹達の元気な声が響くのだろう(挨拶
昨日HYPER98卿と語りあって決定した挨拶だ。
今日はThinkPad 600Eのハードディスクを昨日大枚をはたいて購入してきたSeagateのST92011A、5400回転20GB流体軸受けのものへと換装。またもやOSのインストール。まあ、一般の方にはOSのインストールなど大仕事であろうが、なにせ慣れているので問題はない。
データを格納するフォルダをあらかじめ決めて使っていれば、いざというときそれをバックアップして再インストール後書き戻せばよいのだ。何時如何なる場合でもリカバリーを可能にできなければコンピュータを使用する上で不幸が待っている。
さて、そろそろ眠りから覚めなければならないと思い、かつての知り合いに連絡をとる日々である。これまでにいくつか会社を渡り歩いてきたが所詮はコネで入社していたのだ。
今回も人様の情けにおすがりすることになるだろうが、一人だけ連絡を躊躇う人物がいた。彼とはある件で協力しあっていたのだが、現在はほぼ義絶状態なのだ。
まあ、原因は多分オレにある。
これまでも心無い言動によって人の好意を時に裏切ってきたので大いに反省せねばならないのだが、若気の至りとは怖いものである。
若い頃は酒を飲みながら色々と夢を語り合ったにもかかわらず、ささいな方向性の食い違いから袂を分かつことになってしまった。当時を懐かしく思いつつもこの寂寥感だけはどうにもならないのだ。
世に「同床異夢」という言葉がある。
オレ達の場合は見る夢は同じだった。だが入った布団が違っていたのかもしれない。
春なれど 心に寒し 街の風
――マ大佐詠
2004/02/17 シリーズ戦国:幻の鉄砲騎馬
昨日は非常によい天気だったので都内を電車で小旅行してきた。
時間が余ったので、ドトールでコーヒーを片手に手書きで日記を記したりなんかもして、ちょっとした小説家気分だ。
さて、今回も戦国ネタにお付き合いいただこう。
火力と機動力の両立。これは軍隊の兵科にとっての理想だ。
戦国時代、戦場において花形はやはり騎馬武者であったが、戦国中期以降、鉄砲が火力の花形になっていく。騎馬の最大の長所は機動力を生かした攻撃衝力であり、一方の鉄砲は遠距離攻撃能力が長所である。もしこの両者を合わせることができたら……。
そう考えた武将こそが奥州の伊達政宗である。
当時、武士の馬術の練度は高かったらしく、訓練を積めば馬上で射撃ができたようだ。
現存するものは少ないが、馬上筒と呼ばれる銃身を切り詰めた種子島銃もある。また、江戸時代の馬術の競技は、馬場を走りながら弓矢、太刀、鉄砲で標的を攻撃して評価した、ともある。
なお、欧州のマスケット騎兵、竜騎兵(ドラグーン、火を噴くから竜なのであろう)は、移動は馬に乗っていたが射撃の際は下馬したそうである。
大阪の陣に出兵した伊達勢は得意の鉄砲騎馬隊800騎をもって敵を制しようとしたようである。ところが相手が悪かった。後藤又兵衛、薄田隼人を討ち取った後にやってきたのはあの真田幸村だったのである。
豊臣方のシャア(装備が赤いしな)が部下に「当たらなければどうということはない!」と言ったかどうかは知らないが、彼は射撃の間は遮蔽物に隠れる、あるいは身を伏せて銃弾をやりすごし、次弾装填の間に肉薄攻撃を行ったのである。
思惑の外れた伊達勢は乱戦となり、先鋒の大将、片倉小十郎(*1)自らが組み打ちに持ち込んで敵と渡り合うことになった(帰国後、父には大将としての地位を忘れて戦った軽挙を叱責されたが)(*2)結果的に勝敗は翌日に持ち越され、幸村は越前勢に討ち取られるわけだが、飛翔兵器を持つ部隊をいかに近接攻撃から守るか、これは昔も今も永遠の命題である。
結局、真価を発揮できないまま、鉄砲騎馬がその威力を戦場で試す機会は永遠に失われてしまった。
だが、やがて騎兵小銃が開発され、テクノロジーの発達によって機械化歩兵へと進化し、火力と機動力の両立思想が正しかったことが証明されるのである。
(*1)
片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)、この場合は息子の重綱を指す。片倉家は代々当主が「小十郎」の名を継ぐため、父の片倉景綱も小十郎である。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」では高嶋政宏が演じた。
男でさえハッとするほどの美男子だったらしく、上洛の折には後の”裏切り者”金吾中納言、小早川秀秋からストーキングされたとか。
大阪の陣での奮戦から「鬼の小十郎」の異名をとり、真田幸村から12歳の娘、阿梅(おうめ)を託されている。敵将から娘を託されるなど、これ以上は無い賛辞であったのだろう。
重綱の妻は、阿梅を実の娘のように非常にかわいがった。彼女が亡くなってから阿梅が重綱の後妻になったのは、彼女の遺言と伝えられる。
(*2)
白石城のある益岡公園にある白石城歴史探訪ミュージアムの3Fで、3Dハイビジョン映画「鬼小十郎帰るに及ばず」というのを上映していて、この時のエピソードが語られているらしい。キャストは片倉景綱:宍戸錠、伊達政宗:渡辺謙……マジかよ!? ちょっと仙台行って来る。
2004/02/16 ThinkPad 600E稼動
ごきげんよう。あら、タイが曲がってらしてよ?(挨拶
Columに1件追加。あとページ内を少し更新。何かがこっそりと追加されていたりする。明日は更新ができないと思うので今日のうちにアップしておく。
さて、「冗談から駒」(正しくは瓢箪から駒)の産物というか、なんというか。IBMのノートPC、ThinkPad 600Eを赤い水星卿から譲り受けたので、それの整備にかかる。
速度やスペック云々以前に筐体にIBMのクラフトマンシップの詰まった名機であるし、キータッチが素晴らしいのだ。
とりあえず、不足しているACアダプタ、FDドライブ、メモリなどを調達するべく電車に乗って出撃。
帝都は秋葉原、ここは現代のソドムとゴモラ。値段と質さえ問わなきゃなんでもある。
なにせ最近は宝飾アクセサリー屋だってあるのだ。そういえばあの店と版画売ってる画廊のお姉ちゃんのキャッチはかなりうざったい。オレは外見がヤバそうなので声をかけられたことはないが。さすが向こうも客商売だ。
で、必要なモノを意外とあっさり買い揃え(休日は路上店に思わぬ掘り出し物があるのだ)用は済んだとばかりに帰還。とにかくすっ飛んで早く帰ったわけだ。
リンク先を見てもらえればわかると思うが、なにせA4ファイルサイズ、バッテリー込みの重量は2.4kg以上である。
オレはバッテリーの持続時間を気にしていたところ、赤い水星卿は一言。
「そんな重いもん持ち運ぶ気か?」
なに、自衛隊の行軍教練の時、ダミー装備のコンクリートブロック2つに己の妻と子の名前を書き、それを背嚢に入れて丸3日走破した自衛官だっているのだ。多分……大丈夫じゃないだろうなぁ。こういうのは、ぱっと持つ分には平気なのだが、時間が経過するにつれてじわじわとその重さが辛くなってくるのだ。
まあ、壊したくもないので持ち運びは断念するか。
そういや東急ハンズなんかで売ってる、硬いプラスチック製のリュックサックは自転車に乗ってたあるアメリカ人がコケてリュックに入っていた背中のPoweBookをぶっ壊したから開発した、って話は本当なのだろうか?
というわけでハードディスクは家の死亡したノートPCから10GBのやつを引っこ抜き、これまたライセンスの余っているWindows2000をインストールである。こういう作業は慣れてしまえばコーヒーを飲みながらDVDでも見ている間に終わってしまう。
特に問題もなく無事起動。考えてみれば念願のThinkPadだ。パソコン買い始めてからいつか買おう、いつの日にか買おうと思いつつ、つい機会を逃していたのだ。
いかん、じわじわと喜びがこみ上げてきた。
必要なソフトをインストールして、早速ノートPCで日記の更新作業にかかるとしよう。
今後はCPUを入れ替える予定だ。こういういいものは手を入れて長く使いたい。
というか、米国のe-bayではイロイロ出ているらしく、本気で向こうのオークションに参加しようかとも思うのだが……。
急募:求む! 英語ができてe-bayで落札できる奴!!
2004/02/15 シリーズ戦国:酒は飲め飲め
昨日は友人達と久々に酒を酌み交わし、楽しい一時を過ごしたのだが、その時にふと思い出した話題だ。
さて、古来英雄豪傑に酒の話題は付き物である。しかも大抵はマイナス方向だ。
上杉謙信は大酒飲みが災いして脳卒中、今川義元は酒宴の最中に田楽狭間で首を獲られた。明治の黒田了介(後の清隆)のように泥酔して妻を惨殺したヤツだっている。
オレの場合は酔ってある女性を口説いてしまい、その気にさせたはいいが、シラフに戻って焦ったということくらいだ。あの頃は若かった(シミジミ
今回は酔ってデカイことを言ってしまい、家宝を取られた男の話である。
福島正則といえば加藤清正と並んで、賎ヶ岳七本槍に数えられる猛将であったが、無類の酒飲みだった。
ある時(伏見城内でのことと言われる)福島正則が酒宴を開いてドンチャン騒ぎをしていると、黒田長政の使いとして母里太兵衛友信(もりたへいとものぶ)が訪れてきた。
太兵衛は後藤又兵衛基次と並ぶ勇猛さを賞されるのと同時に、黒田家中では「フカ」と呼ばれるほどの大酒飲み、しかも福島正則とは飲み友達だった。だが以前に正則と酒の席で大喧嘩をしてしまい仲直りの印に互いの兜を交換した、という逸話がある。(兜を交換するというのは源平の頃、コンビで戦う証として交換し合ったことの名残であろう)
よって太兵衛は主君の黒田長政から禁酒を言い渡されていたのだ。
しかし当然のことながら、酒飲み仲間がくれば引きずり込むのが酒飲みの常識。断る太兵衛。
(以下伏見城内より実況中継、かなり脚色あり)
福「ああん? オメェ、オレの酒が飲めねぇってのか?」(どこにでもいるよな、こういうの)
母「いや、しかし拙者は……」
福「うーい、じゃあ飲んだら何でもオメェの好きなものやるよ」
母「しかし、殿の仰せなれば……酒は飲めませぬ」
福「なんだよ。つまんねぇな。黒田家の武士もたいしたことねぇなぁ」
母「(ムカ)なんだと貴様! よし飲んでやらぁ! 飲んだら、その槍をもらうからな!!」
その後キレた太兵衛は直径一尺、5-6合は入る大杯を3杯干し、約束通り槍をふんだくって悠々と帰っていった。
この「呑み取り槍」のことが評判になり、当時の流行り歌であった黒田藩藩歌「筑前今様」に歌われるようになった。なお、我々が知る「黒田節」として誕生したのは昭和3年のことである。ムッチーこと村田秀雄が槍と酒盃を持って歌っていたのを子供の頃に見たことがある。
「酒はのめのめ のむならば
日本いちの この槍を
のみとるほどに のむならば
これぞまことの 黒田武士」
ここで日本一の槍とされ、太兵衛が「その槍をもらう」と宣言したものこそが名槍、日本号である。正親町天皇が足利義昭に下賜し、織田信長、豊臣秀吉を経て、小田原攻めで功績のあった福島正則が拝領した天下の名物であった。
これはオレも旅行の時にレプリカを見たことがあるが、穂の長さ79.2cm、総長321.5cm、鍔元から中央にかけて、剣に巻きつく竜の彫刻がされた騎馬武者用の大槍である。徒歩槍はもっと長いのだ。
なお、広島城にあるレプリカを作成した刀鍛冶の三上氏がこちらで紹介している。
完成品の写真を見ると、アホみたいに美しい槍である。
秘蔵の至宝をまんまと持っていかれた福島正則は「酒で失敗した男」として京童(きょうわらべ)たちに笑われ、以降少しだけ酒を控えるようになったとか、ならなかったとか……。
日本号はその後、後藤又兵衛、野村祐直、野村祐勝などを経て、黒田家の家宝となったが、文禄・慶長の役で実戦に使っちまったらしく、穂先は曇りや刃毀れが生じている。
そして不思議なことに、これだけの挿話を持つ槍はなぜか重要文化財でも国宝でもなく、福岡市美術館に静かに眠っている。
2004/02/14 2月14日は……
遅ればせながら、toyuune師、お誕生日おめでとうございます(挨拶
本日は「煮干の日」である。いや本当にそうなのだ。
瀬戸内海産の良質のカタクチイワシから作られた煮干でダシをとろうというキャンペーンを全国的に……んなわけないか。あー味噌汁がウマイ。
さて、最近は以前の筆不精がウソのようにメールを出したりしている。1日に数通はやりとりをしているのではないだろうか?
基本的に必ずお返事はするようにしているので頻繁にやりとりをしている方とはもはや世間話のレベルになっている。
で、和泉師とメールを交わしていたときに(で、いつ飲みに行くんだよ?)旧式CD-Rメディアの話題となった。彼はYAMAHA、Disc T@too対応の三菱OEMが音楽用には良いのではないかとのこと。おお、ブルーの記録面が美しいSuper AZOか。
現状、MITHUIのGoldが希少ながら入手は可能だが、オレも基本的にはディスクは三菱のものを使用している。以前にまとめて買ったヤツはものの見事に腐食するというハズレだったが、それ以降は大きなハズレもなく愛用品となっている。何せ、未だに1-16x対応のメディアを供給しているのだ(まとめて購入するならオンラインショップのAZOAZO【あぞあぞ】が便利である)
太陽誘電の古いやつやマスター用は必殺の一枚を焼く時以外は使用しないし、やはりホームユースにAZOは個人的に向いていると思うのだ。
ポンッ!(手を叩く音……考えること3分……)
「藍よりAZOし」 AZOより深いSuper AZO物語
――古いSONY製ドライブを愛用する主人公。元々彼は信濃絹糸紡績株式会社に傾倒していたのだが、クラフトマンシップの薄れた会社の体制に嫌気がさしていたのだ。そこに18年間自分のことを想ってきた許婚、三菱青裏(みつびしあおり)が現れる――。
バカかオレは!?(我に返った
昨今は真面目とダメネタの2つのハイブリッド化された日記を記すマ大佐であった。
2004/02/13 シリーズ戦国:謙信、ふたたび
またもや上杉謙信登場である。彼に関して、我が家には何せ本が1冊書けるくらいの資料があるので語り尽くせない。
思い返せば高校のときに停学を食らって、その期間中に書いた作文も『上杉謙信、その戦術と思想』というものであった。停学期間中の作文は何を書いてもよかったのだが、とにかく量を書かねばならない、という奇妙な規則を持つ高校であった。(オレは文を忘れないワルであったのだ)
まあ、それが巡り巡って市の教育委員会の元歴史教師の目に留まり、なんたら大学の史学科から推薦入学の話がやってきて、人生3番目の選択を迫られるわけになるわけだが……。
そのあたりはまた話す機会もあるかもしれない。
さて、本題に入ろう。
上杉謙信という男が結婚もせず生涯童貞であった(という説)のは様々な説が入り乱れているのではっきりしない。
ただ、彼の身辺に全く女性がいなかったわけではない。
史書において判明しているだけでも4人存在する。まず謙信の身の回りの世話をしたという、直江大和守直綱の2人の娘、次に関白近衛前嗣の妹、絶姫。そして上州平井城主千葉采女の娘、伊勢姫である。
しかしこの4人と謙信が関係を結んだということはないようだ。4人の女性はやがて死亡したり尼になったりして、謙信の元から去ってしまう。
後に上杉景勝の側近となる直江兼続と衆道(まあ……早い話が同性愛だ)であった、という説があるが、これは根拠に薄い。衆道は意外とおおっぴらにやっていて、男が男に送ったラブレターなんぞも残っているからだ。
そうそう、同じく生涯妻帯しなかった武将に管領の細川政元がいる。こいつは戦勝を祈願して女色を断ったのだが、後に衆道の痴情のもつれで斬り殺された、らしい……。
他にも、左足を負傷したことによって不能になった。いやいや、謙信は実は女性だった、などというトンデモ説まで出る始末である。
オレが思うに彼が女性を遠ざけた理由は宗教的なものと彼の女性観に起因するのではないかと思う。
仏教密教のミックス信仰に傾倒し、自らを毘沙門天の生まれ変わりとして
常勝を祈念したのは有名な話である。後には高野山から権大僧上都(ごんのだいそうず)を授けられてもいることから、僧侶が女性を遠ざけるのは当然とするのが一つ。
もう一つは、幼少の頃林泉寺に預けられ、母の愛を知らないで育ったがゆえに女性というものに対して「触れてはならない清らかな憧憬」を抱いていたのではないだろうか。
手の届かないものに憧れを抱きつつも、自分がそれに触れる資格が無いことを知り、しかもそれに慣れてしまった男の感情というのは共感できるのだ。
彼はことさら女性を軽んじていたわけではなく、姪を溺愛していたり、家臣の娘、敵将の未亡人などに意外とこまやかな心配りをしているのである。
だが、あくまで推測の域を出るものではない。
海音寺潮五郎の小説「天と地と」では軍師・宇佐美定行の娘、乃美と相思相愛であったが、彼女の病没によって謙信の想いは霧散してしまう。
ロマンを求めるならこの手の展開が一番良いのではないかと思う。
清冽にして果敢な生き方で名を残した上杉謙信。
49年の生涯を戦いに捧げた彼にとって――幸せとはなんだったのだろうか?
追記:
ある方からメールで「鎧と具足はどこが違うのか?」という質問があった。こういうのは大歓迎、いい機会なので解説しよう。
具足とは「当世具足」の略称。もしくは室町後期以降の甲冑の総称。隙間なく塞ぐという意味から「具(そなえ)に足りる」の字を当てて名付けられたといわれている。あるいは兜、胴丸、篭手などのパーツ一式が完全に揃った状態を指し、「具(そな)わって足る」の字を当てたともいわれる。
つまり、戦国時代の甲冑は概ね「具足」と呼んで構わない。ただ、胴体部分を指す時は鎧で良いのだ。ご理解いただけただろうか?
2004/02/12 先日のお買い物
いくぜOA戦隊XEROX!(挨拶
大分ゼロックスの社歌はナニを考えているかよう分からん。(ネタ元:電脳ぺんぎん師)
歌のレベルとしては半角ロボ・エロドウガーのほうが一枚上手のような気がするが……。
さて、先日秋葉原で赤い水星卿と無残な会話の挙句に購入したもの、それは「Intel Xeon 2.0GHz」を2個である。
我が家の業務用ワークステーション【hp】 Workstation X4000は購入して依頼10ヶ月以上1CPUでの運用を余儀なくされていたが、ついに論理4CPUを達成した。
そういえば機体を購入したのも無職の時であったなぁ。なぜか、無職で収入の無い時に無茶な買い物をするのである。
ハードディスクはこの間追加したし、もともとメモリは大量に積んであるし、あとはマシンのパーツ入れ替えで玉突きとなって刺さっているグラフィックカード、SiS 315をなんとかしたいところだ。
あんなに愛してたのにSiSはオレを裏切ってわけのわからん方向へと行ってしまった。困ったもんである。
それはともかく、コンピューターのパフォーマンスが上がれば何かと処理ができるわけで……何かクリエイティブなことがしたいなぁ、と思いつつ、マシンをいじって一日を過ごした。
お……またなんか赤い水星卿が無茶なことしてるぞ。
2004/02/11 炎のさだめ
レナード!(挨拶
(3サイトで示し合わせて同じ挨拶を記そう計画)
昨日購入したある物に関してはいずれ日を改めて書きたいと思う。
さて、昨日はイベント満載であった。帝都は秋葉原に赴いたら中央通りのヤマギワソフト館が炎上したとのこと。
見よ! ヤマギワは赤く燃えている!!
……いや、冗談ではなく本当に火災だったのだ。なんせNHKが中継車送り込んできてたからなぁ。
まあ、早々に鎮火して軽傷者3人で済んだのは幸いだったが、焼け跡には大量のポリカーボネイト(CDやらDVDやら)の燃焼した焦げた臭いが漂い、隣のカクタソフマップは早々にシャッター下ろして閉店状態。知り合いの秋葉原の店員さんに聞いたところによると、消防車がわらわらやってきて、ヘリコプターも10台くらい飛び回っていたとか。
本当に大騒ぎであったようだ。まあ……場所が場所だけに、現場の写真を撮っているとおぼしき野次馬の手元がデジカメの見本市みたいだったのはほんの余談だ。
おっと、火事場見物が目的ではなく、お誘いを受けたので飲み会なのであった。面子は赤い水星卿(ジョナサン=タイベリアス)、電脳ぺんぎん師(人生オープンソース)、HYPER98卿(脳内デート)、そして真性ダメ人間のオレ。
このメンバーで集合するってのは、考えてみれば数ヶ月ぶりなんじゃないだろうか?
というわけで、適当な居酒屋に入り、酒を飲みながら火事のことと「蒼き狼(以下略)」の話題で盛り上がる。
なあ、親愛なる友達よ。○○○○○の話題ばかりではなく、少しは真面目な話題を や ら な い か ?
会話の内容を詳しく書いてもいいのだが、ウェブ上でそんなものを掲載しようものなら、オレと赤い水星卿の社会人生命を何の汚れも迷いも無く抹殺してしまう危険性があるので、あえて伏せておこう。
ともかく、久々に酒を飲んでバカをやったわけだ……そういえば今週末もう1件飲み会があったな。
2004/02/10 秋葉原残酷物語
読者諸兄、お待たせした。ついにダメなマ大佐の日記である。
昨日のこと、先日死亡したUSBフラッシュメモリを買い換えるべく、帝都は秋葉原に出撃した。
いくつかのショップを回ってPrincetonやGrenn Houseのものを物色してみたが、今ひとつピンとこない。どうもあの手の製品はサイズが大きい。今回はもっと小型のものを買いたいと思うのだ……いや、青いLEDのが欲しかったのだ。この「青」にこだわったことが数時間後に悲劇を呼ぶのだが。
結局考えた挙句、「挑戦者ブランド」のEasy Tank(ET-128M)を購入した。わざわざアイ・オー・データの秋葉原ショールームまで出かけて、である。詳細はリンク先を見てもらえばわかると思う。かなり小型で、しかも青いLEDである。
でもこいつ、小指の第一関節くらいのサイズなので下手をすると紛失しそうである。いや、失くすなこりゃ。USB延長ケーブルの先にぶらさげておいて、常にケーブルと一緒に携帯するのがよさそうだ。
……小さ過ぎた。
それにしてもアイ・オー・データの「挑戦者ブランド」は何と言うか商売っけが希薄というか、本気で売る気がないのだろうか? メルコの「玄人志向」に水をあけられるのも分かる気がする。
そうこうしているうちに、親友の赤い水星卿と偶然出会った。まあ、どうせ巡回ルートなんぞは知られているので、秋葉原にいれば会えると思ってはいたのだが。
二人で喫茶店に入り、お茶をしつつ鳩首会談。懐かしいいつものパターンである。だが悲劇はその後に起きた。
暮れなずむ街路をあるショップへ向かって二人で歩いていると、突然何を思ったか赤い水星卿が一言。
「大佐は『蒼き狼達の伝説X』(*1)ってアニメ知ってる?」
「は!?」
「この間見てさぁ」
……狂したか、赤い水星!!
「わはは、知ってるんだな?」
「バカヤロー、変なもの思い出させやがって!!」
……何が悲しゅうていい年ぶっこいた大人二人が、電気街の大通りのど真ん中で○○○○○に関して語らにゃならんのだ。
しかも赤い水星卿(今日からジョナサン=タイベリアスと呼んでやる)、オンドレは女房子供持ちであろうが……まあ、知っているオレも他人を責めることはできない身の上であったが……若さゆえの怖いもの見たさ、とはまさにこれだったのかも知れない。
思考停止に追い込まれたオレはついつい財布の紐を緩めてある物を購入しまうのであった。
しかし、こんなことをやっていても周囲に溶け込んでしまうのが秋葉原の不思議なところだなぁ、と思うのだ。
(*1)
詳しくは書かん(いや書けない)。Googleあたりで「ジョナサン=タイベリアス」で検索するとよいだろう。
その結果何かを見たとしてもマ大佐を責めるのは筋違いである。自己責任でお願いする。
2004/02/09 シリーズ戦国:敵に塩を送る
マ大佐が大好きな戦国武将の筆頭、上杉謙信である。
彼をして彼たらしめているのはやはり「生涯独身」、「同時代屈指の戦術家」そして「義に篤い」という三本柱だろう。
彼の「義に篤い」ということに関しての逸話はそれこそ多く残っているが、中でも有名なのは「敵に塩を送る」というものである。
詳細はこんなところだ。
永禄十一年(1568年)、信玄が駿河・今川を攻める気配を見せると今川氏真は北条氏康と結んで甲斐に魚塩を送ることを止めた。そこで信玄は信濃経由で越後方面から魚塩を求めたが、謙信はそれを差し止めることなく、書状を送って『必要なだけお取り寄せ下さい』と伝えたという。
生涯十数度に渡って干戈を交えた敵将と領民の苦しみを看過できない彼の義心と寛容さを示す立派な美談である。
彼が酒の飲みすぎから脳卒中で死んだ時、居城の春日山の金蔵には三万両近い金が残されていたという。当時の経済規模からしても相当に巨額である。
当時の越後はそれほど豊かな国ではなかった。佐渡金山の本格的な開発は江戸時代に入ってからなのだ。収益は主に領民からの税、そして米と麻布(越後上布)である。
2度の上洛で皇室、将軍家に進物を贈り、毎年のように関東に出兵し、時に川中島にて武田家と対陣する。この行動を支える莫大な戦費はどこから出ていたのか?
ここで一つの仮説を立ててみる。
早い話が今川も北条も越後・上杉にとっては敵である。となれば敵の経済封鎖に協力することなく、甲斐・武田に塩を売りまくって巨利を得たことはなかったのだろうか。
彼も守護代から戦国大名への脱皮に成功した人物だ。金のことをまったく考えなかった、ということもないだろう。するとこれは単なる経済戦争の1エピソードではなかったのか、と。
……いささか無粋すぎるか。彼の清冽で無欲な生き方を見ていると、これは美談でいいじゃないか、と思う。ロマンはロマンのまま語り継いだほうがよさそうだ。
2004/02/08 軌道修正してみる
必殺、旋風剣!(挨拶
ここのとこ全然日記っぽくないので、日記っぽく軌道修正である。
長年に渡って使用してきたI・OデータのEasyDisk16MBがお亡くなりになった模様。USBフラッシュメモリというのは使ってみると便利なもので酷使していたのだが、それが災いしたようだ。
幸い、このホームページのデータなどは退避させてあったので大丈夫だが、色んなデータが吹っ飛んで少々気落ち。いい機会なので大容量のを1つ購入しよう。しかし……。
「データ破壊は必ずバックアップをとる直前に予期せぬ形で訪れる」
――情報化時代の金言、あるいはマーフィーの法則
バックアップといえば、久々に8mmテープドライブが稼動中だ。
こいつは過去に赤い水星卿の部屋(別名深淵とか腐海とか呼ばれる魔境)の大掃除をした時の報酬なのだが、専用のメディアを使わなくても家庭用8mmビデオテープ(Hi8やメタルテープはダメ)で4GBくらいはとれるので安上がりでいいのだ。
もっとも今更4GBのバックアップをとっているのではなく、過去の資産をHDDに書き戻しているのだが。ただ過去に書き込んだOSがWindows NT4.0なので未だにNT4.0を使用しなければならないのだ。
このあたりが古いマシンを処分できない遠因でもある。
さて、閑話休題。
ここのところ週末は必ず飲み会という具合である。面子は友人のgoliponとO師。ちなみに来週の週末も飲みの予定が入っている。
ありがたいことに無職のオレを気遣って「マ大佐を励ます会」が開催されているようだが、これじゃまるで政治家のセンセイだ。政治家と違うところは資金集めが目的ではないので、スサマジイ鯨飲馬食の挙句に杯盤狼籍というパターンであるところだ。
確かにアルコールの類は好きである。だがそれ以上に気のおけない連中と馬鹿騒ぎをするのは酒そのものより大好きだ。何せ今は下手をすると誰とも会話をしない日とかがあるのだから。
よってお呼びがかかればどこでも参上する次第である。
……大丈夫か、オレの肝臓。
2004/02/07 たまにはこんな話を
Columに1件追加。前々から書こうと思っていた日本刀の話題。調査に1日を費やした、ちょっとした自信作である。
toyuune師のとこが更新されていた模様。ああ書かれると全く持って汗顔の至りである。適当に駄文を綴っている身が恥ずかしくなってくる。
しかし、以前に比べて文体に余裕があるなぁ。「電脳物欲日記」時代は我ながら追い詰められていたが、今なら何か長文が書けそうな余裕さえある。当たり前だ、無職なのだから時間は余っている。うう、なんか涙が出てきた。
……さて、では本題。以降を読んでひっくり返っても大丈夫、オレはまだ正気だ。
本来こういうポエミーなのは性に合わんし、自分でも読み返せばイタイと思うのだが、ある方からメールでなぜ「Under the blue skyというタイトルなのか」と聞かれたからである。なぜ、こんなタイトルかというと……。
――憧れている光景がある。
常に掲載されている左の写真がそれだ。現在、この写真の場所が北海道であることしか判明していない。青い空の下、海へと至る道……その先に何が見えるのかははっきりしない。そこでいつか、時間をかけてでもこの場所に行くことが当面の目標だ。
辿り着く場所が写真のように憧憬の大地なのか、それとも荒涼とした大地なのかは分からない。
それでも行ってみたいと思う。この青い空の色を見てみたいと思う。
そういえば子供の頃から、なぜか青空に心を惹かれた。
空は地球に住む生命全てが感受できる素晴らしい光景だ。太古の人類が信仰を抱いたことも納得できる。
全てを覆う壮大さと届かぬ未知の場所への畏怖があったのだろう。そして魂はそこに還るのだとも。
オレは無神論者だが時々――空に心を惹かれていると――ふと考えることがある。
俳人の松尾芭蕉は雪が五尺積もる草庵を、連合艦隊の山口多聞は空母・飛龍を終の住処(ついのすみか)に選んだ。人は時に、自分が愛した場所で人生の幕を下ろす。
ならばオレは――あの青い空の下で終を迎えたいと思うのだ。
2004/02/06 昨今の携帯電話
ニョキニョキ(挨拶
さて、何やらまたまた新しい機種が発売になるようで、携帯電話もコンピュータ並にすさまじい速度での進化を遂げているようである。
オレの愛用の携帯電話は5〜6年前の型なので表面のペイントもはげ、バッテリーも寿命のはずなのだが、それでもよく持っている。そろそろ買い替えねばと思ってはいるのだが……。
しかし昨今の携帯電話なんてもんは余計な機能が多すぎる。もはやデジタルカメラに携帯電話の機能が付いている、と言い切ってもよかろうよ。
デバイスが複雑化すれば故障もおおくなるはずなので、どちらかというともっとシンプルな機種がほしいところである。
オマケに値段が高い。なんで3万もださにゃならんのだ。
という主旨を以前赤い水星卿に話したところ、ある方法を教授された。
まあ、詳しくは書かないが、新規契約で0円という機種を買って云々、というもの。要は差額を利用した裏技みたいなものだ。一昔前に流行った、多額の相続税をキャピタルゲイン課税を逆手に取って圧縮する方法と大差はない。
……悪いヤツだ!
これは悪源太(源義平)(*1)や悪七兵衛(平景清)(*2)と同じ意味の「悪」である。(源平の頃、「悪」は「ワル」ではなく「他者より秀でた」という意味であった)
ちなみに平景清はナムコのアーケードゲーム「源平倒魔伝」の主人公。 「必殺、旋風剣! イヤアァー!」の人である。懐かしいのう。
なんの話だったっけ? そうだ携帯電話だ。
まあ、なかなかこれ、と言った機種が無いのが今ひとつ購入をためらう理由の一つである。電話なので会話できればOKであるし、メールはまあ、使えればいい。iモードもカメラも動画もいらんぞ。
――シンプルが一番と思うのはオレだけなのだろうか?
(*1)
源義平(みなもとのよしひら)、源義朝の長男。子供の頃から武芸に優れ、15歳の時、叔父源義賢と戦ってこれを斬り、悪源太(あくげんた)の異名を得る。
「平治の乱」で父に従って奮戦するも敗れて美濃に逃れる。父の死後、単身京都に戻って平氏襲撃の機会をうかがうが捕えられて斬殺される。
(*2)
平景清(たいらのかげきよ)、父は藤原忠清。摂津で日本達磨宗の開祖である叔父の大日能忍を殺し、悪七兵衛(あくしちびょうえ)と称される。タイマン勝負では源平中最強の武士とされ、屋島の合戦で美尾谷十郎と戦い、その冑の錣(しころ、正しくは「革毎」という出ない字)を切断した逸話は有名。
壇ノ浦で源氏に捕えられ、身柄を和田義盛、次いで八田知家に預けられ、その後断食の末死亡とされるが、一説によると壇ノ浦から逃亡し、平知盛の遺子・平知忠を大将として反乱を起こしたという。
2004/02/05 米を喰ふ日々
タイトルは郷里の偉大な作家、水上勉の「土を喰ふ日々」のパクりだ。これはマ大佐お勧めの1冊である。
現在は職もなく、関東の江戸川に蟄居閉門の身ではあるが、元々の出身は福井県なのだ。
そして現在は食費を抑えるために親が送って来た「コシヒカリ」を炊飯器で炊いては食う日々である。
新潟県魚沼産のものが有名になってしまったが、そもそも「コシヒカリ」という品種は我が郷里、福井県で開発されたものだ。
今を遡ること48年前の昭和31年、福井県農業試験場で、農学博士・故石墨慶一郎氏を中心に品種育成が開始。その後10年の試行錯誤を経て栄えある農林登録番号100番をもらい、「越の国に光輝く」と願いを込めて「コシヒカリ」と命名された。
農林1号と農林22号の交配から誕生した第三世代雑種からさらに20粒を選抜して育成したが苦難の連続であったとか。なにせ病気に弱く、倒れやすく、単位面積あたりの収穫量が少ないという「弱い」品種である。
しかしそれを補って余りある特徴として、粒が大きく、何より味がよかった。
結局完成までに10年を費やし、「もっと美味い米を」という福井人気質とあくなき情熱の賜物であったのだ(プロジェクトXの第26回で取り上げられたが新潟中心で噴飯モンの内容であった)
なんでこんなに詳しいのかと言うと、高校のとき特賞の賞金目当てのレポートを書くために、故石墨慶一郎氏本人にお会いして伺ったからだ(氏は平成13年6月に惜しくも亡くなられた)
簡単なアポのみで突撃してきた一介の高校生によくもお話しくださったものだ。
皮肉なことに開発元である福井県が自国アピールがドヘタのために新潟が有名になってしまった。そもそも名前を「エチゼンニシキ」とかにしとけばよかったのである。
「越の国に光輝く」では越前、越中、越後までOKではないか。
ちなみに牛丼チェーンの松屋なんかで使っている「きらら397」の大親(第一世代)は「コシヒカリ」である。
ポンッ!(手を叩く音
そうだ。意外にも血統が重視される米の交配の性質を利用して、ダービースタリオンに倣って米の品種改良をするゲームというのはどうだろうか?
突然変異とか、いもち病発生とかのイベントを組み込んで……ダメか? やっぱ。
要望にお答えして旧サイトを暫定的に公開。CGIとか全部切ってあるので不都合があるかもしれんが、まあ、我慢せいということで。
オレってサービス精神旺盛、つーかマ大佐必死だな。
2004/02/04 ソフトウェアという奇妙な商品
ニョキニョキ(挨拶
Columを1件追加。我ながら珍しく感情的だ。
http://www.ma-taisa.net がついに消滅したようで。これは単に経済的な理由で閉鎖を決意したのだ。ちなみにこのコッパズカシイ"skytemple"は月々390円である。
今更ながら古い「マ大佐の電脳物欲日記」を閲覧したいという方からメールをいただいた。ありがたいことではあるがやはり何がしかの手段で残すべきだろうか。
さて銀河英雄伝説オンラインのクローズドβテストの当選はこりゃ絶望的かなと思う今日この頃である。
まあ、どうせβバージョンなんぞはバグの塊なので次々修正が行われ、仕様も変更されるだろう。
やがて正式オープンの暁には「βの頃は宇宙空母が強かった」的な会話が行われるに違いない。(宇宙空母の部分を赤魔導でもシーフでも置き換えてOK)
そういえばDOCOMOのある型番の携帯電話(古いタイプの「P2102V」と「N2051」のことだ)で計算機の機能を使って「1億÷2」を計算させると「49999999」という計算結果が出力されるというのがあった。今日び、100円ショップのダイソーで売っているバッタモンの電卓でも出ないバグである。
まあ、これなどは言語道断で、回収交換のために二社の利益は吹っ飛んだことであろう。
まあ、しかしソフトウェアモドキの製作に携わっていた身から言わせてもらえば「バグのないソフトウェアなんてものは存在しない」のである。
というか実情をバラせばバグ前提でリリースしているのだ。
ソフトウェアというものは「製品保証書」がなく、「使用許諾契約書」に同意した人間のみが使用することができるユーザーの自己責任商品なのだ。おまけに単品では何もできないために、PL法未該当製品でもある。
(なぜかと言うとPL法で言うところの「製造物」とは、「製造又は加工された動産」を指すためである。じゃあプレインストールされたマシンとかはどうなるかというと、諸説が乱立し未だに統一見解は出ていない。よって現状、ソフトウェア単品の場合はPL法が適用されないのだ)
つまり、ユーザーからのバグ報告に対応することは企業の努力姿勢であって義務ではないわけで。
「お宅のソフトを使ったらHDDが吹っ飛んだ。謝罪と賠償を(以下略」
「知るか。そんなもん保障しねぇと契約書に書いてあるではないか」
という展開もありえる。
とはいえ、対応の迅速さがソフトメーカーの評価にも繋がる以上、避けては通れない道ではあるし、サポートに人員と資金を投入して、それを回収しようとすればソフトウェアの単価を上げざるを得なくなり……。
ソフトウェアの販売という今までにないビジネスモデルが確立されてから20年ほど経つが、業界のジレンマは終わらないのである。
2004/02/03 シリーズ戦国:あの時代の恋愛結婚
ニョキニョキ(挨拶
toyuune師から心のこもったメールをいただき、大変感謝。筆不精な己に活を入れて返信をしたためた。あとは恒例の戦国ネタでスキマを埋めるとしよう。
さて、戦国時代などというものはお家の安泰が第一、大抵は政略結婚で本人の意思など無に等しいものだった。
毛利元就なんぞは息子を次々と吉川、小早川、穂井田などの豪族に送り込み、やがてはそれらを乗っ取って主家の安泰を図らせている。
まあオレなどは黙ってりゃ嫁さんをあてがってもらえるのって結構ええなぁ、と思っている時点でダメなのだが。
しかし何事にも例外があって、ごく少数だが恋愛結婚もあった。
島津義弘と妻の宰相(鷹狩の最中、大根を洗っていた娘に一目惚れ)
立花宗茂とァ千代[ぎんちよ](幼馴染から夫婦へ。「藍より青し」パターン)
中でも特異な物語として有名なのが九州は竜造寺家の重臣、鍋島直茂と妻の彦鶴(陽泰院)である。
鍋島直茂は最初の妻は、妻の実家が竜造寺と敵対する勢力に寝返ったため離縁。
一方、彦鶴(陽泰院)は夫が戦死したために実家の石井家に戻っていた。
要はこの二人はバツイチ同士の恋愛結婚。
出会いは竜造寺家の軍勢が石井家でランチを食べた時、若後家の彦鶴が要領よく大量のイワシを焼き上げる姿を見て鍋島直茂が惚れてしまったとか。
その後、半ばストーカーと化した鍋島直茂は意を決して石井家に突入。
何回目かの夜這いの時に賊と間違われ、塀をよじ登って逃げるところを斬られて、足の裏を負傷するという笑い話も残っている。
知勇胆略兼ね備えたあの名将、鍋島直茂の隠れたエピソードである。
後に竜造寺家は断絶し、肥前は鍋島藩として生き残っていく。何せ関が原の戦いでも最初は西軍に属していながら、終わったら東軍に紛れ込んでいたという信じられんような身の処し方であったのだ。
その間も戦場を離れれば優しい鍋島直茂と賢夫人として名高い彦鶴は終生仲睦まじかった。息子の鍋島勝茂も名君として著名である。
ちなみに親友の赤い水星卿んとこは奥さんが皇帝陛下(カイザー)で、オンドレは家臣Aなのだそうな。
まあ、あれだ友よ。
創業者の奥(夫人)がしっかりしていた家は結局幕末まで存続するものさ。
(壊れたThinkpadオレにくれよ)
2004/02/02 まあ何事にも寿命はあるもので
ニョキニョキ(挨拶
深夜営業の西友で色々買い込み、冷蔵庫が食料品で一杯である。ちょっとシアワセ。今日は鶏肉を焼いて食べよう。鶏インフルエンザもなんのそのである。
ついでにもう食えないとなると食いたくなるのが人情なので牛丼も腹いっぱい食ってきた。BSEもなんのそのである。
データのバックアップでも取ろうとCD-Rを稼動させたところ、どうも長年使っていた12倍のCD-Rがお亡くなりになったようだ。なぜか21%まで書き込んでから突然黙り込み、OSを巻き込んで落ちるのである。
まあ、だいぶ酷使してきたし元々安物なのであまり気にはならないが、チッ、この金のない時期に……。
なーんてことを書くと親友の赤い水星卿から、
「DVD-Rこの間やっただろうが。それにCD-RならCDU-924SやらCDU-948Sやら持ってるじゃん」
とツッコミが入ることは明確なのでこのくらいにしておくか。
いずれ良いものを購入したいものだ。
さて、読者の方からメールをいただいた。
旧サイトの閲覧ができるようにしていただきたいとのこと。
――うーん、容量が大きいんだよなぁ、あの駄文のカタマリは。見たい人はCD-Rでデータあげますってのは……ダメ? やっぱり。
2004/02/01 シリーズ戦国:意外な人の意外な子孫
ニョキニョキ(挨拶
どうも風邪をひいたらしく調子がでないが、まあ頑張っていきましょう。寝込むほどではないのでまあ、大丈夫かと。
さて、我が家の家系図を見ると「一色氏」の娘と婚姻しただの名家の記述が見えるがこれはおそらく後世のでっち上げだと思われるので無視してもよいと思う。
しかし世の中には確かに大名や武将の血統というのが存在している。まあ、昭和まで南北朝分裂統合によって分かたれた帝室の血統の片割れが「帝」と自称して生きていたらしいが、そういうのを除いて有名な人だとこんなところ。
・「あさま山荘事件」で警備部局付として事件解決にあたった佐々淳行氏は信長の部下だった佐々成政の末裔。氏が所有している先祖伝来の脇差は「堀川国正」の本物でウン千万円の価値がある。
・ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコは大友家家臣、立花道雪の家老を務めた小野鎮幸の子孫。これは結構マニアック。
・「熊本の殿様」こと細川護熙元首相は細川忠興の子孫。世が世なら外様とはいえ54万石で大大名である。
・ノーベル賞をとった田中耕一氏が所属する島津製作所は島津家とは血縁はないが家臣ではあったらしい。晩年の島津義弘から姓と家紋の使用を許されているとか。
・番外編として山中鹿助の遺児が鴻池村に下って作り酒屋をはじめ、やがてその子が鴻池財閥となって現在のUFJ銀行……ってのもある。三和銀行のあがきを見ていると、尼子家再興を図って苦闘した山中鹿助に重なって面白い。
身近な方で面白い血統をご存知の方、ご一報ください。私と戦国談義をしましょう。